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『ずっと側にいる[最終回] 』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:liz
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ある朝。1人の女性が、無気力に横断歩道を渡ろうと信号を待っていた。彼女は、笹峰綾乃という、ピアノを専門に私立音大に通う20歳の女性。春風が彼女の長いさらりとした髪をなびかせる。音大のレッスンが一段落。彼女の顔に、ほっと笑みが広がった。
ふと、目線を上げると、青い空に、真っ白な雲が浮かんでいた。
「あ、ドーナツの形してる。食べたくなっちゃった。」
綾乃のお腹が、グーキュルキュルと空腹を主張した。寝坊したせいで、何も食べていない。
「ブランチ、かな。」
朝食には遅くて、昼食には早すぎる中途半端な時間。綾乃は、信号を渡りつつ、彼女にとってとても重要なこの問題について考えることにした。
信号が青になった。
東京では、人の流れがとても速い。九州の田舎で育った綾乃にとって、この流れに逆らわずに歩くことはとても難しい。不器用な彼女は、いつも大抵たくさんの人にぶつかる。
「すみません。あ、すみません。」
急いで、人とぶつからないように。そう思っているからなのか、それとも運が悪いからなのか、余計に人とぶつかってしまう。特に今日はひどいようだ。ようやく横断歩道の真ん中まで来た。そのときだった。
1人の男性の肩にぶつかった。
「す、すみません。」
綾乃は、即座に、彼に謝った。それで、すむはずだった。ところが、その男性が、急に綾乃の肩をつかんだ。綾乃は思わず顔をあげ、その男性の顔を見上げた。年齢は、20代前半。切れ長の目。色素の薄い髪。色白の端正な顔立ち。綾乃は、彼の瞳に強く射抜かれて、動くことすらできない。彼の口が、そっと開いた。
「ずっとあなたを探してた。」
綾乃の瞳が大きく見開かれた。と、そのとき、綾乃は、ここが、横断歩道のど真ん中であることに気付いた。
「すみません。」あわてて、横断歩道を渡ろうとする。しかし、彼の力は、とても大きくて、綾乃は動きたくても、動けない。必死に目で訴え、手を離してくれるよう目の前の男性に哀願したが、駄目だった。
と、そのとき。
彼は、綾乃の体を抱き寄せ、彼女の唇を奪った。
その瞬間全ての時は止まった。
綾乃は、彼の瞳を見つめた。彼は食い入るように綾乃を見つめている。何が何だか分からなかった。初対面の人間が自分に深く口づける理由がどうしても見つからない。合わさった唇から、彼が震えているのが感じられた。
どれくらい時が流れたのだろうか。綾乃は歩道に呆然と立ちつくしている。
「一体誰なんだろう。」
彼は、綾乃の心を捉え、横断歩道の中央に置き去りにし、人ごみの中へと消えたのだった。はっと我に返り、走って横断歩道を渡り終えた頃には、そこに存在していたはずの彼の姿、気配、全てが消えていた。
自分のことをずっと探していたという彼の存在は、突然のキスとともに綾乃の心に深く刻まれた。
「名前も知らない。大学も知らない。なんで私を探してたのかな。」
彼の瞳はとても澄んでいた。彼の震える唇の感触が蘇る。ただのキスではなかった。心からのキス。熱い思いがあふれていた。綾乃の人生の中で1番素敵なキスだった。
「もう一度会いたい。」
綾乃は、いつまた会えるか分からない彼に、会いたいと思った。会って、ずっと自分を探していた理由を尋ねたいと思った。
ずっと立ち尽くしているのも、疲れてきたので、綾乃は、近くのカフェに入ることにした。
「マスター。コーヒー。」
音大の近くに、お気に入りのカフェがある。カフェの名前は、「SAKURA」。和風なインテリアで、店内に飾られている小物は全て和を貴重とし、心をなごませてくれる。マスターは、50代前半の渋面。白髪交じりのひげをこすりながら、客の悩みを親身に聞いてくれる。誰も名前を知らない。だからこそ、話せる話もある。兄弟のいない綾乃にとって、マスターは、優しい兄のような存在だ。
早速、先ほどの出来事を話すと、マスターは、
「ふーん。」
とつまらなさそうにつぶやいた。
「マスター、どうしてそういう興味のなさそうな顔するんですか。」
「いや、お前のことだから、ドジ踏んで、よろけてブチュってしたんじゃないかと思ってね。」
「ひどーい。私、そこまでどじじゃないです!」
綾乃のふくれっつらを見て、マスターは大きな声で笑った。
「はは。で、明人にはどうやって説明するつもりかい?」
綾乃は固まった。そう。マスターが名前を出すまで、綾乃は明人の存在を忘れていたのだ。
「ど、どうしよう。」
綾乃と小林明人は付き合い始めて2ヶ月目に入る。2ヶ月前、明人が綾乃に惚れこみ、綾乃が押し切られる形で、2人は交際をスタートさせた。明人はバイオリン奏者で、綾乃のピアノにも惚れ込んでいた。
「俺、綾乃のピアノ、すごく好きなんだ。」
大学で、2人の演奏はとても評判が高い。特に先生方からの評判が高かった。
「どうせ、そいつとはもう会うこともないだろう。そういうのを、アクシデントていうんだよ。黙っているのも優しさだ。明人には黙ってろよ。言ってすっきりさせるのは、相手を傷つけて巻き込むだけだから。」
綾乃はマスターの言うとおりにすることにした。
翌日、綾乃は、明人に誘われて、大学のカフェテリアで一緒に昼食をとることになった。
明人は笑顔のとても似合う大人なびた人だ。音楽に対して、豊富な知識があり、綾乃はいつも彼に助けられていた。
「綾乃。どうした、何か元気ないじゃん。お前らしくもない。そんなに残して、どうかしたのか。」
「え?な、なんでもないよ。あははは・・・。昨日食べ過ぎたからかな。」
「そうか、それならいい。」
綾乃の心は罪悪感に包まれていた。いっそのこと言ってしまおうか。でも、昨日のマスターの言葉が心にひっかかって、言い出すことができない。
平静を装い、満面の笑みを明人に向けた。
「俺、レッスン入ってて。ごめん、もう行かなきゃ。」
「あ、私もなの。」
綾乃は、明人と一緒に席を立った。ふと、外に目を向けた。そのとき、ある人影が姿を現した。
ガチャン。
「綾乃、大丈夫か?」
綾乃の手元から食器が全て落ちてしまった。
「す、すみません。」
綾乃は急いでしゃがみ、落としてしまった食器を片付ける。
少し遠くに転がったコップを拾おうと、綾乃は手を伸ばした。と、目の前に1人の男性の手がすっと伸びてきた。
「また、会いましたね。」
綾乃は恐る恐る目線をあげた。すると、そこには、昨日、綾乃の唇を奪った男性が優しい笑みをたたえてしゃがんでいた。手には、綾乃が落としてしまったコップが握られている。
「綾乃、知り合い?」
後ろから聞こえてきた明人の声に、綾乃ははっと我に帰った。
「え、あの・・」
「もちろんです。彼女は・・・・。」
綾乃は耳を疑った。
「彼女は僕の恋人です。」
そこにいた全員の動きが止まった。
明人はしゃがんでいるその男性の胸ぐらをつかんで、立たせた。地面にコップの転がる音が響いた。
「何馬鹿なこと言ってるんだよ。綾乃は俺の恋人だ。」
「いいえ。今は僕の恋人です。」
「は?ふざけるな。一体全体お前誰なんだよ。」
「僕は秀といいます。とにかく、彼女は僕の恋人ですから。」
秀は明人の手を振り払い、2人を呆然と見上げる綾乃の手を掴むと歩き出した。
「お前、何なんだよ。どういう根拠でお前と綾乃が恋人同士になるんだよ。ふざけんな!」
「僕達は昨日永遠の愛を誓ったんです。」
「いつどこでどうやってだよ。結婚するのか?婚姻届を出したのか?」
「彼女とキスしました。」
明人の顔に動揺が広がった。
「キスがなんだ。」
「heartsealingkiss]
「は?」
「僕達の心は昨日1つに合わさったんです。もうあなたと彼女は関係ありません。失礼します。」
呆然とする明人を残し、秀は綾乃を連れてその場を去った。
先を急ぎ、早足で歩く秀に強引に引っぱられて、動揺を隠せない綾乃の心はますます心細くなった。
「あの・・。」
秀は、綾乃の言葉に振り向きもせず、キャンパスの門をくぐりぬけ、どんどん綾乃の知らない道を駆けていく。
綾乃は、思い切って叫んだ。
「あの、やめてください、こんなことするの!あなたは私のことずっと探してたって言ったけれど、私には・・・。私には、偶然道端で出会った、としか思えないんです。あなたは、私のこと、何だと思ってるんですか?答えてください。」
それでも、秀は歩を休めなかった。
「どこに連れて行くつもりです?何がしたいんですか。私と愛し合っている。そう言ってたけど、私、あなたのこと全く知らないのに、愛し合うとか、ありえません。どうして、あんなにひどいこと、明人に言ったんですか。答えてください。いい加減にしてください。答えてください!」
ふと、秀は立ち止まった。大学近くの川沿いの公園。あたりに人影はない。綾乃はその雰囲気に気圧されて、言葉を失った。静けさがあたりを支配する。
「俺、死ぬんだ。」
綾乃の心臓が止まった。
「俺、死ぬんだ。だから、1ヶ月でいい。僕と付き合ってくれない?1ヶ月でいいから。そしたら、俺は君の前から消えるから。君は彼の元へ戻っていい。だから、俺に君の1ヶ月をくれないか?」
