『雨 二章 Z』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:疾風
123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
一章
T
雨が降っているのが分かった。体がそれを受け止め、耳がその音を聞いていた。目を瞑っていても、とにかく雨が降っていると言うことが分かった。
自分の体温が無くなっていくのが分かった。体が芯まで冷え切っていって、自分がガタガタと震えているのが分かった。
自分は人を待っていた。大切な人。あの人は私に此処で待つように言った。私はあの人に好きでいて欲しいから、ちゃんと言いつけを守って待っていた。たとえ雨が降っても、待ち続けた。
固く目を瞑って、ひたすら待ち続けた。周りがどうなっているのかも分からない。たとえあの人が来ても分からないだろう。けど、目だけは開けたくなかった。
どうしても、開けたくなかった。
◇
「雨か……」
窓の外で突然降り始めた雨に、桐式前(キリシキ ゼン)はそう呟いた。その呟きを、直ぐ真横の席に居る室井亜紀(ムロイ アキ)が聞き逃すはずが無かった。むしろ、『亜紀だから』
「雨? 振ってきたねぇ」
別に亜紀に話しかけた訳ではないのに、返答が返って来た。前は亜紀とは会話するつもりは毛頭無かったから無視をしていたが、頭頂部すれすれに手刀が掠っていったのでそうも行かなくなった。
「なんで、無視するかな」
頭髪を左右に大きく分け、女性と言うよりもむしろ男らしい顔をした女が、そう苛立った声で言った。
「……あんたと関わったらロクなことが無いから」
無造作に伸ばした髪を触りながら、前がそう淡々と言い放った。
「それが親友に対する台詞?」
「……あんた、私を親友だと思ってたんだ」
そっけなくそう言ってから、目線を机上のノートに向けた。そのノートは未だ白紙だった。たしか担当の秋山教諭が自習だと言っていた気がする。現に秋山教諭は教壇には居ない。
時計をを見れば今の七時間目の残り時間は五分を切っている。
「あ、まだ何にも出来て無いじゃん。来週からテストなのに」
いつの間にか前の背後に回っていた亜紀がそう言って、前はノートを閉じた。
「私、テスト勉強はしないの。頭、良いから」
「マジ?」
「一緒に勉強なんかしないからね」
そう前が言った途端、七時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。直ぐに教室が騒がしくなる。
「まだ何も言ってないだろ」
教室のザワメキに乗じて、前はこの台詞を自然に無視することが出来た。勿論、聞き逃していた訳ではなかったのだが。
生徒が居なくなった校舎は、雨の効果も手伝って、おどろおどしく感じられた。校舎に居るのは、前一人だけである。
(傘を、忘れた)
確か今日の降水確率は三十パーセント位の微妙なものであったが、用心して困ることは無かった。用心しなくて困ることは、万が一にも有り得たのに。
(雨足が止んだら、その時に)
雨足が止むまでの間、前は校舎の昇降口で待つことにした。
その間、前は自分が怯えていることに気付いていた。雨を見ると必ず思い出すことがある。精神的外傷にも似た、その辛い過去の記憶を。
それを思い出さないために、前は目をしっかりと見開き、何も考えないように努める。そうすれば、何も思い出さなくて済む。
ふと、昇降口から見える校門に、赤い傘が見えた。遠くだったため、その傘を持っている人が誰だか分からなかったが、徐々に昇降口に向かってくるのが見える。
近づいて来るに連れ、それが年の行かない幼い子供だと言うのが分かった。その赤い傘が大きいためか、顔が隠れていた。
やがて、昇降口にまで来たそれが、少年だと分かったと同時に、飛び込んできた赤い頭髪に目が痛んだ。あまりにその少年の頭髪が血を連想させるほどの鮮烈な赤だったので、とっさに目をそらした。
赤髪の少年は昇降口の上がり口で暫く辺りを見回しているようだった。そして、次に発した少年の言葉に、思わず前は少年へ振り向いてしまう。
「桐式前とはあなたの事ですか?」
「……はい?」
自分でも間の抜けた返事をしたものだと思った矢先、少年は赤い傘を前に突きつけた。
「これ、使ってください」
「え」
赤髪の少年の顔が、真正面から見えた。その幼すぎるほどの童顔に、痛い赤の頭髪。その事に、「今時の子供は髪を染めるんだ」と真面目に思ってしまった。
「母さんが、あなたの帰りを待っています」
「母さん? 君の?」
「はい」
差し出された赤い傘に、この赤髪の少年をここに送った人物を予測する事が出来た。確実とも言えるだろう。自分が雨を嫌っている事と、その理由を知っている人物。
それは――
U
深夜の1時。前はある人物に指定された場所、「カフェ・クレッシェンド」に赴いていた。そこで前は店の一番奥の窓際の席に座り、コーヒーをスプーンでかき混ぜながら、ひたすら外に視線を外していた。
「前ちゃん。戸締りよろしくね」
ここの従業員であり、オーナーである月島大樹(ツキシマ タイキ)が前にそう言ってドアから外に出て行った。
月島は前の親の古くからの付き合いで、前も良くここに遊びに来ていた。前が「ここで無期限に待たせて欲しい」と言った時には月島はそれを快く承諾した。その時に後ろに居た赤髪の少年に月島は疑問を持ったが、別段それを聞く理由は無かった。
自分の前の席に座っている赤髪の少年は相変わらず無口だ。少年の母親が待っているというアパートに行ってみれば、そこには書き置きがあり、それには此処で待つようにと書かれてあった。それまで、何も少年は喋らなかった。
そして、それから約6時間後。何も進展のないまま時間が過ぎていた。
「君のお母さんはいつ来るのかな?」
「…………」
そんなやり取りを最初の一時間ほど続けていたが、少年が答えることは無かった。前は気が長い方だが、流石に息苦しかった。
