『一人じゃない1〜3』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:霜                

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<プロローグ>
 一つの村が無くなろうとしていた。
 最近は遠くはなれた田舎の村なんかに残る若者は少ない。都会という名の楽園に若者は吸い寄せられ、現在騒がれている少子高齢化になり、最後には高齢者だけが残る。高齢者だけになるとその村はどうなるか。もちろん無くなるのだ。廃屋に近い建物がいくつかあってもそこに人は住んでいない。かつては田んぼや道だった場所も、再び森へと還ろうとしている。
「父さん……」
 その廃屋の一つに、かろうじて二人住んでいるものがいた。一人はまだ若い、幼そうな少年。もう一人は――。
「等……私はもう駄目だ。だが、悲しまないでくれ」
 等という少年に話しかけているのは、老人だった。もう虫の息ほどの。暗い廃屋の小さな一間で静かに息を引き取ろうとしている。
「僕にはもう父さんしかいないんだ!」
 等は立ち上がり、老人の死を力の限り否定した。そこには、若さゆえの激情が少なからず宿っている。そうまでしても、等は父親を失うことを怖がっていた。
「お願いだから、また僕を一人にしないでくれ! いっしょに生きようよ! ねえ!」
「…………」
 老人は何も言わなかった。何も言わず、等の悲しげな蒼い瞳を見つめるだけだった。
「どうしてだよ! なんでだ! 何で僕といっしょにいてくれないんだ! ……頼むよ。もう父さんを怒らせるようなことしないから。わがまま言ったりしないから……」
 等の声が、力任せの怒声から弱気な懇願へと変わっていく。最後に再び座り込んだ。先ほどとは対照的に、力なく震える肩と頬をつたう涙が等の悲しみを表している。
「頼むよ……」
 老人は黙り込んでいた。まだ死んでいないのは分かる。黙って、等の声を一つ一つ大事に聞き取っていた。
そして、とうとう口を開いた。
「等……。これは私の運命だ。たとえ今死ぬことができなくても……お前より後に死ぬことなんてありえない……。お前を育てると決めたときから……私はこのことを覚悟していた」
 蝋燭が最後に少しだけ激しく燃えるように、老人も話し続ける。この機を逃したらもう、言いたいことは言えない。彼に自分の気持ちを分かってもらえるよう諭すように続ける。
「悲しむなとは言わない……人間として生きている限りそんなことはできない……もし、それでも人間として生きて生きたいなら、都会に行ってみなさい。そこでは人がいないなんてことはない。もしかしたら、お前の悲しみが拭い去ることができるかもしれない……」
「都会……」
「そして……ワシに、都会のことについて教えておくれ。まだ……行ったことが……ないんだ……」
 老人はニヤッと笑い、そのまま動かなくなった。
等はしばらくその寝顔を見続けた。悲しくはあるだろう。だが、父親の残した言葉は等に希望をも与えてくれた。
等は、濡れた顔をごしごしと服で拭いた。
「都会か……とりあえず、葬式をやってからだな。とっておきの火を炊いてあげるから」
 そう、老人に言い等は陽の光が差し込むほうへと歩いていった。
 残された廃屋に生というものは存在していない。死んだ老人に腐った木の柱、壊れかけた家財道具。
 この村は死のうとしていた。
この村は自然に帰ろうとしていた。
すべてがそうであり、例外となるものはない。
 これは、かれこれ3百年前の話だった。
<1>
 初夏。だんだん強くなりつつある日差しの下、一人の男が椅子に深く腰掛けて気持ち良さそうに寝ていた。茶色く長い髪を無造作に縛っている。白いTシャツ、ジーンズ、麦藁帽子といった格好の三十代ぐらいの男だ。
男の名は寛和。科学者である。何の科学者かというと――。
「センセ〜。そろそろお目覚めの時間ですよ」
 長い金髪をたなびかせながら近づいてくる女性がいた。二十前後の若々しい女性である。こちらも白いTシャツ、ジーンズ、麦藁帽子といった格好である。これでもかというくらいに微笑んでいる。細められる蒼い瞳がまた綺麗だった。
「……ん? もうこんな時間か……」
 寛和が起きた。くああ〜と、あくびを掻きながら猫のように伸びている。
「あー。じゃあ、そこのスイカを冷やしといて」
 寛和はクーラーボックスを指差し、その女性に伝えた。この女性の名前は三つ葉。いつも絶えず笑っているのがチャームポイントだ。
「はーい。分かりました〜。よっと」
 返事をしたとたん、片手でクーラーボックスを持ち上げ、十メートル先の川にそのまま投げ込んだ。バシャン! と音を立てて(中に入っている)スイカが川に放り込まれた。
「…………」
 唖然としてみる周囲の人々、と寛和。ここはキャンプ場だった。ニコニコキャンプ場という、結構有名な場所である。綺麗な川と涼しげな森が避暑に適している、とかなんとか。
「あ〜、すまん。スイカを冷やしたいから、クーラーボックスから取り出して、水につけておいてくれ。網は石に引っ掛けておいて」
「は〜い。分かりました〜」

 ニコニコ顔で、スイカを取りに行く三つ葉。寛和は忘れていた。三つ葉はアンドロイドなのだ。しかも寛和が造った。よく分からないが、言語能力が著しく低いのだ。結果的に、命令するとき言葉が足りないとこうなる。寛和たちは三日ほどここに滞在しているのだがなれるまでに大変な努力を要した。そのせいで色々な問題を引き起こしている。一番の問題は食料を持ってくる量が足りなかったということだ。昨日の分でもう無くなっている。五日滞在する予定だったのに、どうしても二日分足りない。実は昼寝ではなくふて寝だったのだ。
「することもないし食料もないし……どうすればいいんだか」
「森に行って食料採って来てはどうですか?」
 問題なくスイカを冷やせる状態にしてきた三つ葉がそう言った。誰のせいだと思っているんだろうか。聞きたいが、なんとなく聞けない。聞いても意味がない。
「森には動物がいるらしいですし。薪用の木も持ってきて欲しいですし」
 アンドロイドの癖にいやに横着なヤロー――いや、アマだ。
「あ、キノコなら毒か食べられるか見分けられますよ。最近図鑑読んだので大丈夫です」
 あくまで自分が行く気はないらしい。
「じゃあ代わりに魚釣りしててくれ。周囲の皆さんに迷惑かけないようにな」
 元気よい返事とニコニコスマイルに見送られて、寛和は森の中へと入っていくのだった。

 都会は、お世辞にも良いとはいえない場所だった。
 空気が悪かった。排気ガスという有害な物質を遠慮なく吐き出す乗り物に乗りながら、その有害な物質をなんとかする対策なんて全く取ろうとしていない。空気は汚されていく一方だ。反面、街の美しさといえば、人間の建造物としては相当なものだった。大小さまざまな大きさの建物が街を彩っている。暗闇に浮かぶネオンの色は、眠らない街という名のとおり夜でさえも人がいるかのような明るさだった。
 だが、何よりも都会を悪印象にさせたのは……そこにいる人々だった。ぶつかるだけでけんか腰、他人とはあまり関わろうとしない態度。好意的に接してくる人がいても、自分を売って金にするような人。例え本当に良い人だとしても結局僕より先に死んでしまう。
「都会は、あんまり良いところじゃなかったよ」
 父の墓の前でそう言ったのは何年前のことだろうか。覚えていない。
 僕は、本来の習性どおり森の中で暮らすことにした。人が入ってこない程度の深さの森で、動物達と木々たちと暮らすことに。でも、それも上手くいっていない様な気がする。人間は、自分の意思をはっきりと伝えてくれるけど、動物や木々はなかなか伝えるということはしない。もともとそんな能力ないのかもしれないけれど。
彼らは、僕を恐れた。僕が彼らに近寄るたびに、彼らは逃げた。逃げないことがあっても、彼らから微かに感じ取れる感情は、恐怖。そういった感情さえもない木々達も、僕がちょっとした炎を出すだけで簡単に燃え尽きてしまった。
僕は……彼らと生きることに対して相性が合わないみたいだ。
僕は……これからどうすればいいんだろう。

 等は森にいた。父親が死んでから三百年ほど経っても見ために変わった部分がない。少し身長が伸びたように思われる程度か。それさえも確信できないほどに変わっていなかった。シャツとジーンズといった一般的な格好をしている。ひどくボロボロなのはしかたがない。何しろ数十年はそのままなのだから。
「僕がいるべき場所なんてないのかな」
 暗い森の中の、そこだけ光のあたる部分に立ちながらぼやいた。ここは等が昔焼き払ってしまった場所である。半径十メートルぐらいの、雑草ぐらいしか生えていない部分に立っている。
 木の枝に止まっている小鳥が羽ばたきながら等の下によって来た。等は優しく手を差し伸べた。止まってくれるのだろうか。小鳥は、等が手を出した瞬間に何かを感じて違う方向に飛び去った。
「僕がいてもいい場所なんてあるのかな……」
 前向きに生きていけ、と父に教えられたが度々暗い気持ちになってしまう。分かってはいる、でも気持ちというものはそう簡単なものではない。
 しばらくそこに立ったままでいた。
これが最後だから。これ以上いると、悲しみが増えるだけだから……。
「今度は海の見える所に行ってみようかな」
 そう言って、等はそこから立ち去ろうとした。永遠に。
 突然、ガサリと草を踏み分ける音が当たりに響く。何かが近くに来ている。
「子供か? こんな場所まで入れるとは……ここらへん詳しいの?」
 久しぶりに聞く人間の言葉に等は驚きながら、声のした方向へふり返った。そこにいたのは、麦藁帽子の茶髪のおっさんだった。
 けらけらとした笑い顔のオヤジは、等の目を見て笑いをやめる。
「……その眼、亜種の人間だな。思いもよらない掘り出し物だ」
 そう言って、別のニヤリとした笑みを作る。
 その言葉と笑みに、等はすばやく反応した。何度か経験のある、目的のものを見つけた笑み。自分を捕獲しようとした奴等の表情だ。
 こんな奴に捕まってたまるか、と思った。
 自分が死ぬくらいなら他人を殺すこともいとわない、と思った。
 だが、それと同時に等にある一種の希望が浮かんできた。いや、絶望かもしれない。もしかしたら捕獲されれば死ねるのかもしれない。今まで生きてきて、楽しいと思えることなんてあまりなかった。悲しみのほうが何倍も多い。生は苦しみという言葉がある。死ぬこととは、案外良いものなのかもしれない……。そう考えると、なんだか気楽に思えてきた。こんなに辛い思いをする必要も無い。本当に楽になれるかもしれない。
 ためしに等は
「捕獲されるのって痛い?」
 と聞いてみた。
 男はふうむ、と唸りながらしばらく無言になった。困っている様子だ。突然の問いかけに、内容に。
「死ぬだけならけっこう楽なんじゃないかな。死にたいの?」
「結構あんたらみたいなのに辛い思いをさせられてるんで。そろそろお終いかなって」
「そうか……。でも生きたいんだろう?」
「生きたいよ」
 そりゃあね、と等は心の中で付け加える。
 それに対して、男は満足そうに頷いた。 
「そうか、俺はハンティングしようと思っていたわけじゃない。君を息子にしたいと思ったんだ」
 男は歩み寄り、中年と思わせないようなごつい腕を等に差し伸べた。その顔にはさっきと同じような、ニヤリとした笑みが浮かんでいる。
 等は、最初この男の言っている事が理解できなかった。時間をかけてじっくりとその言葉を反芻し、ようやく理解した等の顔には驚きのみが記されていた。