綾乃の目に、秀の真剣な眼差しが飛び込んできた。綾乃は息を押し殺して秀を見つめた。見つめることしかできなかった。今は、たくさんの出来事がいっぺんに起こりすぎて、何も考えられなかった。
「なーんてね。冗談だよ。」
突然、秀は、さも綾乃が冗談に引っかかったかのようにクスクス笑い出した。
「最低!」
綾乃は、秀の頬をバシッとたたいて、元来た道を駆けていった。
秀は、綾乃の後姿を見つめることもなく、寂しげな微笑を浮かべ、公園のベンチに腰掛けた。
辺りを闇が包み込もうとしていた。
夜道を1人の男性が力なく歩いている。秀だ。手にコンビニの袋を提げて、家路を急ぐ。秀は1人暮らし。都内の高級マンションに住んでいる。17の時、両親が残してくれた遺産で購入した。秀の両親は、秀が17の時に、交通事故で亡くなった。2人は駆け落ちし、結婚した。互いの両親に反対されたのだった。葬式の新聞広告を見て来たのだろうか。秀は両親の葬式で1人の男性の泣き崩れる姿を見た。「この親不孝者!」そう叫ぶ老人と彼のそばで目頭を熱くする親戚らしき人たち。このとき、秀は、両親が彼らにとって、やはり大事な人であったことを実感できたので、とてもホッとしていた。しばらくして、両親の生命保険が秀の手元に届いた。そして今も住んでいるこのマンションを購入したのだった。
エレベーターで自室へ向かう。リヴィングルームに入り、テレビをつけた。おもしろくないお笑い番組を見つつ、ビールを片手に買ってきた惣菜をつまむ。食欲がない・・。残ってしまった惣菜をタッパーに移し変えた。ソファに横になる。耳にお笑い独特の笑い声が聞こえてくる。
「俺、いつからあんなふうに笑わなくなったんだろう。」
そっと目蓋を閉じる。と、突然秀は立ち上がり、流し台へと駆け込んだ。
「う、うう・・。」
全てを吐き出してしまった。蛇口をひねる。秀はその場に静かに崩れ落ちた。
突然秀に連れ出されてから1日が経とうとしていた。綾乃は明人に呼び出されて学内のベンチに腰掛けている。綾乃は気まずくて、明人と目が合わせられないでいた。
「アクシデントなんだろう。」
「え?」
明人の言葉に、綾乃の瞳は揺れた。
「マスターから聞いたよ。許す。ただ、あいつには会わないでほしいな。俺、あいつにだけは、お前を渡したくないんだ。」
「何で、マスターに聞いて、私に直接聞かないの?それに許す許さないていう問題じゃないよ。私から、まだ、何も言ってないじゃない。私になんで直接聞かないの?そういうとこ、ずっと嫌いだって言ってるじゃない。私、ずっと待ってたんだから・・。とても怖かった。だけど明人が直接聞いてくるの、ずっと待ってたのに。」
明人の表情が曇った。
「私、レッスンあるの。もう行くね。じゃ。」
綾乃は小走りに教室へと向かった。
練習室から、激しく打ち鳴らされるピアノの音が聞こえてくる。
「もう、何なの?」
綾乃の右手が何度も振り下ろされて、それに伴って鍵盤が激しくたたきつけられている。どうにでもなれ、という気分だ。どうしてこんなに苦しいのだろう。心の苦しみを吐き出すように、綾乃は激しくピアノを打ち下ろす。と、そのとき、綾乃の背後にいる人影が、振り上げられた右腕を止めた。
綾乃は、はっとし、後ろを振り向いた。そこには、優しい微笑をたたえた秀の姿があった。
「何しに来たんですか。その手を離してください!」
「何あせってるんですか。」
秀は綾乃の腕を離すと、綾乃の瞳を覗き込んだ。
「俺を愛してくれませんか。」
「な、何言ってるんですか。」
綾乃の瞳が激しく揺れた。
「俺を愛してほしい。」
「どうして・・。」
「1ヶ月でいい。俺と付き合ってほしい。」
「どうして、1ヶ月にこだわるんですか?教えてください。どうして、私なんですか。あなたが現れてから、私の生活はめちゃくちゃです。」
「1ヶ月でいい。そしたら、君の前から消えるから。」
「消えるって?」
「返事待ってる。今日1日じっくり考えてみてくれないか。明日、ここで待ってるから。」
綾乃は秀の瞳をもう1度見つめた。思わずうなずく。足元にあった鞄をとり、足早に練習室を去ろうとした。そのとき・・。
ゲホゲホ。
秀の咳き込む声が聞こえてきた。綾乃は思わず後ろを振り返ろうとした。
「振り返るな!」
秀が急に怒鳴った。
「行け!」
突然怒鳴られ命令されて、綾乃は気が動転し、全速力で走り出した。しばらくして、綾乃は、立ち止まった。綾乃の耳に魅力的なピアノが聞こえてきたのだった。その音楽が聞こえてくる部屋の前にたどり着いた。そのピアノの演奏者を知り、綾乃は驚愕した。秀だった。と、突然ピアノの音が跡形もなく消えた。綾乃は急いでドアを開けた。
「キャー!」
綾乃の口から、悲鳴がもれた。綾乃の見つめる先には、開かれた窓、血だらけのピアノが横たわっていた。真っ赤に染まった鍵盤、床にこぼれた血が全てを物語っていた。
「どうして、どうしてなの。」
綾乃はその場に崩れ落ちた。謎が解けた気がした。涙がぽろぽろと零れ落ちる。秀の血に染められた鍵盤が綾乃の透明な涙によって白さを取り戻していく。
ポーン。
1音鳴らしてみる。秀の音楽がそこにはまだ残っていた。綾乃は、このとき、悟った。これから発展していくだろう想いを・・・。
晴れ渡っていたはずの空が急に曇り始めた。嵐が起こる、そんな予感がした。
はぁ、はぁ・・・。
秀は道端で倒れていた。そこへ、1台の車が来た。
「もう!だから言ったでしょ。無理したら駄目だって。」
「す、すまない。」
秀を抱きかかえ、その女性は車に乗り込んだ。車が行き着いたその先は、病院だった。彼女は、車を降り、病院へと駆け込んだ。
「鷺先生、こんにちは。」
優しそうな看護婦の声をさえぎり、鷺歩美は、秀の状態を看護婦へ告げ、急いで自分の車へ戻った。
処置が良かったからか、秀の病状は、3時間後には安定した。
「あなたは、もう長くないのよ。いくら、残りの人生を自分の思うとおりに生きたいからって、元気な頃と同じようにはいかないわ。体力もこれから衰えてくる。もう少し気をつけてよ。」
歩美の言葉に対して、秀は自嘲気味に笑った。
「どうしても、命を短くするつもり?手術受けなさいよ。おじちゃんとおばちゃん、悲しむわよ。」
歩美と秀は、幼なじみだ。歩美の両親と秀の両親が親しい友人だった関係で、2人は、幼い頃よく一緒に遊んだ。歩美は秀よりも5歳年上だが、2人は今でも気の合う友人だ。歩美は外科の医者になり、秀は音楽家の道を進むこととなった。3ヶ月前から歩美は秀の治療を担当することになった。早期発見ができていれば、完全に治る見込みもあった。だが、秀は、末期の胃がんだった。転移こそしていないものの、手術をしても完治する見込みはなかった。歩美は悩んだ。だが、肉親のない彼には、告げるべきだと思った。正直に説明したら、案の定、秀は治療を拒んだ。どうしてか、と歩美は詰め寄った。医者になった自分が幼なじみの病気に気付かず、防げなかった。今まで生きてきた中で、1番後悔してる。お願いだから、できるだけ長く生きてほしい。泣きながら何度も頼んだ。しかし、秀の気持ちは変わらなかった。
「死ぬまでにしておきたいことがあるんだ。俺の願いは、それだけだから。」
治療を施せば、1年は生きられる。だが、治療をしなければ、どれだけ生きられるか分からなかった。最長で3ヶ月・・・。結局歩美には、秀を止めることができなかった。
結局、歩美から薬を渡され、秀は家に帰ることにした。ベッドに横になった。なかなか眠れない。死を覚悟しているとはいえ、秀は、死に対する恐怖を拭えないでいる。目を瞑ってみる。暗闇・・。死んだら、何も見えなくなるのではないか。そんな気がしてならなかった。思わずベットから起き上がる。自分の心臓に手を当ててみる。
「ああ、俺は生きている。」
秀は死にたくなかった。ずっと生きていたかった。でも、自分に残された時間はあとわずかだ。今、こうしているうちに、死ぬまでの何分の1かの時間が過ぎ去っている。そう、考えると、眠る時間さえ惜しくなって、眠れない。秀は、体を横たえ、ずっと考えていた。両親の言葉、両親から学んだこと。両親が死んでから、考えていたこと。自分を誰よりも愛してくれた彼らに恥じない生き方をしたい。そして、彼らの願い。秀は、その願いを叶えようと思っている。それは、彼らの願いでもあり、秀の望みでもある。それは、秀1人では叶えられないものだった。また、1つの夜が更けていった。
綾乃は昨日の出来事を思い起こした。そして、明人を呼び出した。
「別れよう。」
綾乃が切り出した。明人は虚ろな目で、綾乃を見た。
「あいつのところに行く気かよ。」
綾乃は頷いた。
「俺がどれだけお前を好きだか知っててどうしてそういうことできるんだよ。ふざけるな!」
「・・・。」
「俺のこと、好きじゃなかったのか?愛してなかったのかよどうなんだよ、答えろ!答えてくれ!綾乃!」
「ご、ごめんなさい。」
「それだけじゃ分からない!」
「本当にごめんなさい。私、どうしても行かないといけない。」
「どうしてだよ?あんなやつ、放っておけ・・。」
「放っておけないの!」
綾乃の目から一筋の涙がこぼれた。
「私のこと、忘れて。もっと素敵な人いるよ。」
「綾乃!どうして・・。」
「ごめんなさい。言えないの。どうしても言えないの。」
