-
『貴方のいる世界』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:冴渡
-
123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
確実なモノなんてこの世にはない、と。
誰が私に言ったのだろう。
全てが一切の色彩を無くし、全てが反転する。
救いも無く、希望も無く。
何もかもを飲み込んで。
全てを、かき消すように。
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
昔に戻ったみたいだね。と、桐生 萌(きりゅう もえ)は言った。
頷くように、桐生 妙(きりゅう たえ)は微笑んだ。
五月のゴールデンウィーク、萌と妙は実家に遊びに来ている。
春の穏やかさは消え、夏の鋭い日差しのする暑い日だ。
萌と妙は大変仲の良い姉妹で、姉である萌は今年で小学六年生になる。妹の妙は小学四年生だ。
実家の庭は大きく、萌と妙は庭でのんびりと懐かしさに浸っていた。庭には祖母の作った畑が並んでおり、端では鶏がコケーッ、と鳴いている。
すると、遠くから母の声がした。
「萌、妙、外にいないでこっちにいらっしゃい!」
母に呼ばれて、縁側へと近づく。すると、後ろからおばあちゃんが冷えたお茶を持ってきてくれた。
二人とも、お礼を言うとお茶を一気に飲み干す。
おばあちゃんは何度も何度も、よう来たね、と笑った。
コップを置き、しばらくおばあちゃんと会話してから萌がせがむように母に聞いた。
「ねぇ、お母さん、裏に行って来てもいい?」
「駄目よ!迷子になったらどうするの?!」
それは予想し尽くした返事だった。小さい頃は勝手に遊びに行っていたが、それを母が快く思っていなかったことを知っていたからだ。
萌は少しふて腐れた。なだめるように妙は、仕方ないよ、と言った。
もう、と怒る母に向かって、おばあちゃんは面白そうに微笑む。
「まぁまぁ、いいじゃないの。行かせてあげれば。あの子たちだって大きくなったし、昔よくあそこで遊んでいたから今更迷子になる事だってないでしょうや?」
もうお母さんはこの子達に甘いんだから、と母は困った顔をしたが、ね、とおばあちゃんが後押しすると、しぶしぶ承知してくれた。
「仕方ないわね。いいわ、行ってらっしゃい。だけど、気をつけるのよ。迷子にならないようにね」
「分かったっ!」
萌は勢い良く飛び出し、妙もそれに続くように家を出た。
裏、とは実家の裏にある林のことで、昔はよく二人で様々なことをやって遊んだものだった。萌も妙も、今よりももっと小さかった頃の話。
「懐かしいね!小さい頃のこと、思い出すね!」
萌が懐かしむように、青葉の茂る林の中で呟く。
「うん。」
妙は少し笑って頷いた。
萌と妙が産まれてきた頃、その頃が桐生家にとって一番幸せな時だった。
母はいつも萌と妙を愛し、いつでも傍にいた。父は家計を支える者として一生懸命働いていた。父が手がける事業がちょうど波に乗っていた頃だった。
ところが、バブルが崩壊してみると父の手元に残ったのは多額の借金と、家族のみ。
借金に追われるようになった頃、父と母は離婚した。母は実家へ帰り、おばあちゃんに萌と妙のことを任せて仕事に就いた。父も、借金返済のために毎日せっせと働いた。
父の借金が全て返済され母と再婚したのは、四年前の冬の日の事だった。
離婚中、萌と妙、二人はいつも一緒に遊んでいた。母は毎日仕事で家を空け、おばあちゃんがいるものの、おばあちゃんにも畑の仕事や、様々な家事がある。
だから、出来る限りの事を手伝うといつも二人は邪魔にならない裏の林で遊んでいたのだった。
「ねぇ、覚えてる? ほら、この木」
「この木だっけ?」
「そうよ。ほら、ここに跡がついてるじゃない!」
「本当? 違うような気がするけど…?」
「絶対この木よ! 背比べのための、傷がついてるじゃない!」
「…そうかも知れないね」
「そうよ。きっとそう!」
私の方がずっと背が高くて、妙は悔しがってたわよね。と萌は明るく笑った。
「お姉ちゃんの方が高いのは当たり前でしょ!」
「でも、あの頃はずっと追いぬいてやるんだって言ってたじゃない!」
あはは、と萌は笑って走り出した。妙も萌を追いかけて走った。広い林に二人の笑い声だけが響く。
「あー、懐かしい! 何もかもが懐かしい!」
「うん。懐かしいね」
二人はしばらく、思い出にふけるように目を閉じた。思い出される様々な事。
萌が木に登って、降りられなくなった事。逆に、途中まで登ったものの、力尽きて妙の上に落ちて来た事。
嬉しかった時、楽しい時、いつもここで笑った。
悲しかった時、辛かった時、苦しかった時、いつもここで泣いた。
ケンカした時も、いつもここで仲直りをしていた。
風が頬を撫でていくたびに、胸を締め付けるような懐かしさが二人を包んでいく。
ポタッ
「――ん?」
萌は頬に当たった水のようなものに慌てて目を開けた。
