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『SHOW ME LOVE 16まで』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:笑子
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SHOW ME LOVE
愛してる、という言葉が魔法のように溶けていく
それにつかりたいと言ったら 何を失うんだろう
それでもあなたを引き止めていたい
私が失ったものは あなたのものになるのだろうか
ボロボロになって 動かなくなって 外に捨てられても
憎しみの先にあるものが欲しい
乗り越えてくれますか?
その先にあるものに
気付いてくれますか?
writtng Rie
all voice Rie
1 ひとつが望まない終わりにも望む終わりにもなっている
理恵は大きなショルダーバッグから財布を取り出し、小銭を出すと山手線の切符を買った。詰め込みすぎたレシートがあふれ出して足元に落ちる。いつもなら拾うところだが今はそんな気になれない。彼女は無地の青いTシャツに白いジーンズを履いている。18歳にしては洒落っ気がないが、それで彼女がいつも大人しい女の子だったわけではない。彼女は北海道では高校時代にバンドを組みそのボーカルを努めていた。
改札口にうまく切符が入らなくて思わずあーっもうっと声を上げる。珍しくそれを後悔する素振りもみせない。
理恵が上京してからまだ1ヶ月。しかし彼女のイライラは最高潮に達していた。
そもそも彼女は東京に一人で来る気などなかった。不幸の始まりは大学受験が終わった三月の中旬。
理恵は東京の私大の合格通知を持って同じ学年の雅也(まさや)がいるクラスに走っていった。二人でこっそり2LDKの部屋を借りようという計画まで立っている。二人の新生活を思うと理恵の頬の筋肉が再び緩んだ。それに気付きはっと顔を引き締める。こんな公共の場でこんなことを考えるなんて……!と彼女は自分を罵った。ステージの上では化粧もして短いスカートもヒールもミュールもキャミソールドレスも着こなす彼女だが普段はそれから想像もつかないほど大人しい。まじめだが成績がいいわけでもなくスポーツが出来るわけでもなく趣味が豊富なわけでもなかった。顔だって特に愛らしいわけでもない普通の、むしろ特徴がないところが特徴、といったある意味めずらしい顔立ちだった。そんな彼女が運よく神に与えられた唯一の特技。それが歌だった。カラオケでちょっとしたヒーローだった理恵が雅也に誘われてバンドに入ったのは高校一年の夏である。2年のボーカルが突然バンドを辞めてしまい、夏のライブの中止に危機に雅也が理恵のことを女友達伝いに聞き、スカウトした。初めて彼女の歌声を聞いたとき、雅也は背筋がぞくりとするのを感じたのだ。甘く繊細な細い声などではない。地を這い聞いた者の体を駆け上るようにして電流のように痺らせる。油断して聞いたら魂を抜き取られそうな声。小さい体からは想像できない太く掠れた全てを魅了させるアルトボイス。アマチュアのレベルではない、と直感した。何でオーディションを受けないのか不思議だった。その質問に彼女は顔を赤くして恥ずかしいし一人でなんて無理……と答えた。そのギャップに雅也は一瞬にして心を奪われた。バンドは二人を含めて女の子は彼女一人の4人で休日を中心に地元北海道を点々としてライブをした。人気もあり、スカウトの声もあったが高校生ということで断っていた。
大学受験が始まり、他のメンバーが北大を目指す中二人は東京の私大を受験した。もともと放任主義の二人の親は高校を卒業したら東京に出て音楽活動をしたいという二人に就職があるから大学に通いながら、という条件で簡単に上京を許した。もちろん、二人が同居しようとしているところまでは知らない。しかし雅也は少し複雑な気分になってきていた。
彼女と付き合ってもう3年近くになる。ボーカルとしての彼女は最高だ。足りないメンバーも彼女の声を聞けばすぐ集まるだろう。しかし、一人の女性としての理恵に雅也は少々飽き始めていた。目立つこと、刺激が大好きな彼にステージから降りているときの彼女はただの平凡で地味な女の子だった。それが耐えられない。しかし音楽活動を続ける上で彼女よりいいボーカルが見つからない以上彼女と別れることにためらいを感じていた。そしてそんな自分を雅也は少し憎んでいた。俺は酷い男だな、と。
そんな二人に別れがくるのは当然だった。
理恵が教室のドアを開け、きょろきょろと中を見回す。雅也の姿を見つけて心の中で微笑む。
「雅也」と理恵は彼に近づいた。「見て、大学……受かったよ」
雅也の手に合格通知を手渡す。雅也の目は戸惑っているようにうつろだった。
「どうしたの?これで一緒に上京できるね」そう言って理恵は優しく微笑む。
顔を傾けたときに揺れる黒く短かめのボブヘアーを雅也は不覚にも綺麗だと思った。最近はそんなこと思ったこともないくせに。別れると決めたせいだろうか。
「……ごめん。俺、行けない」と雅也は言った。
「……え?だって雅也、推薦だったでしょ?」と驚いたように言う。
「……理恵、別れよう。ごめん、俺、もうお前のこと恋人として見れない」 雅也は珍しく俯いて言った。
なんで、とは聞けなかった。突然のことではあったがその兆候は感じていたし、雅也と自分が合わないことも分かっていた。でも、理恵は雅也に恋をしていた。そういう感情は合う合わないとは別物である。理恵は言葉が見つからず俯くしかなかった。かっこよくそう、じゃぁわかれましょう、と切り出すこともできない。するとクラスの女子が近づいてきた。茶色いブリーチの丹念な髪に濃い化粧はいかにもギャルっぽい。
「雅也、おめでとう!新しいメンバー、見つかったんだって?」
雅也ははっとしたように顔をあげ、理恵は口を押さえた。
「これで東京行ってもバンドできるじゃーん、ってあれ? 理恵知らないの?」
「……知らなかった」と理恵は搾り出すようにやっとそう声に出す。
「そおかー、でも、しょうがないんじゃん? あーいうのって実力が第一でしょ?」と理恵の歌を聞いたことが無い彼女は平然と言う。
雅也の顔が苦悶にゆがんだ。
「……おめでとう……がんばってね」そう言ったのは理恵だった。
びっくりした雅也が顔を上げる。理恵の目からは大粒の涙が幾筋も流れていた。彼女の涙を見たのは初めてだった。それだけで自分は許されない罪を犯した、と思う。
もう一度すまない、と言いたかったが血が上って声が出なかった。理恵は袖で目を隠しながら教室の外に飛び出していった。
それからまだ2ヶ月。カレンダーが5月になり理恵は一人大学に通っていたが酒も飲めず地味な彼女はまだ友達もできていなかった。
あの時、先輩に誘われたとき飲みに行けばよかった、と思い出した後、いや行っても詰まんない奴だと思われてそれで終わりだ、と思い直す。
電車の中でつり革につかまっている間、理恵はいつもいろんなことを考える。無口な理恵は一日の大半をボーっとするか、空想にふけるか考え事で過ごした。ガタン、ゴトンと車両が揺れるたびに理恵の体も左右に揺れた。つり革につかまっている安心感からか脱帽感からか足に力が入らない。理恵は東京に来てから一度も歌わなかった。口ずさみもしない。
昔は歌うことが楽しかったのに……。すぐに昔、という言葉を使った自分にお前ももう年だね、と語りかけた。
バイトをするために新宿駅で下車する。時刻はまだ夕方の6:00分ジャストである。バイトまではまだ2時間近くあった。買い物でもしようか、と思い理恵は駅ビルに近づく。駅ビルの前のロータリーでは若者のストリートミュージシャンが今流行の歌手の歌を歌っていた。理恵は足を止める。その歌が終わり、聞いていた通行人と観客が拍手を送る。ありがとー、次はオリジナルいきまーす、と言い彼らが歌いだすと今度は魅力が無いのか人だかりはすぐに消えた。こういうことに理恵は同情するほうだった。なんとなく立ち去ることが出来ずにそこで演奏を聞いていた。あんまり上手ではなかった。遠慮がちにそこを立ち去り、あてもなく繁華街を歩く。札幌も夜はイルミネーションが綺麗だがここまでじゃない。これを二人で見れたら感動しただろうに、と思った。切なさに似た口惜しさが胸をよぎる。ふと建物から生歌声が聞こえて理恵はその方向へ眼をやった。
『Distance』と描かれた看板が目に入る。パブだろうか。濃い色のレンガ造りのレトロな感じに好感が持てた。窓から覗くと小さなステージに赤いロングドレスを着た女の人がいて歌っている。綺麗な声だった。私も歌いたい、と理恵は久しぶりに思った。
「お客さんかい?」と突然声をかけられ、慌てて理恵は振り返る。
白髪が目立つが優しそうなお爺さんだった。緑色のエプロンを着てエプロンには『Distance』と描かれている。この店の店員に違いない。
「いえ……歌を、聞いていただけです」と言って理恵は逃げようとした。
「ほぉ、中で聴くかい?」
「いえ……ちょっと興味があっただけですから……」
「歌に興味が? お嬢さんも歌ってみるかい? 遠慮はいらんよ、自信があればな……」と言ってお爺さんは笑った。
歌には自信があった。でも、一人で歌ったことなんてない。
「心配いらんよ。ほれ、入りなさい」お爺さんはドアを開けて先に中に入った。チリンチリンとベルの音がする。理恵はしばらく迷った結果、恐る恐る店の中に足を踏み入れた。
パブに入るのは初めてだった。客は10人くらいだろうか。部屋が広めなので空いてるように見える。客は歌手を見たり酒を飲んだり話していたりと思い思いだった。少なくとも歌を真剣に聞いている人はいなさそうだ。もったいない、と理恵は思った。
生暖かい空気に理恵は居心地の悪さを感じた。顔をしかめて上着を脱ぐ。
「すぐに慣れるよ」お爺さんはそう言うと店の奥へ手招きした。
奥の扉を開けるとそこはレトロな雰囲気とは一変して普通の、むしろボロイ化粧室だった。パウダーと化粧水の匂いがぷーんと鼻を突く。臭い、と思った。中には緑の短いキャミソールドレスを着た女の人が椅子に座って化粧をしていた。丸見えの足を組んでいるせいで目のやり場に困った。化粧もかなり濃い。
「じゃ、好きなドレスに着替えてね。評判がよければ後でバイト代もあげるよ」と言うとお爺さんは扉を閉めた。
理恵は途端に心細くなる。ちらっと女の人の様子を伺ってみる。一瞬目が合ったがすぐに逸らされた。理恵は小さくため息をついてショルダーバックを近くの椅子の横に置き、そこに座る。ハンガーに掛けてあるたくさんの衣装をちらっと見た。露出の少ない服はなさそうだ。このまま歌うほうがいいな、と思った。
ドアが開けられ先ほどの赤いドレスの女の人が入ってきた。それを見て緑の女の人が部屋を出て行く。理恵はぺこりと頭を下げた。
「こんばんは。新人さん? 」と女の人は理恵を見て言った。
「いえ、あの、一回だけ歌わせてもらうんです」理恵はドキドキしながら答えた。
女の人は長い髪をゴムで結わえるとドレスを脱いで自分のカバンの中から私服を取り出した。
「そうなの。がんばってね。で、そろそろ準備したほうがいいと思うんだけど? 」彼女はハンガーのあるほうを顎で指した。
理恵は顔をしかめた。
「恥ずかしいなんて思っちゃ駄目よ。これくらい、大したことないんだから。下着で歌うわけじゃないし」と女の人は笑った。理恵は顔を赤らめた。
「着替えて。化粧もしてあげるわ」黄色のワンピースに着替え終わると彼女はパウダーを手に取った。
なるべく露出の少ない薄い上着にオレンジのキャミソールドレスを着て鏡の前に座ると女の人が理恵の顎を掴んで乳液をつけ始めた。
「あの……私、濃い化粧はちょっと……」
「大丈夫。あなた若いんだからそんな濃くしないわよ」と彼女は鏡の向こうの理恵を見て微笑んだ。
綺麗な女性だった。ただ濃いパウダーと真っ赤なルージュがいやらしく見えて理恵は俯いた。俯かないの、と言って彼女が顎を上げさせる。
「あの、私、高木理恵と言います」他に言うことがなかった。
「理恵ちゃん? かわいい名前ね。私はリデルよ。よろしくね」と彼女は微笑んだ。
「リデル?」本名なわけがない。ずるい。私は本名言ったのに……。それともこういう所はそれが常識なの?
「ふふ……。本名はねぇ、親しい人にしか教えないのよ。ここに通うようになったら教えてあげてもいいわよ」
もうこないよ、たぶん、と思った。
「あなた、化粧すると変わるわねぇ」リデルが驚きの声を上げた。
理恵は恥ずかしくて俯いた。化粧はリデルほどでないにしろやっぱり濃かった。理恵の唇にも赤いルージュが塗られている。綺麗というよりこれじゃ別人だ。
「色っぽいわよぉ、あなた」耳元で囁かれる。
耳まで赤くなるのが鏡でわかる。こんな思いをするのがわかっていたらこなかった。
緑のドレスを着た人が戻ってくる。理恵は待ってましたとばかりに部屋を出る。歌えることより彼女から離れられるほうがうれしかった。
ステージに続く裏通路でお爺さんが待っていた。
「おや……変わるもんだねぇ……」とお爺さんが目を大きくして言った。
「リデルさんに、やってもらったんです」望んでなかったのに、と言おうとしてやめた。
「さ、どうぞ。お嬢さんのステージだ。好きに歌ってくれ。曲は?レパートリーは広いよ」
「Mr GodsのHenlyありますか? 」
理恵は震える手を押さえながら言った。緊張している証拠である。
「あるよ。バックに伝えとく。おい、大丈夫かい?」お爺さんが心配して聞いた。
「……平気です。いつもこうなんです」と言って理恵はステージに出た。
―――大丈夫。忘れてないこの呼吸。歌える。
理恵は歌うときにする呼吸パターンがあった。それで調子が分かる。今日は調子のいいほうだ。歌うだけだ。そう思うと理恵の心は落ち着いた。まるで別の人格のRieが顔を出したように震えが止まり緊張もなくなる。雅也もこの変わりようにはいつも驚いていた。まるで君の中にもう一人スターがいるみたいだよ、と。それは誤りである。理恵の人格の多くはRieにかたむいている。いわばRieは理恵という土壌に咲く花なのだ。この歌うときの開放感のために理恵は日ごろどんなに頭にくることがあっても耐えている。本人はそれと知らず本能的に。
2 壊れた理性はもう一つの自分であるかもしれない
理恵はステージ上から客席を見た。誰もこっちを見ていない。それは逆に理恵をリラックスさせた。カンカンカン、とドラムが鳴り、バックの演奏がスタートする。バンドの時よりもよっぽど上手だった。足でリズムを取る。心臓が高鳴る。歌うだけ。私の魂の叫びを聞かせるだけ。いつもと違う空気の吸いかた。腹の底から上半身全てを使い、喉に全神経を集中させる。理恵はマイクを口元に運んだ。
「Well I see your breath」と彼女は歌い始めた。
低いアルトボイス。何人かがはっとして顔を上げた。
「I just need to know how to breathe I see you how to know that
I tried to say Things that I cannot undo though you say more cool
I just want to cry in front of you I just i just 」
理恵は英語は得意ではなかったが歌うのは得意だった。低い絡みつく声は日本語よりも英語のほうが雰囲気が出やすい。掠れた声は高音で溶けるように消えてなくなる。消えてなくなってはまた低い声から紡ぎなおす。理恵だけの声のタペストリー。誰が18歳の娘が歌っていると思うだろうか。いつしか客全員が顔を挙げ一人の少女に釘付けになっていた。
曲が終わるとその店に久しぶりに拍手が沸き起こった。アンコール、と言う声も聞こえた。しかし理恵は一度に同じ曲は歌わない。後ろを振り向きバックにThank you と言って下がってもらうと再びマイクを口に当てた。
「これは私のオリジナルの曲です。Way of love you ……聞いてください」
完全に内気な理恵は姿をくらましていた。歌える喜びだけが感覚を神経を支配する。
「遠く離れたカウンター……」最初から理恵はできるだけ低い声をしぼりだす。
徐々に高く上げていく過程が好きだった。その時、ベルの鳴る音がしてまず数人の男達が入ってきた。部屋の端だがステージが良く見える位置に腰を下ろす。そのあと4,5人のグループがまた入ってきた。あまりガラはよろしくない。歌い始めた理恵にはもはや関係の無いことではあったが。それに気づいたお爺さんが焦ったようにテーブルに向かって行った。
「こ……困ります……! 予約もなしにこられては……! 」とお爺さんはグループの一人に言った。
こういう場合、一番偉い奴には言わない。二番目か三番目の奴に文句を言うものである。お爺さんも例外ではなかった。
「ふん、ここはもともと予約なんて取る店じゃないだろうがっ」
答えた男は趣味の悪い紫色のスーツに黒い花柄のネクタイを締めていた。
「ですが……お客様の場合はいつも……! 」
「なんじゃい!ヤクザは予約なしじゃ酒も飲めんのかぁっ!? 」
オレンジのスーツを着たチリ毛の男が叫んだ。
びくりとお爺さんが震える。
「うるさい。騒ぐなら出て行け」
低いどすの聞いた声が瞬時に理恵以外の全ての者を黙らせる。それはその男が「一番偉い奴」であることを指していた。
「すまない。事情があって今日行く予定の店をキャンセルした。ここで静かに飲ませてくれ」と男は言った。
「そ……そういうことでしたら……」とお爺さんも引き下がる。
有無を言わせない迫力、凄みがそこにあった。男は静かに理恵の声に耳を傾けた。
他の組員達もようやく理恵に気付き驚いたようにその歌を聞き始めた。気付いていないのは理恵だけだった。
「そこに座ってカクテルを飲むあなた どこか寂しげな顔で
何を考えているのか気になって 熱い視線に気が付いた
必死に私に耳を傾けてくれている 気付いている?
