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『Eris 序章-「風説」』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:山
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ずっと、ずっと昔に、僕と、この世界の全てを守って、海に沈んだ僕の親友がいました。
石に穴を穿つのは、力ではなく水だと聞いた。
随分古い知識がひっぱりだされてくるものだ。乾いたスポンジみたいになった脳みそでも、まあ少しは機能するらしい。瞼は重く、糊で貼り付けられたかのように開こうとしない。目を開けなくなってか久しいから、それもそうだと納得してしまえばそこまでだ。ごとん。寄りかかっていたものに後頭部も預ける。その体重をうけて寄りかかった部分が陥没するが、有る程度のところで止まった。思考の種はとっくにつきているから石に話しかけて時間を潰すことにする。体重を預けているこの壁も、そろそろ外の空気が恋しい頃ではないのか。ひび割れ、風化して、砂と一緒に崩れ落ちるのは嫌だろう。
時間を潰すための思考の種が切れるのにそうそう時間はかからなかった。生まれてからのことをなるだけ事細かに回想してみたりもしたのだが、大して時間は潰れなかった。二十余年生きてきたのだが、結局たいした思いではなかったらしい。思い返してみて改めて感じ、ほんの少し鼻の奥が痛くなる思いをした。
強いて思い出というならば、回想の一番最後にあるもの、自分がこうなる前に、自分がまだ本当に生きていた頃の一番最後の出来事に尽きるのではないか。一瞬の閃光、散華する命達。あの時に自分の生きていた時間は終わりを告げた。あれが、自分の何もない一直線上の思い出の中で、異彩の輝きを放っている。
恐らく、持てる力の半分以上を費やして、瞼をあけた。やはり、最期に目を閉じた光景と何ら変わりはない。ただ、どこまでも青い世界。時折白や水色や薄緑が織り重なり、荘厳な海の青をてらてらと光出している。
人は不変を求める。それは命であったり、若さであったり、幸せであったり、形態は種々多様だが。しかし、自分は身を以て証明している。不変ほどつまらないものはない。
ピクリと手を握ってみた。指先に触る乾いた掌の表面。何だかスカスカとする。今更恋しくなったのか、あのころ握りしめていた使命と命の感触が。
あの時捨てた筈だ。命も、使命も、友も仲間も、全て皆。迂闊に思い残して寂しさを増幅させないように、全て綺麗に。それでもこの灰のような体の中に火種が燻っているとでも、いうのか。
瞬間、キラリと青い視界の一点が輝いた。ゆっくりと眉を顰め、光った方向を見つめる。ボコ、ボコ、ボコ。数秒前まで不変だった景色に変化が訪れていた。まるで水中を進む魂魄ともいえる水泡が、光と共に青い世界を切り開いて進んでくる。柔らかくて、まだ手は届かないが、きっと触れるとほんのりと暖かそうな、そんな光だ。その光は”水中”を進み、静かに水泡を達ながら近づいてきた。
あの光をみていると、何故だろう、思い出す。もう、何度も何度も思い返した所為ですりきれてしまったかのような仲間達の最期の顔が。
思わず、軋む肩を動かして、垂れていた手をその光に伸ばした。乾いた指先を出来る限り伸ばす。何でこんなに欲するのだろう、あの光を。捨てたんだ、忘れた筈なんだ、と言い聞かす頭に逆らって、天の邪鬼に自分の手は、まっすぐ、ひたすらまっすぐ、なるだけあの光の近くへと伸びていった。
ああ、やはり暖かい。光が指先に触れたのを感じた瞬間に、今までぼんやりとした光だったものが、カッと強さを増した。思わず細めた目に、もう忘れてしまった、人間の輪郭が映し出された。機能を停止しかけていた耳に、するりと心地の良い声が響く。ああ、聞き覚えのある声だ。まるで腹の真ん中から暖かい水がじわりとにじみ出ていくような、そんな感覚を覚えて、思わず瞼を下ろしてそれに聞き入った。
…遅くなってごめんね、おつかれさま。…おかえり。