鳥のフンではないことを祈りつつ、萌は頬についた水滴を見る。それは、白くもなく、透明な水だった。
「まさか――」
萌がそう言った瞬間、雨が勢い良く降り出した。
林に雨音が響いていく。
やっぱり、と萌は慌てた。
「妙、早く帰るよ! このままじゃずぶ濡れになっちゃう!」
「うん!」
二人は手を繋いで走り出した。
林の中を無我夢中で駆け抜ける。空から、葉から零れ落ちる水滴が、二人の頬を濡らし、体を冷やす。大きな雫が顔に当たるたび、二人は焦った。
「お姉ちゃん、家ってどっち?」
二人は走りつづけているうちに、方角を見失ってしまった。だが、萌はそれを妙に言う事が出来ず、ただひたすらに妙の手を引っ張って走りつづけた。
雨がさらに本降りになって来た頃、二人はふ、と足を止めた。
「妙、あれが、見える?」
「…うん。見える」
「妙、あれ、何だと思う?」
「お屋敷…でしょ…?」
「うん…そうだよね」
「お姉ちゃん…」
二人の目の前には、大きな屋敷がそびえたっていた。主人を待っているかのように、静寂に包まれた屋敷だった。
林は、屋敷に沿うように綺麗に丸く切り取られており、それが余計にこの屋敷を不思議に感じさせた。
遠くで、雨音がする。
それと共に、何かが開く音が――
「行こう、妙。ここにいたって濡れるだけだし」
「…止めようよ、お姉ちゃん」
「だって、ここにいてもしょうがないじゃん! もしかしたら、中に人がいるかもしれないし!」
「でも…」
萌は煮え切らない妙に痺れを切らした。
「人がいたら、おばあちゃん家がどこにあるか聞けるでしょ! とにかく、今は行くしかないじゃん!行くよ!」
萌は妙の手を引っ張って、大きな玄関の前に立った。呼び鈴があったので、それを三回ほど鳴らす。
だが、誰も出て来ない。
「きっと、誰もいないんだよ。お姉ちゃん…」
帰ろう、と妙は視線で萌に伝えた。
だが、萌はあくまでこの屋敷に入る気だった。
ふ、とドアノブに手をかけた。ゆっくりと回すと、驚くほど簡単にドアは開いた。
「何だ、開いてるじゃん。丁度いいから、雨宿りだけさせてもらおうよ」
「お姉ちゃん!」
萌はため息をついた。
「何?じゃあ、妙は他にいい案があるって言うの? この雨の中、歩き続けてもどうにもならないし、そんな事したら風邪引いちゃうよ。それなら、ここで雨宿りさせてもらうしかないじゃない」
「…そうだけど。でも、人の家に勝手に入るなんて、良くないよ」
「緊急事態はいいの! 妙は何か嫌な理由でもあるの?」
別に無いけど、と妙は答えた。
「じゃあ、中に入ろう。雨宿りだけ。ね?」
「…分かった」
妙はしぶしぶと言った感じで、頷いた。萌はそれを見てドアを開け、中に入る。 妙も続くように中に入った。
「驚いた。中、綺麗じゃん」
萌は口を開けたまま、玄関から屋敷を見まわした。赤い絨毯の敷かれた大きな廊下。
屋敷は外見とは違い、蜘蛛の巣が張ってもいないし、埃だらけでもない。むしろ、磨かれて綺麗だ。
「妙、やっぱり誰か住んでいる人がいるんだよ。じゃなきゃ、こんな綺麗なはずないもん!」
萌は大きな声で、誰かいませんかー! と叫んだ。だが、誰からも返事はない。
「やっぱり、いないんじゃない?」
妙が不安そうな声で聞いた。
「まさか!きっと、どこかに出かけてるのよ。失礼しまーす」
えっ、と妙は萌を見た。萌は靴を脱いで上がろうとしている。
「お姉ちゃんっ! 駄目だよ! 勝手に人の家に入ったら!」
「緊急事態だから、仕方ないって!」
「仕方なくないよっ! もう、お姉ちゃんっ!」
妙が止めるのを無視して、萌は勝手に上がってしまった。仕方なく、妙も後に続く。
「誰かいませんか〜?」
やはり、返事は無い。
「だから、止めようよ、駄目だって…!」
「やっぱり、誰もいないみたい…ん?」
萌は一つのドアを見た。半開きになったドアは、きぃきぃと音を立てて揺れていた。
「ねぇ、あのドア、さっきまでちゃんと閉まってたよね?」
萌は確かめるように妙に聞くが、妙は首を傾げた。
「…わかんない。ねぇ、やっぱり止めようよ…!」
何言ってるのよ、と萌は妙に向かっていった。
「やっぱり、人がいるんだわ。すいませーん!」
萌は半開きのドアを開けた。
だが、中には誰もいない。電気の付いた部屋にはコップに注がれたコーヒーが湯気を立てていた。
「ほら、見てみなよ。やっぱり誰かいる。飲みかけって事は、きっとすぐに帰ってくるって事だよ。それまで、ここで待たせてもらおう!」
萌は上機嫌でソファに座った。どうやらここはダイニングキッチンらしい。奥にコーヒーメーカーと冷蔵庫が見えた。
萌は体中が雨臭い事に気が付き、うんざりするようなしかめっ面をした。妙はソファには座らず、辺りの様子を伺っている。
「妙、座りなよ。大丈夫だって。勝手に入った私が悪いんだから」
「だけど…」
妙が口を開いた瞬間、突然萌が立ちあがった。
「ちょっと、待って!」
萌は突然、ドアに向かって走りだした。
その時、コーヒーカップが倒れ、絨毯に黒い染みがついた。