いつかあなたのために歌を歌うようになったことを あなたの心に
届いていますか?」
雅也と二人で作った歌だった。理恵は雅也を思い出しながら歌った。歌い終わるとなぜかやっと終わった、という感じがした。
客の一人が理恵にどこから用意したのか花束を渡そうと近寄って来る。理恵は戸惑ったがお爺さんの頷く様子を見てぎこちなく笑って受け取った。こういうのはうれしいけど苦手だ。理恵はさっさと化粧室に戻って着替えたかった。が、お爺さんがステージから客席のほうに呼んだので断れずに従った。
「いやぁ、上手いもんだねぇ。感心したよ。特にその声」とお爺さんが興奮したように顔を赤くして言った。
「ここで働いてみないかい?」
「絶対もう遠慮します」と理恵は言った。もう涙目だ。
「ん? どうしたんだい?」お爺さんは突然のことに驚いた。
「だって……私、パブ初めてで……こんな服着て化粧して花束もらって……何が何だか……」理恵は目をこする。目が真っ赤だ。
「歌ってるときはそんな素振りなかったのに……まぁ」とお爺さんは言って笑った。
「まぁ、今日はありがとう。ちょっと待って、お礼のバイト代持ってくるから……」と言ってお爺さんは奥に行ってしまった。
理恵は着替えたかったが着替えてる最中に入られると嫌なのでカウンターに腰掛けて待つことにした。客ももう理恵には見向きもせずに酒を飲み始めている。なかなかさっぱりとしたものである。
理恵は何となく周りを見渡した。
そのとき、黙って待っていたら。部屋で着替えていたら。彼女の人生はまったく別なものになっていただろう。しかし彼女はあたりを見回した。運命には、逆らえない。
カウンターの奥で一人酒を飲む男に目が留まる。かっこいい、と素直にそう思った。背は180をゆうに越えているだろう。少し長めの前髪が右に流されていた。スーツがとても似合っている。サラリーマンというよりはビジネスマンと言ったほうが絶対ぴったりとくる。年は二十代半ばといったところか。彼は私の歌を聞いただろうか……。ドキドキしながらそんなことを考える。男が理恵の視線に気が付いた。軽く指で椅子をさす。『隣に座れ』だとわかった。理恵はためらった。男はまた前を向いて理恵などおかまいなしに酒を飲む。
理恵はしばらく考えた後ただ好奇心だけで男の隣に座った。
男は別段何も話さない。マイペースに酒を飲むだけである。理恵はその間に大いに戸惑った。呼んだのなら責任を持って話題を作ってくれないと困る。理恵はそれが大の苦手だった。
「いくつ」と男が前触れも無く理恵を見ずに言った。
理恵は思わずえ? と聞き返してしまった。男は同じことを繰り返しは言わないようだ。
―――年のこと、だよね?
「20です」理恵はうそを言った。
「まだガキだな」と男はやはり理恵を見ずに言った。
折角さばを読んで成人の年齢にしたのに心外である。この時、20、と嘘の年齢を言ったことが少し理恵を大胆にさせていた。
「20、って言ったらもう大人です。ガキじゃありません」理恵は少し微笑んだ。
化粧をしているせいで本人は気付いてないがその笑顔は色っぽいものとなった。
男はやっと理恵のほうを向くと意地悪く微笑んだ。ぞくっとするような笑顔だった。
どこかで理恵の赤信号が点滅する。この男は危険だ、と。しかし理恵は信号を無視した。
それぐらい、この男の微笑みは魅力的だった。
「どこの歌手だ?」
男はグイと飲んでグラスを空にする。すぐに若いバーテンが来て酒を注ぎ足した。
やはり聞いてたんだ、と理恵は思った。歌手、と言われたこともうれしかった。
「アマチュアです。デビューはしてません」
理恵は喉が渇いたがこの男の前でお茶を頼むのは嫌だったので我慢することにした。
「ほう……それは……意外だな……」と男は肩方の眉を少しだけ上げた。
これだけではポーカーフェイスなのか興味がないのか判断がつかない。理恵はその言葉にますますうれしくなった。
「飲まないのか?」と男が言う。
すでに理恵が見てるだけでも3杯目のグラスを顔色一つ変えずに飲んでいる。
酒は飲んだことはない。が、遺伝的に言っても彼女は下戸なはずだ。
「……それは……遠慮しておきます……」賢明な判断だった。
「飲んだことがないのか?」と男は明らかに馬鹿にしたように言った。
20、と嘘をついた理恵の意地が膨れ上がる。
「お酒くらい……飲んだことあります」言ったそばから嫌な予感がした。
男は無言で微笑みながら自分のグラスを理恵によこす。『飲んで見ろ』と。理恵は目の前に差し出されたウィスキーをじっと見つめる。後にはひけない。いや、退くべきだったのか。
理恵はグラスを両手に掴み、一口含んだ。男が好奇の視線を向けている。かっと理恵の頭にアルコールが走った。濃いっ!と思う。刹那、理恵はグラスを傾け残りの全てを流し込んだ。ボウッと体中が火がついたように熱くなる。理恵の顔が一気に真っ赤になった。
とっくに赤信号は通り過ぎている。どろどろとしたマグマが体中をせり上がって来る。
ゴンッという音を立て理恵は乱暴にグラスを置いた。いや彼女は丁寧に置いたつもりなのだがすでにそこまで神経が行き届いていない、というのが正確な表現であろう。
「初めてのくせに無理をしすぎたな」と男が言った。
心なしか優しく微笑んでいるように理恵には見えた。初めてじゃないって、と言ったが言葉にならなかった。もわっとして思考が働かない。
―――やばい……。頭……すっきりさせなきゃ……。
理恵は立ち上がろうとしたが手に力が入らなかった。
隣で男がタバコに火をつける。葉っぱの焼けた匂いがぼんやりと頭に届く。理恵はこの酔いを醒ましてくれる全ての刺激に頼りたかった。おぼろげにタバコを見つめる。
それに気付いた男は一瞬顔を背けて確かに笑うと理恵に向き直り理恵の口にタバコを運んだ。
「大きく、深く、吸い込め」と男が言う。
理恵は男の言うとおりに深く息を吸うように初めてタバコを吸い込んだ。すうっとした感覚が理恵の体中に広がる。酔い、醒めるかも、と一瞬思った。そして次の瞬間、理恵の意識は100%煙に覆われ、理恵は完全にブラック・アウトした。
3 出会いというものほどいい加減で絶対的なものはない
理恵は意識がはっきりしないほど酔ってはいたが、記憶はあった。隣に座っていた男が理恵を抱え上げ、店を出て行く。お爺さんはびっくりしたように彼をとめたがすぐに諦めたようだった。後ろに数人の男が続く。理恵が今まで見た中で一番人相の悪い人たちだった。店の外には総理大臣が乗るのではないかと思うほど立派なベンツが停めてあって、それに乗せられる。理恵はぼんやりと男の方を見た。男は今までに見せなかった優しい笑みを彼女に向けると、車を出せ、と運転手に命令した。車がゆっくりと静かなエンジン音で走り出す。そこまでが限界。今度は猛烈な眠気に襲われ理恵は重いまぶたを閉じた。
目が覚めたときはまだ夜だった。理恵は思い体を起こす。ズキン、と頭が激しく痛んだ。顔をしかめながら前に自分が何をしていたか思い出そうとする。
ここはどこ? が最初に沸き起こった疑問。その謎は今は解けそうになかった。映画でしか見たことがないような大きなベッドに理恵は居た。50インチはありそうな液晶TVの横にはワインセラーがある。
ホテル? と思った。ベッドの横の黒いテーブルにはグラスが一つと何か飲み物が入っていると思われるポットが置いてある。理恵はポットの蓋を開けまず匂いをかいだ。ただの水のようだ。すぐにグラスに注ぎ、グビリと飲み干す。相変わらず頭痛はしたが生き返った気分だった。だんだんと今日のことを思い出せるようになる。
―――そうだった……。あの男の人に車に乗せられて……ここはホテル?
理恵ははっとして自分の服装を見た。歌っていた時と同じ衣装を着ている。少しほっとした。テーブルの下には親切にも理恵のバッグが置いてあった。中を覗き込む。
―――私の服がない……。
理恵は小さく舌打ちした。
どうやらあの男とホテルに来てしまったらしい。そんな経験は初めてだったがすべきことは分かっていた。幸いにもまだヤッてはない、はずだ。男の居ない隙にホテルを出るのだ。このままここにいたら明らかにやばい。保守的な理恵はあの男を魅力的だとは思ったがこんなシチュエーションを望んではいなかった。
バッグを掴み、ドアのノブを回す。ガチャリ、と音がしてドアが開いた。ドアからこっそり顔を出し、理恵の表情はそのまま凍りつく。
ドアのすぐ横に大きな男が立ってこっちを見ている、むしろ睨みつけていたからだ。しかも赤いラメの入ったTシャツを着ていていかにもヤバソウな雰囲気を出している。理恵は慌ててバタンとドアを閉めた。
―――なんで……私をつけてきた? 出てくるのを待って?
一瞬理恵はこれから部屋にくるであろう男を心配した。いや、でもここはホテルだ。かけだしてロビーに向かうか大声で騒げば誰か助けてくれるかもしれない。第一、この部屋に居て男が部屋に入ってきたらそれはそれで理恵には大きな危険があるではないか。
5分くらい経っただろうか、理恵は決意を固めてドアを開けた。周りには目もくれずそのまま駆け出そうとする。すぐに太い腕が理恵の腕を掴んだ。
「いや! 放して! 誰か助けて!」理恵は叫び、大男を睨みつけた。
大男はその大声に焦る様子もなく理恵に向かって言った。
「叫んだところでムダだ。大人しく部屋の中にいろ」
後半は理恵には理解不能だった。なぜ? 部屋の中にいろ?
「いや! 私帰りたいの! 放して!」
力いっぱい暴れても腕は振りほどけない。
「それには組長の許可がいる。組長が来るまでここにいるんだな」
男はドアを開け、飛び出してきたばかりの部屋に再び理恵を放り込み、外からドアを閉めた。
組長? 一人部屋の中でその言葉が何回も反復する。
―――組長って誰のこと?
理解できない。そんな知り合いはいない。組員だっていない。あまり回転の速くない理恵の頭でも一つの考えにたどり着くのにそれほど時間はかからなかった。あの男しかいない。理恵の顔が蒼白になる。あぁ、信じられない。何て男と酒を飲んでしまったのか。
理恵は窓に駆け寄り、カーテンを開けた。そして再び愕然とする。目に飛び込んできたのはまるで高級旅館のような竹林と池。階下に見下ろせる棟は多くが和のテイストでいくつかの開け放たれた部屋からは酔って酒を酌み交わす男たちと芸者が見える。渡りを歩く男達もいた。スーツを着ているものも居たが、そろいもそろってみんな明らかに普通には見えなかった。組長と聞いたあの言葉と全てがリンクする。
―――ここは……ホテルじゃない、あの男の、屋敷だ!
膝が小刻みに震えた。悪の巣窟に入ってしまった気分だった。理恵は急いでバッグを開けた。
「携帯が、ない」
やられた。警察に助けを求めることも出来ない。理恵は意味も無く部屋の中をウロウロした。絶望するにはまだ早い。部屋に男が入ってきたら、泣いてでも外に出してもらうように頼んで、それで外に出してくれるだろうか。 あの男にとって遊びに決まっている。もし抱きたいのならあの棟にいる綺麗な芸者さんを抱けばいいではないか。その提案を思いつき少し理恵は落ちついた。
改めて部屋の中を見回すと、どう見てもこの部屋は洋室だった。あの男の好みだろうか。部屋はすっきりしている、というより物がなさすぎて生活感が無い。ホテルの一室と誤解してしまうのも無理は無かった。
理恵はベッドの奥に飾ってる日本刀に手を触れた。これだけが和風だが無性にこの部屋に合っている。あの男がこれを握るのであろうか。それを想像して似合いそうだ、と不謹慎にも微笑む。理恵はそれを手に取り、どきどきしながら鞘を抜こうとした。そして一瞬、息が止まる。刀身の根元には血のりがついていた。ふき取られた跡もあるが恐らく気づかなかったのだろう。
―――これで……人を斬った!?
がくがくと手が震える。
「勝手に人の持ち物に触るな」
突然のあの低い声に思わず理恵は小さな悲鳴を上げた。
4 体と思考というものが存在する限り、全てを奪うということは不可能なのです
男は部屋の入り口にいた。ドアの外に居た男に何か言ったが理恵には聞き取れなかった。ガチャンと音がしてドアが閉まる。二人の目が合う。理恵はすぐに逸らした。男はスーツの上着を脱いでベッドに放ると椅子に腰かけネクタイを緩めた。
「あの……」と下を見ながら理恵が発言した。
我ながら何て気弱な声なんだろう、と思う。
男はそれに答えず立ち上がるとワインセラーに歩いて行き、ボトルを一本手に取りグラスに注いだ。また飲むのか、と理恵は思った。
「私……、帰りたいんですけど……」様子を伺いながら要件を告げる。
男は早くもグラスを空にしそうだった。ポーカーフェイスの表情からは何も読み取れない。
―――怒っては……いない?
「できれば……今すぐ……」言いながら日本刀を握る手が少し震える。
それでどうにかできるわけもないのだが。
言うだけ言うと理恵はじっと男を見つめた。理恵にとってこんな緊張感は生まれて初めてだった。男は空になったグラスを机に置いた。カタン、という音が響き理恵の肩がびくっと震える。男はそれを小さく笑い、理恵のほうに近づいてくる。
「な……何……!?」理恵は後ずさった。
背中が窓にぶつかる。
男が理恵の顔を覗き込む。車の中で見せた優しさなど微塵も無い、挑発的な目だった。
「お前を飼うことにした」やっとでた男の最初の発言だった。
―――は? 何それ? 理恵はすぐに理解できない。
飼う、という言葉がまるで犬でも拾ってきたかのようだ。
「法的に……無理があります」理恵の発言にも無理がある。
「法? まだ状況がわかってないのか?」
男は笑うと理恵の顎を掴み、もう片方の手で理恵が閉めたカーテンを開け、顔を窓の外に向かせた。
もう真夜中なのに階下のたくさんの部屋には明かりがついていて、渡り廊下を何人もの芸者と酒に酔った男たちが行き交っていた。みんな、やくざだ。
「ここで法が通用すると思うか?」これは質問じゃない。
「でも……」
私は帰りたいと言いかけて理恵は口を塞がれた。
貪るようなキスに理恵は恐怖感しか感じなかった。日本刀がゴトリと落ちる。息が苦しくなりベッドに倒れこむ。それがわかると理恵は危機意識から暴れだした。男が理恵の両手を片手で押さえつける。口元には余裕の笑み。 理恵の目から大粒の涙が零れ落ちた。
「泣くと化粧が落ちて醜くなる」男は悪びれもせず言った。
そのセリフが頭にきて理恵は一層暴れだした。
「やだ! 放して! 絶対いや!」
「お前が嫌かどうかなんて関係ない」
そう言うと男は理恵の手首を掴む手に力を入れた。
理恵が顔をしかめる。それを見て男が微笑むのが理恵には理解できない。 腕からは痺れるような痛みを感じた。男は手を放すと今度は両手で理恵の首をしめた。ひんやりとした長い指が首に絡みつき理恵はびくっと体を震わせた。理恵の顔が苦痛に歪む。
「お前の苦しそうな顔を見てると殺してやりたくなる」男は楽しそうに笑った。
本当に殺される、と理恵は思った。
一瞬、男は自分の少年時代を思い出す。なぜだかわからなかった。あの日、男が初めて心から可愛がった子犬。少し理恵に似ていたのかもしれない。そんなことはもう28歳になった男には関係のない、ただの思い出のはずだった。
男が理恵のキャミソールに手を掛けたとき、理恵は失神前の最後の悲鳴をあげた。しかしその悲鳴は元凶である男の耳にしか届かなかった。
悪夢のような夜を過ごした後、理恵は男の部屋のベッドの上で朝を迎えた。目を覚まして部屋を見渡すと誰もいないようだった。ほっとして上半身を起こす。ズキンと手首が痛んだ。両手首を見るとあざになっている。それだけじゃない。足首にも太ももにも、腹にも腕にも、体中にあざがあった。理恵の脳裏に昨日の情事がまざまざと蘇る。あの男が着せたのか理恵はパジャマを着ていた。何のために? 理恵は震えながら立ち上がり、体中の痛みを感じながらクローゼットの全身ミラーを見た。首には絞められたときについた指の痕がくっきりとあった。理恵の顔が蒼白になる。
―――殺される……!
