『セロヴァイト・リターンズ  ―完―』 ... ジャンル:アクション アクション
作者:神夜                

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     「プロローグ」



 わたしが求めたのは、一時の自由。
 何にも、誰にも、束縛されない本当の自由。
 たったそれだけのものを、わたしは求め続けた。
 けど、望みはいつまで経っても実現されない。
 望んだのは、普通の生活。他の人と何一つ変わらない日常。
 騙すのも、騙されるのも。利用するのも、利用されるのも。もう嫌だった。
 束縛を断ち切るため、一体、わたしはどれだけ抗ったのだろう。
 しかし、幾ら抗ったところで結果は同じだった。わたしはもう、逃れられないのだろう。
 いつから、こうなってしまったのだろう。いや、わかっている。
 元凶は、一つしかないのだから。
 ――虚(うつろ)。
 『アレ』が現れてから、『彼』は変わった。『アレ』が現れてから、わたしは本当の意味で束縛された。
 そしてわたしの手にも、この子が握られている。
 その真名を呼べば、ホの光の粒子に包まれ、姿を現す一振りの刀。
 どうして『彼』と、わたしだったのだろう。一体誰が仕組んだことだったのだろう。
 ……いや、わかっている。誰が仕組んだのかなんて、考えればすぐにわかる。
 セロヴァイト執行協会本部。あいつ等だ。でも、どうすることもできない。
 わたしが本気でこの束縛を終らせたいのなら、取るべき道は一つだけしか残っていない。
 『アレ』と『彼』を、優勝者にする。それしか、ないのだから。
 我慢は今だけでいい。『アレ』と『彼』を、必ず、優勝させる。
 そのためになら、わたしは、どんなことだってする。
 この束縛を解き放つためだったら、わたしは、

 ……――この子と一緒に、
                すべてを捨てる――……





     「源川祐介」



 馬鹿みたいに暑い陽射しが突き抜ける、夏休みが終ってやってきた新学期初日の帰り道。
 見上げる青空にはこれでもかというくらいの眩しい太陽が広がっていて、一体この地球に何の恨みがあるのか、焼き尽くすかの如く照らし続けている。そんな中を歩いていればそれは汗も掻く。おまけに四方八方から聞こえるクソやかましいセミの鳴き声が気温をさらに吊り上げているような気さえする。今日の朝のニュースで気温は三十五度を超えるとか言っていなかったか。しかしこれだけ暑いともっと行っているような感じがする。例えば四十度とか。……いや、それは行き過ぎか。
 しかしまあ、何はともあれ、問題はそんな所ではないのだ。本当に問題にすべきことは、夏休みの宿題をやっていなかったことでもなく、タオルを忘れて汗だくになっていることでもなく、太陽の馬鹿みたいな陽射しやクソやかましいセミの声でもない。問題は、なぜ、自転車のタイヤがパンクしてしまったのか、ということだ。つい三分前だ。自転車を漕いでいたら風船が割れるみたいな音が響いて、?マークを頭の上に浮かべて首を傾げていると自転車がぐわんぐわん揺れ出した。まさかねえ、とか思って前輪を見たら見事ぺしゃんこ。そのまま乗って行く訳にもいかず、かと言ってこの馬鹿みたいに暑い陽射しの中で自転車を押して行く気にもなれず、結局はどうしようもなくなって、源川祐介(みなかわゆうすけ)は高校二年生の二学期初日の帰り道に、帰路の途中にある大きな木の木陰に座り込んでぼんやりと魂の抜けたみたいな顔をしている。
 北浦高校二年五組出席番号十七席源川祐介。成績は中の中の上。運動は得意でもなく不得意でもなく至って普通で、チーム戦でスポーツをやらせれば邪魔にはならないけど別に活躍もしない程度。顔も普通だし体格だって普通、たまに寝癖がついていて笑われるのが唯一の悩み。殴り合うような喧嘩など生まれてこのカタ十七年一度だってしたことがない。どこの学校の、どこのクラスにも居て、同窓会などで会ってもしばらくは名前と顔が一致しないであろう奴の典型型みたいな学生である。そんな奴が木陰でパンクした自転車を眺めていても気に止める生徒などいるはずも無く、そんな訳で一人虚しく、祐介はぼんやりとしているのだった。
 頭上からセミの声が聞こえる。見上げたそこにアブラゼミがくっ付いていて、忙しなく鳴いていた。攻撃して反撃を受けるのも嫌だったので放置する。さっきから同じ姿勢でいるせいか眠たくなってきた。このまま寝ちまおうか、と半ば本気で思う。しかしもし寝て脱水症状とかで死に絶えるのは嫌なので何とか踏み止まる。さっさと家に帰ってシャワー浴びてクーラー効かせた部屋の中でアイス齧って寝転びたい、との妄想を膨らませるが、そこに辿り着くにはやはりこの状況を打破しなければならない。それが面倒過ぎて、やはり祐介は行動に移せなかった。
 木陰の前を、カップルと思わしき自転車にニケツの二人組みが横切った。コケて死ね、と不謹慎なことを願いつつも、唐突に親に迎えに来てもらおう、との考えが浮かび上がった。とてもつもない名案だと思った。そうと決まれば行動あるのみである。制服のポケットから携帯電話を引っ張り出し、折り畳み式のそれを広げてメニューを幾つか操作した後、通話ボタンを押し込む。通話口を耳に当てること数秒、母親が電話に出た。
 希望の光だ、と拳を握る。
「あ、母さん? おれだけど、」
『ピー、ブツッ、―――ツー、ツー』
 切れた。
 自分はそんなに母親に嫌われているのだろうか、と本気で心配になって携帯の画面を見たとき、すべてに合点がいった。携帯の電源が切れていた。そう言えば少し前から一度も充電していない気がする。何とも素晴らしいタイミングで力尽きてくれたものだ、涙が出るぜ、圧し折るぞコラ。
 一気に気力が萎えた。携帯電話をカッターシャツのべたついた胸ポケットに放り込み、その場で目を閉じた。もういいや、本気で寝よう。夜になっても自分が家に帰らなければ、先の電話を不審に思った母親が誘拐か何かだと思って混乱し、その勢いで110番通報してそれを真に受けた警察が捜索隊を出動させてくれるだろう。そうなれば自分は一歩も動かずに家に帰れるし、パトカーにだって乗れる。そうなったら時の人だ。学校で人気者になれる。ハッハッハ、ザマーミロ。…………嗚呼、アホか、おれは。
 いつまでもこんな所で座り込んでいる訳にも行くまい、とようやく動く気力が湧き上がる。さっき携帯で見たときの時刻はまだ昼過ぎだった。帰っていろいろとできる時間はまだまだ残されている。こんな所で腐っていても良いことなどないだろう。ふやけ出していた脳みそを起動させ、のっそりと立ち上がって自転車に歩み寄る。しばらく陽射しの中に放置していたせいでサドルが笑えるくらいに熱されていた。やはり漕いで帰るのは無理みたいだ。何だか癪になって、ふっと自転車の前輪を見たときに気づいた。
 眉を寄せて前輪に近づく。手をそっと伸ばし、それを摘む。引き抜こうとするがちょっとやそっとの力では無理だった。少しだけムキになって全力でそれを摘み上げてやっと抜けた。それを目の前に持って来て、マジマジと見つめる。自転車の前輪に突き刺さっていたそれは、五センチは余裕であるような釘だった。なぜこんなものが刺さっていたのかが不明だ。そもそもどうやったら釘が自転車のタイヤに刺さるのだろう。何者かの策略が見え隠れするような気がするが無視しよう。
 額の汗を拭き取って、自転車のスタンドを上げ、ぐわんぐわん揺れる自転車を見るも無残な格好で押して行く。中途半端な時間なので他に帰宅部の生徒がこの通路を使用していないのが唯一の救いだろうか。もしこんな所をクラスメイトにでも見られたら明日からどんな顔して学校に行けばいいのか。こんな現場を見られても平気で学校に行けるなんてのは、人気生徒の特権でしかない。我々地味な生徒が日頃からどれだけ必死に学園生活を生き抜いているかお判りか、特に出席番号七番の木村浩司。お前のこと言ってるんだ。いつもいつもうるさいんだよお前、確かにお前は面白いけど何だか嫌いなんだよおれは。……ごめん木村、嘘だ。ちょっと格好良いこと言ってみたかっただけなんだ、許してくれ。お前はおれの数少ない友達の一人なんだから。
 止めどなく流れ続ける汗を拭いながら、自転車でも三十分は掛かるであろう帰路をぼんやりと歩いて帰る。しかし途中からは面倒になって、何もかも放棄して自転車に跨ってぐわんぐわん揺れるハンドルを捻じ伏せながらペダルを漕いでいた。何度も転びそうになったし、田んぼに突っ込みそうにもなった。それでも何とか進めたことが有り難かった。やっとのことで帰り着いた家の駐車場に自転車を止め、汗をもう一度だけ拭ってから玄関のドアを開けた。
「ただいま」と家の中に声を掛けるとリビングの方から母親から「電話、何かあったの?」との声が聞こえた。どうでもよくなって「別に何でもない」と返事をしてから階段を上った。廊下の突き当たりにあるのが祐介の部屋だ。電気をつけて胸ポケットに入れっぱなしになっていた携帯電話を取り出してベットの上に放り投げ、ふらふらの足取りで部屋を出て階段を下り、脱衣所に向かった。汗でベタベタの服を無造作に脱ぎ捨ててシャワーを頭から浴びる。生き返った気分だった。
 生気を取り戻した体と一緒に脱衣所を出て、首にタオルを巻いて上半身裸のままリビングに向かう。母親はリビングに座り込んで洗濯物を折り畳んでおり、それを横目に台所に向かって冷蔵庫からコーラのペットボトルを引っ張り出してそのまま口をつけて飲み込んだ。喉を通る炭酸に涙が出た。夏場のコーラは最高である、などと思いながらキャップを戻して冷蔵庫を閉める。
 部屋に戻ってゲームでもしよう。そう考えて踵を返したとき、母親に呼び止められた。
「祐介、テーブルの上に貴方宛の変な手紙があるわよ」
「手紙?」
 はて。変な手紙をもらうような心当たりはないのであるが。
 しかし一応は見ておかねばなるまい。リビングのテーブルの上に置いてあった茶色い封筒を手に取る。「これ?」と訊くと、母親は「そう」と答える。その封筒を見つめる。表にも裏にも何も書かれていない、本当におかしな封筒だった。切手も貼ってないし、祐介の住所も書かれていない。つまり、だ。これは郵便局を通さず、この家の郵便受けに直接突っ込まれたことになる。まさか脅迫状ではないだろうか。いやしかし、脅迫されるようなネタが無い。ならば違うか。
 封筒の中に何かが入っていることに気づく。取り敢えず部屋に戻ってから見よう。そう思ってリビングを出て部屋に戻った。首に巻いたタオルで髪の水気を拭き取りながら封筒を開けて中身を取り出す。そこには、一枚の手紙と、緑色の硝子玉が入っていた。手紙には何か書いてある。硝子玉は、どこからどう見てもビー玉だった。ビー玉を通販で注文した覚えはない。何だろうか。
 意味がわからずに手紙を広げ、書かれていた内容を読む。
 そこには、こう書かれていた。


『 源川祐介様。

 こちらセロヴァイト執行協会本部。貴方はこの度、公平な抽選の結果、第十三期のセロヴァイヤーに当選致しました。
 源川祐介様、おめでとうございます。さて、それに付きまして幾つかのルールを掲載しておきますので、お忘れないようにお目をお通しください。

 最初にセロヴァイヤーにご登録するか否かを決めて頂きます。登録するのであれば、封筒の中に入っておりました緑の硝子玉――ヴァイスを噛まずにお飲みください。登録しないのであれば、そのまま放置してください。期限は本日より七日とさせて頂きます。その期間内にヴァイスをお飲み頂ければセロヴァイヤーに晴れて登録、そうでなければヴァイスは消滅するようプログラムしてあります。もちろんこれは強制ではありません。よく考えた上で、慎重に決めてください。

 次にセロヴァイト、セロヴァイヤーについての説明をしておきます。セロヴァイトとは、大気中に存在する物質を決められた形に具現化した道具、又は武器のことをいいます。その詳しい詳細はすべて、ヴァイスに詰め込んでありますので省略させて頂きます。ヴァイスをお飲みになってもらえればその意味はすぐに判るはずです。そしてセロヴァイヤーとは、セロヴァイトを用いて戦闘を行う者のことを言います。つまりヴァイスを飲んだ方のみが、セロヴァイトを具現化させられるセロヴァイヤーになるということです。

 貴方と同じように、セロヴァイヤーとして当選した方が合計で十人。率直に言わせて頂きます。その十人で、最後の一人になるまで戦闘を行ってください。そして勝ち残った最後の者を優勝者とし、その者の望みを一つだけ叶えます。本戦の開催日は七日後、期間は三十日間。どこでどう戦おうと自由です。後始末はこちらがすべて引き受けますので、遠慮無く快く戦闘を行ってください。

 セロヴァイヤー同士の戦闘の勝敗については、相手のセロヴァイトを破壊することで決します。セロヴァイヤーの意志に反してセロヴァイトがその形を失った際に、セロヴァイヤーの体内にあるヴァイスが体外へ排出される仕組みになっています。一度体外へ排出されたヴァイスはすべての効果を失いますので、そうなったセロヴァイヤーは一般人と変わりありません。つまり脱落者となります。戦闘に勝利したセロヴァイヤーはヴァイスをお忘れないように回収してください。ヴァイスを参加者分集めて初めて、その方を優勝者と決定します。敗者の生死は勝者の意思にお任せ致します。殺してもヴァイスは回収できますし、殺人犯にはなりませんのでご安心願えます。

 さて。大まかなことを記入致しましたが、これより更に細かな詳細はすべてヴァイスに詰め込んでありますので、セロヴァイヤーに登録する方のみでそれをお知りください。無駄な死体を増やさないためにお書きしますが、もしセロヴァイヤーに登録し、戦闘で死亡した場合、責任は一切取りませんのでそれを承知の上で登録するか否かを決めて頂きたい。忠告です。中途半端な覚悟で登録はしないでください。

 それではご登録頂いた方のみ、これより七日後に追って参加者人数と貴方のセロヴァイトをお伝えします。
 存分に楽しんでくれることを願い、今回はこれで終わりとさせて頂きます。

                                            セロヴァイト執行協会本部 』


 なるほど、確かに変な手紙だ、と祐介は思った。
 今時こんな手紙がまだ存在しているのが少しだけ驚きで、反面情けなかった。一時期「不幸の手紙」というのが大いに流行ったことがあった。あのときは家の郵便受けにその手紙が突っ込まれていたことがあってかなり驚いた。しかしその犯人が木村だということがわかったときは拍子抜けした覚えがある。つまりは、これもそういう類のものなのだろう。それこそ犯人は木村かもしれない。もし違ったとしても、クラスの誰かだろう。大体のメンツは割れる。こういうときに友達が少ないと便利だ、と思うのは悲しいことなのだろうか。何はともあれ、だからどうだということはない。こんなものを作ってご苦労様、よく頑張りました偉い偉い、以上。
 持っていたものをすべてテーブルの上に放り出してベットの上に寝転がる。何しよう、と思う。そこで思い出す。ベットから起き上がり、テレビに近づいてその下のゲーム機の電源を入れる。最近買ったヤツに馬鹿みたいにハマっているのだ。これをやらずしてどうするおれ。コントローラーを手にしてベットに腰掛け、テレビの画面をぼんやりと見つめる。ゲーム機がディスクを読み取る最中、視線が無意識の内にテーブルの上に転がっているビー玉に向けられていた。それに気づいて慌てて首を振る。
 スタート画面に移ったらボタンを押し込んでデータをロード、昨日はどこまでやったっけ、などと思いながらゲームを始めた。
 しかし結局、時間が過ぎるに連れ、集中力は簡単に消え失せてしまった。今、祐介の意識はゲームに向いていない。終止、頭のどこかはある一転を見つめている。そこはテーブルの上だ。そんな馬鹿なことがあるか、とは思うのだが、どうしても気になってしまう。手に持っていたコントローラーを置いてテーブルの上に手を伸ばす。手紙を摘んで目の前に広げる。見れば見るほど胡散臭い。だが同時に、見れば見るほど本物に思えて仕方が無い。有り得ないとはわかっていても、なぜかこれに期待を膨らませる自分がいる。
 駄目元で調べてみるか、と思って部屋にあるPCの電源を入れた。立ち上がったデスクトップ型のPCの前に座り、インターネットに接続して検索を掛ける。文字は決まっている。『セロヴァイト』。その文字を打ち込んでエンターキーを押すと、一秒の後にヒット件数が現れた。五万九千七百三十四件。多。ため息を吐き出しながらその中のいくつかのページを開く。しかしどれもこれも下らない内容ばかりだった。
 例えば、『セロヴァイトとは世界を謎の組織の魔の手から救うための武器である』とか、『セロヴァイトをすべて集めた者は世界を征服できる』とか、まるでアニメや漫画の設定と同じだった。極稀に『選ればれた者同士で殺し合うための兵器である』とか、祐介に届いた手紙に似た内容のことが書かれていたのだがどこまで信用していいのかわからない。何十件ものHPを巡って、そろそろ飽き始めた頃になってようやく、そこに辿り着いた。かなり重い、見るからにやばそうな掲示板だった。好奇心の下にその書き込みを幾つか眺める。その中に一つ、奇妙なものを目にした。
 書き込んだのは、サラリーマンの男と名乗る人物で、HNを『KIRETU』。その人物が書いたことを簡潔にまとめると、『セロヴァイトは実際に存在する、事実私はセロヴァイヤーに選ばれた者の一人だ』とかそんなことだった。書き込みを見ての祐介の素直な感想が、少し錯乱しているのではないか、だった。祐介と同じことを思った人がいたのだろう。その掲示板の他の住人らしき人物に、その『KIRETU』はボッコボコに叩かれていた。
 HPを閉ざす。結局は胡散臭さが増しただけだったような気がする。PCの電源を落として歩き出し、テーブルの上に置かれた手紙とビー玉を手に取り、考える。これがもし、百歩譲って本物だとしよう。だったら、自分はどうするのか。このビー玉を飲み込んで他のセロヴァイヤーと殺し合う? 冗談じゃない。こちとら生まれてこのカタ喧嘩すらしたことがないっていうのに、殺し合いなんてできてたまるか。これが本物であろうがどうであろうが関係はないのである。知ったことではない。誰がセロヴァイヤーになど登録するか、そもそもこんなもの飲み込んだら死ぬだろ。
 捨てよう。そう思った。自分は何も見ていない、こんなものは自分には届いていない。証拠隠滅だ。ゴミ箱に歩み寄り、その中にぶち込もうと腕を振り上げたその瞬間、ピタリと祐介の動きは止まる。今すぐにでも捨てなければならない、とは思うのだがどうしてもこの最後の一振りに移せない。確かに殺し合いは冗談ではない。だけど、これはチャンスかもしれない。本当に本物なら、こんな面白そうな物語は他に無いのではないか。本物なら望みを叶えるって部分も嘘じゃないかもしれない。だったら、もし自分が優勝すれば、そのときはやりたい放題になるのだ。こんなオイシイ話を見す見す棒に振って良いのか――いや、良いに決まっていた。
 唐突に我に返る。一体今、自分は何を考えていたのか。馬鹿なことを思うんじゃない。それでもし逆に殺されたら笑い話では済まない。そんな下らないことで人生終ってたまるか。捨てよう、一刻も早く葬り去ろう。それが今、自分がしなければならないことなのだ。手に握られている緑のビー玉を見つめる。少しだけ気になることがある。別にどうでもいいと言えばいいのだが、どうせなら捨てる前に少しだけ試してみよう。
 このビー玉は、何味なのか。食え、と書いてあるのだからきっと味があるはずだ。本当にただのビー玉を飲ませようとする訳ではあるまい。もしかするとそこがこの悪戯を仕組んだ者の狙いかもしれないのだ。例えばこれにはワサビとか塗ってあって口に入れた瞬間に悲鳴を上げる、とか。毒ではあるまい。もし毒で毒殺しようと企んでいるのならもっと賢いことをする。こんなことは馬鹿がすることだ。そして馬鹿にできることは、ワサビが限界なのだ。そうに決まっているのだ。
 口に入れるだけ。ちょこっと入れたらすぐに吐いて忘れてゲームしよう。
 軽い気持ちだった。ワサビでも隙を突いてカラシでも何でもきやがれ。そんな程度にしか考えいなかった。
 ――それが、そもそもの間違いだった。
 ビー玉を口の中に入れる。飴玉のように口の中でもごもごとしてみるが味がしない。いや、正確には硝子の味がする。ワサビでもカラシでも毒薬でもなく、ただの無機質な硝子玉だ。何だか無性に虚しくなった。自分が酷く哀れに思えた。負け犬の風格で口から硝子玉を取り出そうとしたそのときにはすでに、それが動き出していたことに祐介はついに気づかなかった。
 違和感。口の中が焼けるように熱い。咽返した拍子に、まるでビー玉そのものが意思を持つかのように喉に滑り込み、驚きのあまり真面目に飲み込んでしまった。硝子玉が喉を取って胃に落ちるその感覚がはっきりと伝わった。口の中の熱はいつの間にか消えていた。しばらくは、何が起こったのかが飲み込めなかった。世にも情けない表情のまま、祐介は立ち竦む。
 やがて、理解し、
 そして、叫んだ。
「ああぁああぁあ――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!!!」
 喉を両腕で押さえるがもう遅い。ビー玉はとっくの昔に胃に到着している。
 泣きたくなった。実際に目に涙が浮かんだ。
 どうすることもできなかった。飲み込むつもりなどこれっぽっちもなかった。それなのに、なぜ自分は飲み込んでしまったのか。アホだバカだ死ねと自分を罵ってももう何も始まらない。落ち着けと自分に必死で言い聞かす。部屋の中を行ったり来たり、ベットに座ったり立ったり、無意味に掃除機を動かしてみたりクーラーのスイッチを入れてみたり。窓の外から聞こえるセミの声が『アホアホアホ』と聞こえた。
 その場に膝を着く。今すぐ腹を掻っ切って胃袋ごと取り出して生ゴミに出してしまいたいがそんなことができる訳もないし、自分の腹を切るなんてほど大それた度胸など笑ってしまうかの如くあるはずがない。どうすればいいのか必死で思い悩む。一刻も早くビー玉を取り出さなければならない。飯を大量に食うべきか、下剤を飲んで出してしまうべきか。でもそうすると後が辛い。どうすればいいのかさっぱりだ。自然に出て来るのを待つのがいちばん良いが、それまでこんな訳のわからないものを腹の中に――
 目の前が歪んだ。胃に感じていたはずのビー玉の重みが一瞬で消えた。その事実を脳が理解した瞬間にはすでに、体は燃えるような熱を帯びていた。体の水分がすべて蒸発するのではないかと本気で思うほどの高熱だ。歪んだ視界が真っ赤に染まる。その場に蹲って全身から迫る吐気と寒気を抑えつける。口から無意識の内に呻き声があふれていた。その声をまるで他人事のように自らの耳が聞いている。
 消えそうな意識の中で、ただ泣きたくなっていた。自分がこの世界で最も馬鹿な人物であるような気がしてならない。口に入れるだけ、そんなクソみたいなことせずに捨てればよかったのだ。こんなもの毒薬以外の何物でもないじゃないか。死にたい。こんなに苦しいのなら死んだ方がマシだ。体の芯が劫火の中に放り込まれたように熱いのに、寒くて寒くて仕方がない。全身の毛穴から嘔吐するのではないかというくらいに気持ちが悪い。今まで味わった風邪などとは比べ物にならない。異常とはまさにこれだ。崩壊する意識の中で自分自身をただ呪った。
 すべてに耐え切れなくなって、その場で絶叫する。

     ◎

 祐介がビー玉――ヴァイスを飲み込んでから一週間後。
 祐介の家に、再び茶色い封筒が届く。そこにはやはり祐介の住所も差出人も書かれていなかった。
 中には手紙が一枚だけ入っていた。
 そこには、こう書かれている。


『 源川祐介様。

 こちらセロヴァイト執行協会本部。源川祐介様、セロヴァイヤーにご登録頂き、誠にありがとうございます。
 第十三期セロヴァイヤーの参加者数は、十人中、貴方を含めた八人という素晴らしい結果となりました。誠に、感謝の念が絶えない次第です。八人で快く戦闘を行ってくれることを心から祈っております。それでは早速、貴方のセロヴァイトを発表させて頂きます。しかしそれには、セロヴァイトの細かなことを知ってもらう必要があります。先にそちらのことを説明した上で、貴方のセロヴァイトをお教えします。

 まず、セロヴァイトには四つの型が存在します。
 一つ、打撃型。
 一つ、斬撃型。
 一つ、射撃型。
 一つ、幻竜型。
 そしてその中でも種類があります。
 打撃型に三種類、斬撃型に三種類、射撃型に三種類、幻竜型に一種類、計十種類。
 一つの型の中にもそれぞれの特性があり、どのセロヴァイトが貴方の手元に来るかで大きく勝敗は分かれます。貴方に適したセロヴァイトならば効率良く戦えることでしょう。しかし適したセロヴァイトでなくても、戦術によってその効力は幾らでも伸ばすことが可能です。逆を言えば、適したセロヴァイトでも戦術を間違えれば使えないということです。すべては貴方の戦術に掛かっています。貴方のセロヴァイトに最も適した戦術を見つけ出し、戦闘を有利に切り抜けて優勝を目指しましょう。

 次に、セロヴァイトを具現化させる方法について記入しておきます。ヴァイスをお飲みになっているのでしたら、もうすでに判っているはずです。セロヴァイトは、その真名(しんめい)を呼ぶことで具現化させることができます。具現化したセロヴァイトはセロヴァイヤーの意志を持って解除することで消滅し、体内からヴァイスが排出されない限り、具現化は何度でも可能です。しかし他のセロヴァイヤーのセロヴァイトによって、具現化したセロヴァイトが破壊されましたら体内からはヴァイスが排出され、もう具現化はできなくなります。そうなった時点で失格、脱落者になります。

 それでは、貴方のセロヴァイトを発表致します。
 源川祐介様、貴方のセロヴァイトは斬撃型。

 真名を――【雷靭(らいじん)】

 このセロヴァイトが貴方に適していることを願っております。
 本日より三十日間でヴァイスを参加者数分、つまり合計で八個のヴァイスを集めたその時点で貴方は第十三期の優勝者です。しかし期限内に誰もヴァイスを八個集められなかった場合、優勝者は無しとみなされ、ヴァイスは自動的に体外へ排出される仕組みになっています。
 誰が優勝するか、又は誰も優勝しないのかは判りません。しかし快く戦えば結果は付いてきます。
 貴方の健闘を祈り、これで終わりとさせて頂きます。

 次回は、参加者数が四人にまで減った際に追って通知致します。

                                            セロヴァイト執行協会本部 』


 第十三期セロヴァイヤーとして、祐介のセロヴァイト本戦参加が決定した。
 相棒は、一振りの刀。その真名を、雷靭。

 第十三期セロヴァイヤーによる、セロヴァイト本戦の幕開けだった。





     「真柴篤史」



 何もかもが、変わった。
 元来、祐介は学校の教室の中では大人しい方に部類される。授業中に誰かと話すこともなかったし、自ら手を上げて教科書を読むなんてこともしなかったし、携帯電話を弄ることも漫画を読むこともしなかった。ただぼんやりと授業を受け続けていたのだ。それがいちばん気楽で、いちばん自分に合っているとさえ祐介は思っている。しかし、それが一週間前のあの日から、すべて変わってしまった。
 授業中に席に座っていてもまったく落ち着けないし、教卓で何か喋っている教師の声すら聞こえない。穴の開いた天井、落書きされた壁、汚れた黒板、埃が転がる床、開け放たれた窓、見慣れた光景。毎日見ていたはずの視界に映るすべての光景が幻に思えて仕方がない。四月から一緒だったはずのクラスメイトが全員、自分の命を狙うセロヴァイヤーに思えてならない。気を抜けばその瞬間に後ろから刺し殺されるのではないかと本気で思う。
 そんな状態の中、のんきに席に座って授業など受けられるほどの大層な度胸が祐介には無かった。席の上で小さくなって誰にも気づかれないように僅かに震え、必死に拳を握り締めて時間が早く過ぎ去ってくれることをただ祈る。教室の時計はすでに十二時を回った。今朝学校に登校して来て、今までに一体何度早退しようと思ったことだろう。だが結局は早退しようにも席を立つだけの勇気が無く、立った瞬間にクラスメイトに殺されるのではないかと心配になる。何にも行動に移せないまま、朝からまったく一緒の姿勢で自分の席に座っている。授業内容など、当たり前のようにまるで覚えていない。
 自分の体は、どうなってしまったのだろう。自分はこれから、どうなってしまうのだろう。
 恐い。死ぬほど恐い。軽はずみの馬鹿な行動で、なぜ自分はヴァイスを飲み込んでしまったのか。しかし、やはり今更に悔やんでも仕方が無い。今、自分がすべきことは何なのか。それを考えなければならない。自分はヴァイスを飲み込み、セロヴァイトを具現化させられるセロヴァイヤーになった。これは、紛れもない事実である。実際に、半信半疑で自分に割り当てられた雷靭というセロヴァイトを具現化させた。あの光景は、今でも目にはっきりと焼きついている。自らの掌から緑の光の粒子があふれ出し、何かの形を造るために活動を開始する。やがてそれは一振りの刀を造り出す。日本刀によく似た、ズシリと重い刀だった。
 あのとき、その雷靭を見てカッコイイと思ってしまった自分が酷く情けない。これがあれば誰にも負けないと確信に近い思考を持ったことが酷く無能だった。雷靭を消し、一歩外に出てみて思い知ったのだ。見慣れていたはずの人間すべてが、セロヴァイヤーに見える。気を抜けば背後からザックリと殺されるのではないかと本気で思ってしまう。セロヴァイヤーに選ばれたのは十人だと手紙には書いてあった。それがどういう基準で選ばれているのかはわからないが、クラスメイトの中にその十人の内の一人が入っているかもしれない。事実、自分はこうして選ばれているのだから可能性は大きい。だが、その誰かがわからなければ恐怖だけが膨れ上がる。見えない敵が、何よりも恐い。
 チャイムが鳴った瞬間、死ぬほど驚いた。悲鳴を上げなかっただけまだマシだった。結局は広げただけで何も書かなかった白紙のノートを慌てて閉じて引き出しの中に突っ込む。教師が何事かをつぶやきながら教室を後にし、残った生徒たちは訪れた弁当の時間に期待を膨らませる。ジュースやパンを買いに行く者、とっとと鞄から弁当箱を引っ張り出して食い始める者、机を合体させて和気藹々とおかずを交換する者。学校の休み時間の中ではいちばん賑わうはずの昼休み。しかしそんな中でもやはり、祐介は一人僅かに震えている。
 鏡を見なくてもわかる。自分は今、とてつもなく顔色が悪いのだろう。下手をすれば顔面蒼白になっているかもしれない。弁当を食うような状況ではなかった。弁当を食おうという気力すら出て来ないし、そもそも家から弁当を持って来ているのかどうかさえ思い出せない。自分でも重症だと思う。この数え切れないほど存在する人間の内、たった十人だ。しかも手紙に書いてあったことが正しいなら自分を含めた八人だ。そんな簡単にセロヴァイヤーに遭遇するはずはない。平常心を装っていればバレっこない。しかし、『でも、もしかしたら、』という不安がどうしても拭い切れない。他にセロヴァイヤーに選ばれた奴等はどんな思いで今を過ごしているのだろう。自分のように、見えない敵に恐れをなしているのだろうか。
 誰でもいいから、力になって欲しかった。この相談を誰かに持ちかけて何か言ってもらえれば少しは気分も晴れるかもしれない。だけど、そんなことを言える友達はいない。いや、言える友達はいるが、誰も信じてくれないだろう。自分でもそうだ。誰かに『セロヴァイヤーになった、殺されるのが恐い、どうすればいいと思う?』なんて相談を持ちかけられたまず間違いなくそいつの正気を疑う。腹を割って真剣にそんな馬鹿みたいな相談を話せる奴なんて、いる訳が
 肩を叩かれた。今度は悲鳴を上げた。
 一瞬で振り返ったそこに、木村浩司を見た。木村は予想外の祐介の反応に驚いているような表情をしていて、祐介の肩の上に微妙に置かれた手が居心地悪そうにピクリと動いた。木村が苦笑を取り繕う。
「お、おい何だよ祐介。ビビったろ、そんなに驚くなよ。ま、まあいいけどさ、そんなことよりお前、弁当食わ……って、お前顔色悪くねえか? 死にそうな顔してんぞ」
 やはりそんなに悪い顔色をしているのだろう。今日は本当に帰った方がいいのかもしれない。
 なぜか無性に辛くなって木村から視線を外したとき、木村は「ふむ」と肯いた。そのまま祐介の前の席に座り込み、小声でつぶやく。
「何か心配事か? お兄さんで良ければ話聞いてやるよ。女か? ん? 金関連以外のことなら何でも言え」
 馬鹿かお前は、と開けかけた口が途中で止まった。
 自分でもなぜ、言おうと思ったのかはわからない。ただ、気づいたときには喋り出していた。
「……例えば、もし木村が変な組織から手紙が来て、しかもその中には自分を含めた選ばれた十人で殺し合いをしてくれって書いてあったら、どうする?」
「――は?」
「その十人にはそれぞれ専用の武器があって、その武器では十人の中の誰を殺しても殺人犯にはならない。でも下手をすれば逆に殺されるかもしれない。死んじゃったらそこまで、ゲームオーバー。もし、もしそんなゲームみたいなことが自分の身に起きたら、木村ならどうする? そのゲームに乗る? 乗らない? そしてもし乗ってしまったのなら、どうする?」
 木村はしばらく、祐介の顔をじっと見つめていた。しかしすぐにため息を吐いて席を立った。
「……祐介、ゲームのし過ぎだ。……けど、そうさな。もし乗っちまったんだったら、全員……皆殺しにしてやる」
 唐突に、木村は笑う、
「――なんてな。無理に決まってる、そんな簡単に人なんて殺せてたまるかっつーの。いい加減ゲームから卒業しろよ、徹夜ばっかしているからそんな顔色になんだよ。ちゃんと飯食え、じゃあな。――松下! ジュース買いに行くんだろ、おれも行くよ」
 教室から出て行く生徒に混じり、木村は祐介の視界から消えた。
 木村が消えたドアを見つめながら、ぼんやりと祐介は思考を巡らす。少しだけ、気が晴れたような感じがした。冗談混じりの木村の返答が僅かな救いだった。そうなのだ。そんな簡単に、人を殺せてたまるか。自分は絶対にそんな安易に人は殺せない。他の人間でもそうだろう。ということは、だ。他のセロヴァイヤーも無意味に人を殺すことはしないということに他ならないのではないか。深刻に考え過ぎていただけなのかもしれない。こっちから何もしなければ、他のセロヴァイヤーだって問答無用に攻撃など仕掛けてこないだろう。
 学校に来て初めて、緊張の糸を切った。木村に話してみてよかった、と今は思える。忘れよう、何もかも。殺すとか殺されるとか、セロヴァイトとかセロヴァイヤーとか。そしてもちろん、雷靭の存在すら忘れよう。もともと間違いで自分はセロヴァイヤーになってしまったのだ。優勝云々など関係ない。勝手にやってくれ。自分が恐がる必要などこれっぽっちもないのだ。堂々としていればいい。今まで通り、地味系の生徒を演じ続けよう。我慢は三十日間。たったそれだけで、すべてが終るのだ。気合だ源川祐介。元気があれば何でもできる。
 その場でゆっくりと肯く。いつの間にか、震えは止まっていた。数少ない友達の一人は、良い奴だった。弁当食おう、と唐突に思う。頭の隅に渦巻くいらない思考を捻じ伏せ、机の横に掛けてある鞄に手を伸ばす。ファスナーを開けて中を覗いて初めて、本当に弁当を家に忘れて来た事実に気づく。数秒だけ沈黙して、それから時計に目を移す。昼休みが始まって五分経過。かなりキワドイ時間帯だ。今から購買部に向かっても美味いパンが買えるかどうかは微妙なところだ。しかし何も食わないまま午後の授業を迎えるのは勘弁である。何でもいいから取り敢えずは胃袋に入れたい。
 鞄から財布を取り出して、今日初めて席を立った。教室を出て購買部へ向かう。その途中、ジュースを買い終わって戻ってきた木村と擦れ違った。木村に目線で「ありがとう」と言いつつも階段を下る。二年の教室は校舎の二階にあり、購買部は一階の一番端に位置する。普段はそこまで行くこと自体が面倒なのでほとんど行かないが、今日はやはり仕方がない。気分が晴れたら腹が減ったのだ。
 購買部には生徒の数はあまり無かった。それはつまり、もう大半が売り切れてしまったことを意味する。少しだけ残念な気持ちに駆られ、それでも何か買おうと購買部を覗く。数えるくらいにしかないパンの中から、一応は人間が食えそうなものを探す。この時間、最も売れ残っていたのが唐辛子バターパンだった。どんなパンだよ、とは思うのがそんなものに百円を注ぎ込む気にもなれないので無視する。奇跡的にメロンパンが一つだけ売れ残っていることに気づく。これ幸いと購買部のおばちゃんに財布から取り出した百円玉を手渡し、メロンパンと言おうとしたその瞬間に、祐介は百円玉を取り落とした。
 背筋に、とんでもない寒気が走っていた。
 その声は、耳元で聞こえた。
「――お前、セロヴァイヤーだな?」
 相手の顔は、恐過ぎて見ることさえもできなかった。
 取り落とした百円玉も、最後の一個のメロンパンも放り出して駆け出す。頭の中が真っ白だった。しかしそれでも体は無意識に逃げていた。廊下を叩くスリッパの音が二重になって響き渡る。後ろから「待てコラァアッ!!」との叫び声が聞こえた。恐過ぎて涙が出た。目の前にいた生徒を上級生下級生関係無く突き飛ばして校舎を逃げ惑う。直線の廊下は分が悪いと思い至り、出鱈目に辺りを曲がったりして駆け抜ける。途中でスリッパが脱げてしまったが気にも止めない。そんなことを気にしている暇も余裕もなかったし、そもそもそんな理由で後ろを振り向くのが恐かった。
 どこをどう逃げ回ったのかなんてまるで覚えていない。ただ、気づいたときにはスリッパが両方脱げたまま校舎から出て、体育館の裏手の林の影で蹲っていた。風が吹き通る度に草が揺れる音が聞こえる。その音の一つ一つが足音に聞こえて祐介の思考を塗り潰す。どうしようもできない。何もかも捨て、ただ恐いという思考に体が支配されている。嗚咽にも似た呻き声が口からあふれていた。殺される、と本気で思う。
 無意識の内に、その真名を呼んでいた。
「雷靭……ッ!」
 体育館の裏手から風が消え、蹲っている祐介の右手から緑の光の粒子があふれ出す。粒子は意思を持って漂い、決まった形を形成すべく活動を開始する。ズシリと重い感覚が掌に触れたとき、緑の光の粒子は弾ける。そこから現れるのは、夏の陽射しに照らされて刃が輝く一振りの刀。斬撃型セロヴァイト・雷靭である。
 雷靭を握り締めながら辺りに神経を巡らす。頭の中に何かが灯った。何かはわからない。ただ、感覚が教えてくれる。この近くに、セロヴァイヤーはいない、と。レーダーのようなものだった。どういう仕組みでそんなことがわかるのかはわからないが、それでもこの近くにはセロヴァイヤーはいないという情報が驚くほど大きな安堵を運んできてくれた。
 辺りから聞こえるセミの声に混じって、どこからかチャイムが聞こえてきた。五時間目の授業が始まる合図である。だが今、校舎に戻る気には当たり前のようになれない。いや、それ以前にもう二度とあそこには戻れないとすら思う。さっきの奴が誰かはわからない。聞いたことのない声だったが女ではない。男だ。しかも初対面の人間に偉そうに声をかけられるのだからたぶん三年。北浦高校三年生の誰かが、八人の内のセロヴァイヤーの一人なのだ。最悪のパターンだった。拳を握って歯を食い縛る。ちくしょう、おれが何したってんだよ……。
 体の力を抜いてすぐ側にあった木に凭れかかり、雷靭を握り締めて体を小さく丸める。止まっていたはずの震えがぶり返す。これからどうしよう、と考え続ける。教室に戻って鞄を回収したいのだが、一度教室に戻ればすぐには帰れないだろう。それが命取りになる可能性もある。鞄は諦めるしかない。今日はこのまま帰って、学校には家から連絡しよう。明日からは仮病を使ってしばらく学校を休んで、それから、それから……。どうすればいいのか、まったくわからない。
 先のセロヴァイヤーを迎え撃つ気など毛頭に無い。生まれてこのカタ喧嘩すらしたことがないのだ。いきなり殺し合いなどできてたまるか。しかしこれは、殺らなければ殺られる戦い。生き残るためには、先のセロヴァイヤーを殺すしか道はないのだ。でも、自分にそれができるとは到底思えない。虫を殺すのでさえ躊躇うのに、人間なんてとてもじゃないが殺せない。殺人犯にはならないらしいが、それでも人を殺したという罪悪感に苛まれるのは目に見えている。そうなったら、絶対に自分は発狂するか自殺するかのどちらかである。でも、だったら、どうすればいいのだろうか。
 何もわからない。何も思いつかない。そして、いつまでもここにいるのは危険だと思い至る。心細いが雷靭を一度消滅させ、祐介は立ち上がる。体育館の裏手を足音も立てずに歩き出し、どこぞのスパイのように壁の端から辺りの様子を窺う。なぜか頭の中にはレーダーみたいなものがあって、それを活用させれば近くにセロヴァイヤーがいるかいないかが何となくわかる。そのレーダーの使い方は体が自然に知っていた。どうやらそれがヴァイスの能力らしい。
 体育館の裏手を抜け、誰もいないグランドの端を走り抜ける。そのまま校門から外に出ようとしたときになってようやく、自分が裸足のまま逃げていたことに気づいた。スリッパはどうでもいいのだが靴が無ければ帰れない。そう言えば自転車も置いて行くところだった。せっかくパンクを直したのに放置して行く訳にもいくまい。それにすぐに逃げたいのなら自転車は必要だろう。幸いに鍵は掛けていないので教室に戻る必要もない。まずは下駄箱に向かう。
 校舎の教室から見えない位置に体を滑り込ませて走り続け、頭の中のレーダーをフル活動させて下駄箱に辿り着く。だいじょうぶ、あのセロヴァイヤーはいない。自分の下駄箱の蓋を開け、薄汚れたスニーカーを引っ張り出して履く。誰かに見つかると厄介なのでそのまま全速力で駐輪場に走った。今更に馬鹿みたいに暑い太陽の陽射しを思い出し、額からあふれた汗を拭う。セミの声を無視しながら自分の自転車の所まで走り寄って、スタンドを上げてサドルに跨る。ペダルを必死に漕ぎながら校門から道路に飛び出し、脇目も振らずに爆走する。
 学校が見えない距離に達した頃になってようやく安心できた。自転車を漕ぎ続けながらこれからどうすればいいのかをまた考える。学校をサボるのがいちばん効率がいいのだが一ヶ月も休めるはずもない。そもそも一日休むのにも親を説得しなければならないのだ。どうすればいいのか。このまま誰もいない無人島とかに逃げ出すことができるのならどれだけ楽なのだろう。どうにかしてあのセロヴァイヤーから逃れなければならない。どうにかして、
 背後から、購買部で味わったような寒気が響き渡った。頭の中のレーダーが、セロヴァイヤーの影を捉えた。
 学校方面から、とんでもないスピードでセロヴァイヤーが近づいて来る。尋常ではない速さだった。自転車に乗っている祐介より更に速い。車とも違う。まるでジェット機のような加速である。信じられない速さで、信じられない寒気を放ちながら、そのセロヴァイヤーは一直線に祐介を追って来ていた。
 発狂しそうな恐怖が胸のどん底からあふれ出る。サドルから尻を上げて全力でペダルを漕ぐ。蜃気楼が微かに見えるアスファルトを汗だくになって進み続けた。今までこれほどまでに早く自転車を漕げたことはなかった。しかしそれでも、追って来るセロヴァイヤーには勝てなかった。頭の中のレーダーが背後から迫り来る敵を確実にトレースしている。やはり背後を振り返ることはできない。振り返ったら最後、その時点で死ぬような気がする。
 人通りの多い場所へ逃げるのがいちばん効率がいいはずのなのだが、自転車はなぜか無意識の内に人気の無い場所へ向かっていた。だが今の祐介はそんなことにさえ気づけない。このまま自転車を漕ぎ続ければいづれ逃げ切れるのだと虚しい希望が頭の中で空回りしていた。追われる恐怖が何よりも恐い。汗に混じって涙が頬を伝う。
 急カーブに差し掛かり、少しだけブレーキを掛けようと右手をズラした瞬間に汗ばんだ手がハンドルから滑り落ちた。その場に転倒して焼けるようなアスファルトに激突する。痛がっている暇は当たり前のようにない。セロヴァイヤーは更に近づいていた。車輪がきゅるきゅると空回る自転車をその場に残して走り出す。夏の陽射しが今は監視衛星に見えて、聞こえるセミの鳴き声が敵に自分の位置の情報を送っているような気がする。世界中が敵に思えて仕方が無い。
 祐介が誰も乗っていない車の脇を通り抜けた刹那、その車のボンネットが轟音と共に弾け飛ぶ。
 驚きのあまりに背後を振り返ってしまう。そしてボンネットの上にいる、その異物を見てしまった。黒い乗用車のボンネットの上にいたのは、灰色の人型をした『何か』だった。目と思わしき箇所から覗く眼球が気持ち悪いほど歪んでいた。その『何か』は弾け飛んだボンネットを更に破壊して電柱より高く跳躍しながら一直線に祐介に向かって突っ込んで来る。恐過ぎて何もできなかった。体が後ろに傾いたのは意識してではなく、ただ単に腰が抜けただけだった。
 祐介がいるすぐ前のアスファルトが粉々に砕ける。至近距離でその『何か』を見た。人間である。いや、セロヴァイヤーだ。灰色の歪な形の鎧を身に纏ったセロヴァイヤー。貝殻が折り重なって造られているような、不気味な鎧こそがそのセロヴァイヤーのセロヴァイト。気持ち悪かった。殺される、と本気で思った。
 涙を垂れ流したまま踵を返して再度走り出す。後ろから笑い声が聞こえる。そのセロヴァイヤーは、明らかに楽しんでいた。逃げ惑う祐介を徐々に追い詰めていくこの状況を、純粋に楽しんでいる。その笑い声が、死神の声に聞こえた。
 ――簡単に人を殺せる訳がない、だと? 違う。このセロヴァイヤーは、簡単に人を殺せる人間だ。そんな化け物に、勝てるはずがない。どうすればいいのか、何も思いつかない。誰でもいいから、助けて。誰でもいい、誰でも。お願いだから、誰か――
 辿り着いたそこは、見知らぬ工場の倉庫のような場所だった。一体どれだけ逃げ回ったのだろうか。息はもう続かなくて、足がガクガクに震えていて、思考はすでに機能を停止させていて。倉庫内を一瞬だけ見回した後、鉄筋が積み上げれていた壁沿いの影に身を潜めて息を殺す。が、そんなことをしても無意味に他ならないのだが、こうしていれば見つからないのではないかと今は本気で思っていた。いや、願っていたのだ。見つからないで欲しい、諦めて帰って欲しい。今は、それだけを願い続けた。
 しかしその願いは、当然の如くいとも簡単に砕けた。倉庫の扉が弾け、その拍子に飛び散った金具が祐介のすぐ側に激突する。驚く声を必死に押し殺し、涙の浮かんだ目のまま辺りの様子を必死に窺い続けた。
 足音が聞こえた。
「オイオイ、鬼ごっこの次はかくれんぼか? 勘弁しろよ、そんなことされたらさあ……殺したくなるじゃん」
 刹那、祐介の体を隠していた積み上げられた鉄筋が宙を舞った。
 地面に突き刺さる鉄筋の音を耳に入れながら、祐介とそのセロヴァイヤーは対峙する。
 震えながら灰色の鎧を見つめる、恐過ぎて口も聞けない。
「お前、二年だろ? ビビり過ぎだ。そんなんじゃ楽しめねえよ。取り敢えず立て。自己紹介して親睦を深めようじゃないか」
 灰色の鎧が音を立てて曲がる。セロヴァイヤーは、起用に上体を屈めた。
「三年の真柴篤史(ましばあつし)だ。真柴って名前、たぶん知ってんだろ。この前教師を金属バットで殴って停学してた奴の名だ」
 その名は知っている。北浦高校始まって以来の問題児、最凶最悪の男子生徒だ。
 それが、目の前にいるこの真柴。しかし灰色の鎧に覆われた顔の下を、祐介はすぐに思い出すことができなかった。ただ、思う。金属バットで教師を殴ることができるのだから、年下の自分など本気で殺してしまうのだろう。相手が悪過ぎる。なぜよりにもよってこの男がセロヴァイヤーに選ばれたのか。こんなの、勝てる訳がない。卑怯だ、ズルだ。どうしろと言うのか。喧嘩もしたことがない奴が、金属バット振り回す奴にどうやって勝てと言うのか。冗談じゃない。勝てるはずなんか、ないじゃないか。
 真柴が笑う。
「テメえもセロヴァイヤーならセロヴァイト出せよ。殺し合い、楽しめないじゃねえか。せっかく最初の獲物を見つけたんだ。存分に、楽しませてくれよ。……何とか言えよ、ええオイッ!!」
 鎧に包まれた拳が飛んだ。
 目でも追えないほどの早さの拳が、祐介が凭れていた壁を砕く。耳元で聞く破壊の音は、何よりも恐ろしかった。
 そして、恐怖に負けた。震えながらその真名を呼ぶ。
「……雷靭……ッ!!」
 右手に緑の光の粒子があふれ出し、一振りの刀を造り出す。
 それを握り締めながら、震える切っ先を鎧に突きつけた。
 だがそれを何の抵抗もなく真柴の手は掴み取る。
「ほう。これは斬撃型か。で、真名を雷靭。……カッコイイじゃねえかよ。お前には、勿体無いくらいに」
 見ろよおれの、と忌々しげに自らの鎧を見下げる。
「打撃型セロヴァイト・羅刹(らせつ)。気持ち悪いったらありゃしねえ。まったくよ、おれもこんなセロヴァイトが良かったぜ。……だからよ、ムカつくんだよお前。何でお前の方が良いの持ってたんだよ、癇に障るっつーの。死ねさ、マジで」
 刃を振り払い、真柴の拳が飛んだ。避けれなかった。
 腹に衝撃、目の前が空白に染まる。生まれて初めて、人に殴られた。その衝撃は、祐介の世界を震撼させるほどの威力を持っていた。とんでもない吐気が押し寄せて来て、その場に蹲って胃液を吐き出す。それでも真柴は容赦しない。祐介の髪を鷲掴み、力任せに引き上げる。もともとの身長差を利用して祐介の足が地面から離れた。意識が朦朧とする中で、繰り出される攻撃をぼんやりと目で追っていた。
 右拳が頬を捕らえ、体が傾いた次の瞬間に顎を強打される。ふわりと浮いた祐介の体が無防備になったそのとき、遠慮一切無しの真柴の蹴りが鳩尾に入った。口の中に広がっていた鉄の味が一瞬だけ吹き飛んで、しかし湧き上がってくる胃液の気持ち悪さに負けそうになった刹那に、倉庫の壁に激突していた。背中を打った際に全身に激痛が駆け巡る。追撃が恐くて仕方がなくて、その場で体を丸めて亀のように蹲る。雷靭を握った手に口から流れた血が滴り落ちた。
 勝てる訳が無い。勝てるなんて微塵も思えない。強過ぎる、相手が悪過ぎる。こんなの、だって、どうしようもない。殺されるんだ、今ここで、殺される。自分が終る。まだやりたいことは沢山ある。死にたくない。何が何でも死にたくない。殺されたくない。生き残りたい。こんなところで、終るなんて、絶対に嫌だ。殺されたくない、死にたくない。だったら、取るべき道は、ただ一つ。殺される前に殺してしまえ。死ぬ前に死なせてしまえ。だいじょうぶ、殺人犯になんてならない。これは正当防衛だ。殺されそうになったらから殺す。殺される前に、殺せ。
 頭の中で、何かが弾けた。風靭を力の限り握り締めながら、祐介は目の前の敵を見据える。
 地面を蹴って跳躍し、一歩で真柴の体を斬撃距離圏内へ入れた。いきなりの行動に驚いた真柴のガードが遅れ、その一瞬が命取りになる。祐介が雷靭を振り抜く。重い感触が刃先から手首に伝わったが無視して敵の体を縦一線に切り裂いて、地面に着地したのも束の間、出鱈目に刃を振るった。頭の中が驚くくらい沸騰している。錯乱と対して変わらない脳内状況だった。切って切って切り刻んで、そして息が切れたそのとき、目の前にあるのは傷だらけの灰色の鎧だった。
 殺してしまった、とそのときは本気で思った。しかし、真柴の手が伸びて来て、祐介のこめかみを掴んだ。頭蓋骨が軋む音を聞いたように思う。目の前にあった灰色の鎧に変化が起こる。祐介が切り刻んだはずのその鎧の傷が、修復されていく。数秒後、そこにあるのは無傷の羅刹だった。祐介の攻撃は、何の意味も成してはいなかった。
 真柴の腕に力が篭り、祐介の体が宙に浮いたと思ったときには地面に激突していた。真上から腹を踏まれ、口から血を噴き出す。
「……ハッ。セロヴァイトの特性も知らない雑魚か。何だよ、少し期待して損したぜ。お前みたいな奴はな、この戦いにはいらないんだよ。雑魚は大人しく、死んでな」
 足の位置がゆっくりと上がる。狙いは、祐介の顔面。
 すでに意識がほとんどないこの状況で、避けるのはもはや不可能に近かった。漠然とした意識の中で、死ぬ、と他人事のような気でつぶやいていた。真柴の足が振り上げられ、そしてそれが一気に祐介の顔面に突き出され、
 ――弱い。あまりに弱い。
 声を聞いた。すべての時間が停止する。振り下ろされた真柴の足が人形のように硬直していた。
 ――負ければ意味は無い。力を、貸してやろう。
 右手に焼けるような高熱が伝わる。握っていた雷靭が光を帯びる。
 祐介の体の支配権が奪われた。
 時間が元の流れを取り戻す。振り下ろされた真柴の足は、地面を潰した。そこに、獲物の顔はすでになかった。灰色の鎧から覗く視線がゆっくりと移動する。そこに、刀を地面に付けながらふらふらと漂う祐介がいる。真柴が怪訝な目つきで再度地面を蹴った。その進撃を、祐介の体は糸でも引かれたように避け、その体を真柴は懇親の力で追う。喧嘩で鍛えたそのスタイルで操り人形のように逃げる祐介の体を攻撃し続けるが、一発も当たらない。
 そして、それまで相手にならなかったはずの雑魚から、思わぬ反撃が出た。風のような速さで振り抜かれた刃は、真柴の両足首を一瞬で切断する。驚く暇も無かったはずである。そもそも真柴には何が起こったのかわからなかったのだろう。不自然に倒れ込む真柴に向かって、雷靭の刃の切っ先がゆっくりと浮上する。
 容赦は、無い。
 空間を輝く刃が切り裂いたとき、切っ先は真柴の背から胸を貫いていた。そこは、心臓がある場所だった。貫いた刃をぐるりを回転させて臓器を完全に潰し、雷靭は獲物の意識を完全に消滅させた。僅かな痙攣の後、真柴の体は完全に停止する。やがてその体を覆っていた灰色の鎧が緑の光の粒子に包まれて消え、一つのビー玉を造り出す。それが、真柴のヴァイスだった。地面に転がったヴァイスは形を崩し、ゆっくりと漂って祐介の体に吸収される。
 その刹那、体の支配権が戻って来た。その場に倒れ込み、祐介は我に返る。今、自分が何をしていたのかが思い出せない。しかし現実の光景は、嘘をつかない。間違いなく、祐介のセロヴァイトはそこにある。敵であったはずのセロヴァイヤーの胸に突き刺さり、そこに存在している。真柴は、呆気ないくらい簡単に、死んでいた。目を見開いたまま、口から少量の血を流し、胸からあふれた血で地面に血溜まりを作り上げて、真柴は絶命している。
 自分の顔に付着しているものに気づく。ゆっくりと手で拭い、眼前に運ぶ。
 真柴の返り血だった。
 乾いた笑いを浮かべ、震える声でつぶやく。
「……殺した……? おれが、真柴を……? ……嘘だ。嘘だろ……う、ぐッ」
 背中を丸めてその場で嘔吐する。
 そして、意識は闇の中へ消えた。

