『魔法は十二時まで ―完―』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:神夜
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「世界最高のデンジャラスゾーン」
今年、名門の桜女子高校一年の天才軍団の集まりのF組に入試成績トップで合格し、新入生代表として入学式で挨拶をした彼女の名を十条路夏紀(じゅうじょうじなつき)という。恐らく、桜女子高校一年生の中で一番最初に全員に名前を知られたのは間違いなくその夏紀である。
が、ぶっちゃけてしまえばそれはある意味迷惑でしかなかった。学校全体から注目されているような気がして仕方がない。だが、夏紀は知らないだろうが、実際彼女の入試成績は過去最高なのでそれも当たり前なのかもしれない。だけどそれを知らないとはいえ、やはり同学年には一目置かれていて気軽に話しかけられそうな子などいなかったし、クラスはさすがに名門中の名門、その中でもエリートばかりが集まるF組である。勉強中にお喋りなど一切なく、居眠りなどしてしまえば即刻停学処分でも食らいそうな勢いだ。正直な話、面倒だった。
確かに桜女子高校、通称桜女子へと進学を決めたのは夏紀自身である。しかしそれは言ってしまえば仕方なくだった。そもそも十条路の家系が間違っているのだ。十条路の家系は江戸時代から続く名家であり、今ではこの世界でも五指に入るであろうトップクラスの企業の社長である。その社長の孫娘が夏紀だった。言い直すと社長令嬢とかそんな感じである。父親は祖父の元で将来を約束されならが熱心に働き、母親はその秘書として才能を発揮している。祖母は夏紀が生まれる少し前に他界しているのでどうだったのかは知らない。しかし問題はその三人が日本にいないことだった。祖父が社長を勤める本社はアメリカにある。祖父も両親も、全員がアメリカで暮らしている。夏紀もアメリカでの暮らしを進められたが断った。日本から出たくなかった、というのは建前であり、白状してしまうと飛行機が怖いからなのだが、それは自分以外には永遠の秘密だ。
つまり、夏紀は一人でこっちに留まっている。高校の話などは親と国際電話で話をした。親は夏紀が好きな所でいいと快く言ってくれた。言ってくれたがじゃあそうしようなどと簡単に決められる訳もなかった。親がどう思っていようとも、その子供の夏紀にしてもメンツが崩れるのが怖かった。ランクを落とすのが恥に思えて仕方なかった。だから名門の桜女子に入学した。殆ど毎日徹夜で全然好きではない勉強を必死で頑張り、その結果、幸か不幸か入試トップを取った。嬉しかったのは事実だ。両親も祖父も誉めてくれた。
が、ところがどっこい、いざ入学してみればこれがまたすごいすごい。学校全体が学生の本分は勉強であるオーラを醸し出しているし、クラスで耳にするのは勉強の話ばかりだ。今時の若者らしく芸能人の話でもしようよ、と夏紀は思う。しかしそんなことを言ってしまうとクラスで浮いてしまう。それがまた怖かった。取り敢えずは良い子ちゃんでいなければならないだ。十条路家の令嬢としての世界最高ランクの良い子ちゃん擬態を学校にいる間は必ず身に纏っていなければならない。それがここ数日でわかったことだった。
そして、下校時刻になり、校門から外に出て、他の生徒の影が完全に消えた瞬間、夏紀は素に戻る。
「あーもうっ! やってらんないっ!」
後ろで止めておいたピンを外し、豪快に髪を左右に振る。腰の辺りまである、夏紀自慢の髪である。しかし校内ではそれはあまり好ましくないのでピンで止めて誤魔化している。切る、なんてのはもっての外だった。
「高校選択……間違えたのかなぁ……。メンツなんて気にせず、好きな学校受ければよかった……」
が、今更嘆いた所で始まらない。今はそうだ。学校ではその良い子ちゃん擬態を脱いではならないのだ。物腰は柔らかく、言葉は常に敬語。何を訊かれても微笑みながら解答する、なんとも女神のような擬態だ。しかしそれを維持するのには莫大なストレスを必要とする。一回、政治についてどう思う? とクラスメイトから訊かれた。普段の夏紀なら「知らないよ」と言うだろうが、良い子ちゃん擬態の夏紀は「……そうですねぇ」と悩み込むフリをして相手の出方を待っていた。が、いつまで経っても相手は夏紀の返答を待つばかりで自分の考えを出さない。イライラしてうっかりと言ってしまった。「政治なんて興味ない」と。相手はまさか優等生の夏紀がそんなことを言うとは思ってもおらず、かなり困惑な様子だった。慌てて訂正したからよかったものの、それでストレスがピークになった。トイレに駆け込んで用具入れを蹴り飛ばしたら壊れた。逃げた。帰りのSHRでその件が問題になった。だんまりを通し続けたら結局は曖昧なまま終わった。あの時は心底怖かったが、なかなかのスリルではあった。ストレスがピークになったらまたしようと思う夏紀である。
……って、何を回想しているのやら。夏紀は頭を軽く振ってその考えを追い出す。トボトボと一人で誰もいない大通りを歩く。珍しく車一台も通らない。歩行者もいない。何か変な気持ちに駆られる。何か面白い物でもないものかと辺りを見まわしていると、一台の車が走って来た。赤いオープンカーだった。それが夏紀のいる歩行者専用の道の側に停車させられ、車に乗っていた男が夏紀に声をかける。
「ねえ、君って桜女子の生徒だよね? よかったらお茶でもしない?」
夏紀はその男を一瞬だけ確認する。金髪を立ててサングラス。服装は雑誌に載っていそうだ。顔は全く好みではないが不細工ではない。たぶんカッコイイ方に部類されると思う。が、ナンパなどをする奴は大嫌いだ。軽い男はお断りが十条路家の教訓だ。
夏紀は無視を決め込み、そのままスタスタ歩き行く。その後を男が車から降りて追って来る。エンジンは掛けっぱなし。良い判断だね、と夏紀は思う。後ろから呼び止める制止を無視し、歩き続ける夏紀に男は追い着いた。そして、最も入ってはならない境界線を越えてしまった。
十条路夏紀から半径二メートル。それは、つまりクロ助ゾーンである。
夏紀が今現在、一番困っていることがそれだった。これじゃオチオチ男の子とデートも出来ないという抗議の声を受けてもなお揺ぎ無い世界最高のデンジャラスゾーンだ。
男がそのゾーンに入った瞬間、夏紀はため息を吐いた。刹那、夏紀を中心として霧のような靄が発生する。それが視界を遮り、男が歩みを止めて何事かと見守る。そしてその靄が消え去った時、どこから湧いて出てきたのか、夏紀の周りには人影が五つ。全員が見上げるような黒人の男である。五人の平均身長はジャスト二メートル。それがK-1の野獣も裸足で逃げ出す筋肉質で、そのガチガチの体にフィットする真っ黒のスーツを着込み、全員が全く同じスキヘッドでサングラスを掛けている。
突如として現れた大男達を見上げ、男の口があんぐりと開いている。あ、なんだかその顔面白いと他人事を笑う夏紀である。
その大男五人と痩せっぽちな若者が一人。男が身動き一つできずにいると、夏紀の前にいた大男が言う。
「オジョウサンニ、ナニカゴヨウデスカ?」
物腰は穏やかだ。が、スキヘッドの額に青筋を蠢かせながらそう言われたらどうしようもない。それを見て逃げなかった奴なんて今まで見たことがない。そして、その若者も例外ではなかった。
「す、すいませんっ!! 命だけはご勘弁をっ!!」
頭を下げるなり、男は実に素早い動きでエンジンを掛けっぱなしだった車に乗り込み、必死に逃げて行った。それを何となく見送ってた夏紀が、目の前の大男に声を掛ける。
「だからねクロ助零号。あたしは大丈夫なんだって。あんまり出て来られるとあたしに一生彼氏が出来ないよ? それでもいいの?」
しかしクロ助零号と呼ばれた男は何一つ動かず、微かに口を動かして何かを言おうとし、しかしそれを夏紀が先回りする。
「はいはい、お父様からの言い付けだから仕方ないデス、でしょ? わかってるわよ。もういいから、あたしは無事だったから帰っていいよ」
「ガッテンショウチ」
「まーた変な日本語覚えちゃって……」
そして再び夏紀の周りに靄が立ち込め、それが晴れた時にそこにいるのは夏紀一人だった。
さて。先ほどのマッチョマン達の説明を少し。彼らは夏紀のボディーガードである。以前、夏紀が小さな頃、身代金目当てで幼き夏紀が誘拐されたことがある。しかしそれが途中で失敗、犯人は夏紀と共にビルに立て篭もり。警察に任せてもお手上げ状態。しかしそんな時に現れたのがさっきのマッチョマン達だ。何でも祖父が遠い地で見つけて来た宇宙人らしい(どこまで本当かは知らないが)。そしてその宇宙人ことマッチョマン達は、圧倒的な破壊力で、かつ安全迅速に夏紀を救出したのだった。それからはまあ成り行き上、夏紀のボディーガードでとして極めて順調に勤めているという訳だ。
夏紀が呼んだクロ助零号についても少し。マッチョマン達の本名は本当に長い。呆れるくらい長い。もうかれこれボディーガードをしてもらって十年ほどだ。が、未だに全員のフルネームを憶えていない。クロ助零号のフルネームは、デルカルッチ・アナリカール・ア・パイナクット・ボールソウデ・カデル・メンドウダ……そこからまだまだある。ぶっちゃけ、もう忘れてしまった。どうしたらそんな名前になるのかは謎だが、実際そうだから仕方がない。フルネームで呼ぶとえらい事なので、夏紀はニックネームを付けることにした。幼い頃の夏紀が考えたニックネームは三つ。一つ、カッコイイと思う『バルキリー』。二つ、何かのゲームのキャラの名前の『ゴーリキー』。三つ、第一印象の『クロ助』。コロ助ではない、クロ助だ。幼かった夏紀は、悩みに悩んだ末、ついにクロ助を選択した。しかしクロ助本人達は満更もないようだったので夏紀も嬉しかったのを憶えている。
それが十年経った今でも継続している訳だ。クロ助は全部で五人。同じような顔をしているが、夏紀には誰が誰なのかちゃんとわかる。特徴があるのだ。一番背が高いのがクロ助零号。一番背が低いのがクロ助壱号。一番鼻が高いのがクロ助弐号。眉毛が一番太いのがクロ助参号。耳が一番大きいのがクロ助四号。たぶん、夏紀以外の人間には誰が誰かわからないだろう。そこはもう長年の付き合いが生む領域だった。
一人残された夏紀は、憂鬱気味にため息を吐く。
「……どっかにクロ助を見ても驚かない人いないかなぁ……」
別にクロ助達のせいではないのだが、夏紀は彼氏いない歴=今の年齢である。告白は何度かされた。されたがどれもこれも断った。嫌いではなかった。だけど、「ごめんなさい」と返事をした後、どこからクロ助達が姿を現すのだ。それで驚かなかったら、逃げ出さなかったら付き合ってもよかった。が、そんな夏紀の願いは虚しく、全員が血相を変えて逃げて行った。
絶対条件である。クロ助達を見て逃げない人。それがまず第一条件であり、そして夏紀の好みの人。自分でも無理な注文だっていうのはわかってる。わかってるがどうしようもない欲求がある。一度くらいは男の人と手を繋いだりして普通に歩きたい。普通の恋人のように接したい。だけど、無理なんだよね……、そう思い、夏紀はもう一度ため息を吐いた。
そして何もかも諦め、家に帰ろうとしたその時だった。
前方から、何かがこっちに向かって走って来る。漫画みたいに砂煙が待っている。
「?」
不思議に思ってじっとそこを見つめる。何かが何かに追われているような感じだ。やがてその何かが近づいて来て、こんな声が響いた。