 寛和は上機嫌だった。食料を探しに行った結果、思わぬものが釣れてしまった。長年の夢を達成できたかのような達成感で胸がいっぱいである。
 二人はガサガサと、草の根を掻き分けてもと来た道を戻っていた。本来の目的を完全に放り捨て、ただ話す事に気を使っている。
「あの……息子ってどういうことなの?」
 等がおずおずと質問をしてきた。なんというか、当然の疑問だろう。ばったり出くわして、息子になってくれなんていくらなんでも変すぎる。何か裏があると思われても不思議ではない。
 だが寛和は本当に、等が息子になるのを望んでいた。
「ん? ああ、そのまんまの意味だけど。家に来て欲しいってだけ」
「だって、僕は人間じゃないから……」
「別に人間として家に来て欲しいわけじゃないんだ。むしろ、人間じゃないからこそキミが必要なんだ。かれこれ何年生きてる?」
「三百年ちょっとかな」
「やっぱりな」
「それがどうかしたの?」
「まあ、生きる時間の長さってのは長いにしろ短いにしろ悩むもんなんだよ」
 そこで言葉を区切った。そんなに長く話していたつもりはなかったのに、いつの間にか森野で口が見えてきている。入ってきたときとはえらい違いだ、と寛和は思った。目の前に見えるのは、橙色の日差しと、その光を受けてきらきらと輝いている川面。ついでに、人がそこらじゅうにいる光景。キャンプ場なのでしょうがないといえばしょうがない。
 森を出たことで、辺りは茶色い土から砂利の多い川岸へと変化する。同時に足音も変化した。数時間味わっていなかった砂利の音が気持ちよく感じられる。
自分のテントや椅子がある場所まで行くと、とあるものを見つけた。
「すか〜……すぴ〜むぐう……」
「…………」
 気持ちよく寝ている三つ葉だ。その笑顔での寝顔は、人々を微笑ませるようなものであり、寛和の神経を逆なでするようなものでもあった。
「可愛い寝顔だね」
 事情を知らない等が笑って寛和に囁く。起こさないように気を使って声を小さくしているらしいが、寛和にはそんな気は毛頭なかった。
「こおらああああ! おきろおおおおおお!」
 寛和は耳元(耳を口まで引っ張るようにして)で、さらに大声で叫ぶ。その効果があってか、三つ葉は猫のようににゃんと鳴いて飛び起きた。頭を振り回したせいで金色の髪がバサバサと跳ね上がる。
「あははは。お疲れ様ですはい」
 三つ葉は手のひらをさすり合わせながら笑顔で言った。招き猫のような印象を受ける。冷や汗をかいている招き猫など聞いたこともないが。
 見るところ、魚どころか釣り道具さえも出した様子がない。どうしようもないほどの横着ものだ。寛和は等を連れてくることだけで頭がいっぱいだったので、食料らしきものは採ってこなかった。客にもてなすものもない……。寛和はがっくりと肩を落とした。
「はあ〜。これじゃ夕食抜きだぞ。どうしようか」
 三つ葉を責めてもしょうがないので――というか食べないから責任を押し付けてもしょうがないので自問自答を始める寛和。
「別に、サボってたわけじゃないですよ。帰ってくるのを待ってただけです」
 そう言って、三つ葉は自信満々の足取りで川のほうへ歩いていった。そんなに深い川ではないので入れることは入れる。しかし、手づかみというのは無理がある。いったいどうしようというのだろうか。
三つ葉は川に近づくと、サンダルを脱いで川の中へ入った。ジーンズが濡れるのも全く気にしていない。バシャバシャと、足を抜いたり突っ込んだりを繰り返して前進する。川の真ん中辺りに来たとき、腰を少し鎮めて川面を睨みつけた。笑っているので微笑み返しているというのが適切かもしれない。右腕と左腕を川の中に突っ込む。そして
「あ」
 寛和が呆けた声を出した。三つ葉が何をしようとしているのか理解したのだ。等は興味心身で三つ葉の様子を見ている。
 寛和は止めようと半分動いた。だが、頭の中では分かっていたことだが間に合わなかった。
 一瞬、バヂィイ!と機械がショートしたような音が鳴り響いた。数秒後に現れたのは、腹を水面より高く出した魚たち。十数匹いる。
 その異様な音と光景に、周囲の人々の目線は三人に注がれている。
「ああ〜」
 寛和は、顔に手を当てたまま、もう片方の手をヒラヒラと振った。もう、どうにでもなれといった感じだ。
「後は焼くだけですね。食後にスイカをどうぞ!」
 周囲の人々に驚きの目で見られる中、三つ葉は自信たっぷりでそう言うのだった。

「要するに、三つ葉はアンドロイドなんだよ」
 陽の傾く角度が鋭くなり、空の色もだんだん寒色へと変わっていく。椅子にどっかりと腰を下ろしながら寛和は言った。等は、多少驚きながらも納得した。あんなことできるのが人間であるはずがない。
「ずっとニコニコ顔なのはそのせい?」
「別にずっとニコニコ顔になるようにしたわけじゃないんだよ。感情を出せるようにしたんだけど、やっぱり難しいもんでね。やっとできたのが喜だったって話」
「でも、本当に人間みたいだな」
 等は、さっき起こった出来事を思い出した。三つ葉が魚を取って川から上がってきた後、こちらに歩いて来る途中で石につまずいたのだ。あわてて等が助けようとして支えたのだが、なんと体が柔らかかった。加えて機械とは思えないような柔らかさと温もりがあった。恥ずかしいことだが、顔が赤くなったことも事実だ。ただ、体がめちゃくちゃ重かったのが彼女を機械だと思わせられる証拠だろう。本人に聞いたところ、百五十キログラムちょっとあるらしい。ちなみに体重を恥らう気持ちはないとのことで。
 しかし、そんなアンドロイドがいるのに何故自分が息子になることを望むのだろうか。何かして欲しいことがあれば、そういうことのできる機械を作ればいい。寂しさを感じ始めていた等にとって嬉しい話ではある。でも、答えを出す前に聞いておく必要があるのも事実だった。
「まあ、俺様がそれだけすごいってことだ。さてと、そろそろ飯にするかな」
 寛和のその言葉で、初めて等は自分が空腹なのに気づいた。グウグウと腹の虫がなり始める。ちょっと恥ずかしかった。なんで意識するとこんなになるものなのだろうか、と疑問に思ってしまう。
「さっさと焼きたいが、薪もないんだな。どうしようか」
「あ、それなら任せて」
 等は、椅子から立って、その場にうずくまった。何をしてるんだ? という寛和の声がかかる。等は無視して口からとあるものを吐き出した。それはオレンジ色に燃え上がる炎だった。
「ほほう。ドラゴンか」
 感嘆の声を漏らす寛和。炎を出すということだけで等が何の亜種なのか気づいたのだ。もともと炎を出せる種族なんてほとんどいないわけだから、気づいてもおかしくはないのだけれど。
 同時に、何か嫌な気持ちも出てきた。それは、恐怖だ。等は、寛和が自分を恐れることに恐怖を抱いている。等はこんなことしない方が良かったのではないか、と考え始めた。
 寛和は、等の不安を振り払うかのように
「眼の色からして蛇かなんかかと思っていたんだが……しかし、なかなかカッコいいじゃないか」
 そう言った。カッコいいと。
 等は初めて言われたので驚いた。
「なんかの本で読んだことがあるんだが、伝説の龍と混血した人間がいるとか。あー、内容からして神話だなこれ」
「今まで会った人たちは、大抵気味悪がってたけど」
「それは、そうだろうな。今の人間は特殊なものをすぐに恐れるから」
 等は、ゴオゴオと、オレンジ色に燃えている炎を見ていた。なんで寛和は自分を恐れないのだろうか、と疑問に思った。こんなに人間とかけ離れた存在だというのに。
「俺らは、どちらかというとそういうファンタジー的なものにあこがれるタイプでね。そういった人間はキミのことを怖がらないだろうね。代わりに捕まえようとするだろうけど」
「……あなたはなんで僕を?」
「ドラゴンだろうが人間だろうが、寿命が長くても短くても、悩みはあるんだよ……」
 言っていることは理解できるが、意味は理解できない。自分が長くて寛和が短いからどうだというのだろう。いったい何を言いたいのだろうか。
 寛和は、ちょっと離れたところで魚に串を刺している三つ葉を見つめていた。当人は笑いながら遊んでいる。ちゃんと調理しているのだろうか、と訝しげな視線を送っていた。ただ、その瞳はどこか悲しそうな印象をも受けられる。
 結局、等にその意味は分からなかった。残るのは煙草を吸いながら曇っていく寛和の表情だけ。
 夜はどんどん漆黒の闇へと塗り換わっていく。

小鳥のさえずりが聞こえてくる。気がつくと、瞼の境目から、真っ白の光がねじりこむようにして入ってくる。それに耐え切れなくて目を開ける。だが、虹彩の調節ができていないために、強い刺激が走り閉じてしまう。それを何度も何度も繰り返した。
 やっと目を開けても痛くない状態になったとき
「朝か……」
 ぼんやりと、テントの天井を見ながら呟いた。
数分間、テントでぼんやりとしたあと、寛和はテントを出て近くの川まで歩いていった。夏といっても朝はまだ肌寒い。薄めの上着を着ていた。
川に辿り着くと、眼鏡を外して履いていたサンダルを脱ぎ、川の中に入っていった。両手で水をすくい、ジャバジャバと顔を洗う。ぼやけて良く見えないが、水の中でうごめくものが見える。
「魚か……ちょっと厳しいなあ。日本人として」
 ちなみに朝ごはんのことだ。
 川から上がり、そのままテントへ大股で歩いていく。テントの入り口を元気良く開き
「起きろー!」
 叫んだ。
 中にいた一人は、いきなりのことで飛び起きた。
「うわっ! もう朝? でも早くない?」
 いきなりのことであるにもかかわらず、等はキョロキョロと辺りを見回している。血圧が高い方なのだろうか。眠そうな様子はあまり感じられない。とりあえず泊まってもらうことにしたのだ。等も、特に寝る場所などは決めていないようで遠慮がちな様子でありながらも受け入れた。
 もう一人の方はというと
「すかー。すぴー」
 だらしなく、寝袋に抱きつきながら嬉しそうに寝ている。時々エヘヘヘ、という笑い声が聞こえてくる。なんなんだコイツ……と思わず思ってしまうような、可愛らしいじゃないか、とも思ってしまうような微妙な感じだ。
「起きないけれど、寝かせておく?」
 さっきまで辺りを見回していた等がそう提案してきた。多分、等なら後者なのだろう。他人にはやさしく、ということで優しい対応を希望している。だが、寛和は身内だ。そんなつまらないことをする気はない。
「いや、こうする」
 意地悪な笑みをたたえながら、寝ている三つ葉の元に近づいて脇をくすぐった。しばらくしないうちに
「ひゃああああ!?」
 寝ていた三つ葉は叫んで飛び起きた。ついでにテントの外に飛び出した。
 揺れる金髪を見送りながら
「くすぐり弱いんだね。ロボットなのに」
 少し跳ねた黒髪をごしごしとかく。少し長い黒髪がさらにくしゃくしゃになった。
「ああ。五感は人間と同じだからな。面白いと思ったんだ」
 三つ葉が消えた方向を見ながら、ポツリポツリと呟いた。バシャン! という何かが川に落ちた音がするまで、二人はずっとテントの入り口を眺めていた。