じわりと腹に染み渡るその声の余韻に浸りながら、『彼』は、昔、遠い昔にたくさんのものを掴み、掴み損ね、守り、戦ってきた手を光へと伸ばした。
Eris
序編 風説
瞼は重く、糊で貼り付けられたかのように開こうとしない。恐らく目を開けるのにこんなに苦心したのは生まれて初めてだ。小さく顔の筋肉を動かすと、首を伝って肩から下の筋肉が引きつった。かなり皮肉なことにその痛みで瞼が開く。途端に入り込んできた光に何度か瞬きをし、それから少しずつ目を開けていくと、まだ白々と霞んでみえてしまうが、美しい装飾の施された部屋の天井が見えた。金とか銀とか臙脂色とか、ヒトに高級感を与える色遣いで統一された部屋に、だんだん目が慣れてくる。
…自分がこんな部屋に居るわけがない。こんな部屋を持っている奴は心当たりがばっちりあるが。
恐らく絹とかそういう類の素材で織られた、するりとした掛け布団をのかし、厭に柔らかくて心地の良いベットから上身を起こす。ミシミシと鳴るのはベットではなく、自分の骨と筋肉だ。特に肩に力を入れると思わず声でも漏らしそうな痛みが体をつんざく。首はギシギシと厭な音を立てるし、動くのを怠っていた足の筋肉はズキズキと痛む。大きく設計された窓からはさんさんと快い日光が差し込んでいるというのに、寝起きの気分は最悪だ。
ベットの脇に、自分の服とそれから命の次に大切な愛刀があることを確認してから、アシュレイ=サバーシオスはもう一度ベットに体を倒した。バフンと上質な敷き布団が含んでいた空気が吹き出し、洗濯剤の良い香りが一瞬舞う。はぁー、と長く息を吐いた時、扉をノックする音が二度鳴った。どうぞと言う前にガチャリと見事な装飾のある扉が開き、その扉の三分の二の高さより下の辺りに朝日にきらきら輝く金髪を見る。アシュレイはベットに背を預けたまま顔だけそちらに向けて、起きてから初めて声を出した。
「…イア」
「おはよう、アシュ。元気になった?」
微笑みを含み、ただ朝会った友に挨拶するのと変わらない声で金髪の少年は部屋の中に進みながらアシュレイに聞いた。アシュレイが低く肯定するのを聞きながら、イアと呼ばれた金髪の少年はつかつかと窓際により、大きな窓を開けた。幾分か甘く、密度の高い芳醇な朝の空気が部屋に入り込む。それを大きく吸い込んでから、アシュレイはもう一度口を開いた。
「どれくらい、寝てた?」
「二日くらいだよ。怪我はもう治ってる。どこかおかしくない?」
「骨がイカれてるカンジだ。二日も動かさなかったからな」
「アシュって、寝かしておくといつまでも寝てるもんね。お腹すかないの?」
途端に、図ったようなタイミングで空腹を覚えたアシュレイは、ザンバラに切ってある自分の赤髪を掻き上げて、苦笑して頷いた。一タイミングおいての、親友の「…減った」という低い声を聞いたイア…イグナシア=ファーレリィはおかしそうに細い肩を竦めた。
窓の外は初夏を代表するような天気だ。世界にいくつもある王国の中でも三本の指に入るフォルドラ王国の王城のこの一室にも、木々のざわめきの音と、暖かい風がながれてくる。そろそろ日も高くなり、商店街が賑わい始めたころだろうか。だが、王城の一番裏の部屋にあたるここには殆ど音と言う音は聞こえてこない。
フォルドラの城下町は、王城の正面に扇子を広げたように栄えている。したがって、この大きな城の後ろには、いくばかの小さく閑かな森と、そして国境代わりの山々が連なるのみで閑かなものなのだ。
「…だろうと思った。アシュの好きなクルミのパン残しといたから。スープも持ってくるね。ちょっと待ってて!」
イアは、「アシュの好きな」で窓辺を離れ、「クルミのバン残しといたから」でアシュレイのベットの横を通り過ぎ、「スープも持ってくるね」で扉を開け、「ちょっと待ってて」が言い終わる頃には既に扉を閉め始めていた。
