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『完結・最後の命令』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:紗原桂嘉
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グーマーが電車から降りてくる男女二人を見たのは、午後二時になろうとしていた時だった。
「初めまして」
カジムという名の女の子は、愛想よく笑って言った。
しかし、黒帽子に、サングラス、白いマスクに、かかとまである黒い大きなコートに身を包んでいるエマネエの口元は、一ミリも動かない。
「エマネエって言うのよ」
カジムはいかにも明るい調子で、その黒ずくめの相棒を、グーマーに紹介した。
「二人ともよろしくね。宇宙船の旅はどうだった?」
グーマーは、エマネエが返事をしない事を知りながらも、気さくに笑いかけたあと、一歩カジムに歩み寄った。
そしてグーマーは突然真剣な表情になった。
「歓迎します。……とても」
グーマーがカジムの手を握ってきた。強い握り方だった。
熱のこもった眼差しだった。
カジムは少し、たじたじとした。
グーマーはエマネエの手をとって、同じ事を言った。エマネエの反応は、星間旅行中にカジムに見せたものと同じく、固くて冷たいものだった。
グーマーが二人を促した。
それから三人はタクシーに乗り込み、グーマーは説明を始める。
「エマネエは私の家に来てもらうわ。家族は私と母の二人。母は明るくて派手好きな人なの。何の気兼ねもいらないから安心して。カジムの行く家は私の家から自転車で十分位の所。御夫婦と、息子さんがいらっしゃるわ」
カジムは今から始まる運命をボンヤリ思った。
家の人たちが、自分やエマネエをどんなふうに受け入れてくれるのか、心配じゃないといえば嘘になる。
そして見知らぬ自分との遭遇……、記憶をたどる旅が不安じゃないと言えば嘘だった。
道は曲がりくねったゆるやかな坂道で、マンションやビルの多い街だ。街の整備が不十分な印象だった。
タクシーはまず、チョコレート色のマンションに着いた。
「着きましたよー」
エレベーターに乗って五階がエマネエのお世話になるグーマーのお宅だった。
「ただいまー」
すると、奥から顔中口だらけとも思える笑顔の女性が飛び出ていた。
「カジムと。エマネエ。……こちらが、うちのお母さん」
グーマーの華やかな母・ポータルは目をまん丸に開けて、カジムとエマネエをしばらく交互に見ていた。
「ようこそ!」
そう言うと、ポータルはカジムに飛びついてきて、きつくきつく抱きしめた。
そして次にエマネエに同じことをした。
「興奮で夕べは眠れなかったわ」
エマネエの体をようやく離すと、ポータルがそう言った。
「さあ! 上がって上がって上がって!」
廊下をつたってリビングにとおされた。
そこのテーブルには何皿も料理が用意されていた。
「お母さん、言ったじゃない。カジムはすぐ行かなきゃいけないんだよ。向こうの家の人だって待ってるんだから」
「あら、そうだったっけー? せっかくつくったのにイ」
「まったく人の話し聞いてないんだからア」と言いながら、グーマーは一皿の中から何かをつまんで口に入れた。
エマネエをポータルのもとに置いてきたあと、カジムとグーマーは待たせておいたタクシーに再び乗り込み、今度はカジムがお世話になる家に行った。
玄関に出てきた家族は圧巻だった。
とろけるような笑顔をつくるご主人と、存在感満点の奥さん。
そして……。
カジムは、もう一人の人物に、目を奪われずにはいられなかった。
女の子……?
背が高く体格のいい、美しい女の子に見える。しかしよくよく見ると男性のようだ。
そう。
グーマーは、この家には一人息子がいると言っていた……。
そして、三人とも満面の笑顔だった。笑顔で、最大限の歓迎の意を示していた。
「じゃ、私はこれで失礼します」
グーマーは三人にペコリと頭を下げた。
「さ、さ。上がって」
奥さんのワミと、ご主人のリアチと息子のシジが笑顔でカジムを促した。
この三人を好きに慣れると確信した。
玄関をあがると長い廊下が真っ直ぐにのびている。左右にいくつか部屋があって、その突き当たりがリビングだった。
リビングのソファにご主人のリアチと息子のシジが座る。
「こちらにいらっしゃい」
奥さんのワミがカジムを笑顔で手招きした。
「はい」
リビングを素通りして、その先に伸びている廊下を歩く。
廊下の右側の壁は全面のガラスが続いていて、リビングからも見ることが出来る中庭的な空間をうつしていた。
中庭的な空間は、ここが最上階のために、上は吹き抜けの青空が広がっている。
歩いていた廊下突き当たりを右に曲がると、さらに廊下は続いている。その新しい廊下の壁も、右側全面、ガラスが続いていた。
リビング、廊下、曲がってさらに続く廊下、これら三つが、コの字を描いて中庭を囲んでいた。
左手に二つの部屋が並び、やっと行き止まりになっている。
「ここがあなたの部屋です」
示された手前の部屋は、中庭を挟んで、リビングの真正面に位置していた。カジムは部屋に足を踏み入れた。
「じゃあ、荷物を置いたら、リビングに来てね」
背中でワミがそう言った。
「はい……」
振り返ると、もうワミの姿はなかった。カジムはこじんまりとした部屋を見渡した。
真正面にカーテン付きの窓があって、すりガラスがボンヤリとした日差しを通している。
荷物と上着をベッドの上に置き、窓に歩み寄る。窓を開けて外を見てみると、さっきの雑然とした街並みが見下ろせた。
その中でも、ひときわ目をひくものが、街の中に忽然と存在する巨大な空間だ。
広場のように見えた。
空は憂鬱で重たく、どんよりとした灰色の雲で覆われていた。
翌朝、カジムは早くにワミに起こされた。
「起きて。そして急いで頂戴」
カジムとワミ、そしてリアチとシジは夜明け前の街を歩き出していた。
彼らだけじゃない。
夜明け前の街は、道を急ぐ人でごった返していて、車道にまではみ出ている。
「どこに行くんですか?」
カジムはワミにたずねた。
「街の中央に広場があるの。出てくる太陽をそこで拝むのよ」
カジムは自分の表情が固まるのを感じた。
それに気づいたワミが、「こんなことはしなかったかしら? カジムが前に居た星では?」と聞いた。
「……おぼえていません」
カジムは砂を噛む思いで言った。
「あ……ごめんね」
ワミはあわてて謝罪した。
カジムは前に居た星での記憶が無い。
女性添乗員に付き添われて、何かの理由で、エマネエと共にこの星に送り込まれ、ここの人たちにお世話になることになったのだ。
おぼえているのは、宇宙船での女性添乗員の言葉だ。
「幻覚の惑星で、エマネエが一人前になる事を監視して下さい。それがあなたの仕事です」
……あれはどういう意味なんだろう?
十分も歩かないうちに、大きな広場に出た。
広場は、カジムの部屋から見えるあの広場にちがいなかった。
広場に入ると、人込みの中にエマネエの姿がチラリと見えた。相変わらずの黒ずくめと、白マスクとサングラス姿で、見るからに人を寄せつけない。
カジムはエマネエが苦手だった。宇宙船の中でも、エマネエは一言も言葉を発さなかった。
今では別々に生活している事をうれしく思う。
……エマネエを一人前にするって、どういう意味だ?だいたい一人前っていうのはどういう状態?
私は、記憶の無い自分自身のことで精一杯だというのに……。そして、見知らぬ人々に囲まれる不安で頭が一杯だというのに……。
広場を外側から取り囲んでいる等間隔のライトは、夜明け目前の広場をくまなく照らしていたが、この地域に住む人ほぼ全員が到着した時点で、消灯された。
全員が色付き始めた東を向いて、沈黙している。広場の東の端に、階段付きの台が置かれていた。
一歩一歩その階段を昇っているのは……ワミだ。ワミは台に立ち、全員に背中を向けて、東にのぞんでいる。
まるで人々の代表のようだった。
神聖な空気が流れていた。
太陽がその輝きの光の筋を、救いのない闇の上空まで伸ばしはじめた時、人々は感動に包まれた。
声を挙げる人も居た。
黙って黙祷している人もいる。
泣いている人もいる。
手を合わせている人もいる。
(太陽信仰……)
カジムの胸にそんな言葉が蘇る。この状況は、何か自分が知っている感じだった。
(ピラミッド……)
そんな言葉が胸に浮かび、四角錐の雄姿が脳裏に浮かび上がる。
過去の記憶がうずいている。不安定に気持ちが揺れる。気を確かに持とうと、目を強く閉じて耐えてみる。
やがて閉じたまぶたの暗闇の向こうに滲む光り。目をあけてみる。
太陽は無事、上がりきっていた。
その時、……この『幻覚の惑星』に住む星の人たちは太陽を信仰しているんだ……、そう思った。
そしてきっと、きっと……カジムの元居た星の人たちも……。
急に熱い思いがこみ上げてくる。
腹の底に眠る、何かの記憶が、興奮となって突き上げてくる。
感動にも似た記憶の断片を共有したくて、思わずカジムはエマネエの姿を追った。
「エマネエ! エマネエ!」
……同郷のエマネエなら知っているはずだ。ならば、この感動を共有できるに違いない……!
早くも帰り始める大群の中を、人ごみをかき分けながら進む。
「エマネエ!」
ようやく捕まえて、エマネエの肩に、後ろから手をかける。
「ねえ、エマネエはおぼえてる? 私たちの星も太陽信仰だったよね?
さっきのシーン、何か感じなかった? 感じたよね?」
反応しないエマネエにじれて、興奮したカジムは肩に置いた手に力をこめて、エマネエをグイとこちらに振り向かせた。
振り向いた無表情なエマネエ……。まなこはサングラスで遮断されている。
黒い帽子、大きな白いマスク、かかとまである黒いコート。全てがものものしく、そして他者を拒否していた。
カジムは凍りついた。
自然に手が離れてしまった。
エマネエの近くにいたグーマーとポータルが、カジムを慰めるような精一杯の笑顔を送る。
「朝日、綺麗だったよね」
うなずく事もできないカジムを残して、グーマーとポータルとエマネエが立ち去る。
……話しかけるんじゃなかった。エマネエに話しかけるんじゃなかった……。
エマネエの振り向いた顔は、ぞっとするほどの無表情だった。
否、顔だけではない。全身が無表情なのだ。カジムの興奮を一気に冷ますほど、冷たくて固いエマネエ。
一緒に暮らしているグーマーとポータルが気の毒だ。何故、よりにもよってあんな変なヤツが唯一の同郷なのだ。
前の星で、私たちにどういう事情があったんだ……。
夜中だった。
頭が割れそうに痛かった。
自室のベッドだった。
カジムは頭を抱えたまま、ベッドの上をのたうち回る。
何かに導かれるように、頭を抱えたまま部屋を出て、廊下をつたい、玄関を飛び出し、エレベーターに乗って、マンションの外に出る。
低いビルの上には、きらびやかな星が輝いていた。
その星たちが位置するはるか下で、カジムは割れるような頭を両手で抱えながら、フラフラと深夜の町を歩いている。
少し夜風が冷たかった。足が勝手に動いていく。
いつしか広場近くに来ていた。
突然、目が射抜かれる。
それでも目を細めて広場の中を見てみると、いつもは大人数を収容するその広場をほぼいっぱい埋めるように、宇宙船が停まっていた。
頭の痛みが消えた。
カジムは手で目をかばいながら、一歩一歩、宇宙船に向かって、ゆっくりと広場を歩く。
宇宙船の発光がとまった。
目をかばう必要がなくなったカジムが見たものは、こちらにやって来る人影だった。
宇宙船から誰か出てきたのだ。
「手荒なまねをしてごめんなさいね。もう頭痛くないでしょ?」
目前で立ち止まったその人はそう言った。
思ったとおり、この星に来るまで同乗した女性添乗員だった。
「エマネエの様子はどう?」
「……会っていません」
「この『幻覚の惑星』で、妖精の人たちの中で生活するエマネエを監視するのが貴方の仕事だと言ったのに?」
「……はい」
女性添乗員はため息をついた。
「遊びじゃないのよ」
カジムは黙った。
「星の未来がかかっているの」
「あの……」
カジムは口を開いた。
「もう少し詳しく説明してもらえないでしょうか。エマネエと私に課されているものは何なのですか。それに何故、私は記憶が無いのでしょう。
私の故郷の星はどんな所なのでしょうか。なぜ私は今ここに住んでいるのでしょう……。全て分からないんです」
「質問するのは貴方ではありません。私の方です」
冷たい顔の添乗員が、冷たい表情で言った。
「つべこべ言わずに、エマネエを監視する事。エマネエを一人前になるのを見とどける事。あなたの星の未来がかかっています」
「起きて。そして急いで頂戴」
ワミの声で目が覚めた。
いつの間にか、ベッドの中だった。
たった今、女性添乗員と話していた感覚が生々しい。
目の前にあるのは女性添乗員の顔ではなくワミの顔だ。
どういうことだ? 今のは夢だったのか?
それとも、女性添乗員に会ったあとに、ここに帰って眠っていたのか?
「さ。広場に行くわよ、着替えて」
ワミが部屋を去ったあと、カジムは着替えて、ワミたち家族と夜明け前の街を歩いて広場に向かった。
広場に行くのは、少なくともカジムの意識にとって、今夜、二度目だった。
眠れなかった。
この星で生活を始めて、こんな夜はしばしばあったが、今夜はとうとう寝るのをあきらめて、自室を出た。
廊下を伝って薄暗いリビングに出る。
リビングで立ったまま、少し明るい夜の中庭を窓ガラス越しに見ていた。
弱くライトアップされた中庭に四つの白いチェアーが置かれている。
最初は家族分の人数、つまり三つだった。
しかし今では、カジムを気づかって四つになっている。
中庭の上空には星がきらめいている。
それを見ているとカジムは楽になった。
部屋のベッドの上で、眠ろうと奮闘努力するより、あきらめて外を見ている方が解放される。
リビングの大きなガラス窓をガラガラと開けて、カジムは中庭に一歩踏み込む。
備え付けのサンダルを引っかけて、コンクリートの上をペタペタと歩く。
サンダルは少しひんやりとして、外の空気も少し肌寒い。
眠れない頭がいよいよ、パチンと冴えた。
中庭中央の白いチェアーの一つに体を横たえた。
星を見上げる。
その美しさと、夜空の巨大さに、自然と深く深く深呼吸する。
別世界のように静かで美しかった。
自分はあの星のどこから来たんだろう……。
カジムは何も思い出さないのだ。
自分の住んでいた風景も、自分と係わっていた人々のことも……。
自分という存在を証明するデータが記憶の中に無い。
夜空の美しさと、そして孤独感で、心が震える。
星がぼやけて揺れて、ポトリと頬を伝ってこぼれた。
すると、場の空気を破るように、背後でガラガラと窓ガラスが開いた音がして、体がビクッとする。
「カジム……」
あわてて涙を拭って振り向くと、出入り口にはシジがいた。
「シジ……」
ペタペタとサンダルの足音をさせながらシジが近づく。
「どうしたの? 眠れないの?」
白地に、襟や袖に青色で縁取ったパジャマを着たシジが、星あかりと中庭の備え付けの弱いライトとで、ボーッと浮かび上がる。
「……あ……うん」
「座っていい?」
「……はい」
カジムの隣の椅子の横に立ったシジが、カジムの了解を得て、隣の椅子に体を沈めた。
カジムは、とまどって、夜空を見上げた。
「泣いてたの?」
シジが聞いてきた。
「……ううん」
カジムはやっとシジを見た。
薄闇の中でも、浮かび上がるシジの目の光り。真っ直ぐに自分を見ている。
一人ではない、自分以外の存在の温もりが、そこにあった。
「シジ……」
「何?」
自分は何を言いだそうとしているのか?
「うん……何?」
シジが自分の言葉を全て受け止めようとしているのが分かる。
「……シジ……、あのね……」
その時、大きな音をたてて背後の窓ガラスが開いた。
誰?
