『海のメロディー』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:夢幻花 彩
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◆海のメロディー
あなたは人魚姫を信じますか?
第一楽章
1 白百合の君
軽やかなピアノの音が廊下まで響いていた。その部屋の前を通る者は一瞬足を止めてその切なげで儚い音色にうっとりと聞きほれる。しかし、それは「旦那様」にばれたらとんでもない事になるであろう。何故なら、「旦那様」こと東京医学大学総合病院院長の彼に言わせると「私に従順な者だけがこの屋敷で働く事を許してやっているのだから身を粉にして働くべきだ」というやや傲慢な理由と、優美なこのピアノを奏でているのはほかならぬ彼の自慢の娘だからであった・・・・・・
水無月 花音はいつものようにピアノの前に座っていた。白魚のように真っ白で細く華奢な手がそっと鍵盤の上に乗せられる。
ラヴェルが、甘く、柔らかな音色で歌いだした。
曲が後半部分に差し掛かり、花音が身も心も「神の創りたもうし楽器」になっていた、その時。
「花音、私だ」
突然バリトンの耳障りな声がして少々荒くドアが開いた。不愉快である。
「あら、お父様。どうなされましたの?」
花音は出来るだけ笑顔を作った。
「うむ。花音、こちら新田食品の御子息、新田 有雄氏だ。この間縁談を持ってきてくださった事は覚えているだろう?で、私たちで話し合ったんだが―私と新田 勇一社長でだ―この縁談は互いに大きな利益を得られるのではないか、と言う事で成立した」
「・・・・・・判りましたわ、お父様」
花音は無表情で機械的に承諾した。
「花音さん、私が新田 有雄です。後ほど、ゆっくりお話いたしましょう」
「ええ」
偽善的な笑みを浮かべた新田と父は楽しそうに話をしながら出て行った。
本当は、政略結婚なんて嫌だった。
しかし、花音は生まれてから18年間、一度もこの屋敷を出た事がなかった。つまり、自分が世間知らずで自分で思っているほど世の中は甘くない事も知っていた。その時、いつかのメイドとの会話が鮮やかに脳裏にうかんだ。
「花音お嬢様はお幸せです。外には冷たい人ばかりで哀しい事件も多発している中、このお屋敷の中で穏やかに暮らす事が出来るのですから」
「冷たい方?」
「ええ。人を殺したり、物を盗んだりする事件もそう珍しくありません」
「まぁ、人を、殺めるのですか?!それが、いけないことだとは誰も教えて差し上げないのですか?!」
「いいえ。その人たちも知っていますわ。知っていて、やっているのです」
「酷い。なんて恐ろしいんでしょう・・・・・・」
花音はソファーに倒れるようにして座った。哀しい。でもこれを、どうやって表現すればいいんだろう。誰にぶつければいいんだろう。
そんな簡単な事さえ、教えてくれる人はいなかった。
「私は新田さんを愛する事が出来るのかしら・・・・・・」
花音はそう一人ごちた。
2 天使と悪魔が舞い降りし夜に・・・・・・
月明かりの下、水無月 花音は一人バイオリンを手にしていた。1年ほど前からやっと普通のサイズの物を使えるようになった。花音はそれまでと違う重みに始めは若干抵抗を感じながらもすぐになれた。とはいえ、それでもまだ今も少々大きすぎるように感じるのだが。
チューニングを簡単に行い、G線をピチカートで弾いてみる。倍音が追いかけるようにして響いた。弦楽器は他の楽器と違い、楽器が一つでも上手く弾きさえすれば倍音が聞こえる。この感触がピアノにはなく、たまらない。花音はとりあえず指ならしにスケールを弾き、それから比較的簡単な「アヴェ マリア」を奏でた。そのあと適当に思いつく曲を弾いてみる。プロではないし、特別習っているわけでもない。自己流である。多少指が回らない所もあるが、花音は自らの楽しみのためだけに弾いた。今、自分を癒してくれる物は、もう音楽しか残されていない。音楽だけ、音楽だけは私を裏切らない。
バイオリンも弾きつかれてきた頃、花音は弓から松脂をふき取り、楽器と一緒にケースにしまった。そして、ふらふらと本棚の方に向かう。
「人魚姫」の絵本。
花音は自分を人魚姫と重ねていた。私も人魚姫もお父様の命令で外の世界に出ることは出来ない。人魚姫は15歳、私は20歳になって太陽の光を浴びる事がやっと許される。人魚姫は憧れの世界で出会った王子に恋をする。でもそれは、絶対に叶わなぬ恋。
決して許されない、報われない、ただ哀しいだけの恋。
人魚姫は、王子を愛するあまり、自分の死を選んだ。
じゃぁ、私は?
私も、人魚姫みたいに、自分が犠牲になるのを選ぶの?