…あわただしい奴。イアが去った余韻を苦笑して噛み締めながら、アシュレイは再び閑かになった部屋の天井に目を留め、それから窓の外へ視線を移した。木の葉が日に当たって緑色に透けて見え、その間からちらちらと見える太陽の光がほっと何か落ち着かせる。頭の後ろで手を組んで、目を細め、赤髪の青年はそれを見つめた。ベットには若干収まり切れていない長身の先の足先をぶらぶらと持て余しながら、今さっき去った年下の親友の事を何ともなく考える。長い金髪をもてあまし気味のミニ型なあの少年は十一歳の筈だから、もう互いを知って九年近く。
アシュレイは傷薬と包帯のまかれた肩に手を置いた。掌に包帯のかさかさした感触がすべる。…大丈夫、もう痛くない。そう一人ごちて、アシュレイはようやく身体を柔らかいベットから起こした。裸足でひやりとした床に足を下ろし、傍らにあったテーブルから上着を手に取り、それを羽織る。どこまでも黒に近い臙脂色をした半袖の、質の良い上着の胸元には、イグナシア国の紋章が刺繍されている。…王国騎士団の正装はコレだ。左腕に防具のサポーターをつけ、黒い手袋をはく。
そこまでしたときに、がちゃりと扉があいて、危なっかしくパンの入ったバスケットと、カップスープをのせた盆を手にしたイアが居た。騎士の服に着替えていたアシュレイを見て、年の割に小さく、童顔な彼はあーっと声を上げた。
「”骨がイカれてるカンジだ”…ってのはどうしたの!? それに熱もあるんだから! まだ動いちゃダメだよ、アシュ!」
アシュレイの低い声を真似して言いながらイアは扉を閉め、がちゃがちゃと盆の上のものを揺らしながら小走りに走り寄ってきた。…危ない、転ぶぞ。アシュレイが言う前に、これもまた図ったようなタイミングでイアが絨毯の端に足をつっかけた。短く悲鳴というより驚きの短い声を出して、イアの小さな身体は傾いた。
このほんの一瞬のうちにイアの視界に自分の手から滑り落ちる盆が見えた。自分が転んで痛い思いをするより、空中にばらけるクルミのパンと、せっかく暖めたスープが散る方が気にかかる。このまま落下すれば、顎をしたたかに床に叩き付け、 目の前にアシュレイのご飯の惨状が広がる筈だったのだが、硬質な床の感覚に至る前にバフンと何かに身体を抱えられ、イアはびっくりして顔を上げた。
自分が倒れるのを食い止めていてくれているのはアシュレイの防具をつけた左腕で、自分の頭よりはるかに上に器用にバスケットとスープの乗った盆をキャッチした彼の右手があり、アシュレイの口にはクルミのパンが一つくわえられていた。…ここまでくると曲芸師の域ではないか。
口をもぐもぐさせながら、イアを立たせた左腕で口のパンをむしる。右手の盆をテーブルの上に無事に着地させて、赤髪の王国騎士はしれっとした顔で言った。
「…やっぱり美味いな、コレ」
一昨日、瀕死までは行かないものの、殆どそれに近い重傷を負った筈の親友の顔を見て、イアは腹の奥が熱く、重くなるのを感じた。アシュレイが戦場から運ばれてきた時の惨状がチラリと脳裏をかすめ、一瞬息が出来なくなるかと思う。イアはいつのまにか目に溜まった涙を必死でこらえて、喉の奥から声を絞り出した。ただ、一言。これが限界だった。
「…バカ」
「あァ?」
「アシュのばァーかァ! 僕がっ…僕がどんだけ心配したかもしんないでっ! 無理しないでよゥ! 死んじゃったかと思ったんだよぅ!!」
怒っている顔に、こられきれなくなった涙をながしたちぐはぐな表情で、イアはアシュレイの腹…イアの身長はアシュレイの腰あたりがやっとである…にどんどんと拳をたたき込んだ。勿論本気でではない。ただ、咎めるように淡々と、それは一定のリズムでもって、アシュレイに染み渡る。
いきなり話題が転換したものだから、ハテナと首を傾げたアシュレイだが、イアが自分の傷のことを言っているのだと気づくと、思わず苦笑をこぼした。道理で部屋にはいってきた時、喋り方が緊張していたわけだ。こんなことをため込んでいたのか、この少年は。赤髪の騎士は肩で溜息を吐くと、無言で、イアの長い金髪の頭をポンポンと撫でた。
「…騎士が怪我しねぇでどうする。戦うのが、俺の仕事だろ」
「…運ばれてきたとき、アシュ、息してなかったもの」
「してたさ、ちゃんと」
「顔色、真っ白だったもの」
「俺ァもともと白いぜ、イアに負けずな」
「お医者様が吃驚してたもの」
「他の連中も同じようなもんだろう?」