「だから何で?」
 三つ葉は魚を採っていた。前回のように、川に電流を流して、だ。川の流れに抵抗して立つ二本の足が、背後で水の渦を生じさせている。
 川から少し離れた地点で、寛和が三つ葉に話しかける。
「だから、朝っぱらから魚って嫌じゃない?」
「だって食べないし」
 この野郎……。寛和はむかつく気持ちを抑えながら、(珍しく)優しい声で三つ葉とコミュニケーションをとる。
「森に入って食べ物とってきて欲しいんだよ。あと燃えるもの」
「食べ物ねえ……。ちなみに、生木は燃えにくいんでやめた方がいいですよ」
 昨日言っていたことはなんだったんだコイツ……。それでも昂ぶる気持ちを抑えながら辛抱強く続ける。
「枯れ木でもあったら持ってきてくれればいいし。つーか、たまにはお前も動け。横着もの」
 もしかしたら、さっきの出来事を根に持っているのかもしれない。感情が喜しかないので、ありえないとは思うのだが。
 着替えを済ませてきた等がやってきた。昨日、彼は服がかなりボロボロだった。森の中で生活していたということなので、かれこれ数年はその服装だったのだろう。今は、ジーンズと黒いTシャツ姿である。着替えというよりはリニューアルという方がいいかもしれない。服装自体は変わっていないわけだし。何故か麦藁帽子は遠慮された。シャツが黒いのは、実は等は白が似合わなかったからだ。人には色の相性がある。けれども、白が似合わないというのは致命的なような気もする。
「森に用事があるのなら僕が行くよ。三つ葉さんも行かない?」
 軽い口調で三つ葉に聞く。最近の若者は男女の仲というものに抵抗が何のだろうか。そりゃあもう昔はブツブツ……とりあえず、そんなことで三つ葉は動かないだろう。寛和はそう思った。
「うん。いく!」
 このガキ……。
 寛和の引きつった笑みに青筋が立つ。
「まあ、まだ早いから、もうちょっと経ってから行こうか。まだちょっと暖かくなってきた程度だから。十時頃がちょうどいいんじゃないかな?」
 そう言って、そさくさと去っていく等。悪いどころが良かったのだが、何故か腑に落ちない寛和。喜の感情しかないはずの――だからこそさらに上機嫌なのかもしれないが、三つ葉だった。
 数時間後、森へと入っていく二人を見送りながら、寛和は心の中に締め付けられるような痛みを感じた。
「託すことをしなければならない辛さ。お前には分かるか?」
 ポケットから煙草を取り出し、吸い始める。気を紛らわすために吸った煙草だが、その煙が自分のように思えてくる。
 澄み渡る青空の下、森のはずれで小さな火がねじ消された。

 森の中は暑く感じられた。こんな暑さは今だかつて経験したことがない。
 等は三つ葉と一緒に森の中を歩いていた。ガサガサと枝や落ち葉を踏む音が、いつもより早く聞こえる。心が落ち着かなかった。
「えっと……枯れ木と食料を採ってくればいいんだよね?」
「うん。でも、枯れ木は必要ないと思うよ。等さんがいれば」
「ああ……そうだね」
 三つ葉の話し声も無機質な音のようにしか感じられない。
等は、昨日の夜に寛和が言ったことを理解することが出来なかった。だから、もしかしたら三つ葉が知っているかもしれないと思い、こんなところまで誘ったのだ。
しかし、それを実行した途端に後ろめたい気持ちも後を追ってきた。
 自分は一体何をしているんだろうか。
「どうしたの?」
 ぼうっとしていた等の顔を、あいかわらずのニコニコ顔で三つ葉が覗き込んでいた。その顔を見たとたん、罪悪感という文字が浮かび上がってきた。
「い、いやなんでもないんだ。本当に」
 等は無理矢理取り繕うと努力する。
 せっかく喜んで付いてきてくれたのに、その理由は寛和のことを聞きだすためなんて、どうかしている。必要なことではある。だが、その行為が彼女を裏切っているような気がしてならない。
とりあえず、等は前に進むことに集中した。別に聞くだけだから構わないだろう。そう言い聞かせて。
 無言で歩き続ける二人。耳に入ってくるのは周囲で本能のままに鳴いている虫と、風に揺られて擦れる葉のざわつきだけ。その環境がますます気まずい空間を作り上げていた。
「もしかして、センセを悪く思ってるの? 無理矢理つれてきたから」 
 三つ葉が突然話しかけてきた。等はその内容に驚く。等は無理矢理連れてこられたわけじゃない。むしろ、自分から進んで付いてきたようなものだ。言葉数が少なくなっていたので不満に思っていると勘違いされたらしい。
「そんなことはないよ。ただ、なんでぼくを息子にしたいんだろうって思っただけ」
 等は意を決して聞いた。
「息子になって欲しいから?」
 そのまんまだ。
「そうなんだけど、なんで僕じゃないといけないか分かる?」
 そう言うと、三つ葉は考え込んでしまった。どうやら、三つ葉もよく分からないようだ。
 しばらく考え込んで
「センセがなんで等さんを息子にしたいのかはわからないけど、センセはあなたをだますようなことはしないよ」
 にっこりと微笑みながらそう言ってくれた。その笑顔が、寛和は信用するに値する人物だというのを証明してくれているかのようだ。
「でも、何で僕なんだ? 亜種っていうのは、発見された例はそれほど多くないけど、一応裏では売買されているって話も聞いたことがあるし」
 そんなことを自分で言ってしまって悲しくなった。自分が商品だと認めているようなものだ。
「そういった情報は全部調べて当たってみたよ」
 これに等は驚いた。まさかそこまでしているとわ思わなかった。
「本当に? そいつらをどうしたの?」
「全員買い取って、希望する場所に逃がしてあげた。センセにとって、人の命はどんなものよりも大切だから」
 淡々と、嬉しそうに言葉を紡ぎ出して行く。そのことを聞いて、等の疑問がまた増えてしまった。逃がしたということは駄目だったということだと思う。本人が嫌がれば強制しないだろうけど。なんで他の亜種じゃ駄目だったのか。
「その人たちは駄目だったってことでしょ? どうして?」
「そこまでは分からないなあ……。一緒に見て回ったけど、色々な人がいたからね。その人たちを選んでも良かったはずなのに」
 ふーむ、ととうとう二人で悩みこむ羽目になってしまった。
「なんで僕なんだ……」
 考えても、一向に答えは出てこなかった。寛和の言っていたことの意味も。
「どうしても知りたいの?」
 三つ葉の口調に、何か引っかかる部分があった。何か知っているような感じだ。
「知らないんじゃないの?」
「そうだけど、私の記憶の中にどうしても見ることができないものがあるの」
 三つ葉は説明をしながら頭を指でつんつんと突っつく。
「それに、もしかしたら入っているかもしれないって事?」
「題名だけは分かってるの。多分、何かしら関係していると思う」
 三つ葉は、少しの間目を閉じた。無表情の彼女の顔を初めてみる。その横顔は、とても綺麗だった。
 だが、突然瞼を開いた。良く見ると、彼女の目は違うものに変わっていた。いや、見た目はほとんど変わっていない。ただ、瞳孔が異常に開いている。
続いて
『boy』
 聞き慣れない、機械的な言葉が三つ葉の口から発せられる。それから、映像が流れ始めた。

「これは……」
 三つ葉の目から出る光が、前方に広がってスクリーンを作っている。その映像は、子どものものだった。小学一年生ぐらいの蒼色の瞳をした少年。
『直人、あんまりはしゃぐんじゃないぞ』
「この声……寛和の声だ」
 と、いうことはこの少年は寛和の息子だということか。
 その少年は、画面の中で楽しそうに走り回っていた。映像を撮られるのが恥ずかしいのかもしれない。その様子は、平凡な親子の微笑ましい日常の光景だった。一日だけのものではなく、動物園や遊園地に行った映像が流れている。
『父さん! 次あれに乗ろ!』
 声変わりをしていない、甲高い少年の声がカメラを持っている人物に向けられる。寛和だ。
『たまにはお前も映れよ』
 急激に少年が引き離される。カメラを動かしたようだ。動かした先には、三つ葉が映っていた。少し恥ずかしそうに笑っている。放って置かれることに耐えかねた少年が寂しそうな声で寛和を呼びかける。再びカメラが少年を映し出した。
その光景は少しの間続いた。だが、これがどう関係するのだろうか。
 いきなり、画面が暗くなった。
『うわあああ!』
『貴様、直人を放せ! 何が目的なんだ!』
 暗い部屋の中で叫ぶ声。その声は少年と寛和のものだった。暗くてあまり見えない映像でも、少年が何者かに捕まえられているのが分かった。
『金だ。警察には言うなよ。わかってんだろ』
 男は少年を連れて画面から離れる。しばらくして寛和はその場に崩れ落ちた。そして何度も、何度も振り上げた拳を床に叩きつける。
『直人……直人……直人……! うああああああ!』
 別の画像と入れ替わる直前、画面にいる寛和は悲しく吠えていた。
 最後に
「……これは、写真か」
 無残に切り刻まれた少年の姿……。人形のように崩れ落ちていた。
 等の、蒼い瞳が細められた。

 あの映像を三つ葉に入れたのは寛和なのだろうか。あんなむごいものをどうして三つ葉の記憶の中にわざわざ入れたのだろうか。三つ葉自身は、何も見ていないようだった。それさえも寛和が仕組んだものなのか。……分からない。
 二人はキノコを持って森を出ることにした。等は長い間森にいたので毒キノコと毒がないものとを区別できる。たくさん採れたことに三つ葉は嬉しがっていた。けれど、等の表情は暗く沈んでいた。
 死んだ息子の瞳が蒼かったから……。
 だから、寛和は等を選んだのだろうか。等は分からなかった。
 