理恵は急いでバッグを引っ掴み、逃げようと思った。しかし水音が理恵の足を止める。
浴室でシャワーの音がしている。男が使っているのだろうか。理恵の体は汗でべとべとしていた。
理恵は逃げるのを諦めてベッドに腰かけた。一度抱いた女はすぐに飽きられる。そんな一般論を信じていた理恵はもしかしたら家に帰してくれるのではないか、と期待していた。
浴室から白いバスローブ姿で出てきたのはやはりあの男だった。濡れた髪からは雫が滴りそうだ。
理恵は男をじっと見つめた。
「なんだ? 風呂なら勝手に入ればいい」男は理恵の視線をうざそうに言った。
男はクローゼットから高そうなスーツを出すと、着替え始める。理恵は慌てて視線をずらそう、と思ったが今更なのでやめた。
コンコン、とドアがノックされる。男が返事をすると40代だと思われる男が食事を運んできた。この男もスーツを着ていた。この人はあまりやくざっぽくないな、と理恵は思う。今まで理恵が見たやくざは組長を含めみんな眼光がするどい人たちばかりだった。特に組長の眼光はその比ではない、と理恵は認識している。それに比べて目の前のこの人は、なんというか幼稚園の先生でもしてそうな雰囲気である。その男は組長に挨拶をするとテーブルの上に食事を広げた。卵・ツナサンドにコーンサラダ、コーヒーのいい香りが部屋に広がる。
「竜一(りゅういち)さん。昨日、禅ノ屋の会合、すっぽかしましたね? 」
組長にコーヒーを入れながら男が言った。竜一とは組長の名前のようだ。ずいぶん親しそうである。男は理恵にも話しかけた。
「理恵さん。あなたも召し上がってください。あ……、もしかして和食のほうが良かったですか? 」
理恵はびっくりして顔を上げた。
「何で……私の名前……!? 」
「何でって……」男は困ったような顔をした。
「お前の定期と学生手帳を調べた」
竜一と呼ばれた男が淡々と言う。
理恵は絶句する。あれには東京の住所も北海道の実家の住所も全部書いてある。理恵のすべてがこの男に知られたのだ。
「驚くことじゃないだろう。いいから座れ」命令口調で竜一は言う。
理恵は俯きながら椅子に座った。堪えきれずに涙が滴り落ちる。男が心配そうに理恵を見ていた。
「早く食え」
竜一はそう言うと理恵を無視して朝食を済ませた。
結局椅子には座ったものの、ショックのあまり理恵はほとんど食べることができなかった。
竜一は自分の食事を済ますとすぐに部屋を出ようとした。理恵は慌てて竜一の腕を掴む。
「何だ? 」明らかに不機嫌な声だった。
「……私、大学があるの」理恵も必死だった。
「M大学だろ。昨日退学届けを出させた」
理恵は絶句する。
「放せ。会合に遅れる」
竜一は呆然とする理恵の手を剥がし部屋を出た。
理恵はへなへなとその場に座り込む。瞳から涙が次から次へと零れ落ちた。
「人でなしぃ! 」生まれて初めて理恵は人を罵る言葉を吐いた。
食事を運んできた男は、しばらく心配そうな目で理恵を見ていたが、ため息をつくと食器をかたして部屋を出て行った。部屋を出て行くとき、
「コーヒー、いつでも飲めるようにしておきますから、飲んでくださいね」 と声をかけたが理恵の耳には入っていないようだった。
誰も居なくなると理恵はこぶしで床を叩いた。フローリングは柔らかく、力いっぱい叩いてもあまり痛くなかった。昨日、あのパブに入ったことが悔やまれる。パブで歌ったことが悔やまれる。あの男の隣に座ったことが悔やまれる。
全てあの男に奪われた、と理恵は思った。またあの男に抱かれるくらいならいっそ……。
そう思い理恵はキッチンに向かった。引き出しを全部開けたが予期していたのか刃物類は一切なかった。それどころかフォークもナイフもない。コーヒーについてきたスプーンがあるだけだった。
「自由を奪われた鳥は……」と理恵は呟くように静かに歌った。雅也が理恵に作ってくれた歌だった。
「最後はその窓から飛び立つのでしょう……」理恵は部屋の窓に手をかける。
窓はオートロックで閉まっていた。
5 全てが君に近くなる
「……と、いうわけで、今回は七瀬組に担当を任す、ということで、みなさん異存はありませんか? 」
と白虎組代表兼会議の司会役の田中 宝生(ほうせい)が言った。全員が組長の方を見る。
「異存はない」竜一は低い声で言った。
会議室中に安堵したような空気が流れる。白竜会(はくりゅうかい)は本家の白竜会、そして分家の白虎組(しらこぐみ)、七瀬組(ななせぐみ)、鈴城組(すずしろぐみ)、恩寺組(おんじぐみ)からなり、分家にはまたその下に子分家で小さい組がいくつかついている形で構成されている。そのトップである白竜会組長の名が白川 竜一。他の組との抗争で亡くなった二代目の父のあとを継ぎ25歳で組長の座につき、わずか3年の間に全ての組員にその威厳を示し、揺ぎ無い忠誠を得ている。白竜会といえば関東で1・2位を争うやくざ組織である。昔はかなり危ないこともしていたらしいが、2代目の意向で今は薬はやらずに銃の密造だけしている。完全な武闘派組織である。とはいえ、銃の密造だけではここまで大きくはなれない。当然大手の株式会社、造船会社ともいくつもの繋がりがある。
朝の会合が終わると一息つく暇も無く竜一は外に出かける。取引中の株式会社との接待の時間が迫っていた。
車の中で竜一は先方の出してきた資料に目を通していた。今日は碓氷 聡(うすいさとし)の他に取引をこじつけた田中 宝生も同伴している。碓氷とは朝、部屋に朝食を運びに来た男である。碓氷は竜一のただ一人のボディー・ガードだ。
「理恵さん、聖妻にするつもりですか?」碓氷が竜一の様子を見て言った。
「理恵さん?」宝生が目を丸くする。
「あれは飼っているだけだ」竜一は顔色一つ変えずに答えた。
碓氷がため息をついた。それに竜一が反応する。
「何だ。いつものことだろう」読み終わった資料を手放す。
「いえ。いつもあなたが連れてくる女性とは少し雰囲気が違いましたから」
碓氷は優しい口調で言った。これは碓氷のくせである。竜一の方が身分が上とはいえ幼少の頃からそのボディー・ガードを努めている碓氷は竜一を三代目としてだけでなくどこか自分の息子のように思っていた。竜一も碓氷に対しては幾分、いや多分に親しみを持って接していた。
「理恵さんてどんな方なんですか?」宝生が竜一に尋ねる。
竜一はそれに答える気がないようだった。
「大人しそうな、いい子でしたよ。一般の方です」代わりに碓氷が答える。
「え! 民間!? やくざの方じゃないんですか!?」宝生が目を大きく見開く。
大人しい子、というのも今まであまりなかったが、民間、というのはさらに珍しいことだった。白竜会の三代目である竜一に近づく女は極小数に限られる。
「昨日、禅ノ屋の会合すっぽかした先で飲んだパブで見つけた子らしいです。でもいつも一日で飽きる竜一さんが次の日になっても手放さないなんて」碓氷は笑顔だった。
もちろん、これを碓氷に伝えたのは竜一ではない。別の側近である。竜一はプライベートな女関係は一切報告しない。それが大事なことであるという認識がないのか。
「へぇえ。きっと魅力的な女性なんだろうなぁ」
「期待するとがっかりするぞ」竜一は冷たく言った。
「がっかりするような子ならどうして手放さないんです?」宝生は不思議そうな顔をした。
竜一は再び黙り込んだ。二人はそれを答える気がない、と受け取ったようだ。実際は違った。竜一自身にもよくわからなかったのだ。
―――なぜ理恵を傍に置いておこうとしているのだろう?
最初はあの歌声に惹かれた。一回なら抱いてもいいと思った。民間人だと身分証明書からわかり、むしろそれ以上関係を続けると幹部がうるさくなると思った。しかし部屋に連れ込んだ後の理恵は別人のようだった。歌っているときに見せた危なっかしい妖艶さもミステリアスな雰囲気もない。何よりも力づよさが消えていて儚くて今にも折れてしまいそうだ。
竜一は弱い女は好きではなかった。嫌いでもなかったが傍に置こうとはまず思わない。弱い女は弱点になる。それは極道に生きるものの常識だ。
―――どこがいいのか……。
竜一はそれ以上考えるのをやめた。頭の片隅で、あの子犬がキャンキャン、と鳴き声をあげた気がした。
車は大きな総合商社の前で止まった。日本有数の大手商社である。もちろん取引は極秘。やくざとつながりがあると知られれば市民の信頼はたちまち失われてしまう。竜一は3年組長を務めてきたがこれだけの大会社との取引は片手で数えられるほどしかない。
車の前には会社からの出迎えが何人も並んでいた。
「でっかい会社ですねぇ」宝生が先に車を降りて言った。
「あなたが取り付けた仕事でしょう? 」碓氷が笑いながら続く。
「お待ちしておりました」
出迎えの中で一番の年配の男が礼儀正しく頭を下げた。
最後にゆっくりと竜一が外に出る。
「これはこれは三代目……、二代目の面影が残っていらっしゃる」男は人懐っこい笑みを浮かべて手を差し出す。
竜一はそれを一瞥するだけで手を取らなかった。コホン、と男が仕切りなおしの咳をする。後ろではまだ若い宝生が笑いを堪えていた。竜一たち3人と少数の護衛はすぐに45階建てのビルの最上階の客間に案内される。それはVIP待遇であると同時に「公にしたくない取引相手」であることも示していた。
「先に入金した? どういうことだ?」
新しく先方から差し出された資料を見ながら竜一が言った。
「え? ですから、先日組の方がお見えになって、先に入金する、とおしゃって……ですから、取引は成立。後は私どもが現品を渡すだけとなっております」
実は社長でもあった年配の男が鍵のついたトランク・ケースを差し出す。
竜一はそれに手をつけなかった。
「銃は? それももう受け取ったのか? 」
「はい。入金された時にしっかりと」今度は少し罰の悪そうな顔をして答える。
竜一は渋い顔で宝生を睨みつける。
「知りませんよ。私、払ってないです」宝生は慌てて顔の前で両手を振った。
竜一は深いため息をついた後、心配そうに見つめる社長からトランクを受け取った。
「どういうことでしょう? 」車に戻るなり碓氷が呟く。
ベンツは静かなエンジンで走り出す。
「金だけ払ってブツは受け取らせる、なんて気味の悪い慈善事業じゃあるまいし……」
竜一はトランクの取っ手をパチン、とはじいた。
「手口が似ています。組内の抗争でしょうか……」宝生がぽつりと呟いてはっとする。
竜一の冷ややかな視線に気付いたからだ。
ここに居る誰もが3年前の抗争を思い出す。
「だから、私じゃありませんよぉ」
「失態だな」竜一が冷たく言い放つ。
「取引のことは幹部は皆知っていましたから、宝生君じゃなくても支払いはできます」
碓氷が宝生を助ける。
「組の銃の取引も行われたことから少なくとも組内の人物であることは間違いないと思います。……残念ながらやはり抗争でしょう」
「できれば組員は疑いたくない」竜一は厳しい表情を崩さない。
「めずらしく慎重ですね」碓氷が微笑んだ。
「まさか俺の代でも裏切りが出るとはな……。組内で争えば外部の付け込む隙を与えることになる。血も流れる。慎重になりたくもなるさ」
「私、調べましょうか」宝生が言った。
「そうだな……。桜香(おうか)にも協力してもらってくれ。あれは仕事が早い」竜一は覚悟を決めたように息を吐いた。
「今日は飲みに行きますか? 」宝生が気を使うように言った。
「今日はいい」めずらしく竜一は誘いを断る。
「まだ午前中ですよ。それに、竜一さんは早く自分の部屋に戻りたいのではないでしょうか」碓氷が微笑む。
「どういう意味だ?」竜一が視線だけ向ける。
「そのままの意味ですよ」碓氷の笑顔に宝生は首をかしげた。
6 一番痛いのは傷つけた人自身の心だろう
理恵は朝からただぼうっとベッドに腰かけていた。昼食が運ばれたが一切手をつけなかった。体が汗ばんでいたが気にならない。酷い頭痛がした。吐き気もある。失望感と怒りのあまり胃に穴が開きそうだ。
ふとドアの向こうで話し声がした。コンコン、とドアがノックされ、碓氷が入ってくる。
「こんにちは。朝は申し遅れましたね。私、碓氷 聡(うすいさとし)と言います」碓氷は努めて笑顔だった。
「こんにちは」理恵はちらっと顔を見てすぐに俯いた。
「お食事、取らなかったんですね」テーブルの上を見て碓氷が言う。「もうすぐ、竜一さんもいらっしゃいます。折角だから二人でお食事でも行ったらどうです?」
「誰と誰が?」理恵は顔をあげた。
「あなたと竜一さんですよ。決まってるじゃないですか」
「……どうして?」理恵の瞳が再び潤む。
竜一、という言葉に涙腺が反応するようだった。
「どうして……私なんですか……?」
「……それは竜一さんに聞いてください」
「彼は私を飼うのだといいました。でも、私、人間です」理恵はすぐに言い返した。
「あの人は、本当にそんなこと思ってるわけじゃないですよ」
理恵は信じられなかった。
「お風呂にでも入って、汗を流したらどうですか。ジャグジーで気持ちいいですよ」碓氷は真っ白なバスタオルを理恵に渡す。
理恵はしばらくそのバスタオルを見つめた。碓氷は焦らすこともなく微笑んで理恵を見ている。
「こういうことってよくあるんですか?」俯きながら声を出す。
「こういうこと?」碓氷が首をかしげる。
「人さらい」理恵が碓氷を睨みつける。
「……ないとは言いません」碓氷は自分のハンカチで理恵の涙を拭いた。
理恵はとっさに碓氷の手を片手ではじく。ハンカチがポトリと床に落ちた。
理恵がはっとしたような顔をした。ゆっくりとハンカチを拾い碓氷に手渡す。その手は震えていた。
「とにかく、汗を流してきましょう?」碓氷は優しく彼女の肩をなでた。
「すいません。当り散らしてしまって……あなたは優しくしてくれているのに、私、どうしても彼が許せなくて……」震えて涙を零しながらそう呟く。
「気持ちはわかります」碓氷は優しく微笑んだ。
なるほど、本当に大人しい子だな、と碓氷は思った。傷つきやすくて繊細で、人の痛みにも敏感だ。それは人間としてはプラス要素だろう。しかし極道の世界では生きていけない。
特に三代目の隣では……。彼は一体理恵をどうするつもりなのか。彼が理恵に抱いている感情はなんなのか。碓氷には全てが不明だった。たぶん、三代目自身にもそうなのだろう。
竜一は館内に戻った途端、書類の山を押し付けられいらいらしていた。ほとんどがサインが必要なだけの中身はどうでもいい書類だった。
碓氷がいれば俺の代わりにやらせるのに……。まったく、どこに行ったんだか……。
竜一は舌打ちした。コンコン、と部屋がノックされる。返事をすると碓氷が入ってきた。
「碓氷。仕事だ」
竜一は山のような書類をペン先で軽くつつく。
「ああ……。わかりました。で、竜一さん。お願いがあるのですが」
竜一はすぐに出かける準備をし始めていた。昼は七瀬組の組長との食事の予定が入っている。
「何だ? 」腕時計の時間を見ながら答える。
「理恵さんを食事に連れて行ってあげてください」
「なぜ。断る」竜一は眉をひそめた。
「彼女、昼食をとってません。朝もろくに食べてないし。あなたがいないと 無理矢理食べさせる人がいないんです」
「一食ぐらい抜かしたってどうってことないだろう」
碓氷は大きくため息をついた。
「あなたが連れて来たのでしょう。それなら責任を持ってください。ましてや民間の子です」
「俺は民間に下れば下るほど扱いが悪くなるんだ」
外に出ようとした竜一の腕を碓氷が掴む。
それはめずらしい行為だった。竜一が睨むと碓氷はその目を見ながらゆっくりと腕を放す。
「とにかく、もう少し優しく接してあげてください。お願いします」軽く頭を下げる。
自分の女のことで部下に頭を下げられるなんて心外だ、と竜一は思った。
理恵が風呂から上がると丁度、竜一が部屋に入ってきた。二人の目が合う。先に逸らしたのは竜一のほうだった。
「出かけるから着替えろ」
感情を押し殺したような声で命令する。碓氷が用意した理恵の着る服をベッドに放り投げた。
理恵は黙って放り投げられた服を手に取った。高そうなブルーのワンピースだ。
「私、出かけたくない」理恵は服をベッドの上に戻した。
竜一の血圧が上がる。殴りたくなる衝動をなぜ抑えているのかわからない。
黙っていると理恵が泣きだした。竜一は思わずうんざりしてため息をつきそうになる。次の瞬間、理恵が飛びかかってきた。
「何のため? 何のためなの? 人のこと何だと思ってるのよ!? 組長がそんなに偉いわけ!?」
何回も竜一の胸をこぶしで力いっぱい叩く。それでも理恵の細い腕から繰り出されるこぶしは大して痛くなかった。
叫び声を聞いて部屋の外で待っていた碓氷が慌てて入ってくる。
「理恵さん! 落ち着いてください」
碓氷が理恵を引き剥がそうとするのを竜一が片手で制す。
「好きにさせておけ」
理恵のこぶしが胸に当たる度に竜一は軽く目を閉じた。
理恵が叩くのを止める。その手は赤くなっていた。
「気が済んだなら着替えろ」そう言うと竜一は部屋の外に出る。
理恵は呆然と自分の赤くなった手を見ていた。
7 君にとって守る、ということ。僕にとって守る、ということ。
運転手は不思議な光景を目にしていた。バックミラーには3年間運転手として仕えているボスがいる。それは決してめずらしいことでもなんでもない。隣には綺麗なブルーのワンピースを着た女の子が一人。そう、女性、という感じではない。これほどまでに生気のない儚げな少女をこの3年間、運転手は一度も見たことがなかった。少女は目をつぶってボスの肩に頭を預けている。眠ってはいないようだ。二人は何も会話をしないが、ボスの顔はどこか優しそうだ。運転手はこんなに穏やかな顔をしたボスを見たことがなかった。
理恵は高層ビルにある高級中華レストランにいた。隣には竜一が座っている。相変わらず理恵には見向きもしない。竜一の向かいの席にはこれも絶対やくざだろう、と思う目つきの悪い40代だと思われる男が二人座っている。テーブルの周りには黒いスーツを着たボディー・ガードが4人と碓氷がいた。彼だけは普通のスーツを着ている。他の客が彼らに注目するのも当然だった。
理恵は朝からほとんど何も食べていなかったので周りのテーブルから漂う油の匂いに吐き気を感じた。それに気付いたのか竜一は野菜スープと海鮮サラダしかオーダーしない。
理恵は少しだけありがたく思った。
「しかし今日は大きな商談がまとまってよかったですなぁ」
男が酢豚に箸を出しながらにやにやして言う。本人はにこにこ、のつもりなのだろう。
「これで一層、白竜会が大きくなれるってもんです」隣にいる男がさらに相槌を打つ。
竜一は黙って何かを考えているようだった。こういうときの彼はいつもにも増して愛想がない。
「そういえば……今回の宝生の商談に協力していたのは七瀬組だったな……」
竜一がタバコにゆっくりと火をつける。
「ええ。ですがここまでこれたのはやはり宝生君の実力ですよ。我々じゃこうはいきやしません」照れたように男は頭を掻く。
「宝生君はまだ若いのにもう白虎組の組長も務めていますしなぁ」
理恵は噴出しそうになる。この二人はセットでしかしゃべらないのか。
「実は今日、向こうに行ったらすでにブツの取引は済んでいる、と言われた」
竜一はゆっくりと二人に視線を移す。二人の反応を確かめているようだ。 二人は一瞬顔を見合わせ、すぐにまた笑った。
「へぇ、そんなことが。そりゃ、宝生君のミスですなぁ」
「いかんですなぁ。若いから焦って何か取り違えたんでしょう」
「そう、ミスということも考えられる。が、額が大きすぎる。その金はどこから出たんだと思う?」竜一は二人を軽く睨む。
「そんなことはわかりませんなぁ。白虎組が出したんちゃいますか」男はまた酢豚に手を出した。
竜一はまだ何か引っかかるようだった。もう一人の男が理恵に目を留める。理恵は何とかスープを飲み終えようとしていたところだった。
「ところで三代目。このお譲さんはどこの方で? 見たことのない顔ですが、組の方ですかい?」
理恵は竜一を盗み見た。
「ただの堅気(かたぎ*一般人のこと)の女だ。こいつに話題を振るな」そう言うとタバコを灰皿でもみ消す。
理恵はむっとした。
―――ただの女? あなたはただの女を誘拐したあげく学校まで辞めさせたわけ?