花音は静かに目を伏せた。
◆ ◆ ◆ ◆
「いたっ」
水無月 麗華は指に突き刺さるような痛みに顔をしかめた。薔薇の刺が刺さったのだろうか。指にみるみるうちに赤い血の玉ができていく。
「でも、綺麗だわ」
うっとりとした様子で麗華は微笑む。そして赤い雫を純白の薔薇の蕾に落とした。自然が作り出すこの微妙な色合いとは、何と美しいんだろう。
鼻唄混じりに麗華は薔薇の花を摘む。この花びらをバスルームにもって行き、浴槽の中に散らそう。メイドに花を持ってこさせてもいいが、あの馬鹿な小娘どもにはきっと美しき物の中の本当の美しい物と言う物が判らないに違いない。麗華はにっこりと笑った。私はこの世の美を極める女。そして、美はいつも私と共にある。
突然麗華は不愉快な気分になった。それが妹の部屋から聞こえるバイオリンの音であると気付くのにたっぷり5分はかかった。
水無月 花音。癪に障る小娘。青白い顔をした、気味悪いくらい清楚な純粋そうな顔の妹。あの子が生まれたせいで、私は水無月家の跡取りとしてふさわしくない女だと言う烙印を押された。でもまんざら悪い事ばかりじゃない。私には人魚姫より、クレオパトラの方が似合っている。完全なる美。その堂々たる死は、捕虜として捕らえられる事を避け、3人の侍女と共に優雅に横たわったまま、毒蛇の力を借りて成功した。
私だって、クレオパトラのごとく死ぬまでこの美しさを保ってみせる。麗華は積み終えたばかりの薔薇の花を束にして持ち、優美なシルエットは軽やかな足取りで屋敷の中に、消えた。
3 ベネラル・パウゼ
人魚姫は
15歳になるまで
海の上に
行っては
いけないのです
人魚姫は
お姉さんたちが
海の上に
行くのを
羨ましく
思いながら
言いました
「私も早く15になりたいわ」
「あら、お父様。それに新田様。本当に素敵なパーティーですわね」
花音は柔らかく微笑んだ。そうするより仕方なかったのだ。
「花音さん、あちらでちょっとお話して頂けますか」
新田は目で水無月宗一郎に訴えかけた。彼はその意味をすぐに理解して・・・・・・数秒で了承する。
「ええ。お父様、それでは失礼いたします」
新田食品の御曹司と東京医学大学総合病院院長の世間知らずの美しい令嬢の婚約発表のためだけに開かれたパーティー。いろいろな分野の著名人たちが招待されたが実際に花音と新田の事を祝う気持ち出来た人間など一人としていなかった。自分がこの席に呼ばれた事を名誉に思う者、この機会に是非水無月院長と近付きになっておこうと手土産にとんでもない大金を叩いた者、興味本位で花音の事を調べ上げ、噂では人間とは思えないほどの美貌を思うままにしていると聞いたが実際のところどうなのかこのパーティで禁止されている写真をこっそりとって週刊誌に高く売ってやろうと目論んでいる者・・・・・・さまざまだった。
花音はうんざりした。この人たちは自分の利益になる事しか考えてない。私がどんな思いでいるか・・・・・・政略結婚なんて、嫌で嫌で仕方ないのに、それを拒否する事が出来ない、今の私の気持ちなんてどうでもよくて、今どうすれば一番お金が手に入るかとか、一番有利になる事とか、そんな事ばかり。大体このパーティーだって権力と財産を見せびらかすためにお父様が5億もかけて企画した物。そして、私はその犠牲者。
花音がそんな事をぼんやり考えているうちに新田は自然な態度でその部屋の中に花音をエスコートする。
「どうぞ」
花音は誘導されるままにソファーに腰掛けた。新田も花音の隣に腰を下ろす。そのまま数秒沈黙が流れた。花音は居た堪れなくなり、無理に笑顔を作って訊ねる。
「メイドに紅茶かコーヒー頼みましょうか?」
新田は短く息を吐く。
「いえ、結構です」
そしていきなり華奢な花音の手首を掴み乱暴に押し倒した。
「えっっ・・・・・・いやぁっっ」
新田は花音の身体の動きを奪い、笑顔を作った。
「あなたはこうでもしないと私を愛してはくれないでしょうから」
泣きながら抵抗する花音に新田は優しくそれを口に含ませてやる。途端に花音はおとなしくなっていった。
睡眠導入剤。やはり用意しておいたのは正解だったか。新田は卑猥な笑みを浮かべながら涙に濡れた花音の顔にそっと口付けした。
◆ ◆ ◆
客たちの笑い声が聞こえる。どうせ政治の話か最近旅行で行った所の話、贅沢な下らん買い物の話でもしているんだろう。
遠山裕也は庭の花々の刈り込みをしながら思った。薔薇の花が誰かに摘まれてしまったようだ。やけに数が少ない。この家でそんな事をするのはおそらく遊びほうけてばかりで水無月家の跡取りにはなれなくなってしまったナルシストの女、水無月麗華くらいだろう。
一通りその作業をおえ、遠山は溜息をつくと自分の部屋に帰った。冷蔵庫から白ワインを取り出し、ビンのまま一気にあおる。今はグラスを使う気にはなれなかった。そのまま半分近くまで飲むと、一瞬遅れて酔いが回ってくる。それが心地よくて仕方なかった。
遠山は先日雇われたばかりだ。まだ若く、27〜30歳くらいだろうか。整った顔立ちをしている。汗が滴り落ち、日に焼けた肌はいかにも健康そうだし、背が高く力も強い。庭師としては珍しかった。遠山自身、どうして自分が庭師になったのかそれすら不思議だった。
お城のように大きな建物の下で女の子が花を摘んで遊んでいる・・・・・・
「僕もまぜて」
「ダメなの。おとうさまがね、この辺の子とあそんじゃだめって」
「どうして」
「わたしは、みなづきけのあととりだから」
「それ、なに?」
「わかんない。おとうさまが、いつもいってるの」
突然母さんが来て僕を叩いた。痛いよ、母さんの馬鹿。母さんには関係ないんだよ。僕はこの女の子と遊びたいんだ・・・・・・母さん、どうして女の子に謝るの?僕、なんにも悪い事して無いのに・・・・・・遊びたいだけなのに・・・・・・あぁ、まってよ、遊ぶんだよ、これから僕と遊んでよ。僕友達がいないんだよ、友達がほしいだけなのに・・・・・・。まってよ、まってよ、まだ行かないでぇっっっっ――――
遠山はそこで目を覚ました。そのくだらなさに、思わず笑った。水無月家の令嬢と遊びたがる夢だなんて、一体俺はどんな事を考えているんだ、そう苦笑せずにはいられなかったのだ。
遠山は頭を軽く振り、コーヒーでも飲もうとゆっくりたちあがった。
4 カサブランカの溜息
お願い、やめて‥‥‥
私はまだ、恋さえしたこと無いのに―――-
新田は怒りに震えていた。
俺は、騙された?この俺が?なめられたのか?馬鹿な!!