 森から戻ると、寛和が入り口で待っていてくれた。日がだんだん強くなっているのに良く耐えられたものだ。麦藁帽子のおかげかもしれない。二人が採ってきたものを見て、かなり機嫌が良さそうだ。
「もう昼食って頃合だしそろそろ用意するか」
 まだ少し昼は早い。でも、等も空腹だったのでその意見には賛成だった。
「じゃあ、準備してるね!」
 そういって離れていく三つ葉を見ながら、等は先を歩いている寛和の背中に問いかけた。
「蒼い瞳だから僕を選んだの?」
 その言葉に寛和は鋭く反応する。立ち止まり、振り返った寛和の顔はどこか寂しげだった。
「それもあるな」
 それも。では、他にどういう理由があるというのか。
「どうしてそういう結論に至ったかは知らないが。確かに、それもある」
 ヒュウーと蚊細い息を吐き出して後を続けた。
「昔、俺には息子がいたんだ。そいつは死んじまったんだが、蒼い瞳をしていた。でも、お前を必要としている理由はそれだけじゃない」
「ドラゴンだろうが人間だろうが、寿命が長くても短くても、悩みはある」
 寛和が言ったことを等がそっくりに真似る。
「その通りだ。俺は三つ葉を造ってしまったんだ……」
「造っちゃいけなかったの?」
「三つ葉は半永久的に生きられる。つまり、俺より早く死ぬことはないんだ」
 等には、それがどういう意味だか分かった。父親が死ぬ瞬間を思い出す。あの苦しみ、あの悲しみ。
「お前になら分かるだろ? 俺もその悲しみを知っておきながら、寂しさを紛らわすためだけに三つ葉を作った。俺が死ぬとき、三つ葉はどんな悲しみを受ける? それから独りぼっちになって、どんな寂しさを受ける? だからといって、俺が死ぬと同時に殺すなんてことはしたくない。責任を負う器もないのに無理矢理補おうとした。俺の罪だ……」
 センセにとって、人の命はどんなものよりも大切だから――。
 三つ葉が言っていたことを思い出す。寛和は、人の命を本当に大切に思っていた。真剣に悩んでいるのだ。造ってはいけなかったのか、と安易に聞いてしまった等は罪悪感を覚えた。
「だから……僕を選んだの?」
「そうだ。亜種の中でも一番生きる部類に入る人間だ。別に俺のかわりに償いをして欲しいなんてことは思ってない。俺が死ぬとき、三つ葉の側にいてくれればいいんだ。願わくば、その後も一緒にいてくれれば」
「…………」
 黙する等に対して、寛和はもう一つ付け加える。
「お前は、あの森の中で悲しい顔をしていた。等なら、三つ葉とずっと一緒にいてくれるって思ったんだ。強制はしない。自分の心で決めてくれ」
 そう言うと、寛和は前を向いて歩き出した。
 昨日から考えていた疑問がついに解けた。箱の中から出てきたのは寛和の苦悩。等はどうしたら良いか分からなかった。等が寛和の申し込みを受け入れれば、寛和の痛みは少し引けるかもしれない。だが、完全にはなくならないだろう。等が三つ葉の側にいてやれば、少しは悲しみを和らげることが出来るかもしれない。でも、完全に和らげることは出来ない。
 中途半端な緩和剤。
「僕は本当に、役に立てるのかな……?」
 空を仰ぎ、誰に聞いてもらうわけでもなく問いを発する。返ってくるものは何もない。在るのは青い空とわずかな雲だけ。

 そんなことを考えているうちに、一日が過ぎてしまった。欲しいと思えば思うほど時間とは薄情に流れていく。
 今日は、二人がここを去ってしまう日だった。等はまだ答えを出していない。
 周りの景色はいつもとまったく変わらない。でも、空気がしんと静まり返っていた。等の心のうちを読み取るかのように。
「僕は本当について行って良いのか分からない」
 等は悩みを三つ葉に打ち明けた。三つ葉は等が寛和の息子となることを望んでいるのだろうか。理由こそ知らないが、どれだけの印象を抱いているかということについては知っておきたかった。
 三つ葉は、少し待っててと言いテントの中に戻っていく。少ししてから出てきた。なにやら紙を持っている。
「寛和と話すときに、大声で読んでみて。絶対に納得すると思うから。それまで読まないでね」
 いったい何が書いてあるのだろうか。
 笑って離れていく三つ葉を見ながら等は考えた。
自分の心で決めろ。寛和はそう言った。
森の中での出来事を思いだす。いつもより暑く感じた森の中。でも、別に気温が高かったわけではなかった。自分の心が揺れ動かされていただけだった。
自分の心はどうなのか。
彼女の心はどうなのか。
どちらを優先すべきなのか……。

とうとうその時が来た。テントの片付けも終わり、周囲には砂利の土地があるだけの場所。いつものような笑みを寛和は浮かべていない。真剣な表情で等を見据えている。
「等、お前はどうする? 俺らと一緒に来なくても構わない。決めるのはおまえ自身だ」
 等はゴクリとつばを飲み込んだ。
 最後まで悩んだ挙句決めた。三つ葉がくれたものは、三つ葉の気持ちも入っているはずだ。彼女が来て欲しいようなことが書いてあるならば、それを受け入れよう。違うものだったら諦めよう。その大事にポケットの中に入れていた紙を取り出して開いた。息を吸って早口で読む。
「お父さん! 娘さんを僕にくださいっ!」
 とんでもないことを言ってしまった、ような気がする。
 さすがにマズイんじゃないか? と心中で思う。もう既に遅いが。
 そんなことを言われた二人はというと
「えええええ!?」
 等の言葉が理解できなくて絶叫する寛和がいた。
「等さんよろしくね!」
 元気良く、いつも以上の笑みをたたえている三つ葉がいた。多分この意味分かっていないんじゃないか、と等は思った。意味的に違うし。
場は混乱を極めるばかりだった。当り前と言えば当り前だ。
 僕は間違っていない。等はそう思う。
 寛和に言う前に読んだ三つ葉の手紙には、さっき言ったばかりのセリフが書いてあった。
 等は自分がどう思っているか真剣に考えた。
 どちらも一緒にいることを望んでいる。これが正解か、間違いか、判断することは出来ない。ただ、等は思う。悲しみを半分に分けられるのならあえて貰おう。その代わり、喜びがあるのなら二倍に増やして欲しい、と。
 


<2>
 久しぶりに、ここに帰ってきた。家を出発するとき、一週間も家を空けると恋しくなるのかなと思った。結果は、どちらともいえない。やっと帰ってきたという想いはあるものの、恋しくはない。
 寛和達は、家に帰ってきた。新たな家族を連れて。
「当り前だけど変わんないな」
「たった一週間じゃ変わりませんよ。家自体を改造しているなら別ですけど〜」
「…………」
 適当な感想を漏らす寛和と、それに答える三つ葉、無言で家を見続ける等がいた。
「どうしたの?」
「……でかい」
 等はとても驚いているようだった。それも無理はない。でかいのだから。そこら辺の住宅の2、3倍の大きさだ。
「科学者ってのは結構儲かるものなんだよ。ちょっとした技術を売ればこんな家一つ二つ軽いもんだ」
 だが、そのせいで寛和が過ちを犯したのも事実である。軽はずみで才能を利用したその報い。それは既に、寛和の身に起こっていることではあるが。
「まあ、こんなとこで突っ立ってないで入るぞ」
 同時に思考も断ち切った。ドアを開ける前に、後に振り返って
「それと、等。これからはお父さんと呼びなさい」
 上機嫌でにっこりと笑いかける寛和。
「あはははは!」
 三つ葉はその顔を見てゲラゲラと笑い出した。
 いつの日か……いつの日か……!
 何かしら復習を果たそうとする寛和であった。
 等はぼんやりと、家と二人を眺めている。その蒼い瞳が、いつもより透けているのに寛和は気づいた。しかし、何も言える言葉はない。
(ま、本人がなんとかしなきゃいけない問題だろう)
 そう自分に言い聞かせて、家の中に入っていった。

 等は家のでかさに驚いた。父親と住んでた家の五倍近く大きかったからだ。豪邸と呼ばれるものなのかもしれない。白い、洋風の家で、庭もちょっとだけあった。庭の広さだけは勝っていた様な気もするが。何しろ山は全部庭だったから。
 今は、家の中に入って色々と案内してもらっていた。玄関に入ると、目の前に階段があった。広い部屋の等から見て右側にある。そこから、扉が四つある。左側に二つ、前方に一つ、階段の下に一つ。これは物置だろう。順番に、書斎、トイレ、リビングとキッチンとなっている。部屋数は少ないが、その分一つ一つの部屋が大きかった。二階は、四つの部屋があって、寝室、三つ葉の部屋、物置、トイレだ。
「浴室は?」
「ああ、あれは一階のトイレのところにある。あそこからまた二つに分かれるんだ」
三人はそのまま二階の物置部屋に向かった。
「ここが、等の部屋になるってことだな」
 そこは、ところどころにダンボールが積まれている場所だった。広さは八畳。何の荷物も持っていない等にとってはかなり広い。
「後で片付けなくちゃな。こっちで適当にやっておくから、二人は買い物でもしてきてくれ」
 そう言って寛和は退室した。
「買い物?」
「服とか、夕ご飯とか、あと何か必要なもの」
「いや、そこまでしてもらわなくても。働いたこともあるし」
 等は都会にいる間ちゃんと働いていた。こんな人間でも雇ってくれる良い人間はいるのだ。ほとんど見た目が変わらないので、一、二年が限界だったが。
「遠慮しないで! もう家族の一員になったんだから、言いたいことは言わなくちゃダメだよ!」
 強引に引っ張って部屋から連れ出す三つ葉。確かに彼女の言う通りなのかもしれない。家族を失って三百年、家族というものを忘れていたのかもしれない。家の前で楽しそうに言い争っていた二人の姿。等はその二人の姿がとても羨ましかった。
 僕は……変われるだろうか。いや、変わりたい。
「僕は家族に入ってもいいんだよね?」
 申し訳なさそうに、かすれた声で等は言った。
「あったりまえじゃん!」
 満面の笑みをくれる三つ葉。
 彼女は、僕にいろいろなものを与えてもらったような気がする。
 僕は、彼女が悲しむことの無いようにできるのだろうか。
 僕は、彼女に何をして上げられるんだろう。
 当分先に必ず起こること。それは決して避けて通れない。その時までに答えは出るのだろうか……。

 三つ葉は、それなりにご近所づきあいが良いらしい。商店街を歩いていると、色々と声がかかった。
「三つ葉ちゃんこんにちは! その男の子彼女?」
「ああは。そんなことあるわけ無いじゃないですか。この子はちゃんとした人間ですよ」
「おう! 三つ葉ちゃん。今日も相変わらず可愛いねえ。彼氏にスイカでも買ってもらったら?」
「私は食べられませんよ! もう。でも、買っていくのはいいかも。センセ、スイカ好きだし。等さんも食べる?」
「う、うん……」
「まいど! 三つ葉ちゃんに彼氏ができたってことでまけておくよ」
「あはは。そんなんじゃないですよ。この子はちゃんとした人間です」
 等に必要な身の回りのものを買った後、商店街によって行ったのだが、行くとこ行くとこで話しかけられた。
 しかも、この子って……自慢じゃない(嬉しくもない)けど、これでも三百年ちょっと生きてるんだけど。
 そんなわけで、商店街を通り抜けるのにはかなり時間がかかった。大した長さではないはずなのだが、半日中歩いていたような疲れが出てくる。
「ハア……」
 等は驚いた。ため息をついたのは等ではなかったからだ。
「え!? なんでため息なんかつけるの?」
「そりゃあ、ため息ぐらいつくよ。あれだけ自分はロボットだ! って言わなくちゃいけないんだもん」
「感情が完全に作られてないんじゃなかったの?」
「喜びがあるのなら反対のものもあって当り前だと」
 いつものニコニコ顔に戻った。
「なら、怒ったり、泣いたりするの?」
「それはないなあ。だって涙でないし、怒るっていうのもいまいちわからないし」
「でも、水普通に飲んでるでしょ」
 等は見たことがある。三つ葉が水を飲むのを。『ん〜ゴクゴク、ぷはあ〜。新鮮な水はうまいなあ!』とかなんとか。忘れられるものではない。なんかオヤジ臭いし。
「あれは、冷却するのに必要なだけ。定期的に交換してるんだよ」
「えええええ!?」
 その言葉に、等は機関車のような蒸気を思い浮かべた。ぽー! と頭から噴射するのだろうか。
「やっぱり頭から?」
「そんな、いかにもロボットらしいことしませんよ。秘密」
 足を速めて等から遠ざかる三つ葉。等には、何故かその顔についている笑みが引きつっているように見えた。