「どっ、どうしたの? お姉ちゃん?」
妙は何が起きたのか全く分からず、ドアから身を乗り出して廊下を見ている萌の後ろに立った。
「お姉ちゃん…?」
妙は恐る恐る萌の肩を叩く。萌は勢い良く振り返り、大きな声で驚いたように口を開いた。
「今、ここに小さな子供がいて…私たちを…見てた…」
「小さな、子供?」
「可愛い感じの、こう、何て言うんだろ? 清楚な感じで…小さい女の子」
萌は何かが引っかかっているようだった。
「女の子…?」
「そう…ワンピースを着た、可愛い子だったけど…」
けど?と妙は萌に聞いた。
ううん、何でもない。と萌は首を振った。
「多分…あっちに行ったんだと思う…追いかけよう」
「えっ、お姉ちゃん、待ってよ!」
「早く…追いかけなきゃ」
「止めようよ! 駄目だってば…!」
妙の言葉は萌には届かなかった。
萌は廊下に出た。妙も遅れながらもついていく。
萌はあの子に何かあるような気がした。
長い廊下を歩きながら、どこに行っちゃったんだろう、と萌は呟く。それから、 …そう言えば、と思い出したように話を切り出した。
「私たち、沢山あの裏の林で遊んだけど一回もこの屋敷を見たことなかったね」
「…そうだね。最近建ったのかも」
「そうかも知れないね。こんな大きな屋敷、見つからない方がおかしいし…」
そうだよ、と妙は少し笑った。
長い廊下を歩いていくと、通り過ぎようとした部屋の中から小さな物音がした。
「ここかな?」
萌は一応ノックをしてドアを開けた。
「失礼しまーす…」
ドアに首だけを突っ込んで、萌は中の様子を伺う。
だが、中に女の子はいなかった。
「どこに…行っちゃったんだろう?」
部屋は、どうやら子供部屋のようだった。小さなベッドに、小さな机。可愛いカーテンに、フリルのクッション。愛らしい、誰かが愛する娘の為に一生懸命用意したという感じがする部屋だった。
机の引き出しを開けようとした瞬間、萌の背筋に寒気が走った。
――何故?
――どうして…?
ハッ、となって振り帰ると、そこには先ほどの少女がドアの小さな隙間から萌を見ていた。
いや、見ていたのではなく
――睨んでいた。
滑らかな頬と、黒い瞳、闇に溶けこむ肩ほどまでの黒髪。
だが、その顔は青ざめている。
――どうして――?
萌は体中に痛みを感じ、体が動かない事に気がついた。
少女が見ている。
何も写さない瞳で。
「…おね…ゃん、お姉ちゃんっ?」
「――っ!」
荒い息で肩を揺すりながら、妙の顔を見た。
「どうしたの、急に? 何か、あった?」
萌は視線を戻して、もう一度ドアを見た。
ドアはきちんと閉まっている。
開いていた気配すらない。
萌は頭を振って、考えを振るい落とした。
「――ううん、何も。何でもないの。気にしないで」
「そう…?ねぇ、もう止めようよ。こんな奥深くまで入っちゃ駄目だよ」
「――うん。でも、何か気になるの。私、何か――」
「お姉ちゃん!」
妙は叫んだ。萌は、ハッとなって妙を見た。
「どうか、した?」
「――ううん、何でもない。とにかく、もう止めよう。何だか、気味が悪いよ…」
妙は寒気がしたように、少し体を震わせた。
萌はうん、と言えなかった。代わりに頷いて、引き出しから手を離し部屋を出た。
ドアを出て、一歩、二歩と進んでから、異変に気付いた。
「妙?」
振り向くと、妙はいなかった。
いつもなら、後ろからついて来ているのに。
萌は急に嫌な予感がして、ついさっき出たばかりのドアノブに手を伸ばした。
キィ―、と萌がドアノブを回すよりも先に、ドアは開いた。
「妙!」
中から、驚いた顔をした妙が出て来た。
「…どうしたの、お姉ちゃん?」
「妙がいなかったから…びっくりして…」
「いつからそんなに臆病になったの?可笑しいの」
妙はふふ、と笑った。萌は少しバツが悪そうな顔をした。
「ちょっと気を取られてただけ…気にしないで」
妙が明るく言うので、萌は少し安心した。
二人は、歩いてきた廊下をもう一度戻り、ダイニングキッチンへと足を運んだ。
ドアを開けて、萌は言葉を失った。後ろにいた妙は、急に立ち止まった萌に気付かず、萌にぶつかってしまった。
「――っ! どうしたの、お姉ちゃん?」
急に立ち止まって、と妙はぶつけた鼻をなでた。
「これは、私の気のせいだと思うんだけど――」
というか、そう思いたい。と萌は言った。
「何を?」
「私が出ていく時、確実に何かを倒さなかった?」
「倒したよ。コーヒーカップを倒して、それで絨毯にすごい染みが…」
「だよね。でもさ…」
見てよ、と萌は妙にも見えるように少し移動した。妙は萌がどいてくれた隙間から、ダイニングキッチンの様子を伺った。
「嘘…」
妙は思わず口から毀れた言葉を、手で抑えて飲み込んだ。
萌がこぼしたはずのコーヒーは、跡形もなく片付けられていた。大きくできていたはずの染みも、全て消えていた。
あの染みが、こんな短時間で消えるはずが無い。
ならば、どこに?
「やっぱりもう出ようよ…。気味、悪いよ…」
「でも…」
――!