だから、ひたすら前は外を見ていた。
雨が止んだ外は霧が出ていて、2メートルほど先は何も見えていない。その中をたまに通る車のライトを見ていれば、飽きずに外を見ていれた。
「…………」
「…………」
沈黙の中、前のコーヒーをスプーンでかき混ぜる音だけが店内に響く。
――かしゃ、かしゃと言う音が、耳障りだ。
ふとそう思った前は手を止めた。いま思えば、コーヒーカップにはコーヒーなど入っては居なかった。
――お代わりをしてこよう。
何も言わずに席を立ち、新しくコーヒーを入れるために店の厨房に向かった。
最初、異変に気付いたのは前が外をずっと見始めた頃だった。なにも面白くない外をひたすら凝視し続け、その手元ではスプーンを動かしている。まるで機械のように動く前を不審に思った。
赤髪の少年は無音で立ち上がると、周囲をぐるりと見回した。何も変哲の無い、ごく普通の喫茶店だ。ただ、周りがそう見せているとも感じた。
そして、その灰色の『それ』は音も無く赤い少年を見ていた。
「――っ!」
少年が気付き、振り向いたときには遅かった。『それ』が疾風の如く繰り出した一撃は少年の腹部を強打した。
「ぐぶっ……」
胃から喉へと逆流してきたものを床にぶちまけると、少年は膝を付いて激しく咳き込んだ。
「げふっ! がふっ! ご、ごほっ!」
そんな苦しそうにしている少年に、『それ』は容赦なく攻撃を繰り返した。その度に少年は胃からものを吐き出し、咳き込んだ。
やがて、『それ』は少年をいたぶるのに飽きたのか、攻撃を止め、優越の瞳を持って口を開いた。
「ハジメ。僕は戻ってきたぞ。お前の元に」
だが、少年は未だ苦しそうに床で自分の嘔吐物に塗れ、もがき苦しんでいる。
「哀れだなぁ、ハジメ。お前が僕を捨てなければこんな事にはならなかったんだ。後悔、しろよっ!」
後悔、と言う言葉を言った瞬間に振りかぶり、しろよ、と言った瞬間振り下ろす。それは少年の額を打ち、少年の額からは血が溢れた。
「うわぁ、ああぁ!」
「次は泣き脅しか? 良いぞハジメ。もっと、鳴けっ!」
『それ』は少年に執拗とも言える攻撃を繰り返した。その度に鮮血が飛び散り、床に血痕が出来ていく。
「ハジメッ! お前が! お前がお前がお前がお前が! いけないんだっ!」
その凶悪な仕打ちを止められる者は、この時点で2人居たが、その現状を知るものは一人しかいなかった。
V
憎まれるものに、愛すことは出来ない。
愛されるものに、嫉妬を感じずには居られない。
本能のままに生きれば、愛されることは無い。本能のまま生きると言うことは、欲望のまま生きることだ。
つまり、それが――人間であると言う事。
人間らしいとは、そういう事である。
――それが、何故分からんのだ!
◇
手に熱いものが触れた。
「つっ!」
短くそう声を出して、手を引っ込める前。それと同時に何かが割れる音がした。手元を見れば、コーヒーが自分の手に掛かっていた。そして、足もとではコーヒーカップが割れている。
何故コーヒーカップが割れているのか。何故自分の手がコーヒーで濡れているのか。それも、コーヒーが自分に掛かって当分時間が経っているようだった。コーヒーが掛かっている箇所は、赤く、火傷していた。
(――思い、出せない)
此処までの過程が思い出せない。自分が厨房にコーヒーをお代わりしに行った所までは覚えている。しかし、自分の手にコーヒーが掛かり、今のように火傷をしてしまっている所まで、まるで思い出せない。『思い出せない』と言うよりかは、『元から無い』ような感覚があった。
とりあえず、前は割ってしまったコーヒーカップを片付けることにした。厨房の隅にある掃除用具入れから箒と塵取りを取り出し、手早くコーヒーカップの破片をまとめる。
その破片をどこに捨てようか迷った末、適当な場所に置いて置く事にした。これを割ったことは、明日にでも店長の月島に言えば良い。
それよりも、そろそろあの少年の『母親』が来ても良い頃だと思う。そう前は思い、厨房を出た。
しかし、そこで自分がコーヒーを飲みたかった事を思い出した。厨房と店内を結ぶ廊下の中心でそう思い、引き返す前。確かポットの中にはまだコーヒーが残っていたはずだ。
何故か、自分が必要以上にコーヒーを欲しているようだった。それ程自分はコーヒー中毒者だっただろうか?
新しく出したカップにコーヒーを注ぎながら、そう苦笑した前だった。
◇
本能のままに。欲望のままに。理性を食いつくすその要素を、色で例えるなら『灰色』だ。
他人との調和と、自らの犠牲を惜しまない理性が白だと言うのなら。本能は言わば黒だ。他人よりも自分。自分の欲望を満たすためなら他人等どうなっても構わない。理性では他人の事を気遣うが、本能がそれを許さない。その瞬間こそ、『灰色』に他ならない。
『灰色』はその行為に罪悪を感じながらも、その業を止める事は出来ない。いや、止めようとも感じない。むしろ、罪悪を感じるのは、自分の罪に気付いたときだ。そして、それはどうしようも無いと自分の都合の良い様に自分を納得させる。
――それが、人間。
――何故、あの人は分かってはくれない? 同志と思っていたのに、私とは違う考えを持って居る。
――何故、あの人は私を否定する? 何故だ、何故だ何故だ何故なんだ!
私は、あの人を心から愛しているのに、それを何故あの人は否定する?
◇
灰色の『それ』は、滅茶苦茶になった店内の隅で小さく身体をちぢ込ませて震えていた。嗚咽交じりに意味不明の言葉を発し、時折、奇妙な声を上げて床を叩く。
今の『それ』は、まるで大切なものを失ってしまった子供のようだった。自分の過ちに気付き、その責任を負えなくなった子供。
その童顔を涙で濡らし、一向に泣き止まない子供。その子供から少し離れた所には、赤い少年が横たわっていた。
その少年の姿は本当に赤い。その赤が血であることを、灰色の子供は一生懸命否定しようとしていた。
――僕が殺したんじゃない!
