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『「永久ロリータ12号」 完』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:笹井リョウ
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◆ 1
ドアが開いた。
「アヤ」
夜の底を這うようなバリトンが、部屋に染み入る。私は閉じていた目を開けた。そこには、小さなくまのぬいぐるみを抱えたあの人が立っていた。形を崩さずに着こなしているスーツに、それは不釣合いに見えた。まるであの人の身体自体がスーツを象っているように、あの人にスーツはよく似合う。
淡いグレーをした袖が私に近づく。あの人からはいつも、煙草の香りがする。私は大きく、それを吸い込む。あの人の香りを体内に送る。
「アヤ」
あの人は、もう一度私の名を呼んだ。私は口をかすかに動かす。声を発することは出来ない。口を動かす度に、何重にも巻かれたロープの感触がゆるくなっていくのがわかる。私は、わざと目を伏せ、頬に睫毛を被せた。懇願するような目線を向けた方が、あの人の欲望は疼くらしい。
口に巻かれていたロープが解かれ、拘束はロープの下に巻かれていた白い布だけになった。
「…」
くぐもった私の声は、少し高めのアルト。あの人のバリトンと重なれば、深みのある層が出来る。
「解いてあげようか、アヤ」
あの人はスーツを脱ぐと、私の両手首を握った。あの人の手の温みが、ほんの少しだけ伝わる。
「はい。解いてください」
私の言葉とほぼ同時に、あの人は結び目にロープの手をかけた。手馴れた手つきで両手首の拘束を解いていく。皮膚に、ロープの裂き目が擦れて痛い。ロープから解かれてもまた、拘束されているように感じる。あの人は、そんな私の両手首にゆっくりとキスを施した。あの人の舌が、私の皮膚を舐め回す。手首を渦巻いていた毒素が抜かれた。
両手両足の拘束を解いたあと、あの人は私の口に巻かれていた白い布を取った。
「アヤ」
もう一度だけ私の名前を呼ぶと、私の唇を溶かすように舐めた。唇を重ねる。あの人のキスは、私を蝕む。
探るように、私の口の中に舌を入れてくる。私はそれを受け入れる。あの人の舌はいつも、ずっしりと重く、粘液のような唾液を纏っている。私はそれを舐めとるように、あの人の口内を探っていく。息が苦しくなるほどに、重く、深いキス。
「…」
今日は、あの人から口を離した。途端、キスの間、鈍くなっていた時間の流れが一気に押し寄せてきた。深い海の底から這い出たように、私は呼吸する。あの人が私の頬を撫でた。
あの人の指を銜えた。太くて、温みのある一指し指。赤ちゃんがご飯を食むように、私はそれを銜える。それは、食事のサインだった。
あの人は、自由の利く左手で銀色のお盆を引き寄せた。床とトレイの擦れる音が耳に痛い。ビーフシチューの匂いがゆらゆらと漂い、私はそれを鼻でつかまえた。少し、煙草の匂いが混ざっていた。
「アヤ、今日はアヤの好きなビーフシチューだよ」
あの人はスプーンでシチューを掬うと、私の口までそれを持ってくる。私はせがむようにあの人を見つめる。ちょうだい? 口の動きだけで、そう言ってみる。私は、幼い子供のように首を傾けた。甘える幼女を演じた方が、あの人の欲望は疼くらしい。
「ほしいの?」
あの人の声に、私はコクンと頷いた。そして、瞳の中にある泉を震わせた。
スプーンで私の口をこじ開けるようにして、あの人はシチューを注いだ。シチューが私の舌を纏い、独特の甘みが鼻へ抜けた。
「おいしい…です」
私がそう言うと、あの人は私の口の周りについたシチューを舌で舐めとった。私は目を瞑り、あの人の唾液に溺れた。
二口目からは時々、あの人の口移しでシチューは注がれた。あの人の唾液と混ざったシチューの味は曖昧で、熱いくらいだった温度も曖昧に溶かされていた。それでも私はおいしいですと言いつづけた。私は、繰り返した。
あの人は毎日、私に御飯を作ってくれる。そして毎日、私に与えてくれる。メニューは子供が好きそうなものばかりで、私はそれをおいしそうに食べなければならない。あの人が料理を失敗するということはなかったけれど、私にも好き嫌いはある。例え私の嫌いなものが出されたとしても、私はそれをおいしそうに食べた。甘える目を向けながら、自分からあの人を挑発するように。
あの人の作るシチューは甘い。口に含んだ瞬間、甘みが空気となって鼻に抜ける。肉の形がわからなくなるまで煮込まれた液体は、一皿全部たいらげるには甘すぎるのだ。それはクリームシチューにも言えることだった。人参などの具は全て、溶けて形をなくしていた。私は、その抜けるような甘みがたまらないといった顔をして、犬のようにシチューを舐め続ける。
「アヤ」
口の周りをシチューで汚した私の顎を、あの人は掴んだ。二十度くらい角度を上にずらすと、あの人の口は私を食んだ。大きな口で私にかぶりつき、私についているシチューを舐め取る。そしてそのまま舌は私の中へ入ってくる。シチューの味がした。
この部屋に窓はない。ここは、真っ白な壁が四つだけ存在する、子供用の牢獄のような部屋だ。あの人が今まで買ってきてくれたくまのぬいぐるみが十七個、四辺を埋め尽くすように置いてある。それらは全て中心を向いており、私の生きる様をじっと見ているようだ。
食事の時だけ拘束を解かれ、あとは好きなようにあの人に犯されている私を。
「…っ」
深いキスを施しながら、あの人は自らの服を脱ぎ捨てた。上半身が露になる。私は、あの人の厚い胸に手を置いた。いつも通り変わらない鼓動と体温を感じた。
引き締まった身体をしめつけていた、ベルトが外れた。
「…アヤ」
あの人は一瞬だけ口を外すと、私の名前を呼んだ。低いバリトン。むせるようなコロンの香り。私はどれも大嫌いで、大好きだった。
そして、私が小さく頷いたのを確認すると、あの人は私の服を剥いだ。着ていたシャツはいとも簡単にあの人の手から放られる。隔てるものは下着だけとなった私の胸を、あの人は掴んだ。そして愛しそうな唇の動きと合わせて、揉んだ。
時間が、普段の五倍の速さで駆け抜けていく。あの人の温かい吐息とその震えが、それを物語っていた。
「…あっ…」
私の腰が浮いた。自然に目を閉じた。快感の波に溺れる。
あの人は私の口から舌を解き、身体のいたるところにキスを施し始めた。それは細部に行き渡った。身体中を味わうように舌を走らすあの人の姿を、私は愛しいと感じてしまう。
あの人はズボンと下着を脱ぎ捨てていた。私の下着もどこかへ放られていた。私たちは生まれたばかりの状態のまま、ただ抱きしめ合い、身体中を舐め合った。言葉にならない快感と愛しさが、荒波のように胸に押し寄せる。
あの人の舌が私の性感帯を探るたびに、私の腰は激しく揺れた。あの人がそれを制そうと腰を押さえれば、快感の表現方法は声へと変わった。吐息まじりの大声を私があげるたびに、あの人は愛しそうな目で私を見つめ、もう一度「アヤ」と囁くのだ。私は、瞳孔に涙の泉を溜めて囁き返す。
「お父さん」
あの人は微笑む。
夜の行為が終わった後、十八個目のぬいぐるみが、この部屋に追加された。
「ありがとう」
身に何も纏っていない私は、温もりを求めてそれを抱きしめる。布の繊維が、やがて私の体温と融合する。
あの人は愛しそうな視線で私を舐めると、私に服を着させてくれた。生まれたての小鳥を扱うようなやわらかい手つきで、袖に私の腕を通す。時折、私の体にキスをした。そこだけあの人の唾で冷たくなった。
「アヤには黒い服が似合うよ」
今日着せられたのは、喪服のような漆黒のドレスだった。あの人はこうして、夜の行為が終わった後には私を着替えさせてくれる。それまで着ていた服を、あの人はハンガーにかけてクローゼットの中にしまう。私は、クローゼットの中を見たことがない。だから、いつもどんな服を着せてもらえるのか、少し楽しみがある。
「いい子にしているんだよ」
あの人はそう言うと、私を拘束する。毎夜の決め台詞。私は封印される。
私の手首についた痣を、あの人は細い目で見つめる。その時、手首の痣はじくじくと固執に痛みを増す。あの人の視線で抉られる痣は、日に日に濃くなっていく。手馴れた手つきで私を封印するあの人の匂いが、鼻腔を震わせた。
あの人は白い布を持った。私の口に当てる前に、呟く。
「好き?」
毎夜の決め台詞。
「好きです」
目は反らせない。
あの人は時間をかけて微笑むと、ゆっくりと私の口を封印した。布からは、私の匂いがした。
◆ 2
この部屋には、季節を知る手がかりがない。窓もなければ、温度を感じる術もない。この部屋という空間は、外の世界から切り離されて存在している。あの人によって、この部屋は世界から孤立している。今、外の世界で何が起きているのかもわからない。もしかしたら今日本は戦争の真っ只中かもしれない。もしかしたら凶悪病原体ウィルスが世の中には充満しているのかもしれない。
私には外の世界を知る術がない。
この部屋の内部の温度は、あの人が調節してくれる。二十度前半といったところだろうか、寒くもなければ暑くもない。一体今、世界はなんと呼ばれる季節の真中にいるのか、私にはわからない。
だけれど、私がひとつだけわかることがある。私がこの部屋に入れられてから、今日で十八ヶ月目に入ったということだ。あの人が買ってくるぬいぐるみは、毎月のはじめに追加される。今日でぬいぐるみは十八個目。私はぬいぐるみを十八回抱きしめ、ぬいぐるみひとつにつき三十回の行為をあの人と交わしたということになる。
私はこの部屋に入ってから痩せた。食べ物は三度の食事しか与えられず、間食は許してもらえなかった。この部屋の鍵もあの人が管理しているので、何か食べたいと欲しても誰にもそれは伝わらない。朝七時、昼十二時、夜七時と毎日決まった時間に食事は運ばれる。全て、あの人の手作り。あの人は私の昼食のために、毎日会社から家まで帰ってきてくれる。私はあの人の優しさが好きだった。私はあの人の料理が好きだった。
私はあの人を愛しいと思う。
着こなしたスーツの向こうにある、引き締まった体。私の名前を呼ぶ、低い声。私のふくよかな胸を包み込んでくれる指の骨。す、と線のように細くして私を見つめる、瞳。唇ではさむと赤く彩られる、耳。熱を持つあの人。細部を指でなぞれば、あの人の息は荒くなる。
