『夢の中の恋人』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:EastEnd                

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 ライブを終え、いつものように狭苦しい楽屋へ戻った。部屋に入ると誰もおらず、乱雑に散らかしたテーブルの上に、蓋の開いたコカコーラのペットボトルが置いてあった。
 見ていると喉がごくりと鳴り、猛烈な渇きを覚えた。俺は近寄り、ペットボトルを手にとって、一気に飲み干した。すっかり生温くなっていた液体は、漢方薬の味がした。
(不味い)
 温くなるとこんなにも味がかわるのかと思いながら、ペットボトルをゴミ箱に放った。からん。音がして、ペットボトルはゴミ箱の中を、踊って落ちた。
 眩暈がした。これは早く休んだ方がいいと膝に手を当てていると、「京極」
 名を呼ばれた。振返って見る。バンドメンバーの一人、ボーカリストの神城シンが立っている。
(目は何色だろう)
 まじまじとシンの目を見たが、よくわからない。灰色に見えた。首を捻って目を凝らすが、やはり色はかわらない。
「京極、ちょっと話がある。近所の公園まで、顔貸してくれないか」
「珍しいな。構わないよ」
 シンは無口であまり話さない。好奇心が眩暈に勝った。シンが楽屋から出て行くのを俺は歩いて追った。シンは黙っていた。歩むたびに踊る短い黒髪を、艶やかだと感心した。
 好奇心猫をも殺す。俺は歩き続けて後悔した。眩暈は歩くたびにひどくなり、耳鳴りまで聞こえてくる。公園にたどり着いた時は、最早何も聞こえなくなっていた。シンは俺を見て、口を動かしていた。目を時折眩しげに細めている。視線はずっと俺を捉えていた。
(聞こえない。聞こえないよ、シン)
 今はやめてくれ、と言いたかったが、口が思うように開かない。だるくて、もう、どうにでもなれ、と思った。
(聞こえる。聞くんだ、京極万次郎)
 よく知った人物の声が耳元で聞こえた。肩先をしっかりと掴まれ、くずおれそうな俺を支えてくれる。
 ふっ。耳元に風を感じ、耳鳴りが消えた。
「見事だった。敵わないと思った。そういうわけでオレは、あんたに憧れていた。どこかでトラブルが起こるたびに、あんたは居ないかと見に行くようになった。歌わないかとバンドに誘われた時、あんたの傍に居られると嬉しくなって、承諾した。恋愛感情だと気づいたのは、その後だ。あんたの隣を歩く女を見た時だ。何故、隣に居るのがオレじゃないんだ? そんな風に考える自分に愕然とし、オレはあんたに参ってると惚れてるんだと気づいたよ。オレは隣に居てはいけないか?」
 俺はあまりの衝撃に立ち尽くした。シンに告白されていると、どこか遠くの自分が教えてくれる。俺はパニックを起こしたが、口は勝手にこう言っていた。
「まさか、あの時のことを見られていたなんてな。しかもそんな評価を受けるとは、驚きだよ。嬉しい、ありがとう、シン。俺ははっきり言って男に興味はない。でもな、今言葉を聞いて思った。自分の行動を良く解釈してくれる人間ってな、貴重なんじゃないかって。俺は凄く嬉しかったし、ずっとこんな気分を味わえるのかも知れないと考えると」
 言葉を切り、シンに近寄った。大きく手を広げてシンの背中に腕を回す。それほど大きくはないシンの体が、小刻みに腕の中で揺れた。
「そばに居てくれ、シン。今受けた幸福の分、俺はお前に返してやりたい。いいや、それ以上にだ。一緒に築いていこう。幸せにやっていこう」
「本当に? 信じられない。嬉しすぎる」
 京極、京極とシンは俺の名を連呼した。背中にシンの腕が回り、強く抱きしめてくる。抱き返すと全身熱く燃えた。どくん、どくんとお互いの心臓の鼓動が胸を震わせる。見つめてくる目を見つめ返し、キスをした。激しくお互いを求め、貪る口付け。夜は長くて熱いことを、俺は思い出した。思いを自分の中にとどめていたせいか、シンは酷く興奮していた。そんな興奮が俺に伝わって、俺たちは最高の夜を過ごした。あまり上手かったとは言えない。二人ともやり方をまともに知らなかったし、思いをぶつけるのに必死だった。それでも、幸せだった。

 はっ、と気づいたら、肩を揺すられていた。顔を上げると田中助教授の顔がアップで迫っている。
「げ」
「何が、げ、だね。京極くん。今日は発表の日だろう」
 ぼんやりする頭が次第にはっきりしてくる。そうだ、今日は大学のゼミの発表日で、昨日徹夜した。授業の前まで必死でレポートをチェックしていたが、授業が始まるとどうやら寝てしまったらしい。
 ゆっくり周りを見回すと、同じゼミの人間が面白そうに見ている。俺は頭をかきかき立ち上がり、こほりと咳払いをした。
 『世界三大美女の中で、誰が一番美人だったか』という、ゴシップ紛いの発表を終えるとそこそこの反応があった。やっぱりこういった内容には、弱い人間が多いらしい。最も、助教授はふざけていると思ったかも知れない。
 ゼミを無事に終え、徹夜呆けしている頭を抱えながら、俺は自宅へ戻る。道すがら考えた。
(何て夢を見たんだろう。俺とシンは恋人でも何でもないというのに)



