『矛盾感情・完結』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:junkie                

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1・日常


 馬鹿みたいに蒸し暑いこの季節、我が貧乏な母校は教室にクーラーを付ける事も出来ず、まるで地獄の中にいるような居心地である。冬もたいして暖房が回らないし、こんな事ならすべり止めで受けた私立の高校に入学した方がましだったかもしれない。だがしかし、そんな愚痴を吐くのも今日でひとまず休憩。そう、何を隠そう今日は一学期の終業式なのである。
「次、黒葉啓」
「あ、はい」
 担任の教師の声に俺は適当に返事を返すと、教壇の前に行き成績表と模試の結果を受けっ取った。席に戻り成績表を見る。10段階で示されたそれは大体が6と7の羅列で1、2個8があるくらいだ。いわゆる、まぁまぁの出来って奴である。模試の結果の方もそんな感じで、第一志望校がC判定。第二志望校もC判定。第三志望がB判定だ。
「ま、この普通さが逆に俺の個性なんだけどね」
 そんな独り言を誰にも聞き取られないくらいの小声で呟いて俺は机に頭を突っ伏した。別に眠い訳ではないが、別段やることが無ければこうするのが俺の癖だ。
 五分ほどして通知表を全て渡し終えると、担任の山崎先生が成績や模試の結果でガヤガヤとはしゃいでいる生徒を静めて話を始めた。
「みんな分かっているだろうけど、受験生である君達にとってこの夏が命綱だ。この夏失敗したら大学の方もほぼ確実に失敗するので各自気を抜かないよーに」
 了解していることでも改めて言われると実にプレッシャーのかかる言葉だ。しかし、そんな言葉をさらりと生徒に投げかけている張本人の先生は満足なさっている様子である。怖い怖い。
「ま、そうは言っても体調を崩しちゃ元もこも無いからね。勉強も体を壊さない程度にしてほどほどに息抜きをしてください。それじゃ、話はこれまで。日直、号令お願いします」
「起立、気を付け。れい」
 日直の言葉と同時に頭を下げると、俺は机に溜まっているプリントや教科書をカバンに詰め込み、教室を後にした。
 廊下に出ると他のクラスも丁度終わった所なのか、廊下は生徒で賑わっていた。ゴチャゴチャと一斉に動いて行く生徒達の集団。今行くとその雑踏の中でもみくちゃにされそうなので、俺は遠回りをして下駄箱に行くことを思いついた。思いついたら即実行。善は急げとばかりに人ごみから目を離そうとしたその時。一人の女子と目が合った。肩の少し上くらいまでのびた髪、釣り目気味だけどパッチリと見開かれた眼。その姿に俺は何となく猫を連想した。
 ふと足を止める。すると向こうも同じように足を止めた。だけどそれだけ。何となく眼があっただけで俺は彼女と知り合いではない。まぁ隣のクラスの生徒だから顔くらいは知っていたが、同じクラスになったことはないのでそれ以上のことは何も分からない。それは向こうも同じ事で、俺たちは目線をそらすとそのまま歩き出した。
「なぁ、今の何? 友達?」
 後ろからトンと背中を叩かれて振り向りむくと、真後ろに、「よ」と挨拶をしてくる見知った顔があった。久我隆一。運動神経や頭脳も学年上位に食い込むほど良いのに、冗談を言うのが好きで実力以上にでかい口を叩くので、その能力を過小評価されている阿呆だ。そのくせ嫌味じゃなくて憎めない奴で、俺とこいつはそれなりに仲が良い。
「いや、たまたま目があっただけだよ」
「お! それ運命だよ運命! いわゆる赤い糸って奴? 羨ましいね〜」
 フラグが立ったに違いない! とか訳の分からないことを言ってはしゃいでいるこいつを尻目に俺は一人で歩いて行った。

 ◆

「でさぁ、石田の奴成績もボロボロ、模試の結果もボロボロ。軒並みE判定じゃ! とか言って泣きそうになってたよ」
 家路に着きながら俺と久我は話を続けていた。俺と久我と石田という奴は中学の頃からの知り合いで、今でもかなり仲がいい。
「石田の奴高校入ってから勉強しなくなったからな。浪人でほぼ確定だろう」
「だなぁ、アイツ中学の頃はクラスで3番目くらいに頭が良かったのに。ま、一番はこの俺だったけどね!」
「はいはい、うざいよお前」
「おぉ、ひでえなぁ。ま、事実は事実ですから。そういやお前は中学の頃からいまいちぱっとしなかったもんな」
「余計なお世話だ」
 そんなあまりにも平凡すぎる会話が繰り広げられる。何処までも続くのどかで平坦な日常の延長。そんな生活も悪くない。
「そういやさ。関係ないけど最近このあたりで猫とか鳩が殺されてるらしいぜ?」
 唐突に思い出したように言う久我。透明すぎる日常にちょっとした不純物が混ざった。
「なんだよそれ。動物虐待?」
「虐待って言うか虐殺だろうな。首がちょん切られてたりするらしいぜ? あぁ怖い怖い。さかきばらって殺人鬼がいたじゃん。アイツも最初は動物を殺してたってさ」
「なるほどね。そういや数年前、この当たりは小火騒ぎが多かったし、本当に殺人鬼が出てくるかもな。ほら……動物虐待、放火、夜尿ってね」
「放火に夜尿……? 何それ」
「確か、殺人鬼になりやすい3要素だとか何とか」
「へぇ、よく分かんないけど物知りだな啓は」
 適当な相槌を打つ久我。言いだしっぺの割りにこの話題に興味がないのか、久我はまた普段通りのなんて事のない話に話題を変えた。そして俺も、先ほどの話に後ろ髪を引かれながらも、いつものようにその相手をした。


 しかし、誰も知らない所で日常とは相容れない不純物がだんだんと大きくなり、そして形を成していた……。





2・出会い


 ジメジメとした蒸し暑さと、朝っぱらから騒ぎやがるセミの鳴き声のおかげで俺は眼を覚ました。眠気と葛藤しながら何とか上体を起こすと、俺は枕元に置いてある携帯の画面に表示された時計を見た。
「9時、か」
 休みの日に9時起きとは、自分の中ではなかなかの早起きだ。早起きは三文の徳と言うし、夏休み初日からなかなか幸先が良いではないか。
「……と言っても早起きだけじゃ大学には受からないけどね」
 ふぁ〜、とあくびをしながら立ち上がると、俺は階段を下りて洗面所で顔を洗い、台所に向かった。冷蔵庫を開き、鶏肉とピーマンとキャベツ、ついでにもやしを取り出す。もう何年も飯を自分で作っているというのに料理のレパートリーは一向に増えない。普段作るものと言ったら野菜炒めやカレーに肉じゃが。後は味噌汁とか豚汁くらいなものだ。とは言っても、流石に毎朝作っているから味の方には自信があるけど。広くて浅いよりかは、狭くて深い方を取ったのだ、と自分の不器用さを慰める。
 ついでに言うと、包丁の腕前の方にはかなり自身がある。トントンと慣れた手つきで野菜を均等にすばやく切り分けていく。ただ食材を切り分けるってだけならそこら辺のコックにだって負ける気はない。野菜を切り終わると、フライパンに油を敷いて具を適当に炒める。それを皿に乗っければ料理終了。後は食うだけ。皿を食卓に持って行くと、俺は手を合わせていただきます、と言った。何となく言ってみたが、誰もいないのにそんなことを言うのは中々もって虚しいものだ。今度からは気をつけよう。
 俺に兄弟は居ない。一人っ子だ。一人っ子、と言っても世間一般で言うような甘やかされている、って気は毛頭ない。そもそも甘やかす人物が普段家にいないのだ。父さんは仕事で海外を転々としているし、母さんは俺が中学に上がる頃に死んだ。

それも俺の目の前で……。

「あ……ダメだ、思い出すな」
 見れば箸を持った右手が震えていた。悲しみで手が震えていた。そして俺の顔は歪な表情を作っている。
 
―――あぁ、なんて……


「……落ち着けよ、俺」
 そう自分に注意する事によって、思いだそうとする意識を元に戻した。あの事は思い出さない方がいい。常に悲しみに晒されていれば、どのような形であれ人は壊れてしまう。だから例えそれが大事な事であっても、人は普段それを忘却していなければならないのだ。

 食事を食べ終わり少しの間TVを見ると、俺は早速勉強に取り掛かった。確かに受験勉強は苦痛だ。しかしだからこそ一年間浪人して、またこの苦痛を味わうのだけはごめんである。だからここは大人しく机に向かわなければならない。幸いこういう時は我が家の環境は便利だ。小うるさい事を言う人もいないし、好きな場所で勉強が出来る。後は自分の根気が何処まで持つか、だ。
 今日のノルマは数学3時間、英語3時間。後は社会をチョコチョコと。目の前に詰まれた問題集を前に、こいつらを一気に終わらせてやると意気込んで鼻息を荒くする。俺はカッと眼を見開くと、カリカリと高速で問題集にシャーペンを走らせた。

