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『good by 10〜14』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:渚
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第10話
橘は一人でコーヒーを飲んでいた。なんだかやたらと苦くて、思わず顔をしかめる。砂糖もミルクもたっぷり入れたはずなのに、まだ苦い。きっとそれは、自分の気持ちの所為だろう。
あえて、光を突き放した。光が迷わずに判断ができるように。もし光が両親と静かに暮らすというのなら、そうさせてやろう。自分とも太一ともまったくかかわりのない世界で生きていくといっても、反対するつもりはなかった。
橘は光の両親の様子を思い出していた。母親はただ不安げに、眠っている光の手を握っていた。優しそうだが、どこか堅そうな人。父親はまさに堅物で、今すぐ光を連れて帰ると言い張ったが、今はまだ容態がどうなのかもわからないから光が目覚めてから、また日を改めてきてくれといい、なんとか承知してくれた。2人とも柔軟な考えができなさそうな人だった。
二人は優も引き取るといっていたが、橘はそれをさせるつもりはなかった。あの二人は、光が優のためにここに残るといわないようにするためにそういっただけ。きっと愛してはくれないだろう。光は優のことを見放したりはしないだろうが、以前と同じように愛情を注ぐことはできないだろう。愛されない場所に、わざわざ行く必要はない。光が行ってしまってもこの施設で暮らしていけばいい。優の親権は今は太一の親が握っているが、連絡すると、あいつはもう息子じゃない、親権なんか勝手にしろといって電話と切られてしまった。太一の遺骨は今でもここにおいてある。光が記憶を取り戻してからどうするかを考えるつもりだったが、それももうできないだろう。まあ、無理にお墓に入れなくても、ここにいつまでもまつっておけばいい。
目を閉じて、壁に寄りかかる。はっきり言って、光が行ってしまうのは嫌だった。プロとして途中で仕事を投げ出すようなまねはしたくなかったし、何より、光の記憶を取り戻してやりたかった。彼女の深い心の傷を癒してやりたかった。以前と同じように笑って、優を愛してやってほしかった。
さっきのコーヒーの味がいまだに口の中に残っている。苦い思いを噛み締めるって言うのは、まさにこのことだなと思った。
午後に光の両親が来た。母親は光を見ると泣きながら抱きつき、父親は光の頬に一発ビンダした。光はただ、ぼんやりと頬を抑えている。
「…光、何でこんなことになっているのかわかるか?」
父親の言葉は怒りで震えている。光はおびえたように父親を見上げた。
「わからんのかっ!!お前があの男と付き合ったからだ!!私たちは反対したはずだ!!それなのにお前はなんだ、ええ!?私たちにはあいつとは付き合ってないといってたんじゃないのか!?」
「…ゴメンナサイ…」
光の声は震えていた。それでも父親の怒りはおさまらず、光の細い腕をつかんで乱暴に引っ張り、無理やり自分のほうに向かせた。光が痛みに小さく悲鳴を上げる。さすがに見かねてとめようとすると、それより前に母親が父親に飛びついた。
「明さん、やめて!!光はたぶらかされたのよ!」
「それでも同じだ!!ふらふらしているからだ!!子持ちの年上の男と付き合っていたなんて、お前は一体何を考えてるんだっ!!こんなことにならなかったら気づかないところだった。そしたらお前はあの男と駆け落ちでもするつもりだったんだろうっ!?ええ!?何とか言え、光!!」
「やめてください!!」
橘は思わず父親の腕に飛びつき、光の腕を放させようとしたが大の男の力にかなうはずもなく、すぐに振り払われてしまう。父親は赤く上気した顔から、鋭い目線を橘にはなっていた。
「部外者は黙っててくれ。これは私たち家族の問題だ」
「そうは行きません。光さんは私の患者です。不用意に傷つけることは私が許しません」
「何が患者だ。いいか、光はもうあの男のことを覚えていないんだ!!あんな汚らわしいヤツの記憶を穿り出そうとするなんて、あんたらは一体何を考えてるんだ!!」
「光さんが望んだことです。それを制限する権利は、あなた方にはありません」
「黙れ!!あんな、あんなヤツの記憶なんか思い出さなくてもいい!!光のことをたぶらかして、どうせ体が目的だったんじゃないのか!?あの子は本当は光が産んだ子じゃないのか!?」
「やめて!!!」
光の声に、父親は言葉をとめた。皆の視線が光に集まる。うつむいて髪がかかり、表情は見えない。光は震えた、か細い声で言った。
「…お願いだから、彼のこと悪く言わないで。私、彼のこと覚えてないのよ。もう…もう、思い出そうとしないから…一緒に帰るから…だから…」
それ以上先は、もう光のすすり泣く声しか聞こえなかった。母親がそっと光の肩を抱く。父親は光の腕を乱暴に放し、そっぽを向いている。橘はただ、呆然と光を見ていた。
「…光が、お世話になりました」
光の母親が深々と頭を下げているのを、橘は複雑な気持ちで見ていた。しわが刻まれた目元はどことなく光にていた。
「ごめんなさい、主人が失礼なことを…」
「いえ、私も熱くなってしまって。申し訳ありませんでした」
「…主人も、悪い人じゃないのよ。ただ、光のこと心配してるだけで…」
「はい、見ていたらわかりました。光さんは一人っ子なんですか?」
「いえ、姉が一人」