 俺は京極万次郎。南都大学三回生で、身長百九十、がりがりの背高のっぽだ。よくごぼうと言われる。頬はちょっとこけ気味、体はホネが浮いている。
 趣味はギターを爪弾くことで、バンドを組んでいる。ベイビースタイルと言う名前のインディーズバンドだ。一応CDを発売している。売り上げはCD製造費用ととんとん。夢は武道館で演奏することなんだが、目処はたっていない。
 バンドのメンバーは三人居る。ボーカルの神城シンとドラムスにして幼馴染の北大路徹、そしてギタリストの俺。もともとはまぁ、南都大学に合格した時に北大路とバンドやろうってとこから始まったんだが、あいにく両者とも顔が十人並みで華がない。そこで、近所の公園で歌っていた神城シンをメンバーに入れた。
 神城シン。はっとするほど顔が整っていて、無表情で話さない。おまけに目が紫色だ。最初会った時は黒くて不思議に思わなかったんだが、ライブの時に振り返る奴の目を見て驚愕した。鮮やかな紫がこっちを見ていたからだ。カラコンの可能性はある。ただ、そう考えると奇妙なのは、特有の不自然さがなかったことだ。綺麗だった。
 白状する。気になってしょうがないのさ。何故紫の目なのか。何故俺たちの誘いに乗ってステージに上がることにしたのか。――そして何故、自分のことを話さないのか。
 神城シン、奇妙な男だ。
 ビールでも買おうかと、窓から外を覗く。酒屋のそばで、女子高生が必死にメールを打っているのが目についた。
(最近多くなったなぁ)
 自分の携帯電話をチェックしていなかった事に気づいて、俺は見てみた。入っていたメールは二件。
 一件は北大路徹からで、マンションの借り料についてと書かれていた。もう一件は、
「カエセ」
 一言だった。名前はない――詳しく言うと『名無し』だった――上、見覚えのないアドレスだ。気にはなったが意味がわからない。俺は即効でメールを消した。
 ぴぴぴぴ。
「うわ」
 消した途端に鳴り響くメール受信音。あまりにタイミングがいいので、心臓が激しくフラメンコを踊る。
 片手で携帯を操作して、メール画面を開く。
「カエセ」
 冷や汗が流れた。ぞっとして、背中が小刻みに震える。俺はしばらく画面を見、消去ボタンを押した。
 再びメール着信音が響いた。
「何だよ、こりゃあ」
 これはちがう、これはちがうと呪文のように呟きながら受信画面を開く。『カエセ』。変りばえのない文字が並んでいた。
 気持ちの悪さを隠せないまま、今度は画面を消去せずにアドレスを受信拒否リストに登録する。それから、俺はメールを消した。
 ぴぴぴぴぴぴ。
 無情なまでに無機質な音が鳴り響いた。
「なん、なんだよ」
 出した声は情けなくも震えていた。俺はおそるおそる画面を見やり、メールを開く。
「カエセ」
「うああ」
 俺の中で何かが弾けた。持っていた携帯を握り締め、力を込めて、投げ捨てる。
 携帯が手から離れた途端、もやついていた気持ちが消えた。
「おおぃ、なに荒れてんだよぉ。万次郎」
 窓の下から声がして、俺は見下ろした。丸っこい体に汗をいっぱい浮かべて、メガネを片手で押し上げた男が立っている。北大路徹だ。
「徹か。いや、その……。何の用だ?」
「あぁ、ちょっくらそば通ったもんでね。そうだ、携帯貸してくれよ」
「何かあったのか?」
「自分の携帯をどっかで落としたらしくてな。誰かが拾ってくれてたらさ、電話かけたら、戻ってくるかもしれないだろう?」
「ああ、なるほど」
「公衆電話を探したんだが、ここいら、全然ないんだね」
 徹の言う通り、携帯が普及しはじめてから公衆電話の数がぐっと減った。最近では小学生から主婦まで携帯電話を持っている。公衆電話が減ったせいというのも否めないだろう。
「うち入れよ。電話使ってくれていいぜ」
「助かる…………って、携帯はどうしたんだい?」
 俺は深い溜息を零した。
「投げた」
「はあ?」
 丸っこい体に似つかわしく、徹は目を丸くした。
 幾度目かの電話をしおえた徹がやっぱりしょんぼりして、俺の部屋に上がってきた。勝手にテーブルを脇へ押しやってねっころがる。
「携帯には誰も出ないのか」
「ああ、なしのつぶてだ。あれでしか連絡取れない人も居るってのに」
「そういや、俺もそうだ。昔は電話番号早覚えやってたのにな」
「やってたやってた。じいちゃん家の電話番号は僕の担当だった」
「そういや、徹は、もの覚えよかったもんな」
 徹は声を立てて笑った。少し照れくさかったようだ。こういう部分、とても可愛いと思うんだが、女にはもてない。やっぱり丸々太っているせいだろうか。
「万ちゃん、電話よ」
 階下から怒鳴り声がした。うぉおい、今行くよ。母へ怒鳴り返して、階段を下りる。
 母から受話器を受け取って背中を向けた。母の視線が好奇できらきらしているのが煩わしい。
「はい。京極ですが」
「返してもらった。ありがとう」
「は?」
 電話は切れた。唐突に突然に。何だったのと言う母の視線を尻目に、首を捻りながら俺は部屋に戻った。
 部屋に入ると徹がエロ本を開いていた。えへえへ、げへげへ、奇妙な笑い声を立てている。
「俺の部屋でいくなよ」
「綺麗な乳だよなぁ。夢の中でフルカラー出演してもらいたいよ」
「夢の中でフルカラー。いいねぇ」
「だよな。僕の夢にカモン」
 おどけた調子で言い、徹が本を投げてきた。受け取って、本を覗き込む。女があられない格好で股を開いている。ユニセックスな雰囲気を漂わせた女で、顔だけ見てると綺麗な少年のようだ。
「この女、誰かに似てないか?」
「シンだろ。目元と顎のラインがそっくり」
「ああ、なるほど」
 俺は一人で納得した。講義中の夢はこのエロ本を見たせいだ。
(本当にそうか?)
 奇妙な考えが湧きあがった。
「シンで思い出した。スタジオの借り賃について、シンにも連絡せにゃあ」
「あぁ、そろそろ払う時期か。痛いなぁ」
 懐をごつごつ叩く。
 昔は音楽の練習を家でやっていたんだが、すぐに五月蝿いと苦情が入った。しょうがないので、練習用にアーティスト専用のマンションの一室を借りた。そこをスタジオと呼んでいる。いずれ本物のスタジオを借り切りたいものだ。
「シンへ連絡頼んでいいかい、万次郎」
「ん?」
 いいよと答えかけて言葉が詰まる。シンの電話番号はさっき投げ捨てた携帯にしか登録していない。
「いや、ちょっと無理だな。番号がわからん」
「………僕もわからん」
「メモ取ってないのか?」
「同じ問いを返したいな」
 徹の顔を見たら、徹も見つめ返してきた。額にぷつぷつと汗が浮かんでいる。おそらく俺も同じだったろう。難しい顔をした徹が、期待薄の視線を向けてくる。
「住所わかるかい?」
「いや、何処に住んでるかは聞いたことないぜ。何せ無口な男だからな」
「無口だねぇ。ぶっきらぼうで、恥ずかしがり屋だ」
「え?」
 俺から見たシンは………。考えた瞬間に愛しさでいっぱいになった。意味がわからない。
「言葉を使うのが、苦手なんじゃないかな。いわゆる不器用な性格ってやつだ」
「よく見てるなぁ」
 感心して言うと、照れたようにそっぽを向いてぼそぼそ礼の言葉を並べていた。
「薬もよく飲んでいたね。どっか悪かったんだろうか」
「薬?」
「うん、カプセルを飲んでいたよ。ライブの前に。正確に言うとカプセルを開いて、中の粉をコーラに溶け込ませて飲んでいた」
「麻薬だったり」
「ははははは。そういや、アーティストで飲む人多いらしいね」
「それで売れるんだから、羨ましいや」
 徹は目を丸くして、俺を見た。おや、危険思想。素っ頓狂な声が漏れた。
「なぁ、万次郎。思い切って聞くが、シンと恋仲なのかい?」
「へ?」
「違うんだね」
 徹は慎重に顔の表情を選び、顎の下を何度も撫でている。何度か俺の顔を見ては床を見つめ、ため息を三回零した。目がうろうろとあっちを行き、こっちを行き、エロ本の女の顔で止まって、口を開いた。
 僕は見たんだ。
 『バツ』は知ってるだろう? メジャーデビューしたばっかりの、ほら今売り出し中のロックバンド。ライブが終わって、シンがいつもの穴あきジーンズ――知ってるかい? あのジーンズ、一着七十五万はするんだよ。汚らしく見えるってのにね――を履いて楽屋から出て行った。そこをバツのリーダー平木に捕まって話しかけられていたんだ。
『話は受けてもらえるものと思っていたぜ』
『……………』
『ツインボーカルの話がプロデューサーから出てる。ボーカルの席が一つ空いてる。俺らとしては、シン、あんたの声が欲しい』
 シンは一瞬だけちらりと平木を見て、興味なさげに手を振った。バイ、とでも言ったつもりだったのか、帰り口の方へ歩いていった。
『待てよ。なんなんだよ。何故嫌がる』
 慌てたリーダーに肩を掴まれ、無理に振り向かされた。シンは面倒そうに口を開き、はっきりと言った。
『バツには京極が居ない』
『京極? 何だってまた、あんな音楽センスのかけらもない奴が引き合いに出てくるんだ』
 シンは薄く笑みを浮かべて、平木の手を振り払った。唖然としていたせいか、比較的あっさりと平木はシンの手を離したな。
『出来てるのかよ、お前ら』
 悔し紛れの言葉だった。自分を選択されなかったことが、相当に響いたらしい。まぁ、有頂天になっていたところだろうから、いい薬だけどね。
 侮蔑に対して、シンは面白そうに言い返していた。
『ヘッドハンティングするにしては随分不勉強じゃねぇか。知らなかったとは』
 シンは外に出て行って、残った平木は地団駄踏んでいた。
『畜生、畜生、このホモ野郎。いずれ後悔させてやるからな』
 ぶつぶつと何やら言っていたよ。目の光はひどく暗くて、歯噛みする音が聞こえた。

「いろいろ考えたんだよ。僕も」
 徹は勝手にオレの机を漁って、ピーナッツの袋を出してきた。ぴりぴろとピーナッツの袋を開きつつ、
「いる?」
「俺のだ」
 徹は頷き、いらないんだねと言って食い始めた。
「あのさ、シンって、何で僕らのバンドに入ったんだろ」
「わからんな。あの顔だったらメジャーでも通用しそうなのに。茶飲む?」
「あぁ、くれると有り難い」
 ベッドの下に手を突っ込んでお茶のペットボトルを取り出した。徹向けて投げる。
「腐ってないかい、これ」
「失礼な。冷やしてないだけであけてないぞ」
 徹は消費期限の辺りを執拗に見てから、蓋をねじって開けた。
「シンってさ。いい声してるじゃないか。顔だけじゃなくて。僕ら三人の中で唯一世間に通用する奴なんじゃあないかと、僕は見ている」
「シンの声? そんなに良かったっけ」
 疑問を口にした途端に心の中に激しい否定が湧き上がってきた。
(お前の声は最高だ、シン。誰よりも愛しい、俺のシン)
 俺は首を振った。どうかしてる。今日は早く休もう。
「そうだ。スタジオに泊まってくれないかい?」
「ん?」
「シンと連絡が取れないからね。待ってたら来るかも知れないだろ」
「お前は?」
「僕は明日っから、ゼミの合宿。戻ったら代わるよ」
「そういやぁ、言ってたな。わかった、今日からスタジオに泊り込む。もしかして、携帯に入ってた用件ってのは」
「ああ、そう。僕の代わりに家賃の振り込みに行って欲しいって事だよ」
 徹は俺に自分の分の家賃を渡し、携帯を買いに行くと出て行った。しばらく家で休んで徹夜疲れを癒し、俺も家を出た。
 シンと連絡が取れないので、シンの分の家賃を代わりに払わないとならない。
(金あったかなぁ。携帯も買わないとならないのに、今月懐寒すぎだな)
 ふらふらと町を歩きながら、銀行が先か携帯ショップが先か思案した。懐を探って、現在の所持金を確かめ、げ、と情けない声を上げてから、銀行へ向かう。
 結局、家賃を振り込んで携帯を新たに契約したら、残った金は三千円しかなかった。
(バイトしないとなぁ)
 音楽系のバイトが良かったが、世の中、そう甘くはない。即金が欲しいので、道路工事が一番だろうなと考える。スタジオ代わりにしている部屋のカギを開きつつ、声をかけた。
「ちっす。居るか、シン」
 扉を開く。だだっぴろいフローリングに一面の窓ガラスが出迎えてくれた。目を刺す夕日は眩しすぎ、俺は黒いロングコートをまとったまま目を細めた。
「来てないか。そうだな、シンは連絡しなかったら、ほとんど顔を見せない」
 扉を後ろ手に締めて、俺は楽器が転がっている部屋に入った。ぴーひろぴーろろ、誰かが練習しているらしきフルートの音が外から聞こえる。
「寒いな」
 綺麗な夕日がかすむのが勿体なくて、電灯をつけずに俺は部屋の真ん中まで歩んだ。口から出るのは白い霞で、吸い込むと空気の冷たさが胃に染みた。
 自分のギターケースがあるところまで歩いていった。金属製の丸い椅子に腰を降ろし、ギターケースを開く。
 耳の奥にシンの歌声が蘇る。
 