 その2時間後。
 俺は近所の雑木林を散歩していた。いや、やっぱり休息は必要ですよ! 気分転換、これ大事! 一時間勉強した後は休憩をとったほうがその後の能率も上がると言うしね! あとほら、勉強ばっかりだと目に悪いから、こうやって緑に囲まれて眼の保養もしないと……とまぁ、いろいろな言い訳をしてみたが、要するに集中力が続かなくなっただけの話である。
「あーあ。こんな事でテスト本番は大丈夫なのかね」
 他人事のように言ってみせてもこればかりはどうにもならない。まぁでも実際この雑木林を歩くのは気持ちがいい。程よい木陰は真夏とは思えない程涼しくて、冷房の効いた部屋よりもずっと快適だ。それにこの辺りは雑木林なのに蚊も少ない。子供の頃からこの雑木林は大のお気に入りの場所だった。ここなら普段は鬱陶しいセミの鳴き声も、純粋に気持ちいいと思える。
「そう言えば、昔はよく家族でここに来たなぁ」
 まだ、母さんが生きていた頃に。
「……またやっちまったな。俺はこれだからいけない」
 俺は邪魔な感情を振り払う為に空を見上げた。天気は雲ひとつない快晴。眩しいほどに光を放つ太陽と、吸い込まれそうなほど一面に広がる青い空。
「良い天気だ。こういい天気だと、本当に何かいいことが起きそうだな」
 視線を地上に戻す。遠くまで続く木々たち。その合間からふと、一人の女性の姿が見えた。
「あれ、この林にも人が来るようになったんだ。ちょっとした秘密の場所だと思ってたんだけど」
 俺は何をやるわけでもなくその女性を眺めていた。女性は周りの景色を眺めながらこっちに歩いてくる。景色に集中しているせいだろう、前方にいる俺にはまだ気がついていないみたいだ。やがて彼女は立ち止まって、肩にかけていたバッグから何かを取り出した。そして彼女は口を開いて、
「おいでー!」
 と大きな声で言った。途端、何処に隠れていたのか茂みのあちこちから猫がにゃーにゃーと鳴きながら飛び出してきた。彼女の周りに集まってきた猫は十匹ほど。それぞれが彼女の足に擦り寄ったり、目の前に座って鳴いたりしている。どうやらあの女性はこの辺りの猫に随分と好かれているようだ。彼女は周りにいる猫を一通り撫でてあげた後、さっきバッグから出した袋から餌を取り出し猫たちに与えた。木漏れ日の中、猫たちと戯れながら餌を与えているその女性の姿はまるで絵みたいに様になっている。
「いいもんだねぇ」
 なんて自分でも良く分からないセリフを吐きながら俺はその姿に見とれていた。
「うぅ、俺も撫でたい……」
 実を言えば俺はかなりの猫好きである。やっぱりこの衝動は抑えられない。よし、と決心して俺は女性の方に歩いて行った。そこでようやく彼女も俺のことに気が付いたのか、足元にいる猫たちから視線を上げこちらに顔を向けた。
 視線が重なる。
『あっ』
 それはふたり同時に発した声だった。彼女の目はちょっと釣り目で、髪の毛は肩より少し上。そして、何となく猫っぽい雰囲気をしている。……何となく予想はしていたが、その女性は昨日学校で目があった女子だった。これは久我が言っていたこともあながち嘘じゃないかもしれない。そんな思考で頭が一杯になって、しばしの間沈黙が流れた。
「えと、君は紅葉高校の人……だよね?」
 何とか口を動かしてみたが、やっと口から出たセリフも実に情けない声だ。その上どうも不自然ぽい。けど、まぁそこは真心でカバーだ。
「うん、そうだよ。黒葉君、確か5組なんだよね?」
 こんな突然の挨拶に彼女は予想以上に明るい声で返答してくれた。ほっと胸を撫で下ろす。
「あ、俺の顔知ってるん……」
 その先を言いかけて俺ははっと気が付いた。
「え? 何で俺の名前知ってるの?」
「さぁ〜、何ででしょう?」
 にやにやと笑みを浮かべながら、名前の知らない目の前の女の子はそんな質問をしてきた。
「うーん…………もしかして超能力者?」
「はずれ」
 彼女はちょっと拗ねたような、残念がるようなそんな表情を見せながら言った。
「ま、忘れててもしょうがないかぁ。結構前の事だしね」
 はて、昔どこかで会った事があるのかな? 首を傾げてみても俺は思い出せなかった。
「そんなに気にしなくていいよ。大した事じゃないから」
 微笑みながら言う彼女に俺はなぜか少し赤面した。
「猫の世話してるんだ」
 俺はそれを悟られまいと、彼女の周りで鳴いている猫たちに目線を落として言った。
「う〜ん。世話って程のものじゃないよ。たまに来て餌をあげてるだけ」
「それにしては随分好かれてるね。野良猫って一日や二日でこんなに慣れるものじゃないでしょ?」
 彼女は少し照れながら、いやぁ、とか何とかぼそぼそ呟いた。
「全員じゃないけどこの仔達元々は捨て猫だったんだ。本当は家で飼ってあげたかったんだけど親に反対されて。で、誰かもらってくれる人を探したんだけど、2匹しかもらわれなくて」
「だからここで餌をあげてるんだ。やさしいね」
「あははー。優しいだなんて照れるなぁ。黒葉君ほどじゃないよ」
「え、俺? いや、俺なんて全然……」
 またしても顔が赤くなる。何故彼女はほとんど面識の無い筈の俺にこんな事を言うのだろう。
「と、ところでいつもここには来てるの?」
「最近はよく来てるよ。ここのところ猫が殺されたりしてるみたいだから心配で」
 そういえば久我もそんなこと言ってたっけ。
「俺も一緒に猫に餌あげていいかな。 俺、猫好きなんだけど俺じゃ猫は集まって来てくれないんだ」
「うん、いいよ」
 そう言って彼女は俺に持っていた餌を手渡した。手の平にキャットフードを持って猫たちに食べさせる。見慣れない人間に猫たちは警戒しながらも、ボリボリと俺の手の平にある餌を食べ始めた。
 そうしていると彼女は思い出したかのように口を開いた。
「そういえば私もう戻らないと。今日は猫に餌をあげたらすぐに帰るつもりだったから」
「そっか。なんか突然現れて、悪いね」
 俺は少し笑いながら言った。
「そんなこと無いよ」
 彼女の声がとても真面目な超えに聞こえたから、俺はつい彼女の顔を見つめてしまった。
「私さ、最近毎日ここで餌あげてるから明日もよかったらまた来てよ。出来れば毎日来て欲しいな」
「え?」
 心臓の鼓動が異常に高鳴る。彼女が大人なのか? それとも俺が子供なのか!? どちらにせよなんで彼女はそんなことを言えるんだろう。赤面を通り越して俺はもう倒れそうになっていた。
「あ、余計なお世話だったかな」
 俺の様子を見て彼女はすまなそうにそう言った。
「いやいやいや! そんなこと無いよ。お言葉に甘えて、明日も、いや出来るだけ毎日ここに来させてもらいます」
 それを聞くと彼女は満面の笑みで返してくれた。これは反則技だ。普通にしててもなかなか美人なのに、そんな顔をされるともうどうしようもない。
「うん、よかった。それじゃあもう行くね。ばいばい」
 そして帰ろうとする彼女。その背中を見てふと大事な事を聞くのを忘れていた事に気が付いた。
「そういえば」
 俺の声に彼女が振り返る。
「名前……何て言うの?」
 そういえばそうだった、というリアクションが返ってくる。
「私の名前は倉見由梨絵だよ。もう忘れないでね?」

 そして俺は倉見と言う女の子の背中を見送った。倉見由梨絵。そういえばどこかで聞いたような……





3・白い陽炎

「うぅむ、わからん」
 俺は問題集を睨みながらそう呟いた。解いていたのは数学の問題集で、分からない、と言う理由は知識が無いからではなく、単に集中力が無くなった為である。どうやら俺が一度に集中出来る時間の限界は2時間と定められているらしい。それを超えると俺の集中力は格段に下がる。
「もしかしてゲーム脳って奴?」
 自分で言って自分でへらへらと笑う。もしこの状況を客観的に見たら正直に不気味だと思うだろう。ん〜、と間延びしながら部屋の壁にかけられた時計を見ると、時間は午後の一時をさしていた。
「もうこんな時間か。そろそろ行くかね」
 行きつけの雑木林で倉見と出会ってからはや一週間。最初に会った時から彼女とは違和感無く喋れたが、今はよりいっそう気楽に喋れるようになった。ちゃっかりメルアドも交換したし。彼女の性格は明るくて、なかなか強気という印象を受けたが、見た目のように猫みたいな可愛らしさもある。なんていうか、話していると無条件に頭を撫でてあげたくなるのだ。これは俺だけじゃなくて老若男女、誰しもがきっとそう思うだろう。言うなれば異性が持つの可愛さと言うのではなく、マスコット的な可愛さがあるとでも言うのだろうか。
 そうして彼女の事ばかりを考えていると、俺は自分の心臓の鼓動が早くなっていることに気が付いた。……正直その事実に驚く。流石に知り合ってから一週間そこらで人に恋できるほど俺の心は惚れやすくは無い。無いのだけど、彼女を前にするといつもは感じることの無い、躍動感のような感情で心が一杯になるのは事実だ。
「好きになっては無い……筈だよな?」
 だがそんな自問自答は意味を成さない。意識ではどんなに好きになってはいないと思っていても、心臓の方は素直なのだ。俺が人に惚れやすくは無いのは確かな筈だ。だって、俺は今まで恋らしい恋と言うのをしたことが無い。だとしたら、今回は例外なのだろうか?
「……不味いな」
 何が不味いのか、自分でもよく分からずに……いや、引っかかるところはあるのだが、俺はそれを無視してそう呟いた。まぁ、何も深く考える必要はない。やっぱり俺は倉見と一緒に猫たちと遊んでいるのが楽しくて、そうしている内に初めて会った時よりもずっと倉見のことが気になる様になった。
 ただ、それだけのことだ。

 ◆

 雑木林に到着すると、倉見は既に猫たちを集めて餌を与えていた。俺が「や」と挨拶をすると向こうも「よ」と言って返してきた。そして俺の顔を見るとなぜか突然笑い始めた。
「何だよいきなり」
 俺は恥ずかしい気持ち半分、腹立たしい気持ち半分で強めの口調で言った。
「あはは、ごめんごめん。啓の寝癖があまりにもすごいから。朝ちゃんと鏡見てる? 啓ってワックスとかつけなさそうだもんね〜」
 この一週間の間で倉見は俺のことを”黒葉君”から”啓”へと呼び方を変えていた。俺はまだその呼ばれ方に慣れていないので、未だに「啓」と呼ばれると少しドキッとする。
「そんなこと無いぞ。俺だって人並みに身だしなみくらい気を使ってるさ。ワックスだってたまにつけてるし。今日はその、たまたまだ」
 わざとふてくされた様に言う。
「はは。じゃ、そういう事にしとくけどさ。いくら家が近いからってそんな髪型で外出るのはよくないよ」
 倉見はそう言うとまだ笑っていた。……くそう、なんだか惨めな気持ちだ。
 そんな会話をしていると、俺の足元に一匹の猫が体を摺り寄せてきた。全身真っ黒の猫。たしか倉見はクロと呼んでいたっけ。正直、ひねりの無いネーミングだと思う。
「あ、啓ってばクロに気に入られたみたいだね」
 倉見が俺とクロの様子を見てそう言った。
「他の猫は倉見にばっかり懐いてるもんだから、俺ってもしかして猫に嫌われてるのかと思ったよ」
 と言っても依然としてやはりクロ以外の猫は俺には興味を示さず、倉見の周りでゴロゴロと鳴いているんだけどね。
「クロはこの中で一番気難しい猫なんだよ。私だって仲良くなるまで随分時間がかかったんだから。もしかして啓とは気が合うのかな」
 む、そう言われるとなんだか気分がよくなる。おぉ、愛しのクロよ! 俺にはお前だけで十分だ。なんだか可哀想なほど残念な名前をつけられて不服だろうが、俺がその氷のような絶望を溶かしてあげるぞよ! と、クロの頭を撫でてあげようと手を差し出す俺。瞬間、クロは逃げるようにして俺から飛び退いて、倉見の方に戻って行った。
「うぅ、やっぱりまだ撫でられるほど慣れてはないか」
 そんな事を呟く俺に、落ち込まないで、とばかりに倉見は哀れみの目を向けてくる。
「くそー、黒猫め。残念な名前の癖に!」
「? 残念な名前?」
 倉見は俺の発言に不思議そうな顔を見せた。
「あ、いや何でもないですよ?」
 あははー、と俺はあからさまに引きつった笑顔を作った。