サンダルの音は聞こえてこない。
中庭には、入って来ないようだ。
「なにしてんだー?」
父・リアチの、のんびりとした声が間延びして飛んできた。
「眠れないから、ちょっと涼んでたー」
シジが返した。
「風邪ひくなよー」
そう言って窓がガラガラと閉まる音がした。
リアチが去ったようだ。
そして二人に訪れた気まずい沈黙のあと、シジが言った。
「部屋に戻ろう」
それから二人は、それぞれの部屋にそそくさと戻った。
グーマーとポータルから食事に誘われた。
エマネエの様子を監視するのがカジムの仕事だ。
にもかかわらず、久しぶりにエマネエに会うと思うだけで、気は重くなった。
しかし自分自身を叱咤激励し、カジムはグーマーとポータルのマンションの部屋のベルを押した。
「いらっしゃい」
リビングにとおされると、ソファにエマネエが座っていた。
いつものエマネエだ。
黒い帽子に、黒いサングラス、白い大きなマスクに、かかとまである黒コート。
それを見て思わず立ちすくむカジム。
何度見ても、慣れることなく、胸を凍りつかせる。
「さ……、カジム」
ポータルが優しくカジムを促す。
全員がソファに座ると、すでに用意されていた料理の皿に、数皿が加わったあと、ドリンクが全員の目の前に置かれる。
グーマーとポータルは楽しそうに、きびきびとした動作で用意した。
「かんぱーい」
グーマーとポータルの声に合わせて、カジムもそう言った。
エマネエは何も言わないし、目の前にあるグラスにも手をのばさない。
グーマーとポータルが、最初の一口を飲んでる最中、カジムはそんなエマネエをにらみつけていた。
「おいしいと思うよー。食べて、食べて。私たちも一週間ぶりの食事なの」
カジムはエマネエをにらみつづけていた。
「……ほら、カジム、食べてよ。せっかくつくったのよ」
「……はい」
ドリンクにはアルコールが入っていた。
ポータルとグーマーは、料理のレシピを一皿一皿説明しだした。
二人が協力してつくったのだと言う。
二人はいつもの様に極めて陽気だった。
ポータルが一曲歌って、グーマーも一曲歌った。
客人であるカジムのためだった。
なるべく見ないようにしていた。……カジムはエマネエを見ないようにしていた。
でも何かの拍子で見てしまった。
エマネエはドリンクを一口も飲んでいないようだった。何も食べていないようだった。
エマネエの周囲だけ、特殊な空気が漂っている。
エマネエは石像の様に動かなかった。
カジムは少し酔いはじめていたのかもしれない。
カジムは今度こそ、頭に血が昇っていく自分を抑えられなかった。
「エマネエ!」
カジムは自分のドリンクをエマネエの顔に向けてぶちまけた。
エマネエの顔がびっしょり濡れた。
それでもピクリとも動かなかった。
カジムは立ち上がった。
「アンタ、何様のつもり? 二人がこうして、色々と料理をつくってくれたのに、マスクも取らないなんて、アンタ、どうかしてるわよ。恥ずかしいよ。アンタと同郷だという事が。この星の人たちの善意を何だと思ってんの?」
エマネエはそれでもピクリとも動かない。
「や、やめて、カジム」
ポータルがカジムにとりすがった。
「そうよ。エマネエを責めないことよ」
グーマーもそう言った。
「ごめんなさい……。私……」
限界だった。
カジムは玄関に向かった。ポータルとグーマーが追いかけてくる。
「カジム」
二人がおろおろと、とりすがってくる。
「本当にごめんなさい……。あんなエマネエをここに置いてしまって……。でも、時にはエマネエを怒っていいですよ、……ホントに」
「カジム。焦ってはダメよ」
ポータルは言った。
「エマネエは何も悪くないわ。だから怒る理由なんてないのよ」
「そうよ。それにカジムだって何も悪くないのよ」
二人が口々にカジムを慰める。
かえってつらかった。
彼らが、他の星の住人を受け入れた事を呪ってくれたら、どんなに気が楽になるか。
しかし彼らはエマネエをかばい、そしてカジムを慰める。
「失礼します」
その場を去り、道々は、泣くのをガマンした。
でも自分のマンションに帰り、自室に飛び込んだとたん涙がとまらなくなった。
エマネエに対する嫌悪感と、自分の立場の肩身の狭さが、カジムの心臓を締めつける。
ベッドに突っ伏して泣いた。
みじめだった。孤独だった。
グーマーもポータルもいい人で、エマネエを温かい眼差しで見てくれている事は、有り難いと思わねばならない。
だけどある日、ワミはグーマーとポータルに会うと言って、外出した。
カジムはピンときた。
……グーマーたちもさすがにエマネエに手を焼いているのだ。それで、ワミに対処の仕方を相談しているに違いない。
いくら、グーマーやポータルがいい人だからといって、あのエマネエと一緒に居つづけることが苦痛にならないはずがない。
カジムは同郷の者として、自分が責められているような圧迫感を勝手に感じてしまう。
考えすぎだと自分に言い聞かせても、エマネエの存在自体が彼らを苦しめているに違いないという想像を打ち消すことができなかった。
朝に太陽を拝む時、先頭の台座にいつもワミがのぼることから見て、ワミは街の人たちから信任を得ているようだ。
それで、グーマーたちもワミに相談したのではないだろうか?
「ワミさん……」
後日、中庭で日光浴をしているワミへ踏み込んで行って声をかけた。
「あら、カジム」
カジムはワミの隣の椅子に腰を降ろした。
「何?」
ワミが不思議そうにカジムに聞いた。
カジムは勇気を出して聞いた。
「……この前、ワミさん。 グーマーとポータルに会ったよね?」
「ええ」
「理由を聞いてもいいですか?」
ワミが微笑んだ。
「私もカジムにその話しをしようと思っていたところなの」
ワミは太陽に向かって足を組み換える。
太陽がワミに応えるように、いやというほど、光りを注いでいた。
「エマネエを、うちに引き取りたいのよ」
意外な言葉だった。
いや、半分は、予想があっていたのか?
「やっぱり、グーマーたちは、エマネエをもてあましているのね」
「まさか」
ワミは笑った。
「グーマーとポータルは、その私の申し出を、断じて断ったわ」
「断った? ……信じられない」
カジムは独り言の様につぶやいた。
「なぜ信じられないの?」
「だって、グーマーやポータルはエマネエを嫌いでしょ?」
するとワミは笑ってるような泣いてるような、少しつらそうな表情をした。
「まだ『硬い』とは言っていたわ。だけど、グーマーやポータルにとって、エマネエがどんなに大事な存在か、あなた、分かってないみたいね?」
心臓を圧迫するような言葉だった。
衝撃以上だった。
「もっと正確に言うわ。私たち妖精にとって、カジムとエマネエがどんなに大切な存在か、あなたは分かっていないのよ。あなたちたちは、私たちと愛し合うために、この星に来てくれたの。だから、来てくれた事、とても感謝してるわ。とてもとても、感謝しているわ」
ワミはカジムの手に自分の手を置いた。
カジムを見つめるワミの目が揺れている。
ワミの目が、浮かんできた涙で揺れているのだ。
「ありがとう……。この星に来てくれて」
そして、ワミの目から涙がこぼれた。
グーマーやポータルがエマネエを手離すことを拒否したにもかかわらず、エマネエはワミたちの家に来ることになった。
やはりエマネエはやっかい者だったのではないだろうか?
ある日ワミの家に引っ越ししてきたエマネエが、その荷物を運んできたリアチやシジと一緒に、この家の玄関に立った。
呼び鈴が鳴ったのでカジムとワミで彼らを迎えた。
いつもの、黒帽子、サングラス、白マスクと、かかとまでの黒コートだ。
ひどく違和感を感じた。
この家の風景にエマネエは合わない。
特にシジと並ぶと……。
世界一美しく清らかなものと、世界一嫌悪すべき醜いものが肩を並べて同じ空間を共有している事に、吐き気がした。
シジまで汚されるようで、申し訳ないし、許せなかった。
しかしとうのシジはと言えば、すこぶる機嫌の良さそうな表情で、エマネエに声までかけている。
「さ。上がれよ」
エマネエは一歩あがった。
「よく来てくれたわね」
迎えたワミも一歩歩み寄ってエマネエの体を静かに抱いた。
カジムは、ワミはよくそんな気持ちの悪いことができるものだ、と呆気にとられた。
抱擁は長かった。
いつまで経っても抱擁は終わらない。
エマネエは何を思って、ワミに抱かれているのだろう。
じっとしていた。
ワミは少し泣いているらしく、鼻をすすっていた。
そして、見守っていたリアチとシジも静かに二人を抱いた。
四人は抱き合って固まりになっていた。
これも長い抱擁だった。
カジムはそれを見ていた。
何マイルも遠い景色のように、それはカジムとは無関係の抱擁だった。
とにかく、なぜかこの家の人はエマネエを歓迎している。
演技かもしれない。……しかし演技だろうか?
エマネエの部屋は、カジムの部屋の隣になった。
「どこへ行くの?」
数日後、マンションの下の専用駐車場で、ピカピカの白い車の側に一人で
立っているシジに声をかけた。
彼は白い薄手のセーターを着ていた。
車の白とセーターの白が映えて、シジが眩しかった。
「海に行こうと思って」
「ホントに? ……あの。私も一緒に行っちゃダメですか?」
シジが微笑んだ。
「あ……いいよ」
そう言われて、カジムは本当に嬉しかった。
カジムを助手席に乗せて、車はすべりだした。やがて街を抜けて、緑の多い郊外に出る。
柔らかくて、フンワリとした暖かい風が車内に入ってくる。
後部座席から、シジがお菓子を出した。
「食べる?」
「……はい」
シジは微笑んだ。
そして、前を向いた時の彼の前髪が少し風になびいて、カジムの胸を震わせる。
カジムはほとんどしゃべれなかった。シジも、もともとおしゃべりな方ではない。
だけど、シジはカジムと違って全くリラックスしていた。
鼻唄など歌って運転している。
「ほら……海」
シジが言った。
家から小一時間、海の巨大な雄姿が、木の隙間から途切れ途切れに現れた。
波頭を時折輝かせながら、太陽の光りをいっぱいに吸って、静かに揺らめいている。
「綺麗だなア……ここにはよく来るんだよ」
やがて海沿いの道に車をとめる。
二人は外に出た。
車の側に佇んで、高い位置から眩しい海に見とれた。
絶景だった。
心が解放感でいっぱいになる。
フワリとした機嫌の良い風が二人の髪を揺らす。
「カジム、行こう……」
シジが笑顔でカジムを見た。
回りで金粉が踊ったようにシジの笑顔がキラキラッと見えた。
二人は砂浜へ降りた。海には人っ子一人いなかった。
「わア……」
驚いた。
砂浜は、熱を伴わない、非理性的な熱気を放射していた。
カジムは海を見て、思わず目を細めた。
まるで、今、産声をあげたような、生まれたての瑞々しい海が、あまりにきらめきすぎて、目を射抜いてしまうからだ。
海の中に入っているわけではないのに、皮膚が水の心地よい冷たさを、確かに感じてしまう。
頭の中が、芯までクリアになって、砂浜の上の空気の分子、一粒一粒の輝きまで見えてしまいそうで、怖いくらいだ。
カジムは砂浜に出た途端、急に自分の感覚があまりに鋭敏になった事に驚いていた。
そして。
……強い潮の匂い。
動物である事をいやがうえにも刺激する、本能の固まりのような匂いだ。
全ての生物を生み出す性なる母の匂い。
砂浜の上を滑る、穏やかな熱を含んで大きく膨らんだ海風は、暴発寸前でかろうじて風の形に思い止まったまま、いっぱいに広がって二人の全身を甘苦しく包む。
二人は黙って波打ち際を歩いた。
「きゃっ……」
足がとられて カジムの体がよろめき、波打ち際の海に尻もちをついた。
「カジム……」
カジムを助け起こすために差し伸べたシジの手。
カジムはその手を見つめた。
カジムはほんの一瞬のためらいのあと、その手をしっかりつかんで立ち上がった。
「ありがと……」
それをきっかけに、そのまま二人は手をつないで歩いた。
黙って歩いた。
手をつないだ、ただそれだけの事で、封印していた心の新しい場所に突然
進んだ気がした。
海の帰り、レストランに寄ったカジムとシジは、テーブルをはさんでいた。
先ほどの恋人ムードはなりを潜めている。
「……ここは『幻覚の惑星』だと聞きました。……どういう意味?」
「……ああ」
シジは少し微笑んでうつむいた。
「……伝説だよ。この惑星で目に見るもの、体験するものは、全て幻覚なんだって。
僕らたち自身も、ヒトではなく、本当は妖精だっていう……」
カジムはシジの体つきをまじまじと見た。
「妖精なの? やっぱり?」
「まさか」
シジが吹き出した。
「伝説で言われているだけだよ。僕はそんな伝説、信じてないよ」
カジムはそれを聞いてホッとした。
しばらく黙った。
「恋人っています?」
やがてカジムはシジに、おずおずと聞いた。
「恋人……。そうだな。……将来を約束している人なら居るけど」
「……将来……」
カジムは意外な答えにしばし絶句した。
シジに恋人の影は無かった。
「たまに会ったり……?」
「無いね」
淡々とシジが答えた。
カジムは遠慮ぎみに聞いた。
「会わないの?」
「会わないよ」
「……なぜ?」
「……わからないよ」
シジがさわやかに笑った。
「……会いたくならない?」
「……別に」
シジは何かを隠している、と思った。
将来を約束している恋人と会わないのには、それなりの理由があるはずだ。
「……海で。僕ら、手をつないだだろう?」
帰りの車の中でシジがそうきりだした。
「……実を言うと、女の子の手を握ったの……初めてだったんだ」
そう言ってシジは、前を向いて、黙って運転した。
……彼は、彼は何を言いたいのだろう。
周りの景色が、繁華街になってきた。
車が詰まってくる。
「……カジムは、やっぱり、別の星の人なんだね。今日、つくづく実感したよ」
どういう意味だろう。
「カジムと一緒に居ると……」
「君に触れたくなるんだ。……こんな感覚、……初めてなんだ」
自分は告白を受けているのだろうか?
カジムにしても、シジに対する思いを殺して生活しているのが実情だった。
今、自分は世話になっている身、余計な混乱を招く事は避けなければいけないと思っている。
「婚約者とは? ……婚約者の人の手も……握ったこと、ないの?」
「ないよ」
「……ないの?」
少し変な空気が流れた。
「君の居た星では? 君の居た星の人たちは……、男と女って、手をつなぐの?」
カジムはとまどって、シジを見た。
シジもカジムを見た。
二人は言葉を失った。
そしてカジムは合点した。
シジが女の子の手に触れた事がないと言った意味は……、それぞれの星における男女関係のあり方の差を現していたのだ。
「……じゃあ、なぜ……?」
当然のようにカジムの胸にわき起こる疑問。
「……なぜ、海で、私の手を……」
するとシジは頭を振った。
「……わからない」
苦悩しているようにさえ見えた。
「君と居ると……」
この星の男女の形まで変えてしまう程の何かを自分は発散しているというのか?
シジの海でのふるまいは、私だけの原因だったのか?