 オレたちはずっと歩いてきた。
 砂漠のように乾いた心の隙間を。
 
 本当は叫びたい。
 「みんなで一緒に楽しもう。
 あくせくしないで、さぁ」
 
 オレたちは仲間だ。
 誰も彼も仲間なんだ。
 一緒に居たい、その方がずっと楽しめる。
 
 わかっていても、声にならない。
 拒絶されるのが怖くて、恐ろしくて。
 ねぇ、ベイビー。
 子どもだったら良かったよ。
 だって、子どもには垣根がない。
 
 子どもに戻ろう。
 ベイビースタイル。
 子どもに戻ろう。
 ゼロスタイル。
 
 みんな仲間なんだ。
 思い出そうよ、ベイビースタイル。
 
「いい声………だったな。確かに」
 脳裏を巡る声は低く余韻を残した。黒いコートを脱いでストーブをつける。石油の油臭さが鼻をついて、顔を顰めた。
 結局その日はシンは来ることはなく、寂しい夜を過ごした。それから、朝大学、夕方から道路工事、夜スタジオで寝ると言う生活を送ることになった。
 現実で会えない反動か、俺はシンの居る夢を見続けた。シンはいつも夢の中で恋人だった。隣で笑って、口付けると頬をほんのり赤くして、ぎこちなく応じてくれた。
 俺とシンは色んな所へ赴いた。多かったのは近所の小学校で、夜中に壁を乗り越えてはジャングルジムの上で歌った。俺は歌うシンを見あげて、黒い髪は月の光に透けると銀に輝くんだなと感心していた。
 時折俺たちはこのスタジオで愛を貪りあった。シンは恥ずかしがって、なかなか体を開かなかったが、一つになるとそれはそれは嬉しそうに体を委ねてくる。抱いてる時に間近にシンの目を見ると中に笑っている自分が居て、改めて幸せを感じた。
 一度面白い夢を見た。神戸ルミナリエへ行った時のもので、光の饗宴の中を二人で歩いていた。俺の携帯に電話がかかってきたので、俺はシンの手を離して電話に応じた。次のライブの話で、思わず熱中してしまった。気づいたら、携帯の電池が切れ、シンが居ない。慌ててあちこち見ると遥か先にシンの頭が見えて、女の子の手を掴んで勢い込んで歩いている。
「な、何やってるんだ………あ」
 二人の後を、一人の男が頭から湯気を出しながら追っていた。状況はよくわからなかったが、このまま行けばのっぴきならなくなりそうだった。俺は後を追おうと片足を上げた。
「へ?」
 俺の体がいきなりぐらりと傾いだ。背後から誰かに押されたようだ。振り返るとお菓子を食べながら、べちゃべちゃ話しているおばさんの集団が居た。
 文句を言おうと口を開けると、べったりした赤い口紅を唇に刷いたおばさんにはっしと睨まれて、迫力負けした。これだけはなんともならない。
 心の中で毒づいて、振り向く。
「げ」
 シンが居なかった。もはやすっかり人ごみに紛れたようで、俺は呆然と立ち尽くした。無意識に携帯を弄った。うんとも寸とも言わない。
「そうだ。電池切れ」
 あの時ほどあせったことはない。シンが危機に陥ったかも知れないのに、見失い、連絡すら取れない。こんな酷いことがあるか。人ごみを縫うように走って、俺は光の中を駆け抜けた。途中何度か人にぶつかり、すみませんと人の頭に謝った。伝わったかどうかはいまいち謎だ。
 ルミナリエを抜け、途方に暮れた。シンは居ない。女の子も湯気を出した男も居ない。息を切らして、コンビニ前の公衆電話の受話器を取った。
(死ぬ気でやれば、人間何でも出来る。思い出せ、シンの携帯ナンバー)
 受話器を汗で滑らせながら、俺は数字を睨みつけた。シンに電話は何回もかけている。俺は電話をかける時の様子を克明に思い出した。メモリ呼び出し、液晶に番号表示、そして呼び出し音。
(液晶に数字が出ていたはずだ。何番だった?)
 ぎりぎりと歯噛みをした。1、2、3。液晶独特のデジタル文字が頭を回る。
(落ち着け、思い出せ。俺は何度も見ている筈だ)
 頭の中に液晶画面だけを出して、後を排除した。不思議なことに周りの騒音は消えた。頭の中の液晶画面に数字が一つずつ浮かんでくる。俺はゆっくりと公衆電話のボタンを押した。
 ぷるる、ぴるるるるる。
 はっと気づくと、受話器から呼び出し音が流れていた。俺は思い出すことに成功したのだ。
『はい』
『シンか』
『京極? 番号が表示されなかったから、誰かと思った。携帯はどうしたんだ?』
『電池切れでな。公衆電話からかけてる』
 低い笑い声が流れてきた。
『今、どこにいる?』
『ルミナリエを抜けたところにある、コンビニの前だ。シンはどこにいる?』
『公園の水飲み場なんだが、詳しく説明出来ない。コンビニに向かう。中に入って待っていてくれ』
 電話が切れ、シンに言われた通り俺はコンビニの中に入った。目的がないので、雑誌コーナーをぶらぶらする。新しい音楽雑誌が出ているかと思ったが、生憎家で見ていたのと同じものがあったきりだ。
「よぉ、歩く時計台」
 振り返ると、シンが立っていた。邪気のまるでない満開の笑みを浮かべている。
「無事だったか」
「ああ。一発殴られただけですんだよ」
 よく見るとシンの頬は赤く腫れていた。俺は拳を音がするほど握りこみ、コンビニの外を見た。
「大丈夫だ、京極」
 シンは俺の拳にそっと自分の手を被せた。ほんのりとした温かさが俺の拳に伝わる。守らなければ、と思った。
 コンビニで缶コーヒーを買って、俺たちはぶらぶら歩いた。話は自然、シンの頬の腫れに向いた。
 話を聞くと、どうも俺が道の真ん中で電話で話し始めたので、ルミナリエを抜けてしまおうと俺の手を掴んで強引に歩いたらしい。ほんのちょっぴり頬を赤らめて、シンは言っていた。「まさか、手を握った相手が違ったとは」
「カップルの片割れの手を握って、歩いてしまったのか。それで、彼氏に殴られたと」
「……ああ」
 シンは頬を赤らめたまま、ぶっきらぼうに、缶コーヒーのプルトップを噛んだ。かちかち音を鳴らしながら、ぼそっと言った。
「ちょうどいい」
「え?」
「だってオレらはこれから医者に会いに行くんだ」
「ああ、そうだったな。ドクター・ランディ・シュワイカート。舌噛みそうだよな」
 顔を顰めて見せると、シンは低く笑った。喉仏が上下に震えているのが見えて、ああ、俺はシンの近くにいるんだと嬉しくなった。
「行き先はどこだったっけ?」
「なんだ、忘れたのか。芦屋だよ」
 シンの目がきらりと光る。その色は鮮やかな紫の色をしていた。
 この夢を見終わった後、俺はひたすらに首を捻った。ドクター・ランディ・シュワイカート。聞いたことのない名前である。俺は頑強で、医者の名前で知っているのは、近所の町医者くらいだからである。
 三週間ほど経ち、新しい生活にも慣れてきたころ、徹が合宿から戻ってきた。医学部のゼミの合宿である。どこへ行ってきたか、聞かなくても見ただけで想像がついた。さすがに金持ちである。真冬にも関わらず、徹は真っ黒に日焼けしていたのだ。
「焼けたなあ」
「楽しかったよ。ビーチは水着美女でいっぱい。太陽はぴかっと、空気はからっと、風はさらっとだよ。いやあ、海は最高だね」
「くそぉ、羨ましい」
 スクワットを冗談でかけてやるとぐえぐえ言いながら、土産を出してくれた。パインのイラストがついたビールである。
「パインビール?」
「面白そうだったんで買ってきたんだ。今日は酒盛り、どうだい?」
 スーパーの袋を叩いてみせる。いろいろと買いこんできたようだ。
「世話女房だな」
「ちちちち。裸エプロンは着ないよ」
「見たくねぇから着なくていいよ」
「こいつ」
 軽いパンチが飛んできた。当たった振りして大げさに転がる。ところが、ちょいとミスをした。手が徹のコートのポケットに入ってしまったのである。手がコートに入ったまま転がったのだからたまらない。徹も派手に転がり、何か硬いものがぶつかる音がした。
「うわっ。新しい携帯、無事かな」
 転がった徹は自分より携帯を心配した。自分のコートをまさぐって、携帯をあれこれ触る。どうやら何もなかったらしい。ほっと息をついていた。
「すまん。お、それ最新型じゃねぇか」
「うん。面白そうだったんで買ってみたんだ。テレビ付き。期待してなかったんだが、感度良好でばっちりだよ」
「へぇ……」
 徹から携帯を受け取って、チャンネルをぷちぷち変えたら、音楽番組をやっていた。チャンネルを止めて、携帯を床に置いた。すかさず、徹は携帯を充電器の上に乗せる。やはり細かい。特に気になるアーティストが出ていなかったので、俺たちは酒盛りを始めた。
「フルーツのビールはともかく、ウコンのビールってどうなんだ」
「ハチミツもあるよ。ハニー・ビール」
「……………美味いのか」
「飲んだことないから、知らない」
「不味かったらどうすんだよ」
「料理に使えばいい」
「料理が不味くならないか」
「美味くなるに決まっているさ」
「根拠なしに言っているだろう」
 徹を見ると、我知らぬとばかり、ビールを飲んでいる。お、思ったより美味しい。呟いている。無責任なやつだ。
 しこたまビールを空けた頃、徹が真剣な顔をして俺を見た。
「僕は、実は今迷っていることがあるんだ」
 酔っ払っているようだ。顔がほんのり上気している。
「昔から僕は、離島にでも行って、島の診療所を開きたいと思っていたんだ。ところがだ」
 座った目を向けて、詰め寄ってくる。なんとなしに背後に下がった。
「大学で面白い文献を見つけてしまったんだ。僕は今、大変に悩んでいる。大学に残って、ランディ・シュワイカートの研究を受け継ごうかってね。彼の発見した治療法は問題があるが……」
「ランディ・シュワイカート!?」
 死ぬほど驚いた。ランディ・シュワイカートは夢に出てきた医者の名前だったからだ。
 徹はとろりとした目を向けて、しゃっくりした。
「元医者のランディ・シュワイカートだ。なんで万次郎が名前を知っているんだ?」
 いや、それはと説明しかけた時であった。
『バツの新しいメンバー、神城シンさんの登場です!』
「え?」
 俺たちは顔を見合わせた。徹の目から酔いが消える。テレビ画面に見入ったのは、どちらが先だったろう。恐らく一緒だったに違いない。