 ◆

 それから30分ほど猫たちと戯れると、もうそろそろ家に戻ろうと俺は倉見に声をかけた。
「倉見、俺そろそろ帰る。倉見はさ、明日もまた来る?」
 倉見は俺の声を聞くと、少し何かを考えるように下を俯いて口を開いた。
「うん、私は明日も来るけど。実はね、三日前からここに来なくなっちゃった猫がいるんだ。灰色の子猫なんだけど。その仔の事が気になって」
「その猫、今まではいつも来てたの?」
「毎日来てたよ。あの仔、あんまり遠くに行くとは思えないんだけど」
「それは確かに心配だな。もし見かけたら伝えるよ。灰色の猫だね」
「うん、お願い」 
 そう約束して俺たちは互いに別れると、そのまま帰途へとついた。

 雑木林から俺の家までの道のりは中々に田舎道臭さを漂わせせている。俺が今歩いている道の右側には底の浅い川が流れ、その向こうには田んぼがある。左側はさっきまでいた雑木林の続きで木々が生い茂っている。この一帯は町の中でも一番自然の多い場所で、ビルが乱立している駅周辺と、こことの文明的格差はかなり大きい。同じ町でありながら、まるで全く別の地方みたいだ。俺は自然が好きだから、この辺りに住めて本当によかったと思う。
 そんな晴れやかな気分でアスファルトで舗装される事すらない道を歩く。その途中、俺の視界の端っこに、小川の前に屈みながら何かをやっている人の姿が写った。後姿なのでよく分からないが、どうやら女性らしい。俺はなぜか無性にその姿に惹かれ、その女性が何をやっているのか覗きたい衝動に駆られた。
「魚でも探してるのかな?」
 と言っても、あそこにいる魚なんてフナくらいだろう。もともと田んぼに水を供給するために作られた川だそうだから、たいした魚なんている筈がない。あとはまぁ、ザリガニとかならいるだろうが。でも、その女性が気になるのはそういうことじゃない。自分でも分からないが、なんと言うんだろう。雰囲気と言うかオーラと言うか。後姿しか見ていないのにこんな事を言うのも変なのだけど、彼女の姿はまるでこの猛暑が引き起こす陽炎のような繊細な、まるで幻想のようだった。大げさに言えば砂漠で蜃気楼が見せるオアシス。そこには存在しないのに確かにこの目に映る美しい幻。
 だから興味を惹かれた。しかし、それは何かいけないことのような気がした。いくら蜃気楼のオアシスを辿っても、行き着く先はただの砂漠。夏の夜の美しい炎に魅せられた蛾は散り行く運命。しかしやはり蛾は、炎が持つその美しさに抗う術を持ち合わせてはいない。
「何やってるんですか?」
 俺はその見知らぬ女性のもとまで歩いて行き、そう語りかけた。女性は振り向くと、苦笑するかのような表情を作った。
「道を歩いていたら転んじゃって……手を汚してしまったんです」
 女性は川でジャブジャブと手を動かしながらのんびりとした口調で答えた。年頃は20代前半といった所だろう。白いワンピースと黒くて長い髪がとても印象的だ。これで麦藁帽子をかぶっていたら間違いなく今年の”ベスト オブ サマーガール”の称号を手に入れられるだろう。そして何より、これ以上は無いと思えるほど端整で美しい顔立ちをしている。
「怪我……平気ですか? 血、出てるみたいですけど。なんなら家が近いんで消毒液とか持ってきますよ」
 俺は彼女の白いワンピースに2、3滴赤いシミが出来ているのを見ながら言った。
「あ……怪我なら大丈夫です。ほんのちょっと擦り剥いただけですから」
「そうですか。ならいいんですけど」
「心配してくれてありがとうございます〜」
 ひまわりみたいな笑顔を浮かべて女性は言った。それにしても彼女の喋り方はとてもゆっくりしていて落ち着いていて、ほんのちょっと会話しただけなのに心が和む。これも才能と言う奴なのだろう。何となく、天然おねえさんというフレーズが頭をよぎった。
「ここの人なんですか?」
 しばし彼女に見とれていると、今度は女性の方から語りかけてきた。
「えぇ」
「よかったー。じゃあこの辺りの地理に詳しいですよね?」
「大体のことなら分かりますけど」
「じゃあ、人気が無くてゆっくりできる場所って知りませんか? 一人で旅行に来たんですけどこの辺りの事が良く分からなくて」
「一人でゆっくりできる場所……ですか?」
 う〜ん、と考えてみるけど答えは一つしか浮かばない。
「林の中とかでもいいですか?」
「はい、自然の中に居るのは大好きです」
 女性はにこやかに答えた。
「それなら、すぐそこにある雑木林がいいですよ。涼しいし殆ど人も通らないです」
 俺はさっきまで倉見といた雑木林を指差した。
「いいところみたいですね」
 彼女は喜んでくれたのか、笑顔でそう言ってくれた。
「えぇ。もう取って置きの場所です」
 俺が自慢げに胸を張ってそう言うと、女性はうふふと笑った。
「お名前、何て言うんですか」
「え? 俺の名前ですか?」
 突然の女性の質問に俺は少し動揺した。
「はい。私は白塚玲子っていいます」
「俺は黒葉啓です」
「黒葉さん。親切に教えてくれてどうもありがとうございました」
 彼女はやっぱりのんびりと、そして笑顔で俺に感謝の言葉を口にしてくれた。
「いやそんな。こちらこそいきなり話しかけたりしてごめんなさい」
「いえいえ。では、私もう行きますね」
「また転ばないように気をつけてくださいよ」
「あはは。はい、気をつけます。それでは……また、会えたらいいですね」
 にこり、と軽く会釈すると彼女は雑木林へ続く道を歩いて行った。





4・陰の影

 世間ではある殺人のニュースが流行していた。関東ではこの3ヶ月の間だけで四肢がバラバラに切断された死体が20件近く報告されている。その殺人事件の犯人は、予想や噂こそ囁かれるものの、その全容は全く掴む事が出来なかった。曰く、殺人犯は異様な思想に傾倒した少年だと言う。曰く、殺人犯は狂信的なカルト集団の人間達であるという。曰く、殺人犯は中年の性犯罪者ではないかと言う。だが現実として、今だに犯人の特定に繋がる有力な手掛かりは何一つ見つかってい無かった。そして更に謎を深めるかのように、この事件は日本においてほとんど例を見ない事件であった。まず、遺体からは金品を盗まれた様子は無く、性行為が行われた様子も無い。怨恨による殺人かと思われたが、そもそも被害者の年齢、性別、地位などには一貫性が無く、犯行の動機が不明。
 そんな物騒な話が、俺が今朝のニュースから得た情報だった。
「……馬鹿が」
 俺は憤りを抑えられずにそう口にした。この世に人の命を軽く弄ぶ奴がいると思うだけで腸が煮えくり返る。それと同時に被害者達への悲しみで胸が苦しくなった。
「死の価値を下げやがって」
 続く殺人。身近に起こる動物の虐待。今、世の中のどこかで見知らぬ不純物が確実に人の命の神性を侵食していた。何が出来るわけでもないが、俺は生き物の死を冒涜する何者かを許容するわけにはいかない。
 俺の体は強い感情に支配され、震えていた。

 ◆

 高校生の癖に普段家で自炊ばかりしているので、たまには昼飯くらい外で食おうと思い立ち、俺は駅前の商店街までやって来た。道の両脇にはずらっと食い物屋が立ち並んでいる。日本料理に中華にインドカレー。イタリア料理の店もあれば韓国料理の店もある。あぁ、見ているだけで腹が減ってくる! 何を食おうか考えながら、ルンルンと鼻歌交じりに財布を広げる俺。その中にある残金はざっと739円なり。
「…………」

――ヤッパリファーストフードデスヨネ!

 現実とは厳しいものだ。ここのところ出費が多かったので、一回に使える食費はどんなに多くても700円まで。と言うのが今月の生活費を計算した結果である。この値段で食えるものと言うと竹屋で牛丼と味噌汁か、モックのハンバーガーセットか、ラーメンくらいしか思い浮かばない。
 まぁ別にそういうのも好きだからいいんだけどさ。
 俺は考えた末に結局モクドナルドに入る事にした。店内に入り、カウンターでハンバーガーセットを頼む。トレイに乗ったハンバーガーとポテトとドリンクを渡されると、俺は適当な席を見つけて座った。窓の外を眺めながら、ポテトを2、3個頬張る。
「お、啓じゃん。お〜い」
 聞き慣れた声がして俺は振り向いた。視線の先に立っていたのは久我と石田だった。ほんと、世間て狭いよね。

「最近流行ってる連続殺人事件だけどさ、犯人てどんな奴だと思う?」
 石田が目を輝かせながらそんなことを聞いてきた。石田は優しくて良い奴なんだけど、昔からこういった物騒な話が好きだ。その上ナイフを収拾したりする危ない一面もある。前に学校で、「スミス&ウェッソンのナイフが好きなんだ」とか言いながら俺に折りたたみナイフを見せてきた事もあった。こいつは常に何かしらの刃物を携帯している。石田の性格から言って”護身用”だのと人を傷つける為に持っているのではなくて、純粋に刃物が好きだから持ち歩いているのだろうが、それにしてもあまり感心できる趣味ではなかった。
「さぁ〜? ヤッパリ頭がおかしい奴なんじゃねぇの? 当たり前だけど」
 久我が口いっぱいにハンバーガーを詰め込みながら言った。
「頭がおかしいって言っても色んな狂い方があるんだよ。例えば、サイコパスとセックスサディスト、そして精神病患者の殺人は全然違う」
 石田は久我の返答が気に入らなかったのか少し不満げに言った。
「啓はどう思う?」
 久我を見ていた石田は、今度は俺に振り向いて質問を続ける。
「……そうだな。まぁ、あくまで一般論で言うなら20代前半〜30代後半の男ってとこだろ。んで、殺人を犯すまでに何かしらの犯罪で捕まったことがある可能性が高い。精神病かどうかなんてことまでは分からないけど」
 なるほど、と頷く石田。でもあいつの目の輝きはまだ一向に消えてい無い。
「確かに啓が言う通り、連続殺人犯てのは今の条件に該当する場合が多い。でも俺が聞きたいのはそういう事じゃない。俺が聞きたいのは犯人の性質だよ」
「犯人の性質なんて、そんなもん犯人以外分かるかっての」
 久我が横から口をはさむ。だけど確かにその通りだ。少なくとも俺には”人を殺す人間”の気持ちなんてものは分からない。俺は久我に同意する意味でこくりと頷いた。そんな俺たち2人の態度を見て、石田は少し残念そうな表情をした。
「まいったな……啓は何となく理解できると思ったんだけど」
 ぼそっと石田が呟く。
「何?」
「いや……何でもないよ」
 そう言うと少し気まずそうな感じで石田は口ごもった。
「俺が思うに犯人はさ、たぶん純粋な人間なんだよ。人の命を奪いたい。それ以外の理由なんて一切無い生粋の殺人鬼」
「殺人鬼を純粋な人間だなんて。石田、お前ちょっと度が過ぎるんじゃないか?」
  俺は石田に強い反感を持った。何故、こいつはそんなことを言うんだろう。石田を睨みつける。石田も流石に俺の感情に気付いたのか、俺から目線をそらせ下を向いた。
「……そうだな。悪かったよ」
「いや別に謝るほどの事じゃないけどな」
 俺は自分の中に湧き上がる感情を抑えて、すまなそうにしている石田をなだめた。
「でも」
 その一瞬、石田はまた最初のような目の輝きを取り戻した。
「でも、人の心の奥底に殺人願望があるのは事実だ」