     ◎

 とんでもない悪夢を見た気分だった。
 夢の中のその光景は、まるで写真のような画像が一枚一枚適当な感覚で並べられて再生されていた。出来の悪いスプラッター映画のようなものだった。灰色の何かを避ける画像、足首が切断される画像、飛び散る血の画像、刃が輝く画像、刀が背から腹を貫通する画像、血溜まりが生まれる画像、自分自身がその場に膝を着く画像、そして嘔吐して気絶する画像。紛れもない悪夢だった。まるでその光景が本物のような禍々しさがあった。
 落雷を見たような気がした。その閃光と轟音に飛び起きる。荒い息を整え、額に浮かぶ汗を拭い取る。酷い寝汗だった。朝からシャワーを浴びなければならないと思ってゆっくりと体を起こし、そこでようやく、ここが自分の家の自分の部屋ではないことに気づく。不思議に思い、まだ整っていない息を小さく肩でしながら辺りを見回す。どこかの、見知らぬ倉庫のような場所だった。どうしてこんな所にいるのかがよくわからない。昨日の夜は一体どこで何をしていたのだろうか。ようやく落ち着いた息を大きく吐いて、取り敢えず外に出ようと立ち上がろうと視線を起こした刹那、
 そこに倒れている真柴を見た。夢だと思っていた光景が現実味を帯びる。あれは、夢ではない。自分は、間違いなく真柴を殺した。
 しかし、違った。あの画像の中の真柴と、今の真柴は、全くの別物だった。両足首はちゃんと付いているし、胸に穴も開いていないし、血溜まりも作っていない。真柴は、生きてるように思えた。すべての希望を賭け、祐介はそっと手を伸ばす。真柴の首筋に触れた手から、しっかりとした体温が伝わった。呼吸もしている。真柴は生きていて、ただ気絶しているだけみたいだった。
 涙が出てくるような安堵があった。すべてが夢だったのだ、という気持ちがあふれた。それが本気で嬉しかった。自分は誰も殺していない。だがそこで思い至る。今現在重視すべき問題。それは、どこまでが現実でどこからが夢のなのか、ということ。自分が今、この倉庫にいるということは真柴に追われて学校から逃げたのは事実である。恐らく少々の戦闘を行ったのも事実だろう。ならば夢はどこからか。いや、考えればすぐにわかったのかもしれない。
 夢は、意識が消えたときから始まっている。真柴に顔面を踏みつけられそうになったとき、自分は意識を失った。つまり恐怖のあまり意識を閉ざし、そのまま真柴に半殺しにでもされたのだろう。その中で悪夢のような夢を見ていたのだ。真柴も自分を殴り疲れて寝てしまったのだろう。二人揃って気絶と居眠りを経て、そして今に至る、とそういう訳だ。だがもしそうなら自分はすでにヴァイスを奪い取られてセロヴァイヤーではなくなってしまったということになる。それが少しだけ悲しくて、しかし途方もなく嬉しかった。胸が躍る。もう恐がる必要もない。下らないことで思い悩む必要もない。これで自分は自由になったのだ。
 軽い気持ちで、別れを告げるためにその真名を呼んだ。
「雷靭」
 それは現れないはずの斬撃型セロヴァイトの真名だった。
 だが、緑の光の粒子はあふれ出し、気づいたときには祐介の右手に一振りの刀が具現化されていた。
 絶句する。無いはずのセロヴァイトがここにある。夢だと信じていたはずの光景が現実のものと化す。自分は間違いなく、この刀で真柴を殺した。今は生きているが、あの瞬間だけは自分は確かに真柴を殺したのだ。人を、殺した。無意識の内に手が震え出し、雷靭を取り落として尻餅を着きながら後ずさる。目の前に転がる雷靭が、今は羅刹を纏った真柴より遥かに恐い。
 自分は、雷靭の声を聞いたのだ。思い出す。刀を振り抜いたのは祐介の体だが、しかし真柴を殺したのはこの雷靭だ。証拠は無い。だが確信がある。雷靭は意思を持っていて、その意思が自分の体を操って真柴を殺したのだ。疑問が頭を駆け巡った。そもそもセロヴァイトとは何なのか。セロヴァイト執行協会本部って一体何だ。何の目的でこんなものを送りつけて来たのか。こんな殺人兵器を作る謎の組織など非合法なものに決まっている。それに加担しているとなれば自分は罪を問われるだろう。冗談ではないのだ。こんな馬鹿げたものの共犯になどなってたまるか。こんなもの、二度と使うか。
 唐突に、太陽が低い位置にあることに気づく。倉庫の窓から射す陽射しが、なぜか低い位置にあった。不思議に持って制服のポケットから携帯電話を取り出す。折り畳み式のそれを広げ、ディスプレイを見たその瞬間、我が目を疑った。時刻は、朝の七時半過ぎだった。真柴から逃げて学校を出たのが昼の一時過ぎくらいだったはずだ。それなのに今現在の時刻が朝の七時半とはどういうことだろうか。単純に考えるとつまり、自分は昼にここに来て、そこで気絶して、そのまま一日眠ってしまっていたのだろうか。学校をサボった挙げ句に無断外泊。親に怒られるのは目に見えていた。
 うんざりした気持ちでこれからどうしようと思ったが、取り敢えずは家に帰った方がいいだろう。そう思ってそこに転がっている雷靭を消滅するように念じる。雷靭の刃が緑の光の粒子に包まれて消え、もう二度とこんなものを使うかと決め込んで立ち上がる。一瞬だけ真柴に視線を送るが、寝ているだけなら放っておいても平気だろうと放置することにする。ゆっくりと歩き出し、倉庫の入り口に視線を送った刹那、祐介の体が凍りついた。
 朝焼けに照らされた倉庫の入り口に、女の子が一人、立っていた。
 長い髪をした、祐介の知らない高校の制服を着た、驚くほど可愛い女の子だった。そんな女の子が、目を見開いて祐介を見つめている。
 見られた、と思った。雷靭を消滅させた所を見られた。この状況では誤解するなという方が間違っている。自分は刀を消して、そして真柴は倒れたままで。しかもここは人気がない場所である。どう考えても、自分が真柴を殺したようにしか見えなかったはずである。警察に行かれても厄介で、悲鳴を上げられてもアウトだ。何か行動に移される前に事情を説明しなければならない。信じる信じないは別として、まずやるべきことはあの女の子の動きを封じること。暴れ狂っている脳みそでただそれだけを決めた。
 祐介が走り出そうと足を動かしたそのとき、女の子が先に行動を起こした。驚く祐介に駆け寄り、問答無用でその手を掴む。
 唐突の行動に何も言えず、混乱する祐介に女の子は一喝する。
「来てっ!!」
 翻る長い髪が太陽に照らされて輝いているような気がした。
 成す術なく、祐介は女の子に連行されることになる。

 女の子は、名前を七海紀紗(ななうみきさ)といった。





     「渡瀬拓也」



 訳もわからず手を引かれ、七海紀紗という女の子に連れて来られたのは、少しだけ古びた二階建てのアパートだった。
 ここまでの道のりを、祐介はほとんど憶えていない。そもそも紀紗と出会ったあの倉庫がどこにあったのかすら祐介は知らないのだ。生まれてこのカタ一度も通ったことのない道を通り、見たこともない景色を視界に入れ、しかし通って見た瞬間からそれらすべてを完全に忘れていた。半ば無理矢理にここまで連れて来られてきた祐介の頭の中は当たり前のように混乱していて、何が何なのか全くわからない。この女の子が誰なのか、訊いても名前だけしか教えてくれなかったし、深入りしようとすると決まってこの一言を言われる。
 ――少し待って。
 一体幾ら待ったのかはわからないが、どうやらこのアパートが目的地らしい。紀紗はアパートの一室の前で立ち止まり、制服のポケットからよくわからないキーホルダーのついた鍵を取り出した。それを実に手馴れた動作で鍵穴に突っ込んで回し、ドアノブを押してドアを開けた。中は玄関から射す太陽の光以外に灯りは無く、かなり薄暗かった。しかし中の者が留守という訳ではない。中からは確かに、人の気配を感じる。この女の子の家なのかもしれない、と祐介は思う。
 紀紗がドアを開けたまま中に入って行くので、躊躇ったものの小さく「お邪魔します」とつぶやきながら後に続く。玄関を入ってすぐ右が台所になっており、左はたぶん便所か風呂場ではないだろうか。短い廊下の先にあるのは中途半端に汚れた部屋で、如何にもつい数日前までは綺麗だったがなぜかこうなってしまいました的な雰囲気が漂っている。紀紗が「また汚してる」と言ったのが聞こえた。どうやら掃除しているのはこの紀紗らしい。
 中途半端に汚れた部屋の奥に、ベットが鎮座している。そしてそのベットの上にはタオルケットを無造作に被って祐介に背を向けて寝ている男がいた。紀紗の父親には見えない背中である。もしかしたらお兄さんかもしれないと祐介は思った。しかしなぜその兄の下へ自分を連れて来たのかがさっぱりだ。そもそも自分はこんな所でこんなことをしている場合ではない。今すぐに何かしらの行動に移さなければならないのだ。なにせ自分は、目の前のこの黒髪の女の子に、雷靭を見られてしまったのだから。そんな現場を見られて連れて来られる場所など、正規な所であるとは考えられない。セロヴァイト執行協会本部同様に非合法な場所に決まっている。もしかしたらこの女の子とその男とセロヴァイト執行協会本部はグルなのかもしれなかった。
 薄暗い部屋に灯りが点く。天井の剥き出しにされた蛍光灯がチチッと音を立て最後の一本に命を吹き込む。電気のスイッチを入れ終わった紀紗は数歩だけ歩き出し、ベットで爆睡している男の肩を揺さぶって「拓也っ、拓也ってばっ!」と必死に声を出す紀紗を他所に、拓也(たくや)と呼ばれた男は一向に起きる気配が無い。やがてその格闘に疲れたのか、紀紗が屈んでベットの下に手を入れてもぞもぞと探り始めた。
 そしてその手が掴み出して来たものは、何の変哲も無い洗濯バサミだった。何に使うのかと思って呆然と見ている祐介のその前で、紀紗は唐突に洗濯バサミを拓也の耳に挟んだ。それが実に慣れた動作で、普段からそんなことが日常茶飯事に繰り返されているのだろうということは容易に想像できた。しかしそんなことが本当に現実に起こるのかどうか半信半疑だった祐介が「あ、」と声を出すより早くに、紀紗はそれを遠慮無く引き抜いた。
 悲鳴が聞こえた。瞬間に紀紗は洗濯バサミを制服のポケットの中に入れ、「やっと起きた」と笑う。
 ベットから飛び起きた拓也が何事かと耳を真っ赤にしながら辺りを見まわす。それは、端から見ればとんでもなく情けない光景だったはずなのだが、祐介の目からはまったく別の光景として受け入れられていた。飛び起きた拓也はまだ寝惚けていて、髪には驚くくらいの寝癖が付いていて、耳は笑ってしまうほど赤いのに、なぜか祐介にはその姿がめちゃくちゃ格好良く思えた。事実、拓也の顔立ちは良いと思う。紀紗も驚くほど顔立ちが良いのだから、二人はまず間違いなく兄妹なのだろう。
 寝惚けていた拓也の視線が紀紗を捕らえた刹那、拓也の体がベットに落ちた。顔を枕に埋めたまま面倒臭そうに手を上げ、まるで見えているかのように一発で目覚まし時計を探し当てた。それを目の前に持って来てぼんやりと時刻を読み取り、泣きそうな声でこう言った。
「…………勘弁しろよぉ、お前マジでぇ…………まだ八時じゃねえかよぉ…………昨日はあれだぜぇ、啓吾と夏川とおれの三人で酒飲んでぇ、寝たの六時半だっつーのぉ…………てゆーかお前学校はぁ? サボったんじゃねえだろうなぁ…………頼むよホント、お前がここに来てんのぉ、お前のオヤジさんに良く思われてねえんだからさぁ…………それで学校サボったなんてこと知れたら、おれぜってーオヤジさんに殺されるって…………」
 ゾンビのような人だと思った。たぶん死人が生き返って口を聞いたらこんな感じであるはずだった。
 それでも紀紗は容赦しない。今にも溶けて行きそうな拓也をぽかりと殴りつけ、早く起きろいつまで寝てるこのバカとでも言いたそうにタオルケットを奪い取り、「いつもの作って」と言う。それでようやく踏ん切りがついたのか、拓也がのっそりと起き上がる。ふらふらの足取りでベットから這い出て歩き出し、「……ったくよぉ、もう高一なんだから料理の一つくらい憶えろっつーの……」とつぶやき、紀紗が「作れるもん。だけど拓也の方が美味しいから」と反論する。
 何を言っているのか、何の話をしているのか、祐介にはもちろんわからない。どうすることもできずに佇んでいた祐介の横を通り抜け、拓也が台所へと消える。擦れ違った拓也とは拳二つ分ほど身長差があって、印象は恐そうな人ではあるが、なぜか無性に喋ってみたくなるような雰囲気を持っている不思議な人だった。部屋に取り残された祐介の前では紀紗がタオルケットを折り畳んでベットの上に置き、ポケットから洗濯バサミを取り出してベットの下に戻す。どうやら次回にも役立てるつもりらしい。すべてが終ると紀紗はベットの上に座り込み、床に転がっていたピンク色のイルカのぬいぐるみを手に取った。ぬいぐるみに微笑みかけるその姿が、紀紗を見た目よりずっと幼く魅せた。
 抱き締められたイルカが、「きゅー」と鳴いた。抱き締めると鳴くらしい。
 唐突にこの居場所に居心地の悪さを感じた。拓也という男はどう考えたってこの部屋の主であるし、先の会話から複雑な家庭環境があると思うのだが紀紗も何度もここに来ているような物言いなので慣れているのだろう。では、自分は一体何なのか。見知らぬ女の子に、見知らぬアパートの一室に無理矢理連れて来れたのに、いきなり放置プレイですか。拓也は祐介の隣を通ってもまるで気づきもしなかったし、この事態を招いた張本人はすでに祐介のことなどキレイさっぱり忘れてベットに寝転がり始めた。
 沸々と怒りが沸き上がってきた瞬間に、いきなり拓也が台所から顔を出した。
「お前も卵焼きでいいだろ。ベーコンはどうする、食べるか?」
 どう返事していいかわからず、焦った脳みそはなぜか「た、食べますっ」と返事を返した。
 どうやら拓也はちゃんと祐介の存在に気づいていてくれたらしい。それが少しだけ安堵を運んで来てくれたのだが、ベットの上でイルカを真上に投げて遊んでいる紀紗を見ているとまた怒りが沸いてきた。この子は一体何なのか。少しくらい、いや少しじゃないが、とにかく顔が可愛いからと言って少し人を蔑ろに扱い過ぎではないだろうか。この状況で君はどうしろというのか。一体何の目的で自分をここまで連れて来たのか、それをはっきりさせようとなけなしの度胸を掻き集めて勇気の一歩を踏み出したその瞬間に、又しても拓也が台所から顔を出した。
「ところでさ、」
 至極当然な疑問だったはずである。
「――君、誰?」
 まずはそこから始めよう、と祐介は思った。
 祐介が説明を開始しようと口を開いたとき、拓也が「あーちょい待ち。焦げる」と台所に戻った。引っ込みのつかなくなった祐介がおろおろとしていると台所から「適当に座っててくれ。すぐに持ってくから。それから始めよう」という声が聞こえた。いつまでも立ったままでは浮いているのでそれに従う。部屋の真ん中に置かれたテーブルの脇に腰を下ろし、辺りを見まわしていると拓也が皿を戻って来た。同時に紀紗がベットから立ち、台所へ消え、しかし拓也同様に麦茶とコップを三つ持ってすぐに戻って来る。
 一瞬にして、テーブルの上には卵焼きとベーコンと麦茶が揃った。それを囲む二人に習い、動揺しながらも祐介もテーブルを囲んだ。「いただきます」との声と共に食べ始める。取り敢えず卵焼きを食べてみたところ、紀紗の言った意味がわかった気がした。一体何が隠し味になっているのか、拓也の作った卵焼きは驚くほど美味かった。今まで食べた卵焼きが子供騙しに思えた。
 祐介が麦茶を一口だけ飲んだとき、それを見計らったように拓也が「さて」と一息着く。
「そんじゃまあ、おれから。渡瀬拓也、二十二歳。拓也でいい。んでそっちで卵焼き頬張ってるのが七海紀紗、十六――ってそれは知ってるか。紀紗が連れて来たんだしな。で、君は?」
「あ、っと、源川祐介、十七歳、です」
「祐介か。わかった。それで、祐介は何でここに?」
 それは祐介自身も疑問だった。その答えを知っているのは紀紗だけで、無意識の内に視線を送ると紀紗は実に嬉しそうに卵焼きを頬張っていた。
 そして唐突に祐介の視線に気づいた紀紗は拓也に向き直り、これからすごいことを言うからよく聞けという風に笑った。
「あのね拓也、この人はセロヴァイヤーなの」
 一瞬の沈黙、直後に拓也が飲んでいた麦茶を噴いた。
 袖でそれを拭うと同時にテーブルに身を乗り出す。
「お前っ、セロヴァイヤーなのかっ!?」
 あまりの迫力に慌てて肯くと、拓也は床に座り直して拳を握った。その表情は、希望と歓喜がごちゃ混ぜになったような何とも言い表せないようなものだった。
 どうしてこの二人は、セロヴァイヤーのことを知っているのだろうか、と祐介は思った。ただ刀を紀紗に見られただけだ。それだけなのにその刀がセロヴァイトと理解し、しかも確信の元に紀紗は祐介のことをセロヴァイヤーだと言った。考えられる理由は一つしかないような気がした。この二人もセロヴァイヤーである。しかし頭の中のレーダーは反応しない。それに真柴と違ってまるで敵意が無い。もし自分を殺すつもりなら、こんな茶番などせず真っ先に殺すだろう。
 どういうことなのかと聞こうとすると、拓也が笑った。
「そうか、そういうことか紀紗。――祐介、改めて自己紹介をする」
 まさか宇宙です、などと言い出すのではないかと馬鹿なことを思った。
 そして飛び出したそれは、宇宙人より信じ難いことだった。
「三年前に行われた第十二期セロヴァイヤー戦参加者と同時に、そのセロヴァイト戦の優勝者・渡瀬拓也だ」
「……第十二期……って、っ!? 優勝者っ!?」
 拓也は肯く。
 信じられなかった。目の前のこの人が、この殺し合いに最後まで生き残った優勝者。とてもそうは見えない。この人が、人を殺したというのだろうか。人は見かけで判断できないとはよく言うが、まさかそういうことなのだろうか。
「ちなみに順位で言ったら、紀紗が三位だな」
 思わず隣で卵焼きを頬張っている紀紗を振り向く。こんな子も、人を殺したというのだろうか。
 恐怖が沸き上がる。果たしてこの二人は、一体どんな顔をして人を殺したのだろう。仕方が無くか、それとも恐怖に駆られてか。しかしそれでこの戦いに優勝するのは無理な気がする。優勝するのは、真柴のような奴しか有り得ない。つまりこの二人も、笑いながら人を殺し続けたのだろうか。例えば、今日と同じようにセロヴァイヤーをこの部屋に連れ込み、卵焼きを振舞って相手が油断したところを拘束し、拷問のようにまずは指を一本一本切り落とし、痛がれば痛がるほど二人は獣のように笑い声を上げ、ついには皮膚を紙のように剥ぎ取り、剥き出しになった臓器を
「おい祐介、顔面蒼白になってんぞ?」
 拓也の声に現実に引き戻された。
 拓也は言う。
「お前もこのセロヴァイト戦でいろいろ聞きたいことあるだろ。おれも山ほどある。だからこうしよう。おれが質問したらお前が質問する。交代制だ」
 現実に引き戻されたとは言え、恐怖までは消えなかった。下手に逆らえば殺されると思い、必死に肯いた。
「よし。まず一つ目だ。今回は第何期だ? 十三期か?」
 肯くと、拓也は満足そうに笑い、次はお前だと促す。
 何を聞いていいのか、何を聞くべきなのかがまったくわからない。「ぼくは殺されませんよね?」などと聞いて気分を悪くさせたらその時点で死亡だ。生皮を剥がされて日干しにされるに決まっている。ここは慎重に質問を選ばなければならない。しかし考えれば考えるほど、「ぼくは殺されませんよね?」しか思いつかなくなっている。どうしようもなくなっていた。こうしている間にも向こうは不機嫌になっていると思うと恐くて仕方が無く、拓也と紀紗を交互に見比べ、腐った祐介の脳みそが選択肢の中から弾き出した問いは、本当に自分でも情けなくなるようなものだった。
「――あのっ、二人はその、付き合ってるんですか?」
 アホか、と思った。ここで死ぬんだ、とも思った。
 兄妹で付き合ってるもクソもないだろうが。命が尽き果てたことを覚悟した祐介の目の前で、しかし意外な状況が訪れた。
 拓也はまるでそんなことは言われ慣れしているかのように苦笑し、こう言った。
「おれと紀紗を見てそう言った奴はお前が初めてだな。大概は兄妹か、としか聞かれないし。たまに『お前はロリコンか?』なんて聞かれるけどさ、違うっつーの。あ、だからおれと紀紗が付き合ってるってのも違う。簡単に言うトコの、腐れ縁みたいなもんだよ。前回のセロヴァイト戦でちょっとあってな」
 紀紗ももう慣れてしまったのか、変わらずに卵焼きを食べていた。
 勘違いしていたらしい。この二人は、兄妹ですらないのだ。
 それじゃ次だ、と拓也は次の問いを切り出す。
「今回のセロヴァイト戦参加者数は?」
 慌てて答え、続いて口を出た問いを返す。それを、何度かそのまま続けた。
「は、八人です。――えっと、この卵焼きってどうやって作ってるんですか?」「いや、普通に。――祐介のセロヴァイトは?」「斬撃型セロヴァイト・雷靭です。――この麦茶ってどこのヤツですか?」「さあ、知らねえよそんなこと。――今日は本戦開始から何日後だ?」「二日です。――あの、卵焼き食べないんですか?」「いや、残っても紀紗が食うからさ。――まだセロヴァイヤーには遭遇してねえだろ?」「あ、いえ、一人だけ……。――……質問、もう無いんですけど」「じゃあこれで最後だ。――セロヴァイト戦、勝ったのか?」「……わかりません」「わからない?」「……はい」「……取り敢えず、ここまで。これからは祐介が先に疑問に思っていることをすべて言ってくれ。答えられる範囲のことなら全部答えるから」
 結局、馬鹿みたいな質問しかできなかった自分を呪った。拓也が少しだけ呆れたような顔をしているのにも納得してしまう。真剣な話をしているのに卵焼きの作り方や麦茶のメーカーを聞かれれば誰でも不思議に思うはずだ。自暴自棄になっていた。ここで殺されたらはいそれまで、諦めよう。腹を据えてそんなことを決め込み、祐介は一週間前から、そしてこの二日で疑問に思っていたことをすべて拓也に告げた。拓也は、その一つ一つにしっかりと答えてくれた。
 それを簡単にまとめると、こうなる。まず、セロヴァイトで破壊したものについてのことだ。具現化させたセロヴァイトでものを壊した場合、それはなぜか午前零時きっかりに自動的に修復されるらしい。そしてそれは、人間にも当てはまる。セロヴァイトを使ってセロヴァイヤーを殺した場合に限り、その生命及び負傷箇所は午前零時になると自動的に復活及び治癒されるのだ。セロヴァイヤー同士で殺し合いをしたとき、正々堂々と戦って敗者になり死んだ場合、その日一日は間違いなく死ぬのだが、次の日になれば蘇ることができるのだった。祐介の殴られた箇所の痛みが消えていたのも、真柴が死んだはずなのに生きていたのも、そういう裏があったからだった。
 しかし、ならばなぜ一番最初に送られてきたセロヴァイト執行協会本部からの手紙に死ぬ危険性がある、などということが記載されていたのかという疑問が浮かぶが、その答えは実に簡単な所に転がっていた。セロヴァイトで破壊したものは元通りになるが、セロヴァイヤー自身がセロヴァイトを使わずに素手で破壊したものは元通りにならない。つまり、セロヴァイトではないもの、例えば台所にある包丁などでセロヴァイヤーを殺してしまった場合は蘇れないということになる。
 手紙に書いてあった『殺人犯にならない』というのはそういう意味なのだろう。セロヴァイト執行協会本部の言いたいことを拓也風にまとめて説明すれば、セロヴァイトで殺してしまった場合はこちらで責任を取って蘇らせてやるが、他のもので殺してしまった場合は知らねえぞ、というようなことだと思うと言っていた。理不尽のように思えるが、しかし違うのだ。セロヴァイトを具現化させた状態のセロヴァイヤーは、身体能力が著しく向上するらしい。実感は無かったが、そう言われれば真柴が恐るべきスピードで祐介を追って来たのも、祐介が真柴に切り掛かったとき一歩で間合いを詰められたのも、その御かげだったのだろう。それにセロヴァイトを用いて戦闘を行うセロヴァイヤーにとって、普通の刃物など何の役にも立ちはしないというのは容易に想像できた。即ち、最初からセロヴァイトだけを用いて戦い合うように仕組まれているのだ。
 そして拓也は、セロヴァイトにはそれぞれ特性があるのだと教えてくれた。雷靭の特性を聞くと、自分が持っていた訳ではないので詳しくは言えないが、簡単に説明すると雷雲のある日に限り、意のままに落雷を落とせるようになるらしい。斬撃型はそういう自然を操る能力に特化していると、拓也は言った。拓也の戦友である神城啓吾(かみしろけいご)という人が持っていた斬撃型セロヴァイト・風靭は風を操ることができたそうだ。特性を引き伸ばせば、セロヴァイトはどこまでも強くなる、とも拓也は言った。
 祐介はそこでふと疑問に思った。弾みで「セロヴァイトには意思があるのか?」と訊けば、拓也が意外そうな顔をした。拓也は「ある」とはっきりと答えたが、それから躊躇い気味に「お前、もしかして本戦始まって二日目で、しかも雷靭の特性も知らないのに声を聞いたのか?」と問い返された。よくわからなかったが、どうやらセロヴァイトには特性が二つあるらしかった。一つ目が何の条件も無しに得られる特性であり、そして二つ目がセロヴァイトとの同調が条件で発動される特性だと言う。同調とは平たく言えばセロヴァイトと意思を交わすということになる。セロヴァイトの声を聞けたセロヴァイヤーだけが、二つ目の特性を発動できるのだ。しかしその二つ目の特性に気づけるセロヴァイヤーは少ないらしい。前回のセロヴァイト戦優勝者の拓也も、優勝者決定戦のラストバトルまでその事実さえ知らなかったそうだ。
 だが、祐介の聞いた声と拓也の言う声が同じものだとは思えなかった。自分はセロヴァイトと同調して意思を交わした憶えは無いし、声が聞こえたときに体の支配権が奪われて操られるように敵のセロヴァイヤーを殺してしまった、と正直に打ち明けると、拓也は随分と悩んでから「そういうのは啓吾の方がたぶん的確な答え出すと思う。あいつのように考えると……そうだな、それが雷靭の特性だったのか、もしくは今回からそんなようなルールが追加されていたのか。また啓吾に聞いといてやるよ」と申し訳なさそうに答えた。
 大方のことを聞き終え、頭の中で話を整理し、その拍子に祐介の口から一つの問い転がり出てしまう。
「セロヴァイトって、一体何なんですか?」
 それで壊したものが午前零時に修復されるとか、人間の身体能力を向上させるとか、武器なのに意思があるとか、何かを自由自在に操る力とか、そんなものがこの地球上にあるとは思えない。まるでまったく別世界の構造物のような気がする。前回の優勝者である拓也なら、その問いに正確な答えを返してくれると思っていたのだが、祐介の考えとは違って拓也は少しだけ悩んでから、こう言った。
「おれたちとは違う軸を生きる人間の戯れの産物、かな。――受け売りだけど」
「違う軸?」
「その辺りはあれだ、優勝者になればわかる。今は知る必要は無いよ」
 紀紗は長い話が退屈だったのか、それとも朝は苦手だったのか、ベットに凭れてうとうとと眠たそうにしていた。
 聞いておきたいことが、まだ三つだけ残っていた。セロヴァイト云々の説明より、本当はこっちの方が訊きたかったのかもしれない。
「拓也さんは、その……セロヴァイト戦で、人を……殺したことは、あるんですか?」
 この短時間で渡瀬拓也という人を大体は理解した。そして導き出した結論は、零時になれば生き返るとは言え、この人はそんな簡単に人を殺せない人だということだった。
 拓也は少しだけ考え、言う。
「……あるよ。最後の戦いだけ、おれは人を殺した」
 信じたくはなかったのかもしれない。頭の中が僅かに揺れた。
「けど、それまで殺したことはない。殺さないように心掛けてきた。殺されそうになってた奴を何度も助けたし、それに殺されそうになったことも何度かある。ぶっちゃけると祐介の雷靭にも一度殺されかけた。でもおれは、最後の戦いまでは人を殺そうなんて思わなかったな……」
「理由が、あるんですか?」
 拓也は、眠りこけている紀紗を見た。少しだけ言い難そうに口を尖らせ、
「そのセロヴァイヤーに、紀紗は一度殺されてる。それで紀紗は、大切なものを奪われた。それが許せなかった。ぶっ殺してやるっ、って本気で思った。それで勢い込んで向かったはいいけど逆に殺されそうになってさ。それでダメだって思ったときにセロヴァイトの声が聞こえたんだ。それで理解した。難しいのはまあいいや、取り敢えずおれは守るために相手を殺した。それをどう取るかは、祐介に任せるよ」
 それから、拓也は真剣に瞳を研ぎ澄ました。
「ただ、紀紗を泣かす奴をおれは許さない。どんな手を使っても必ず殺してやる。それが、『おれたち』の意思だ」
 拓也はさっき、紀紗と付き合っている訳ではない、と言った。
 しかし、そんな表現よりもっと深い所で二人は結ばれているのではないか、と祐介は思った。
「……どうして、拓也さんはセロヴァイヤーになろうと思ったんですか?」
「ん、変なこと聞くな。そういうお前はどうしてだ?」
 言うのが躊躇われたが、言わなければなるまい。
「……おれは、あの……間違いで、飲んじゃって、それで……」
 拓也は案の定、一瞬だけぽかんとした表情を浮かべていた。
 しかしすぐに爆笑する、
「間違いで飲んだか、そりゃ気の毒だったなあ。けど、間違いで……アホだなあ」
 否定できないのが辛かった。そして拓也は、真っ直ぐに祐介を見据える。
「おれは、最強になるためだ」
「――最強?」
「おうよ。まあ、啓吾との勝負に持って来いの土俵だと思ったのもあるんだけどな。取り敢えず、おれはどのセロヴァイヤーにも勝って最強になりたかった。細かい理由なんて忘れたけど、結局のところはただそれだけだったような気がするよ。……祐介、お前は間違いで飲んだって言ってたけどさ、飲んじまったもんはしゃあねえべ。だったら振り向かないで突き進め。男なら目指すは最強だろ。こうと決めたら一直線、行動あるのみだ」
 なぜか、胸の奥底がじわりと熱くなった。
 これが、祐介からの最後の質問である。
「拓也さんたちはセロヴァイヤーを探してたって言ってましたけど、どうしてですか?」
 その問いに、拓也はまた紀紗を見て、優しく笑った。
「……紀紗と一緒に、絶対に会いに行かなくちゃならない奴がいるんだ」
「その人って、……どこにいるんですか? その違う軸を生きる人間っていうのに関係あるんですか?」
 少しだけ違う、と拓也は言った。
「その表現で言うなれば、用があるのはその軸の中心だ」
「軸の中心?」
「そう。あいつは、【界の狭間】って呼んでた。おれと紀紗は、そこに行かなくちゃならない。そして約束を守るんだ。でもそれを叶えるためにはおれたちじゃ百年かかっても無理だった。そして頼みの綱が、お前たちセロヴァイヤーって訳。賭けだったよ。一体何年間隔でセロヴァイト戦が行われるのかなんて知らないし、もし行われていたとしても出会える可能性なんて限りなく零に近かったからな。でもたった三年で、おれはお前に出会うことができた。……紀紗が無理矢理連れて来て悪かったな。けど、わかってやってくれ。紀紗に取っては、本当に大事なことなんだ。【界の狭間】に行くことが、紀紗のすべてなんだよ」
 紀紗は、まだ寝ていた。
 話は、それで終った。それからはただ、祐介と拓也は下らない話に花を咲かせていた。年上の人とここまで気軽に喋れたのは初めてだったような気がする。拓也は驚くほど良い人に思えて仕方が無かった。年下の祐介を見下したりしないし、まるで同年代のように扱ってくれる。今までただの一度も、そんなことはなかった。年上の人と言えば学校の上級生だけだったし、上級生は常に下級生を見下していた。それが心の底では嫌気を刺していたのに恐くて何も言えなかった。しかし拓也は違う。対等に話してくれる。それが、嬉しかった。
 話が一段落着いたとき、拓也が部屋の時計に目を向けて「そろそろバイトの時間だ」とつぶやいた。釣られて時計を見れば、時刻はすでに十一時半だった。窓の外の太陽は青空に高く昇っていて、その陽射しのちょうど影になっている部屋の隅では紀紗がまだ眠りこけている。長居し過ぎたたのかもしれない、と祐介は思った。そもそも自分は昨日から学校をサボって無断外泊までしてしまっているのだ。そろそろ家に帰らなければ大目玉になるだろう。
 お邪魔しましたと言って席を立つとき、拓也が思い出しかのように「そうだ、」と声を漏らす。振り返った祐介に向かって、拓也は言う。
「聞き忘れてたんだけどよ」
「何ですか?」
「今回のセロヴァイト戦参加者数は八人、だったよな?」
 セロヴァイト執行協会本部の手紙にはそう書いてあった。
「――だったら、第十三期に選ばれたセロヴァイヤー数は何人だった?」
 毎回選ばれる人数は変わるのだろうか、と祐介は思った。前回のセロヴァイト戦で戦った拓也なら聞かなくてもわかるはずなのだが、一応訊かれたので答えた。
「十人、だったような気がします」
 拓也の気配が変わる。
「……セロヴァイトの型は、何があった?」
 記憶を探って、手紙の文面を思い出す、
「えっと、確か、斬撃型と、打撃型と、射撃型と、それから、」
 思い出した、
「――幻竜型」
 今度は、拓也の表情がはっきりと変わった。それは、今まで見ていた拓也からは想像もつかないような険しい表情だった。
 その幻竜型が何を意味するのかが、祐介にはまったくわからない。拓也は「その幻竜型を、お前は見たのか?」と問い、祐介は首を振る。祐介が見たセロヴァイトと言えば打撃型セロヴァイト・羅刹だけだ。そのことを拓也も知っているはずなのになぜ訊き直したのだろう。何か特別なことでもあるのだろうか。幻竜型セロヴァイト。それは、三種類ある他の型とは違い、一種類しか存在しないセロヴァイトだ。そこに、何があると言うのか。
 拓也は、随分と悩んでいた。居心地が悪くなって、それじゃあ帰ります、と踵を返そうとしたとき、拓也は再度言う。
「……祐介、」
 振り返る、
「もしかしたら、参加していない可能性もある。だけど、前回のセロヴァイト戦優勝者からの忠告だ。その幻竜型にだけは気をつけろ。普通のセロヴァイヤーじゃ、絶対に勝てない」
 そして、拓也は拳を握った。
「――そしてそれがもし、真紅の竜だったのなら、必ずおれに、知らせてくれ」
 肯いて、今度こそ本当に祐介は部屋から外へ出た。
 夏の陽射しに体を射抜かれ、あっと言う間に噴き出す汗を無視しながら、ぼんやりと思考を巡らす。
 真紅の竜。幻竜型セロヴァイト。それが、拓也がセロヴァイヤーを探していた理由に繋がるのだろうか。
 アパートのドアに凭れかかり、掌を目の前にかざして拳を握る。
 拓也は、最強になるためにヴァイスを飲んだと言った。だったら、自分は何なのか。間違いで飲んで、馬鹿みたいに恐れて、涙流してまで逃げ回って。自分が、酷く情けなく思えた。一つ下の紀紗でさえ、恐らくは自分よりもよっぽどな覚悟を決めてこのセロヴァイト戦に挑んでいたのだろう。それなのに、自分は何なのか。格好悪いことこの上無い。飲んじまったもんはしゃあねえべ。そうなのかもしれない、いや、そうなのだ。もう飲んでしまった。サイはもうすでに投げられている。決めるのは、自分自身。ここで逃げて勝手に殺される最後を迎えるのか、それとも、拓也のように最強を目指すのか。
 心の底では憧れていたこと。自分には絶対に向かないと自分を納得させてきたこと。強くなりたい。たった、それだけのことだ。しかし諦めてきたはずのその想いが、叶うかもしれない切っ掛けが目の前に降って沸いた。ここで逃げて何が残るというのだろう。こうと決めたら一直線、行動あるのみ。拓也はすごいと思う。あんなにもはっきりと言い切れる拓也がただ純粋に羨ましい。近づきたい。拓也になりたいなどと無茶なことは言わない。ただ、近づきたいのだ。拓也のように、誰かのために心を決めたい。
 そのためには、ならなくてはならないのだ。そう、最強に。誰からも逃げずに、立ち向かってぶちのめす、そんな奴に。なれない可能性の方が大きい。だが駄目で元々、だったら当たって砕けろだ。どうせ同じ死ぬなら精一杯抗ってから死んでやろう。どうせ同じ殺されるなら相手の腕の一本でも落としてから殺されてやろう。逃げるのは、もうやめだ。
 使わないと決めた一振りの刀。斬撃型セロヴァイト・雷靭。それが、これから正真正銘の、祐介の相棒。正直言って恐い。だが、逃げないと決めた。だから、立ち向かおう。ただ、自分は人を殺さない。殺されそうになっても殺さない。もう二度と、あんなことは繰り返さない。誰も殺さず、しかし誰にも負けないで、このセロヴァイト戦を勝ち抜いてみせる。できると思う。自分一人では到底無理だ。だけど違う、これはセロヴァイト戦だ。雷靭がいる。信じて、みよう。
 夏の陽射しに照らされ、その真名を呼ぼうとしたとき、とんでもない事実に気がついた。辺りを必死に見まわして、一筋の汗を流す。
 格好悪いことこの上無いことだった。自分は、ここがどこなのか知らない。つまり、帰るにはここがどこなのかを知る必要がある。そっと背後を振り返り、ドアノブに手を掛ける。しかし回す勇気が出て来ない。何気に深刻な別れ方をした分、今からまたこのドアを開けて中に入って行くだけの度胸が沸き上がってこない。所詮自分はそんなものだったのだろうか。その程度の男だったのだろうか。いや違う、考えを改め直せ。こんなところで怖気づいて優勝だと? 笑わせるな。こんなもの何でもない、普通に入って道を教えてくださいと言えばいいだけだ。ドアノブを回せ、早くやれ、何も恐れることはない、おれは、強い。
 ドアノブを回して、部屋に入って、驚く拓也に道を教えてくれと頭を下げて頼んだ。
 思いっきり笑われた。恐いのではく、死ぬほど恥ずかしかった。
 陽射しが射し込む部屋の中で、その笑い声に紀紗が寝惚け眼で目を覚ます。
 紀紗が、焔(ほむら)、とつぶやいた気がした。