 シンは小さな画面の中で、椅子に腰掛けていた。司会者にマイクを向けられ、一言二言話した。その後は、バツのリーダー平木が引き受けた。
『新しい音が欲しくてね。女の声だけだと限界を感じたんです。男女のボーカルの組み合わせはどうかって思いましてね』
『バンドで男女のボーカルって珍しいですよね』
『音の深みが欲しかったんすよ。男の声の裏に女の声が、また逆も然り。新しい音です、期待してください』
 ここで、司会者はシンを見た。
『話しませんねぇ』
 言われて、シンは、邪気のない笑みを浮かべ曖昧に頷いた。画面いっぱいにシンの顔が映る。彼の黒い目がライトを浴びたせいか、きらりと光った。
 平木が司会者にひそひそ話のジェスチャーをして、話し掛けた。
『恥ずかしがり屋でね。でも、脱げば凄いんすよ』
『へぇ、脱ぐの』
 司会者がおかしげに笑う。シンは低い声で笑い、上着の前身ごろをかきあわせる振りをした。
『えっち』
『はっはっは。それじゃあ歌ってもらいましょう』
 画面が真っ青に変化した。ドラムの音が響きはじめ、ギターがそれに被さる。シンとアヤのボーカル二人が画面中央に映し出され、下に『獣のように愛したい』とタイトルが流れた。
 シンとアヤは同時に歌いだした。曲のテーマはオフィスラブであるようだった。

会社内では秘密の恋
名前が同僚の口から出るたびにどきどき
時には誇らしい。

 眼鏡にスーツ姿の二人は、だからこそ今はと情熱的に唱和させ、脱がしあった。
(ヤメロ)
 二人の視線が絡む。シンは上半身裸になり、シャツが肩にひっかかっているきりだ。そこへ薄着になったアヤが熱い吐息を吹きかけた。
(これ以上)
 秘密の恋だからこそ、会社が終れば、全てを忘れて、獣のように愛したい。と歌い、シンは覆い被さるような仕草をした。テレビにシンの挑発的な目が大写しにな……。
「見たくないっ。やめてくれ」
 俺を正気に戻してくれたのは、徹の長い溜息だった。目の前にパインビールが現れた。
「飲もう。しょうがないよ。切り捨てられたのは、残念だけどね。――連絡、取れない状況だったんだしさ。落ち着いたら祝福しに行こう。メジャーデビューおめでとうって。平木なら連絡先は調べがつく」
 とにかく、元気そうだ、よかったよかったと暢気に笑っている。俺は気を取り直して、徹を見た。現実に戻してくれた彼に、抱きつきたいほど感謝の念を抱いた。それから二人で、酔いつぶれるまで飲んだ。



 俺は揺すられて、体を起こした。外には大きな白い月が浮いている。
「ん……」
「よく寝ていたな。おはよう、京極」
 唇に湿った温かい唇が押し付けられた。頭が次第にはっきりしてくる。
(酔いつぶれたんだっけ。――いい気分で、ビールを飲んだ)
 あることに気づいた。誰だ、俺にキスをしたのは。顔を上げると、満開の笑みを浮かべているシンが立っていた。
「おはようはおかしいだろう。見ろ、月が出ているぜ」
「寝ていて起きたんだから、おはようでいいんじゃないか? おかしいのかな。この挨拶?」
「シン」
「ん?」
「愛してる」
 言うとシンの顔が朱に染まった。顔を下げると小さな小さな声でオレも、と言った。
(違う)
「こっちへ」
 シンが息を飲んだ。一瞬だけ止まると、後はゆっくり歩いてくる。手を掴むと、全身を振るわせた。しかし、抵抗はない。
(違う)
「いつも、迷うんだ。オレが脱いだほうが京極が嬉しいのか、それとも、脱がすほうが楽しいのか……って」
「居てくれるだけで嬉しい」
「ばか」
 シャツの裾を持って引き上げる。シンの息遣いが、徐々に早まっていく。胸の動悸の早さに俺は嬉しくなった。期待してくれてる、思うと……。
「ちがうーーーーーーーーー」
 絶叫した。それと同時だった。俺は胸を何かに小突かれ、弾け飛び、壁に激突した。
『欲しいって言っても、いい、か? 京極』
『何て可愛いことをいうんだ。最高だよ、シン』
 背中に激痛が走る。しばらくうめいていたが、ゆっくりと顔を上げた。目の前にはオールグレイの世界があった。モノクロの俺とシンが嬉しそうに絡み合っている。
「お前は俺たちを捨てたんだ。一人で行ってしまった。遠く遠くへ………」
『あ……あ……』
『痛かったら言ってくれ。痛めつけるのは嫌なんだ』
『何でも欲しい。あんたがくれるものならば、全てが喜び………っん。あ……』
 シンは全身をくねらせ、目を閉じて深く感じ入っている。頬が上気し、口から白い息を吐いた。
「一緒に先へ行くはずだったろう……? そばに居るはずだったろう? 何故一人でメジャーの道を歩んだんだ。俺たちを捨てて」
 シンがモノクロの俺を深く咥えて、腰をゆるく動かしていた。背中に腕を回し、強く強く抱きしめているのがわかる。モノクロの俺の肩先から、シンは顔を覗かせた。
 俺はたじろいだ。シンは俺を見たのだ。
「京極、オレが欲しいか。
 ならば、会え。芦屋に住むドクター・ランディ・シュワイカートだ」
 その後、シンは背中をぴんと伸ばし、絶頂に達して果てた。モノクロの俺がシンを抱き、愛おしそうにシンに口付けてから、俺を見た。
「表に出る情報の全てが正しいわけではない。真実を見極めろ」
 そして、俺に指を突きつけた。
「自分の気持ちからも、逃げるなよ。崩れそうになっても、耳鳴りがしても二度と助けない。やりたくなくても、聞きたくなくてもしっかり立ち向かえ」
 健闘を祈る―――笑ったようなからかうような呟きを残し、夢の住人である二人は消えた。
 目を覚ました後、俺はぼうっとしていた。窓の外はすっかり明るく、すずめの鳴き声が愛らしい。徹は高いびきをかいていた。疲れていたんだろう。
(俺の気持ち……? 俺は……)
 俺はシンと最初に会った時を思い出した。
 確かあれは………。
 
 暗い公園の中を走っていた。うめく声とあざける声が公園内を支配している。空には狂ったような赤い月。木々の合間を抜けた。六人ほどが公園の中央に居る。一人は蹲り、他はそれを囲んでいる様相だ。ベンチはいくつも埋まっていて、息を詰めて中央を見ている。
「親爺くさーい」
「出せよ。ほら、消毒代」
「な、何故そんなことをす……っぐ」
 地面に蹲る人影を交互に蹴り付けている。男が三人、女が二人。全員華奢な体型をしている。優越感に満ちた笑顔は化粧に彩られていても醜かった。
「おい、ヤメロ」
 俺は怒鳴りつけた。あまりに酷いではないか。全員がこちらを向いた。
「なぁにぃ? 五月蝿いなあ。邪魔すんなよ」
「正義ぶりやがって。ヒーローごっこはよそでしろ」
 下卑た笑いを上げる。酒に酔っているようであった。
「うるせぇのはお前らだろうが。下品な声でけたけたけたけた。勘弁してくれ、耳が腐る」
「その背の高さ。あんた、京極だろ。リンちゃんを殴ったでしょ? あれ、あたしの友達」
 雰囲気が険悪なものにかわった。全員の目が蹲る人から離れ、俺に集中した。
「リンちゃん? 誰だ、それ」
「覚えてすら居ないっての? あんたに殴られて痣作った女よ!」
「――気の毒に。だがな、俺が殴るとしたら、誰かに暴力を振るっている奴だけだぜ?」
「こうるせぇ男だな」
 男の一人が俺の胸を軽く小突こうとした。手首を掴んで、捻り上げる。力はまるでない男なようだ。そのまま押すと簡単によろけた。
「や、やめときなよ。そいつ、見た目とは違うんだから」
 小柄な女が後ろに下がりながら、仲間に声をかける。一人が弱気になると、それはあっというまに伝染した。
「親爺のせいだ。さっさと金を出さねぇから、オレらが嫌な目にあった」
 男が俺でなく、地面に蹲る人影を睨みつけた。おぼえていやがれ。その声は俺でなく下へ向けられた。
 彼らが去ってから、俺は地面にねっころがったままの男に手を差し伸べた。小柄なサラリーマンのようであった。薄茶色のコートは土に塗れ、よれている。
 手ははねのけられた。
「余計なことをしやがって」
「え?」
「明日からボクは、あいつらに目をつけられる。金を搾り取られる。今お前が何もしなかったら、少しですんだんだ。お前に恥をかかされた分、ボクは嫌な目にあわされる。どうしてくれるんだ」
 俺は言葉を失った。サラリーマンはよろけながら立ち上がり、鞄を手にして走り去っていった。
 呆然と立ち尽くしていた。余計なことをしたんだろうか。周りの人と同じく見ていればよかったか。
 赤い月は何も言ってくれない。その時だった―――。
「かっこよかったぜ、あんた」
 ハンカチが目の前にあった。目の前には綺麗な顔立ちの男が立っていた。邪気のない笑みを浮かべている。
 俺はほっとした。男の目は純真なもので、憧れすら見えた。
「あんた、名前は?」
「京極万次郎」
「そうか。オレは神城シン。この公園でたまに歌ってる。良かったら聞きに来てくれ」
 俺は頷いた。男の笑顔は見ていて和んだ。この男は俺を認めてくれた。それは、酷く心をあたためてくれた。