光が地を割くかのように、天から降り注いだ。
轟音が脳天を痺れさせ、萌と妙は小さな叫び声と共に耳をふさいだ。
落雷は一瞬にして終わり、全ての音を奪い静寂を取り戻した。
静寂に包まれた二人は、手を耳から離し、窓に振りつける雨音を聞いていた。
「…無理だよ。雨が…強くなってる」
萌は自然に滑りでたように、ポツリと呟いた。
「…だけど、ここにいるの、嫌だよ…」
妙は、俯いたまま手を強く握っている。
「どうしようも…ないよ」
萌は窓だけをただ見ている。
外ではなく、窓を。そして、窓ではなく、窓に振りつける雨を。
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
二人はソファに座った。ただ、無言だった。
「とりあえずさ…」
沈黙を破ったのは、萌だった。
「とりあえず?」
妙は気力無く聞き返す。
「とりあえず、コーヒーでも飲もうよ。ほら、あそこにちょうどあるし」
「…は?」
「だから、コーヒー。飲もう。寒いし。体が温まる」
妙は大きなため息をついた。
「…お姉ちゃんって、いつもそうだよね」
妙は疲れた顔で、微笑む。
ん? ともう飲む気満々でいる萌はキッチンで用意をしながら振り向いた。
「いつもそうだった。喧嘩した時も、悲しい時も、いつもすぐに忘れちゃって…。いつも最後まで怒っているのは私の方」
「そうかなぁ?そんな事ないと思うけど」
「…ううん。いっつもそう。だから、怒っているのが馬鹿らしくなって、元通りになっちゃうんだ」
むっとした妙を見て、萌は笑った。
「だって、悲しい事とか、ムカツク事ばっかりを見ていたら、もっと沢山来る楽しい事とか、嬉しい事とか、そういう事が横切っても気付けないでしょ?」
「そうかなぁ…? もっと楽しくない事がくるかもよ?」
「妙は心配性だなぁ! でも、妙が考えるよりもきっと、未来は明るいものだよ」
萌は明るくあはは、と笑った。
妙はむっとした顔だったが、少し微笑みが漏れた。
「さーて、カップはどこかなぁ?」
萌は戸棚を開けると、色違いのコーヒーカップが置いてあった。
綺麗な色、などと言いつつカップを萌は取った。
ところが、カップは萌の手から滑り落ち、空中に放された。
「あっ!」
叫んだ頃にはもう遅く、ゆっくりとカップは落ちていく。
ゆっくりと落下していくコップ。
萌は反応する事が出来ず、ただ見ているだけだった。
―――――――――――
落ちていく。
動かない体。
落ちていく
何が――?
――妙?
―――――――――――
小さな破壊音が足元で鳴り響き、萌はハッ、と我に返った。
今のは――何?
何が、落ちていった?
今のは――夢?
頭を駆け巡るような眩暈に、萌は手にじんわりと広がる冷や汗を握り締めた。
ふ、と萌は割れたカップから視線をずらした。
「――妙?」
返事は、ない。
ダイニングキッチンに、妙の姿は無かった。
「妙?! 妙っ?!」
萌は慌てて叫んだ。
「何?」
「わっ!」
萌は驚いて身を引いた。何と、すぐ近くに妙はいたのだった。
「もう、お姉ちゃん、大丈夫? 本当に不器用なんだから」
「――妙?」
「何?」
妙は驚いたように、萌の顔を見返した。
「…手でも切ったの?」
萌は息を吐いた。
「…ううん。何でもない」
変なの、と妙は言うと、テキパキと萌に指示を出した。
「じゃあ、これ片付けて。コーヒーは私が入れるから」
「分かった。お願いね」
また割るかも知れない、と思い萌は素直に妙の指示に従った。
割れたコーヒーカップを片付ける。
割れてしまったカップは、かちゃかちゃと音を立てる。
気のせいだ。
あんな白昼夢を見るのも、この屋敷が変だからだ。
あの子。
あのワンピースの子。
あの子は一体―――?
「お姉ちゃん、コーヒー入ったよ。一緒に飲もうよ」
「あ、はーい」
萌は考えるのを止めた。ブラックコーヒーに、ミルクと砂糖を入れる。これは、萌が勝手にあさって見つけてきたものだ。
小学生の二人にブラックコーヒーなど飲めるわけもなく、結局コーヒーは、コーヒー牛乳と化していた。
二人は温かいコーヒー牛乳を飲みながら、雨の止まない外を見ていた。
すると、またしてもいきなり萌が立ちあがった。妙が心配そうな顔で見ていると、萌は真剣な顔をして、妙に言った。
「…何だか、トイレに行きたくなっちゃった…!」
そう言うやいなや、すぐさまドアを開け、ダイニングキッチンから出た。
赤い絨毯の敷き詰められた廊下で立ち往生する。
どっちにトイレがあるのか、分からないのだ。
「あ〜っ! どっち〜?! 早くしないと〜っ!!」
「もう、お姉ちゃん、そういうのは済ませて来ないと!」
後ろから付いてきた妙が、腰に手をあてながらため息を吐いた。
「もー、そんな事よりも、トイレっ!」
萌はバタバタと暴れた。
今にも漏れそうな萌の様子を見て、妙は慌てて萌の手を引いた。
「ふー、助かった〜っ!」
萌は手を洗いながら、気持ちよさそうに呟いた。
水洗トイレでは、ゴポゴポと水が流れている音がする。
「…もぅ、お姉ちゃん、ちゃんとしてよ。戻るよ?」
「うん。ごめん、ごめん。ありがとうね」
萌は明るく笑った。
妙が前を歩く。
こんな光景、珍しい、と萌は思った。
いつも先を歩いていた萌は、妙の後姿など見たこと無かったような気さえした。
――いや、違う。
――昔。
――もっと、ずっと昔に。
――妙の背中を見ていた事がある――
―――――――――――――
妙。
驚いたように私を見ている
何に驚いているの?