「うわっバカ来んなクソっ!! おれはお前達が大嫌いなんだっ!! それ以上近づくと丸焼きに――ってお願い、マジで勘弁してっ!!」
近づくに連れ、それが何なのかわかった。人間だった。そしてその人間が、何かに追われている。犬だった。小さな柴犬くらいの野良犬っぽいヤツ。それが尻尾を嬉しそうに振って人間を追っ掛けている。が、その追っ掛けられている人間は泣きそうで、必死に犬を振り切ろうとしている。やがてその犬に追われる人間が夏紀の存在に気づいた。九死に一生を得たような希望がその顔に広がる。
「そこの君っ!! 頼む、助けてくれっ!! このままじゃ食われちまうっ!! マジでマジでマジでっ!!」
そんな犬に食われるわけないでしょ、と夏紀は思う。が、ここで見てみぬフリは良い子ちゃん擬態に傷が付く。それでは駄目だ。形だけでも助けておこう。
その追われていた人間――夏紀と同い年くらいの男の子が夏紀の後ろへ回る。何だか情けない光景だった。夏紀を前に犬は足を止めて「わんっ!」と鳴いた。犬は好きだが野良犬はあんまり好きじゃない。狂犬病とか持ってると困る。あくまで丁寧に、夏紀は犬に微笑み掛ける。
「あなたは御家に帰りなさい。ね?」
不思議そうに夏紀を見つめていた犬だったが、その周りに漂う異様な威圧感に気づいたようだ。それはクロ助達のオーラだった。野生の動物的勘でそれを察知した犬は、一目散に逃げて行った。それを見送った後、夏紀は後ろを振り返る。
と、そこにはぶるぶると震える男の子が一人。何なんだこの人、と夏紀は再度呆れる。だがそんなことでは良い子ちゃん擬態は剥ぎ取れない。
「あの、大丈夫ですか?」
男の子は全く視線を合わせようはせずに、震えたままで「もう犬いねえ?」とつぶやく。「いないですよ」と夏紀が言うと、男の子は本当にこの世の危機が去ったかのような安堵の息を漏らした。ますます怪しい。男の子は立ち上がると道路を見渡し、犬がいないことを確かめると真剣に笑った。真剣に笑うって表現は変かもしれないけど、なぜかそういうのが当てはまると思った。
そして、男の子が信じられない行動を取った。夏紀の手を握り、神でも崇める様に頭を下げた。
「ありがとうございました! このご恩は一生忘れませんっ。 よければお名前をっ!」
名前を訊かれたことなんて、夏紀の頭には入ってはいなかった。生まれて初めて、男の子に手を握られた。そう思うだけで無性に恥ずかしくて死にそうだった。
身動きが取れない夏紀。そしてそれを危機と感じ取った彼らが動き出した。夏紀の周りに靄が生まれ、クロ助達の登場である。クロ助零号が男の子の手を叩き、夏紀を開放する。突如として現れた大男を前に、男の子は何やら不思議な表情をしていた。
握られた手の感触がまだ残っている。ぼんやりと、この人も逃げるんだろうなと夏紀は少しだけ悲しくなった。
「オジョウサンニ、ナニカゴヨウデスカ?」
お決まりの脅しである。その言葉と額に蠢く青筋を見たら誰だって逃げ出すに決まって――。しかし、その男の子は夏紀の常識を簡単に打ち崩した。
「すっげぇえっ! おっさんらどっから出て来た!? 何、マジック!? うわっ、おれ初めて見た」
「え……ちょ、ちょっと待ってくださいっ!」
あまりの事態に夏紀は愚か、クロ助も微かに動揺していた。
「おう?」
「あの、なんとも、思わないんですか……?」
男の子は首を傾げる。
「何が?」
「いえ、ですからこの人達を見て……」
そう言われ、男の改めてクロ助を眺め、そのすぐ後に驚きに顔を染めた。やっぱり、そうなるのが普通だよね、と夏紀が思い、しかし男の子はまたそれを打ち崩す。
「おっさんそのサングラスかっけーな。どこで売ってんの? いくらする?」
「……あの、」
「おうおう?」
「怖く、ないんですか……?」
きょとん、と男の子が不思議な顔をする。やがて、
「何が?」
「ですから、この人達が……」
するとまた男の子はクロ助を見つめ、そして夏紀を振り返り、「おお」と納得したように肯いた。それから胸を張り、こう言った。
「んなもん怖くねえって。おれがこの世で怖いのは犬だけ。それ以外はおれに怖いものなど何もない」
絶句した。まさかクロ助達を見て怖がらない人がこの世に本当にいるなんて思ってもみなかった。だけど、いま目の前にいる男の子は少なくともクロ助達を怖がってはいない。なぜ犬の方が怖いのかは謎だが、それでも夏紀にとっては重大な出会いだった。
夏紀がそう思っていると、男の子が何を感じ取った。まるで小動物のように耳を澄まし、いきなり顔が真っ青になった。
「やっべぇ、また来やがったっ!」
「え……?」
男の子が頭を下げる。
「ごめん、また来た! お礼はいつか必ずするから名前だけ教えてっ!」
事態に付いて行けなくなった夏紀は、それでも答えていた。
「桜女子高校一年生の、十条路夏紀、です」
「同い年だなっ。おれは晴天高校一年の水上太一! またいつか絶対に会いに行くからっ! それまで元気で!」
「え、あの、ちょっと――」
「うわっ!! 仲間連れて来やがったなチクショーっ!!」
そう言い残し、太一と名乗った男の子は走り去る。それから少ししてから、夏紀の隣をさっきの野良犬と、その仲間のような感じの大きな犬が二匹通り抜けて行く。
太一の叫びは随分長く夏紀の耳に届いていたが、やがて聞こえなくなった。呼び止めることができなかった。だけど、呼び止めてもたぶん止まってくれなかっただろうとは思う。不思議な人だった。
だけど、初めてだった。クロ助を見て逃げなかったのも、そして、手を握ってくれたことも。夏紀は自然と笑う。何だか笑いたい気分だった。周りにいたクロ助達が不思議そうに夏紀を見やる。その全員に振り返り、夏紀は笑い掛ける。
「見つけた、見つけたよ! あたしの理想の人! 水上太一! あたし、絶対にあの人と友達になるっ!」
「トモダチ?」
「うん!」
クロ助達は何とも複雑そうな表情を見せる。
夏紀は笑い続ける。
また会うその日まで、あなたを待ってる。
だから、早く来てね――。
それが、十条路夏紀と水上太一の始まりだった。
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「変な人と変人の違い」
一日七時間もある授業を生き延び、太陽が暮れ始めたら下校である。
元来勉強などこれっぽっちも好きではなかった十条路夏紀にとって、その七時間は苦痛過ぎた。が、今はまだいい方だ。一学期が始まってしばらくは中学の復習を含め、それを深く追求していく形の勉強方法を取っている。基礎からしっかりやり直そうという魂胆だ。そこは受験勉強で頭に叩き込んだ範囲なので苦もなく付いていける。しかしこれがもし高校で習う範囲までいってしまえば厄介だった。嫌いな勉強をまた必死でやらなければならない。手違いかどうかは知らないが学年トップの成績で合格した以上、良い子ちゃん擬態を纏っている以上、しばらくしたらある中間テストで一位、最低でも五位くらいまでには残ってはならならい。それ以下になればいろいろと言われそうだ。
憂鬱なため息が出てしまう。やっぱり、もう少しランクの低い高校にしておけばよかったといつもながらに思ってしまうが、今更嘆いた所で自体は何の変化も見せないもまた事実だった。ため息を吐く以外に、やれることは何もなかった。
帰路に着いて歩き、両手に下げた鞄を膝の前に添える。時折吹く春の風はまだ少しだけ肌寒い。空には赤色の夕日が浮かび、長い長い影法師を作っている。夏紀が歩くたび、影法師は付いて来る。それが少しだけ嬉しかった。子供のようにその場でくるりと回り、風にスカートが舞う。スカートの長さは膝上五センチと決まっている。だけど本当はもっと短いのを穿いてみたかった。女子高生って気分を味わいたかった。
辺りを見まわす。人影はなかった。あるのは夏紀の影法師だけ。見ているのはこの子だけだった。夏紀は悪戯を思いついた子供のように笑い、その場でスカートを折った。よく道端で見かける女子高生と変わらない、男の子の視線が釘付けになるような長さ。もともと桜女子の制服は可愛いと評判だ。だからこれくらい短い方がもっと評判が良くなると夏紀は思う。だけど校則があるのでこれで学校に行くなんて出来っこないし、擬態を纏っている夏紀には完全なるタブーだった。
しかし今日くらいはいいと思う。このままでいても罰は当たらないだろう。いつもより体が軽くなった気がする。軽い足取りで歩いていると、夏紀のすぐ側に一台の馬鹿でかいリムジンが停まる。そこの運転席のガラスが下がり、一人の男が顔を出す。
「お嬢様、お迎えに上がりました。……って、何ですかその格好は?」
照れ臭そうに夏紀は笑い、
「どう? 似合う?」
困ったように苦笑したその男は、何とも言えばいいか悩んだ末、素直にこう言った。
「似合いますよ。でも、今日だけですよ?」
「わかってる。こんな格好、学校じゃ見せられないもの。さ、帰ろう」
夏紀はリムジンの助手席に乗り込む。と、後部座席にいつの間にかクロ助零号から四号が座っていた。夏紀は微笑み、「今日も一日ありがとう」と言うと、クロ助達は笑って「オソマツサマデス」と微妙に間違った日本語を言った。それも何だかクロ助達らしいといえばそうなのだ。それが嬉しくなる。
「行こっか」
「はい。今日は学校はどうでした? ちゃんと勉強に付いて行けてますか?」
その言葉に夏紀はムスッと頬を膨らませ、窓に肘を着いて外の景色を眺めながら返答する。
「まだ平気。でも学校は大変。もっと良いとこ行けばよかったなぁ……」
「そのお言葉、一体何回聞いたでしょうね? でも、」
「わかってるわよ。自分で決めた以上、頑張れ、でしょ? それも何回も聞いた。でも、頑張ってるんだけど、やっぱりね……」
それからは夏紀も、運転席の男も、そしてクロ助達も何も言わなかった。振動が全くない座席に座り、窓の外から微かに聞こえるエンジン音に耳を澄まして、ぼんやりと外の景色を眺める。後ろに流れていく景色はどれも平凡で、見慣れていて、だからこそ落ち着いた。
「……太一……」
気づいたら、口から声が出ていた。
「はい? 何か言いました?」
意識していなかったことを喋ってしまったこと、そしてそれを聞かれてしまったことに動揺した。
「な、何でもないっ。そ、それよりもうすぐ着くよね? 事故しないでよ」
「お任せを。十条路様からの命を受けておりますこの久保洋介。以前は世界一素晴らしい宅配屋、あの伝説の『気まぐれ神夜の宅配便』でも五指に入るドライバーを勤めておりました。わたしの運転する車を事故にしたいのなら核兵器くらい用意してもらいたいものです」
そう言って久保は高らかに笑った。
「……それ、何回聞いても意味がわからない……」
ぼそりとつぶやいた夏紀の声は久保には聞こえていなかった。
が、久保の言っていることは半分信用しても良いくらいだった。久保は車の運転が抜群に上手い。どう考えてもこの久保が事故に遭うなんて想像できない。ならなぜさっきのようなことを言ったのかというと、照れ隠しだった。口から出てしまった名前を久保に勘付かれたくなかったからだ。でも久保はかなり鋭い所があるので、夏紀の心境などとうにお見通しなのかもしれない。それはそれで悔しいのだが。
そうこう考えている内に、景色は馴染みあるものへと変わっていく。道路沿いにずうっとある馬鹿でかい赤レンガの塀。その向こうに見える木々。どこかの国立公園を思わせるその敷地こそ、十条路家が建っている場所である。レンガの塀はかなり長く続いていて、やがてその切れ目が見えてくる。ガードマンがいるそこに車を入れ、窓から久保が顔を出してこう告げる。
