『アンスリウム・期日の華(花物語) 〜第4回〜』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:石田壮介                

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 〜私はいつも不思議に思う〜

 〜何故、地球は回っているのに〜

 〜何故、私の部屋の眺めは変わらぬのだろう〜

 〜空が赤くなって、陽が昇り〜

 〜綺麗な青になって、陽が過ぎゆき〜

 〜また赤くなって、陽が沈む〜

 〜海があって、陸があって、街があって〜

 〜傍の野に咲くアンスリウムの花…


 新進作家、佐川鵜金(うこん)はここまで書き終えると、詰めた息を抜いた。

「ちぃっす、郵便です」

 申し合わせたように無遠慮に大きな声が階下から聞こえた。鵜金はごうも気に止めず、原稿に向かって顰め面をしていた。二度目の声がかかった。それも無視した。三度目に同じ声で、

「おい!佐川。いるんだろう?」
「今、仕事中なんだ。帰れ!」
「…あがるぞ」

 玄関の板張りにどんと足を踏み入れ、彼は今のソファーに乱暴に凭れた。音で解った。彼、筑波菊松とは十年の付き合いだった。大学で知り合い、共に文芸の道を進もうと誓った仲だった。鵜金の方は一昨年に大きな賞を貰って、作家への第一歩を踏み出したわけだが、菊松の方はからっきし駄目だった。どころか、最近書いているのかさえ、疑わしかった。ただ、頻繁に鵜金の家へやって来ては、あんまり為にならない事をやって帰った。鵜金にとって、今の菊松は質の悪い友人でしかなかった。

「おい!佐川、まだか?」

 菊松も菊松で、年来の経験から鵜金がどんな状況か把握していた。彼が来客を無視し、無礼な返事で追い出そうとする時は、大概執筆に支障をきたしている時だ。菊松は面白おかしそうな顔して、階段へ向かって、おい、おい、と続け様に声をかけた。鵜金はその急かすようなのに無闇に苛々して、頭を抱えた。そうして、もう少し書けそうなきがしたのだが、すっかり頭から離れてしまったので止した。
 気だるそうに下へ降りてゆくと、菊松は皮の三人掛けソファーを大股を開いて存分に使い、煙草に火を点けているところだった。

「よぉ」

 菊松は煙草を一吸いすると、至って暢気な調子で片手を挙げた。鵜金はその様子にうんざりした表情をして、向かいに座った。

「何の用だよ」
「何の用って無愛想だな。友達じゃないか」
「忙しいんだ」
「金を貸してくれ」
「またか、いくらだ?」
「ちょっと入り用でね。五万程欲しい」

 菊松は何でもないかの如くさらりと言ってのけると、煙草をまた一口吸った。鵜金は渋面のまま、呆れたように席を立つと傍らの戸棚に向かい、金庫から五万円を出してバンッと聊か荒々しく彼の前に突きつけた。
 菊松は目の座った顔でニヤリと口の両端を不気味に吊り上げた。そうして、卓上の五万円を素早く懐にしまい込むと、ありがとうと快活な声色を作って礼を言った。

「もう済んだろ? 帰れ!」

 鵜金は、菊松に出ていけと言うような動作をする。『ような』と言うのは、追い出す仕草が社交上存在しないから、鵜金自身が困惑して意味不明な踊りになってしまったのだった。

「随分、機嫌が悪いな。どうした?」
「余計なお世話だ」
「まあ、そう言うな。今日俺がここに来たのも、別に金を借りに来たわけじゃない。然るべき大事な用があって来たのだ」
「大事な用? おまえが?」

 鵜金は思わず、冷笑を浮かべた。菊松は不服な顔をして、

「おいおい、俺もそう金ばかり借りている人間じゃないぞ。今日は一言よろしく言いに来たんだ」
「よろしく?」
「うむ、今度からおまえの原稿を取りに来る奴が変わるだろう? 実はうちの姉なんだよ」

 さすがに鵜金もこれには仰天して、すっかり目を丸くしてしまった。確かに担当が変わるとは聞いていた。それが女性だとも聞いていた。しかしそれが菊松の姉だとは、全く以て世間は狭い。
 菊松は、鵜金の愕然たる姿に大分ご満悦と見えて、口の両端を不気味に吊り上げてニヤリと笑った。

「結婚しているが、なかなか色気のある女だ。それでいて古風だから、きっと佐川も気に入るよ」
「変な言い方するなよ」
「まあ、そういうわけだから、よろしく頼むよ。それじゃ、失敬」