理恵が睨んでいるとレジの方から大きな声がした。
「竜一―――!」皆が声のするほうを向く。
駆け寄ってくるのは非常に可愛らしい女性だった。背は理恵と同じくらいであまり高くない。明るい茶色の髪にはウェーブがかかっている。ピンクの短いワンピースからは魅力的な白く細い足が伸びていた。彼女はまっすぐ竜一のところに走り寄ると彼に抱きつく。
理恵はびっくりして椅子を引いた。
「もう! 竜一ったら、全然連絡くれないんだからぁ! 宝生から連絡があって飛んできたのよぉ!」そう言って竜一の頬に頭を摺り寄せる。
あまりの大胆さに理恵は開いた口が塞がらなかった。
「桜香(おうか)……。重い。どいてくれ」竜一は困ったように言った。
しかしその声には明らかに今までとは違って感情がこもっている。
「んもう。久しぶりなのにつれないんだから……」そう言ってしぶしぶ体を離す。
「相変わらずですなぁ。桜香嬢」男が笑う。
桜香はくるりと男に向き直った。
「あら。いたの? 全然気が付かなかったわ。相変わらず図体だけでかくて影が薄いのね」
竜一は苦笑いする。
「で、あんたは誰?」今度は理恵の方に向き直る。
理恵は竜一の方を見た。
「桜香。宝生から連絡があって来たということは何かわかったのか?」
竜一が話題を変える。少なくともそうしてるように理恵には見えた。
桜香は勝ち誇ったような笑みを浮かべると竜一の耳元に口を寄せた。理恵は二人から視線を離す。別にいいじゃない。この男が誰とべたべたしようが……。ふと理恵の目に隙を見たように耳打ちしあう男二人が写る。慌てて竜一の方に振り返ったが二人は後ろを向いて話し込んでいる。入り口の方に何人かが固まってこちらの様子を伺っているのが分かった。ノーマルな生活を送ってきた理恵ははじめて味わうアブノーマルな出来事に敏感になっていたのかもしれない。
「あの、何か様子がおかしいと思うんだけど……」
理恵が勇気を出してそう言って初めて竜一が振り返る。
「……伏せろ」竜一の顔が険しくなる。
すぐに理恵の頭を掴むと椅子の下に押し込んだ。
ドォゥン、という銃声が響く。正確に言えば最初、理恵にはそれが何の音か分からなかった。理恵が上を見ると竜一が居た席の上方に小さな穴が開いていた。ジャコン、という音に理恵は振り返る。桜香が床に座って弾込めをしていた。竜一もボディーガードも片手に銃を構えている。
「何してるの。あんたも銃出しなさいよ」桜香が当然、といった顔を理恵に向ける。
理恵は横に首を振った。
「こいつは戦力外だ」竜一が理恵の腕を掴んで引き寄せる。
「はぁ? 何それ」桜香が馬鹿にしたような視線を向けた。
ドォゥン、という音がまた何回もする。テーブルに当たったのか木片がパラパラと理恵の頭にかかった。理恵がびくっと震える。
「大丈夫だ。お前には当たらない」竜一は小声で理恵に耳打ちした。
理恵は恐怖で誰かに、たぶん竜一に抱きつきたかった。震えた手で竜一の袖を掴む。
気付いたらボディーガード達は撃ち返していた。桜香の放った弾が向こうにあたり、何人かが倒れる。竜一が碓氷を手招きする。
「向こうの狙いは俺だ。理恵を外に連れ出してくれ」竜一が理恵を押し付ける。
「わかりました」碓氷が答えたが理恵は袖を離さなかった。
竜一が理恵の顔を覗き込む。落ち着いた表情だった。対照的に理恵は震えながら首を振る。理恵には竜一の側が一番安心できるような気がした。
「お前がいると足手まといだ。言うことを聞け」そう言って理恵の手を剥がす。
桜香がくすりと笑った。碓氷が理恵の手を引く。理恵は仕方なく碓氷についていった。
碓氷に腕を引かれながら理恵はその戦闘を見た。他の客はとうに店の外に逃げ出してしまっている。厨房の奥に怯えてうずくまっているコックが見えた。理恵は竜一に視線を戻す。彼の周りの壁にはいくつもの銃痕がついている。なぜ避けられるんだろう、と思った。
彼らは銃を持った相手から絶対目を離さない。生きてる世界が違う。最後に理恵は彼を撃とうとしている刺客をみた。最初何人いたかはわからないが今は3人にまで減っている。
彼らも相手から目を離さない。一人が理恵のほうを向く。目が合ったのは偶然だと理恵は思った。銃口が理恵の方を向く。
「碓氷!」竜一が叫んだ。
理恵はしゃがまされる。ドォウン、という音が2回なり、両方とも理恵に向けられたものだった。
「ちっ!」竜一が舌打ちする。
「あんな女、ほっときなさいよ!」桜香が叫んだ。
理恵と碓氷の間の壁に銃痕がつく。理恵はびっくりして転んでしまった。向こうは理恵に狙いをしぼるらしい。
「理恵さん。目を逸らしてはいけません。ぎりぎりまで見ていれば避けられるものです」
数メートル先から碓氷が忠告する。この弾数だと理恵に近づくのは無理だ。
「そんなことできるわけ……」ドォゥン、と音がして理恵の声が途切れる。
理恵の足元から煙が立ち上った。
「いやだ、竜一さん助けて……」
小さい声でつぶやく。彼の名前を呼んだのは初めてだった。
「理恵!!」竜一が叫んだ。
ガシャン、という音が近くでした。次の瞬間、理恵は強い力で引き上げられた。いつのまに走りよってきたのだろう。銃口が理恵の頭に突きつけられる。短い髪をぐい、と引っ張られた。
理恵と男の目が合う。男はにやりと笑った。瞬間、理恵は理解できた。この男は死ぬのを覚悟している。自分が死ぬ代わりに、お前も殺すのだと。男はわざと理恵を立ち上がらせ、見せ付けるようだった。なぜそうするのかはわからない。理恵の瞳に拳銃を握る竜一の姿が映る。
ドォウン、という音がすぐ近くに突き刺さる。
理恵の青いワンピースが真っ赤な血に染まった。
8 記憶が思い出になるとき、思い出は現実にデジャブゥする
「理恵さん!」碓氷が悲鳴にも近い叫び声を上げる。
理恵はゆっくりとワンピースに降り注いだ血を見た。その後、隣にたっている男に目を向ける。理恵の髪を掴んでいた男の手がゆっくりと降下する。いや、ただ理恵の思考がスローになっていただけかもしれない。
竜一の拳銃の銃口からは白い煙が立ち上っていた。
男が理恵に倒れ掛かる。理恵の視界に男の顔が映った。男の額の中央には赤い小さな穴が空いていて、そこから血が流れ出していた。男の高い鼻を伝い、ぽたぽたと理恵のワンピースを汚している。
竜一の銃がドォゥン、ともう一度音を立てる。次の瞬間、理恵にもたれかかった男の死体が後方に吹っ飛んだ。
「あ……あ……あぁ……」
言葉にならないうめきが理恵の喉を伝ってくる。
竜一が理恵に駆け寄る。腕を掴もうとしたとき、理恵がその手を払いのけた。竜一は気にせず理恵の肩を抱き寄せる。桜香が眉をひそめた。
「理恵、ケガはないな?」竜一が理恵の顔を覗き込む。
理恵の瞳は焦点が定まっていないように揺れていた。
「あ……あぁ……」
「しっかりしろ。俺がわかるか?」スーツにも血がついたが、気にする様子もなかった。
ふっと目を閉じると、理恵はぐったりして倒れ掛かる。
「ショックで気絶したんですね。……竜一さん。すいません。しっかりと理恵さんをお守りできなくて……」碓氷がゆっくりと近づいてきた。
「いや……お前のせいじゃない」
実際、いざとなったら身を挺してでも碓氷が飛び込んできただろうということを竜一は知っていた。碓氷とはそういう男だ。
竜一は理恵を抱えあげると、そっと宝物を抱えるように店の外に出た。
前触れもなく理恵は目を開けた。見覚えのある天井が目に入る。
―――ここは……竜一さんの、部屋?
昼間の出来事が思い浮かぶ。理恵の目から涙がこぼれた。目の周りが乾いている。寝ている間も泣いていたようだ。
―――誰か、いるのかしら?
理恵はベッドの横に目を向けた。部屋の奥に人影が映る。人影が理恵に気付き、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
「竜一……さん……」理恵はその人影に話しかけた。
「気がついたか?」そう言うと竜一は座って理恵の顔を覗き込んだ。
その表情は穏やかで、優しかった。いつもこれなら怖がらないのに……、と理恵は思う。
「もう夜だ。……大分、寝たな」竜一が理恵の髪にそっと触れる。
条件反射で理恵の体がびくっと震えた。
「俺が、怖いか?」上着を脱いで、ワイシャツのボタンを3つ外しているからだろうか、理恵には竜一がすごく自然体に見えた。
理恵は首を横に振る。いつのまにかパジャマに着替えていた。竜一は軽く微笑むとベッドの端に腰かけた。しばらくの間、沈黙が続く。
「昔、俺がまだ中学生だった頃、犬を飼ってたんだ。いや……あれは飼っていたとはいえないな……」
理恵はびっくりして竜一を見た。彼が自分のことを話すなんて信じられない。竜一がその視線に気付く。
「こんな話、つまらないか?」
「ううん」理恵は慌てて首を振った。
「聞きたい。どんな犬だったの? 」
理恵は体を起こそうとした。それを竜一が片手で制す。
「拾ったときは、子犬だった。後で調べたらゴールデン・レトリバーっていう種類だったらしいが俺は種類には興味がなかった。薄汚れてて……毛がぼさぼさで、しかも鳴かないんだ。誰も拾いそうになかった」竜一は一回、そこで切った。
「そう……」
「俺はそれを家に連れて帰った。……親父はそんなもの捨てろって言ったがな、碓氷は学校に行っている間は私が面倒を見ます、と言ってくれた」
碓氷さんならそう言いそうだ、と理恵も思った。
「ところが全然そいつがなつかないんだ」竜一が微笑んだ。
「俺だけじゃない。碓氷にも、組員の誰にもなつかなかった。吠えもしない。ただ、触ろうとすると怒って呻るんだ」
「本当に子犬?」理恵が笑った。
「本当に子犬。生まれてまだ1・2ヶ月ぐらいだったと思う」竜一は思い出すように言う。
「でも俺は家に帰るたびにその子犬に会いに行った。触ろうとするたびに手を咬まれたりしたがな、小さかったし、あまり痛くはなかった。……正直、俺になつかないのはそいつだけだった。中学生とはいえ俺が2代目の跡を継ぐことは決定していたからな。生まれたときから組員は俺に頭を下げていたし、幹部の奴らも俺にごまをすっていた。……たぶん、俺もそうだった。小さいときからただ冷徹に振舞うことで自分を徹しているつもりだった。
誰からもあなたは3代目にふさわしくない、とは言われたくなかったんだ……わかるか?」竜一が理恵を見る。
「うん……」理恵は頷いた。
「だから、余計あの犬に惹かれたのかもしれない。周りのことなんかまったく気にしなくって、碓氷がどんなに大事に育てた、とか犬を捨てなくて俺がどれだけ親父に殴られた、とかそんなことあの犬には全然関係ないんだ。……羨ましい生き方だった」
理恵はその犬は今どこにいるのだろう、と思った。
「あるときそいつがいなくなった。……もともと鎖で繋いでいたわけじゃないから、出ていこうとすれば出来たんだ。ショックで俺は夜までずっとそいつを探し続けた。遠くまでいけるはずはない! って。でも、いくら探しても見つからなかった」
理恵の鼓動が早くなる。
「竜一さん、それでどうしたの?」
「取りあえず碓氷を殴った」竜一がにやりと笑う。
「お前がちゃんと見張っていればこんなことにはならなかった、とか言ったかな。あいつは何べんも頭下げてたけど、収まらない俺は目に入った組員を片っ端から殴り飛ばした。そのうち組員が親父を呼んできて今度は親父が俺を殴ったんだ。……それで、親父は俺に何て言ったと思う?」
「その犬のことは忘れろ?」理恵は首を傾げた。
竜一はゆっくりと首をふる。
「犬は殺した。下らない生き物にいつまでも構うな。たった二言。それで終わり。犬とはそれっきりだ」
理恵の心臓がもっと激しく鳴り響く。
「死なせる気はなかった……」竜一が下を向く。
心なしかその手が震えているように見えた。
理恵の目が熱くなる。
「死なせる気はなかったんだ……」もう一度、繰り返す。
ひどく落胆したような声だった。
きっと、この人はその時泣いたにちがいない、声に出して泣くことができなくても、心の中で号泣したに違いない、と理恵は思った。
「……うん。死なせる気はなかったんだね」
気付いたら理恵は竜一のサイドに流れる髪を指先で梳いていた。
理恵の目から雫が零れ落ちる。
「ただ側に置いておきたかっただけなんだ……。信じてくれるか?」
竜一が理恵の手を掴んだ。ひどく強く掴まれて、理恵の手がきしんだ。
「うん。信じるよ」理恵は強く頷いた。
途端、竜一は理恵の腕を引くと、その唇を噛みつくように奪った。理恵の頭がシーツに深く沈み込む。
息ができない。酸素が脳に届かなくて理恵はめまいをおこしかけた。それでも竜一は理恵を離さない。やっと口を離すと竜一は片手で理恵の首を絞めた。理恵の顔が苦痛に歪む。
「理恵。……これだけは覚えておけ」理恵の顔を覗き込みながら言う。
「りゅ……い……さ……くるし……」
「俺は優しくない」狂いそうなほどの突き刺さるようなまなざし。
理恵はまた気絶しそうだった。
「だが絶対にお前を死なせない。他の誰を殺してもお前だけは殺さないし死なせない」
「そ……んな……りゅ……」理恵の目から再び涙が零れ落ちる。
薄れていく意識の中、この人が自分に何を求めているのか、理恵はわかったような気がした。
竜一が手を緩め、理恵を抱き寄せる。
誰かの愛が、彼には必要だと思った。
誰かに、彼を愛して欲しいと思った。
たとえば、桜香さんに。
自分のちっぽけな心では、とても彼の傷ついた心を受け止められないと思った。
9 恋は動物でも出来るが嫉妬は人間にしかできない。その行為は誇れるものである。
桜香はいらいらしながら白竜会本家の廊下を歩いていた。ドスドスと音を立てて木製の床がきしむ。それくらい彼女の心は荒れていた。
あの女、竜一の女だったなんて! 桜香は唇を噛んだ。
竜一がまるで宝物を抱くようにして理恵を抱えて店を出たときも気に入らなかった。
―――何よ、あの小動物のような目! あれで竜一の女? しかも堅気ですって!?
桜香の怒りはホイップクリームのように次から次へとチューブからこぼれ出た。
―――私は竜一の婚約者なのよ! 私より弱い女が竜一の側にいるなんて許せない!