「お嬢様のお帰りだ。門を開けてくれ」
ガードマンが肯いて装置を解除する。それと同時に閉ざされた巨大な鉄門がゆっくりと競り上がる。やがてその道が完全に開き、そして車は敷地内へと足を踏み入れる。もう十五年、あと少しで十六年も見ているこの景色だが、やはりいつも思うことがある。
……庭、広すぎ。まるでおとぎ話の王国ような造りである。シンデレラとかがいても不思議ではない感じのする建物、その目の前にある大きな噴水、両側を緑に囲まれた道路、野生動物でも自由に走り回っていそうな自然、地平線でも見えそうなその敷地、それらすべてが、十条路家のものだった。金持ちもここまで来ると嫌味のような気がするが、問題はいくつもある。この敷地内を夏紀一人では歩けないのだ。以前、何度か一人でこの敷地を探検し、広過ぎるが故に迷い、捜索隊を出された経験がある。その度、捜索隊より早くにクロ助達に助け出されるわけだが。
自分の家で迷うなんで何だか悲しい気分だ。建物だってそうだ。夏紀が知らない部屋なんてゴマンとあるし、構造が複雑すぎて迷うことも多々ある。どうしてこんな家にしたのか聞き出したいのだが、未だにそれが切り出せない夏紀だった。
建物の前で車が止まり、ドアを開けて外に出る。ドアを閉める前に後部座席を見れば、すでにクロ助達はいなかった。もうどこかに潜んでしまったのだろう。運転席の久保に視線を向ける。
「ありがとう。また明日ね」
「……なぜ送り迎えも途中までなのですか? 遠慮なさらずとも校門までお車をお出ししますのに」
しかし夏紀は首を振る。
「いいってば。さすがにそこまですると学校で友達がいなくなるしね」
「……そうですか。了解しました」
少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべ、久保が運転する車は行ってしまった。
見上げる建物はいつ見てもお姫様がいそうな感じがする。後ろで飛沫を飛ばす噴水は綺麗だし、夜になればライトアップだってされる。それが素直に美しいと思うと同時に、悲しかった。一人でそれを見ても楽しくなかったからだ。
「……あたしは、お姫様って柄じゃないしね」
一人つぶやき、夏紀は階段を上がる。ドアを開けて「ただいま」と言えば、中にいた家政婦が「お帰りなさいませ」と頭を下げてくれた。
もっと友達のように接してくれてもいいのに、とは思う。だけど、それも仕方ないのだろう。なにせ、雇う側と雇われる側という関係なのだから。夏紀は自室へ向かう。足音が異様に響く、寂しい空間だった。
部屋に入って電気を付ける。カーテンが閉められたその部屋に明かりが射し、長年使っている家具などが目に入る。一人で使うにはあまりにも大きいその部屋が、夏紀の自室だった。窓に沿ってベットが置いてあって、そこから広がる家具の配置。勉強机にタンス、本棚にテレビ、MDコンポにDVDレコーダー。一通り揃ってはいるが、どれもこれもかなり豪華な物だった。はっきり言って、自分には勿体無いと思う。MDコンポはともかくとして、DVDレコーダーなんて使い方自体わからない。宝の持ち腐れというはこういうことをいうのだろうと夏紀は思う。
制服を着たまま、夏紀はベットまで歩み寄る。鞄を放り出し、ベットに倒れ込む。スプリングが軋んだ音を立て、体が沈む。気持ち良い感じがするがどこか切なかった。仰向けにベットに寝転がり、片手で目を庇う。瞳を閉じて移る彼を想う。
水上太一。あの日、彼に会ってから今日で四日になる。その四日間、太一とは一度も会っていない。それとなく帰り道などで探してみるのだがその姿は一向に見つけられないし、彼が通う晴天高校まで行くのも気が引ける。だけど約束したのだ。その約束を持ち掛けたのは他の誰でもない彼だ。『またいつか絶対に会いに行くからっ! それまで元気で!』そう言って彼は去って行った。その約束が果たされるのを、夏紀はずっと待っている。
たが、日が経つに連れ不安ばかりが広がっていく。もしかしてあれは冗談だったのではないか、今頃彼はそんな約束を忘れているのではないか。一度頭でそう考えしまうと簡単には離れてはくれず、悪い方向悪い方向へと思考は流れる。もう一度だけでもいい。たったそれだけでもいいから、彼に会いたかった。
彼と、友達になりたかった。
「……あたしの、自惚れだったのかな……」
そう思うと何だか泣きたくなった。閉じた瞳から熱いものが溢れてくるのがわかる。泣くな、泣いちゃ駄目だ。こんなことで泣いてどうする十条路夏紀。もっと元気で行こう。いつも通りのあたしで、毎日を過ごしていかなくてはならいのだ。
泣くな。強くなれ。こんなんで泣いてちゃ十条路家の名が泣くぞ。だから、笑え。笑って何もかも吹き飛ばせ。
強く、なろう。そう夏紀が思い、ゆっくりと意識を深い闇へと落としていく。寝たかった。
寝て起きたら、強くなっているはずだった。だから、今は、今だけは――。
◎
何かが聞こえた。ノックのような、小さいけどやけに響く音だった。
ふと目が覚め、ぼんやりと辺りを見まわす。自分の部屋だった。どうやらあれから電気を付けたままで本当に寝てしまったらしい。壁に備え付けられた時計で時刻を確認する。九時を十分ほど過ぎていた。食事の時間はとっくに終っている。たぶん誰かが呼びに来てくれたのだろうが、返事がなかったから寝ていると思ってそっとしておいてくれたのだろう。その気配りは有り難かった。手を胸に添える。お腹は空いていない。もう一度寝ようと夏紀は思う。でもその前にお風呂入って、それから、
また聞こえた。ノックのような、小さいけどやくに響く音。何だろう、と不思議に思い、音の出所を探る。しばらく聞こえなかったが、やがてすぐ側からもう一度聞こえた。そこに視線を向ける。どうやら窓の外のようだ。もしかして鳥か何かが窓を突いているのかもしれない。それだったら少しだけ不思議な光景だ。窓を突く鳥を見てみたくなった。
ベットに座ったまま、カーテンに手を掛けた。そして、そのカーテンを開けた。最初、そこに何がいるのか全くわからなかった。だけど、
「グッナイ、夏紀ちゃん。約束通り、水上太一参上」
絶句した。悲鳴を上げそうになって、しかし太一が人差し指を口に当てて「しーっ!」と静止させる。上げそうになった悲鳴を手で口を押さえて止め、暴れる心臓をなんとか落ち着かせてガラス越しに太一に向かって言う。声を小さくしているつもりなのだが、どうしても大声になってしまう。
「太一さんっ! ど、どうしてここにいるんですかっ!?」
自信満々に太一は笑う。
「約束しただろ? お礼させてもらうって。だからここに参上致した。あ、ごめん、窓開けてくれない? この体勢すげえ疲れるんだけど」
よくよく見れば、太一は両腕で窓際にしがみ付いていた。夏紀の部屋は三階にある。ベランダはない。つまり、もし太一が力尽きればそのまま地面に落下してしまう可能性がある。慌てて鍵を外して窓を開ける。それと同時に太一が腕の力だけで体を上げ、窓際に座り込んだ。深呼吸をしてから、明るい笑顔を夏紀に向ける。そして「改め」と視線を正し、
「グッナイ、夏紀ちゃん。約束通り、水上太一参上。四日も待たせてごめん、下見に手間取った」
状況があまり理解できない夏紀は、それでも、
「下見、ですか……。って、何の下見です?」
その問いに、太一は包み隠さずけろっと言った。
「ん。この家の下見。泥棒みたいだろ? これおれのポリシー。んでこの迷彩服はおれの勝負服」
言われて初めて気づいたが、太一は迷彩服を着ていた。だがそんなことよりも――。
「……太一さんって、変な人なんですか?」
太一は苦笑する。
「まあそう言っちまえばそうなんだろうな。でも変な人であって変人ではない、間違ってもそうじゃない。それだけは信じてくれ」
「一緒じゃないんですか……?」
「違う違う。それはすごく違う。いいか、変な人と変人の違いはまず、」
「あの、」
何だか微妙な感じだった。取り敢えず、
「上がりませんか? 窓際に座ってると危ないですから」
そう言われてやっと太一はその事実に気づいたように「おおっ」と驚き、「ごめん、上がらしてもらうね」と靴を抜いで夏紀の自室に上がった。それから部屋を見まわし、「うわっ、すっげえ部屋。マジでこんな部屋に住んでいる人っているんだな」と夏紀に向き直る。
しかし夏紀はそれどころではない。部屋に上がれと言ったのは自分だ。だが、この部屋に家族以外の他人を入れたのは初めてだった。本当の自分を知られたくないから誰も入れないようにしていた。本当の自分を知られて嫌われるのが怖かった。しかしなぜ自分は、そんな怖い言葉を平気で言えたのか。それは仕方なくだったのか、それとも相手がこの水上太一だったからなのか。それはわからないけど、夏紀にしてみれば前代未聞な出来事だった。嫌われたくない。絶対に、良い子ちゃん擬態は外せない。もし本当の夏紀を見せてしまったら、嫌われるかもしれない。それだけが、本当に怖かった。
何も言わずに考え込んでいる夏紀に、太一は一言、こう言った。
「ねえ夏紀ちゃん」
「――え、あ、はい。な、なんですかっ?」
「疲れない?」
胸にナイフでも突き刺されたような感じがした。太一の真剣な目が鋭い刃物のように感じた。
「あのさ、おれこう見えても人を見る目はあるつもり。この前会った時からずっと思ってたんだけど、夏紀ちゃんってそんな風にしてて疲れないの?」
「どう、いう、意味……ですか……?」
なんとかそれだけ絞り出したが、しかし太一はさらに、
「その敬語。それ、本当の夏紀ちゃんじゃないよな? 素で敬語で話す子をおれは知ってる。だから夏紀ちゃんには違和感を感じる。それに、」
太一は言い切った。
「楽しそうじゃないんだよね、今の夏紀ちゃん」
装っていた擬態が、何もかも弾けた。視界が涙で歪む。口から嗚咽が漏れ、その場に崩れ落ちる。
突然の行動に驚いたのか、太一が慌てて夏紀の周りをうろうろする。夏紀に「あ、いや、え、なんで泣くのっ!? ごめん、おれ何か酷いこと言った!? え、マジで、ちょ、ちょっと夏紀ちゃん、ごめん、おれが悪かった、だから泣かないでっ! やべえ、女の子泣かした、どうしようっ!」と声を必死に掛け続ける。
夏紀は泣き声を殺すだけでいっぱいだった。今まで必死に積み上げて来たものが一気に崩れたような気がした。何をやっていたんだろう、と夏紀は思う。擬態を見抜かれるのが何より怖かった。本当の自分を見られると嫌われそうでどうしようもなかった。でも、心のどこかでは願っていたのかもしれない。本当の夏紀を見つけ出してくれる人を。――楽しそうじゃない。そう言ってくれる人を、無意識の内に探していたのかもしれない。
そしてたったそれだけ、たったそれだけですべてが崩れ、開放された。もう我慢をする必要はないのだ。何もかも泣き声と一緒に出してしまえばいいのだ。
泣き声を押し殺すのをやめた。夏紀は声を上げて泣く。その周りを太一はうろうろと歩き続ける。
初めて本当の夏紀を見つけ出してくれた人。それが、目の前にいる水上太一である。
すごく、嬉しかった。
もう、隠す必要はないのだ。
たぶん、彼なら受け止めてくれる。ありのままの自分を。
なぜか、そんな気がした。
窓から見える星空が、とても素敵に思えた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
「変わるために」
「いや焦った焦った……。まさか泣くなんて思ってもみなかったよ。何回も言うけど、ごめん」