「院長!話が違うではありませんか。お約束では私が花音さんを‥‥‥」
「なんだ、ぶしつけに。それに、声が大きい。おかしな輩に聞かれたら面倒な事になるぞ」
「‥‥‥申し訳ありません。しかしながら、」
「しっ‥‥‥場所が悪い。あっちで話さないか」
「何!?この私がメイドにコーヒーを運ばせただと?!そんな事は断じて無い!!私はだいたいコーヒーなど朝食の時以外は飲まんから、そんな発想自体浮かばんな!!せいぜいワインかカクテルを運ばせたと言うなら解かるが‥‥‥」
「なんですって!?確かにメイドが『旦那様の御命令でコーヒーをお持ちいたしました』と部屋をノックしてきました!!私はてっきり花音さんを初めからくださる気はなかったのかと‥‥‥」
「そのことに関してはこの間話し合ったとおりだ。花音はもう君の物だ、私が許可する」
新田は安堵の表情を浮かべながらも、それだけは腑に落ちなかった。
「じゃぁ、一体誰が‥‥‥」
◆ ◆ ◆
薄暗い部屋の中、一人の人間が少女をいたわる様に介護していた。
やがて、少女が気が付く。もう一人が嬉しそうな顔をした。
「花音お嬢様?気が付かれましたか?」
「‥‥‥‥‥‥?晴香さん‥‥‥ね」
グレーの制服のすそをつまんで雪村 晴香は花音にお辞儀をする。
「私‥‥‥?何が、あったの?」
「旦那様は、花音お嬢様がご婚約を嫌がると思い‥‥‥抗えないように新田様とご協力なさっていたのです。失礼ながら、先日こそこそと院長室に入っていかれるお二人をお見かけして、つい、‥‥‥つい、ドアの前で立ち聞きを‥‥‥」
「いえ、ありがとう。ところで‥‥‥あ、の、」
晴香は怪訝な顔をして花音を見ていたが、すぐに気が付いていった。
「大丈夫です。まだ新田様は何もしないうちに私がコーヒーをお持ちしましたから」
花音はほっと溜息を付いた。
晴香は花音が生まれた時新しく雇われる事となったメイドである。彼女は保育士の資格を持っており、花音を産みはしたものの泣き出すと自分も一緒に泣き出し、ミルクをほしがろうと何をしようと自分には関係ないと言わんばかりに遊びほうけてばかりの母親の代わりとなって面倒を見ていた。しかし、花音が3歳になった時、新しく家庭教師が幾人もつき、晴香は他のメイドたちと同じように家の仕事だけをやるようになったのだが、花音が心を許せる唯一の人間であった。
「ねぇ‥‥‥外の世界の事、何か教えて。外の世界では、みんな何をしているの?」
晴香は微笑すると、首を縦に振った。
「ええ。花音お嬢様は本当に外の世界のお話が好きですね。どんなお話がいいのですか?」
「外の世界では、私と同じくらいの年の人はどんな生活をしているの」
花音の唐突な質問に晴香は動揺した。この少女はもう18歳だ。外の世界‥‥‥いや、世間ではもうほとんど大人と同等だし、人生で一番楽しい時期は16〜20代前半ぐらいだろう。この少女は、それを知らない。知った時は、もう遅い。
私はそれでも教えてあげるべきなのだろうか?この現代を忘れたかのような屋敷の中にずっと閉じ込められた人魚姫に‥‥‥‥‥‥
「晴香‥‥‥さん?」
「外の世界では、毎日学校と言うところに通っていますわ。花音お嬢様と同じくらいでしたら、高等学校。そこに入るためにたいていの人は猛勉強をして自分のレベルで入ることの可能なところへ行きます。そして今度は大学と呼ばれる所へ行くために猛勉強をし、今度は一般企業に受け入れてもらうために勉強をし、そして今度は上司にへつらいながら仕事をこなし、そして、」
「もういい、もう、いいわ‥‥‥もう聞きたくない‥‥‥‥‥‥っ」
嘘だわ。もし本当だとしたら、人間は、何のために生きているの?苦しむため?悲しむため?
そして私は、「水無月家の跡取り」としてしか、存在価値が無いの?
私は、わたしはただこの家の外に出て真実を知りたいだけなのに‥‥‥
5 定められし運命の中で
月明かりの下、麗華は胸元の大きく開いた赤いドレスを脱ぎ捨て、一人横たわっていた。面白くない。あの子がパーティに出ているのに、どうして私はこんなところに閉じこもっていなくちゃいけないわけ!?
あの子が生まれるまでずっと‥‥‥
私は水無月家の跡取りとして相応しい人間になるために、どんな辛い事でも我慢してきたのに!!この家で認められるために、自分の大切な物すべてを投げ出していたのに!!
麗華は立ち上がると煌びやかな部屋の中をうろうろと歩き回った。何とかしてまた忘れたい。忘れてしまいたいのに。
わたし‥‥‥‥‥‥
木漏れ日。あったかくて狭い部屋の中、綺麗な女の人が笑いながら私に話しかけてくれる。優しそうな男の人がやっぱり笑いながら私を抱き上げてくるくる回ってくれる。
わぁ、目が回っちゃうよぉ!!でも、この人たち誰だっけ?あれ?今私をなんて呼んだの?
私は、今なんて呼ばれたの?
嫌ぁ‥‥‥っっ!!
麗華は悲鳴を上げた。
私、私ったら一体何を考えてるの?私は麗華。水無月家の長女の麗華。そして、私はずっとこの家にいたし、ずっとお父様とお母様によって大切に育てられてきたわ。あの子みたいに家から出してもらえないなんて事もなく、一般人の男と遊ぶ事も許されてる。たいてい、一晩限りの付き合いだけど。
私に悩みなんて存在しないんだから‥‥‥!!