どうしてそんなに私を見るの?
私の何処を見ているの?
――――――――――――――
頭が、痛い。
洗ったばかりの手がしけっている。
――洗ったばかり?
萌は違和感に襲われた。
どうして――
どうして、妙はトイレの位置を知っていたんだろうか?
さっきの子供部屋とは反対方向にあるこのトイレを。
妙は言った。
この館の事は知らないと。
私たちがいなくなってから、出来たんじゃないかと。
そう、言っていたはずだ。
背筋が、凍ったような気がした。
妙は、ここに来た事がある?
ならば、私も――?
萌は痛む頭で、必死に思考を巡らせようとする。
だが、全然まとまらないのだ。
考えが、全てチグハグで。
全ては線ではなく、点で辺りに散らばっており繋がっていないのだ。
白いワンピースが視界の端に映った。
あの、少女だ。
角を、曲がっていく。
「妙! あの子! 女の子!」
萌が妙を呼び寄せた時には、もう少女の姿は消えていた。
「追いかけよう!」
「ま、待ってよ、お姉ちゃん!」
妙も慌てて、萌の後を追いかけた。
少女が消えた曲がり角を見ると、誰もいなかった。
萌はゆっくりと、歩みを進める。妙も、後から付いてくる。
「…階段?」
目の前には大きな階段があった。豪邸らしく、シャンデリアが輝いている。
――パタパタ…
二階で誰かが歩いている音がした。
萌は、階段を上がろうと一歩足を出した。
「お姉ちゃん! 止めようよ! きっと、その少女も私たちを警戒してるんだよ!」
「――妙」
「人の家に勝手に入ったら、駄目だってお母さん言ってたでしょ?!」
「そうだけど――」
「なら、止めようよ! 一階までは分からなくも無いけど、さすがに二階までは…」
妙は、必死に萌を止める。
だが、萌にとっては妙の言葉は怪しくしか感じられなかった。
萌は、妙がこの家に何かあるのを知っていたのではないか、と思った。
なぜなら、始めからこの家に入るのを異様なほどに嫌がり、萌を必死に止めていたからだ。
この家で、妙に何かが起こった。
その事件に、私も関係している。
萌は、二階に行かないわけにはいかなかった。
このモヤモヤした気持ちを、晴らさなければならないような気がした。
妙の言葉を無視して、萌は階段を上がる。
「お姉ちゃん! 駄目だってば!」
そう言いながらも、後ろから妙が付いてくるのが分かった。
「お姉ちゃん! 待ってよ!」
何度も何度も呼びかける妙の声を無視して、萌は階段を登った。
登りきると、一つの扉にすぐ目がいった。
その扉だけが、かすかに揺れたように感じたからだ。
その扉に手をかける。
ドアノブを握り、軽く、回す。
ドアは――
――開かなかった。
中で少女の笑い声が聞こえる気がした。
「お姉ちゃん!」
妙は萌の手を引っ張り、階段を無理やり降りていく。
「人の家に勝手に入って、しかも二階にまで! 非常識にも程があるよ!」
「――だけど――」
「だけどじゃない。お姉ちゃん、どうしちゃったの? 何だか、おかしいよ…!」
妙は、萌の顔を見ないように言った。
おかしい――?
なら、妙もどうしてそんなに必死なの?
――おかしいよ。
萌はまだ上を見たかったのに、妙は腕を無理やり引っ張って、一階へ戻ろうとする。
だが、萌は一階に戻るわけにはいかないと思った。
「ごめん、妙――」
「ごめんって――?」
妙が振り向いた瞬間、萌は妙の手を自分からはがした。
だが、妙の力は思いのほか強く、萌は背筋を凍らせた。
無理やり引き剥がし、萌は階段を一歩、上ろうとした。
だが、無理やり引き剥がされた妙は、バランスを失った。
見開かれた妙の目。
この視線――
――――――――――――――
妙が落ちていく。
驚いた表情で、私を見ている。
見開かれた大きな瞳は、私だけを映している。
落ちていく妙に向かって伸びた手。
動かない私の体。
二本の白い私の手は
どうして、伸びているんだろう?
――――――――――――――
――ドタッ
妙が倒れ込んだ音だった。
萌は、階段から落ちてうずくまっている妙を見た。
手からは冷や汗がどっと流れる。
全ての毛穴から、汗が噴き出しているような気がする。
わずかな力で握る手は、熱くは無く、むしろ冷たい。
伸びた手。
私の白い、伸びた手。
それは、私は、一体、何を――
何を――押した――?
「いたた…」
妙は小さなうめき声をあげた。
だが、萌は駆け寄る事が出来なかった。
今、覚醒した真実に体が動かなかった。
「お姉ちゃん、何固まってるの?」
そんな、馬鹿な。
では、ここにいる妙は何だというのだ。
これが、ニセモノだと?
握れば、ほんのり温かくて、少し汗ばんでいる、あの腕の感触が?
全てが嘘だと?
そんな訳が――あるもんか。
「ごめ…ん…大丈夫…?」
真っ青な顔をする萌に、妙はわざとらしく明るく笑った。
「そんな真っ青にならなくても、大丈夫。少し、強くお尻を打っただけ」
あいててて、と腰をさする。
その動作さえもが、萌には見れなかった。
嘘だ。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。
信じられない。
信じない。
少女は、私を睨んでいた。
どうして、と呟く。
その先は―――?