母親は少し微笑んだ。それはどちらかというと苦笑だった。
「ウチはね、娘には医者か弁護士の旦那を取らせるつもりだったの。ちゃんとした家の、ちゃんとした人を…って小さいときから光とお姉ちゃんにもずっと言ってたの。でも、お姉ちゃんは3年前に合コンであった彼と結婚するって言い出してね」
「どんな方だったんですか?」
「思い出したくもないわ」
母親は、その優しそうな顔をゆがめ、不快なものを思い出すような顔をした。
「ちゃらちゃらした男でね。どこの馬の骨だか。私たちはもちろん、猛反対したわ。そんなの正気の沙汰じゃないってね」
橘は眉を潜めた。嫌な人だ、家柄で人を判断するなんて。
「でも、お姉ちゃんも絶対引かなかった。それで、荷物まとめて家を飛び出してったわ。今はもう連絡も取れない」
「一度もですか?」
「…一度だけ、年賀状が来たことがあったわ。もちろん、住所は書いてなかったけど…。あの子、あの男の隣で子供を抱いて、笑ってたわ。ぞっとしたわ、あの男にそっくりな顔をした子供を抱いて笑ってるなんて」
母親はひとつため息をつき、疲れたような声で言った。
「そんなんだから、主人は光をすごくかわいがっててね。いいところの人と結婚させるつもりだったのに、つれてきたのが茶髪の子持ちでしょ。猛反対したら、光はやっぱり付き合わないって言ってね、ほっとしてたんだけど…まさかこっそり付き合ってたなんて。お姉ちゃんは結構気の強い子だったんだけど、光はおとなしい子でね。親に逆らうことなんてしない子だったのに…かわいそうに、男に付け込まれて。まぁ、きっと光もそのうち、あの男がろくでなしだってきづ」
「やめてください!!」
突然叫んだ橘を、母親は驚いて見つめた。橘は少し荒くなった息を整えながら母親をにらみつけた。こんなに腹が立ったのは久しぶりだった。
「私には、あなたたちが光さんを本当に大切に思っていたとは思えません。本当に光さんの幸せを願うなら、光さんが選んだ相手と一緒にならしてあげればいいじゃないですか!いい家の男と結婚すれば、光さんは幸せになれるんですか。あなたたちのエゴじゃないんですか」
母親はただ驚いて橘を見つめていたが、やがて、すっと冷たい表情になった。軽蔑するように橘を見ている。
「優ちゃんは、私たちが引き取ります。あなた方には任せて置けません」
「まぁ、助かるわ。あんな男の娘なんて願い下げだと思ってたところよ」
母親はふふんと鼻で笑い、それから言った。
「橘さん、でしたっけ。失礼ですが、あなた、旦那様は?」
「…………」
橘は黙り込んだ。夫。大好きだった、あの人。いつも優しく笑っていた。
「…いましたが、3年前に他界しました」
「あら、お気の毒に」
言葉と感情がまったく違うようだった。橘はこぶしをぎゅっと握り締めた。
「まぁ、あなたのような価値観を持った人と結ばれたんですもの、ろくな男じゃなかったんでしょうね」
「……!!」
橘は顔が熱くなるのを感じた。馬鹿にした。この人は、あの人のことを。私の、大切な人を。彼が死んだときのことを思い出していた。つらくて、悲しくて、気が狂いそうだったことを。
「光を連れて帰るのは正解でしたわ。こんなところにいたら、あの子までおかしくなってしまうわ」
橘は母親をにらんだ。母親は依然、軽蔑した目つきで橘を見ていたが、やがてすっと立ち上がると部屋から出て行った。
橘は机にこぶしをたたきつけた。悔しくて仕方なかった。やり場のない怒りをぶつけるように、何度も、何度もたたきつけた。あまりに悔しくて涙が出てきた。机をたたく手が少しずつ弱弱しくなり、やがて止まる。橘は座り込んで、泣いた。涙がぽろぽろ零れ落ちて、床にしみを作った。
第11話
太一が、写真の中から笑いかけていた。この写真、もって行こうか。いや、もって行かないべきだろう。また、両親との間で波風をたてるのは嫌だった。
怖かった。両親が自分に愛想を尽かしてしまうのが。誰にも愛されなくなるのが。太一はいない。優はここに残る。橘は、もう自分に愛想をつかしてしまったのかもしれない。そうなれば、三田も安藤も、この施設の全員が自分を見放しているだろう。両親は、自分を愛している、というのとは少し違うかもしれないが、それでも、自分のことを気にかけてくれている。ほんのわずかでもいい、自分を愛してほしい。きっと、両親と暮らすことはいろいろな苦痛を伴うだろう。だが、誰にも愛されずに見捨てられるよりはずっといい。
写真立てをかたりと下に向ける。捨てる気にはなれなかった。
バックに荷物を詰め終え、少し風に当たろうと外へ向かう廊下を歩いていると、窓辺に優がただずんでいるが見えた。小さな背中。
「優ちゃん」
少し迷ってから声をかけた。優はくるっと振り返った。光を見ると、少しあいまいに笑う。光がいってしまうことを知っているのだろう。少し胸が痛む。
「何してるの?」
「あのね、光のお父さんとお母さんがいつ来るか、見てるの」
「あら、どうして?」
「真奈美先生が車で送っていくから、来たら教えてって」
「大丈夫よ、来たらわかるわ」
ふと、優がうつむいた。光は怪訝そうに優の顔を覗き込む。優はしばらく黙り込んでいたが、やがて、顔を上げた。
「光、もう、優のこと忘れてね」
「え?」
優の思いがけない発言に光は戸惑う。優は少し涙声になりながら話し続ける。
「忘れてね。もう、気にしないでね。ほっといてね」
光は優をじっと見つめた。大きな瞳が濡れて光っている。この子は、自分がつらい思いをしないようにいってくれてるんだろうか。優のことを思い出して、罪悪感を感じないように…?