灰色の子供はそう自分に言い聞かせた。しかし、それを否定する要素があり過ぎて、結局泣くことしか出来なかった。
――最初に、ハジメの死角から忍び寄り、腹を一発殴った。ハジメの奴は何か吐きながら倒れて、ひどく咳き込んだ。僕はそこでまた腹を殴った。またハジメは何かを床にぶちまけた。面白くなって腹を中心に蹴ったり踏みつけたりした。その度にハジメは何かを吐いて床を転げまわった。途中から赤いものを吐くようになって、僕は気分が悪くなった。赤は嫌だ。何だか赤は嫌だった。だから僕は蹴るのを止めて、ハジメに悪口を言ってやった。でもハジメは何も答えなかったから、額を殴ってやった。赤いものがたくさん出たけど、代わりにハジメが鳴くようになった。僕はもっとハジメを泣かしたかったから、とにかく色んなところをなぐったりけったりした。でも、ハジメが鳴かなくなったなって、思ったら、ハジメはもう動いていなかった。僕は恐くなった。ここまでするつもりは無かったんだ! ただハジメを少しいじめてやろうと思っただけなんだ! それが、こんなことに……。
既に、『二人』は此処に向かっていた。
既に、『一人』はその煌く刃を持ってして、何かの命を刈ろうとしていた。
W
端江美咲(ハタエ ミサキ)が、その『異端』に気付いたのは、丁度娘を迎えに行って、帰って来た時だった。娘の咲夜(サクヤ)を先に部屋に入れ、自分も入ろうとした時だった。何か悪寒にも似た感覚が背筋を走り、その『異常』に目を向けたときには、自分の目を疑った。
まるで、人間の姿をした、『異端』。
真っ赤な頭髪の、自分の娘ほどの年齢であろう少年。それが、『異端』であるということは、自分の経験と照らし合わせてみても、信じがたかった。
何せ、どこからどう見ても、人間である。しかし、自分の本能が赤髪の少年を異端視しているから、どういう事か。気付けば、その少年は自分の部屋から、二つ飛ばした部屋から出てきているではないか。何故、今まで気付いていなかったのだろうか。
――本部からは、こんな姿の異端は報告されてない
本来、異端を探すのは『暗殺者』である自分の仕事ではない。自分は本部から標的である異端の情報を入手し、手を下す。それが自分の仕事である。
知らず、ドアノブを握る自分の手が小刻みに震えていた。それは、目の前に居る、異端を恐怖してのものか。そっと、反対の手で押さえる。止まった。額からは冷や汗が垂れてくる。ごくりと、唾を飲み込んだ。
「お母さん、どうしたの?」
はっ、として、その声の主の方へと向く。向いた先には、少々怯えた顔をした咲夜が居た。
「な、なんでも――ない、から」
知らず、声も震えていた。その声で更に咲夜が怯えたような気がした。しかし。それを必死で隠そうとしているようにも感じた。
そんな娘に、自分は無性に悲しくなった。
この子は、全ての嘘を見抜いてしまう。自分がどんなに平静を保とうと、自分が感じている、恐怖を感じ取ってしまうのだ。自分が、恐怖している心を隠せば隠すほど、それは浮き彫りになっていく。
「さて、今日の夕飯は何にしよっか」
自分でも驚くほど明るい声を出して、咲夜に言い掛ける。そんな自分の、後ろめたい恐怖を隠している自分の気持ちを察したのか、咲夜は微笑んで、部屋の奥に入っていった。
そんな娘の後姿を見ながら、横目であの少年が居た場所を見た。
そこには、何も居なかった。
◇
満を期して『暗殺者』は、その煌く刃を灰髪の子供の姿をした『異端』に向けた。天井裏から飛び出し、重力に身を任せて短刀を片手で突き出す。
「――!」
初撃は、右肩を貫通した。
「ア……?」
灰髪の子供は最初、自分に起こった事にまったく現実味を感じては居なかった。自らの右肩に突き刺さった短刀と、そこから流れ出している赤い血。まるで他人事のように見ていたが、暫くして痛覚と共に、現実が叩きつけられた。
「うあ、ああ、あああ? うあああああっ!?」
絶叫が、店内に響く。その叫びと同時に、血が勢い良く噴出し、店内と暗殺者を赤に染める。
必死に、灰髪の子供は刺さった短刀を抜こうとした。暗殺者は既にその刺した短刀から手を放して、次の凶器を取り出していた。
「くそ、くそおおおおおっ!」
灰髪の子供は、なかなか抜けない短刀を必死で掴みながら、瞳いっぱいに涙を溜めていた。そんな姿に、暗殺者は嫌気が刺した。
「異端が……。図々しく涙を流すか」
短刀を抜く事に必死で、その言葉は灰髪の子供には聞こえなかった。別段、対象を定めて放った言葉ではないので、どうでも良いのだが。
暗殺者が取り出した短刀で二撃目を放つ。今度は急所である心臓目掛けて。この時、暗殺者はこの『異端』をまだ人間扱いしていた。心臓が急所である等と、異端には通用しないことをもっとも知っていた人物が犯した、最大の間違いだった。
トス、と軽い音がして、短刀の刃が灰髪の子供の胸にめり込んだ。その瞬間、暗殺者の左眼が、割れた。
暗殺者の左眼からは、紅い涙が流れ出していた。
その瞬間を、何も知らない少女が目の当たりにした。
我が子を殺された母親は、引き金を引くべき相手に迷っていた。
X
その報告を聞いたとき、「やっぱりな」と桐式珠後(キリシキ タマゴ)は悟った。
コードネーム、『灰』。
灰は研究所の培養液の中で生まれた、遺伝子組替特異生物の事だ。これを通称『クァルス』と言う。
クァルスは、現在少子化で悩んでいる日本にとってはまさに救世主のような存在で、数年前から研究は続いていた。その研究は優秀な生物を人間の手で『創る』事を目的として、人材確保に置いても高く評価されている。
その研究で、初めて創られたクァルスが『灰』。コードナンバー零を持つ彼は、この研究の第一人者である杵島修(キシマ シュウ)によって完成された。
しかし、灰の精神はまだ未完成な所があり、研究所の地下牢で『保存』されていたのだった。
だが、灰は人間の常識に当てはまらないと言うことを、珠後は薄々感じていた。
『保存』とはつまり、檻に入れて置くことだ。白い壁に囲まれた個室に、閉じ込めていただけのこと。食事や、何か異常が無いときにはそこには近寄らず、ただ独りに『隔離』しただけのこと。
そして、灰は逃げ出した。
クァルスは本来、人間の言いなりになるように創られていた筈だった。だが、灰は、『自我』に目覚めてしまったのだ。
研究所内の警備員と、研究員、合わせて22人を殺害して逃走、灰は行方を晦ませた。
◇
「プロジェクト『RAIN』――君はこのプロジェクトに『雨』と言う単語を付けた。僕にはこれが何を意味するのか分からないのだが? まぁ、そんなことはどうでも良い」
暗く、陰湿な場所で、男はゆっくりと口を開いた。その言葉は誰に聞かれているわけでもなく、ただ、『君』という幻想に向かって放たれている。
「君は言ったな。人間が対等に相容れられるのは人間だけだと。君は人間を作りたかったんだね? でもね、人間とは、ただの動物に過ぎない。弱肉強食、人間の世界でもそんなもんさ。でも人間は知恵を持ち過ぎた。いかに効率よく食料を得られるか。いかに効率よく睡眠を得られるか。いかに効率よく欲を満たすことができるか――これらは、理性によって考えられる事じゃない。本能からくるものだ。食欲、睡眠欲、他にも色々。だがね、本能のままに生きる人間が、果たして今の社会に馴染めるか? 君はそう言った。しかし、そんな事は後回しだ。まずは、人間を作らなくちゃあいけない。もう直ぐ生まれる君の子供だって、何も施さなくても、今の社会に馴染めるようになる。それと一緒だ。まずは、人間という生き物を追求しなくちゃあならないんだ。だから僕は、灰を創った――」
この男を、珠後は狂っていると罵った。
しかし、この男は珠後に間違った愛情を感じていた。
――自分は憎まれている、だが、それは愛されているのとなんら変らない。君にはいつも僕が映っている。いつも僕の事を想っているんだ。要は、君がその方向を定めきれてないだけなんだよ。
――それが何故分からん!