 その目は俺の奥底を覗くかのような……

 ◆

 俺達はモックから出るとそのまま別れた。真夏の町を一人で歩く。気温は8月に入り一層暑さを増していた。あまりの暑さに意識が朦朧とする。自転車置き場に着くと、俺は自分の自転車に鍵を差込んだ。ふと、倉見のことを思い出す。今日は倉見には用事があるらしく、いつもの雑木林に集まる約束はしていない。だが、流石に毎日のようにあそこで猫たちの世話をしていると、体がそれに慣れてしまうというか、様子を見ないと心配になってしまう。
「餌、持ってってやるか」
 そう決めれば後は早い。近くにあるスーパーに寄って猫の餌を買う。この頃出費がかさむのは実の所こいつが原因である。俺は”猫無我夢中”と言う名前のキャットフードをビニール袋に詰め込んで、それを自転車の籠に入れると、雑木林へと向かってペダルをこぎ始めた。駅から俺の家まで自転車でおよそ30分。雑木林はそこから歩いて10分ほど。改めて考えてみれば結構な距離だけど、ここのところの運動不足の解消と思えば悪い気はしなかった。

 ◆

 雑木林に着くと、俺はいつも倉見がやっている様に「お〜い」と言って猫を呼んだ。木陰がもぞもぞと動く。するとそこから数匹の猫が顔を出した。でもいつもみたいに飛びついては来ない。何となく予想してはいたけど、やっぱり俺はまだまだ倉見程にこいつらに好かれてはいないみたいだ。遠巻きにじっと俺のことを観察する猫たち。その中で一匹の黒い猫だけが俺の足元に寄ってきた。こいつは確かこないだもこうして俺に懐いてきた奴だ。名前はクロ。しつこいが、やはり安直過ぎるネーミングだと思う。倉見ってそう言う事に物凄く疎いのかもしれない。
「とりあえず餌だ餌。いっぱい食えよー」
 スーパーのビニール袋から猫の餌を取り出して、餌を適当に足元にばら撒く。するとさっきまで木の陰からこちらを覗き込んでいた猫たちが、元気よく一斉に飛び出してきた。そして文字通り、無我夢中にキャットフードを食い漁る。全く現金な奴らだ、と俺は少し呆れながら餌に群がる猫たちを眺めた。
 そうやって猫たちを眺めていると、ふと倉見が言っていたあることを思い出した。
「……そういえば灰色の猫、今日も来てないな」
 もう一週間その猫は顔を見せていない。流石に何か起こったのではないかと言う悪い予感が頭をよぎる。その瞬間、猫の鳴き声がして俺は慌ててその方向に振り向いた。俺の視線の先、そこに居たのはクロだった。
「なんだ、お前か。 …餌か? 餌ならお前の目の前にあるぞ」
 そう言ってもクロは餌を食べる事も無く、ただ俺を見つめていた。ジッと俺の目を見て離さない。
「一体どうした?」
 もう一度言い直しても、やはりクロは身動き一つしない。俺はそのクロの様子に首を傾げた。病気と言うわけではなさそうだし、サッパリそうしている理由が分からない。仕方なく、俺も黙ってクロを見つめていた。
「お前、灰色の猫が今何処にいるか分からないか?」
 何となく俺はそう語りかけた。もちろん『おう! 知ってるぜ』なんて返答を求めている訳じゃない。本当にただ何となく、一方的に話しかけただけだ。しかしクロは俺のその言葉を聞くと、突然俺に背を向け歩き始めた。何故だろう? 理由は分からないが、俺にはまるでその背中が、「付いて来い」と俺に語りかけているかの様に思えた。
「まさかな……」
 自分でそう口にして突っ込んでみたが、クロのことが気になることに変わりは無い。だから俺はクロの後を追って雑木林の奥へと進んだ。クロはどんどん林の奥く深くへと歩いて行く。その先には道と呼べる道は無く、茂る草木に阻まれている。俺は邪魔な草を掻き分けながら、必死で黒猫をつけて行った。
「一体俺は何をしているんだ?」
 今自分のやっている事を、出来るだけ冷静になって自嘲してみる。しかしその一方で、俺の頭の中には何か確信めいた物があった。こいつは何かを知っていて、それを俺に伝えようとしている。だから俺はそれを確かめるために必死にクロを追った。俺がクロに遅れて距離を離されてしまうと、クロは一旦止まる。そして俺がクロに追いつくと、また歩き始める。そんな必死の追いかけっこが続いた。
 そして数分後。気が付けば俺は木々の少ない広場のような所へ出ていた。あまりの悪路の為に時間は結構掛かったけど、距離にすればさっきまで猫に餌を上げていた場所とそう離れてはいないだろう。周りを木々に囲まれたこの広場は、そこだけ雑木林から木木を引っこ抜かれたかの様に丈の低い草しか生えていない。
「この雑木林にこんな所があったんだ」
 俺は結構この林には詳しいつもりだったけど、こんな所があるなんて知らなかった。そんな気持ちに囚われて俺はしばしの間ぼうっとしてしまった。ふと気付くと、いつの間にかクロの姿が無くなっている。
「アイツ、どこに行ったんだ」
 気になって、広場を一通り俺は見渡した。――そして、俺はそれを見つけた。

 俺の視線の先、そこには無残にもバラバラに解体された猫の亡骸があった。もともとの毛色は灰色。しかし、その毛は大部分が血で赤く染められていた。




5・罪

 色々考えたけれど、俺は昨日の事はやはり倉見には言わないでおいた方が良いと判断した。倉見はあの猫達をそれこそ家族みたいに可愛がっている。だから、もしその猫が誰かの手でむごい殺され方をしたと知れば、きっと心に傷を負ってしまうだろう。見つけたら教えるっていう倉見との約束は破る事になるけど、どうしても俺にはそのことを伝える事が出来ない。
 ただ、一つ問題があった。あの雑木林には動物を虐殺するような奴が出入りしているという事だ。あれは明らかに刃物か何かで人為的に解体したものだった。そういう奴が人を襲わないという確証はないし、最近ニュースで取り沙汰されている連続殺人のことも気になる。とにかく、できるだけそんな危険な奴が居る場所に倉見を居させるわけにはいかない。しかし、そのことをどう倉見に説明すればいいのだろう? 仮に猫が殺されているから危ない、と言っても倉見なら逆に心配にして、今よりもあの林に出向くようになるだろう。なら……どうすばいいんだ。
 そうしてあれこれと思案を巡らしている内に、時間は昼近くになっていた。倉見をあそこに行かせない様にする事は今の所は保留にするとしても、アイツの身の安全はできる限り確保しなければならない。その為にできる事を考えた結果、俺はいつもよりも早くあの雑木林に行って倉見を待つ事にした。

 ◆

 雑木林にはまだ倉見の姿はなかった。ほっと胸を撫で下ろす。いつも倉見と落ち合う時間までまだ30分はある。この時間をどう使うかと考えて、俺は灰色の猫が殺されていた場所に行こうと思い立った。昨日、俺はあの猫の死体を見つけた後、地面に穴を掘り埋めて墓標を立ててやった。それでどうなる訳でもないのだけれど、あのまま亡骸が野ざらしにされているのは我慢ならなかったのだ。もし魂と言うものがあるのなら、安らかに成仏して欲しいとも願った。
 俺は昨日と同じ様に、獣道とも呼べないような道を歩いて、広場のような一帯に出ると、俺は猫の死体を埋めた場所に屈んで静かに手を合わせた。心臓の鼓動が早くなる。両手は振るえ、俺は必死で歯を食いしばっていた。死体を前にして、その死を悼む。その行為が……あの時母親の死に対して抱いた感情を回帰させようとしていた。
 目から涙が溢れそうになる。不意に、俺は心を摘まれるような酷い喪失感に襲われた。



―――やめろ

 あの時、母親が死んだあの時

―――やめろ 思い出すな

 母親の体が四散して行くその光景を目の前にして

―――やめろ ヤメロヤメロヤメロヤメロ!!

 俺は、俺は口を歪めて……

―――アノ感情を 思イ出すな!!!



 どれくらい時間が経ったのだろう? 酷く息切れがする。だが、心の方は大分落ち着いていた。俺は額に浮かぶ汗を手で拭いながら立ち上がると、もう一度改めて猫の亡骸を埋めた場所を見た。
「本当は俺なんかより倉見に来て欲しいんだよな」
 ごめんな、と呟く。でもやはりここに倉見をつれてくるわけにはいかない。自分勝手なことかもしれないけど、俺はあいつが悲しむ顔は絶対に見たくないから。俺はその場を後にすると、いつも倉見と落ち合っている場所に戻った。
 五分ほど待っていると「お〜い」なんてにこにこと手を振りながら倉見がこっちへやって来た。その姿を見て、張り詰めていた緊張感が一気に解れる。無垢なその笑顔は何にも変えがたいものだ。倉見はいつもの様にバッグから餌を取り出すと、声を上げて猫たちを呼んだ。一斉に腹をすかせた猫たちが茂みから飛び出してくる。その猫たちに餌を与える倉見の姿は、何度見てもやはり絵になっている。これが倉見以外の誰かだったら、俺はきっとこんなにもこの光景が美しいとは思わないだろう。だから、どうしても倉見に昨日の事は言えないんだ。その代わりに、ここでどんな危ない事が起こっても俺は倉見を守ってみせる。俺は猫と戯れている倉見の横顔を見ながらそう決心した。