「…わかったわ」
鼻声で答える。目に涙がいっぱいたまってきて、もう耐え切れなかった。思わず優を抱きしめる。優もえっえっと泣き声を上げながら、光にすがり付いてくる。
「ありがとうね、優ちゃん。本当に、本当に…」
「…光が…優のことわすれてっ…も…優は光の…こと…覚えてるからねっ…」
光の頬に涙が伝った。一筋、二筋とだんだん増えていく。この子のことを、思い出してあげたかった。自分の所為で、どれだけこの子は傷ついたんだろう。自分が…辛さから逃げた所為で。
出発の時が来た。母親は、施設のみんなに頭を下げている。父親はぶすっとしてタバコを吸い、橘は車を駐車場から出してきた。以前、光のアパートに行ったときと同じ、赤い車。でも、あの時と違って、気分はどんどん沈んでいた。優は三田の陰に隠れ、母親をじっと見ていた。
「乗ってください」
橘は運転席から顔をのぞかせていった。両親は黙って車に乗る。光は最後に、三田と、優に歩み寄った。
「お世話になりました」
「いえ、僕は何も。お体に気をつけて」
「はい、三田さんも、がんばってください」
微笑したあと、しゃがみこんで優と目線を合わせる。優は黙って目をそらした。あまり優しくすると、きっと後がつらいだろう。光は、優の頭をぽんと撫でて、すぐに立ち上がった。
「それじゃ、皆さん、お元気で。…さようなら」
光はくるりと背を向けた。優は一度も光を見なかった。
黙ってシートに体を押し込む。父親は助手席に座り、母親は光のとなりに座っていた。なにやらぶつぶつといっている。
「ずいぶんにおいのきつい車ですね?ちゃんと消臭されていないの?」
「してますよ。でも、あまり乗らないんでね」
橘はそっけなく答えた。母親は大げさに顔をしかめる。
「まぁ、一週間に一度はしないと、不潔よ。まったく、こんな車に乗るなんて、屈辱だわ」
「やめて、母さん」
光は静かにたしなめた。母親は愛想笑いのようなものを浮かべたが、まだ顔をしかめていた。
橘にこれ以上嫌な思いをさせたくなかった。いや…嫌われたくなかった、というほうが正しいかもしれない。
「本当に、お世話になりました」
光は深々と橘に頭を下げた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ううん、こちらこそ。体に気をつけてね」
「はい」
橘はにっこり微笑んだ。光も微笑み返そうとしたが、わずかに口が横に引っ張られただけだった。
「それじゃ…」
「元気でね」
「はい」
光は橘に背を向けた。少し前に両親が歩いている。光は泣きたくなった。戻りたい。橘に駆け寄って、またあの赤い車で、その施設に帰りたい。記憶を失っていても、安らかで暖かい、優たちがいる暖かい空間で過ごしたい。
惨めな気持ちで両親の後ろについて駅の改札を通る。大きなボストンバックが改札にこすれて音を立てる。
両親は前でぼそぼそと話している。
「…あの子にまた悪い虫がつかないようにどこか田舎に引っ越したほうがいいんじゃないかしら…」
「そんな田舎にいい男はいないだろう。今のままで、金輪際一切一人で外出させなけりゃいい…」
一人で外にも出れず、どこかの堅物の男と結婚して生きていく、これからの人生。想像したくもなかった。
「一番線に電車が参ります。危険ですので、白線の内側に…」
駅員のやる気のなさそうなアナウンスが入る。向こうのほうから緑色の電車が来る。少しずつ近づいてくる。父がベンチから立ち上がる。
なぜだろう。そんなすべての景色が、ゆっくりと見える。スローモーションのようだ。光はぼんやりと電車を見た。緑色の電車…?なんだろう…何かが思い出せそうな、そんな気がする。
戻れ
誰かの声がした。どこかで聞いたような、懐かしい声。
戻るんだ…
なぜだろう。光はその声に従い、こっくりとうなずいた。誰かが微笑んだのが見えた。若い男性。
…太一。
突然、時間のスピードが元に戻った。電車が目の前を通り、髪をふわっと揺らした。
その瞬間、光はぱっと駆け出した。今さっき上ってきた階段を駆け下りる。
「光!?」
母親の声。光は振り返らずに走った。改札を駆け抜ける。
「お客さん、切符!!」
駅員が叫ぶのが聞こえたが、光は無視した。戻っちゃいけない。振り返っちゃいけない。光はボストンバックをその場に投げ捨てた。鈍い音がする。
「光!!待ちなさい!!」
父親が追いかけてきたらしい。革靴の音が後ろから聞こえる。光は歯を食いしばって走った。ヒールの靴を脱ぎ捨てる。一気に足が軽くなった。裸足のあしにアスファルトの小石が食い込む。
100メートルほど先に、橘の赤い車が止まっているのが見えた。橘は車のボンネットにもたれ、缶コーヒーを飲んでいた。光は必死で走った。父の足音はどんどん近づいてくる。もう50メートルも離れていない。
橘はボンネットから立ち上がり、車のドアを開けた。行ってしまう。光はせいいっぱい叫んだ。
「真奈美さん!!!」
橘が振り返った。驚いたように光を見つめる。光は橘に駆け寄る。父の足音はもうすぐそこだ。
「お願いです、車を出してください!!」
橘は以前驚いた顔だったが、走ってくる父親を見て何かを察したのか、車に飛び乗った。光も助手席のドアを開け、体をシートに押し込む。
橘がアクセルを踏んだ。車が動き出し、バックミラーにうつる父が立ち止まるのが見えた。だんだん遠ざかっていく。光は肩で息をしながら、シートに体をうずめた。
「…で?どうして戻ってきたの?」