どうして――
“私を殺したの”
だろうか?
少し高い、幼い子特有の笑い声が聞こえた気がした。
二階のあの部屋の中から。
真実は、あの中にあるのだ。
萌は妙を見た。
妙はお尻をさすりながら、立ちあがった。
その時だった。
立ちあがったスカートの下に、銀に輝く“モノ”を見つけたのは。
銀に輝く“モノ”。
それは小さな鍵だった。
萌は二段飛ばしで階段を駆け下りると、小さな鍵を握った。
妙が驚いた顔をしているのが分かった。
ポケットに手をやり、いつの間に落ちたのか、と焦りの色を隠せない顔で萌を見た。
妙は小さな鍵を奪い返そうとしたが、萌はそれよりも早く階段を駆け登った。
後ろから、妙が追いかけてくる。
いつものように?
いや、違う。
――きっと怖い顔をしている。
多分、妙は隠していたんだ。
自分が、死んでいた事を。
そして
――私が殺した事を。
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
萌は無我夢中で走った。
妙に追いつかれないように。
ドアの鍵穴に鍵を指しこむ。
軽い音と共にドアが開いた。
すぐに体を滑りこませ、反対側からまた鍵をかけた。
妙が入ってこられないように。
「――ごめん、妙」
萌はドアに向かって呟いた。
中は書斎のようだった。
重々しい雰囲気の本棚と、大臣が座っていそうな大きな黒い革の椅子。黒く大きなデスク。
そして、その横にある窓。
窓は開いていて、今は雨が降りこんでいる。
一歩、窓に向かって近づくと、白いワンピースの少女がベランダに佇んでいた。
少女は呟く。
――どうして?
「――ごめん」
萌は誰に言う訳でもなく、一人言のように呟く。
――どうして?
――どうして!
少女は萌を見つめる。
――いや、睨んでいる。
萌はさらに一歩近づく。
ようやく、少女の顔が見えるところにまで来た。
少女は俯いたまま、顔を上げようとはしなかった。
「――妙」
少女は微動だにせず、萌を睨んだ。
――いや、違う。
――涙を、こらえているのだ。
――グシャ…
少女はベランダの手すりから、滑るように落ちて ――消えた。
ようやく――
――ようやく、全ての理(コトワリ)が萌の前に開かれた。
開けられなかった蓋が、すべてを撒き散らして暴かれた。
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
少女が立っていたのと同じ位置に、萌が立っていた。
鍵を閉めたはずのドアを開けて、妙が立っている。
息を切らして、目には涙をためて、萌をみつめている。
「お姉ちゃんっ!!」
妙の苦痛のこもった声に、萌は悲しそうに笑った。
「――妙。ごめんね」
「――お姉ちゃん…?」
妙は震える手で、一歩、また一歩と萌に近づいた。
だが、萌はその度に一歩、また一歩と下がった。
鍵を閉めたはずのドアを、妙が開けた事も、鍵を妙が持っていた事も、今となっては何ら関係なく、何もおかしくない事だ。
「ごめんね」
萌はもう一度謝った。
だが、妙は何の事か理解できないように、萌を見つめた。
「――ごめんね、妙。そして、ありがとう」
「――お姉ちゃん…! まさか…!」
驚いている妙の顔を見て、萌は笑った。
「――あの日死んだのは
妙じゃくて
――私だよね」
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
萌と妙が遊んでいる。裏林の中で駆けまわっている。
母に作ってもらったばかりの、真新しい白いワンピースが緑の中でよく光を反射していた。
遊んでいる内に、二人は林の奥へと入っていき、そこでこの洋館を見つけたのだった。
二人は迷う事無く、洋館に入っていった。
二階のベランダで、ここがどこなのか確かめていると、萌のリボンが風に吹かれて少し傍の木に引っかかった。
それは、萌が大切にしていたリボンだった。
『んー、とどかないなぁ』
『妙、いいよ。気にしないで』
『でも、お姉ちゃんのたいせつなリボンでしょう?』
『いいの。さ、いこう?』
妙はうん、と返事をするものの、まだ気になっている様子だった。
『でも…あとちょっとで…あっ! とれた、とれたよっ!! …きゃっ…!』
『妙っ!!』
妙が、少し離れた木に引っかかっているリボンを取り、振り向いた瞬間だった。
バランスを保っていた手が、外へと滑った。
『妙っ!』
伸ばされた両腕。
萌は何とか妙の手を掴んだものの、二人は一緒になって落ちていく。
とっさに、萌は妙を抱きかかえた。
まるで、卵の殻のように。
世界が、反転する。
空は地になり、地は空になった。
ほんの一瞬の出来事だったはずなのに、萌にはとてもゆっくりに感じられた。
景色が、色を無くしていく。
――グシャッ…
萌の視界はそこで真っ暗になり、途絶えた。
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
「私に…あの日死んだ私に、こんなにたくさんの時間をくれてありがとう」
萌はゆるやかに微笑む。
「おっ、お姉ちゃん、違うよ、そんな事ない…!」
「ううん。違わない。私は、死んだの」
萌のハッキリとした口調とは裏腹に、妙の言葉は震えている。
「妙、ありがとう。本当に、ありがとう」
「お姉ちゃん―――! 嫌だよ、お姉ちゃんっ!」
一歩、また一歩と妙は萌に近づいていく。
萌はそのままその場に立っている。
「お姉ちゃんがいなくなったら、嫌だよ! 私、私…!」
妙は目からあふれ出る涙を拭おうともせず、一歩一歩萌に近づく。
萌は悲しそうな顔で、ただ妙を見つめた。
「だって、そんな、嘘。嘘。お姉ちゃんが死んだなんて、嘘…!」