 それから30分後、俺はいつもと同じく雑木林を後にして家へと戻る道を歩いていた。ただ少し違うのは、今日は一人ではなくて倉見もいるという事だ。俺と倉見は帰る方角が違うから、普段は別々に帰っている。だけど、今日に限っては倉見が「たまには家まで送ってあげるよ」なんてどっちが男か分からないような発言をしたために、こうして肩を並べて同じ道を歩いてる。っていうかこれ、本来なら俺が倉見にしてあげなきゃいけないことなのだけれど、どうしてもこういうことが苦手な俺は、やはりヒーローにはなれそうにも無い。いやでも、頑張んないとダメだろ俺!
「どうしたの啓? ボーっとしちゃって。ちゃんと私の話聞いてた?」
 倉見のその声に、俺ははっと現実に引き戻された。怪訝そうな視線を向けてくる倉見。
「あ、いやごめん……今なんて言ったの?」
 こういう事に慣れていないせいだろう。どうしても思考が落ち着かない。本当に情けないな、俺。
「もう。そんなんだと将来ボケるよ」
 倉見の文句に俺は苦笑で返す。
「じゃあもう一度言うけどさ、啓は何処の大学を受けようと思ってるの?」
「ん〜、中心大学と大正大学の2つを受けて、受かった方にしようと思ってるんだけど。今の所どっちもどっちかな」
「そっか、じゃあさもし2つとも受かったらどうするの?」
 倉見の質問にしばし思案を巡らせてみる。
「う〜ん。今はまだ分からないな」
「それならさ、一緒に大正大学入ろうよ。私も大正大学受けるつもりなんだ」
「え?」
 一瞬俺は倉見が何を言っているのか分からなかった。出来るだけ思考をニュートラルな状態に戻し、今しがたの倉見のセリフを脳内で反復して、租借する。うん、倉見と同じ大学に通えたらいいな。純粋に俺はそう思う。それは志望校を決めるにはあまりにも安直な理由。でも今はそんな理由がとても大切なものに思えた。
「そうだな……それもいいかもしれない」
 そう口にしてみたら、やっぱり悪い気はしなかった。

 そんな会話をして歩いているうちに、倉見がトントンと俺の肩を叩いて道の隣を流れる川を指差した。
「ね、あの人何やってるのかな」
 倉見が指を指した先には、川の手前で屈んで何かをしている白い服を着た女性がいた。ついこの間にもこんな光景を見たような……いや、光景自体はあの時と殆ど同じだった。風になびく長い黒髪。眩しいほどに光を反射する真っ白のワンピース。あの女性の名前は確か……
「白塚さん」
「え? あの人知り合い?」
 意外そうな顔をして倉見が俺の顔を覗き込んできた。
「あぁ……うん。前に一度会っただけだけど」
 白塚さんは前と同じように川で手を洗っているようだった。また転んだりでもしたのだろうか? だとすると随分おっちょこちょいな人だ。あの人を見てるとなんだかとっても心配になってしまう。そんなことを思いながら白塚さんを眺めていると、やがて彼女は立ち上がってこっちの方に歩いて来た。
「あら、黒葉さんじゃないですか」
 俺たちの存在に気付いた白塚さんは、例によってとても朗らかな口調でそう言った。
「ども、また会いましたね」
「はい、嬉しい限りです。 …隣の女の子は黒葉さんの彼女さんですか? とてもかわいい方ですね」
 彼女は倉見に「初めまして〜」とにこやかに挨拶しながら、サラリとそんな爆弾発言をした。俺と倉見はそのあまりに突然すぎる爆撃に、一瞬無言になった。
「いやあの、俺たちはそういう関係では無いですよ。 なぁ、倉見?」
 真っ白になってしまった思考を何とか呼び覚まし、俺は倉見に向かってそう言った。
「う、うん。私たちまだ何にもしてないですよ?」
 こういうことに耐性が有りそうな倉見も、流石に今の白塚さんのセリフには動揺しているようだ。……その、発言内容がなんか気に掛かるのはきっと気のせいだろう。
「あら、そうなんですか? なんだかとても仲良しそうでしたから」
 うふふ、と笑う白塚さん。
「所でお名前はなんて言うんですか? 私は白塚玲子っていいます」
 白塚さんは倉見を見つめながら言った。
「あ、私は倉見由梨絵です」
「良いお名前ですね。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
 ニコリと笑顔の白塚さんと、その笑顔にはにかんで答える倉見。なんかもう、あまりにも豪華すぎる光景だ。俺は本当にこの場に居てよい人間なのだろうか?
 そうこうしていると、倉見と白塚さんは俺をそっちのけにして色々と喋りだした。その様子を見ていると二人とも随分気が合うみたいだ。仲の良い姉妹という感じがする。

 そうして雑木林で猫に餌をあげてる話をしたり、白塚さんの旅行の話を聞いたり、俺たち2人の仲を白塚さんがからかったり、お近づきの印にと携帯電話の番号を交換したりと、そんな事をしているうちに気がつけば結構な時間が経っていた。
「あら、もうこんな時間ですか。お話が楽しかったのでつい時間を忘れてしまいました」
 白塚さんが腕時計を見ながら言った。
「残念ですけど私はそろそろ宿に戻らないと」
 彼女は本当に残念そうに言った。
「そうなんですか。寂しいですけど仕方無いですよね。引き止めちゃってごめんなさい」
 倉見もまた残念そうだ。どうやらこの二人の間にはこの時間だけで随分な信頼関係が生まれたようだった。
「そういえば、白塚さんここにはいつまで宿泊されるんですか?」
 俺はふと頭に浮かんだ疑問を口にした。
「明日にはこの町を出ようと思ってます」
「そうですか。それじゃあまたこうやって会える事は無いんですね」
「そうかもしれませんね。でも今の世の中は携帯電話だってあるんですし。それに日本は狭いですから、ひょんなことからまた会えるかも知れません。もう、明日にでも」
「そう……ですよね。それじゃあ気をつけてください。どうか転ばないように」
「あはは。気をつけます」
 倉見は今の会話の内容がいまいち分からなかったのか、少し不満げに首をかしげた。
「あ、別れる前にこれをお二人に差し上げます。私の手作りなんですけど、よかったら記念に」
 そう言うと白塚さんは手に持っていたバッグから花や野草で出来た輪っかを二つ取り出した。一つは朝顔みたいな花で出来たもの。もう一つは小さな紫色の花を咲かせた植物で出来ている。
「これ、私が趣味で作った腕輪なんです。これは夕顔で、こっちのは駒繋で作りました」
 白塚さんは笑顔で言うと、夕顔で出来た腕輪を倉見に、コマツナギというらしい花で出来た腕輪を俺に手渡してくれた。
「わぁ、すっごく綺麗。ありがとうございます、玲子さん」
「すごいですね、これ。しっかり編まれてる。これならきっとお金を出してでも欲しいって人いますよ」
「そんなに褒めないでください、照れちゃいます」
 両手で顔を隠して喜ぶ白塚さん。その姿はめちゃくちゃ可愛い。
「それじゃあ、私はもう行きます。お二人ともどうか元気で仲良く頑張ってください」
 俺と倉見は手を振って、歩いて行く白塚さんを見送った。

 ◆

「玲子さんてすっごくやさしいし、すっごい美人な人だったね。まるで女優さんみたい」
 帰途を辿る道で、倉見がそう口にした。
「うん、そうだね」
「啓はさ……」
「ん?」
 なんだか下を俯いて口ごもる倉見。
「どうしたの?」
「うぅん。やっぱり何でもないや」
「?」
「気にしない、気にしない」
 俺は一体倉見が何を言おうとしたのか考えてみた。だけど何も思いつかない。まぁ本人がいいやと言っている以上俺が考えるべきではないのだろうけど。
 そんな会話をしながら俺たちは一緒に歩いて行った。
 





6・ Serial Killer (上)

 俺が歩いている歩道の隣の車道を、代わる代わる何台もの車が走り去って行く。俺はその車たちが作り出す騒音と、鼻をつく排ガスの臭いに嫌な顔をして車道を眺めた。猛スピードで行き交う鉄の塊。そんな見慣れている筈の光景に、俺はなぜか不安を感じて隣で一緒に歩いている母さんを見た。俺と母さんは大体同じくらいの背丈だ。いや、もしかしたら俺の方が既に少し大きいかもしれない。この調子で身長が伸びていけば、そのうち父さんよりもでかくなれるに違いない。
「あら、どうしたの啓?」
 そうしてしばし母さんの背を観察していると、母さんは不思議そうな顔をして、俺に喋りかけてきた。
「ん? いや別に」
 考えていた事をいちいち説明するのも面倒だったから、話を適当にはぐらかす。
「もう、あんまりボーっとしてないでよ。その袋、卵が入ってるんだから」
 母さんは俺が両手に持っているスーパーのビニール袋を見ながら言った。我が家の母さんは週に二回ほどしか買い物に行かず、その為に一回での買い物の量がかなりかさばる。それを運ぶのは大変な仕事で、俺がその作業要員にさせられているのだ。ちなみにこれを手伝わないと、俺の食事は出してもらえない。まったく、とんだ母親を持ったものだと肩を落とす。
「何ため息なんてついてるのよ」
 母さんから何か殺気立ったものを感じる。全く鋭い人だこと。
「いや、別に何でもないです」
 俺は敗北の意味を込めてそういった。
 そうして歩いているうちに、やがて道は信号機のある交差点に差し掛かった。信号機の放つ色は赤色。当然、善良な一市民としてここは止まらなければいけない。
「そう言えば、啓ももうすぐ中学生か」
 信号を待っていると、母さんがそう話しかけてきた。
「うん。俺制服ってのに憧れてたかから、早く中学生になりたいよ」
「あんたの制服、早く買わないとね。今度服屋さんであんたサイズ測ってもらわないと」
「うんうん。あー、早く制服着たいなぁ」
 信号が青に変わる。それを見ると俺と母さんは横断歩道を歩き始めた。
「でも、あんた中学生になったらちゃんと勉強しないとね」
 笑いながら言う母さん。
「もう…うるさ」
 言い返そうと母さんを睨もうとした時、俺は信号を無視してこちらに突っ込んでくる一台のダンプカーを目にした。
「あ、危ないっ!!」
「え?」

 俺の声に母さんは一瞬立ち止まって、そして――

 ◆

「!!!」
 目覚めた瞬間、俺は飛び上がるように上体を起こし、酷く重く感じる頭を片手で抑えた。体は汗ばみ、心臓の鼓動はまるで全力疾走した後かのような速さだ。
「あの時のことを夢に見るのも……久しぶりだな」
 心を支配する喪失感、悲しみ。これ程鮮明にあの時の記憶を蘇らせてしまったのだ、感情もまたあの時感じたものを完全に蘇らせてしまってもおかしくない。顔が、顔が自然と歪にゆがんでゆく。頭が、思考が崩れる。

――悲しい……悲しい。悲しい、悲しい、かなしいかなしいかなシイカナシイカナシイカナシイカナシイカナシイカナシイカナシイカナシイタノ……

「黙れ!!!」
 俺はまるで狂ったかのように脳に羅列される言葉を打ち消す為に叫んだ。ゆっくりと深呼吸をして、心を落ち着かせる。
「忘れろ、忘れるんだ」
 大事な人を失い、悲しむのは当然の事だ。それはいい、それはいいんだ。だけどあの感情だけは忘れなければならない。でなければ、俺はきっと……壊れてしまう。そうすれば俺は、きっとアイツを。アイツのことも。
「分からない」
 俺には自分が分からなかった。俺の心の深潭にある、認識できない感情。いや、認識してはいけない感情。故にそれが何であるかは俺には理解できない。だけど認識しなくても、理解しなくてもその感情が俺の心の中にあるのだけは確かだった。そう、つまりどんなに否定してもそれは俺について回る。俺がどんなにそれを排除しようとしても、それは結局俺の一部。それが好む場面に出くわせば、その感情は俺の意識を飲み込んでしまう。だけど、それは有ってはいけないこと。だから俺は、それを認識してはならないのだ。
 俺はゆっくりと息を吐くと、ベッドから立ち上がった。心臓のほうは大分落ち着いては来たが、気分の方はかつて無い位に悪い。
「平気だ。俺は壊れなんかしない」
 悪い気持ちを振り払う。そうさ、現に俺は今まで大丈夫だったじゃないか。何故俺は、今になってあの時のことを。

――それは大事なものが出来たから

 それに、俺は今まで普通に生活してこれたじゃないか。

――本当は このココロに取り込まれたいんじゃないのか?



