『ノワの箱庭・2』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:紗原桂嘉                

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 独特の熱気だった。
 いつも学生で混み合う環状線沿い地下の、格安ファミリーレストラン。
 掛かっている音楽さえも無意味にする喧騒の渦。
 冷房を強くしても、野蛮なエネルギーはたちまちのうちにそれを沸騰させてしまう勢いだ。
 互いの声の聞き取りさえままならない学生たちの占領空間は、まともな一般客なら思わず敬遠する事うけあいである。
 そしてその一角を、友人二人と一緒に陣取る学校帰りの千草は、すっかり満腹になった腹を抱えだらしなく座っていた。
「昨日変な夢、見ちゃったア」
 美々子が食後のアイスコーヒーのストローの先を細かくいじりながら、ポツリとつぶやいた。
「昨日……何イっ?」
 恵美は美々子に耳を近づけた。
「見・た・の・よ! 江巻くんとデートした……夢っ!」美々子は恵美に向かって叫ぶ。
 それを聞いた千草は、ゴクリと人知れず唾を飲み込んだ。しかし、ポーカーフェイスは崩さない。
「やだ美々子! もしかしてそれって、正夢になるんじゃないのオ?」
 恵美は叫びながら美々子の肩をはたく。しかしその叫び声はたちまち、それ以上の周囲の嬌声にかき消された。
「正夢? まさかア。あんな不気味なヤツ。……私、イヤだもん!」
 そう答える美々子のまんざらでもない表情を、千草はキロリと横目で見る。

……不気味、ねえ……。

 江巻は今日も学校を休んでいた。確かに江巻は何を考えているか計りきれぬところがある。普段から休みがちな彼には、交友関係で悪い噂もたってはいたが成績は常にトップクラス。
 それを不気味というか、ミステリアスというか。
 ワルの匂いがして、そして頭がきれて、おまけに美形なら、いやがうえでも存在感は他の男子生徒より抜きん出る。江巻ファンの女の子が多いのも無理からぬ事ではあった。
 しかし千草は、たとえそれが夢とはいえ、たとえそれが美々子とはいえ、江巻とデートをしたと聞くと内心、決して穏やかではいられない。
「そうだよ。不気味だよ、不気味! 特にあの、目っ!」
 だけど心と裏腹に、千草はソファにふんぞり返りながら、そうウソぶいていた。 
  
 しばらく時間をつぶして三人は立ち上がった。
 立った位置から改めてグルリと見渡すと……一般客が全く見当たらないほど店は学生服に占拠されている。そして動物園さながらの大騒ぎだ。入り口近くでも、順番待ちの学生の姿であふれかえっていた。
 伝票をつかんで、会計に向かう。
 前方から、珍しく私服の若者客のグループが奥に向かって歩いて来ていた。
 そして狭い通路で体を斜めにしながら千草のグループの先頭と、すれ違おうと試みる。
 一瞬目を疑った。
 目を引くその私服グループの中でもひと際目を引く精悍な男の子……色白の、短髪の、三白眼ぎみの印象の気迫あふれる目の持ち主、ついさっき話題にのぼっていた、あの、江巻がいたからだ。
 大きな衝撃の塊を無理やりゴクンと飲み下す。彼の突然の出現は全くの予想外だったのだ。
 とたんに千草は、自分の視線を江巻から剥ぎ取る事が、どうしても、できなくなくなった
 気づかれた時の気まずさを想って、『見るな!』と、必死に理性が警告していても。
 自分の集中力が、全ての制御を振り払い、ただひたすらに江巻という存在に無制限に引きずり込まれていく。
 そして、あさっての方向を見ていた江巻が、近くに来た時。
 江巻はまるでコマ送りのスローモーションのように、ゆっくりゆっくりともったいをつけて、千草の目線に焦点を合わせてきた。
 それに呼応して、時の刻みも、ドンドンドンドン飴の様に伸びてスローモーションになっていった。
 やがて互いが、互いの瞳の最深奥へと、真っ直ぐに飛び込んだ瞬間、千草の中で世界は動きをピタリと止め、店内の全ての音が消えた。
 そして突然……自分の腰骨が誰かの腿に追突し、その感覚を合図に、千草は喧騒と現実のリズムに乱暴に引き戻された。
 
 店を出た通りもまた、行き交う車や町のノイズであふれていた。
「噂をすれば影! さっきの、江巻くんだったよねー!」
 美々子が興奮ぎみにそう言った。
「やっぱりずる休みだね、あれは」千草は笑いながら、まるで彼に興味が無さそうに返す。
 本当は、すれ違った時に自分に向けられた江巻の強い視線の刻印が、胸から去らなかったのに。
  