「…バカ」
「どうも」
最後にアシュレイは破顔して笑った。自分にしがみつく少年の金髪の頭をわしわしと撫でる。そうだ、コイツはまだ十一歳なんだ。…この大国の王を父にもつこの少年も、まだ十一なのだ。アシュレイはふと、手を止めた。泣きはらして潤んだ目でイアが不思議そうに彼を見上げる。イアにとって生まれたときからの友達である齢二十三の騎士は静かに窓の外を見ていた。南中まであと少しとせまった日が、端正なアシュレイの顔を照らす。彼の右目の回りを覆う様に彫られた入れ墨が余計に黒く見えた。何の前触れもなく、窓の外をみつめる騎士はそっと呟いた。
「戦争が、終われば、…お前も外に出られるし、俺も戦わないさ」
彼の見つめる窓の外に、いくつもの戦機が野原に黒い影をおとしながら、真っ青に晴れた空を切り裂いて進んでいるのが見えた。
†
「スープ、冷めちまった」
折角こぼれるのを防いだのにな、とアシュレイは、既に陶器の冷たさしか伝わってこないカップを手にして呟いた。少し間をあけて、イアはうん、と頷いた。日はもう傾いている。白かった光はいつの間にかオレンジの光をたたえて、地平線に吸い込まれようとしていた。
冷えたカップを盆の上に戻して、アシュレイはベットの上に膝を抱えて座っている金髪の少年を一瞥してから、椅子の背もたれに体重を預ける。ギシギシと椅子が軋んで、さらに同じ音をたてて傷口の骨も軋んだ。天井を何ともなく眺め、オレンジ色の日の光に長く影を作っている天井の装飾品に目を細める。
アシュレイは、真っ直ぐ天井を見たまま開口した。上にのばした喉が声に震える感触が腹の芯に響いた。
「…綺麗なんだぜ」
「え?」
「戦争してるけどよ、…東の大森林とか、イゼラの草原とか、フェン川の市場とか。吃驚するくらい綺麗なんだ」
肉をえぐり取られた肩口がずきずきと痛む。この痛みをもたらした戦争の中でも、”外”は綺麗だ。この、王城の言う名の牢獄の外は。アシュレイは顔を正面に下ろした。
「イアも今度行こうぜ。おごってやる」
まだ赤く腫らした瞳を一瞬開き、少年はひどく嬉しそうに微笑んでコクリと頷いた。…生まれて十一年、一度も土を踏んだことのない足を抱えて、彼はそっと顔を伏せ、震える声で言った。
「おいしい御菓子が良い。甘いフォンデュも食べたいなぁ…。御菓子とお弁当持って、イゼラに行こうね。おっきい大草原にシートを敷いて、そこでお弁当食べるんだぁ…」
「…俺、甘いのは断るぞ。」
「じゃぁ、ビターのチョコケーキ作ってもらおう。コーヒーのゼリーでも良いよ。いいなぁ…。地面ってどういう感触なんだろう。原っぱってどれくらい広いんだろう」
膝に顔を埋めたまま、細い声でイアは言葉を紡ぎ続けた。自分らが軍靴を履いて、戦車で我が物顔に行進し踏みつける地面は、この少年にとっては夢なのだ。アシュレイは目を細めた。王城から一歩でも出ることを許されないこの少年の夢は、騎士になることではない。パイロットになることでもない。地面に立つ事だ。部屋靴じゃない、地面を踏む時のための靴を、イアが毎日毎日後生大事に枕元に置いて、磨いているのをアシュレイは知っていた。
細い脚を抱いた少年から、静かな寝息が聞こえるまで、そうそう時間はかからなかった。赤髪の騎士は静かに椅子から立つと、イアをベットに寝かせ、布団を被せた。
まだ少年が幼かった頃、大きな窓から外を眺めて、いつかあそこへ行こうと、まだろれつの回せない言葉で言う時の顔を覚えている。長方形の鉄板型の胸当てについた紐を背に回して結び、ベルトを締め直して、太刀をホルダーに装備した。夕焼けの色に染まった部屋を横切り、扉を開ける。少年が起きない様に、なるべくそっと。…きっと昨夜はロクに寝ていないのだろう。自分があんな状態だったから。上質な絨毯のしかれた廊下に出、アシュレイはゆっくり扉をしめた。まぶしい日の光がだんだん細くなり、扉を閉めて、完全に消える。
一度だけ息をはいて、アシュレイは真っ直ぐのびた廊下を歩いた。
†
「見て」 「見て」 「アレ」
「サバーシオスだよ」 「赤い髪の」 「あれがそうなの」 「歩いてる、あの人だよ」