綾乃のただならぬ様子に、明人は、どうしてもこれ以上反論が出来なかった。
「今まで・・。ありがとう。」
綾乃は、寂しい微笑を残して、明人の前から去った。明人は、途方にくれたまま、その場に立ち尽くした。綾乃を手放してしまったという実感がなかった。あまりにも時の流れが速すぎてついていけない自分がいた。今、何が起こっているのだろうか。明人は、この疑問について、しばらく考えてみることにした。
綾乃は、約束の場所へと向かった。扉を開けると、そこには、秀がいた。
「来てくれたんだ。」
綾乃は、頷いた。
「返事聞かせてもらってもいい?」
「ええ。」
そして、綾乃は自分の気持ちをつげた。
「私、秀さんのこと、よく分かりません。どうして、1ヶ月にこだわるのか。どうして、私なのか、まだよく分かりません。だけど、私を必要としてくれてるなら。側にいたいって思いました。本当に私でいいんですか?」
「うん。」
綾乃は、驚いた。秀の顔に、今までで1番素敵な笑顔が広がっていたから。綾乃に近づいてきた秀の手が、そっと綾乃の頬に触れた。
「ありがとう。」
秀は、ぎゅっと目を瞑る綾乃のおでこにそっとキスをした。
「あなたを愛しています。」
秀は真剣な表情で、綾乃にそう告げた。
「あなたを本当に愛しているんです。」
綾乃の瞳が激しく揺れた。
「僕を愛してくれませんか。」
「はい。」
これから、どうなるか分からない。しかし、綾乃は、彼の気持ちに答えたい。そう思った。
2人の唇は重なった。こうして、秀と綾乃は、恋人同士になった。
これからどうなるのか・・。このときは、まだ、誰もが、予想していない方向へと進んでいくことには気付けなかった。幸か不幸か・・。
明人は、苦悩していた。どうして、綾乃はたった3日前にしか知り合っていない人のところへ走ったのか。自分に非があるとは思えない。それは、あまりにも残酷すぎる仕打ちだった。半ば強引に綾乃と付き合い始めたのは、認める。だが、明人は、綾乃を本当に愛していた。綾乃は、いつもとても楽しそうにしていた。だが、それは、偽りだったのだろうか。時折見せる、悲しげな表情、虚ろな表情で何度か不安に襲われた。だが、それは、本当に数回だった。まさか、たった3日で心変わりをするようなその程度の愛情しか綾乃は抱いていなかったのか。そう思うと、全てが苦々しく感じられた。
「これから、何をすればいいのか・・。」
綾乃を失った今、ピアニストというかけがえのないパートナーまでもが失われたことになる。苦しげな表情でため息をつく彼の後ろの木陰に、一人の女性が立っていた。
綾乃だった。
綾乃は、複雑な心境だった。綾乃は、明人と付き合って、明人がどれだけ自分を愛しているかを知った。だが、好きで付き合い始めたわけではない。半ば強引に付き合うことを強要されたのだ。
それは、今から3ヶ月前。
数人で飲み会を開いたときのことだった。いつもよりも酔いが早く、知らぬ間に、綾乃はすやすやと眠ってしまっていた。気づいたときは、遅かった。そこは、明人の家だった。
「あ、あのー。」
そう、声を出すだけで精一杯だった。自分の状況に怯えていたから。部屋のドアには、すでに鍵がかかっていた。
「綾乃ちゃん、僕と付き合ってくれないかな?」
綾乃は、目を見開いて明人を見た。
「僕、君の事だーいすきなんだ。」
「え、でも、私、先輩のこと、好きではな・・。」
「僕と付き合わないんだったら、ここで襲ってもいいんだ。」
綾乃の肩が小刻みに震えた。
「どうする?襲われて裸の写真を撮られて、無理やり付き合うか、それとも、今、僕を愛してると言って、付き合うか。2つに1つ。どうする?」
綾乃の目に、溜まっていた涙が、零れ落ちた。
「あ、あなたを愛しています。」
明人は、にこりと笑った。
「ありがとう。じゃあ、付き合おうか!」
無理やり始まった付き合いだった。綾乃は、ずっと怯えていた。あんなふうに強制的に付き合わされたから。心が硬くなって、愛さないと、という義務感があっても、表面でしか愛せなかった。だが、後から分かった。彼はただ単純に臆病だったのだと。だから、ああいう手段でしか告白できなかったんだと。付き合い始めて間もない頃、明人は怯える綾乃に、言った。
「すまない。こんな形でしか、告白する勇気がなかった。綾乃に気持ちがないこと、分かっていたから。」
明人の表情には、後悔の色が色濃かった。だが、明人はこうも言った。もう後戻りはできない。分かっているつもりだ。後悔していない、と。それから、しばらくして、明人が本当に自分を愛してると実感した。最初は本当に許せなかった。あの恐怖感は今でも消えないでいる。だが、だんだんと明人を知っていくうちに、許せるかもしれないと思うようになった。たとえ、きっかけがあんなにむごいことであっても、綾乃は、彼を愛せる気がしていた。だが、それから1週間後。秀が目の前に現れた。なぜだろう。強引にキスされたとき、心がもうすでに奪われていた。あんなに愛してくれている明人のことを全て忘れてしまいそうだったのだ。明人も秀も強引さは引けを取らない。2人ともきっと自分を愛しているのだろう。だが、秀は、明人よりもっと自分を求めていると感じた。そして、自分自身も。なぜか・・。理由は分からない。だが、きっと、これからもっと好きになる。直感で感じたのだ。明人はきっと、訳が分からないはず。だけど、綾乃はもう明人にしてあげられることはないと思った。自分が姿を現せば、未練がますますつのると思ったのだ。理由は、そのうち明人に告げよう。綾乃は、明人に悟られないように、そっとその場を去った。
「美味しいね!」
綾乃は秀に誘われて、一緒にカニ鍋をつついている。ここは、銀座の高級料亭。まさか、こんなところに来ることになろうとは・・。綾乃は、ラフな格好をしてきたことを後悔していた。だが、美味しい料理に舌鼓をうっているうちに、自分の格好のことなど忘れてしまう。
箸を止め、秀を見つめた。秀は、あまりカニを食べていないようだった。豆腐と野菜をゆっくりと食べている。綾乃の視線に気づいた秀は、綾乃のほうに笑顔を向けた。
「俺に見とれて、どうしたの?」
「え、あ、秀は、あんまカニ食べてないなー、て思って。私だけがつがつと・・。」
「いいんだよ、俺は。それより、ここ、いいところだろ!」
「うん。」
とても落ち着いた雰囲気で、隠れ家的なことろもあり、綾乃は、落ち着ける店だな、と思った。料理も絶品。
「よく、両親と来たんだ。」
「そうなんだ。あ、ご両親はお元気なの?」
「ああ。きっと、今頃悔しがってるはずだよ、雲の上で。」
綾乃ははっとした。聞いてはいけないことを聞いてしまったようだ。
「ご、ごめんなさい。」
「いや、いいよ。俺は両親の話ができるのって、結構嬉しい。みんな、あえて尋ねないんだ。でも、俺は、今があるのって、両親のおかげだし、話すのに抵抗はない。俺を本当に大事にしてくれた、優しい両親だった。」
秀の懐かしそうな表情に、綾乃は、少しほっとした。
しばらくして、2人は料亭を出た。秀は、お酒が飲めないらしく、車で来ていたせいもあり、ドライブに行くことになった。
窓から入ってくる春の夜風は、ひんやりして、気持ちよかった。運転する秀の横顔は、とても幸せそうだった。高速を抜け、横浜のとある海岸沿いの道路に車を止めた。空には、たくさんの星が輝いていた。
「きれい!」
綾乃は、手を叩いて喜んだ。あまりの素直な反応に、秀は、クスクス笑った。
「よかった、喜んでくれて。」
「本当にありがとう!」
秀に微笑む綾乃の目には、たくさんの星が映っていた。秀は、じっと綾乃の目を見つめた。少し、綾乃はたじろいだ。
「あの、秀?星、見ないの?海もきれいだよ。」
「いい。綾乃の瞳のほうがもっと澄んでて綺麗だから。」
綾乃は、どぎまぎした。容姿端麗な秀にそう言われると、本当に恥ずかしかった。
「秀のほうが、ずーっと綺麗だよ。」
「あんまりいい褒め言葉じゃないね。かっこいいって言って欲しい。」
「でも、綺麗だよ。私は、最初に会ったとき、すごい綺麗な男の人だって思った。儚い、ていうか。」
綾乃の言葉が秀の胸に突き刺さった。儚い?綾乃は知らないうちに、俺の人生が儚いって気づいたのだろうか。なんとなく、今日はこれ以上綾乃と一緒にいられない気がした。
「帰ろうか。」
「え?」
「明日、早いだろう。」
「まあ、そうだけど。せっかくここまで来・・。」
「帰ろう。」
秀は、即座にハンドルに手をかけた。結局、ひたすら、無言で車を運転する秀に、綾乃は声を掛けられなかった。
「じゃあ。」
秀は、綾乃を家まで送り届けた。綾乃は、綾乃を振り返らずに、走り去っていく秀の車を見つめた。
「一体どうしたんだろう。」
自分が何をしたというんだろう。少しは秀に近づけた気がしたのも束の間、秀は綾乃をさりげなく突き放した。
「私に愛して欲しいって言ったくせに。もう、何なの。訳が分からない。」
綾乃は、しばらく、そこから動くことができなかった。
秀は、家に着いて、ソファーに横になった。病気のために、やめなくてはならなかったタバコを、おもわず吸いたくなった。タバコの代わりに、ため息をそっと吐き出した。
「俺は、何がしたいのだろう。」
さっき戸惑いを隠せないでいた綾乃の表情がとても気になっていた。彼女のせいではない。だが、どうしようもなく、綾乃の言葉が突き刺さってしまったのだ。