聞きようによっては、まるで、私がシジを誘惑したかのような……。
「……カジムはどうだったの? 前の星では」
シジがそう聞いてきた。
「……前の星では。私は……」
カジムはのどがつまってくる。
渋滞になり、車の流れがとまる。
夜が近づきテールランプが映える。
胸が苦しい。
そして、こめかみが閉まる。
……何も思い出せないのだ。
「……前の星では……」
シジはやっとカジムの異変に気づいた。
「……あ。……ごめん」
シジはカジムを追い詰めてしまったことをわびた。
ある日、食事をとるために自室を出、リビングルームへ向かっていた。
今夜は来客をもてなすために、久しぶりに家族で夕食をとる予定だとワミから聞かされていた。
普段の食事といえば、カジム一人で自室にて食べるか、時としてリビングでワミと二人で食べた。
この星の人たちは、生理機能の違いから、基本的に食事をとることはなかった。
最初は、それに強い違和感を感じたが、今では慣れた。
ワミが気の毒がってカジムの食事にしばしば付き合ったが、エマネエの時は必ずといっていいほど、ワミは同席した。
ワミもリアチも、明らかに、カジムよりもエマネエを優遇していた。
口にこそ出さなかったが、カジムの胸の中で、それがわだかまっていた。
しかし、その晩は、来客をもてなすための食事だった。
「はじめまして」
カジムがリビングに足を踏み入れると、ソファに座っていた来客が即座に立ち上がり、カジムに小走りに歩み寄った。
「サリロです」
来客は若い女の子だった。
リアチもシジもエマネエも場にそろっていて、すでにソファに腰掛けていた。
ワミだけが料理を運ぶために、キッチンとの移動を繰り返している。
エマネエは中庭のよく見える窓際に陣取り、相変わらずの風貌と態度だった。
「サリロは、シジの婚約者なのよ」
食事の最中、ワミがカジムにそう言った。
シジとサリロは、今日で会うのが、なんとたった数度目だという。
シジは食事の冒頭から、ずっと目を伏せたままで誰とも目を合わせあわせようとしなかった。
サリロが帰った夜、カジムはベッドに入っても眠れなかった。
サリロの純粋な笑顔と、シジのふさぎ込んだ表情、そしてシジと手をつないで歩いたあの日の海岸など、幾つかのシーが入れかわり立ちかわり目の前にちらついて、カジムを入眠させなかった。
観念してベッドを離れ、部屋を出て、中庭へ向かう。
そのためにリビングへ向かう廊下を歩く。
中庭にはリビングからしか出られないからだ。
廊下脇の全面ガラスから中庭が見えていた。
その中庭に目を移したとたん、カジムの心臓が大きくトクン、と震えた。
……シジが居る……
月光で浮かび上がる、エマネエが来たために今では五つに増えた中庭中央のチェアーの一つに、シジが居るのだ。
薄暗いリビングに入り、リビングの大窓から中庭に出る。
ガラガラと大窓を開けた時、急にコワくなった。
……シジにとって、今、自分が中庭に入ることが、もし迷惑ならば、どうしよう……。
「……こんばんわ」
それでも中庭中央の白いチェアーに居るシジの傍らに立ち、あいさつした。
「こんばんわ」
横たわるシジが、こちらを見上げてそう言った。
カジムは、シジの隣のチェアーに体を沈めた。
夜空は満天の星だった。
「……カジムとすごく話がしたかった。……何から話そう……」
そうシジが言った時、カジムは、シジが自分と同じ気持ちなのではないかと、強く予感した。
「あのさ……」
シジはそう言いかけて、少し黙った。
動揺しているように見える。
「君が、前に居た星から、使命を持って、この星に来ているのは知ってるよ。
その君に記憶が無い事や、この星にとって君とエマネエが重要人物だという事も……」
シジはカジムの目を見なかった。
「……分かってるけどっ」
シジの声が急に荒ぶった。
「できれば、カジムと逃げたい」
意味が理解できかねた。
だけど、シジの情熱は伝わってきた。
彼の唇は震えていた。
「ワミから教えてもらったよ。
君の星の人たちは、特定の異性を独占し、執着し、そして社会的立場のために、互いを取引契約するって。
独占し執着することを……恋っていうんだろう?
……僕。カジムに……恋、みたいなんだ?」
そうシジが説明した時だった。
カジムの全身は、激しく地面にたたきつけられた。
一瞬息が止まりそうになった。
何が起きたか分からなかった。
うつ伏せで倒れたまま、カジムが顔を上げると、自分が深夜の広場に、突然投げ出された事に気がついた。
目の前には二本の足が立ちふさがっている。
その数十メートル先には、巨大宇宙船が停泊している。
時折、青白い光を弱く発していた。
二本の足の主を見上げると、れいの女性添乗員だった。
「エマネエの方は順調なの?」
頭の上から、声がふって来た。
正直言って、今、エマネエの動向を追いかける気はさらさらない。
考えることすら、拒否していた。
「あなたの、仕事よ。なんだと思ってるの?」
容赦ない叱責がとんでくる。
くやしい思いが、猛烈にこみ上げてきた。
命令なんてクソくらえだ。
うつぶせに倒れたままで、顔だけ上げてカジムは叫ぶ。
「一体、何の話よ! 私は……誰よ! 仕事って? どうしてこの星に私は来たのよ。……教えてよ!」
「教えて?」
女性添乗員は、こちらを見下ろしながら片眉を上げた。
「あなたは自分の力で思い出す事ができます」
カジムは彼女を凝視する。
女性添乗員の後方で停泊する宇宙船が、突然、赤く激しく発光し、カジムの瞳孔を貫いた。
「わあ!」
カジムは両目を押さえて転げまわった。
最後に仰向けにひっくり帰った後、カジムはゆっくりと目を開けた。
見上げた真っ直ぐ上空には、きらめく星たちをたたえた夜空が広がっているはずだった。
しかし、夜空いっぱいに広がっているのは、映画のような大スクリーンだ。
カジムは息をのんだ。
夜空に映し出されているのは、……カジムだ。
カジムが法廷に立っている。
そして傍聴席でカジムを見つめる、顔、顔、顔……。
カジムはその光景を見ているだけで、胸が締まってくる。
……何だろう、この苦しさ。
カジムは夜空の大スクリーンを見ながら、胸をかきむしった。
裁判官が、おごそかな声で判決を告げた。
「我が国最高法廷は、チルリケンリ・カジム被告に……死刑を宣告する」
そのスクリーンの光景を見て、絶叫したカジムの目に次に映ったのは、視界いっぱいの、ワミの顔だった。
ワミの背後に見えるのは……部屋の中の暗い天井。
そして顔を少し動かすと……、自分が自室のベッドで寝ているという事が分かった。
「やっと、目を覚ましたのね。……広場に行くわよ」
女性添乗員は?
宇宙船は?
……そして……
「どうしたの?」
ベッドに横たわるカジムをのぞき込むワミが、優しく問いかける。
「……ううん」
夢だったのか?
あれは断じて夢ではない。
数日後、カジムはトイレに行くために、リビングに続く夜中の廊下を歩いていた。
……「チルリケンリ・カジム被告に、死刑を宣告する」
夜の空に映し出されたその光景が、カジムの過去の一場面である事は明らかだ。
本人のカジムが嫌というほど、それを感じていた。
……あの時の絶望感。
そして、場の緊迫した空気感。
今でも生々しくリアルに蘇えり、胸が熱く締め付けられる。
しかし、元の星での記憶で思い出せるのは、そこだけだった。
夜空のスクリーンに映し出された以上の事は謎のままだ。
様々な思いに乱されながら、やがてカジムはリビングに一歩、足を踏み入れようとしていた。
リビングのドアは半ば開放されていた。
しかし、次の瞬間、カジムはドアの影にすばやく身を隠した。
リビングは完全に暗くはなかった。
リビングの間接照明と、窓ガラスから差し込む中庭のライトとそして月光。
これらが最も交わるスポットに、抱き合う二人の姿があった。
カジムは思わず息を殺した。
こちら側に顔を向けているのは、その『いでたち』からして、……エマネエだ。
棒立ちになっているエマネエを一方的に抱きしめ、こちらに背中を見せているのは
……ワミだ。
ワミは日頃から、何かというとエマネエを抱きしめていた。
ワミだけではない。
リアチもしばしばエマネエを抱きしめた。
しかし彼らは、カジムを抱きしめはしなかった。
何故だか、わからない。
これら一連の事は、カジムにとって快い事ではなかった。
それにしても、なぜ、こんな深夜に二人は抱き合う……否、ワミがエマネエを抱きしめる必要があるのだろう。
不可解な雰囲気が、ワミとエマネエを包んでいるのは確かだった。
とても踏み込めるような雰囲気ではなかった。
しばらく二人を見守っていたカジムは、やがて信じられない光景を目にした。
ワミがエマネエに何かをささやいた。
カジムの方向に顔を向けているエマネエが、こっくりうなずくと、エマネエはまず、かかとまである黒いコートを脱いだ。
黒いコートの下に隠されたエマネエの衣服を、カジムは初めて見た。
エマネエは宇宙船の中ですら、コートを脱がなかったのだ。
エマネエがその下に着ていたものは、何の変哲もない長袖のグレーのTシャツとズボン。
次に彼は帽子を取る。
……これも初めて見た。
耳がかぶさる程度の短髪だった。
……まさか……。
カジムはこの段階になって、初めて胸騒ぎがした。
その、まさかが、起こった。
次にエマネエはマスクを取った。
エマネエが、初めて、その素顔を現そうとしているのだ。
最後にエマネエは黒いサングラスを取った。
カジムはエマネエの素顔を見た。
カジムは以後数日間、自室に引きこもり、できるだけ眠った。
目を覚ますとエマネエの顔を思い出し、激しい頭痛に襲われた。
その痛みの激しさから、カジムはベッドを離れる事ができなかった。
痛みの原因が何かは分からなかった。
以来引きこもったカジムを心配し、ワミは部屋まで食事を運んでくれた。
もうろうとした日々だけが流れた後、ある日シジがやって来た。
比較的、頭の痛みの少ない日だった。
「入っていい?」
部屋の外から呼びかけてきたシジの声に、意志が感じられた。
カジムとコムュニケーションをとりたいという強い意志が。
カジムはその声に反応し、上体を起こしベッドの端に腰掛けた。
「入っていい?」
もう一度シジがそう言った。
「……いいよ」
扉が開き、入り口にシジが立った。
「……海でも行かない?」
彼の背後から、潮の気配が流れ込んでくるかのようだった。
カジムは以前行った海の輝きを、一瞬心に描いた。
しかし体は動かなかった。
「ねえ?」
シジがスタスタと歩んできた。
そしてカジムの目の前に手を差し出す。
……どういう意味?……
カジムの胸に、敵意にも似た疑問がわき起こる。
婚約者の手も握った事のない男が、結婚するまで接触しない文化に育ったこの男が、異星人の私に手を差し出す。
勘違いしてもいいの?
シジは何を考えているのだろうか?
カジムは立ち上がった。
「……じゃあ、海、行くわよ」
そう言ったカジムは、思わず挑戦的にシジを見た。
シジの手は握らなかった。
廊下を歩き、そしてリビングに入る。
ソファに、ワミとリアチと、……そして素顔のエマネエが座っているのがチラリと視野に入った。
無言ながらも、カジムを案じているワミとリアチの視線を横顔にいやという程感じながら、シジと共にリビングを抜け、そしてやがて玄関の外に出た。
シジとカジムは、車に乗り込み発進した後も、しばらく会話はなかった。
ずいぶんしてから、シジが言った。
「ワミとリアチには、海へ行くと言っておいた。でも。海に行く気はないし。……帰る気はない」
シジの声がいつもより深刻だった。
「……どういう意味?」
どこかで一泊するつもりなのか?
「……家出だ」
窓から入る風でシジの前髪が揺れていた。
シジの目は前方を見据えたままだ。
「……家出?」
「そう。……永遠に」
「……永遠」
「そう。……カジムさえよかったら。僕らは遠い場所に行くんだ。……全てを忘れて」
「……全てって……。シジの婚約者は? あの子と結婚するんでしょ?」
シジは首を振った。
カジムはあっけにとられた。
言葉が出ない。
うれしいというより、何か不安を感じてくる。
「……カジムは? ……カジムは任務を捨てる決意ができる? 任務を捨てて、僕と一緒に行く決意ができる?」
その質問で、カジムは自分の不安の正体を知る。
そうだ。
それだ。
自分を苦しめている謎の任務。
エマネエを監督するという意味不明の命令。
それらの呪縛が、カジムの心身を追い詰めているのは事実だ。
心から逃げたいと思う。
でも、逃げて、……いいのだろうか?
長い沈黙が続いたあと、車は郊外のシティホテルに着いていた。
「今夜はとりあえず、ここで。……いい?」
カジムは黙ってうなずいた。
二人は車を出て、そのホテルにチェックインした。
郊外のさびれた町にしては、ずいぶんと巨大な豪華なホテルだった。
二人の泊まる部屋には、美しい幾何学模様のカバーのかかったベッドが、中央に二つ、置かれていた。
窓辺に立ってカーテンを開けると、人家や雑居ビルや、いりくんだ細い車道が、雑然とした町並みを形成してるのが、ガラス越しに見える。
「何を考えてる?」
かたわらに立つシジが聞いてきた。
「……寂しい景色だなって」
「……僕がいても?」
シジがカジムの肩を抱いてきた。
そして二人は向かい合って抱きしめ合った。
たぶん何分間も、黙って抱きしめ合った。
ピッタリと閉めたガラス窓を通して、走行する車のクラクションが、小さく小さく聞こえていた。
シジの心臓の震動を、カジムは自分の胸に感じた。
シジは両手でカジムの頭を両側から優しく押さえると、カジムのおでこに自分のおでこをくっつけた。
カジムはシジの、少し開いた唇を見つめていた。
呼吸に合わせて、シジの白い歯が,見え隠れする。
遠い雑踏の町の音さえ消え、二人の呼吸音しか耳に入らなくなった。
二人の顔の間に存在するわずかな空間は、ショートしてしまうのではないかと思うほど熱かったが、シジはもう一度ゆっくりとカジムを抱きしめて、「最高に幸せだ」とつぶやいた後、静かに体を離した。
ホテル最上階のレストランは、ガラガラにすいていた。
窓の外に広がるのは、殺風景で平凡な郊外の夜だった。
「……ワミさんたち……。今頃、心配してるよね……」
浮かれた気分になりきれないカジムが、ポツリと言った。
「……そうだね」
シジが目を伏せた。
「……あんまり、楽しそうに見えないけど?」
シジが上目遣いでそう言った。
カジム自身、自分の気持ちを持て余している。
後悔しているつもりはないのに、この気の重さは何だろう?