「……なんのために……何のために……私が努力してきたと……」桜香は歯噛みした。
「あ……、桜香嬢」すっとんきょうな声が響く。
こんな音声が出せるのはここでは碓氷とこの男しかいない。桜香は宝生に走り寄る。
「宝生。理恵はどこにいるの!? 教えなさい!」桜香は宝生の胸倉を掴む。
しかし桜香は女性の中でも小さい方なのであまりかっこがつかない。
「えー……、気が進まないなぁ……。理恵さん苛める気じゃないですか?」
宝生は慎重に掴まれた手を剥がした。年は自分の方が上でも彼女が竜一の婚約者である以上、彼女は上司だ。敬意は払う。
「苛める!? このあたしが!? あんた私を馬鹿にしてるわけ!?」桜香は大声を上げた。
「いや、お嬢にその気がなくてもそのテンションで彼女に会ったら彼女怯えちゃいますよ。それが苛めになるって言ったんです」宝生はできるだけ笑顔をつくる。
彼は竜一のことをいい意味で恐れてはいても彼女はまったく怖くない。上に立つものとしては彼女は何か足りない、と宝生は常々思っていた。
「……まるであの女が小動物かなんかであたしがライオンか肉食獣みたいな言い方ね」桜香は宝生を睨む。
「あぁ……それナイスな表現ですね。桜香嬢。後半のコメントは控えさせていただきますが。さすが」宝生は微笑んだ。
「宝生。早くあの女の居場所吐かないと、そのドタマに一発ぶち込むわよ」
宝生は苦笑した。別に困ったわけではない。
「彼女は三代目の部屋にお住まいです。今もそこにいると思いますよ」
「……竜一の……部屋……!?」彼女は絶句した。
「恋人ですからね。もう一週間ぐらいですか。そこにいますよ。最近はやっと庭にぐらいなら出るようになりましたが。……桜香嬢、入ったことないんですか? 三代目の部屋」
桜香は赤面した。
「あるわよ! そのくらい! 仕事の依頼された時とか、あとは……」そこで言葉が詰まる。
「プライベートではないんですか……。意外に清い関係だったんですねぇ」 驚いたように言う。
パーン、と叩かれる音がした。桜香が宝生を平手打ちにしたのだ。宝生の眼鏡が床に落ちる。
「最低。宝生。あんたなんか、絶交よ!」ふん! と息を吐いて桜香が廊下を歩いていく。
宝生は落ちた眼鏡を拾って掛けなおした。幸い、あまりずれてはいないようだ。
「絶交? まったく、あなたは子供ですか……」宝生は独り言を言う。
「ほんとうに、まったく、どうかしてる……」宝生はもう一度つぶやいた。
ドアが無造作に開けられる。挨拶なしに入ってくるのは竜一だけだ。理恵はベッドから降りてドアに駆け寄った。そこでびっくりして言葉を失う。
「あなたは……」
「私は大地 桜香(だいち おうか)。竜一のフィアンセよ」桜香は睨みつけながら宣言する。
フィアンセ、という言葉に理恵の心がきしむ。
何で? それはあんたが望んだことじゃない。あんたじゃ彼は支えきれないって。 もう一つの心がそうつぶやく。
「あなた、本当に竜一の女なの?」桜香が尋ねる。これもキツイ口調だ。
彼の女? 理恵は考え込む。そういえば彼女は竜一に一度も愛してる、とか好きだ、とは言われてはいない。
「ふーん、所詮は断言できないような仲なわけね」
「…………」
理恵は竜一のフィアンセがなぜ自分に会いに来たのか不思議に思った。
「ところであなた、ちょっと見ない間に痩せた?」桜香はまじまじと理恵を見る。
もともと細身の彼女だったが、今は痩せ細っている、といった印象を受ける。顔色も良くない。それを労わるような精神を桜香は持ち合わせていなかったが。
「わかると思うけど、今日はきっちりあなたとカタをつけにきたわけ。文句はないわね?」語尾は疑問形ではなかった。
「カタ?」聞きなれない単語に理恵は首を傾げる。
桜香はため息をついた。
「私の質問にあなたが答えればいいの。第一問。あなたは竜一が好きなの?」
理恵は力なく首を横に振った。桜香が眉をひそめる。
「あ、そう。第二問。竜一とはどこで会ったの?」
「……新宿のパブ」店の名前が思い出せない。
「歌舞伎町?」
「いえ、普通の……」
「最後の質問。竜一はあなたが好きなわけ?」
理恵は押し黙った。数秒してまた首を横に振る。きっと、違う。彼が自分に対して持っている感情はそんな優しいものじゃない。理恵はそう思った。
「二人とも好きでもないのに一緒の部屋にいるの? それっておかしいんじゃないかしら?」桜香は肩にかかる髪を後ろに払う。
まるでエリザベス女王の日本版だ、と理恵は思った。桜香はまるで今思いついた、とでもいうようにポン、と手を打つ。
「あなた、竜一から離れなさい。私があなたを竜一から逃がしてあげる」桜香は不敵な笑みを浮かべる。
「え……?」
それはそうだけど、と理恵は思う。
「でも、一応、竜一さんに報告してからの方が……」
「あたしが後で竜一に言っといてあげるから。さ、そうと決まれば善は急げ、よ。荷物用意して」命令口調で理恵を丸め込んだ。
理恵は大きなレザーバッグに何枚か服を詰め込む。詰め込みながらこのバッグも、服も全部竜一が自分に買え与えたものだな、と気付いた。理恵は服を詰めるのを止めた。
「何? あなた、手ぶらで行くわけ?」桜香が呆れたように言う。
理恵は小さく頷いた。
桜香がこっそりとドアを開ける。そして、ため息をつく。
「……宝生。あんたずっとそこにいたのね。最低。変態」桜香が悪態をつく。
「お嬢。これは忠告です。こんなことをしても何にもなりませんよ」宝生が桜香を見下ろして言う。
この話し方が桜香は一番嫌いだった。
「竜一は別にこの女を好きで側に置いているわけじゃないわ。本人に聞いたもの」
「本人って、三代目ですか?」
「この女が言ったわ」
「三代目が怒りますよ。処罰が下るに決まってる。馬鹿なことは止めてください」
「あなたが竜一に黙っていればいいのよ」
「できるわけないでしょう」宝生は桜香を睨んだ。彼女も負けじと睨み返す。
しばらくして桜香はふんっと息を吐いて視線をずらした。
「理恵、行くわよ!」そう言って理恵の手を引っ張って歩き出す。
理恵は宝生をかえりみる。彼は二人を心配そうに見ている。理恵は宝生にペコリと頭を下げた。そして自分を睨みつけて待っている桜香に気付き、慌ててついていく。
「さようなら。竜一さん……」理恵は小さく呟いた。
10 秘められた感情
竜一が碓氷から連絡をもらったのは午後の8時だった。
「くそっ!」ダンッと思い切りデスクを叩く。数枚の資料が床に落ち、コーヒーが零れた。
竜一はすぐに秘書に電話をかけなおす。
「俺だ。今日のこれからの予定は全部キャンセルだ」殺気の篭った声で告げる。
もっとも秘書はそんなことには慣れているのだが。
『困ります! 急ぎの書類も届いておりますし、三代目には会合にも出席してもらわなくては……!』ブツッとそこで声が途切れる。竜一は乱暴に受話器を置いた。
―――理恵が一人で抜け出せるわけはない……。他に手引きをした奴がいるはずだ。一体誰が!?
竜一は怒りのあまり頭が痛くなるのを感じた。
こんなにイラついたのは親父が死んだとき以来だ。まて、親父の死とあの女の脱走を同程度にするのか? 馬鹿げている。ただの民間の拾いモノじゃないか。そうだ。どうだっていい。理恵がどこへ行こうが。もともと二人の生き方は違いすぎる。
そこまで考えて竜一はがっくりとひざをついた。びっくりした碓氷が慌てて駆け寄る。
「竜一さん! 大丈夫ですか!?」
竜一はゆっくりと碓氷の手を払いのけた。
「少し疲れただけだ。心配するな」
嘘だ、と碓氷は思った。理恵の失踪が竜一にここまで打撃を与えたのに碓氷は内心驚いていた。こんなことを言っては竜一が怒るだろうが、うれしくも思った。
それにしても彼女につけていた護衛はいったい何をしていたのだろう?
「竜一さん。すぐに理恵さんを探させますから……」そう言って碓氷は部屋を足早に出て行く。
竜一は一人部屋の中に残された。ゆっくりと立ち上がり、窓のほうに歩いていく。数人の組員が車に乗り込むのが見える。碓氷の連絡を受けたのだろうか。
やはり自分はあの犬と理恵を重ねていたのだな、と思う。まさかこんなに簡単に逃げられるとは。理恵は無事なのだろうか。
―――……俺の側にいるよりずっと安全か。
「欲しいものほど、手に入らないものだな」そう呟いて、思わず苦笑した。
「宝生君!」碓氷が廊下の向こうから叫ぶ。宝生はゆっくりと振り返った。
「理恵さんがいなくなりました。何か知りませんか? いや、理恵さんを見かけませんでしたか?」
「いや、全然」宝生はにこりと微笑む。
「そうですか……。いやぁ、困りましたね……。私としたことが、ちゃんと見張りをつけていたんですが……。今から見張りの方々に話を聞きに行くんです。宝生君も一緒に行っていただけませんか?」
「私ですか? ちょっと……用事が……」宝生は歯切れの悪い返事をする。 それは珍しい。
「緊急なんです。他の用事は後回しにしてください」
もっと珍しい命令口調で碓氷は言い切った。
「本当に、気付いたら、いなくなってたんでぇ。嘘じゃないっすよ」
見張り役の赤いガラシャツを着ている、まだかなり若い男が答えた。
「ここは3階です。しかも窓はオートロックがかかっているし、理恵さんが外に出るにはここのドアを開けるしかないんです。……本当は見ていたんじゃないですか?」厳しい口調で碓氷は男を問い詰める。
男はちらり、と宝生を見た。宝生は黙ったまま冷たい視線を男に向けている。
「……誰かに言われて黙っているのですか?」
「う……、碓氷さん! な、何言ってるんですか!」男はあからさまにうろたえる。
馬鹿ばっかりだ、と宝生は思った。また自分も馬鹿であることが腹ただしい。
「……言っておきますけど、理恵さんを探しているのは竜一さんですよ。もし、あなたが嘘をついているとしたら、大変なことになりますよ。親を裏切ることになるんですから。……それとも、ここに三代目よりも偉い人でもいらっしゃるんですか?」碓氷が畳み掛ける。
「…………」
「……誰なんですか? 理恵さんが出て行ったのを黙ってろ、と言ったのは」
今度は優しい口調で俯いた男に話しかける。
男はゆっくりと顔を上げた。
「……それは……宝生の旦那っす……」男は申し訳なさそうな顔をして答える。
碓氷が驚愕した表情を宝生に向けた。
「どこへ行くんですか? 」
理恵が隣に座る桜香に言った。
理恵は芸者達と顔を合わせたことがないので、女性と言葉を交わすのがすごく新鮮に感じられた。
「どこへ行きたい? あんま考えてなかったのよね」桜香が訊きかえす。
車に乗り込んだときから満面の笑みである。
そんなに私がいるのが嫌なのかしら? と理恵は少し悲しく思った。
行きたい場所があるとしたら、あそこしかない。
「……北海道に……帰りたい」
「北海道? ジェット機なら家にあるから問題ないけど……」桜香は首を傾げる。
「北海道に、実家があるんです。お母さんとお父さんに会いたい」理恵は少し微笑んだ。
「ママとパパが恋しくなったってわけ」桜香は鼻で笑う。
「はい。勝手に大学辞めて二人とも、心配していると思うから……」理恵は正直に答えた。
「お嬢。二つ後ろの車、さっきからずっとこの車をつけてます」運転手が振り返る。
「……まさか、もう嗅ぎつけたのかしら? ……いや、いくらなんでもそれは……。宝生が私を裏切ったのかしら……」桜香は首を傾げる。その発言が理恵には意外だった。
「宝生さんと、仲いいんですか?」
「幼なじみなのよ。どちらも24で同い年。幼稚園から大学まで全部一緒ってんだから、腐れ縁よね。もっとも……あたしはまだ大学生だけど」そう言ってふふっと笑った。
「宝生の人に知られたくないネタをあたしはたくさん握っているってわけ。だからこんなすぐにはばれないはずなんだけど……」桜香はそれとなく後ろを振り返る。
「私、宝生さんとは数回しか会ったことないですが、とてもそんなこと気にするような人には見えませんでしたけど……」
「幼稚園の時のおねしょネタでしょう、いじめられて泣いちゃったネタでしょう、鯉のぼりを見てマスだ、って言っちゃったネタでしょう、子持ちの先生に告って振られたネタでしょう。まだまだあるんだから」桜香は指を折って数える。
理恵は思わず吹き出した。
「ますます説得力がないですね。そんなこと、普通気にしませんよ」
「極道はプライドが命。いじめられて泣く、なんて人生の赤っ恥よ。第一、実際にこの手で何回も宝生に言うこと聞かせてるんだから」桜香は真剣に言った。
理恵は一瞬考え込む。
「宝生さん……もしかして桜香さんのことが好きなんじゃないかしら……?」理恵は桜香の顔色を伺いながら言った。
「はぁ!? あるわけないでしょう」桜香が大声を上げる。
「あ……あなたそんなこと言って私の気持ちを竜一から離させる気ね!? そうはいかないわよ。あたしは竜一オンリーなんだから!」
「私、そんなこと思ってません」理恵は少し頬を膨らました。
「……お嬢。後ろの車どうしますかい?」運転手がまた振り返った。
「できればそこの十字路から撒いて」桜香が顔を赤くして言う。
理恵は顔を赤くした桜香に少しだけ親近感を持った。
車が十字路を曲がる。桜香に言われて車がスピードを出そうとした時だった。二つ後ろの車から三台がキキィーッとタイヤを滑らせる音を出して理恵の乗った車の横に回りこむ。
少し遅れてクラクションが鳴り響く。
理恵はその車に乗っている人たちを見た。黒いグラサンに真っ黒なスーツ。それはどこかのレストランで見た男たちによく似ている。男たちは理恵と目が合うと銃を取り出した。
銃口が理恵の乗った車に向く。
「伏せて!」
反射的に理恵はそう叫んで屈みこんだ。
ドォウン、という音が何回も響き渡り、車のガラスにいくつものひびが入る。まだ割れてはいない。
「車を出して!」桜香が叫ぶ。
車は急発進した。理恵の体が後ろにのけぞる。後ろの三台の車はなおも銃声を轟かせながら追ってくる。
理恵が桜香を見ると、彼女はワナワナと震えていた。
「車の中にいるやつのバッジ……見た?」
「ううん」理恵は首を横に振った。
「何で七瀬組のバッジつけてんのよ……。あいつら……」桜香の声は怒りに震えている。
理恵はとてつもなく嫌な予感がした。
11 罪と罰
ドォゥン、という銃声が後ろから何度も車を襲う。その度に窓ガラスやドアが悲鳴をあげた。プシュゥウ、という音がして車が左右に激しく揺れる。
「お嬢! パンクです! 二人で逃げてください!」
「玄随(げんずい)! お前は?!」桜香が聞き返しながらもドアを足で蹴り開ける。
「あっしのことならなんとでもなります。とにかく、お嬢たちはつかまっちゃならねぇ!」
「理恵! 早く来なさい!」桜香が車の外から手を伸ばす。
理恵はその手を急いで掴んだ。すぐに桜香は理恵の手を掴んで細い道に入り込むと、民家の壁をよじ登った。
「真っ直ぐ走ってたらタマに当たるわ!」桜香が理由を尋ねる前に答える。
理恵は桜香に手を貸してもらい、なんとかよじ登った。
玄随はゆっくりと車の外に出る。二人はもうとっくに逃げた後だ。何人かがそれを追いかけて行ったが、まだ三人がここに残って玄随を取り囲んでいる。玄随はゆっくりと帽子を取った。太陽の光に玄随の真っ白な髪がさらされる。
「京極……。あんたどういうつもりですかい?」白髪の老人はその男を睨みつけた。
「玄随。この状況に至ってまだわからないのか?」京極はにやりと笑う。銃口は玄随に向けられたままだ。
「あんたには三代目に七瀬組組長にしてもらった恩があるだろう? こんなことをして……覚悟はできているのか?」
「覚悟なら3年前からできているさ」
「3年前? ……そうか、二代目をハメたのもお前なんだな? 何てことを……」玄随は怒りに体を震わせた。
「嘆かなくてもすぐにお前もそこに行かせてやるさ。お前の大事に育てた桜香嬢も三代目の女もな」京極はまたにやりと笑った。
ポケットからタバコを取り出し、咥える。
「……なぜ裏切った? 死ぬ前にそれくらい聞いてもいいだろう?」
「白竜会を乗っ取る。それだけだ」京極は引き金を引いた。
ドォウン、という音がして、玄随の胸が赤く染まる。
「あぁ……三……代目ぇ……」そうつぶやいて、玄随は地面に倒れた。
「我ながら単純な裏切りだよなぁ」そうつぶやく。
「極道なんて、単純なもんですよ。そこがいいんです」もう一人の男が京極に答えた。
「まぁ、そうだな」そう言って京極はタバコに火をつけた。
「うまくねぇな……」
理恵と桜香は廃工場の中に逃げ込んでいた。
「桜香さん。まだ追ってきてるみたい……」理恵はこっそりと入り口に目を向ける。
二人組の男が目に入った。
「素人が覗き見すんじゃないわよ。ばれるでしょ!」桜香が慌てて理恵の腕を引く。
理恵は小さな声でゴメンナサイ……と謝った。
「竜一さんと連絡取れないんですか?」
「絶対ヤダ」
「どうして?」理恵は怒った顔をする。「早く助けに来てもらえばいいじゃないですか」
「そんなこと……竜一に二度と顔見せできないわ」
死んだら顔を見せるも何もないだろう、と理恵は思った。カンカンカン、と階段を上る音がする。
「二階に行ったみたいね……今のうちにあそこのドアから出るわよ。あんな奴らあたし一人で十分なんだから」桜香が耳元でささやく。
理恵は黙ってそれについていった。下から二階を歩く二人組みが見える。
「全部で二人だったわよねぇ?」桜香が訊く。
「たぶん……」理恵が答えるとすぐ桜香は二人組に銃口を向ける。
「ダメ!」理恵が小さな悲鳴をあげた。
ドォゥン、という音が2回響いて二人組は倒れた。
「ほぅ。楽勝」桜香はうれしそうに微笑む。
理恵は桜香を睨みつけていた。桜香は理恵を無視して外に出る。
「ふん。民間人を襲うならともかくあたしを殺そうってんならもっと腕のいい刺客送れっていうの!」
桜香は大声で叫んだ。ガタン、と音がする。
「あの、早くここから離れましょう」理恵が心配そうな声で言う。
「あんた、本当に怖がりねぇ」桜香は馬鹿にしたような視線を向ける。
「あんたじゃ竜一の女はつとまらないわね」
理恵はむっとした。
「人が人を好きになるのにつとまるかつとまらないか、なんて関係ないと思います」
「まるで竜一があなたに惚れてるような言い方しないでよ」桜香が理恵を睨む。
「一般論を言っているんです」
こんなんじゃこれまで生きるのが大変だったろうに、と理恵は思った。
「民間人の一般論は極道に通用しないのよ。それに……」と桜香はそこで言葉を切る。
「ん? どこ見てるのよ?」桜香が理絵の顔を見てゆっくりと振り返る。
「桜香さん!」理恵が悲鳴に近い叫び声を上げた。
パァアン、と軽い音が響く。運動会で鳴るピストルのように、その音は軽かった。
桜香がゆっくりと後ろにのけぞる。
後方には銃を握る男が一人。理恵はとっさにそばにあったふたの開いているダンボールを男に投げつけた。中には発砲スチロールが入っていた。予期しない行動に男は一瞬たじろぎながらも再び銃を構えなおす。
……そこに理恵と桜香の姿はなかった。
「っ……まだ仲間がいたなんて……! 」桜香が歯軋りする。腹からは血が流れ出ていた。
「お願い。桜香さん。それ以上しゃべらないで……」理恵は桜香をおぶりながら言った。
おぶるといっても桜香の足は地面についていたから引きずる、というニュアンスに近い。
桜香の腹から流れる生暖かい血が理恵の背中を濡らした。理恵は廃工場の奥に部屋に桜香を運び込むと内側から鍵を閉めた。
「桜香さん? 」理恵が声をかける。返事は返ってこない。
理恵は慌てて彼女の胸に耳をあてた。
「失礼ね……。あなたが……黙ってろって……言ったんじゃない……」そう言ってかすかに笑う。
「あなた……一人で逃げなさい。あたしは……いいから。こんな体じゃもう銃撃てないし」
「何言ってるんですか。私がいるじゃないですか」
理恵は自分で言ってびっくりした。
たぶん、桜香の見せる弱気な表情がそう言わせたのだろう。
「ふん、……あなたに何ができるっていうのよ……」桜香は鼻で笑った。
―――私に何ができるだろう?