 環状線から一本道を隔てると洒落た感じの住宅街が広がっている。その一帯に在るマンションの一室、恵美の家にそのまま千草たち三人は、なだれ込んだ。
 恵美は体育会系の女の子だったので、口にこそ出さなかったが、彼女の自室にやたらピンクの配色が多いのは意外だった。
「……でもサ。私だって最近変な夢を見たよ」
 たわいもない話題が幾つか続いて、そしてファミリーレストランでの、美々子が江巻とデートしたというの夢の話しがチラリと蒸返されたあと、恵美がそうつぶやいた。
「どんな?」
「……走っても走っても前に進まない夢……」「足がフワフワして、絡まってるような、カンジ?」「そうそうっ! どうして分かるのよ?」「だって全然普通だもん。それって、不思議でも何でもないよ」美々子がつまんなそうにバッサリ言い捨てた。
「ねえ。千草は? 千草って、ナンカ面白い夢、見そうだよね」
「私……は」両足を投げ出していた千草は問われて少し戸惑う。
 でも考えるまでもなく直ぐに思いつく。最近千草を悩ましている、れいの夢を。
 言うべきかどうかしばし戸惑う。
「これは夢だからね。あくまでも、あくまでも。……そのつもりで聞いてくれる?」
「もちろん」
 千草は少し深呼吸した。胸の中の澱を流すいい機会なのかもしれない。二人の視線が千草に集中していた。
「……狭い住宅街の夜の道を……走ってるの。って言うか、逃げてるの」  美々子も恵美も真面目な顔で千草を見つめる。
「私。逃げてるのよ。……UFOから」
 千草は上目づかいでチラリと二人の様子を見た。真剣に聞いてくれている二人の表情を見てとって、少し安心して話を先に進める。
「……そのUFOは、きっとすごい低空飛行をしていると思うんだ。背後からどんどん私を追いかけてくるの。……一機なんだけど。私。振り返らずに必死に夜道を駆け続けるの。必死に。……サーチライトの様な光が、後方の斜め上から私をとらえた瞬間、私はその光の筋の中にスッポリ包まれて。そして。光の筋が上昇し始めると、私は光の筋とともに体ごと上昇する。そうすると。さっきまで恐くて恐くて死んじゃいそうだったのに。……生まれてから味わった事もないほどの安心感と、信頼感で、胸がいっぱいになって。すごく。すごく。幸せなの。……終、わ、り」
 しゃべり終えた千草は、仕事をやり遂げたかのように息を吐き出す。
「……ふーん……」美々子と恵美は声をそろえた。
 馬鹿にする気配は無さそうだが、二人はキツネにつままれたような顔をしている。要領を得ない話しである事には間違いはなさそうだ。
「この夢を、繰り返し繰り返し、見るんだよ、最近。……あー! でも言っちゃったアー。よかったー。すごーいっ、スッキリした」
 口にしてみると、胸につかえていたシコリが取れた様なさわやかさだ。思ってた以上に自分は悩まされていたんだと、改めて確認した。
「でも、不思議な夢だね」
「夢占いで占ってもらったら?」
「ううん。いいの、いいの。二人に話せたら。なんだかせいせいしちゃったよ。もう悩みじゃないよ」
 言葉にできた事で胸のつかえが取れた余裕から、確かに今こそ夢占いをしてもらってもいい気もした。もしも何か悪い事を言われても笑い飛ばせるに違いない。
 
(そうだ! 夢占いしてもらおう、モリちゃんに!)
 恵美の家を出たあと、千草は一人で盛男のアパートに向かった。確かに、恵美や美々子に言われた通り、占ってもらうのも面白いかもしれない。UFOの夢を繰り返し繰り返し、しかも生々しく見るのは、自分としてもちょっと普通じゃない感じがしていた。
 盛男は千草の年上の従兄弟にあたり、千草の家と彼の実家の中間地点ぐらいの所で自活している。
 霊感の優れた、面白い男だった。
 夢占いの真似事くらいなら彼なら出来るかもしれない。
 知り合いで、彼以上にうってつけの相手は居なかった。
「あの……」
 しかし、従兄弟の盛男の部屋のチャイムを鳴らして出てきたのは、見知らぬ男だった。
「あの。ここは遠山盛男さんの部屋では?」
「ああ。そうですよ」と、その見知らぬ男は答えた。
「あの……」「あ。遠山さんはまだ帰ってませんよ」男はそう答えた。「そうですか。……失礼します……」千草は静かにドアを閉めたあと首をひねった。
(誰だろう)
 メガネをかけた真面目そうな男だった。およそ、盛男の友達らしかぬ。
 そして盛男のアパートをあとにし、自分の家に向かう。盛男と千草の家は徒歩でおよそ二十分ほど離れていた。自分の家に着くための最後の曲がり角を曲がった時だった。
 千草の足が凍りついた。
 藤……の姿が見えたからだ。
 引き返そうかと思った。
 しかし、藤のトロンとした瞳は、すでに千草の姿を抜け目無くとらえていた。仕方なく、家に向かって歩き出す。たとえ、藤の前を通過しくてはならなくても。
「遠山さん」
 藤が声をかけてきた。
「何よ」千草はウンザリしながらそう言った。この男は授業中でも千草をじっと観察している。
「何か。変わった事。ある? 僕にできる事なら、何でもするから。いつでも僕に、言ってきて」
 千草はため息をついた。先日もこの意味不明のセリフを藤に言われたばかりだ。
「ありがとう。じゃあ……お願いがあるの」そこで千草は大きく息を吸い込む。そして。
「二度と待ち伏せすんなよっ!」
 思いっきり冷たく言い放ってやった。
 千草は歩き出した。千草の姿を追うマッタリとまとわりつく藤の視線を感じながら。
 藤は一年の頃はもっとまともな男の子だった。同じクラスだったし、仲も結構良かった。明るくて元気いっぱいの男の子で、女の子ともはしゃげる気さくな性格だったのだ。
 それが三年生になって再び同じクラスになり、気づいた時には影のある無口な男の子に変身していた。
 彼に何が起きたのかは分からない。
 ショックな事でも起きたのかもしれない。しかしどんな事情があるにせよ、藤の千草に対する最近のストーカーまがいの行為は見過ごすわけにはいかなかった。
 ここらでいい加減、ビシッと言ってやるに限るのだ。