「僕たち。何か、悪い事をしていると、思う?」
命令なんてクソくらえと思ってきた。
そして今、命令も何もかも、全て忘れて、シジとどこかへ逃げようとしているのだ。
念願叶ったり、とでも言うところだった。
「……悪い事はしてないよ。私はただ、好きな人と一緒に居るだけ」
「……大丈夫?」
「……もちろん」
明け方近くに目をさました。
天井を見つめる。
隣で寝息をたてているシジを見つめる。
部屋を見回す。
……そうか。ホテルに居るんだ……。
自分が裸で寝ている事に気づき、事の重大さを認識する。
夕べ二人が結ばれた後、シジは体を震わせ、何か重大な犯罪を犯したかのように、猛然と、おびえだした。
カジムはそんなシジの姿が悲しかったが、カジム自身も、罪悪感を感じないと言えば、嘘になる。
……自分は任務から、そしてあの町から……逃げたんだ。
間接照明の届かない闇を見つめながら、先の見えない明日からの不安を、漠然と感じた。
明日からの生き方すら、見当がつかない。
喉がカラカラに渇いていた。
……遠い町に行って、シジと小さな家庭をつくろう。
私が異星人だという事実は隠して。
赤ちゃんを二、三人産んで、子育てに専念するんだ。
子育ては忙しいから、任務から逃げた事すら、私は忘れるだろう。
良い妻をやって、良い母をやって、ささやかだけど大切な生活を続けて。
そうやって生きていこう……。
立ち上がってカジムは服を着始める。
シジの眠りを妨げないよう、音をたてないように服を着た。
喉がカラカラだ。
確か、一階に、二十四時間やっている、ティーラウンジがあった。
部屋を静かに出て、長い廊下を歩いた。
喉はカラカラで……そして、胸が苦しい。
エレベーターで一階まで降りる。
ティーラウンジに踏み込んだ時には、体の不調はピークに達していた。
倒れこむように着席し、注文を済ます。
……とにかく、この喉の渇きさえ取れれば、生き返る気がする……。
あたりは薄暗くて、ムードたっぷりだった。
夕食時に入ったレストランより、はるかに多くの客が居た。
飲み物が運ばれてきて、ガブ飲みしたが、いっこうに喉の渇きは去らなかった。
カジムは胸をかきむしった。
「そんなに罪悪感を感じなくていいのよ」
目を上げると、突然、正面に女性添乗員が座っていた。
「……なぜ……」
カジムは目を見開いて絶句した。
「……いいのよ、もう」
女性添乗員は笑みを浮かべて、足を組み替えた。
「任務を捨てて、シジと逃げる。あなたがそう決めたのなら。……あなたが
本当に、そうしたいのなら、とめないわ。許してあげる。あなたも、あなたを許しなさい」
カジムは、自分の胸元をつかんでいた指をゆるめた。
「……私を……責めないの?」
あれ程高圧的だった女性添乗員の変貌ぶりが、信じられなかった。
女性添乗員は高笑いした。
「……なぜよ。私があなたを責めるとでも?」
「……違うの?」
「違うわ。私はあなたを責めない。誰もあなたを責めない。あなたも、自分を責めてはいけないの」
突然、胸のつかえが取れた気がした。
全身が軽くなる。
任務がどれ程自分に重くのしかかっていたか、改めて認めざるを得なかった。
どんなに強がっていても、心の深いところで、強い呪縛となっていたのだ。
女性添乗員の言葉で、カジムは心底、救われた思いがした。
「あなたは新しい人生を選んだの。……だから私たちももう、会う必要がなくなったわ。
……さようなら」
女性添乗員が手を差し出してきた。
カジムは無言で握手した。
カジムはふいに泣きそうになった。
この時、初めて知ったのだ。
自分が女性添乗員を、どんなに愛していたかを。
女性添乗員に抱きしめられたいという、すさまじい程の衝動が、体の底からわき上がり平静を保つ事が不可能になる。
カジム自身が、そんな自分に、全く面食らっていた。
気の利いた事を言おうとしたとたん、涙だけが勝手にポロポロ出てくる。
カジムはそのまま、しばらく泣いて、女性添乗員は冷静にそれを見ていた。
ようやくカジムが泣き止むと、女性添乗員はすぐに立ち上がった。
「私、行くわ」
カジムもどうにか落ち着いてきていた。
「……あの」
カジムは女性添乗員を見上げた。
「……私の記憶は?」
「……記憶? 今のあなたに必要かしら? 新しい人生を歩き始めたあなたには、むしろ足かせになると思うけど……。『忘れる』って、素晴らしい事よ」
「新しい人生と記憶には……何の関係もありません。
過去を知っても、私は大丈夫。……むしろ元気に生きていけるわ。
……それに、知りたいの。やっぱり思い出したい。……当然でしょ?」
すっかり冷静さを取り戻したカジムは、そう反論した。
「思い出したい?」
女性添乗員は皮肉な笑い方をした。
「私はおすすめしないけど……。でも、もし、本当にあなたが思い出したいと思うなら、きっと思い出すでしょうよ。……じゃあね」
一人、取り残されたカジムは、しばらく自分の注文したドリンクをボンヤリと見つめていたが、ふと、もう喉の渇きがなくなっていた事に気づいた。
……新しい人生……。
そう思うと急に体も軽くなる。
そうだ。
カジムは、義務から解放されたのだ。
ラウンジの外は、うっすらと夜が明けていた。
カジムは立ち上がり、まるで、生まれ変わったかのような軽やかさで、部屋に戻った。
部屋のドアを開けると、ベッドに居たシジが歩み寄ってきた。
そんなシジに抱きついた。
「遠い町で暮らしましょう。子供は二人。……ううん、三人。私、いい奥さんになるわ!」
シジは少しとまどいながらも、「そうだね」と言って、強くカジムを抱きしめた。
その後、シジは部屋のお風呂に入った。
その間、カジムはベッドに寝転び、テレビを見た。
全ての局が放送しているわけではなかった。
「お断りします」
窓に立って背を向けている女性が、テレビの中でそう言った。
ドラマか映画なのだろう。
「……このとおりです」
研究者風の風貌をした高齢者が、土下座をしながらそう言った。
「どうか、コイツにチャンスを与えてやってください」
高齢者の男がそう言って顔を上げた時、カジムは「おや?」と思った。
チャンネルを切り替えるのをやめて、画面を見つめる。
「……話はついているんです。準恩赦的な例外措置として、コイツに大きな仕事をさせるつもりです」
「つまり、この人選を国も認めたと……?」
「そのとおりです」
「本当は、この子のためではなく、あなた自身の、研究者としての野心を満たしたいからなのではないですか?」
「もちろん……興味あるプロジェクトだと思っている事は、否定しません」
「このプロジェクトは、以前、失敗しています。難しいのです」
「難しいとは思いません」
「あなたは難しさを、理解していないのです。前回のときは、任務についた人間が、結局、途中で挫折して帰還してしまいました」
すると、高齢者の男の隣で、土下座し続けていた女の子が、初めて顔を上げて言った。
「ならば私の記憶を消してください。帰ってきたいと思うだけの楽しい思い出は、新しい人生に船出する時、邪魔になります」
カジムは心臓が止まりそうになった。
女の子は……カジムだったのだ。
話を聞いている女性は……あの女性添乗員だ。
「お願いです……」
テレビの中のカジムの声が涙でうるむ。
「この星の、私たち一族に、御慈悲をください。
これでは私たち一族も、この国の人たちと共に、大陸ごと、海の藻屑と化すだけです。……その前に……政府を出し抜いて、私たち一族だけの安住の惑星を築きたいのです。
……いえ、この大陸が沈むより早く……我々一族がミギスクの末裔だという事だけで、また微罪で、大きく裁かれるでしょう」
テレビの中のカジムは両手で顔を押さえ、わっと泣き崩れた。
女性添乗員は眉間にしわを寄せて考えていたが、言った。
「……ごめんなさい。やはり、無理よ。お断りするわ」
画面が急に消え、全く映らなくなった。
カジムは消えた画面をただただ見ていた。
……知っている。今の場面を知っている。
否、思い出した。
あの研究者風の男は自分の父だ。
女性添乗員は……、そう、宇宙人だ……。
大陸には、数種類の宇宙人グループが住み着いていて、彼女はそのグループの関係者として、縁あってカジムの父からの折衝を受けていた。
カジムは女性添乗員に、この『幻覚の惑星』に自分を乗り込ませてくれるよう、懇願に懇願を重ねたのだ。
シジとカジムは、車で新しい町に入っていた。
「この町なんて、どうだろう?」
シジはあたりを見回しながら言った。二人は新生活を始める土地を探していた。
しかし、そのわりには、二人の間にウキウキした会話もなく、車内は絶えず沈みがちであった。
時折、どちらかが冗談めいたセリフを言って盛り上げようとしたが、いつも成功しなかった。二人は結11局、翌日も、別のシティホテルにチェックインし、レストランに入った。
「どうしたの?」
「なにが?」
「食欲無いの?」
シジの指摘どおり、カジムは新たな記憶の出現以来、食欲がわかなくなっていた。
「カジム……何か……、変だよ」
「……シジこそ」
カジムの目からは、シジまでも少し様子が変に見える。シジが沈んでいるのは、カジムが沈んでいるせいなのか?
「……何か、思い出したの?」
シジがおずおずと聞いてきた。
……本当のことを言うべきだろうか? 思い出した事が、あると……。
「……エマネエの事……で、何か……思い出したんでしょ?」
シジにそう聞かれて、カジムは首を振った。
「……そう。……ならば、よかった」
シジは安堵のため息をつきながら、そう言った。
宿泊の部屋に行き、固いソファにボンヤリ座っていた時、カジムはふと、さっきの会話が気になり始めた。
「……何か、知ってるの?」
カジムは、外の景色を見ていたシジにそうたずねた。
「何が?」
「私の記憶の事。……さっき、エマネエが、どうとかって……。私の記憶の中で、エマネエが何か……」
「知らない!」
急に顔が赤くしたシジが、そう叫んでトイレに駆け込んだ。
そんなシジを見るのは、初めてだった。
二人はその後、何日も何日も連泊したが、同じ時空間を共有すればする程、ムードは重苦しさを増していった。互いに黙り込み、互いに別な何かを考えていた。
深刻な点は、カジムが食事を摂れないことだった。
シジに食事を摂るようにすすめられても、カジムは抑うつ状態から抜け出せなかった。原因は、前に泊まったホテルのテレビによる、新たな過去の記憶の出現だった。
カジムはある日、シジの腕の中で、涙ながらに、とうとう打ち明けた。
限界だった。
二人はベッドの中に横たわっていた。
「……この星に来たのは……、義務じゃなかったの……。私。……思い出したのよ。お願いしてお願いして、この星に連れて来てもらったの。自分で……選んでいたの。やらなければならない、のではなく、……この星で仕事をやりたかったの。でも、それがどんな仕事か……、それはまだ思い出せないんだけど……」
黙って見つめあった。
「……カジムの吐いた息を僕が吸って、僕の吐いた息をカジムが吸う。
……僕らは同じ部屋の空気の中に居る。……君の呼吸が、この部屋を素晴らしく癒していく。君の呼吸が……僕を信じられない程、生かしていく。
……ああ、僕は今、カジムの呼吸を独り占めしているんだ……」
そう言ったシジの瞳から、ポトリと涙がこぼれた。カジムはシジの言っている事が今一つわからなかった。
そしてシジはさらに言った。
「ありがとう」
その翌日。
事態は急展開した。
食事も摂らずにベッドに横たわるだけのカジムに、シジは言った。シジは、ホテル内のカフェから戻ってきたところだった。
「この上の階にカフェがあるだろう?」
カジムはうなずいた。シジは抑うつ状態のカジムを一人残し、しばしばそのカフェに行っていた事は知っている。
「そのカフェのウエイトレスの女の子を好きになっちゃったんだ。彼女も僕を好きだと言ってくれた」
栄養の行き渡らないカジムの頭は、なかなか回転してくれなかった。
「つまり、僕と別れてほしいんだ。僕はもう君を好きではない。車で送っていくから、ワミの所へ戻れ。僕はこの町に住んで、新しい彼女とよろしくやる」
シジに、ワミのマンションまで送ってもらい、到着してみると、ワミとリアチは不在だった。その後ワミとリアチは何日経っても戻らなかった。
時々、廊下で素顔になっているエマネエとすれ違った。
彼は、れいの、ワミとの深夜の抱擁以来、素顔のままで生活しているものと予想された。
エマネエを見かけると、いつも反射的に頭痛に襲われた。
何か深いうずきの様にも感じられた。
思い出したくない記憶のかけらと、エマネエの存在とが関連しているように思われた。
なぜなら、このマンションまで送ってくれた、シジの車内での言葉……。
「……エマネエと仲良くナ。カジムのこの星での仕事って……彼なんだよ」
シジは何かを隠しているように思えた。
何かを知っているように思えた。
しかし衰弱していた車内のカジムに、それを追及する余力は無かった。
……そして今は、とにかくシジを忘れなければいけないのだ。彼は遠い町で、新しい女の子と居るのだから……。
ある日カジムは、リビングで一人、食事を摂っていた。
体力もすでにすっかり回復していた。
食後のお茶を入れ、キッチンからリビングに戻るときだった。
「キャッ!」
カジムは、リビングにいつの間にか入ってきていたエマネエと、思いっきりぶつかった。持っていたコップからお茶はこぼれ、エマネエはぶざまに尻餅をついていた。
「ごめ……!」
とっさにカジムは、謝罪を口にしようとしていた。見るとエマネエは、カジムの足元で、尻餅をついたまま動かない。やがてエマネエは、目玉だけをゆっくりとこちらに向けた。
……太くて濃い眉。
大きくて神秘的な目。
形の整った鼻。
少し厚めの唇。
目の下には小さなホクロ……。
そして彼は、全くの無表情だ。
エマネエの素顔を初めてまじまじと見た。そして再び襲う頭痛。カジムは目まいがしてしゃがみ込んだ。その後、気を失ったようだ。
気づくと自室のベッドの上に寝ていた。
エマネエが自分を運んだとしか思えなかった。
まじまじと見たエマネエの顔を思い出し、また強い頭痛に襲われる。
……なぜ。なぜ。この頭痛の原因は何……。
「沈む? この国も? ……いつ?」
私は母のベッドの脇の椅子に腰掛け、横たわる彼女の言葉を待った。
母は、体の弱い人だった。
「大丈夫よ、カジムが生きている間は沈むこともないわ。もっと、ずーっ
とずーっと先の話よ?」
「でも……。私たち一族の血も途絶えるのね? そうでょ?」
「違うわこの国の文明は、海の向こうの地に引き継がれるのよ」
「私は、一族の血の話をしてるのよ。この国の文明の話をしてるんじゃないわ」私は少し声を荒げた。
「誇り高い娘ね……そんなところ、あなたのお父さんにそっりね」
そうだ。
私の気質は父似である。
母はこの国に飛来してきた異星人の中で、最も最近のグループに属している者で、この星の人間である父と結婚して、私を生んだ。
異星人である母は、洞察力の鋭い、大局的なものの見方のできる人だった。
父方の一族の祖先は昔、抗争の末、別の国から、この地に漂着した。
今の貧しい生活は、父の出自に対して差別的な見方をする、政府の悪意あるやり方のせいだ。
私がこだわっている血とは、父方の血である。
ワミとリアチは、何日経っても戻らなかった。ある日の明け方、リビングの扉を開け、そこから続くキッチンに入り、水を飲んでいた。
「……うう」
低いうめき声が聞こえた。ビクッとして背後を振り向く。
何も見あたらなかった。
腰がひけながらもリビングに戻ると、差し込む月光のもとで、うつ伏せに床に倒れている男がいた。
エマネエだ。
カジムは近くで彼を見下ろしたまま、どうしたものかと、一瞬にして色々なことを頭の中にめぐらし始めた。
「……うう……」
思わず彼のかたわらにしゃがみ込んだ。
「ど……どうしたのっ?」
先日は、倒れたカジムを、エマネエが自室まで運んでくれた。
今度は自分がその番なのか……? しかし、エマネエに触るのはためらわれた。
すると、エマネエがごろんと仰向けになった。
目だけでギロリとこちらを見た。
ゾッとするような目だった。
エマネエの顔色は青かったが、それが血色なのか、月光によるものかわからなかった。
「……水……」
エマネエが目の玉だけを、ぶきみに向けて、そう言った。カジムは恐怖も手伝って、大急ぎでコップに水を運んできた。
「……はい」
手渡そうとすると、苦しそうに顔をゆがめて、「飲ましてくれ」と言った。
「……え?」
カジムは気持ち悪さで泣きそうになった。
「……だって……。どうすればいいのよ!」
「……飲ましてくれ」
もう一度言った。
青白い月光が、ピンスポットのように照らし出すエマネエは、仰向けに倒れたままピクリとも動かなくなった。