「いやあ……なんかすごいなあ」
 等が驚いているのは、自分の部屋の様子だった。見事なほどに、綺麗に掃除され、いろいろなものが運び込まれている。机、本棚、ベッド、テレビなどなど。部屋の色は青だ。すがすがしい水色の壁紙と、白を主とした家具類が部屋を明るくしている。
「お年頃の少年の部屋、というのをイメージしてみた」
 自信満々な様子の寛和。どこからこれらの物品を揃えてきたのだろうか。
「特に! このパソコンはすごいぞ! なんたってこの俺様がじきじきに自作したパソコンだ! そこら辺に売っているものなんかとは比べ物にならない高スペックで――」
 とりあえず、良く分からないので無視することにした。
「お年頃ねえ」
「そうだ! これからは私のことをお姉さんって呼んでも構わないよ!」
 同様に、自信満々な態度の三つ葉。
「んー、どちらかというと僕の方が年上かなあ」
「えー。見ため的には私の方が」
「見ためでも僕のほうが上じゃないか。良く分からないけど」
 何故か譲りたくなかった。弟、という言葉がしっくり来ない。どちらかというと、三つ葉が妹みたいで、個人的に姉より妹の方が可愛い感じがする。
「でも、等さんは見た目が弟みたいだし、十分可愛いよ」
 似たようなことを考えていたらしい。これでは埒が明かない。
「寛和さんは、どっちが上だと思う?」
 聞いてみた。自信満々に話していた自分の話を無視され、少し落ち込んでいた寛和は
「双子ってのが妥当だな」
 一番困る回答をしてきた。
「えー! 絶対私のほうが上だって!」
「いやいや。精神的には僕の方が確実に上だし」
「商店街の様子見たでしょ! 絶対に私のほうが知られてるし、お姉さまって感じだし」
「僕も毎日通えば顔覚えられると思うよ」
 不毛な会話の中、こんなに感情豊かな会話をしたのは何年ぶりだろう、と思った。こういうのが続いてくれるのも悪くは無い。何かしらおかしい部分がある三人だが、それ故にこの暖かい雰囲気を作り出せている――。

 深夜、等はトイレに行きたくなって目覚めた。頭の上にある目覚まし時計は二時を刻んでいる。
辺りは暗闇だ。しかし、実は等は普通の人間よりも夜目が利く。暗闇も昼間もほとんど変わらない。
明かりを付けづに部屋を出て、廊下を歩いていく、とジャーと何かが流れる音と同時に、目の前の扉から人が出てきた。パジャマ姿の三つ葉だった。
「ふぁ〜あ。おやふみ……」
 そう言って自分の部屋に入っていく。等はトイレのドアを開けた。
「あれ?」
 三つ葉が出てきたのはトイレだ。『そんな、いかにもロボットらしいことしませんよ。秘密』という声がぼやけた頭の中で反響する。
「えええええええ!?」
 暗いトイレで訳も分からなく絶叫する等だった。同時に、息子になって初めての日が終わった。

 暗い部屋の中で、女性のヒステリックな叫び声が響き渡る。
「あなた! 直人が……直人が!」
 肩にかかる自分の髪の毛を振り回しながら、意味も無く叫び続ける。頭を強く振るたびに、流れ落ちる直前の雫が当たりに飛び散った。
「落ち着け! 相手は金を要求している。もしかしたら生きて帰ってきてくれるかもしれない」
「どうして!? なんであなたはそんなに冷静でいられるの!? 直人がさらわれたのよ。 あなたはなんとも思わないの!」
「落ち着けといっているんだ!」
 女性の声よりさらに大きな、太い声で男が叫ぶ。まるでビンタをくらったかのように、女性は動きを止めて夫を見た。その男の眼は、燃え上がるような憎悪を映し出している。
「可能性がゼロじゃないならあきらめるな。直人を助けたいと思うのなら、いつでも行動できるように準備しておかなければならないんだ。とりあえずは、朝まで待つしかない」
 そう言って、部屋から出て行こうとする。
「どこに行くの?」
 女性が尋ねた。
「……ちょっと外に出てくる。大丈夫だから寝ていてくれ」
 男は部屋から退出した。
 できるだけ音を立てないように、慎重に玄関の扉を閉め、外に出る。
 空は雲ひとつ無かった。黒い建物の上に架かる数億の星々が、男の気持ちも知らずに有意義に光り輝いている。
男が向かった先は、公園だった。人っ子一人いない公園のブランコに腰をかけた。
「ここで良く遊んだんだよな……」
 ポケットからタバコを取り出し、吸い始めた。ゆらゆらと、紫煙が空へと昇っていく。
 だが
「何なんだよ……これじゃ線香あげてるようなもんじゃないか!」
 燃え上がる憎悪の前に、煙草は一瞬にしてぐちゃぐちゃになった。
「うあああああああ!」
 深夜であるにもかかわらず、男は叫んだ。誰に聞こえたって構わない。なんと思われたって構わない。ただ、息子が無事なら。

 のあーという叫び声で目を覚ました。気がつくと、本の上で寝転んでいた。
「あれ? 椅子の上で寝てなかったっけ……今の悲鳴は俺のか」
 寛和が上に顔を向けると、目の前に椅子がそびえ立っていた。日の光を浴びて、いかにも神々しい様子を出している。起こしてやったんだから感謝しろ、といった感じだ。
しばらく見上げていると、バタンという音がして後のドアが開いた。部屋の方に押す形のドアだ。
「今の悲鳴なに? あ」
 のあーという悲鳴を上げて本に押し倒される。かろうじて残っていたのは右腕一本だけで、いかにもお墓らしく突き上げていた。
「だから立ち入り禁止って言ったのに……」
 自分のせいなのに、やれやれとため息をつく。等が苦し紛れで『たすけてええ』と言っているのでとりあえず本をどけてやることにした。知らない人は知らないだろうが、本の生き埋めは洒落にならないほど苦しい。
 寛和が等の上にある本を取り除こうとしたとき、本の圧力で閉じていたドアがまた開いた。衝撃で等が寛和の方へ吹っ飛ばされる。
「今の悲鳴なんですか!? あ」
 のあーという悲鳴と共に、三つ葉は無数の本に押し倒された。今度は何も突き出ない。
「何やってんだか……」
 隣でゴホゴホと咳をしている等と三つ葉を交互に見比べながら、さらに大きなため息をついた。
 
 公園で、バスン、とクッションを思いっきり叩きつけたような音が当たりに響き渡る。しばらくすると、またバスン、と音がする。
「なかなか良い球だなあ」
 左手のグローブに挟まったボールを取り出し、真正面に向かって投げる。遠くの方でバスンと音がした。
「キャッチボールくらいはね」
 十メートル位離れている等が投げ返す。
「男ならできないと」
「そうなの?」
 二人の中間の位置で、少しずれて見ている三つ葉が尋ねた。ボールを目で追っており、首を左右に振っている。テニスを見ている観客みたいだ。
「キャッチボールイコール心のコミュニケーション! これをするかしないかで親子の親密度が変わるのだ! ワハハ――」
 ガコン。
 生々しい音がした。ふんぞり返っていた。寛和がボールに当たったのだ。
「…………!」
 メチャクチャイテエ。硬式ボールはやめておけば良かった。しばらく悶える寛和。
「あ〜。どうする?」
「なら、わたしやる」
 三つ葉が、半ば強引に寛和のグローブ及びボールを取った。寛和を無視して気持ちい音が続く。
バスン、バスン、バズン、バズン、バズ! バズ!
 とりあえず、近くのブランコに腰を下ろして傍観する寛和。煙草を吸いながら、にやけた顔をしてその様子を見ている。
「三つ葉さんちょっと強い……」
 だんだん威力が強くなっているのに耐えかねた等が弱音を吐いた。そこで、狙っていたように寛和が助言する。
「いいや、ダメだ三つ葉! 心のコミュニケーション即ち、全力でやらないと自分の気持ちを受け取ってもらえたことにはならないんだ! 一撃だ。その一撃で仕留めるんだ!」
 寛和は自分でも何言ってんだか分かんなくなってきいた。その前に何がしたかったんだろう? 具体的な結果、三つ葉はその言葉を鵜呑みにしてしまった。一応それが狙いだったのだけれど。
「そうなんだ! 分かった本気で行くよ」
 三つ葉は、そう言うなり振りかぶった。
 プロの投手並みの良いフォームで、しかも全力でボールを前に送り出す。
 ビュッという音が三つ葉の手から放たれる。
 距離なんて一瞬で縮まった。
 空気を切り裂き、等のグローブ目掛けて一直線に進むボール。
「あああああ!?」
 ボールの衝撃に耐え切れず、後方に三メートルほど飛ばされる等は、ボールを放さなかったものの背中から地面に強く打ち付けられた。
「やった! ちゃんと受け取ってもらえた! キャッチボールって楽しいね」
 狂喜乱舞ではしゃぐ三つ葉を尻目に
「もう……二度とやりたくない」
 小声でそう呟くのが精一杯な等であった。
 寛和はこの光景を以前に見たことがあるような気がした。ずっと昔に、三つ葉と息子がキャッチボールをする姿。一つの人生の中で、似たような光景を見るのはたまにあることのだと思う。だが、寛和が見た昔のこの光景の後はあまり良いものではなかった……。
 