萌の目の前で、妙は座りこんだ。
堪え切れない嗚咽を何度も何度もこぼしながら、ひたすら祈るように、両手を交差させ、口の前で震わせる。
「――妙、もう、ここにいては駄目」
「――どうして…?」
「――私はもう死んだから。私と一緒にいては、駄目。ここから、出られなくなる」
雨の音がさらに強くなり、雷が地を打った。
「嫌っ! お姉ちゃんがいないのなんて…嫌だよっ!!」
あっ、あっ、と妙は小さな嗚咽をこぼす。
それを見ると、萌は悲しい気持ちになった。
萌は少しずつ、意識が遠くなっていっているのを感じた。
その瞬間、あぁ、消えるのだ。と思った。
「目を閉じてしまわないで。横切る幸せを、見失わないで」
「お姉ちゃん…?」
妙は、目の前の萌を見て驚いた。
体が透けているのだ。
まるで、空気に溶けこむかのように、何もなかったかのように、消えていこうとしている。
「お姉ちゃん!」
萌は妙の涙で一杯の顔を見て、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「――妙。お願い、笑っていて。いつも、笑っていて」
「――お姉ちゃん――?!」
ふわっ、と空気が変わったような気がした。
全てが、浄化されつつある。
私は、還りつつあるのだと、萌は感じた。
少女は私にこう言ったのだ。
“どうして。 どうして帰ってきたの?” と。
――妙は生きていて。
私は死んでいて。
でも、それでもいい。
私が死んでも、妙は生きている。
――ただ一つ、私がこの世に残す未練。
“確実なモノなどこの世にはない”と言った妙。
貴方にとって唯一確実だった私まで消えてしまったら、妙はどうなるんだろうか?
――妙…
――妙…
――妙…
――私のことなんて、どうだっていい。
――妙、貴方が幸せであれば…
――貴方の傍に…貴方が心から笑える日まで…傍に…――いたい。
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
妙はゆっくりと目を開けた。
「妙! 妙、目がさめたのね!!」
「…お、かあ…さん…?」
「妙、良かった…。本当に…良かった…」
妙は、ここがどこなのか分からなかった。
ただ、目の前の女性が母親であること。そして、母親が思いの他、疲れ、そして老けていること。さらに、自分の腕が細く、しかも筋肉がなくなり、骨と皮になっていること。そして、その腕には点滴が打たれていることだけは分かった。
しばらく、辺りを見まわした後、ようやくここが病院の一室である事を理解した。
妙は、突然置きあがった。
だが、随分筋肉を使っていなかったようで、なかなか置きあがる事ができなかった。母の手をかりて、ようやく置きあがると、上がった息で妙は叫んだ。
「お母さん、お姉ちゃん、お姉ちゃんは、どこ?!」
「――妙、何を言ってるの?」
え、と妙は母の顔を見返した。
「貴方に、お姉ちゃんなんていないでしょう?」
震える手を動かした瞬間、手に何かが当たった。
――それは、古ぼけた人形だった。
「あ、あ、あ、あ――――!」
断片的に声が出た。
――そうだ。
――何もかも、思い出した。
――私に姉なんて、いなかった。
いたのは、この人形だけ。
母と父はいつも私の事で喧嘩をしていた。
バブルが崩壊しなくとも、離婚するのは時間の問題だった。
おばあちゃんの家に住んでいても、村に馴染めず、友人など一人もいなかった。
寂しかった。
村の子供は、都会から来た私を仲間には入れてくれず、いつもからかわれたり、虐められてばかりいた。
苦しかった。
そんな時、母が買い与えてくれたのが、この人形だった。
私は姉が欲しかった。
私を守ってくれるような、力強い、私と正反対の性格の姉が。
それから、その人形を“萌”と名づけ、お姉ちゃんにした。いつも一緒だった。遊ぶ時も、寝る時も、お風呂に入る時も。どんな時でも一緒にいた。
本当の家族よりも、もっと近くにいてくれた。親友よりも、恋人よりも。
もっともっと近くに。
人形はボロボロになっていた。
お揃いだった白いワンピースも、あちこちが破れ、薄汚れている。
髪の毛のリボンの片方が無い。
見てみれば、自分自身が握っていた。
「――お姉ちゃん…」
こんなにボロボロになるまで、傍にいてくれたのだ。
私の“姉が欲しい”という願いを受けて。
涙がぽたり、と私の頬を伝い、姉の顔に落ちた。
人形は弾くように、水を顔から下へと受け流していく。
涙は流れて、地に帰るだろう。
では、この気持ちは、どこに帰るのだろう?
涙と一緒に流れていってはくれない、この気持ちは。
「この人形が下敷きになって、貴方を守ってくれたんですって。本当なら、死んでいたかも知れないって。感謝しなきゃね。このお人形に」
母が少し微笑んで、人形の頭を撫でようとした。
私はとっさに母の手が届かないように、人形を引いた。
触って欲しくなかった。
母は何も知らないのだ。
私が、この人形をどんなに大切にしていたかなんて。
母は気まずそうな顔をしたが、少し苦笑して、私が起きた事を医者に伝えに行くといって出ていった。
母は、私に良かった、と言った。
だが何が良かったんだろう、と妙は思う。
こんな世の中に、生きていて何が良いのだろうか、と思う。
居心地の良い夢を見ていた。
現実は夢みたいには行かない。
母と父は離婚したまま。
姉はいないまま。
こんな現実にいるくらいなら。
あのまま夢を見ていたかった。
お姉ちゃんのいるあの居心地のいい夢の中に。
それすら叶わないのならば
――私はあの時、死んでしまいたかった。
姉のいない世界で、私にどう生きていけと姉はいうのだろう?