「あの……」
 後日再び盛男のアパートを訪ねると、出てきたのはまた前回のメガネ男だった。
「待ちますか? 遠山くんはもうすぐ帰ると思うけど」メガネの男はそう言った。
 すぐに盛男が帰るならと、千草はあがらせてもらった。
 ここに来るのは半年ぶり位になるだろうか? それともそれ以上かもしれなかった。部屋はすっかり様変わりしている。大きな本棚が備えられ法律関係の本がビッシリとそこを埋めていた。まるで盛男らしさの無い部屋で、とても居心地が悪かった。
「遠山盛男さんは、何時頃、帰ってくるんですか?」
 中央に小さなテーブルがあり千草はそこに腰を降ろした。男はコーヒーを出してくれた。
「いただきます」
 ズズッと、コーヒーをすする音がたった六畳の部屋に響いた。男は備え付けの狭いキッチンに立ってこっちを見ている。
「いつもはもう帰ってるんですけど」
 男はキッチンに立ったまま、所在無くしていた。
「あの、座ったらどうですか?」立ってこっちを見てられても落ち着かないのでそう言った。「あ……」
 男はようやく、テーブルを挟んで目の前に腰を降ろした。
「君のような若い女の子と。接する機会がないものでね」男は照れたように笑顔をつくった。
「あなた、誰ですか?」「あ。僕は、名前は早川紀之といいます」「モリちゃ……盛男さんとは?」「あ。遠山盛男さんの友だちで、今はここに住んでいます。彼の同居人です」「何してる人?」「今は無職。受験生で、法律家を目指してるんです」「へー。頭いいんだ。モリちゃんとは正反対だね」「いや、僕は盛男くんを尊敬してますよ」「モリちゃんのどこを?」
「優しさのスペシャリストであるところ、かな?」それは概ね同感だった。
 盛男は優しいところが長所であり短所だ。
 早川と名乗る男はだんだん調子に乗ってきて色々な事をしゃべってきた。彼が昔人間不信だった事。それが盛男に会ってから変わってきた事。今では事実上、盛男に養ってもらっている事。
「盛男くんは『目』が見えるんだ」
「目?」
 そこで盛男が帰ってきた。
「モリちゃ……!」
 玄関からのぞいたヒゲ面の顔を見て叫びかけた千草の声が止まった。後ろからヒョッコリと女の子が顔をのぞかせたからだ。
「おー! 千草! 来てたの? 来てたの? 久しぶりじゃん。会うの初めてだよね? そこに座ってるのは早川紀之さん。で。あ、もしかしてもう聞いた? で、この女の子は僕の恋人で、常盤弓枝ちゃん」すると女の子はペコリと頭を下げる。ずいぶん色っぽい感じの女の子だった。
「千草です」千草は玄関に立ったままの常盤弓枝に会釈した。早川と弓枝もその時が初対面だったようだ。
 盛男と常盤弓枝が入ってきて、その晩は結局四人でパーティになった。自宅に居ることが嫌いな千草は渡りに舟とばかり、そのまま泊まった。


「あいつ、ダメだわ。……藤」
 美々子が困ったように吐き捨てた。
 千草と美々子は学校の廊下で外の景色を見ながらしゃべっていた。
「藤が、どうかしたの?」
「マリがさ」マリとは藤の彼女である。マリという彼女がいながら、千草に亡霊の様につきまとっていた事はマリも美々子も知らないはずだ。
「マリが藤の本心を確かめたいって泣いて言うから、ついていったのよ、あの二人のデートに」
「美々子もお人よしだねー」
「そしたら。喫茶店でマリが藤に、態度がはっきりしないって怒り狂っちゃって、怒鳴りまくったら、アイツ。どうしたと思う?」
「さあ……殴ったとか?」
 千草は笑いながらそう答えた。だけど、藤の性格からいうと暴力は到底有り得ない。それにそもそもマリも、とても内向的なコだ。わめきちらしたり取り乱したりすること自体、想像しづらかった。
「藤、座ったまま、寝ちゃったんだよっ」美々子が憤慨した表情でそう言った。千草は大爆笑。
「ねえ、信じられる?」「知らないよ」千草の笑いは止まらなかった。
 