◇
血が、たくさんの血が見える。
前は、持っていたコーヒーカップを落とすと、その場に座り込んだ。目の前には、紅くなった赤髪の少年の姿がある。
そして、銃声が響いた。
その凶弾は迷いを断ち切るように放たれ、肉体を貫通して肉体に留まった。
貫通したのは暗殺者の体。留まったのは灰の体。
「ああっ……くぅっ!」
暗殺者は、逃げを選んだ。機能している右眼をぐるりと回すと、ガラスの戸を破って外にでた。
第二射が放たれる気配はなく、暗殺者は夜の闇に消えた。
「あああああっ! ……ぐ、ぐあぁ」
灰は、もはや立てれる状態ではなかった、と、凶弾の射手である珠後は悟った。後ろで怯えている前を全く振り向かずに、銃を灰に付きつける。
「まさか――ハジメを殺しにいく為に逃げ出すなんてね」
その言葉には、怒りなど無く、ただ驚きしかなかった。
そして、日常に戻る。
二章 日常◆非日常
T
桐式前の通う私立赤羽根高校では、来週から始まるテストに向けて、三日間の補習期間が設けられていた。補習を受けるのはあくまで個人の自由で、補習を受けない生徒は自宅学習と言うことだった。
室井亜紀はこの補習を欠かさず受けていた。この赤羽根高校県内でも有名な進学校で、成績不振の生徒は特に補習を受けるように指導される。
亜紀もその一人で、仕方なくと言った気分で補習を受けることにしていた。
(まさか桐式が成績優秀だとはねぇ)
自分の横の席は、今は空席だ。空席の理由は明確、その席の主が補習を受ける必要が無いからだ。どうやら、テスト勉強をしなくて良いと言う言葉は本当だったらしい、と亜紀は内心感心した。
(こりゃあ、桐式にご教授願わないとな)
今日の午後に勉強会といった名目で桐式家に襲撃する算段を立てる亜紀だった。もっとも、勉強する気なんて無かったが。
補習を午前だけ受けて抜け出し、帰路に着いたとき、丁度雨が降り始めた。最近は雨が多いなと、鞄の中から黒い地味な折り畳み傘を取り出し、自分の頭上にそれを開いた。
暫く、閑散とした道を歩くこと10分、先ほどまで誰一人として人に出会わなかった亜紀にとって、数メートル先のガードレールに腰掛け、傘もささずに佇む人物は、不審極まりなかった。
その不審者は黒いタンクトップに黒いズボンと言った地味な服装だったが、その肌は対照的に白く、赤みを帯びていない。そして、頭髪は服の黒と肌の白を合わせたような灰色。
一見、最近のビジュアルバンドのメンバーのような露出と頭髪をしている。体つきもどちらかといえば細身で、顔の輪郭が見えないほど髪は長い。
だが、やはり不審者にしか見えず、暫く亜紀はこの不審者の横を通るか通るまいか悩んだ末、決して目を合わせずに通り過ぎることにした。
(何でこんな時に限って人通りが無いんだ?)