私が唯一あの人を操ることの出来る瞬間だった。
毎晩私はあの人の帰りを待つ。食事よりも、あの人の存在を待つ。私という人間は、あの人に認識されなければこの世に存在していないことになってしまう。それが怖かったし、何より私はあの人を欲している。あの人を待っている時間は、さみしい。
さみしい。
殺風景な部屋。並べられたぬいぐるみ十八個と、大きなクローゼット。使い古された化粧台に、真っ白なベッド。上で行為をすれば、ぎしぎしと軋むベッド。むせ返るのは精液の匂い。咲き乱れる栗の花。
「ねえ、毎晩あの部屋で何をしているの?」
ドア越しに、向こうの部屋からの声はよく聞こえる。私の聴覚は、この部屋に入ってから鋭くなった。毎晩あの人の足音を聞きつけては、心の準備をするために。
「ねえ、何をしているの?」
深みのあるソプラノが、あの人を問いただす。伊吹だ。あの人が、十二個目のぬいぐるみを私にプレゼントしてくれた日、伊吹はこの家にやって来た。あの人と同じ時間にこの家に帰ってきて、あの人と同じ時間にこの家から出て行く。きっと、同じ会社に出勤している恋人なのだろう。私は伊吹の声に神経を傾けた。伊吹の声は心地よい。だけれど、伊吹の存在は心地よくない。
私はあなたのせいで、ずっとさみしいのよ。
「娘を、寝かしつけているんだ」
あの人は答える。
「娘?」
伊吹は訊く。あの人に娘がいることを知ったのは、今がはじめてなのだろうか。私は少しだけ、伊吹に優越感を感じた。伊吹は今どんな表情をしているのだろうか。伊吹にとって、あの人が決して自分のものではないという決定的な証拠が、いま提示されてしまったのだ。
私という存在。
「娘がいるの?」
「あぁ」
「いくつ?」
「何歳だっていいだろう」
「よくないわ。今、いくつなのよ。なんで会わせてくれないの?」
伊吹があの人に詰め寄っている。気持ちの焦りを表す足音が聞こえた。
「君には関係ないことだ」
あの人は顔を反らす。私にはこのドアの向こうは見えない。だけどあの人の動きは全てわかる。あの人は今伊吹から目を反らして、突き放すように顔を伏せている。目からは優しさの温もりを消して、背中で言葉を発している。
そして、音が消えた。私のいる部屋の空間と、あの人と伊吹のいる部屋の空間が、融合する。空間と空間の混ざり合う摩擦が、聞こえる。
「…あの部屋にずっと、いるの?」
無音を切り裂く伊吹のソプラノ。
「あぁ。ずっと、いる」
あの人の答えは事実だ。事実だからこそ、その答えには気味の悪さが存在していた。あの人は私の存在を隠そうとしない。
「そう。…愛娘なのね」
私は伊吹の顔を見たことがない。だけど、今の伊吹の表情は容易に想像することができた。私の部屋のドアを凝視している伊吹。動揺と混沌が入り混じった表情、だけれどそれを隠して平静を演じている。私はドアを見つめた。ドアの向こう側を見つめた。ドアの向こう側に立っている伊吹の姿を見つめた。
あの人は伊吹に背を向けて立っている。伊吹はこの部屋のドアを見つめている。二人は何も口にしない。無音という音だけがうるさい。
私は伊吹を見つめる。
やがて、ぎしり、と床の軋む音がした。伊吹がその場から立ち去ったのだ。私は勝利を感じた。
「お風呂入れてくるわ」
伊吹のソプラノに、あの人は低いバリトンで返事をする。私はドアの向こうに立っているあの人だけを見つめた。早く、この部屋に来てね。お父さんの作るご飯、私大好きだから。早く朝になるといいね。私、この部屋で待ってるよ。
さみしい、から。
↓ ↓
私の家庭は壊れていた。
私は六歳の時、自分の家庭の異変に気づいた。私が六歳の時、姉は十二歳だった。六年目になるランドセルはもう寿命を迎えており、ところどころピンク色が剥がれてしまっていた。
私はその時小学校一年生で、学校で児童会長を務めていた姉が自慢だった。十二歳にして背も高く大人びていた姉は、先生からの信頼も厚く生徒からの人気者だった。私は姉を見上げて、「アヤ、お姉ちゃん、好きだよ」と何度も呟いた。姉は、「ありがとう、アヤ」と言って私の頭を撫でてくれた。姉はやわらかく微笑んでいた。桜の花びらが散る中で、私達は手をつないで帰った。
「お姉ちゃん、来年卒業だよね。アヤさみしいな」
ある日、私は姉を見上げて言った。姉の顔は太陽の光に照らされてきらきらしていた。姉の長い髪の毛が風にさらさら揺れる。お姉ちゃんは、私と違う世界のひとみたい。私はそう感じていた。
「アヤは来年から、この通学路、ひとりで歩くことになっちゃうね」
姉はそう呟いて、さみしそうに目を細めて笑った。姉の背後で散っている桜がきれいだった。
「でも、まだあと一年あるからね。たくさんたくさん、楽しもうね」
暑い日差しの中で、姉に泳ぎを教えてもらおうと思った。色とりどりにに色づくもみじを二人で並んで見たいと思った。雪の日には二人でひとつのマフラーをして、水溜りに張った氷をせーので割りたいと思った。姉が隣にいるだけで、私の一年分の日記帳は埋まった。
お姉ちゃん、好きだよ。
いっぱいいっぱい、好きだよ。
私は、きれいすぎる姉の存在を汚さないように気を遣っていた。姉はきれいだった。姉に欠点はなかった。私は、姉の隣にいられる自分が好きだった。姉の隣にいれば、私もきっときれいな存在に見えているだろうと思っていた。私はそのくらい姉のことを慕っていた。
姉は、毎日私の部屋でいっしょに寝てくれていた。姉の部屋は隣だったが、寝つきが悪い私のために、姉は夜になると毎日私の部屋に来てくれていた。私は毎夜、姉に寄り添って姉の鼓動を聞きながら寝ていた。姉は細い腕で私のことを抱え込んでくれていた。
「お姉ちゃん、おやすみ」
私がそう言うと、
「うん。おやすみ」
と姉は笑ってくれた。私はその笑顔が大好きだった。
「明日、アヤ、プールがあるんだ。アヤ、水が苦手だからあんまりうれしくないの」
ある夏の日の寝る間際、私は姉にそうこぼしたことを覚えている。私がそう言うと、姉はおや? という顔をして、落ち込み気味の私の頬をやさしくつねった。
「イタイ」
本当は痛くなかった。姉の指はじんわりとあたたかくて、私の頬をこねるようにしてつまんでいただけだった。
「大丈夫だよ、アヤ。私といっしょに泳ぎ練習しにいったじゃん。そのときみたいにしてれば、ぜんぜん大丈夫だから」
姉はもう一度笑った。あのときアヤ、バタ足に息継ぎだって出来てたじゃん。ビート板使わなくてあれだけ出来る小学一年生って、すごいよ、と姉は言いながら私の髪の毛をゆっくりと撫でた。
「ほんと?」
「ほんと。だから安心しておやすみ」
「ほんとにほんと?」
「しつこいなぁアヤは。ほんとにほんとにほんと、だよ」
姉の腕の中では、私はすぐに寝つくことが出来た。姉の心臓の音を聞いていると、私は絶対的な安心感に包まれた。お姉ちゃん、大好きだよ。私の夢の中には、ほとんど毎日姉が出てきたように思う。
だけどある日を境に、姉は私の部屋に来なくなった。私と一緒に寝なくなった。私達の異常な生活が始まったのは、その日からだった。
◆ 3
その日の朝は、母の声で起きた。
「アヤ、起きなさい。学校に遅れるわよ」
暗闇の中にどっぷり浸かっていた私の脳が、やわらかな声によって呼び覚まされた。
「もう、朝?」
私は、ぼさぼさに乱れてしまった髪の毛を押さえつけながら、言った。パジャマが、少しだけ汗で湿っていた。
「そうよ。もうご飯もできているから、早く降りてきなさいね」
おみそ汁が冷めちゃうわよ、母はそう言って私の頭を二、三度撫でたあと、カーテンを開けた。暗かった部屋の輪郭を、朝日が鮮明に描きなおしていく。まだ閉じかけている瞼から、外の世界を覗く。光がまぶしくて、私はもう一度ふとんをかぶった。
お姉ちゃんが、いない。
「お母さんお母さん、お姉ちゃんは?」
私は、ふとんからひょっこりと顔だけを覗かせて、窓際に立っている母に言った。母は窓の珊にもたれるようにして立っていた。母の姿を、朝日が照らす。少し汚れたエプロンがきれいになったように見えた。
「お姉ちゃん、は?」
私はもう一度言った。
「…アキ、なら、昨日は自分の部屋で寝たみたいね」
母はそう言うと、窓際から離れ、私の部屋から出ていった。母の表情は一度も見ることが出来なかった。
その日は学校の授業でプールがある日だったので、私はプール道具を準備してから一階へ降りた。ひまわりが描かれたプールバッグは、姉と一緒に買いに行ったものだった。まだ小さな私の体にランドセルは大きすぎたため、私は一歩一歩バランスを保ちながら階段を下りた。私の母はきれい好きだったために、階段には埃ひとつと落ちていなかった。私はよく、腰を屈めて家の中を掃除している母の後姿を見て、自分に対して胸に込み上げるような甘酸っぱい情けなさを感じる。
食卓には、四人分の朝ご飯が並んでいた。ふっくらとした、艶のある白いご飯。ゆらゆらと湯気を漂わせているねぎのおみそ汁。食卓の真中に、ふたつだけ置かれた納豆。気味がぷるぷると揺れている目玉焼き。しょうゆ。こんがりと焦げ目がつくまで焼かれているウィンナー。冷たいお茶。
お姉ちゃんが、いない。
私はお茶の入ったコップに手を伸ばした。コップ越しに、冷たい肌をした水を感じる。喉にお茶を通すと、すっきりと体の中身が洗い流される感じがした。今日も一日がはじまる合図だ。
父は、新聞紙で顔を隠すようにして食事をしていた。時折、新聞紙がかすかに動く。父は毎日このようにして食事を摂っていた。家族の会話など不必要だ、と父は姿で語っていた。父は新聞を広げて読んでいる。私は、テレビ欄を見たくて新聞を覗いた。そのとき、ふ、と新聞を下ろした父を目が合った。
ひっ、と私は息を呑んだ。目を反らすことが出来なかった。
「おはよう」
父は言った。
「おはよう…ございま、す」
私は答えた。まだ、目を反らすことは出来ずにいた。
私はそのときから、子供ながらに感じていた。父の瞳には、光が無かった。だから、一体父は何を見つめているのかわからなかった。今だって、私を見ているのではないのかもしれない。もしかしたら父には、私の内部が見えるのかもしれない。私は父の目が怖かった。
そのとき、たんたんたん、と不規則なリズムを刻む足音が聞こえてきた。母がねぎを刻む音にそれは混じって、さらに不規則さを増している。階段を降りてくる音。姉だ。