「俺は、儚くこの世から消えるのだろうか。」
分かっていても、頭が、心が、自分の置かれた状況についていけないでいる。そんな自分が腹立たしくもあり、情けなくもあった。だが、どうしようもない。自分は、もうすぐ死ぬのだと・・。それを受け入れることができない。受け入れてしまったら、何もかもが崩れる気がした。自分の中で築きあげてきたもの全て。受け入れたが最後、ずっと怯えながら暮らしていく気がした。
だが、いつか受け入れなければいけない。分かっている。だけど、怖い。怖い、怖い、怖い。いっそ、綾乃に言ってしまおうか。だが、言ったが最後、彼女は同情して最後まで俺につきあおうとするのが見えていた。俺は、そのような状況を望んでいない。俺は、本当に彼女から愛されたかった。彼女を愛し始めたのは、今から約1年前。ある冬の日、俺は綾乃の存在を知った。
外は、雪が降り注いでいた。秀は、作曲に没頭して、窓の外の景色を見る余裕がない。机の前には、1枚の絵。それは、彼が作りたい音楽そのものだった。この1枚の絵と出会ったのは、2日前。作曲の構想を練りつつ、秀は夜道を散歩していた。なかなかいいメロディーが浮かばない。ふと、目の前にたくさんの絵が並べてあるのに出くわした。なかなかいいセンスだと思った。1枚くらい買おうか、そう思ったとき、ふと、目に1枚の絵が飛び込んできた。それは、絵というより、イメージだった。真っ白な葉書くらいの画用紙。その中に何筋かの曲線が銀色の絵の具で描かれていた。そして、たくさんの淡い水玉がちりばめられいてる。すべて、同じ大きさでなくて、小さいのに個性が感じられた。とても惹かれた。魅せられた。手を伸ばしとき、同じように手を伸ばしてきた人の手とぶつかった。一目で、その人がピアニストで女性だと分かった。音楽家は、手に特徴がある。秀は、自分がピアノを弾けることもあり、即座に見抜いた。
「す、すみません。」
透明感のある、柔らかい声が聞こえてきた。とても恐縮している。
「いえ、いいですよ。」
声のする方向へと視線を向けると、秀は、目を見開かずにはいられなかった。なぜなら、彼女は、そのイメージそのものだったから。長い黒髪をなびかせ、清楚にたたずむ彼女は、本当に可憐で、でも人とは何か違う個性を持っていた。雰囲気がどことなく独特で、でもやんわりとしている。そう、絵のイメージそのものだった。
「これ、お買いになりたいんですか?」
秀は、彼女の声ではっと我に返った。
「え、ええ。この絵が今、僕に必要なんですよ。そちらは・・。」
「私は、どうしてもってわけじゃないんです。どうぞ、お買いになってください。」
彼女はそう言うと、そっと姿を消した。微笑みを残して。
彼女は、綾乃だった。
その絵は、今でも、秀の寝室に飾ってある。この絵を綾乃は覚えているだろうか。秀はベットに腰掛けて、絵を改めて見つめた。
あの日、綾乃に出会ってから、秀は、彼女の名前も住所も、電話番号さえも聞かなかったことを後悔した。彼女の名前を知ったのは、大学のコンサートでだった。舞台に立つ彼女は、本当に輝いていた。他の人と何か違う独特な雰囲気を持ち合わせていた。パンフレットで彼女の名前を見つけた。
「綾乃・・。」
綺麗な名前だと思った。コンサートが終わると、慌てて楽屋に駆け込んだ。しかし、彼女は見当たらなかった。それからというもの、学内で、いやというほど、彼女を探し続けた。ところが、遠くで姿を見かけても、彼女に近づくこともできないでいた。なぜだろう。本当によく分からなかった。でも、彼女と一度も話ができなかったのだ。どうしても捕まえたい。彼女と話がしたい。でも、それから1年間、秀は彼女を遠くで見かけても、どんなに追いかけても、追いつくことができなかったのだ。不思議だった。だんだんと彼女を愛していることに気づき始め、どうしても告白しようと思った、そんな矢先に、秀は、倒れた。歩美から告げられた病名、病状は、秀を絶望に突き落とすのに十分だった。このままでは、綾乃に告白もできない。死ぬまでには、告白したい。そう願った。神様は、知っていたのだろうか。あの時、歩道で綾乃を見つけたとき、涙がこぼれそうだった。あれだけ、会いたかった綾乃が、楽しそうに空を見上げていた。チャンスだと思った。秀に残された時間がわずかだった。だから、あんな強引なことをしたのだと思う。するしかない、と思った。なぜなら、1年間彼女と口をききたくても、きけなかったのだから。
回想しているうちに、自分がどれだけ愚かなことを綾乃にしたかということに気づいた。あと、一緒にいられるのは、僅かだというのに。自分はなんて馬鹿なのだろうか・・。秀は、急いで、車に飛び乗った。
ピンポーン。
こんな夜中に誰だろう。時計は、もう12時をとっくに超えていた。
「どちらさまですか?」
「俺だよ。」
秀の声がして、綾乃は、急いでドアを開けた。
「どうしたの?」
「会いたくて。」
綾乃は、秀の目に、涙が浮かんでいるのに、気づいた。そっと伸びてくる秀の腕が綾乃を包み込んだ。
「ごめんね。昨日は。俺、怖くなったんだ。なんでか分からないけど、すごく自分が怖くなったんだ。俺、自分が儚く消えていく気がして、怖くなったんだ。俺のこと、皆忘れていくんだろうなって。怖くなったんだ。本当に怖くなったんだ。今でも、怖い。怖い・・。」
綾乃は、自分が秀を追い詰めたことを知って、驚愕した。自分が言ってしまった言葉が、これほど秀を精神的に追い詰めたなんて。後悔が胸に瞬く間に広がっていく。
「ごめんなさい。ごめんなさい・・。私、私・・。」
綾乃の目に、涙が幾筋も零れ落ちた。綾乃は、悔やんだ。秀が病気だって分かっていたはずなのに。治らない病気なのではないかと薄々感じていた。実際は知らない。だが、感じていたにもかかわらず、軽はずみに言った言葉で彼を傷つけてしまった。
「いいんだ。でも、今日は、傍にいてくれないか・・。」
綾乃は、すぐにうなずいた。恐怖に怯える彼を、一人になんてしておけなかった。
秀は、綾乃の隣に横になった。しっかりと繋いだ手から、互いの温もりが感じられた。秀の心が温かくなった。こんなふうに人の温もりを感じたのは、何年ぶりだろう。綾乃は、秀のほほをつたう涙に気づかぬふりをした。お互い目を閉じていたが、2人とも、眠れずにいた。いろいろな思いを抱いた夜空が、だんだんと明るくなり、2人のそれぞれの思いを照らし始めた。
2人が付き合い始めて、すでに2週間が経とうとしていた。綾乃は、だいぶ、秀がどのような人か分かり始めていた。彼は、人に心を開こうとしない。傷つくのを恐れているのだろう。その繊細な心が秀の魅力の1つだった。そして、彼は、才能の塊だった。大学で何を専攻しているのか、彼はなかなか教えてくれなかった。だが、彼は、強烈な曲を書く、作曲家だと、ようやく3日前に知った。3日前、綾乃は初めて彼の家に遊びに行った。シンプルなつくりの中に、センスが感じられる建物だった。内装も素晴らしかった。どの壁も真っ白だった。床は、淡い茶色のフローリング。玄関から続く廊下を抜けると、広いリビングがあって、右手には、整ったダイニングキッチン。彼に案内されて、ピアノの置いてあるという部屋に入った。そこには、1台のスタンウェイ、そしてデッサンの道具があった。彼は、言った。俺は、音で絵を描きたい。5線譜のような味気ない記号には頼りたくないのだと。彼の描く絵、そしてそれが表す音楽は、綾乃の心を深く捉えた。綾乃は、彼と出会えたことを、誇りに思った。彼の音楽を聞くだけで、心が激しく揺れた。彼から見せてもらった音のデッサンの数々・・。1枚1枚、全てが素晴らしすぎて、感嘆の声も出ない。そして、彼は、綾乃に1枚の絵を見せた。しばらくして彼はその曲を弾き始めた。あまりの美しさに、綾乃はうっとりせずにはいられなかった。そして、彼女は驚いた。なぜなら、彼は作曲の才能と同時に卓越した、並外れたピアニストとしての才能も持ち合わせていたから。綾乃は、自分が恥ずかしくなった。1人の天才を前にして、自分の演奏技術など、足元にも及ばないと感じた。だが、秀は、綾乃の才能を高く評価していた。なぜなら、秀と綾乃は、全く違う音楽を奏でているのだから。秀は、恥ずかしがる綾乃に言った。自分は自分なんだ。君と俺は生まれ育った環境も、何もかもが違うのに、俺と同じように君は弾けると思うかい?綾乃は、俺と全く違った才能を持ってる。だから、惹かれたんだ、と。綾乃は、3日前に言われた彼の言葉を思い出し、そっと微笑んだ。あんなに素敵な人に、評価してもらえるなんて。しかも、愛されている。綾乃は、秀に対して、憧れとともに、愛情を抱くようになっていた。2週間前のあの日から、綾乃は、秀とともに眠るようになった。秀は、綾乃の家に通うようになっていた。時々、怯えるように起き上がる秀を、綾乃は、抱きしめ、あやした。彼が何に怯えてるのか、薄々感じてはいたものの、それが何なのか、はっきりと知れずにいた。そして、綾乃はだんだんと疑問を抱くようになっていた。
「秀は、私をどうして抱こうとしないのだろう。」