 ペラペラと早口に言い切ってしまうと、菊松は立ち上がりさっさと帰ってしまった。なんだ、姉にかこつけて結局金を借りに来ただけじゃないか。鵜金は巧くしてやられたと言うよりも、その幼稚さに軽侮の念を抱くばかりだった。そうして毎度毎度、堂々としない彼のやり口に憤りともどかしさを感じるのだった。
 菊松と言うのは、欲には無闇に厚かましい割にそれを獲得する手段が非常に姑息な男だった。兎にも角にも、正面から行こうとしない。何か言い訳を用意したり、周りを仲間につけたりするのだ。また更にそれが酷い事に見え透いているから、ある意味惨めだった。彼はこれまで幾度となく鵜金から借金をしている。それの悉くが、何かしらの言い訳やら、おかしな都合を含んだものだった。菊松はたかりに違いない。鵜金は金は返ってはこないだろうと既にある種の納得をしていた。唯、放蕩に使おうが何に使おうが構わない。堂々と正面から嘆願してほしい。それが今の彼のささやかな願いだった。
 二階の書斎へ上がると、石段を降りる菊松の姿が見えた。口笛でも吹いているのだろう。大分陽気な足取りである。やがて、丘の勾配に隠れ、見えなくなった。道の脇の花壇にアキレギアの花が咲いていた。



 雲一つない爽快な青空の昼下がり、静寂を破って、一斉に蝉が鳴き出した。夏の始まりだ。
 鵜金は例の書斎で頭を抱えていた。

「アンスリウムの花…アンスリウムの花…」

 と、呪詛の如くに唱えている。アンスリウムの花とまで書いて、その先が思い浮かばないのだ。
 鵜金は十分程、辛抱強くそうしていたが、やがて深く息を吐いて、窓外を眺めた。蝉が太陽を呼び込んだのか、一段と強い光が差し込んできた。すぐ下の原っぱは真っ白くギラギラ照りかえっている。遥か彼方の水平線には、象のような巨大な貨物船がゆっくりと何処か遠方へと旅立たんとしている。その傍らの海原では、幾つかの小型船が長閑に往来していた。鵜金の家は海沿いの小高い丘の上にある。明治だか大正だかに建てられた家で、元々は何処ぞの御大尽の別荘だったらしい。なんでも、いわく付きとの噂で、ここに住んでいると必ず殺人事件が起こると言う事だった。しかし、鵜金にして見れば、別段家族を呼ぶわけでもなく、友人なんかとっくの昔に交流を絶ってしまったので、どうでも良かった。それよりも、眼下に見渡せる小さな町と広がる大海原の絶景にたまらなく心惹かれた。また、こういう古い家屋が彼の好みだった。ほんの数ヶ月前まで、お婆さんが一人暮らしをしていて、手入れは行き届いていたし、値段も格安だったので、作家になりたての鵜金はちょっと気取ってこの家を借りてみたのだった。
 それにしても、実に良い天気だ。鵜金は眺めながら、ふっと顔をほころばせた。久しぶりに鎌倉まで車でも走らせようかと思った。しかし、思い出してみれば、今日は原稿を取りに来る日だと気付いて止した。菊松の姉とは一体どんな人だろう。色気があると言っていたから、それは器量が良いのだろうか。美しい女が自分の小説を取りに来てくれるなんて、なんだか楽園の沙汰ではないか。鵜金は思いがけず、菊松の姉とのロマンスを妄想していたが、既婚の現実にハッと目を覚まされて、自分をはしたなく思った。いやいや、金にだらしない菊松の姉の事だ。どうせ図太くて、体も太いに違いない。と、鵜金は自分に言い聞かせて、自己嫌悪をごまかした。
 そろそろ原稿を取りに来る時間だ。窓の外を覗いてみた。穏やかな昼下がりの石段があるばかりだった。まあ、いつもの事だ。鵜金は原稿を丁寧に揃えて、机に向かって背筋をきちんと伸ばして待ってみたが、手持ち無沙汰になってアンスリウムの花の続きを考える事に決めた。そうやって二時間程過ごした。しかし、太陽が海に溶け込まんと言う時分になっても、まだ取りに現れない。一体何を考えているんだ。と鵜金もさすがに憤りに堪えなくなって、こんな事なら外出すれば良かったと後悔した。