 そして俺は部屋を後にした。

 ◆

 10時。朝食を食べ終わると、俺は居間に寝っ転がってテレビをつけた。受験生たるもの寸分の時間を惜しんで勉強しなければならないのだろうけど、食後の休憩は大切である。食ってすぐに寝ると牛になるぞよ、と言う何処からともなく語りかけてくる良心はとりあえず完全に無視だ。テレビでやっていた番組は主婦向けのワイドショーだった。今日の題材は例によって、いつもの連続猟奇殺人事件についてのものだった。司会者が、被害現場の惨状や近隣住民のインタビュー、そして実際に事件のあった現場を地図に赤い丸をつけて説明していた。現場は殆ど関東に集中していた。東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城。今回の連続殺人犯のものと思われる殺人事件は全部で19件。その内の17件は以上の県で起きたものだそうだ。司会者は更に続ける。
『更に先日新たな犠牲者が同県の鳥山町で発見されたのです。遺体は死後3日ほど経っていると思われ、警察では事件の解明を急いでいます』
「鳥山町ってこの町のすぐ隣じゃないか」
 その事実に俺は愕然とした。殺人鬼なんて存在が、驚くほど近くにまで現れていたのだ。恐ろしいと言う感情よりも、その殺人鬼を止める事も何も出来ない事が悔しかった。俺に出来る事なんて、一刻も早く犯人が警察に捕まって欲しいと願うことくらいだ。
 ふと、石田の言葉を思い出す。
『人の心の奥底に殺人願望があるのは事実だ』
 俺はそんな事は信じない。だけど俺はなんだかとても悲しい気持ちになった。

 テレビを30分程見てから、俺は流石に勉強をしないといけないと思い立ち勉強机に向かった。自分の部屋に戻り、椅子に座る。そして机の上に目をやると、昨日白塚さんから貰った腕輪が置いてある事に気が付いた。
「そういえばこれ、どうしようかな」
 紫色の小さな花を咲かせたそれは、とても綺麗だけど男が身につけるものではない。いや、女性でもおそらく実際に身につけるという事はあまりしないだろう。
「となると。やっぱり飾るのがいいか」
 思い立てば後はやるのみ。考えた結果俺は腕輪を本棚に飾る事にした。位置や角度まで俺は無駄にこだわって飾り付けると、改めてその腕輪を眺めた。こまつなぎ……と確か白塚さんは言っていたが、この花は質素で飾り気がなくて、控えめにその美しさを主張している。そのおかげで男の部屋に置いても、ほとんど違和感はなかった。
「白塚さんに感謝しないとな」
 そんな事を呟く。そう改めて口に出すと、不意に白塚さんの声が聞きたくなった。白塚さんに電話でもしてみようかと、携帯を手に取ったがやはりやめた。なんとなく、あの人とはこのまま幻想みたいな出会いだけで終わりにさせるべきだと、そう思ったから。





7・ Serial Killer (下)

 自室に篭り勉強をしていたら、いつの間にか辺りはもう暗くなり始めていた。窓の外を見ると空は夕焼けで赤く染まっている。俺は間延びをした後机から離れた。妙に体が疲れている。何故だろうと考えて、俺は今日はまだ一度も外に出ていないことに気が付いた。要するに、体がなまってるという事だ。今日は倉見から林には行かないと言うメールが来たから雑木林には行かなかった。よくよく考えてみると、俺は最近外に出るといえばあの雑木林くらいにしか行っていない。もし、あの雑木林で倉見に会わなかったら、俺はこの夏休み中、殆ど家に閉じこもりっきりだったかもしれない。
「危ないなぁ」
 そう考えてみると倉見と会ってからは良いことが多いな、と思う。何より倉見といると楽しい。うん、やっぱり楽しいのだ。俺は、倉見の事が好きなのだろう。この感情にきっと間違いは無い。
 でも俺はそれが怖かった。
 何が? とその詳細を考えて見ても分からない。でも、とにかく怖かった。倉見の事が好き。これは単純な感情だ。だけど、その感情は繊細で、そして驚くほどに危うい。

 だから怖い。それはまるで張子の舞台。美しき舞台の裏は、観客席からは見えず、そして暗い。俺が恐れるものはそこにある。自分自身でも見ることの出来ない舞台裏。それを怖れている。

――でも、結局それは自分自身

 俺はそこで思考を止めた。
「大丈夫」
 そう呟いて自分自身の心を安定させる。もうこれ以上考える事は無駄だ。俺に出来る事はただ、その見えない感情に飲み込まれないようにする事だけしかないのだから。

 俺は一階に降りると夕食の準備に取り掛かった。メニューはゴハンと、豆腐とワカメの味噌汁。おかずは適当に焼いた豚肉だ。俺は冷蔵庫から料理に必要な具を取り出すと調理を始めた。豆腐を小さめに切り分ける。そうしていると、ふと家のすぐ外で猫が鳴くのが聞こえた。俺はその鳴き声が気に掛かったが、そのまま料理を続けた。しかし、また猫の鳴き声が聞こえる。それもさっきよりも大きな声だ。猫の声は一匹だけのもので、どうやら喧嘩をしている訳ではないらしい。しかしこの鳴き声、どこかで聞いた事があるような。
『ニャァー!』
 3度目の猫の鳴き声に、俺は包丁を手から離した。
「ただ事じゃなさそうだな」
 その鳴き声があまりにも鬼気迫っていたので俺は窓を開いた。そして窓から頭を出して辺りを見渡す。するとそこには行儀よく座り、こちらを見つめている一匹の黒猫がいた。
 だがこの猫は初めて見る猫じゃない。
 その猫はクロだった。見間違いではない、確かにクロだ。しかし、なぜこいつが俺の家の前で鳴いているのだろうか。
『ニャァー!』
 黒猫は俺を見つめながらもう一度鳴いた。
「どうしたんだよ、一体」
 『急げ』とまるで急かすように、俺を見つめながら鳴き続けるクロ。その様子があまりにも変だから、俺は外へ出てクロの居る庭へ向かった。
 クロは俺を見上げると、まるで灰色のネコの死体を見つけたあの時のように急いで振り返り、そして歩き出した。どこかで引っかかっていた不安。その不安を現実へと誘う黒猫。
 俺はその黒猫を追って走り出した。

 ◆

「はぁはぁ」
 クロのペースに合わせて走ったせいで、俺は酷く息切れしていた。額に滲む汗を片手で拭く。クロを追って付いた場所は案の定、やはりいつもの雑木林だった。しかし、雑木林の入り口についてもクロは止まらない。クロは林のより奥へとどんどん進んで行く。この道は確か灰色のネコが殺されていた広場へと向かう道だ。木々に阻まれた悪路。その道を前回と同じように掻き分けながら進む。
 脳裏を掠める不安。それを振り払うが如く一心不乱に俺は進んだ。そして俺はあの広場へと出た。辺りは日が殆ど落ちていたために、様子が良く分からない。それでも俺は出来る限り目を凝らして辺りを眺めてみた。

 そしてその光景を目の当たりにした。

 真っ赤に染まった地面の上に、無残に散乱するバラバラになった何匹もの猫の肉片。
 そしてその悪夢のような光景の中央で、一人の人間が猫の死体に囲まれながら横たわっていた。
 まさか、と思ってその人間に駆け寄る。顔が俯いていて、誰かは分からないがどうやら女性らしい。俺は恐る恐るその女性の顔をこちらに向けた。
「――そんな」
 考えうる限り最悪の事態。理由は分からないが、今ここで倒れている女性は紛れも無く倉見だった。
「おい! 倉見!!」
 俺は倉見の肩を持ちゆすってみたが、まるで反応が無い。見たところ外傷は無いが、この状況だ。俺は倉見の手首を持って脈を確かめようとした。しかし、その瞬間。
『大丈夫ですよ。倉見さんにはまだ、眠ってもらっているだけです』
 背後からあまりにも唐突に発せられたその声に、俺は驚いて振り向いた。背後の茂みに目を凝らす。暗い林の中に、異様に映える白い影――そこに居たのはこの間のように白いワンピースを来た白塚さんだった。
「う……あ。し、白塚さん。これは――」
 その先を言おうとして、俺は彼女が片手に持っている血で赤く染められたナイフに気が付いた。
「え……?」
 あまりに非現実的な現状を理解できず、俺はただそう漏らす事しか出来なかった。
「今晩は黒葉さん。よりによってこんな所であってしまうなんて。本当、黒葉さんには運命を感じてしまいます」
「倉見は、倉見は一体どうしたんですか!」
 激しい眩暈めまいを覚えながら、俺は叫んだ。
「ふふ、倉見さんて良い人ですね。ちょっと困った事がある、って電話しただけで、わざわざ一度しかあったことの無い私の所に来てくれたんですから」
 笑みを浮かべた白塚さんはゆっくりと優しい声で、そんな冗談みたいな事を言った。
「まさか……そんな。貴女は何をしたんだ!」
「見ての通りですよ。倉見さんを殺そうとしていた所です。でもその前に、倉見さんに群がる邪魔な猫ちゃん達を殺しました」
 いつもと変わらない笑みを浮かべながら、彼女はさらりとそう言った。
「何んでだ。何でこんな事を」
 俺にはもう状況が理解できなかった。異常な鼓動を打つ心臓。激しい眩暈。それに何とか耐えながら、目の前の白塚さんを直視する。 彼女は笑みを崩さない。昨日会った時と白塚さんは寸分違わない様子だ。だが理解した、あの人は完全に壊れている、と。
「黒葉さん。私は人殺しなんです。私が殺した人たち、最近よくテレビでやってるんですよ」
 何が楽しいのか声を上げて笑う白塚さん。その様子を見て、俺は何も喋れなかった。ただ、目の前に立つ彼女を見据えて、必死に混乱する意識を抑える事しか出来ない。
「今まで色んな人を殺してきました」
 彼女は俺を見つめて笑った。
「いつも次の獲物を探しながら旅をするんです。そして、ここでも私は新しい獲物を見つけました。それは貴方です、黒葉さん」
「な!?」
 俺にはもう彼女が言っている事が分からなかった。いや、もうこの世界が現実なのか夢なのか、それすらも俺には理解できない。心臓が、頭が、壊れる。心が、こわれる。
「でも、やっぱり黒葉さんを殺すのは止めました。だって黒葉さんもこちら側の人なんですもの」
「どういう……ことだ」
 朦朧とする意識の中で、必死で俺はそう口にした。
「あはは、とぼけてもダメですよ。黒葉さんは私と同じ匂いがします」
『俺は……』
 そう言おうとして俺の意識の中で、”俺の意思ではない俺の声”が聞こえた。