 あのキャッチボールの後、特に何をするでもなく日が沈んでいった。夕食を食べ、風呂に入って。等がまた叫んでいたがなんだったのだろうか? どうでもいいことだが。
 三十路を過ぎてから、日の代わりがすごく早くなったような気がする。一日が全てと考えていた幼稚園から、五、六年で何か変わったことがあればいいような状態に。一日一日を大事に過ごすことが必要なのに、得られるものは五六年でしか得られない。皮肉なもんだ。その代わり、一生かけて得なければいけないものが得られた。俺はもう終わりなのか? そう思う。もしくは、彼が一生を賭けて得るものでないのかもしれない。
 実のところ、もう既に分かってる。もし、一方が確実だとしたら、もう一方は何だったのだろう。そんな程度の考えだ。別に今さら、しかも、何度も考えるものでもない。世の中は規則的に流れているようでもあり、不規則に流れているようでもある。不規則になっても、維持することができ、さらに元に戻すことも可能である。だからこそ頼りにならない。
「だが、原則というものは存在しているのかもしれない――無駄な考えだな。意味不明だし」
 寛和は書斎にいた。本の山を崩さずに入れるのは自分だけだ。撤去すればいいだろう、と三つ葉にいわれたことがある。でも、そうしようとは思わなかった。誰にも入られたくなかったから。
 なんとなく時計をみる。そこには二時と書かれていた。本当に一日一日が短い。夜に起きている時間は長くなっているというのに。
「さて、そろそろ寝るか」
 椅子にいつもの形で深く腰掛け、机に足を投げ出して目を閉じた。
 感覚器官を放置し、力を抜く。意識がだんだんと薄れていく……。
「うあああああ!」
 爆竹が破裂したように、突然大きな声が上がった。
 それは家の壁を何度も反射して聞こえてきた悲鳴だ。
 その声は――
「等!」
 思わず寛和は叫んだ。
 悲鳴は二階からだ。椅子から飛び降り、ドアを乱暴に突き飛ばした。
 以前にも経験のあるこの空気、この光景。寛和の脳に刻まれた深い傷跡が蘇り始める。
 ――あなた! 直人が……直人が!――
 ――落ち着け! 相手は――
 ――どうして!? なんであなたはそんなに――
 ――冷静でいられるの?――
 何が起こったのかは分からない。それでも寛和はなんとなく分かっていた。いや、そのような気がした。
 昼に映ったあの光景。その後に起こる出来事。
「無事でいてくれ……!」
 寛和はそう願った。どんなことがあっても否定したかった。
 素早く階段を駆け上がり、等の部屋へ飛び込む。そこで見た光景は、
「久しぶりだな」
「なんで……」
 こうなるんだ。寛和は絶叫したかった。誰に聞こえたって構わない。なんと思われたって構わない。ただ、この世の不条理さを嘆かずにはいられなかった。
 先に着いていた三つ葉がドアの側で固まっている。
 等は、いかにも混乱している様子でこちらを見てくる。首の近くにナイフがあった。身動きできないように。
「目的は、金だ。わかってんだろ?」
 暗闇の中、凄絶な笑みで寛和を見ている真っ黒な服装の男。その声で分かった。これは過去の繰り返しだと.

 今日は暑かったので、窓を開けて寝ていた。虫が入ってこないようにちゃんと網戸も。蝉の奏でる子守唄を利きながら眠りにつき始めたその瞬間、黒い物体が部屋に入ってきていた。その黒い物体が人間だと分かったときには、首にナイフを押し付けられて動けなかった。あまりの出来事に、等は何もできなかった。できたことといえば、悲鳴を上げることだけ。
 その悲鳴で駆けつけてきた寛和は現在男と退治している。三つ葉は寛和の後ろに立っていた。黒い男の言葉から察するに寛和は男と以前あったことがあるらしい。
 それは何時なんだろう……と等は恐怖を振り払って考える。友達であるはずは無いだろう。常識的に考えて、泥棒か何か。寛和は一度こんなことがあったのだろうか。
「目的は、金だ。わかってんだろ?」
 黒い男は野太い声でそう言った。強盗らしい。
 風に撫でられてカーテンがバサバサと動いている。カーテンを撫でる風は、留まることなく四人それぞれをも撫でて通り過ぎていった。その風は夏であるにもかかわらず冷たかった。
 等はゴクリ、と唾を飲み込んだ。
「アンタは昔もそう言ったな?」
 寛和が憎悪を剥き出しにして男を見据える。
「ああ……。そうだったな」
 対して、男は冷静に寛和を見つめていた。
「結末までもが同じだというのなら、俺はお前と交渉する気は無い」
「この坊やを見殺しにするのか? なんなら、ここで解体してやってもいいんだぜ?」
 寛和の表情が信じられないほどに歪められた。例えようも無いほどの憎悪がひしひしと等にも伝わってくる。等の後ろにいる男は笑っていた。
 等は、すでに恐怖というものを取り去っていた。寛和の言う結末。それが分かったから。残る感情は、燻り始める怒り。
「ねえ。なんでうちを狙ったの?」
 等の質問に男は親切に答えてくれた。ナイフがあることによほど安心しているのだろう。
「昔ね。似たように強盗したんだよ。この家で。だから、今回も大丈夫かなって思ったんだ」
 子供をなだめる口調で等に教えていく。
「なんで人質になりそうな人がいるって分かったの?」
「昼間公園で遊んでただろ? 見てたんだよ。そのあと家に入っていくのも」
「そう……」
 それだけを聞いて、等はどっと疲れが溜まるのを感じた。本当に狂っている。この人間は。
 ――そして、自分も狂い始めている――
 ドクン。
 何かが脈打つ音が聞こえる。心臓の音が強くなったような感じの音だ。
「あなたは本当に醜いね。今まであった人間の誰よりも腐ってる」
「褒め言葉として受け取っておくよ。どうせそんな減らず口も叩けなくなる」
 男は、等の首筋に当てられている刃をさらに押し込んだ。頚動脈からほんの少し外れた部分。殺してしまっては元も子もないと判断したのだろう。
 しかし、その判断は間違いだった。
 ドクン。
 等は、首に突き刺ささろうとしているナイフを無造作に首で振り払った。金属同士がぶつかり合う音を立てて反発する。
 ドクン。
 等が唐突に叫び始める。野生の獣のように。その悲しみと怒りの雄叫びは、後ろに立っていた男を吹き飛ばした。
 同時にバサッと背中から出てきた。夜の微かな光に照らされて、蒼く鈍く光るそれは翼だった。
 三つ葉と寛和が驚いたように等の姿を見る。変化していたのは翼だけじゃない。腕、足の筋肉が引き締まったように硬くなり、その表面が鱗のようなもので覆われている。蜥蜴人種という単語が頭に浮かび上がるような姿だった。
 ドクン。
 等が翼を軽く振った。それだけで、屋根の中の風が荒れ狂った。部屋の中にある軽い物質が飛ばされる。
 男さえも軽々と吹き飛ばされた。もともとこの男を飛ばすためにこのような行動をとったのだ。あとで寛和たちに何を言われるか分かったものではないが、頭に血が上った等にそんなことを考えている余裕は無かった。
 男は部屋の窓にぶち当たり、さらに突き破って外に落ちていった。ほんの一瞬の出来事のため、呆然とした男の表情が見て取れる。やがてだんだん恐怖の表情に変わり、声にならない悲鳴を上げ始めた。すでに落下中の状態である。助けることなんてできなかった。毛頭、助ける気も無かった。
 等は部屋の出口に立ち、男の様子を見た。男は尻から地面にぶつかったようで、それほどの怪我はしていないらしい。等の硬い表情に鋭い笑みが刻まれる。
 等はなんの躊躇も無く飛び降りた。地面につくときも、何の衝撃も無いかのように静かに降り立つ。恐怖の顔で凍り付いている男を、鋭い眼光で睨み付けた。
 男は等の眼から逃げるように、ずるずると後ずさりする。まったく、情けない限りだ。こんな奴に脅されたのかと思うと、等はだんだん情けなくなってきた。
「そもそもそんな玩具で脅しをかけること自体が間違いなんだよ。どうせそのうち喋れなくなる、さ!」
 白いコンクリートの壁に腕をめり込ませる。そのわずかずれたところに男の頭があった。
 男の表情がさらに歪んだ。悲壮感漂うその表情。等はその顔を見てだんだん苛立ち始める。
「幼い子供を殺しておいてよくそんな顔を作れるな? アンタに自分の身を可愛く思う資格などないんだよ!」
 等は右腕を肩の高さまで挙げた。その五指には厚く鋭い鉤状の爪が青白く光っている。それを見て、男は泣き叫んだ。舌が完全に回っていない。何かを察知した赤ん坊のように口をあけ、音を発するだけの叫び。
 もうそろそろか、と等は思った。本当なら――等が全力で殺そうと思ったのなら先程の雄叫びで終わっていた。ドラゴンという種族はそれだけ強い。たかだか一人の人間に数十秒かける必要など無いのだ。等がここまで嫌に脅しをかけた理由。それは、死ぬ者の恐怖を味あわせるためだ。
 ――そうじゃないと、誰も浮かばれないだろう――
 そう等は思った。その後に殺そうかとも思っていただが、やめておいた。馬鹿馬鹿しくなってきたからだ。そんなことをしても意味が無いから。
「……等さん?」
 いつの間にいたのだろうか。声のする方を見やると、心配そうな様子で三つ葉が立っていた。顔は笑っているけれど、なんとなくそう見えた。
「もう終わりだよ。性に合わないのかもしれないね」
 乾燥した喉からほんの少しかすれた声が出る。なんだか悲しんでいる声だった。自分の声なのに。
 等は頑張って三つ葉に微笑んだ。そうする理由は特に無かった。なんとなく、ただなんとなく三つ葉に笑ってほしかった。
「……本当は殺そうと思ったんだ」
 自分の正直な思いを三つ葉に打ち明ける。
「生かして置く方が犯罪だって思ってた。でも、そんなことしたらここにいられなくなっちゃうからね。自分のことしか考えられないなんて……笑っちゃうよ」
 いつの間にか、自嘲の言葉を紡ぎ出していた。三つ葉に同情の言葉でも投げかけてもらいたかったのだろうか。なんだか悲しくなってきた。
「だったらみんなのためにしてくれたことでしょ」
 等は、思わず、へ? と裏返った声を出してしまった。
「センセも私も等さんがいなくなっちゃったら悲しいし。人、殺しちゃったらもっと悲しい」
 近づいてきた三つ葉が等の手をとった。先ほどまでの硬い、ゴツゴツした手が人間のものに戻っている。怒りが消えていくうちに元に戻ってしまったらしい。
「悪いことなんか全然してないんだから、そんなに落ち込まなくたっていいんだよ」
 じわじわとしたものが込み上げてくる。三つ葉の言いたいことは分かる。そんなことしたって死んだ者は生き返らない。自己満足でしかないのだ。でも――。
「過ぎたものはもう戻らない。でも何故心に葛藤が生じるのか。この男を殺さなかったら許したことになってしまう。そんなことを考えてるんじゃないのか?」
 玄関からゆっくりと歩み寄ってくる寛和。先ほどの表情とは完全に変わった、安堵の表情が出ている。
「殺さないことが許すことじゃない。どの道、こいつもその分の罪を負わなくちゃいけなくなる。人間の法律で」
 等の頭に手を置いて、クシャクシャと掻き乱した。絡まった髪が引っかかって痛い。だけど気持ち良かった。
「僕のこの選択は正しかったのかな?」
「俺らにとっては及第点だと思うけど? な?」
「そうだね!」
 完璧な答えがあるもの、というのは結構少ないものだと思う。結果的に、今回は良かったのかもしれない。何も犠牲になることが無かったから。等の部屋の窓は壊れてしまったが、そんなものいくらでも直せる。もし、壊したのが人だったなら、絶対に元には戻らない。
 等は自分に言い聞かせた。これで良かったんだ、と。
 パアァン!
 乾いた、何かが破裂する音が当たりに響き渡る。辺りにほんの少し匂う火薬の匂い。
 等が振り向いた先――狂った悲鳴を上げていた男の手には黒い金属の塊が握られていた。等はそれを見たことがあった。
 拳銃だ。
 続いて、横でドシャリと崩れる音。支えていたものが急になくなったかのように倒れる三つ葉。
 首の辺りに出来た穴。
 等は、何か見てはいけないものを見てしまったような気がした。
 狂ったように叫び声をあげる男の声も、必死に、三つ葉に呼びかけている寛和の声も遠くにあるテレビの音のようにはっきりと聞き取ることが出来ない。
 今回は良かったのかもしれない――本当に?
 何も犠牲になるものが無かったから――本当に?
 そんなものいくらでも治せる――本当に?
 自分の選択は、大きな間違いだったのかもしれない。