明人は、綾乃と付き合い始めてすぐに、彼女を抱こうとした。彼は、言った。愛している女性を抱きたいと思わない男性はいないのだ、と。綾乃は、拒んだ。だが、明人は、笑顔でこう言った。大丈夫。俺は、綾乃がいいというまで、待てる自信があるんだ。君を愛してるから。待つよ、俺。綾乃は、自分を襲おうとしたくせに、本当に彼は待てるのだろうか、と思った。だが、彼は、3ヶ月の間、ひたすら待った。不思議だった。綾乃は、明人が本当に愛しているのだということが、このとき、分かった。だから、あと少ししたら、彼に体を許そうと思っていた。秀と出会うまでは。結局、明人に体を許さないまま、秀と付き合うことになった。綾乃は、まだ、秀と出会って3週間も経たないのに、彼を愛している自分に驚きを隠せないでいた。だが、それと同時に、あんなに愛していると言っていた彼が、自分の体を求めようとしないことに、疑問を持ち始めていた。
「私は、もう、彼を愛しているのに。体を許してもいい。そう感じているのに。こんなに短い期間でそう思うようになるなんて、びっくりだけど。だけど、本当にそう思ってる自分がいるの。不思議。だけど、秀は、私を求めてこない。」
それに、ここ1週間、秀の口から、愛しているという言葉を聞いていない。綾乃は、秀が本当に自分を愛しているのか、だんだんと不安になった。
秀は、実を言うと、毎日、眠れないでいた。綾乃の手から伝わってくる温もりが、愛する人が隣にいるということを実感させていた。それが災いしてか、実感すると同時に自分の意思と反した衝動を抑えられないでいた。
「彼女を抱きたい。」
抱いて、自分のものにしたい。その思いは、あまりにも強く、彼は毎日抑えることが苦痛だった。すやすやと眠る彼女を前に、自分の気持ちがとてもけがれたものに思えて、恥じた。そして、彼は、彼女を抱かない、と決めていた。もしものことが起こったら、取り返しがつかなくなるから。それを彼は1番恐れていた。綾乃にリスクを負わせるようなことはしたくないと思った。だから、どうしても抱くことはできない。秀は、それが、綾乃を傷つけることになろうとは、思いもしなかった。秀は、携帯を取り出し、綾乃に電話をかけることにした。
約束の喫茶店に現れた秀の顔には、笑顔が広がっていた。
「コーヒーゼリー1つ。」
綾乃は、薄々気づいていた。彼が、消化のいいものしか食べていないことに。綾乃はそのことに気づかぬふりをしていたが、彼の病気が深刻なものであることを確信し始めていた。
「今日は、俺の家に泊まらないか?」
「え、うん。」
秀が自分の家に泊まらないかと誘うのは、これが初めてだった。とても嬉しくて、綾乃は、満面の笑みを浮かべた。秀は、そんな綾乃がいっそう愛しく感じられた。無邪気な彼女の表情が、胸をついた。ますます、彼女を抱いてはいけないと思った。
綾乃は、今日は腕を振るうと豪語し、たくさんの食材を買い込んだ。秀の家に着いてから、綾乃は、必死に料理をし始めた。綾乃は、あまり腕に自信がなかった。だが、秀のために、頑張った。そんな綾乃を傍で見守る秀は、綾乃が自分を愛し始めていることを感じていた。綾乃は、必死だったが、手がおぼつかない。クク、と笑うと、綾乃は、涙目になった。
「ひどーい!私、頑張って作ってるのに。」
その表情がますます秀の心をえぐった。秀の顔には、笑顔が広がっていた。だが、心は、泣いていた。
綾乃特製の海老グラタンとオニオンスープを食べながら、秀は、幸せに浸っていた。こんな暮らしがずっと続けばいいのに・・。だが、時は、秀の体を蝕んでいた。綾乃の作った料理を半分も残してしまった。綾乃は、全く気にしていない様子だった。だが、秀は、こんな自分が情けなくて、悲しかった。愛する人の料理を食べたくても食べられないなんて。全て平らげたかった。だが、今の彼には、無理だった。
「気にしないで。まずい、て言われなくて本当によかった。だって、秀もともとあんまり食べてないじゃない。これだけ、食べてくれるなんてすっごく嬉しいの。残すだろう、て分かってたけど。余った分、余計に私があなたを愛しているの。分かった?」
茶目っ気たっぷりにウィンクする綾乃に、秀は、心が洗われる思いだった。
「ありがとう。」
綾乃は、そっと微笑み返した。
夜、初めて秀のベットに横になった。綾乃は、手をつなげるだけではいやだと思った。
「ねえ、秀。」
「うん?」
「もっと秀の傍にいきたいの。駄目かな?」
「え?ああ。いいよ・・。」
綾乃は、秀の腕にそっと包み込まれた。幸せだと思った。秀は、胸に頬を寄せる綾乃を抱きたい衝動に駆られた。思わず、腕に力が入る。駄目なのは分かっている。彼女になるべく自分の爪あとを残してはならない。秀は、理性を奮い立たせた。だが、体は、素直に反応してしまった。秀の体の反応に綾乃は気づいた。嬉しかった。綾乃は、勇気を出して、言ってみることにした。
「秀、私を抱いて。抱いて欲しい。」
秀の目大きく見開かれた。まさか、綾乃が自分から言ってくるとは思わなかった。
「あなたを愛してるの。」
優しく微笑む彼女を見つめた。秀は、動揺を隠せないでいた。抱きたい。綾乃もそれを求めているとは。体中の血が逆流しそうだった。だが、秀は、綾乃を抱くことはできないと思った。
「すまない・・。」
綾乃は、驚愕した。そして、涙を流した。
「ひどい。勇気を出して、言ったのに。私じゃ、駄目なの?女として見れないの?私のこと、本当に愛してるの?」
秀は、泣きながら胸をたたく綾乃に何もしてあげられない自分がはらだたしかった。かける言葉も見つからない。
「私のこと、愛してないの?」
秀は、声をかけたくても、言葉が出てこなかった。
「ひどい!私のこと愛してるって言ったくせに。私が、あなたを愛するようになったら、私のこと、愛さないの?あんまりだわ。」
秀は、違うと叫んだ。君を愛している、と。愛しているからこそ抱けないのだと。だが、綾乃は、嗚咽を噛みこらえ、叫んだ。
「どうして?お互い愛しているのに・・。どうして、あなたは、私を抱けないの?どうしてよ、説明して!秀、説明して。」
秀は、理由を話そうと言葉を捜したが、彼女に掛ける言葉が見つからないでいた。それは、今の彼女にかけるには残酷だと思ったから。その言葉を言わないと、彼女が自分の元から去ってしまうと気づかないで。何も話さない秀に、綾乃は絶望した。
「私、帰る。」
秀は、帰ろうとする綾乃を止めるために、ドアを閉めた。
「何で?どうして、止めようとするの?私なんて、愛してないんでしょ!」
「違う!」
「私を愛してるんだったら、抱いてよ。」
綾乃は、服を脱ぎ捨てていった。秀は、視線をそらした。抱きたい衝動を抑えているのに・・。綾乃の行動は、秀の理性を打ち崩そうとしていた。
「やめてくれ・・。やめてくれ。」
つぶやいても、綾乃は、やめようとしない。
「やめてくれ、やめてくれって言ってるだろう!」
秀は、激しく怒鳴った。と、同時に、彼は、咳き込み始めた。そして、彼は苦しみ始めた。
「秀?秀、どうしたの?ねえ、どうしたの?しっかりして、秀!やだ、どうしたの?ねえ、秀!」
秀は、這うようにして、洗面所に向かった。そして、大量の血を吐き出した。綾乃は、そんな秀の様子に驚愕した。
「秀・・。」
薬を取り出し、飲み込んで、ようやく落ち着いてきた秀に、綾乃は静かに尋ねた。
「ねえ、秀。あなた、病気なの?」
秀は、うつろな目で宙を見つめた。
「ああ。」
力なく答える秀を、綾乃はそっと包み込んだ。
「ごめんなさい。」
綾乃の目から、涙があふれた。
「本当にごめんなさい。」
秀の目にも涙が光っていた。
「君を抱けないのは、俺が病気だから。もしも、君が妊娠してしまったら、取り返しがつかないから。」
「私は、構わないよ。秀の子供なら、生みたい。それに、避妊すれば、大丈夫。」
「大丈夫じゃないんだ・・。」
「どうして?私は、嬉しいよ。もしもあなたの子供が産めるなら。私、あなたを本気で愛してるもの。」
「駄目なんだよ。駄目なんだよ!」
秀は、怒鳴った。
「駄目なんだよ・・。」
涙交じりの声が、綾乃の耳に静かに届いた。
「俺、死ぬんだ。」
綾乃の目が、見開かれた。
「俺、死ぬんだ。」
綾乃は、悲鳴をあげた。秀の目から、後悔の涙が零れ落ちた。
しばらく、綾乃と秀はその場を動けずにいた。秀は、言ってしまったことを後悔した。綾乃の顔に広がっていく苦し気な表情は、秀を後悔させるのに十分だった。
「どういうこと?」
綾乃が、途方にくれたまま、つぶやいた。
「俺、不治の病なんだ。だから、もうすぐ、死ぬ。ただ、それだけだ。」
ぶっきらぼうにつぶやく秀を見て、綾乃は、ますます目頭が熱くなった。ぶっきらぼうな言葉に反して、秀の目からぼろぼろと涙がこぼれていた。
「だから、私を抱けないの?」
「ああ。もし、綾乃が妊娠したら、どうする?俺はいないんだぞ。一人で育てられるか?」
「育てるよ!」
綾乃は、とっさに叫んだ。
「育てられる自信があるの。あなたの子供なら生みたいよ・・。私、あなたの子供なら、生みたい。それに・・。」
綾乃は、一呼吸置いて、秀に言葉を吐き出した。
「妊娠する確立って、そんなに高いものでないんだよ。なのに、どうしてそこまで心配するの?」
「俺はもしものことを思って・・。」
「そんな心配して欲しくないよ・・。」
綾乃は、自分のことを心配している秀が嬉しくもあり、腹立たしかった。
「じゃあ、どうして私の前に現れたの。」
秀は、心臓が止まりそうになった。
