『三日月の証明 第1話』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:よもぎ                

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    「三日月の証明」








プロローグ


 漆黒のベールを纏いながら、只管「彼ら」から身を隠した。乱れた息を整える暇もなく、街灯一つない暗い道を自らの方向感覚だけを頼りに走っている。彼女は背後からは恐ろしさに死んでしまいたくなるような眼差しが、確実に自分宛てに送られていることを感じた。口の中は乾ききり、全てを投げ出して膝を抱え込みたい衝動に駆られた。身体の脇に無造作にぶら下がった右腕が最も彼女を恐怖に陥れる存在にあり、両耳に開けた僅かなピアス穴さえも、「彼ら」を自分の中に取り入れてしまう愚かな余裕のように思えて仕方がなかった。
彼女の周りには小さな「虫」が飛び回り、まるで獲物を主に差し出すために雇われた殺し屋のように、自らの仕事を全うしようと脇目も振らずに付き纏っている。動かない右腕に舌打ちしたものの、器用にもう片方の腕を使い、スピードを緩めることなく「殺し屋たち」を掻っ切った。何匹かは細い腕から発射したオレンジ色の閃光に身体を焼かれ、音もなく闇に消えていった。しかし後から後から代わりの者が現れ、一呼吸終える頃には時がまったく動いてないかのような錯覚に陥った。軽快な羽音を響かせながら、雇われ者たちは一人の女を追い続ける。彼女は一瞬麻痺した右腕に視線を移し、物凄い速さでもう一方の腕に視線を走らせると、すぐに進行方向へ目を戻した。虫たちはまだ増え続けている。背中にはあの視線がナイフのように突き刺さり、両耳には不愉快で耳障りな音が盛大に響いていた。闇の中で揺れる濁った緑色の髪に、何匹かが潜り込もうとしていたが、間一髪気付いて左手で髪を掻き毟る。赤いマニキュアは剥がれ落ち、汗と涙で濡れた髪は嫌な臭いを発していた。しかし虫たちは諦めることなく、更に大量の部隊を連れて彼女に襲い掛かる。続けて二発お見舞いしたものの、焦りと不安から腕が震えてうまく命中しなかった。虫たちは面白そうに飛び回りながら、彼女の身体をソナエツケの針で刺し始める。彼らの針には特殊な毒があり、一匹分の持ち毒は少ないが、これだけ数が多いと話が違う。彼女はチクチクする感覚に気付くと、咄嗟にマントで身を隠した。しかし薄く所々破れているたった一枚の布が、何千匹もの戦隊の攻撃を防げるはずもなく、虫たちは容赦なく彼女に襲い掛かった。
「やめろ……」
彼女の小さな悲鳴は「虫」には届かなかった。
彼女は必死で足を速めながら、ベルトに備え付けられた小さな水時計を見た。それは透明なガラスで出来ており、中ではキラキラした水色の液体がゼリーのように揺れている。金色の縁飾りにはMAXとMINという文字が彫られていて、その脇には銀色に輝く星の形をしたボタンが付いていた。
彼女は必死の思いで攻撃を交わしながら、一瞬の隙をついて銀色の星を指で押した。
すると中に入っている液体がゆっくりと渦を巻き始め、キラキラした極小の粒が液体から離れ、縁飾りの丁度裏側に集まりだした。そして見る見るうちに彫り物の文字の片方が水色のキラキラで埋められていき、数秒後には眩しいほどの輝きを発していた。
キラキラ輝く「MIN」の文字を見ると、彼女は表情を歪め、少し身震いをした。

今あの術を実行すべきなのか……。このような状況で行えば、その後どうなるかは一目瞭然だ。実行後の処置も迅速に行わなければならない。私に残っている体力から考えれば、それは雲を掴むよりも不可能なことだ。

「虫」は彼女を刺し続けていた。彼女は自分の右足が麻痺してくるのを感じ、すぐさまスピードを速めた。

今……今この時、「彼ら」から身を守らなければならない今なら、出来るかもしれない。「虫」よりも恐ろしいアイツと真正面に向き合うことを思えば、多少無茶な策も可愛らしいゲームのようなものだ。今なら、この状況なら、私にも出来るかもしれない。