泣き止んだ夏紀に、太一はそう言って頭を下げた。
「もういいってば。あれはあたしが悪いの。だから気にしないで」
まだ赤い目を指で擦り、夏紀は照れ隠しのために少しだけ笑う。その微笑を見て、太一が真剣な顔で考え始める。
「つってもなぁ、女の子を泣かすってのはおれの中じゃタブーなんだよなこれが。何かお礼しに来て無礼働いた気がすげえする」
「だからいいって言ってるでしょ。それより太一」
「呼び捨てか……。さっきまで太一さんとか言ってた君は一体どこへ行ってしまったのだろうね?」
カチンと来た。良い子ちゃん擬態を纏っていて疲れないかと訊いたのはそっちではないか。それでこっちが本来の自分に戻って素直に会話をしているのにその言葉はなんということだろう。夏紀は頬を膨らまし、
「太一が疲れないかって言ったから本当のあたしを見せてるのに、その言い方は失礼だよ」
「む。……それはそうだ。さっきの言葉を撤回させて欲しいと思うのだが、どうだろうか夏紀ちゃん?」
「認める。でもさ、あたしが太一って呼んでるんだから、太一もあたしのことを呼び捨てていいよ」
稲妻でも落とされたような表情を太一は見せた。
「いやそれはできない。おれが女の子を『ちゃん』付けで呼ぶのはポリシーだから。それだけは譲れない」
「ダメ。あたしのことを呼び捨てにする。そうじゃなきゃもう一回泣いてやる」
「あ、その脅しは汚いぞ!」
「いいもん汚くても。さ、どうするの?」
「うぬぅ……しかしまた泣かれるのは勘弁だ。了解だ、その条件飲もう」
「ありがと」
そう言って夏紀が微笑み掛けると、太一は苦笑した。
何だかさっきまでの出来事が嘘のようだった。それに、たぶんこんなにも自然体で話せる同年代の子は太一だけだと思う。今まで、少なからず擬態を纏って人と触れ合ってきた。本当の自分を知られ、嫌われるのが怖かったから。それで十条路というメンツが傷つくのが嫌だったから。しかしどうだろう。この目の前にいる水上太一という男の子とは在りのままの自分で話せる。まだ二回しか会ったことはないのだが、なぜかずっと昔から知っているような親近感を覚えた。幼馴染のように、何でも話せる感じだ。
夏紀はベットに歩み寄って座った。太一が入って来た窓は開けっ放しになっていて、そこから一陣の風が室内に舞い込んで来る。長い髪が吹かれ、綺麗に舞った。窓の外の景色を眺めていると、微かに星が見えた。必死に輝く、その姿がすごく儚かった。
「……おれの親友がさ、星を見るのが好きなんだ」
夏紀の視線の先にある物を悟ったのか、同じように夜空を眺めながら太一が言う。その口調がなぜか悲しげだった。
「毎日毎日天体観測してる。昔は一人でだったけど、今じゃ二人で、だ。ちくしょう、友情より愛情を取った薄情な親友だ」
ふと気に掛かる、
「友情よりってことは、もしかして彼女ができたとか?」
核心を突かれた太一は盛大なため息を吐き出した。
「まあそんな感じ。正式に付き合ってる訳じゃねえんだけどさ、もう二人の世界なんだよ。微妙なおれのポジションじゃその中に割って入れないの。雪乃ちゃん……やはり最初の出会いが肝心だったのか……」
出て来た女性の名前に、なぜか胸が痛んだ。訊くのが怖い、だけど訊かなければ何も進まない。夏紀は夜空から視線を外し、外を見ている太一の横顔を見やる。勇気を振り絞った。
「もしかして、その子のこと……好き、だったの……?」
そして太一はすぐに言った。
「好きだよ」
止まったはずの涙がまた溢れてきそうになった。震える声を押し殺し、「そう、なんだ……」と何とかそれだけ吐き出し、俯く。たぶん、いま自分はすごく惨めな表情をしているに違いなかった。鏡で見なくてもわかる。こんな表情を、太一に見られたくなかった。意識せずとも視線が外れる。そしてそんなことを訊いた自分を呪いたくなった。これじゃ惨め過ぎる。わざわざ自分から何を訊いているのだろう、そう苛まれる。
まだ夜空を見上げ、夏紀の行動に気づいていない太一はそのままで苦笑する。
「まあ友達としてね」
「……え?」
俯いていた顔が自然と上がる。優しく語る太一の横顔から目が離せなくなる。
「雪乃ちゃんはおれじゃダメってことくらい会ってすぐわかってたよ。こんなこと言ってると振られた男の偽善とか思われるかもしれないけどそれでもいい。ただ、あの二人ってどっか似てるんだよね。だから会ってすぐに、なるほど、とか思ったよ。そんな二人におれから出来ることは手助けしてやることくらいだった。……っつても最後の手助け以外あんまり意味のないただの嫉妬みたいな感じだったんだけどね。――ってどうした夏紀!? また泣きそうだぞ!? おれ何かまた変なこと言った!?」
ふとこっちを見た太一と真っ直ぐに目が合った。そしてそう言われて初めて気づき、慌てて指で目を擦る。それから太一に向き直り、無理やり笑って首を振る。
「な、なんでもないよ。だた目にゴミが入っただけ」
「……でも、」
太一には隠し事はできないんだろうなと思った。太一が次に何を言うのかをわかっていたからこそ、夏紀は先に言った。
「あたしは思わないよ」
口を紡ぎ、太一は夏紀を見据える。
「あたしは偽善なんて思わない。それは太一が優しい証拠だよ」
意外なその言葉を受け、太一は恥ずかしそうに鼻の頭を指で掻いた。
「な、なんか素でそんなこと言われると照れるな」
「いいじゃん、あたしがそう思ったんだから。それに、あたしのことちゃんと呼び捨てにしてくれたしね」
「約束は守るよ。じゃなきゃ最初から約束なんてしない」
その一言で思い出した。なぜ太一がここにいるのか。それは、
「ねえ、お礼って何してくれるの?」
そして太一もその一言で思い出したようだ。「おお、そうだそうだ、忘れてた」と手を叩き、まずは頭を下げた。そしてすごく丁重な言葉で、
「遅くなって申し訳ありません。あの時は助けて頂き誠にありがとうございました。今日はそのお礼をと思いここにいます」
「……似合わないね、その言葉遣い」
「あ、やっぱり?」
「うん。普通の方がいい」
すると太一は笑い、
「とまあ堅苦しいのは置いておいてだな。お礼だお礼。本当は何か持って来ようかと思ってたんだがそれじゃ誠意が足りない気がしてさ。だからおれから一つ提案する」
「なに?」
「おれが君の願いを一つ叶えよう。何でも言ってくれ」
その言葉の意味を、しばらく理解できなかった。呆然と太一を見つめ、
「……お願い、叶えてくれるの……?」
「おう。ただ世界を変えろとか月まで飛んでけとか海の水を失くせとかそういうのは無理な。おれに出来る範囲なら何でもするけど。それで? 願いはある?」
笑ってそう問い掛ける太一の微笑を見つめる。
願い。そう言われて、思いついたのはたった一つしかなかった。太一に初めて会った日にもそう思った。クロ助達に話したら不思議がられた。だけど、それが夏紀にとっての一番の願い。そんなことでしか作れないことは情けないのかもしれない。でも、やっぱり太一とはそうなりたい。本当の自分を知っている、本当の友達。それが、今の夏紀の一番の願いだった。
太一と友達になりたい。
意を決し、夏紀はその口を開いた。
「あたしは……太一と……とも」
そして、夏紀がその言葉を最後まで言おうとして、太一はその先に耳を澄まし、いきなり部屋のドアがノックされた。
心臓が止まるかと思った。太一は別段驚いた様子もなく、ノックされるドアを見て夏紀に「お客さんだな」と笑う。しかし夏紀はそれどころではない。これは大変なことになってしまった。せっかく勇気を振り絞って願いを伝えようとしたのに、それが阻止された。しかもこの部屋に誰かが尋ねて来ているのだ。ただでさえ軽い興奮状態にあった夏紀はパニックに陥る。太一を見られたらお終いだ。普段この部屋にクロ助達は入って来ない。が、それとこれとでは話が別で、太一がいることが見つかれば一瞬でどこかから現れる決まっていた。それでは駄目なのだ。やっと太一と会えたのに。やっと太一に言えると思ったのに。すべてが水の泡になってしまう。それだけはどうしても嫌だった。
いつまで経っても返事をしなかったのが裏目に出て、訪問者は行動に出た。ドアノブが微かに動き、久保の声が「お嬢様、入りますよ?」と聞こえた。
夏紀は決断する。そうこう言っている余裕はない。迷っている時間はない。夏紀は立っていた太一の腕を引っ張った。驚く太一に小声で「動かないでっ!」と念を押し、そして夏紀がすべての用意が整うのと、久保が部屋に入って来るのは同時だった。
「お嬢様。……もしかして寝ていましたか?」
部屋に入って来た久保は、ベットの枕元に座っている夏紀に視線を向けてそう言った。夏紀はシーツを肩まで掛けたまま首を振る。
「ううん。ただ星を見てただけ。それよりどうしたの、こんな時間に」
久保はその問いに答えず、無言で部屋を見まわす。平静を装っている夏紀だが、気が気ではなかった。今にも心臓が口から飛び出しそうな鼓動を抑え、必死に耐える。
やがて見まわしていた久保の視線が夏紀に戻って来る。
「いえ、ただちょっと男の子の声が聞こえると家政婦が言っていたものですから。でも気のせいだったようですね」
「あ、たぶんテレビだと思うよ。さっきまで見てたから」
「そうですか。こんな時間に申し訳ありませんでした。それでは、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
久保が最後に頭を下げ、そしてドアが閉まった。廊下で響く足音に耳を澄まし、聞こえなくなるまで息を潜めていた。
やがて静寂が部屋を包み、そこでようやく夏紀の鼓動が落ち着く。室内に響く安堵のため息を漏らす。
「あーびっくりした……。太一、もういいよ」
その呼び掛けに、太一が亀のように首を出した。夏紀の隣から。シーツの下から。
「……なんで隠れる必要があるんだ? しかもこんなとこに……」
急に恥ずかしくなってくる。
「しょ、しょうがないでしょっ! だって見つかったら太一追い出されちゃうんだよ!? それに隠れるのはここしか思いつかなかったんだからっ」
「ま、見つからなかったからいいんだけどな」
太一はそれだけつぶやき、仰向けにベットに転がった。猫のように伸びをし、「っにしてもめちゃくちゃ気持ち良いなこのベット」と目を閉じる。
隣りで寝て行きそうな太一の寝顔を見ながら、夏紀はもう一度決意を決める。今度は言える。いや、いま言わなければならない。そうじゃなきゃもうずっと言えない。言うなら、いましかなかった。
「太一」
太一は目を瞑ったまま、「ん?」と返答する。
「お願い決まったよ」
「お、マジで? なに?」
夏紀は言う。
「あたしと友達になって」
沈黙が降り立った。やがて太一がすっと目を開き、不思議そうに夏紀を見やる。
「え。なに? ごめん、もう一回言って」
「だから、あたしと友達になって」
真剣に隣に寝転ぶ太一を見つめる夏紀と、不思議そうに隣に座っている夏紀を見つめる太一。何とも微妙な沈黙が、今度は長く続いた。まだ開けっ放しになっていた窓から風が吹き込んでくる。
そしてその沈黙を破ったのは、太一だった。不思議そうな表情が歪み、一気に笑い出した。目に涙を浮かべ、何がそんなに可笑しいのかってくらいに笑い転げる。その笑い声を聞いた夏紀は一瞬で顔を真っ赤に染めた。照れなど通り越して怒りが沸いて来る。隣を転がり回る太一を睨み付け、叫ぶ。
「笑わなくてもいいでしょっ!! 何で笑うのよ!! あたしは真剣にそう思ってるのに、何で太一はっ……!! だって、あたし……あたしはっ……!!」