本来なら、この時間でも人通りは多いはずだ。たとえ雨が降っていてもこんなに徹底的に人が通らなくなくなる事はありえない筈だった。
(おまけに、かならず此処を通らなくちゃいけないと来てる)
もう、覚悟を決めたという感じで、一歩を踏み出す。知らず、傘を持つ手が震えている。
不審者の丁度、真正面に差し掛かる。亜紀の目線は遠く真っ直ぐに向いている。一方、不審者はどこを見ているか分からない。
一歩、また一歩とぎこちなく足を動かし、ようやく不審者を通り過ぎた。
安堵のため息も出てしまうほど緊迫した状況を通り過ぎた時、後方で水溜りを車が撥ねた様な、そんな音がした。
反射的に、後ろを向いてしまっていた。
そこには、仰向けに倒れている不審者の姿があった。
◇
『あの』事件から暫く、前は別の事を考えることが出来なかった。
突然自分を巻き込み、突然日常に戻される。あの事件を考えることしか、今の前には出来なかった。
しかし、考えても自分が何をすれば良いのか分からなかった。いや、むしろ何もしなくても良いのだろうと自分に言い聞かせている。
そんな事柄が頭の中をぐるぐる回っている事に、前は吐き気すら覚えていた。何のためにあの少年が現れ、何の為に死んだのか。何のために少年の母親が私を呼び、何のために人を撃ったのか――次第に疑問に埋め尽くされる思考を、どうにかしたかった。
確かに自分は、一瞬の非日常から抜け出し、日常に戻ったはずだ。だが、それを良しとしないように、疑問が湧き出てくる。
――なんて言う矛盾。自分は確かに日常の中に居るのに、非日常となんら変わりないのだ。
丁度外では、自分が嫌いな雨が降っていた。
U
『暗殺者』を生業にする者には、それなりの理由がある。
ひとつ、収入が多く仕事の内容に応じて理不尽な程莫大な資金が手に入るから。
ふたつ、社会から隔絶されたいわゆる『変わり者』が自分の場所を求めた末にこの仕事を見つけたから。
みっつ、生まれた時からそう決まっていたから。
……私、端絵美咲はみっつ目に分類されるのだろう。物心付いた時には刃物や銃器の扱いを教え込まれていて、十歳の頃にはもう暗殺者として『組織』から仕事が来ていた。
私の母も、同じ暗殺者だった。組織の中でも上位の位に位置し、組織のトップである証の称号「ハート」を持っていた。
ハートの他に「ダイヤ」「スペード」「クラブ」があり、実質組織とはその四人によって管理、運営されてる。
そんな中でも私の存在は組織から優遇され、期待を知らず知らずの内に受けていた。だから私は早く皆に認められたくて頑張った。
そして、十六歳になったその日に、母親が殺された。
――殺されたのだ。私の手によって。
母親の死はとても美しいものだった。人間、ここまで綺麗に死ねるものなかとその時はその感動に震えるばかりだった。
◇
朝日が眩しくて、私は目が覚めた。いつの間にかカーテンが開いている。そこから差す日差しがとても目に染み入った。
「ん……朝?」
おぼろげな思考を回転させて、今が朝であると言うことを認識する。ふと、時計に目を移した。
午前9時47分。
「…………」
はっきり、しっかり、寝坊した。
確かに、時計を止めた記憶はあった。目覚し機能の付いた時計を私が購入したのは寝坊癖を直そうとしたものだが、効果は無いようだ。睡眠の誘惑に負けて私は二度寝をしてしまったらしい。と言うことを後に娘の咲夜に聞くことになる。
とりあえず、朝食を食べずに直ぐに洗面所に向かう。寝室を出て直ぐ左の部屋に位置するそこに駆け込み、鏡を前にしてまず顔を冷たい水で洗う。
そして、顔に付いた水滴を拭くのもいい頃に次は服を着替える。愛用している紅葉柄のパジャマを洗濯機に押し込み、洗濯機の横に掛かっている一組の服を取った。
職場で着る青みの掛かったカッターシャツと、群青のズボンを早着替えさながらの速度で着替え、次に化粧に取り掛かる。
――それらを終わらせるのに10分も掛けずに終えて、最後に小柄な肩掛け鞄を持って、部屋を飛び出した。
私、端江美咲は市内に4つある交番の1つに警察官として、勤務している。
警官の仕事に就いたのは20歳の頃だ。
大学を中退して、それから何故か警察官採用の書類が当時住んでいた部屋に送られていた。
警察官採用の書類。それは警察官をやりませんか? と言うものではなくて、警察官をやって下さい、と言うような内容だった。しかし、大学の中退も実は無理矢理学校を追い出されたような感じだった。
これは、『組織』が決定した事項だった。何でも、組織の人間が警察と言う国営機関に勤めていれば、何かしら利益があるらしい。
そんな感じで、私は警察官の知識の無いまま警察官になった。
「美咲君。今日も遅刻だ」
職場に着くなり、ここの責任者である金光茂(カナミツ シゲル)巡査部長が渋い顔で私を迎えた。この人はもう50歳を迎えるのであろうに未だ交通課の巡査部長という階級だった。こんな渋顔を持っているのなら殺人課の刑事にでもなれば良いのにといつも思う。
「すいません。目覚まし時計が壊れまして」
「……これで壊れた目覚まし時計が7つに増えたな。まったく君は目覚まし時計キラーだな」
顔を縦横無尽に走る皺の溝を深めながら、淡々と金光は言った。
「まぁ、良い。遅れた分仕事をしてくれれば良い」
「は、はい」
◇
適当なデスクワークを済ませて、私がそろそろ今日の勤務を終わろうか、と思っていた時、同僚の春日部春彦(カスカベ ハルヒコ)が口を開いた。
「なぁ、美咲ちゃん。知ってる? 最近この近くで変な事件があったって」
この男は私とそう仲も良くないくせに『ちゃん』なんて呼んで来る。一方彼は自分の事を『ハルハル』と呼んでくれと言うがそんな風には呼ばない。呼びたくない。
「変な事件?」
「ああ、何でもこの近くの喫茶店で騒ぎがあったらしいんだ。何でも店は滅茶苦茶でその中には一人の女子高生しか居なかったんだって。で、店の中は血まみれだったって言うぜ。それなのにその女子高生は何も知らないって言うんだぜ。変だと思わない?」
軽い口調で紡がれる言葉に、私は少しどきりとした。
(『隠滅』と『修正』がされていない?)
あまつさえ、警察官の一員と言えど、一般人に情報が漏れている。一体、組織は何をしているのだ?
「ふぅん。そんなの私は聞いたこと無いですけど」
「そりゃあそうさ。これは闇情報だぜ? とある美人にさ、教えてもらったんだよ。美咲ちゃんが知るわけねぇよな」
だったら、知ってる? なんて聞かないで欲しい。
「でもよ、その美人がさ、『美咲によろしく』って言ったからよ。まぁ、話してみただけだよ」
――その春日部の『美人』に私は心当たりが有るような気がした。
V
『灰』の逃走から始まった今回の事件は、私に――桐式珠後に――とってとても興味深く、非常に社会的影響を及ぼすものだ。本来なら社会貢献するはずの『クァルス』の原型である灰は、近々に処分するはずだった。本能と自我を持ち、それでいて欲望を優先させると言うプログラムを組み込んだクァルスは危険以外の何物でもない。
だが、灰が逃げたのはハジメを殺すためだと言う。
――かつて、灰とハジメは唯一無二の友達だったはずだ。同じクァルスという人間とは相容れない者同志が惹かれるのは当然だ。しかし、灰はハジメを完膚なきまでに痛めつけ、殺した。
それは、灰を見捨てて外の世界に出てしまったハジメを憎んでのことなのだろうか。それはやはり、灰は何者も愛せない存在だったと言うことなのだろうか。
ハジメは『プロジェクトRAIN』の始めの一歩にしか過ぎない。人間を超越する身体能力も無ければ、命令絶対のプログラムが組み込まれている訳ではない。ただ一つ、ハジメと言う赤の少年に定められた事柄――それは。
「何者も愛し、何者にも愛される存在である」と言うこと。
なのに、灰は何故ハジメを憎んだのだろう――?