     「佐倉唯」



 第十三期セロヴァイヤーによるセロヴァイト本戦が行われて一週間。
 その日は、午後から雨が降り始めていた。天気予報ではニュースキャスターが降っては止み降っては止む、という中途半端な日になると申し訳なさそうに報告していた。しかも場所によっては雷が鳴る可能性もあるらしい。頭上には朝から雨雲が漂っていて、そして夏の日にそんな天候は最悪で、ジメジメとした空気が肌に纏わりつく。昼過ぎに降り出した雨も数秒感覚で雨脚を早め、降り始めて三分もしない内に本降りになっていた。
 せっかくの休日だったのでここ一週間の疲労を休めようと思っていたのに、降り出した雨が家の瓦を叩く音によって叩き起こされた。何とも言えない脳内状況のままベットから這い出て、カーテンに遮られた窓に歩み寄る。カーテンをそっと手でズラして外を見つめる。空は夏なのに暗く淀んでいて、窓の外は雨の世界に支配されていた。家の前の道路を車が通るとタイヤが水溜りを弾く音が盛大に聞こえる。雨の日は気分が優れない。濡れるのが大嫌いな祐介である。
 どんよりとした気分を吹き飛ばすために顔を洗おうと思った。その途中、部屋の床に転がっていた携帯電話を取り上げて時刻を確認する。今現在、土曜日の十二時四十七分。よく寝た方だと思うが、寝ようと思えばあと四時間は簡単に寝られる。今まで人生の半分くらいは寝て過ごしてきたような気がするのは気のせいではあるまい。携帯電話をまた床に転がして部屋を出た。
 廊下を横切って階段を下り、洗面所に向かって顔を洗う。酷い寝癖を水で無理矢理捻じ伏せ、タオルで水気を拭った。さっぱりしたような、でもまだ眠気があるような、そんな微妙な感じだった。腹が減ったので何か食おう、と思い立つ。リビングに行くと誰もいなくて、電気も消えていた。父親は今日も仕事だろう、だったら母親がいるはずなのだが気配がない。不思議に持ってテーブルに歩み寄ると置手紙があった。内容は友人と昼飯を食べてくるから適当なものを食え、とのことだった。
 何を食おうか悩んだが、寝起きでいきなりカップラーメンは無理な気がしたのでパンにする。台所の食器棚に向かい、食パンの袋から一枚だけ取り出す。それをオーブントースターに突っ込んでメモリを適当に回し、冷蔵庫に向き直って中から牛乳を引っ張り出した。コップに注いで白い液体を一口だけ飲み込む。ぶっちゃけた話、牛乳はあまり好きではない。ただ、カルシウムと取らなければお前いつか死ぬぞ、と学校の保健室のおばちゃんに宣告されて仕方が無く飲んでいるのだ。
 牛乳の入ったコップとバターを手にしながらリビングに戻り、テーブルの上に置いて一休み。近くにあった新聞を広げ、チャンネル欄に目を凝らす。しかし土曜日のこの時間に面白い番組がやっているはずもなく、結局テレビは点けなかった。新聞を一ページだけ捲り、四コマ漫画に目を通し、何とも言えない気分のまま呆然としているとオーブントースターが鳴いた。
 台所に向かう途中に皿を一枚手に取り、食パンを救出する。が、少しだけ手遅れだった。食パンの表面が微妙に焦げてしまっている。命を取り止められずにすまん、でもちゃんと食ってやるからとお経を上げつつも回れ右。リビングに戻ろうとしたとき、ふっと冷蔵庫に視線が移った。ぼんやりと考える。確か卵があったはずだ。卵焼きでも作ってみようか、とは思ったのだが、どうせ拓也のように美味く作れる訳がないので断念される。
 リビングのテーブルの前に座り直し、パンにバターを塗りたくって一口齧る。美味いもクソもない、普通のトーストであった。むしゃむしゃと一人で食パンを貪りつつ、視線を窓の外へ向ける。雨脚は以前として衰えず、面白いほどの量の雨が次から次へと地面を叩いていた。祐介一人しかいないリビングに聞こえるのは雨の音だけだ。ここ数日、毎日のように鳴り響いていたはずのセミの声は聞こえない。この雨でセミが死んでしまわないことを心の底で思う。
 それは、祐介が食パンを半分ほど食べ終わり、牛乳を一口だけ飲んだときだった。窓の外から、それまでとは違う音が聞こえた。思わず視線を上げ、再び窓の外を凝視する。体の芯から何かが沸き上がる。じっと見据え続けること数十秒、また聞こえた。腹に響くような、遠く離れた場所から轟く轟音。雨の日に限って声を荒げる、自然災害。聞こえたそれは、雷鳴だった。
 まるで天から咆哮を上げるかの如く鳴る、雷。
 脳裏に拓也の声が蘇る。斬撃型セロヴァイト・雷靭の特性は、落雷を意のままに落とすことだ。
 まさかそんなことができる訳はない、と思うと同時に、もしかしたら、と考える自分がいる。ただ、やってみる価値はあると思う。このセロヴァイト戦を戦い抜くと決めたのは他の誰でもない、祐介である。セロヴァイトの特性は、これからの戦いの勝敗を大きく左右する最大の武器だ。それを知らずして優勝は有り得ないだろう。結局は駄目で元々である。試してみる価値は少なからずあるのだ。そうとも、こうと決めたら一直線、行動あるのみだ。
 食べ残りのパンを皿の上に放置して立ち上がる。部屋の電気を点けっぱなしのまま走り出し、玄関でスニーカーに数秒の格闘を挑む。その格闘に勝利の旗を上げ、無意識の内に手が傘を掴み、外に出ようとする祐介の足が止まる。ちょっと待て、と思う。今、自分が右手に握っているものは何だ。傘だ。うん、それはわかってる、わかってるのだがそれはマズイのではないのか。雷を落とそうとして自分に落ちたら洒落にならない。笑い話では済まされないのだ。そんな馬鹿みたいな理由で死んだら未練だらけで終ってしまう。だから傘は置いて行こう。
 濡れるのは途方も無く嫌だが仕方が無い、死ぬのよりは百倍も千倍もマシである。傘を差さないまま外へ出て、本降りが続くその中を走り出す。実験を行うなら誰もいない所に限る。誰もいなくて、雷を落としても迷惑が掛からない、そんな場所が必要である。この辺りでそんな場所は、一つしか思いつかなかった。ここから少しだけ離れた場所にある田んぼ。人がいるのはせいぜい夕方の犬の散歩の時間だけであるはずだし、そもそも今日は雨が降っているのだからこんな時間にそんな場所には誰も行かないであろう。
 決まりであった。体を打ちつける雨の中を走り抜ける。最初は濡れた服が肌に張り付いてこれ以上無いほど気持ち悪かったのだが、全身が完全に水浸しになると大して気にならなくなった。それどころか、今まで濡れるのが嫌いだったはずの心の中は、逆に気持ち良いとさえ思えてきた。不思議なものである。やはり中途半端に濡れるのが返って気持ち悪いのだろう。濡れるときは潔く全身水浸しになれば驚くほど清々しい。
 五分ほど走って辿り着いたのは、大きな田んぼだった。数え切れないほどある田んぼが寄せ合わさって作り出された田舎のような場所だ。この町ではたぶん、もうここにしか田んぼが無いのではないかと思う。そして今は、それが有り難かった。祐介の予想通りに人の気配はしない。見渡す限り、人の姿も見えない。近くに家が無い分、人に見られる可能性も低い。絶好の場所と状況だと思った。
 雷はまだ、鳴っていた。
 その場で呼吸を少しだけ整え、右手を前に差し出して真名を呼ぶ。
「――……雷靭」
 雨の中から緑の光の粒子は変わらずにあふれ出し、祐介の掌に収縮される。それは形を形成するために活動を開始し、ゆっくりと伸びていく。雨に濡れた祐介の手に一振りの刀が造り出され、緑の光の粒子は一瞬にして弾ける。そこにあるのは、この世界に具現化された斬撃型セロヴァイト・雷靭。祐介の、本当の相棒となる者だ。
 真柴と戦ったあの日から、具現化させるのはこれが初めてだった。久しぶりに感じる重みに少しだけ胸が躍る。今から自分がやろうとしていることを考えると自然に頬が緩まる。なぜなら、自分は今から神様のようなことをするのだ。小さな頃から恐れの対象でしなかった雷を、自らの意思で操れるのだ。こんな気持ちが良いことが、他にあるのだろうか。今に限り、自分は正真正銘の最強ではないのか、と祐介は思う。
 雷靭の刃をゆっくりと掲げ、切っ先を雷雲の広がる天へ突き立てる。しかしここに至ってようやく、どうやって雷を落とせばいいのかという当たり前の疑問が浮かんだ。そう言えば、拓也から聞くのを忘れていた。雷を落とせる、ということだけを聞いて、肝心のやり方を聞きそびれるとは何たる失態か。自分のいい加減さに愕然とした。だがここまで来て何もせず帰るのも癪だったので、取り敢えず駄目元でやってみようと心を据える。
 雷雲を睨みつけながら、世界に響くように心の中で「落ちろ」と念じた。
 が、結局は徒労に終った。雷雲はウンともスンとも言わなくて、虚しい時間だけが過ぎ去った。やっぱり駄目かと諦め、祐介が雷靭の刃をゆっくりと下げたその刹那、
 視界が空白に染まった。気づいたときには、轟音が耳を貫通していた。
 あまりのことにその場に転げ落ちた。一体何が起きたのか全くわからなくて、泥の中に尻餅を着きながら雨の中で呆然としていた。そしてようやく元通りになった視界の中で、それを見た。
 田んぼの中心部辺りが、円状に焼け焦げていた。しかもその辺り一体が雨にも関わらず燃えている。雷が落ちた痕を見たことがないので何とも言えないが、しかしどう考えても雷が落ちた痕に思えた。雷靭は雷を落とせる。それは、一寸も間違いではなかった。落雷はまさに、祐介の目前の視界の中に直撃していた。威力は計り知れないというのは一目瞭然で、雷靭に殺されそうになったという拓也の言葉をやっと理解した。やがて降り続ける雨が火を鎮火し、焦げ痕をゆっくりと洗い流す。どこか遠くで雷が次はまだかと鳴いている。
 涙が出た。恐過ぎて死ぬかと思った。冗談じゃない、こんなもの、とてもじゃないが戦いでは使えない。もし実戦で使って相手に落雷を落としたら、まず間違いなく相手を殺してしまう。それ以前に、そんな特性を祐介自身が恐過ぎて使えない。楽観視していた考えが一瞬で吹き飛んでいた。雷は、祐介が想像していたようなファンタスティックなものではなかった。実際のそれは、冗談抜きで本物の自然災害だった。人間が扱っていい力の領域を超越している。もしその力を使えば、遅かれ早かれ自分が死ぬと思った。
 雷靭を使ってこのセロヴァイト戦に挑むのはまだいい。それは何とかできる。しかし雷靭の特性は絶対に使えない。こんな特性、もう二度と使ってたまるか。雨が降っていてよかった。自分でもどうかはよくわからないが、もし涙が出ていたのなら雨が一緒に洗い流してくれる。自分でも情けないとわかっていながら、しかし恐いものは恐いのである。どうしようもできないのである。弱虫とでも何とでも言えばいいさ、だったらテメえが使ってみろっつーんだ。
 半ば開き直りながら、祐介は立ち上がる。手に握っていた雷靭を見据え、雨の日は絶対に使わないでおこうと心に決める。
 びょしょびしょに濡れた体を見下ろしながら、帰って風呂入って体を拭かなければ風邪を引くかもしれないと思った。帰ろう、そして食べ残しだったパンを貪ろう。今日あったことは全部忘れて寝ちまおう。そうするに限る。すべてに踏ん切りをつけ、祐介が雷靭に消えろと念じ、踵を返す。
 返そうとした。が、体が凍りついた。思わず自らの右手を見た。
 雷靭が、消えない。恐くなって消えろと念じて見ても、なぜか一向に消えなかった。こんなことは初めてで、先ほど感じていた恐怖が再発する。何度も何度も消えろと叫ぶが雷靭は沈黙を続け、緑の光の粒子は現れない。壊れてしまったのか、それとももっと別の理由なのか。少しだけ腹が立って、雷靭を目の前に持ってきたその刹那、いきなり笑い声が聞こえた。慌てて辺りを見まわすが人はいない。
 そして、気づいた。笑い声は、頭の中に直接響いていた。
 その笑い声があの日、真柴と戦ったときに聞こえた声と一致する。間違いない。この声は、雷靭のものだ。
 雷靭が熱を帯びた。焼けるようなその熱に驚いて雷靭から手を離す。支える力が失われた雷靭がゆっくりと落下し、地面に――落ちなかった。手品のように、雷靭が空間に停止した。信じ難い光景を見つめる祐介の視界の中、笑い声がその大きさを増し、それに比例するかのように雷靭の切っ先がゆっくりと上がって一瞬で空間を疾る。見上げるほどの高度に達した雷靭の刃が黄金の光を灯し、祐介の視界の中で炸裂した。
 落雷。それも、一筋ではない。何十本もの落雷が、雷靭の刃を目掛けて打ち落とされる。
 視覚を塗り潰す閃光と、聴覚を貫く轟音が視界一杯に広がる。両腕で目の前を塞ぎ込み、隙間から空を見上げた。音の感覚がしない。ただ、鼓膜はまだ破られていないような気がする。恐らく、それはセロヴァイヤーにある身体能力の向上に関係するのだと思う。雷靭を具現化させていなかったら、祐介の耳などひとたまりもなかったはずである。この閃光の中で雷靭を見上げられるのも、その御かげだったのかもしれなかった。
 落雷は雷靭に落ち続ける。……いや、違う。祐介は、そのことにやっと気づいた。
 落雷が雷靭に落ちているのではなく、雷靭が落雷を吸収している。
 まるで雷雲そのものを吸収するかの如く、雷靭はすべてを根こそぎ飲み込んでいた。頭の中には笑い声が響き続けている。その光景と声が恐ろしくなった。空に浮かぶ一振りの刀に再度消えろと念じるが一向に消えない。これほどの異常現象を巻き起こすとなると人がやってきても不思議はなかった。一刻も早くこの現象をどうにかしなければならないとは思うのだがどうしようもできない。空高くにある雷靭には当然のように触れられないし、消滅もさせられない。今の祐介にできることなど、ただの一つも残っていないのかもしれなかった。
 閃光がその大きさを増した。完全に視界が塗り潰された刹那、視覚が一気に戻って来て、呆然と空を見上げて絶句する。
 雷雲が、完全に消え失せていた。
 太陽が輝く青空に浮かぶ一振りの刀。その刃が陽射しを受けて煌めいている。降り続けていた雨も例外無く、雷靭に飲み込まれていた。やがて雷靭は浮上したとの同じく、自らの意思を持つように高度を下げ、ゆっくりと祐介の目の前に戻って来た。手を伸ばせば届く空間に停滞しているその刀を、祐介はまるで化け物を見るかのように凝視していた。
 恐る恐る手を伸ばし、刀の柄に触れる。感電したらどうしようとは思ったが、そこから電力は感じなかった。雷靭を握り締めると同時に掌に重さが伝わる。まるでさっきまでの光景が嘘だったかのように雷靭は沈黙を押し通している。これは悪魔なのかもしれない、と祐介は突拍子も無いことを思った。このセロヴァイトはおかし過ぎる。絶対に他のセロヴァイトとは違う。他のを詳しくは知らないが、異なるセロヴァイトなのだということは嫌でもわかる。本当に、特性どころか、このセロヴァイト自体もう使わない方がいいのかもしれなかった。
 ため息を吐き出す。泥まみれになった自らの重い体を動かして雷靭を消そうとし、すべての思考が止まった。
 頭の中に存在するレーダーが、唐突にセロヴァイヤーをトレースした。反射で背後を振り返る。
 青空の下、傘を差した女の子が一人、こっちを見ていた。肩までの黒い髪に整った顔立ち。紀紗を表現する可愛いとは違い、綺麗と呼ばれる方に部類する女の子。黒い服を着たその年は祐介とそう変わらないような気がするが、大人びた雰囲気が年上に思わせる。そして、その女の子はセロヴァイヤーである。それはまず間違いない。セロヴァイヤーである女の子はゆっくりと微笑み、差していた傘を丁寧に折り畳む。
 ――よりにもよって、使わないと決めた側からこれだ。祐介は、そう思った。
 数メートル離れたそこから、女の子が挨拶でもするかのように首を傾げる。
「名前を、聞いてもいいですか?」
 会話は避けた方が良いと知りつつ、口は答えていた。
「……源川祐介」
「初めまして、祐介さん。佐倉唯(さくらゆい)です。……貴方も、わたしと同じ斬撃型なんですね」
 唯と名乗った女の子が傘を捨てる。
 白い手を前に差し出し、その真名を呼ぶ。
「――水靭」
 無表情になった唯の掌から緑の光の粒子があふれ出し、雷靭と全く同じ形の一振りの刀を造り出す。しかし見た目は同じでも特性はまるで違う。
 そして何より、ここで戦うのはあまりに不利だった。祐介は辺りを見まわす。辺りは青空とは言え、つい数十秒前までは雨が降り注いでいたのだ。斬撃型は自然を操る能力に特化している、と拓也は言った。風靭というセロヴァイトは風を操り、まがい物とは言え雷靭は雷を操った。それはセロヴァイトの真名で一目瞭然の特性だ。だったら、水靭の能力は水を操ることに他ならない。唯がセロヴァイトに特性があるのかどうかに気づいているのか否か。気づいているのであれば、この戦いの勝敗の行方を大きく不利にする。対してこちらはすでに雷雲は消え去っているし、かと言ってもしあっても落雷は落とせない。すべてを取っても、こちらが圧倒的に不利だった。
 しかし、もし唯が特性に気づいていないのであれば勝てる可能性は大きい。幾ら地味系の生徒だった祐介でも、女の子の腕力に負けるまでは弱くない。物理攻撃だけの戦いとなれば勝てると思う。ここはセロヴァイトの特性を使わない戦いになることを祈るしかなかった。ただ、注意は必要である。いつ水が祐介を襲ってくるかわからないのだ。気を抜けばその瞬間に殺されるだろう。
 逃げ出したい、という意思を捻じ伏せる。震える腕を唯に気づかれないように押さえつける。最強になるんだろう、だったらこんなところで逃げたいなどと思うな。震えを全身全霊を賭けて押さえ込む。女の子にビビって逃げ出したんじゃ締りがつかない。勝ち抜け。ここで負けるのなら自ら喉を掻っ切って自害しろ。拓也に近づくためには絶対に引いてはならない。こうと決めたら一直線、この勝負、絶対に勝ち残る。
 逃げ出したいと悲鳴を上げる脳みそを一喝させ、度胸を振るい立たせて怒濤の叫びを上げる。先制は祐介だった。水溜りを弾いて祐介の体が宙を舞う。空中で雷靭の刃を振り上げ、一度の跳躍で斬撃距離圏内に入れた唯へと刀を振り抜く。その刃が空を切り、祐介が気づいたときには真横から唯の斬撃が飛んでいた。避けろ、という意思ではなく、逃げろ、という意思の下に祐介の体が地べたに這い蹲る。泥だらけになりながらも刀を真上に振り上げて牽制し、唯との距離を取る。
 泥一つついていない唯に対して、こっちは全身泥塗れである。醜い戦い方だとは思う。だけど形振り構っている暇はない。そんな余裕すら祐介にはない。一体いつ特性を発動させられるかわからないのだ。ならば特性を発動させる前に叩く必要がある。殺しはしない。斬撃型セロヴァイト・水靭を砕く。そうすれば勝負は決まるのだ。狙いは一点だけ。祐介の眼光が相手の刃を捕らえた瞬間、再び地面を抉る。
 真横から振り出される刃を、唯は表情一つ変えずに受け止めた。刃と刃が交錯した刹那、赤い火花が散った。互いに刀を弾き、一瞬だけ距離を取るのも束の間に又しても距離を詰める。なるべく唯の顔を見ないように水靭だけを睨みつけ、防御の上から刃で刃を切る。数回に及ぶ攻防の中で、しかし水靭の刃はビクともしない。よくよく考えれば雷靭と水靭は同じ斬撃型であり、同じ姿形である。もしかしたら耐久率も同じなのかもしれない。もしそうなら、勝負の勝敗は相打ちか、もしくはどちらかが死ぬまで着かないのかもしれなかった。しかしそれでも、自分は絶対に人は殺さない。
 真上から振り下ろされた刃を真横に転がって避け、遠心力を利用して水靭に雷靭をぶつける。幾度目かの火花が飛び散り、そのまま根元につけて組み合う。真っ直ぐに唯の顔を見据えながら力押しで水靭を砕こうとする。やはり力ではこちらの方が上らしい。押され始めた唯の表情が少しだけ歪んだとき、この戦いが始まって初めての、体術が入った。唯の足が祐介の足に重なったと思った次の瞬間に、祐介の視界が転倒する。泥水を跳ね飛ばして空が見えた。仰向けに倒れた祐介の体に水靭の切っ先が走る。それを驚くほど正確に目が追っていた。泥の中を転げて直撃を避け、地面を弾いて立ち上がる。髪の毛から泥水が滴り落ちながら雷靭を握る祐介と、未だに泥一つついていない体で水靭を握る無表情の唯が対峙する。
 セロヴァイヤーは身体能力が向上する。そのことを、やっと実感した。普段の祐介なら絶対に避け切れないような攻撃が避けれる。意識してから体が反応するまでが驚くほど速い。下手をすれば意識する方が遅いという可能性もある。なぜか、楽しかった。さっきまでは逃げ出したいと震えていたはずの感覚が消え失せ、逆に腹の底から不思議な感覚を運んで来る。これが本当のセロヴァイト戦。生死を賭けるつもりは無いが、今までに味わったことのない感覚がそこにはあった。最強になるために勝ち抜くという考えが、本当の意味で理解できたような気がする。
 刀を構え直した祐介に、やはり無表情のまま唯がつぶやく。
「……どういうつもりですか」
 訳がわからず、
「……何が?」
 水靭の刃が地面に突き刺さる。
「なぜ貴方は、わたしを狙わずに水靭を狙うんですか」
 やっぱりわかるものなのか、と祐介は思った。そして気づかれたのなら好都合である。考えを話す切っ掛けができたのだ。もしかしたら唯も祐介の考えに共感してくれるかもしれない。そうなったら無意味な戦いをせずに済む。本当のならそれがいちばんである。それでも戦いたいと言うのなら、生死を賭けずに戦おう。それなら祐介も思う存分できる。思い切りの良い戦いができると思う。
「おれは、人を殺したくない。だからセロヴァイトだけを狙ってる。もし、唯……唯さんがおれと一緒のことを思ってるんだったら、」
 話は最後まで続かなかった。
 唯が刀の切っ先を祐介に突きつける。
「――甘いです。そんなことを言ってると、死にますよ」
「ちょ、ちょっと待――」
 気づいたときには、唯の姿を見失っていた。
 先ほどまで唯がいたはずの水溜りが波紋を広げている。勘に他ならなかった。その場から離脱した刹那、真上から唯が刀を振り下ろしていた。その速さとその威力が、ついさっきまでの唯とまるで違った。翻る髪から見える唯の瞳が祐介の姿を正確に追う。体勢を立て直す暇も無かった。地面を転がって立ち上がろうとした瞬間には斬撃は飛んで来ていて、雷靭を突き出すのが後少しでも遅れていたら祐介の首が飛んでいたはずだ。
 雷靭と水靭が噛み合い、火花が盛大に飛び散る。力では祐介が勝っていたはずだった。なのに、今度は刀を一瞬で押されて弾かれた。雷靭がすっぽ抜けそうになるのを何とか堪え、出鱈目に刃を振るう。しかしそこにはすでに唯の姿は無く、少しだけ離れた場所から祐介を見据えていた。慌てて立ち上がって体勢を立て直す。息がなかなか整わない、自分の体が少しだけ重いような気がする。
 何なんだ、この女の子。さっきまで見ていたはずの女の子が別人に思える。無表情は相変わらずだが、何かが違う。手加減されていたのだろうか。祐介の力量を計るために力を抑えていたのだろうか。それで大したセロヴァイヤーじゃないとわかって本性を出し始めた。そう考えると何もかもが一直線に繋がるような気がする。しかしもし本当にそうなら、祐介にはどうすることもできなくなってしまう。勝ち目が無くなる、とかそういうことではない。勝てる気が、しない。
 忘れていたはずの逃げ出したいという思考が再発する。吐く息が震えている。脳裏にあの日の光景が過ぎった。今ここで、もし真柴と戦ったときのようなことが起これば、恐らく自分は勝てるだろう。しかしそうなれば、唯は間違いなく死ぬ。それだけは駄目だ。しかし、普通に戦ったのでは勝ち目が無い、同じ型のセロヴァイトなら身体能力で優っている唯が絶対に有利、雷靭の特性も使えない。ここで殺されるのだろうか。負けるのだろうか。殺すよりは殺される方が良いのかもしれないが、決めたのだ。殺されるなら、相手の腕の一本でも落としてから殺されてやろう、と。だったら、殺される前に、噛みついてやろうじゃねえかよ。
 気力を呼び起こす。刀の切っ先をゆっくりと動かす唯に突進する。自分でもわからない叫びを上げながら、祐介は雷靭を振り抜いた。だがそれは、結局のところ自暴自棄と大差ない攻撃に他ならなかった。そんな攻撃が、強者に通用する訳は無いのである。振り抜いた刃は振り返された水靭に呆気無く弾かれ、今度こそ本当に祐介の手から雷靭が離れた。
 体重が背後に傾く。盛大に泥水を跳ね飛ばして地面に倒れ込み、上体を何とか起こそうとしたときに上から圧力を掛けられた。
 祐介の体の上から、唯が切っ先を突きつける。真上にある太陽が逆光を生み出していて唯の表情が一切わからない。
「――ほら、死ぬじゃないですか」
 唯がそんなことをつぶやいた。
 何も言い返せない。
「貴方はわたしに負けました。だったら、」
 水靭の刃が祐介の喉に当てられる。
 唯は、言った。
「――わたしに、協力してください」
 意味がわからず、
「……は?」
 刀が引かれる。ゆっくりと上半身を起こした祐介の目に、唯の顔が飛び込んでくる。
 唯が笑っていた。それがやけに眩しく思えた。

     ◎

 泥だらけのまま話を聞く訳にも行かず、取り敢えず唯を自宅へと招いた。敵を自らの本拠地に入れていいのか、とは思ったのだが負けたセロヴァイヤーがそんなことはもちろん言えない。殺されなかっただけマシである。
 唯をリビングに残し、全身の泥を洗い落とすために脱衣所に向かう。泥が滴る服を来たままで浴槽に入り、頭からシャワーを浴びた。しかし土の匂いがすでに全身にこびり付いてなかなか体から離れてくれない。それがどうしようもなくもどかしくて、シャンプーのボトルを引っ掴んで直接頭の上からぶち込んで泡立たせる。シャンプーのボトルの横っ面には『自然の木々の香りで云々』などという宣伝文句が書かれているが、残念なことにそんなものは微塵と感じない。それから数分の格闘を挑んでいたのだが、鼻の奥底に根付いた泥の匂いはいつまで経っても消えてくれなかった。この匂いは気のせいだ、と思うことに決め込んでシャワーを止める。
 汚れの取れない服をその場に残して脱衣所に舞い戻り、体を拭いて新しい服に着替える。濡れていない服がなぜか今は無性に気持ち良くて、腹の奥底から眠気にも似た疲労を一挙に運んで来た。本当ならこのまま眠ってしまいたかったのだが、客人をリビングに残したまま眠るのは気が引ける。それ以前に、こんな状況ではとてもじゃないが安心して眠れない。
 タオルを首に掛け廊下を歩き、脱衣所を出てリビングへ辿り着く。今朝の食べ残しだった食パンの皿が乗ったテーブルの側に唯は座っていて、祐介を見つけると柔らかく笑う。いつまでも食べ残しを放置しておく訳にも行かず、まずはそれを片付ける。その途中で飲み物が必要だろうと考えて冷蔵庫を漁るが、こういうときに限って牛乳しか出て来ない。仕方が無くそれをグラスに注いでテーブルに着く。
 牛乳の入ったグラスを差し出すと、唯は何とも言えない表情で受け取った。まあこの飲み物を喜んで受け取る奴はいないだろう、とは思うのだがやっぱり失敗だったかと少しだけ悔やむ。ヤケクソになって祐介はグラスに口を付けて半分ほどを一気に飲み干す。微妙な後味が糸を引くその中で、込み上げるゲップを全身全霊の力を込めて押さえ込む。
 そのタイミングを見計らっていたかのように、唯は口を開く。
「年齢を聞いてもいいですか?」
 グラスをテーブルの上に置きながら、
「十七の高二」
「それじゃわたしの方が一つ年上ですね」
 たぶん年上だろうとは思っていたが、どうやら本当にそうだったらしい。ただ、良い意味でもっと大人びているような気はする。しかし年上の女の人を家に上げることになるとは思ってもみなかった。そもそも同年代の女子でさえ家に上げたことなどただの一度も無いのである。彼女など当たり前のようにいなかったし、プライベートで女子と遊ぶのなど小学六年生のときに開かされたクリスマス会以来だ。親がいなくて本当に良かった、と情けないことで安堵する。
 話を本題に入れる。
「……それで、協力っていうのは何なんですか」
「敬語じゃなくていいです。普通に話してくれて結構ですから」
 そう言われても困る。ついさっき会ったばっかりの女の人にいきなりタメ口で話せるほど祐介は人間関係が豊富ではないし、年上の唯が敬語を使っているのにこっちがタメ口というのはどうも気が引ける。それに加えて、唯はただでさえ大人びていて緊張するのに、やはりタメ口はとてもじゃないができそうになかった。その考えが表情に出ていたのだろう。唯が「ま、いいですけどね」と苦笑する。何だかやり難い人だ、と本気で思った。
 唯は唐突にリビングを見まわして、ぽつりと不思議そうに、
「お家の方はいないんですか?」
「父親は仕事、母親は出掛けてるみたい」
「兄弟は?」
「いないよ。一人っ子だから」
「そうですか」
「あのさ、それで、」
「そう言えばお昼、もう食べましたか?」
「いや、まだだけど……それより、」
「それでは、台所をお借りしてもいいですか?」
「え、う、うん。いいけど、」
「何か作ってきます」
「あ、あのっ、」
 祐介の呼び声に応えることなく、唯はリビングを出て台所へ消えた。
 リビングに一人取り残された祐介はため息を吐き出しながら頭を掻く。本気でやり難い。それになぜか、唯が肝心な話題を避けているような気がする。セロヴァイト戦で負けたんだから協力しろ、と言ってきたのは唯である。それなのにどうしてすぐその本題に入らないのかがわからない。何か言い難いことなのか、それとも本当はそんな話など端から嘘だったのか。それに一体何を思って食事を作るなどと言い出したのだろう。いやしかし、もしかしたらその料理こそが唯との契約金になるのではないか、などとよくわからない想像を膨らませる。
 髪の毛から雫が滴り落ちる。首に巻いたタオルで頭を無造作に掻き混ぜ、そのまま勢いに任せてテーブルに突っ伏した。頭の中が変な感じに回っている。何もかもが麻痺したのではないかと思う。さっきまで殺し合いをしていた相手と何が楽しくてこんなことをしているのだろう。どうかしているのではないか。目を覚ませ、お前はつい数分前に彼女に殺されそうになったんだぞ、と脳みそが叫ぶ。ただ、唯からはさっき戦ったときのような敵意は全く感じられない。今すぐ殺されはしないだろう。それに殺すのであれば、あのときにもう殺されているはずだ。台所から包丁を使う音が聞こえた。冷蔵庫に食材などあっただろうか、とは思うが何かあったのかもしれない。
 唯は、祐介と戦う気はもう無いのだろうか。ならば唯の目的とは一体何なのか。協力しろ、とは言ったが何に協力するのかがわからない。会話は途中で中断させられてしまったし、唯はその話題を明らかに避けているような節がある。依然として頭の中が混乱している。わからないことだらけだ。突然に強くなった唯、祐介を殺さずに生かした唯、協力しろと言った唯、しかしその会話を避ける唯、そして食事を作ると席を立った唯。一体どれが本物の行動と言葉だったのだろう。唯は何を思って、こんなことをしているのだろう。元来女付き合いは滅法弱い祐介である。幾ら考えても、まともな考えは出てこなかった。
 途方も無く疲れたような気がして、テーブルに突っ伏したまま目を閉じる。このまま本当に眠ってしまいそうだった。そして本当にこのまま眠れるのならどれほど気楽なことか。寝てはならない、絶対に寝るなと自分に言い聞かすのだが、一度閉じてしまった目を開けるのには驚くほどの気力が必要で、ゆっくりと背後から忍び寄る睡魔に意識を持って行かれそうになった刹那、鼻に香ばしい匂いが届いた。
 湧き上がった空腹が睡魔を撃破する。ぼんやりと目を開いたそこに、湯気が上がるチャーハンを持って戻って来る唯を見た。食パンを半分しか食べていない胃にはその見た目だけで食いついてしまいそうな効果がある。「お待たせしました」とテーブルの上にチャーハンが置かれ、どこから探し当てたのかスプーンまで用意済みだった。何もかも放り出して遠慮無しに頂こうと思ってスプーンを手に取り、チャーハンを口に運ぼうとしたとき、唐突に唯は言う。
「毒が入っている、とは思わないんですか」
 祐介の手が凍りつく。
 唯は続ける。
「わたしと貴方は敵同士であるはずです。その敵であるわたしが作った食事を、何の警戒も無く貴方は食べるんですか。毒が入っていると考えて、当たり前なんじゃないですか」
 欲望に負けていた。口からは、考えてもいなかったことが飛び出す。
「――そんなことは思わないよ。だって、殺すつもりならあのときに唯さんはおれを殺してるはずだから」
 そのままスプーンを口に運ぶ。驚いた顔をする唯を見つめながらそれを飲み込んで見せた。ロクに味を確かめなかったのだが、それでもこのチャーハンが美味いんだということはすぐにわかった。飲み込んで数秒、体の異変は感じられない。もちろん、毒などどこにもありはしない。そんな存在など、最初から信じていないのだ。未だに驚いている唯に向かって、「ほらね」と祐介は笑い掛け、さらにチャーハンを掻っ込む。
 唯が呆れたように笑った。
「わたしの負けです。……本題に入って、いいですか」
 チャーハンを食べる手を止め、ゆっくりと肯く。
「貴方に協力してもらいたいんです」
 それはわかってる。問題は、何に協力するか、ということだ。
 唯は無表情で、こう言った。
「……どうしても、倒したいセロヴァイヤーがいるんです」
「倒したい?」
「はい。そのセロヴァイヤーを倒すために、わたしは協力してくれる人を探していました。そして今日、貴方を見つけた。さっきの戦いはわたしが勝ちましたが、貴方はまだ力を隠し持っている。違いますか?」
 違いますか、と聞かれても祐介自身よくわからないのだ。
 真柴と戦ったあのときの力をどうやって引き出すのかもわからないし、落雷を落とせることを唯が言っているのだったら一応力を隠しているということにはなる。がしかし、雷靭の特性を使ってセロヴァイヤーを倒す気は毛頭にない。もしくは、雷靭が暴走していた場面を唯は見ていたのかもしれなかった。いや、その可能性は大きい。雷雲を丸ごと飲み込んだ斬撃型セロヴァイト・雷靭。理由を知らないセロヴァイヤーが見れば、それは明らかに強大な力に思えるだろう。
 いつまでも答えを返さない祐介に向かって、唯が問う。
「訊きます。貴方は、わたしに協力してくれますか? それとも、断りますか?」
 どう答えていいのか、まったくわからなかった。
 唯には一度負けているのだから祐介が唯に従う理由はあるはずだ。が、はいそうですかと人を殺すことに協力はできない。
 考えた挙げ句、祐介は唯を見つめる。
「……一つだけ。唯さんはそのセロヴァイヤーを倒すのか、それとも……殺すのか。唯さんは、どっちを選ぶんですか?」
「殺す、と答えたら貴方は協力してくれないんでしょうね」
 祐介は肯く。そして、唯が微笑んだ。
「だいじょうぶです。わたしはただ、そのセロヴァイヤーを倒したいんです。殺しはしません。ですから……協力、してくれますよね?」
 一人で戦うよりは二人の方が何かと助かるのではないかと思った。
 こうして美味いチャーハンもご馳走になっている訳だし、断る理由はないだろう。
「……わかった。絶対に人を殺さない、その条件を飲んでくれるんなら協力する」
「約束します」
 そう言って、唯は手を差し出す。意味がわからずその手を見つめる祐介に、唯は「握手です」と笑った。
 微かな抵抗を感じながらも、祐介は唯の手に自らの手を重ね合わせる。
 その日握った唯の手は、ぬくもりに満ちていた。