「やはり、兄弟だな…」
「ったく、女って奴ぁこれだから駄目だ」

 鵜金はブツブツとぼやきながら、乱暴な足取りで階段を下り、玄関へ出た。玄関の木枠の戸からは、黄昏色の光が、綺麗に細長い四角形を地面に作っていた。もう夕方だ。何処にも行けやしない。そんな思いに駆られて、鵜金は険しい表情をした。
 ともあれ、外の空気を吸わないではやりきれない気分になったので、サンダルをつっかけ、ガラガラッと引き戸を開けた。そうして、外に飛び出そうとした足が大きな塊に邪魔されたのに驚いた。人の背中だった。後ろで一つに結った髪がくるりと動いて、こちらを向いた。控えめな感じのする顔立ちの女性が、

「終わりましたか?」

 と、微笑を交えて言った。

「あなたは?」
「あ、すいません! 今日から担当になりました、ツツミ出版の筑波かんなと申します」
「道にでも迷われたんですか?」

 鵜金は皮肉を言った。

「随分と頑張っていらっしゃいましたね。二時間位向かいっきりでしたでしょう?」

 かんなは、微笑みを絶やさず、彼を讃えた。

「え? いつ頃から、いらしてたんです?」
「二時間位前からですよ。伺おうと思ったんですけど、お二階の方から佐川さんが唸っているのが聞こえたので、水を差しちゃ悪いと思って待っていたんです」
「…すると、二時間前からずっとここに?」
「ええ」
「いやいやいやいや、申し訳ない! あれでしたら、勝手に入っていてくださったら良かったのに。まあまあまあ、どうぞどうぞどうぞ!」

 鵜金は狼狽して、しどろもどろな口調で彼女を中へ促した。信じられない思いやりに度肝を抜かれた。またそれを勘繰った狭量な自分自身がとっても愚かしく、恐れ入ってしまった。
 ソファーへかんなを座らせると、鵜金は騒々しい足音をたてて右往左往した。

「麦茶でいいですか?」
「はい」

 鵜金は、盆にグラスを二つ載せて出てきた。そうして、かんなの前へお茶を置くと、

「ああ! 原稿だ!」

 と、今度は二階へ大慌てで駆け上がっていった。その泳ぐような姿が滑稽だったのか、かんなはくすっと笑った。
 かんなは麦茶を一口啜った。部屋は森閑としていた。秒針だけがカチカチと音をたてている。庭から夕陽が差し込んでいた。それはシルクを通したような柔らかさがあって、樹海の木漏れ日のようだった。
 再び二階からドタドタと落ち着かない音が聞こえた。それはだんだん大きくなって、終いに鵜金が息を切らして戻ってきた。

「すいません! これです」

 鵜金はそう言って、原稿の入った封筒を渡した。かんなは受け取ると、中身が入っているのを確認しただけで、すぐ鞄へしまった。

「読まないんですか?」

 鵜金は怪訝な表情をして訊いた。

「はい。大丈夫です」
「本当ですか?」
「ええ。だって、佐川さん元気そうですし。私、作家の顔つきや様子で、だいたいどんな出来具合か解るんです」
「またまた、ご冗談でしょう?」
「いえいえ、本当なんですよ。私、表情に敏感なんです。この間も、擦れ違った近所の人が自殺しそうだなって思っていたら、翌朝首を吊って発見されたりとか、よくあるんです」
「へぇ」
「それに嫌じゃないですか。わざわざ人の家にあがり込んで、重箱の隅をつつくような事をちまちま言うなんて。うんざりでしょう?」
「ああ…はぁ。それは尤もです」

 内容を確認しないなんて、これはまた不思議な人だと鵜金は思った。二時間玄関前で待っていた事と言い、これと言い、何処となく神がかって見えてきた。まあ、読んで一々文句をつけられないのは楽だから、鵜金は簡単に良しとしようと結論づけた。だいたい前の担当が余りにもねちこく言うのに、日頃から不満があったのだ。きっと幸運が巡って来たに違いない。

「それにしても、もう夏ですね」
「そうですね」
「先程は申し訳ない。暑かったでしょう?」

 鵜金は麦茶をぐっと呷った。彼は顔中、先程の冷や汗やら暑さの汗やらで、相当むさ苦しい顔をしていた。
 その我慢大会のような顔を見てかんなは、

「冷たいおしぼりでも持ってきましょうか?」

 と、言った。

「いやいや、平気ですよ」
「麦茶もついできますよ」
「いえいえ…」
「いいですよ。遠慮なさらずに」

 鵜金を押し切ると、かんなはすくっと立ち上がり、機敏に台所へ向かった。
 鵜金は一人取り残され、きょとんとしてしまった。まるで、自分の方が客みたいではないかと、彼は思った。いやいや、何を悠長にやっているのだ。彼女はお客さんだ。