――正直になれよ

「…がう」
「黒葉さん……人を殺したくてしょうがないんでしょう? 特にそこで倒れている倉見さんを」
「俺は違う!!」

――本当は俺は

「そんな事を言っても私には分かりますよ。貴方の心の深潭は果てし無く暗く澱んでいる」
「俺に思い出させるな!!」

――大事な人が死ぬのが愉しくて仕方が無い

「うぁあああ!!!」
 頭が痛い。心が壊れる。やめろ。思い出すな。あの感情は、思い出すな。それは違う。普通じゃない。狂ってるんだよ。狂ってる。だからせっかく閉じ込めたのに。思い出すな。思い出すな。思い出すな思い出すな思い出すな!

――安心しろよ、壊れやしない。ただちょっと……正直になるだけだ

「だけど黒葉さん。貴方はただ心に殺人鬼を飼っているだけ。それを野放しにはさせていない。だから代わりにこの私があなたの願望をかなえてあげようと思ったんです」

 …
 ……
 ……何を言っているんだこの人は?

 面白い。この人は面白い事を言う。
「くっ…くはは。ははははは!」
 あんまりにも面白い事を言うもんだから、つい笑ってしまったじゃないか。
「笑えますね、白塚さん。でも、その必要は無いですよ。俺は殺人鬼でもないし、俺の奥底にあるものも殺人鬼なんかじゃない」
 目の前に立つ白塚さんは俺の突然の態度に驚きの視線を向けた。
「俺の心にあるのは人が死ぬ事を悲しみたい、その願望だけですよ」
 そう、俺はやっとこの感情を思い出した。
「人の死を悲しみたい?」
 白塚さんは怪訝な顔をして俺を見つめる。
「可笑しなことを言いますね。悲しむような事が起こって欲しいんですか?」
 目の前の女性はそう俺に問いかける。
「そうです。本当、矛盾した感情ですよね。俺は大事な人が死ぬと、耐えられないほど悲しくなる。だけど同時に、その悲しみを感じることが何にも代えがたいほど愉しい」
 俺は口元を歪めて笑いながらそう言った。
「悲しむのが愉しい、ですか。……なるほど、複雑ですね。でも、結局それは私と同じ事です。要するに、”人が死ぬ事”が愉しくてたまらない。要点だけ言えばそういう事でしょう?」
 彼女は言い終えると、倉見の方へ歩き出した。だが俺はそれを阻止するようにその前に立ちはだかった。
「待ってくださいよ、白塚さん」
 俺の声に彼女は足を止める。
「やっぱり僕と白塚さんは違いますよ。貴女は殺すことを愉しむ人間。俺はそれを嘆き悲しむ人間。俺と貴女は全く逆の存在だ」
「そう…ですね。確かにそうかもしれませんね。ですけど、結果は変わりません。だって私と黒葉さんの利害は一致しています」
 見せた事のないような真剣な顔をして、彼女は言う。
「愚かですね白塚さん。悲しみを受け入れた時点でそれは悲しみではない。悲しみに値しない物に成り下がる。だから俺は、俺の命に代えても倉見を殺させはしません」
 俺のセリフを聞いて白塚さんは驚いた表情を見せた。そしてゆっくりと俺を見つめると、やがてクスリと笑った。
「本当に難しい感情なんですね。なんだか同情しちゃいます。でもどうなんでしょう。そういうことなら、私は倉見さんを殺す前に黒葉さんを殺さなければなりませんね」
 彼女は腕組をして、「う〜ん」と考えるポーズをした。
「うん、でもその方がやっぱりいいですね。やっぱり私は好きな人を殺したい。黒葉さん。私は貴方を殺します」
 そして今まで見せた事の無い瞳で、彼女は俺を睨みつけた。
「辞める気は…無いですか?」
「当たり前です」
 そう言うと彼女は俺との距離をゆっくり詰めてきた。だが俺に引く事は許されない。俺の後ろには倉見がいる。白塚さんは、こちらに近づくのをまるで楽しんでいるかのように一歩一歩進んでくる。彼女はもうすぐ目の前まで来ていた。
「さぁ、死んでください」
 跳べば触れられるほどの距離まで近づくと、彼女はそう言って手に持っていたナイフを俺に向って振り上げた。それと同時に白塚さんの脚を蹴る。その衝撃で、彼女のナイフを振り下ろす標準がずれる。そんな攻撃を避けるのは難しいことではない。俺は体を横に傾けてそのナイフをかわした。ナイフを大振りしすぎたせいか、白塚さんは体勢を崩した。この隙を逃すわけには行かない。俺は右足に力を入れると、容赦なく彼女の胸を蹴り飛ばした。
「――っ!」
 それは実にあっけなかった。
 呻き声のような声を上げて、白塚さんは地面に倒れこんだ。俺はその様子を見ると、彼女の下まで歩いて行った。
「諦めてください、白塚さん」
「……やっぱり、正面からでは敵わないものですね」
 ゴホゴホと咳き込みながら彼女は苦笑の表情を作る。その姿は酷く哀れに見えた。
「もうこんな事は二度としないと誓ってください。そうすれば、今日の事は見逃します」
 俺は地に伏す彼女を見下しながら言った。
「そんな冗談、本気で言ってるんですか?」
「……」
「私は人殺しです。これから先も人を殺すでしょうし、仮に止めたところで私の罪は消えません」
「それなら、そう思うのなら自首をして罪を償ってください」
 白塚さんは目を閉じて、そして静かに口を開いた。
「そんな事をして何になりますか?」
 そして彼女は地に跪いたまま、ナイフを握った手を振り上げた。
「どうせ私はここで死ぬんです」
 苦しそうな笑みを浮かべる白塚さん。
 そして、そのナイフを自分の腹に突き刺した。







エピローグ・矛盾感情

 あの日、母親がトラックに轢かれて死んだあの瞬間。母親は俺の目の前で見るも無残な肉塊となった。
 俺の頭の中は真っ白になった。何も考えられなくなって、これが現実なのかどうなのかも理解できなかった。
 やがて、目の前で起こった事態を飲み込み理解すると、俺は気が狂ったかのように叫んだ。泣きながら必死で叫んだ。
 悲しかった。とても悲しくて悲しくて。あまりに悲しいものだから俺は口元を歪めて――笑っていた。

 あの時狂ったのか、それとも元々狂っていたのか。どちらかなんて俺には分からない。
 だが俺がまともじゃないと言う事に変わりは無かった。
 母の死を悲しみ、そしてそれを愉しむ。それは何にも変えがたい感情だった。
 母親が死んだその日、俺は夜通し泣き続けた。悲しくて。でも、それがあまりにも愉しくて。
 自分でも不思議だった。こんな得体の知れない快楽を感じる自分が信じられなかった。
 その日から、俺はとにかく生き物の死を求めた。
 小動物を捕まえて殺したり、事故や病気で人が死んだと聞けば俺はその場に駆けつけた。だが、結局そんな事ではあの感情を感じることは出来なかった。
 やがて俺は理解した。あの感情を感じる為には、大事な人が死ぬのでなければならないと。唯一無二の変えがたい存在。それが己の快楽のための贄だった。つまり、その人の死を悲しまなければあの感情は訪れない。
 しかし、そんなものは御免だった。そんなものが許される筈がない。この手で生き物を殺めたりもしたが、それがやってはいけないことであることも俺は十分理解していた。
 だから俺はあの感情を忘れようと努力した。いや、忘れた筈だった。

 新しい『大事な人』が出来たあの時まで――


 ◆


 俺は制服を着て鞄を持ち、見慣れた通学路を歩いている。
 長いようで短い夏休みも終わり、学校はとうとう2学期へと突入した。まったくもって気が重い。学年全体が受験への意気込みで、居心地の悪い緊張感に覆われているのだ。それも目前へと迫りっている入試を考えれば当然だが。
 かく言う俺も他人事ではない。それどころか俺の状況は周りよりも悪かった。この夏はあまりにとんでもない事が起こったおかげで勉強どころではなかったのだ。
 殺人鬼と出会い、そして大事な人を殺されかけた。だが、不幸中の幸いとでも言うのだろうか。倉見の身に別状が無かった事だけは救いだった。
 そうしてこの夏の事を反芻しながら歩いていると、驚くほどあっと言う間に学校に到着した。
 教室に入ると、仲の良い友達と雑談をする生徒や、朝から黙々と勉強をする生徒、机で寝ている生徒と要するに普段通りの光景が目に映った。この光景はちょっとした安堵感を俺に与えてくれる。狂気の様な日々の後にも変わらない日常はやってくるのだ。
 そもそも日常と言うのはちょっとやそっとの不純物で変わってしまうほど柔な物ではないのかもしれない。いや、だからこそ日常なのだろう。
 そして不純物はその日常に圧倒され、薄められ、潰される。異常なものは日常に飲み込まれるか、その陰に隠れるか、結果的にはその二択しかない。

 やがて授業が始まると、雑談をしていた生徒達も黙り、真面目な眼差しで授業を受けるようになった。まったく受験と言うのは色んな意味で恐ろしいものだ。
 そうしてぼんやりと俺はただただ何も考えないように黒板を眺めていた。それでも考えなければいけないことがある。授業の事か? 受験の事か? それとも白塚と名乗ったあの殺人鬼の事か?
 いや、違う。考えなければいけないのは俺自身の事だ。
 俺の心に内包されている”大事な者の死を愉しむ”という感情。”愉しみたい”という願望。例えそれが、大事な者に”死んで欲しくない”という望みの上に成り立つものであっても、それはまともな世界で許されるべき感情ではないのだ。
 それと決別出来なければ、とるべき道は一つだろう。即ち、俺は大事な人を作ってはならない。
 だがそれでも大事な人が出来てしまったらどうすればいいのだろう?