     「神城啓吾」



 佐倉唯と協定を結んだその日、祐介は「前回のセロヴァイト戦優勝者を知っている」と彼女に告げた。すると唯は「どうしてもその人に会いたい」と言った。それを断る理由は無かったので、互いに都合のつく日を決めて渡瀬拓也に会いに行こうということになった。そのときになって、拓也の携帯番号を聞いていないことに思い至った。連絡を取らないまま押し掛けるのはどうかと思ったのだが、そう言っているといつまで経っても拓也のアパートには行けないので当たって砕けろと同じ要領で押し掛けることに決める。
 唯と一緒に拓也のアパートに行く日は、一週間後の土曜日と決まった。唯と別れたその日から、他のセロヴァイヤーには会っていない。唯一の例外として、最初に倒した打撃型セロヴァイト・羅刹のセロヴァイヤーである真柴篤史には学校で擦れ違ったことがある。廊下で偶然にして目が合い、何か言われるのが恐くて視線を逸らそうとしたとき、なぜか先に逸らしたのは真柴の方だった。しかも向こうは完全に祐介を避けているような素振りを見せ、木村に「お前、真柴の何か弱み握ったのか?」と真顔で訊かれ、どう答えていいのかわからずに何とも言い難い気持ちのまま祐介は学校生活を過ごすことになっている。
 唯との協定を結んで一週間というのはつまり、拓也のアパートへ行く日だ。待ち合わせは十二時に駅のホーム。拓也のアパートは祐介の家から徒歩で一時間近く掛かる場所にあった。あの日、紀紗に連れられて倉庫からアパートまで辿り着くまでは十五分くらいだったような気がする。つまり、残りの四十五分はずっと走り続けていたのだろう。あのときは時間の感覚なんて無かったし、それ以前に恐くて仕方が無かった。だからそんな遠い場所にまで逃げていた事実を押し付けられても、結局は何も思わなかった。思うとすれば、我ながらよく逃げた、という腰抜けの考えだけである。
 そして迎えた土曜日、完璧に寝坊した祐介は家から自転車をかっ飛ばして駅に辿り着き、三つ先の駅で降りられる切符を購入してプラットホームに死ぬような思いで駆け込んで、待ち合わせなら男の方が絶対に早く到着していなければならないと思っていたのだが、案の定、唯はとっくの昔にそこにいた。ごめん本当にごめん昨日の夜に早く起きようと思って十時に寝たんだけど目覚ましが壊れてて寝坊した本当にごめん。そんなことを唯に頭を下げながら必死に謝った。唯は苦笑し、「まだ遅刻じゃないですよ」と時計を指差す。時刻は十二時の二分前だった。ギリギリセーフだが、やはりとんでもなく格好悪い。居心地が悪くて謝り続けていたら唯に怒られた。
 ホームに滑り込んできた電車に乗車し、空いている席を見つけて二人揃って腰を下ろす。こんなところを学校の奴に見られたら終わりだと脅えていたのだが、心配は徒労に終る。電車はすぐに三つ目の駅に到着し、二人を降ろすとすぐさま次の駅へ向かって走り出した。一体何が気に食わなかったのか、電車の車輪からはいつにも増して錆びた音が響いていた。そんな音に顔を顰めながら改札口を目指して歩き出し、夏の陽射しが真っ向から突き抜ける道路へ辿り着く。
 記憶を必死に思い起こして、確か右だったよなと唯には聞こえないように小さくつぶやいて目的地に向かう。これで間違ったらえらいこっちゃ、とは思うが、いざとなれば交番に行って聞けばいい。しかし女と二人連れの最中に交番に駆け込んで道を尋ねる図というのはこれ以上無いくらいに格好悪い気がする。そんな図が実際に実現しないことを切に願う。道中、唯とはいろいろなことを話した。学校でのこと、趣味のこと、最近読んだ面白い本のこと、道を横切った猫のこと、電線に止まるカラスの大群のこと、そしてセロヴァイトとセロヴァイヤーのこと。
 祐介は未だに、唯が倒したいセロヴァイヤーが何という名前で、どんなセロヴァイトを持っているのかを知らない。最初に訊いてはみたのだが教えてはくれず、決まって唯は「今はまだ言えません。ですがいつか必ず話します」と頑なに拒む。その話をすると唯が少しだけ暗くなるので、祐介はいつしか尋ねるのを止めた。必ず話すというのだからいつかは話してくれるのだろう。それに今聞いたところでどうしようもないのである。こっちから攻める気はないし、唯といればいづれは巡り会う。だったらそのときに倒せばいい、それだけのことだ。
 それは、駅からどれくらい歩いたときだったのだろう。
「唯さんってその、セロヴァイトに特性あること、本当に知らないんですか?」
 祐介のその問いに、唯は不思議そうに首を傾げる。
「特性って、何です?」
「いや、本当はおれもよく知らないんだけど……聞いた話なんだけど、例えば、風靭って斬撃型なら風を自由自在に操れたりするのが特性だって」
 唯は数秒だけ考え、あ、と声を漏らして祐介を見る。
「じゃあ、祐介さんが雨雲を消したのもその特性に関係あるんですか?」
「え、あ、っと……あれは、どうなんだろ……よくわからないや」
「……難しいですね、セロヴァイトって」
「難しいな、セロヴァイト」
 そんなことを話して歩いた祐介の腹が、唐突に鳴いた。今になってようやく、祐介は朝から何も食べていないことを思い出す。そもそも今朝はそんなことをしている時間すらなかったのだ。寝坊して遅刻だと思い込んでいたので何かを食べる時間さえなかったのだから。その空腹が今になって一挙に押し寄せて来た。
 腹の音を聞いた唯が可笑しそうに笑って「朝から何も食べてないんですか?」と祐介を見る。素直に肯く祐介に、唯はどこかで食べて行こうと提案した。それもいいかもしれない、と祐介は思う。これから行く拓也のアパートで腹が鳴ったら死ぬほど恥ずかしいし、間違っても昼飯食ってないんで何か食わしてくださいとは言えない。幾ら拓也が良い人でもそれは怒るだろう。どこかで食べて行くという案には素直に納得できた。しかし、問題はどこで食って行くのかということだ。この辺りの地理は地元でもないので詳しくないし、唯も同じで全く知らなかった。記憶を頼りにすれば、拓也のアパートにはもうすぐ着いてしまう。この辺りに何か店はなかったか、そう思ってきょろきょろと辺りを見回していた祐介の目が、それを見つけた。
 車通りの多い道路沿いにある、ラーメン屋だった。そこはチェーン店のラーメン屋であり、以前別の店で食べたことがあるので味の保障はできる。唯に訊ねてみると「ラーメンは好きです」と答えた。決まりである。進路を変更してラーメン屋に足を向け、ドアを押し開けて店内に入った。迎えたのは店員の怒鳴るような「いっらっしゃいませ」の声とスープとギョーザとラー油の匂いで、空腹を刺激されながらぐるりと見渡す店内は昼時にも関わらず一組しか客がいなかった。そんなに不味い訳ではないのになぜだろう、とは思いつつも適当な席に座る。
 メニューをテーブルの上に置いて唯と一緒に何を食おう、やっぱりラーメンはとんこつか、などと言いながら考えていると店員が近づいて来る。テーブルの置かれるお冷と手拭の音を聞きながら、「ご注文は?」という声に顔を上げる。とんこつラーメンと、唯はどうする? そう言おうとした祐介の思考が一瞬だけ止まる。向こうも全く同じようなことを思っていたのだろう。祐介と同じように一瞬だけ止まっていて、それからすぐに「おお、祐介じゃん」と笑う。
 ラーメン屋の店員は、渡瀬拓也その人だった。
「ど、どうしてこんなトコにいるんですかっ?」
 驚きながら訊ねると、拓也は「ここでバイトしてんだよ」と答える。そしてその視線が、一人取り残されたように座っていた唯に向けられた。するとすぐに拓也は祐介に近づき、耳元で小指を立てながら「コレか? ええオイ祐介、ラブラブか?」などと下らないことを言った。飲もうとしていた水を噴き出すところだった。不思議そうにこっちを見つめる唯に気づかれないように鼻から出た水を拭き取りながら、必死に、
「ち、違いますよっ! その人もセロヴァイヤーですっ!」
 拓也の顔付きが変わり、もう一度唯を見て、真剣な表情で見つめる。
 唯が小さく会釈した瞬間、拓也はまた祐介に顔を近づけ、
「綺麗な子がゲットできてセロヴァイト戦万歳だな、オイ祐介」
「だから違いますよっ!!」
「照れなさんな照れなさんな。よっしゃ、だったら今日は後輩のためにおれが奢ってやろう」
「え、でもっ、」
「気にすんな。どうせアレだ、適当に誤魔化せばバレない。それにおれは副店長みたいなモンだしよ、ぶっちゃけ本店からは店長より信頼されてるし、バイトの奴等は皆おれの味方だ。もしヤバイことになっても、首が飛ぶのはおれじゃなく店長の方。だから問題無し、遠慮せずじゃんじゃん頼め。あ、お前とんこつだったな。それで、そっちの彼女は?」
 それって軽く流すけど犯罪ですよね、それにおれまだ注文言ってないので何でわかったんですか。その台詞を、祐介はついに言えなかった。
 唯から注文を受けた拓也は、含みのある営業スマイルを残して「少々お待ちください」と軽く頭を下げてカウンターの奥へと消えた。その背中をジト目で見つめながら、祐介は飲み損ねた水を啜る。そんな祐介に、唯は問う。
「さっきの人、お知り合いですか?」
 説明がまだだった、と祐介は思った。
「あ、うん。てゆーか、さっきの人がこれから会いに行こうとしてた人」
「え、じゃあ……」
「そう。前回のセロヴァイト戦優勝者の渡瀬拓也さん」
 唯が驚いた顔でカウンターに視線を移したとき、さっき消えたばっかりのはずの拓也がとんこつラーメンと醤油ラーメンと、そしてなぜか生ビールを二つ持って戻って来た。幾ら何でも早過ぎだろ、と内心で呆気に取られる祐介に拓也が「お待たせしました」とお決まりの台詞を言うがしかし、待った覚えなどこれっぽっちもなく、唯も驚いているようだった。呆然とする祐介の目の前にとんこつラーメンが、そして唯の前に醤油ラーメンが置かれ、持っていた生ビールの大ジョッキがそこに添えられる。祐介も唯も、その意味をすぐには飲み込めなかった。
「……あの、これ……」と勇気を持って聞いてみた祐介に対し、拓也はケロっと「飲め。これも驕りだから心配すんな」と笑う。いや、そんな満面の笑みをされても困る。いきなり昼からビールを飲むほど落ちぶれていないし、そもそも祐介は酎ハイすら飲めないのだ。あんなもののどこが美味いのかと父親が一気飲みする姿を見ては毎度思っていた。そしてその苦いだけの飲み物が、なぜか目の前にある。ふっと視線を移したそこに、困惑を隠し切れない唯の表情を見た。
 どうした、飲め飲めと笑い続ける拓也に、祐介は告げる。
「おれ、酒とか飲めないんですけど……。たぶん唯さんも……」
 唯がこくりと肯く。
 それに信じられないというような驚愕の表情を浮かべ、拓也は見てはいけないものを見る目つきで二人を見つめる。
「嘘つけお前。おれがお前の歳のときは酒も煙草もバリバリ行ってたぞ」
 それは貴方がおかしいんです、ちなみにそれも犯罪です、とはもちろん言えない。
「お前等ぜってーにおかしいよマジで」とつぶやきながら、拓也は客に出したばかりのジョッキに手を掛け、なぜかビールを飲み始めた。幾ら客が少ないからと言っても、営業中の店員がビールを飲んでいいのだろうか。いや、たぶん駄目なのだろう。しかしカウンターにいる高校生らしき男の店員はあの人またやってるよと笑いながら実に慣れたような顔をしている。こんな光景は、ここでは日常茶飯事なのだろうか。チェーン店であるこの店に客がいない理由が何となくわかった祐介である。
 ビールを半分ほど一気飲み干した拓也はCMのように歓喜の息の吐き出しながらふと、
「そう言えば祐介、お前何でこんなところにいるんだよ?」
 目の前の状況に気を取られていて忘れていた。
「拓也さんの家に行こうとしてたんです。唯さんが、あ、彼女は佐倉唯っていって、彼女が拓也さんに会いたいって言うから。連絡もしないですいませんでした」
「あー、いいっていいって、てゆーか番号知らねえししゃあないよ」そこで一度背後を振り返り、時計を見つめながら「バイト終るの一時だからさ、ちょうどお前等が食べ終わるのと同じくらいだろ。外で待っててくれ。彼女の話は、」と、途中で唯が「唯でいいです」と言ったので拓也は言い直し、「唯の話はそれから聞くから。んじゃ、取り敢えずごゆっくり。――ビール、貰ってくわ」
 ビールの大ジョッキを両手に持ちながら、拓也はまたカウンターへと消えた。それから少しして、唯が「面白い人ですね」とつぶやく。僅かに肯きながら、祐介は「それに加えてカッコイイんだけど、やっぱりちょっと変わってる」と同意する。二人揃って小さく笑っていると、カウンターの奥底から「拓也さん一気に行ってくださいよ一気に!」という実に楽しそうな声が聞こえた。それにもやっぱり笑ってしまう。
 一頻り笑った後に、注文していたラーメンを食べ始めた。ちょこちょこと唯と会話を交えているといつの間にかラーメンは食べ終わっていて、時計を見上げると十二時五十八分を差しており、そろそろ外に行こうかと席を立つ。拓也に代金は驕りだと言われたがやはりそうも行くまい。財布から金を取り出してレジに向かうと、さっき見た高校生らしき店員が「あ、代金はいいよ、拓也さんから聞いてるから」と拒否された。いやでも、などと反論する祐介に、店員は笑って「面白いモン見せてもらったから気にしないで」とやはり受け取ってくれなかった。
 なぜか少しだけ納得できなくて、何とも言えない表情のまま店を出ると拓也はもうそこにいて、火がついた煙草を吹かしていた。唯と二人揃って拓也に「ごちそうさまでした」と頭を下げたのだが、「また来いな」という誘いには素直に肯けない二人である。「話は家に着いてから聞くよ」との言葉により、拓也の後に続いて祐介と唯が歩き出す。
 道中、三人でセロヴァイトやセロヴァイヤーとは全く関係の無い話ばかりしていた。途中でいきなり、唯は祐介のことどう思ってんだ、などと拓也が言い出すものだからもうこっちは必死で、しかし唯は涼しい顔で笑いながら「秘密です」と答えたのに対して祐介は一人で焦り、爆笑する二人にいつか復讐してやると暗い気持ちを抱きながら早くアパートに着いて欲しいと心から望んでいた。
 そこは、アパートとラーメン屋を結ぶ中間地点みたいな場所だったと思う。車通りの多い道路から裏路地に入ったとき、その道の真ん中に一人の男が仁王立ちしていた。二十代前半と思わしきその男は祐介と唯を見つめてニタリと気味の悪い笑みを浮かべ、ゆっくりと腕を解すように回す。
 拓也が二本目の煙草を咥えながら「知り合いか?」と振り向くが、祐介にも唯にも心当たりはなかった。しかし、それは違う。二人の頭の中のレーダーが、かなり遅れて反応を飛ばした。同時に思ったはずだ。あいつは、セロヴァイヤーだ、と。僅かに後退する祐介と唯から緊張の気配が漂い、その緊迫した空気を感じ取ったのか、拓也は一人で煙草の煙を吐き出しながら「なるほど、セロヴァイヤーか」とつぶやく。
 男は言う。
「最初に戦うのが二人とは好都合。一人余分な奴もいるが関係ねえ。まとめて、殺してやる」
 緊迫する空気の中、男はその真名を呼んだ。
「孤徹」
 男の周りにある空間そのものが歪むように辺りの景色が捻じ曲がり、その歪から緑の光の粒子があふれ出す。漂う粒子は意思を持って男の両腕に凝縮され、決められた形を形成するために活動を開始する。集まった緑の光の粒子はその形体を具現化させ、男の両腕にそれを装着させた。夏の太陽に鈍く輝く漆黒の鋼。海老の甲羅のようなそれが五枚ずつ重なり合って構成されているセロヴァイト。
 二体一対の鉄甲。それが、その男のセロヴァイトだった。
 拓也の背後にいた祐介は、微かな苛立ちを抑えていた。自分と唯がセロヴァイヤーに襲われるのは仕方が無いことだ。セロヴァイヤーは二十四時間、どこでどう襲われようと文句は言えない。しかしセロヴァイヤーではない拓也が巻き込まれるのはお門違いだ。セロヴァイトを具現化させれば祐介たちは戦える。だが拓也は違う。幾ら前回の優勝者とは言え、拓也はもうセロヴァイヤーではない。巻き込む訳には、行かなかった。その考えを伝えるべく、目の前の拓也に下がってくださいと言おうとした祐介の口が止まる。いや、正確には止められた言うの方が正しいのかもしれない。祐介は、唐突に笑い出した拓也に意識を奪われた。
 拓也は笑いながら両手を広げ、その一歩を踏み出す。
「――……まさかこんな所で出会えるとは思ってもみなかった」
 男が怪訝な顔をする、
「お前、誰だ? セロヴァイヤーでもない奴がしゃしゃり出てくんじゃねえよ、殺されたいのか」
 しかしそれでも、拓也は続けた。
「やっべえ、めちゃくちゃ嬉しい。やっぱりお前、何も変わってねえや」
「……舐めてのか、テメえはっ!!」
 男が地面を蹴って拓也に突進する。
 祐介と唯は同時に反応し、互いに真名を呼ぶ。
「――雷靭ッ!」「――水靭ッ!」
 二人の右手に緑の光の粒子があふれ出し、一瞬にして一振りの刀を造り出す。それをしっかりと握り締めながら二人が地面を蹴って跳躍し、その一撃を繰り出そうと、
 間に合わない。先に地面を蹴った男の方が圧倒的に有利であり、しかも拓也は一歩も引かないので助けることもできない。身体能力が向上されていない拓也がその攻撃を受ければ一撃で死ぬ恐れすらある。そんなことはさせられない。誰も殺さないということは、誰も殺させないということと同じだ。だから助けると必死に行動に移した。だが、間に合わない。漆黒の鉄甲は、一瞬の速さで無防備な拓也の顔面に突き出される。そしてそれが直撃し、拓也が、
 直撃したように、思えた。咥えていた煙草の火が風圧で消し飛び、しかしその中でも拓也は微動だにしない。繰り出された漆黒の鉄甲は、拓也に当たる寸前で止められていた。疑問が祐介の頭を過ぎる。さっきの攻撃は、寸止めが目的で繰り出されたものではない。あれは殺すという意識の下に繰り出された攻撃だったはずだ。しかもあの速さ。寸止めは不可能に近いはずだ。なのに、鉄甲は拓也の目前で完璧に静止している。疑問。拓也は、それをわかっていたのだろうか。鉄甲が寸止めされる、そのことを――
 男の顔が、なぜか引き攣っているような気がする。まるでパントマイムをするかのように、自分の腕を動かそうと必死に身を捩るがなぜか男の腕から先が動かない。ワザとやっているにしては表情が真剣過ぎた。何かアクシデントでも起こったのか、そう思った祐介のその前で、拓也は漆黒の鉄甲にそっと手を伸ばし、触れた。拓也の表情が見えた。
 拓也は、満面の笑みで笑っている。
「――……へえ、お前、桂木(かつらぎ)っつーのか」
 男の顔がギクリと歪む、
「て、テメえどうしておれの名前を……っ!?」
「簡単だ。孤徹が、教えてくれる」
 辺りに、いきなり笑い声が響き渡った。その場にいた全員の頭の中に響いてくるような、そんな笑い声だった。
 拓也は言う。
「久しぶり、孤徹」
 刹那、打撃型セロヴァイト・孤徹から圧倒的な破壊が迸る。
 それは一陣の衝撃波となって空間を舐め、アスファルトに亀裂を走らせながら一直線に吹き抜けた。巻き上がったとんでもない風圧に拓也以外の三人の体が圧され、砂煙が空高くに舞い上がる。見えないはずの力の塊を真っ向からぶち当てられたような壮絶な風が空へと消えた。目の前を両腕で覆った祐介がゆっくりと目を開けるのと、孤徹から噴射した衝撃波の波が消え失せるのは全くの同時で、さっきまでの力が嘘だったかのように漆黒の鉄甲は沈黙してしまっていた。
 桂木という名の男の顔が、まるで化け物を見るかのように拓也を見つめている。
「……テメえ、一体……っ!?」
 一つ訊こう。そうつぶやきながら、拓也は桂木の横を通り過ぎる。
「お前は、孤徹の特性を知ってるか?」
「馬鹿にすんじゃねえ。攻撃の無力化だ。おれの質問に答えろ、テメえは一体誰だ」
 拓也は桂木の質問には当たり前のように答えず、背後を振り返って祐介を見やる。
 拓也は大声で笑った。一体何が可笑しいのか、目には涙まで浮かべている。
「孤徹の特性は攻撃の無力化だそうだ。頑張って倒せ、こんな奴に負けんじゃねえぞ。おれは少し先で煙草でも吸って待ってるからよ」
 それだけ言い残し、拓也は本当に歩き去ってしまった。
 その場に取り残された祐介と唯が動けずにいると、桂木が忌々しげに「何なんだあの野郎は……っ!!」とつぶやき、しかしすぐにふっと表情を緩めて「……が、あいつがいなくなってくれて良かったぜ。こっからはセロヴァイヤー同士だ、遠慮なく行かせてもらうぞ」
 桂木の体が翻り、亀裂の入ったアスファルトに鉄甲を叩きつけて浮き上がる。
 その姿を目で追いながら祐介が叫ぶ、
「――唯っ!!」
 呼び捨てだったがどうでもよかった。
 肯く唯と共に真っ向から桂木に打って出る。跳び上がった桂木を追うために祐介が地面を蹴って跳躍し、空中で雷靭の刃を横一線に振り払う。その攻撃を正確に感じ取り、桂木は体を捻って斬撃を避けながら無防備な祐介の体に孤徹を叩き込むために腕を引き、しかし後を追って跳躍した唯から繰り出される水靭の縦一線に気づいて防御に回る。水靭の刃が漆黒の鉄甲を捕らえた瞬間、音も何も出ずに唯の表情だけが揺らぐ。力任せに押し返された唯の体のバランスが崩れて地面に落ち、桂木が獰猛な笑みを浮かべる。
 空中から地面に着地した祐介が唯に狙いを定める桂木の背後から刀を振り抜く。間一髪で迫り来る攻撃に気づいた桂木が小さな悪態を吐き捨てながら背後を振り返って孤徹を差し出す。刃が鉄甲を捕らえたとき、またしても音も何も出ずに祐介の表情だけが揺らいだ。押し返された雷靭と共に桂木から距離を取ると、唯も遅れずに距離を取った。桂木を挟んで両側に二人が対峙する。
 拓也の言った意味を理解した。孤徹の特性は攻撃の無力化。それはつまり、攻撃の反動を完全に消し去るということだ。たったの一撃で悟った。孤徹への物理攻撃は完全に無意味である。攻撃を与えても手応えを感じないし、そもそも衝撃音すらしない。衝撃音がしないということは、威力を完全に消されていることに他ならない。物理攻撃は孤徹に通用しない。だが、考え方を変えれば戦い方は見出せる。孤徹で無力化できるのは恐らく、あの鉄甲の部分だけだ。ならば、それ以外の場所を攻撃すればいい。唯も同じ結論に辿り着いたのだろう。僅かに合った視線の先で、唯は肯く。
 互いに一振りの刀を握り直し、祐介と唯が同時に跳躍する。両側から突っ込んで来る二人を交互に見据え、桂木が完全な防御体勢に入った。繰り出された二陣の刃を孤徹で受け止め、一瞬だけ視線を唯に巡らす。そのことに祐介が気づいたときには出鱈目な力で雷靭が押し返されていて、視線が上下に揺れる中で唯に向かって突っ込む桂木を見た。振り抜かれる漆黒を水靭の刃で受け止め、唯が反撃に出ようとするが桂木は容赦しない。水靭を鷲掴んで唯の体と共に力任せに引き寄せ、孤徹が弾き出される。
 唯が頭を左斜めに下げるのと、孤徹が空を切り裂くのは本当の紙一重に思えた。唯の綺麗な髪が数本空間に漂い、振り抜いた拳を戻して再び桂木は攻撃を続ける。今度こそ駄目かもしれない、という考えが祐介を突き動かす。雷靭でアスファルトを切り裂きながら、火花が飛び散るその刃を敵の背中目掛けて振り上げた。しかし反射的に桂木が上体を反らせ、刃は空を裂いて停止する。獲物を捕らえる眼光が祐介に向けられたとき、唯の足が桂木の足を払う。
 視界の中で桂木が転倒する。そこが好機と見なして唯が水靭を振るうが、それでも桂木は攻撃を受け付けない。突き出される刃を孤徹で無力化し、体を起こす反動で唯の脇腹に蹴りを叩き込む。苦しそうな呻き声が唯の口から漏れたのを、祐介は確かに聞いた。後ろに吹き飛んでアスファルトに叩き付けられる唯の姿を見たとき、頭の中が空白に染まった。体の隅々が制御不能の怒りに蝕まれる。雷靭の柄を握り締め、祐介がアスファルトを抉った。
 起き上がった桂木がその攻撃に気づいたときには、祐介は雷靭を振り抜いていた。その一撃で勝負を決められなかったのは、心のどこかで「殺すな」との命令が飛び交ったからなのかもしれない。怒りはその命令に強制的に制御され、それでも刀は振り抜かれていて、力が錯乱したその刃は桂木の頬に五センチほどの切り傷を作った。赤い線が入った刹那、そこから少量の血が飛び散る。中途半端な怒りに染まった祐介の瞳と、本気の怒りが犇いた桂木の眼光が噛み合った。祐介の背筋に虫唾が走った瞬間には、漆黒の鉄甲が鳩尾に入っていた。
 圧倒的な力で玩具のように吹き飛ばされ、裏路地の電信に激突した。破壊音と共に電柱の横っ面に亀裂が入り、雷靭を握る手から力が抜けた。祐介の手から離れた雷靭が地面に突き刺さって停止する。揺れ動く視界の中で桂木は頬を拭い、自らの血を見て獣のような叫びを上げて祐介に向かって突っ込んで来る。逃げなければ、とは思うのだが体が動かない。どうしようもないその中で、地面に立ち上がって走り出す唯を見つけた。しかし遅い。先の攻撃が糸を引いているのだろう。唯も辛そうな表情をしていた。ふっと視線を動かしたとき、漆黒の鉄甲は目の前にあった。
 強過ぎる、と心のどこかで思う自分がいた。唯と二人で戦えば、どんな相手も敵ではないと思っていた。唯が倒したいと願うセロヴァイヤーも、二人で立ち向かえば簡単に倒せると思っていた。毎度のことながら実に情けない。馬鹿のような考えを持っていた自分を呪う。結局の話、自分はただ唯に頼りたかっただけなのだろう。一人で戦うことが恐くて、唯に甘えていただけだったのだろう。情けなさ過ぎて笑えもしない。唯がもっと違うセロヴァイヤーと組んでいたのなら、桂木にだって負けはしないはずだった。なにせ唯は、祐介より強いのだから。自分は、足手纏いでしかなかったのだろう。
 しかしそれでも、最後まで抗ってやろう。足手纏いでもいい。唯に協力すると約束したのはこの自分だ。だから、殺される前にこいつに致命傷を与えてやろう。自分が負けても唯が勝てるように。そのためだけに、もう一度だけ立ち上がろう。足手纏いは足手纏いなりに、情けなく戦ってやろうではないか。他人任せ上等である。それで唯が勝てるのなら、自分の命など惜しくは無い。瞬間に突き刺さっていた雷靭の柄を握り直し、電柱から体を浮かせて祐介が叫ぶ。振り上げられた雷靭の刃が、孤徹を捕ら
 遅かった。孤徹は雷靭を受け流し、祐介の顔面に到達し、そして、
 停止した。まるで先の拓也のときのように、孤徹は祐介の寸前で止められていた。目の前にある漆黒の向こうに見える桂木の顔が再び困惑している。何が起きていたのか、二人にはわからなかったはずである。しかしそれは、すぐに転機を迎えた。突如として桂木が悲鳴を上げ、拳を引いて地面に倒れ込み、腕を押さえつけながらアスファルトを転げ回り始める。意味がわからずに呆然としている祐介の目が、離れた場所に立つ唯を見つけた。唯は水靭の切っ先を真っ直ぐに桂木に向け、目を閉じている。
 唯は言った。
「……やっぱり、内側は例外みたいですね」
 閉じられていた瞳が開かれ、唯が無表情で踊るように水靭を振り抜く。
 刹那、桂木の両腕から血が噴き出した。漆黒の鉄甲に守られた生身の体が軋みを上げ、桂木は絶叫する。幾度かの攻撃を受けても傷一つ残らなかったはずの孤徹が歪み、内側から弾けた手に拒否反応を起こして地面にずり落ちる。アスファルトの上に転がる孤徹がその形を崩し、緑の光の粒子となってあふれ出す。それは集まり合って地面に一つのヴァイスを造り出し、しかしすぐにそれも形を失って緑の光の粒子は漂う。真っ赤な血飛沫を噴き出しながら、勝負は一瞬で終わりを告げていた。桂木の両手は機能停止に陥り、そして孤徹はもうここには存在しない。漂っていた粒子が唯の体に蓄積され、それを確かめてから唯が水靭を桂木に突きつける。
 その表情は、今までの唯からは大凡想像もつかないような氷の冷たさを持っていた。
「……祐介さんとの約束です。殺しはしません。ですから、今すぐに――消えてください」
 血塗れの両手をゾンビのようにぶら下げながら、桂木が悲鳴を上げて踵を返す。走る道のりに沿ってその腕から滴り落ちる血痕が残っていた。
 何が起こっていたのか、祐介にはまるでわからなかった。やがて桂木の姿が見えなくなったとき、唯が水靭を消滅させた。そしてやっと自分のしていたことに気づいたように、離れた場所から祐介を見つめ、それから気まずそうに俯く。遅れて祐介も雷靭を消し、その場にへたり込む。先ほど目の前に広がった光景を思い出すだけで吐気が押し寄せて来た。嘔吐感を何とか飲み込んで、祐介は一人震える。
 俯いたまま、唯がつぶやく。
「……ごめんなさい。わたし、嘘をついてました……知ってたんです、セロヴァイトに特性があること……。さっきのが、その特性です……。……黙ってて、ごめんなさい……」
 唯の視線が祐介に向けられる。
「恐い、ですよね……嫌いに、なりますよね…………でも、祐介さん…………」
 見つめる唯の瞳から、一筋の涙が流れた。
 唯は、言う。

「…………嫌いに、ならないで…………」

 最後の最後まで、祐介は、言葉を返すことができなかった。

     ◎

 言葉を交わさないまま、祐介と唯は歩き出し、拓也の下へ向かった。
 拓也は道の角を二つほど曲がった所にある電柱に凭れながら煙草を吸っていて、祐介を見つけると「勝ったのか?」と訊ねた。それに曖昧な返事しか返せなかった祐介に気づいてか、拓也はそれ以上何も追及しなかった。今はそんな拓也の気遣いが途方もなく有り難かった。そもそも祐介自身も、先の戦いで一体何が起こったのか未だにわからないのである。ただ、記憶の端にこびり付いた赤い鮮血が巨大な恐怖を運んでくる。冷たい表情の唯が、今はなぜかどうしようもなく恐かった。隣にいるはずの唯の顔を見ることすらできない。セロヴァイトの特性を知らないと嘘をついたことなどどうでもいい。問題は、その特性を躊躇い無しに使った唯にある。結果的にその御かげで自分は助かった。しかし、そうとわかっていても、頭の中ではただ恐怖している。
 唯が、恐かった。出会って初めて、唯のことを薄気味悪く思っていた。
 ――嫌いに、ならないで。
 そう言って一筋の涙を流した唯の姿が、今も頭の中に焼きついて離れない。
 見覚えのある拓也のアパートが見えて来たとき、反対側から歩いて来る二人組みを見つけた。無意識の内に頭の中のレーダーを活動させていたが、どうやらセロヴァイヤーではないらしい。少し離れていたので簡単なことしかわからなかったが、拓也と同じくらいの歳の男の人と、その人より少しだけ年下のような女の人に見えた。その二人組みは祐介たちを見つけると足を止め、男の方が手を振った。あんな人が知り合いにいただろうかと思った祐介の前で、拓也が手を振り返す。
 その二人は、男の方を神城啓吾、女の方を夏川彩菜といった。二人とも、拓也と同じくして第十二期セロヴァイヤーに選ばれた元セロヴァイヤーである、と拓也に聞かされた。もしかしたら役に立つかもしれないから呼んでおいた、とも拓也は言う。手短な自己紹介の後、五人揃ってアパートの敷地に入って拓也の部屋に向かう。先頭を歩いていた拓也がポケットから鍵を取り出し、ドアノブに手を置いたときにふっとその動きが止まった。鍵がすでに開いていた。また来てんのかあいつ、とつぶやきながら拓也が鍵をポケットに入れ直してドアノブを回し、ドアを開けて中に入って行く。それに続き啓吾、彩菜、祐介、唯と続いて中に入る。
 部屋の中にはもちろん先客がいて、陽だまりが射すベットの上で紀紗がイルカを抱き締めながら眠っていた。ため息を吐き出す拓也の横を、彩菜は「あっ、紀紗ちゃんだ、相変わらず可愛い!」などと笑いながら通り過ぎ、ベットに腰掛けてそのほっぺたを割れ物を扱うかのような手つきで突く。よほど深く眠っているらしく、紀紗はほっぺたを突かれても引っ張られても起きなかった。それに気を良くしたのか、彩菜はベットに身を乗り出して紀紗の顔で遊び始めた。
 そんな二人の横ではテーブルを挟んで拓也と啓吾、祐介と唯が向き合って座り込む。さすがにこの部屋に六人もいると窮屈だったが、押し掛けた身で贅沢を言っては罰が当たる。
「それで、話って?」
 拓也の言葉に、唯がそっと顔を上げる。
「……聞きたいことがあるんです」
「おう、おれで答えられる範囲ならどうぞ」
 少しだけ考え込むような間の後、唯が拓也を見据える。
「セロヴァイト戦で優勝したら、本当に望みは叶うのですか?」
 何の淀みもなく、拓也は「叶う」と言い切った。
「セロヴァイト執行協会本部っつーのはあんまり信用できないけどな、セロヴァイト戦に優勝すれば望みはちゃんと叶えてくれる。本当に世界征服とかもできるらしいよ、連中がおれにそう言ってたし。まあ、そんな望みに興味は無かったから別にどうでも良かったけど。だからあれだ、望みはどんなものでも叶えられるよ、たぶん。実際におれも望みを叶えてもらったし」
「……その望み、聞いてもいいですか?」
「紀紗の病気を治してもらった」
 唯が驚いた表情を浮かべるのを見て、拓也が続けた。
「紀紗さ、生まれたときから心臓に病気持ってて、しかもすげえ悪い段階にまで悪化してたんだ。あのときは、残りの命の寿命は半年も無なかった。それでまあ、恩返しも兼ねて紀紗の病気を治してやろうと思ってさ、それでセロヴァイト執行協会本部の野郎共に頼んで治してもらった、と。今となりゃ、元気になり過ぎたかもしれないってたまに思うけどな」
 悪戯気味に笑う拓也から視線を外し、祐介は思わずベットへ視線を向けた。陽だまりの中、彩菜に遊ばれているその女の子が、本当は死んでいたかもしれないという事実が実感できない。しかしそれは本当のことなのだろう。半年も無かった命を繋ぎ止め、生まれたときからあった病気を治す。そんなことがセロヴァイト執行協会本部にはできるのだ。世界征服、なんて冗談のようなことも本当に可能なる。ますます思う。セロヴァイト執行協会本部とは、一体何なのか。
 拓也がベットに凭れ掛かって手を伸ばし、綺麗に広がる紀紗の髪を一本だけ摘んで引っ張りながら、
「唯は、叶えたい望みがあるのか?」
 それは祐介も気になる話題だったか、唯は口を閉ざして俯いてしまった。
「あー、いや、言わなくていい。望みなんて個人の問題だしな、無理矢理聞き出すってのは反則だった、悪い。……時に啓吾。お前さっきから黙ってるけどどうたよ? お前って人見知りするタイプだったっけ?」
 拓也の隣にいた啓吾が「そうじゃないよ、考え事してた」と答える。
 啓吾がテーブルの上に肘を着く。
「あのさ唯ちゃん。一つだけ、訊いていい?」
 唯が顔を上げ、啓吾に視線を向ける。
「……構いませんけど」
 啓吾は言う。
「唯ちゃんは、どうしても倒したいセロヴァイヤーがいるから祐介と協力してるって言ってたけど、そのセロヴァイヤーってどんな奴?」
 しかし唯は、やはりその問いには答えなかった。
「……ごめんなさい。言えません」
「どうして?」
「……それも、言えません」
「ふむ、それじゃ質問を変えよう。唯ちゃんは、どうして祐介を選んだの?」
 祐介の視線が唯に向けられるのと、唯の視線が祐介に向けられるのは同時で、微妙な位置で噛み合った目線が気まずく、どちらともなく俯いてしまう。さっきの戦いから、唯とはまだまともに口を聞いていない。何を話していいのかわからないが、唯とは二人だけで話さなければならないとは思う。しかしこうして拓也たちといつまでも話してその機会が永遠に訪れなければいいのに、とも思っている。結局はやはり、度胸が無いだけなのかもしれなかった。
 俯いたまま、啓吾の問いに唯はただ「……ごめんなさい」とだけつぶやいた。そのつぶやきを聞いた瞬間、啓吾がいきなり厳しい口調で「唯」と呼び捨てにして呼んだ。それに驚いて顔を上げる唯と啓吾の視線が噛み合い、二人とも動かないまま三秒が過ぎた。そして唐突に、啓吾が笑う。しかしそれに対照して、唯は気まずそうに視線を外して下唇を噛む。彩菜がベットの上から「あんた何脅かしてんのよ、唯ちゃん恐がってるじゃない」とお咎めが飛ぶが、啓吾が変わらず「いや、ちょっと気になってさ。でももういいよ、ごめんな唯ちゃん」と頭を下げた。
 話がよくわからなかったのは祐介だけではなく、拓也も同じだったらしい。二人揃って啓吾と唯を見比べるが、やはりよくわからない。拓也と視線が合ったとき、『お前話わかった?』的なことを目線で訊ねられたので首を振る。二人で意を決し、啓吾に事の真意を訊こうとしたとき、いきなり唯が立ち上がった。俯きながら誰とも目を合わせようともせず、突然に、
「――か、帰ります。お邪魔しました」
 そう言って踵を返して走り出した。
「あ、ちょ、唯さんっ!?」
 祐介が立ち上がろうとしたときにはすでに唯はドアノブを回して外に出て行ってしまっていて、よくわからないが慌てて追いかけようとする祐介の手を啓吾が掴む。必死に振り返って啓吾を見つめながら悲鳴にも似た叫びを漏らす。
「何ですかっ!?」
 啓吾は、言った。
「彼女は、何か隠してる。それは祐介も気づいてるだろ?」
 心の底ではそのことに祐介も気づいている。しかし今はそんなことより出て行ってしまった唯のことの方が気になる。
 啓吾の手を振り解こうとするが、驚くようなその力の前には無意味だった。
「彼女は本当のことを言っているけど、その中に幾つか偽りがあるはずだ。おれがさっき思った疑問は三つ。一つ目。なぜ唯ちゃんは協力する相手を祐介に選んだのか。まあ、偶然会ったセロヴァイヤーだからってのもあるんだろうけど、どこか引っ掛かるんだ。次に二つ目。協力を持ち掛けたのは唯ちゃんなのに、どうしてその本当の目的を言わないのか。倒したいセロヴァイヤーがいるなら、そいつが持つセロヴァイトとかをはっきり告げ、二人で作戦とかを考えるのが普通だと思う。だけど唯ちゃんはそれをしない。そもそもそのセロヴァイヤーのことを口にもしない。どう考えてもそれはおかしいんだ。そこが大きな偽りに繋がるはず。……そして、おれがいちばん疑問に思ったこと。これは、たぶん祐介も気づいてないと思うけどさ、」
 その一言で、祐介の体の力が抜けた。
「――どうして、唯ちゃんは体に傷を負ってるんだろうな」
 頭の中が真っ白に染まっていたが、しかしそれでも「それは、その……さっき戦いで、攻撃を受けたから、じゃないですか」と意見を出すと、啓吾は「それは違う」とはっきりと答えた。
「セロヴァイトで攻撃された場合、致命傷でも三十分で大体は動けるようになる。さっきの戦いがどんなものだったのかは知らない。だけど、唯ちゃんの体に残っているはずの傷はその戦いで負わされたものじゃない。恐らく、セロヴァイトではないもの。セロヴァイトを使わないで殴られたかして出来た傷のはずだ。――どうしてそんなことわかるんだって、思ってるだろ。簡単だよ。唯ちゃんの瞳が泣いてるから。……ってのは半分冗談として、わかるんだよ。唯ちゃんが体に負った傷を庇ってること。信じる信じないは祐介が決めることだから、おれはこれ以上何も言わない。だだ、」
 啓吾が祐介の腕を離す。
「――彼女には、気をつけた方がいい」
 頭の中が沸騰していた。正直、腹が立っていた。
 お邪魔しましたとも言わずに祐介は走り出す。狭い玄関でスニーカーに足を突っ込んでドアを押し退け、太陽の陽射しの下に転がり出た。どこに行ったかもわからない唯の背中を目指して道路を駆け抜ける。今の今まで気づかなかったセミの声が耳に届いている、走ったせいですぐに汗が頬を伝う。いつしか見知らぬ場所に出てしまったことにさえ気づかない。唯を見つけるということなどただの言い訳に過ぎなかった。誰もいない所に行きたい。今は誰とも会いたくない。汗に混じって涙が流れている。
 自分が一体、唯の何を知っていたというのだろう。自分が一体、唯の何をわかろうとしていたのだろう。
 嫌いにならないで。そう言った唯に、自分は何も言えなかった。
 どうして泣いているのかさえわからない。ただ、どうしても涙は止まらなかった。
 頭の中で、啓吾の言葉がいつまでも反響している。

     ◎

「啓吾、お前言い方考えろよ。さっきのは酷いだろ」
 唯と祐介が出て行ってしまったアパートの部屋の中で、拓也が啓吾を見据える。
 しかし啓吾は腕を組んだまま、先の言葉を撤回することなくつぶやくように話し出す。
「違うんだよ。いや、違わなくはないんだけど、やっぱり違う。ここからはおれの憶測だ、そのつもりで聞いて。確信は無いけど、たぶん、唯ちゃんが倒したいセロヴァイヤーっていうのは、」そこで一瞬だけベットで眠る紀紗に視線を移し、本当に眠っているのかを確認するような仕草を見せた後、「――幻竜型セロヴァイトを持つセロヴァイヤーである可能性が高い」
 その言葉で、拓也の表情が一瞬にして変わる。
「……どうして、そう思う?」
「おれと拓也なら、考えればすぐわかるはずだよ。……唯ちゃんは恐らく、強いセロヴァイヤーだ。セロヴァイトの水靭がどんな特性を持っているのかは知らないけど、大方の想像はつく。唯ちゃんはその特性を絶対に知っている。根拠は無いけど、そう思うんだ。しかも水靭を使いこなしているはず。なぜだろうね、自分でもよくわからないけど、どうしてかそう感じるんだ。少なくとも、祐介よりは強い。それは間違いない。そしてそんな唯ちゃんがなぜ、協力してあるセロヴァイヤーを倒したいと言うのか。拓也なら共感してくれるはずだ。特性を知っているなら、絶対に勝てると確信して一人で突き進むその心地良さに」
 それはそうかもしれない、と拓也は思う。孤徹を我が最強の相棒と決めたその瞬間から、自分一人ですべてのセロヴァイヤーとセロヴァイトをぶっ倒してやろうとさえ考えていた。だがそれは、拓也や啓吾の場合だ。唯は女の子である。だったら考え方も違ってくるのではないか。自らの力を信頼しているが、どこかで不安が拭い切れず、そんなときに出会った祐介に協力するように申し出て、不安を消し去ろうとしていた。そう考えても違和感は無いはずだ。それ以前に、そう思った方が自然と納得できるような気もする。
 啓吾は拓也の考えを読んだかのように、
「そうだね、唯ちゃんが一人じゃ心細いと思って祐介と協力したのかもしれない。それは否定しないよ。もし本当にそうなら、この話は根本から間違っていることになる。だから言ったでしょ、憶測のつもりで聞いてって。――……それで、だ。唯ちゃんが倒したいセロヴァイヤーに話を戻す。そのセロヴァイヤーのセロヴァイトが幻竜型であるとはなぜか。それについての考えだ。他の三型のセロヴァイトなら、足し引きはあるにせよ大体は同等の力だと思う。でも幻竜型だけは違う。おれも拓也も嫌というほど知っているはずだ。幻竜型セロヴァイト・焔、そして狭間の番人・朧(おぼろ)。その二つのどちらかが、朧は考え難いけど、一応視野に入れておく。そのどちらかが幻竜型セロヴァイトとして今回のセロヴァイト戦に参加している場合、普通のセロヴァイヤーでは絶対に勝てない。その事実を知っているからこそ、唯ちゃんは祐介に協力を申し出た。二人で戦えば勝てる、とでも考えたのかもしれない」
 ただね、と啓吾は話を紡ぐ。
「だとしたら疑問がある。どうしてその事実を、唯ちゃんは祐介に告げないのか。考えられる答えは二つ。一つ目が、祐介を恐がらせないようにするため。これは考え難いんだけど、祐介が怖気づかないために最後の最後まで黙っていて、戦いの土壇場で教えて逃げ道を失くすっていう考えかもしれない。たぶんあれだ、祐介は度胸が無いと思う。失礼だけど、何だかさっき唯ちゃんの隣に座ってるときも何かに脅えたような感じしてたし。唯ちゃんもそれを知っていて、だからこそその真実を祐介に告げない。こじ付けっぽいけど、それがまず一つ目ね。そして二つ目。おれが思うに、これがいちばん近いような気がする。もし違っても当たらずとも遠からずって所なんじゃないかな」
 啓吾の視線が一瞬だけ拓也から外れ、その背後に向けられる。
 そこには陽だまりに包まれたベットがあって、いつの間にか彩菜も紀紗と一緒に眠りこけていた。彩菜は啓吾の長い話が嫌いである。彩菜はよく、「その一気に喋る話し方やめてよ、じゃないと別れるよ」と愚痴を漏らすが、しかし啓吾は一向に変えない。それでもこうして三年近く付き合っているのは奇跡に近いのか、それともよほど二人の相性が良いのか。
 啓吾の視線が拓也に戻る。
「……唯ちゃんは、祐介を騙してるような気がする」
「騙す?」
「そう。でも何回も言うけど、これはおれの憶測だからね。だからあんまり信用しないでよ。……唯ちゃんの体の傷とそれが関係あるのかは知らないけど、とにかく唯ちゃんは協力の下で祐介を利用しようとしていると思う。どうやって利用しようとしているのかはわからないけど、もしかしたら最悪、唯ちゃんはその幻竜型セロヴァイトを持つセロヴァイヤーの仲間ってことも考えられる」
 堪らずに拓也が声を出す。
「ちょい待て、だったら何で祐介と協力すんだよ? 幻竜型が何かわからないが、それなら唯とそのセロヴァイヤーだけで他のセロヴァイヤーをぶっ倒せるだろうが」
「だから言ってるじゃん、どうしてそうしているのかはわからないって。けどまあ、簡単に説明がつくのが、祐介を良いように利用してセロヴァイヤーの数を減らし、最後の三人になったらはいさよならご苦労様って感じに倒すんじゃないのか」
「……お前、やっぱあれだ、捻くれた考え方するな……」
 啓吾は苦笑する。
「まあ、ね。でも、こんだけ話しといて言うのも微妙なんだけど、唯ちゃんがただ純粋に祐介に協力を求めたってことも考えられるんだ。真相はおれたちじゃ明かせない。これからどう行動して、どうやって真相に辿り着くのか。それは祐介の役目だ。逃げ出すも良し、向き合うも良し、立ち向かうも良し、暴走してセロヴァイヤーを片っ端からぶっ倒すも良し。そこは全部祐介に任せるとして……こっからが本題だ。誰が今回のセロヴァイト戦で優勝するかわからない。けど、できることをしなくちゃならない。会いに行くんでしょ、拓也と紀紗ちゃんは」
 それまでの話を頭の中から吹き飛ばすかのように拓也は首を振り、不適な笑みを見せる。
「ああ。それに考えればあれだ、参加している幻竜型が焔ってことは有り得ないな。あいつが紀紗以外の奴をセロヴァイヤーとして認めるはずがない。だったら朧かってことになるけど、朧はもういないから違う。どうせセロヴァイト執行協会本部の回し者だろうよ。そんなものは眼中にねえ。会いに行くべき奴は、今も必ず【界の狭間】にいる。そこで、紀紗を待ってるはずだ」
 満足そうに啓吾が肯く。
「それじゃその段取りだ。三年待った甲斐がある。セロヴァイヤーでもない拓也と紀紗が【界の狭間】に行く方法。確証は無いけど、可能性があるとすればあそこだ。下見は万全に整えてある。後は流れに任せるしかないね」
「何とかなるだろ」
 そして啓吾が話し出すその内容に、拓也は耳を傾ける。