「お姉ちゃん」
私は、父から目を反らす機会を得た。
「お姉ちゃん、おはよう。なんで昨日は私の部屋でいっしょに寝てくれなかったの?」
私は、そう言いながら椅子から立ち上がった。二階から降りてくる姉に走り寄った。しかし、姉の表情を見て私の動きは止まった。
「アヤ、おはよう」
姉の笑顔が不気味だと感じたのはそれが初めてだった。私は何も言えなかった。姉におはようと返せなかったのは、この朝が初めてのことだった。
お姉ちゃん、お姉ちゃんの今日の目、お父さんと似てるよ? …なんか、怖いよ。
姉はソファーにランドセルを下ろすと、食卓についた。私も姉につられて椅子に座りなおした。私の隣にいる姉は、父と向かい合う形で座っていた。
私の前に置いてあったねぎのおみそ汁からは、もう湯気は消えかけていた。父の前に並べられていた食事はもうほとんど無くなっていた。母はもうねぎを切り終えていた。姉は食事に手をつけていなかった。私はどうすればいいかわからなくなっていた。新聞のページを、父がめくった。母の動きは止まっていた。姉は空中を見つめていた。
私は動くことが出来なかった。
「ごちそうさま」
父はそう言うと、新聞をたたんで立ちあがった。テーブルにばさりと新聞を置くと、ネクタイの形を整えながらソファーに腰を下ろした。母はまだ動かなかった。姉は目を伏せて首筋をてのひらで押さえた。姉の長いまつげが頬にかかってきれいだった。私はまだ動けなかった。母は包丁を置き、まな板の上にひじをついて頭を抱えた。父がリモコンを握り、テレビの電源をつけると、若い女性が今日の天気について話していた。姉は俯いていた。表情は見えない。薄い水色のチェック柄をしたテーブルクロスには、ぽたりぽたりと涙が落ちていた。私は動けなかった。
私達の世界は歪んだ。
私はその日から、朝ご飯を食べることが出来なくなった。食卓の椅子に座ると、空気が私の体を押さえつけているかのように、私は動けなくなるのだった。
「お姉ちゃん、学校行こうよ」
私と同じく朝食に手をつけなくなった姉の右手を、私は掴んで引いた。お姉ちゃん、なんでそんなに元気がないの。どうしてそんな目をするようになってしまったの。どうして、どうして。
「お姉ちゃん」
姉は答えてくれない。
「お姉ちゃん」
それでも私は手を引きつづけた。姉を呼びつづけた。それが私の出来る精一杯のことだった。
私はそのとき、姉に何が起こったのかわかっていなかった。父がなぜ誰とも目を合わせようとしないのかわかっていなかった。なぜ母の背中が震えるようにして小刻みに動いているのかわかっていなかった。
「学校、行こうか」
姉は私の手を引いた。ランドセルをよいしょ、と背負うと、力無く笑った。もうその笑顔はさっきみたいに不気味ではなかった。だけれど、今にも消えてしまいそうな、風に揺らぐ花びらのような笑顔だった。姉のさみしさが笑顔に透けていた。
「行ってきます」
姉は言った。両親からの返事はなかった。
姉は私の手を引いて歩く。そしてもう片方の手で、首筋を隠していた。姉の首筋には、ほんのりと赤い小さなあとがいくつかついていた。姉の細くしなやかな手ではそれら全てを隠すことが出来ず、細い指と指の間からそれらは見え隠れしていた。風にこすれて消えてしまいそうなくらいほのかなあとだったが、白い姉の首には少し目立って見えた。
「お姉ちゃん、どうして元気ないの」
下駄箱につきそれぞれの上靴に足をしまったとき、私は思い切って姉に訊いてみた。小さな両手いっぱいに握っていた勇気を振り絞った。
「だいじょうぶよ。だから心配しないでね」
姉はそう言うと、廊下を歩いていった。姉の後姿が小さくなっていく。私は走り寄って、もう一度姉と手をつなぎたいと思った。なぜだか無性にそう思った。
それから日々を重ねていくほどに、姉は元気を失っていった。
私は毎朝姉のいない部屋で目覚めた。誰かに起こされないと寝坊しがちな私だったが、姉の代わりに母が毎日私を起こしに来てくれたので、学校に遅れることはなかった。母は毎朝「朝よ」とだけ言い、私が目覚めたのを確認すると一階へ下りていった。母の表情を見ることはなかったが、母も姉と同じように生気はなかった。
一階へ下りると、食卓には朝食が用意されていた。今日は、納豆、白いご飯、お茶。これだけだった。父はいつものように新聞で顔を隠すようにして食事を摂っており、姉はいつものように下を俯いたまま何も食べようとはしなかった。私が「お姉ちゃん」と呼びかけても、姉はもう微笑みかけてくれなくなっていた。
姉の首筋についていたあとは、日に日に濃さそして数を増していった。父は時折新聞から顔を覗かすようにして姉の首筋を見ては、口元を緩ませた。姉はその時だけ、俯かせていた視線を泳がせた。母は私達に背を向けたまままな板を睨んでいた。
私は毎朝その場所から逃げ、ソファーの上で体をたたんでいた。開かれたカーテンの間から差し込む光の粒が、私達の家庭を照らした。それはそれぞれの輪郭をくっきりと浮かび上がらせ、空間の異常さを物語った。木々を揺らす風の音が、この空間には痛かった。誰も何も言わない。聞こえる音は、外の世界が時を刻む音と父の唾液の音だけだった。
「お姉ちゃん、学校行かないの?」
私の声だけが、この異常な空間を救う鍵となっていた。私は姉の表情がが萎れて消え入る寸前を見計らってこの言葉を投げかけた。姉は弱った笑顔でそれを受け取り、ランドセルを背負った。私達はこうしてこの空間から逃げ出していた。
「お姉ちゃん」
「なんでもないよ」
私が不安そうな声を出して、強く姉の手を握ると、姉もかすかに私の手を強く握り返してくれた。私はこのやりとりで、毎回ほんの少しの安心を得ていた。大丈夫、お姉ちゃんはまだ、自分を保ってる。私のお姉ちゃんはまだ、私のお姉ちゃんみたいだ。
「アキ」
玄関で靴を履いていたとき、母が私達のもとにやって来た。服の上に重ねられたエプロンには、汚れがなかった。最近の朝ご飯では、確かにエプロンも汚れないだろう。
「アキ」
母はもう一度姉の名を呼んだ。姉は、もう色の剥げたランドセルを母に向けていたが、やがてゆっくりと振り向いた。姉は十本の指で必死に首筋のあとを隠していたが、それは私の目でもはっきりと見ることができた。
「アキ…」
母はそう言って、姉を抱きしめた。私は見上げてそれを見ていた。
母は泣いていた。
姉の体を抱きかかえるようにして、両腕で姉を包み込んでいた。「アキ、ごめんね」母は言った。姉の首筋を隠すようにして、母の両腕は回されていた。母の涙が姉に染み込んでいった。「アキ、ごめんね。ごめんね」母は何度も言った。すでに開かれたいたドアの向こう側から、子供たちが走り去る足音が聞こえた。吹き込む風が、エプロンの布を弄んで消えていった。外の世界が時を刻む。
「お母さんの、せいじゃないよ」
姉は空中を見ながらそれだけ言った。私は見上げてそれを見ていた。
「お母さん…?」
私はエプロンの裾を引っ張った。どうしたの、お母さん。どうして泣いているの。そう尋ねたかったが、声にならないままそれは喉に詰まった。
そのときだった。
「母さん、お茶、淹れてくれ」
食卓から低い声が聞こえた。父だ。姉は一瞬目を見開いたが、またさっきと同じように空中を眺めていた。
母はゆっくりと姉の体から腕を離すと、涙を拭きながら、大きすぎるスリッパを引きずって食卓へ消えた。
「行こうか」
姉はもう一度私と手を繋いだ。
「うん」
私は頷いて、玄関を出た。空が、涙が堪えていた。
◆4
季節は夏を置き去りにし、変わりに少し冷たい風を運んできた。かさかさとくすぐったい音を鳴らしながら、枯葉が道路を撫でていく。たんすの中にたたまれていた服も色を変え、街の匂いも彩りを変えた。少し寒さを覚えた私は、普段よりも強めに姉の手を握っていたが、姉はもう強く握り返してくれなくなった。
足音のよく反響する帰り道で、私達の会話は極端に少なくなっていた。姉は秋になってからますます口数を減らしていたし、家庭の中の雰囲気は異常さを増していた。姉の首筋は、元の色がわからなくなっていた。
「なんだかぐっと寒くなったね、お姉ちゃん」
「うん」
姉の手は冷たかった。
「秋だよ。お姉ちゃんの名前といっしょ。アキ」
姉が、私の言葉に返事を返してくれることは、少なくなった。私達は手を繋いだまま、無言で家路を歩いた。来年はひとりで歩かなければならない。私は、自分がひとりで歩くことよりも、姉はひとりで歩いていけるのかどうかが不安だった。
私の歩幅が、疲れにより少し狭くなったころ、家に着いた。
「ただいま」
私達はそう言って、繋いでいないほうのてのひらでドアを開けた。いつもは返ってくるはずの「おかえり」が、今日はなかった。私達の投げたただいまは、それっきり広いリビングに転がっていた。
朝とは違いきれいに掃除された食卓が、どこか不釣合いだった。私達はソファにランドセルを置くと、無音の家の中をそれぞれ歩いて回った。母を捜した。朝より、きれいに片付けられた食器。何度か磨かれたように光る床。汚れが消えた洗面所の鏡。崩れていた形が整えられている、たんすの中の服。
家の中から生活感が消えていた。
父と母の寝室からは、母の荷物が消えていた。母のクローゼットには服が入っていなかった。母の化粧棚から化粧品はなくなっていた。洗面台に置いてあるコップの中にあった歯ブラシは、三本になっていた。
母がこの家の中で生きていくうえで必要なものは、全てなくなっていた。
「お母さん…」
空っぽになった母の部屋の前で、私は立ち尽くした。狭い部屋だと感じていた空間が、突然ひどく広く見えた。本がたくさん並べられていた本棚は、久しぶりに空気に触れて乾燥している。夕陽が真っ白なカーテンをすり抜けて部屋の中を撫でまわす。ほんのりオレンジ色に染まった空っぽの部屋は、いとも簡単に私の心をすり抜けていった。
気づくと、後ろに姉が立っていた。私の影が姉の半身に重なっていた。姉は表情を変えずに、私に向かって手紙を差し出した。真っ白な紙が二つに折りたたまれており、表面には「アキとアヤへ」という母の文字がぽつんとあった。私はそれを受け取った。
姉の頬に、す、と一筋の光が通った。私の影が重なっていない片側の頬に、伝う光。うっすらと光を受けて、ほのかに橙色をしていた。
「お姉ちゃん…お姉ちゃん、なんで泣いてるの。…お母さんが、いないよ」