「雇われ者」はスピードを遅めない獲物に苛立ったのか、マントの上から急所を狙い撃ちしだした。彼女の頭には「痛い」という言葉と、先程見た水時計の文字、そしてあの「策」しかなかった。


今だ。


遂に彼女は決めかねていた策を実行に移した。

「エアー・ドーム!」
若い女性の声で呪文が発せられると、忽ち辺りは暖かい日差しに満ち溢れるかのように明るく輝きだした。
自由な方の腕は今や「手」の形は示しておらず、手首から先は切り取ったかのように綺麗に消えていた。先端から発射される夥しいほどの光が、暖かい空気のドームとなって彼女を包み込んだ。「虫」は呪文が発せられた途端苦しそうな声を上げると、一目散に闇の中へ逃げ出した。逃げ損なって光に当てられた何匹かは、様子を見ようにも既に姿を消していて、跡には灰も骨も残らなかった。
暫く辺りを用心深く見回していたが、数秒も経つと彼女は勢いよく駆け出した。
背後には―先程よりは遠くなったが―あの眼差しが感じられる。「虫」を追い払うためのこの策は、必ずしも成功したとは言えないものであった。
むしろ、失敗であった。

  
  サフラン 貴様は我らからは逃れられない


邪悪な、深い泉の底から発せられているような声が、確かにサフランの耳に届いた。身の毛が弥立つ思いを振り切って、彼女は無我夢中で走り続けた。
サフランの水時計は警報を発していた。MINという文字が段々と輝きを失っていき、彼女の表情も比例して暗く、荒んだものとなっていった。
「……リ……リヴァース……マグ」
回復の呪文を必死で唱えようとしたが、血の気を失った唇は正常に動かなくなっていて、遂には声が出せなくなってしまった。


  サフラン 貴様は我らからは逃れられない


「……」
声にならない声は、濁った空気に混ざって消滅してしまった。
少しずつ彼女の周りの光が薄れていき、ベルトに付いていた水時計は地面に落下した。遠くからその様子を見物していた「虫」は、完全に彼女が光を失うまで、闇の中で待機していた。