今日何度目かの涙が溢れ出た。もう何もかも抑えられなくなった。肩を震わし、手の甲で涙を拭う。
後悔の念が押し寄せてきた。太一なら真剣に受け止めてくれると思ったのに。自分のすべてを見てくれると思ったのに。結局、それは夏紀の買い被りに過ぎなかったのだ。太一も他の人と同じだった。本当の自分を見せてしまっては嫌われるだけなのだ。最初から全部、夏紀の自惚れだった。太一と友達になりたい。どうしようもない本音を否定された。それは、すごく辛いことだった。もういい。何もかも投げ出してしまいたかった。
そして、太一が急に笑うのを止めた。いきなり真剣な表情になってベットに座り直し、夏紀を見やる。
「あ、ちょ、泣くなってっ。誤解なんだって、誤解」
返事をしない夏紀。太一は大きく息を吐き、それからこう言った。
「てゆーかさ、おれらもう友達だろ?」
「――……え?」
まだ嗚咽が止まらない表情をしたまま、夏紀は太一に視線を向ける。太一は冗談のような口調で、
「こんな時間に一緒の部屋にいて、しかも挙句の果てには同じベットに座ってる。それで赤の他人です、この前会っただけの人です、とか言われたらおれの方がショック受けるぞ。笑ったのはさ、夏紀がまさかそんな当たり前のことを願いごとにして言ってくるなんて想像もしてなかったからなんだって。正直な話、何だか素直だなあって思った。結局何が言いたいのかっつーとさ、おれらはもう友達。おれはそう思ってたんだけど、もしかして間違ってた?」
涙を拭うのも忘れ、夏紀は呆然と太一を見つめる。その視線の先で、太一は笑った。
もう何だか頭の中がぐちゃぐちゃだった。もうあたしと太一は友達……? 最初から? この部屋に入って来てから、ずっと? それをただあたしが気づかなかっただけ? でも、だったらあたし……すっごい恥ずかしいんですけど。どうしようもない衝動があった。何かをしたい。何を、なのかはわからないが、とにかく何かしたい。だから、
夏紀は、太一の頬を軽く叩いてみた。ぺチっと音が鳴って、太一が叩かれた頬に手を添えて「な、何しやがんだ、親父にもぶたれたことなかったのに!」と激怒する。何だかそれが無性に可笑しくて、夏紀は瞳に涙を浮かべたまま「あはは」と笑った。それに連られ、太一も笑った。もう何だかどうでもよくなった。細かいことなんてどこかに吹き飛んでしまったような気がした。
やっぱり太一は他の人と違う。そして、そんな太一はあたしの友達。その二つだけが残っていて、他のことなんて今は頭の中にはなかった。全部、夜の風に吹かれて飛んでいったのかもしれない。
「太一、ありがとう」
夏紀はそう言って微笑んだ。しかし太一は途端に不服そうにむくれ、
「てゆーか、何でお前はおれを叩いたんだ? 頬を叩かれるという処女にも似たおれの純潔を痛てっ!」
また叩いた。今度は結構強めに。
「女の子に向かってそういうことは言わない」
「……おのれぇ、やりよるなマイガールフレンド」
「……それ、聞き方によっては怪しいよね」
「シャラップ! マイガールよりはマシだと思え!」
「そんなこと言ったら、本当に太一は変人だね」
「………………ごめん………………」
あたしの勝ち、と夏紀は笑う。頼むから変人って言わないで、と太一は平伏す。
今日、太一に会えて本当に良かった。心からそんな風に思う。もし太一と会ってなかったら、何も変わらない日常が待っていた。だけど、太一との出会いがすべてを変えたような気がする。これから、夏紀は変わって行けると思う。もう擬態を纏わず、太一以外の人にも本当の自分を見せられるようになると思う。太一がいてくれると思うと、それだけで支えになった。あたしは、変われる。
太一が顔を上げて「そうだ」と言う。
「明日の夜、夏紀時間あるか?」
「明日って、土曜日?」
「そう、土曜日。学校休みだろ? だから夜更かししても問題ないだろ?」
「え、う、うん……時間は、ある……けど……」
何だか急に恥ずかしくなる。夜に時間があるか、夜更かししても問題ない。それから連想できるのはつまり――。
そんな夏紀の心境など露知らず、太一は提案する。
「明日、星を見に行こう。最高に綺麗な場所を知ってるんだ。それがおれから夏紀へのお礼ってことで……って、おい、何だよ? 顔真っ赤にして、怖い目つきして……おれ、また変なこと言った?」
「う、うるさいバカっ!!」
もう一発、太一を叩いた。今度は全力で。理由がさっぱりわからない太一は「な、なんでっ!?」と夏紀から緊急回避する。それを夏紀は追い掛ける。死ぬほど恥ずかしかった。そしてそれ以上にそんな夏紀の心情を全く理解できていない太一に腹が立った。「待て太一っ!」「なんでだよチクショーっ! おれさっき真面目だったじゃねえかっ!」「問答無用!! うりゃっ!」「痛っ! バカ、手加減しろ手加減っ! これぜってー手形付いてるって!」「うるさい! 乙女の純情を踏みにじった罰!!」「おれお前に何もしてねえじゃんっ! 手ぇ出したならおれが悪いけど、ただ、って待て、おれの話を聞け、聞けって――――っ!! あ――――っ!!」
窓から太一が突き落とされ、必死に窓際に片手で掴まる。下を見て三階ということを思い出し、夏紀に向かってSOSを飛ばす。そのすぐ後に正気を取り戻した夏紀によって太一は救出された。
窓から見える星空は少しだけ儚い感じがする。だけど、だからこそ綺麗だった。
いつかあたしも、在りのままの自分を見せたい。太一には、もう見せたような気がするけど、もっと大勢の人に。何も纏わない、本当の十条路夏紀という人間を、もっといろんな人に知ってもらいたかった。恐れることは何もない。太一がいてくれる、それが勇気になるから。
あたしは、変われる。ううん、変わらなくちゃいけない。
……ね? 太一。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
「シンデレラの魔法」
十条路家のセキュリティはほぼ完璧に近い。それこそそこら辺の銀行などとは比べ物にならないほどに。
映画などでよく見かける、何かの秘法を管理している美術館とかに似ている。赤外線は当たり前、熱源探知機も設備、振動探知機ももちろんのことだ。それらすべてのセキュリティは十条路家が選びに選び抜いた世界最高ランクのハッカーが地下にある中央管理室で二十四時間交代制で制御及び監視している。鼠一匹入っただけでもすぐに感知できる。十条路家の周りのレンガの塀にも細工がされおり、敷地を囲む上空約二十メートルまでは不可視フィールドのようなバリケードが張ってあり、そこに何かの生命体、例え無機質な物体でも触れればそれはすぐに中央管理室に感知されるという寸法になっている。
やり過ぎのような感じもするが、仮にもそこに住んでいるのはあの十条路財閥の一人娘、十条路夏紀嬢である。万が一が起こってからでは遅いのだ。十年と三ヶ月前、警備の不手際で夏紀が誘拐されたことがある。その件は宇宙人達(後にクロ助)と呼ばれる者達の働きによって落着したのだが、やはりそれが決めてとなり、十条路家の警備システムを強化することとなった。
そして、その重大な中央管理室制御という役割に任命され、今夜は夜勤で管理するこの男の名を八木啓一(やぎけいいち)といい、二十九歳独身である。もともと趣味でハッカーをしていた八木だが、とあるコンテストに出場し、そこで優勝を掻っ攫った。その時にスカウトされたのだ。契約金には驚いた。一生遊んで暮らせるような額が貰えた。そのままトンズラをかましてもよかったのだが、八木はそこまで腐ってはいなかった。趣味のハッキング技術が人のために役立ち、そして自分の人生を左右するなど思ってもおらず、正直嬉しかった。だから、八木は極めて熱心にこの仕事に打ち込んでいるし、何より誇りを持っていた。
が、それとこれとは別で、案外この仕事は暇だった。部屋中に並べられた機器の数々、目の前には最新モデルのデスクトップ型PC。八木が自宅にあるPCも自分で相当カスタマイズした。密かにその性能は世界でもトップクラスではないのかと思っていた。しかし上には上があり、このPCを見て思ったことは所詮は井の中の蛙だったのか、ということだった。もうその性能と容量には驚いた。それこそ本当に世界すべての情報を突っ込んでもまだいけるのではないか、と思えるくらいに凄い。そして、そのPCを僅か一週間で完璧に使いこなすまでに到った八木も相当凄かった。自覚は有る無い別として。
八木は眠気覚ましに持ってきたコーヒー片手に、椅子に座って馬鹿面な欠伸をする。
「……眠ぃ。どうせ誰も入って来ないんだから、正直意味がないんだよな……」
愚痴を漏らすが、決してそれに手を抜かないのが八木の良い所だ。
その時、時刻は午後の八時を三十分示していた。そんな時間から眠たいと言っている訳は、八木は昨夜から徹夜で新型の自作ウイルスを作っていたからだ。まあそれはどうでもいいことなのだが。
さて、今日は何をするか。いつものように監視ばかりでは息が詰まる。前みたいに宇宙人でも追跡してみるか。夏紀嬢曰くクロ助らしいが、八木から言わせればそんな可愛い代物ではない。実際、クロ助達の生態は謎だった。一度本気でそれが気になり、この中央制御室のすべてを使ってクロ助達の追跡を試みた。普段はどこで生活しているのか、ちゃんと睡眠はとっているのか、飯は食っているのか、出すものは出すのか。それらを全力で追跡してみたのだが、結局わからずじまいだった。あと少しで敵の本拠地だ、と思った瞬間、クロ助達の反応が消えるのである。世界から消え去ったように、ふっと。そして次の日の朝、夏紀嬢が家から出て行く時にだけどこからともなくまたふっと現れるのだ。世の中不思議なことがあるが、どうも納得できない。だから、八木は今日こそクロ助達の秘密を暴いてやろうと思う。
視線を正し、目の前のコンソールへ手を置く。八木の推測では、クロ助達は夜の十二時を過ぎるとUFOに帰るのだと踏んでいた。UFOの宇宙最先端技術でもない限り、この【ハルハル】――八木がとある小説を読み、気に入ったのでそのままPCに付けた名である――に敵うはずもないのだ。世界の謎を解明してやる、と八木は心に決め、コンソールに置いた手に微かな力を込
瞬間、【ハルハル】のディスプレイが赤く染まる。スピーカーからサイレンのような音も聞こえ始まる。
「な、なんだとっ!?」
八木はそれだけですべてを察知した。【ハルハル】が、外部からハッキングされている。
マウスを力一杯握って操作する。幾つものファイルを開け、そしてそれを見た。ディスプレイに映し出されているそれは、尋常では考えられない速度で【ハルハル】の制御権を強奪しようとしてた。一つ、また一つと暗号キーがぶち破られ、その度サイレンのような音が大きくなる。
それを見て大慌てで援護を呼びに行く――というのはド素人の考えた。八木は悪魔のように笑う。
「上等だ、このおれ様に喧嘩売ってくるたあいい度胸。受けて立ってやるぜチキンハッカー」
深呼吸を一つ、八木はコンソールがぶっ壊れるのではないかと思うほどのスピードでキーを叩き始めた。プログラムを引っ張り出し、それを進入ルートに当てる。つまりは落とし穴だ。このおれ様に敵うハッカーなどいるものか。今に見てろ、逆探知してそっちのPCに昨日作成したウイルスぶち込んでやる。効果は見てのお楽しみ、そして気づいた時には手遅れだ。家中の電化製品が火を噴くぜっ!! ハッハッハッ……ッハ……って、おい、待て。何だコイツ、おいおいマジかよクソっ!!