「エマネエ!」
カジムは突然の死の恐怖におののいた。そしてコップに水をくんでくると、エマネエの頭を、自分の折ったひざの上にのせ、コップから水をゆっくりと彼の口にたらしてやった。水の大半は口の脇からこぼれていった。
カジムはエマネエの心臓に耳を当てた。
鼓動はなかった。
手首の脈もはってみたが、脈動も無かった。
カジムはいつしか恐怖のあまり泣いていた。そしてずっと泣きながら、コップからエマネエの口へ、夜が明けるまで水をたらし続けた。
母は国家反逆罪で逮捕された。
母は以前、体調の許す限り、町の占い師として働いていた。
客の一人だった出版界の人間からの依頼で、占い関係の出版物を出した。
個人的な問題に対する指南が中心だった。
にもかかわらず、国家反逆罪で逮捕され、体の弱い母は獄死した。
出版物の内容が罪にあたるとはどうしても思えなかったが、出版物の内容を突き詰めていくと、国家否定に到達すると、当局は判断した。
『一切の組織や団体、そして常識に頼らず、ただ、個人の真実に従え』
確かにこういった箇所はいくつかあった。
しかし、それ以外は全て、恋愛や友人、家族の悩みに答えたものだったのだ。
私は、この大げさな逮捕劇が、私の父方の血に由来するものと考えていた。
しかし国家も、我が家の扱いには手こずっていたようだ。
父は優秀な科学者だった。職場は、国家の管轄の研究所だった。国家は父を破格に安い給料で重宝していた。そして父は高齢だった。
父が死ねば、何をされるか分からないと思っていた。
父の存命中でさえ、母は不当逮捕をされ、私と兄は何故か、就職面接に全て落ちていた。
私も兄も、能力は十人並み以上のはずだ。
リビングのソファで、いつの間にか眠りこけてしまったらしい。
カジムは、朝日がすっかり昇ったあとに、目を覚ました。
目の前のソファにはエマネエが座っていて、中庭をボンヤリ見ている。
「あ……」
生きているエマネエを見て、思わず声がもれてしまった。彼の口の中に水をたらし続けた事を思い出す。
「……生きてるのね?」
変な質問だった。
重々しい表情で、彼はうなずいた。……とにかくホッとした。
と同時に、カジムは疲れている自分を自覚した。フラフラと立ち上がり、自室に戻ろうと思った。
「あの……」
エマネエが声をかけてきた。エマネエは暗い目をしていた。
そして言った。
「……ありがとう」
エマネエの口から、そんな言葉が聞けるのは、少し不思議な感じだった。
「……いいえ」
その一件以来、カジムはエマネエを見ても、頭痛がしなくなった。
そればかりか、寂しさからか、自然と一緒にリビングで食事を取るようになった。
心なしか、回数を重ねるたびに、エマネエの表情が柔らかくなっていく気がする。会話も少しずつ増えていった。
「……エマネエがこのリビングで倒れた時」
カジムは気になっていた事を思い切って言ってみた。
「……本当に、一瞬。……死んだんじゃない? ……心拍も、脈拍も。止まったのよ」
それを聞くとエマネエは「……そう」と、ボソッと言った。
「自分ではどう思う?」重ねて聞いた。
「……わからない」
エマネエは伏目がちに無表情で答えたあと、ギョロッとこちらを見た。
ゾッとするような目だった。時々彼はこんな目をした。何を思っているか読めない目だった。
しかしその時だけは、急にエマネエの目が細くなった。
そして鼻をムズムズさせると、彼は大きなくしゃみをした。
カジムはびっくりした。
エマネエがくしゃみをした瞬間、彼の鼻の穴から金属片のようなものが出た。
「……また、あなたね」
図書館から出ると、出入り口で待ち伏せしていた男に、私はため息をついてそう言った。
「……少し、俺と話を……」
男はそう言いながら、歩き出した私の後からついてきた。
「あの……何度、話しても、同じだと思いますけど」
私は男をにらみつけながら、そう言った。
「もう一度、考え直してほしい」
「……嫌です」
男は色々な事を言いながら、結局、家まで着いて来た。
「いいかげんにしてください。警察を呼びますよ」
「警察も、君の敵だろ?」
男がそう言い終わる前に、私は玄関を閉めた。
母の死後、兄は独立した。
父は研究が忙しい時は、何晩も帰って来ない。その頃、父は丁度そんな時期にあたっていた。
男は執拗に私につきまとった。
私は正式に就職できず、週に数時間、近所に家庭教師のバイトに行く以外は、図書館に通っていた。読む本は易学関係のものだった。
「お母さんと同じ道を志すの?」
図書館の一角でかけられた声に振り返った。
いつもの男だ。
急に声を掛けられた驚きと、母の名を口に出された事への憎しみで胸がいっぱいになる。
「来ないで」
しかし男は私をコーナーに追い詰めた。背後は壁だった。
逃げられない。
人気の無いコーナーだった。
「……頼むから考え直してくれ。カジムのお母さんの名誉回復のためにも。
……そのチャンスを俺にくれないか?」
私は男の顔を間近で見た。母を殺した憎い男だ。憎いと同時に、私はこの男が恐かった。
……太くて濃い眉。
大きくて神秘的な目。
形の整った鼻。
少し厚めの唇。
目の下には小さなホクロ……。
覇気のある面差しには、いつも圧倒される。特に目を見ると、心ごと飲み込まれそうになる。この男には母の死後、初めて会った。
でも、初めて会った時から、私はこの男に惹かれていたのかもしれない。
男に、誰にも持っていない、強い生命力を感じていた。
キラキラした命がまぶしかった。
「ただ易学を勉強しただけでは、いい占い師になれない……母はそう、言っていたわ」
数日後、男は私の家のリビングのソファに座っていた。
「……理屈だけではない、と?」
男は上目遣いに私を見てそう言った。私たちはお茶をすすった。
「僕は君のお母さんに心酔していた」
男は遠い目をしてそう言った。
男は元々、街角で占いをしていた母の常連客の一人だった。
「……僕も君の母さん同様、常々、この国には疑問を感じていた」
「……いい思いをしているくせに?」
男は若き実業家で、一代にして中堅出版社のオーナーになっていた。
「……母は……」
私はうつむいた。
「実は占いでさえも、否定していたの。自分を信じずに占いを信じるのは間違っている。それを訴えるために私は占いを使っている……複雑よね?」
私は笑った。
「君の母さんは、思いを全て主張しきってないと思う。……その部分を本にしたい」
「無理よ」
私は言下に言い放った。
「カジムの協力が必要なんだ」
「今度は私を、……監獄行きにする気?」
この時ばかりは、私は彼を真剣に、にらみつけた。
母は、この男の勧めで出版し、やがて逮捕され、獄死した。
「そんな事はさせない」
男は、私をはるかに上回る気迫で言いかぶせてくる。
「……無理よ」
私は涙ぐんだ。
……なんて男だろう。なぜ、私たちをここまで追い詰めるのだろう。
「この国を変えたいんだ」
私は首を振った。
「無理よ」
「君には迷惑をかけない」
「こうして私を追い回す事自体、すでに迷惑よ」
「俺を信じてくれ」
「嫌よ! もう帰ってよ、エマネエ!」
私は男に泣きながらそう言い放った。
その時、父がリビングに入ってきた。
帰宅したのだ。
泣いている私と、母を死に追いやった男を交互に見た父の顔がみるみる気色ばむ。
「なっ! ……何をしているんだ君はっ! か、……帰れっ!」
「記憶はその後、回復した?」
近所の喫茶店で、カジムは女性添乗員と、向かい合っていた。
もう二度と会えないと思っていた。しかし、彼女は以前のように、突然と目の前に現れた。
「記憶は……回復しないわ」
飛び上がりたいほどの再会の喜びを押し隠しながら、カジムは冷静に、そう答えた。
女性添乗員の方といえば、カジムとの再会に何の感慨を持っていなさそうに見えたからだ。
「遠い町のシティホテルのテレビドラマで、私の過去をやっていたわ。でも思い出したのはそれだけ。……あれは、あなたのしわざだったの?」
カジムは疑問を投げかけた。
「……まさか。あなた自身の力でしょ」女性添乗員は不敵に笑った。
「ね……。どうしても、答えて欲しい事があるの」
すると女性添乗員は、目を伏せて、あいまいに微笑しただけだった。
「……この星の人たちは……。ワミやリアチや……シジたちは……、人間なの? ……妖精なの?」
女性添乗員は足を組み直した。
「……いいわ。……彼らは、木の精なの。人間の姿は仮の姿。彼らの潜在意識は木に戻りたがっている。ずい分、長いこと……。彼らは木になる日を、待ち続けているの」
「……木……」
カジムはシジの瞳を思い出していた。
そして彼の唇を……。
シジは人間そのものだった。
「……待ち続けている……って」
「そうよ、木になることを。本来の形に宿ることを待ち続けている……でも、なれないの……」
「なれない……?」
「彼らが、木になるには、人間が必要なの。つまり彼らにとっての愛する対象が必要なの。そういう必要性を、彼らは、選んだの」
カジムは黙って、女性添乗員の言葉を考えていた。
そして、その後、言った。
「……エマネエは、何者なの?」
女性添乗員は、含み笑いをした。
「何者だと思う?」
そう聞かれたカジムは、自分の中の秘かに持ってた予想を、はっきり口にだしてみた。
確かめずにはいられなかった。
「……ロボット?」
私はエマネエの申し出を受けて、本作りに協力する事にした。
エマネエ曰く、「著者名は、この俺だ。内容は君のお母さんの……未発表のメッセージと、あとは、易学の一般理論。君と君のお母さんの名前は、完全に伏せておく。俺なら……カジムと違って、逮捕される恐れは無いさ」
私は二階の自分の部屋に、エマネエを通した。
最初は雑談から始まったが、徐々に本題にはいる。
私は、母が生前、自分に教えてくれた事を、少しずつ思い出しながら話した。
「……本当は、父の祖先の話のはずなの。でも、父より、母はよく知っていたんじゃないかしら? 何しろ、気が遠くなるほど、昔の話なの……」
私はゆっくり言葉をつなげながら話した。
この文明大陸の以前に、この第三惑星には幾つかの文明大陸が隆起し、そして消滅する前は、世界をつなぐだけの巨大大陸が栄えていた。
その世界最大文明のエッセンスを、いくつもの文明の興亡を乗り越えて引き継いでいるのが、父方の祖先の血統である。
「……でも母は『血統』という考え方もひどく嫌っていたわ」
私は苦笑した。
「……だろうね。わかるよ」
傲慢さとは一線を画す意味での、個人の内面における超越性しか、母は信じなかった。
外部への依存を否定する人だったのだ。
同じ理由で、母自身が宇宙人であるにもかかわらず、宇宙人たちを恐れたり崇めたりする心理は、自分の内面に存在する超越性に注目せず、信頼しないときに発生するとして、批判的に見ていた。
また、彼女に言わせると、宗教組織や過剰な刑法、そして常識は、結局、外部から個人をコントロールしていくエネルギーだと言う。
これら母の生前の言葉全てを、いっぺんに思い出せるわけではなかった。
本作りは長期にわたった。
エマネエはこの件に注力しているように見えた。
「ほかの仕事……、大丈夫なんですか?」
ある日、私はたずねた。
「最初は君の母さんの死に対する責任上、今では……」
エマネエはじっと私を見つめた。
私とエマネエの間に熱い沈黙がうずまいた。
そして私たちは、やがて恋人同士になっていった。
「でもエマネエは、あなたが思っているようなロボットじゃないわ。
彼の体はもはや全部が全部、金属の塊ではないはず。
ワミもリアチもシジも、よく心得ていた。彼を愛し、大切にすることで、原子単位で変化を起こせる事を。エマネエの体が人体細胞化する事を。
……でも、彼らのエマネエに対する愛情は義務なんかじゃないのよ。
彼らは本当に愛しているのよ、エマネエとあなたを。
この星の人たちは長い間、あなた達の出現を、本当に長い間待ちわびていたんだから。
あなた達のおかげで、彼らは木の精として、本来の姿に戻れる可能性が出てきた。
ワミ家の人々は、あなた達をもてなし大切にする事によって、この星を救う役目をする、選ばれた光栄ある家族なの。それに救われる事になるのは、この星だけじゃないわ。
カジムの元居た星・第三惑星の人たちをも救う事になるのよ」
先日の女性添乗員の説明が頭の中でリピーティングされていた。
最近では、近所の喫茶店へ行くと、しばしば女性添乗員が突然現れるのだった。
カジムは自室の窓のカーテンを開ける。
窓ガラスの向こうには、夜明け前の広場が映っていた。
外側からグルリと囲んだ照明が、広場に集う町の人々を照らし出している。
彼らは朝日を拝みに来ているのだ。ワミとリアチが不在のままなので、カジムはその儀式にずっと参加していない。
参加していないのは、エマネエも同様のようである。
カジムは、東のいまだ暗い空を見守り続ける群集を、部屋の窓からながめながら、再び女性添乗員の言葉を反芻していた。
そして考える。
……ワミもリアチも、よくエマネエを抱きしめていた。
エマネエが大事な存在だと、そして私が大事な存在だと、彼らは言っていた。
彼らはエマネエを愛する事が、彼を人体化させる事だと知っていたのだろうか?
……シジは?
シジはどこまで知っていたのだろう。
それに……。
エマネエを人体化させたいのなら、なぜ、ワミとリアチの不在が長いのだろう……・。
なぜ今は、エマネエを愛する事を、放棄したのだろう……。
「カジム」
呼ばれて振り向いた。
自室のドアが開いていた。さっきトイレから帰った時、閉め忘れていた。
入り口にシジが立っていた。
「なぜ……」
その後、言葉が出ない。
暗いシルエットをまじまじと見る。
シジより、大きい。
「エマネエ……なの?」
「……うん」
冷静に見てみると、シルエットはエマネエそのものだ。
第一、シジがここに居るわけがない。
薄暗い廊下からの逆光でエマネエの表情は見えない。
「……何?」
カジムは身構えた。
「……広場に、行かない?」
「……これから?」
「うん」
「エマネエは行くの?」
「……ああ」
「私は……やめておくわ」
「そう」
エマネエは去った。
カジムはベッドにすべり込んだ。
時々、マンションの中に、シジが居るような気がしてしまう。
シジはカジムを捨てて、別の女の子と遠い町に居るのに……。
忘れたつもりのシジが、今もカジムを支配し続けていた。
天井を見つめる。
……天井に浮かぶシジの笑顔。それが消えたあとに浮かぶ、エマネエの硬い表情……。
カジムはベッドを飛び出していた。
「……エマネエ!」
マンションを出た暗い通りで、エマネエの後ろ姿に向かって叫んでいた。
走りに走った。
街灯の下、立ち止まったエマネエが、こちらを見て待ってくれている。
夜明け前の闇の中、外殻のにじんだオレンジ色のライトに、エマネエは暖かく包まれていた。
カジムも追いついて、オレンジ色の中に飛び込む。
一緒に街灯の優しさの中に居た。
二人は並んで歩き始める。
「……久しぶりね。……朝の広場」
「……ああ」
東の空だけが様子が変わってきていた。
背後で、けたたましい自転車のベルが鳴る。
乗っていた人も、暗さのために、カジムとエマネエに気づかなかったようだ。ぶつかる寸前で呼び鈴が響いた。
「ごめんなさーい!」
通り過ぎた自転車から、謝罪の声が投げかけられた。
エマネエはとっさにカジムの体を押しやり、道脇の塀まで逃れていた。
カジムは塀に押し付けられていた。
エマネエは塀に両手を付いて、カジムの左右をふさいでいる格好になっていた。
カジムとエマネエは互いを見た。
エマネエが急に顔をしかめて、塀から両手を離した。
彼は右手の手のひらの一部分をペロリとなめる。
「……どうしたの? ……血?」
「……ああ」
二人は歩き出した。
……エマネエは、もうロボットなんかじゃない。ロボットに血は流れない……。
「左手は? ……どうなの?」
カジムは足を止めて、エマネエの左手を指差した。
エマネエも足を止めて、左手をカジムに見せた。カジムは手にとって、まじまじと、彼の手のひらを見た。血は出ていないようだ。
「どう見てもロボットじゃないよね。感触も人間の手だもの……」
カジムは思わずつぶやいた。
エマネエは黙ったまま、何も答えない。
エマネエの左の手のひらや甲を、押したりさすったりしながら、よくよく観察した。
金属っぽさはまるで無い。
そんなカジムを、じっと見守っているエマネエの視線に気づいて顔を上げる。
弱い街灯に照らされるエマネエの顔。
彼の瞳の中で街灯が揺れる。
カジムは再び懐かしさに襲われた。
……なぜ、懐かしいの?……
カジムはそっとエマネエの顔に触れた。
柔らかくて若い肌。
金属なんかじゃない。
それとも、もっと深いところに、彼の金属の原子はサバイバルしているの?