麗華は鏡の前に立ち、己の姿を眺めた。そこには紅いシルクのドレスを身にまとい、優雅に微笑む美女が確かに存在していた。ほっと安堵の溜息を漏らすとソファーに沈むように倒れこんだ。横になったままテーブルの上のワイングラスを取り口に運ぶ。そしてそのまま麗華は深い眠りについていった‥‥‥
「なんでも花音お嬢様はピアノが大変お上手と伺ったのですが、どうです、お聞かせ願えませんかな」
先程現在の院長である水無月卓三と談笑していた一人の政治家が、彼の機嫌を取るように彼自慢の令嬢を褒めた。それに続けてその場にいた人間はお嬢様は美しいそうでだとか、教養があふれ出ているだとか、院長先生のお育て方が素晴らしいのでしょうねだとか、自分たちの知っている限りの言葉でこのパーティに出席しているはずなのにまだ見たこともない令嬢を褒めちぎったあと、誰かが一つ褒め忘れていた事を思い出し、付け足したのがこれだった。
「いやぁ、あの子は私と妻の子供ですからな。当然です。ピアノは趣味でやっているだけなんだが、なかなかのものですよ。なにか一曲お聞かせしましょう。メイドに呼んでこさせますよ」
近くにいたメイドは彼に呼び止められ、一瞬複雑な表情を作った後、承知いたしましたと早口で言って立ち去った。
「‥‥‥‥‥‥」
それを無言で見送る男が一人いたが、誰も気に止める事はなかった。
突然、会場のライトが消えた。
「な、なんなの!?」
「おい、どうしたんだ!!」
そして、次の瞬間一箇所に照明が集中した。
そこには、一人の少女が立っていた。
「‥‥‥‥‥‥。美しい‥‥‥」
漆黒のさらさらとしていて、艶やかな髪。透き通るように白く滑らかな肌。ぱっちりとした大きな瞳はきらきらと輝いている。紅潮した頬。ふっくらとして瑞々しい唇。淡い清楚なピンクのすんなりとした形のドレスはどこまでも優しく美しいその身体に纏わりつき、その少女の美を揺るぎないものにする。少女は静かに頭を下げ、周囲の視線に構うことなくステージの方へ歩みを進める。
「私の最愛の娘、花音です。あれによくにて、なかなかの美人でしょう」
満足げに笑う水無月卓三を半ば無視して、完全なる美をまるで自覚していないかのように傲慢や自惚れとは無縁の少女に人々はただ見とれた。美しい。美しすぎる。この令嬢はこの屋敷を出た事がないと聞いた。だからとんでもなく甘やかされて、美しいけれども傲慢で下衆で宝石やらドレスやらでごてごて飾り立てた品位のないそんじょそこらの女子高校生と寸分違わぬガキじゃないのか!?内から迸る様な美貌と品位に溢れる身のこなし、あの少女は本当に人間なのか!?そんなはず‥‥‥そんなはずはないが、まるであの少女は深海の中で大いなる希望と憧れを抱き続けた人魚姫のような‥‥‥
弾く曲は決まっている。
花音は楽譜を用意してこなかった。
けれど、彼女の中に、それはあった。
晴香のアナウンスが聞こえる。簡単に花音の紹介をし、
「曲名は、『カノン』です」
花音は弾き始めた。
「‥‥‥?パッヘルベル作曲の『カノン』ではないのですかな?」
「このような曲ではないと、思うのですが‥‥‥」
ゆったりと、哀しいくらい切ない旋律。時折人々は涙し、また花音の華奢な左手が奏でる分散和音のスケール‥‥‥とんでもない速さで回る指の力強さとテクニックに目を見張った。
そして、唐突に曲は盛り上がり、すぐに終盤に入り、曲は終わった。
音の余韻だけが残り、それすらも消えた時会場は静まり返った。
拍手さえも忘れてしまうほどに、素晴らしい演奏だった。
「気付いたかしら、お父様」
「さぁ、どうでしょうか。それにしても、美しい曲でしたわ。お嬢様は本当に音楽の才能がありますわ」
花音はくすっと笑った。
「あの曲の本当のタイトルは‥‥‥」
『花音』。
月明かりの下、遠山は先程聞こえてきたピアノの音色の美しさを思い返していた。初めて聞く曲だった。そして、何よりも神秘的な響きだった。
どんな奏者だったのか、是非拝見したかったな。
あの会場にはお偉方しか入る事は許されない。しかし何とか上手く誤魔化せば堂にでもなった物を‥‥‥ピアノに聞きほれて、何も考え付かなかった。迂闊だった。
遠山はたんすの中からキーボードを取り出し、スイッチを入れた。
そして、それを目の前にしてしばらく何か考えていたが首を振るとまたしまった。
あのピアノのあとに、安っぽいキーボードの音は聞きたくなかった。
6 月下の恋人
――ねぇ‥‥‥私の事、愛してる?
――本当に?
――じゃぁ‥‥‥抱いてくれる?