理恵は取り合えず自分のワンピースの袖を破ると桜香の腹に巻いた。弾は貫通していた。
このままじゃ、ダメだ。彼女が死んでしまう。
理恵ははっとして桜香のバックをあさった。桜香は荒い息をして目を瞑っている。中にはやはり携帯が入っていた。祈る思いで電話帳を検索する。あった……! 理恵はRYUICHIという名前を発見した。理恵は無我夢中でボタンを押した。
「理恵を連れて行った奴を知っているな? 」竜一は低い声で訊く。
「知っています」宝生は答えた。
「誰だ? 」
「……言えません」宝生は自分の体が震えていることに気付いた。
そう、自分は目の前の男に恐れている。殺されるかもしれない。それでも言えなかった。言えば彼女もただじゃすまない。きっと……目の前の男はそれをためらわない。
一はピクリと眉を動かした。ポーカーフェイスな表情からはその心情をうかがい知ることはできない。でも宝生はわかっていた。彼は怒っている。最高に。
「お前は俺を裏切らないと思っていたんだがな……」竜一はゆっくりと息を吐いた。
裏切るつもりなんかありません、と言いたかったが声がでなかった。
「俺は裏切り者を許さない。例えどんな事情があってもだ」竜一はひたと宝生を見据える。
「それは、よく知っています……」宝生は声を絞り出すようにして答える。 今しゃべらないともう二度と話せないような気がした。
「そうか……」そう言うと竜一は一瞬にやりと微笑む。「碓氷」
「はい」と答えて碓氷が竜一の側に寄る。
何か耳打ちしていたが宝生には聞こえない。
碓氷は部屋を出るとすぐにまた戻ってきた。片手には金槌を持っている。一瞬、宝生の方を見たがそこに同情はなかった。宝生は息を呑む。竜一はそれを受け取ると宝生に見せ付けるように軽く横に振った。それだけで宝生の心拍数は急上昇する。
竜一は机の引き出しから組員のゴールドバッジを取り出した。見た目は金だがそのほとんどは銅で出来ていることを宝生は知っていた。幹部の数十人に配るものだからしかたがない。竜一はそれを机の上に置くと大きく金槌を振り上げる。ガン、という音がしてバッジは二つに割れ、破片が飛び散った。宝生の体がびくっと震える。
「俺の親父は裏切り者の親指は切り落とすことにしていたらしい」
竜一は微笑ましい思い出でも語るように言った。
「でも、それじゃあ血が出て後始末が大変だろう? ……だから俺はもっと効率よく粛清を与えることにした」自分の手のひらにトン、トン、と金槌をあてる。
宝生は歯を食いしばるしかなかった。竜一は宝生を睨みつける。
「手を出せ、宝生。吐くまで指の骨を全部砕いてやる」
そう言ってまた口元だけにやりと笑った。
宝生が片手を差し出す。竜一はそれを掴むと机の中央に置いた。机のひんやりとした感触が宝生に伝わる。宝生はこれから与えられるであろう痛みに目をつぶった。
「目を開けろ、宝生。それも罰のひとつだ」竜一は冷たく言い放つ。
宝生は仕方がなく目を開けた。竜一は金槌を振り下ろす。ボキィ、というくぐもった奇妙な音が部屋に響く。
「うああああぁあああああ!! 」宝生は叫んだ。
親指が変な方向に曲がっている。がくがくと震える宝生の腕をしかし竜一は離さない。
「さぁて……何本目まで絶えられるかな……? 」竜一は再び金槌を振り上げる。
宝生はぶんぶんと頭を振った。それとは裏腹に絶対彼女の名前を出そうとは思わない。
ボキィ、という音が再び響く。
「あああああぁあああああああぁぁ……!! 」宝生の目から涙が零れた。
「情けねぇ声出すんじゃねぇよ」
竜一は宝生の反応を確かめながら再び金槌を振り上げる。
そのとき、救いのベルは鳴った。
トゥルルルル、トゥルルルル、と電話の着信音が鳴り響く。竜一は振り上げた金槌を机の上に置いた。無言で受話器を取る。宝生はじっとその表情を見つめた。厳しい表情が一瞬穏やかに微笑むのを彼は確かに見た。
「……そうか。わかった。……あぁ、そこにいろ」そう言って受話器を置く。
竜一は宝生に軽く微笑んだ。
「本人から連絡があった。桜香も一緒らしい。よかったな、お前の処分はおあずけだ」
竜一は上着を手に取るとすぐに部屋を出て行った。碓氷もそれに続く。
宝生はしばらく自分の折れた指を見つめていた。
「痛かったな……。泣いたのなんて何年ぶりだろう……」一人つぶやく。
軽く振ってみると激痛がしたのですぐに止めたる。
「先に病院……だな」宝生はゆっくりと部屋を出て行った。
12 壁に手をかけた二人
理恵は桜香を台の下に隠し、自分は作業机の下で息を潜めていた。ドアの鍵は閉めたし今のところ刺客の来る気配もない。しかし理恵たちがこの工場の中に再び逃げ込んだことは向こうもわかるはずだ。すぐにここが怪しまれるだろう。
桜香の荒い息だけが理恵の耳に届く。桜香の顔は真っ青で額からは汗が噴出していた。
「待ってて……もうすぐ、もうすぐ竜一さんが来るから……」
理恵は桜香の汗をハンカチでぬぐった。
「理恵……」桜香が重いまぶたを開ける。
「万一の時のために……」その目から涙が零れ落ちる。
「やめてよ」
理恵は睨みつけようとしたが自分の目も潤んでしまって上手くいかなかった。
「大事なことなの……。竜一に……今回のことは全部七瀬組のやったことだって……気をつけてって……」吐き出すように言葉を紡ぐ。
「わかった……わかったから……」
桜香は満足したように少し微笑んだ。理恵はその微笑が今までの彼女の中で一番綺麗だと思った。
「何だか……少し、疲れちゃったわ……」そう言って目を閉じる。
「え? 」「桜香さん? 」理恵は桜香を軽く揺さぶる。反応はなかった。
「うそ……うそ……」理恵の手ががくがくと震える。
瞳から流れでるとめどない涙。
ガチャ、という音がして理恵は慌てて顔を上げ、息を呑んだ。
黒いサングラスをかけた男がこっちを見て微笑んでいた。鍵は開かない。ガチャガチャとノブを回してそれに気付くと男は2,3歩下がる。ドォゥン、という音が響く。もう一度ガチャリ、という音がして今度はノブが完全に回った。
ドアが開き、男が入ってくる。理恵は後ずさった。男はゆっくりと拳銃を理恵に向けた。
―――助けて竜一さん!
理恵は心の中で叫んだ。口に出して叫びたかったが出てきた音は荒い呼吸だけだった。
―――わかった、って言ったくせに……待ってろって言ったじゃない……。
理恵の視界が涙でぼやける。
―――あぁ、私、撃たれて死ぬんだ……。
目じりに溜まった雫が頬を伝う。理恵の視界がそれで一瞬クリアになる。
それが幻覚かどうか一瞬判別がつかない。
理恵の目に一人の男が写った。目の前の男のはるか後方。思わず微笑んでしまう。
ドォゥン、という音が響いた。
遅れてコツ、コツ、という質のいい靴音が工場内に響く。彼女がひどく怯えているのを知っているくせに、わざと男はゆっくりと歩く。
男は腰を抜かして立てないでいる理恵の顔を覗き込んだ。
「竜一さん……!」理恵は竜一の首に手を回して抱きついた。
スーツに顔をうずめると柑橘系の香水の匂いがする。その匂いが理恵をひどく安心させた。
竜一は自分の撃った弾で事切れた男を一瞥すると両腕で理恵を抱え上げる。
「随分と手間をかかせたもんだな」
「ごめんなさい……竜一さん、桜香さんが……」理恵は桜香のほうを見る。
「桜香が?」竜一は眉をひそめて桜香に近づく。
理恵は息を呑んだ。
「大丈夫だ。生きている」竜一は桜香の首筋を触って言った。
「え……、だって……」
「気絶しているだけだ。あとは救急車に任せる」そう言って部屋を出る。
「ま……待って……。せめて救急車が来るまで彼女のそばに……」理恵は慌てた。
「その必要はない」竜一は即答する。
「竜一さん、怒っているの?」理恵は竜一の顔を覗き込んだ。
ポーカーフェイスの顔が幾分冷たさを含んでいる気がした。
「飼い犬に手を噛まれた気分だ」竜一は理恵を一瞥する。
―――飼い犬?
理恵の怒りのボルテージが静かに上昇する。
「飼い犬って、私のこと?」理恵は竜一を睨みつけて体を離した。
「……お前以外に誰がいる」
「桜香さんは?」
「あれは部下だ。……それを訊いてどうする?」
理恵は違う、という風に首を振った。
「わからない。竜一さんは誰を愛しているの?」
「愛? 誰を愛してるかだって?」
竜一は一瞬目を大きく開けて驚き、それから声を立てて笑った。
「ペットが偉そうな口を利くようになったものだな」
竜 一の冷たい視線に理恵は背筋が凍りつくのを感じた。
「俺は誰も愛してなんかいないし、これからも誰も愛さない。お前を飼ってるのだってただの気まぐれだ」
「うそよ!」理恵は思わず叫んだ。あの日の、夢にも近い意識が蘇る。
―――誰かに彼を愛して欲しいと思った。
「なぜ俺がうそをつく必要がある」
―――誰かの愛が、彼には必要だと思った。
「だって……だって……桜香さんはあなたのことを愛してる……!」
―――例えば、桜香さんに。
「それは俺が白竜会3代目組長だからだ」
―――自分のちっぽけな心では、とても彼の傷ついた心を受け止められないと思った。
「違う……そんな理由じゃないわ……」理恵は竜一を睨んだ。
竜一は眉をひそめる。
「臆病者」理恵ははっきりと発音した。
竜一の目が見開かれる。
「竜一さんは……子犬が好きだったから……、また失うのが怖くて周りを愛さないようにしているだけだわ。冷たく振舞うのだって……結局は自分が傷 つくのが怖いだけよ!」
理恵は叫んだ。
竜一が理恵の頬を張った。理恵は地面に座り込む。頬から赤い血が滴った。
バタバタと複数の足音が響く。
「竜一さん! 理恵さん!」碓氷が叫んだ。
「碓氷さん……向こうに桜香さんが……」理恵はドアの奥を指差した。
碓氷が竜一のほうを振り返る。竜一は軽く頷いた。碓氷は頷いてドアの奥に消えていく。理恵は少しほっとした。
竜一は一度大きくため息をつくと、屈みこんで理恵の切れた頬にハンカチを当てた。理恵も、もう何か罵る気力は失せていた。不思議なことにハンカチの上からでも、竜一の温かい手のひらの温もりが頬に伝わってくる気がした。
「自分で殴っといて……変なの」理恵は小さく笑った。
「そうだな……」そう言って竜一も少し微笑む。
理恵は無言で竜一の首に両手を回した。
「お前のほうがおかしいんじゃないか?」
「そうかもしれない……。今は、よくわからないの……」理恵は目を瞑る。
竜一はそのまま理恵を抱え上げると工場を後にして車に乗り込んだ。
私は彼をどう思っているのだろう、と理恵は思った。少なくともさらわれたあの日のような憎しみは今はない。強いようでちゃんと彼にも脆さをあることを彼女はあの夜知った。
―――私は、彼にどうして欲しいのだろう?
―――もし、今、お前はいらないと言われたら?
そう思った途端、理恵の胸が苦しくなる。なぜ?
答えの出ない深い思考に、理恵は吸い込まれていった。
「桜香嬢の暗殺、失敗したな。まったく、あの人数でどうやったらしくじるんだか」
京極は男に向かって冷たく罵った。
「すいません……」
黒いスーツを着た男は桜香に腕を撃たれ、袖から赤い液体を流している。
「まぁ、あれだな。桜香嬢は意識不明の重体だそうだからまず組の名前はわれねぇ。問題はあの民間の女だな」
大きく煙を吐くとまだ吸い始めたばかりのタバコを灰皿でもみ消す。
「すぐに殺します」
「いや、まだ殺すな。殺すのはあの女を使って三代目をおびき寄せてからだ」京極は男を制した。
「さらったら女をここに連れて来い。その時まで殺すんじゃねぇぞ」京極は男にガンを飛ばす。
「わかりました。すぐに」
そう言うと男は片腕をかばいながら部屋を出て行った。
京極は引き出しから38口径を取り出すと、ゆっくりと弾を込め始める。
「この銃はなぁ」京極は独り言を言う。
「お前とお前の親父専用なんだよ……三代目……」
13 夜に舞う幻光虫
暗い、ただ黒という色だけが周りに広がっていた。目をこらしても他に何も見当たらない。パジャマを着た自分だけが目に入る。気付くと理恵はそこにいた。
「竜一さん?」理恵はつぶやく。
声は吸い込まれるように闇に消えていった。
「誰もいないの?」
小走りにあたりを駆ける。いくら走っても目に写る景色は変わることはない。
―――ここはどこ?
息がつまるようだった。ドクン、ドクンという心臓の音が聞こえる。
「一人は……一人はいや……!」泣きたいのに涙はでない。
『……お……あ……』
『わ……り……』
理恵は後ろを振り返る。人の声?
ぼうっと白い光が二つ現れる。竜一だった。隣にいるのは桜香だ。
「桜香さん……。無事だったんですね」
桜香は理恵の言葉を無視して竜一の肩に寄り添った。桜香の肩を竜一が優しく抱く。
目を逸らすこともできない。
『桜香……愛している』竜一が囁く。
『私もよ、竜一……』桜香が竜一の頬にそっと触れる。
―――竜一さん……!