エマネエの唇を形どおりになぞってみた。
そのしぐさを制すために、エマネエの手は、唇をなぞるカジムの手を取り押さえた。
「……僕はロボットじゃない」
エマネエは首を振って、穏やかに言った。
エマネエはゆっくりとカジムに口づけた。
カジムはその時、彼の体の中で、まだ生き残っているわずかな金属原子が、このキスで、また少し溶けて柔らかく変化していくシーンを想像した。
変化するのはエマネエの組成だけではない。
カジムの心の中の、固い何かも、その時同時に溶けて、そして変化していった。
それは互いに同じだった。
『依存への警告』と銘うち、著者名をエマネエとした本は、発売以来、一部の人たちの間で評判を呼んだ。
「依存……。警告を発したい依存は多いが、とりわけ、ここでは国家への依存を指摘したいと思います。国家への依存によって一人一人の力を高めることは少ない。本来、一人一人の中に他者に対する愛情が確立しており、世界が一つである認識があれば、ほとんどの福祉政策、経済援助政策、保安政策、教育政策らの大部分は、開放系のコミュニティー自治や各種ボランティアによってカバーし得る課題であり、国家に依存し、それがために国民が、制度に過剰にコントロールされる必要がないために、結果として存在意義
が薄くなるはずのものである。しかし現実には、それらが今、強く求められ、それらを一つの軸とした法律が大量生産されている事実は、現代の人間力がいかに弱体化している事の証左となる。個人の人間力弱体化の度合いと、制度依存の度合いは比例している」
この本の注目度は低かった。
にもかかわらず、しばらくしてエマネエが国家反逆罪で、続いて同罪により私が逮捕された。
私が、『依存への警告』の共同著作者だという事は、私とエマネエが接近したために捨てられる形となった、エマネエの元恋人からの密告によって、当局に知られるところとなった。
エマネエと私が出会った時、すでにエマネエには恋人がいたのだ。
『依存への警告』は販売中止となり、エマネエは執行猶予で釈放。
私は死刑を宣告された。
私が実質的な著者と見られたからだ。
これは、心情的には、誰が見てもおかしな裁判だったが、当時、皇帝の権力も、公布された法典の力も絶大で、国家を非難した者、特に首謀者は厳格に処分された。
エマネエの親戚が経済界の大人物だったため、私に、それらしい理屈付きで恩赦が下った。
その後、私とエマネエは正式に婚約した。
しかしその直後、エマネエは、国家主義的な思想を持った若者に命を奪われた。
理由は、『依存への警告』の著者名が、エマネエになっているためと思われる。
彼が殺される前日だった。
そんな運命が待っているとも知らず、私たちは国の中枢部周辺に位置する繁華街の、ビルの屋上に居た。
「あれが、私のお父さんが働いている研究所よ」
私は、中枢部周辺に建てられていたピラミッドの一つを指差した。
「『私たちの』……、お父さんだろ?」
エマネエが私の肩を抱いた。
彼は、私の父の義理の息子になる予定だった。
私たちは、二度と会えない事も知らずに見つめ合い、微笑みあった。
澄んだ風が吹いて、私の短い毛先を揺らした。
エマネエの頭のはるか後方で、穏やかな空が動いていた。
カジムが二つに千切れていた。
カジムとエマネエしか居ないマンションで、今も感じるシジの気配。
それは、シジを忘れられないカジムの内面を反映していた。
ふいにカジムの部屋をノックして、そして入り口にシジが立つような気がする。
あの、光あふれた目で……。
ふいに深夜の中庭のチェアーで、カジムを待つシジが横たわっている気がする。
世界一孤独な、そして記憶喪失であるカジムの心を溶かすために……。
ふいにマンションの入り口付近、車の横で白いセーターを着たシジが、待っている気がする。カジムを海に誘うために……。
だけど、どこにもカジムは居なかった。
どこにも居ないシジを、カジムは時折、見かけた。
そして。
確かに存在するのは、……エマネエだった。
硬い体を捨てつつあるエマネエだった。
暗い眼差しを向けるエマネエだった。
エマネエは口が重かった。
しかしその分、彼の目は多くを訴えようとしていた。
だけどカジムは、その全てを共有する事は到底できなかった。
そうはいっても、夜明け前の広場に向かう途中でのキス以来、カジムは驚くほどエマネエに対する気持ちを加速させ始めていた。
それは、今まで彼を嫌悪していたのが不思議なくらい、否、嫌悪していた分がそのまま反転したかのような対称性だった。
エマネエに対する深いうずきが、開陳されようとしていた。
母を失い、次にエマネエを失った私は、亡霊の様に生きていた。
そんな私に、ある晩の夕食の席で父は言った。
「国家に新しいプロジェクトをまかされた」
国家……、一番聞きたくない言葉だった。
母は、そしてエマネエは、誰のせいで殺されたのか?
それは、国家のせいじゃなかったのか?
だけど父は、国家に雇われている科学者だった。その日の夕食も、国家からの給金でまかなわれているのが事実だ。
私は、国家への非難の言葉をとりあえず、食事とともに飲み込んだ。
父は珍しく、酒をすすっていた。
「……この国は、遠くない将来。……沈むんだそうだ」
「……え? ……沈むって……。ミギスクのように?」
私は顔を上げた。
高齢であるにもかかわらず、仕事に追われる疲労あふれた表情の父が、そこに居た。
疲労は、仕事のせいだけでもないだろう。
妻が獄死し、そのきっかけとなった男と娘の婚約、そしてその男の死……。
立て続けの私生活のストレスは、年老いた父を打ちのめさないわけがなかった。
……しっかりしなくては……。
かろうじて私を正気にとどめているのも、父への負の衝撃をこれ以上増やしたくないという、私のギリギリの思いやりだった。
父の精神的ふんばりの理由も、もしかしたら、私に対する、同様の思いだったのかもしれない。
私たちをここまで追い詰めているのは、国家であり、私たちの血だった。
私たちが、この国の敵国であったミギスクの末えいであるばかりに、母も私も、いわれなき罪に問われたのは、明白だった。
「預言者の多くが、この国が将来、沈む事を主張しているそうだ」
国には、国家専属の精神能力者たちが、皇帝の要請に応じて、その仕事をしていた。
国家専属の精神能力者は、異星人との混血種・第三世代以降が多かった。
異星人本人たちのほとんど全部は、彼らの能力や技術を、必要以上に、この国に供与する事を好まなかったからだ。
異星人は、この惑星の人間に、その倫理力以上の力や技術を与える事を、むしろ害悪と考えていたようだ。
「……いつ? ……いつ、沈むの?」
父は、国家機関内部の人間の端くれとして、時に一般人以上の、国家情報を得ていた。
「……そこまでは、知らない。この国が沈む事が、惑星規模の災害の始まりになるんだそうだ。私が任されたプロジェクトは、……国家移住計画のための、新しい惑星開拓だ」
「国家移住……?」
私はそこに、うさんくささを感じた。
「お父さん……信じてるの?」
父は、酒で少し赤らんだ顔を静かに振って、「いや……」と、言った。
皇帝が、国家全体を移住させるわけはないと感じた。
どうせ、皇帝一族側近達中心の移住計画に決まっている。
この国が海に沈む前に、自分たちと、その周辺の人だけで、他の星に逃げ出そうという腹だ。
「まず、選んだ惑星の住環境を整える。次に、観光と銘うって、国民から莫大な観光料をとり、しかも長期滞在させて、人体に与える影響を観察するんだそうだ。
国民の体を使った……一種の人体実験だな。……かなり、長期計画だ。
私が担当するのは……そのごく初期段階の、住環境の整備だ。
……ただし、カターニキ星の理論が得られれば、だが……」
……カターニキ星……亡き母の母星だ。
一番最近にこの惑星に降りてきた異星人グループのうちの一つだが、彼らは、この惑星と最も距離を持った関り方をしていた。
今ではごく少数の者を除いて、カターニキ星の人のほとんどが、この第三惑星から引き上げた。
母は、この星に残った、カターニキ星の少数派の一人だった。
カターニキ星の援助を得られる可能性は高くなかったが、父なら交渉できるかもしれない。
カターニキ星と父は、父の妻である(同時に私の母である)女性を介して、無縁な仲ではない。
国家もそこに目をつけて、父を担当にさせたのだろう。
父が、かつてこの国の敵国の末えいだろうと何だろうと、関係無いのだ。
使えるものは使う。
しぼり取れるものはしぼり取る。
それがこの国のやり方だ。
私は熱いものがこみ上げてくるのを抑えられなかった。
「……お父さん。……このプロジェクトを成功させて……。そして皇帝を出し抜いて、私たち一族だけでその星に移住するのよ」
数週間後、私と父は、カターニキ星の科学者と面会した。
信じられない事に、奇しくもその科学者は、母の妹だった。しかし、よく考えれば有り得る話だった。
母は元々、母星では有名な科学者一家に属していた。
しかし、その母の妹、つまり叔母は、父の申し出を先週の時点では断っていた。「協力はできない」と言ったそうだ。
しかし、再度面会を申し込み、私も父に同行することにした。
この時は、国家のオフィシァルな面会ではなく、私たちはミギスクの末えいとして、叔母に会った。
プロジェクトの最終段階では国家を出し抜いて、ミギスク一族のみの移住を目的としている事を告白して、協力要請をするつもりだった。
縁ある間柄としての可能性に賭けたのだ。
ホテルの一室で彼女を待つ間、父は、「驚くなよ」と私に言った。
「……お母さんに、……そっくりだ」
それを聞いて、私の興奮を高める理由が、もう一つ加わる事になった。
私たちはドアに背を向けた形で、ソファに座っていた。
そしてドアが開いて女性が入ってくる。
私たちは、バネ仕掛けのように立ち上がり、彼女を振り返る。
父は即座に、深々と頭を下げて何か言っていたが、私は凍りついた。
女性は本当に母そっくりだった。
女性は、驚いている私の目をしっかり見据えたまま、歩を進め、窓を背に、私たちの正面に立った。
「お座りください」
女性は、私と父を促した。
私は胸がいっぱいになり、何も考えられなくなっていた。
「今日は……、あなたと個人的にお会いしているつもりです」と、父が言った。
が、その後の父の説明を、私は覚えていない。
ただただ女性の表情を見ていた。
目の伏せ方、肌の質感、はにかんだ感じの笑顔、意思の強そうな眉……。
母の面影をいっぱいに映したその女性は、私の心をつかんで離さなかった。
ちょっと油断すると、私の目は涙で濡れた。
できれば今すぐにでも、この女性に飛びつきたかった。
「お母さん」と、飛びつきたかった。
胸で泣き崩れたかった。
そして、抱きしめて欲しかった。
……抱きしめて、本当に抱きしめて欲しかった。
ほかに何もいらない。
ただ抱きしめて欲しかった。
私が我に返った時、女性は窓辺に立ってこちらに背を向け、「お断りします」と言っていた。
鉛筆のようにヒョロリとしたその人の後姿は、カジムが足をとめた為に、どんどんと遠ざかり、雑踏にまぎれて行く。
カジムはその様子を呆然と見送った。
そして、その後姿が完全に不明瞭になった時、カジムの体はようやく動いた。
もう夕方になっていた。
現実感がようやく戻ってきた。
……私。……何やってんだろ……。
カジムは近くの乗り場でタクシーを拾い、主人不在のワミのマンションに戻り始める。
セピア色を織り込んだ町の風景をタクシーの窓から眺めながら、カジムは過ぎた午後を思った。
……それにしても、シジに、……そっくりだった……。
珍しく電車で出かけた道すがら、さっきの人はガラガラの車輌のカジムの正面に座った。
カジムは失礼と知りながら、マジマジと見つめ続けた。
背後の窓から降り注ぐ午後の日差しを浴びたその人の髪は、薄色に輝いていた。
小さい、尖ったアゴと、大きな輝く目……。
その人は本を読んで、マッタリと揺られていた。
カジムなど目もくれぬ様子で。
カジムの方はといえば、興奮状態に包まれたまま、その人がシジである事を肯定し、そして否定する事を繰り返していた。それ程に似ていた。
その人が乗った駅から二つ目の駅。
その人は突然顔を上げると、サッと、電車を降りて行った。
彼が上げたその顔は、よく似てはいるが、シジのそれではなかった。
しかし、反射的にカジムも、降りた彼のあとに続いた。
その人の背中を追いかけたまま、改札から、本屋、バス、また本屋、電車と、ずーっと、気づかれぬように着いて行った。
……あの、私のこと、知ってますか? っていうか……、あなたの、お名前聞かせて頂いていいですか?
カジムは胸の中でブツブツとつぶやいていた。
……あの……、あなた、私の知り合いにソックリなんです。
……お願いです。どうか私と……お茶を飲んでもらえないでしょうか?
遠くまで追いかけすぎた為、帰りはタクシーを使うはめになった。
長い時間をかけてマンションに戻った。
まだ夢覚めやらぬ思いだった。
シジの事で頭はいっぱいで、胸は苦しく、そして疲労こんぱいだ。
それでも、マンションのリビングに一歩足を踏み入れたとたん、カジムの心は一変した。
……エマネエが、女の子と寄り添っていた。
抱き合いこそしていないが、並び立つ男女が数メートル先に居た。
カジムの血流が、緊急時の強いストレス下の環境よろしく、異常状態になる。
シジのことがいっぺんに吹っ飛んだ。
エマネエの手が、こちらに背を向けて立っている女の子の頬にそえられた時、カジムは自分でも理由の分からぬ、強いショックを受けた。
カジムの手から、知らずにバッグがすべり落ちる。
その大きな音で、エマネエと女の子はようやくカジムに気づいた。
「カジム!」
女の子は叫び、こちらに走ってきた。
女の子はグーマーだった。
「久しぶりじゃん」グーマーが、カジムの腕を触った。
「……グーマー……」
カジムはようやく平静を取り戻しつつあったが、それでも指先がまだ震えていた。
「……痛」グーマーが顔をしかめた。
見るとグーマーは左目だけが異様に赤かった。
「……まつ毛が目に入っちゃってサー。……取れないのよ。……エマネエに今、取ってもらおうと思ったんだけど……」
つまりラブシーンではなかったのだ。
「これ、……持って来てくれたよ」
少し離れた場所で、エマネエが封筒をかかげた。
「……ワミさんから、カジムあての手紙よ……。なんだか知らないけど、ウチに届いたのよ」
目を痛がりながら、グーマーがそう付け加えた。
「ちょっとトイレ借りるからね」
グーマーは、まつ毛を取るために、トイレへ行った。
ワミからの手紙が来たという事がかすんでしまう程、たとえ早とちりであったにせよ、エマネエが他の女の子と接近した事の衝撃の余韻の中に今だカジムは居た。
そして、自分が、エマネエの事で、これほどショックを受けた事実に驚いていた。
カジムは、少し離れて立っているエマネエを見た。
「……どうしたの?」
エマネエがふっと微笑しながら、そう聞いてきた。
「じゃっ! お邪魔しましたー!」
廊下でグーマーが叫ぶ声がし、次に玄関が閉まる。
ふっと気が緩んで泣きたくなる。
今日は一日中、心が揺さぶられっぱなしだった。
「どうしたの?」
エマネエが、少しいつもと違うカジムを感じたらしく、重ねて聞いてきた。
「……何でもない」
カジムは自室に行くために、エマネエのかたわら通り過ぎかけた。
エマネエがカジムの腕をつかみ、自分の胸へと勢いよくカジムを引き寄せた。
カジムは、エマネエの腕の中にしっかり抱きしめられた。
カジムの目からふいにあふれる涙。
カジムは自分の気持ちが全く分からなかった。
シジを忘れられない気持ちと、すごいスピードでエマネエに傾斜していく気持ち。
カジムの中に、全く別の人間が二人居た。エマネエは泣いているカジムに気づいたようだった。エマネエはゆっくりとカジムの髪をなでた。
「……カジム。……好きだよ」
そのエマネエの言葉を合図に、止められない運命が、その正体を現し始めているのをカジムは直感した。
ガタンと玄関で大きな音がした。
グーマーが、忘れ物か何かで、戻ってきたに違いない。
カジムはびっくりして体を少し動かした。
「……いいよ」
エマネエの腕はカジムを解放しなかった。
リビングのドアを荒々しく開ける音がした。
ただならぬ気配を感じてカジムは首だけを動かした。
「……シジ……」
リビングの入り口にシジが仁王の様に立っていた。
シジを見たカジムとエマネエの二人は、やっと互いの体を離した。
幻の中で追い続けたシジが、現実に現れた事で、カジムはかえって夢を見ているような気持ちになった。
が、そこには確かにシジが立っていた。
カジムの、終止符の打てない夢が立っていた。
体を離したばかりのカジムとエマネエの二人を、シジは深刻な表情で見ていた。
シジは以前より少しやつれた様に見える。
目だけが、異様にギラギラしていて、鬼気迫るものすらあった。
「……分かっている」
シジが口を開いた。
「……僕にはもう、……可能性は無いのかもしれない。でも、ワミの手紙に同封された僕の手紙を読んでくれたかい? ……カジム」
カジムは首を振った。
シジは、カジムとエマネエを交互に見ながら、挑戦するような眼差しで、言葉をつなげていく。
「君たちがここで、二人の生活になれば……、君たちは気づくだろう。いや、カジムはどうせ、もう、思い出したんだろう?