男が気体に満ちた目で頷くのを満足げに見つめると、女は嬉しそうに首をもたげた。
――娘?愛してないわ、だってあんな獣から生まれたんですもの、当然よ。
――私はあなたへの愛に生きるの。約束するわ‥‥‥
◆ ◆ ◆
「お母様、失礼いたします」
水無月 春奈は目を開けた。
今確かに、忌々しい声が聞こえた。
「開いているわ。入りなさい」
静かにドアが開いて、整った顔立ちの美しい少女が入ってきた。少女は彼女にはにかむ様な笑みを見せたが、それは隣に眠る男を見るとすぐに消えた。
「何の用なの、花音」
花音は不安の色を隠しきれない様子で口ごもる。
「あの‥‥‥私、いえ、あの、‥‥‥」
「何なの?はっきりしなさいよ」
春奈は声を荒げる。
するとどたどたという足音が聞こえ、耳障りなバリトンの声がした。
「あ‥‥‥な、た」
春奈は、ようやくそれだけ言った。
「お父様が、お母様に正式な離婚の相談をしたいと仰られています」
◆ ◆ ◆
「お父様とお母様、本当に離婚してしまうのかしら‥‥‥」
ピアノの音と暖かな拍手がやむと、奏者が溜息をつきながら悲しげに声を漏らした。
「花音お嬢様‥‥‥以前にもそんなお話は出ましたが、何もありませんでしたわ。大丈夫です、きっと」
拍手をした人間が優しくそう慰める。花音と呼ばれた少女はほんの少し明るい顔をした。
「晴香さんがそういってくださると、本当にそんな気がするわ。ありがとう」
花音は今度は本当に嬉しそうににっこり微笑むとまたピアノに向かう。晴香はその小さな背中に声をかけた。
「次は、何を弾いてくださるんですか」
そうね、と花音は躊躇する。やがて静かにベートーベン作曲の月光が流れ出した。
「あれは、あなたにとって本当に特別な曲なんですね‥‥‥」
誰にも聞こえないような声で、晴香は呟いた。
誰だろう。誰なのだろう。
遠山は薔薇の花の手入れをしていた。そして、先程から聞こえる美しい調べにもう10分近く聞きほれている事に、今気が付く。
この弾き手は、先日の奏者に違いない。しかし、この屋敷でこんな素晴らしい演奏が出来るピアニストを専属で付けているという話は聞いたことがない。だいたい、演奏する曲がまちまちだし、どうかするとバイオリンの時もある。それもそちらの方は下手ではないが、取り立てて言うほど上手くはない。つまり、プロではないという事だ。
遠山は、ピアノのメロディーがこぼれてくる部屋を見つめた。そして薔薇に手をのばし、一瞬躊躇して少しはなれたところへいく。そして、白百合を一本摘み取った。
「素晴らしき演奏と、貴女に」
遠山は白百合にそっと口付けすると、天高く投げた。
第一楽章終了
第二楽章
その花は穢れなき純白に背負った苦しみで頬を紅く色づかせ
チゴイネルワイゼンがとんでもない速さで奏でられていきます。奏者はとても綺麗な顔立ちをした、小さなお姫様でした。この曲は、本来たっぷりとメロディーを歌うべき曲です。後半のジプシーダンスが早いため、この速度で弾くとそこはとんでもない速さになりえます。しかもこの曲は本来はバイオリンがメロディーを歌う曲だというのに、バイオリンがないためお姫様は右手でバイオリンのメロディーを弾き、左手でピアノのメロディーを編集した物を弾くという本来ならリズムもテンポも違い到底不可能な演奏です。
けれどお姫様はとてもピアノが上手いのか、ものすごい速さで回る指の動きとは反対に、どこか放心状態でぼんやりとしているように見えました。
お姫様は、まだ小さくて何も知らないのです‥‥‥
『奥様は、重度の家族的交遊拒否症です。それが原因で人との内面的な関わりを非常に恐れていられます』
『‥‥‥治るんだろうな』
『‥‥‥大変、申し上げにくいのですが』
『治るはずだ!! あれは、初めて出逢った時私にどんな顔を見せたか判るか? 笑ったんだ!とても楽しそうに笑っていたんだ! それはあの時までずっと続いた、あの時!! あの時私があんな事をしなければ‥‥‥っ』
『院長‥‥‥ご存知でしょう。確かにそうです。あの時あなたが早まらなければ奥様は鬱などにかかることなく、今でもきっとあなたの記憶の中に眠られた姿のままでいられたでしょう。しかし、これは体の病気ではない。どんなに優秀な医者でも、治すことは出来ないのです。それが出来るのは、ただ1人。‥‥‥奥様御自身だけです』
『‥‥‥っ。何故だ、何故なんだ? あの時あれは確かに賛成してくれた、覚えている、それなのに何故、あんなに苦しむ? それもどうしてそれをあれほどまでに覆い隠してきた? どうして一言も私に相談しなかった? どうして私を責めなかった? 教えてくれ、誰か私に教えてくれ、教えてくれぇ‥‥‥っ』
叫び声は嗚咽に変わっていきました。お姫様にはその声が聞こえました。そして、なにが王様を苦しめているのか知りたいと思いました。
小さなお姫様は声のするほうに歩いていきました。ピアノの蓋をしめて、小さな手に小さなキャンディーを握って。大きな王様にそれをあげるつもりなのです。
お姫様は思いました。わたしは、かなしい時にこれをもらってうれしくなれた。だからきっと、お父さまもよろこんでくれる。うれしくなれる。お父さまもお母さまも、それからお姉さまも、笑ってるかおがいちばんすき。かなしいおかおは、みたくないの。
けれど、王様は笑ってくれませんでした。とても哀しそうにお姫様を見つめて、抱き上げました。
『お前だけだ‥‥‥』
王様は不思議そうな表情を浮かべてキャンディーを差し出すお姫様の頭に手を置きます。お姫様はとても小さくて軽く、片手で支えているのにも関わらずまるで何も持っていないようでした。