<3>
 
 等は扉を開けた。
 ガチャリ、と音を立てて中の景色を広げていく。開け放たれていた窓から透き通るような清々しい空気が抜けていく。
「調子はどう?」
 ベッドで寝ている状態の三つ葉に、等は声をかけた。
「うーん。ちょっと不自由かなあ」
 カラカラとした声が返ってきた。
 三つ葉はまったく動けないのに、ちょっとした不自由程度にしか感じていない。これも感情の不完全さ故のものなのだろうか。等は疑問に思った。
 一週間前の夜。三つ葉は怪我をした。運が悪かったと言うべきなのか、それともちゃんと狙われてこうなったのか。怪我をさせた本人は消えてしまったので判断のしようがない。
 結果的に、良いことなど無く、さらには怪我人まで出してしまった。寛和や三つ葉本人はあんまり気にしていない。でも、それを見て割り切れるほど等は強くなかった。
「あとで散歩にでも行こうか。寛和が車椅子用意してくれたらしいから」
 結局、後悔してたってしょうがないからできるだけのことを手伝ってあげよう、という考えでいろいろと暇にならないようにこうしているわけである。等本人が暇だという理由もあるのだが。
 等の問いに、三つ葉は明るく同意を示してくれた。相当暇だったらしく、外に出るというだけなのに異常な喜びぶりである。もしかしたら気を使ってくれているんだろうか、と等は思った。
 寛和は現在三つ葉を治すためにいろいろと頑張っているようで、かなり多忙らしい。家にいることがあっても(外にもあまり出ていないような気がする)部屋に閉じこもりっきりだったりしているので本当にいるのかも分からないほどである。これも三つ葉が暇をもてあます理由だと思う。
 数日前、等は寛和に三つ葉のことについて聞いてみたところ、あまり良い状態ではないということだった。生きる、ということだけで考えれば問題はほとんど無い。現にこうして話したり出来るのだから。ただし、生活をしていく上での問題となると多少話が変わる。現在、三つ葉がこうして寝たきりになっているのは状態が悪いからではない。単純に、体が動かせないのだ。首に損傷を受けたことによって、神経の伝達が壊れてしまったらしい。しかも、その仕組みを作ったのは寛和の奥さんで、寛和だけではどうにもならないと。三つ葉の体は、今の文明の技術力をかなり上回っている。歩くことが出来るロボットを作るのが精一杯の社会で、三つ葉を治せるものはいない。かなり絶望的な状態だった。
 だからといって、不可能というわけではない。
 時間をかければ、いつになるかは分からないけれど治すことが出来る。等の長寿を持つが故の可能性だ。一歩一歩頑張って学んでいけば、いつしか出来るだろう。なんとも、まあ適当なもののようだが外れてはいないと思う。文明が発達するのを待つのも一つの道であるわけだし。等にとっては出来るだけ早く治ってほしいので、喜べる案ではないわけだが。寛和も必死に頑張っているので、多分大丈夫だとは思う。ただし、寛和はかなり言葉を濁していた。何故かは分からない。
「――どうしたの?」
 三つ葉の声で、等は我に帰った。どうやら長い時間考え込んでいたようだ。
 大丈夫? と三つ葉に心配された。つくづく自分が憎く感じる。心配している相手に心配されてどうするんだ。自分が助けてあげなければならないというのに。
 適当にごまかしつつ、等は部屋から出て行った。
 ドアをやさしく閉めるとき、三つ葉の声が脳裏をかすめた。
 僕は本当に三つ葉を助けることが出来るんだろうか。
 ――大丈夫?
 分からない。でも、助けたいんだ。

 バタン、と玄関のドアが閉じる音がした。等たちが外に出かけたらしい。
 寛和は書斎にいた。いつもの睡眠スタイルで伸びをしている。今起きたところなのだ。
 最近、やることが急激に増えたのでろくに寝ることが出来ない。期限みたいなものはかなり曖昧なので夜更かしする必要はないといえば無いのだが。急激に増えたといっても、一つだけしか増えていないので、それをどのくらいの時間で終わらせたいかということが睡眠時間を削る結果につながっていた。
 三つ葉の修理。今回三つ葉が怪我をした部分は、脊髄の部分。神経回路で大事な部分になっている場所だった。もともと、三つ葉は寛和一人によって造られたのではない。今は亡き、妻の詩織との共同作業によって造られたのだ。消化器系、循環器系などの中身や腕や、足などといった肉体的な部分を寛和が。神経系、視覚、聴覚などの五感の機能、さらには脳までも造ったのが詩織だった。詩織の作った部品については、全くといって良い程製法を残していない。
 現在、寛和がやっていることは詩織の学んだことを最初から追うことだった。寛和も科学者としてはかなり凄い部類に入る。しかし、分野が違うという理由もあり、その作業は難解極まりないものとなっている。
「う〜む……」
 寛和は、自分でも良く分からないうめき声を上げた。少しだるい感じがする。時計が三時を過ぎているところからして寝すぎだろう。机から足をどけ、地面についてからゆっくりと立ち上がる。
 ふと見ると、机の上に投げ出されている本に変な折り目が付いてしまっていた。先ほどまで寛和の足と机の間に挟まっていた本だ。その本は、神経系や脳関係の医学書だった。構造を人間とほとんど変わらない作りにしているだけあって、人間の方を先に理解しないと何も出来ない。だから寛和はこの本を読んでいた。
 今のところ、ほとんど進展は無い。仮にも分野こそ違うが生物的なものを学んでいる寛和だ。ある程度の知識は身についている。しかし、そこからどう変換するかが難しかった。最初にアンドロイドを作ったとき、詩織はまだ存在していた。自分の担当の部分を完成させ、取り付けた数時間後亡くなった。しかも、その類の資料はない。しいて言うなら詩織の頭の中だ。
 ため息をつきたくなる。自分の無力さに。
 とりあえずは、ちょっとずつ先に進んでいくしかない。自分があきらめたら終わりだから。どの道、等も少しずつ勉強していてくれているし。自分が力尽きても託すことはできるだろう。
「あきらめなければそれでいい」
 寛和はそう呟いて、机の上に置いてある本に手を伸ばした。

 昼にはじわじわと皮膚を焼き付ける太陽も、夕方ごろには大人しく景色の一部として人々の心を和ませてくれる。
 青い空が赤くなり、暗い蒼ヘと変わるころ、等と三つ葉は近くの川沿いの道を歩いていた。キラキラと光り輝く川面がなんともいえないほどきれいだった。
 ふと見ると、暗やみがかる景色の中に黄緑色の閃光が淡く揺れている。
「あ〜! 蛍だ!」
 子供のように三つ葉がはしゃいだ声を上げる。体が動くのなら直ぐにでも捕まえに行っていただろうに。等はふとそんなことを考えた。
「下りてみる?」
 車も下りる事ができるように、緩やかな下り坂になっている場所がある。下りた方が見やすそうだった。三つ葉も快く同意した。
 下り坂に差し掛かり、等は少し強めに車椅子を押した。そして自分も車椅子に乗り込む。何かのドラマでやっていたことを試そうと思ったのだ。
 段々と勢いをつける車椅子はあっという間に坂を下りきった。平面の砂地でもしばらく走り続ける。車椅子が止まると同時に等も降りた。
「ここってなんだがキャンプ場みたいだね」
 なんとなく三つ葉が話しかける。確かに似ているような気がする。といっても川があるというだけで他はあまり似ていないような気もする。
 段々と辺りが暗くなっていく。先ほどよりも蛍の数が多くなったように思えた。人の通りが多い場所でこれほどの数がいるとは驚きだった。
 森の中で三つ葉が見せてくれたものを等は思い出した。もし、寛和が息子を殺されることなく、奥さんも死ぬことなく生きているとしたら、あの時キャンプ場にいたのは等や三つ葉でなく本当の家族だったのだろうか。
「寛和の奥さんてさ。どんな人だったんだろうね」
 等はなんとなく聞いてみる。三つ葉が知っているとは思えなかったが、もしかしたら何か知っているのかもしれない。
「どうして?」
 三つ葉に質問を返されてしまった。どことなく無表情に見えたのは気のせいだろうか。
「んー。理由は無いけど……あえて言うなら三つ葉を治す手がかりがあるかもしれないって思った」
「ちゃんとした理由だね」
 揚げ足を取られたような気がする。
「知らなければ、別にどうということでもないから――」
「すべて知ってますよ?」
 等の言葉を遮って、三つ葉が口を開いた。その口から出た言葉は、全てが違っていた。三つ葉だけれども、三つ葉ではない。確信できるほどに違いがあった。
「どうして?」
 あまりの変化に対応しきれず、かろうじてその質問を口に出した。
「私は――現時点であなたと話している私は、三葉 詩織。あなたの答えにもっとも良い答えを出せるプログラムです」
 等は、その名前に驚いた。その名前は、寛和の奥さんの名前だったからだ。プログラムというのはなんとなく分かる。以前、三つ葉の持っている記憶と関係のないものがあったし、二つ三つ出て来ようとそれほど驚くようなことではない。
「あなたは三葉詩織であって三つ葉じゃないんですね?」
 等の言葉に、薄い笑みを浮かべて三葉は、はいと簡単に答えた。
「寛和の名字は緋崎でしたけど」
「三葉というのは旧姓です」
 なるほど。等は納得した。どうでもいいことだが。
「とりあえず――何を聞けばいいんでしょうね?」
 質問をするといっても、あまりにも漠然としているため、等は何を聞けばいいか分からなかった。自己紹介的なもので質問すれば答えてくれることは分かったが、聞いたところで何かできるのだろうか。少しずつ勉強を始めたとはいえ、小学校も通ったことのない等に専門用語の羅列が出てきそうな答えを貰っても理解の仕様がない。
 ついでに、プログラムとはいえ、初めてあった人に関係ない質問をしていいのかどうか迷っていた。
「何でも構いませんよ」
「うーん……じゃあ、三つ葉を治す方法を」
 その言葉に、詩織は顔を少しゆがめた。珍しい三つ葉の表情に驚きながらも、やっぱり難しいのだろうかと等は思った。
「なんといえばよいのか……あなたは専門的な話をしても理解できないでしょう? それでも聞いておきますか?」
 優しい心遣いありがとう。どうせ無知ですよ。無恥ではないが故に恥ずかしさを通り越して悲しくなってきた。でも、どうしようもない事実だ。
「寛和に聞かせてあげれば何とかなるのかなあ」
 等はなんとなく呟いた。それに対する詩織の表情はどこか悲しげなものだった。
「あの人には会えません」
 ほぼ即答する詩織に等は問いかけた。
「どうして?」
「ここで話すのもなんでしょうから、一度家に戻りましょう。そうすればこの体を治すことができます」
 はぐらかされてしまった。答える気がない、わけではないようだ。多分。
 とりあえずは、詩織の言うとおりにすれば何とかなりそうなので、等は家に戻ることにした。