八木のプログラムが、まるで紙切れのように突破された。そしてさらに進入してくる。
「クソっ!! 何だコイツはっ!! 化け物かっ!!」
八木は神経を研ぎ澄ます。水面下でのバトル開始だ。もう小細工はない。プログラムのぶつけ合い。これで負けたことなどただの一度もない。自信は腹の底から溢れて来る。
そしてそのバトルは約二分続いた。このまま膠着状態に陥るかと思った瞬間、相手が本領を発揮した。おそらく、八木が只者ではないと察したのだろう。そしてそれは、まだ相手が手加減していたということだった。それまで全力でやっていた八木に、もはや勝ち目はなかった。八木など比べ物にならない速度で、八木の遥か上までそいつは到達した。
そして、【ハルハル】の主導権がすべて奪われた。初めて敗北に絶望する。まさか自分が負けるなど思ってもみなかった。しかも相手は化け物みたいなヤツだ。自分の遥か上を行く腕前を持っている。そんなヤツがこの世にいるなど思ってもみなかった。完全に、八木の負けだった。ディスプレイを見つめ、八木は呆然と座り込んでいる。やがて、なぜか【ハルハル】の主導権が戻って来た。がばりとディスプレイに縋り付き、信じられない物を見る目つきで画面を凝視する。
せっかく奪い取った主導権を返すだと? コイツ、一体何を考えてやがる――。八木は急いで【ハルハル】の中身を確かめた。そこで、あることに気づく。
「……なんだ、これ……?」
なぜか、【ハルハル】の制御プログラム、つまりはこの十条路家のセキュリティが、
今夜のきっかり十二時まで、
――機能停止になっていた。
◎
「昨日も思ったんだけど、太一ってどうやってここまで来てるの?」
昨日と同じく、窓から入って来た太一に夏紀はそう言った。
今日は迷彩服ではない、普通の服を着ていた太一は不思議そうに「いや、普通に」と返答する。夏紀はベットに座り、その前に立っている太一を見据える。
「ウソ。だってこの家は普通の家と違うんだよ? 何だか知らないけど、いろいろあるんだもん」
太一は苦笑する。
「知らないのにえらい自信だな。……んーまあそうだな、結構すげえよこの家。昨日来た時に言ったろ、下見に手間取ったって。あれだけの数の赤外線とかあっちゃあ普通は入って来れないだろうな」
「じゃあ何で太一は入って来れたの?」
何でもないようなことのように、太一はさらっと答える。
「そりゃおれだからだよ。よくあるだろ、映画とかで赤外線を慎重に潜り抜けるシーン。あれに似たことやって入って来た」
何だか犯罪のような気がすごくする。たぶん、太一以外の人がそんなことをやれば間違いなく犯罪だ。ではなぜ太一がしても犯罪にならないかといえば、それはもちろん夏紀の『友達』だからだ。論点がズレているような気もするが、夏紀がそう思っているのでいいのだ。
「でもさ、太一はそれでいいかもしれないけど、あたしはそんなこと無理だよ? そもそも今日はどうやってここ抜け出す気だったの? あたし、夜は外に出ちゃいけないから」
「わかってるって。出るならあの黒いおっさん達がお供するんだろ? そりゃ勘弁だからな。だから、」
「だから?」
じっと太一を見つめる夏紀。そして、太一は満面の笑みを見せて言った。
「魔法を掛けておいた」
「……魔法?」
「そう、魔法。今は……九時か。今から十二時までの三時間、夏紀は自由の身だ」
その意味がよく理解できなかった。急に魔法などと言われてもはいそうですかと納得できるほど夏紀の頭は柔軟ではないのだ。疑り深い瞳で太一を見つめ、ぽつりと、
「太一って、やっぱり変人……?」
太一が切れた。
「あ!? 夏紀、お前それ禁句だぞ!! おれはせっかくお前へのお礼にと思って全力を尽くして魔法を掛けてやったのに何だその態度!!」
「ご、ごめんって。今のあたしが悪いね、だからごめん」
あまりに真剣に太一が怒るので驚いた。冗談のつもりで言ったのにそんな本気に受け取られるとは思ってみなかった。たぶん、太一にとってはそれは本当に禁句なのだろう。これからは気をつけようと夏紀は思う。それにそんな下らないことで太一と喧嘩などしたくもなかった。
「それでさ、本当にあたしは自由の身なの? 外に出てもだいじょうぶ?」
まだ不貞腐れている太一は夏紀から視線を逸らし、ぶつぶつと答える。
「……ああ本当。十二時まで、夏紀は本当に自由だ。だからおれも今日は普通にここまで来たんだし……」
いじけた太一を見て、夏紀は一人で苦笑する。何だ可愛いと思ってしまうのは失礼だろうか。
十二時まで自由。そう言われて、正直、本当に嬉しかった。太一に限ってそんな嘘を言うとも思えないし、そう言うならそうなのだろう。今まで夜に出掛けることなどなかった。門限は夜の七時だし、もしそれ以降に外に出るのなら、例え庭に出るのでさえクロ助達のお供が必要になるのだ。それも姿を消すのではなく、常時夏紀の側で待機している形となる。それでは息苦しいし、何より夏紀の都合でクロ助達を余分に働かせるのが可哀想だった。だから、何の気兼ねもなく外に出るのは背中に羽でも生えたかのような開放感があった。それに、もし何かあったら太一が守ってくれる、と絶対の確信がなぜかあった。
「でも、十二時までって何だかシンデレラみたいだね」
いじけてそっぽを向いている太一はそれでも、
「……まあな。この家、シンデレラとかいそうじゃん。だからそうしてみた」
「……あたしと同じこと思ってたんだね、太一も」
ふと口を出た言葉に太一がこちらを向く。
「同じって?」
「あたしもね、いっつもそう思ってたんだ。この家にはシンデレラとかいても不思議じゃないって。……あたしは、シンデレラって柄じゃないけど」
「そんなことねえよ。おれから見りゃ夏紀は――」
「あたしは?」
「いや、何でもない」
そこから先を打ち切り、よっこらしょっと太一が立ち上がる。それから笑い、夏紀へ手を差し出す。
「それでは行こうかお姫様。鐘が鳴る十二時まで、おれがエスコートしてやる」
夏紀も笑う。
「キザだね」
「カッコイイだろ?」
夏紀は差し出された太一の手を握り、そっと言う。
「うん」
昨日した約束は、明日の夜の九時にまたここに来る、だった。
そう言って太一は窓から飛び降りた。三階から飛び降りるという暴挙を目の当たりした夏紀は驚いてその姿を追ったが、どういうわけか太一の姿はなかった。クロ助のように消え去ってしまっていた。その謎を解明しようとしたのだが結局は無理だった。悩める一日を過ごした夏紀は、そうして約束の九時となり、窓がノックされたので太一を迎え入れた。昨日は考えもしなかったが、そもそもどうやってここまで太一が来ているのかも謎だった。窓にはベランダなどないし、下からここまで上がってくるための配水管もない。飛んで来た訳ではあるまいとは思うものの、ますます疑問は積もった。
そして、その謎がやっとか解明された。どうやってここから下まで降りるのかという疑問は、太一の「飛んで行く」という答えで一括されたのだ。実際、本当に飛んだ。三階の、窓から。怖すぎて太一に掴まって目を瞑っていたらいつの間にか地面に着いていた。その後でどうやって下まで来たのかと訊いても、太一は「だから飛んだんだって」の一点張り。夏紀は帰りこそはその謎を本当に暴いてやろうと心に決めた。
馬鹿みたいに広い庭を太一と共に走り進む。夏紀でさえこの庭の構造をすべて知らないというのに、この太一はまるで我が家のように進んで行く。庭の構造をすべて理解し、どこに何があるのかもわかっているような素振りだった。そして、この辺りにあるはずのセキュリティが何一つ作動していなかったことに、夏紀は最後まで気づかなかった。
赤レンガの塀まで辿り着いた瞬間、夏紀は屋敷の方で何やら騒ぎが起こっていることに気づいた。後ろを振り返っていると、前の太一から「……戻るか? 今ならまだ間に合うぞ」と言われた。一秒だけ考え、夏紀は首を振った。
「あたしは、太一と一緒に行く」
「グット」
そう言って親指を立てた太一は、軽々と二メートルはあるであろう塀へと簡単に飛び乗った。それから下にいる夏紀へと手を差し出す。それをもう一度握り、太一に引っ張ってもらって塀に乗った。降りるのは一人でやろうと思って飛び降りたら、思いっきり足を滑らした。背中から地面に倒れそうになり、そこをまた太一に助けてもらった。何だか悔しかったがそれでも「ありがとう」とお礼を言うと太一は笑った。
それから並んで道路を少しだけ歩く。見上げる夜空は綺麗だった。雲が少しだけあるが、これは時間が経てば無くなるような気がした。今日は綺麗な満月だ。それに加えて輝く星。これから、この夜空がもっと綺麗に見える場所に連れて行ってもらえる。そう思うと自然と笑みがこぼれた。
「ねえ太一」
「ん?」
「どうやって行くの? このまま歩く?」
まさか、と太一は首を振った。そして曲がり角を曲がったその時、一台のバイクが停車していた。かなり大き目の単車だ。それに近づき、太一はシートに手を乗せて夏紀を振り返る。夏紀がもしかして、と思った矢先、太一は言った。
「これがおれの自慢の愛車アメリカンカスタムバイク『スティード』だ。高校になったら絶対に免許取るって決めてたからな」
その説明を聞きぽかんとバイクを見ていた夏紀は、ただ一言。
「……太一、運転できるの?」
「任せろ。これはおれの一部だからな、呼吸するのと同じだ」
夏紀から視線を外し、太一はバイクに跨る。ハンドルに掛けてあったフルフェイスのヘルメットを二つ手に取り、片方を夏紀に放った。
「それ使え。準備できたら後ろ座れな」
太一がヘルメットを被り、キーをシリンダーに突っ込んで回した。そして足をそっと浮かせたと思った瞬間、その足が何かを踏んづけ、ブオンっとエンジンが息を吹き返した。排気音が辺りに広がり、太一が指で後ろを指す。
おずおずと、夏紀はヘルメットを被った。それから太一の座るシートの後ろに座った。
「落ちねえように掴まってろよ」
太一の声が聞こえたので、どこを掴もうかと一瞬だけ悩み、夏紀は太一の腰に手を回した。
そして、クラッチを踏んでアクセルが開けられた。バイクが走り出す。街灯だけに照らされていた闇をバイクのハイビームとテールランプが切り裂いていく。風が鉛のような重さになって体を後ろへと向けさせる。それを必死に太一にしがみ付いて耐えた。
やがて、そんな怖さもなくなって来た。すぐそこから感じる太一のぬくもりは暖かかったし、何より、こうやって風を切って進む物に乗ったのはこれが初めてだった。すごく、気持ち良かった。
夏紀は笑う。
冷たいはずの風が、なぜかぬくもりに包まれていた。
このままずっといたかった。太一と二人で、ずっと。
でも、魔法は十二時まで。だから、それまでを全力で楽しもうと思う。
夏紀と太一を乗せたバイクは夜を行く。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
「あなたが好き」
闇を切り裂く灯りは止まることなく進み続けた。
太一にしがみ付いていた夏紀は、最初こそここはどの辺りなのかわかっていたが、数分前から全く知らない場所に到達していた。住宅街が並ぶ場所だ。人の気配はあまりないが、家の一軒一軒には灯りが漏れている。雑音はバイクの排気音に邪魔されて聞こえない。
やがて、バイクが速度を落とし始めた。フルフェイスのヘルメットの向こうに見える闇を眺め、ぼんやりとここがどこなのか考える。そのまましばらく進むと、バイクが停止した。エンジン音がふっつりと止み、静寂だけが耳に残る。前にいる太一がヘルメットを外し、笑顔で夏紀に振り返る。それがなぜか無性に恥ずかしくて、急いで太一から体を離した。ヘルメットを取ろうとするが上手く外れず、結局それも太一に助けてもらった。
二つのヘルメットをハンドルに掛けた太一はバイクを降り、スタンドを下げて固定する。それから夏紀に手を差し出し、夏紀がその手を取るとゆっくりと引っ張り地面に下ろした。少しだけ震える足を押さえ付け、夏紀は辺りを見まわした。やはりここは知らない場所だ。そして目の前にあるのは――
「……公園?」
「そう、公園。おれが知ってる限り、一番星が見易い場所。つっても、聖夜の受け売りなんだけとな」
太一の言葉に首を傾げ、夏紀は言う。
「聖夜って?」
「ん? ああ。おれの親友」