     ◎

 見知らぬ土地に一人取り残され、祐介はいつまで経っても動けないでいる。
 頭の中に響く二つの言葉。
 ――嫌いに、ならないで。
 ――彼女には、気をつけろ。
 自分はどちらを信用するのだろう。自分はこれからどうすればいいのだろう。
 何もわからないまま結論を引き延ばし、セミの声を耳に入れながら訪れる夕方を待っている。
 己の無力さを、これほどまでに呪った日はなかった。





     「伊藤千夏」



 第十三期セロヴァイヤーによるセロヴァイト本戦が始まって十七日。
 期限の三十日間を半分以上過ぎ去ったその日、祐介は学校の教室の机の前で朝から悩み続けている。正確には三日前に拓也のアパートへ行って帰って来たときから悩み続けている訳だが、もはや過去のことはどうでもいい。朝の八時半に学校に着くなり自分の席に座り込み、携帯電話を握り締めて自問自答を繰り返している。しかし答えはいつまで経っても出ず、同じ体勢のまま時間だけが過ぎて行く。
 チャイムの音に気づいてぼんやりと視線を上げて時計を見れば、午前の授業はすべて終って昼休みに突入していた。四時間ある授業の内容など、まるで覚えていない。そもそもその四時間の内にあった科目が何であったのかさえ思い出せない。自分でも重症だと思うが、どうしても思考の泥沼からは逃げ出せなかった。いや、自ら逃げ出すことを拒んでいる。本当なら今も手に握っている携帯電話を幾つか操作すれば、すぐにこの呪縛からは逃れられるはずだ。だが自分はそうしようとはしない。行動を引き延ばし、思考だけが空回りを続けている。
 気づけばまたチャイムが鳴って五時間目が始まっていた。時間の流れが異常なほど速く感じる。これほどまでその流れに圧倒されたのは初めてだった。いつまでもこうしていたいと思うのに、時間は無常にもそのときを運んで来る。目の前に見える教室の時計。その息の根を止めてやればすべての時間は止まるのかもしれない。もし本当に止まるのであれば、自分はどんな手を使ってでも止めてやろうとするはずだった。
 ため息すら出ない。三日経った今でも頭の中で反響し続けている二つの言葉。
 ――嫌いにならないで。
 ――彼女には気をつけろ。
 その二つが呪詛となり、祐介の体を呪縛している。
 わかってる、と祐介は思う。唯が何かを隠しているのかなんて啓吾に言われなくてもとっくの昔に知っていた。それでも自分は唯に対して追及しなかった。なぜなら、自分はこのままでいいと思っていたからだ。どうせあのとき、唯と戦ったときに本当は一度無くなっていたはずの命。しかし唯はそうしなかった。だから協力しようと思ってあの日、唯の手を取ったのだ。その裏にどんな考えがあって、どんなことが起きようとも関係なかった。裏切られるのならそれもいい。だけどその瞬間までは、唯を信じていたかった。それまでは唯に協力しようと決めた。もし本当にそうなったとき、自分はどうするかはわからないが、唯を信じてみようと思ったのだ。
 それなのに。それなのに、啓吾の言葉ですべてが歪んだ。正論だと思う。これ以上無いくらいに。でも、今はそれがこれ以上無いくらいに痛い。騙されてもいい。利用されているだけでもいい。ただ、偽りでも仲間が欲しかった。この訳のわからない殺し合いの中、一人でいるのは心細かった。だから唯がその手を差し伸べてくれたとき、正直すごく嬉しかった。偽りがあっても、それでいいと思っていたのだ。なのに、それなのにそれは今、失われてしまっている。あの日握った彼女の手は、もう二度と、祐介に差し出されないのかもしれない。
 しかし、こっちから差し伸べることはできる。この手に握っている、唯と繋がることのできる唯一のもの。電話で直接言えるだけの度胸なんて、悲しいが自分にはない。だったらメールでいい。唯宛のメールに『会おう』でも『信じる』でもいい、たった一言でも書き添えて送れば何もかもが変わるのかもしれない。こちらからあの日の唯のように手を差し伸べれば、彼女は握ってくれるかもしれないのだ。そうなれば自分はまた、唯と一緒にいれる。たった数日しか一緒にいなかったけど、その数日が何にも代え難い喜びだったから。
 涙を流しながら「嫌いにならないで」とつぶやいた唯の表情は、今もなお頭の中に焼き付いている。
 あの表情が、そして涙が、偽りであったとはどうしても思えない。祐介には想像もできないようなことを、唯は背負っているのかもしれない。唯が倒したいと思うセロヴァイヤーがどんな奴なのかは知らない。だけど、やはり自分は唯に協力したいと思う。足手纏いでしかない自分。けど、足手纏いは足手纏いなりに力になってやれることを考えよう。啓吾の言った言葉を理解した上で、それでも自分は唯に協力したいのだ。一人で震え、目に見えないセロヴァイヤーに脅えるのなら、裏にどんなことがあろうとも唯に協力する方がいいと思った。
 三日間繰り返していた自問自答が、ようやく答えを引っ張り出したような気がした。
 結局は、駄目でもともとなのである。そのつもりで参戦したセロヴァイト戦だ。一度は死んだはずの命なら、自らの意思で唯に協力しよう。あのときの唯の言葉に、明確な答えを返そう。あのときに言えなかったたった一言。三日経ってしまった今では、もう遅いかもしれない。だけど、まだ間に合うならはっきりと伝えたい。それを伝えても現状が変わらなければもう何もしない。しかし何もしないで終るなんて御免だ。
 ずっと忘れていたような気がする。そうとも。こうと決めたら一直線、行動あるのみだ。
 いつまの間にか訪れていた六間目の授業の中、祐介は机の下で折り畳み式の携帯電話をゆっくりと開く。カーソルを移動させて電話帳を開き、『佐倉唯』に合わせて決定ボタン。メニューの中から『メール作成』を実行。ディスプレイに開かれた空白に視線を落とし、ゆっくりとキーを叩いて文字を打ち込んでいく。無駄な内容は書かないでおこうと思った。必要最低限なことだけを書き記そう。ディスプレイに広がるそこに、話しがあるから会おうということと、待ち合わせ場所を書いた。最後の所に、返信はしなくていい、そこで待ってるからと書き添えて送信。
 画面上で動く手紙マークの動作がものすごく長く思えた。そして広がる『送信完了』の文字。肩の荷がどっと落ちた気分だった。もしかしたら唯は来ないかもしれない。だけど、今日一日は待ち続けよう。今の自分にできることは、それくらいしかないのだから。携帯電話を折り畳み、制服のポケットに突っ込んだ瞬間にチャイムが鳴った。本当に時間が流れるのが早い。学校で過ごした記憶が、今日はまるでなかった。
 帰りのホームルームも掃除もほっぽり出して祐介は鞄を引っ掴み、背後から響く木村の声に聞こえないフリをして教室から廊下に飛び出る。チャイムが鳴ったばかりの廊下にはまだ誰もいなくて、しかし教室からあふれる開放感が少しだけ羨ましい。階段を駆け下りて下駄箱に辿り着き、スニーカーを引っ張り出して上履から履き代える。踵を踏んだままで昇降口からグランドへ転がり出て、コケそうになったのでちゃんと靴を履き直す。
 駐輪場には当たり前のように誰もいなくて、数え切れないほどある自転車の中から自分の愛車を探した。見つけたら肩に掛けていた鞄をカゴの中にぶち込んでハンドルを掴んで引き寄せ、ポケットから出した鍵でロックを解除する。サドルに跨ると同時にペダルを漕いで滑るように走り出す。四方八方から聞こえるセミの声が今はなぜか心地良かった。本日一番に校門から外に出て、まだホームルームも終っていないであろう時間に祐介は一人帰路に着く。
 待ち合わせ場所は、三日前と同じ駅だった。今度はホームではなく、その入り口。そこからどこかに移動するにせよ何にせよ、まずはわかり易い場所がいいと思って考えたことだった。唯の家がどこにあるのかは知らないが、そこがやはり一番良いように思えた。学校から駅までは自転車で十五分強で行ける。しかし一分一秒も無駄にしたくなかったので赤信号も車のクラクションも無視して道路を駆け抜けた。待ち合わせはやはり、男の方が早く着いていて当たり前だと思う。
 汗だくになりながら到着した駅には人の姿は疎らで、辺りを見まわしてみたが唯の姿はまだなかった。僅かな安堵と共に微かな不安が押し寄せる。それを気力で抑えつけて自転車をごった返えしている駐輪場へ止め、ゆっくりと歩き出す。駅の入り口に設置されているベンチに腰を下ろし、無意識の内からポケットに手を突っ込んで中から携帯電話を取り出してメールの問い合わせをしてみる。だが自分から返信はしなくていいと書いたのだから、やはり唯からの返信はなかった。
 携帯電話を握り締めたまま、通り抜けて行く人の喧騒を耳に入れてぼんやりと天井を見上げる。骨組みだけで形成されてる天井の一角に、茶色い草のようなものが何本か固まって飛び出ている。鳥の巣でもあるのだろうか、と祐介は思うのだが、確かめようがないので視線を違う場所へと移す。駅の改札口を黄色い帽子を被った小学生たちが笑いながら通り、その後から祐介とは違う高校の制服を着た女子生徒が現れる。一瞬だけまさか、とは思ったが違った。
 気を張り過ぎているのだと思う。もっと気楽に行かねばその内潰れるような気がする。それこそこんな状態で唯と会ったら何も言えないかもしれない。落ち着け、と自分自身に言い聞かす。吐く息が震えるのはなぜだろう。ふっと視線を移したそこには時計があって、時刻は四時前を指していた。唯にメールを送ってから三十分近くが経つ。
 祐介は、唯の家も知らなければ、唯がどこの高校に通っているのかも知らなかった。もし唯がここに来るにしても、何時に来るのか検討が着かない。それがもどかしく、やっぱりちゃんと連絡を取るべきだったか、とそんなことを思っているのだがしかし結局は何もできなくて、祐介には待つしか道は残っていないのだった。目の前を通り過ぎる人を一人一人目で追いながら、祐介は待ち続ける。
 やがて日が暮れ始め、駅の時計が六時を指したそのとき、祐介は乾いた笑いを漏らした。
 唯は、来ないのかもしれなかった。それもそうだろう、と心のどこかで思った。あんな別れ方をしたのに、平然と会える方がどうかしている。それにこの二時間でよく考えてわかったのだ。もし自分が唯の立場なら、やはり会わないだろう。恐いのだ。今こうしている時間が、恐い。このまま唯が現れない方がいいとさえ思ってしまう。呼びつけた自分が恐いのだから、呼び出された唯はもっと恐いのだろう。もし自分なら、そこに向かうだけの勇気はない。だったら、唯も、
 刹那に、感じた。
 頭の中のレーダーがセロヴァイヤーの影をトレースした。一瞬でその場から立ち上がり、左を振り返る。建物に阻まれたその向こう、そこに、セロヴァイヤーがいる。
 が、唯ではない。唯から受ける感じとは明らかに違う。
 そしてそのセロヴァイヤーは、祐介に気づいている。漠然とした感覚の中で、確かに挑発にも似た気配が漂っている。誘っているのだろう。こっちへ来い、と。自分と戦え、と。建物の向こうにいるはずのセロヴァイヤーを見据えながら、祐介は拳を握る。またこんなときになぜ。時計を見ると六時七分を刻んでいた。どうするか思案を巡らす。ここで逃げても結果は変わらないだろう。逃げたとしても、そのセロヴァイヤーは必ず祐介を追って来る。取るべき行動は、一つしか思い浮かばなかった。
 改札口から辺りへと順に視線を巡らせた後、唯の姿が無いことを確認してから祐介は走り出す。この間に唯が来てしまったら最悪だが仕方が無い。まずはこのセロヴァイヤーをどうにかしなければならない。祐介が走り出すとなぜかそのセロヴァイヤーも走り出し、一定の距離を開けてどこかに誘い出そうとしているような感じを受けた。いや、事実そのセロヴァイヤーは祐介を誘い出しているのだろう。逃げるにしても一定の距離を保っているし、距離が開けばその場に停止して祐介を待っているような節がある。
 人のいない裏路地に入ったとき、祐介は前を見据えながら呼んだ。
「――雷靭」
 右手に握られる一振りの刀を確認した瞬間、体の隅々まで何かが走った。
 身体能力の向上。アスファルトを抉り取りながら祐介は飛び上がり、一度目の跳躍で電柱の上に着地し、二度目の跳躍でさらにスピードを上げる。祐介のスピードが上がったことに向こうも気づいたのだろう。先ほどより早い速度で追跡が始まる。それから五分ほど経った辺りだったと思う。唐突に、セロヴァイヤーが停止した。祐介が近づいても動く気配がない。どうやらそこが、目的地らしい。
 辺りに視線を移す。いつの間にか辺りに民家は無く、森のような場所へ出ていた。そしてそのセロヴァイヤーがいるのは森の頂上付近。雷靭を握りながら木々の間を縫って山を駆け抜け、祐介が一歩を踏み締める度に木の葉が砕けて空に舞い上がる。最後の跳躍を果たしたとき、木々に遮られていた視界が一気に晴れた。山の頂上付近はそこだけ木が無くなっているような場所になっていて、その中央に追跡していたセロヴァイヤーがいた。
 地面に着地し、祐介は対峙する。同い年くらいの、女の子だった。活発そうな顔立ちに、クセ毛のようなショートの髪が風に吹かれて揺れている。
 その表情には、不適な笑みが宿っていた。
「やっぱり、自己紹介とかした方がいい?」
 祐介が答えずにいると、女の子が頭を少しだけ下げた。
「伊藤千夏。高校一年生。……貴方は? あたしが自己紹介したんだから貴方も、」
「源川祐介。高二」
「そう。よろしくね、源川くん」
 雷靭を握る手に力が篭った。
 なぜか苛立ちが体を支配している。こんなことをしている暇は無い、と奥歯を食い縛る。もしかしたら今、唯は駅にいるかもしれない。しかしいない自分を、唯はどう思うだろう。裏切られたと思うかもしれない。それだけは駄目だ。自分は伝えねばならない。あの日、涙を流した唯の問いに、思っていることをちゃんと言葉にして言わなければならないのだ。こんな所でぐずぐずしている訳には行かない。このセロヴァイヤーを、一分一秒でも早く、――倒す。
 千夏と名乗ったセロヴァイヤーは、祐介の手に握られている雷靭を見つめて興味深そうに、
「へえ。それが貴方のセロヴァイト? 何だっけ、ええっと……斬撃型、だったっけ?」
 祐介が雷靭の切っ先をゆっくりと上げる、
「殺気立っちゃって、そんなんじゃ女の子に嫌われちゃうよ? でもまあ、しょうがないよね」
 それじゃ始めよう。そう言って、千夏は両腕を広げた。
「――戯丸砲(ぎがんほう)」
 それが、千夏のセロヴァイトの真名。
 千夏を覆う空間が歪み、そこから緑の光の粒子があふれ出す。それは意思を持って漂い、千夏の真横にその形を形成する。祐介の雷靭より遥かに大きい。緑の光の粒子が集まって造り出されたそれは、ある種の大砲に似ていた。いや、大砲という表現は間違っているのかもしれない。最も近い言い方をすれば、バズーカになる。十代の女の子が持つにはあまりに不釣合いなそのセロヴァイト。それが、射撃型セロヴァイトの中の一種、戯丸砲。
 トリガーの部分を掴み、千夏がシルバーに塗装が施されたバズーカを片手で持ち上げる。それを肩に担ぐと同時に、戯丸砲の横っ面から何かが突き出てくる。それは千夏の目に合わさるように停止し、赤い硝子のようなものを生み出した。見たままを言えば、それはスコープに思えた。赤い硝子の向こうに見える千夏の瞳が微かに動いた刹那、細い指が分厚いトリガーを引いた。
 ごおん、という衝撃波が祐介の視界を塗り潰す。見据えていたそこから弾き出されたのは、鉛で構成されている巨大な砲弾。その事実を、しばらく飲み込めなかった。真っ直ぐに突っ込んで来る黒い塊を現実のものとして捉えることができたのは、直撃寸前に感じた空を切り裂く風圧の音を聞いたからだ。体が意識するより速く、防衛本能が働いて祐介が地面に這い蹲る。その数センチ上を黒い塊は通り過ぎ、背後の木々に激突し、
 轟音と爆風が辺りを吹き飛ばした。木々の圧し折れる音が驚くほど大きく耳に届く。空高くに弾き飛ばされた一本の木が祐介の足元に突っ込んで来ることに気づけたのは偶然に過ぎず、慌てて足を退かした瞬間に地面が潰された。死にそうな思いでその場から離脱し、必死に背後を振り返る。さっきまで緑が生い茂っていた森は、砲弾が直撃した箇所だけ粉々に破壊されていた。
 威力が、違う。砲弾自体のスピードは遅いが、当たれば即死は確実だ。それこそ体など跡形も残らないだろう。これが射撃型セロヴァイト・戯丸砲。まさに一撃必勝のセロヴァイトだ。だが、当たらないように感覚を研ぎ澄ませば何とかなる。所詮、砲口は一つしかない。千夏から目を離さなければどうとでもなる。身体能力の向上している今なら、問題はないはずだ。反撃だって可能なはずだ。だいじょうぶ、行ける。早く倒して、駅に行かねばならないのだ。
 震える息を押し退け、祐介は雷靭を握り締める。
「上手く避けるね、源川くん」
 不釣合いの巨大なバズーカを肩に担いだまま、千夏は笑う。
「でもね。必死に逃げないとすぐに……ぐちゃぐちゃになっちゃうよ」
 トリガーが再度押し込まれる。
 弾き出された砲弾を真っ向から見据え、祐介は雷靭を構えた。頭の中にある邪念をすべて振り払い、目の前の黒い塊に意識を集中させる。空を切り裂く風圧を耳がはっきりと感じた刹那、祐介は自らの体を逸らせて砲弾を回避し、下を通るように真っ直ぐに千夏へ突進する。背後から轟音と爆風が響き渡るが知ったことではない。目標はそこにいるのだ。射撃型セロヴァイトが相手なら、近距離に持ち込めばこちらの勝ちだ。斬撃型の方が圧倒的に近距離戦は向いている。この一撃で、終らせる。
 千夏の体を斬撃距離圏内に入れた瞬間に、祐介は雷靭を縦一線に振り抜いた。驚いた表情をしていたはずの千夏の顔が一瞬の内に笑みへと染まり、祐介が振り抜いた斬撃は、シルバーの装甲によって弾き返される。今度は祐介が驚く番だった。雷靭の刃は、戯丸砲そのものに止められたのだ。シルバーの装甲の向こう、赤い硝子を通して見える千夏の瞳が揺れ動く。力任せに弾き返された際にバランスが崩れ、視界が天を仰いだのが命取りになる。目線を千夏へ戻したときにはすでに、砲口は目の前にあった。
 トリガーが引かれ、衝撃波が祐介の体を貫く。弾き出される砲弾を避けれたのは奇跡に近かった。一歩間違えれば死んでいた、という巨大な恐怖が祐介の呼吸を一時停止させる。地面に手を付いて息を吐き出し、早くここから逃げなければと体を浮かした刹那、視界一杯にシルバーの装甲が入った。振り上げられた砲口が直撃し、顎にとんでもない衝撃が走る。体が重力を無視して浮いているような気がした。そして今度は圧倒的な重力に引き寄せられるからのように空中から地面に叩き付けられ、全身から骨の軋む音が響く。口から鉄の味がする血液が噴き出し、見える光景がすべて歪んでいるその中で、戯丸砲を振り被る千夏を見た。まるでゴルフの構えだった。そしてもちろん、玉は他の何でもない、源川祐介だ。
 全身を潰されたかのような錯覚。気づいたときには宙を舞っていて、その事実を脳が認識したときにはすでに体は木々に激突していた。木々を圧し折ったことによって威力が殺され、しかしそれでも十分過ぎる威力の下に体が地面に叩き付けられる。激突して圧し折った木が真上から倒れ込んで来るが、祐介はそれをまるで他人事のように見据えていた。避ける気力もクソもない。動けなかった。体が言うことを聞かない。指一本を何とか動かせたときには、襲いかかる木に真っ向から潰されていた。
 真っ赤に染まる脳みそに轟音が響くことに驚きながら、何とか目を開けて木の隙間を縫って視界を確保する。どうやらまだ死んでいないらしい。呆然と小さな視界を見渡しながら体を動かそうとするが無意味で、潰された体は一切動かなかった。そもそも体の感覚そのものが失われている。五体すべてが消え去ってしまったかのような気分だった。だがそれでも右腕に握った雷靭のことがわかるのが何かの冗談のように思える。痛みを奥歯を食い縛ることで我慢し、首を回して千夏の姿を探る。
 千夏は、先と変わらない場所に立っていて、そして戯丸砲を構えていて、赤い硝子の向こうに見える瞳が笑っていた。
 砲口から黒い塊が弾き出される。そのスピードが、先にも増して遅く思えた。簡単に避けれそうなスピードだ。まるで玩具のようにゆっくりとこっちに向かって来る。避けなければならない。あれを食らったら幾ら何でもやば過ぎる。だいじょうぶだ、こんなに遅いんだからすぐに避けれる。慌てることはない。いつも通り立ち上がって、雷靭を握り直して千夏へ突っ込んで終らせろ。こんな所でぐずぐずしている暇なんて無いぞ。こうしている間にも唯は駅で自分を待っているかもしれない。早く立って攻撃に移れ、立ち上がれ、早く、早く立ち上がれ。オイ何だよ、クソっ、どうして、どうして動かな、
 爆炎が祐介の思考を砕いた。視界が漆黒に染まり、聴覚が空白に支配された。音も何も聞こえず、痛みも何も感じなかった。あの砲弾の直撃を受けたのだ。助かる訳がない。自分の五体はぐちゃぐちゃに潰されたのだと思った。それでも意識がまだあるような気がするのはなぜだろうか。もしかしたら首から上だけは助かったのだろうか。何かで聞いたことがある。首を落とされても十五秒間ほどは意識があるらしい。つまり今、自分はそれと同じ状況に陥っているのだろう。死ぬときは走馬灯を見るとかいうけど、何も見えない。見えるのは漆黒の闇だけだ。何か見たかった。何でも良い、死ぬ前に何かを。
 そして、唐突に浮かび上がったそれは、涙を流してあの言葉をつぶやく唯だった。
 頭の中が一瞬でクリアになる。右手が燃え盛るような灼熱を宿していることに気づく。
 覚醒したように祐介が目を開けた刹那、自らの体が横たわっているのではなく、立っていることを知る。離れた場所にいる千夏が呆然とした顔で何かをつぶやいていて、しかしそれはすぐに怒ったような表情に変わり、何事かを大声で叫んでいる。不思議なことにその声がまったく聞こえない。視界はあるのになぜか歪んでいて、耳は鼓膜が破れたのか無音しか感じ取れない。地面に着いて立っている足が自分のものだとはどうしても思えず、やはり体の感覚は失われたままだった。
 千夏が戯丸砲を構えてトリガーを押し込むのが見えた。弾き出される砲弾が嘘のような高速で突っ込んで来る。逃げなければ、早く逃げなければ。さっきのようにそう自分に言い聞かすが体は言うことを聞かず、それどころか意思とは全く関係無く勝手に動き出した。灼熱のような熱を宿す右手が真横に上がる。視界が前に固定されているので自分の右手がどうなっているのかがまるでわからない。ただ、握っている雷靭の感覚だけが漠然と伝わってくる。
 砲弾が目の前に到達したとき、黒い塊に走る金色の光の線を、祐介は確かに見た。祐介に黒い塊が直撃するか否かの瞬間、砲弾は真っ二つに分離して顔の両脇を通り過ぎ、背後から一瞬にして爆音と爆風。しかしそれに煽られてもなお、祐介の視界は一定に保たれて微動だにしない。右手がゆっくりと前に差し出される。固定された視界の中で、雷靭の切っ先が千夏を刺す。
 我が目を疑った。雷靭の刃が、金色に光輝いている。――いや、そうじゃない。その光の正体に気づいた。信じ難いことに、雷靭の刃は、雷を宿している。雷は刃に纏わりついて渦巻き、まるで生きているかのようにゆっくりと蠢いている。それは祐介が初めて見る、幾線もの雷が折り重なり合い出来上がって完成された、斬撃型セロヴァイト・雷靭の本来の姿だった。
 雷靭は、言う。
 ――手を貸してやろう。力を抜け。体の自由をおれに託せ。
 頭に直接響くその声にどうやって問い返すのかがわからなくて、祐介が体を動かそうとした刹那、力がすべて吸い取られるような感覚に襲われた。体から完全に力が抜け、意識さえも朦朧とし出す。普通なら倒れて行くはずのその中で、しかし祐介の体は倒れずに直立している。雷靭を握った右手がゆっくりと天に突き立てられ、一瞬の内に振り抜かれる。それを何度か繰り返した後、右手に握られた切っ先は再び千夏に向けられる。視界の中にいる千夏がまだ何かを叫んでいる。
 心のどこかで思った。
 逃げろ、と。
 祐介の足が地面を破壊した。雷を宿した雷靭と共に敵へと突っ込んで行く。突進する祐介に狙いを定め、千夏が再び戯丸砲を構えてトリガーを引く。弾き出される砲弾が目前に迫ったとき、又しても金色の光の線が入って真っ二つに分離する。爆音と爆風に圧されて祐介の体がスピードを増す。振り抜かれた刀がシルバーの装甲を捕らえ、刃が僅かに突き刺さる。
 祐介には見えないが、千夏には見えていた。祐介は今、自らの意思とは関係なく、満面の笑みで笑っている。
 戯丸砲に突き刺さった刃から雷が蠢く。それはシルバーの装甲を這うように走り出し、千夏を狙う。その直撃を受けるか否かの瞬間に戯丸砲が振り回され、弾き返された祐介の体が宙を舞う。その体に狙いを固定し、千夏が再びトリガーを引いた。だが何度やっても同じことである。もはやこの戦いで、その砲弾は通用しない。そして千夏も、それを理解していた。だからこそ、特性を発動させるのだ。
 祐介に弾き出された砲弾は、金色の光の線が入るより速くに暴発した。祐介の目前で広がる爆炎と煙の中から飛び出して来たのは、無数の銃弾。それが一つ一つ散弾銃のように放たれていた。それこそが戯丸砲の特性。一つの砲弾の中から無数の銃弾を生み出す。獲物の寸前で発動させれば逃げ場はない。真正面から迫り来る無数の銃弾を避けることは不可能、体中を貫通され息絶える、単撃の中に隠された連撃である。
 祐介が受けていれば間違いなく貫かれていたであろうその特性だが、しかし本来の姿を取り戻している雷靭の前には無意味。雷靭は避けるのではなく、防ぐのだ。突き出された雷靭の刃から雷が打ち出される。それは祐介を守るように広がり、一枚の楯を作り出す。高々の銃弾が、雷に勝てるはずはない。雷にぶつかった銃弾は一つ残らず煙を上げて消滅し、その光景を見て愕然とする千夏へと雷は標的を定める。雷靭の意のままに、雷は千夏へと降り注ぐ。それを間一髪で避けられたのは千夏の力ではない。避けれるように、雷靭が雷を落としたのだ。
 雷の攻撃が消え、千夏が顔を上げたときには祐介が真上からその体を狙っている。切っ先を突き立て降り注ぐ刃をギリギリで戯丸砲で防ぎ、振り払おうとするが雷靭は容赦しない。刃の突き刺さったシルバーの装甲内部に雷を放つ。一瞬の静寂の後、戯丸砲が大きく膨れ上がった。内部からぶち壊れる戯丸砲を呆然と見つめ、千夏がその場に膝を着く。戯丸砲は緑の光の粒子となって漂いヴァイスとなり、そしてヴァイスは再び緑の光の粒子となって祐介の体内に蓄積される。
 勝負は決まった。なのに、雷靭は攻撃の手を止めよとはしなかった。放心している千夏へ切っ先を向け、虫を殺すかのように刃を腕に突き立てた。
 真っ赤な鮮血と千夏の悲鳴で、祐介の意識が完璧に取り戻される。刃から放たれようとしている雷に気づいた祐介は、左手で右手を掴んで強引に動かす。雷靭の刃が千夏の腕から引き抜かれ、その瞬間に想像を絶するような威力の雷が解き放たれる。これを千夏が受けていたら、焼け焦げる、なんて生易しい攻撃では済まなかったはずである。こんなものを内部から食らえば、誰であろうと絶対に体が弾き飛んで死ぬ。
 不愉快そうな雷靭の声。
 ――なぜ邪魔をする。こいつは敵であろう。ならば殺すのが道理。
 ふざけるな、と中で絶叫する。何が道理か。人を殺していい道理などこの世にあるはずがない。それにおれは誓ったんだ。誰も殺さないと。お前なんかに邪魔はさせない。お前の御かげでこっちは命が助かった、それは認めるし感謝もしよう。だけどそれとこれとは話が違う。もう勝負は終った、お前の勝ちで千夏の負けだ。それになんの不満がある。もう終ったのになぜ殺す必要がある。用が済んだのならとっとと帰れ。誰もお前に頼ろうなんて思っちゃいない。消え失せろ。人を殺すためだけにいるお前など、おれにとっては邪魔な存在だ。本当におれに協力する気があるのならお前も誓え。誰も殺さないと。誓うのならおれはお前に力を貸してやる。だけど誓わないのなら、
 ――どうすると言うのだ? 貴様一人で戦うとでも言うのか。
 戦う。お前の力は、借りない。おれは絶対に、誰も殺さない。
 ――甘い。この戦いは純粋な殺し合い。貴様が思うような、生易しいものではないぞ。
 うるさい。それでもおれは、
 ――現実を知れ。こいつを殺したら貴様の目も覚めるであろう。
 やめ、
 這うように逃げ出していた千夏へと雷靭の切っ先が走る。それを全身の力で抑え込んで狙いをズラす。斬撃に気づいた千夏が背後を振り返った瞬間、その顔の真横を刃が通り過ぎる。千夏の髪が何本か切り裂かれて宙に舞って消えた。右腕からおびただしい量の血を流す千夏の顔面が蒼白になる。涙に歪んだその体が震え出すのを、祐介ははっきりと見た。
 力のすべてを注ぎ込んで、悲鳴にも似た叫びを精一杯上げた。
「逃げろォオッ!!」
 弾かれたように千夏が走り出す、
 ――邪魔をするなと言っている。
 祐介の足が地面を抉る。千夏の背後から雷靭の切っ先が襲う。
 やめろ、頼むからやめてくれ。誰でもいいからこいつを止めてくれ。目の前で人が死ぬのはもうたくさんだ。誰も殺さないと誓った。誰も殺したくない。だからお願いだ、誰かこいつを止めてくれ。お願いだ、誰でもいい、誰でも。止めて、頼むから、誰かこいつを止めてくれ……っ! 視界が涙で滲む。頭の中を唯の姿が過ぎった。口はもう動かない。それでも彼女に聞こえるように、すべてを賭けて叫んだ。助けてくれ、と。
 刃が千夏の背中を貫く瞬間に、その動きが完全に停止した。
 ――……どうやら、今回は貴様の勝ちのようだ。
 そんな声と共に、雷靭の刃から雷が弾けて消えた。右手に感じていた熱が収まり、やがて体の自由が本当に戻って来る。しかし戻って来た感はあるのだがなぜか体が金縛りにあったかのように動かない。どういうことなのかまるでわからず、呆然としている祐介の視界では千夏が逃げ出す光景が映し出されている。体の拘束より、誰も殺さずに済んでよかったと心から思った。一挙に押し寄せる疲労の塊に意識を飲み込まれそうになった瞬間、祐介はやっと気づいた。
 なぜ雷靭の意思が消えたのか。それは、祐介の力ではない。助けてもらったのだ。水靭を持つセロヴァイヤーに、救われた。
 視界の中で、水靭をゆっくりと下ろす唯を見ていた。
 体の自由が本当に戻って来る。だが立っているだけの気力はもはや残されていなかった。
 その場に膝を着き、乾いた笑いを漏らす。結局、今見ているこの光景が夢か現なのかはわからない。ただ、現ならとてつもなく有り難い。その言葉を口にするだけの気力も底を尽きていて、心の中で「ありがとう」とつぶやいてその場に倒れ込む。意識が漆黒の闇に包まれて消える刹那、あの日のあのときのように、暖かなぬくもりを感じたような気がする。
 それが今は、どうしようもなく心地良かった。

 その日、第十三期セロヴァイヤー参加者数が四名にまで、減った。

     *

 第十三期セロヴァイヤー観測局からセロヴァイト執行協会本部へ。
 源川祐介のセロヴァイト・雷靭にバクを確認。対処について、返信を待ちます。

 セロヴァイト執行協会本部から第十三期セロヴァイヤー観測局へ。
 現状維持のまま警戒態勢に入れ。但し手出しはするな。
 どんなバグがあろうと、所詮は『アレ』に勝てるはずはない。

 ――了解。





     「佐倉隼人」



 携帯電話が鳴ったとき、心臓が止まるかと思った。
 それは、唯の携帯電話の中で唯一着信メロディが変えてある人から届いた、一通のメールだった。震える手を押さえつけ、折り畳み式のそれを広げて、しかし数秒間は何もせずにディスプレの『一件の新着メール』の表示を見つめながらずっと悩んでいた。このメールに、どんなことが書かれているのかを考えるとすごく恐かった。開けてみようと思っても、どうしても指が動かない。頭の中を過ぎる様々な言葉の中で、『嘘つき』と『裏切り者』の二つが唯の心に重くのしかかる。もし本当に、このメールにその言葉が書かれていたら、自分はどうするのだろう。自分は、どうなってしまうのだろう。
 考えるだけでも恐ろしい。もし現実にそんなことが書かれていたのなら、本当に死にたくなるような気持ちと罪悪感に苛まれるだろう。もし本当に死ねるのなら、どれほど楽なことなのだろうか。自分にそんな勇気が無いことは、自分がいちばんよく知っている。もし高層ビルから飛び降りたり、リストカットをして自殺するだけの勇気があるのなら、とっくの昔にそうしている。だけど自分は今、こうして生きている。醜く行き続けている。理由は一つ。佐倉唯という存在がこの世から消え去るのが、どうしようもなく恐い。結局は、勇気が無いのである。
 そして自分には、この新着メールを開く勇気も、無かった。送り主はわかっている。着信メロディを変えてある人は、一人しかいない。
 斬撃型セロヴァイト・雷靭を持つセロヴァイヤー・源川祐介。
 確かに、最初は騙して利用しようと思い、祐介に近づいた。しかし唯は見てしまったのだ。あの日のあの雨の中で、傘を差して見つめる唯の視線の先で繰り広げられた想像を絶する力の鼓動を。祐介の雷靭が雷雲を喰らい尽くすその圧倒的な特性。落雷と共に、唯はそこに光を見出した。もしかしたら。そんな愚かしいことを思ってしまった。もしかしたら、この人なら自分の束縛を解き放ってくれるのではないか、と。運に賭け、唯は祐介に勝負を挑む。もちろんこちらが負けると思っていたのに、しかし予想に反してなぜか祐介は特性を使わず、結果、唯が勝った。だがそれならそれで好都合だと思った。
 詳しい内容は教えられない、だけど倒したいセロヴァイヤーがいる、だから協力して欲しい。そう言って差し伸べた手を、祐介は握ってくれた。確かに、最初は騙して利用しようよ思い、祐介に近づいた。でも、あのときは違った。何を賭けてもいい。あのときだけは、純粋に祐介の力を貸して欲しかったのだ。今まで見えなかったはずの希望を、自分は祐介に求めていた。
 だけど、知った。祐介のその力は、不完全なものであることを。特性を知らず、圧倒的な力を持て余すセロヴァイヤー。しかしそれでも、使い方さえマスターすれば祐介は自分を圧倒的に超越するセロヴァイヤーになるのではないか、そんな希望があったのだ。そのための段取りを幾つか考えたが、結局は徒労に終る。予想外のセロヴァイヤーとの接触、打撃型セロヴァイト・孤徹との戦闘。祐介が倒されそうになったとき、無意識に自分は水靭の特性を使っていた。ここで死なせてはならない、と思ったのだろう。そのときは、忘れていた。何もかも気にせず、セロヴァイヤーを倒した自分。アスファルトに座り込んで呆然とする祐介。
 そこでやっと気づけた自分の本音。なぜかはわからない。今まで人間に対して不信感ばかり持っていた自分が初めて感じる気持ち。正体不明の、しかし心の奥底では理解している感情。それが行動に移させたのだろう。思っていたことは、ただ一つ。死なせては、ならない。だから自分は祐介を助けた。でも、自らの本当の姿を晒すのがどうしようもなく恐かった。震える体を祐介に気づかれないように押さえ込み、恐さのあまり逃げ出しそうな自分を罵倒した。
 いつの間にか正体不明の感情は動き出し、瞳から涙を流させ、気づいたら口からあふれ出ていた。
 ――嫌いに、ならないで。
 自業自得。そんな言葉が今になって脳裏に焼きつく。
 出会った第十二期セロヴァイヤー優勝者の渡瀬拓也。拓也には聞きたいことが山ほどあったが、一つしか訊ねることができなかった。優勝者になれば望みを叶えられるのか、と。ただ、それを聞いても自分が優勝者には絶対になれない。だから間接的に望みが叶うことに賭けた。望みは叶う、と返した拓也の言葉に、言いようの無い安堵を覚えた。しかしそこで、思いもよらぬことを言われる。拓也と同じくして第十二期セロヴァイヤーに選ばれた神城啓吾。啓吾には恐らく、すべてを見抜かれていた。自分が祐介を利用しようとしていたこと、そして何より、服の下に残された傷のことも。それを言われるのが恐くて、自分はまた逃げ出した。逃げ出すしか術を知らなかった。
 自業自得、なのだろう。嘘偽りなくすべてを話さなかった自分が撒いた種である。逃げ出してからやっと気づいた。もう手遅れだ、と。もう二度と、祐介には会えない、と。光は完全に断たれた。自分が居ても良い場所は結局、最初から一つしかなかったのである。どう足掻いたところで、やはり勇気の無い自分にはこの束縛を解くことはきでないのだ。最後の最後には、ここに戻って来てしまう。
 泣きたいはずなのに、縋って泣くものが、ここには無い。あるとすれば、それは祐介だけだった。でも、それはもう望めない居場所。今までのように、これからも自分はたった一人で、日に日に体に傷を負いながら生きて行くのだろう。逃げ出せない孤島の牢獄。世界から隔離されているような錯覚を受ける、本来の自分の居場所。泣きたいのに、縋って泣くものが無い。手を伸ばせば握ってくれる祐介とは、もう二度と会えない。
 だからこそ、携帯電話が鳴ったとき、心臓が止まるかと思った。そしてもしそこに『嘘つき』や『裏切り者』という言葉が書かれていたのなら、死にたくなるような気持ちと罪悪感に苛まれると思った。携帯電話を握り締める指の震えは、今もなお止まらない。
 けど、それでも、どうしても縋りたくて、自分はそのメールを開いた。そこには、予想外のことが書かれていた。しばらくは、何も考えられなかったと思う。書かれていた文字を見ただけで泣きたくなるような気分になった。光が再び孤島の牢獄に射す。世界から隔離された自分の居場所から連れ出してくれる手が差し伸べられる。そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。
 急いで外に出て、待ち合わせ場所の駅へと向かう。だがその途中、唐突に忘れていた恐怖に蝕まれ、足が止まった。自分でもよくわからない思考の狭間を漂っていたと思う。気づいたら家を出てから二時間近く経っていた。そこでようやく諦めがついた。やはり自分の居場所は、あそこでしかないのだ。そう思って帰ろうとしたとき、心の奥底で湧いた感情に突き動かされた。もしかしたら。そんな愚かしいことを、また思ってしまった。
 そして、現実を知る。駅には、祐介の姿は無かった。笑い声とも泣き声とも言い難い乾いた声が漏れた。自分の愚かしさを思い知った。光はやはり、一時の幻影でしかなかったのだろう。頬に手を添える。三日前に新しく出来た傷を隠すように張られた大きなガーゼ。どう足掻こうと、どう抗おうと、所詮は何の意味も成さないのである。もし光があるとすれば、それは、『彼』が優勝者になるしか――
 頭の中のレーダーが、セロヴァイヤーの影をぼんやりとトレースした。しかも二つ。その二人のセロヴァイヤーが戦闘を行っている。一人は知らないセロヴァイヤー。そしてもう一人のセロヴァイヤー。それを、間違えるはずがなかった。それは、源川祐介である。
 気づいたら、ぼんやりとしたレーダーを頼りに走り出していた。途中で水靭を呼び出し、速度を上げてその場所へ向かった。森を駆け抜け辿り着いたのは平地のような場所で、そこで祐介と見知らぬセロヴァイヤーが戦っていた。雷靭の相手は、恐らく射撃型。笑ってしまうほどに巨大なセロヴァイトを不釣合いの女の子が担いでいる。その攻撃で破壊されたのか、森の一部分が粉々に砕けていた。
 祐介のことが心配になった。よく見れば祐介は大きな傷を負っているように見えた。体の所々から流れ出ている血が滴り落ちる度、唯の足が何度も祐介に近づこうと動き出しそうになる。しかしそれを、唯は無意識の内に押さえつけていた。自らの体がゆっくりと震え出す。離れている場所にいる唯にさえはっきりと伝わってくる、巨大な力の鼓動。視界の中で血塗れになりながら立っているのは祐介だ。だがそれは、唯の知る祐介ではない。それが祐介であろうはずもない。自信と余裕に満ち溢れた異常な笑み。そして何より、その手に握られているセロヴァイトが違う。
 斬撃型セロヴァイト・雷靭は異形の姿をしていた。力の鼓動は、そこから放たれている。
 雷靭の刃に纏わりつき、蠢いている何か。
 あの日、唯の目の前で繰り広げられた光景が蘇る。雷雲を飲み込んだ雷靭。それと今見ているものが、一直線に繋がった。空は快晴なのに発動している雷靭の特性。異常な笑みを見せる祐介。雷靭が異形の姿をしているのではない。これこそが、斬撃型セロヴァイト・雷靭の本来の姿。そして、祐介の体の支配権は、雷靭が握っている。雷を宿す圧倒的な力と主を支配できるだけの意思を持ったセロヴァイト。別の意味で震えた。
 地面が砕け散り、それに気づいた瞬間に祐介の姿を見失っていた。斬撃音と共に敵のセロヴァイヤーに目を移したときには祐介の体は宙に浮いていて、雷が荒れ狂って、それから、
 何もかも、完全に目で追えなかった。早過ぎる。勝負は、数秒で終っていた。射撃型セロヴァイトはヴァイスとなり祐介の体に蓄積され、セロヴァイヤーはその場にへたり込む。しかしそれでも祐介は、否、雷靭は攻撃の手を止めない。寒気がした。笑いながら刃を無抵抗の敵の腕に突き立て、人間に与えるには強大過ぎる力を平気で放出するセロヴァイヤーに、寒気がした。逃げ出す敵に、それでも雷靭は容赦をしない。背を向けるその背中に刃を突き出し、
 本当の祐介の悲鳴が聞こえたような気がした。気づいたときには、刀を振り上げて水靭との同調を開始していた。
 斬撃型セロヴァイト・水靭の特性。それは水の意思を理解できるということ。雨の日などはよくわかる。降り注ぐ雨の一滴一滴にちゃんとした意思があるのだ。漠然としたものだが、水靭を手にしている限りはそれを理解できる。しかしそれだけの特性なら、恐らくは使えないであろう。だが唯は、セロヴァイトの声を聞ける。半ば強制的に目覚めさせてしまった二つ目の特性。それが、水を操れるということだ。
 水靭の特性を発動させる。孤徹と戦ったときは、桂木の手から滲み出ていた汗を利用した。それを刃物のように鋭く強化し、桂木の手に突き立てたのだ。訓練に訓練を重ねた賜物だった。そして、これも訓練したことの一つ。祐介の体を流れる血に意識を集中させ、血液を完璧に固定させる。強度はセロヴァイヤーとも言えど簡単には動くことのできないほどまで跳ね上がった。無理に動こうとすれば体そのものが千切れる。水を極めた者だけが辿り着ける境地。唯は、そこに到達している。今のこの瞬間にだけ考えれば、唯は恐らく、第十三期セロヴァイヤーの中では『二番目』に強いセロヴァイヤーだ。
 祐介と戦っていたセロヴァイヤーが完全に逃げたのを確認した後、しばらくしてから特性を解除する。水靭をゆっくりと降ろしながら、もしも祐介が標的を自分に切り替えるのであれば、そのときは大人しく殺されようと思った。それが自分ができる、せめてもの罪滅ぼし。だが、祐介はもう雷靭の支配から開放されていた。表情は自信の無さそうな少し頼りない、いつもの祐介に戻っていた。祐介の体が倒れ込む。
 その刹那、「ありがとう」という声を確かに聞いたと唯は思う。
 無意識の内に水靭を消して走り出し、祐介の体を抱き止める。
 傷だらけになって、それでもなぜか嬉しそうな顔をして眠る一つ年下の少年。
 この少年は、圧倒的な力を持っている。それは認める。だけど、もういい。祐介はやはり、人を殺すことを望んではいない。そもそも、戦い自体に向いていないのかもしれない。勝手に光を見出したのは自分である。やめなければならない。祐介を、これ以上巻き込んではならない。何もかも話そう。そして、祐介にはもう二度と、戦わないでいてもらおう。苦しむのは自分一人だけでいい。だから。
 祐介に、言わなければならない。もう、祐介には、苦しんで欲しくない。