(あの時俺は――。シンに助けられた。いや、そうだ。落ち込んだ時、こいつを思い出した。こいつならきっと、今の俺でも認めてくれるたろうと常に思った。俺はずっと、心の支えにしていたんだ。その後バンドを組む時に即効でこいつが浮かんだのは、そばに置きたかったからだ。――俺はシンのそばに居たかったんだ)
『京極、オレが欲しいか。
 ならば、会え。芦屋に住むドクター・ランディ・シュワイカートだ』
 わからない。意味がまるでわからない。
「もう飲めないよぉ」
「む?」
 いきなりばっしり叩かれた。振り返ると徹である。まだ飲んでいる夢を見ているのだろうか。
(そうだ。徹はランディ・シュワイカートの名前を知っていた)
「おい。起きやがれ」
「あ?」
 たたき返すと徹はうっすら目を開けた。いたいいたいと頭を抑えてうめいている。間違いなく二日酔いである。
 俺は徹の目をじっと見た。昔からの親友だ。幼稚園からずっと一緒の友人である。何を言ってもこいつなら大丈夫。俺はごくりと唾を飲んだ。
「どうしたんだい? なんか目が恐いよ」
「実は聞いてもらいたいことがあるんだ」
「うん。いいよ」
 不思議そうな顔をする徹に、俺は全てを包み隠さず話したのである。徹の不思議そうな顔は、驚愕に変わり、口が開き、凍り付いてしばらく動かなくなった。
「そ、その。えっと、なんと言えばいいか」
「そう言うなよ。俺だってがっくり来ているんだ。居なくなって初めて気づくなんてな。恋愛なのかどうかは正直わからない。でも、離れたくない」
 徹はそばに転がっていた眼鏡をかけた。かけた後外して、汚れを拭いた。
「ランディ・シュワイカート元博士か。何故名前を知っているんだろうね」
「何をした人物なんだ?」
「色盲治療の権威だったんだ。万次郎にはまるで関わりがなさそうなんだけどなあ」
 俺は首を捻った。色覚異常の一つであることくらいしかわからない。
「赤緑色盲という病気がある。不治の病だ。先天性のものが大概だが、たまに後天性のものもある。いずれにしても、全く治らない。原因もさっぱりわかっていない。シュワイカートという男は、一時的に完全な色覚を得る薬を開発したんだ」
「す、凄いんじゃないのか、それは」
「勿論。彼の名はその世界に於いて有名になった。彼が作った薬を大勢の人間が感謝し、服用した。――彼の息子が脳死するまでそれは止まらなかった」
 俺は口をあけたまま閉じなくなった。自分の息子が自分の薬で進退極まった時、親はどうするんだろう。哀れすぎる。
「薬には欠陥があった。脳への影響が大きすぎたのさ。彼の息子、ピーター・シュワイカートは、頻繁に頭痛を訴えるようになり、脳の機能が完全に停止した。――もともとは先天性赤緑色盲症だった息子ピーターのために、治療薬を開発したのにね。皮肉なものだ……――
 直ちに、薬の詳しい検査が行われた。その結果、今まで発見されたことのなかった成分が見つかった。博士に問うと、『ディアボル・パープル』というアフリカの一部にしかない草を使っていたという。
 未知の成分が、一時的な色覚治療につながり、人によっては脳死に至るということが証明された。彼は医学界から追い出された。
 この薬にはわかりやすい特徴がある。薬の効力がある間、目の色が紫になる。地元で、ディアボル・パープルと呼ばれていたのは、そのためなんだそうだ」
 長い話を終えた徹は、で、と言った。
「この話を知っていたかい?」
 俺は何回も首を振った。徹は酔いを振り払うように頭を叩いた。
「ふぅ。頭ががんがんするよ。――夢というのも学説がたくさんあるから、欲求不満のせいか、性欲のためか、無意識からの警告か、どれが正しいとも言えないんだ。しかし、ドクター・ランディ・シュワイカートの名の後に紫の目が出ているだろう。暗示的だよ。あ、そうだ」
「うん?」
「芦屋に住む、ドクター・ランディ・シュワイカートなんだよね。実際調べてみたらどうかな。番号案内で聞いてみたら?」
 徹は俺に自分の最新型携帯を差し出した。携帯を見ている内に、俺は今まで見過ごしていた事件を思い出したのである。
「携帯――。徹と俺の携帯は同時になくなった。それが原因で、シンとの連絡が取れなくなった」
「え? 何を今更、そのためにここにいたんだろ?」
「俺が携帯をなくしたのは、悪戯メールのせいなんだ。何度も、奇妙奇怪なメールが入ってきて、窓から携帯を投げ捨てたんだ。もし、これが意図的なものであったら?」
「僕はトイレでなくしたんだ。多分そうだと思うんだ。手を洗う時に、携帯を脇に置いて、眼鏡と手を洗ったらなくなっていた」
「盗られたんじゃないのか」
「何のためにだよ」
「バツの平木はシンの声を欲しがっていたんだろ。――考えてみてくれ。友達から突然に何の連絡もなく、日にちが経ったらどうするだろう。しかもあの時は、スタジオの賃貸料振込み日近くで、連絡があって然るべきだった」
「そういえば、そうだね。不安になるよ。捨てられたのかもしれないと思うかも知れない」
 徹は俺から目を離さなかった。
「じゃあ」
「そうだ。その可能性が高いってことだ。俺たちははめられたかも知れない。平木の連絡先は調べがつくと言っていたな。頼む」
「わかったよ」
 徹は携帯に取り掛かり始めた。どこにいるかわかるのも、そう時間がかかるまい。
 道路脇のガードレールに腰掛けて、俺と徹は行き交う車を見ていた。背中には大きなビルがそびえている。ウィギーレコードという会社のビルでレコーディング・スタジオを擁している。バツのメンバーは今そこで録音中であった。俺たちは彼らが出てくるのを待っていたのであった。
 ただ、待つだけというのは非常に疲れる。俺たちは車の流れを見ながら、しゃべくりあった。
「なあ、徹。俺の夢なんだけど、奇妙な部分が多くないか?」
「ああ、うん。それは思うね。どう考えても、万次郎が知らなさそうな事実がいくつかある。全くの嘘なら問題はないんだけれども、事実だからね。そこがおかしいよ。
 それに、これは僕が思っていたことにすぎないんだけど……。夢って、今までの自分の記憶のつぎはぎで出来ているんじゃないかな。どんなにへんてこな夢でも、全くの想像の産物はない。――ええっと、そう、記憶のパッチワークだよ」
「記憶の、パッチワークか。そういや昔、変な夢を見たことがある。
 小学校の頃だ。テレビで洋画を見ていたんだけど、途中で親に早く寝ろってテレビ消されてしまったんだ。その後寝たんだけど、ばっちり夢で映画の続きを見たんだよな。もちろん主役は俺さ。
 その映画って、ホラーでよ。テレビを消された時、主役は化け物に追われていてさあ。夢の中で追われまくり、あれはたまらなかったなあ。でもな、言うように、逃げていた場所って、知らないうちに近所の商店街にかわっていて、駄菓子屋のおばちゃんに早く逃げて、頑張ってと言われた」
「なかなか楽しい夢見てるじゃないか」
 言って、徹は大笑いした。夢で俺はあることを思い出した。徹を何気に見る。幸せそうに笑っていた。
「もう、例の時の夢は見ないのか?」
「ああ、――いや、見るのは見るかな。そのたびに、医者にならないとって思う。僕の乗った飛行機が離島に墜落して、助かったのはその島にたまたま医者が遊びに来ていたせいだったからね」
 徹は空を見上げた。
「医者が足りてないところって大変に多いんだ。医者さえ居れば、何てことない病気でも死んでしまう。でも、僕――ランディ・シュワイカートが芦屋にいるなら、会おうかと思う」
「色覚異常治療の権威か。方向が全然違うぜ」
 徹は目の前の車を見て、あ、綺麗な色と言った。
「彼の文献を読んでいて、安全な治療薬の糸口があるんじゃないかと思ったんだ。本人に出会って、話せるなら話してみたい。――体が二つあればなあ」
「わははは。俺は一つでいいかな。二つもあったら持て余す」
 こいつ、と言って、徹は俺を小突いた。二人で笑いあった。
「そうだ。もし、シンが色覚異常者で、また万次郎に告白したって部分が本当なら、僕はその気持ちが何となくわかるかも知れない」
「え? なんでだ?」
「万次郎ってさ。病気であることを忘れさせてくれるんだよな。いついかなる時も普通の扱いするだろ?」
「褒められている気がしねぇ」
 とは言ったものの、密かに嬉しかった。シンも離れ難いと思ってくれたら、どれほど嬉しいだろう。
「教授の手伝いで、時たま病院に行くんだ。すると、患者さんにはタイプがあることがわかる。つまり、気を使ってもらいたがる人と、そうでない人だ。シンは確実に後者だから、万次郎のような人だとほっとするんじゃないかな」
 病人への態度の話が出て、俺は考え込んだ。相手に確実に喜んでもらうにはどうすればいいんだろう。
「病気を持った人ってだけでなくて、全ての人にだけどさ、好きだと言えば、それでいいんじゃねぇかな。好かれているって確信しているのは、いい気分だと思う。少なくとも俺はそうだ」
「そうだね。難しいけど、自分はあなたを好きですよと伝え続けるのが一番な気がする。好かれているって感覚が、病気へ立ち向かおうとする気力を生むだろうし、単純に嬉しいしね。あ、来たみたいだ」
 徹に促されて、背後のビルを見た。回転扉から次々に人が出てくる。上気した顔をしているアヤ、青ざめたギタリスト、慰めているドラムス。人それぞれである。なにやらくっちゃべっている。
「シンと平木は?」
「ああ、あの二人はちょっと用事。飲み会は後から参加するって。それより今日の歌、どう? 痺れたわぁ。シンの声って低くて好き。癒されるのよねぇ」
 アヤちゃんも最高だったと言われ、アヤはウィンクをした。あらん、当然だわ。なんて言って、ドラムスに小突かれている。
(万次郎、万次郎、シンだ)
 小声で言われて、俺はビルの側面の扉を見た。平木とキャップを目深に被った男が揃って出てきていた。ジーンズは穴あきのもので見覚えがある。
 シン、と声をかけようとした俺の口を徹が押さえた。
(平木は危ない。様子を確かめよう。何かあった時に助けになるほうがいい)
 アヤたちがざわめきながら、歩いていった後、俺と徹は平木たちを追った。俺たちには気づいていない様子である。
 二人は暗い地下道に入った。俺たちは逡巡した。地下道では足音が高く響くので後をつけるのに向いていないからだ。入り口で立ち止まり、中の様子をうかがうことにした。
 二人はなにやら話しているようであった。しかし内容はわからない。反響のせいで声が酷くぼやけていた。彼らは地下道を抜けた。俺たちは慌てて後を追い、同じく地下道を抜けた。
 抜けた先は針葉樹林であった。誰かの所有地かもしれない。フェンスがあり、一ヶ所穴があいている。それ以外何もなかったので、俺と徹は潜って先へ進んだ。
(やばいよ。どんどん暗くなってきている)
 夕日はいまやかけらであった。辺りには電灯もなく、風は冷たい。
(戻るなら戻れ。俺は行く)
「そろそろいいか」
(平木の声だ)
 俺たちは声を頼りに木々の合間を駆け抜けた。平木とシンらしき男が枯れた草の上に立ち、向かい合っていた。
「何の用だ」
 シンらしき男はキャップを外した。消えゆく夕日の中、頬をオレンジに輝かせた彼は間違いなくシンであった。
「聞きたいことがあるんだ。どうしてもな。聞かないと不安でならない」
「―――先を」
「携帯電話の小細工さ。シン、何故ベイビースタイルのメンバーから携帯を奪った?」
「言う気はない。取引だったはずだ。携帯二つと引き換えにボーカルを引き受けると。オレは今、バツで歌っている。他に何が必要だ」
「不安だと言っているんだ、シン。あんなことやられて去られてはたまらない。何故なんだ? 理由が知りたいのさ。知れば、やられずにすむと思えるからな」
「やる気はない」
 二人の間に火花が散った。平木はひゅうと口笛を吹いた。
「シン、お前の望みは生涯アーティストで居続けることだと言っていたな」
「そうだ。それほど売れなくてもいい。ただ、音楽から離れる生活をするのは真っ平だ」
「今の世の中、男同士の恋愛にはそれほど視線は厳しくなくなっている。特にアーティストに対する目は柔らかい。だがな」
 夕日が完全に沈み、寒さが身に沁みる。白い月が煌々と夜空で照っているので、それほど暗くはない。
「複数の恋人を秘密裏に持っていて、全員に君だけだよとのたまう男に対しては、世間は厳しい」
「何が言いたい。はっきりと言え」
「そのものずばりの写真と、手記が五人分、雑誌社にたれこまれたらどうなるかな」
 シンは何も応えなかった。唐突な話で意味がわからないといった風情である。
「悪いな、シン。保険が欲しいんだ。どうしても、さ」
 その時だった。黒い影が複数、シンに飛び掛ったのである。
「!」
 驚き、振り返るシン。しかし既に遅かった。背中側にぴったりと張り付いた影は、シンの腹に手を回して動きを縫いとめた。
「平木! 欲の皮を突っ張らかすな。適度に抑えることだ。でないと針でつつかれただけでも……ん……」
 シンの口にミネラルウォーターのペットボトルが突っ込まれる。上向きに顎を無理に押さえられているので、水はどんどん口の中に消えていった。入りきらなかった水が唇の端からごぼごぼと零れ落ちる。
「勿体無い。高いんだぜ、その水。聞いたことあるかな。エンジェル・ビーって名前?」
「げふっ。あ………っは……。ま、麻薬か。そ、そんなものまで、扱っていたの……っああっ」
 シンの服が切り刻まれ、地面に布屑となって落ちる。露になる肌は滑らかで、見ているだけでも触りたくなってくる。
 シンが背中をぴんと引き伸ばしたのは、尻の穴に太い指が突き入れられたからであった。
「緩くしてやる、ちゃんと」
「お前の写真を見せたら、すぐにみんな引き受けてくれたぜ。さすがに色男だな。――おい、遊ぶのは構わないが、仕事はちゃんとしてくれ。一人ずつ絡んだ写真と、手記だ。わかっているな」
「もちろんよ。任せて、平木さん。――こんな綺麗な子、嬉しいわ」
 あきれたことに、女も混じっているようであった。俺は機会を伺っていた。
(万次郎、は、早く助けないと)
(まだ無理だ。状況がわからなすぎる。待て)
 学生の遊びとは訳が違う。どう見てもそれなりの人間たちである。確実に勝つにはタイミングが必要である。そして、勝たなければならない。
 平木は、携帯を一度かけ、シンが地面に押さえつけられているのを見た。
「安心しろ。資料は持っておくだけだ。潰しはしない。何もしないならな」
 任せた、と影に向かって言い、平木は去っていった。
「そんな乱暴にしてあげちゃ可哀想。あたしがクリームを塗るわ」
「そうか? じゃあ任せる。する前から壊したら大変だからな。これから随分と耐えてもらわないといけないしな」
「……うう……っ」
 人が重なっているので、状況が詳しくわからない。入り混じった声だけが聞こえる。声は六種類ある。そのうちの一つ、シンの声は随分と苦しそうだ。
(ね、ねぇ。早くしないと危険だよ)
(人数は五人。うち三人が女。女はいいが、男が恐い。今出たら逆にやられる。俺らがやられたら、事態はかわらない。待つんだ)
「麻薬入りのクリームってどうなのかしら」
「一度味わったらやみつきらしいぜ」
「あらぁ、残ったら持って帰ろうかしら」
「は――……あ……。んん………」
 シンの声は酔った人のそれに酷似してきた。人間の手が体に触れるたびに、素直に体を捩り息を吐いている。
「随分と凄い効き目だな。これなら体力を奪う必要もなさそうだ。先に仕事をしてしまおう」
「そうね。でも演技かも知れないから、あなたからやってちょうだい。他の四人じゃ、押さえられないわ」
 引いて。女は鋭い声をかけた。女を含め四人がシンから離れる。状況がわかりやすくなった。華奢で小柄な男がカメラを出して、調子を整えている。この男も大丈夫だ。
 大きな体の男がシンに覆い被さっている。シンの足は広げられ、まるで誘っているようであった。シンは目を閉じていた。首筋を舐められると、あぁと吐息まじりの声をあげた。
「気分良さそうだ。もっとよくしてやるからな」
 シンの返答はない。男は少し腰を浮かせた。ジッパーを下げる音が響いた。下着とズボンを同時に引っつかんで、急いで途中まで引き下ろした。露になった自分のそれを、開かれたシンの足の合間に近づけ、その先端を………。
 俺は草むらから弾丸のように飛び出して、男にタックルをかました。
「な、なんだ」
 男が転がる。立ち上がろうとするも、脱ぎかけたズボンが邪魔をして、咄嗟に動けない。俺は駆け寄り、肋骨の合間を思い切り踏みつけた。ぐえっ。カエルがつぶれたような声と共に沈黙する。
「去れ」
 俺は立ちすくんだままの四人を指差した。号令をかけた女が一番早く状況を理解したようだった。体を翻して、逃げた。一人が逃げると後は早い。女の後を追って、全員去っていった。
「シン、シン。大丈夫?」
 草陰から徹が飛び出して、シンのそばに座っている。シンが応えなかったので、徹はあちこち触り、匂いを確かめてほっとしていた。
「何もなかったみたい。一旦スタジオにつれていこう。家知らないしね」
 シンは誰が来ているのかもわからないようであった。俺はコートを脱いでシンを包み、抱き上げて、大通りに出た。タクシーを呼びとめ、シンを抱き込んで俺が乗ると徹がシンを見て、「僕は自分の家に寄って、服をとってくるよ。先に行っていて」とドアを閉めた。タクシーの運転手は静かな人だった。何も聞かれずにすんで助かった。もしかして、多少何か気づいていたかも知れないが、こういう時は沈黙が一番嬉しいのだと心から思った。