◇
薄暗い。ジメジメとした空間に、珠後は訪れていた。その水気を帯びた岩肌に囲まれた部屋の中央に、男は居た。
杵島修。かつてのプロジェクトクァルスの最高責任者であり、灰の生みの親。その天才的な頭脳のせいで研究所内から危険視され、隔離された人物。
「あまり会いたくなかったのですけれど」
彼はただその部屋の真ん中で腰を下ろし、俯いている。
「そうか。残念だな。ようやく僕の気持ちが君に届いたのかと思ったのだけれど。まぁ、君に限ってそれは無いのだろうね。まだ君は自分の中にある気持ちに気付いていないのだから」
俯いたままの姿勢で、珠後と視線を交わせないで、淡々と彼はそう言った。
「私は――貴方を一生理解することは出来ません。尊敬はしていました。でも、貴方の思想だけは受け入れられません」
「僕の思想? ……もう、そんな事はとうの昔に忘れてしまったのかもしれない。今は、君に対する愛だけを積むことだけに精一杯だ」
君に対する愛、か。と彼はその後に継ぎ足した。
「……貴方は、まだ人間と言う種が本能と欲だけの生物だと考えているのですか。かつてのその思想に私は付いていこうとした。でも……それは間違っていたと気付いたときから私達は相容れない者になってしまったのです。そして、貴方がそれを実現させてから私は貴方を憎むことになった」
「灰の事だね。でも、灰はやはり人間そのものだ。愚かな人間と、そっくりそのままなんだよ。食べたいときに食べ、寝たいときに寝る。それを妨げようとする者がいたらそれを容赦なく殺して、時には奪い取る。それが人間だ。所詮は動物なんだよ。愛情や、憎悪はむしろ後天的について来るものだ。それを最初から持っている人間なんてありえないんだよ。」
「でも。それじゃあ、可愛そう過ぎるんです。人間の為に創られる存在なら、せめて万人から愛されて欲しい。私はそう思うんです。人間を創ろう、なんて私はきっと愚かな事を考えていたんです」
「……君はズレているな。つまり、君はただ愛されるだけの玩具でも創ろうと言うのか。それはつまり――意思を持たない人形」
珠後はゆっくりと頷いた。
杵島修は神にでもなるつもりだったのだろうか。それは――愚かな行為だ。人間の為に生き、人間の為に死ぬ――それが、クァルスの本来の生き方なんだ。
「君は――自分の子供が、自分の言いなりになる人形でも良いと言うのか。それは――なんて悲しいことだろうと僕は思うよ」
彼は、彼女を、初めて、恐い、と、思った。
W
彼女はまるで僕の前に現れた天使のような存在だった。
彼女の青みの掛かった頭髪。丸い、それでいて理知的な感じのする鋭い目。程よく整った小ぶりの鼻。赤い口紅の掛かった唇。そしてその顔を支えるには頼りなさすぎる華奢な首。首から下には、幅の小さい肩があって、その左右対称な肩にはやはり左右対象の細い腕が。腕の先には冷たそうな、それで居て母性を感じるやわらかそうな手。胸は小さく服の下に収まっていて、そのままスラリと伸びた胴と、腰の間は程よくくびれていて、タイトのスカートから伸びた装飾の無い脚。その脚の先の足には紅いハイヒール。
そんな彼女に僕は直ぐに惚れた。
仕事に忙しかった僕は、会社の中でそんな彼女を垣間見る度に一喜一憂した。寝る前には必ず彼女のことを思い浮かべ、彼女との将来を考えながら眠った。
そんな生活が続いていた時に、転機は訪れた。
僕の発案した企画が上に採用され、その研究チームが編成された時。彼女がそのチームに編成されていた。顔写真と名前、今までの経歴を纏めた名簿の中に彼女が載っていたのだ。
彼女の名前は桐式珠後と言った。彼女は以前から生物工学の分野の仕事に就いていて、会社側の推薦で編入されていた。
僕は、これを運命と思った。
「プロジェクトクァルス」僕の発案したこの計画は僕にとっての宿命であり、その同志に彼女が居るのだ。これを運命と言わずになんと言うのだろうか! 僕は誰も居ない研究室でそう何度も叫んだ。
計画の一環である研究は、僕の思案通り順調に進んでいった。来たる宇宙時代にも貢献するであろうこの研究は、多くのスポンサーにも恵まれ、最高の設備、最高の人材で行なわれた。
やがて僕の意見で研究所を人気の無い山奥に移した時から、僕の野望は形を形成しつつあった。
事実上、プロジェクトクァルスの最高責任者である僕は、金や人間的な面に置いて非の打ち所の無い人間だった。そして僕は彼女に打ち明けた。
「君が好きだ」と。
彼女は、こう答えた。
「私は、貴方のような人は好きにはなれません」
◇
今思えば、あの頃の僕はどうかしていたのかも知れない。彼女の気を惹こうと完成させた『灰』は僕が憎まれる要因だった。そして、その後だった。僕は彼女の権限で此処に閉じ込められ、僕の地位に彼女は付いた。今では『プロジェクトRAIN』と名称を変えられ、彼女はその第一作品として『一(ハジメ)』を作った。それは、まるで僕の灰とは正反対のクァルス。
灰が、人の手によって創られ、人間と言うことに着目して作られたとクァルスと言うのなら。
一は、彼女から生まれ、その後で人形にされてしまったクァルス。
自らの事しか考えない灰は憎まれる。
自我と言うものを持たない人形は愛される。
今思えば、それらは到達してはいけない域の物だったのかも知れない。
……彼女の言う、『RAIN』とはどういう意味なのだろう?
彼女に子を孕ませたのは、一体誰なのだろう?