この星の我々ではなく、カジムがエマネエを愛する事こそが、彼を人体化させる為の最後の仕上げになる事を……。それが……本当のカジムの仕事だもんね……。でも……。やっぱり僕にはカジムが必要なんだ。
それが……。二つの星の約束を破る事になったって。
もう、自分の気持ちに嘘はつけない。もう、嘘の生活もこれ以上続けられない。この事をここに言いに来ることを、ワミも許してくれた。
二つの星で交わされた約束の事はいいから、あとは僕とカジムとエマネエの三人で決めなさいって……。
でも……。結局、これは、カジムの決断だと思う。僕をもう一度選んでくれるかどうかの……。僕は……待ってるから」
そう言うと、シジは風の様に立ち去った。
「シジ……!」
カジムはシジを追おうとした。エマネエはカジムの腕をつかんで、それを止めた。
「離して!」
カジムはエマネエの手を振り払おうとした。しかし、エマネエの力の方が勝っていた。エマネエは無理やりにカジムを抱きしめた。カジムはエマネエの腕の中で、メチャメチャに暴れた。
叔母のマハシは、プロジェクトに協力し、そして女性添乗員として、『幻覚の惑星』まで同行及び監督してくれる事を、とうとう約束してくれた。
しかし、マハシからは、協力と引き換えに、条件が出されていた。
「ミギスク一族だけではなく、この国全員、そして最終的にはこの惑星住民全体を、救済の対象とする事」というのが、それだった。
私と父は、マハシの言う条件は受け入れかねた。
長年にわたって我々ミギスク一族を迫害し、さらに母とエマネエを死に追いやった国家中枢部を決して許す事はできない。しかし、この国の国民や、他の国の国民を、救済しない理由は無い。
父は、この難問を解く事ができないまま、プロジェクトに着手した。それは何よりも、国家から、父に一任されたプロジェクトであったからだ。
着手しない事は、命令違反になる。
しかしどこかのポイントで、私と父は、国家中枢部を出し抜く事を実行するつもりでいた。
そして、それがために、マハシの条件を反古にし、ミギスクの末えい以外は一切、移住できない将来の可能性を、私と父は知っていた。
もちろん、この事はマハシには話せない。
プロジェクトは、マハシのアドバイスによって、進められた。
マハシの母性・カターニキ星と深いつながりにある、スト星、通称・『幻覚の惑星』が、国家の移住先に決定した。
スト星は、植物と少数の動物から成る惑星で、人類はいなかった。
スト星の植物は、微生物や惑星の一部に生育している少数動物たちとの、呼吸媒介の交換状態から一段の進化をする方向にあった。
もとは、スト星に、生命の進化の方向を意図し、手を加えたのは、カターニキの科学だった。
カターニキの科学者たちは、スト星に、そろそろ、人類を登場させたいと考えていたし、植物を存在させる妖精達の意思も、飽和状態に達している事をみてとっていた。
彼らは明らかに、もっと高次な存在、つまり人類との呼吸交換を欲し始めていた。もっと高次な進化的刺激と、存在的交換を、始める期に直面していた。彼ら・妖精たちの一部は、カターニキの科学によって、求める形態に物質化していた。
しかし、人類形態に物質化しても、エネルギー摂取の生理機能は植物のままだった。つまり、彼らは、二酸化炭素を吸い、酸素を吐く炭酸同化作用によって生きていた。
彼らはもっと高次な存在の二酸化炭素と、彼ら自身の呼気・酸素とを交換する事を夢見ていた。
夢見ながらも、何百年も過ぎた。
突破口はなかなか開けなかった。
過去にも、人類の移植実験が行われた。が、上手くいかなかった。
カターニキは、私たちの要請の結果、これが二度目の移植実験となる。
一度目の実験は、ヒカルイ星の人類を移植したが、女性モデルが、スト星、通称・『幻覚の惑星』にて精神に異常をきたし、計画は挫折した。
私は今回、移植実験の女性モデルとして名乗りをあげた。
男性モデルで名乗りをあげたのは、ミギスク一族の一人で、私の従兄弟にあたる男だった。
この二人が、スト星、通称・『幻覚の惑星』で、人類移植の実験に名乗り出た二体の男女だった。
この男女を始点として、スト星に人類を繁殖させる事になる。
健康診断の結果、二人の生殖機能に問題が無い事が認められ、国家もこの人選を了承した。
私たち二人が、ミギスクである事も、血液関係が近いことも、支障にはならなかった。
国家は、カターニキによって行われた前回の、ヒカルイ星の人体を使った時の失敗の経過を知っていため、今回の二人の男女も、単なる捨て駒になる可能性を十分わきまえていた。
よっぽどの幸運と、死をも厭わない覚悟の、人体実験用の二体の男女が居なければ、前回同様、道半ばにして計画は頓挫し、再び国家予算を掛けるはめになる。
エマネエを暗殺によって失った私に、人体実験の女性モデルとなる事に、もはやためらいはなかった。
国家予算を使った実験で、最終的には国家中枢部を出し抜いてミギスク一族の移住を果たすという、国家への復讐心しか無かった。
にもかかわらず、それだけ強い覚悟の私が、男性モデルとなるミギスクの従兄弟と初めて顔を合わせた日、大きな不安に包まれた。
彼は、実験とはいえ、私の実際上の将来の夫となる男の子だ。
叔母のマハシからは、男性モデルとの間に十人の子供をもうける事を最低限のノルマとして課されていた。
十人以上の子供たちが産まれた段階で、第二陣、第三陣と、入植が加わる運びとなっている。
この彼と、結ばれ、そしてスト星にて子孫を繁栄させる布石とならなければいけないと知った時、私は決心とは裏腹に、素直な身体反応として病気になってしまった。
私は、精神的な事が、すぐ体に現れるタチだった。
原因不明の体調不良は長きに渡り、私のせいでプロジェクトは宙ぶらりんになったまま、いくつもの季節が移り変わった。
カジムは、身支度を整え終わったあとだった。
エマネエは、カジムの部屋の入り口に立ちんぼになったままで、部屋に踏み込んでこようとはしなかった。
「……シジのところへ、行くんだね?」
エマネエにそう質問されたカジムは、こっくりとうなずいた。
昨日シジが突然現れ、そして、ゆうべ一睡もしないで、出したカジムの結論だった。
カジムはエマネエの目をそらしたままだった。
「僕は、決して、カジムを止めるつもりはないよ。安心して」
カジムはまた黙ってうなずいた。
しかし、カジムの決心は、早くも揺らぎ始めていた。エマネエへの愛しさで、胸がいっぱいになっていく。
「ただ僕は、カジムに、ありがとうを言いたい。……カジム、今までありがとう」
カジムはうつむいたまま、首を激しく振った。
「僕はカジムのおかげで人体化が完了したよ。だからもう僕はカジムを必要としない。だからカジムも気にせずにシジの所へ行っていいんだ。だって僕は、もう、人間だ」
そう言ったエマネエの瞳から、涙がツーッとこぼれた。
「……ほらね、証拠に……涙だって……」エマネエは、照れくさそうにそう言った。
たまらなかった。
爆発しそうだった。
カジムは全力で走り出した。
すれ違うとき、カジムの肩が、エマネエにぶつかる。
エマネエはよろけた。
カジムはそのまま、玄関を通過し、マンションの出口を通過し、泣きながら外に飛び出した。
タクシーを見つけなければいけない。
だけど、あとからあとから流れてくる涙で、前が見えない。
車のクラクションの音がした。
もう一度あわてて目をこすると、目の前にタクシーが止まっていて、カジムを乗せようとするかの様に、ドアが自然に開いた。
何も考えずに飛び乗った。
行き先を運転手に告げると、車は走り出した。
カジムは息が整うと、封筒を取り出した。
夕べ一晩、何回も何回も読み直した二通の手紙を、カジムは再び、封筒から抜き出す。
自分の決心を再確認するために。
エマネエを振り切った自分を、自分に対して正当化するために……。
抜き出した手紙を、カジムはゆっくりと広げて読み始めた。
《愛しい私のカジムへ》
カジム。元気ですか?
長く、会っていませんね。
マンションに帰らないマンションの主に、疑問と不満を持っているでしょう?
ごめんなさいね。でも、仕方の無いことなのです。
私は、カジムとエマネエが、この星にやって来て以来、ずっと、女性添乗員であるマハシ様と連絡を取り合って事を進めてきました。この手紙も、マハシ様の許可と指示を得て書いています。
あなたが、この手紙の内容を受け止められる段階に来ているからです。
いいえ。受け止めなければいけない段階に来ているからです。
私たちはマハシ様の連絡により、カジムがシジと別れ、一人でマンションに戻ってくる事を知りました。
そしてその頃、エマネエの体はほぼ柔らかくなっていました。
最後の仕上げが、妻となる予定のカジムからの愛情だというのは、マハシ様のシナリオであり、私たちもそれをあらかじめ聞かされていました。
それで、マハシ様の指示により、私と夫のリアチは、マンションを出て、あなた方二人の生活を演出したのです。
私たちは、前回の移植実験の時も、女性モデルの方を受け入れた家族です。
しかし、訳あって、彼女は、母星に帰ってしまいました。それは私たち家族にとって、いえ、私たちの星全体の妖精にとって、とても残念な出来事でした。
だけど、私たちは、再び、カジムとエマネエという、大切な方を、この星にお迎えする事ができました。
この星に二人が来る前、あなた達の星で、アクシデントが続いた事は、マハシ様から聞きました。それによって生じた、今回特有の注意点も、マハシ様から事前に十分聞かされていました。
「カジムはともかくも、特にエマネエに愛情をかけてやって欲しい」と……。
でも、それは私たちにとって朗報でした。あなた方に対する愛情を十二分に表現する事に、何のためらいがありますか?
マハシ様が私たちに説明した、『人体化ウンヌンの為の……』、などという事は、むしろ私たちが、あなた方を大事にしたい理由の、あとづけにしかすぎません。(もちろん重要性は解っていますが……)
私たちは、あなた方の様な存在を必要としています。
あなた方が、この星に根づき、繁栄して頂くことを必要としています。
あなた方の様な高次の存在と、呼吸的な愛情交換を築きたいと思っています。
あなた方の呼吸は、私たちにとって、最高のプレゼントなのです。
と言うか、あなた方の存在そのものが、私たちから見れば奇跡であり、愛そのものに感じます。
だけど、それを熟知しているシジが、暴走してしまいました。
カジムも知っている通りです。
ただ、勘違いしないで欲しいのだけど、私もマハシ様も、決してカジムとシジを責めていません。
よく考えて、カジムの本当の意思を実現して下さい。
そしてもし、エマネエを選ぶのならば、私が全力で、シジを制止します。
シジを選ぶのならば、何に遠慮する事なく、二人で本当に幸せを築いてもらいたい。
私たち妖精には、まだチャンスはあります。
もし、今回も移植計画が失敗しても(つまり、カジムがエマネエを選ばなくても)、次の計画を考えると、マハシ様は約束してくれました。
私たちは誰かの犠牲のもとに、自分の希望を追及したいと思いません。
全ての意思が一致した時、私たちは本来の姿に戻りたいと思います。
カジムの結論は、カジムだけのものです。
ワミより
《カジムへ》
まず、カジムに嘘をついた事、許して欲しい。
僕は、ホテルで、新しい女の子を見つけたと言って、君と別れた。
それは全くの嘘だ。
嘘をついたのにはいくつか理由がある。
まず。
僕は、正直、全く、おびえてしまった。
カジムの素晴らしい呼吸を一人占めした時……。
これが、この星に約束された奇跡の呼吸だという事を、まざまざと思い知ったからだ。
僕は二つの星の約束を壊した男なんだ……。
そう思うと、罪の意識で体がバラバラになりそうだった。
それともう一つ。
カジムが、心痛で食べれなくなった時……、
やっぱり、君とエマネエの結ばれる運命を壊す事なんて、とうてい無理なんだと感じ始めた。
僕は臆病すぎて、カジムを手放した。だけどそのあと、すぐに後悔した。
君が戻って、僕が、れいのホテルに泊まり続けるために戻った時、ワミが僕を訪ねてきた。
ワミから、君とエマネエが結ばれる段階に来ていると聞かされた。
僕は、正直にワミに気持ちを告げた。僕は君と別れてすぐに、君無しで生きられないと知った。
ワミは相談にのってくれた。後日、マハシさんも加わった。
数日間話し合った末、結局、カジムの決断次第だ、という事になった。
僕も、ワミも、マハシさんも、君に無理をして欲しくないと思っている。
ただ、もしカジムが僕を選んでくれるのなら、僕は待っている。
最後に泊まったホテルの部屋に居る。
シジより
カジムは二通の手紙を封筒におさめると、ゆっくりと内容を反芻し出した。
そして新たな不安を発見する。
今、カジムはシジの待つホテルに向かっている。
もし……。
カジムがシジを選び、マハシが次の移植計画を実行したら、シジはどうなってしまうのだろうか。
次の移植計画が成功したら、ある日、カジムの選んだシジは『木』に変身してしまうのだろうか?