「ああ、いいですよ! いいですよ!」

 鵜金はあわてて台所に駆け込んだ。かんなは丁度麦茶の準備を終えたところだった。

「いえ、いいですよ。休んでてください」
「いいです!僕がやりましょう」
「いいですよ」
「いいです!」
「…一緒にやりましょう」
「…そうですね」

 二人は見合わせて、はにかんだ笑顔を向けた。鵜金は戸棚からクッキーを出した。かんなは手拭いを貰って、水に浸した。

「ありがとう」

 鵜金は手拭いで顔をふくと、じゃあと盆を持っていこうとした。

「待ってください!」
「何です?」
「私が持ちますよ」

 かんなが盆に手をつけた。しかし、鵜金もお客さんに持たせるわけにはいかないと対抗した。

「僕がやりますよ」
「大丈夫です」
「いえ、筑波さんはお客さんじゃありませんか」
「それとこれとは別です」
「別じゃありませんよ」

 鵜金は、盆を手に取って持ち上げようとする。

「なりません!」

 かんなは触れていた一端を引っ張った。盆が傾いた。上のグラスがそのプラスチックの盆を滑り、縁で倒れて鵜金にかかった。

「ああ!ごめんなさい」
「あ…いや」

 ズボンがお漏らしでもしたようになっていた。かんなは、すかさずハンカチを出して、水を吸った部分をポンポンと優しく押し当てた。
 鵜金は突然の出来事に呆然としてしまったのだが、はっと我に返って跪いて必死なかんなの姿を見つけた時、ドキンと心が高鳴るのを感じた。刹那、王様にでもなった心地がした。彼女の優しいタッチは鵜金の太腿を余す所なく刺激している。彼女もさすがに股間の辺りは遠慮したが、程近き場所に来ると、鵜金は非常に官能的にとれて、エロチシズムを覚えた。

「すみません、ハンカチで」

 と、鵜金は半ば妄想の中に身を委ねつつも、もういいですよと理性が彼女の手を押さえた。

「本当にごめんなさい」

 かんなは満面に申し訳ない雰囲気を称えて平謝りした。
 その慎まし気な様子が鵜金は大変気に入った。菊松の古風な感じとはこの事だろう。今では稀有な『日本女性』であった。それから彼らは一時間ばかり談笑した。時間は平気なのかと尋ねたが、何でも専属にされたらしく、これ以上にはないから問題ないと、かんなは笑顔で答えた。ここにも性差別的な面があるのだなと、鵜金は思った。
 かんなは空が真っ暗になった頃、夕飯の支度をしなくちゃと足早に帰っていった。石段を街灯に照らされながら下っていく彼女の華奢な背中を見とれてから、鵜金は、結婚しているんだったと改めて驚いた。改めてとは変な言い回しだが、かんなはそれを感じさせない程、魅力的だったのである。鵜金は口惜しく思った。


 〜ささうちわ〜

 〜みつけたるは〜

 〜高嶺の上〜



 初めての事だった。
 鵜金は、今ひたすら白いマスを埋めている。そうして、かれこれ十時間になる。居間では、かんなが座っている。期日に仕上がらなかったのだ。
 鵜金という男は、今だかつて期日を過ぎた事が無かった。彼自身、約束を破るというのが、どれ程自分の命運に関わるか認識していたからだ。それなのに、遅れたのは何故なのか、鵜金にもよく解らなかった。ただ、近頃は頭がゴチャゴチャして滅入っていたのだけは、確かだった。
 かんなを待たせて四時間、日も落ちて空が青いサルビアのような色になった頃、彼の小説は完成した。

「遅れてすいません!」

 鵜金が居間へ飛び込むと、そこは薄暗い部屋だった。電灯が点いていない。待ちくたびれて帰ってしまったのだろうか。鵜金はそう思いかけたが、ソファーにある人影に吃驚した。

「筑波さん?」
「はい」
「なにをしているんです?」
「虫の音が綺麗ですね」

 かんなは目を閉じて、聞き入っていた。鵜金もつられるように、耳を澄ました。虫の声が囁きかけてくる。その囁きの主は寂しがり屋のようで、聞き入るとアピールするかの如く、更に色んな声が聞こえた。すぐ真横で聞こえた気がして、鵜金は思わず辺りを見渡したが、何もいなかった。鵜金の家の小高い丘は一面畑であった。二人は暫くこの合唱団に恍惚とするのだった。