『私たち、愛し合っているのよ』桜香が勝ち誇ったように言った。
「うそ……」
『うそ? お前が言ったんじゃないか。桜香が俺を愛しているって。俺も彼女を愛している』
竜一が微笑む。理恵の見たことのない、満面の笑み。
『理恵、もうお前はいらない。好きにしていいぞ』
―――ズキン。
『あたしの自家用機で帰るといいわ。良かったわね』
「待って……竜一さん。私、まだあなたに話したいことが……」
『お前の話を聞く必要はない』冷たい声が響く。
『お帰りなさいな。実家に』馬鹿にしたような笑い声
―――あ……あ……。
「あぁ……!」理恵は頭を抱えてうずくまった。
理恵は目を開けた。見慣れた天井が目に入る。電気はついていない。
―――夢……。
瞳から涙が零れ落ちた。最近、よく寝ながら泣くようになった、と自分でも思う。
確認するように横を向く。すぐ隣では竜一が小さな寝息を立てて眠っていた。
うれしさで彼の名を呼びそうになって慌てて堪える。起こしてはいけない。
きっと正夢になる。いつかは……離れ行く運命にあるのだ。
「……っ……つぅ……」
理恵は口を押さえ、反対側をむいた。嗚咽が漏れそうになるほど瞳が熱かった。
雫が枕をぽたぽたと濡らす。いつもそうだった。声を上げて思い切り泣いたことなど一回もない。何かを求めて泣いたことなど一回もない。いつだって、それは失ったことへの悲しみだった。
「眠れないのか?」
その声に理恵はびくっと肩を震わせた。振り返ると竜一が目を開けて理恵を見ている。
「泣いているのか?」優しい声だった。
竜一は軽く首を起こすと、片手で理恵の瞳から零れ落ちる涙をすくった。
時折見せるこの表情が、声が理恵を迷わせる。誤解させる。どうして最後まで冷たくしてくれないのか。きっと、もう、もう遅いのに。
「起こした?」理恵はすまなそうな顔をする。
竜一は少し微笑むだけだったが、眠そうだった。
「ごめんなさい。気にしないで。大したことじゃないの」
「お前は大したことじゃなくても泣くのか?」
理恵は何も言えなかった。
「さすがに……眠いな……」そう言って体を起こそうとする。
理恵は慌てて竜一の肩を抑えた。
「眠れないんだろう?」
「だからって竜一さんがおきる必要はない……」そう言うと竜一が理恵を軽く睨む。
「コーヒーでも淹れろよ」完全に起こしてしまったらしい。
理恵は諦めてベッドから抜け出た。なのに、どこかうれしかった。
ゴポゴポと音がしてコーヒーの匂いが部屋中に広がる。豆は竜一の好みにブレンドしてあるものだった。熱いコーヒーの入ったカップを渡すと、竜一は礼も言わずにそれを啜る。
二人にとってそれは重要なことではない。
理恵はじっとそれを見ていた。そして、彼に話したいことを考えていた。けれど、一番言いたいことは言えなかった。
「竜一さん。私の小さいころの話、聞いてくれる? ほら、竜一さん、私に小さいころの話してくれたでしょう?」結局、遠回りなことを口にする。
「えらく急だな。……好きにしろ」そう言ってにやりと笑った。
「私は無口で、友達といても自分から話しかけることができない子供だったの。クラスのリーダーとかいじめっ子に何か言われてもじっと黙ってた」
「今と同じだな」
理恵はクスリと笑った。
「家は農家でね、学校が終わるとすぐに家に帰って畑に出たわ。だから友達も少なかったけど、さみしいとかは思わなかった。お母さんとお父さんは私を愛してくれてたし」
「それは、良かったな」どうでもいい、という風に手を振る。
「つまらない?」理恵は訊いた。
「いや、興味がない」竜一はまたコーヒーを啜った。理恵は頬を膨らませる。
「もういいです。止めます。こんな話……」
「話したいことがあるなら話せよ。俺の興味なんて関係ないだろ」
「関係あります」理恵は立ち上がろうとした。その腕を竜一が掴む。
「俺はお前が興味を持つと思ってガキのころの話をしたわけじゃねぇ」
「じゃあ私に話したくて話したの?」理恵がその顔を覗き込んだ。
竜一は眉をひそめ、にやりと笑った。
「いやにつっかかるな」
「大事なことなの。答えてください」理恵は竜一を睨みつける。
しばらく睨み合う。先に折れたのは竜一だった。
「……そうだな」ポツリと横を向いてつぶやく。
その一言に、理恵は満面の笑みを浮かべた。
「週末も友達と遊びに行ったことなんかなくて、たまに伯父さんの家に行くの。それが私の一番好きなことでね。伯父さんの家にはギターがあって、とっても上手なの。私が行くと必ずギターを弾きながらカントリー・ソングを歌ってくれるのよ。それからだったな、私が歌に興味を持ったのは」
理恵は竜一の表情を盗み見る。ちゃんと聞いてくれているようだった。
「でも、あるとき伯父さんがそのギターを私にくれるって言ったのよ。なんで? 大事なギターなんじゃないの? って聞いたら、だからお前に持っていて欲しいんだって。でも、そうしたら伯父さんギター弾けなくなっちゃうじゃないって言ったら、俺はまた新しいのを買うからいいんだって言ったの。私、とうとうそのギター、もらっちゃったのよ。そしたら……」
「死んだ?」竜一には先が読めた。
理恵はコクリと頷いた。
「ガンだったの。伯父さん、笑ってたし、私も小学生だったから気付かなかった」
竜一はまたコーヒーを啜った。コーヒーはぬるくなりかけていた。
「伯父さんがなくなった日ね、泣きながらギターの手入れをしていたら、不思議なことが起こったの。……弦が切れたの、同じ日に。私、大きな古時計思い浮かべてね、修理せずに結局伯父さんのお墓にお供えしたの」
「大きな古時計?」竜一が眉をひそめる。
「え? 竜一さん、大きな古時計知らないの?」理恵は驚いた。
「知らん」
この人と自分のバックグラウンドはこんなにも違うのか、と理恵は改めて認識した。
「それで?」竜一が先を促す。
「それだけ……」理恵は少し微笑んだ。「私の人生って、落ちがないの」
「……何が言いたかったんだ?」竜一はあからさまに不機嫌な顔をした。
「私が家族に愛されて幸せだったことと、歌うきっかけ、かな」理恵は上機嫌だった。
そして少しだけ、竜一がいいな、と言ってくれることを本当は期待していた。そういう家庭を彼が欲してくれていればいいのに、と思う。
「それじゃあ俺に引き離されてさぞかしご立腹だろうな」
竜一はカップをテーブルの上に置いた。コーヒーは完全に冷めている。
「少なくとも、今は私、立腹してない」理恵は即答した。
竜一は驚いて理恵を見る。
「寝ぼけているのか?」真面目にそう訊いてきた。
「……そうかもしれない」
理恵は俯いて二人分のカップをキッチンに運んだ。
キッチンから戻ると竜一はクローゼットを開けて、ガウンを取り出している。
「竜一さん、出かけるの?」理恵がびっくりして訊いた。
「館内だ。お前も何か羽織れ」それだけ言うと竜一は部屋の外に出て行く。
理恵は慌てて後を追った。
小さい倉庫のような部屋に通される。そこは埃っぽくて実際、テーブルも椅子もなかった。竜一は明かりをつけると奥の棚の扉を開けた。理恵はその様子をじっと見つめる。
「竜一さん、さっきはつまらない話を延々とごめんなさい」
理恵はここに来るまでずっと気にしていたことを謝った。
「いや、おしゃべりなお前がめずらしかった」振り向かないで答える。
しばらくゴソゴソ、という音が響いて竜一は一本のギターを取り出した。
「……竜一さんが弾くの?」理恵は驚愕した表情を見せた。
「俺は楽器に触ったことがない」
竜一は睨みつけた後、それを理恵に押し付けた。
「昔碓氷がよこしたやつだ。俺は使わないからな。お前が使えばいい」
「私が?」
理恵はギターをまじまじと見つめる。手入れはないが弦を取り替えればなんとかなりそうだった。品はかなりいい。
「カントリー・ソングが歌えるな」そう言って竜一はにやりと笑った。
理恵はそのギターをそっと抱きしめる。
「練習したら、竜一さん、聴きたい?」
「……そうだな」竜一は少し微笑んだ。
優しく微笑むときの口元が理恵は好きだった。それはめったに見ることはできない。今日は大サービスの日ではないだろうか。
理恵はその表情をじっと見つめる。
「私が、いつか竜一さんから離れてもギターを持って歌いに来てもいい?」
「俺はお前を手放さない」竜一はむっとしたように即答する。
「本当に?」理恵は竜一に歩み寄る。
「ああ」微笑んではいたが、竜一の目は真剣だった。
―――目が覚めたときはもっと欲張りだったのに。
理恵はその一言で心が満たされた。恋人としての愛じゃなくてもいい。どんな感情であれ、それが自分と彼を繋いでくれるのであればそれは素敵な赤い糸だと信じたかった。
理恵は竜一の腰に手をまわすと竜一の胸に顔をうずめた。
「お前は……俺から離れたいんじゃないのか?」竜一は理恵の髪をそっと指先で梳く。
「ペットでもいい。愛なんかなくってもいい。乱暴でだってかまわない」
理恵は竜一の質問を無視した。さっき見た夢が押し寄せる波のように思考にちらつく。
「邪魔じゃないのなら……傍において……」
竜一は驚いた顔をしているに違いなかった。
「理恵……?」
「私は銃なんて持てないし、役になんて立たないけど、できれば……結婚しないで。お前は要らないって言わないで……」
握り締める手に力がこもる。涙だけは必死で堪えた。
顔を上げると竜一がじっと理恵を見ていた。きっとわけがわからない、と思っているに違いない。理解なんて後回しでいい。
理恵は竜一の頬を掴むと、背伸びをするようにしてキスをした。理恵からキスをするのは初めてだった。
朝、理恵はベッドの上で目をさました。日の差し込み具合でもうお昼近いことがわかる。すっかり寝入ってしまったようだ。隣を見るとやはりもう竜一の姿はない。シーツをたぐり寄せると柑橘系の香水の匂いがした。それは竜一の匂いだ。理恵はゆっくりと着替えてコーヒーを淹れた。コーヒーを飲みながらじっと晩にもらったギターを見つめる。
カップを置いてそっと弦にふれる。ボーンという酷く錆びた音がした。もう一度現に触れるとまたボーンという酷い音がした。
碓氷さんに頼んで弦を代えてもらおうか。
彼にあげたはずのギターを私が貰ったと言ったら碓氷さんは怒るだろうか。
理恵は思わず微笑んだ。コンコン、と部屋がノックされる。
「碓氷さんかな?」理恵はギターを持ったままドアに駆け寄り、すぐに開けた。
そしてその場で息を呑む。
黒いサングラスの男が銃口を理恵に突きつけていた。
「ちょっとばかし付き合ってもらうぜ。民間のお嬢さん」そう言ってにやりと笑う。
七瀬組! 理恵は舌打ちした。忘れていた。こんなに大事なことを!
銃を突きつけられたままグイと腕を引かれる。
「こんな荷物は置いていってもらおうか」
そう言って理恵からギターを奪うと部屋の中に放り投げ、ドアを閉める。
「しゃべるなよ。声を出したらその場で頭を吹っ飛ばすからな」低い声で男が言う。
理恵は口を手で押さえられる。ドアの横には見張りの男が頭から血を流して倒れていた。何度見ても慣れることはない。そのままエレベーターを降りて、裏口から理恵は外に連れ出される。黒いセダンの車にはやはり七瀬組のマークが入っていた。
ドアが閉められた後、投げられたギターはガン、という音を立ててフローリングに落ちた。誰もいない部屋はそれからしばらく無音だった。何分か経ってピリッと何かが剥がれるような音が一度。その後バチンッという音を立ててギターの弦が切れた。
14 ガンの所持者
連絡はすぐに竜一の下に届いた。
「七瀬組もこれで終わりだな」
竜一は部屋の中に転がっているギターを手に取った。
よく見ると弦が切れている。
「理恵さんが向こうにいるのが厄介です。どうしますか?」碓氷は心配そうに訊く。
「決まってる。理恵が殺られる前に全力でひねり潰す」
竜一の低い声が部屋に響いた。
「……できますか? そんなこと……」
「親父のときとは違う。今回は相手がわかってる。組員が俺とアイツのどちらを選ぶと思う? 碓氷、でかけるぞ」竜一は自信ありげににやりと笑った。
裏切り者は許さない。どこまでも、追いかけて、必ずつぶす。
目が覚めるとまた真っ暗だった。一瞬、もう夜になってしまったのかと思ったがそうではなかった。目隠しされている。手足も縛られていて理恵は地面に転がされていた。つるつるとした地面の感触から恐らく室内であると予想する。
―――そうか……あの黒いサングラスの男にハンカチを鼻に当てられて、眠くなって……。
「ここは……どこなんだろう?」
「お、お目覚めかい? 高瀬理恵、だっけか」少し離れたところから声が響く。
「何で……こんなことするの?」理恵は唇を噛んだ。
「誰なの? とは訊かなくていいのか?」
「七瀬組なんでしょう?」
「……やっぱり知ってたのか。連れてきて正解だったな」
それはくぐもった声だった。恐らく、たばこでも吸っているのだろう。
「竜一さんを殺す気?」理恵は声のするほうに顔を向ける。
「そのつもりだ」声は即答だった。
「お前を殺すとでも脅して、組長には死んでもらう。もちろん俺の銃でな」
「それを竜一さんが気付かないとでも思ってるの?」
「気付いたってどうしようもないだろう。あんたがここにいる、という事実はいくら考えたってかわらねぇしな」
それもそうだ……。
―――傍において、なんて言っといて、早速迷惑をかけるのか……。
理恵は自分の状況が情けなくなった。泣きたくなった。死んだっていい。 今、彼にだけは迷惑をかけたくなかった。彼は自分を切り捨ててくれるだろうか。間違っても自分のためにここに来はしないだろうか。
自分のせいで彼に何かあったら、彼の傍にいられなくなる。周りがそれを許さないだろう。
それは嫌だ……。死んだっていい。あの女は傍に居るべきじゃなかった、とは言われたくなかった。
その顔を思い浮かべるだけで、胸が高鳴る。睨み付けてくる瞳も、今は愛おしかった。
―――そうだ……愛おしい。何でもっと早く気付かなかったんだろう。
理恵の目から遅れて涙があふれる。それは頬を伝うことなく、目隠しの布にしみこんだ。
バーで目が合ったときから、惹かれていた。
頭に来ることが多かったが、時折見せる優しさを知っている。
やくざのくせに子供のころ見たヒーローのように、必ず助けに来る。
本当は寂しがりやで、泣くこともあるということを知ってしまった。
そのときから、世界が変わってしまった。
傍にいたいだけじゃない。
彼を愛したかった。愛していると伝えたかった。
「今更、手遅れだ……」
「あ? 何言ってるんだ……? 何だ、泣いてんのかよ……」男は理恵を見て言った。
「ねぇ、目隠しを外してよ……」
「どうせ死ぬんだから、関係ないだろう」
「どうせ死ぬんだから、見納めしたいの。いいでしょう?」
できるだけのことはしよう。
「……それもそうだな」男がゆっくりと近づいてくる。
彼が死ぬくらいなら、私が死んでやる。
目隠しが解かれた。
「ここは……」
桜香が撃たれた工場だった。
「悪趣味……」
理恵は自分を取り囲んでいる男たちを見た。
皆、銃を持っているのだろう。真ん中でこっちを笑いながら見ている男が七瀬組の組長だろうか。
「意外に落ち着いてるんだな」男はシックなスーツに身を包んでいた。
「民間の女だって聞いたから、震えてでもくれるもんだと思ったぜ」
そう言って下品な笑い声を上げる。
理恵は黙って男をにらみつけた。
竜一の乗った車が止まった先は、バー、「Distance」だった。まだ昼間なため、店は開店していない。
チリンチリン、と音が鳴って、ドアが開く。鍵は閉まってなかった。
「く、組長……」
箒がけをしていたお爺さんが驚きの声を上げた。
「リデルはもう来ているな? どこにいる」竜一は老人を睨み付ける。
後ろにいた数人のやくざがそれに合わせて銃を抜いた。
「待ってくださいっ。まだ、夕方にならないと彼女は……っひっ!」
バァアン、と銃声が響く。老人の足元の床から、白い煙が立ち上った。
竜一はそのまままだ温かい銃口を老人の頭に突きつける。その手は少し震えていた。
碓氷が密かにそれに気付く。
「俺は今、非常に気が立ってる。キサマが何をしようとしなくても撃ちまくって脳みそをひきずりまわしてやりたい気分なんだ。それ以上くだらねぇこと言ってるとぶっ殺すだけじゃすまさねぇぞ!」
びくっと老人の肩が跳ね上がった。
「そっ、そんな……」
「おじいさん。気にしなくていいのよ。私ならここにいるわ」
そう言って控え室から綺麗に髪のセットを終えたリデルが姿をあらわした。真っ赤なロングドレスの深いスリットから白い足が見え隠れする。
「京極はどこにる」
「私が素直に答えると思う?」リデルはにっこりと笑った。
「これでもか?」そう言って銃口をリデルに向ける。
リデルはふふっと微笑んだ。
「私を撃ったら京極も彼女の居場所もわからないわよ。京極が逆上して彼女を殺してしまうかもしれない。それでも撃てるかしら?」
「…………」竜一はしばらくリデルを睨み付けた。
「いくらだ?」低い声で切り出す。
「竜一さん!」碓氷が叫んだ。
「駄目です! 彼女がたかり屋なのは知っているでしょう?」
「失礼ねぇ。それだけ私が有用な情報を持っているってことよ」リデルは頬を膨らませた。
リデルはゆっくりと竜一をつま先から頭の天辺までジロジロと眺めた。
「いい男だからまけてあげたいんだけど、京極は私のお得い様だったのよねぇ……」
「まける必要はない。いいからとっとと金額を決めろ」イライラしたように言う。