「取り越し苦労ね」
カジムは心臓が止まりそうになった。
「……なぜ……。いつの間に」
バックミラーに映った運転手は、女性添乗員だった。
「取り越し苦労はやめなさい。次の移植計画なんて、まだ立ち上がってもいないわ。でも、もしもお望みなら、違う惑星にでも、カジムとシジを御連れしようか? ならば、彼の変身はくいとめられるわ」
カジムは黙った。
「マハシさん……」
カジムは口を開いた。
「私の決断……、間違ってないよね?」
「間違った決断なんて、存在しないと思うわ。全ての経験は勉強なの」
「……じゃあ、私を、許してくれるの?」
「だから、許しているって、以前も言ったでしょ? カジムのそのしつこい所、直しなさい」
女性添乗員に怒られて、何だかとってもうれしくなる。彼女にすごく甘えたくなる。
その時だった。
「じゃ、シジと仲良くやりなさい。彼はきっと御待ちかねよ。今度こそ私は
第三惑星に帰らなきゃいけないの。じゃあね。これでサヨナラよ」
そう言って、車は減速し始める。
「……?」
「彼女がカジムと話がしたいって。だから、彼女をこの星に昨日、連れてきたのよ。だから選手交代」
見ると、すぐ先に女の子が道に立っている。
車は女の子の前で止まり、女性添乗員は降り、かわりに女の子が運転席に座った。
あれよあれよと言う間に、車は新しい運転手を乗せて走り出した。
「こんにちわ」
女の子ドライバーは、運転しながらそう言った。
「こ・こんにちわ」
「聞いたわよ。あなた、命令を放り出してこの星の男とくっつくんだって?」
無神経なもの言いにムカッとくる。
「……あなた、誰?」
「私? 私は、ヒカルイ星の女の子。前回の移植実験で、女性モデルをつとめたのよ」
「前回の……って。あなた……。あなたこそ、途中で任務を捨てて、母星に戻ったんでしょ?」
「ピンポーン」
女の子は楽しそうにそう言って、さらに続けた。
「私、今ではね、あの時の自分に誇りを持ってるのよ。
だってもしもあの時、ただ命令に忠実に従って、二つの星を救うためだけに、自分の気持ちを曲げたら、私っていう存在は、私の気持ちは、どこに行っちゃうのよ。
それってただの、ロボットみたいじゃん」
車が徐行し、シジの待つホテルの敷地に入っていく。
「だからあなたは、自分がロボットじゃないって事を証明すべきよ。
いくら『カジムが元はロボット』だったからって、
今は、ちゃんと人間の女の子なんでしょ?」
眠れなかった。
限りなく寝返りを繰り返す。
父は研究のため、今日も家に戻らない。
私は枕を抱きしめて、そして今日の出来事を思い出して思わず泣きそうになった。
長い闘病生活から抜け出た私は今日、新しい父の研究所に行ってきた。
研究所の中でも特別な部屋に通された。
そこには、父と叔母のマハシが居て、私に一体のロボットを見せてこう言った。
「これがスト星での男性モデル、つまりカジムの伴侶になるとしたらどうかしら? スト星での計画を実行できるあなたの勇気につながるかしら?」
私が従兄弟の男の子を嫌って体調を崩し計画が滞っていたためにこうじた、父とマハシの苦肉の策が、男性モデルを『ロボット』にする、という事だった。
ロボットには頭からスッポリと布が被さっていた。
「これを、スト星、つまり現地で人体化するわ。その前段階としては、宇宙船内から始めるつもりだけど」
そう言って叔母は布に覆われたロボットに近づいた。
「物質以前の段階に精神エネルギーを使ってアクセスし、振動数を変える事によって、原子の前段階のレベルから変容させていくの。鉱物も人体も、前段階のレベルの震動数が違うだけで、成分は同じなのよ」
マハシは片眉をつり上げてそう言った。
「カターニキの科学なんだよ」初めて父が口をはさんだ。
カターニキの科学者であるマハシの前では、当国のトップレベルの科学者である父が、かすんで見える。
「『愛』は、強力な精神エネルギーなの。実体化するのよ。そして『彼』なら……、カジムも心から『愛せる』はずよ」
そう言ってマハシは、勢いよく、布をはがした。
現れたロボットの姿を思い出し、私は再び枕を抱きしめる。
涙が自然にあふれてきた。
ロボットは完全に、亡きエマネエをかたどったものだった。
衝撃的なシーンだった。
頭にそんな形でのエマネエの再会がリプレイされ、眠りを許さない。
結局まんじりとしないまま、朝を迎えた。
翌日フラフラとした頭を抱えて、エマネエが殺される前日に一緒に来た、繁華街のビルの屋上に来た。
相変わらず人っ子一人居ないそのとっておきの場所は、幸せなあの日の二人を思い出させる。
空はあの日のようにノンビリと青く、白い雲がゆっくりと流れている。
風がすがすがしくも暖かい空気を運んで、私の髪をなでていった。
もう二度と来たくない場所だと思っていた。
結婚を控えて幸せに酔っていた私とエマネエの最後の抱擁の場所になるなどと、あの時考えてもいなかった。
だけど昨日研究所で、エマネエのロボットを見て、ここにもう一度来る勇気ができた。
いや、是が非でも来たくなった。
あの日を境に止めた時間の針を動かすためだ。
ここでならそれができる。
最後に抱擁したこの場所を新スタートの場所にするんだ……。
心を切り替えるんだ。
新しい心の私は、スト星で、新しい体のエマネエと、愛し合うんだ。
結ばれてそして子孫を残す。
それは、私と亡きエマネエがかつて夢見た未来を取り戻すためでもあり、ミギスクを救うためでもあり、スト星の夢をかなえるためでもある。
私はうれしくなった。
駆け出して屋上の端に立つ。
柵の無い屋上だけに、そこは国家の中枢部近くに建つピラミッドがひときわよく見える場所だった。
ピラミッドの雄姿が大好きだった。
晴れた空をバックに、ピラミッドは美しく天を指している。
空気の隅々まで散りばめられた陽光の粒子が、目にまぶしい。
目のところに手をかざした。
私を包む陽光の白さは、睡眠不足の意識を直撃したようだ。
病み上がりと睡眠不足がたたって、目の前が急に真っ暗になる。
足がフラリと、屋上の端から外へ踏み込んだ。
踏み込んだその場所は空中だった。
新生を誓ったその場所で、私は絶命した。
カジムはシジの泊まっているホテルの一室に居た。
シジがどの部屋に泊まっているかは、フロントで確認した。
すぐにでもシジの胸に飛び込みたい気持ちはやまやまだった。が、それでも少し気持ちを落ち着けたかった。
場合によっては、今日ではなく明日シジをたずねてもいいとさえ思っている。
カジムははやる心を抑えて、努めて冷静さを保とうとしていた。
ホテルの館内を散策しながら、偶然シジと出会う事を想像してニヤけたりもした。
だけどシジと出くわす事は無いまま、あきらめてカジムは泊まっている自室へと戻ろうとして、長い廊下を歩いた。
その時だった。
部屋に続く廊下の壁の一部が、扉になっているのを発見した。
保護色になってはいるが、突き出た取っ手が、さも誘うようだった。
ゆっくりと開けてみる。
きっとホテル関係者が利用している通路なのだろう。
階段になっていた。
カジムは足を踏み入れた。
足音にすごいエコーがかかる。
何回か階段を昇った頂上の突き当たりは、とても重たい扉になっていた。
少し息が切れながらも、好奇心にかられて全身の力で、その扉を押す。
隙間から光りが少しずつ広がって、その先に飛び出てみると、思ったとおり見晴らしのいい屋上だった。
カジムは伸びをしながら、広々とした屋上を一人歩いた。
白いコンクリートは、新雪のように汚れが無かった。
まるで初めて人間を受け入れたかのような初々しい空間だった。
気持ちが良い。
屋上の端っこまで行き、低い柵に上半身を乗り出しながら景色を見る。
見渡す限り、草原と林がまだらに広がり、ごく一部は畑になっていた。
遠くのたくさんの木々を見ながら、シジたちと、あの本物の木の関係はどうなっているんだろうなどとボンヤリと思った。
シジの本来の姿が木だなんていまだに信じられない。
そしてエマネエが、ロボットだったという事も……。
ふと、ヒカルイ星の女の子の言葉が蘇える。
『いくらカジムが元はロボットだったからって、今は、ちゃんと人間の女の子なんでしょ?』
……あれは、どういう意味だったんだろう……
ここに来るタクシーの中で、彼女に言われたその不可解なセリフを、カジムはその時は聞き流した。
女の子の勘違いか、悪ふざけに決まっているからだ。
でも、もっと記憶を取り戻したい。もっと記憶があったならば、女の子のそのセリフを一蹴できたはずだ。
本当は女の子の言葉が、謎のとげとなって胸に刺さっていた。
だけど、のんびりした田園風景を見ていると、全ては夢の中の出来事にすら思えてくる。
カジムは上半身を柵にあずけて、少しうつらうつらし始めた。
少しだけだけど、眠ってしまったようだった。
目をボンヤリ開けると空が暗くなっていた。
夕立の前のようだった。
さっき見ていた景色の感じと少し何かが違っていた。
あたりが暗くなっていただけでなく、屋上の位置がやたらに高く感じたのだ。
なんと、眼下に雲を見下ろせるのだ。
それとも、異常に低い位置に発生した雲なのだろうか?
眼下に見下ろせる雲は、暗くなってきた空以上に暗かった。
雲全体が暗いのではなく、黒と白と灰色が、大きなツブツブのまま醜く混在していた。
汚染しつくされた雲の様に見え、不快な印象だ。
「汚い……。何よ、これ……」
思わずつぶやいた。
その汚い雲はあっという間にすぐ真下の視界を埋め尽くした。
雲以外、眼下は何も見えない。
黒と白と灰色の大きな粒が、生き物のようにウヨウヨしていた。
カジムはその三色をじっと見てしまった。
もっと見ているうちに、自分自身が、黒と白と灰色のツブツブの様な感じがしてきた。
まだ寝ぼけているに違いなかった。
だけど、意識は三つの粒に合流していた。
そしてカジムの意識は三つの粒そのものになっていく。
そして雲は隙間を見せながら少しずつ離散して行った。
足場を失ったカジムの意識は、隙間から少し下へと落ちていく。
落ちていきながら、意識は少しずつ雲からセパレートしていった。
雲の下に街が見えた。
意識はまだ落ちる。
街へとどんどん落ちていく。
建物が見える。
ピラミッドだ。
もっと落ちる。
ピラミッドの上部と接触し、すり抜けて内部へ侵入し、もっと落ちていく。
何かが見える。
二体のロボットだ。
男と女のロボットだ。
恐い……!
このままでは床に追突だ。
意識はあわてて、女のロボットの中へ入る事で床との追突を避けた。
カジムの不慮の死後、それさえも乗り越えてプロジェクトはすすんだ。
当初、エマネエ一体だったロボットは、カジムをかたどったものを加えて合計二体となった。
スト星・創世記のアダムとイブが、この二体のロボットだ。
「エマネエロボットに適用させる理論をカジムロボットにも適用させるだけだから」
そう言ってマハシは笑顔をつくった。
年老いた研究者は気迫に満ちた表情でうなづいた。
マハシの前では控えめだったその研究者の態度は、娘であるカジムの死に遭遇してから鬼と化した。
(何が何でも、このプロジェクトをやり遂げてみせる)
それに生きがいを見出す以外、この研究者に何が残されているだろう。
妻は獄死し、娘は不慮の事故死を遂げた。
このプロジェクトを成功させる事が、妻や娘、そしてその婚約者への弔いになるのだ。
その意見にマハシも賛成だった。
ところがある日、マハシはロボットの異変に気づく。
「カジム……」
マハシは、カジムロボットから時折、人体的なオーラが弱く出ている事に気づく。
「まさか……」マハシは戸惑った。
マハシの様子をいぶかしく思った年老いた研究者は、「エラーが?」と聞いた。マハシは首を振り、ありのままを伝えた。
「なぜ……」
年老いた研究者は困惑した。
「わからない……」
マハシも腕を組んで押し黙った。
それでもしばらくして、マハシは仮説を口にした。
「ここしばらく、カジムロボットに心を掛けて接触していたから、早くも人体化が始まったのかもしれない。でも……早過ぎないかしら。
それとも……、ひょっとしたら、カジム自身の……、意識が侵入しているのかもしれない……。アクシデントかもしれない。……原因は解らないけど……」
「まさか……それはカジムのスピリットだとでも……?」
年老いた研究者は、お手上げ、といった表情になる。
「……どうしたら……いいんだ……。プロジェクトは中止した方がいいのか?」
突然マハシは首を強く振る。
「いえ。決行よ。むしろ条件は良くなったわ……。宇宙船内ではカジムをさらに重点的に人体化させるわ。
このカジムの状態なら、時間とともに生前のカジムの記憶を、自身の記憶として認識していくプログラムを組めるわ。時間と共に発動しやすいプログラムよ。
エマネエは……ちょっと無理かな……。でも人体化させる程度の事はエマネエでも十分可能よ」
「カジム……。カジム……。愛しいカジム。
あなたが望めば望むだけ、私の腕に居てもいい。
カジム……。カジム……。愛しいカジム。
あなたが望めば望むだけ、私の愛を奪っていい。
カジム……。カジム……。愛しいカジム。
あなたが望めば望むだけ、赤子のままで眠っていい」
カジムが初めて、眠りから覚めたように意識を取り戻した時、それは女性添乗員の腕の中だった。
カジムは自分とさほど体格の変わらない女性が、自分を抱いているのをボンヤリ見上げた。
しばらく覚醒しきらないまま、女性添乗員に抱かれていたが、やがてゆっくりと、カジムは上半身を上げた。
「ここは……?」
「宇宙船の中よ。今、スト星に向かっているの」
女性の声は事務的な声だった。
さっき、夢の中でずっと鳴っていたような、優しいトーンはいっさい無い。
あの歌は夢だっのか?
それとも別の女性が、カジムに歌ってきかせていたのだったのか……?
グルリとあたりを見回す。
ほかに女性の姿は見当たらなかった。
しかしカジムは、奇妙なものを代わりに発見した。
「あれは……」
カジムは黒い帽子に黒いサングラス、白いマスクに、かかとまである長い黒いコートを着ている奇妙な人物が床に足を投げ出して壁にもたれて座っているのを発見した。
「エマネエっていうの。エマネエはあの服装をしたがるのよ」
うなだれた人形の様な奇妙なエマネエを見て、カジムは気持ち悪く感じた。
「さあ。とうとうカジムも気が付いたようだから、ビシビシいくわよ。甘い顔はいっさい無しよ、覚悟しなさい」
女性添乗員が片眉をあげて、厳しい表情でカジムをにらんだ。
何をどうビシビシいくのか、カジムは女性添乗員の言っている意味が全く解らなかった。
それだけではない。
「……私……って、誰?」
カジムは何も分からなかった。
「あなたの名前はカジム。あなたは記憶を失ってるの。これからスト星に行って、任務を果たすの。命令は私の方からビシビシ出すわ。言われたとおり、しなさい」
カジムの本当の素性がロボットだったという事を伏せて、女性添乗員がそんな事を言っているなどとは、柔らかい体になりたてのカジムは露ほどにも想像できなかった。
やがて宇宙船はスト星の上空から、地表へと近づいて行った。
人体化を完了したばかりのカジムは、今だ人体化していないとエマネエと共に、二つの星のために仕事に就こうとしていた。
「カジム」
首だけで振り返ると、マハシがこちらに向かって歩いているのが見えた。
カジムはホテルの屋上の柵に上半身をあずけたままだった。
空は穏やかに晴れ渡り、見渡す限りの田園風景が続いている。
「カジム」
もう一回マハシがカジムの名を呼んだ時、カジムはようやく柵から体を起こしてマハシに向かい合った。
カジムは柵に背をもたれていた。
二人は向かい合っていた。
カジムはタクシーで分かれたあと、今度こそマハシに二度と会えないと思っていた。
しかしまたしても再会を果たした。
「私……、思い出しちゃった。……何もかも」
マハシは黙ったままだった。
「……私、ロボットだったのね」
マハシは腕を組んで首を少し傾けて言った。
「……ヒカルイの女の子に、タクシーの中で聞かされたのね?」
「それもあるけど……。私、自分の力で思い出したの」
「そう」
「さっき、嵐の前の様にあたりが暗くなったでしょう?」
「さあ……。私は気づかなかったけど。……それで?」
カジムは、目線を少し落とした。
「雲が……。私のすぐ近くに黒と白と灰色の混ざった雲が……」
「雲が?」
「来たのよ。そこへ私の意識が集中していって……。この辺に……街ってある?」
「無いわね。草原と林と、あとは畑が少しね」
「ピラミッドは?」
「無いわね」
「雲を見つめていくうちに、……なぜか何もかも分かったの。何もかも思い出したの。
……私はカジムという人間の女の子の記憶が秘められた……ロボットだったのね」
マハシは鼻でフフンと笑った。
「ねえマハシさん……私は、『今』、人間なの?」
「もちろん」
「誰が私を、人間にしてくれたの?」
初めてマハシが困った顔をした。
マハシの困り顔を初めて見た。
マハシはちょっとうつむいてクルリと背中を向けた。
マハシの背中が小刻みに震えだした。
マハシは静かに泣き始めた。
「お母さん!」
カジムは思わずそう叫んでいた。
そしてカジムはマハシの背中に抱きつく。
「お母さん! そう呼ばせてよ! ……あなたが私を人間にしてくれたんでしょう?
私を抱いて子守唄を歌ってくれたのはやはりあなただったんでしょう?
ロボットの私を人間にしてくれたのだから、あなたは私のお母さんよ!
だからいつも去りそうでも去らないのでしょう?
それは私を愛しているからでしょ? お母さん!」
マハシはくるりとこちらを向いて、カジムを抱きしめた。
「そのとおりよ……。でも……いけないことなの。
これは、プロジェクトなの……。本当は必要以上に個人的な感情をひっぱってはいけなかったの……。私には次の仕事が……待ってるのに。
本当はとっくに帰らなきゃ、いけないのに……」
マハシはゆっくりとカジムを引き剥がした。
「でも、本当にお別れよ。これで本当に……帰るわ。
エマネエを連れて帰るわ。
あなたには愛する人ができたんだもの。その人としっかり生きるのよ。わかったわね?
ほら……」
マハシがあごで指したその先には、こちらに歩いてくるシジの姿があった。
「さ……行くのよ、『行って幸せになりなさい』、カジム。
これが女性添乗員である私の、最後の命令です」
カジムはうなずいた。
シジに向かって走る。
シジもカジムに向かって走り出す。
そして二人は抱き合った。
(最後の命令・完)
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2004/12/08(Wed)18:06:05 公開 / 紗原桂嘉
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