嬉しそうにそう答えた太一の表情を見るだけで、どれだけ太一がその友達を慕っているのかがわかった。何だか少しだけ羨ましくなってくる。だから意地悪の意味も含め、夏紀は苦笑する。
「それって、友情より愛情を選んだ友達?」
「む。……まあそうだけど……いや違う。そんなことはないぞ。聖夜は良い奴だ。おれの知ってる中で一番な」
「……そっか。あたしも逢ってみたいな、その人と」
太一はその言葉に、何を幻想染みたことを、と笑う。
「逢わせてやるよ。てゆーかさ、ほれ。おれと夏紀が友達なんだからさ、聖夜と雪乃ちゃんとも友達になるわけだよ。二人も絶対に夏紀のことを気に入ってくれるし、夏紀も二人を気に入ると思うぞ」
「……うん。太一の友達だったら、絶対にあたしも好きになると思う」
本当に逢ってみたくなった。太一がそんな風に話すとなれば、本当に良い人達なのだろう。太一と同じように、在りのままの十条路夏紀を受け入れてくれると思う。太一のように、自然体で接してくれると思う。それは、すごく素晴らしいことではないのか。夏紀が少しだけ微笑むと、それに気づかない太一がこんなことを言った。
「特に雪乃ちゃんがいいぞ。素で敬語話すし綺麗で可愛いしな。卵焼きが好きってのも結構良い感じな痛てっ! な、何すんだバカ、叩くなって!」
やっぱり太一は太一だった。こっちの気持ちなど何もわかってくれない。だから叩いた。すごく腹が立った。自分でも不思議なほと腹が立って、その理由がイマイチわからないからどうしようもなくやるせなかった。何かをしたい衝動に駆られ、だとするとやっぱり思いつくのは太一を叩くことだけだった。
やがてその夏紀の手から逃れた太一は不服そうに、しかし悪戯を思いついた子供のように満面の笑みで一歩踏み出した。それから公園にあった時計を見やる。時刻は十時を回っていた。そして太一は一人で肯き、夏紀に向き直る。
「目を瞑れ夏紀」
「目を瞑るの? なんで?」
そう言うものの、夏紀はすっと言われた通りに目を瞑った。太一の足音がする。こっちに近づいて来たと思ったら、急に手を握られた。驚いて目を開けそうになったが、太一に「そのまま」と言われて従った。やがてゆっくりと太一が歩き出し、それに目を瞑ったまま夏紀は並んで歩く。地面が砂地からコンクリートに変わった感触が足に伝わった。目を瞑っているといろいろなことがわかる。自分の心臓の音がいつもより早いとか、太一の吐息が弾んでいるとか、どこかで虫が鳴いているとか。
そして太一が立ち止まり、こう言った。
「夏紀は知ってるか? こんな話。――雲一つないその夜空に満天の星が輝く時、【ほしのうた】が見えるだろう。どこまでも続く綺麗な夜空で、いつまもで続く【ほしのうた】。満月に導かれしその【うた】を、いつか誰かは聞けるだろうか――」
「……なに、それ?」
聞いたこともない言葉だった。何かの歌のようにも思えるし、詩のようにも思える。見えない視界の中で、太一が微笑んだのがわかった。
「いやさ、おれも本当は知らなかったんだよ。ただ、ちょっと前に聖夜に教えてもらってさ。そんで、それを見てみようかって思ってな。一人で見てもつまらないだろ? だったら夏紀と一緒にって思ったんだ」
不思議に思う。
「それって、見れるものなの?」
「たぶん」
「たぶんって……。見れるからあたしを連れて来たんじゃなかったの?」
ふむ、と太一が考え込んでいる。それから「まあ成るように成るだろ」と笑った。
その辺のいい加減さも、何だか太一のような気がした。でも、見れなくてもいいかもしれない。ただ、太一とこうして二人でいることに意味があると夏紀は思う。どうして今目を瞑らなければならないのかはよくわからないけど、太一には太一なりの考えがあってそうしているのだろう。今はただ太一の言うことに従おう。たぶん、本当に何かを見せてくれるのだろう。それがその【ほしのうた】かどうかはわからないけど、きっと素敵なものに違いなかった。
そして、太一の気配が変わった。お、っと声を漏らし、少しだけ上を向いたような気がする。
「ビンゴ。夏紀、やっぱおれってすげえかもしれねえな」
その言葉に、夏紀は素直にこう返した。
「すごいと思うよ、太一は。あたしから見れば本当に魔法使いみたい」
「サンキュ、シンデレラ。それでは最高の夜空を見ようか」
ずっと握っていた手に少しだけ力が篭った。その時になってようやくまだ手を繋いだままだったことに気づき、恥ずかしくなって太一に言葉を掛けようとし、太一のその言葉を聞いた。
「――……あと五秒。四、三、二、一、夏紀、上を向いて目を開けろ」
言われた通りにそうした。上を向いて、瞑っていた目を開いた。
そこには、満天の星空が広がっていた。
バイクに乗っていた時は気づかなかったが、いつの間にか空には雲がなくなっていて、そこにあるのは月と星だけだった。いつも見てるはずの夜空が、いつもと全く違う夜空に思えた。それは場所が違うからなのか、二人で見ているからなのか、それとも隣にいるのが太一だからなのか。たぶん、全部なんだろうと夏紀は思う。ただ、目の前に広がっている夜空は、全くの別世界に思えた。こんなにも綺麗だったことに、なんで今まで気づかなかっただろう。
当たり前の日常は、しかし少しだけでも見方を変えればそれは非日常になる。そんな簡単にことに、今やっと気づいた。
そして、夏紀はそれを見た。
それが何なのか、夏紀はすぐにはわからなかった。
やがて、夏紀はその考えに思い至る。意識しないでも声が出ていた。それは歓喜の声だったのか、それともそれに目を奪われたからなのか、よくわからないけど声が出ていた。手を広げれば、この夜空に羽ばたける気がした。
隣の太一が、夏紀と同じように空を見上げたまま、「すげえ」とつぶやく。
本当にすごかった。夜空を縦横無尽に舞っているそれは、一言で表せそうで表せない、不思議なものだった。
言うなれば、そう。視界に広がっているそれは、
――流れ星。
確かに流れ星が夜空を舞っている。だけど、それだけではないのだ。
幻想的な光景だった。
夏紀と太一の瞳に写っているもの。それは、無数に広がる流れ星。
一つではない。何個も、何十個も、この視界一杯に広がる夜空に、星が流れている。
まるで何かを祝福するように、まるで何かを照らすように、まるで何かを称えるように。流れ星は、止まることなく流れている。
その時、確かに歌っていた。星は、この夜空で歌っていた。
世界はこんなにも綺麗で、希望に溢れている。それを見てると、なぜかそう思えて仕方なかった。
夏紀と太一は手を繋ぎ、夜空を見上げ、同じ時間を共有していた。
会話は、必要なかった。ただ、それを見ているだけでよかった。それだけで、十分過ぎるくらいだった。
それは、時間にすれば、一分足らずの出来事だったはずである。
夢見心地のその時間が過ぎれば、やがて空にはさっきまでと変わらぬ月と星があるだけだった。
しばらく、何も話さずそれだけを見ていた。時間はわからない。何分そうやっていたかはよくわからないが、やがて静寂が戻ってきた時、二人はまだ夜空を見上げたまま口を開く。
「……綺麗、だね」
「……だな」
「さっきのが【ほしのうた】?」
「たぶん」
「やっぱりたぶんなんだ」
「いや、まさか本当に見れるとは思ってもみなかったからさ……。流星群か……本当にすげえな」
「流星群?」
「そう。流れ星の群れ。初めて見た」
「あたしもそうだと思う。……でも、」
「でも?」
繋ぎ続けていた手に、今度は夏紀から力を込めた。
「太一と一緒に見れて、良かった」
それに応えるかのように、太一もそっと手を握る。
「おれも、夏紀と一緒に見れて良かった」
夏紀がその言葉に太一の横顔を見る。そして、自分でも何を言おうとしのかはわからないけど、口が自然と動き、そして、
太一がこんなことを言った。
「一人で見てもつまんねえしな」
それから夏紀を見て笑った。
その笑顔に腹が立った。何でか知らないけどもうこれでもかってくらいに腹が立った。だから夏紀は、やっぱり太一を叩いた。手加減なんかしてやらなかった。全力で叩いてやった。それでも腹の虫は治まってはくれず、何だかもやもやしていた。
だけど、それもやがて晴れて来る。太一は公園にあった遊具の影で「おれ何もしてねえじゃん! 何で叩くんだよコラ夏紀!」と叫んでいる。それが可笑しくて、夏紀は「あはは」と笑う。太一が「笑うな! 理由を話せ理由を!」と抗議の声を上げ続ける。
いつか話してあげる。でも、今はまだ早いよ。夏紀はそう思って微笑む。
夜空を見上げ、遅れて流れた星を見つけた。夏紀は願う。
太一と――
しかし流れ星はすぐに消えてしまった。
「……やっぱり、流れ星にお願いなんて無理かな……」
三回言い切るどころか、一回も言えなかった。だけど、それでよかったのかもしれない。
今度は自分の力で叶えてみようと夏紀は思う。誰の力も借りず、今度は自分の力だけで。それが、夏紀が変わる第一歩だと思う。
ふと見た時計の針は、十一時を指していた。あと一時間で魔法は切れてしまう。でも、もういいのかもしれない。これでもう十分だった。それに、ここから帰るともなれば行き道のように一時間近くかかってしまう。早く帰った方がいいかもしれない。十二時の鐘が鳴る頃には、太一とはお別れだ。だけどそれが永遠の別れじゃない。逢おうと思えば、すぐにでも逢える。だから、今日はこれでいいと思う。
夏紀はその場で踵を返し、笑った。
「さ、帰ろう太一。魔法が切れちゃうよ」
夜空には、月と星が輝いている。
◎
十条路家に帰ったとき、敷地内はえらい騒ぎになっていた。
どうやら夏紀がいないことがバレたらしく、警備隊などの複数の人の声が反響していた。懐中電灯の光りが幾つも見えたし、サーチライトが灯台のように天を照らしている。ここまで来るともう笑うしかなかった。近くの道にバイクを止め、夏紀と太一は怪盗よろしくで赤レンガの塀に沿って走っていた。太一が掛け声と共に塀に登り、中の様子を伺う。誰もいないことを確認した後、夏紀に手を貸して敷地内に潜入する。
時刻は十一時四十五分ジャスト。太一が言う予定では、もう少し時間に余裕があるはずだったらしい。が、帰り道に太一が面倒だからという理由でヘルメットを被らずにバイクを運転したのが裏目に出た。ばっちりパトカーと遭遇した。もちろん逃げた。裏路地に入って上手く撒いたのだが、道に迷った。そこで随分と時間のロスをしてしまった。ちなみに、いつの間にか太一はタオルでナンバーを隠していたので足が付くことはない。
森のような庭を走り、すぐ側に人影を見つけたら物陰に隠れたり木の上に登ってやり過ごした。正直な話、すごく楽しかったと夏紀は思う。自分の家でまさかこんなことをやるとは思ってもみなかったのもあるし、何だかかくれんぼと鬼ごっこを足して二で割ったような感じだった。ただ、そう思っていたのは夏紀だけで、太一にしてみれば結構重大だった。そりゃ夏紀はここの主であるからして、見つかって捕まっても何にもないだろう。それどころか保護される側だ。しかし太一は違う。ここまで騒ぎが大きくなってしまっている。捕まれば誘拐犯である。夏紀がどんなことを言っても信じてはくれそうにない雰囲気だった。
やっとのことで夏紀の部屋の真下に到着する。時刻は十一時五十五分。ギリギリで間に合った。そして夏紀は今度こそどうやって太一が三階の夏紀の部屋に行くのかを絶対に突き止めるべく目を凝らしている。が、太一はいきなり夏紀を抱き締める。夏紀が慌てて離れようとして、しかし太一は離してはくれず、恥ずかしくて死にそうで、目を閉じて必死に抵抗していたらいきなり浮遊感を味わった。ジェットコースターに似ていた。そして気づいたら、三階の夏紀の部屋に到着していた。夏紀が「どうやってここまで来たの!?」と詰め寄っても、太一はやはり平然と「だから飛んだんだって」と言い張る。
部屋の外からは足音が無数に聞こえる。「お嬢様は見つかったか!?」「早くしろっ!!」「宇宙人達を出動させろ!! ゲリラはやつらの専門分野だ!!」そんな声が喧嘩腰に聞こえてくる。ぐずぐずしてはしていられない。警備部隊ならともかくとして、クロ助達に出て来られては太一に勝ち目はない。怖がらないとはいえ、クロ助達から逃げ切れるものなどこの世には存在しないのだ。絶対だ、言い切ってもいい。
部屋の中に立つ夏紀と、窓際に座る太一。何も言わず、しばらくじっとしていた。やがて夏紀は笑う。