『お前だけは私の手の中にいてくれる。お前だけは私を裏切らない。私の傍にいてくれる。穢れた世間に出て他の子供のように擦れていくこともない。お前は、この屋敷の中で私が自ら選んだ各方面で優秀な指導者にすべてを学び苦労など知らずに生きていくんだ。そして、私の後を継いでくれ、花音』
◆ ◆ ◆
「人魚姫は、嫌いです」
高くて澄んだ声だった。
「ほう。人魚姫を自分と重ねて惨めになるから、かね?」
続いてテノールのしわがれた声がした。人を馬鹿にするような響きだったが、その言葉には真剣さが感じられた。
「いいえ。人魚姫は、諦めてしまったから」
はにかむような笑みを見せ、少女は歌うように言った。
「そうでしょう?“人魚姫”」
手にした“楽譜”にむかって。
「‥‥‥まったく、どうもお前は父親には似ていないというべきか、ついていけんな、花音」
おそらく12〜13歳程度であると思われる色白の少女はくるくると楽しそうに回りながら歌う。ピンク色のシルクで出来たスカートがふわりと膨らむ。
禿頭の男は深い溜息をもらした。花音と呼ばれた少女はピアノの前に座りその曲を弾き始める。部屋の中に神々しい旋律が響き渡る。
「な‥‥‥それは初見じゃないのか?!」
「ええ。とても良い曲ですね。大切に弾きますわ」
ゆったりとして、哀しいくらいに切ない、儚げで尊い独特な旋律。中盤で左手の分散和音によるスケールがある――それも16分音符で。ありえなかった。並みのピアニストだってこの曲を弾きこなすのは難しいだろう。それをこの独学で、というよりは趣味でピアノをいじっている様な少女が初見で弾きこなしている。その姿はかのヴェートーヴェンが求めた「神のつくりたもうし楽器」そのものだった。
「叔父様。ところでこの曲はなんという名前ですの?」
この曲のタイトルは、作曲者がそれを付ける前に他界してしまったため存在しなかった。作曲者は男の友人で偉大なバイオリニストでもあった。何故この曲がピアノ独奏曲で、コンチェルトではないのかといぶかりもしたが、彼がいない今、その答えはきっと永遠に自分の知るところとはならないだろう、独りごち、改めて曲名という重大な物を思い出した。相応しい名前など、この世界に存在するものか。これほどまでに神々しい音楽にはバッハでさえも唸るだろうに、ましてや私になど‥‥‥
「花音」
自分でも驚いた。たった今自分が発した言葉をもう一度繰り返してみる。
「“花音”」
今度は確かな手ごたえがあった。怖いくらいに、ぴったりだと思えた。
「私の名前と、同じ‥‥‥」
花音も搾り出すように呟くと楽譜を大切そうに胸に抱いた。
「私と、おんなじ‥‥‥」
友達のいない少女にとって、それは単なる慰めだったのだろうか。それとも、
もしくはそれこそが‥‥‥‥‥‥
◆ ◆ ◆
「下手ですね」
窓の下から、その声は聞こえてきました。私はあまり上手いとは言い難いバイオリンを置き、ベランダにでて身を乗り出します。人影は判りましたが、月光に反射して顔は見えませんでした。けれど、声でお父さまでも叔父様でも、その他の方でもない、私の存じない男の方だということははっきりと判りました。
「どなた?」
「私は、遠山と申します。庭師を勤めさせていただいております」
「私は、この家の娘です、名前は‥‥‥」
そこまで言いかけたとき、私は遠山様が手にバイオリンを持っているのに気付きました。
「あなたは、バイオリニストですね?」
遠山様は肯定し、あなたと一度演奏がしたくて、と笑いながら弓を構えました。私は構いませんが、どうやら遠山様は私が誰なのか気づいていらっしゃらない御様子です。けれどその方が『外の世界』に近い状態でお話できるのではと思い、あえて知らない振りをしました。
「‥‥‥私、バイオリンは」
「ええ、知っています。私はあなたにピアノを弾いていただきたいんです」
「つまり‥‥‥コンチェルトをやりたいと?」
コンチェルトの曲はあまり好きではありませんでしたが、私はいくつかの曲を頭の中で演奏していました。遠山様は、どの辺りの曲がお気に入りなのでしょうか。ヴェートーヴェンのスプリングのようなピアノにも主旋律のある曲だと嬉しいのですが。けれどあれはバイオリンの退屈な曲なのでバイオリニストの方が好むとは思えません。
しかし遠山様は意外な事を仰られました。
「“花音”。あれを弾いていただけませんか」
あの曲はピアノ独奏曲です。遠山様は単にあれが聞きたいだけなのでしょうか。私は疑問に思いましたが弾き始めました。初めに右手のメロディーがゆったりと流れて‥‥‥
突然まったく別の旋律が流れ出しました。ゆったりとしたピアノのフレーズとはまるで逆です。何かに追い立てられるかのようにものすごいスピードでバイオリンが流れていきます。
しかし、2つの別の旋律は不思議に融合し、絡まりあいながら進んでいきました。私は信じられない気持ちで弾き終えると興奮が冷めないままに今の演奏についてたくさんの疑問をぶつけます。
「これは、父が残した試験問題なんですよ」
最終的な結論。遠山様は悲しそうに呟いて、俯きました。ピアノ独奏曲である“花音”に彼がバイオリンで相応しい別のメロディーを付けられたら合格の、試験。
「まだまだ、ですね。私の未熟さが身にしみました」
遠山様はそういって、私にお礼を述べると去っていきました。
私は何もいえませんでした。
けれど、強く強く思いました。
愛しいと、もっと一緒にいて欲しいと。
私は、遠山様の事を、好きになってしまいました‥‥‥。
これが「恋」なのでしょうか。
このもどかしさが、そうなのでしょうか‥‥‥?
この感情は、普通の物なのでしょうか。
判らないのは、私だけなのでしょうか。
‥‥‥判りません。
第三楽章
1 泣きながら眠る紅薔薇の宵
私は、水無月家の長女。
ずっとそうだった。
これからも、ずっとずっと、
そのはずだった。
もしそれが違うとしたら?