「知ってる?」 「あれが、そうなの」 「そうだよ、あれさ」
「死ねない騎士って」
長い影ができている。美しく差し込む斜陽により出来た細く、長い影は、自分の斜め後ろを忠実についてきた。硬質な庭園の廊下に軍靴があたる音はひどく軽快で心地よさを覚える。王城の夕暮れは、絵をそのまま具現させたような美しさに包まれていた。
赤髪で長身の騎士は、腰に太刀を携えて、まっすぐ前を見つめて規則正しい歩調で廊下を歩いていた。彼を照らす陽は、彼の体躯を通して反対側に細長い影をつくる。真っ直ぐ伸びて、王城の白い壁に垂直に伸びるそれは、彼の歩調にあわせて上下していた。歩く彼を見つけた侍女や女中達はまわりの仲間をひっつかんで、赤髪の騎士を指さして言うのだ。彼女らは自分の持つ特異な情報を自慢したいのだが、その情報というのは公然とではないものの、この王城に仕える者は殆ど知っていた。よって互いに知っている情報の自慢の仕合になるのだが、それでも彼女らは飽きずに毎回繰り返す。
「見て」 「見て」 「アレ」
斜陽は王城の術に影を落としていた。真っ直ぐ立った支柱。円筒のオブジェ。名工が造った天使の彫刻。全ては長く細い影をのばし、あたりはまるで異世界のよう。夕焼けのオレンジと、影の黒の二色しか見あたらない豪勢な中庭は、どの季節でも花が咲くように様々な種の木々がある。今よく咲いている薔薇の花の匂いに空気は噎せ返り、芳醇な大気はまるで粘着質の液体のような質感を保っていた。赤髪の騎士…アシュレイ=サバーシオスは、まっすぐ前を向いて歩いていた。頬に日の光がまぶしい。
侍女達の声は、あるで呪文の呪い文句のように真空のあたりに跳ねて染みる。
「見て」 「見て」 「あれだよ」 「あれが?」
コツ、コツ、コツ、コツ。静かな空間に自分の足音だけがひどく響く。
「イグナシア様の護衛なのよ」 「えっ、アレの?」 「シーッ。アレはダメよ。王様の耳に入ったらどうするの」 「でも、あのコって」
腰にさげた太刀の重さだけが自分をこの地に結びつけている気がしてならない。
アシュレイは真っ直ぐ王城の廊下を歩いていった。細く伸びる黒い影は、やがて彼の横から後ろに回り、オレンジの陽は地平線に没した。
「でも、あのコって……」
†
イグナシアという由緒正しい名を、”長い”の一言で片づけた彼が、自分のことをイアと呼び始めて随分経つ。アシュレイだって十分長いじゃないか―と思いつつ、イアは既にアシュレイのことはアシュと呼んでいた。理由は簡単だ。年端もいかない幼子にこれは発音しにくかったから、必然的にこうなっただけのことである。
こんな風に、とにかくイアのどんなに幼い頃の記憶にも何処かに今と全く変わらない赤髪の騎士の姿がある。物心ついたころには高級な装飾と家具ばかりが目立つ部屋に朝から晩まで一人で居た。どれだけ上等な部屋でも、イアには牢獄に思えて仕方がない。無駄に大きく設計された窓から、よく外を眺めたものだった。誰からかの贈り物かも分からないクマのぬいぐるみを抱き、愛想笑いを浮かべる侍女達に囲まれ、貴方は王子様なのだから、と言い聞かされてきた。王子ならば何故父である王に会えないのか、何故こんな部屋に軟禁されて外にも出して貰えないのかと疑問に思えるほど歳を重ねていなかった頃から、ずっと。
恐らくあの騎士と一緒にいる記憶で一番古いのが、自分以外の誰にも内緒で、一人で王城の西塔の屋上に行き、そこから景色を眺めていた時のことだと思う。寝間着にスリッパと手にはクマのぬいぐるみというよほど王子らしからぬ格好で、屋上の縁に座ってイアはただただ平淡な景色を眺めていた。手元のクマのぬいぐるみを弄りながら、目だけはずっと地平線の彼方へ。スリッパから覗く素足を通り抜けた風が心地よくて、ぶらぶらと足を揺らしている時に、自分の横に誰がが立っているのに気づいた。
腰掛けているイアがずっと首を上にあげても顔を見きれないような長身の誰かがそこにいて、何も言わずにイアの隣に腰掛けた。騎士の制服の匂いがツンと鼻を刺し、小さく金属が擦れる音がする。隣の誰かは別に何も言わなかったので、イアも別に何も言わないことにした。…誰にも言ってないのに、何でココが分かったのか不思議に思ったが、別に対して気にならなかった。暫くそうしていた。お互い何も喋らずに、また、別に互いを気にせずに。