「これ、原稿です」
「ありがとうございます」

 暫くして、鵜金が声を潜めてかんなに手渡した。かんなはまるで今丁度受け取りに来たかの如く、寸分も嫌な顔をせず受け取った。

「チーズケーキが冷蔵庫にあるんで、後で食べてください」
「え? あ…わざわざ、すいません」

 テーブルを見ると、そこにおはカップと皿が二組揃えてあった。一緒に食べようと用意しておいてくれたのだろう。

「すいません、一緒にどうかと思って準備しておいたのですけど、図々しかったですね」
「いやいや!とんでもない。この前と言い、いつもありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ」

 遅れた自分はなんと馬鹿なんだろう。ああ!こんちくしょう!
 鵜金は心の中で歯痒く思った。また、かんなの親切に感嘆するばかりであった。この人はなんて親切な人だろうか。こういう図太さなら大歓迎だよ。

「それじゃ、今日はこれで…」

 かんなは控えめな笑顔をして、頭を下げた。

「チーズケーキ食べていったら、どうです?」
「夕飯の支度があるので」
「そうですか…」

 鵜金は、答えながら呆然としていた。何が何だかよく解らない。ただ、その視線はかんなの表面へと集中されていた。
 癒される…
 近頃この笑顔を思う度に、鵜金は心が落ち着く気がした。鵜金はこのまま帰ってしまう事がとても寂しいように感じた。この笑顔をもっと見たい。

「それなら、駅まで送っていきますよ」
「平気ですよ」
「いえ、石段とか危ないですし」
「いいですよ。お疲れではないですか」
「いや、待たせたんですから、それ位はさせてください」

 と、鵜金はあれこれ屁理屈を並べた。かんなが絶句して考える素振りをしたので、気持ち悪く思われてしまっただろうかと恐怖したが、彼女は解りましたと、笑顔で承諾した。
 この小さな町の商店街は、もう寝静まっていた。ここの店は五時になると大概閉まってしまう。ただ、商店街入口の門に隣接したチェーンのスーパーだけが煌々と元気に生きていた。町は昼間の熱気に侵されて、何処となくぼやけて見えた。湿り気を帯びた風が頬を撫でた。遠くでスケートボードの叩きつけるような音が木霊した。

「旦那さんは、何をなされているんです?」
「印刷会社です」
「へぇ」
「一応、代取です」
「代取!? 凄いじゃないですか!」
「いえいえ、中小の代取ですから…」
「いや、凄い! だって、社長でしょう?」
「まあ…」
「なろうと思って、なれるもんじゃありませんよ!」

 鵜金が余りに熱弁を振るうので、かんなは苦笑して一礼した。

「旦那さんは、筑波…」

 と、名前を聞こうとして、ふと疑問が過ぎった。筑波はかんなの家の苗字である。結婚したのに、何故筑波なのだろう。デリカシーの無い所業に違いないが、すっかり興に乗った鵜金は、

「どうして、筑波なんです?旦那さんは、婿入りかなんかで?」
「いえ、実はですね…」

 と、かんなは言いかけて淀んだ。鵜金もこの困惑した様子を察知して、ハッと自分が立ち入り過ぎた事に気付いた。重ねるように慌てて、いいですよ、と断った。
 駅へ着くと、電車が停まっていたので、かんなは丁寧にお辞儀をすると、こせこせと改札の中へ消えていった。今日はまるでそよ風のようだった。
 鵜金は花火から帰ってくるような心地を噛み締めながら、街を通り、丘を登った。家へ帰って、貰ったチーズケーキを食べた。レアチーズケーキだった。口の中へ放ると、チーズとレモンの仄かな甘みが広がった。そして、そこはかとなく不器用な味わいに、彼女の家庭的な愛情が滲み出ていた。
 鵜金は小さく切って、大切に大切に食べた。



 夏が蝉を呼び覚ますのではない!
 蝉が夏を呼び覚ますのだ!