 その話しを聞いた数日後、千草は放課後の図書館の席に居た。そして盛男の部屋の同居人である早川の取り組んでいる法律関係の本に目を通していたら、半分眠ってしまった。結構な人数が閲覧コーナーに居たが、あたりは、水を打った様な静けさだ。やがて後ろから肩をポンポンと叩かれる。
 夢うつつで振り返ると半病人の様な目つきの、藤が立っていた。
 そして「廊下に出てくれる? 遠山さんに話しがあるんだ」小声で藤が言う。
 千草はまだ少し覚醒しきってなかったが、眠気に負けじと「今、忙しいから」と、キッパリとした口調で断る。
 しかし藤はあきらめない。
「廊下に出てくれる? 遠山さんに話しがあるんだ」
「イ・ヤ・だ」
 すると。
「断るんなら、もう一回今のセリフ言うよ。しかも。すんごい、どデカい声で」と言ってきた。
「どうぞ」ギロリとにらんでやった。
「廊下ア…!」
 静かな図書館で、藤が大声を上げ始めた。
 いっぺんに目が覚めた。
 千草はガタンと席を立って、藤の二の腕を、ひっつかんで歩き出す。図書館に居た人間がいっせいに自分たちを見ている。自分の顔が上気しているのが分かった。
 そして風の吹く渡り廊下に出た。
「あんた、馬鹿じゃないの?」千草は乱れる髪をなでつけながら怒鳴った。
 藤は何事も無かったようにゴソゴソとポケットから何やら取り出して、千草に渡した。それは折りたたんだ紙切れで、開いてみると電話番号が書いてあった。
「何。これ」「俺の携帯の番号」「それは分かるけど。何で私が貰わなくちゃいけないの?」「夏休みに入るじゃん。俺に会いたくなったら、いつでも電話掛けてきてよ」
 千草は黙って手の中の紙切れを見つめた。
「よかった」と、藤が言った。「つき返されるかと思ったよ」
「もらってあげてもいいけど。条件があるよ」
 千草は上目づかいに藤を見た。
「あんた……マリを振ったんだって? 振った理由を教えてよ」すると藤が薄く笑った。「振ってないよ」「でも、マリは振られたぐらいの気持ちでいるらしいよ。」
「そう」藤はボンヤリとした目をした。
「マリが喫茶店でとり乱したら、アンタ、寝たんだって?」「寝てないよ」「嘘つけ。美々子から聞いたんだから」「寝たわけじゃないよ」「じゃ、何よ」「知りたい?」「教えなさいよ」「教えるのには条件がある」
 珍しく藤の目に、わずかな気迫が込められた。「何よ。条件って」千草は内心ひるんでそう聞いた。
「遠山さんが、俺の部屋に来る事」
 突拍子も無い事を言ってきた。
 そして藤は無表情のままだ。
「いっ……! 行かないわよ、そんなところ!」
 すると藤は感情の無い人形の様にクルリと背を向け、その場を静かに立ち去った。
 千草の手の中に藤の電話番号だけが残った。



 自分の激しい息遣いが聞こえる。
 心臓がパンクしそうだ。
 恐い。
 恐いっ。
 恐いっ……!
 
 真っ暗で静かで人気のない住宅街の細い道を千草は必死に駆けていた。
 暗すぎて、数メートル先すらも見えない。
 だけど、逃げなくてはいけない。
 UFOが、音も無く追いかけてきているのは間違いないのだから。
 しかしなぜ追いつく気が無いのだろう?
 その気になれば千草に追いつく事くらい、たやすいはずだ。
 千草をいたぶっているかのようだった。
 
 自分の激しい呼吸音が世界を揺さぶるほどに大きくなった時、ゆっくりと後方から、光が投げかけられた。
 とたんにあたりがまぶしく輝く。
 前方の電信柱が輪郭を失うほどに強烈に照らし出され、アスファルトは昼間には思いもしなかったほどデコボコとしたキメの細かい陰影を現す。
 でもそれもすぐに見失う。
 次の瞬間、全てが爆発的にハレーションした。
(だめだ……!)
 発狂寸前の絶望的な恐怖が最高潮に達した時、千草の体は後方から投げかけられた光の帯ごと、フワリと上空を移動し始める。
 