「朝メシ食ったのか」
ふいに聞こえた低いが、心地の良い声にイアはゆっくり隣に顔を向けた。不思議に、突然のことだったにもかかわらず別にドキリとしたり吃驚したりという感覚はまったく感じられなかった。
さっき、立っていた時よりは少し低いところ、それでも自分にはずっと上の方に無愛想そうな顔を見つめる。赤髪の彼は、イアが小さく首を横に振るのを見てから、そうか、と頷いた。それから別に何も言わずに立ち上がり、腰をかがめてイアに大きな手を伸ばす。ただ一言、彼は言った。
「行こう」
そっと、イグナシア=ファーレリィは目を覚ました。電気をつけていない部屋は薄暗く、窓から見える外は黒いショールを被っていた。ベットから上半身を起こして、まだぐわんぐわんと鳴る頭を抱えて、部屋をゆっくり見渡す。ああ、寝ちゃったんだ―、部屋の角を意味もなく見つめ、イアはそう認知した。
珍しく昔の夢を見た。潔癖なほどに白く漂白された布団をのかし、床に脚を下ろす。まだ熱を持つ素足に、ひやりとしたタイルの質感が伝わった。ぼさぼさの金髪に手をやって、イアはまだ夢見心地でボーッと立った。頭の中で夢の内容がぐるぐる回る。愛想笑いを浮かべる侍女達、牢獄みたいな豪奢な部屋、朝早くに屋上から見た景色、隣に居た赤髪の―。
そこまで思い返して、金髪の少年は少しの間の後、サッと自分の頭の中が晴れるのを感じた。慌てて部屋の中をぐるりと見渡したが、赤髪の騎士の姿は見えなかった。今まで自分が寝ていたベットを見、すっかり冷めたスープの入ったカップを見て、壁の時計に目を遣った。空の色から判断してもあれから二時間ほど経っている。慌てて髪を手ぐしで梳いて、服のしわを直した。ほとんど手をつけて貰えなかった盆を掴んで、…今度は転ばない様に部屋を横切り、片手でそっと扉を開ける。
「熱があるって言ったのに…!」
赤い絨毯が伸びる廊下を駆けながら、イアは一人呟く。あの騎士は吃驚するくらいに自分に無頓着だ。だから、戦場に行くたび人一倍怪我をするんだ。
イアは先程の夢を思い出した。あの日、屋上でいつの間にか隣にいたアシュレイは、親の名前と肩書きは知っているのに顔はほとんど知らないイアのそばにあれから常にいた。顔も知らない親よりも、量産したような侍女達よりも、イアにとっては親友であって、たった一人の親で兄のような存在。居なくなるなんてことは恐ろしすぎて考える事が出来ないくらいだ。例え、…例え、思い出の―あの九年前に出会ったときと、今の彼が全く変わらない容姿をしていても。
イアはくっと唇を噛んだ。時の流れに嫌われた親友は、またあの容態で戦いに出るかも知れない。それまでに、伝えなければならないことがあるのに―。
少年が走るフォルダムの王城の外で、日が丁度沈んだ。闇が世界を掌握し、幾光年を越えてやってきた光を放って星が輝く。人は寝静まり、人以外の…或いは、人の奥底に眠るものもそうと言えるのならば、それも、活動をし始める、夜が来た。
next 第一章 戦争兵器
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2004/11/29(Mon)17:50:46 公開 / 山
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■作者からのメッセージ
初めましてこんばんは。山と言います。初めての投降なのでドキドキしていますが、とにかく頑張ったには頑張った作品なので、感想等頂けると舞い踊る勢いで喜びそうです。(笑)私は本当に冒険ファンタジーしか書けないので、こちらでいろんなジャンルを拝見して、腕を磨きたいなぁ…、と思っています。宜しくお願いします。因みに題名、読み方は「エリス」、争いの女神のことです。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。