「いいから。…読んで」
姉は涙を拭わなかった。橙は、すでに記された道筋をひたすらになぞって落ちていく。両目からこぼれた橙は、やがてあごのあたりでひとつに重なり、床に落ちた。
私は手紙を開いた。そこには、見慣れた母の字がつらつらと並べられていた。紙は全体的に湿っており、文字はでこぼこと歪んで見えた。この手紙には、母の橙がたくさん染み込んでいるのだと感じた。
手紙は二つの連に分けて書かれていた。折り目を境界線として、紙の上側半分に書かれた文章は、きっと姉宛だろう。私には読めない文字がところどころに使ってある。紙の下側半分に書かれた、私宛の文章。手書きのひらがなという形で私に聞こえてくる、やさしくあたたかな母の声。
ごめんなさい。
ひらがなの羅列の中には、たくさん「ごめんなさい」が書かれていた。目でその羅列を追っていくごとに、記された文章の意味は私達にとってとてもよくないことを引き起こしているということは、痛いほどにわかった。さようなら、あや。母はこの家からいなくなった。残されたのは空っぽの部屋。おかあさんのこころは、よわすぎました。きれいすぎる食卓は、母の仕事おさめを表していたのかもしれない。おかあさん、つよくなって、あやのことむかえにいくから。何で、何で今日も私は母の朝ご飯を食べなかったのだろう。どうしておいしかったよと言ってあげられなかったのだろう。あやがにねんせいになるすがたを、おかあさん、みたかったです。明日から私は、一体誰に起こしてもらうの。寝坊しちゃうよ、学校に遅れちゃうよ、お母さん。
さようなら、あや。
「お母さあん…」
私の頬を橙が伝った。私達は泣いた。姉は私を抱いた。私は姉の背中に両腕を回した。私の小さなてのひらの中で、手紙はくしゃり、と音をたててつぶれた。姉は私と同じ高さになるように、体をたたんでくれた。私は姉の首筋に手を回した。色を変えた姉の首筋が、熱を持っていた。
私達の前には空っぽになった部屋が広がっていた。私達はわざとそれを見ないようにした。部屋を照らしていた橙はやがて藍に変わり、私達の涙は透明な色に戻った。
「お母さん、…帰ってくるかな」
赤く腫れた目を押さえながら、私は姉に問うた。
「帰ってくるよ」
姉は答えた。
「帰ってきたら、朝ご飯、いっしょに食べようね。そして、食べ終わったら、おいしかったよって言おうね」
姉は言った。私は何度も頷いた。
姉が私の前から姿を消したのは、その次の日のことだった。
母がいなくても、今までと何も変わらずに朝はやって来た。まだ完全に意識を取り戻していない頭のぼんやりさも、今までと全く変わらなかった。そしてじわじわと脳に浸透していく、母が消えたという事実。体中から力が抜けていくのを感じた。もうこの家に、母はいない。全く普通にやって来た朝が、どこか憎憎しい。今日だって太陽は東から昇ったし、カーテンの隙間からは光の粒がこぼれた。それをまぶしいと感じた。そして、きっと今までと同じように、太陽は西に消えていくし、光の粒はにじむようなオレンジに色を変えていくだろう。
母はもういないのに。
時計を見ると、やはり今まで起きていた時刻よりも針は進んでいた。誰も起こしに来てくれないと、私はこうなってしまうのに。私は自分でカーテンを開けながら、姉と一緒に寝ていたときのことを思い出した。もうどれほど前のことになるのだろう。あのときは、どれほど安心して寝ていられたことか。姉の心臓の音を聞くと、私の心は落ち着いた。寝る前には、他愛もない話をした。あのね、明日また、プールがあるんだ。アヤ、よくお手本としてみんなの前に出されるから、いやだな。え、すごいじゃない、アヤ。前は泳ぎたくないって言ってたのに…。だってお姉ちゃんがほめてくれたもん。アヤ、それで、がんばろうって思ったんだよ。
私はランドセルをかつぐと、バランスを取りながら階段を下りた。この階段は、これから誰が掃除をするのだろうか。まだ埃の落ちていない階段に足を滑らせながら、私は思った。そういえば、私は自然に食卓へ向かっているけれど、朝食は一体誰が用意するのだろうか。父は、母がいなくなったことを知っているのだろうか。今まで目を反らしていた現実がひとつずつ私の前に姿を現していった。
一階についた。
食卓では、父がいつものように朝食を摂っていた。食卓の上にはクリームシチューが用意されており、それから発される甘い香りが空気中を漂っていた。その甘い香りは朝日の光の波に乗っかり、繊細な空気の隙間を縫うようにして泳いでいた。一体あのシチューは誰が作ったのだろうか。父が作ったとしか考えられないが、私はその答えを望んでいなかった。毎日母が使っていたキッチンに、父の背中がある。私は想像上のその背中に憎しみを感じた。
新聞で顔を隠してシチューを食べている父。銀のスプーンがシチュー皿にあたり、かちゃりと涼しい音をたてる。新聞紙を一枚めくるたびに、ばさり、という紙独特の粗い音がする。大きい肩に背負った背広。椅子にたてかけられた、古びた革の鞄。アイロンによる折り目がきっちりとついた、趣味のいい色をしたズボン。朝日が父を照らす。
その光景は、まるで母という存在は今までこの家庭に存在していなかったのだといっているようだった。
私がどさり、とソファーにランドセルを置くと、父は私の存在に気づいたようにして新聞から顔を覗かせた。今までと何も変わらない父の表情。
「おはよう」
低いバリトンが、床を這った。
「おはようございます」
私は答えた。父は口元だけで笑うと、視線を新聞に戻した。私は冷たい空気を纏う床と足早に移動すると、椅子に腰掛けた。私の前に用意されているシチューには、薄い膜が張っていた。
私は目を瞑った。脳裏では、父がこのシチューを作っている背中がスローモーションで再生されていた。広い背中が丸まって、節々とした大きな手が包丁を握っている。その背中が母と重なった。私は父の残像を振り切ると、銀のスプーンで膜を破り、目を瞑ったままシチューを口に含んだ。
甘い香りが鼻に抜けた。とろけたじゃがいもが熱を持ったまま、私の舌の上で転がる。膜がしつこく私の舌に纏わりついたが、やがてそれもとれ、ほんのりと甘いクリームだけが私の口の中に残った。母のクリームシチューよりは甘すぎたが、父の作ったものもおいしかった。
「お父さんが、作ったの?」
私は訊いた。
「あぁ。俺が作った」
父は、新聞紙で表情を隠したまま答えた。父の皿にあったシチューはほとんどなくなっており、白い池に残されている赤いにんじんが目立った。
「お父さん、料理作れるんだね」
「あぁ…うまいか?」
父は、自分の顔の前から新聞紙をどけた。何も変わらない父の視線がそこにあった。私は、うん、おいしい、とだけ答えると、もう一口シチューを口に含んだ。執拗なほどの甘さが鼻に詰まった。父は満足そうに私を見据えたあと、もう一度新聞紙に目線を戻した。私は大きく深呼吸した。
私だけがスプーンを動かす中、時計の針は順調に進んでいった。このままのペースで食べると、学校に遅れてしまうかもしれない。私は、苦手なにんじんを冷たいお茶で流し込むと、もう一度大きく深呼吸した。訊かなければならない。これだけは絶対、訊かなければならない。
「お父さん」
私は言った。
「なんで、お姉ちゃんの分のシチューがないの?」
父の動きが止まった。私は、新聞越しの父の目を睨んだ。父が新聞をどけて、私の目を見た。静寂がうるさい空間に、時計の針がちくちくと痛い。
「お姉ちゃんは…どこにいるの?」
私は挑むようにして言った。
「アヤ、おいで」
父はそう言うと、粗い音をたてながら、乱暴な形に新聞をたたんだ。私は椅子から腰を浮かせた。足が、竦んだ。行ってはいけない場所に連れて行かれるような気がした。見てはいけないものを見せられるような気がした。
私が椅子から立つと、父は歩き出した。私は、父の足跡をなぞるようにして歩いた。広い父の背中にはしわひとつなかった。母が毎日、父の背広にアイロンをかけていたのだろう。私はまた、母の背中を見て甘酸っぱい感情を覚えた。
「アヤ」
父が私の名前を呼んで止まった。
そこは、昨日空っぽになってしまった、かつての母の部屋だった。「母」というプレートは外されており、ただの木の板がそこにはあった。中からは何も聞こえない。
「アヤ」
父は私のほうを振り返ると、もう一度私の名を呼んだ。そして、私の目線に自分の目線を合わせるようにして、体をたたんだ。それは、よく姉が私に対してしてくれる動作だった。父は私の両目を見つめた。私も父の両目を見つめた。父の瞳には私が映っており、私の瞳には父が映っていた。
父の動きはそこで止まった。時の流れが止まった。床の木が軋んだ。
視線が痛い。…反らせない。
「この部屋を、絶対に開けてはいけない。近づくことも、禁止だ」
一文字一文字を噛み砕くようにして、父は言った。研ぎ澄まされていた聴力に、父の低い声はどろりと流れ込んできた。
この部屋を、絶対に開けてはいけない。
「はい」
近づくことも、禁止だ。
「…わかりました」
私は声に出して頷くと、父に背を向けて食卓へ戻った。きっと、姉はあの中に閉じ込められている。その理由はわからなかったが、私は、子供心ながらにそれを悟った。父の視線を、背後に感じる。背中を貫くような視線。見えない視線が痛い。
私は父に逆らえない。私に姉は救えない。
私はソファーに置いてあったランドセルを背負うと、小走りで玄関を出た。今まで繋いでいた手はポケットに突っ込んだ。空は涙を堪えきれずに、もう泣き出していた。
◆ 5
↓ ↓
私は今、その部屋の中にいる。
空っぽになった部屋の中に、私はぽつんと置かれている。十八のくまのぬいぐるみに囲まれたその部屋からは、窓は取り払われた。あの人がいつか専門の業者を呼んで、窓を取り払い、新しく壁をつけてもらっていたのを覚えている。あれは、姉が消えて一週間くらいしたあとのことだったはずだ。
「お父さん、なにしてるの、あの人たち」
私は、大きな音をたてて窓を叩いている人たちを指差して、父に訊いた。薄い水色のつなぎを着て汗を流す人たち。母の部屋から、窓を取り払っている。
「工事をしているんだよ」
「どうして?」
私は、精一杯のあどけなさを演じながら、もう一度訊いた。私、なんにもわかんない。あの部屋に何があるのかもわかんない。なんでもう使われてない空っぽの部屋に工事なんかしてるの? 私は小学校一年生の秋に、子供らしさを演じることを覚えた。