 失う重力。
 幻想の終焉。
 本当のリアル。
 
 そして。
 意識の180度の転換が起こるのだ。
  
 千草は、光の帯に全存在を預けきって至福の時を味わっていた。
 「自分は……何を恐れていたのか?
 ……幸福過ぎる、この瞬間を恐れていたというのか?」
 
 『恐れ』というのが皆無な感覚。
 『不安』というのが皆無な感覚。
 有るのは、この瞬間に対する100%の、完璧な、『信頼』だ。

 千草はそこで目を覚ます。
 頭の上で揺れるカーテン。
 全身、汗びっしょりだ。
 タオルケットを抱いて、きつく握り締めている。
 夏真っ盛りの朝とはいうものの、頭の上から入ってくる風があまりに心地いい。
 幸せすぎて、何も考えられない。
 夢の余韻がまだ体を支配している。
 重力を失った感覚が生々しい。
 上昇して止まらない幸福の感覚が生々しい。
 千草は目覚めても、いつまでも今の夢の感覚を捨てる事を拒否した。
 いつまでも浸りながら、味わいつくす。
 何度も何度も、飽くこと無く反芻する。
 どの位たったろうか?
 頭の上のカーテンが忙しく髪を乱す。
 しまいには頬にメチャクチャにぶつかってきた。
 至福感覚が徐々にフェードアウトする。
 同時に、徐々に日常の千草の感覚になってきた。
 タンス。本棚。机……。部屋の景色で目に入る物一つ一つが、やっと意味を持つ記号を取り戻していった。
 まだ少しボンヤリしているが、千草は上半身をとにかく起こす。
 リビングに行くと、誰も居なかった。
 テレビをつけてみて初めて、今が朝ではなく夕方だという事を知った。
(昼寝してたんだっけ?)
 千草は覚醒しきらない頭を振った。テレビを見ながらお茶を飲んだりして、しばらく時を過ごしているうちにいつの間にか窓の外が薄暗くなってきた。
(モリちゃん……) 
 従兄弟の盛男の笑顔が心に浮んだ。
 急に盛男に会いたくなって外に飛び出した。そして自転車をこぎ出す。
 
 盛男のアパートが近づいて、川が見えてきた。薄青に沈んだ川近くの車道を自転車を飛ばす。全てが流れて、駆け抜ける風がすがすがしい。
 今日で夏休みは終わる。つまらない夏休みだった。だけど今日の夢で元はとれた気がした。そして千草は気づいていた。
 『れいの夢』が段々リアルに、そして全体像が長くなっている事に。
(モリちゃんに夢占いをしてもらおう……)

 川に架けられた、周囲とまるで調和していない不自然なほどの真っ赤な橋を自転車で渡る。薄闇程度ではもろともしない、異様なまでに自己主張をしてくる『赤』。ライトグレーはおろかダークグレーのとばりを掛けても訴えかけてくる『赤』。この辺の地理の目印にも利用されるその色。
「あ……」
 チャイムを鳴らすと、盛男のアパートの扉を押して姿を見せたのは、盛男の彼女である常盤弓枝だった。
「ども……」「……ども」簡単な挨拶をした。
「モリちゃんは?」「あっ。まだ帰ってないのよ」「ふーん……」千草は頭をポリポリかいた。「待つ? ……たぶん、もうすぐ帰ると思うけど?」
 すぐに盛男が帰るならと、千草はあがることにした。
 ほんの数ヶ月前まではもっと気軽に上がれる場所だった。でも今では早川や、常盤弓枝がそれを微妙に阻んでいる。
 中央の小さなテーブルに千草は座った。
「モリちゃん、何時頃に帰るって?」弓枝はコーヒーを出してくれた。「さあ……。いつもはもう帰ってるんだけど……」
「いただきます」ズズッと、コーヒーをすする音が、たった六畳の部屋に響いた。
 間がもたない。
「弓枝ちゃんてさー、どこの高校?」
「えエーっ?」弓枝が笑顔になった。「私、高校生じゃないよ、十九だよ」 弓枝は若く見えた。ただし化粧だけは濃い。
「へー。……じゃ、何してる人なの?」「何もしてないよ、盛男に養ってもらってるの」
 早川も以前同じ事を言っていた。きっと二人は盛男の誤った優しさにぶら下がっているのだろう。盛男はいつでも善意で人をダメにする。
「結婚するの? モリちゃんと」「えエーっ? 何も考えてないよ。まだ若いんだよー。もっと色々と、楽しみたいジャン?」弓枝はさっきよりも、もっと笑顔になった。
「……でも不思議な人だよね、盛男って」真顔に戻ったあと、弓枝がそう言った。
「かもね」
「『目』が見えるって言うんだよ」
「目?」
 ドアがガチャガチャと鳴った。
「おー! 千草! 来てたの? 来てたの? 今日は少し涼しいねー」玄関が開いて、盛男と早川が帰ってきた。
 その晩は結局四人で、アパートでパーティになった。その日は野球放送がある。だから家に帰ってもしょうがない。丁度いいので、そのまま盛男たちのアパートに泊まった。