「私があなたを愛し始めたら消えるつもりだった?それで、あなたは満足なの?私の心に残るだけで。そうね、あなたは満足かもしれない。でも、残された私はどうなるの?あなたは1ヶ月で私の前から消えるつもりだった?そんなの卑怯だよ。私のこと、本当に考えてるなんて思えない。あんまりよ!1ヶ月一緒にいるだけじゃ、心に傷は残らないとでも思った?秀。人はね、愛した人のことは、一生忘れられないの。それに・・。私、もうあなたを愛してるのよ!私は、もう、後戻りできないの。あなたを忘れることなんてもうできないの!たとえあなたが1ヶ月で消えても、一生あなたは私の胸の中に居座り続けるの!」
秀は、綾乃の前に現れたことを後悔した。やはり、思いを告げずにいたほうが良かったのだろうか。
「すまない・・。」
綾乃は、1番聞いておきたかったことを切り出した。
「ねえ、病名は?いつまで生きられるの?」
秀は、重い口を開いた。
「末期の胃がん。手術しても、完治しないんだ。あと1年しか生きられない。手術しなければ、3ヶ月もつかどうか・・。あと、2ヶ月くらいしか生きられないと思う。」
綾乃は、秀が手術を拒否したことを知った。
「どうして?どうして手術を受けようとしないの?」
「病院で死を迎えるより、ここで、死にたかったんだ。ずっと絵を描ける。寝たきりじゃないから、ピアノも弾ける。どうせ死ぬなら、病院で横になってるよりずっといい・・。」
綾乃は、嗚咽をこらえて叫んだ。
「手術受けようよ!もっとあなたと一緒にいたいの。病室で横になっていたって秀は秀だよ。できるだけ、長く一緒にいたい。」
「嫌だ。」
「なんで?どうしてそういうこと言うの?」
「同情されたくなんか、ないんだよ!同情で一緒にできるだけ長くなんて・・。」
「どうして、そういうこと言うの?私は、同情なんかしてない。」
綾乃は、秀を見つめた。秀の顔は、涙でぐしょぐしょになっていた。
「あなたを愛してるから。長く一緒にいたいだけ。」
綾乃は、身をかがめて秀の額にそっと口付けた。
「生まれて初めてなの。こんなに人を好きになったのって。薄々分かってた。あなたがきっと病に侵されてるって。」
秀は、はっとし、綾乃を見上げた。
「でも、そんなの問題じゃない、て思った。あなたと恋に落ちるって感じてたから。これからどうなるか分からない。秀がいつまで生きられるのか、分からない。だけど、今を精一杯2人で生きていきたいの。あなたを愛してるから。ね、秀。ずっと傍にいさせてよ。1ヶ月なんて、そんなの嫌だよ。」
秀は、綾乃を諭すように言葉を並べた。
「駄目だ。一緒にいたくないんだ。」
「どうして?」
綾乃は秀の言葉が信じられなかった。
「私のこと、愛してるんでしょ。どうして?」
秀は、叫んだ。
「俺が病魔と闘って、苦しんでる姿を見られたくないんだ。愛している人に、弱弱しい姿を見られたくないんだよ!綾乃には・・。綾乃には見ていて欲しくないんだ!絶対に!」
「そんなの、嫌だ・・。」
綾乃は、泣き崩れた。
「私は、あなたの弱弱しいところ、苦しんでいる姿。それを含めて全て愛していける自信がある。あなたをこんなに愛してるのよ!誰にだって弱いところ、あるでしょ。それを見せられないなんて、その人を本当に愛しているとは言えない!」
うつむく、秀を綾乃は優しく包み込んだ。
「ずっとこうしていたい。」
2人は同時につぶやいた。はっとして、2人はお互いを見つめた。震える唇が重なった。秀は、綾乃の胸に顔をうずめ、震える声で、つぶやいた。
「死にたくない・・。」
綾乃の目に再び涙があふれ出した。
「俺、死にたくないんだよ!怖いんだ!死ぬ、て認めたくないんだよ。苦しいんだ。だんだん自分が衰えていくのが分かるんだ。つらいんだ・・。怖いんだよ。どうしていいか、分からないんだ。綾乃、助けてくれよ。俺を、助けてくれよ!」
綾乃は、かける言葉が見つからなかった。だが、今、秀にしてあげられることが1つだけあることに気がついた。
「秀、横になろう。」
綾乃は、死の恐怖に怯える秀を抱きかかえて、寝室に戻った。ベットに横たわった秀に、綾乃は覆いかぶさった。
「綾乃?」
綾乃は、秀の唇にそっと人差し指をあてがい、微笑んだ。
「私が忘れさせてあげる。」
秀は、目を見開いた。
「一瞬だけでも、生きてる、てあなたが感じられるように・・。死の恐怖から一瞬でも解き放たれるように・・。私が、忘れさせてみせる・・。」
2人の影が1つに重なった。
ふと、目を覚ますと、秀の隣には、愛しい人が安らかに眠っていた。愛する人と結ばれることが、こんなにも幸せだとは、秀は知らなかった。一瞬どころではない。長い間、死への恐怖から解き放たれていた気がした。
「うーん。」
綾乃のうなり声が聞こえてきた。とても幸せだった。言葉では、言い表せない。今、時が止まればいい。そしたら、このままずっと綾乃の傍にいられるのに。秀は、奇跡を願わずにはいられなかった。
朝、目覚めると、目の前に綾乃の幸せそうな笑顔があった。
「おはよう。もう少しでご飯できるから。待っててね。」
そう言われて、秀は、寝ぼけ眼をこすりつつ、そっと起き上がった。少し体が気だるかった。だが、それは少し幸せな気だるさだった。思わず、微笑んでしまう。ふと、時計に目をやると、朝の10時だった。綾乃は、学校どうしたんだろうか・・。秀は、慌てて、綾乃のいるキッチンへと向かった。
「綾乃!お前、学校!授業は・・。」
「ないよ。だって、今日日曜日じゃない。」
クスクス笑い出す綾乃を見て、秀は、情けない自分を叱った。
「はい、出来上がり!食べて。」
秀は、ふと、テーブルを見た。そこは、おままごとの世界のようだった。小さな器がたくさん並んでいる。玉子焼き一切れ、梅干ときゅうりの漬物が2つづつ、小さなシャケ1切れ、ふっくら仕上がった白米にわかめと豆腐の味噌汁。デザートに、りんごのゼリー。
「あーやーのー!」秀は、綾乃に詰め寄った。
「綾乃!何なんだよ、このおままごとの世界は!俺に喧嘩売ってるのか?」
「だって。このくらいしか、秀食べないじゃない。だから、秀が食べきれるようにと思って。」
ふくれっつらで席に着いた秀は、終始無言で箸を運ぶ。絶対におかわりしてやる。そう思いながら、黙々と平らげていく。その様子を綾乃は淡々と見つめていた。秀は、ショックだった。綾乃が言ったことが、当たっていたのだ。つまり、秀は、おままごとぐらいのかわいい器に並べられた食事で、満腹になってしまった。ショックを隠しきれない秀の膝に綾乃は乗っかり唇にそっとキスした。
「元気なころのようには、なかなかいかないものよ。ごめんなさい。あなたがそんなに傷つくなんて思ってなかったから・・。本当にごめんなさい。」
「いや、いいんだ。」
現実を受け入れなくてはならない。だが、その現実は、秀にとってあまりにも悲しいものだった。
食後のお茶を飲みながら、秀が本を読んでいる。
「ねえ、秀、休んで。」
「嫌だ。」
「ちょっと本を長く読みすぎだと思うの。よくないから。ね!」
「病人扱いするなよ。たった2時間だろ。」
「病人でしょ!」
「俺が命短くしてでも家にいる理由は、自由に生きたいからだ。俺の自由にさせてくれよ。」
「嫌なの。入院してとは、言わない。だけど、少しでも長くあなたに生きていてほしいから。」
秀は、ため息をついた。
「そういうのが嫌いだから、俺、言いたくなかったんだ。」
「でも、もう言っちゃったのよ。後のま・つ・り!」
綾乃は、秀の腕をひっぱって、寝室へといどうした。
「眠たくない。」
「だったら、横になってるだけでいいから。」
秀は、むくれつつベッドに横になった。綾乃は、そんな秀の隣に嬉しそうにもぐりこんだ。
「なんだよ!」
「秀!」
綾乃は、秀の胸に飛び込んだ。
「本読むよりも、こうしてるほうが楽しいでしょ。」
「いや!」
「私と本、どっちが大事なのよ!」
「どっちも別に大事じゃない。」
その言葉を聞いて、綾乃は即座に起き上がろうとした。慌てて秀が綾乃をぎゅっと抱きしめた。
「なによ!」
「ごめん。俺、本よりも、何してるよりも、こうしてるほうがいいよ。」
秀の言葉に、綾乃の目が輝きだした。
「本当?」
「ああ、本当。」
秀と綾乃は、お互いの温もりを感じながら、幸せをかみ締めていた。ずっとこのまま一緒にいられたら。ふと、綾乃は、秀に提案した。
「ねえ、秀。ペアリング買おうよ。私、おそろいの指輪が欲しい。」
秀は、綾乃に自分の思い出の品を1つ増やしてしまうことに戸惑う気持ちがなくもなかったが、綾乃の嬉しそうな顔が見たくて、思わずうなずいた。
「やったー!」
2人は、さっそく指輪を買いに行くことにした。
そのころ、明人はある女性と知り合っていた。彼女の名前は、鷺歩美。秀の幼馴染だ。明人は、早速本題を切り出した。
「秀さんと幼馴染ですよね。何か、彼について教えてくれませんか。」
歩美は、微笑みながら、彼について詳しく知らないと告げた。明人は、憤りを隠しつつ、歩美に告げた。
「俺の彼女をたった3日でものにした、憎いやつなんだ。お願いだから、彼の弱みを教えてください。お願いします。」
「嫌です。それに、その女の子、あなたのこと、本当に愛していたのかしら。」
「え?」
明人は驚きを隠せなかった。
「話聞いて思ったの。あなたは、本当に彼女のことを大好きだったかもしれない。だけど、彼女は違うわ。」
「どうしてですか・・・・。」