父は私の思考を見透かすように視線を降り注ぐと、言った。
「アヤは知らなくていいんだよ」
姉は完全に閉じ込められた。もう出られないんだ。私はそう感じた。
今、私はこの部屋の内側から、かつて窓があった場所を見ている。昔はそこからまぶしい陽射しを感じられただなんて到底信じられないほどに、きれいに取り払われてしまった壁。母はこの部屋から夕陽に染まる街を見たのかもしれない。電線にとまる音符のような小鳥達を見たのかもしれない。もう今では何も見えない。
食事と食事の間の時間は、私はひどく暇を持て余している。この部屋には何もないし、私の体はあの人によって完全に拘束されている。外の世界を知ろうとしても、知る手段が全く無い。
そして、この部屋は常に腐臭に満ちていた。あの人から出たエキスは栗の花を咲かせ、この部屋の中で蒸発していた。臭うことには慣れたはずの私の体臭もこの部屋に常に居座っており、日に日に空気の濁りは増していた。
昼になると、あの人は私のために毎日家に帰ってきてくれる。そして、朝に下ごしらえをしておいた食材をつくって、私の昼ご飯を作ってくれる。きっと、それは二人分作ってあって、あの人の私と同じものを食べてもう一度出勤するのだろう。そう考えると、私とあの人は太い絆で結ばれているのだと自分に言い聞かせることが出来る。それは孤島にそびえたつ木々の幹のように太く、ホースのように中身はない。
伊吹がこの家に滞在するのは、夜から朝にかけてだけだった。この昼の時間には、伊吹は帰ってこない。きっと、会社で昼食を摂っているのだろう。この時間だけが、この家での私とあの人のたった二人の空間。私はそれが愛しかった。ドアの向こう側にいても、あの人の動きは床の軋みや呼吸の音でわかった。あの人の生きる姿にはリズムがあって、そのリズムは私が鼓動を刻む基準となっていた。ドアの向こうから聞こえてくるリズム。二人だけの空間。だけどドアのこちら側に来てしまえば、二つのリズムは混ざり合って不協和音を奏でる。
「アヤ、ご飯を持ってきたよ」
ドアの向こうから、あの人の声がした。私の中でかちりとスイッチが入る。私はわざと、瞼を重く閉じた。
「…寝ているのか?」
あの人は、コンコン、と二回ノックをする。木の軽やかな音がした。
「入るよ」
ドアが開いた。目を閉じていても、一気に流れ込んできた冷たい空気が肌に触れるので、それが分かった。
私は閉じていた瞼をゆっくりと開けた。
「…おはようございます」
眠そうに目を閉じたり開けたりしながら、私はあの人にやっと聞きとれる程度に小さくそう言った。幼女らしさを演じた方が、あの人の欲望は疼く。
「おはよう、アヤ。また寝ていたのか」
私は、こくり、と頷いた。
「…いつまでたっても子供だな」
そう言うと、あの人は突然私の唇に自分の唇を押し付けてきた。口を縛ってある白い布ごしに感じるあの人の舌は、生暖かかった。
あの人は私の拘束を解くと、今日の昼食――ロールキャベツ――を私の前に置いた。私は、小さな体には大きすぎるセーターにほとんど隠れたてのひらで、自分の目頭を不器用に拭った。そして、「…眠いな」と甘く小さく呟くと、痣で痛む足を内股に閉じた。
幼女、らしさ。
食事の前に交わると、食欲は少なからずなくなる。だから私は、いつも少しだけ拒むのだが、あの人には逆らえずに交わってしまう。今日もあの人は、もう私を求めてくるはずだ。時々、激しく動くためはだけた太ももに、あの人が作ってくれたものがかかる。その熱さが、作りたてだということを物語ってくれる。
「食べさせてあげるよ」
あの人は、私がゆっくりと頷いたのを見届けると、口にロールキャベツを含んだ。そして私の唇も食べてしまうかのような勢いで唇を押し付けてきた。あの人から私へと、唾液とキャベツ、そしてまだ熱い肉の塊が流れ込んでくる。私は目を閉じてそれらを味わうと、
「…おいしい」
と言って微笑んだ。あの人と私が、昼、一緒にいられる時間はたったの四十五分間。あの人はその時間が終わると、いつもの背中を見せてあの人の世界へと帰っていく。私は毎回その背中を見届けながら、自分が偽りの幼女から十四歳の女に少しずつ戻っていくのを感じる。
その日の夜も、伊吹は家にやって来た。
「ただいま」
伊吹の少し高い声が、ドアの向こう側から聞こえてくる。「お風呂入れてもいいかな? 私、すぐに入りたいんだ」伊吹の声に重なるようにして、食器がかちゃかちゃと擦れるような音も聞こえてくる。伊吹が食事の準備をしている。
伊吹は、この家の勝手を知り尽くしている。私にはそれが無性に悔しくて、許せないことだった。この家はあなたの家じゃない。私の家でもない。あの人の家なのに。私はそれでも毎日伊吹を連れて帰ってくるあの人を、許せずにも憎めずにもいた。
あの人は伊吹のことを愛しているのだろうか。私は思った。それなら私に対するあの性交は一体なんなのだろうか。仮にあの人が伊吹とも交わっているとして、私以上の甘い声で伊吹の名を呼ぶのだろうか。私は、胸の中が焦げる感触がした。じゅわりと音をたてて胸の中が熱く掻き毟られる。
「あら…そのご飯、なに?」
伊吹の声が聞こえた。
「娘の夕食だ」
あの人の返事。それから流れた間から、伊吹のなんともいえない歪んだ表情を想像することが出来る。
「そう。愛娘だったものね」
伊吹はそう言うと、スリッパでぱたぱたと軽い足音をたてながら、足早にその場から去っていった。きっと風呂の湯を入れに行ったのだろう。そこに置いてあるタオルで涙を拭くのかもしれない。どちらにしろ、私は優越感に深く浸っていた。
「入るよ」
あの人の声がする。今日の昼食――ロールキャベツ――がまだ残っているお腹が、ドア越しなら漂ってくる香りに鳴き声をあげる。
あの人は、片手にトレイを抱えて入ってきた。トレイの上には、真っ赤なソースに埋もれたパスタがあった。
「ただいま」
あの人は私の拘束を解くと、私を激しく欲した。私はそれに応えるようにして唇を開けた。あの人の舌が私の舌に絡む。目を瞑る。ばたん、とドアが閉まる音がした。押し出された空気が、かすかに私の前髪を弄んだ。
私の頬を、あの人は撫でる。もう二度と手放さないと、そのてのひらの大きさが語っていた。がむしゃらに掴み取るようにして、あの人は私の頬を抱え、舌を絡ませてくる。私もそれに応える。あの人の頬はいつも熱を持っており、引き締まった顔の筋肉が今日はいつもより張っていた。
あの人の唇が、少しずつ舌に下りていく。私の鎖骨のラインをなぞるようにして、舌を走らす。あの人の舌の軌跡は、少しだけ冷たい。鎖骨の窪みが、空気に触れる唾の冷たさに光りを帯びる。
私はこの人に管理されている。私の体も、思想も、性感帯も全て。
「今日はミートソース・パスタだよ」
あの人は愛撫を終えると、私のはだけた服装を直しながら、トレイに載っていたミートソース・パスタを私の前に置いてくれた。赤い湯気の立っているパスタ。冷たいお茶に、みずみずしいトマトとレタスのドレッシングなしサラダ。
「伊吹、さん、今日もいる…ね」
私はわざと食事には手をつけずに、あの人を上目遣いで見つめた。目を伏せ、睫毛が頬にかかるようにする。声はいつもよりも高めにして。
「…なんだ、嫉妬かい?」
あの人は意地悪そうな視線で私を舐めまわす。私はもう一度深く俯いた。あの人からわざと視線を外して、少しずつ目を潤ませていく。
私は今、幼女だ。
「アヤ」
私は顔をあげた。
「かわいいよ」
低いバリトンに重なるキス。
あの人の言葉を塞ぐように、今度は私からキスをした。あの人は私の髪を一度だけ撫でると、「食べ終わるころ、また食器を取りに来るからね」と言って部屋から出ていった。
光を受けて光る銀色のフォークに、私はパスタを巻きつけた。どろどろに溶けた血のようにそれにまとわりついているミートソースで、口の周りを汚した。あの人がこの食器を取りに来るときも、幼女らしさを演じなければならない。口の周りのミートソースは、いわば小道具だった。
あの人の作る食事は、全てが甘口だ。まるで小学校低学年の給食のように、何もかもが甘ったるさを帯びている。私は、時々量が多いといって残すが、それはこの味のせいでもあった。どちらにしろ、食べきれないといった一面が、あの人にとってはまた幼女らしさを感じるらしい。
私は時々感じる。なぜ私は幼女を演じているのだろうと。
そうして答えはすぐに浮かぶ。それはあの人が幼女愛者だからなのだ、と。
食事を摂っていると、私の唾の音と、ドアの向こうから聞こえてくる生活を刻む音だけが聞こえてくる。遠ざかっていくあの人の足音は、きっと風呂に向かっているのだろう。電子的に聞こえてくる音は、伊吹が見ているテレビからこぼれた音だ。
私もかつて感じていた、生活を刻む音。
テレビからこぼれる音。湯船から湯が溢れ出す音。包丁がまな板を叩く音。冷蔵庫を開ける音。小鳥が生きている音。道の小石が転がる音。朝日が窓ガラスを貫く音。風が街を撫でる音。空を流れる雲同士の摩擦の音。大地の音。
コンコン
突然、乾いた木の音が部屋の中に鳴り響いた。私はくるくるとパスタをフォークに巻きつけていた動きを止めた。あの人は今風呂の中にいるはずだ。だとしたら、ノックをした人間は伊吹だとしか考えられない。
「娘…さん?」
伊吹の高い声。私は身構えた。
「そこにいるの?」
私は、かちゃり、と尖った音をたてながらフォークを皿の上に置いた。どうしよう、何も言葉を発さないべきなのか。私は迷った。
「どうして、出てこないの?」
伊吹の声は迷いに揺れていた。今にも崩れそうなジェンガのように、言葉の意味をぐらぐらと揺るがせている。聞いてもいいことなのかどうか、しかもあの人のいない隙を狙って。伊吹はとても小声だった。かすかに震えた声が、木の繊維の隙間をかいくぐって私のいる部屋の内部まで届く。
「…えっと、私は今、あなたのお父さんの新しい妻…みたいな存在なんだけど」
伊吹は、どもりながらも話し始めた。私の周りにあった空気が息を潜め、塵のようにかすかに届く伊吹の声に耳を澄ませた。
伊吹の声の向こうから、あの人がシャワーを浴びる音が聞こえる。
伊吹が大きく息を吸った。
「つまり、私は、あなたの新しいお母さんに…なるかもしれないの」