私もクレオパトラの如く、
気付かれ恥を書く前に、
優雅に死んでしまおうかしら‥‥‥
それも素敵。
気が狂った振りをしてお父様達を苦しめる。
ああ、これもいいわね。
いっそのこと、本物の「王女様」を殺して私も死ぬ。
これがいいわ。
三人の侍女を連れて自殺したクレオパトラにそっくりで、
彼女も顔負けの美しさを持つ私には似つかわしいわ‥‥‥
◆ ◆ ◆
「嘘‥‥‥嘘です、御冗談はおやめください、御主人様」
「嘘ではない、だから私はお前を手放したくないがためにまだ子供のお前を雇った。花音の教育係と言う名目でな」
日の光で溢れた朝だった。大勢の人間が見守る中、2人の女性と1人の男の話し声だけが、むやみに広いその部屋に響き渡る。片方の女性はいつも通り地味なメイド服に身を包み、もう1人は対照的に紅いシルクのワンピースに漆黒のショールという、派手ないでたちだった。
一目でオーダーメイドと判る高級なスーツを着込んだ男はもう一度、先程と同じ言葉を口にする。
「麗華は、養女として水無月家が引き取った娘、本当の水無月家の長女は、晴香のほうだ」
理解できない。何を言っているのか、さっぱり判らない。麗華は反論しようと口を開いて、
「‥‥‥っ」
言葉にならなかった。慌てて深呼吸をし、落ち着かせようと無理に息を吸い込む。必要以上に眼を瞬かせ、溢れそうになるものを堪えようと試みるが駄目だった。ディオールで完璧に整えられたメイクが崩れるのにも構わず、泣きじゃくる。呆然と晴香はそれをみる。私が?水無月家の?違う、私はそんな特別な家に生まれたわけじゃない。私の家は確かに水無月家に仕えていたけど、花音お嬢様の教育係と言っても姉代わりの事をやってあげただけ、この無責任な麗華お嬢様や奥様の代わり、それだけ。年齢が近かったから。大体私にだってちゃんと両親がいる。大丈夫、二人とも私の本当のお父さんとお母さん。大切にしてくれた。だから、
「‥‥‥‥‥‥」
戸籍。あれを見れば判る。私は水無月家の人間なんかじゃない。決して。
「疑うなら疑えばいい」
水無月 卓三は冷ややかに言う。
「誰がなんと言おうと、私の言うことは絶対だ」
ばたん。
音がして、振り向いた晴香の眼に血の気を失った花音が見えた。
「お嬢様っ!!」
誰よりも早く静香は花音の傍へ行き、抱えた。
「お部屋まで私がお連れしますから!!」
そこで、周囲の空気の冷たさに晴香は怪訝な顔をした。みんな、なにをしているの?お嬢様が倒れられたら、いつももう少し迅速に行動していたと言うのに。
「お嬢様。私が花音お嬢様をお連れしますから。あちらのお部屋でお休みください。跡でお着替えをお持ちしますので」
「なにを‥‥‥言ってるの」
同僚達の中では一番仲のよかった人間に言われ、晴香は困惑した。お嬢様って、誰の事‥‥‥?
「晴香お嬢様、そのような事をされては私が叱られてしまいますわ」
『誰がなんと言おうと、私の言う事は絶対だ』
晴香はそこでやっと知った。私が誰であろうと、真実がどうであろうと、水無月 卓三にとって、この家のメイドたちにとって、そんなことは問題ではないということを。水無月 卓三、彼の言った事であるならそれが絶対なのだ。メイドたちはいま、とにかく水無月 卓三に従う事しか考えていないのだ。
そして晴香にも、それに抗うすべは無かった。真相がわからない今、外出許可が下り戸籍を見るまでは彼に従わなければならない。
その間中、紅薔薇はずっと独りで泣いていた。誰もいなくなった部屋の中、例川泣きながら笑った。
その晩、麗華は姿を消した。誰も見たものはいなかった。
2 永き深き夢を見よう 潮の香りの届くところで
まるで前が見えない、闇の中みたい。光などない。
『麗華!』
誰かが私を呼ぶ声がする。あなたは、だあれ?
『麗華!』
あなたは……
わたしは……
誰がなんと言おうと、私は私でしかない。
「麗華」
私は振り向いた。
「お早う」
そこに彼女がっ立っていた。私は笑みを返す。
「お早う、晴香」
私の通っている高校は私立の名門といわれる女子高だ。いわゆるお嬢様学校というやつ。私はこれでも水無月家のお嬢様なので、そこに通っている。
私は水無月家の跡取りとして生まれた。
水無月というちょっと変わった響きの苗字は好きなのだけど、この家自体はあまり好きじゃない。だって、なんだかとても苦しいから。上手く表現できないけれどお父様やお母様はあまり笑った事がないし、妹の花音はとても綺麗な子なのにピアノばかり弾いていて姉の私ですら近寄りがたいものを感じさせる。メイドたちはお父様達や私のご機嫌伺いばかりして、とてもジョークなんか交わしながら話せそうにもない。
けれど、それでも私は皆にとって「水無月家のお嬢様」なのだ。
いくらお嬢様学校といっても、案外本当にお嬢様だったりする子は少ないものだ。多少一般家庭よりは上の生活をしていても、普通の家庭で普通に暮らしているような子がほとんどで、その辺の女子高校生とさして変わらない。しいていえば、ブランド品が大好きで、そういったものでしか人の価値を見られない事とか。
だから、そんな中で私は特殊で貴重でおいしい存在であるわけ。
友達は学校中で一番に多くて、少ない。必然的なのかもしれないけれど気付けばそれが定位置になってしまってた。顔も知ってる、話した事ある、遊びに行ったり、宿題見せてもらったり。そしてお金貸してあげたり。ほとんどの友達とはそのくらいまでしか出来なくて、実際悩みを打ち明けたり心から信頼できる友達なんかいなかった。
たった一人を除いては。
晴香だけは、私の本当の友達でいてくれた。彼女は私を私として見てくれていたし、悩みを打ち明けてくれたり、下らないことを延々と話したり、辛い事があったときにいつまでも泣き続ける私を慰めながらずっと一緒にいてくれる。
この子だけは私を裏切らないでいてくれるの。
「麗華、どうしたの?」
私は晴香の顔を見て微笑んだ。他の子に対して使う作り笑いとは全然違う、心からの微笑み。
「なんでもない、遅れるから早く行こう!」
「わぁっ、麗華待ってよぉっ」
楽しかったね。あの頃は。
「麗華!」