「だって、3日で冷める恋なんて、誰がする?恋というのは、長引くわ。3日で冷める恋もなくはないかもしれない。だけど、それは恋とはいえない。悪いけれど、あなたの元彼女はあなたを愛してなかったと思う。そして、秀に惹かれたのよ。」
「そんな・・。」
「往生際が悪いわね。もっと素敵な恋したら?」
明人は、うなだれた。分かっている。綾乃が本当に自分を好きでないのは分かっている。だが、それを他人に正面から否定されると、どうしようもなく虚しさが募った。
「私なんかどう?」
はっとして明人が顔を上げると、そこには、茶目っ気たっぷりに笑顔を振りまく歩美がいた。明人は、歩美を見た。歩美は、洗練された美人だった。仕事をてきぱきとこなし、患者、そして病院内での信頼は厚く、両親からも頼られる、しっかりした女性。彼女にかけたものはないように思えた。だが、彼氏いない暦28年・・・。つまり、今まで素敵な人との出会いが全くなかったのだ。歩美は、明人が探偵にいろいろと調べさせて歩美を探し当てたことに気付いていた。だが、歩美は思った。そこまでするほど人を愛する人となら、もしかしたら付き合っていけるかもしれない。それに、明人は歩美が見る限り容姿端麗。素敵な男性だった。
2人は、しばしばお互いを見つめあっていた。出会いというのは、いろんなところに転がっているのかもしれない。
「お客様。こちらはいかがでしょうか。」
綾乃は、とても緊張しながら勧められる指輪に指を通した。ここは、都内のとあるティファニーの店内。美しく、繊細な宝石がまぶしい。秀がこの店に連れてきたとき、綾乃はたじろいだ。
「た、高いよー!絶対に買えないよ!」
「大丈夫。俺が買うから。」
秀に連れられ、綾乃は輝く店内に足を踏み入れた。秀は、店員に彼女に似合う指輪を、と言った。そして、それと同じものを欲しいと言った。
ということで、目の前に、100万程の指輪がずらりと並んでいた。
「どれも、お似合いですよ。」
笑顔で店員に言われて、綾乃は、どうしたらいいのか、分からなくなってしまう。
ふと、目をやると、はじのほうにとてもシンプルな指輪があった。それは、シルバーリングで、小さなダイヤモンドが一粒ついていて、コスモスをモチーフにしていた。繊細な指輪だった。綾乃は、一目でその指輪を気に入った。
「秀、これがいい。」
「もっと、高いのにしろよ。」
その指輪は1つ20万円だった。だが、綾乃は、100万円の指輪よりも、20万だろうが本当に気に入ったし、20万円でも綾乃にとって高すぎることには代わりはなかった。
嬉しそうに笑う綾乃の横顔を見て、秀は嬉しくなった。
秀のマンションに帰宅して、綾乃と秀は寝室に横になった。秀がそっと指輪の入った箱の包み紙を開けた。真っ白な輝きを放つ銀色の指輪が2つ。秀が1つの指輪をそっと手に取った。綾乃がもう1つの指輪を手に取る。お互い左手に指輪を持った。同時に右手の薬指にはめていく。同時に薬指に指輪が収まった。
窓から月明かりが差し込んでくる。その光が2人の指輪をきらめかせていた。
「秀。本当にありがとう。一生大事にする。」
綾乃は、指輪を見つめ、言った。秀の口から、何も聞こえてこない。秀を振り返った。すると、秀は、声を押し殺して泣いていた。
「秀?どうかしたの?どこか痛むの?」
秀は、しずかに首を横にふった。
「違うんだ。幸せすぎて。この指輪、あとどれくらい2人ではめていられるかな。」
「ずっとはめていられるよ。2人の心の中で、ずっと。あなたが亡くなってしまっても、それは体だけ。心はきっとなくならない。だから、見かけにとらわれるんじゃなくて、心にはめようよ。このきれいな指輪を。」
綾乃の言葉は、秀にとって気休めにしかならなかった。だが、今こうしていられるだけでも、幸せだ。秀は、ありがとう、と綾乃に言った。
音大への道を綾乃は急いで歩いていた。綾乃は、大学に行っているときでも、秀がとてつもなく心配だった。もし、私がいない間に倒れたりしたら・・。そう思うと心が締め付けられる思いがした。
「綾乃。」
急に声を掛けられてびくっとしながらも、綾乃は後ろを振り返った。
「明人。」
2人は、近くのベンチに腰掛けた。
「俺、お前のことあきらめようと思う。」
綾乃は、黙って明人の言葉に耳を傾けた。
「本気だったよ、お前のこと。あんなふうに始めてしまったから、君は俺を愛せていないのは、分かってるつもりだった。でも、たった3日で綾乃が他の男の元へ去るなんて・・。思いもしなかったんだ。苦しすぎてさ。食事ものどを通らなかった。ここ最近。」
綾乃は、やつれた明人の横顔を見て、心が痛んだ。
「俺、もっと自分に自信を持つことにする。振られる恐怖心から逃げた臆病な俺だけど。振られても、振り向かせられるような、そんな男になろうって思うようになった。」
「明人!」
綾乃は、微笑みながら、頷いた。明人は、どうやら綾乃との恋愛を通して成長したようだった。綾乃は、嬉しかった。
「そこで、1つ提案なんだけど。」
「なーに?」
「友達として、俺の伴奏引き受けてくれないか。お前のピアノじゃなきゃ駄目なんだ・・。」
綾乃は、迷った。そして、告げた。
「私、あと2週間したら、大学休学するの。」
「なんで?」
「理由は言えない。」
「秀さんが関係しているのか。」
「そういうわけじゃない。ただ、ちょっと自分を見つめなおしておきたいの。だから、復学してからでもいい?駄目だったら、他を探してみて。」
明人は、即答で復学してから絶対にお前に頼みたいと言った。綾乃は、申し訳なさそうに、だが嬉しそうに笑った。
綾乃が大学を休学しようとしている理由。秀のそばにできるだけ長くいたい。そして、何かが起こったときに自分がなるべく早く対処して秀の命を少しでも長らえたい。
大学を終えて、綾乃は都立図書館へと足を踏み入れた。綾乃は、末期胃がん患者に対しての対処法の書かれた本を読み漁った。あまりにも悲惨だった。読んでいて涙が出た。だが、自分が何ができるのか。綾乃は大学が終わったら、ここに通ってできるだけいろいろな知識を身につけようと思った。
綾乃がいない。秀は、寂しさをこらえて綾乃の帰りを待っていた。果物が食べたくなって冷蔵庫を覗いた。目についたのは、2パックのイチゴ。秀は、そのイチゴを食べることにした。銀色の大きなボウルに大量の真っ赤なイチゴが入れられ、水で洗われていく。イチゴを洗い終えた秀は、廊下へと向かった。真っ白な壁を背もたれ代わりにして、座ってみた。秀は微笑んだ。ひんやりとしたフローリングの床が気持ちいい。外から春の柔らかな日差しが差し込んできて、秀の色素の薄いさらさらの髪、色白の透き通った肌をやんわりと包み込む。ふせられた長いまつ毛の下にある茶色がかった水晶のような瞳が真っ赤なイチゴを視界に捉えた。秀は、イチゴの入ったボウルを抱えて、力なく廊下に座り込んでいた。なぜか分からないが体に力が入らなかった。そっと1つイチゴを口に放りこむ。もう1つ。あと1つ。ゆっくりだが、ボウルの中のイチゴがだんだんと消えていく。秀の唇がイチゴ色に真っ赤に染まっていく。ふと、秀は手を止めた。心拍数が急に上昇しはじめた。息が苦しくて呼吸が浅くなる。気持ち悪くなって、秀は真っ赤な液体を吐いた。イチゴ色した液体は、茶色の床を真っ赤に染めていく。ボウルに入っていたはずのイチゴが散乱した。秀は、意識を失い、その場に崩れ落ちた。真っ白な透き通った肌がイチゴ色に染まっていく。真っ赤な液体からは、イチゴの甘い匂いとともに、死の匂いがした。秀は意識を失う直前、1人の最愛の女性の名を呼んだ。
「綾乃。」
イチゴ色に染まった秀を残して、だんだんと夜が更けていった。
夜の7時過ぎ。帰るのがいつもより少し遅くなってしまった。綾乃は、急いで秀のマンションへ向かった。
「ごめんねー。遅くなっちゃった。今からすぐご飯にするから。」
靴をいそいそと脱いで、早歩きで歩いた。電気が全く点いていないので、廊下の電気をつけた。と、足元に、イチゴが転がっている。ふと、視線を上げてみた。
「キャー!」
視線の先では、秀が倒れていた。
「秀、秀!しっかりして。どうしたの。」
返答がない。
「ねえ、秀!」
綾乃は、秀を抱きかかえて何度も揺さぶった。だが、秀は一向に起きる気配がない。もう、死んでしまったのではという考えが頭に浮かんでくる。その考えを無理やり消し去って、綾乃は、救急車を呼ぼうと携帯をとりだした。すると、秀の手が伸びてきて、それを止めた。
「どうして?どうしてよ?私はどうすればいいの?嫌だよ。こんなの。絶対に救急車を呼ぶの!」
叫ぶ綾乃に、秀は血だらけの名刺を差し出した。そこには、緊急連絡先と称された携帯の電話番号と一人の女性の名前があった。
「鷺 歩美」
綾乃は、一人の女性の出現で心が動揺した。でも、そんな場合ではない。彼女に頼るしかないのだろう。震える手で電話番号を押して、彼女に掛けてみる。
「どなたですか?」
ぶっきらぼうな女性の声がした。
「秀さんとお付き合いしているものです。秀さんが倒れたんです。助けてください。彼を助けてください。」
携帯越しに彼女が息を呑む声が聞こえてきた。今すぐ行くから。そう言い残し、彼女は電話をきった。
「秀。ごめんね。傍にいられなくて本当にごめんね。」
泣き崩れる綾乃の手を秀は無言でそっと握り返した。綾乃は、秀を血が散乱していない廊下に横たえ、そこら辺にあるタオルをお湯に浸して絞り、秀の体に染み込んでいた血を拭い取っていった。10分もしないうちに歩美という女性が現れた。