 スタジオについて、窓際にシンを下ろした。電灯はつけなかった。見られることを好まないだろうと推測したからだ。
「く……るし……。たすけ………」
 水をごくごくと飲んでいた時、苦しげにシンはうめいた。俺は慌てて近寄った。ここに居たのが、徹だったらどんなによかったかと思った。俺では何もわからない。
「シン、どうした。何が苦しい」
「奥が疼く。くるし……」
 コートをそっと剥がした。シンの大事な部分がぱんぱんに張っていた。上手く出せないでいるらしかった。薬のせいだろうか。
 シンのそれに触れ、出るように促してみた。余計に苦しそうにうめいた。奥、というのが何かは想像がついた。だが……。
『携帯電話の小細工さ。シン、何故ベイビースタイルのメンバーから携帯を奪った?』
 平木の言葉が頭をちらついている。離れたのはシン自身の意思であったのだ。理由は想像もつかない。離れたかったなら、一言言えばすんだはず。俺も徹も頑張れの言葉だけで送り出しただろう。
 信用されていなかった。と考えると、どうにも躊躇われた。
「たす……け……。苦しい……」
 見ていられなかった。俺は服を脱ぎ、シンの上に静かに圧し掛かった。シンのどこを見ているかわからない目が俺を捉える。唇が震えた。はやく、俺にはそう言っているように聞こえた。俺は、シンの中に深く自分を沈めた。シンは喜びの声をあげた。嬉しげに体を震わせ、俺を快楽の渦へ巻き込もうとした。でも俺は煮え切らなかった。
 シンは、何も見ていなかった。シンはこの俺が誰かも理解していないだろう。そう考えるとひたすらに寂しかった。こんなに哀しい繋がりは初めてだった。
 太陽の温かい光に起こされた時、そばの壁にシンがもたれかかっているのに気づいた。ぶかぶかの服を着ていた。
「起きたか。おはよう」
「徹の服か。徹は?」
「ああ、これは北大路の服だったのか。起きたらそばに一揃え置いてあったんだ。誰もいなかった」
 徹は見たのかもしれなかった。でも何も、言わないだろうと想像がついた。
「あり、がとう」
「ん?」
「うっすら覚えているんだ。昨日何があったか。複雑そうな顔をしているのもちゃんと見ていた。嫌だったんだろ、ごめん」
 俺は首を振ったが、さすがに何も言えなかった。
「暴力騒ぎの処理の仕方は、相変わらず見事だな」
「そうかな。経験数のお陰だろうか」
「初めてあんたを見た時、有名な親爺狩りグループに一人で立ち向かっていた。オレは見て見ぬ振りしかしたことなくて、驚いた。――世の中には凄いやつも居たもんだと思った」
 はっとした。こいつも覚えていたんだ。しかし、俺はその話をしなかった。知らない振りをした。
「どれのことだろ。数が多すぎてわからんな。最初は負けてばっかりだったんだ。
 負けた後さ、助けるつもりだった親爺に逆に睨まれたこともあったぜ。余計な手出しをしてくれたもんだ。より、やり口が酷くなったじゃないか……ってさ」
「酷いな、それ」
 シンは軽く笑った。携帯のことを聞きたかったが、嫌がるだろうと思った。他の話題を懸命に考えたがどうしても出てこない。沈黙が続いた。
「そろそろ行く。京極、ありがとう。感謝してる」
「ああ。いや、待て」
 シンは俺を見た。
「来週末、ベイビースタイルの解散コンサートを開こうと思う。歌って欲しい」
 口が勝手に動いていた。言いながら自分で驚いていた。――よく考えたら、解散するしかない状況ではあったのだが。
 多分、この時これを言ったのは、それしかシンを引き止められないと思ったからだろう。
「――残念だ。わかった」
 場所はクリスタルボックスだと言った。俺たちが一番初めにライブを行った場所である。来週末であったのは、もともとその時間が俺たちの持ち時間であったからだ。
 シンはもう一度俺に礼を言い、出て行った。