「今日はありがとう太一。本当に、楽しかった」
「おう、おれも楽しかった」
夢物語のような三時間だった。そして、もうすぐ十二時。シンデレラの魔法は解けてしまう。
「また、逢えるよね?」
「もちろん。夏紀が逢いたいって言えば、すぐにでも来てやる。約束だ」
太一がそっと小指を差し出す。「うん」と肯き、夏紀はその小指に自分の小指を絡ませる。
ゆーびきーりげんまんうそついたらはりせんぼんのーます。子供のようにそう言って笑いあった。そして小指が離れるそのとき、時刻は十一時五十八分を指している。
太一が微笑む。
「それじゃ夏紀、おやすみ。またな」
そう言い残し、太一は踵を返す。その背中を、夏紀は無意識の内に呼び止めていた。
「太一!」
太一はその声に「ん?」と振り向く。夏紀は言葉に詰まる。どうして呼び止めたのか、何か言いたかったか、わからないけど、それでも呼び止めずにはいられなかった。時間は冷静に、一秒単位で時を刻んでいく。呼び止めている場合ではないのだ。だけど、どうしても、太一に伝えなければならないことがある。
今度は自分の力だけで。在りのままの十条路夏紀の気持ちを、この水上太一という人に伝えたかった。それは魔法が効いているこの時しか言えないかもしれない。ここで諦めてしまったら、もうずっと言い出せないかもしれない。だから、言うのならばこの時以外に有り得なかった。
勇気を振り絞り、そして夏紀は言う。気持ちを、太一に伝えようと思う。
「……あたしは、太一が……」
「おれさ、夏紀のこと好きだよ」
太一はけろって、本当に何でもないようなことのように言った。
その意味が、しばらく理解できなかった。
「――? はい?」
「いや、だからさ、おれ夏紀のこと好きだよって言ってんの」
十条路家にあるすべての時計の針が、十二時五十九分を示した。
「……太一、それ本気で言ってるの……?」
太一はいつもと何も変わらなかった。恥ずかしい、とか思わないのだろうかと夏紀は思う。
「本気以外に好きとか言わねえって。そんなに軽い男に見える?」
見える、とは思ったが口には出さなかった。そんなことより、今は、
「……友達、として……?」
「そっちの方がいい?」
夏紀は無意識に内に首を振っていた。
「そんなことない、絶対にない! だって、あたしも――」
そこから先を、夏紀はついに言えなかった。勇気が足りなかったからじゃない。ただ、太一の瞳が、何もかもお見通しのように真剣だったからだ。言わなくても、もうわかってると素直に思った。
しばらく、数秒単位で刻む時の中、夏紀と太一は見つめ合っていた。やがてどちらともなく、そっと動く。やることは決まっていた。初めてが太一なら、文句などこれっぽちもなかった。ただ、嬉しかった。泣きそうなくらい嬉しかった。
そして、夏紀と太一の唇がそっと――触れなかった。
すぐそこにある、互いの吐息がわかるくらい近くにある、タバコ半分もない距離にあった太一の口から、いきなり「やべえ」と声が漏れた。
それも太一らしいといえば太一らしいのだが、夏紀は不満たらたらで太一の言葉の意味を探り、思い至って真っ青になった。
時刻は、その瞬間に、十二時を示した。
魔法は、終わりを告げた。
刹那、太一の体を赤い光線が直撃する。赤外線だった。屋敷全体から第一次空襲警報のようなサイレンが響き、廊下の足音が団体で夏紀の部屋へと向かってくる。そして誰より、何よりも早くに彼らは参上した。
太一を囲むように靄が発生し、夏紀が一歩後退して、気づいた時には周りに五つの巨大な黒い影があった。クロ助零号から四号の御出ましである。窓からの脱出を防ぐためなのかは知らないが、あろうことかクロ助零号に到っては信じ難いことに宙に浮いている。窓の外からそこに足場でもあるように佇み、太一を睨み付けている。全員がその額には青筋を蠢かせ、そしてクロ助零号が言い放つ。
「オジョウサンニナニカヨウカ、ガイチュウヤロウ」
太一がなぜか反論する、
「害虫はどっちだ青筋マッチョ! 来るなら来い、受けて立つぜムキムキ野郎!!」
クロ助零号が腕を上げ、そしてそれを振り下げる。その時だけは、完璧な発音の、日本語を喋っていた。
「ブチ殺セ!! 根絶ヤシニスルノダッ!!」
クロ助達はその体格には似合わない俊敏な動きで太一を捕獲に掛かる。それを太一は素早く退避し、一撃、二撃と避ける。が、三撃目で遂に捕まった。もがき暴れる太一を無視し、クロ助二号は勝ち誇ったように「グハハハハハハッ!!」と笑っていた。
太一は逃れられないと知りつつ、必死に手を伸ばす。事の経緯を笑いを堪えながら見ていた夏紀に。
「夏紀ぃ―――――っ!!」
夏紀は悲劇のヒロインのように叫び返す。
「太一ぃ―――――っ!!」
そうして太一の姿がクロ助達と一緒に靄に包まれる。
その中から太一の最後の声が聞こえた。
「憶えてろ夏紀っ!! お前よくもおれを見捨てやがったなチクショウっ!! 今度逢ったら、そんときは、あああ、待て、やめろ!! どこ連れてく気だテメぇら!! 何だそれ!? 銀色に光ってて、てゆーかええっ!? ちょ、」
靄が消えると同時に、太一の声がプツンと途切れた。
一人部屋に取り残された夏紀は、ゆっくりと深呼吸をする。
そして、本当に嬉しそうに笑った。
「太一。あたしは、あなたが好き」
窓から見える星空はやっぱりいつも通りの日常で、でも少しだけでも見方を変えればそれは非日常になる。
そして、夏紀は変わっていく。
切っ掛けをくれたのは他の誰もない、太一だ。太一がいればそれだけで勇気になる。
いつか面と向かってさっきの言葉を太一に伝えようと夏紀は思う。
そして、そのときにはさっきの続きもしてみたいとも思う。
やっぱり、初めては本当に好きな人とやりたいしね。
う〜ん、と夏紀は背伸びをする。ベットに振り返り、一人でつぶやく。
「寝よっかな」
魔法は、まだ続いていたのかもしれない、と夏紀は思う。
「エピローグ」
結局のところ、それから太一はクロ助達の本拠地に連れて行かれたらしい。
実際、クロ助達のねぐらは夏紀も知らない。過去に一度、夜中に目を覚ましてふと窓の外を見たときに銀色の円盤が浮いていたことがあったが、あれが何だったのかは夏紀は今でもわからない。だけどそれとクロ助達が無関係だとは言い切れないのが少しだけ痛い。ただ、夏紀の憶測では、太一はそこに連れて行かれたのではないか、と思う。あの十二時を境に、太一は半日ほど帰って来なかった。たぶん宇宙まで連れ去れたのだろう。
そして帰って来たとき、なぜか太一は全身に黒いスーツを纏い、クロ助達と同じサングラスをしていた。筋肉質とスキンヘッドになっていなかったことが唯一の救いだろうか。でも問題はその内面で、どうやらセンノーされたようだった。しばらくは何を話し掛けても「ゴッチャンデス」と意味不明なことしか返してくれなかった。太一が普段の太一に戻った頃、太一の頭の中からクロ助達に連れて行かれた時からの記憶がなくなっていた。そっちの方が良かったのかもしれない。知らなくていいことはこの世に山ほどあるのだ。
次の日は日曜日で学校が休みだった。なぜかクロ助達が許してくれたので、その一日は太一と過ごした。と言っても何か進展があったわけではなく、やっぱりいつも通りの夏紀と太一だった。遊んだ、と言えばそれがあっているのかもしれない。庭を探検したり、屋敷の全貌を明かしたりしていた。その中でも地下室は見物で、何かすごい機械がたくさんあった。そこにいた一人の男の人が、太一と専門用語で話をしていた。帰り際、その男の人の顔が尊敬に満ち溢れていたのはなぜだか太一は教えてくれなかった。夕食も二人で食べた。今まで一人で食事を摂ることが多かった夏紀にとって、それは凄く楽しいことだった。
夜になって、どこからかクロ助達が現れ、夏紀と太一は別れることとなる。
門の所まで見送った夏紀に、太一は笑ってこう言った。
「在りのままの夏紀で行け。怖がるな、後ろにはおれが付いてる」
それからクロ助達に視線を向け、親指をぐっと立てていた。クロ助達も相棒を見るような目つきでそれに応えていたのは少しだけ怖い光景だった。
でも、その言葉が本当に勇気をくれた。怖がることなんて、もうないんだろうと夏紀は思う。良い子ちゃん擬態はもう卒業だ。在りのままの夏紀で、これからを生きて行こうと決めた。
次の日の朝、学校に向かう車の中で、久保に太一とのことを茶化された。恥ずかしくて、「もし次に何か言ったら首にするからねっ!」と脅しを掛けておいた。が、それでも久保は涼しい顔をして笑いを堪えていた。
車は学校の目の前で止まる。時刻は遅刻ギリギリだ。普通、桜女子の生徒はチャイムが鳴る十分前には最低でも教室にいなければならない。チャイムがまだ鳴っていないとはいえ、この時間に登校するなど遅刻も同然だった。車から降りると同時に、久保から最後の静止が掛かる。
「お嬢様、本当にそれで行くのですか? まだ間に合いますが」
しかし夏紀は首を振る。
「ううん、いいの。これからは本当のあたしで行くから」
「……そうですか。それも、太一さんの影響ですか?」
「うるさいバカ」
笑いをさらに堪えながら、久保は「それでは放課後に」と軽いお辞儀をして車を発進させる。
それを見送ってから、夏紀は「うん」と肯く。踵を返し、桜女子高校の校舎へと視線を向ける。今までは誰よりも早い時間に来ていたので気づかなかったが、この時間帯は不思議な感じがした。人の気配はあるのに異様に静かで、学校の熱気というものがなかった。それが何だか悲しかったが、これからは違う。あたしが変えてやる、と夏紀は思う。
そして夏紀は歩き出す。校舎に入って下駄箱で靴を換え、階段を上がって教室へ。自分の教室のドアの前に立ち、夏紀は一つだけ深呼吸をする。辺りには誰の姿もない。生徒も教師も、すでに教室の中に入っているのだろう。
少しだけ不安が広がる。だけど、それを振り払う。太一と約束した。それが勇気になる。だから、怖がる必要なんてない。
学校ではあまり好まれないので、今までピンで止めていた自慢の長い髪は綺麗に下げられており、校則で決まっているスカートの長さを無視して短くしてある。この一歩を踏み出すのが、一番の勇気だ。でも、躊躇う必要はない。在りのままのあたしで、これからを行く。偽るのはやめよう。
あたしは変われる。そうだよね、太一。
夏紀はドアに手を掛ける。いつもならドアの音を立てずに開け、決められた角度で頭を下げて「おはようございます」と静かに教室に入って行く。そんなもの知ったこっちゃないのだ。
夏紀は手を掛けたドアを、思いっきり開け放った。そして、満面の笑みでこう言った。
「おはよう、みんな!!」
新たな一歩を、踏み出すのだ。
窓から見えた太陽は、夏紀を祝福しているようだった。
眩し過ぎて、思わず笑ってしまう。
そしてその太陽の下、水上太一は今日も野良犬と一対一の真剣勝負を繰り広げている。
END
2004/07/27(Tue)13:02:26 公開 /
神夜
■この作品の著作権は
神夜さん
にあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
さて。これにて【魔法は十二時まで】は完結となります。
今まで読んでくれた皆様、ありがとうございました。いろいろと書きたいことがったのですが、これが今できる精一杯でした(苦笑 それでも楽しんでくれた人がいてくれたのでしたらそれだけで満足です。
クロ助達、結局は何だったんでしょうね?(マテ しかしそれは読者様のご想像にお任せします。いつかまたクロ助達を書けたらいいなと思います。そのときはまたお付き合いを。
それでは最後のレス返しは、少しだけ短めで。
DQM出現さん、紅い蝶さん、夢幻花彩さん、卍丸さん、ニラさん、ストレッチマンさん、ドンペさん、笑子さん、そして今まで読んでくれたすべての方へ。
愛読、誠に、ありがとうございましたっ!!これからもよろしくお願いしますっ!!
それでは、次回作でまたお逢いできたら光栄です。
再度、今までありがとうございました!!!!
(すいません、なぜかエピローグを字下げしていないという間抜けなミスをしてしまい、修正誤字です(汗;)この前に読まれた皆様、誠に申し訳ありませんでした)
作品の感想については、
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