ドアの向こう側から、しぼりだされた声。嘘だ、と、私は思った。そんなの、絶対嘘。伊吹のことを、あの人は妻としては認めない。私には自信があった。私がそう信じていたいわがままが大きな自信だった。
「なら、あなたのことも知っておかなくちゃいけないと思うの」
伊吹の声は震えている。緊張からだろうか。長い間この部屋から出てこない存在への恐怖だろうか。この空間に足を踏み入れるべきかどうか、伊吹はまだ迷っている。そして私は、伊吹の背中を押そうかそれとも突き放そうか、答えは出ている。
何も聞こえない。耳を澄ますほどに、何も聞こえなくなっていく。空気の摩擦が肌に痛い。私は目を閉じた。目を開けていたときよりも、聴覚が研ぎ澄まされるのを感じる。ミートソース・パスタのトマトの香りが、私の鼻腔を塞いだ。伊吹の息遣いを、ドアの向こうに感じる。私の息遣い。伊吹の息遣い。あの人のシャワーが止まった音。トマトの香り。呼吸。シャワー。トマト。
「どうして、」
声。
「どうして、あなたはそこにいるの?」
…私にもよくわからないよ。
「伊吹」
私が声を発そうとしたそのときだった。あの人の聞きなれたバリトンが、伊吹を貫いて私の部屋まで入ってきた。
「あなた…」
「なにをしているんだ」
「…ごめんなさい。でも聞いて」
伊吹のすがるような声に、突き刺さるような視線を注ぐあの人が想像できる。私が子供のころ何度も浴びた、体の内部までもを串刺しにするような、あの人の視線。
「君には関係のないことだ、と言ったはずだ」
あの人の声。伊吹の全てを拒絶するように、あの人の声は床を這った。私は部屋の中にいながら、自分の体を抱いた。見えないあの人の視線が、ひどく怖かった。
「…わかりました」
伊吹が、あの人の視線に負け、項垂れるようにして俯くのが見えた気がした。
次の日から、伊吹がこの家に足を踏み入れることはなくなった。
◆ 6
伊吹がいなくなり、また元のように私達二人だけの生活が始まった。あの人は、伊吹がいなくなっても、もともとそのような存在などなかったかのように振舞った。その振舞い方は、母が突然この家から消えたときと酷似しており、私はまた自分の体を抱いた。
伊吹がいなくなったとしても、私達の生活にはなんの支障もなかった。いつものように朝食が与えられ、いつものようにあの人と交わり、いつものようにさみしさを抱えてあの人を待った。夜あの人が帰ってくるたびに、ソプラノをなくした声にふと違和感を抱くのだが、それはすぐに、あぁそういえば伊吹はいなくなったんだという悟りに変わる。
ドアの向こうから聞こえてくる生活を刻む音は一人分となり、あの人が食事を作る時間も、一人分短くなった。伊吹がいなくなったということは、日常生活に照らし合わせて見てみれば、ただそれだけのことだった。あとは母のときと同じように、服や歯ブラシがひっそりと無くなっただけだ。
あの人は伊吹をどうしたのだろう。私には、ただ伊吹との交際に終わりを告げ、それぞれがそれぞれの生活に戻っただけとは考えられなかった。交際にピリオドを打つには理由が不充分であり、自分のことを「妻のような存在」だといった伊吹がそれだけの理由でこの家から去るだなんて思えない。私はどうしてもこう思ってしまう。あの人はきっと、私という存在に干渉しだした邪魔な存在を消したかったのだろう。だからきっと、
伊吹は私のようになっている。
空っぽに開けられたどこかの部屋に、伊吹は体を拘束されて転がっている気がする。きっと私と同じようにして、今、暇を持て余している気がする。いつか激しい工事の音がして、部屋にある窓が取り払われる気がする。私の存在の異常性に勘付いた人間を、広い世界へ解き放つわけがないと思う。あの人ならばやりかねない。
私の愛するあの人ならば。
部屋には二十個目のくまのぬいぐるみが追加された。もうこの部屋に入って、二十ヶ月もの時が過ぎていた。私の腕や足首についたロープをかたどった形をしたあざは、今にも雨が降りそうな空色に滲んでいる。もうその痛みには慣れていた。暴れれば暴れるほど、皮膚が縄に擦れて痛いだけだ。
今太陽はどこにあるのだろうか。正確なことは私にはわからない。東の空に浮かんでいるのか。西の空に浮かんでいるのか。私にはわからなかった。あの人が朝食だと言って温かいスープを持ってきたとしても、それが本当に朝出されたものとは限らない。あの人が一時間ずつ食事を出す時間をずらせば、私の感じる一日は三時間ずつズレていく。もしかしたらぬいぐるみがこんなにも溜まっているのだって嘘かもしれない。私の全てはあの人に管理されている。
腐臭が部屋を満たす。この部屋に居座る様々な臭いが混ざり合って、それは人間が腐ったような匂いになる。廃人。私の部屋は廃人の住処と呼ぶにふさわしいと思う。私は伊吹がいなくなってからあまり食事に手をつけなくなった。頭の片隅に残っている伊吹の声。今は私と同じように白い布とロープで封印されているのかもしれない。そう思うと、あの人への恐怖からか私の鼓動は何かに急ぐようにして速くなる。私の腹時計があの人が来る時間を示す。鼓動は速くなっていく。腐臭の波が荒くなる。どくどく。体中を駆け抜けるような血液。早鐘のような鼓動。頭の片隅の伊吹。
――娘…さん?――
伊吹の声。
ごめんなさい。私にあなたは、救えない。
――アヤ、学校行こう――
姉の声。
ごめんなさい。私にあなたは、救えなかった。
コンコン
「アヤ。…入るよ」
早鐘は壊れた。
「最近あまりご飯を食べなくなったね…どうしたんだ?」
あの人はにっこりと微笑むと、手馴れた手つきで私の拘束を解いていった。私はあの人を見上げる。私の視線に気づき、ん? というように愛しげに目を細めるあの人。私も愛しげに微笑を返す。
愛して。る。
「…大丈夫。少し食欲がないだけ、です」
私がそう言うと、あの人はそうか、と頷くと持っていたお盆を床に置いた。そこには色とりどりの湯気をあげる中華飯が置かれていた。私があまり食べないことを考慮してだろうか、いつもよりも小さなお皿にそれは盛られていた。
私は自分からあの人の首の後ろに両腕を回した。私が自分からあの人を欲する動きを見せるのは初めてのことだった。
「どうしたんだ?」
あの人も私の首の後ろに腕を回す。耳元で聞こえてくるあの人の声。かすかに浴びる吐息。吐息は、ふっと一瞬あたたかな膜を耳にかぶせ、風にように冷たさを帯びて去っていく。
「どうもしてないよ?」
私はそう言うと、自ら服のボタンを外した。白いブラウスはすぐに私から離れ、床にぱさりと置かれた。あの人が上着を脱いだ。薄い布に包まれている厚い胸板が見える。あの人の体温が私にも伝わってくる。
「愛してください」
私は言った。
私は純粋にあの人を欲していた。壊れた早鐘は元の形を象り始めていた。あの人を思い出すと鼓動が速くなるのは、恐怖からなのか愛しさからなのか、私にはまだ分からなかった。だけれど、今感じている鼓動の持ち主は間違いなく愛情だった。
「いいよ、アヤ」
あの人は噛み締めるように私の名を呟くと、私の下着を剥いだ。私もあの人のカッターシャツを剥いだ。お互いにお互いの服を剥ぎ、私達は生まれたままの姿に戻ろうとしていた。
あの人の肌に触れると、滲むようにしてじんわりとあの人の体温を感じることが出来る。私は上半身裸になったあの人の胸にてのひらを置くと、
「好き」
と呟いた。あの人の目を見た。愛しそうに目を細めてくれる。私は、あの人を管理してしまいたい、と感じた。
私達は下半身もお互いに脱がせ合い、お互いに生を受けたありのままの姿に戻った。あの人の無骨な体のラインは、私の陰部を濡らす。
「アヤ」
あの人が私の体に腕を絡める。私もそれに応えるようにして、あの人の胸を弄る。あの人の指先が私の性感帯を刺激し私が小さな声を漏らすと、あの人は愛しそうに微笑んでくれる。私があの人の胸を撫でまわすと、あの人の唇からは甘い吐息が漏れる。私はそれを聞いて小さく微笑む。
指先に魔法が掛かる。私はどこを触られても愛しい、気持ちいいと感じ、あの人のどこを触っても愛しい、気持ちいいと感じる。私の陰部は強烈にあの人を欲している。粘り気のあるそれは、陰部にある毛を巻き込む。
やがて、あの人が私を覆った。私は目を閉じた。
「腐臭が、きついね」
あの人の声が聞こえる。私は目を開けた。
「どうしてだろうね…」
あの人は真っ直ぐ仰向けに寝ている私を跨ぐようにして、立っていた。私はあの人を見上げる。どうして、やめてしまったのか。あの人の表情は、逆光により読み取れない。
「どうして、こんなにこの部屋は臭いんだろうね…」
あの人はそう呟きながら、この部屋を徘徊している。私は上半身をあげた。あの人は微笑んでいなかった。
「アヤはこの部屋に入って、どれくらいになる?」
あの人は、動かしていた足をクローゼットの前で止め、私にそう訊いた。あの人の声は、夜の底を這うように低かった。たったひとつしかない部屋の電灯が、薄笑いを浮かべたあの人の顔を不気味に照らし出す。
「…二十ヶ月くらい、です」
あなたがぬいぐるみをくれた時期が正しければ。私はそう付け加えようとしてやめた。直感的に、付け足してはいけないと感じた。
「そうか…」
あの人はそう言うと、ゆっくりと口の端を上げた。私は慄き、壁に背中をくっつけるようにして座り崩れる。心から、あの人の微笑みを怖いと感じた。出来るだけ声は発さないほうがいい。出来るだけ動かないほうがいい。今、あの人を刺激してはいけない。
「それにしても、この部屋は臭うなぁ…それがなぜか、考えたことはあるかい?」
あの人はクローゼットの扉に手を掛けた。私は首を横に振った。
「食事の臭い?」
私は動けない。
「アヤの臭い?」
あの人の顔を見つめた。
「精液?」
あの人は楽しそうに笑っている。
「正解は、――これだよ」
怖い。
あの人は手を掛けていたクローゼットの扉を開けた。私は恐怖に襲われ、一瞬目を閉じた。開かれたクローゼットからは、一気にきつい腐臭が溢れ出してきた。私の鼻が曲がる。
「アヤ、…お姉ちゃんだよ」
私は目を開いた。
クローゼットの中には、お姫様のようにきれいなドレスを着せられている姉の姿があった。
「お姉ちゃん…」
私は呟いた。あの人から「お姉ちゃん」と名前を提示されなければ私はわからなかっただろう。ミイラのように変色した肌に、焦点の合っていない瞳。あの人によって施された人形のようなメイク。姉の自慢だったさらさらな黒髪は、今は醜く縮れている。