 蝉が鳴き始めてから、外は日に日に暑さを増していった。今やすっかり真夏である。太陽がとげとげしい光を発して、大海原の彼方がその光に眩暈を起こして、ユラユラしていた。
 鵜金はそんな猛暑に負けて、潰れた蛙の如くベタとうつ伏せになって、じっとしている。暑くて動くのも物憂かった。このまま、水になってしまいたい。鵜金は自分が溶けていくのを想像した。そして水になり、海で涼しく暮らすのだ。脳みそも溶けてしまえば、もう〆切に追われる事もあるまい。と、都合良く考えてニヤニヤした。
 ところへ、真下から足音が俄かに聞こえた。その音は門前で止むと、

「おい!」

 と、代わりに無遠慮な声が送られてきた。菊松だ。菊松は相変わらず図々しくも、黙ってあがりこみ、居間へ進む。鵜金もそれを心得ているから、別段何を気遣うともなく、そのまま居間へ出た。
 菊松は、ソファーに足を組んでリラックスしていた。彼は、片手を挙げて、やぁと迎えた。これではどちらが家主なのか解らない。

「随分とご無沙汰だったね」
「色々とあってね。こう見えて俺も多忙なんだぞ」
「何の用だ?」
「…相変わらずだな」
「疲れてるんだ」
「今日はかんなの様子を聞きに来た。どうだい?アレは」

 自分の姉の事をアレと呼ぶのか。鵜金はこの態度に抵抗を覚えた。彼の家柄がそうさせたのか、それとも単なる傲慢であろうか。ともあれ、この弟では、かんなもああなるしかないなと、彼女の親切に妙に合点がいった。

「どうって、普通だよ」
「嘘を言え。佐川、あれが好きだろう?」

 菊松はニヤリと下品な笑みを浮かべて訊いた。

「好き!? 何、馬鹿言ってんだ!」
「そんなムキになるなよ。顔に出てるぞ」

 出し抜けに言われて、すっかり持て余した鵜金は閉口した。心なしか、胸が疼いた。実際、最近の鵜金にとって、かんなが癒される存在なのは事実だった。菊松はそういう事には一々鋭い男だった。

「解りやすいな。佐川は」
「別に好きなんかじゃない」
「そんな顔を蛸みたいにして、言われてもなぁ」
「そりゃいきなり好きだろうなんて言われたら、誰だって慌てるじゃないか」
「でも、好きだろう?」
「…まあ、気に入ってはいるよ。親切だしね」

 菊松は唇の両端を不気味に吊り上げて、すっかり御機嫌であった。鵜金は、ノせられたと自分の迂闊さを悔いた。

「からかうなよ」
「しかし、いっその事口説いてみたらどうだ? 案外うまくいくかも知れんぞ」
「馬鹿言うな、人のものじゃないか」
「人のもの?」
「結婚してるんじゃないか」
「いや…あ、知らなかったか?」
「何が?」
「実はな、アレは厳密にはまだ結婚していないんだよ」
「結婚してない?どういう事だ?」

 胸に向かって、鐘つきをしたかのような動悸がした。かと思うと、体中から熱いものが溢れてきた。

「ひと月前位に、アレのフィアンセがうちの親父と喧嘩してね。彼は印刷の小さな会社をやってるんだが、うちの親父がその会社が大きくなるまでは嫁にやらんと無茶苦茶な条件を言ったのさ。アレが来た時も筑波と名乗ったろう?一緒に住んではいるんだが、結婚はまだまだ当分先だな。それにしても、馬鹿な男だよ。貧乏人に金持ち風吹かすんだからな」
「………」
「いっそ、横取りってのはどうだい?」
「いやいや」
「襲ってしまえばいい。作家と編集者の関係なんて、そう珍しい事じゃない。そうすれば、アレも幸せになれるだろうし、新進作家の佐川大先生とあっては、親父も認めざるを得ないだろう」
「何を言ってるんだか…」
「いやいや!おまえなら、大丈夫だろう」
「おだてたって、何も出やしないぞ」

 菊松はその後も調子に乗って、下らない話を続けた。鵜金はどれも生返事だった。よく解らないが、ソワソワして落ち着かなかったのだ。
 菊松はそんな無礼に気分を害した風もなく、天性の図太さで一頻り喋りおおせると満足して、帰るよと言った。

「今日は金はいいのか?」
「おいおい、俺もそこまで貧乏じゃないぞ!」
「じゃ、いいんだな」
「一万でいいよ」

 と、菊松は調子良く言った。鵜金は金庫から、一万円を出して渡した。いつも悪いねと、本当に悪いと思っているのか、いないのか、とりあえずの礼を言うと、じゃあと帰っていった。
 鵜金は菊松を見送ると、書斎へあがった。夕陽が山奥へ沈まんとしていた。最後の残り火ならぬ残り陽を精一杯に発していた。さながら、山頂のマグマが今にも爆発せんと蠢動しているようだった。

2004/07/04(Sun)03:58:07 公開 / 石田壮介
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