     ◎

 夢を見ていたんだと思う。自分が見ているこの光景は、夢以外の何物でもないとも思う。
 ぼんやりとした視界の中で、祐介はただ唯の顔を見つめている。これが現実だったらよかったのに、と感じてしまうのは仕方ないことなのかもしれない。夢だからこそ、唯を目の前にしても平気でいられる。もし現実に唯と会うのだとすると、こうも落ち着いてはいられないだろう。だから、夢なのだ。夢の中では何でも上手く行く。当たり前のように落ち着いているし、以前のように自然と唯に向けて笑顔を見せられる。それが心地良かった。夢の中では、何でも上手く行くし、そして何でも言える。だって、現実ではないのだから。
 温かなぬくもりに包まれたまま、唯を見ながら祐介は笑う。
「……唯さんの問いに、今なら答えられる……」
 夢の中でしか言えないとはやはり情けない。が、所詮自分などそんなものである。
「……おれは絶対に、唯さんを嫌いにならない。約束するよ。だから、」
 唯に向かって、自らの手を差し伸べる。
「――心配、しないで……」
 差し出した祐介の手を、唯の手がゆっくりと握る。あの日のあのときのように、唯の手は温かなぬくもりに満ちていた。
 ぼんやりとする視界の中で、祐介はもう一度笑った。
 そんな祐介を見つめ、唯は泣きそうな顔をしてつぶやいた。
「…………ありがとう、祐介さん…………」
 唯が瞼をぎゅっと閉じたとき、そこから一滴の雫が流れた。それは唯の頬伝い、祐介の目元に落ちる。
 一発で、目が覚めた。
 ぼんやりとしていた視界が一瞬で透き通り、現実味を帯びる。握られた手はぬくもりを確かに持っていて、それがどうしても夢のぬくもりとは思えない。目元に落ちた唯の涙がはっきりとした感覚を祐介に伝える。その瞬間になってようやく、自分の体が仰向けになっていて、そして頭が唯の膝の上に乗っているというとんでもない事実に気づいた。寝起きの頭に入るには大き過ぎるその事実の容量は、祐介の体を簡単に凍りつかせた。しばらくは意識が空を飛んでいた。夢の中を漂うより遠く、夢より信じ難い光景に脳みそが機能停止に陥る。口から自分でもよくわからない言葉が漏れたような気がする。
 一発で目が覚めたように、一発で体を覆っていた氷が砕けた。世にも情けない悲鳴を上げながら慌てて頭を上げた際に、祐介の額と唯の額がぶつかって「ごつん」という漫画のような音が鳴った。その痛さに悶絶して目に涙を溜めながらも這うようにその場から逃げ出し、息も絶え絶えに地面に尻餅を着いて唯を凝視する。唯も痛かったのか、額を涙目で摩って少し不機嫌そうにこっちを見つめていた。
 呂律が上手く回らない。
「え、あ、唯さ、なんっ、てゆー、か、ええっ!?」
 唯から視線を外し、辺りを必死に見渡す。
 そこでやっと、ここが自分の部屋ではないことに気づいた。どこか知らぬ、周りを木々に囲まれた訳のわからない場所だった。祐介のいる場所だけ木々が無く平らになっていて、その中心部辺りに唯がいる。意味がわからなかった。まだ自分は夢の中を彷徨っているのではないかと本気で思う。記憶が冗談のような速さを保ちながら出鱈目に駆け巡っている。その一つ一つを拾い集めるが意味のある過去を思い出すことはできない。一体自分はこんな所で、しかも唯と一緒に何をやっているのか。空から射す太陽の陽射しに体が汗を掻き、ついでに冷汗も面白いくらいに出た。体から血の気が引くのがはっきりとわかるのがどこか異様である。
 駆け巡っていた記憶の断片が、ついに一つの過去を完成させた。
 出来上がった記憶は、こう告げる。自分は学校から唯にメールを送って約束の場所へ向かい、しかしそこでセロヴァイヤーの存在に気づき、戦いを受けて立った。だがそのセロヴァイヤーにボロクソに負けて死にそうなとき、自らのセロヴァイトの雷靭に意識を奪われた。結局勝負はこちらの勝ちであったが、雷靭はセロヴァイヤーを殺そうとした。それを必死に止めようとしたが止まらず、どうしようもなくなったときに視界に入った唯の姿。記憶が、祐介の胸の奥に落ちた。
 間違いではない。自分は、唯に助けられたのだ。
 ふと気づく。空を仰いだ祐介の目を太陽の光が貫いた。確か自分が射撃型セロヴァイトを持つセロヴァイヤーと戦ったのは夕方ではなかったか。しかしなぜこの瞬間の空に太陽が輝いているのか。そして何より、死に掛けていたはずの自分の体の傷はどこへ消えたのか。傷が癒えるのはセロヴァイヤーにある身体能力向上に関係するかもしれない。だが服に付いていたはずの血まで消え失せるはずがない。答えは、すぐそこに転がっている。自分がセロヴァイヤーと戦ったのは、『今日』ではく『昨日』である。気を失って倒れてから、すでに一日が経過してしまっているのだろう。
 視線を空から唯へと移す。額の痛さはもう無いのか、気まずそうにこっちを見つめていた唯の視線をと噛み合う。もし本当に一日経ってしまっているのなら、もしかしたら唯はずっと祐介の看病をしていれてくれたのかもしれない。本当にそうなら膝枕の件も簡単に納得行くような気がする。それは悪いことをしてしまった、と祐介は思う。何と言っていいかわからないが、それでもせめて謝ってお礼くらいは言わねばならない。異常なほど鼓動の早い心臓を抑えつけ、祐介が立ち上がろうとしたとき、唯が何も言わずそっと何かを差し出した。
 一通の封筒だった。受け取れ、という意味だったのだろう。無意識の内にそれを受け取り、謝罪もお礼もしないまま封筒を開けて中の手紙を取り出す。その手紙を開ける瞬間に、祐介の脳裏に言い表し難い考えが過ぎった。見覚えがある無地の封筒。そこに入っているたった一枚の紙切れ。
 案の定、それは、セロヴァイト執行協会本部からの通知だった。
 手紙には、こう書いてある。


『 源川祐介様。

 こちらセロヴァイト執行協会本部。
 この度、第十三期セロヴァイヤーによるセロヴァイト本戦開始から、本日で十八日が経過しました。そしてその十八日の間、見事生き残っております源川祐介様。おめでとうございます。
 第十三期のセロヴァイヤー参加者数が、残り四名となりました。
 本戦開始から十八日で残り参加数が四名というのは、実に良い結果です。すでに違うセロヴァイヤーを倒した方、まだ一度も戦っていない方、すべての方を含めて、勝ち残っている四名様を絶賛したく思います。これからの四名の健闘を祈ります。

 さて、残り参加者数が四名にまで減ったことにつきまして、一つだけ言わせて頂かなければならないことがあります。
 参加者数分のヴァイスを集めたセロヴァイヤー、つまり優勝者になったときのことです。ヴァイスが八個体内に蓄積されますと、無条件でこちらに赴いて頂くことになっております。ただ、皆様は何も行動に移さなくても構いません。こちらですべて制御します。こちらへ辿り着くまでの道のりは、八個のヴァイスに詰め込んでありますので、皆様はただ優勝者になることだけを考えていてください。
 皆様の更なる健闘を祈っております。

 そして、ここで新たな報告をさせて頂きます。これからの戦闘をより深く知り、戦術を練って頂くために、残りの四名が持つセロヴァイトを発表させてもらいます。ご勝手な所を申し訳ありませんが、残りの四名が持つセロヴァイトを確認し、より良い戦闘を行って欲しいが故の行動と思い、どうか役立たせてください。
 それでは、四名の持つセロヴァイトの発表です。

 斬撃型・雷靭
 斬撃型・水靭
 射撃型・虚連砲(きょれんほう)
 幻竜型・虚

 以上が、生き残っているセロヴァイヤーが持つセロヴァイトの型及び真名です。
 ここまで来たのなら、皆様、悔いが無いように優勝者となるために勝ち残ってください。

 セロヴァイト執行協会本部からの通知は、これで最後とさせて頂きます。これより先のことにつきましては、優勝者のみが知ることができます。
 優勝者となる貴方に出会えることを、我々セロヴァイト執行協会本部一同は楽しみにお待ちしております。
 快い戦闘の結果を、お楽しみください。

                                            セロヴァイト執行協会本部 』


 文面から顔を上げ、視線を唯に向けて初めて、その手にもう一通封筒があることに気づく。つまりそれが、唯に送られてきた通知。第十三期セロヴァイヤー参加者数の残り四名の中に、祐介と唯は入っている。しかし、その結果を素直に喜べないのはなぜだろうか。いや、その理由はわかっている。――恐怖。ただそれだけしか感じられないからだ。殺し合いをまだ続けなければならない。それが、どうしようもなく恐かった。自分はまだ、セロヴァイヤーである。呼べば必ず、雷靭はその姿を現す。自分が一体なぜ、参加者数が四人に減るまでこの殺し合いに残っているのかがわからなくなった。
 祐介を射していた陽射しが遮られる。唯が目の前に立っていた。逆光で唯の表情はよくわからなかったがしかし、祐介の目には映っている。唯を今まで見ていたのに、なぜ気づかなかったのだろう。だがそのことに、祐介はやっと気づいたのだ。
 唯の頬に、大きなガーゼが貼られていた。頭の中を、ある言葉が過ぎった。
 恐怖とは別の意味で、体が震えた。口から絞り出す声までも震える。
「……唯、さん…………」
 そのガーゼは何ですか。
 なぜ貴女は傷を傷を負っているのですか。
 その問いを、祐介はついに言葉にできなかった。
 呆然とする祐介の目の前で、唯が唐突に上着を脱ぎ始める。その行動に度肝を抜かれた。「あ、ちょっ、ちょっと唯さんっ!?」と悲鳴に近い声を上げて必死に視線を外し、恥ずかしいと思う気持ちを捻じ伏せてその場から離脱しようと腰を上げたときにはすでに、唯は上着を脱ぎ終わっていた。下着だけしか身に着けていない、現実の女の人の体に意識が飲み込まれ、顔から火が吹くかと本気で思い、
 それまで感じていたはずの感情が、すべて消え失せた。
 絶句するしか、なかった。
 唯の白い肌に無数に存在する青い痣。啓吾の声が、完全に蘇った。
 ――どうして、唯ちゃんは体に傷を負ってるんだろうな。啓吾はそう言った。そして自分は、そんな訳はないと心の奥底で否定していた。唯が何かを隠していることは知っていたし、唯が祐介には想像もできないような大きなことを抱えているのも薄々はわかっていた。ただ、それと啓吾の言葉が同じ重みを持つかと言えばそれは違う。否定し続けていたその事実。結局は、信じたくはなかったのだろう。そんな訳はない、それは違う、啓吾の間違いだ。馬鹿みたいな言い訳に過ぎない。正しいのはやはり、啓吾だった。その現実を、思い知った。
 白い肌にある青い痣は、唯の体を蝕む悪霊の実体化のように見える。
 唯がその場に膝を着き、悲鳴にも似た表情をして祐介を真っ直ぐに見据える。その体が、微かに震えていた。
 唯は言う。
「……祐介さん……協力は、今日でお終いです」
 自暴自棄に染まった笑顔。
「最後の、お願いです……。セロヴァイト戦、棄権してください……」
 唯の言っている意味が、よくわからなかった。
 何も言葉を返さず、呆然としている祐介に更なる言葉が投げ掛けられる。
「わたしは、祐介さんを殺したくないし、殺されるところも見たくないんです……だから、お願いします、今ここで、棄権してください……。『彼』に見つかる前に、お願いします、祐介さん……っ」
 頭の中で、すべてが繋がった。
 出来上がった答えは、言葉となって自然とあふれ出す。
「……その『彼』っていうのが、唯さんが倒したいセロヴァイヤーで、……その痣を作った、奴なんですか……」
 唯が僅かに肯いた。
 体が沸騰し始め、言い表せない怒りの感情が爆発寸前で止まっている。血が出るのではないかと思うくらいに拳を握り締め、歯が折れるのではないかというくらいに奥歯を食い縛る。繋がったのだ、何もかも。残るは、そいつが『誰』なのか。それだけである。しかしそれでも、やはりある程度わかっていた。祐介に「倒したいセロヴァイヤーがいる」と協力を申し込んだ唯。それは、半分本気であり、半分偽りだったのだろう。だが今はそんなことはどうでもいい。求めるべき答えは、そこじゃない。この手に握られている封筒が教えてくれた。唯が倒したいセロヴァイヤーの持つセロヴァイトとは、幻竜型セロヴァイト・虚。それしか、有り得ない。
 そして、そのセロヴァイヤーの名は、
 唯は、祐介の思っていたことを理解していたのだろう。
「……佐倉、隼人(はやと)……」
 予想は、していた。
「――……わたしの、兄です……」
 していたのだが、その言葉は、頭に重く降り注いだ。指一本、動かすことができなくなった。
 それでもなぜか聴覚は明確に働いていて、どこかで鳴くセミの声をはっきりと伝えていた。
 このセロヴァイト戦が終る頃には、夏も終る。セミの声は、今日が最後なのかもしれない。

     ◎

 甘かった。最悪だった。勝てる訳が無かった。だから、逃げた。逃げて逃げて、それでも追いつかれて、でも殺されるのが恐くてまた逃げて、終わりの来ない史上最悪の鬼ごっこが続いた。しかし体力の限界というのは案外すぐに来てしまって、通り掛った大きな川の橋の下へと逃げ込んだ。鉄筋で出来た橋は上から見ると白で統一されて綺麗だったが、下から見ると所々が錆び付いており、どこかの馬鹿が書いたスプレーの落書きが大きく広がっている汚い場所だった。だが今はそれでも構わなかった。骨組みの間に身を滑らせ、太陽の光も届かない闇の中で体を縮こまらせて震え続けた。息が驚くほど荒く、大量の汗に混じって目から涙が流れている。自らの考えを懸命に思い出し、高宮和樹(たかみやかずき)はどこで何を間違ったのか検証する。自らの過ち。それは、自分がセロヴァイヤーになってしまったということだ。その事実の前には、どんなことでも紙屑同然である。セロヴァイヤーになってから、すべてが変わってしまった。
 最初は好奇心だった。以前からネットで噂になっていたセロヴァイヤーとセロヴァイトの存在。それが現実に存在するかどうかの手掛かりが、向こうからやってきたのだ。一通の封筒とヴァイス。物は試しで飲み込んでみて、一週間が経って、自分は本当のセロヴァイヤーになっていて、セロヴァイトを具現化させることができ、この戦いの中では射撃型セロヴァイト・虚連砲が相棒となった。絶対に誰にも負けない自信があった。どんな奴でも上等である、どこからでも掛かって来い。そんな風に思っていた頃の自分が羨ましいとさえ思える。
 セロヴァイト戦に参加して十八日、今日まで他のセロヴァイヤーには会わなかった。いつの間にか参加者数は四名にまで減っていて、戦いたいと思ってはいたのだが、こうなったら最後の二人になるまで待って、そいつと一騎打ちをしてボコボコにして優勝してやろう、と考えていた。誰にも負ける訳がないという絶対的な自信。地球上で最も強いのは自分であるという確信を呼び起こす最強の化身。それがセロヴァイトである。誰とも戦ったことがなかったが、負ける気がしなかった。だがその考えが、今のこの状況を運んで来ている。甘かった、最悪だった、勝てる訳が無かった。だから橋の下で震えている。
 仕事が休みだったので外を歩いていたら、唐突に頭の中に何かが響いた。それがセロヴァイヤーの反応である、ということはなぜかすぐにわかった。そして出会った敵のセロヴァイヤーは、二十歳前後と思わしき男だった。もしかしたらもう少し上かもしれないが、二十五歳の自分よりは絶対に下である。年下ならなおのこと簡単だ、虚連砲の前にはどんな敵も無意味である、予定とは少し違うが関係ない、まずはこのガキを、殺してやる――。しかし結論は、全くの逆になってしまった。甘い、最悪、勝てない。奴は、否、奴のセロヴァイトは強過ぎる。あんなものがあるなんて、反則だろうが。
 高宮の隠れていた橋の上を、誰かがゆっくりと歩いている。その音が驚くほど響いてきて、高宮は荒い息を必死に押し殺して音だけに意識を集中させる。だが、どうやらその音の主はただ橋を渡っただけだったようだ。
 足音が消え、高宮がゆっくりと息を着いたその刹那、
「見ぃーっけ」
 歪んだ瞳が、すぐ側にあった。
 頭の中が真っ白になった。今までに上げたことこない悲鳴を上げ、体を鉄筋にぶつけながらも死ぬような思いで橋の下から這い出る。暗闇にいたせいで太陽の光に目が射抜かれ、一瞬だけ足が止まった。反射的に振り返ったそこに、奴はいた。どこまで逃げても絶対に追い掛けて来たセロヴァイヤー。もはやここまでだ。もうどこにも逃げ切れない。ならば迎え撃つしか道は無い。殺されたくない。だから、殺すしかないのだ。
 震える息を吐き出しながら、高宮はその真名を呼ぶ。
「虚連砲……っ!」
 空間にある高宮の右手が、虚空から掴み出したもの。それは、一丁の銃だった。ただ、その形は酷く歪なものである。小型の自動小銃のようにも見えるが、何かが違う。一見しただけではトリガー以外にははっきりとした名称がつけられない、異形の拳銃。それが、射撃型セロヴァイト・虚連砲。それが今、高宮の手に握られているセロヴァイトの真名。
 男は、高宮は見つめながら笑う。
「ほう。やっと殺る気になったか。もう鬼ごっこは疲れたトコだし、ちょうどいい。ただし……殺るからには、全力だ。だが喜べ、やっとおれも『使い方』がわかってきたところだ。お前はおれが殺した他の奴とは違い、一瞬で死ねる。無駄な抵抗すると逆に辛くなるぞ。だから、抵抗するなよ」
 男が一歩下がり、つぶやく。
「虚」
 辺りに存在するすべての空間が捻じ曲がり、そこから膨大な量の緑の光の粒子があふれ出す。それは確かな意思を持って動き、高宮の眼前にその姿を具現化させる。虚連砲の大きさなど足元にも及ばない。そもそもそこから感じる力の桁自体がまるで違う。緑の光の粒子が生み出した一つの形。誰でも空想のそれを見たことはあるだろうが、この世の一人として実物は一度も見たことが無い神に近い生き物。それが、緑の光の粒子が弾けて消えたとき、高宮の目の前に完全に具現化されたセロヴァイトである。
 深緑の竜。とてつもなく深い緑色の体の背中から生える巨大な翼、研ぎ澄まされた両手両足の爪、閉じているのにも関わらず突き出た牙、何者でも簡単に射殺してしまう眼光、そして全体から迸る圧倒的な殺気。神という化け物に他ならない、最強のセロヴァイト・幻竜型。しかしセロヴァイトにあるはずの意思が無く、それ以前に幻竜型なのに自我を持たず、ただ主の命令だけを忠実に実行するためだけに造り出された殺戮機械。プログラムで行動するようなものだ。何も考えることなく、純粋に命令通りに動く機械。つまり、感情が無いということ。機械に感情は不要なのである。感情が無ければ余計なことに気を取られずに済む。よって殺戮機械であり、ただ単純に最強なのである。
 男の命令は、ただ一つだけ。
「――噛み殺せ、虚」
 抉じ開けられた口から、爆発的な咆哮が弾け飛ぶ。
 それは高宮の体を一直線に突き抜け、その場に束縛する。抵抗するなと言われて抵抗しない奴などいるはずがない。もちろん自分も抵抗してやろうと思っていた。それどころか、奴を殺してやろうとさえ思っていたのだ。なのに、それができない。体は愚か、眼球さえ動かすことができない。ただ吼えられただけ。たったそれだけのことで動けなくなった。何かの冗談に思える。頭の中が塗り潰されていて、『まさか』と『どうして』という単語以外何も出て来ない。
 一瞬の動きの後、深緑の竜が視界から消えた。気づいたときには二つの眼光は目の前あって、その風圧に圧されて高宮の体が右に倒れ込んだのが悪夢の始まりだった。鈍い音が聞こえて体が左に引っ張られるような感覚。その感覚を感じたまま地面に倒れ込んで転がり、まだ自分が生きているということが信じられないながらも急いで起き上がろう左手を地面に着いて、
 顔面から地面に倒れた。なぜか、左手が地面に着かない。倒れたまま視線を左肩に向けて初めて、左肩から下が無くなっている事実に気づいた。その光景を他人事のように見つめていた高宮の目の前に、高宮の左肩より下にあったはずの腕が転がり落ちる。
 奇妙な光景。左手を動かそうとするが、千切れたそれが動くはずがない。食い千切られた箇所から血が蛇口のように流れ出ている。すぐそこに転がる左手の切れ端には、骨と神経とピンク色の肉が何かの食い物のように広がっている。吐気、などという生易しいものではなかった。悲鳴すら上げられない。脳が、すべての事実を否定する。
 そんな高宮の耳にどこからか響く呑気な声。
「おいおい、言ったじゃんよ、抵抗するなって。けどまあ、どっちかっていうとそっちの方が楽しいんだが、今はそうも言ってられないんだよ。これからこっちも用事があるんでね。だから……次で殺すぞ」
 体が無意識に動く。
 右手に握られた虚連砲の銃口を男に定め、高宮はトリガーを引き絞る。虚連砲の銃口からは、目に見える弾は出て来ない。虚連砲が撃ち出す弾は見えない弾なのだ。そして弾切れは無い。下手な鉄砲数撃ちゃ当たる。そんな安っぽい言葉を実現させることのできるセロヴァイトなのだ。銃口から銃声が連になって響き渡り、マシンガンのように見えない銃弾は男に向けて突っ込んで行く。
 しかし、そんなものが幻竜型セロヴァイトに通用する訳がないのである。上空を旋回していた深緑の竜は突如として真下に眼光を向け、口を抉じ開けると同時に『見えない弾丸』を吐き出す。空間を裂いて突き抜けるそれは、主に命中するはずだった見えない銃弾をすべて圧し潰した。重圧を一箇所に凝縮してぶつけた虚の弾丸。虚連砲の敵う攻撃ではない。高宮と男の間の地面が圧し潰れ、地震にも似た揺れを巻き起こす。その中で、高宮は男の右手が突き上げられるのを見た。それに釣られるようにして、揺れる視界でふっと上を見上げた瞬間には、何もかも貫く牙はそこにあった。
 高宮の首に牙の列が食い込み、一噛みで切断された。口から上を噛み砕き、それでもなお虚は倒れ込んだ体を貪り続ける。
 そんな光景を見ながら、男はつぶやく。
「残り、三人。おれと、唯と、そして源川祐介。……そろそろ頃合だな」
 転がっていた高宮の左腕を踏み潰し、唯の兄である佐倉隼人はただ笑う。
「――始めようぜ虚。最高の狩りの、幕開けだ」
 口から血を垂れ流しながら、深緑の竜が隼人を見つめ、巨大な咆哮を上げる。
 それは、思考や感情を持たないはずの虚が叫ぶ、歓喜の咆哮に聞こえた。
 幻竜型セロヴァイト・虚。それは、かつての幻竜型セロヴァイト・焔、そして界の番人・朧を元にセロヴァイト執行協会本部が造り出した言わば偽物である。
 だが、それで十分である。偽物であっても、正規の方法で虚に勝てるセロヴァイヤーは存在しない。
 最強のセロヴァイト。それが、幻竜型セロヴァイト――。





     「虚」



 セロヴァイト戦、棄権してください。
 その言葉が、何度も何度も、頭の中で反響していた。
 そうすることが、本当は一番なのかもしれない。元々は望んでもいないのに参戦したこの殺し合い。そんな自分が、しかも人を殺さずに生き残ろうという時点ですでに間違いだったのかもしれない。残りの見知らぬセロヴァイヤーに醜く殺されるのだとしたら、ここで潔く棄権した方が身のためかもしれないのだ。本気で優勝者になれるとは最初から思っていない。ただ、拓也に近づきたかった。それだけを思い、ここまで戦い抜いてきたのだ。だけど、それももう潮時かもしれない。もはや、自分がいていい席など、この殺し合いの中では存在しないのだろう。弱者は強者にスペースを譲るべきなのだ。
 しかしそれでも、心の奥底で何かが反発する。ここで負けていいのか。ここで降りて何が残る。そんな柄にも無い意思が沸々と湧き上がるのだ。確かにここで負けては意味がないような気がしないでもない。強くなりたいと思っていたはずだ。だがわかってしまう。自分が強くなれるはずはない、所詮はクラスの人気者にはなれない人間なのである。ここで降りれば、何も残らないが、少なくとも惨めな姿を見せずに済む。泣きながら逃げ出すようなその姿を、見られたくはない。こんな自分にでも、安っぽいプライドくらいはある。それが言うのだ。ここで降りて、今まで通りの生活に戻れ、それが自分だ、と。
 そうするのが、やはり一番良いように思う。唯の言う通り、ここで棄権すれば何もかも終って、今まで通りの平凡な日々を取り戻せるのだ。魅力的な提案だろう。どうせ優勝者になれないのなら、痛い思いをする前に逃げ出す方が利口である。逃げ出してしまえば、格好悪い姿を晒すこともないのだ。平凡で退屈な日常。しかしそれが、本来自分がいるべき居場所。この非日常は、自分の居場所ではない。それは先刻百も承知である。良い格好しようとすれば必ずヘマをする。今までもそうだった。光を浴びる人間を遠くから眺めている、そんな生活。それが合っているはずだ。所詮自分など、そんな人間なのだから。
 棄権する。その言葉が、喉のすぐそこまで忍び寄っている。このままその言葉を吐き捨てることができたのなら、どれだけ楽なのだろう。吐き捨ててやりたいのに、なぜか体の一部分が全力で反対している。わかっている、わかっているのだ。本当は自分が光を浴びたいことを、自分自身が一番よく知っている。遠くから眺めているのではなく、光の中心に自分が立つことを心の奥底では望んでいる。自分のことは、自分が一番よく理解している。そして理解しているからこそ、棄権しようとしているのだ。弱い人間である。弱い上に、度胸も無ければ勇気も無く、得意なことすら何も無い。もしそれがあるとすれば、誰よりも早く逃げ出す術を知っているという情けないことだけである。嫌というほど知っているのだ。自分がどれほどちっぽけな人間かを。
 棄権しよう。普段の自分通り、ここで尻尾を巻いて逃げ出そう。唯と一緒ならばどんな敵でも相手ではないと思っていたが、一緒に行動するのは終った。手を差し伸べた唯自ら、その手を引いたのだ。協力は今日でお終い。ならば一人になった自分に、勝ち目はないのである。雷靭の力を借りれば、戦えはするだろう。しかしそれは、同時に人を殺すということになる。それは駄目だ。人を殺すのならば棄権する。それが、祐介が導き出した答えだった。
 いつの間にか握り締めた拳をゆっくりと開き、小さな息を一つだけ吐き出す。ゆっくりと視線を向けたそこに、服を着直して座り込んでこっちを見つめている唯がいる。その頬に貼られたガーゼのことを思う。今は隠された服の下にある痣のことを思う。唯のために何かをしたいという気持ちは、確かにある。しかしその『何か』がわからないし、それを成し得るだけの力も無い。自分の無力さは昔から知っている。それは仕方が無いことだとも思っている。だけど、やはりそれを呪う。どうして自分には力が無いのか、どうして自分はこれほどまでに無力なのか。どうして、自分は弱いのか。強ければできることが、弱い自分にはできない。それが今は、どうしようもなく悔しい。
 唯のため。ただ一人、手を差し伸べてくれた彼女のために。
 そして何より、好きな女の子に対して、なぜ自分は何もしてやれないのだろう。
 体が震える。頭の中を渦巻く『棄権』の二文字。それを言葉にすれば、すべてが文字通りに終ってしまう。果たして、それでにいいのか。それで自分はこれから普通の日常を過ごして行けるのか。唯の力になってやれることは、本当に何も無いのだろうか。足手纏いは足手纏いなりに、力になりたかった。そう、願い続けてきた。しかしそれは、もうタイムリミットを過ぎてしまったのだ。自分の口から言うべき言葉は、一つしかない。それはわかりきっている、わかりきっているのに、
 それなのに、なぜ、口からはこんな言葉が出るのだろう。
「…………力に、なれることはないんですか…………っ」
 自分の無力さは、嫌というほど思い知っているはずだ。
 なのになぜ、自分はまた過ちを繰り返すのか。
「……これで、終わりたくないんです。おれは唯さんの、力になりたい」
 唯が好きだった。だから、力になりたかった。
 生まれて初めて、誰かのために戦おうと決めた。生まれて初めて、誰かのために戦いたいと思った。
 だから、だからこそ、思う。
 祐介は、唯の両肩を掴んで、その瞳を真っ直ぐに見据えた。
「唯さんを助けたい。言ったじゃないですか、倒したいセロヴァイヤーがいるって。最初は嘘だったかもしれない。けど、あのとき唯さんは泣いた。泣いておれに言った。あの言葉が、嘘だったとはどうしても思えない。おれは弱いです。度胸も勇気も得意なことも無い、どうしようもないくらいに弱い人間です。だけど、力になりたい。こんなおれで力になれるのならなります。唯さんは本当はどう思ってるんですか。余計なお世話ならそれで構いません。そのときは諦めます。でも、もし……もし、助けて欲しいなら、そう言ってください。おれじゃ何もできないかもしれない。それでも、おれにできることは何でもするから……っ! 力に、なるから……っ!」
 言葉は、崩壊したダムの水のようにあふれた。
 生まれて初めて、祐介は異性に対してその言葉を言った。
「唯さんが好きだから……っ! だから、力になりたんです……っ!!」
 そこで水は尽き、言葉は減速して、やがて止まった。
 結局の話、自分が何を言っていたのか半分以上思い出せなかった。無我夢中だった。半ば混乱さえしていたのだろうと思う。ただ、最後に言った言葉だけが驚くほどの高熱を帯びたまま頭の中を巡っている。初めての告白がこんな状況とは思ってもみなかった。しかし後悔はしない。それどころか、これでいいとさえ思える。唯が好きだった。いつからそう思っていたのか、果たしてこれが本当にそんな感情なのかも正直よくわからない。だけど、それでも唯の力になりたいという意思は変わらない。
 無力でも、格好悪くてもいい。惨めな姿を見せてもいい。それでも、唯のためなら何でもできる。
 唯は、随分と長い間、変わらない瞳で祐介を見つめていた。
 そして、ゆっくりと微笑んで、つぶやく。
「……ありがとう、祐介さん……」
「じゃあ、」
「……でも、駄目なんです」
 祐介の目の前で、唯は乾いた笑顔を見せた。
「本当は、祐介さんに助けてもらいたかったです。……最初は、兄さんの命令で祐介さんに近づいた。そうして兄さんが優勝者になれば、わたしに興味も無くなって自由になれるんじゃないかって本気で思ってました。でも、あのとき、初めて祐介さんに会ったときからそんなことはどうでもよくなってました。祐介さんなら、わたしを解放してくれるんじゃないかって、思いました。束縛が、無くなるんじゃないかって、希望を見ていました。けど、やっぱり駄目なんです。祐介さんには、傷ついて欲しくない。ですから、」
「違うっ!」
 そうじゃない、自分のことはどうでもいいのだ。
 問題は、唯にある。
「おれはどうでもいい。唯さんのためなら傷ついてもいい。けど、唯さんには傷ついて欲しくない。我侭なのはわかってる、理不尽なのもわかってる。でも、そう思わないとどうしようもないじゃないですかっ。唯さんの体の傷、あんなもの見せられたらそう思うしかないじゃないですかっ! 好きな人を助けたい、それだけなんですよ! それで自分が傷ついてもいい、だから……、」
 その先の言葉が出て来ない。自分が何を言いたいのかもわからない。
 無意味な苛立ちが体を支配したとき、唯が肩を掴んでいた祐介の手をそっと外す。
「祐介さんは、優し過ぎます。わたしはその優しさが好きでした。でもね、祐介さん……その優しさが、辛くなるときもあるんです」
 唯が表情を失くす。無表情に祐介を見据え、その問いを今一度、唯は言う。
「セロヴァイト戦、棄権してください。お願いします、祐介さん」
 悔しさで無意識に歯を食い縛る。
 なぜ唯は諦めているのか。どうして言ってくれないのか。自分は弱い、それは祐介を知っている者なら誰でも知っていることだ。しかしそれでも、力になりたい。できることがあれば何でもする。だから、少しくらいならいいじゃないか。弱音を吐いてくれても、いいじゃないか。自分じゃ役者不足なのはわかる。けど、だけど、少しくらい、頼ってくれてもいいじゃないか……っ!
 そのことを叫ぼうとしたとき、何もかもが止まった。祐介と唯の体が同時に凍りつき、瞬間に上空を見上げた。
 そこに、『何か』がいた。最初は鳥かと思った。青空の遥か上空に浮かぶその黒い影が、鳥に見えた。しかし『それ』は、近づいて来るに連れ圧倒的な大きさがあることに気づく。鳥であろうはずもない。すでにその影の大きさは鳥如きの大きさなど超越している。車よりも大きいその黒い影が、高速の速さで落ちて来る。いや、こっちに向かって突っ込んで来ている。逃げなければならないはずなのだが、なぜか体は他人事のようにその黒い影を見つめていた。逆光の中にいた黒い影に一瞬だけ緑の何かが見え、祐介の感覚が一線の眼光に貫かれたその刹那、
 頭の中のレーダーが、爆発にも似た反応を弾き飛ばす。その反応は間違いなくセロヴァイヤーであり、黒い影はそのセロヴァイヤーが持つセロヴァイト。そのことを理解した瞬間にはもう何もかも遅く、祐介が自力で逃げ出すのには到底追いつかない所まで『それ』は迫っていた。脳が考えるより早くに体が動き、その場から離脱しようと足を上げ、間に合わないと
 唯に思いっきり突き飛ばされた。唯と揃って地面に倒れ込んだ刹那に、さっきまで祐介たちがいたはずの場所が砲撃でもされたかのように砕け飛ぶ。地震でも起きたのかと本気で思った。頭の隅にまで響き渡る轟音と共に、視界が冗談のように上下に揺れている。その中で、祐介は地面を破壊しながらゆっくりと体勢を整える異物を見た。物ではない。この世の生き物とも思えない。小さな頃から思い浮かべることしかできず、実物を見ることなど到底叶わないはずの一匹の幻想。漫画やアニメの中でしか知らない巨大なその姿が、そこにいる。
 何よりも深い色をした深緑の竜。自然と理解していた。
 これが、幻竜型セロヴァイト・虚。そして、そのセロヴァイヤーは、
「よう、唯。どうやらこっちはまだ終ってないらしいな」
 虚の背中から這い出てくる一人の男。そいつこそが、唯にとってのすべての元凶。
 唯の兄、佐倉隼人。隼人の視線が、祐介に向けられる。そこに浮かべられるのは嫌味な笑み。
「何だ、こんな奴なのか。唯が気をつけた方がいいって言うからどんな奴かと思って楽しみにしてたのに、拍子抜けだ。お前もいい加減になったものだ、唯。けどまあ、怒らないでいてやる。やっぱおれは、弱い奴をゆっくりと追い詰めて殺すのが好きだしな。そいつなら、おれの欲望も満たせるだろう」
 頭の中が、煮え滾っている。その気色の悪い笑みを切り刻んでやりたくなる。
 蒸発しそうな祐介の脳みそに響く、唯の悲鳴にも似た言葉。
「待って兄さんっ!」
 その場が一瞬だけ静寂に包まれる、
「お願いします、待ってください……っ! 祐介さんはもう棄権します、ですからお願いします、祐介さんに攻撃しないでくださいっ。お願いです……っ!」
 意外そうな顔をしていた隼人は、再び笑う。
「可愛い妹にそこまで言われたらしょうがねえ。いいだろう、元はお前が騙したセロヴァイヤーだしな。お前に任せるよ」
 すぐ隣にいた唯が、祐介を振り返る。
 その口から出されるのは、何度も聞いたその一言。
「……棄権、してください……祐介さん……」
 なぜ、唯はそんなことを言うのだろう。
 なぜ棄権しろと言う唯は、泣きそうな顔をしているのだろう。
 誰が棄権などするか、と祐介は思った。
「……嫌だ。おれは、棄権しない」
「どうしてですかっ!?」
 祐介は立ち上がる。
 すぐそこに見える深緑の巨体。それが恐くないと言えばこれ以上の嘘など存在しない。しかし今は、恐怖よりも怒りの方が何倍も何十倍も大きい。こいつがすべての元凶なのだ。唯が苦しむ理由を与え続けているセロヴァイヤーなのだ。こいつだけは、許してはならない。許せるはずもない。こんな化け物のようなセロヴァイトに勝てる訳は無いということは百も承知である。だけど、それでも。このクソセロヴァイヤーに、一生消えない傷の一つでも残してやりたかった。殺したいのではない。その笑みを、切り裂いてやりたいだけだ。唯が背負っているすべてのものを、今度はお前に背負わせてやる。
 それが、この殺し合いを棄権しない理由。この戦いをまだ続けようと思う理由。
 逃げ出すのは、もう沢山だ。
「――雷靭」
 緑の光の粒子があふれ出し、そこから具現化され祐介の右手に握られるは一振りの刀。使わないでおこうと決めたが、そんなものはもはや知ったことではない。奴を切り裂くには、これが必要なのだ。最強の相棒であると同時に最恐の天敵。だが今だけは、捻じ伏せてやる。こいつを、最強の相棒だけに仕立て上げる。
 目の前の敵に、すべてを叩き込んでやる。
「祐介さんっ!!」
 唯の悲鳴と、隼人の笑い声。
「おいおい唯、そいつは戦う気満々だぜ? どうするよ、おれが殺してやろうか? それとも」
 その提案は恐らく、唯が思い浮かべていた最悪の展開だったに違いない。
「お前が、そいつを殺すか?」
 唯の表情が困惑に塗り潰され、それでも隼人は続ける。
「いや、違うな。いいか唯、命令だ。――お前が、そいつを殺せ」
 雷靭を握る手に力が篭る。
 お前はまだ、唯に残酷な重荷を背負わせる気なのか。人任せではなくテメえが来い。こっちが切り裂いてやりたいのは唯ではなくお前だ。逃げるのか。こんな腰抜け相手に、お前は逃げ出すのか。来いよ。殺しに来いよ。どうせお前の勝ちだろう。だけど覚悟しろ。お前のその体に刻んでやる。唯が背負っているものに比べればちっぽけだが、それでもこっちのすべてを賭けた一撃を食らわせてやる。かかって来い。勝負しようじゃねえか、佐倉隼人ッ!!
 雷靭の切っ先を突きつけ、祐介は絶叫する。
「来いっ!! おれとお前で戦えっ!!」
 かっかっか、と隼人は笑う。
「何やる気になってんだよ雑魚が。勘違いすんな。お前の相手はおれじゃねえ。唯だ」
「ふざけんなっ!! いいからおれと戦、」
「祐介さんっ!!」
 唯の声で祐介の体が凍りつく。
 視線を移した先に、無表情の唯を見た。
「これが、最後です。棄権してください」
 どうして唯はまだ、そんなことを言うのか。
「唯さんっ!? どうして、おれが、」
「水靭」と唯がつぶやいた瞬間には、刃の切っ先が祐介に向けられていた。
 息が詰まった。すべてを押し殺し、無表情の唯から紛れもない殺気が放たれている。
「……棄権、しないんですか」
 それでも、言わなければならない。
「絶対にしない。死んでもしない」
「どうしてですか。わたしは助けて欲しくなんかない。だからもういいです」
「よくないっ! 言ったじゃないですか! おれは唯さんを助けたいって。だから、」
 水靭の刃がゆっくりと翻り、「いつか言いましたよね。――そんなことを言ってると、死にますよ、って」とつぶやいた唯の姿を見失った。
 視線を辺りに巡らしたとき、深緑の竜の横で愉快そうに笑う隼人を確かに見た。よくもやってくれたなクソ野郎が。そんなことを思いながら周りに神経を研ぎ澄ます。唯の初撃は真横から繰り出される斬撃だった。驚くほど速いその刃を何とか食い止め、力任せに押し返そうとするがやはり、あのときと変わらず力も速さもすべて唯の方が上だった。祐介の力を押し退け、雷靭が水靭に弾かれる。後ろに飛ばされ、両足を地面に押し付けて体勢を整え、その瞬間に振り抜かれた刃を感じた。
 左に体を崩して地面を転がり、唯の姿を視界に捉える。空を切った刃を刹那の速さで切り替えし、地面を蹴って唯が突っ込んで来る。雷靭と水靭の刃が噛み合うと刃物独特の澄んだ斬撃音が耳の奥にまで響いた。すぐそこに見える唯は、いつかのように完全な無表情だった。その下に隠された本当の感情を、祐介は読めない。唯の無表情に隙など無かった。それが唯の強さだ。感情を捨て鬼になる。それ故に、強い。
 組み合っていたそこに、唯の足が滑り込む。それは祐介の足を確実に払い、腕でその体を下に叩きつける。地面に俯けに倒された祐介は、神経の感覚だけを頼りに右に転がり、唯との距離を取った瞬間に腕で地面を押して立ち上がる。雷靭を構えようとしたときにはすでに、水靭の刃は目前にあった。切っ先の鼻っ面しか見えない高速の突きだった。反射神経で首を傾げ、その切っ先から致命傷を逃れる。刃が祐介の頬を掠めて静止し、遅れて傷口から血が流れ出す。
 煙草一歩分ほどの距離にある唯の瞳が僅かに揺れ、その一瞬を祐介は見逃さない。唯の体を最低限の力で突き飛ばし、後ろに倒れ込むその右手を掴む。それと同時に唯を一気に引き寄せ、下に垂れた水靭を踏み押さえる。刀身の先が地面に突き刺さったとき、二人の動きが完全に停止する。それは、勝負の終わりを意味していた。水靭は地面に突き刺さり使えず、一方の雷靭は唯の喉元に添えてある。祐介の、勝ちだった。唯の無表情に、微かな困惑が入り混じっていることに祐介は気づく。
 祐介に負けるとは、思ってもみなかったのだろう。だがこれが現実だ。唯は確かに強い。が、今の唯は初めて出会ったときほど強くはない。それは祐介が強くなったのか、それとも今の唯が弱いのか。恐らく後者だろう。幾ら感情を押し殺して無表情で勤めようとしても、その奥では絶対に何かの思いが渦巻いていたに違いない。気持ちの持ち方の問題だ。隼人と戦うことだけを見ていた祐介と、祐介と戦うことに抵抗を感じていた唯。勝負はそのときにすでに、決していたのだろう。
 祐介は、唯を見据えながらつぶやく。
「お願いだ唯さん。刀を引いて。もう勝負は着いた」
 しかしそれでも、唯は戦う意思を捨てなかった。
 そこにある唯の表情から困惑の色が消え、瞳に光が灯った瞬間、祐介の頬を流れていた血が蠢き出す。水靭の特性――。そのことに気づいたときにはもう遅い。流れ出ていた血は強度を増し、小さな刃物の形を造り出していて、微動だにしないまま祐介の喉に添えられていた。同じ状況に陥る。雷靭を突きつける祐介と、血で造り出した刃物を突きつける唯。勝敗は、呆気ないくらいに簡単に逆転していた。この勝負の行方は互いに喉を切り裂いての相打ちか、このまま喉を切り裂かれての負けか。その二つしか有り得ない。祐介が勝つことは、決してできなくなった。
 なぜなら、自分では唯を殺せない。例え何があろうとも、それだけはできない。ならばこの勝負は、祐介の負けである。
 それならそれでいいか、と祐介は思った。唯がそう望むのであれば、自分はそれに殉じよう。唯がこれで本当に辛くないのなら、無駄な抵抗はやめて唯に殺されよう。初めて本気で好きになった人の幸せだけを、ただ純粋に祐介は望む。唯の瞳が光を増したとき、祐介は唐突に笑った。死ぬ最後が笑顔なら悪くない、そんな風に思った。
 しかしそれが、唯を止めた。唯の瞳から光が消え、固まっていたはずの血が液体へ戻って地面に滴り落ちる。
 唯は、ゆっくりと泣いていた。
「…………やっぱり、できないです…………わたしに祐介さんは、殺せません…………」
 そして、驚くほど純粋な笑顔を、唯はした。
 涙を流しながら、ゆっくりとその場に膝を着き、肩を震わせながらその一言を言った。
「…………助けてください…………祐介さん…………」