死体。
姉はずっと、このクローゼットの中にいた。
◆ 7
↓ ↓
ひとりで歩く通学路は、酷く長かった。握り返されることのないてのひらをぎゅっと握り締め、私は毎日通学路を歩いた。姉と一緒に見た景色は、姉がいないまま色を変えていく。時の流れる速度は今までと同じだったし、皆のあいさつも今までと同じだった。姉だけがこの世界から忽然といなくなった。
アヤ。時々、姉の声が私の耳に届く。なあに、お姉ちゃん。そう言って振り向いても姉はいないのに、私はいつも振り向いてしまう。もう一度、姉が私の髪を撫でてくれることを期待して、私は髪の毛を結ばないまま学校に行っていた。友達から、
「いつもの二つ結びやめたの?」
と言われれば、
「うん。私ひとりじゃ結べないの。お姉ちゃんにやってもらってたから」
と答えた。
お姉ちゃん、私はひとりじゃ髪も結べないよ。早くあの部屋から出てきて。そして私と手を繋いで、通学路を歩いて。私の髪を撫でてきれいに髪を結んで。
姉がいなくなってから一ヶ月も経つと、ある特定の女の先生から姉のことを訊かれた。きっと姉のクラスの担任なのだろう。一年生の私は六年生の先生など知らず、見知らぬ大人に離しかけられることは酷く怖いことだった。
「アヤちゃん、アヤちゃん」
私は背中を強張らせながら、振り返る。
「お姉ちゃん、どうしたのかな? 最近学校に来てないみたいだけど。家に連絡をしても繋がらないんだよね」
その教師は、にっこりと微笑む。普段から子供の扱いをしているからか、その笑顔には母と重なる面影があった。私は今すぐその胸に飛び込んで泣きながら本当のことを伝えたかったが、震える下唇を強く噛んでそれを我慢した。
父の顔が頭に浮かぶ。
私は毎回本当のことを言うことが出来ず、
「病気です」
とだけ答えてその場から逃げていた。先生が自分の家の異常性に気づいてしまうことが怖かった。そしてそれ以上に、目の前に立ちはだかっている見えない父の像が怖かった。私は姉を助けたかったけれど、自分の力ではきっとどうしようもないことを幼いながらに悟っていた。
私は家で父にこう報告したことがある。
「お姉ちゃんは病気なんだよね」
父の料理は日に日に上手になっていった。この日食卓に出されていたのは、確か和風ハンバーグだった気がする。
「どうしたんだいきなり」
父はそう言うと、大き目に切り分けたハンバーグを口に入れた。父の口の端に溜まっている唾液を見るのが嫌で、私はいつも目を反らして父と会話をしていた。だけれど、上から父の視線が降っていることは痛いほどにわかった。
「だって、学校の先生がお姉ちゃんはどうしたのって訊いてくるから」
「アヤはどう答えた?」
私の周りの時間が止まった。
父はゆっくり、言葉を噛み砕くようにそう言った。低い低い、地の底を撫でるようなバリトンが私の上から降ってきた。私は顔を上げることが出来なかった。
「どう答えたんだ?」
ごめんなさい。なぜだか、謝ってしまいたい衝動に刈られる。顔を上げることは出来ない。そこでは、善も悪も無い冷たいガラス玉が二つ、私をじっくりと骨の髄まで突き刺しているのだ。
「…病気だ、って、…答えました」
その次の日、私は学校で父の姿を見かけた。淡い色をしたスーツに身を包んだ父は、先生に引率されるようにして職員室へと入っていった。背丈の大きい父に、姉の担任である女性は小さく見えた。父の広い背中に重なると、その先生は消えてしまいそうだった。
父はなんて言うのだろう。姉の担任に対して、なんと説明する気であろう。まさか、私が部屋に閉じ込めましたとは言わないだろう。私は、もう姉はあの部屋から出られないような気がした。このチャンスを逃してしまっては。
「失礼します」
私は、職員室の扉を開けた。そこにはたくさんの先生がパソコンと睨めっこをしており、職員室の片隅のソファで、同じように父と姉の担任が睨めっこをしていた。しかしそれは睨めっこといえるような雰囲気ではなかった。
私は足音をたてないようにして職員室内を徘徊した。どうしたんだい? 子供をなだめるような先生の声が傍らで聞こえたけれど、私は無視する。私は父と目を合わせないようにしながら、その場所へと歩を進めた。心臓の音が周りに聞こえているんじゃないかと心配になるくらい、私の鼓動は激しかった。
今、今、言わなきゃ。先生に言わなきゃ。お姉ちゃんが閉じ込められていることを。
そうしないと、もうお姉ちゃんはあそこから出られない。
「どうしたの?」
私の視界を、アディダスのジャージが覆った。
「どの先生に用事かな?」
男子体育担当の先生だった気がする。こんがりと黒く焼けた肌に、真っ白な歯が似合う男の先生だった。私の視線に合わせるようにして、教師は体をかがめ、私の顔をにっこりと覗きこんだ。「どうしたの?」
その動きは姉に似ていた。
助けて。お願い。私のお姉ちゃんを助けて。
私のお姉ちゃん、お父さんに閉じ込められてしまったの。窓も取り壊されてしまったの。もうお姉ちゃんはあの部屋から出られないし、私が出してあげることもできないの。お願い、助けて。
「…なんでもありません」
私は下唇を噛んで小さな声でそう告げると、教師を交わして歩き始めようとした。
私は、教師を避けて通るように体を動かす。視界からアディダスのジャージが消える。不思議そうな教師の表情が、視界の片隅にまだ残っていた。歩き始めようとして、私の動きは止まった。
父が私を見ていた。
「―――それで、アキさんのことなんですけど」
私の耳に、姉の担任教師の声が届く。父が私を見ている。目の前にいる姉の担任教師を通り越して、私のことを見ている。私の背筋が一瞬冷たくなり、そしてやがて熱を持った。全身の毛穴が開ききる。
父が私を見ている。
「最近学校に連絡もなしに休まれているんですね、それで」
担任教師の背中が見える。その背中を父の視線が貫いている。
先生、助けて! お姉ちゃんを助けて! お姉ちゃんは休んでいるわけじゃないの! 私の話を聞いて! お願い…。
「家のほうに連絡しても繋がらなくて困っていたら、お父様のほうが訪問してこられた、というわけなんですけれども」
先生、私に背中を向けないで! せめてお父さんと先生が違う向きに座っていてくれれば、私は、私は――
「アキさんはなぜ、学校をお休みになっているのでしょう?」
――私に何が出来るの。
父はまだ私を見ている。そこに立ち尽くしている私を見据えたまま、父は言った。
「姉は先日出ていった妻についていきました」
父の口端がいたずらっぽく歪んだ。
「アキはもうこの街にいません」
季節はひとつ春を飛び越え、もう冬を迎えようとしていた。私は長い白のマフラーを何度も首に巻き、通学路を歩いた。小学二年生の冬だった。
「おはよー」
「おはよう」
もう、姉について質問してくる友達も先生もいなくなった。まるで、皆の記憶の中から姉の存在だけがすっぽりと抜け落ちてしまったようだった。私はそれがとても悲しく、私だけは姉のことを絶対に忘れないでおこうと胸に誓った。
寒い日は、姉のてのひらを思い出した。小さな私のてのひらは、姉のしなやかなてのひらにすっぽりと収まる。姉のつめはきれいな形をしており、私はそれを撫でることが密かな楽しみだった。姉の長い指は、あたたかな体温を持ったまま私の指に絡まる。私は姉の体温をもっと欲し、強く姉の手を握り返した。もう寒くなかった。
姉がいなくなってから一年以上が経った。私は事実上父と二人暮しをしていた。家の中に父と二人だけという状況は、八歳の私には重過ぎた。人が住んでいる気配のしない家の中、私は足音をたてないようにして歩いていた。足音をたててしまえば、キッチンに向かっている父の顔がこちらを振り返ると思った。父の視線が私に降ってくると思った。包丁を持った右手が止まると思った。私はそれが怖かった。
母がいなくなり、姉がしていた家事は、私と父が分担して行っていた。服を洗濯機に入れるのは私の仕事で、乾いた服をたたむのはあの人の仕事だった。お風呂掃除は私の仕事で、お風呂の水を洗濯機に移すのはあの人の仕事だった。料理を作るのは父で、片付けなどは私の仕事だった。父の作る料理は日に日に上手になっていき、一年以上経った今、私は母の料理の味を忘れかけていた。私はそんな自分を許せなくなるのと同時に、この味の虜になってく自分自身を呪った。
「できたよ、ご飯だ――アヤ」
その日父が食卓に並べたのは、塩と胡椒でからめに味付けがなされた鶏肉のソテーだった。鳥皮が大好きな私は、箸で器用に身と皮を分裂させると、まずは身から口に含んだ。ぎっしりと引き締まった鶏肉が、歯と歯の間で肉汁を出しながらつぶれた。
姉が消えてから毎日、父は自分が食事を摂る前にもう一人分の食事を持って、リビングから消えた。きっと、空っぽの部屋の中にいる姉へ食事を持っていっているのだろう。私はそう思っていた。銀色のトレイに乗せられたそれは、妖しげにゆらゆらと湯気をたてながら角を曲がって視界から消える。
夜だった。太陽は山の裏に身を潜め、代わりにうっすらと光る星と無機質な月が空に浮かんでいた。夜になると、家の中の空気が堅くなる。動くたびに、緊張感により骨が軋む。私はかちゃり、と銀色の音をたてながらフォークを操りつづける。月の光がカーテンを貫いて、部屋中を意地悪く撫でまわす。
私は鶏肉を口に運ぶ。少々大きめに切られている鶏肉は、口に入れようとすると油が唇につく。私はこの唇のままお茶を飲むことが嫌いだった。お茶の表面に油が浮くからだ。私は立ち上がってティッシュを取ると、唇を拭いた。ティッシュにじんわりと油が染みていくのが見えた。そうしてから飲んだお茶は、噛み砕かれた鶏肉の上にばしゃりと落ちていく。胃の中で、お茶の上に砕かれた鶏肉が浮いているのを感じた。
父がなかなか帰ってこない。
かちゃり。私はフォークを皿に上に置いた。音をたてないようにして椅子を引き、冷たい床に足をつけた。足音がならないようにつま先だけで廊下を歩いていく。
――あの部屋へと。
その方向へと赴くことは久しぶりのことだった。父にこの部屋には近寄ってはいけないと言われたとき以来、私は忠実に父の言葉を守りつづけていた。あの部屋の扉に耳をつけて姉と会話をしたかった。姉があの部屋でちゃんと生きていることを確認したかった。だけれどそこには父の存在が立ちはだかっていた。