橘は少し怒ったように尋ねた。光はうつむいて話す。
「…もし、あそこでいってしまったら、もう自分を取り戻せないと思ったんです。それは嫌だなって」
「あら、あそこに行くまでわからなかったの?それを承知のうえでいったと思ってたのに」
「…ええ、わかってました」
光の言葉に、橘はちらりと彼女を見た。よくわからないという表情だ。光はそれに気づき、少し微笑んで話し始める。
「駅のホームで、電車が来たときに、誰かが私に話しかけてきたんです。戻れって」
「誰か?」
「はい。きっと…太一です」
光の言葉に、橘が驚いて光を見つめた。
「…思い出したんです。彼のこと」
「ホント…?」
「はい。でも、全部じゃないんです。なんだか、断片的で」
「じゃあ…事故のことは?」
橘が気遣わしげに尋ねる。光は首を振った。
「…つらいでしょうね」
橘は静かに言った。光は目を閉じた。太一は死んだ。それはわかってる。でも、なぜか落ち着いていられた。もちろん、深い悲しみは感じた。愛しい人。あの優しい彼は、もういない。
「ねぇ、光さん。太一さんのこと思い出したってことは、優ちゃんのことも?」
橘は話を切り替えるように明るく言った。交差点でハンドルを右に切る。光は微笑んだ。
「優のことも、断片的には」
「そっかぁ。きっと優ちゃん、喜ぶわよ」
橘もうれしそうにいった。光もうなずく。
思い出したい。太一のことも、優のことも、全部。今まで二人とどんな風に暮らしてきたのか、もっとよく知りたい。
施設が見えてきた。あれほど帰りたいと願った、暖かい場所が。光はふわりと微笑んだ。
第12話
翌日、両親から荷物が届いた。なんだろうとあけてみると、それは昨日駅においていったボストンバックと靴だった。それらと一緒に、走り書きされたメモが入っていた。父の筆跡だ。
「お前のことをもう娘とは思わない。勝手にしろ」
光はしばらくそのメモを見つめた。ついに見放された。まあ、いつかこんな日が来るだろうとは思っていた。太一と付き合っていることも、きっといつかはばれてしまっただろう。
姉のことを思い出す。3つ年上の姉は、光が16歳のときに家を出て行った。両親には一度年賀状を出したきりらしいが、光は姉と頻繁にメールのやり取りをしていた。太一とのことも打ち明け、よく相談に乗ってもらっていた。この施設に来てからもたびたびメールを送っていた。
両親からは見放された。でも、後悔はなかった。メモをくしゃりと握りつぶし、ゴミ箱に捨てる。携帯を開き、姉へのメッセージを打ち始めた。
太一のことを思い出してから、光は自分が少し変わったことを感じていた。まず、優に対する態度。今までよりずっと親密な感じだ。もちろん優が大喜びしたことはいうまでもないだろう。それに、以前よりずっと頭がすっきりしている。
「ねぇ、光さん」
「はい?」
ボストンバックから荷物を取り出しまた部屋に片付けている光の背中に、橘は話しかけた。
「…太一さんの遺骨、どうする?」
光がゆっくりと振り向いた。開かれた窓から風が吹き、二人の髪を揺らす。
「…ここに…あるんですか…?」
「ええ。ずっとあったんだけど…あなたはちゃんと思い出してから向き合ったほうがいいと思って」
「…………」
光は黙ってうつむいた。
5分後、光は太一の遺骨の前で手を合わせていた。線香の香りがつんと鼻をさす。光の隣に優もちょこんと座り、父に手をあわせていた。
「…ねぇ、真奈美さん」
ん?と橘が返事する。光はただ遺骨を見つめている。これが太一。自分を愛してくれた人。
「太一は、死んだんですね」
「…そうよ」
「…もう…会えないんですね…」
光の目から、涙が一筋零れ落ちた。続いて、2つ、3つと流れてくる。
どうして今まで忘れていたんだろう。あんなに好きだったのに。彼ともう二度と会うことができないことに、そして、それが自分にとってどれほど辛いことか、どうしてわからなかったんだろう。
「…光ぅー…」
優が光の袖を引っ張った。幼い彼女には光がなぜ悲しんでるのかわからないのだろう。橘は光の気持ちを察したように優を抱き上げ、そっとその場を立ち去った。
「…太一……」
光は手を伸ばし、太一の骨壷をそっと持ち上げた。とても、軽い。
骨壷をぎゅっと握り締める。どうして忘れていたんだろう。あんなに好きだったのに。…いや、こんなに好きなのに。どうしてそんなに簡単に忘れられたんだろう。
「…ごめんね、太一……」
私は、あなたに何もしてあげられなかった。
痛かっただろうか、苦しかっただろうか。優を置いてこの世を去るのは、どれだけ未練だっただろう。そんなとき、私は何をしてた?何もできなかった。太一にも、優にも。自分のことで精一杯だった。
悲しくて悔しくて、光は骨壷を抱いて声を上げて泣いた。太一の遺影は静かに微笑んでいた。
◇
10分後、橘は施設の近くの喫茶店に来ていた。窓際の席から三田が手を振っている。
「光さん、どうでした?」
三田はそっと橘に尋ねた。橘は苦笑しながら三田の向かいに座った。
「やっぱり泣いてたわ。なんだかんだ言っても、あの子まだ20ですもの。まあ、年齢は関係ないけど…」
「そうですね。でも…」
三田はコーヒーに砂糖を入れ、スプーンでかき混ぜた。かちゃかちゃと軽い音がする。
「光さん、よく考えたら僕より5つ下なんですね。なんだか、あまり年下と思えないんですよ」
「ふふ、あの子、なんか物静かだもんね。太一さんは結構活発な人だったらしいけど…あ、私アイスコーヒーで」