X
「女、お前、僕をどうするつもりなんだ?」
『彼』の第一声はそれだった。まだ意識が朦朧としているのか、毛布で身体全体を包み、顔だけをそこから覗かせて、そう言った。
「ここまで連れて来た私に向かって、どうするつもりなんだ、はないでしょうが」
私はそう、『彼』に反論する。
――『彼』の身体状況は、私のような素人でも分かるほど、良くない状況だった。なにせ肌も血の気が通ってなく蒼白だったし、第一身体がとても冷たかった。おそらくは、雨に打たれすぎたのだ。
そんな『彼』を、自分の部屋までようやく連れて行き、意識が回復するまで介抱したのだ。なのに、『彼』は私に礼など言わずに、疑うような目つきでこちらを睨んでくる。
「私は室井亜紀って言うのよ。その、女って呼び捨てにしないでよ」
「うるさい。……僕はどうして此処に居る?」
「知らないわよ。ただ、雨の中で倒れてたのよ」
彼は、しばらくソファーに身体を沈めていた。やはりまだ疲れているのか、そこから動こうとはしなかった。
「まぁ、私も暇だからあんたにここまでしてやってるけど、さっさと病院にでも行ってよ?」
「…………」
反応が、無い。
「……寝てる」
私は、大きくため息をついた。
◆
私は、あることを思い出してしまった。
一体、『彼女』は誰だったのだろうか。
あの、赤髪の異端と一緒に行動していたあの少女。見るからに異端ではない。だが、人間が異端と共に行動するなど、ありえない。
……ありえないことも無い。あの、二体の異端。私達のように異端特有の気配を感じなければ、容姿はただの人間となんら変わりない。しかし、彼女とあの赤髪の異端……一体どのような関係なのだろうか。
……どうにせよ、目撃者は消さ無ければならない。異端に関する目撃証言が公になれば、社会的にまずいことになる。なにせ、『組織』が行なうはずの証拠隠滅の作業、『隠滅』と『修正』の二工程がされていないのだ。私がそれをしなければ。
隠滅とはそれに関わる出来事を一切外に漏らさないようにすること。修正は、隠滅するに当たって最も重要な事で、その場所を最後に居た事件に関わっていない人間が見たときのように元に戻すことだ。
春日部が言うには、『美人』からあの喫茶店で起こった事件を聞いたようだ。その話によればやはりあそこには彼女一人しかいなかったと言う。
すると、あの場所にいたのはあの2人。『少女』と『美人』と言う2人になる。美人――おそらくはあの女。私を後ろから銃で撃った女の事だ。あの女、なぜ春日部にあの事件を教えたのだろうか。
あの女――桐式珠後は、一体何がしたい?
◆
「その身体にはもう慣れた?」
「いや……、まだどこか自分の身体じゃないような感覚だよ」
雨の中、珠後は居た。
「肉体細胞の活性化による急速成長。まさか灰はそんなことも出来たなんて。まぁ、あの男のすることだから、予想は付いていたけど」
肉体細胞の活性化による急速成長。本来、クァルスは神経系の強化によって、人間離れした活動を実現させることを目的として研究されていた。身体を意のままに操作することが出来れば、一時的な能力の向上と、持続的な能力の向上、どちらも出来ると考えられていた。
一時的な能力の向上とは、その部分部分の神経の伝達を遮断し、必要最低限の神経を使う事で一部分の能力を向上させるという理論。
そして、持続的な能力の向上というのは、細胞の新陳代謝を活性化させ、身体の成長を促すものだ。その際に薬物を投与し、身体の根本的な能力を向上させることが出来ると言う理論。
現に、その二つを灰は実践している。
逃走の際の、筋力の増強。そして、急速成長。研究所に居た時の灰は、人間の年齢にして10歳。しかし、この前に接触したときには大幅に年齢が増しているように見えた。おそらく、殺害された22人、あれの死体状態が完全ではない状態だった所を見て、灰は、人間を食べたのだ。それによって、あれほどの力を着けたのだ。
「二度目の脱走か。そんなにあなたが憎いのかしら、ハジメ」
「……俺には分からないよ」
殺されたはずのハジメは、今、珠後の横にいる赤髪の青年に姿を変えていた。もう少年の面影は無くなり、精悍な顔立ちの青年に、ハジメは成長した。
「また灰と会ったら、ハジメはどうするの?」
「……分からない」
「死ぬって恐い? あなたはクァルスだから脳だけ生きていれば何度でもあなたという形を留めることが出来るのだけど」
「……分からない」
「……そう」
それから、会話は無くなった。
2人は、彼女の元へ向かっていた。
Y
「灰」の脱走から始まった一連の事件は、様々な人物を巻き込みながらその規模を膨張させていった。私の妹や、『組織』の女。
一度目の灰の脱走は何とか社会に漏れる事は無かった。しかし、「二度目」となった今回はどうだろうか? 灰は、施設から逃げ出してから一切の行方を晦ませている。ただ、一度目の脱走の理由が「一」への加害が目的だったのなら、またそれを行なう可能性が高い。
だがしかし、一は確かに灰によって殺害された。
その事を一番知っている灰が、もう一度一を殺そうとするだろうか? その事から灰の二度目の脱走は、何か別の意味があるのだと考えられる。
しかし、今の時点ではそれは分からないので、灰の捜索と平行してプロジェクトを第二段階まで進めることにした。
プロジェクトの第二段階。それは、クァルスの脳の移植である。理論的に言えば、脳が生き続ける限り、その脳を別の身体に移植しても記憶などを引き継いで新たな身体を得ることが出来るのではないか、と言うもの。
その実験体として「一」の脳を使うことにした。
……実験はほぼ成功だった。多少の拒絶反応が肉体と脳の中で発生したが、もとより神経系の操作を可能にした脳ならば、それらを抑える事が出来た。
そうして、一は新たに生まれ変わった。本人に多少の戸惑いはあったようだが、それでも新しい身体を手に入れた一は引き続き実験に賛同することになった。
そして、プロジェクトは第三段階に入った。
それは、一が「クァルス」が本当に人に愛される存在になりうるかと言うこと。
その実験だけは研究機関の者では出来ない。
一を「クァルス」と思ってしまうから。
クァルスが、果たして「道具」として愛されるのか。
それとも、「人間」として愛されるのか。
私、桐式珠後は、本当の「愛される」と言うことをどういうものか知りたいのだ。
◆