 携帯電話が鳴った。新しい電話に換えてから、初めてである。教えているのが数少ないせいだ。
『はい。京極ですが』
『はじめまして、でいいのかな。それとも久しぶりと言おうか。ランディ・シュワイカートと言う。元気かね?』
 ランディ・シュワイカート! 俺はしばらく返事が出来なかった。
『君の友達の北大路くんに聞いたのだが、おかしな夢を見たそうだね。差し支えなければ、私の家へ来て欲しい。――信じられないかね?』
 俺はそれでも返事が出来なかった。何がどうなっているのだ、頭はハテナマークでいっぱいであった。マイムマイムくらいは踊っていたかも知れない。
『おはよう。万次郎。起きたかい? 今、僕はシュワイカート博士のもとに居るんだ。朝一で番号案内で調べたのさ。おいでよ。多分、万次郎が知りたがっていることを教えてくれる』
『お、おはよう。って、何で徹がそんなとこに』
『いやあ、話してみたくてね。初めはしらばっくれられてしまって、思わず万次郎とシンの名前を出してさ。そうしたら、声色が変わって、すぐに来てくれって。それで……』
 携帯から徹の声が遠ざかった。
『まあ、そういうわけだよ。私としては症状をどうしても知りたいんだ。診察を受けて欲しい』
『わ、わかりました』
 話は大げさになってきているようである。俺は驚きを隠せないまま、彼の言う住所をメモした。芦屋で間違いなかった。
 何が何やら把握できないまま、俺は二時間かけてドクター・ランディ・シュワイカートの家へ向かった。電車は何回も乗り換えた。
 ドクターは物静かな英国人を思わせた。聞いてみるとドイツ人であった。日本語は達者で、たまにイントネーションが気になる程度である。会話に支障はない。
「久しぶりと言わせてもらうよ、京極くん」
「こんにちは、博士」
「博士ではない。元博士だ。君にも神城くんにも、北大路くんにもそう言ったんだが、博士と呼んでくれるね」
 穏やかに初老の男は笑った。夢の話をしてほしいと言われ、俺は包み隠さず話した。博士は俺から視線を外さなかった。優しい目で俺をじっと見、時折頷いた。
「頭痛はないんだね」
「はあ、自分で言うのもなんですが、頑強なのが自慢です」
「それは結構」
 博士は俺の瞼を指で軽く持ち上げ、目を覗いた。胸を叩き、喉の様子を確かめ、頷いた。
「ざっと見たところは平気だね。勿論、CTスキャンをしていないから完全とは言えないがね」
「それは、よかったです。それはともかく、シンのことを聞きたいんです。教えてください」
 博士は数度頭を上下させた。白い髪が踊る。
「私の知っていることだけを話そう。――その前に、一つだけ教えてくれないかね。君は神城くんをどう思っているのかね?」
 俺は息を飲んだ。視線を下げた。
「大切な人だ」
「結構。神城くんは、赤緑色盲症を患っている。彼は私のところへ来て、土下座して頼んだ。『博士。どうかお願いします。オレに色のある世界を下さい。見てみたいんです、どうしても。オレの歌を聞いてくれた人の顔を、はっきりと見てみたいんです』
 こういった人は実は多いんだよ。でも私は全て断ってきた。薬には欠陥があるし、危険なものを渡すわけにはいかないからね。ところが、私は神城くんに薬を渡した。何故だって? 私は彼に息子を見出してしまったんだよ。私は彼の体質を見極めようとした。薬の副作用には大まかにわけて、三つあるんだ。目の色が紫にかわるというのは、全部同じなんだがね。
 一つ目は副作用のないタイプ。二つ目ははじめは何も症状が出ず、そのうちに記憶の断絶が起こり始め、それが頭痛へと移行し、最後に脳死というパターン。最後は薬を飲んだ瞬間から、記憶の断絶があり、頭痛が起こり始めて脳死。
 私は彼に少量の薬を投与した。彼は第一のパターン、副作用のないパターンであることがわかった。それでも、第二のパターンがおこらないとは言えない。私は記憶がなかったという事態があればすぐに電話するように伝え、薬を渡した。
 彼は一月に一度私のところに訪れた。色のある世界は素晴らしいと興奮して話してくれた。嬉しかったよ。息子が戻ってきたような気がしてね。薬を何時使っているのかと聞いたら、ライブの時だけだと答えてくれた。初めから、その時しか使う気はなかったそうだ。
 これは大丈夫そうだと安心していた。
 ところがだ、ある時、彼は酷く泣いて電話をかけてきた。知り合いに薬を飲ませてしまったというのだ。私はすぐさま、家につれてくるように指示した。そしてやってきたのが」
 博士は俺を見た。
「君、京極万次郎くんであった。君はすでに脳死寸前だった。ここに来て、君に意識があったのは十分程度であった。後はずっと寝ていたよ。
 神城くんは、私の膝にとりすがって、彼を助けてくださいと泣いた。ところがだ。さすがにその段階だと、私にもどうしようもなかった。祈ることしか、出来なかった。君の状態が落ち着くまで、神城くんは讒言のようにずっと話していた。今までのことと君を愛していることをだ」
 俺は息を飲んだ。シンに愛されていた、その事実は俺の心を暖めた。
「君の夢の詳細が正しいかどうかは、言わないでおこう。ただ、夢を見た回数以上に、君は何度も何度も薬を飲んでいた。
 飲ませたのは、神城くんだ」
 理由は本人に聞くことだ、と博士は言った。
「君の症状は落ち着いた。私はほっとして、神城くんに言った。二度と薬を飲ませないように、と。神城くんは、頷いて君の携帯を取り上げた。そうして、自分の電話番号を消そうとした。しかし、呟いた。
『これじゃあ意味がない。北大路の携帯も同時に手に入れないと』
 別に二度と会わないという選択でなくともいいんじゃないかと彼に問うた。彼は涙を浮かべて首を振った。
『彼と会うと、薬を飲ませてしまう。止められないんです。二度と会えない状態にしてしまわないと』
 何故かと聞いたら、項垂れた。答えは聞いたが、言わないでおこう。
 表情は悲壮であった。私にはもう言葉がなかったよ。彼はああでもない、こうでもないとぶつぶつ言っていた。そのうち、ふと言った。
『そうだ、京極の性格なら……これが一番いい。北大路は………手が足りない。バツの平木だ。彼に助力を頼もう』
 そうして、愛しそうに寝ている君を抱いて、タクシーを呼び、帰って行った。これが私の話せる全てだ」
 俺は窓の外を見た。美しい夕日が揺らめいて、輝いている。昨日、シンの頬がオレンジに染まっていたのを思い出した。
「博士。俺の記憶は戻らないんでしょうか」
「戻すことは出来る。戻したいのかね?」
 扉が二度ノックされた。博士が招き入れると入ってきたのは、徹だった。手に珈琲を持っている。
「どうぞ」
 博士に珈琲を手渡すと博士は嬉しそうに気が利くね、ありがとうと言った。
「徹。ベイビースタイルを解散しようと思うんだ」
「え?」
「シンにもそう告げた。良かったら、クリスタルボックスに連絡しておいてくれないか。これで最後にするってさ」
「ああ、そうか。シンがもう居ないんだもんね。わかった、電話しておく」
 徹は電話をするために出て行った。
「彼はしばらく家に居てくれるそうだ。気の利く人だね。助かるよ」
 俺は穏やかに笑う初老の紳士に博士と声をかけた。
「記憶を、戻してください」
「いいのかね? 今の君とは変わってしまうだろう」
「―――構いません」
 俺は頭を下げた。博士が静かに立ち上がる。
 治療が始まった。
 博士の穏やかな声がずっと聞こえている。目を閉じると、まぶたの奥に、一人の男が立っていた。俺と同じ背の高さ、針のような細さ、そして紫の瞳。
『何故、記憶を戻そうとする?』
 男は俺と同じ声で聞いた。
『シンのそばに居たい。今のままだとやつは逃げてしまう』
 男は深く息を吸った。来い、男は俺に手を差し伸べた。俺は一歩一歩男に近づいた。
『全てを思い出せ……』
 俺は紫の目の男の前に立った。奴は穏やかに笑っていた。まるで博士のように。俺も笑った。そうして俺は紫の目の男の手を取った―――