橘はやたらと愛想のいいウエイトレスに注文した。ウエイトレスはかしこまりました、と頭を下げ、フリフリのミニスカートをひらりと翻し、腰を振りながら歩いていった。
「で、これからのことなんだけど」
橘は顔にかかった前髪をかきあげながら言った。
「一応太一さんのことは思い出してくれたみたいだから、第一関門は突破よね」
「大きな進歩ですよね」
三田がうれしそうに語る。
「ええ。それで、これからは記憶を完全に取り戻してもらおうと思うの。なんだか曖昧だからね」
「確かにそうですね。事故のことは覚えてないみたいですし…」
「アイスコーヒーでございます」
さっきのウエイトレスがコーヒーをことんとテーブルに置く。ごゆっくり、と微笑んで彼女は向こうに行った。橘は軽く礼を言って、コーヒーにミルクを入れ、かき混ぜた。
「ええと、なんだっけ。そうそう、それでね、あなたに頼みたいことがあるの」
「なんですか?」
橘はコーヒーを一口飲んだ。透明な氷がカランと上品な音を立てる。
「あのね。私はこれから、光さんと一緒に太一さんとの思い出をたどろうと思うの。太一さんと一緒にいった場所なんかをまわれば、思い出すんじゃないかと思って…」
「確かに、いい案かもしれないですね。その間、優ちゃんは?」
「連れて行くわ。きっと実際太一さんと光さんと優ちゃんの3人で行ってたでしょうし…。それで、あなににはね」
橘はずいと身を乗り出した。
「太一さんの事故のことを調べてもらいたいの」
「と、言いますと?どんなことを調べたらいいですか?」
「そうね、まず、事故かおこった時間。それから、事故のとき光さんと太一さんと優ちゃんがどういう風だったか。どうして太一さんだけが踏み切りの中にいたのか、それを重点的にね」
「…重点的に……」
三田は手帳にメモを取りながらうなずいた。と、いぶかしげな表情で顔を上げる。
「橘さん、太一さんとの思い出をたどるっておっしゃいましたけど、それって光さんにとっては辛いことなんじゃないですか?」
「あら、意外とそうでもないのよ」
橘はストローでコーヒーをかき混ぜた。氷が涼しげな音を立てる。
「大好きな人との思い出をたどったら、意外と落ち着くのよ」
「旦那さんが亡くなった後、そうしたんですか?」
三田は何気なく聞いたのだが、橘は突然顔を上げた。目を大きく見開いている。やがて、彼女は三田に詰め寄った。三田は思わずたじろぐ。しまった、と思ってももう遅い。
「…その辺のこと、誰に聞いたの?」
「な、何のことだか……」
「嘘つかないで。言いなさい」
三田はきょろきょろと目を泳がせた。精神医師はもともと相手の腹を見破ろうとする傾向がある。患者の本音を知るためだ。橘はこれが得意だ。そんな人にこんな見え透いた嘘は無駄だろう。三田はあきらめて、小さな声で言った。
「安藤先生に……」
「…………」
橘はまたいすにお尻を落とした。怒ったようにため息をつく。
「…安藤先生じゃ、責めるわけにもいかないけど」
「あ、あのっ……」
三田は恐る恐る尋ねた。橘は長いまつげのついた目で三田をじろりとにらむ。
「何よ」
「あの話って、あの…本当…なんですか…」
最後のほうはほとんどささやき声だった。橘の眉がきゅっと吊り上げられるのを見たからだ。橘はしばらく三田をにらんでいたが、やがてほっと息をつき、コーヒーを一口飲んだ。
「…本当よ。だから、あたしは光さんの気持ち、わかってあげられるつもり」
橘が仕事中に「あたし」なんていうのははじめて聞いた。三田は驚いたが、なぜか納得できた。それぐらい、夫の死は橘にとってつらいことだったのだろう。
「…本当に辛かった。気が狂いそうになった。いっそ狂えば楽かな、って思ったわ。多分光さんは、そうすることで辛さから逃げたのよ」
橘は悲しげに目を伏せた。
「…だから、光さんには幸せになってほしいのよ。自分と似たところがあるからこそ、ちゃんと立ち直ってほしい。あたしの面子にかけて、絶対に直して見せる」
橘はそれだけ言い切ると、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。テーブルの上に千円札を置くと、三田にじゃあね、と言い残して店から出て行った。
三田はなんだか、深い罪悪感を感じた。
第13話
「あのね、ここのシーソーでね、太一が一回落っこちたの」
優が急き込んで話す。ずいぶん機嫌がいい。右手に光の、左手には橘の手を握ってぶんぶん振り回している。
光はぼんやりと公園を見つめた。橘の案で太一との思い出をたどることになった。橘は学校の同級生や近所の人、それに優に聞いて光が太一と一緒によく行った場所を調べてくれた。この公園は3人でよく通っていたらしい。いろいろな場所を巡るたびに、太一との思い出が少しずつうかんでくる。
ここまで簡単に戻ってくるとは思わなかった、暖かい記憶。その心地よい感触にうっとりしていたら、不意に、もうそんな暖かい場所は存在しない、太一は死んだという現実に突き当たり、ひやりとすることがあった。
「どう?光さん」
橘が光の顔を覗き込んだ。優はいつの間にか二人の手を離し、ブランコに乗って遊んでいた。
「…ん、まあまあです。ちょっとだけ思い出せたような気がします……」
「そう。まあ、あせることはないわ。じゃあ、次行きましょうか。優ちゃん、呼んでくるわ」
橘は大きく息を吸い込んだ。ここから優を呼ぶつもりだろう。