『それならさ、一緒に大正大学入ろうよ。私も大正大学受けるつもりなんだ』
 それはとても些細な約束。もしかしたら取るに足らないほどの物かも知れない。こんな言葉に自分の進む道を委ねるのは、あまりに安易だと言う人もいるだろう。
 確かにそうかもしれない。そもそも俺と倉見は別に付き合っているわけではないのだ。
 それでも。それでも倉見は俺の大事な人で。あの言葉は俺にとって大事な約束だった。それは間違いの無い事実。

 だからこそ選択しないといけない。
 決別、それが答え。

 ◆

 4時間目の授業が終わり昼食の時間に入ると、教室の天井にあるスピーカーから職員からの放送があった。
『3年5組 黒葉啓。昼食が終わったら職員室へ来る様に』
 俺の名前が呼ばれたので一瞬焦ったが、何のことは無い。これは3年生なら全員呼ばれる担任との進路相談の放送だ。相談というか、もう最終的な確認と言った方が正しいだろう。
 俺は放送を聞くと、早めに昼食を食べて職員室へと向かった。

 職員室へ入り、自分の担任の山崎先生の机に向かう。俺が声をかけると、山崎先生は俺に空いてる椅子を一つ差し出し、座るように合図をした。
「志望大学の確認だけど、黒葉は本命が中心大学と昭和大学で決定と言うことでいいのかな?」
 変更は無いだろうが一応、という表情で山崎先生は俺にそう言った。
「いえ、志望校を少し変えようと思いまして」
 俺がそう言うと、山崎先生は少し驚いたような顔を見せた。
「ほう、一体何処の大学を受けるんだ?」
「昭和大学を辞めて赤山にしようと思います」
「赤山か……まぁレベル的にもそこまで変わらないし、別に構わないと思うけど。変えようと思った理由は何だ?」
「あの、キャンパスを実際見たら赤山の方がいいかなと」
 俺は山崎先生の質問に適当な嘘をついてそれを流した。

 教室に戻ると、久我が俺の席までやって来て話しかけてきた。
「あ〜腹減った!」
「なんだよいきなり」
「いや、昼飯代持ってこなくってさ……啓、500円くらい貸してくんない?」
「いやだよ」
「ちぇっ。ケチ!」
「余計なお世話だ」
 そんな他愛の無い話をして残りの昼休みの時間を潰す。こいつは俺の様子が普段と違うのを見抜いてか、夏休みの事や進路の事をあまり聞かずに、話していても特に差し支えの無い無難な話題を振ってくる。俺にはそれがとてもありがたかった。

 そうして昼休みの時間は過ぎ、5・6時間目の授業も適当にやり過ごすと、すぐに下校の時間がやってきた。6時間目終了の鐘が鳴り、帰りの仕度を済ませると、いつものように俺は久我に声をかけた。
「久我、一緒に帰ろうぜ」
 久我はそれを聞くと苦笑をしながら口を開いた。
「悪りぃ、啓。今日俺英語の補習があるんだ。石田も同じ補習に出るって言ってたから、今日は先に帰ってくれ」
「そっか。んじゃ、仕方ないな。頑張れよ」
 そう言うと俺は「めんどくさいよー」と言う久我を背に帰ろうと歩き出した。教室の戸を開き廊下に出る。そして俺はそこで彼女と目が合った。いつの日かのように、帰ろうとする生徒達でごった返す廊下の中で。
「あ、啓!」
 俺を見つけると、倉見は手を振りながらこちらに向かってきた。
「最近色々あって会えなかったから心配してたよっ」
 明るい声でそう言う倉見の顔を、俺は直視出来なかった。
「倉見の方は、もう平気なのか?」
 そう言うと、倉見は一瞬何処か寂しそうな顔をした。
「うん……私は大丈夫だよ」
「そうか。それならいいんだけど」
 倉見の言葉は明らかに嘘に思えた。あんな事があって精神的に平静を保つなんて常人には無理なんだ。そう、過去に同じように狂った経験をした人間でもない限り……
 だが、俺はそれ以上その話題を続けるつもりは無かった。それは倉見も同じ事で、話題は自然と大学受験の話へと移り変わって行った。
 帰宅する道を、倉見と2人で歩いていく。
 倉見の横顔を見ると、とても楽しそうな顔をしながら受験勉強の話をしている。その顔を見ながら、俺は今まで考えていた事を口に出す決心をした。出来るだけ自然に話を切り出す。
「なぁ、倉見」
「ん、何?」
「俺さ、昭和大学を受けるの辞める事にしたんだ」
「え?」
 瞬間、倉見は歩むのを止めた。
「何で?」
 悲しそうな顔をしながらそう問いかけてくる倉見。
 しかし、倉見の問いに俺は何も答えられなかった。先生との面談の時と同じように適当な嘘ではぐらかせばいいのだろうが、倉見が相手だと何故かそれが出来ない。だから俺はただ何も言わずに黙っていた。
「啓、私。私ね……」
 唐突に重い口調で話を始めようとする倉見。それが何を言おうとしているのか察したから、俺はそれを制止する為に口を挟んだ。
「倉見、俺は狂ってるんだ」
「え?」
 俺の突然の言葉に、倉見はそんな声を漏らした。
「俺には許されないようなくらい感情がある。そんな俺に倉見といる権利なんて無い。一緒にいちゃいけないんだ」
「なんで、なんでそんな事……」
 空気が重く張り詰めてゆく。その空間は、ただそこに居るだけで息苦しかった。
「俺は人の死が好きなんだ。殺人鬼と似たようなものさ。そんな人間が倉見の近くにいたら危ないだろ?」
 酷く馬鹿げたセリフ。それでも、あの夏の雑木林での一件の後の言葉だ。倉見もその言葉を真剣に受け止めくれたようだった。
「高校を卒業したら今の家を出て一人暮らしをするよ。そうしたら、きっともうこの町には来ない」
「違うよ……」
 それでも倉見は俺の目を見据えて言った。
「啓はそんな人じゃない。啓はとってもいい人だよ」
「倉見、俺は嘘は言ってない。俺は本当に狂ってる」
「もしそうだとしても、啓はいい人だよ」
「なんでだよ。倉見が俺の何を知ってるって言うんだ!」
 その言葉を聞くと、倉見は俯いてしまった。その様子を見て、自分の暗い気持ちをくらみにぶつけた事を俺は後悔した。
「この間だって啓は私のことを助けてくれたし。それにね、もう覚えてないかもしれないけど。まだ一年生の頃に啓は私のこと助けてくれたんだよ」
 俺はその意外な言葉につい無言になってしまった。
「一年の時に助けた?」
「私が階段で捻挫した時、私を背負って保健室まで連れて行ってくれた」
「は??」
 そして俺は更に意外すぎるその言葉に間抜けな声を上げた。
「保健室まで連れて行った?」
「うん」
 無垢な表情でそう返事をする倉見。その様子を見て、俺は全身の力が抜けてしまった。
「そんな事で俺を信用するのか」
 こくり、と頷く倉見。
「それで十分だよ。あの時から、私は啓が優しい人だって知ってる」
 そして少しの間黙ると、倉見は俺を見つめながら言った。
「啓、私ね。啓の事大好きだよ」

 その純粋すぎる瞳に、俺はただ見入っていた。俺だって倉見の事が好きだ。きっと誰よりもこいつの事が好きだ。それだけは確信を持って言える。
 でも、だからこそ離れなければならない。
 辛かった。
『俺も倉見のことが好きだ』と言って楽になりたかった。本当にそうなりたいと願った。でも……
「ごめん、倉見。俺は倉見と付き合っていい人間なんかじゃない」
 別れこそが最良の選択だと信じて、俺は言った。
 決別の言葉を言い渡す。そして俺は倉見の反応も待たずにその場から立ち去った。




 いつかこの決断を後悔する日が来るのだろうか……



 でも、それもまたしょうがない。



 もとより俺は、日常を汚す不純物に過ぎないのだから。










 ◆







 後日、TVを見ると、とある連続殺人犯の女のニュースが放送されていた。
 その殺人犯はある女性を殺そうとしたが、犯行に失敗し自殺を図った。だが、それをその場に居合わせた人間に助けられ、犯人は奇跡的にも一命を取り留めたという。
 殺人犯が犯した事件は余罪を含めて30件以上にものぼり、その事件の数から裁判は難航し、判決が出るのに数年はかかるそうだが、どうやら死刑である事は間違いないようだ。
 やがて、TVはその殺人犯の顔写真と名前を映し出した。

 被告人 白塚玲子

 俺はそのニュースを見ながら、ふと自分が涙を流している事に気が付いた。
 悲しい。その事実はあまりに悲しすぎる。それも当然の事だ。やがて死刑になるその殺人鬼は、唯一俺の心を理解した幻のように美しい女性なのだ。
「白塚さん。あなたも、俺にとって”大事な人”だった」
 

 ――その報道を見る俺の顔は自然と歪な笑みを作っていた

 俺の本棚には、まだあの日彼女に貰った駒繋の腕輪が飾られている。






2005/04/10(Sun)10:32:12 公開 / junkie
■この作品の著作権はjunkieさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
最終話、投稿するのに無駄に時間がかかってしまい、そのくせまともに見直しをしていない為、読んでくださった人にどのような印象を与えるか非常に不安です。
最終話はとにかく勢いに任せて書きました。
唐突に話は変わるんですが、5話目で白塚が渡した腕輪。倉見に渡したものには”罪”、水島に渡したものには”あなたの願望を叶える”という花言葉があって、ストーリーに関係がある。というつもりで選んだのですが、微妙ですね。

とりあえずこれからは当分作品を書くよりも、他の方の作品を読むのに専念しようと思います。

>昼夜さん
読んでいただきありがとうございます。
セリフの臭さや緊迫感の無さなどのご指摘、非常にありがたいです。
自然さと緊迫感、今後それらを表現できるように頑張りたいと思います。

>うしゃさん
この作品に付き合っていただき、本当にありがとうございます。
あおり文句、おっしゃるとおりです。
白塚や倉見との絡みを、自分としてももっと書きたかったのですが、それを書く技量と余力が足りなかったというのが正直な所です。
書くペースと耐久力と表現方法を広げること。
とにかくこの3つをクリア出切るようになりたいです。
点数、ありがたく頂戴させていただきます。

>影舞踊さん
今まで読んでくださって本当にありがとうございます。
本心では多少なり派手な格闘をさせたかったと言う思いがあるのですが、例によってそれを書く実力の欠如といいますか…
黒葉の裏に対する説明、恐らく不十分と言う印象を受けるかもしれません。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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