 学校帰り、駅の自販機の前で親友の美々子の足がピタリと止まる。
「おごるよ」美々子が上目遣いで千草にそう言ってきた。「いいよ、別に缶コーヒー代くらい自分で出せるから」「いいから。おごらせてよ」美々子のはにかんだ笑顔が千草に向けられる。
「何飲む?」「……じゃあ。これ」それほど喉も渇いていなかったが、千草は指をさして指定した。美々子がコインを入れるとガラガラと缶コーヒーが転がり落ちてきた。美々子は自販機の横によっかかって、開けた缶コーヒーをただ見つめている。何となく美々子の様子が変に思えたが、千草は彼女を放っておいて、奢ってもらったコーヒーを飲んだ。目の前を、改札に向かう同じ高校の生徒がひっきりなしに通っている。
「千草サ。……江巻くんのこと、……どう思う?」
 むせそうになった。不意打ちだ。
「どおって……」
「……異性として。さ」
 即答できない。
 何とも思っていないと言えば嘘になる。好きだ、というには……少しおおげさか?
 ちょっと、気になる。
 いや。でも……やっぱり。すごく好きかも……。
「私。つき合って欲しいって……言われちゃった。江巻くんに」
 頭の中が真っ白になった。
 何か言わなきゃ……。何か、言え。
 どうにか言葉を絞り出す。「マジ、で……?」うなずく美々子。
「で、……何て、返事を?」
 頭の中で警告の赤ランプが明滅している。千草は追い込まれていた。そして美々子が千草を見つめる。
「まだ返事、してないよ」美々子の大きな瞳がせわしなく動き、千草の目の奥を探り始めた。
「千草。江巻くんのことを、……どう思ってるの?」
 再度の問いかけで、千草はやっと合点する。
 美々子は千草の気持ちに薄々感づいているのだ。彼女はそれを確かめるまでは、江巻に対する返事を保留している。
 全く、美々子らしい気遣いだった。急に体の力が抜けてしまう。
「どうも思ってるわけないじゃん!」「本当に?」「本当だよ」「本当の、本当に?」「しつこいよ」
 やっと美々子が笑顔に崩れた。
(美々子なら、江巻くんとくっついたって、……いいよ)千草は心の中でつぶやいた。
 電車に乗ってからも、千草は明るく振舞った。いつもの倍、冗談を言った。美々子は舞い上がっているのか、そんな千草の微妙な変化に全然気づかない。
 それでも美々子が降りたあとは、どっと疲れた。倍の空しさがやって来た。心が空っぽ過ぎてどうする事もできない。
(江巻くんが女の子と付き合う……。それも美々子と)やっぱり胸は引き裂かれた。
 なんだかじっとしていられなくて、意味も無く隣の車輌に移った。閑散とした車輌だった。
 突然目の中に飛び込んできたのは、ドアにもたれてマッタリ揺れている、突然の藤の姿。
 千草はそんな藤を見て、息を飲んで一瞬立ち止まった。藤は景色をぼんやり見ていた。藤の顔が夕日に、平和に照らされている。
「ねえ」
 千草は藤のまん前に立った。
 すると藤は、千草に無気力に目を向けて、小さい声で「おう」と言った。
 千草は唾を飲み込んで、言った。
「私。今日ならアンタの部屋に行っても、いいよ」
 口からそんな言葉が飛び出していた。自分は最低だ。傷心を忘れる事ができるならば、この際、藤さえ利用しようとするのだから。
 藤はしばらく黙って、千草を見ていた。彼の表情は別段動かない。嬉しそうでもない。
「……分かった」
 数個目の駅でドアが開いた時、藤が電車を黙って降りた。あわてて千草もあとに続いた。降りる時、何も声を掛けてくれない事をうらめしく思う。藤は黙ったまま常に数歩先を歩き、千草は見知らぬ場所なので、ただ着いて行った。
「この辺に住んでるの?」「……うん」閑静な住宅街だ。
「この辺の景色、……覚えてる?」と藤が急に聞いてきた。どこまでもトボけた男だ。
「何言ってんの? 私、この町、初めて来たんだよ」
 すると藤は何も言わなかった。
 やがて細い道に入り、藤は鍵を取り出して家の玄関を開けた。
「家の人。誰もいないの?」「うん」少し心臓が震える。
「……おじゃまします」
 玄関も、奥に続く廊下も洞窟の様に暗かった。やっぱり帰ろうか……。弱気になりかけたが、ふいに美々子と江巻の顔が浮かんだ。