気がつくと、橘の肩をつかみ、それを阻止していた。橘は驚いたように光を見つめた。
「…どうしたの?」
どうしたのだろう。自分でもわからない。ただ、何かが思い出せそうなのだ。光は自然と優のほうへと歩み寄っていた。橘が不安げに光を見つめる。
優がブランコに乗って楽しそうに笑っている。お日様みたいな、笑顔。光は小さく息を吸った。
「優!!」
ほぼ無意識のうちに言葉が出た。優がこちらを向く。光が微笑む。優はブランコをこぐ足を止め、ゆっくりと速度の落ちていくブランコから飛び降りた。小さなスニーカーをはいた足が地面をける。小さな砂の粒が飛ぶ。優が光の名を呼びながら走ってくる。光はしゃがみ、両手を広げた。優が顔いっぱいの笑顔で腕の中に飛び込んでくる。
はっと気がついたのは、優の重みをずしりと感じた時だった。優は光の腕の中でえへへと笑っている。
「帰ろっか、優」
「うん!!」
優はうれしそうに光の手を握った。光もその手を握り返した。少し汗ばんだ、柔らかい手。
橘がこちらに歩いてきた。腕を組んでいるが、表情は優しかった。
「一体どうしたの?」
橘が尋ねる。穏やかな声。光は少し微笑んだ。
「…わかりません。ただ、いつもやっていた習慣が出てしまった…って言うのが正しいと思います。この公園に来たら、優はいつもあのブランコに乗っていました。それで、私がいつも帰るときに優を呼びに行ってたんです」
正直に言った。橘は少し微笑んだだけで、すぐに優の方に視線を向けた。
「じゃあ、今度は優ちゃんのおうちにいこっか」
「あのねー、優ね…」
橘と優が話している声が、ぼんやりと聞こえてくる。光の視線はシーソーに向いていた。少しペンキのはがれた、青色のシーソー。
光は優と太一と3人でシーソーに乗っていた。太一は右、光と優は左だ。
『ねぇー、動かないよ』
『ホントねー、優。太一、ほら、がんばってよ』
『くっそー、お前ら好き勝手言ってるな』
太一が地面を強く蹴る。シーソーがぎぎっという音とともに動く。優がきゃっとうれしそうな声を上げる。光は優のお腹に回した手をぎゅっと締める。自然と笑みがこぼれる。
とても、暖かい場所。
「る…光っ!!」
光ははっとして顔を上げた。優が盛んに光の手を引っ張っている。光は優に曖昧に微笑みかけた。自分の記憶の中へいってしまっていたらしい。太一と優と3人でいた、あの暖かい時間の記憶。
橘は意味ありげにちらりと光を見て微笑んだ。
「さあ、いこっか」
「はい」
光は優の手を握ったまま歩き出した。優がその手を引っ張って先頭を歩く。橘がわざとその手を強く引っ張る。優がぐっと後ろに下がる。優がふくれる。橘はおかしそうに笑う。優も自然と笑う。そして、光も。
暖かい場所が、ここにもある。
何週間ぶりだろう。ここのドアを開けるのは。光は「井之上」という表札がついているドアノブを回した。がちゃり、という音とともにドアが開く。
久しぶりの、太一の家。
光は一人できていた。優がそこのケーキ屋さんのケーキがおいしいから買おうと言い出し、橘は光に先に行くようにいったのだ。優は別れ際に光にそっと耳打ちした。
「あのね光、太一、居間の棚の3つ目に何か隠してたよ。光にあげるんだって」
光は居間の棚の3段目を開けた。心臓の鼓動が早いのがわかる。太一から物をもらったことは何度かあるが、それは誕生日やクリスマスのときだけだった。だが、太一が亡くなったのは夏。光の誕生日は2月だし、クリスマスにも程遠い。こんな中途半端な時期に、一体何をくれようとしていたのだろう。
疑問を胸に抱きながら引き出しの中身を出していく。図書館のカード、保険証、図書券。光は、次に出てきたものを見てふと手を止めた。
母子手帳。優の成長の記録。中をぱらぱらとめくってみると、すべてのことがきちんと記入されている。もちろん、これを記入したのは太一だろう。優の母親は優を生んですぐに太一と縁を切ったと聞いている。
光は母子手帳をじっと見つめた。太一は、優のことを愛していたのだろう。優を残して死ぬのは、どれだけ心残りだっただろう。それを思うと胸が痛む。
母子手帳を脇にどけたとき、何かの角がぴょっとでて来た。ワイン色のそれをつかんで引っ張り出す。と、光は心臓が止まりそうになった。長方形の箱。金色の筆記態でメーカーが書かれている。そのメーカーは、光が大好きな、アクセサリーのメーカー。
光は震える手で箱を開けた。ぱかっという音がする。
中から出てきたのは、トパーズのペンダントだった。鮮やかな水色の宝石の上に、小さなダイヤがついている。銀色の細長いチェーンが光を受けてきらきら光る。それと一緒に、紙が出てきた。光はそれを手にとってためらった。開けたい。でも、一体何が書いてあるのだろう。
開けないでおこう。光はそう思った。死んだ人の家をあさるなんて、悪趣味もいいところだ。
心ではそう思っているのに、体は違う動きをした。折られた紙を広げる。そこには、見覚えのある筆跡でこう書かれていた。
『光へ
こんな形になっちゃってごめん。俺はあんまり話すのが得意じゃないからさ。
光と付き合ってもう2年近くたつよな。最初はただ、見た目が好みだったってだけだったけど、付き合ってるうちにだんだん変わってきた。光は俺を認めてくれた。高校のときに子供を作ったなんていかがわしい、そういわれるのが怖かった。でも光は、そんなこと言わなかった。それどころか、それを承知して俺と付き合ってくれた。優にも優しくしてくれた。