「あの人に見つかっても、いつも通り三つ葉さんに接しているようにしてくださいね」
 ひゅう、と夏特有の生暖かい風が二人を通り抜けて行った。
 現在、二人は寛和宅の前につっ立っている。ここでかれこれ十分ほど打ち合わせをしていたのだ。
 もう、ほぼ完全に日が落ちている。少し冷えてきたので、等はできるだけ早く入りたかった。
「何でそんなに寛和に会いたくないんですか?」
 もっともな疑問だ、と等は思う。そもそも、ここで打ち合わせなんてことをしていたのも、寛和に遭ったときの対処法を考えるためだけに使われていて、寛和に遭っても構わないのならばする必要もなかったことなのだ。
「とりあえず中に入りましょう」
 ひたすらごかましているわけだが、冷や汗が出ている。
 どんなに聞いても無駄なようなので、等はあきらめて入ることにした。
 カチャリと音を立てて、静かにドアが閉まる。気づかれないように入れと言われたのだが、逆にこちらのほうが不自然ではないのだろうか。そう思いつつも従う等も等である。
 室内用の車椅子に詩織を乗せ変えて――しかし、またこれが重かった。人間ではなくロボット(正確にはアンドロイド)なので、熊と相撲をとっているような感じだ――そんなわけで音を立てないように慎重に家に上がった。
 ガダン!!
 薄暗く、静まり返った室内で、突然大きな音がした。車椅子が壁にぶつかったのだ。あまりの音に等は寿命が縮むくらいびっくりした。
「しーっ!」
 注意する詩織にしきりに等は謝った。
 寛和が気づいても良いような気もしたのだが、書斎から出てくる様子はない。最近いることが少ないので、もしかしたら外出しているのかもしれない。
「とりあえず階段の下にある扉に向かってください」
「でも、あそこって」
 物置のはずだった。等はそう聞いている。何かあるのだろうか。
 等がそこまで詩織を連れて行くと、
「この扉を蹴破ってください」
 無茶苦茶なことを要求してきた。確かに開けられないようにベニヤ板で塞いでいる。だからといって壊していいのだろうか。
 何よりも、
「そんなことしたら寛和に気づかれちゃうじゃないですか!?」
 静かに入ってきた意味がない。
 だが、詩織の要求が代わることはなかった。
「まったく、知りませんよ……」
 半ばやけくそ気味に、その板を蹴り壊した。
 中は、一応真っ暗だった。等は人間であって人間ではない。真っ暗だろうがなんだろうが視界は良好だ。
 辺りを見回すと、納得できるような物置部屋だということが分かった。ただ、脇のほうに下に下りる階段がある。少し狭そうだったが、大人が二人ほど並んで下りれるほどの幅と屈む必要がないほどの高さがある。
「階段を下りてください」
 どうやって? と等は聞きたくなった。どうやって車椅子ごと下ろせばいいのだろうか。
 詩織に聞いてみたところ、
「お任せします」
 そんな回答が返ってきた。
 下りれればそれで構わないということだろうか。どちらにしろ、力技しかないわけで、結局担ぎ上げて下りることにした。口に出すことはできないのだが、重い。
 階段を下りると、出てきたのは広い空間だった。寛和宅の、部屋の仕切りを全て取り払って一つの部屋としたならこんな広さになるかもしれない。
 だが、歩ける場所はそれ程多くなかった。見渡す限り、よく分からない機械が所狭しと置かれている。ある程度のスペースは確保してあるのだろう。それでも狭苦しそうにしているのには変わりなかった。
 等が、パチリと壁のスイッチを押して電気をつける。視界の良さに変わりはないのだが、暗闇で作業するよりはまだマシかもしれないと思ったのだ。
 天井の全てに灯がともると、詩織は左の方を指で指した。正確には、角の部分のコンピュータだ。普通のものではないらしく、四角い箱がごちゃごちゃと犇いており、それらが色んな方向に伸びるコードで繋がっている。
「つけて下さい」
 等がその場所に連れて行くなり、そう言った。何をつけるのだろうか。一瞬と惑った。電源を入れろ、という意味だと理解した等は慌てながらボタンを押した。等の部屋にもこういう類のものが置いてあり、一通りの使い方を学んでいたのだ。もっとも、その知識はほんの少しあり、さらに基礎的なものであったわけだが。
 画面からいろいろと文字が出始める。等はしばらくそれを眺めていた。ふと見やると、詩織が不満な様子でこちらを見ている。
「そこにある配線の先端を挿してください」
 そこ、といっても三つ葉の体は動かない状態にあるので、詩織もまた動けない。代名詞とは不便なものだ。
 等はモニターの周辺の黒い線をいじくり始める。挿してあるものを抜かないように、やさしく引いてみて探した。出てきたのは五、六本だった。一体どれなのだろう。
「全部です。手と足に一つずつ、首に一つ、頭に三つ指す部分があるので」
 ……痛くないのだろうか。
 頭の所を探ってみると、三ヶ所にちゃんと穴があった。久しぶりにアンドロイドだということを見せられた感じがする。外面的なところで。
 その場所に対応したものがちゃんとあるらしく、詩織の説明を聞きながら間違いのないように、等はその配線を繋げていった。それが終わると、ありがとうございます、と丁寧にお礼を言ってくれた。本当だったら頭も下げてるんだろうなあ、とどうでもいいことを等は考えた。
 一応、役割は終わったようだった。勝手に画面が動き出しているところを見ると、詩織が動かせるようになったらしい。それと同時に、暇になった等にポツリポツリと話し始めた。
「なんで、このアンドロイドがこの形をしているか分かりますか?」
 どうしてだろう。等は分からないと答えた。
「この姿は、私が二十歳だったときのものです」
「そのときに死んじゃったんですか?」
 失礼な質問だと思ったが、他に良い聞き方がなかったのでストレートに聞いてみた。
 どうやら不快な思いはしなかったらしい。その疑問に、静根は笑いながら答えた。
「そんなわけないじゃないですか。拓也だってもう少しで幼稚園を卒業するところだったんですよ? 私がこの世から去ったのは多分三十の時です」
 拓也というのは、寛和の息子の名前だろう。そう等は考えた。
「ほんとうは、この素材は拓也の姿を模す様にする方向だったんですよ。等さんも知っていると思いますが、拓也がなくなって以来、あの人は魂が抜けたようになってしまって……。いつものように明るく振舞うようになったのは、この研究を始めてからです」
「止めようとは思わなかったんですか?」
 その等の言葉に、息を詰まらせながらも静根は答えていった。
「もちろん、そんなものは不可能だし間違っているって思いましたよ。でも、あの人にとってはそれしか生きるための理由がなかったんじゃないでしょうか。もし、私が止めたらあの人はもうダメになってしまう。だから手伝うことにしたんです」
「…………」
「三つ葉の情報には、私の存在は入っていない。一体どこで死んだのやら。しかもこうして見てみれば、私が死んだことによって私がいたことの意味を知ったんでしょうね。私を造り始めた。嬉しいことでもあり、悲しいことでもある。その代わり、あの人はさらに自分を追い込め苦しんでいる」
 詩織はそこで息継ぎをした。
「あの人に会わないのは、未練を残させたくないからです。会えばほんの一時だけ、喜びを見出すかもしれません。ですがさらに苦しむでしょうね。
 ……もう見たくないんです」
 等は何も言えなかった。ただ、黙々と動いている画面の文字を見ているだけだった。
 そんな重い空気を察してか、静根は、くすりと笑った。本当の笑いではなかったように思える。
「なんだか辛気臭くなっちゃいましたね。死んだ人間が表立ってすることは何もないんです。今回はたまたまどうしようもない状況に陥っただけ。私の人格が入っているのも知られないようにアンドロイドを補佐するのが目的です」
 静根の頭越しに見ていた画面が急に止まった。等には分からない文章の羅列がぎっしりと詰まっている。いかにも重要そうな感じのものだった。
「これで終わりです。あとはこの情報をあの人に教えてあげてください」
「……ありがとうございます」
 本当にこれでいいんですか? 等は聞きたくなった。結局口をもごもごさせただけで終わってしまったが。幸い、静根は等の顔を見ることができないので気づいていない。
「――そういえば」
 静根はさりげなくそんなことを言った。そういえば、という言葉はさりげなさを感じるけどなんだかあらかじめ用意してあったもののようにも思える。
「私って何で死んだんですか?」
 ……どっちだろう。ちなみに、等はこの問いに答えることができなかった。

 あのあと、三つ葉はすぐに意識を取り戻した。以前同様、記憶には全く残っていないらしい。
 等は、静根のことは寛和に黙っていた。本人の希望だったからだ。勝手に研究室――と呼んでいるらしい。現在は使われていないそうだ――に入った理由やら寛和でさえ見つけられなかったものを見つけ出せたことの理由やらいろいろと聞かれた。ちゃんと誤魔化せたのか等自身でさえ疑問であった。
「静根さんて何で死んじゃったの?」
 等は寛和にそれとなく聞いてみた。書斎の外では元に戻った三つ葉が久しぶりにはしゃぎまわっている。こっちの方も多少心配だった。  
 寛和は、んあー? となんだかよく分からない声を上げながら伸びをした。等達が家に帰ってきたときには書斎で寝ていたらしい。その後、すぐに起こして三つ葉を治させたのだからそれなりの疲労が残っているのだろう。睡眠後のだるさもまだ完全に抜けきっていないようだった。
「あいつか? 赤信号なのに気づかないで道路に出たらしいんだよ」
 交通事故ということか。なるほど。静根自身が分からないわけだ。病気ならともかく不慮の事故となるとどうしようもない。
「寝不足だったらしいんだけどな。昔から不注意な奴だったよ一つのことにすさまじい集中力を発揮するけど、そのあいだは他のものに全く注意出来ない。そういう奴いるだろ?」
 あまり人とかかわらって来なかった等であったが、確かにそういう知り合いがいたような気がする。
 それにしても、今となってはその程度の思い出なのだろうか。当時はすごく泣いたんだろうなあ、などと思いながら寛和の思い出話に付き合っていた。
「面白い奴だったよな。何が面白いと聞かれても困るんだが……行動が普通の人と違ってたな。まったく、見た目はすごく綺麗なのになあ」
 のろけかくそ親父。
 なんにしろ、結果的に三つ葉が治ったので良かったと等は思っていた。少し不本意だったものの、静根の要求も無難に守れたようだし。
 何かが元に戻ってきたような気がした。落ち着くような、嬉しいような。これが平穏というものなのだろうか。
 三つ葉が相変わらずの元気の良さではしゃぎ回っている。僕も一緒に騒いでみようかな、と柄にもないことを思ってみる等だった。
 書斎の中にある、時計の針がちょうど真上で重なっている。
 夜が更けていっても、彼らの心は陽が出たばかりだ。

2004/07/22(Thu)21:19:14 公開 /
■この作品の著作権は霜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
だいぶ更新が滞っていました(汗
前回のがなんだかだらけてしまったので全面改正リニューアル(?)です。良くなったのか悪くなったのか、かなり変わっちゃっていますが、自分的に満足な出来なのでさらに技術向上のための批評をお願いします。
新規作成したのは、前回のものとかなり変わってしまっているためなのでそこら辺宜しくお願い致します。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。