「秀!大丈夫?じゃないわよね。」
そう言いながら、秀に駆け寄る。
「いつから、こうなったの。」
「か、帰ってきたら、倒れてたんです。」
「何やってるのよ。付き合ってるんでしょ!彼を何で一人にしていたの?」
「すみません・・。」
「今言っても仕方ないわ。とにかく、車に運ぶの手伝って!」
「はい!」
2人は秀を抱えて車へ運んだ。
歩美はミラーで綾乃を見た。秀が愛する女性を初めてみた彼女は、綾乃というその女性が秀のことを本当にあいしているのだろうことが分かって、ホッとした。
「秀、ごめんね・・。」
泣き崩れ、肩を震わす綾乃の後姿が目に焼きついた。彼女になら、秀を任せてもいいかな。歩美は、そう思いながら急いで車を運転する。
綾乃は、祈った。秀が再び元気に微笑むことを。震える唇を秀の唇にそっと寄せる。切ない口付けだった。
歩美はその様子を見て、涙が出そうだった。どうしても秀を助けなければならない。
3人の思いを乗せた車が、東京の街を横切っていく。夜が更けるとともに高まっていくこの気持ちをどうすればいい・・。綾乃の涙、秀の涙、歩美の涙だろうか。晴れ渡っていたはずの夜空から雨が降り注いできた。
「秀!秀!」
遠くから綾乃の声が聞こえてきた。秀は、重いまぶたを少しずつ開いていった。ぼんやりと映る人影がだんだんとくっきりしてくる。そこには、綾乃と歩美がいた。
「秀!良かった。意識が戻って。」
ひしと抱きつく綾乃を抱きしめようと腕を動かそうとするがだるくて力が入らない。
「もう少ししたら、力が出るわ。もう少し、ここで休んでいきなさい。」
目線を上げると、歩美が優しく微笑んでいた。
秀が倒れて3日が過ぎていた。
「秀?ねえ、しっかりして!」
悲痛に叫んだ綾乃に、歩美ははっきりと告げた。
「大丈夫。私が絶対助けるから。」
秀が倒れたその日、歩美は、秀を手術した。秀に縁を切られようと構わなかった。秀が一人だったら、しなかったかもしれない。だが、秀を愛する一人の女性のために、手術をすべきだと思った。
「麻酔して!」
基本的に、患者の友人の執刀医にはならない。だが、歩美は、ひるまない覚悟があった。どうしても助けたい。そう思ったから。秀を心から助けたいと思っていたから。
切開して、歩美は驚いた。なんと、癌が転移どころか良くなっていたから。
「こ、これは・・。」
医学書で読んだことがある。患者の精神状態の影響を受けて癌が縮小することもあると。歩美は嬉し涙をこらえつつ、執刀した。
手術は成功した。
綾乃はそれを聞いたとき、歩美と抱き合って喜んだ。秀が完治する。それは、秀とこれからもっと一緒にいられることを意味していた。
歩美は意を決して秀に告げた。
「秀、あのね。私、手術しちゃった。」
秀は、無言で天井を眺めた。
「でね、成功したの。」
秀は、驚きの表情で歩美を見つめた。
「秀、おめでとう!」
綾乃が満面の笑顔で秀に口付けた。
皆笑っていた。だが、これは、綾乃の夢の中の出来事だ。
「また、見ちゃった。」
一人眠る綾乃は、そっといるはずもない秀に呼びかけた。
秀は、結局助からなかった。
「もう、駄目だと思う。あと、何時間生きられるかどうか・・・。」
歩美の言葉は、綾乃を絶望に突き落とすには十分だった。
病院のベッドに横たわる秀の隣に、綾乃はもぐりこんだ。
「えへへ。」
心は笑っていないのに、顔は笑っていられる。いつもなら考えられない自分の行動に、綾乃は戸惑いつつも秀の腕に自分の腕を絡ませた。
「俺、結局お前に何もしてやれなかった。」
秀の言葉は、自分の死期がすぐそこまで迫っていることを知っているかのようだった。
「秀?」
「俺、俺・・・。」
秀の頬を伝う涙が綾乃の頬をぬらした。
「綾乃に出会えて幸せだった。ずっと側で見守ることができなくて、ごめん。だけど・・。」
「ずっと側にいる。」
綾乃を見つめる秀の瞳は、涙で潤っていた。だが、綾乃の心を射止めるには、十分だった。
「秀!」
2人は互いに熱く口付けた。熱い抱擁は、これから引き離される運命に逆らおうと必死にあがく2人の最後の手段のようにも、思えた。
「この指輪、もらってくれないか?」
「え?」
秀は、綾乃の左の指を手にとって右手にはめてある自分の指輪を綾乃の左手にそっとはめた。
「こうしたら、俺がずっと一緒にいるって思えるだろ。」
「うん。」
「好きなやつができたら、はずしていいから。」
「え?なんで?」
「幸せな結婚をして欲しいんだ。綾乃には。」
「いや。私は、秀としか結婚しないの。他の人とは、絶対にしない。」
そう言いきる綾乃に、秀は、寂しそうに微笑んだ。時が綾乃から自分を消し去ってくれることを望みながら。だが、忘れられたくないと願う気持ちもどこかにあった。
「秀、結婚しよう?」
「は?何を言ってるんだ、お前は。」
「私、数時間でもいい。秀の奥さんになりたい。」
綾乃は、ポケットから、婚姻届を取り出した。
「お願い。」
「できない。」
「どうして、て?お前、バツイチになりたいのか?世間、ていうのはな。」
「どうしても。お願い。」
秀は、綾乃の熱意に負けてしまった。結局、歩美に印鑑を取りに帰ってもらい、婚姻届にサインした。
綾乃が、タクシーで区役所へ向かい、書類が提出された。1時間ほどして、綾乃の名前は、「岡崎 綾乃」になった。急いで、秀のもとへ向かった。病室に入り、秀がまだ生きているのを確認すると、綾乃は、心が締め付けられるような悲しみと幸福をかみ締めた。
「秀、出してきたよ。」
「ああ。本当に良かったのか?」
「うん。すごい幸せ。」
「嘘つき。」
「え?」
秀を見ると、秀は真剣な眼差しで綾乃を見つめていた。
「涙。」
「・・・。」
「泣いてるくせに。」
綾乃は、秀の胸に飛び込んで、思いっきり泣いた。
「行かないでよ。ねえ、秀。ずっと側にいてよ。ずっとずっと側にいてよ!」
「無理なんだって。俺もずっと側にいたいってお前分かってる?」
秀は、耳元でささやいた。
「ずっと側にいる。お前を見守ってる。つらいこと、悲しいこと、いろいろあるかもしれない。だけど、俺はお前の側にずっといるから。だから、俺がいなくなっても、そんなに泣くな。お前が泣くと、俺は悲しい。」
綾乃は、それでも、泣き止むことができなかった。綾乃を優しく包み込む秀の腕に力がこもる。
「ずっと側にいる。」
しばらくして、綾乃は泣きつかれて眠ってしまった。
朝、目覚めると、秀は幸せそうに永遠の眠りについていた。
「あれから、半年か。」
秀と出会ってから、半年の歳月が経とうとしていた。今、綾乃は、秀と出会った横断歩道に立って信号待ちをしている。
秀が亡くなってからというもの途方に暮れた綾乃の元に、1通の封筒が送られてきた。それは、秀の遺言書、そして秀からの手紙とCDだった。そこには、秀の遺産と保険金を綾乃の遺産とすることが書かれていた。その額、3億円。綾乃は、秀がお金持ちであることをようやく実感した。しかも、彼はその遺言を約1年前に作成していた。綾乃のなかに、疑問が生まれた。
「一体、どうして?」
疑問を抱きつつ、綾乃は、手紙に目を通した。
「綾乃さんへ
多分、この手紙を読むとき、僕はもうこの世にはいない。
あなたは急に送られてくるこの手紙に戸惑うだろう。
だけど、僕はあなたにこの思いを伝えておきたかったのだ。
あなたは、覚えていないと思う。僕の存在を。
だけど、この絵、見覚えありませんか?
僕は、この絵を通して、あなたを知って、あなたに恋焦がれるようになったんです。
もしよろしければこの絵をみながらCDに耳を傾けてくれませんか?
これは、私がイメージするあなたです。
私は、もうこの世から消えてしまったけれど、あなたの幸せを願っています。
それでは、さようなら。」
絵を見て、綾乃は驚愕した。私は、秀ともっと前に出会っていた。この絵に見覚えがある。綾乃は、とてつもなく後悔した。秀ともっと前に出会っていたのに・・。後悔しつつ、彼女はCDをかけてみることにした。
秀のピアノだった。
綾乃は、目を閉じた。短かった秀との思い出が走馬灯のように思い出された。もう、そろそろ前に進まないと。綾乃は、側にいるはずであろう秀に微笑んだ。
「信号が青に変わりました。」
綾乃はお腹をさすった。綾乃のお腹の中には、秀の血を半分分けた子供がいる。
信号を渡っても、今はもう誰ともぶつからない。秀が一人一人方向転換してくれるから。ふと、真ん中で立ち止まってみる。
「ずっと探してた。」
秀の声が聞こえた気がした。目線を上げると、そこには秀がいた。綾乃は、秀に抱きついて、キスをした。
他人から見ればきっとおかしな映像だろう。そこには、秀がいないのだから。だが、綾乃には、分かった。透明かもしれない。だけど、そこに秀がいることに。
神様が微笑んだのだろうか。一瞬だけ、2人が時を止めてしまったから。
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2005/01/21(Fri)16:30:55 公開 / liz
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■作者からのメッセージ
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