 俺は徹を置いて、一人で帰った。家には戻らなかった。スタジオに行って、一人で延々とギターを爪弾いた。最後くらい、まともな演奏がしたかった。二週間、俺は音楽漬けになった。ギターが面白くなってきた。音楽はやればやるほどに、成果があらわれる。練習することが楽しいと思ったのは、生涯初めてだったかも知れない。



 運命の日がやってきた。俺は慣れ親しんだギターを抱えて、クリスタルボックスへ行った。オーナーが出迎えてくれた。
「よぉ、京極。もう終わりにするんだってな。また、新しくなんかおっぱじめるなら一番に声かけてくんな」
「サンキュ。今日は頑張るからな。眠らずに聞いててくれよ」
「はっはっはっは。いい演奏してくんねぇと寝ちまうぜ。頑張れよ」
 肩を叩いて、激励してくれた。このオーナーは嫌いになれない。
 楽屋へ行くと、既に徹とシンが話し合っていた。将来について話しているようだった。徹がすぐに俺に気づいて、手を上げた。
「や、おはよう、万次郎」
「おう、おはようさん」
「夕方なんだけどな。考えたら変な挨拶だなあ」
 シンは低く笑っていた。いつもの光景だった。
「平凡な日常って、意外とあっさり壊れるんだな」
「――頑張ろうぜ、今日は。後悔しないように、思い切り」
 シンがコーラを呷った。目の色は変わらなかった。俺が目をじっと見ているのに気づいたらしく、シンは被っていたキャップを深く被りなおした。
「薬は今日は持ってきてない。心配するな」
「僕が話したんだ。シュワイカート博士のところへ行ったこと」
「京極、オレ――」
 シンはそこで話を止めた。続きが言えないようであった。
「シン。ライブが終ったら、公園に散歩しに行かないか? 寒いけどよ」
「わかった」
 俺たちは音合わせをした。久しぶりだったが、しばらくするとばっちり合った。
 舞台に明かりが灯った。行こう、俺は二人を促し、ステージへ上がった。ライブハウスは盛況だった。オーナーがよほど宣伝してくれたか、『バツ』のシンが居るせいか、どちらかわからない。どちらもありそうだった。
 音を出してすぐに気づいた。客の反応がいい! 気分のボルテージはすぐにマックスになった。俺とシンと徹の気持ちもすぐに合さった。三人の出す音が重なり、飛び出し、絡み合う。狭いライブハウスに音が広がる。客は総立ちだった。踊り、飛び上がり、手拍子あり。ああ、俺たちは大勢と一緒なんだ、そんな風に思った。嬉しかった。
 熱狂的な数時間はあっという間に終った。サンキュと客に言った時、声はしわがれていた。割れんばかりの拍手の中、頑張ったとお疲れと客が口々に叫んでくれた。最高だった。
 それから数時間後、俺とシンは二人で公園に居た。シンはブランコに腰掛けていた。きぃ、とチェーンが軋んだ。
「シン、聞きたいことがある」
「ん……。初めから順を追って話すよ」
 ブランコを漕いで、そして下りた。俺の前に立ち、真正面から見据えた。
「オレは初めに会った時から、あんたが好きだった。オレには出来ないことをするあんた。オレの中の弱さを、真正面から指摘してくれるあんた。
 あんたとバンドを組み始めて、心は更にかき乱された。オレはあんたに告白した。あんたはオレの気持ちを受け入れてくれた。オレは心が浮き立ったよ。その目の色を見るまでは。
 あんたの目は紫色をしていたんだ。オレはその時、薬入りのペットボトルを放置していたことを思い出した。あんたに聞いた。まさか、飲んでないよな、と。
 あんたは飲んだと答えた。どうしようかと思った。そもそもが認可されているものじゃない。悪い影響が出る可能性がある薬だ。オレはあんたに全てを説明した。そうしたら、あんたは何でもないことのようにこう言った。
『もし、記憶を失っていたら、また薬を飲ませてくれ』
 そんなことは絶対に出来ないと答えた。しかし、あんたは、オレと一緒に居たいからと無理やりに納得させた。それでも、やる気はなかった。記憶の断絶が、廃人コースなのは聞いて知っていたからだ。
 何でもないといいと思いながら、次の日にあんたに会った。あんたはすっかり忘れていた。そうなると、今まで気にすることもなかったことが、激しく気になってきた。オレを愛すると言ったその口で、色んな女を褒め、抱いてみたいと言う。
 哀しかった。でも、しょうがない。あんたに悪い部分はない。記憶がないだけなんだから。オレは何もなかったんだと自分に言い聞かせて、バンド活動を続けた。
 だが、あんたの話を聞くたびに、寂しさが増した。一度告白して、受け入れられた後だ。以前とは違う。
 ある時、そう、スタジオで練習して熱が入ってさ、終電がなくなったことがあっただろう。あの時、オレは寝入るあんたを見て、たまらなくなった。薬さえ飲ませれば。そうすれば、きっとオレは恋人に会うことが出来る。
 オレは持っていた薬をあんたに飲ませた。すぐにあんたは起き上がり、オレを抱きしめてくれた。話を聞き、寂しかったというとその分強く抱いてくれた。抱かれていると気持ちが解れていった。なんだ、温かいってこんなに簡単なのかとどんなに嬉しくなったか。
『もっと頻繁に薬を飲ませてくれていい』
 あんたはそう言ってくれた。オレはもう寂しさに耐えられなくなってきていた。オレの告白を覚えていないあんたは平然とオレの前で、女の話をする。話を聞くのは苦痛だった。苦痛がたまるとオレは、機会を見つけてあんたに薬を飲ませた。
 紫の目をしたあんたは、愛するのはオレ一人と言ってくれ、本当に大切にしてくれた。オレはもう、止まらなくなってしまった。軽い頭痛を訴え始めた時、さすがに止めないとと思った。しかしやはり止まらない。愛される温かさをオレはもう捨てられなくなっていた。
 あんたは倒れた。オレは、大慌てでドクター・ランディ・シュワイカートに電話をした。すぐに連れて来いと言われた。タクシーを呼んだ。
『芦屋だ。芦屋のドクター・ランディ・シュワイカートの家だ。早く行ってくれ!』
 オレは何度も何度もがなった。あんたは薄い目を開いて、オレを見ていたよ。ぶつぶつと何かを言っていた。何だろうと耳を澄ますと、芦屋のドクター・ランディ・シュワイカートと繰り返していた。
 ドクターの元へ行き、治してくれと頼んだ。ドクターはぎりぎりのところだと言う。とにかく、これ以上はもう薬はいけないと言われた。
 オレはどうしようか、酷く惑った。オレの告白を全く知らないあんたと居るのは、どうしても無理だった。もう、完全に離れるしかないと思った。あんたの声を二度と聞きたくないと思った。聞いてはいけないと思った。でないと、またやってしまう。
 バツの平木のことを思い出した。電話をすると、ボーカルを引き受けるなら、手伝おうと言ってくれた。オレは承知した。ベイビースタイルにはどうせ居ることが出来ないし、バツの音楽は嫌いじゃなかったからだ。
 平木はなんだかいろいろ知っていた。オレが何度も気持ちの悪いメールを送ったら、京極は自分で携帯を壊すだろうと言ったら、それは面白いなと笑っていた。北大路は色んな場所で、携帯を手放す癖があると教えた。まもなくして、平木は二台の携帯を持ってきた。京極は窓の外に携帯を投げ捨てたので拾ってきたと言っていた。
 オレはあんたの携帯から、あんたの自宅に電話をかけた。――これが全てだ。ごめん。二度と会わない。さよう……」
 俺は俯いているシンの背中に腕を回して、ぎゅっと抱いた。シンは体を強張らせた。
「愛してる、シン」
「え?」
「記憶を戻してもらったんだ。博士に」
 シンは俺の目をまじまじと見つめた。口は開いたままになっている。
「どんな言葉で告白してくれたか、一言一句、覚えている。言おうか?」
「あ……。いわ……なくて……いい」
 シンの頬は赤らんだ。
「じゃ、じゃあ聞きたかったことって……」
「紫の目が好きなら、カラコンを買うってことだ。目の色はどっちがいい?」
 シンは泣きじゃくって、震える声で言った。
「何でもいいに、決まっているだろう!」

 シンはその後、バツを抜けた。さすがにあの事件の後では、平木が恐くなったんだそうだ。俺たち二人は新しいユニットを組んだ。また一からだ。
 徹は色覚異常治療の研究の虜になっている。大学と博士の家を行き来している生活だ。あいつのことだから、その内、なんらかの治療薬を作り出すだろう。
 シンの視界に色が戻る日が来るのも、そう遠くはあるまい―――。

(了)

2005/01/15(Sat)08:43:53 公開 / EastEnd
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■作者からのメッセージ
初めまして。EastEndと言います。
こちらを見ている内に投稿したくなりました。
原稿用紙100枚程度で、ちょっと長い目ですが、完結しています。
ボーイズラブというジャンルのものであるので、ご注意ください。多少性的なものも含みます。
よろしくお願いします。

バンドメンバーの一人に告白される夢を見る男。しかし、その相手とは、恋人でもなんでもない。
携帯電話を失う羽目になり、夢の中で告白してきた相手と、現実では一切会うことが出来なくなってしまう。
会えない間、夢だけは続く。
デートをし、愛の交歓をし、……楽しくてたまらない「夢」。
ある日、彼はテレビ画面の中で、相手を見つける。自分とは違うバンドに所属し、歌っている夢の中の恋人を――――。

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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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