久々に触れる空気は、幼い皮膚をちくちくと突き刺す。その痛みが、私の中で溢れ返っている緊張感をさらに膨らませる。心臓の動きが、体全体を波となって伝わっていく。うるさい、私の心臓。お父さんに気づかれてしまうじゃない。私は左胸をぎゅっと握り締めると、リビングを出る角を曲がった。
あの部屋は、浴室を右に曲がった廊下の突き当たりに位置している。私は、自分のつま先が凍っていくのを感じた。怖い。もしここで父が引き返してきたらどうしよう。ばったり会ってしまったらどうしよう。私は一体どうなるのだろう。今度は私があの部屋に閉じ込められるのだろうか。怖い。怖いよ。引き返したい。お母さん、助けて。お願い。…怖い、引き返したい。もうこんな家にいたくない。
…でも、お姉ちゃんが
――バタン
突然、ドアが勢い良く開かれる音が聞こえた。そうしてすぐに、浴室の曲がり角の先から、争うような声が聞こえてきた。何を言っているかは聞き取れないが、確かにそれは姉の声だった。
お姉ちゃん。
私は、浴室の曲がり角に身を潜めると、深呼吸をしてから顔を覗かせた。そこには久しぶりに開かれた扉があり、そこからは姉の体がこぼれ出していた。父が、姉をその室内に連れ戻そうとしている。姉は必死に、その部屋から出ようともがいている。
全裸の姉。
見開かれた目。乱れた髪。縛られた手首、細い足首。口元に巻かれた白い布。見開かれた、目。
姉と目が合った。
「アヤ…」
白い布の向こうにある姉の口から、かすかに漏れた、声。
「お姉ちゃ…」
私の口から、かすかに漏れた、声。
「アヤァ!」
父の怒声が私の耳に届く。
「そこにいるのか、アヤァ!」
私は姉に背を向けると、もと来た廊下を一気に走りぬけた。踵をつけて走った。冷たい床が足の裏に痛かった。
やがてあの部屋の扉が閉まる音が聞こえ、もう姉の声は聞こえなくなった。それが、私の見た姉の最後の姿だった。
そして私があの部屋に入れられたのは、その四年後――私が十二歳になったときだった。姉と同じ、十二歳になったときだった。
◆ 8
赤をベースにした、白のフリルがついたドレス。首にはバーバリーのスカーフが綺麗に巻かれており、縮れた髪の毛が生きているようにウェーブしている。ピンクのエクステンションが、変色した首元を隠すように広がっており、真っ赤なリボンでそれは二つに結わえられている。姉が毎日私にしてくれた、頭の上のほうでの二つ結び。
口紅は、赤。アイシャドーは、黒。それぞれのパーツを際立たせるように施されたメイクに、溶けた頬。深く皺がたたみ込まれた肌に、姉の大きな目は不釣合いだった。どこを見ているのか分からない瞳。光は失われている。
「お姉ちゃん…」
クローゼットの中に、座っている姉。
私はここに入れられてからずっと、姉と同じ部屋で時を過ごしていた。
「…お姉ちゃ…」
――アヤは来年から、この通学路、ひとりで歩くことになっちゃうね。
私の髪を、撫でてくれた姉。
――お母さんが帰ってきたら、朝ご飯、いっしょに食べようね。そして、食べ終わったら、おいしかったよって言おうね。
泣いている私を、ずっと抱きしめていてくれた姉。
「…なんで…」
私は問い掛けるようにそう呟いた。しかし、私の頭の中にその答えはすでに見つかっていた。いや、今見つかったわけではない。ずっとずっと前から、気づいていたこと。ずっとずっと前から、知っていたこと。
あの人は姉の溶けた頬を愛しげに撫でながら、クローゼットの中にあった櫛で姉の髪の毛をといた。縮れた髪の毛が絡まるようにして櫛に纏わりつき、あの人は丁寧にそれを交わしながら髪をといていく。実に愛しそうに目を細めながら。
私の胸が焦げつく匂いがした。
「アキぃ…」
あの人の声がする。低いバリトンをねっとりと伸ばし、猫のように甘えた声。私の胸は焦げて、どろどろと融けていく。溶岩のようなそれは心のぽっかりと空いた部分に流れ込んでいく。胸の中が何かで張り裂ける。恐怖でも憎しみでもない。
それは、嫉妬だ。
「…どうしてだよぉ…」
あの人は愛しそうに目を細める。今まで、私にしか向けられていないと思っていた笑顔が、そこにあった。あの人の今まで聞いたことの無いような子供らしさを帯びた声が聞こえる。
あの人の指先が、姉の頬から身体へと移っていく。硝子細工を扱うような手つきで姉の身体を愛撫していく。もう濡れることのない姉の身体を、何よりも大切そうに操っている。私に対してでない愛撫は、芽生えていた嫉妬を更に増幅させる。
「どうしてなんだよぉ…」
あの人の指先は姉の下半身へとおりていく。もう濡れることのない姉の下半身。あの人は姉の服を剥いだ。そこには、当たり前のように存在する姉の性器。くしゃくしゃに縮れ、肌にへばりついている陰毛。
「…どうして成長するんだよぉ…」
あの人の頬を涙が伝った。私の脳内を恐怖が染めた。やっぱり、やっぱりだ。あの人の嗚咽。今までずっと気づいていたことだけれど、ずっと目を反らしてきたこと。あの人の嗚咽。だめだ、私、このままじゃ、姉と同じように――…あの人の嗚咽。
「もう…十二歳の肌じゃないよぉ…」
あの人の涙が、同じ軌跡を辿って頬を伝う。雫と雫が手を繋いで、す、と肌を滑り落ちていく。あの人の涙で潤う頬を姉の溶けた頬に摺り寄せながら、もう一度、呟いた。
「もう十二歳の君じゃ、ないよぉ…」
父は、幼女愛者なのだ。
小学生のような幼女でなければ、愛すことが出来ない。子供らしくふくよかな頬、陰毛のまだ生えていない性器、膨らみきっていない乳房。だから私達は、小学校を卒業する十二歳になると、この部屋に監禁された。あの人の欲望を満たす玩具となるために、窓もなく日光も当たらないこの部屋に監禁された。食事も最低限なものしか与えられない。身体を動かすことも出来ない。日光も当たらないこの部屋で、私達は身体的成長をあの人によって止められた。時が流れても、私達は成長しない。あの人の好きなままの、幼女として保管されていた。
しかし、発毛だけは止めることが出来なかった。
「アキぃ…またね…」
だからあの人は姉を殺した。姉を幼女としてずっと保管しておくために。
「アヤ…」
あの人は姉の入っていたクローゼットを閉め、振り返った。
「アヤも成長してるんだよね…」
あの人は、膝を引きずるようにして、私に近づいてくる。あの人の持ってきてくれた食事に、あの人の膝が入った。あの人は気にしない。トレイが引っくり返り、食事が床に投げ出された。大きな音をたてて、白い陶器の皿と銀のフォークが床に散らばった。私はあの人を見上げた。涙が、ぽたりぽたりと私に向かって落ちてくる。さっき感じた姉への嫉妬は、あの人への恐怖と愛情に分離されていた。このままだと、私の成長も
「――止めてあげる」
だけど、私はあなたが好き。
あの人の表情が逆光で見えなくなった。涙が、私の頬に落ちてきた。
泣かないで。私も今のままのあなたが好き。
あの人は私に身体を委ねた。嗚咽に身体を震わせながら、私の首に手を回した。それが、あの人からの最後の抱擁だった。
「アヤ、ごめんね」
あの人の声が聞こえる。
「ううん」
私は身体の力を抜いた。
「大好きだよ」
私は目を閉じた。
「私もだよ」
そして、床に投げ出されていた銀のフォークを握った。
「…大好きだよ」
あの人はもう一度そういうと、私の首に手をかけた。あの人はゆっくりと、私の首にかけた手に力を込める。私もあの人を抱き寄せるようにして、腕をあの人の首の後ろに回した。
「大好き。――ばいばい」
私は言った。あの人は頷くと、一気に手に力を込めた。
私はそのとき、持っていたフォークであの人の頸髄を思いきり刺した。
あの人の手に込められていた力が消えた。やがて、自分の前に立ちはだかっていた影がゆっくりとなくなっていくのを感じた。
少し経ってから目を開けると、目の前にあの人が倒れていた。口からはきらきら光る涎を零しており、頬はまだ涙に揺れていた。瞳は先程のように愛しそうに細くなっていなく、ただ瞼の裏側を見ているだけだった。
私の刺した銀色のフォークは、あの人の頸椎の骨と骨の間に突き刺さり、頸髄に到達した。そして延髄の呼吸中枢からの呼吸ニューロンを障害し、あの人は息をすることが出来なくなり声をあげることも出来ずに死に至った。
私のしたことは、たったのそれだけ。
私は、あの人の匂いがするスーツのポケットを弄った。右のポケットに手を入れたとき、私の指先に冷たい何かが触れた。あった。この部屋の鍵だ。
私はその鍵を取ると、立ち上がった。倒れたあの人の両手足首を、私をずっと縛っていたロープで縛った。そして、台所から布巾を持ってきて、汚くなった床を拭いた。フォークや皿をトレイの上に乗せると、私はそれを持って部屋を出た。冷たい鍵で、部屋のドアを閉めた。
さて、ご飯を作り直さなければいけない。床にこぼれてしまったご飯を、あの人に食べさせるわけにはいかない。今日からは私があの人にご飯を作ってあげるんだから。これからも今まで通り、あの人と二人で暮らしていくんだから。
これであの人は、私の好きなあの人のまま。
◆ 完
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2004/12/21(Tue)18:02:57 公開 / 笹井リョウ
■この作品の著作権は笹井リョウさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
完、です。
最後の終わり方、理解していただけたでしょうか。アヤも実は父と同じ…というわけだったんですね。ハイ。(何
なんだか今まで書いたことのない雰囲気の話だったので、書くのが辛くもあり新鮮でもありました。いくつも繋がらない点があると思いますが、大きな目で見てもらえるとうれしいです。
今まで読んでくださった方たち、本当にありがとうございました!こんなに感想をもらえたのはここの掲示板ではじめてです。そのおかげでここまでがんばれました!!
さて、次の作品ですが。
「僕らの地面は乾かない」という小説を前後編で載せようと思っています。この小説の2倍ほどの長さを一気に前後編で載せるので読むのが大変だと思いますが、暇があるならばどうぞ目を通してみてください。
「永久ロリータ12号」を、ありがとうございました。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。