 クズが、という隼人のつぶやきを、祐介は確かに聞いた。

 嵐のような突風が吹き荒れ、目の前にあったはずの唯の体が一気に揺れた。
 その腹部から突き出ている赤い血の混じった白いそれが、何であるのかを、祐介は飲み込めなかった。しかしそれは、ぼんやりとした唯の表情のその後ろに見える深緑の眼光によって一発で理解できた。
 唯の体が、虚の爪に串刺しにされていた。
 けほっ、と唯が咳き込んだとき、その口から大量の血があふれた。目の前が真っ白になった。虚の巨体が揺れ動き、唯の体が玩具のように投げ飛ばされたことに反応できたのは意識してではなく、完全に無意識だった。血を撒き散らしながら宙を舞う唯の体に追いつき、必死に抱き締めて地面に激突する衝撃を我が身に受ける。地面の上を何度も転がり、その度に飛び散る唯の血の温かさがはっきりと祐介に伝わる。
 回転が止まった瞬間に起き上がり、唯の体を抱き締めながら無我夢中に叫んだ。
「唯さん!!」
 唯の閉じられた瞼が微かに開き、何かを言おうと口を動かす。しかしそれは言葉にならず、結局は何を言いたいのかわからない。
 温かい体の腹部から冗談のように流れ出ている赤い血。唯の腹部を貫いているその傷は、どんな名医でも塞ぐことは不可能なのだと医療の知識がまるで無い祐介にも容易にわからせるほど、壮絶なものだった。致命傷に他ならない。即死していないだけでも不思議なくらいだった。しかし即死にならなかったとは言え、時間の問題なのに変わりは無い。例えこの流れ出ている血を止めたところで、唯は助からないだろう。唯は、血を流し過ぎている。
 震える唯の手がゆっくりと上げられ、それを精一杯に握り締めながら、祐介は唯の名を叫び続けた。
 その瞬間、唯が笑ったような気がした。そして、口が僅かに動き、その言葉を紡ぐ。
 ――ごめんなさい。
 それが、最後だった。唯の手から力が抜け、瞼が閉じられ、唯はそれっきり、動かなかった。
 その心臓はすでに、機能を停止させている。やがて水靭は緑の光の粒子となり、祐介の体に蓄積された。
 呆然とする祐介の耳に届く、その声。
「出来損ないは所詮出来損ない。下らない奴だ。そんな奴が妹って時点で虫唾が走る」
 頭の中で、何かが、確かに、……切れた。
 唯の体をゆっくりと地面に横たえ、祐介は心の中で問う。
(聞こえるか、雷靭)
 返答はすぐに返ってきた。それは何もかも見透かしたような、実に楽しそうな声だった。
 ――何だ?
(力、おれに貸せ)
 ――ほう。構わんが、そうなると、貴様は奴を殺すことになるぞ?
(ああ)
 ――人は、殺さないのではなかったのか?
(……撤回だ。おれは、あいつを、――必ず、殺す)
 ――ッハァ! そういうことなら喜んで力を貸してやろう。受け取れ、我が主。
 刹那に、右手から灼熱が伝わり体を支配する。
 今なら拓也の言っていたことの本当の意味がわかる。人は殺さないと誓ったが、もはや関係ない。
 自分は、守るために人を殺す。唯を守るため。ただそれだけのために、祐介はすべてを捨てた。
「……取り消せ、佐倉隼人」
「あん? 何を取り消せって?」
 ゆっくりと立ち上がる、
「さっき言ったことを、取り消せ」
 馬鹿にしたような笑い声が盛大に響いた。
「何を取り消すっつーんだよ。事実を言ったまでだ。そいつは出来損ないだ、紛れもないな。お前のような雑魚一匹殺せないなら用はないんだよ。まったく、使えない奴っていうのはどうしてこうもムカつくんだろうな。いつも殴ってばっかりだったが、たまにはこうして本気で殺してみるのも悪くは」
「取り消せ佐倉隼人ッ!!!!」
 握る雷靭から圧倒的な力の鼓動が迸る。
 その刃からは一瞬にして雷が発生し、意志を持ってゆっくりと纏わりついて蠢き始める。それは刃を通して祐介の体の隅々まで侵食するかのように活動し、それに即発されたセロヴァイヤーにある身体能力向上が通常の効力を遥か彼方で上回る勢いを見せる。体が、冗談のように軽い。どこか見知らぬ奥底から、灼熱の力の波動が湧き起こっていることに気づく。灼熱の波動は祐介の感情と完全に同調し、その桁を一気に膨れ上がらせる。
 雷靭に身体を支配されるのではなく、雷靭を支配した上で祐介の身体がある。
 刃を渦巻く雷は、生き物のように目の前の獲物を狙い続けていた。
「……どうやら、唯が言っていたことは本当だったらしい」
 表情を消した隼人はつぶやき、ゆっくりと後ろに下がる。
「上等だ。雑魚ばっかで優勝してもつまらねえ。唯以外で強いセロヴァイヤーなんていねえと思ってたおれにはちょうどいい標的だ。喜べ虚。お前が本気を出して殺せる相手がそこにいる。存分に暴れろ。そして、徹底的に、――喰らい尽くせ」
 それまで静止していたはずの深緑の竜が、突如として口を開け放って咆哮を弾き出す。
 それは直立不動の祐介の体を突き抜け、地面を舐めながら空間に霧散し、やがて消える。祐介の視界の中にいたはずの虚が僅かに動いたと思ったときにはすでに、その巨体は一瞬にして見上げるほどの高さにまで飛翔し、空を我が物顔で旋回していた。やがてその眼光が遥か上空から真っ直ぐに祐介を捕らえる。空から再び咆哮が弾け、反動で漂っていた雲が形を崩す。その叫びが祐介に届いたときには、虚は翼を折り畳んで急降下を開始していた。
 一振りの刀を握り締め、突っ込んで来る虚を見据え、祐介は雷靭と共に、笑う。
 刹那に、祐介の足が地面を破壊した。

 第十三期セロヴァイヤー優勝者決定戦――開始。

     ◎

 地面を破壊した反動で祐介は跳び上がり、神速の速さで降下して来ていた虚に真っ向から打って出る。
 突き出された牙を雷靭の刃に激突させ、一瞬の停滞の後に爆発的な力で弾き返される。普通のセロヴァイトなら、それこそ今の状態ではない雷靭ならその一撃で砕けるであろう出鱈目な威力の突進だった。突っ込んで来るだけ、たったそれだけが一撃必殺に他ならない。幻竜型とはつまり、そういうセロヴァイトなのだ。そんな反則に値する力に弾き飛ばされ、しかし祐介は空中で体勢を整えながら着地し、その勢いを逆に利用する。刃を地面に突き刺しながら円を描いて回転し、火花が飛び散るその切っ先を斜め下から振り上げた。それは追撃を仕掛けていた虚の爪を食い止め、今度は祐介が押し返す番だった。
 全力を込めて刃を押し返し、虚の体が空中に後退するその隙を見逃さない。再び地面を破壊して跳び上がり、深緑の巨体に刀を突き立てる。が、それは鋼の鱗のような強度を持つ体に弾かれ突き刺さりはしなかった。そして標的がズレたその一瞬が命取りとなる。気づいたときには祐介の体の何倍もある尻尾が真上から振り下ろされていた。避ける暇は当たり前のようになく、雷靭で防御するのが精一杯だった。
 雷靭の上から重力を凌ぐ威力で地面に叩きつけられ、全身から苦痛の悲鳴が上がる。それでも倒れたままでいられない。苦痛を押し殺して転がり、その場を離脱したときには虚はそこにいて、祐介がいたはずの場所を木っ端微塵に砕き散る。その光景は高速のはずなのに、虚の眼光が祐介を捕らえる瞬間が驚くほどゆっくりと見えた。深緑に囲まれた眼光から殺気が迸り、虚は再び追撃を開始する。翼を広げて無駄な動き一切無く、神速の速さで祐介の体を追う。
 それを視界に収めたまま、祐介は雷靭を掲げた。その刃に蠢くは幾線もの雷。祐介の意志の下に雷は刃からあふれ出して深緑の竜を覆い尽くし、眩いばかりの閃光と鼓膜を容易に破るような轟音が辺りを塗り潰す。
 落雷が、虚を直撃していた。
 ――上出来だ。だが、まだ終らぬぞ。
 雷靭の声が頭の中に響くが、これで終わりになるとは祐介も思っていない。
 それ以前に先の雷は威力を抑えたのだ。どれだけ意のままに雷を操れるのか、それを試したかった。しかしそれはもう終わりだ。セロヴァイトと完全に同調するということはつまり、それは体の一部になるということ。実に簡単なことだ。指を動かすのと何も変わらない。祐介の意志通りに、雷は動いてくれる。雷靭はすでに体の一部になっている。脳が反応すればすぐに反応してくれるのだ。いや、脳が反応するより速くに、雷靭がそれを実行してくれる。紛れもない最強の相棒。雷雲を丸ごと飲み込んだ斬撃型セロヴァイト・雷靭との同調。それを可能にすれば、負ける気など微塵もしない。
 雷が落ちた箇所から濛々と舞い上がっていた煙の中から、深緑の竜がその姿を現す。その体には、傷一つ残っていない。が、雷靭の刃をも簡単に弾き返したその鋼の鱗に小さな雷一つでダメージを与えられるとは最初から思っていないのだ。勝負はここからが本番である。互いを受け入れたセロヴァイヤーとセロヴァイトの本当の力をその身に焼き付けろ。セロヴァイトが単体で戦っている限り、絶対に勝てる訳がない。まずは、虚の爪をもらう。唯に危害を加えたそれを、二度と使えなくしてやる。唯に血を流させた罪は、クソセロヴァイヤーとクソセロヴァイトの命では到底償えないほど大きいことを、思い知らせやる。
 祐介は飛翔しようと翼を広げた虚へ突進する。それに気づいた虚が飛翔を止め、反撃に徹しようと牙を剥き出し、――遅い。握り締める雷靭と、今できる限りの同調を開始した。刹那に刃を纏っていた雷は威力を増大し、一直線に研ぎ澄ます雷の剣を造り出す。一箇所に凝縮したその力は、一線の雷などでは話にならない威力を秘めている。ただ切るのではない。圧倒的な威力と共に、高速の斬撃で完全に切断するのだ。
 雷を研ぎ澄ます雷靭の刃が、牙を剥き出す虚を通り抜け、その右爪を本体から分離させた。そこから赤ではなく、緑の血が噴き出す。切断された三本の爪が地面を転がり、刃から逃れたもう一本の爪を残しながら虚は絶叫する。空間が揺れるようなその叫びの中で、祐介は隼人へと僅かに視線を送る。次はお前の番だ、覚悟しておけ――、そう意志を飛ばす先で、しかし隼人は笑った。
 その笑みの正体に気づいたときには、虚の口からは絶叫が止まっていて、喉の奥底に何かが収縮していた。
 逃げろ、と体に呼び掛けるより早く、雷靭がそれを実行する。地面を蹴って右に離脱したその刹那、虚の口から空気の塊のような物が吐き出された。それは一瞬で祐介の横を通り過ぎ、背後に広がる木々に激突し、すべてを圧し潰した。木々が根元から潰され地面にめり込んでいく。千夏が持っていた戯丸砲の破壊とはまた違う。虚の口から吐き出されたそれは、破壊するのではなく文字通り圧し潰したのだ。
 目に見えない、空気が収縮されたような弾丸。それこそが、虚の特性だった。重力を体内に集め、一箇所に圧縮して撃ち出す。はっきりとした形は存在しないが、それでも受ければ重力の塊に押し潰されることになる。物質では無いが、物質以上の圧力を持っている弾丸。標的がそれを一発食らえば、先の木々のように圧し潰されて死に絶えるだろう。上手く避けたとしても、どこか掠ればそこが潰される。反則のようなセロヴァイトにはやはり、反則のような特性が伴うのだ。
 虚が飛翔する。上空に飛び上がった深緑の竜を視線で追い、雷靭を握り締める祐介に向かって、再び重力の弾丸は撃ち出される。その弾丸の箇所だけ、ぼんやりと空間が歪んでいるような気がする。それにさえ気をつければ、避けられる。但し紙一重で避けてはならない。下手をすればそこでぺしゃんこだ。だいじょうぶ、雷靭を信じろ。今の雷靭なら、虚にだって引けは取らないはずだ。意識をその弾丸に集中させ、一直線に伸びる軌道を完全に見極める。
 その場から飛び退いて回避した瞬間、地面が圧し潰される。その威力に僅かに驚きを感じたのが間違いだった。そのせいで、真横から振り回されていた尻尾に気づくのが遅れた。反応できないまま、圧倒的な力で弾き飛ばされる。体が宙を舞ったのはほんの一瞬のことでしかなく、視界はすぐに漆黒に飲まれて木々に激突する。真上から倒れ込んで来る木々を雷で焼き払って直撃を逃れ、起き上がったときには深緑の竜はそこいた。
 雷靭の刃と虚の牙が交錯する。互いに一歩も譲らずに束の間の膠着状態に陥った。目の前にある巨大な眼光が何よりも恐ろしい。一瞬でも気を抜けば最後、そこで死ぬのだと本気で思う。汗か血かわからない液体が頬をゆっくりと伝い、雷靭の握り締める手から少量の血が滲み出す。力が鈍ってきている。このままでは弾き返されるどころか、下手をすればもう戦えなくなるかもしれない。それだけは何としてでも避けなければならない。こいつを倒して、佐倉隼人を殺す。それだけを考える。このセロヴァイト戦が始まって初めて、心から負けてたまるか、と思った。
 祐介が雷を解き放つのと、虚が重力の弾丸を撃ち出すのはほぼ同時だった。爆発にも似た衝撃が広がった刹那に、左手の小指が有り得ない方向に捻じ曲がる音を確かに聞いた。衝撃に圧されて互いに吹き飛び、祐介が木に激突して停止すると、虚は上空に飛翔して旋回を開始した。大空を飛び回る深緑の竜の口からは、大量の緑の血が流れ出ている。雷靭から弾き出された全力の雷は、虚の鋼の鱗を貫いていた。が、それが致命傷になるかといえばそれはまた別問題だった。虚を倒したいのなら、更なる威力の攻撃が必要になる。
 雷靭を突き立てて杖の代わりにして立ち上がり、祐介は上空を見上げた。左手の小指の感覚がまるで無い。見なくてもわかる。先の虚の弾丸の破片を受けて、圧し潰されてしまったのだろう。変な方向に曲がっているに違いない。そして祐介はそれを、敢えて確認しない。もしここでそれを見てしまったら、恐らく戦う意思そのものが萎えてしまう。どれだけ傷ついても、傷口さえ見なければ痛みは何とか我慢できる。
 それにこんな痛みなど、唯が背負っていた痛みに比べれば何でもない。唯はもっと辛かったはずだ。だから、こんな程度で終ってたまるか。
 心の中で叫ぶ。もっと力を貸せ。お前のすべてを解き放て。目の前の敵を、遠慮無く叩け。
 それが、お前の望んでいたことだろうが。
 雷靭の声が聞こえるより早く、上空で弾けた咆哮が祐介の五感を根こそぎ塗り潰した。
 空気が揺れるその中で、旋回していた虚が口を抉じ開ける。遥か上空にいるのにも関わらず、重力を圧縮する音が嫌になるくらい正確に響き渡っている。虚の口の奥底に真っ白な光が充満し、空間を飲み込みながらその威力を爆発的に高めていく。それがやがて、見えないはずの弾丸を『見える弾丸』へと造り替えた。虚の口に集うは空白の弾丸。重力を極限にまで圧縮した賜物。有り得ない力の波動が、平行に空へと広がっていく。
 元々プログラムでしか動かなかったはずの虚が、暴走を開始していた。もはや隼人の意志で動いているのではない。証拠に、隼人はもう祐介の視界に見える範囲にはどこにもいなかった。虚がしようとしていることを、セロヴァイヤーである隼人は誰よりも早く理解できたのだろう。もちろん、祐介にもわかる。だが動けない。いや、もし動けたとしてもここを逃げ出す気にはなれない。これが最後なのだ。こいつさえ倒せば、何もかも終る。だから、逃げるのは、もう沢山だ。
 虚の口から、空白の弾丸が撃ち出される。空間を捻じ伏せ、祐介を中心に上空から降り注ぐ。
 先ほどの弾丸とは、何もかもが違った。大きさ、速さ、範囲、威力。どれを取っても比べ物にならない。冗談のような大きさを保ち、冗談のような速さで、弾丸は真っ直ぐに祐介に突っ込んで来る。雷靭を今まで以上に強く握り締め、自分でもよくわからない言葉を吐き出しながら全身全霊の力を刃へと送り込む。雷が蠢き出し、祐介を守る楯となるように弾丸の軌道に広がる。
 空白の弾丸と、雷の楯がぶつかり合う。
 視界が白黒に染まった。気づいたときには雷は消え去っていて、弾丸は祐介に到達していた。
 音は聞こえず、ただ視界の中で何もかもが圧し潰された。骨の折れることが、音ではなく感覚として伝わってくる。
 電源を切るかのように、唐突に視界が閉ざされた。真っ暗な世界で、自分がどうなっているのかがまったくわからない。倒れているのか立っているのか、目を開いているのかいないのか。それすらわからないのに、なぜか右手に握った雷靭の感触だけはいつものようにそこにある。雷靭は燃え盛るような灼熱を宿しているのだが、それに祐介の体は反応しない。完全に砕かれてしまったのか。いや、もしかしたらもう死んでいるのかもしれなかった。もし本当にそうなのだとしたら、まだ意識があるのが不思議だが、いつ切れるからわからないなら今の内に言っておきたいことあがる。
 たった一つだけ。――ごめん、唯さん。
 唯と過ごした光景が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、しかし突然にそれは現れた。
 雷の化け物を見たかと思った。覚醒するかのように意識が引っ張り上げられ、その声を聞く。
 ――死ぬのはまだ早い。これで最後だ。決めろ、我が主。
 目を開ける。歪んだ視界の遥か彼方に、虚を見た。
 上手く立ち上がれない。そもそも足が動かない。体はすでに、虚の攻撃によって感覚すらないほど完全に圧し潰されていた。しかしそれでも右腕だけがまだまともに動かせることに気づいた。恐らく雷靭の御かげなのだろう。ゆっくりと視線を動かしたそこに、雷を纏っている自分の右腕がある。これが、守ってくれたのだ。最後の一撃のために、これだけを守ってくれた。雷靭と出会って十八日。初めて、その言葉を言った。
 ありがとう。
 横たわる祐介に向かって、上空から深緑の竜が突っ込んで来る。祐介は避けることもせず、防ぐこともせず、ただそれをじっと見つめていた。空を切り裂き落下する途中、虚が牙を剥き出しにする。抉じ開けられた口に連になって並ぶ牙の群れ。それの狙いは、祐介に他ならない。息の根を止めるために、虚は最後の攻撃を繰り出す。
 それを見据えながら、祐介はゆっくりと雷靭を逆手に握り返した。
 神速の速さで落下した虚の牙が、祐介の腹部を噛み砕く。嫌な音が響いたが、それでも潰された体からは痛みがしなかったのが唯一の救いだろうか。虚が首を上げると祐介の体も持ち上げられ、手を伸ばせば簡単に届くところに虚の眼光がある。そこに垂れる赤い血は、間違いなく祐介のものだった。たぶん、これで自分は死ぬのだろう。だけど最初からそうなることはわかっていた。ただ、簡単には死なない。道連れだ。体くらい幾らでもくれてやる。その代わり、お前の命を貰っていく。覚悟しろ。
 これで、終わりだクソセロヴァイト。
 逆手に握り締めた雷靭の刃を、その眼光に突き立てた。
 緑の血が噴出したのを切っ掛けに、雷が一斉に活動を開始する。外部からでは大したダメージは与えられないだろう。だがしかし、内側ならどうだ。幾ら幻竜型セロヴァイトとは言え、体内まで鋼の鱗を持っている訳ではあるまい。傷を負えば血を流すことが何よりの証拠だ。外部からの攻撃が通用しないなら、こうするしかもう道は残っていない。内部に攻撃を到達させるのが祐介の役目、だったら、ここから先は雷靭の役目だ。吸収されていた雷は、一つの意志に統括され刃から虚の内部へと侵食する。それは一瞬にして巨体の隅々にまで到達し、一瞬の静寂の後、絶大な咆哮と共に内部から一挙に弾け飛ぶ。
 緑の血を盛大に噴射しながら、かつて虚であったものが消滅していく。それはゆっくりと輝き出し、やがてヴァイスとなり、祐介の体内に蓄積された。
「…………嘘だろ…………」
 そんなつぶやきを、静寂の中で聞いた。視線を移したそこに、後じさりながら首を振る隼人を見た。
 踵を返して逃げ出そうとするその背中を、祐介は逃さない。動かないはずの体を無理矢理動かすと、骨が砕ける音が驚くほど大きく響いた。腱や筋が切れる感覚までもがはっきりと伝わるが、祐介の体が動かなくなることはついになかった。背中を見せながら逃亡するこいつが、すべての元凶なのだ。お前だけは絶対に許さない。この体がぶち壊れようがどうなろうが、お前だけは必ず殺す。唯の辛さを思い知りながら、死んで逝け。
 一回目の破壊で隼人に追いつき、二回目の跳躍で回り込み、雷靭の刃を血塗れの姿で突きつける。雷靭に後どれだけ雷雲が詰まっているのかはわからないが、刃にはまだ雷が蠢いている。しかしそれだけで十分過ぎる。人間の一人や二人を殺すくらいは容易にできるはずだ。これで本当の幕引きである。唯に手を上げたその時点で、お前の最後は決まっていたのだ。祐介の喉の奥底から、獣のような息が吐き出されいた。
 引き攣った顔をする隼人にたった一言、――死ね、とだけゆっくり言い放つ。
 その刃が隼人の喉を切り裂くか否かの瞬間、なぜか唯の泣きそうな顔が脳裏に浮かんだ。
 一発で目が覚めた。
 刃は停止し、歯を食い縛りながら祐介はつぶやく。
「……誓え、佐倉隼人」
 唯にこれ以上辛いものを背負わせないために。
 唯を泣かせないために、これだけは言っておく。
「もう二度と、唯を悲しませるな。それを破ったら、そのときはどんな手を使っても必ず、」
 刃から雷が迸り、祐介は言う。
「――お前を、殺す」

 心の中で謝る。
(悪い、やっぱり人は殺せなかった)
 返答はすぐに返って来た。
 ――気にするな。最初から期待などしていない。
(……ごめん。それと、ありがとう)
 ――くっくっく。礼など必要無い。それよりまた殺したくなったらいつでも言え。喜んで力を貸すぞ、我が主よ。
(お断りだ、バカ)
 互いに何が可笑しいのか、盛大に笑った。
 間違い無く、雷靭は祐介の、最強の相棒だった。

     *

 第十三期セロヴァイヤー観測局からセロヴァイト執行協会本部へ。
 第十三期セロヴァイヤー戦優勝者・源川祐介。
 虚は雷靭に敗北。繰り返します、虚は雷靭に敗北。
 しかし規約により、これより源川祐介を【界の狭間】へ転移します――。

     *

 源川祐介の体内にヴァイスが八個蓄積された。
 雷靭、水靭、羅刹、孤徹、戯丸砲、そして虚、氣烈、虚連砲。第十三期セロヴァイヤーが具現化させたセロヴァイトがヴァイスとなり、一人のセロヴァイヤーの体内に蓄積されたとき、一つの集合体となったヴァイスはその情報を引き出す。情報、というのは少しだけ間違いかもしれない。正確には座標である。その座標は即座に軸を越えて第十三期セロヴァイヤー観測局に送信され、それを受信した観測局は優勝者の身柄を軸の中心部【界の狭間】へと転移する。人間が軸を越えて別の世界に出ようとする場合、そこで一度停止させなければ狭間の網に引っ掛かってどこに転移されるかわからなくなってしまう。しかし【界の狭間】で停止するのは、自殺行為に他ならない。なぜなら、今まで一人しか【界の狭間】を抜けられた人間がいないからだ。
 セロヴァイト執行協会本部から送られてきた手紙に、『ヴァイスが八個体内に蓄積されますと、無条件でこちらに赴いて頂くことになっております』ということが書かれていた。しかし【界の狭間】の存在を知っている人間から言わせれば、それはそいつに死にに行けと言っているのと同じことだった。簡単に言い換えれば、『ヴァイスが八個体内に蓄積されると、無条件で一度【界の狭間】に転移するが、そこで生きるか死ぬかまでは責任を持てない』ということになる。生きて出て来られたら望みを叶えてやろう、だが死んだらそれまでだから頑張れ。そう、言っているのだ。
 一つの軸に対極になるように存在する二つの世界を結ぶ【界の狭間】の領域。そこに足を踏み入れて生きていた者は、例外を除いては一人もいない。そこの裏には、すべての世界に共通する暗黙の【掟】があるのだ。
 ――界を越えて対立を乱すな。乱す者は異端者として排除する――
 いつからそんな【掟】があるのかは誰も知らないし、誰が作ったのかもわからない。ただ、世界が成立したときには存在していたに違いないその【掟】。そしてその【掟】を貫き通す存在。その存在こそが、今まで一人しか【界の狭間】を抜けらなかったことに繋がる。
 対極に存在していた二つの狭間の番人。しかしその片方は消滅し、今は一つしか存在していない。
 それが、かつて幻竜型セロヴァイトとしてセロヴァイト戦に参加していた真紅の竜。
 そのことを、祐介は当たり前のように知らない。

 地面に倒れ込み、動かなくなった体をぼんやりと感じながら、祐介は青空を見上げていた。
 唯の所まで行きたかったのだが、もはやそんな力などどこにも残っていなかった。このまま目を閉じれば、本当に死んでしまいそうな気がする。血を流し過ぎた。今がどうなっているかは知らないが、虚に噛み砕かれた腹部が元通りになっている訳もあるまい。そこには巨大な風穴が開いているのだろう。まだ意識を保っているだけマシな方だと思う。そもそも雷靭を具現化させいなかったらとっくの昔に死んでいるはずだ。セロヴァイトを消したときが、祐介が死ぬときなのだろう。
 そんなことを考えていた祐介の視界の中で、突如として辺りの光景がぐにゃりと歪み、そこから膨大な量の緑の光の粒子があふれ出してきた。それはセロヴァイトが具現化されるときにあふれる光のように思えたが、普通のセロヴァイトが具現化される規模ではない。あふれ出た緑の光の粒子は祐介の体を完全に包み込み、温かいぬくもりを与えてくれた。はっきりと感じた。それは虚の攻撃により負った傷をみるみる内に治癒させ、ついさっきまで動けなかったはずのその体を完全に元通りにしてみせた。拳を握ってみるが痛みは何も感じない。
 傷を完全に治癒し終えた緑の光の粒子はゆっくりと祐介から離れていく。しかし辺りの粒子はまだそこに存在し、それどころかさらに数を増やしているような気さえする。祐介は今、緑の光の中に横たわっている。視線を彷徨わせるが見える光景は三百六十度どこも同じで、上も下も光に侵食されていた。その実に奇妙な感覚に耐え切れなくなり、祐介は立ち上がる。そして立ち上がった刹那、一瞬の浮遊感を味わった。
 バランスを崩した瞬間にいきなりどこかに放り出され、緑の光の粒子がパァアっと弾けて消え失せた。緑の光から放り出されたそこは、漆黒の世界だった。何か言いようない不安に駆られ、慌てて目を凝らすと、闇の中に小さな光の粒のようなものが見えることに気づく。辺りを見まわして初めて、それが祐介から見える視界のどこにでもあることがわかった。すぐそこにあるようなのだが手を伸ばしても空を掴むだけで触れることではない。
 不思議な場所だった。まるで宇宙のど真ん中にいるような、そんな感じがする。歩いても走っても見える光景は何一つ変わらず、それどころかこの空間はどこまでも続いていた。少なくともちょっとやそっとじゃ終らないはずだ。加えて祐介の足は確かに地面と思わしき場所に着いてはいるものの、手を伸ばしてもそこに触れることはできないし、下手をすれば転地が逆になる。だが、逆になったらなったで今度はその逆が正しい方向へと変わる。そんな有り得ない現象が起こる度、ここがどこなのかを祐介に強く求める。
 それは、この空間に投げ出されてどれくらい経った頃だったのだろう。一分かもしれないし五分かもしれないし、下手をすれば三十分以上経っていた可能性もある。時間の感覚が失われていた。何分経ったかわからないその時空の中で、変化が訪れ始めていた。祐介の視界にあったはずの星がゆっくりと動き出している。最初は目を凝らさなければわからない変化だったが、数秒事に速く多くなっていく。やがてそれは祐介の目前に収縮し、無数の星が重なり合うように何かの形を造り出すために活動を開始する。
 セロヴァイトの具現化に似ていた。それも、幻竜型セロヴァイトの具現化に近い。集まった星は形を成し、見上げるような巨大な竜を造り出していた。大きな翼が左右に開かれ、長い尻尾が波打ち、口から覗く牙までもはっきりと浮かび上がる。その姿を見たとき、全身から血の気が引いた。まだ握り締めていた雷靭と無意識の内に同調し、刃を構える。
 しかし、唐突に気づいた。――これは、虚じゃない。
 祐介の目の前に造り出されたそれは、虚によく似た、幻竜型セロヴァイトのような真紅の竜だった。
 そこで更に、祐介は絶望的な事実を目の当たりにする。その竜は荒れ狂う劫火を身に纏い、眼光には灼熱を宿していた。そこから弾き出される殺気と圧迫感は、虚の比ではない。比べるまでもなく、虚など完全に凌駕している、紛れもない化け物の鼓動だった。虚を前にしてもまだ動けた。反撃もできたし、もしかしたらまだ勝てるかもしれない、という希望さえもあった。しかし、この真紅の竜は全くの別物だった。さっきまで死闘を繰り広げていはずの虚が子供に思える。体が一切動かない。勝てる訳が無い。そんな思考が体を支配している。いや、勝ち負けの問題じゃない。この竜とは、戦いすらしてはいけない。
 真紅の竜の口がゆっくりと開き、言葉を紡いだ。
「――名は狭間の番人・焔。異端者を、排除する者だ」
 それを理解したときには何もかも遅く、真紅の竜は口を抉じ開け咆哮を弾かせていた。
 突風のような波動が祐介を突き抜け、頭の中を真っ白にさせる。逃げなければならないのに、体は動いてはくれない。雷靭も何もしてくれない。どうすることもできなかった。圧倒的な殺気が迸るそこから、焔の喉にオレンジ色の光が収縮されるのをまるで他人事のように見つめていた。焔にしてみたら当たり前の一撃なのだが、祐介にしてみればそれは、虚の最大級の攻撃に匹敵するとさえ思った。冗談ではなかった。雷靭を構え、意志を送り込んで雷を打ち出そうと、
 破滅の威力を持つ炎の弾丸が、真紅の竜の口から撃ち出さ

「――焔っ!!」

 その声が、焔の攻撃を一瞬にして停止させた。
 振り返ったそこに、祐介は七海紀紗を見た。状況が理解できず、呆然とする祐介の横を通り抜け、紀紗は真紅の竜へと向かう。その行動に気づき、静止しようとしたときにはすでに遅かった。死ぬ気か、と本気で思った。どうしてここに紀紗がいるのかは考えてもわからないだろうからどうでもよかったが、なぜあんな化け物に自ら走り寄っていくのかがわからない。幾らなんでも馬鹿げている。真紅の竜のすぐ側まで駆け寄った紀紗を止めようとして、しかし祐介は動けなかった。それは、紀紗の笑顔と、真紅の竜の驚いた表情を見たからだ。
 紀紗が巨大な焔の体に抱き付くと、長い髪がゆっくりと舞った。
「…………紀紗、なぜお前がここに…………」
 その驚愕にも似た焔のその問いに答えたのは、紀紗ではなかった。
「――……言ったじゃねえか、焔。紀紗はここに絶対に辿り着くってよ」
 祐介の隣にあった漆黒の空間が突然にぐにゃりと歪み、そこから『何か』が這い出てくる。緑の光の粒子に包まれながら首を振るその『何か』は、祐介の知る人物だった。このセロヴァイト戦を戦う上で憧れだった存在。こうと決めたら一直線、行動あるのみという言葉を教えてくれた偉大な人。三年前に行われた第十二期セロヴァイヤー戦優勝者。
 それが、渡瀬拓也。
「…………小僧、貴様」
 真紅の竜を見据えながら拓也は笑う。
「あのとき、啓吾を無理矢理この【界の狭間】に引っ張り込んだのが間違いだったな。セロヴァイヤーじゃなくなった啓吾をどうやってここに連れ込んだのか疑問だったが、あんな穴場があるとは知らなかったぜ。そこで待ってりゃいつかここに来れるっていうのは、啓吾の考えだ。それに祐介たちと出会えたからそれが確実になったしな。約束しただろう、焔。紀紗がここに来るときは、おれも来るってよ」
 焔に浮かぶは、昔を懐かしむような不適な笑みだった。
 その体に抱き付いた紀紗をゆっくりと見つめ、さっきまでの殺気や圧迫感が嘘のように、真紅の竜は優しく笑う。
「……そうか。礼を言った方がいいか、小僧」
「いらねえよ」とぶっきら棒につぶやく拓也の視線を先で、紀紗は本当に嬉しそうな笑顔を見せていた。何度も何度も「焔」とその名を呼びながら、小さな体で精一杯に大きな体を抱き締める。それは、状況がよく理解できていなかった祐介から見ても、とても微笑ましい光景に思えた。いつか拓也に聞いた話が頭に蘇る。紀紗と一緒に絶対に会いに行かなくちゃならない奴がいる、と拓也は言った。それがつまり、目の前で笑っているこの真紅の竜なのだろう。
 まるで親子のように何かを話す紀紗と焔から視線を外し、拓也は祐介を見る。
「久しぶりだな、祐介。どうやらお前が優勝者になったらしいな」
 その意味を、一瞬だけ飲み込めなかった。
「……おれが、優勝者……?」
「あん? 何だよお前、気づいてなかったのか?」
 拓也に呆れたような表情でそう言われ、祐介はぼんやりと思考を巡らす。
 第十三期セロヴァイヤー参加者数が残りの四人になったことは知っていた。その四人というのが、祐介と唯と、隼人と見知らぬ誰かのはずだった。唯と隼人が脱落したのはこの目で見たのだが、ならば後一人残っているのではないか。それなのに祐介が優勝者になったということはつまり、もしかしたらそのセロヴァイヤーはすでに誰かが倒していたのか。祐介ではないし、唯でもないはずだ。だったら、佐倉隼人しか有り得ない。祐介の所に来る前に、恐らく一人倒して来ていたのだろう。あのときにはすでに、正確には残り三人になっていて、だから虚を倒した自分が優勝者になり、『ここ』に連れて来られた、ということなのだろうか。
 まだ納得していないような表情をしていたのだろう。苦笑しながら拓也が説明し始める。
「そもそもさ、セロヴァイトっていうのは地球ではない世界の産物なんだよ。異世界みたいなもんだな。対立するように存在する二つの世界、その中心部にあるのがここ、【界の狭間】だ。セロヴァイト戦ってのは、ある種の賭け試合だって聞いている。異世界で生み出されたセロヴァイトを地球に送り込んで、不正一切無しの試合をさせる。それで優勝したら副賞として望みを叶えてやるってことなんだよ。だけど異世界に行って望みを叶えようとするにはまず、ここを通らないとならない。けど、ここを通って違う世界に行こうとする奴を排除する存在がいた。それが、あの焔って訳だ。本当は朧って奴だったんだけど、いろいろあっておれと啓吾と焔がぶっ倒した。それで今は焔がこうして異端者を排除しようとしている、と。ちなみにあれだ、焔は前回のセロヴァイト戦に参加してて、紀紗のセロヴァイトだった。その関係で、こうしておれと紀紗は会いに来てるっつー訳」
 正直な話、拓也が何を言っているのかがさっぱりわかなかった。
 それでもただ漠然と、助かった、とだけ思った。難しいことはさておき、簡単にまとめると、祐介自身が異端者で、焔に殺されそうになったところを拓也たちに助けられた、とそういう訳なのだろう。どうやら拓也と紀紗は焔と何か特別な仲のようだし、このままなら無駄なことをせずここを抜けられる。戦う意思を見せた焔に勝てるとは到底思えない。あんな化け物に勝てるはずがないので、これは願っても無いことだった。
 安堵は自然に口からあふれ出た。
「――じゃあ、おれはここからその異世界っていうのに行けばいいんですね?」
 てっきりそうだと思ったのに、なぜか拓也は首を振った。
 そしてその口から出た言葉は、祐介の安堵を粉々に砕いた。
「いいや、ここから出るにはまず、焔をぶっ倒さないとならない」
「ど、どうしてですかっ!?」
 その問いには答えず、拓也は祐介を見据えながら、しかし祐介ではない誰かに叫ぶ。
「聞こえてんだろセロヴァイト執行協会本部のクソ野郎共ッ!! 今から狭間の番人をおれがぶっ倒してやるからよ、おれの最強の相棒を貸せッ!!」
 意味がわからず、拓也に食って掛かろうとした刹那、祐介の体から緑に光の粒子があふれ出た。
 それはゆっくりと漂い、拓也の両腕に収縮され始める。やがて緑の光の粒子はその形を造り出し、パァアっと弾けた瞬間にそれを完全に具現化させていた。拓也の両腕に装着されるは、辺りの光景に溶け込むような二体一対の漆黒の鉄甲。かつて拓也と共にセロヴァイト戦を戦い抜いたセロヴァイトである。前回のセロヴァイヤー戦優勝者である渡瀬拓也の相棒。
 それが、打撃型セロヴァイト・孤徹。
 拓也は満面の笑みで孤徹を打ち鳴らし、その音に反応するかのように突如として雷靭が巨大な笑い声を弾き出す。
 ――ッハァ! どうやら今度の相手は焔らしいな。おれの相手にとって、不足無し。
「ば、馬鹿かお前はっ! あんな奴にどうやって、」
 その声は拓也の叫びに遮られる、
「聞いてただろ焔ッ!! 約束を果たそうぜ、なあオイ!!」
 紀紗が驚いた表情で拓也を振り返り、何かを言うより早くに焔がそっと紀紗を離れされる。
「焔っ?」
「黙って見ていろ、紀紗。これはおれと小僧の約束だ」
 再び真紅の巨体に劫火が荒れ狂い、眼光に灼熱が宿る。
 何もかも吹き払うかのような強大な咆哮を上げ、焔が笑う。
「約束だ。紀紗以外の人間が対立を乱すのなら、おれは誰であろうと容赦なく殺す」
「上等だ」
 ――来い、焔。
 取り残される祐介を他所に、拓也と雷靭と焔から圧倒的な力の鼓動が迸る。
 最終決戦の、幕が上がる――。