「竜一さん!」碓氷がまた非難の声を上げた。
リデル突然はははっと笑い声を上げた。まるで少女のような笑い方だった。
「いいわねぇ、私もそんな風に思われてみたかったわぁ。じゃあ、これでどう?」
そう言って指を3本立てる。
「300万?」碓氷がつぶやく。
「馬鹿。3000万よ」
後ろに控えていた組員達にざわっとした空気が広がった。
「天下の白竜会の組長様だもの。それぐらい。それに、彼女が大事なんでしょう?」
完全に足元を見られていた。
「竜一さん。やっぱり私は信用できません」碓氷は竜一に耳打ちする。
「情報なら信用できるさ。碓氷、小切手をよこせ」
碓氷はしぶしぶと小切手を手渡した。
竜一はそれに走り書きをして、リデルに渡した。リデルはうれしそうにそれを受け取り、金額を確認した。
「ええぇええ!」
リデルは思わず叫び声をあげる。思わず出た声は色気のない普通の女性の声だった。
「ご……5千万……」
「それで京極を裏切れ。ちょっと呼び出してくれるだけでいい。安いもんだろう?」
そう言ってにやりと笑う。
組員たちはより一層ざわざわし始めた。
リデルはもう一度ジロジロと竜一を眺める。そしてうんうん、と頷いた。
「いい男♪ 何でもしちゃうわぁ。わ・た・し♪」
そう言って竜一にとびきりの笑顔でウインクする。
碓氷の顔がますます渋くなった。
京極の携帯に一本の電話が入る。ピーシャラリー、と何とも場に似合わない着信音に理恵は思わず顔を上げた。
「何だ、リデルか」男は視線を理恵に向けたまま、少し微笑む。
彼の笑顔を見て恋人だろうか、と理恵は推測した。リデル、という人に理恵はバーで会ったことがある。そしてそこで竜一に出会った。その人と同一人物なのだろうか。愛している人がいてもこんなことをするのだろうか。
電話の向こうでリデルは今すぐ会いたい、と言った。
「夜まで待てよ。わかってんだろ」にやにやと笑いながら京極は言った。
何の話をしているのか理恵にはさっぱりわからない。
我慢できないのよぉ、今すぐ、きてぇ。と甘えた声が携帯から京極の耳に入る。ねっとりした声は携帯という媒体を通してもその効力を失うことはなかった。
「しかたねぇな……」京極は携帯を切った。
「おい、ちょっとでかける。組長に連絡しておけ。聖妻候補を死なせたくなかったら一人で来いってな」
そう言ってガラガラッと扉を開ける。
「あ、あと、何かあったらすぐ連絡入れろよ」ドアはピシャリッと閉じられた。
いきなりドンがいなくなってしまった。これを幸運と呼んでもいいのかどうか。理恵は残された彼の組員たちを見回した。皆、幾分、今のでやる気が削がれたような顔をしている。それはそうだろう。ドンがこんな大事なときに逃げることができるだろうか。理恵は見張りの人数を数える。
―――見張りだけで、10人もいる……。
逃げるのは無理かもしれない……。理恵はしばらく対策を練った。
じっと床を見つめて考える……。チクタクと時計の針だけが、無常に動く。理恵は対策を練った。
―――逃げるのは……無理かもしれない。
理恵は最悪の作戦に出た。
「すいません。足の縄をほどいてくれませんか?」
理恵はなるべく申し訳なさそうな顔をした。
「何でだ?」見張りの人が怪訝そうな顔をして答える。
「トイレ行きたいんです。手はいいから、足だけ、いいでしょう?」
ここで、この場でやれ、という変態的な答えが返ってこないことを理恵は祈った。
「まぁ、いだろう」
男がナイフを取り出して足の縄に切れ込みをいれる。理恵はほっとした。条件は、揃った。
「奥に水は流れないがトイレがある。行って来い」
理恵はゆっくり立ち上がって男が出た出口との距離を測った。
「そんなところじゃ嫌です」理恵は頬を膨らませる。
「人質がわがまま言うんじゃねぇよ」
見張りがさすがにいらいらして銃口を向ける。
「撃てば? 撃ったら人質がいなくなるわよ」
理恵はまっすぐ出口に向かって走り出した。
「待てっ! 何を無駄なことを……捕まえろっ」
バタバタと後ろから足音が近づいてくる。外へ出てもまだ別の見張りがいるだろう。
それでも理恵は無我夢中で出口に向かって走った。
突然、バァアン、という銃声が響く。足に激痛が走った。
「つぅっ!」
理恵はその場に倒れこむ。左の太ももから血が流れ出ていた。
「馬鹿! 人質を傷つけるな!」遠くから叱責が飛ぶ。
理恵はその間に取り囲まれた。
「逃げようとするからこんな痛い思いするんだぜ。お嬢ちゃん」
そう言って見張りの一人が理恵の腕を掴んで引き上げる。
理恵はその男の胸に飛びついた。一瞬、男の動きが止まる。理恵は手を男の内ポケットに突っ込んだ。固い、確かな手ごたえ。
「あっ!」と男が叫ぶ。
理恵は男の内ポケットから銃を取り出し、それをそのまま自分の頭に当てた。
15 farなのかlongなのか
京極は「Distance」で一人酒を飲んでいた。
目の前のステージでは真っ赤なドレスを着た美人が、自分ひとりのために歌を歌っている。
京極がリデルと会ったのは丁度3年前。2代目を殺した後だった。
初めて見たときから最高だ、と京極は思った。何よりも美人だったし、正直な女だった。
彼女が京極を求める理由は一つ、金でしかない。それでも義理や人情、なんてものよりよっぽどシンプルで綺麗な理由だと京極は思った。
後ろからコツコツと質のいい靴音が響く。京極はグラスに入っているロックを一気飲みした。
「良い飲みっぷりだな」聞きなれた上司の声が響く。
わかっていたのか、というと嘘になる。でも、どこかでその可能性を否定できないでいた。
リデルが歌うのを止める。最後まで歌ってほしかった。
「……リデルに聞いたのか?」
「ろくでもない女に入れ込んだもんだな」竜一はにやりと笑った。
ひっどーい、とリデルが口を挟んだが、二人はそれを無視する。
「意外といい女なんだぜ。俺が今まであった中では一番だ」京極はゆっくりと立ち上がる。
「その運のなさがキサマの致命傷だ」竜一はリボルバーを京極の頭に突きつけた。
「二代目もそうやって俺の頭にハジキを突きつけたよ。3年前」
「よく生きていられたな」
竜一は思考の片隅で自分の親父のことを思い出していた。
二代目としての尊敬と、一人の人間としての憎しみ。
今更誰にも嫌いだなんて言わない。そんな青臭いガキではとうになくなっている。
「なぁ、三代目。俺はそのときどうやったんだと思う?」京極は楽しそうに笑った。
竜一は眉をしかめた。
「!!」
突然わき腹に感じた痛みに竜一は銃をおろした。見るとYシャツが破れたところから血がにじみ出ている。
カンっと後ろの壁に何か鋭いものが突き刺さる。横目で振り返った。ダーツの矢だ。
そんなものをスーツに仕込んでおくのか……。竜一は正直感心した。
カチッと音がして、今度は固いものが竜一の頭に押し当てられる。
「さすがに避けたか……。でも、形成逆転、だな」
にやりと笑う顔が竜一の殺意を無性に誘った。思わず口から笑みがこぼれる。
「すげぇよ三代目。二代目はここで笑わなかったぜ」
―――ということは避けはしたのか。……あの年でよくやったもんだ。
慌ててバラバラと控えていた組員たちが飛び出す。
「どちらにしろ俺は終わりか」京極はため息をついた。
竜一はただ笑った。
「笑うんじゃねぇよ。俺は死んでもお前を殺すんだぜ」京極は竜一の顔を睨みつけた。
―――親子揃ってまるでてめぇなんかお呼びじゃねぇって目だ。
京極の頭を3年前の事件がよぎる。二代目に忠義を尽くし、出世街道を歩んでいた自分。
子分家組長まで就任し、二代目にも認めてもらえたと信じていた、二代目を見抜けなかった自分の浅はかさ。全てをかけていた親分に裏切られ、お前は用済みだと言われたあのときの口惜しさ。
「京極。親を裏切る覚悟はできてるんだろうな……?」低いバリトンボイスが響く。
生まれつき備わった威圧感。二代目譲りの眼光。
「忠義なんてクソくらえだ。二代目も、お前もどうせ組員なんか捨て駒くらいにしか思ってねぇくせに」京極は無意識に歯軋りした。
竜一はそのセリフを不審に思った。二代目など知らないが、自分が京極を邪険に扱った覚えはない。竜一の態度は下足番相手だろうが子組頭相手だろうが変わりはない。
「……親父と何かあったのか?」
「お前が知る必要はねぇ。ここですぐ死ぬんだからな……」
竜一は額に銃口を突きつけられたまま、ただ京極の目をまっすぐ見据えていた。
―――きっとこいつは地獄の閻魔の前でもこのツラなんだろう。
「……三代目、今その頭の中で何考えてんだ……?」
京極はそう思ったら思わず聞いてしまった。
「……壁に刺さってるダーツ……」竜一の流し目につられて京極も壁を見る。
ダーツには竜一の血がついていた。
「俺の腹に刺さったままだったら、この目の前にある生意気な頭をぶっ刺して脳みそ引きずりだせるんだがなーって」
穢れのない純粋な殺気、言葉にすればそんな感じであった。
その正直さに、京極は笑った。
一瞬の、隙だった。竜一の顔つきが変わり、その足が京極の両足を払う。
「なっ!」京極は大きくバランスを崩した。
カランカランと銃が転がる。その銃を竜一が足で遠くに蹴りやった。
竜一は返す体で壁に刺さったダーツを抜き取り、そのまま京極に覆いかぶさる。
京極は慌てて顔を上げようとして、そこでフリーズした。……上げられなかった。
眼球の上ぎりぎりでダーツの矢が止まっている。
「動くなよ。……目が潰れるぞ」
威圧的な目が京極の目を射抜く。
「どうせ殺すつもりなんだろう。とっとと目でも頭でも潰せばいい……」
その眼光に耐えられなくて、京極は目を瞑った。
「死ぬのはまだだ。なぜ二代目を殺した」
「……憎かったからさ。俺を裏切った二代目が許せなかった。それだけだ」
「なぜ俺も殺そうとした」
京極は目を開けた。
竜一の真っ直ぐな目が、そこにあった。
「……信じられなかった。二代目に裏切られたときから、三代目も二代目も同じだと思った」
「……そんなに俺は信用できないか?」
京極はその声にびっくりした。気のせいだ。この男が一瞬でも悲しそうな顔をするわけない。
竜一立ち上がるとダーツを壁に突き刺した。
「京極、理恵の場所はどこだ」
「……前に襲わせた廃ビルだ」
竜一は京極を一瞥して、出口に向かった。
「待て! 俺を殺していかないのか!?」京極は叫んだ。
冗談じゃない。三代目以外に殺されるなんてまっぴらだった。
チリンチリンとその場に不似合いな音を出して、ドアが開く。
竜一は顔だけ振り返り、口を開いた。
「俺は親父の死なんてどうでもいい。テメェの裏切りが原因でタマ落としたって言うんならなおさらだ。……一週間、キサマに猶予をやる。それでもまだ俺が信じられねぇってぬかすなら、お望みどおりに脳みそ引きずり出してこの手でひきちぎってやる」
「…………」
店を出る竜一の後を、何人かの組員が追う。
京極は一人残されてただただ、そこに佇んでいた。
「近寄ったら死ぬわよ!」理恵は男たちに向かって叫んだ。
心臓がバクバクと鳴り、息が詰まりそうだった。何よりも死にそうに足が痛い。
理恵はゆっくりと後ずさり、ドアから外に出た。
「逃げても無駄だ」黒ずくめの一人が答える。
「どうせ、民間の女に撃てはしない……」
理恵の額から汗が流れる。足から燃えるような熱さを感じた。目まで霞んでくる。
それでも理恵は足を踏ん張った。
自分は何をしているのだ。満足に歩けもしないくせに。
眩しい太陽の光が理恵の体を焼いた。
「ほら、誰もこないだろう。観念しろ」黒ずくめの男がこっちに近づいてくる。
―――竜一さん……。もう、だめかもしれない。
ガクン、と撃たれた片足が力を失くして地面についた。
力をいれるが、びくともしない。黒ずくめがやっぱり、という顔をして理恵に近づく。
理恵は怖かった。捕まって自分がどういう扱いをされるのか。自分のせいで竜一が死ぬことになんてならないのか。
―――もういい。
理恵は銃口を自分の口に含んだ。直後後頭部に、何か人の手が触れる。それは力強く、乱暴に理恵の首の根元を直撃した。
―――いたっ、何?
一瞬、頭の中が真っ白になったあと、理恵はその場で卒倒した。
16 drug eat me
組員たちが工場内に突入する。竜一はその後に続いて中に入った。レジスタンスの頭はもういない。にも関わらずそこで激しい銃撃戦が起こった。
理恵の姿は見当たらなかった。竜一は追い詰められ、ちりぢりになっていく黒ずくめ達を注意深く見守った。
黒ずくめの一人が銃撃戦の中、きょろきょろと状況をうかがった後部屋の奥に走りこんでいく。
竜一はそこだ、と確信した。駆け足でその後を追う。
「竜一さん! こんな中で単独行動しないでください!」
碓氷が慌ててその後を追った。
部屋の奥には3人ほど京極の手下たちが隠れていた。
その中央に、白いワンピースを着た見覚えのある女性を見つける。
「理恵……!」竜一の声にも理恵は反応を示さない。
―――……気絶しているのか。
竜一の銃弾が、まず一人の頭を撃ち砕いた。すぐに碓氷の銃弾がもう一人の手を貫く。
残った一人はうわぁー、と叫びながら更に奥の方へ逃げてしまった。
取り敢えず深追いは後回しだ。竜一は理恵の頬を軽く叩く。
「理恵、しっかりしろ。俺だわかるか?」
うぅ、といううめき声が漏れる。竜一は眉をひそめ、理恵の足を見て言葉を失った。
片足に撃ち込まれた銃弾は貫通していた。にもかかわらずその足を酷使したのだろう、太ももから足首にかけてまで真っ赤な血で染まっている。竜一は怒りで気が遠くなるような気がした。
「理恵。大丈夫だ。すぐ病院に連れて行くから……」
理恵がうっすらと目を開ける。乾いた瞳に竜一の姿が映った。
「りゅう……い……ちさん?」
竜一はその瞳がどこかおかしいことにすぐに気がついた。
竜一が理恵を抱き寄せ、その目を覗き込む。。
「竜一……さん。怒って……ないの?」
竜一は理恵が何を言っているのかわからなかった。
「ど……こにいちゃ……うの?」
目の焦点は不安定に揺れ、呼吸もおかしかった。
「お前……」
竜一は理恵の首の後ろに、注射器の針で刺されたような跡を見つけた。
―――薬か……クソッ!
竜一は壁にこぶしを打ち付けた。切れた皮膚から血がにじみ出る。
腹をダーツが掠めたときよりもよっぽど痛かった。
「どこ……にいるの?」
「俺はここにいる」
理恵の耳に竜一の声は届いていないようだった。
「お荷物に……なるくらいなら……」
―――死にたかった。
喉がからからに渇いているのか、理恵の声はひどく聞き取りづらい。それでも、理恵の口の動きで何を言っているかわかった。
これもうわ言なのか。竜一は理恵の意識が今、とんでもない地獄を彷徨っている気がした。
「勝手に死ぬのは俺が許さない。俺のいないところで死んでみろ。地獄でもう一度殺してやる」
「竜一さん、行きましょう。理恵さんの体が心配です」
碓氷が周りの状況を目で確認しながら言った。
竜一が理恵を抱え上げる。理恵は足の痛みに無意識に顔をしかめた。
ビル内ではまだいくつもの銃声が鳴り響いている。
「少し、我慢しろ。悪いがまだ戦闘中なんだ」
理恵は静かに目を瞑った。
竜一は自分の腕の中で静かに目を閉じる理恵を見つめた。寝ているわけではないだろうが、穏やかな顔だ。皮肉にもこれが薬の力なのだろうか。
理恵が自分の前で安堵した顔を見せるなんて考えられなかった。竜一の記憶にある理恵の表情と言えば、大概が恐怖に震える顔か、泣き叫ぶ顔か、怒っている顔しかない。竜一は理恵から全てを奪ったのだ。奪うだけではない。今なおこうやって自分の争いごとに巻き込み、傷つけ続けている。
それなのに、自分は理恵を手放すのが恐ろしくてしょうがない。
―――俺はまた同じことを繰り返すのだろうか。
「竜一さん」碓氷が声をかける。
「何だ」
「戻ったら、全てが片付いたら、理恵さんのことをはっきりさせるべきです」
碓氷は淡々としながらも、厳しい口調で言った。
「…………」
「今回の抗争でこちらの死傷者も出ているのですから。ただのカタギの人間、じゃ示しがつきません。それに、理恵さんとあなたのためにも」
―――俺はまた、同じ過ちを繰り返すのだろうか。
「わかっている。全てが終わったら……その時は……」
竜一は、目を瞑る理恵の頭をそっと撫でる。
「―――理恵を自由にする」
碓氷はただ悲しそうな目を竜一に向けた。
つづく
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2004/07/24(Sat)16:36:12 公開 / 笑子
■この作品の著作権は笑子さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
久々の更新です。ペーストが上手くいかなくて更新にすごい時間がかかってしまいました。(5分の予定が1時間笑)。もうストーリー忘れている方々もいるかも・・・。
そんな方はこれを機に1から読み直してくださ(以下自主規制)。
本当に浮気者ですいませんです(ナナのことを言っているらしい)。多少手直ししました。
初めての方も、長いですが是非おつきあいください。
では。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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