水時計が静かに割れた。


音もなく、花弁が舞い落ちるように、静かに割れた。







  サフラン 貴様は我らからは逃れられない


  我らは貴様を追い続ける どこにいようとも いつに存在していようとも


  我らは必ずやお前 そしてその末裔を探し出す


  
  そして 永遠の眠りにつかせてやる









第1話


「おばあちゃんが亡くなったそうよ」
 早朝叩き起こされて聞いた台詞。まだ覚醒していない頭を揺さぶられて眩暈がした。
 母は表情を変えずにテキパキと忙しそうに動いていた。大きく開けられた窓からヒンヤリとした朝風が入ってきて、新緑色のカーテンが波のように揺れる。その陰から黒猫のポゥが顔を覗かせて、不思議そうに母を見つめていた。
「今すぐ行かなきゃならないから、アンタも仕度しなさい。それと、序にアリスも起こしてきてね」
手を休めることなく連絡すると、山ほどの洗濯物を抱えて部屋から出て行った。僕も仕方なくベッドから体を起こして、部屋の隅にある箪笥から着替えを探し出した。普段なら目が冴えるほど美しい青色をしているお気に入りのTシャツを選ぶところだが、一応ここらの地域にも「喪に服す」という儀礼はあるので、僅かしかない黒色のシャツと細身のGパンを取り出した。
「コールには珍しい服装だな」
厭味ではなく素直な言い方だったが、気恥ずかしさもあって少し嫌な顔をした。
「おばあちゃんが死んだんだよ、ポゥ」
「さっき聞いた。ママは然程ショックを受けていないみたいだな」
そう言うとポゥは僕のベッドに飛び降りて、【猫のように】顔を洗ったり毛繕いしたりしてノンビリとしていた。ポゥは人間の歳で考えると、僕より10歳も年上で現在は25歳という計算になる。彼は生まれたときからこの家に飼われていて、最近では珍しくなった【魔法猫】だということに気付いたのは僕が3歳、ポゥが13歳のときだった。母が鍋を火に掛けたままおしゃべりに夢中になっているとき、ポゥがどうやったのか自ら電話で110番通報したことが切欠だった。その後すぐに駆けつけた魔法動物委員会によって、ポゥは国認定の魔法猫として登録され、我が家は魔法猫所有の家族としてブック―国に認定された生物または人物、組織を載せるもの―に登録された。
「こう見ると本当にただの猫みたいだね」
「【ただの猫】さ。そこら辺にいる奴らと違うのは、語学に長けているところだけだよ」
事実、魔法猫の頭脳レベルの高さは学者など比ではない。年配の経験を積まれた魔法猫になると、そのIQは200をとうに越えるというが、まだ猫としては若い年齢にあるポゥでさえ先日行われた【魔法猫IQテスト】で脅威のIQ195を叩き出した。ポゥ曰く「問題が簡単すぎる」そうだが、僕が後日挑戦してみたところ、埋まっているのは名前の欄と計算問題用の計算用紙だけだった。
「コールはまだ幼いから仕方がないさ。もう少し経験と年月を積めば、俺といいコンビになるだろうな」
「じゃあ今の僕らの関係は何なの?」
「んー……友達以上相棒未満てところかな」
ガックリと頭をおとした僕を見て、ポゥは大袈裟に笑った。確かに今の僕ではポゥの右腕どころか尻尾の先にもなれない。
「アリスを起こしてこいよ」
 言われなくても行きますよ、と口を窄めると、僕の部屋より一階上にある妹の部屋へ向かった。
 しかし三階は妹の部屋がある階というより、妹のテリトリーといった方が正しいのかもしれない。妹のアリスは学校で学んだ術や独学で仕入れた魔法をすぐに試したがるため、何度それで家が崩壊したのかわからない。最初のうちは起こっていた母だが、妹は怒ると通常より魔法の威力が上がってとんでもないことになってしまうので、そのうち僕も母も諦めて三階のスペースを妹に譲り、その中でだけなら何をしてもよいと許可した。しかし一昨日は苦手なビーフストロガノフを好物のポトフに変えようとして、母の自慢のブロンドの髪をチリチリのドレッドヘアにしてしまったため、アリスは母の逆鱗に触れて散々怒鳴られた挙句夕食抜きと言われ、その怒りを僕とポゥにぶつけてきたため僕たちは命からがら部屋に逃げ込んだ。妹は数回僕の部屋に魔法弾を浴びせると、スッキリしたように帰っていった。修理は翌日ポゥに手伝ってもらい、母はドアに防御魔法をかけてくれたため、ちょっとやそっとでは壊れないようになった。
 上階へ続く梯子―元は階段であったがアリスが三分の二を灰に変えてしまったので母が取り替えた―を上ると、一面花柄の壁紙で覆われた廊下が目に入った。けばけばしいパッションピンクの絨毯は、足を踏み入れた途端「愉快なアリス♪可愛いアリス♪」と歌いだした。あらゆる所に置かれた白い花瓶にはどれも薔薇が挿してあり、年中枯れないように特殊な魔法がかけてある。