瞼をあける。そこに、あの忌々しい女が立っていた。優しそうな、素直そうな可愛い顔立ち。かつて私が温かみを感じてしまった、憎たらしい表情。何も変わらない。本当に何も。けれど、私たちの関係は著しく変わってしまった。そして、私自身も。
「あら、晴香。私を呼び捨てにするだなんて、どういうつもりかしら?もうあの頃とは違うのよ?」
皮肉たっぷりにそういってのけてから気がつく。そう、もう今では私とこの女の立場は逆転してしまっている。昨日とは違う、私とこの女との関係。
「そうね、ごめんなさい」
けれど私の目の前には辛そうに頭を下げる馬鹿がいる。
「私はまだあなたに許してもらっていないものね」
嘘つき。
私と晴香が卒業し、別れて3年ほどたった頃だった。お互い手紙やメールのやり取りはあったもののなかなか逢えずに、駆け抜けるようにして月日は流れていった。
私の手には、ワイングラス。まだ昼間だけど、今の私にはどうでもよい事だった。仕事などしていないし、する必要性もないし、逢う予定の相手もいない。したがって酔ってでもいないといられなかったし、そんな時間はとても美しくて好きだった。
「失礼致します、お部屋のお掃除に参りました」
突如その憂鬱で甘美な時間が破られる。私は不機嫌になる。
「後でにしてよ、今私……」
時間は一瞬にして凍りついたかのようだった。
そこに、晴香が立っていた。俯いて、可愛くて優しい暖かな顔を、やつれた色に染め、そこに立っているのが苦痛だといわんばかりに引き攣らせて。
「晴香?!どうしたの、こんな所で何してるの?やだ、晴香全然変わってないね、私なんかもう全然……晴香?」
彼女から色が抜け落ちている事に気付いて、私は不審に思う。一体どうしたというのだろう。
「……なんの、こと、ですか」
「晴香?」
「私は、一切、存じ上げ、ませんが」
「はる……か?」
「……麗華、お嬢様。申し、訳ありません、でした。……後でもう一度……伺います」
何故晴香がここにいて、メイドの仕事をしているかなんて、そんな事はわからない。けれど、彼女はもう私の唯一の友達ではなくなっている。それだけは怖いくらい確かで、絶対認めたくなかった。私は彼女の名前をもう一度呼ぶ。
「晴香」
もう彼女には完璧な偽善の笑みが浮かんでいた。
「なんでしょう、お嬢様」
「……なんでも、ないわ」
「そうですか、では失礼致しました」
そういって晴香は背を向ける。一瞬、光るものが彼女の顔を流れるのを確かに見た。けれど次の瞬間、世界はぼやけて見えなくなった。
まるで前が見えない、闇の中みたい。光など、無い。
私はずっと独りで生きてきた。だから、
「……どうせお父様に言われたんでしょ、花音の教育係をやめたらまともにメイドの仕事をしろって。私とは可愛い娘のあなたをどうしても決別させたかったみたいだし」
「ええ、そのとおりだわ。私はご主人様に従った。花音お嬢様の教育係を5歳から務めているのも、両親しか知らないわ。都合よくいつでも休ませてもらえたもの。仕事というよりは、あれね。近所の小さい子を構ってあげるような感覚。けれど、それは結局言い訳。どんな風に言い逃れても、私があなたを裏切った事に変わりは無い。だから、謝る。あなたが許してくれなくても、それまで謝り続けるから」
「自己満足ね」
私は強く気高い大輪の薔薇になったわ。あの頃の名前も無い雑草なんかじゃない。なのに、
「それで報われるの?なら是非何処かの宗教にでも入って何とかって言う神様にお祈りでも捧げるべきよ」
それなのに、あなたはまだ変わらないのね。まだ、甘い幻想を持って生きているの。人は汚れていないと生きていけないのに。欺く事なんて気にするほどの事でもないのに。
まだ気付かないの。私はあなたに裏切られたと思って傷ついた訳じゃないのよ。
「判んない。私は馬鹿だからそれで満足しちゃってるのかも知れない」
私はね、晴香、
「でもあなたが許してくれるとは思ってない。期待なんかしないわ。だけどせめて、」
私がこんなに変わってしまったというのに。
「介抱くらい、させてよ」
言われて私は初めて気付く。自分が清潔なベットに体を横たえていて、服もいつの間にかちゃんと着替えているという事に。確かあの後屋敷をでて、そしてどうした?そこまでは辛うじて覚えているもののその後がまったくわからない。
「あなたが倒れているのを見たときは驚いたわ」
晴香は苦笑して、私の額のタオルを取り替えた。ひんやりとして心地よい。
「ここはどこ」
「私の部屋よ」
「そう」
静かな時間がただ流れていく。まるで何も無かったのだといわんばかりに。
ふいに、穏やかなピアノの音色が聴こえた。
「花音お嬢様のピアノ」
晴香は微笑む。
「とても、優しいと思わない?」
「知らないわよ、そんな事」
そして少し、苦しい。
ねぇ。
私はこんなにも変わってしまったというのに、どうしてあなたはあの時泣いたの。
あのときの涙は、私が変わってしまった事への悲しみなの。
それとも、あなたは。
続
2005/01/30(Sun)19:00:21 公開 /
夢幻花 彩
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夢幻花 彩さん
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■作者からのメッセージ
こんな奥まったところにあるのにもかかわらず、ここまで読んでくださったことにまずは心からお礼申し上げます。
結局途中ですよ。どうしましょう。所で今回麗華がいい感じの人になってくれるよていだったのですがねぇ。。。微妙。
こんなですが、レスいただけたら物凄く嬉しいです。勿論批判等も大歓迎です。
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で
42文字折り返し
の『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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