優が生まれたときから、もうまともに人と恋愛なんてできないだろうと思ってたから、光と付き合ってることは本当に幸せだと思ってるこんな俺と付き合ってくれて本当に感謝してる。ありがとう。それで、光にお願いがあるんだ。
俺と結婚してください。
驚いた?でも、俺はもう光以上に親しく付き合う女なんか、この先いないと思うんだよな。
普通指輪と渡すもんだろうけど、光、ペンダントのほうが好きだろ?前このメーカーの店で、このペンダントほしいって言ってたよな。
もちろん、これは俺の気持ちだから、強制は絶対にしません。俺は光より年上だし、その上優もいる。はっきり言って、結婚したら光にはいろいろ面倒かけると思う。
嫌だったらいやだってはっきり言ってくれ。お願いだから、無理に気持ちを偽らないでほしい。でも、断るんだとしても、ペンダントはもらってやって。光への感謝の気持ちだから。
返事、いくらでも待つから。
太一より』
光は呆然とした。手紙とペンダントを交互に見る。と、がちゃりとドアが開く音がして、思わずペンダントを箱ごと落とす。光はあわててそれを拾い、手紙と一緒にハンドバックに突っ込んだ。と、それとほぼ同時に橘と優が入ってきた。優の手にはケーキの箱があった。
優は3つ目の引き出しが開いているのを見て、期待に満ちた目で光に質問を始めた。
「ねっ、ねっ、光、何が入ってたの?いいもの?」
光は曖昧に微笑んだが、きっと笑えていないと思った。橘がちらっと光を見た。
「優、何にもなかったよ」
「ええっ、何にも?」
「そう、なーんにも。きっと太一、他のところにしまっちゃったんだよ」
「えー…」
優が明らかに残念そうな声を出した。橘がなだめるように優に微笑みかける。
「優ちゃん、そういうこともあるわよ。さ、ケーキ食べよっか」
「…うん!!」
優はにぱっと微笑んだ。やっぱり、優には笑顔が似合う。太一に笑顔が似合ったように。笑ったときの二人の顔は、どことなくにていた。太一いわく優は母親似らしいが、あの優しい目は太一の目だ。
「…で、ホントはなんだったの?」
「えっ?」
思わずマヌケな声を上げてしまう。優はご機嫌に皿をテーブルに並べている。かちゃかちゃという音がバックミュージックのように流れる。橘はずいと光の顔を覗き込んだ。
「何があったの?」
「え?いえ、ほんとに何も…」
「嘘言わないで。嘘を見抜くのは私の十八番よ」
「本当に、なんでもないんです」
光は橘の探るような目線から逃げた。ハンドバックを握り締めて玄関に向かう。橘に背を向けたまま話す。
「真奈美さん、なんだか疲れちゃったんで、先に帰ってもいいですか?」
「え?ええ、まあ、別にいいけど…施設まで結構遠いわよ」
「いえ、今日は自分のアパートに行きます」
「いいのよ、遠慮しなくても。車で送るわ」
「いえ、本当に大丈夫です」
光ははじめて橘を振り返った。いまだに疑わしげな顔をしていたが、やがてほっと息をついた。
「わかったわ。もう勝手にしなさい。今日はあっちに泊まるのね?」
「はい。明日には帰りますから」
「…じゃあ、気をつけてね」
「はい」
光はドアノブに手をかけた。冷たい鉄の感触が、妙によそよそしく感じられた。
久しぶりの我が家。玄関で靴を脱ぎ散らかし、そのままベットに倒れこむ。思わず大きなため息。橘は一種のオーラのようなものを持っていて、たまに、一緒にいると緊張してしまう。
光はハンドバックから麗の赤い箱を取り出した。そっとふたを開け、ペンダントを取り出す。銀色のチェーンがしゃらりと音を立て、トパーズがきらきら光る。光はそれをぼんやりと見た。とても複雑な気持ちだった。
太一は自分のことを、一生のパートナーに選んでくれた。彼と結婚するということは、彼の妻となると同時に、優の母親にもなる。その大役を自分に与えてくれた。誇らしい気持ち、照れくさい気持ち、そして何より、うれしい。
もうひとつは、前者とはまったく逆の、暗い気持ちだった。いまさらこんな手紙をもらってどうなるんだ。太一は死んでしまった。死人と結婚はできない。
どうして。どうしてもっと早くこれをくれなかったんだ。今もらっても、辛いだけなのに。
自然と涙があふれ出る。大声で叫びだしそうになるのを、唇を噛んでこらえる。くぅ、という音が口から漏れる。
「太一……」
太一。笑ってる太一。拗ねてる太一。優と遊んでいる太一。あたしを優しく抱きしめてくれる太一。太一。太一。太一。
太一が好きだ。どうしようもないぐらい、気が狂いそうなぐらい、好き。どうして死んでしまったんだ。あたしと優を置いて。こんなにも愛してるのに。
「会いたいよ…太一……」
ベットの上で声を上げまいと身をよじりながら、押し殺すように泣いた。太一がくれたトパーズはただ、きらきらと輝いていた。
第14話
橘は腕時計を見た。10時。
まだ光は帰ってこない。
どこか様子がおかしかった。太一のアパートで、何があったんだろう。光がどんな様子なのか、ちゃんと確かめたい。
「橘さん」
声をかけられて、振り返る。三田がいた。度の強い眼鏡越しに橘を見、微笑んでいる。
「どうぞ、行って来てください」
「でも……」
「大丈夫ですよ。光さんのことは、僕たちに任せてください」
そこまでいって三田は、一度言葉を切り、やがて静かに言った。
「…大切なことなんですから」
橘は少し悩んでいたが、やがて顔を上げた。
「…じゃあ、お願いするわ。そろそろ出ないと、新幹線、間に合わないし……」
橘は小さくため息をついた。