「可愛いアリス」の歌を背にして広い廊下を歩いていくと、やっと目的の部屋に辿り着いた。白地に花柄模様のドアは無用心にも開けっ放しで、中から静かな寝息が聞こえてきた。
「アリス」
ドアの外から呼んでみたが、案の定反応がない。仕方なく部屋に入ると、むせるような甘い匂いに少し吐き気がした。
「アリス」
再度耳元で呼びかけると、ウーンと伸びをして寝返りをうった。瞼がゆっくりと開かれ、中から茶色の瞳が顔を覗かせた。漆黒の長い髪を掻き揚げながら目の前にいる兄の顔を凝視すると、急に弾かれたように起き上がった。
「おはよう!」
甲高い声が部屋に響く。挨拶が終わるとアリスはピンクのカーテンを開けて窓を全開にした。急に眩しい光が入ってきて目が沁みたため、僕はシパシパと瞬きをして、妹から一拍おいて挨拶すると、そのまま部屋を出ようとした。
「なになに、なんで? どうしてお兄ちゃんが私の部屋にいるの?」
そうだったと思い出し、ついさっき母に告げられた事実をそのまま妹に伝えた。アリスは驚いたようにパチパチと瞬きすると、涙を流すわけでも悲しみくれるわけでもなく、腕を組んで真剣な顔で頷いた。
「ふーん、そっか。やっぱり死んじゃったんだ。サフランおばあちゃん」
僕は「サフランおばあちゃん」という愛称に多少違和感を覚えた。この家の中でその名前を口にするのは―または出来るのは―アリスだけだ。母などは自分の祖母なのに名前を口にするどころか、その存在さえも忘れてしまおうとしているようだった。
「母さんはおばあちゃんを嫌っているのかな」
「あら、知らなかったの? ママとおばあちゃんは犬猿の仲なのよ」
アリスは驚いたように言った。
「何となくは気付いていたけど、理由を知らないから核心がもてなかったんだ」
「理由なんて別にいらないんじゃないの? 事実ママはおばあちゃんを嫌っているし、おばあちゃんはママに会おうとしてなかったし」
「おばあちゃんの方も嫌ってたのか?」
僕はアリスの端麗な横顔を見ながら問うた。アリスはガラスで出来たテーブルの上から櫛を手に持つと、サラサラとしたまっすぐな髪を梳かしだした。
「別にママほどじゃないけど……あまり良い感情はもっていなかったみたいね。ママとおばあちゃんは性格も両極端で魔法に対する考え方も違っていたし」
「母さんはおばあちゃんとは違って「軍団」に興味がなかったもんな」
「あら、そんなことないわよ」
アリスはベッドから降りると軽い足取りで箪笥に向かった。長い髪を揺らしながら暫く中を探っていると、お目当てのものを見つけたのか早速パジャマを脱ぎだした。
「おい! 少しは場所を弁えろよ」
慌てて後ろを向くと、アリスは鈴のように笑った。そして白いワンピースに着替え終わると、今度は備え付けの洗面台で顔を洗いだした。
「『そんなことない』ってどういうことだよ」
タオルで顔を拭きながら一瞬僕に目を向けると、声を上げて笑いながらドアの方に歩いていった。
「もうすぐわかることだよ。そうだな……おばあちゃんの家に着いたら誰かに教えてもらえると思う」
「なんでそう思うんだ?」
「勘よ、カ・ン」
時々この妹は妙なことを言い出す。昔から勘は優れていたが、13歳になった今ではその威力が凄みを増したように感じる。
アリスが出て行ったのを見ると、僕も急いで後を追いかけた。遠くでアリスが「可愛いアリス」を絨毯と一緒に合唱しているのが聞こえた。

「遅いじゃない」
母は少しイライラした口調で言った。
「早く食べちゃって。朝のうちに出なきゃいけないんだから」
「もしかしてまたポストを使うの?」
アリスはオムレツにスプーンをさしながら、隣で朝食をとっている母を怪訝な顔で見上げた。
「それしかないでしょう? 大丈夫よ、今度はかなり有能な運転手を雇っておいたから」
「この前は有能じゃなくて有膿だったからな」
一階に下りてきていたポゥに缶詰を開けてやりながら、僕は前回の恐ろしい体験を思い出していた。今考えても、あの時はよく五体満足で帰って来れたものだ。
「とにかく早く食べて。片付けは後でいいわ」
「俺も行っていいよな?」
ポゥが聞くと、母は微笑んで「もちろんよ」と言った。





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2004/09/12(Sun)13:37:12 公開 / よもぎ
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