     「七海紀紗」



 そこに存在する、荒れ狂う劫火を身に纏った紛れもない化け物。炎の揺れ動く隙間から見える殺気の迸る眼光が、焔の体を実際以上に何倍も何十倍も大きく見せる。相手に圧倒された場合、その場から動けなくなることはよくあった。これまでに強者を前にしたら何も言えなくなることもよくあった。しかし、この真紅の竜を目の前にしたときは、そう言った次元の話ではない。頭が真っ白に染まっている。動く気すら起きず、そもそも何も考えられない。こんなものに、勝てるはずはないのだ。戦えば必ず、迎えるのは『死』という一文字の冷たい現実だけである。
 体が震え出すのを止められなかった。震えは腕を通り手に到達し、そして雷靭へと伝わる。雷靭は如何にも面倒臭そうにつぶやく。
 ――怖気づいたのか。
 心の中で返答するのがやっとだった。
(……馬鹿かお前……ッ! あんな化け物を相手にどうやって戦えっつーんだ……。勝てる訳ないじゃないかよ。お前も拓也さんも、何考えてんのかわかんねえよ……ッ! 逃げるだろ普通、勝てる訳の無い相手に出会ったら、逃げ出すのが普通だろ……っ!? なのに何で!?)
 ――……情けない。さっきまで『人を殺す』と怒り狂っていた貴様はどこへ行った。四の五の言わずに戦え。このおれと共に、焔と戦え。そして何を置いても、何を犠牲にしても、徹底的に倒せ。それが貴様の役目だ。それができないと言うのなら、貴様の体をおれに貸せ。そうすればおれが戦ってやる。逃げ出したければ勝手に逃げ出せ、だがおれは絶対に逃げぬ。おれは必ず、焔をこの刃で倒す。
 なぜそうまでして戦うと言うのか。所詮お前はセロヴァイトでしかないのだろう。誰かに使われて初めて本領を発揮することのできる『道具』なのだろう。自分一人では何もできないくせに偉そうなことを言うな。お前が戦っても傷つくのはお前じゃない。その使われた体が傷つくのだ。何が楽しくて、絶対に傷つくとわかっている戦いに自らの体を参戦させなければならないのか。ただのお前の自己満足のために巻き込まれてたまるか。
 ――このおれがただの『道具』だと、貴様は本気で、そう思っているのか?
 束の間の沈黙、
 ――失望したぞ、我が主。貴様はもっとマシな奴だと思っていたが思い違いだったようだ。確かにおれたちセロヴァイトは貴様等から見れば道具に過ぎないだろう。だが、おれたちにはおれたちの意志がある。貴様に比べれば小さな意志だ。一つの単語分しか無い意志だ。しかしそれでも確立した意志には変わりない。意志とはつまり、生きているということだ。それでも貴様は、おれたちのことを『道具』としか思えぬのか?
 何も言い返せない、祐介の心は常に沈黙を押し通している。
 ――……そう思いたくば思うがいい。しかしな、その中でもおれは例外だ。本来おれにはただ一点の意志しかない。だが偶然の連鎖で発生したバグに侵され、おれははっきりとした自我を持った。だからこうして貴様と会話している。対等に話せる存在のこのおれが『道具』だと? ハッ、笑わせるなよ、腰抜けが。貴様に少しでも期待したおれ自身が酷く哀れだ。ここで指を咥えて見ていろ。孤徹とそのセロヴァイヤーが戦うその様を、無様に目に焼き付けておけ糞野郎。
 まるで雷靭の声を聞いていたかのように、拓也が唐突に祐介を振り返る。
「無理強いはしねえよ。お前が戦いたくないならここで待ってろ。おれが一人で焔をぶっ倒すから。なに、誰も責めやしねえ。それが、お前自身が考えて出した結論ならな。それに元々、これはおれと焔の約束だ。誰も悪くなんてねえんだ。だから、見てるなら見てる、戦うなら戦う。どっちでも構わねえさ。けど一つだけ」
 拓也は、満面の笑みで笑った。
「――こうと決めたら一直線、行動あるのみだ」
 二体一対の鉄甲が澄んだ音を響き鳴らす、
「いつだったか孤徹の特性を教えたことあるけど、ありゃ嘘だ。孤徹の本当の特性、それは衝撃の吸収、そして爆散。焼き付けておけ祐介。これが第十二期セロヴァイヤー戦優勝者・渡瀬拓也の力と、嘘偽り無く最強のセロヴァイトと同時に唯一にして存在する狭間の番人・焔の勝負だ。……行くぞ、焔。どっちが本当に強かったのか、白黒着けようぜ」
 真紅の竜は、口を裂かして実に嬉しそうに笑う。
「来い小僧。貴様如きではこのおれに勝てぬこと、その身に思い知らせてやる」
 刹那に焔は牙を剥き出し、劫火と共に圧倒的な咆哮が弾けた。
 突風が走り抜けた次の瞬間には、拓也が孤徹を地面に押し付け宙に舞い上がっていた。空中で一度身を捻り、体勢を立て直した拓也が空気の壁を足蹴にして加速し、真紅の竜に真っ向から挑む。漆黒の鉄甲が焔を捕らえるか否かの時間差で、その場から劫火を纏った巨体が消えた。無動作で消えた焔は、消えたのと同じくらい唐突に拓也の背後に回り込み、ガラ空きのその背中に牙を剥く。
 それでも拓也は、有り得ない動きで身を翻して孤徹を突き出された牙に叩きつける。瞬間に焔の牙から放たれる衝撃は孤徹によって完全に吸収され、時が僅かな間だけ停止する。時が動き出す切っ掛けを作ったのは焔だった。荒れ狂っていた劫火が焔の意志に従い獲物を狙うために活動を開始する。無数の竜の頭のような形を造り出す炎から逃れるため、拓也は孤徹を牙から弾いて地面に這い蹲り、もう一度弾いてその場から離脱する。刹那に炎は拓也がいたはずの場所に激突し、炎上しながら高熱を持って燃え盛る。
 その炎の間を縫って突き抜ける焔の巨体を祐介が確認できたのは、拓也に激突した瞬間だった。祐介では目でも負えなかった突進を、しかし拓也は完全に孤徹で吸収していた。焔の眼光から灼熱が湧き上がった刹那、拓也が孤徹を振り上げる。それに気づいた焔が後退しようと翼を広げ、だが拓也は逃さない。目前にあったその顔面に漆黒の鉄甲を叩き込もうと腕を振り抜き焔に直撃する瞬間、それまで以上の速さを持って真紅の竜がその場から消える。孤徹が空を切ったと思ったときには、焔の尻尾が拓也の背中を完全に捕らえていた。
 何かが軋む音と共に拓也の体が宙を舞い、地面に激突して何度も転がった。その途中で小さな破壊音が響き、地面を転がっていたはずの拓也が立ち上がって体勢を整え、手で背中を摩りながら目に少しばかりの涙を溜めながら咳き込む。やがて落ち着いたのか視線を正して真っ直ぐに焔を見据えた。それに習うかのように、焔も拓也を真っ向から見据え返す。
 二体一対の鉄甲を持つセロヴァイヤーと、荒れ狂う劫火を纏う狭間の番人が対峙する。
 そんな光景を見つめながら、祐介は思う。拓也は強い。戦ってはいないが、端から見ていてもはっきりとわかる。今まで祐介が戦ってきた誰よりも、下手をすれば虚よりももっと強い。まだ拓也のちゃんとした攻撃は見ていないので攻撃面でのことは何とも言えないが、それでもそこに秘められた力が強力なのだということが確信として伝わってくる。そして何より、防御がとてつもなく上手い。祐介では目でも追えないはずの焔の攻撃を見極め、生身では絶対に受けず確実に孤徹で防いでいる。第十二期セロヴァイヤー戦優勝者という肩書きは、嘘一遍無くホンモノなのだろう。
 だがしかしそれ以上に、焔が圧倒的に強い。どの潜在能力を取って比べてみても、拓也を凌いでいる。証拠に最後の攻撃。あれが焔の本気がどうかは知らないが、拓也はついて行くことができなかった。もしあの速さで動き回られたら、拓也にはどうすることもできないのだろう。そして恐らく、焔はまだ力を隠し持っているはずだ。それを知っているからこそ、拓也も迂闊に攻めれなくなっているに違いない。
 乾いた笑いが漏れる。もはや次元が違う、などという話では済まない。恐怖に塗り潰されて逃げ出すような腰抜けの糞野郎には一生懸かっても辿り着けない領域だ。しかしそれは祐介でなくとも、普通の人間なら誰一人踏み入れることなどできないのだろう。それが、この戦いだ。強過ぎる、在り得ない存在が二つ。そんな冗談のような光景を見せられたらやはり、笑うしか道は残っていなかった。
 焔と対峙していた拓也が大きな深呼吸をするのが見えた。
「……かあー、ったく。辛いなあ、オイ。やっぱ三年のブランクは大きいか」
 肩を解すように腕を回し、ゆっくりと孤徹を構える、
「だけど、さっきので大分温まってきたトコだ。体もやっとまともに動かせるようになったしな。こっからが本番と行こうぜ焔。この孤徹の爆散を、テメえに叩き込んでやるよ」
「大層な口を聞くな小僧」とつぶやく焔が、一瞬だけ背後にいる紀紗へと視線を移す。紀紗は何が何だがわからないし、どっちが勝っていいのかもわからない、という困惑の表情で二人を見つめていた。そして焔はまた視線を拓也に移し、どこか楽しそうな声で「この場に紀紗がいなかったら貴様など瞬殺してやるのだがな」と笑う。
 すると唐突に拓也が思い出しかのように「あ、」と声を出し、それから嫌味な笑みを浮かべて焔を見つめる。
「そういやそうだった、忘れてたぜ。おれがここに来るもう一つの理由があった。――おい焔、紀紗の前だからって格好つけてんじゃねえよ。そりゃ確かにお前が紀紗のこと好きなのは知ってっけどおれは手加減しねえ。紀紗の前で恥かかせてやるよ。全力で来い焔。紀紗に格好悪いトコ見られたくないだろう?」
 一瞬の沈黙、そして焔は盛大に笑う。
「挑発のつもりか? 舐めるな、そんなことで我を失うこのおれではない。……だが、そこまで言われて黙っているのは少々勘に触る。覚悟しろ。そして先の言葉、後悔しながら死んで逝け小僧ッ!!」
 焔が口を抉じ開け、辺りの劫火を丸ごと飲み込み始める。やがてそれは喉奥にオレンジ色の光を収縮し、圧倒的な破滅の攻撃を可能にさせる。態度は変わりないように見えたが、その実中身はぶち切れているのではないか、と祐介は思う。離れているここにもはっきりと伝わる炎の鼓動。祐介に向けられ収縮されたときの攻撃とはまるで桁が違う。こんなものを受けたら幾ら拓也でも助かるとは到底思えなかった。そして当の拓也も、祐介と同じことを考えていたのだろう。さっきまでの笑みが嘘のように納まり、引き攣った顔で「……やっべえ、言い過ぎた」とつぶやく声が鮮明に聞き取れた。
 だがそれでも焔は手加減などしないし、拓也も逃げ出すようなことはなかった。最大級の攻撃を、最大級の覚悟を持って迎え撃つ。それがこの戦いの暗黙の掟のような気がした。拓也が孤徹を構えたとき、焔の口に炎の弾丸が生み出される。そこから放たれる力の波動は冗談無しに反則だった。一発ぶち当たれば地球の一つや二つなど本当に木っ端微塵に砕けてしまうのではないかとすら本気で思う。
 どくん、と心臓が脈打つ音が、祐介の体の隅々まで伝わった。恐い、のではない。言い表せない感情。絶対に勝てないはずの敵に、絶対的な自信を持って挑む拓也。祐介が心の奥底で常に望んでいた姿がそこにある。祐介一人では決して辿り着くことのできない領域。たがしかし、祐介は一人ではない。雷靭がいる。もし雷靭が心から気の許せる相棒になったのなら、もしかしたら自分はそこに辿り着けるのではないか。憧れだった。こうと決めたら一直線、行動あるのみ。その信念を今一度だけ、振るい起こしてみようか。
 最初は間違いで戦い、次は強制的に戦うことを経て、そして唯のために戦った。だったら最後くらいは、自分自身のために戦ってみようか。自分のすべてを賭けて、絶対に勝てないはずの相手に挑んでみようか。それでほんの少しでも拓也に近づけるのなら、傷の一つや二つを負うくらいなら安い代償ではないか。そもそも無償で何かを成し得ようとする考え自体が間違いだったのだ。逃げるのはもう沢山だと思ったはずだった。ならば、逃げずに立ち向かってみようか。
 時が止まったかのような光景の中で、祐介は心にそっと問う。
(……雷靭。ごめん、さっきのは謝る)
 雷靭からの返答は無い、
(雷靭がただの道具だなんて思ってない。雷靭は、おれの最強の相棒で、最大の天敵だ。けど、その考えをやめようと思う。今回だけ、何もかも捨てて戦おうかと思う。でもそれには、雷靭の力がいる。おれ一人じゃ戦えない。だから、お願いだ。まだおれのことを少しでも主と思ってくれているのなら、力を貸して欲しい。お前を、最強の相棒と見込み、頼みたい)
 ――……やっとやる気になったか、我が主。
 その言葉が、今はどうしようもなく嬉しかった。
 ――よかろう、力を貸そう。だから引くな。おれの力を信じるのなら、おれは貴様の剣にも楯にもなってやる。だから臆すな。そのことを、貴様は誓えるか?
返す言葉はただ一つ。人を殺さないと雷靭が言ってくれるのなら、何を差し置いても、自分は、
(誓う)
 ――ッハァ! 相変わらず甘いが、それでこそ貴様だ。受け取れ。そして共に戦え。
 右手が灼熱に包まれ、体の中心部が一瞬にして圧倒的な力を宿す。
 雷靭の刃に雷が蠢き出したその刹那、焔の口から炎の弾丸が弾き出される。光の速さに匹敵するのではないかと思わせるその弾丸を、しかし祐介は正確に目で追えた。雷靭を掲げ、一つの意志の下に雷を撃ち出す。それは拓也と弾丸の軌道に割って入り、一枚の巨大な楯を造り出した。雷と炎の弾丸がぶつかり合った瞬間、その弾丸がこの世の何を持っても止められないものだと思い知らされる。雷が一瞬で薙ぎ倒され、炎の弾丸は僅かにも威力を落としてはいなかった。それでも元々破壊できると思っていなかった祐介は、神経を集中させ雷を無理矢理押し上げて微かに弾丸の軌道をズラすことに成功した。
 それに気づいた拓也がその場から離脱し、誰もいない空間に炎の弾丸が激突した刹那、
 【界の狭間】の領域が大きく歪んだ。果てしなく続く空間をとんでもない爆風と炎が一挙に吹き抜ける。間近で核ミサイルが爆発したようなものだった。恐らく、雷靭がその威力に気づいて雷を防御に回してくれなければ祐介など木っ端微塵に砕けて消え去っていたはずである。しかし焔のそれは、雷で全身を覆っても抑えられるような弱い攻撃ではなかった。雷を一発で塗り潰し、炎は祐介を包み込む。瞬間に爆風に煽られて視界が出鱈目に回転した。その中で、孤徹を真っ向から構えて必死に体勢を整える拓也と、紀紗を守るように翼を大きく広げた焔を見たような気がする。
 やがて爆風と炎が納まったそのとき、祐介はこの上無い無様な格好で倒れており、その近くで拓也が胡坐を掻いて首を振っていて、焔は翼を閉じて目の前にいる紀紗にそっと「だいじょうぶだったか?」と問う。紀紗は何が起きたのかまったくわからないように呆然としていて、しかし焔の問いに一度だけこくりと肯いた。
 僅かな沈黙の後、祐介がゆっくりと起き上がったと同時に、拓也がいきなり吼える。
「――馬鹿かテメえ焔ァッ!! あんなもんどうやって防げっつーんだチクショウめっ!! 下手したら本当に死んでたぞコラァッ!!」
 焔の眼光がゆっくりと拓也を捕らえ、「黙れ。自業自得だ」の一言で押さえ込む。
 それでもぶつぶつと文句を垂れる拓也が、ふっと祐介に視線を移し、笑う。
「よう、さっきは助かった。……どうやら戦う気になったらしいな、祐介」
 祐介は肯く。
 拓也と一緒に戦うなど、これが最初で最後であるはずだ。だからその一勝負の間に、自分がどれだけ拓也に近づけるか試してみようと思う。涙を流して逃げるのではなく、他人のために戦うのでもなく、自分自身のために、今ここで戦ってみよう。こうと決めたら一直線、行動あるのみ。それでどんな犠牲が出ようが、今はもう後悔しない。史上最強の戦いに、史上最強の腰抜けが挑んでやろうじゃないか。
 拓也の孤徹と共に、祐介は雷靭を真っ向から焔に構える。
「祐介。たぶん、通常だとお前のセロヴァイトの方が孤徹より攻撃力が高い。おれの孤徹は衝撃を吸収すればするほど強くなる。だから、これからはお前が攻撃に回れ。何も考えず、ただ焔を攻撃することだけを考えろ。防御はおれがすべて引き受ける。心配すんな。おれが、焔を完全に抑え込んでやるからよ」
「わかりました」と祐介が返答したとき、拓也が焔に向かって再び勝負の幕を開ける。
「行くぞ焔。第十二期、第十三期セロヴァイヤー戦優勝者の力、見てやるぜ」
 紀紗から離れ、焔の体に失われていた劫火が再度荒れ狂う。
「勝負の行方は変わらん。小僧と餓鬼が束になったところでおれには勝ぬ。来い。二人まとめて叩き潰してやろう」
 焔の巨体が無動作でその場から消えた。
 真横から繰り出される尻尾に祐介が気づいたときにはそこに拓也が回り込んでいて、真紅の尻尾が漆黒の鉄甲にぶつかって衝撃を吸収される。早過ぎる攻防。やはりこの二人の領域に辿り着くには、祐介ではまだまだ未熟なのだろう。しかしそれはわかっている。自分一人では勝てないことも、足手纏いになることも百も承知。ならば自分はただ、与えられた役割を全うしよう。足手纏いは足手纏い成りに、力になってやろうではないか。
 拓也が祐介を振り返って笑ったそのとき、祐介は雷靭を力の限り握り締める。焔に対して、力の制御など何の意味も成さない。それ以前に、すべての攻撃を全力以上の威力で与えなければ焔に傷一つ負わすこともできないだろう。だったら最初から飛ばしていくしか道は無い。雷靭の刃に後どれだけ雷雲が詰まっているのかはわからないが、それが尽きるそのときまで、自分は攻撃だけに徹しよう。心からお前を相棒として認める。だからお前もおれのことを主だと心から認めろ。すべてをお前に貸してやるから、すべてをおれに貸せ。解き放て、雷靭。この戦い、絶対に、勝とう。
 雷靭から心地良い笑い声が響いた。それに比例するかのように、刃を纏っていた雷が確かな鼓動を開始する。空間を痺れさすような波動が広がり、それは威力を増しながらゆっくりと渦巻く。標的は、焔だけだ。拓也の目の前にいた焔に視線を移したとき、真紅の竜が雷靭の力に気づいてその場から一瞬で飛翔する。だが雷靭に攻撃範囲など意味は無い。空だろうがどこだろうが、見える場所にいる限り、雷靭からは逃れられないのだ。
 一箇所に凝縮された雷が牙を剥く。焔の頭上に光が灯った刹那、真紅の体を一線の巨大な光の柱が飲み込む。閃光と轟音が響くその中で、祐介は確かな手応えを感じていた。完全に直撃した。避けられてはいない。ならば倒せなくとも重傷は間違いない。先の雷は恐らく、今まででも間違いなく最も破壊力のある攻撃だった。あの虚でさえ傷を負ったのだから、焔だって、
 しかし、閃光の中から這い出てくる焔を見て期待が裏切れたことを祐介は知る。真紅の竜は、あの落雷を受けてもなお、傷など何も負っていなかった。紛れもない化け物である。火傷の一つもの見つからないその真紅の巨体には、どんな攻撃も通用しないのではないかと本気で思う。一瞬だけ引いた祐介に、拓也と雷靭の声が同時に響く。ただ一言、引くな、とだけ。
 灼熱の眼光が祐介を貫き、焔が突進して来る。が、その軌道の間に入った拓也がそれを止め、繰り出される尻尾と牙の衝撃を同時に吸収し、目にも止まらぬ攻防を繰り返す。その光景を見て我に返った祐介は、雷靭との同調を開始させ、雷を圧縮して刃に纏わせる。一筋に伸びる雷の剣。虚の爪を切断した武器である。落雷で傷を負わせないのなら、これで直接ぶった斬ってやる。地面を蹴りながら祐介の体が宙を舞う。拓也と焔の真上に浮かび上がった祐介は、雷靭を振り上げながら真紅の竜を目掛けて落下する。それに気づいた拓也は焔の攻撃を吸収した刹那に孤徹を弾いて後方に逃れ、その意図を焔が悟ったときにはもう遅い。
 振り抜かれた雷の刃は、焔の体に激突した。そこから迸る雷が炎と噛み合って互いに消滅させようと蠢く。真紅の巨体に雷靭の刃が食い込み、僅かに蒸気を発生させる。行ける、と祐介が思ったその瞬間、唐突に焔の体が翻った。刃は冗談のような力で吹き飛ばされ、バランスが崩れた祐介の体目掛けて焔は口を開け放つ。その喉にオレンジ色の光が凝縮され、一挙に走る炎の弾丸が吐き出された。避けれる体勢ではなかった。迫り来る弾丸をどうすることもできずに見据えていた祐介に視界に、漆黒の鉄甲が入る。
 体が突き飛ばされて地面にぶつかった瞬間に、爆音と爆風が弾けた。濛々と舞い上がった煙から吹き飛ばされるように出て来たのは拓也であり、その体は驚くほどの傷を負っている。地面に着地したと同時にその場に膝を着き、口から血の混じった唾を吐き出す。左手に装着された孤徹が溶岩に侵されるように僅かに溶け出している。それでも拓也はまだ、諦めなかった。立ち上がって孤徹を構え、真っ向から焔を見据える。
 再び、どくん、と祐介の心臓が脈打つ。逃げているばかりじゃ駄目なのだ。守られているだけでは駄目なのだ。こっちから向かわなければ駄目だ、傷を負ってでも相手を倒さなければ駄目だ。傷付くのを恐れるな。傷くらいいつか必ず治る。しかしここで逃げれば、体の奥底に負うことになる傷は一生消えない。そんな情けない人生は、もう沢山である。雷靭を握り締め、自分一人の力だけで地面を破壊する。
 獣のような叫び声を上げ、焔の背後から刀を振るう。しかし焔は、そんな攻撃が易々と通用するような弱い相手ではない。まるで背中に目があるかのように尻尾が振り上げられ、真下から祐介の体を叩く。体が押し潰されたかと思った。その一撃は、何にも代え難いほどの苦痛を運んで来る。全身の骨が砕けないのが不思議なくらいだった。だが骨が砕けていないとはつまり、まだ攻撃ができるということだ。口の中に広がる鉄の味のする血を噛み締め、空中を舞いながら雷靭を焔に突きつける。唯が使っていた水靭の特性は、水を操ることだった。ならば、雷靭の特性は雷を操ること。同じことだ。だからこそ、わかる。使い方次第で、その特性は幾らでも形を変えることができるのだ。
 刃から迸る雷が、焔の頭上に集まり、六線の落雷と化す。それは刹那の速さで焔に到達し、しかし決して焔に触れることなく地面に突き刺さる。焔が辺りに視線を移したときにはすべては完成している。地面に突き刺さり形を崩さないその雷は、祐介の意志に従って隣の雷と融合して網状に変化し出す。それは、真紅の竜を確実に捕らえる、檻に他ならなかった。焔の巨体の動きが制御され、隙間から劫火が荒れ狂うが、それでも雷の檻は形を崩さない。無駄な足掻きでこの檻が砕けることがないとわかった焔は、突如として口を抉じ開け強大な咆哮を上げる。
 その刹那、僅かに雷がその原型を歪ました。雷靭の刃に微かな亀裂が走り、戸惑う祐介に響く雷靭の声。
 ――構うなッ!! 続けろッ!!
 これが最後の好機だということは、はっきりとわかっていた。だから雷靭を信じようと思う。亀裂の走る刃を見据えたまま、祐介はさらに力を込める。
 そして、焔の動きが一瞬だけ完全に止まった。そこを叩くは祐介ではない。拓也である。「上等だ祐介っ!!」という叫びの中、拓也が焔の目の前に入り込んで巨大な真紅の竜を見上げ、歓喜の笑顔を見せて孤徹を後ろに振り上げる。この戦いで吸収したすべての衝撃を、この一撃に込めた攻撃。孤徹の最大にして最強の特性。衝撃の爆散。例え焔と言えど、それを受けて無事ではいられないだろう。
 しかし見す見すやられる焔ではない。動かないはずの口を力任せで抉じ開け、その奥にオレンジ色の光の収縮させる。
 この戦いを決する互いの最後の攻撃が、三年の時を経て、放たれ

「拓也っ!! 焔っ!!」

 紀紗のその悲鳴にも叫びが、すべてを停止させた。
 振り抜かれそうになった孤徹も、弾き出されそうになっていた炎の弾丸も、その呼び声で一瞬にして止まった。それと同時に祐介の意志が途切れ、焔を捕らえていた雷の檻が消滅する。孤徹を中途半端に突き出したままの拓也と、自由を取り戻した焔が同じように紀紗を振り返る。少しだけ離れた場所に紀紗は居て、精一杯に涙を溜めているような濡れた瞳でじっと二人を見つめていた。
 やがてぽつりと、つぶやく。
「……やめて、……お願いだから、拓也、焔……っ」
 溜めていた涙が一筋だけ紀紗の頬を流れたとき、焔が唐突に殺気を消した。
 ゆっくりと歩み出し、紀紗の下へと向かう。巨大な翼を紀紗の体を包み込むように広げ、焔にしがみ付いて泣く紀紗を見つめたまま、しかし拓也に問う。
「……どうする小僧。続けるか、否か」
 拓也は孤徹を引いて頭を掻く、
「……馬鹿言ってんじゃねえよ。どうせお前も続ける気なんてねえんだろうが。……それに、紀紗に泣かれちゃどうしようもねえだろ」
「互いに、弱いものは同じだな」と焔が笑い、「情けないことに、そうみたいだな」と拓也も笑う。
 状況がわからず雷靭と共にぼんやりしていた祐介に、焔の視線が向けられた。それがさっきまで死闘を繰り広げていた相手とは到底思えないような、実に澄んだ眼光だったことに純粋に驚いた。頭の中で雷靭がため息を着きながら、――焔も丸くなったものだ、と苦笑したような気がした。
 焔は言う。
「行け、餓鬼。今回は紀紗に免じて見逃してやる」
 その言葉の意味がわからなかった祐介に、拓也が助け舟を寄こす。
「ここを通してくれるってよ。行って来い祐介。行って、自分の望み叶えて来い」
 戦いはこれで終った、と拓也は言っているのだ。
 その意味を理解した刹那、祐介の体が緑の光の粒子に包まれる。その隙間から見た拓也が、はっきりと笑っていることに気づく。そしてその腕に装着されていた孤徹が形を崩し、緑の光の粒子となって祐介の体に戻って来る。それを笑顔で見送り、拓也はまた笑う。祐介が【界の狭間】からセロヴァイト執行協会本部へと転移されるその瞬間、拓也は祐介に向かって確かに、「お前は強いよ」とつぶやいた気がした。それが今は、どうしようもなく嬉しかった。
 視界が完全に緑の光に閉ざされ、一瞬の浮遊感の後、転移されたその場所は上も下も横もすべて鏡張りにされた学校の教室くらいの小さな部屋だった。その部屋の中には誰もいないはずなのだが、鏡の向こうからは確かに複数の人の気配が漂っていることに気づいた。鏡の向こう側にいる人物には恐らく、祐介の姿が見えているのだと思う。マジックミラーのような構造になっているのだろうか。
 そして唐突に、握っていた雷靭が緑の光の粒子に包まれる。
 ――……さらばだ。
 何もかもわかっていた。だからこそ、今一度、この言葉を送る。
(……ありがとう)
 雷靭は笑う、
 ――縁があればまた、共に戦おうぞ、我が主。
(ああ。ただ、人は殺すなよ?)
 ――ッハァ! 承知した、できるだけ守ろう。
(……じゃあな、雷靭)
 ――ああ。元気でやれ。
 刹那に、雷靭が形を崩してパァアっと舞った。それはやがて、祐介の体から漂い出した七個分のヴァイスの光に紛れて鏡の向こう側に消える。それを見送りながら、祐介は今は何も無い拳を握る。最強の相棒にして、最大の天敵だった自らのセロヴァイト、斬撃型セロヴァイト・雷靭。偶然の連鎖で発生したバクから生まれた確かな意志。それで迷惑もしたし、それに恐怖も覚えた。だけど、今ならはっきりと言える。最大の天敵だったはずのセロヴァイトは、間違い無く最強の相棒だった。
 僅かなノイズが響き、次にマイク越しのような男の声が聞こえた。
『我々はセロヴァイト執行協会本部だ。おめでとう源川祐介。君が第十三期セロヴァイヤー戦優勝者であり、【界の狭間】を超えここまで辿り着いた二人目のセロヴァイヤーだ。さて、早速だが本題に入ろう。君の望みは何だ。どんなことでもいい。今の我々の力を持ってすれば、どんなことでも叶えられるぞ。さあ、望みを言いたまえ』
 叶えるべき望み――。
 正直な話、自分が優勝者になれるとは思ってもみなかったから何も考えていなかったこと。たぶん、今ここで世界征服なんて望みを言い出しても、こいつらなら本当に叶えてしまうのだろう。しかし普段はそんなことや大金持ちになりたいなど下らない望みばっかり出て来るはずなのに、今はどうしてか何も出て来なかった。ただ、漠然とした望みなら心の奥底にある。それをどうやって言葉にするのかはわからないが、もし何でも望みが叶うとするのなら、それにしようと思う。
 すべては唯のために。生まれて初めて本気で好きになった人のために、この望みを叶えよう。漠然とした望みは、この瞬間にしっかりとした形を造り出し、祐介の口から言葉となってあふれ出る。
「おれの望みは、――このセロヴァイト戦の、廃止だ」
 鏡の向こうでざわめきが巻き起こる。
 セロヴァイト戦の廃止。確かに、このセロヴァイト戦がなければ自分は何も変われなかっただろう。勇気も度胸も得意なことも無いただの腰抜けの糞野郎で終っていただろう。それにこの戦いが無ければ雷靭や拓也たちとも、そして何より、唯と出会うこともなかったはずだ。その件に関しては礼を言う。こんな自分が変われる切っ掛けをくれたこと、唯と出会わせてくれたことは何よりも有り難い話である。だがしかし、これとそれとでは話が違う。
 唯は、このセロヴァイト戦のせいで背負わなくてもいいはずの悲しみを背負った。唯を苦しませたこの戦いを、もう二度と行わせないために。唯と同じような思いをする人がもういないように。完全なる自分のエゴだということはわかっている。しかしそれでも、我慢できないのだ。高々こいつらの娯楽のために、なぜ人が傷つかねばならないのか。下らない賭け試合のためになぜ、見知らぬ自分たちが殺し合いなどしなければならないのか。そっちの事情など知ったことはない、殺し合いたいのなら勝手にやれ、自分たちを巻き込むな。だからこそ、ここに望むのだ。この馬鹿げた戦いの終止符を。セロヴァイト戦、廃止を。
 マイク越しに聞こえる男の声が、僅かに動揺しているように思う。
『待ちたまえ、その望みは、』
「取り消さないからな。何でも望みを言えっつったのも何でも叶えられるっつったのもお前等だ。だからおれの望みを叶えろ。この戦いで傷ついた人がいる。この戦いで悲しみを背負った人がいる。だから今すぐ、このセロヴァイト戦を、廃止しろ」
 束の間の沈黙が流れたとき、諦めの入った男の声が聞こえる、
『――……規約は規約だ。よかろう、このセロヴァイト戦は第十三期セロヴァイヤーもってして、今後取り行わないことを約束しよう』
 祐介の体が再び緑の光に包まれる。
『もう二度と、君の顔は見たくはないな』
「お互い様だ、クソ野郎」
 そんな捨て台詞を吐いた後、祐介の体が【界の狭間】に転移される。
 どこかで、雷靭が笑っていたような気がした。

     ◎

「お邪魔虫になるのも嫌だしな。先におれを帰してくれ。紀紗と二人で話たいこともあるだろう、焔。おれの心遣いに感謝しろよ」
 そんな台詞を残し、拓也は紀紗より一足先に【界の狭間】を出た。漆黒の空間に残されたのは焔と紀紗だけで、やっと涙の納まった紀紗が人差し指で目尻を拭いながらはにかんだように笑う。それに見つめながら、紀紗と同じように焔も笑った。
 こんな時間が、三年前にもあった。しかしどうしてか、懐かしいとは思えない。なぜか、三年前のはずの出来事が昨日のように思えてしまう。ただ、三年も経てば子供の紀紗はやはり変わっていて、初めて出会った頃より随分と大人っぽくなった。しかし中身はどうやらあまり変わってないらしく、泣き虫なところとか、焔を見上げるときの表情とか、その辺りは全く変わっていない。それが懐かしさを消し去るのだろうと焔は思う。紀紗がそこで笑っている。それだけで、驚くほど嬉しくなる自分がいる。この【界の狭間】で待っていた三年など、今のこの時間に比べれば一秒も感じさせない。
 紀紗が焔の体にそっと手を添える。しかしその顔は少しだけ戸惑っているように思う。たぶん、何から話していいかわからないのだろう。この三年は焔にしてみればあっと言う間のことだったが、紀紗にとっては長かったのだろう。その長い時の中で思い浮かべていたことを簡単に話せるほど、紀紗は起用ではない。こっちから話掛けてやらねば、紀紗はいつまで経っても上手く話せないに決まっていた。
 紀紗が口篭り気味に「……焔、あのね、」と喋り始めたとき、焔は唐突に言った。
「小僧とは、今も上手くやっているようだな」
 そう言って笑う焔に一瞬だけきょとんとした後、紀紗はまるで留め金が外れたように話し始めた。
「うんっ! あのね焔、言いたいことがいっぱいあるのっ。拓也とはずっと一緒に焔に会いに行こうって話してたんだよ。そのときに卵焼きとベーコンも食べたし、啓吾も彩菜も一緒だった。あ、彩菜っていうのはね、わたしたちと同じセロヴァイヤーで、啓吾が倒した女の人。啓吾と彩菜は付き合ってて、とっても仲が良いんだよ。わたしと拓也と啓吾と彩菜で、いっつも拓也のアパートにいるの。その時間がすごく楽しくて、わたしは大好きなの。それからね、学校にも行けるようになったし、そこでいっぱいいっぱい友達もできた。それでね、」
 紀紗は、止まることなくこの三年間の出来事を、下手くそな言葉で一つ一つ焔に伝えた。
 それを黙って聞いていた焔は、どこか心の奥底で悲しさに似た感情を抱いている。紀紗と初めて出会ったときは、何と弱いセロヴァイヤーなのだろうかと思った。病弱で、泣き虫で、誰かが側にいないとすぐに心配そうな顔になる、ただの弱い子供だった。しかし共に過ごす中で、紀紗の芯にある強さに気づいたのだ。紀紗は、諦めるということを知らなかった。生まれたときから心臓に病を持っているのにも関わらず、泣き言を言わずに必死に生きて。できることのないはずの友達ができることを願い続けて。もうすぐ死に逝くはずだった体を、大事にしていた。そして何より、こんな異形の姿をする自分のことを、友達だと言ってくれた唯一のセロヴァイヤー。
 いつまでも紀紗の側にいてやりたい、と本気で思っていた。自分が側にいなければ紀紗は悲しむのだと、ずっと思っていた。しかしそれは、もはや心配しないでいいことなのだろう。紀紗には、拓也や啓吾に彩菜、そして学校で知り合った友達がいる。紀紗が悲しむことは、もう無いのかもしれない。柄にも無く、焔はそれに少しだけ嫉妬のようなものを抱く。焔が守り続けなければならなかったはずの姫君は、もう立派な騎士達に囲まれている。その中に、異形の姿をした騎士は必要ないのかもしれなかった。
 そんな考えが、顔に出てしまっていたのだろう。紀紗が突然に口を噤み、心配そうな顔で焔を見上げていた。
「……焔」
「なんだ?」
「……訊いて、いい?」
 何を改まって言い出すのかと思っていた焔に向かい、紀紗はつぶやく。
「焔は、寂しかった?」
 返答に困った焔を他所に、紀紗は真紅の体をきゅっと抱き締めて目を閉じる。
「……わたしはずっと寂しかった。焔に会えなくて、本当に寂しかった。……あのね、焔。忘れないで。今、わたしにはたくさんの友達がいる。けど、やっぱりいちばんの友達は焔なんだよ。焔がいてくれたら、今のわたしがある。いつもいつだって、わたしの中には焔がいるよ。……焔の中に、わたしは、いる……?」
 紀紗は、優しい。何をしても、どんなことをしても焔が守り抜くと誓った一人の人間の少女。
 その少女のことを、焔は、ただの一日一秒足りとも忘れたことなどない。目を閉じれば紀紗の笑顔がそこにある。いつか出会えると信じて待っていたこの日のこの瞬間。紀紗が焔を想うのと同じくらい、焔は紀紗を想っている。そんなことは、紀紗もわかっているはずだった。だけどそれでも、心配なのだろう。焔の口から直接聞かなければ不安なのだろう。だから、その答えをはっきりと返そうと思った。
 翼を広げ、ゆっくりと紀紗を包み込む。この自分に、紀紗を抱き締めるための腕があればいいと、この時ほど強く思ったことはなかった。
「……紀紗。心配するな、おれの中には、確かにお前がいる」
 焔が初めて、心の底から言う本音。
「悲しそうな顔をするな紀紗。紀紗のそんな顔を、おれは見たくなどない。紀紗が泣けばおれも辛いのだ。だから、笑え紀紗。おれは紀紗の笑顔が好きだ。紀紗の笑顔はおれに確かな『心』を与えてくれる。だから、笑ってくれ、紀紗。……お前と出会えて良かった。お前と過ごせて楽しかった。あのときは小僧に伝えてもらうことしかできなかったが、今度こそ、おれの口から直線紀紗に言おう」
 紀紗がそっと顔を上げたとき、焔は実に嬉しそうに笑う。
「――ありがとう、紀紗」
 見つめていた紀紗の瞳からポロポロと涙が流れ出す。
 それを慌てて拭いながら、紀紗はいちばんの友達に向かい、精一杯に笑う。
「……うん。今度はわたしだよ。焔にずっと言いたかった。焔だけ言ってわたしは言えないのなんてずるい。だから、言うからね」
 笑顔で焔に抱きつき、紀紗は三年間、ずっと伝えたかったその一言を言った。
「――ありがとう。大好きだよ、焔」
 それが、かつて最も強いセロヴァイトと、最も幼いセロヴァイヤーが交わした、言葉だった。
 三年の時を越えた誓いは今、ここに果たされる――。

     ◎

 祐介が再び【界の狭間】に戻って来たとき、そこには焔しかいなかった。
 どうやら焔は祐介が戻って来たことに気づいていないらしく、上を見上げたままじっとしていた。何をしているのだろう、と思った。どうしようか少しだけ悩んだのだが、このまま気づかれないまま時間が長引けば長引くほど気まずくなるような気がしたので、祐介は意を決して焔へと声を掛けた。
「……あ、あの、」
 弾かれたように焔が振り返り、そのときに宙を舞った何かが、祐介にはなぜか涙のように見えた。
「……貴様か。どうだった、望みは叶えて来たのだろう」
 何も変わらない焔の姿に、さっきのは気のせいだったのだろうかと祐介は思う。
「あ、はい。あの、拓也さんたちは?」
「先に帰した。セロヴァイヤーではない者を長く置いておくと規律が乱れる恐れがあるからな。だから貴様もすぐに帰す」
 肯く祐介に向かって、一瞬だけ焔が笑ったような気がした。
 そして唐突に、焔は問う。
「――貴様には、大切な者がいるか」
 そう言われてすぐに思い浮かんだのは、やはり唯だった。
 迷わずに「います」と答えると、焔は満足そうに肯く。
「いいか。本当に大切に想うのなら、自らの命を賭けてでも必ず守り抜け。後悔したくないのなら、躊躇わないことだ。躊躇えればその分だけ絶対に後悔がついて廻る。貴様にはそれが足りないようだな。相手を倒すと決めたら何を置いてでも、自らの大切な者のことだけを考えて倒せ。それが、後悔しないコツだ」
 焔が話し終えた刹那、祐介の体が緑の光の粒子に包まれる。
 消え行くその瞬間に、祐介は無意識の内に頭を下げていた。
「ありがとうございました、焔さん」
 一瞬だけ驚いた表情をした後、焔は鼻で笑う。
「偉そうなことを言うな、餓鬼が」
 そうして、第十三期セロヴァイヤー戦優勝者は、【界の狭間】から地球へと転移される。

 漆黒の空間に佇む真紅の竜は、あの日のあの時のように、
 一人の少女に必ず伝わることを願い、大きな咆哮を上げた――。





     「エピローグ」



 体が感じるは一時のぬくもり。耳に届くは一匹のセミの声。
 その二つを意識して、唯はゆっくりと瞼を開ける。果てしなく広がる青空から射し込む大きな太陽の光に瞳を射抜かれ、思わず顔を顰めた。手で影を作ろうと思ったのだが、それより早くになぜか突然に光が遮られる。それが人影であることに気づいたのはいつだったのだろう。時間の感覚がはっきりとしない。ぼんやりとした視界を保ちながら、唯は逆光でよく見えないその人影が誰であるのかを知るためにじっと見つめる。
 心の奥底では、わかっていたのかもしれない。いや、わかっていたというより、そうであって欲しいと思っていたような気がする。その人影が誰であるのか。このぬくもりを与えてくれているこの人が、誰であるのか。それが『彼』であることを、望んでいる。そうでなければ嫌だとさえ思ってしまう。生まれて初めて、心から好きになった人だった。生まれて初めて、心から信用できた人だった。こんなわたしを、「好きだ」と言ってくれた唯一の人だった。
 一つだけ年下で、やっぱりどこか頼りなくて、いつも何かに脅えたような顔をしている少年。だけど、本当はとても強い人だった。誰かのために、必死になってくれる。ましてや、こんな自分のために戦ってくれる。思っていたよりもずっと強い人。そして何より、こんな自分を救い出そうとしてくれた。真っ暗な暗闇の中に、手を差し伸べてくれた。その光は、どんなものより強く、輝いて見えた。
 逆光のその中、唯はその名前を呼んだ。
「――……祐介、さん」
 立ち上がる元気は無かった。痛い所はどこにも無いが、それでもどうしてか立ち上がれない。しかし心のどこかで、こうしていたいと思う自分がいる。温かなぬくもりに包まれて、このままずっといられればどれだけ幸せなのだろうか。何の心配事もない、まるで夢のようなこの世界の中で、いつまでもいつまも、こうしていられれば、どれだけ心地良いのだろうか。
 暗くてよく見えないが、祐介がそっと笑ったような気がした。
「……唯さん。終らせてきたから。もう二度と、唯さんが苦しまないでいいように、全部終らせてきたから。だからさ、」
 頼りない少年だと思っていた。
「もし、何かに辛くなったらおれに言って。そのときは、どんなことをしてでも唯さんを助け出すから。後悔したくなんいだ。おれの命を賭けて、唯さんを守り抜く。もう躊躇わない。こうと決めたら一直線、行動あるのみ」
 いつも何かに脅えたような顔をしている少年だと思っていた。
「おれは、唯さんが好きなんだ。だから、守る。唯さんが守らなくていいって言っても守ってやる。だって、そう言うときの唯さんは絶対に、泣きそうな顔をしているに決まってるもん。頼ってくれていい。おれのことなんでどうでもいいんだ。唯さんが幸せなら、それでいいから」
 でもやっぱり、本当はとても強い人。
 目尻が熱くなっていて、気づいたら泣いていた。祐介が困った表情で「え、あ、唯さんっ? なんで泣いてるのっ?」と一人で焦っているのがなぜか可笑しかった。
 だから唯は、泣きながら笑った。
「……うん。ありがとう、祐介さん」
 そっと腕をその首に回して、祐介の顔を引き寄せる。
 生まれて初めて、キスをした。
 唇を離したとき、祐介は焦った顔のまま硬直していて、やがて火でも噴くのではないかと思うくらいに赤くなり出して俯いてしまう。
 それに追い討ちをかけるように、唯は微笑む。
「わたしも、祐介さんが大好きです」
 祐介の頭から、湯気が出たかと思った。それがやっぱり何だか可笑しくて、唯は笑ってしまう。
 体が感じるは一時のぬくもり。耳に届くは一匹のセミの声。
 セミの声は、やがて消えてしまうのだろう。だけど、ぬくもりはいつまで経っても消えはしない。
 なぜなら、そこに、祐介がいてくれるから。それだけで、このぬくもりは一生消えはしない。
 見上げる空はどこまでも果てしなく続いていて、その青に向かって一匹のセミが舞い上がる。
 まだ早いかもしれない。しかし、いつか必ず解き放たれる時が来る。
 一人の力じゃ駄目かもしれない。けど、祐介がいてくれる。
 祐介がいてくれれば、そう、信じられるのだ。
 青い空を漂う雲のように、わたしは自由に歩き出せる。

 ……――わたしは祐介と一緒に、
                    ここから、歩き出す――……






     「ヨナミネ」




 無機質な室内、漂うは数人の男の声。
「セロヴァイト戦の廃止。奴も下らない望みを言ってくれたものだ」
「お偉いさんの馬鹿共がまた小言を言ってくるに決まっている」
「それもこれも、出来損ないの虚のせいだ」
「しかし虚がまさか、雷靭如きに負けるとは貴方でも予想していなかったのではないですか」
「……雷靭に発生したバクの責任を、どう取るつもりですかな、ヨナミネ殿」
「どうもこうもないさ。これはすべてわたしの予想の範疇、計画には何の支障も無いよ。それに所詮、現セロヴァイトはすべて試作品だ。今回、雷靭にバクが発生したのは有り難いとさえ思う。これでセロヴァイトは完全なる、わたしたちの武器となるのだからね。虚も同じだ。焔と朧のデータを採取したまではいいが、やはり【創造主】が造り出した狭間の番人をわたしたちが造り出せる訳はなかったのさ。……が、わたしたちが造り出した偽物でも正常に動くことだけは確認できた。それだけで十分過ぎる。……欲を言ってしまえば、本当なら渡瀬拓也と源川祐介が焔を倒してくれていればいちばん手っ取り早かったんだが、やはり向こう側の人間は所詮そんな程度の生き物だ。それに源川祐介の今回の望み。これはこれで、やはり有り難い。もはや遠慮することはないのだからね。わたしたちは、近い内にすべての頂点に立つことができる。彼は、その引き金を引いてくれたのだ。――これからの行動を言い渡す。雷靭のバクを消去、それが完了し次第異世界へと送った試作セロヴァイトはすべて保管庫に叩き込んでおけ。それから虚の戦闘データのバックアップを回して『本来の幻竜型』に移し替えろ。時は動き出した。すべての準備は一年で整えろ。その時が訪れた瞬間に、わたしたちは、すべての世界を握る。――さあ諸君、始めようではないか。この世界にはもはや【創造主】は存在しない。ならば我々が、【創造主】になろうではないか」
「……ヨナミネ殿。ならば、最初の行動は?」
「今宵より一年後、我々は――【界の狭間】を、制圧する」
 無機質な室内、漂うは数人の男の盛大な笑い声。

 動き始めた計画は、それまでに関わったすべての者を飲み込み、深淵へと叩き落すことになる。
 しかしそれは、一年後の話――。








2005/02/15(Tue)16:16:17 公開 / 神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
そんな訳で、【セロヴァイト・リターンズ】『その九・エピローグ』+『ヨナミネ』なのでした。
ここまでお付き合いしてくださった皆様、誠にありがとうございました。ぶっちゃけた話はあれです、「前作とどっちが面白かった?」って聞かれればどう答えます?(笑) さてさて、やっとこさ完結したし、これからどうすっかなあ。……言っちゃ何ですが、『ヨナミネ』は読んでくれても無視してくれてもいいです。神夜の内面を表すと、「どうする、本当に書くか、このまま封印するか、むむっ、どうしたらいいっ、……ええいもう知ったことか、そりゃあポチっとな!』って感じでしょうか(マテコラ) それに暴露してしまうと、【セロヴァイト・ファイナル】などという反則的なモノの存在は既に、『その四・佐倉唯』を書いていた時点で完成してたんですけどね。
その当時に書いた予告ムービーを少し(オイ)
『第十三期セロヴァイヤーによるセロヴァイト戦終結から一年――。
 第十三期優勝者・源川祐介のセロヴァイト戦廃止という望みと共にセロヴァイト執行協会本部は終わりを告げた――かに見えたがしかし、すべてはまだ終ってはいなかった。【界の狭間】を超え、セロヴァイト執行協会は対立した二つの世界の均衡を崩す。
 二つの世界を飲み込んで始動した計画は、かつてセロヴァイヤーに選ばれた者たちを巻き込んでいく。
 狭間の番人は試作品としてしか意識されず封印されたセロヴァイトに言うのだ。お前たちの力を借りたい、と。自らを最強の相棒と認めたセロヴァイヤーへと辿り着くために、セロヴァイトは自らの意志を持って行動する。
 孤徹は拓也、風靭は啓吾、雷靭は祐介、水靭は唯、そして焔は紀紗の下へと再び集う。
 セロヴァイト執行協会本部の進撃を食い止めるべく、彼等は我が最強の相棒と共に立ち上がった……!!

 【セロヴァイト】【セロヴァイト・リターンズ】でお馴染みの神夜が贈る、
 最大の戦闘、最強の敵、最高のクライマックス。
 この物語は、これで本当の終わりを告げる――。

 【セロヴァイト・ファイナル】 2005年春公開予定!!乞うご期待っ!!
 ――物語は、まだ本当の完結を迎えてはいない――

 紀紗は言う。
 ――……わたし、
           拓也のことが……――』……なんつったりして(爆笑) ……しかし、ここまで書いて本編書かなかったら間抜けだろうなあ、自分……。オフででもちょこちょこ書こうかな。しかし、これをコピーするときに『R・設定』のファイルの中で、当初の『その九』の内容は『虚VS拓也・焔・紀紗』って書いてあることが判明。……あれ?祐介はどこ行ってしまったんだ?などとあの頃の自分を心底不思議に思う神夜なのです。
さて、馬鹿みたいに長くなってしまい誠に申し訳ありませんでした。ここでもう一度、感謝のお言葉を。前作からお付き合いしてくださっている方、今作からお付き合いしてくださっている方、すべての方を含めてここに最大級の感謝を奉げます。
また別の作品で出会えることを願い、何かもう壊れっぱなしの神夜でした――。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。