「ごめんね。光さん、なんだかちょっと様子がおかしかったから、ちゃんと会ってから行きたかったんだけど……」
「気にしないでください。あ、駅まで送りましょうか?」
玄関でヒールを履く橘の背中に三田が言う。橘は微笑んで首を振った。
「ありがとう。でも光さん、いつ帰ってくるかわからないし……」
「真奈美先生、お出かけ?」
三田の後ろから、優がひょいを顔をだした。光に買ってもらった青いリボンで髪をひとつに束ねている。
「ちょっとね。先生の実家に行くの」
「ふーん。ねえ、光は?」
「すぐに帰ってくるから。三田君と遊んでもらっててね」
「はーい」
優はにこっと笑って、廊下をパタパタと走っていった。
橘は優の背中を見送った。はじめてあったときに比べて、少し背が伸びた気がする。太一が亡くなったショックからか、笑顔を見せることもあまりなかったが、光が太一を思い出した頃から、ヒマワリのような笑顔を見せてくれるようになった。
橘は三田に向き直った。
「優ちゃんのこともお願いね」
「はい。任せてください」
「うん。じゃあ……」
「いってらっしゃい」
小さく手を振って、橘は三田に背を向けた。
お父さん。
最後にそう呼んだのは、何年前だろう。
橘は墓の前で、ぼんやりと立ち尽くした。
父は、7年前に亡くなった。不況でリストラ。借金。追い詰められて苦しんだ末の、自害。もう動かない父を前に、泣いたのを覚えている。精神科医になるために勉強をしながら、父が精神的に追い詰められていることに、気付くことができなかった。
橘の実家は、田舎だ。勉強するために都会の高校に入り、それ以来ずっと今のマンションに根を下ろしている。その所為で、実家の父の異変に気付けなかったのだ。
手を合わせて、目を閉じる。父と、そして、夫への思いが入り混じる。今は亡き、二人。死後の世界で、二人は出会ったのだろうか。生前、二人が出会うことはなかった。橘が結婚したのは父が亡くなった翌年だった。
「あら、真奈美」
後ろから声をかけられ顔を上げる。菊の花束を抱えて、母が立っていた。橘は目を細め微笑する。
「母さん。久しぶりね」
「ホントねぇ」
母は墓に線香を立て花を供え、手を合わせた。橘はその背中を見た。なんて年をとったんだろう。今確か、55歳。48歳で夫を亡くし、今も働いてる。背中に苦労が浮かんでいた。
「…ねえ、母さん」
「ん?なあに?」
母はゆっくりと立ち上がった。しわが刻み込まれた目が優しく橘を見ている。
「あたしのマンションにおいでよ。収入も安定したし、母さんの面倒ぐらい見れるよ」
「ありがとう。でも、私はここが好きなのよ」
橘は大きくため息をついた。今まで幾度となく同居をすすめたが、母はいつもイエスとは言わなかった。
「そんなこといわないで。心配じゃない、一人でおいとくのは」
「大丈夫よ。真奈美がいつも仕送りしてくれてるし。お金には困ってないわ」
「お金の問題じゃないわよ」
橘はうつむいた。
「…近くにいないと、何が起こってもわからないじゃない。もう、父さんのときみたいな思いはしたくないの……」
「お父さんのときみたいな思い、ねえ」
母は静かに言い、墓を見つめた。陽の光りを浴びて、てかてかと光っている。
「ねえ、真奈美。もしかして、まだ気に病んでるの?」
「だってっ……!!」
橘はばっと顔を上げ、食って掛かろうとしたが、母の穏やかな表情を見ると、また顔をうつむけた。
「…プロになろうとしてるのに、そんなに身近なことに気付けなかったなんて……」
「自分を責めることはないのよ」
母はそっと橘の肩を抱いた。
「お父さんの死は、誰の所為でもない。偶然の重なりよ」
「…別に、あたしの所為で死んだなんて思ってないわ。人の死を自分の所為だと思うなんて、自意識過剰よ」
「じゃあどうして?」
母は困惑した表情で、自分の娘を見た。橘はぐっと唇を噛んだ。
「…悔しいのよ…助けてあげられなかった……」
橘はいっそう強く唇を噛んだ。母はしばらく黙って橘を見つめていたが、やがて、そっと彼女を抱きしめた。懐かしい母のぬくもりの中で、橘は目を閉じた。
「そういえば、真奈美」
「ん?」
湯飲みを机において、橘が答える。
「もうすぐ、翔一さんの命日ね」
「…………」
橘は黙って茶をすすった。
そんなこと、誰よりも自分自身がわかってる。夫の命日。4年前のその日、世界で一番大切な人を失ったのだ。
「向こうの家に挨拶したほうがいいかしら」
「あ、いいよ。あたしがお墓行っとくから」
橘はぶすっとして言った。やはり、いくつになっても、母親とはどこかうっとうしいものだ。
「…あなたも、苦労するわね」
「…でも、収入はあるから」
「それでも大変よ。20代で旦那を亡くすなんて」
「…あたしより、大変な人もいるわ」
「あら、どんな人?」
「今治療中の患者さん。彼が死んで、子供は残されて、しかも、そのショックで記憶をなくしてるの」
「あらあら」
母はどこかのんきに茶をすすった。橘ははあとため息をついた。もう、実家で仕事のことを考えるのはやめよう。向こうには三田も安藤もいる。
橘はごろりと横になった。すぐにうとうとと、意識が遠のいていった。
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2004/10/27(Wed)00:12:41 公開 / 渚
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