引き返すことはできない。私は。江巻を忘れたいんだ。

 階段を昇り始めた藤のあとを追った。通されたニ階の藤の狭い自室はベッドが三分の二を占めていた。カーペットの上に散らばる服や雑誌を、藤は黙ってかたずけ始める。千草は入り口を少しだけ入った場所で、たたずんでいた。すごく狭い部屋だった。
「適当に。座って」そう言って藤自身はベッドに腰を降ろした。千草はわずかなスペースのカーペットの上に座る。
 沈黙になった。
 藤は何もしゃべってくれない。
 だんだんドキドキしてきた。
「なんで、俺の部屋に来てくれたの?」
 やっと藤がしゃべってくれた。
(オーケーって意味だよ)
 返事が千草の胸の中だけでこだまして返ってくる。そこまではさすがに言えなかった。
「……この前、アンタ言ってたじゃん。何か困った時はいつでも力になるって」
「うん……」藤はベッドの上であぐらをかいて、上半身をグイと乗り出してきた。
「何か……あったの?」いつものトロンとした藤の目が、急に見開く。初めて見るような力強い藤の表情だ。
 まるで今の空しい千草の胸に、エネルギーを注入するような目で。
「私。嫌な事を忘れる方法を知りたいと思って」
 ひょうたんから駒の、巧いセリフが口から飛び出てくれた。期せずしてムードを盛り上げる為の助走となる。このタイミングでこれ以上の言葉は無いだろう。
「自分が一番辛い時……。会いたくなったのは、私にとっては。……藤だった」
 続いて、女優顔負けの名セリフが自分の口から飛び出たのを、聞いた。
 自分でも一瞬、耳を疑ったほどだ。しかし本心、千草の心境はそれ程に超マイナーになってもいたのだ。確かに藤以上に、自分に執心してくれる異性が果たして居るだろうか? 今の千草のセリフは、自分ですら、本気と虚言の境い目は分からない。
 賽は投げられた。あとは藤まかせだ。
 藤はまじまじと千草を見た。何を考えているか読めない目。
 二人の間に流れる特殊な空気が飽和状態になった時、藤の体がゆらりと動く。
 ベッドを降りて、千草へ歩み寄る。
 体中がキュンと緊張する。
 しかし。藤は千草を通り過ぎた。
 千草が振り返ると、こちらに背中を向けて立っている藤が壁を見つめていた。
「俺は嫌なことがあると、地球と話しをするよ」
「は……?」
「見てよ」
 藤が千草を見下ろして壁を指差す。
 仕方なく立ち上がって、藤の隣に立った。もともと部屋が狭いため、二人は必要以上に近くに立っていた。
 目の前の壁には写真が貼られていた。
 赤っぽい、広々とした大地の写真だ。
「俺はどこに居ても。嫌なことがあった時は、この写真を思い出す。そして写真の景色の中に入り込むんだ。そして地球と話しをする。そうすると、どんな事も全部、ちっぽけなことだと分かるんだ。俺、この写真、以前から遠山さんにすごく見せたかった」
 確かに見つめていると、雄大な気持ちに変化していく。
……全てはちっぽけなこと……?
「どう? 嫌な事、忘れられるだろ? 遠山さんもこの方法を使うといいよ」
 そう言って千草を見た藤の顔が、ものすごく近くてびっくりした。
 藤の目がごく間近で千草の両目を捕らえていた。
 キスシーン必至だ。
 もう後戻りはできない。
「じゃ。送るよ」
 次の瞬間、藤はそう言った。
「へ?」
「何? あっ。他にも何か困ったことが、……あるの?」
 すごい心配そうな表情で、大真面目に聞いてきた。
「いや。別に。無いけど……」「じゃあ、送るよ」「……うん」
 釈然としないまま、家を出た。さっき来た道を逆戻りし始める。街灯が目立ち始めるほどに闇が降りていた。
「藤ってさ……。変わったよね」「そう?」「一年の時ってさ、アンタ、もっとはしゃいでたじゃない」「……かもね」
「なんかあったわけ?」「……かもね」
 ぼんやりとした藤の返事がもどかしい。
「マリとはどうなってんのよ」マリは藤の彼女だ。「……うん……」
「他に好きな女の子が居るとか?」もう一度藤にチャンスを与えるつもりで聞いてみた。
「それは居ないよ!」
 珍しく、とてもキッパリと否定した。
 混乱してきた。
 では、今までストーカーまがいに、自分に付きまとっていたのはどういう意味だったのか? なんかだんだん腹がたってきた。
 してみると、今日の自分の行動はまるっきり馬鹿みたいだ!
「じゃあ、なんでマリに問い詰められた時、喫茶店で寝ちゃったのよ!」
 おさまらなくて、つい喧嘩口調になる。
「え? ……ああ。あれか」「なんでよ!」「寝てないよ」「寝てないなら、じゃあ何だったのよ!」
「あの時は。さっきの。……さっきの写真を思い浮かべてたんだ。そして地球と話しをしていたんだよ」