その一本の電話に、前はそれを取るか取らないか迷った。
じりりりりん、という古めかしいベルの音を鳴らす黒電話を暫く見つめていた前は、7回目のベルでようやくそれを取った。
「はい、桐式……」
『あー桐式? 今暇ー?』
自分の言葉が終わる前に、その陽気な声は聞こえてきた。間違いは無いだろう、これは室井亜紀の声だ。
「いきなり、何? もう6時になるって言う時に……」
『いや、ちょっと、頼みたいと言うか相談したことがあるんだけど』
「厄介ごとならお断りだよ」
『と、とりあえずさ、あたしの家に来て欲しいんだよ』
ちらりと、横目で窓の外を見る。窓の外では、朝方から降り始めた雨が未だ降り続いている。
「今雨降ってるから行きたくないんだけど」
『頼む! な、この通り。来てくれたら何でもするからさ」
この通りとか、電話越しにされても分からない。それに、前には亜紀が「私が亜紀の家に行けば全て解決する」と言うように亜紀の話から捉えられた。……こういうのは、ろくな事が無いと前は知っていた。
「悪いけど、お断り……」
そう言い掛けた途端、急に向こう側から電話が切れた。
「……そんなに来て欲しいのかな」
こういう様に話を切られては、しょうがないと言うように、前は自ら雨の中へ身を投じることにした。勿論、傘を忘れないようにする。
……これが、今回の事件の終結を招く。
Z
傘に当たる雨の振動が、手に伝わってくる。この振動は非常に自分を不安にさせる。ぽつぽつ、といった連続的な振動は私にそのまま、雨に打たれている感覚を連想させるのだ。
思えば、雨の降っている日に外出するのは久しぶりな気がする。
ゾクリ、とした。
雨が降っている日の外出と言ったら、あの日しかない。思わず私は背中から駆け上がってくるような悪寒に、身を震わせた。
そんな風に怯えながらも歩くこと12分ほど。時刻にして6時3分に室井亜紀の住むアパートに到着した。
◆
視界は赤で彩られていた。
私の身体は熱くて、堪らないほどに痛かった。
目で見えるのものは赤だけ。耳に入ってくるのは、ぞぶり、ぐちゃりと言った、気味が悪くて、生理的に吐き気を催す音だけ。
でも胃の中身を吐き出そうとしても、吐き出せなかった。
ただ、口からは暖かい水だけがだらだらと歯の隙間を通過していくだけ。
だから吐き気は一向におさまらない。
――ああ、痛い。
室井亜紀は、わたしは確かに壊れていた。
視界に移る赤の向こうにはおそらく『彼』が居る。
――ああ、熱い。
赤しか映さなくなった目からは、涙がこぼれていた。
何故だろう。何故私はこんなに悲しいのだろう?
手で涙を拭いたかった。でも、それはもう出来ない。
私の両腕は肩から先が無くなっていた。
何でだろう? と思う前に、もう自分がどうなるのだろうとしか考えられなかった。
どうなるのだろう。
どうなるのだろう。
それしか、考えられなかった。
◆
最初に、この女を動かないようにしてしまおうと僕は思った。
人間と言う生き物の「生存」の執着心は恐ろしいと言うことをどこかで聞いた事がある。
殺そうとすれば、人間は殺そうとしたものを殺そうとする。
そういう機能に長けていたからこそ、人間は繁栄したらしい。
とりあえず、僕の経験からすれば、人間は脚が無くなると全く動かなくなる。腕だけで芋虫みたいに這って逃げようとする人間も居たけど、やっぱり脚を無くしてしまえば格段と人間の動きは鈍くなる。そうすれば、反撃はされないで済む。
行動に移してしまえば、後は簡単だった。
女の後ろから右脚……ちょうど太腿の辺りを掴んで、それを引っ張るだけで簡単に腰から右脚は千切れた。血がたくさん吹き出て、周りが濡れていったけどあまり気にはならなかった。
片方の脚を千切ったら、次はその反対側だ。もうその時には女はびくびくと身体を痙攣させるだけで、到底僕を殺せるはずは無かった。
でも、念のためと僕はもう片方の脚も、千切った。
あまり血は出なかった。
女の二つの脚を千切りとってから、僕はあることに気付いた。脚を千切るとき、女は耳をつんざく様な高い声で鳴いていた。正直、うるさかったとしか覚えてなかった。
けど、今思うと楽しかった。
女の身体を触ったりすると、その度に女は僕が楽しくなる声で鳴いた。
でも、触るだけじゃあ小さい声でしか鳴かなかったから、両腕で女の両腕を掴んで、それを思いっきり引っ張った。
めりめり、と言う音の後に、ぶぢりと言う音が鳴って、女が今までに無い声で鳴いた。
僕も思わず大きな声で笑った。
そこまでして、僕は何でこんなことをしているのだろうと思った。
笑いをやめて、しばらく持っていた女の両腕を眺めると、無性にそれに齧り付きたくなった。
右手に持った腕を、口に持っていって思い切りそれに齧り付く。
じわりと、口の中で血の味が滲んで広がった。この味は、どこかで感じたことがある。
――そうだ、僕はお腹が空いていたんだ。
前に1回、何人か人間を食べたことがある。その時の味は、どうだったかなと僕はふと思った。
今見たいな味だっただろうか。
でも人間が違うから、味も違うかもしれない。
どうなんだろう。
どうなんだろう。
でも、そんな事は食べてみたら分かるじゃあないか。
僕は、顎に力を入れた。
◆
時刻にして丁度6時。その部屋は血の匂いが充満し、部屋の中心ではひたすらに「肉」を咀嚼する男が居る。
男の名は、「灰」と言った。
その「肉」は、かつて「室井亜紀」呼ばれていた人間だった。
彼女は最期に、「どうなるのだろう」と言う思考の最中で、意識が途切れた。もはや、待ち人であった桐式前は思い浮かぶことは無かった。
2004/10/12(Tue)17:36:14 公開 /
疾風
■この作品の著作権は
疾風さん
にあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
二章の7話をアップしました。
最近急がし目だったので、やっとの更新です。今回はグロテスクシーンが書きたかったので書いてみました。……いまいちですけどね。
では、こんな作品ですが、感想、指摘、何でも良いので貰えたら幸いです。
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で
42文字折り返し
の『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。