 盛男がコーヒーを出してくれた。
「いただきます」千草のズズッと、コーヒーをすする音が、たった六畳の部屋に響いた。
 盛男のアパートだった。早川も弓枝も居なかった。
「おいしい?」盛男がニコニコしながら顔をのぞきこんでくる。「うん」別段変わった味とは思えなかった。
「それ、インスタントコーヒーなんだよ。嘘みたいでしょ?」「明らかにインスタントコーヒーでしょ、これは」「えー! 嘘だよ。千草、味オンチなんじゃないの? かしてみ?」そう言って盛男は千草に出したコーヒーを奪って自分で飲んでみる。
「あー……、ちょっと焼きが足りなかったかな? …ん。でも、違うよ。インスタントコーヒーとはとても思えない。うん、やっぱ、美味しいって。香りがいいでしょ? 千草の舌が変なんだよ」盛男はインスタントコーヒーの粉をフライパンで一瞬空炒りしたあと、お湯を注いで出してくれたのだ。
「モリちゃん。そのヒゲ、剃ったら?」
 千草は盛男のヒゲが嫌いだった。「これはオシャレでやってんの」
 そんなことより、今日という今日こそは、聞いてみるつもりだった。
 千草の見続ける『れいの夢』の、盛男の意見を。
「モリちゃん。あのサ、私……」
 その時ドアノブがガチャガチャと鳴った。
「ただーいまー!」弓枝が大声でそう言って入ってきた。そのあとに早川が続く。二人は食材を抱えていた。
「あ、千草ちゃん。いらっしゃい」弓枝が明るくそう言った。
 結局その晩は、四人でパーティーをした。鍋パーティーをした。
「やっぱ、涼しくなると、鍋が出来て、いいよね」さんざんに食べた後で、盛男が腹を押さえながらそう言った。「このあと、雑炊するでしょ?」と早川が、テーブルの真ん中の具の少なくなった鍋を指した。「するよ。決まってんじゃん」千草は箸を振り回しながらそう言った。「インスタントラーメン入れるのもウマイって、知ってる?」と言って盛男が立ち上がり始める。「まだいいよ。座ってなって」口を尖らせて弓枝がそう抗議した。そんな弓枝の表情はまるで子供みたいだった。
「弓枝ちゃん今日、化粧してないよね?」千草が弓枝の顔をまじまじ見た。
「すっぴんでーす!」「すっぴんでも、美人は美人だな」早川がニヤけてそう言った。
「化粧取っても、目、デカいよねー」そう言った千草の言葉に弓枝は反応しなかった。
 弓枝は盛男を見ていたのである。
 つられて千草も盛男を見る。
「どした?」沈んでいる盛男に、弓枝が声をかけた。
 さっきまではしゃいでいた盛男ではなくなっていた。
「……思い出した。……昨日、また、見たんだ」
 少しうつむき加減で、盛男はそうつぶやく。
「見た? 何を?」三人は盛男に注目していた。
「……『目』」
「……そう」弓枝は両足を投げ出してシンミリとそう言うと、「まっ、いいじゃん。気にしないことよ」と明るく加えた。
「……俺、病院送りかな?」「考えすぎだ」今度は早川がそう答えた。
「ね。何の話?」千草だけが話しが見えなかった。弓枝は千草を見ると少し困ったような顔をした。
「話してもいいよね? ……千草ちゃんなら」盛男に確認をとっている。盛男は黙って二回うなずいた。
「……盛男はね、時々、空に『目』を見るの」
「空に、『目』?」
「俺、本当に頭、おかしくなったのかもしれない」千草を見て、盛男は真顔でそう言った。
「どんな、目なの?」「どんなって。……目、だよ。普通の」
「空に?」「空に」
「昨日のは、片目じゃなかった。初めて……両目だった」
「ええ? とうとう両目になったの?」弓枝が驚いて大きな声を上げた。
「気にするなって! 気にするなって!」早川が眉間にしわを寄せて神経質そうにそう言った。
「よし!」弓枝が立ち上がった。
「じゃあ、盛男の好きなインスタントラーメンの雑炊にしてあげるよ。だから元気出しな」
 そう言って弓枝は盛男の背中を思いっきりたたいて、目と鼻の先にあるキッチンからインスタントラーメンを取って来た。弓枝は水分の少なくなった鍋の中に麺を入れて、さらにポットのお湯も注ぎながら言った。
「盛男が見たのは『空耳』ならぬ『空目』だよ。ナンチャッテッ」





 ハッ! ハッ! ハッ!……。
 
 自分の呼吸音が耳いっぱいに広がる。
 真っ暗で静かで、人気のない住宅街の細い道を、千草は必死に駆けていた。
 UFOに追いかけられているのだ。
 なぜUFOは、自分なんかに興味があるんだろう?
 なぜこんなにしつこいんだろう?
 
 そしてゆっくりと後方から、光が投げかけられる。
 とたんにあたりがまぶしく輝く。
 前方の電信柱が輪郭を失うほどに強烈に照らし出され、アスファルトは昼間には思いもしなかったほど、デコボコとしたキメの細かい陰影を現す。
 次の瞬間、全てがハレーションした。
 そして千草の体は後方から投げかけられた光の帯ごと、フワリと上空を移動し始める。
 失う重力。
 蘇える安心感。
 恐怖におののいて逃げ惑っていたさっきまでの自分の気持ちが理解できない。
 千草は心が海の様に平らかで平和になっていく。
 
 しかし、次の瞬間気づいたら廊下に倒れていた。
 どこかの建物……の中か?
 目をつむったままだったが、誰か複数の者が千草を見下ろして観察しているのが分かる。
(この人間で、間違いないか?)
(うん……間違いない)
 彼らの、言語を用いない会話内容を、千草は意識の中だけで理解することができた。
 彼らが千草を見下ろして観察しているのが分かる。

 彼らは自分を観察している。
 彼らは自分を観察している……。

 

2005/01/23(Sun)16:35:29 公開 / 紗原桂嘉
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■作者からのメッセージ
変更です。
「たぶん」ではありますが、次回にて完結します。

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