一人でいるには、この世界は余りにも大きく、余りにも広く、そして余りにも冷たい。
一人は嫌だ。
一人は、寂しい。
一人取り残された部屋で、小さな果物ナイフが目に付いた。
それを手に取ると、自分の左手首へと近づけた。
す、と横に引けばいい。
ただ、その単調な行為で、私は全てから解放されるのだ。
ナイフを横に引こうとしたとき、人形がゴトリと邪魔をするように倒れてきた。何度やっても、それは同じだった。
「…お姉ちゃん、邪魔しないで!」
思わず怒鳴っていた。
パタパタと足音がし、それが妙の病室の前で立ち止まった。
ナイフを一端元の場所に戻し、何事も無かったかのように人形を強く抱きしめた。
――病室のドアが開いた。
「大丈夫か、妙!」
「おと…さん…?」
そこに立っていたのは、離婚したはずの父だった。
“妙が考えるよりも、きっと未来は明るいものだよ”
夢見た世界が、ここには無い。
だけど、私の姉であった人は、未来は明るいと言った。
ならば、この暗闇もいつか光がさしこむかもしれない。
真実から目をそらさず、真っ直ぐに見つめていれば。
横切る幸せに、気付けるかも知れない。
この現実は、私が創り上げた世界とは違い、もっと残酷で、過酷だ。
だが、姉が私をこの世界に残した事に、何らかの意味を見出したい。
姉は言った。
“笑って欲しい”と。
だが、今日ぐらいは貴方がいなくなった事を悲しませて欲しい。
そしたら、きっと明日は笑える。
明日は駄目でも、きっと明後日には笑える。
いつか、きっと、笑える。
だから、今だけは。
弱い私を、許して欲しい。
妙は人形をきつく抱きしめながら、滴る涙を拭きもせずにただ泣いた。
父と母は、それをただ見守るだけだった。
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
季節も寒くなってきた頃、救急車が一つの家の前に止まった。
家の中から、一人の女の子と、その母親らしき人物が乗りこんだ。
すぐさま、救急車はサイレンを鳴らしながら走り始めた。
「お母さん、大丈夫?」
妙は心配そうに、母を見守る。
救急車の中、母は苦しそうに脂汗をかいている。
「…えぇ。大丈夫、よ…」
「頑張って…!」
妙は祈るように母の手を強く握った。
母の手は汗ばんで、冷たかった。
救急車が病院につくと、母はすぐさま運ばれていった。
父が、母が運ばれていったドアの前で俯いていた。妙に気付くと、横に座るように促した。妙は、頷いて横に座った。
「お母さんの様子は…?」
「…お母さん、辛そうだった…」
そうか、と父は心配そうな顔を一瞬したものの、すぐさま明るい顔を作り、妙に向かって笑顔を見せた。
「…妙、心配するな。お母さんは大丈夫だよ」
うん、と力なく妙は頷いた。
一時間ほどして、ようやくドアが開いた。
思わず妙と父は立ちあがる。
中から医師が疲れた様子で出て来た。
必死な顔をしている二人を見て、医師は“大丈夫です。中に入って、お母さんに会ってあげて下さい”と微笑んだ。
「…お母さん!」
脂汗が顔にべったりとついた母は、力なく微笑む。
父は、脱力したように座りこんだ。
――おぎゃあ、おぎゃあ、と泣き声が聞こえる。
「立派な女の子ですよ」
看護婦が、子供を抱きあげながら微笑んだ。
母が産まれたばかりの子供を受け取り、マリア様のような顔で微笑むと、妙を近くに呼んだ。
「ほら、貴方の妹よ」
そして、子供には“あなたのおねえちゃんですよ”と語りかけた。
「…お母さん、大丈夫?」
「えぇ。もう二回目だもの。慣れたわ。安心して」
今度はしっかりと母は微笑んだ。
「…お母さん、この子の名前、決めてある?」
「――いいえ、まだなの。何? 妙は何かいい案があるの?」
「――うん」
妙は力強く頷いた。
あら、と母は笑った。
「どんな名前? 教えて?」
妙は、ゆっくりと息を吸うと、静かに吐き出してから口を開いた。
「この子の名前はね…――」
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
「お姉ちゃん、待ってよ!」
「早くしないと、遅刻するでしょっ!」
こらこら、喧嘩しないの、と遠くで母の声が聞こえた。それとともに、父の笑い声が朝の家に響いた。
「行ってくるね」
ボソッ、と呟くように妙は人形に向かっていった。
人形は、新しい白いワンピースを可愛く着こなしている。
リボンは綺麗に結ばれて、表情は優しく微笑んでいる。
「ほら、行くよ。萌!」
「うん! お姉ちゃん」
差し出した手を、“萌”と呼ばれた小さな少女は強く握った。
温かさが体にじんわりと染みていく。
それは、あの連休の日に握った、姉の手と変わりなかった。
「暑くなってきたなぁ」
「…そうだねぇ」
二人は眩しい空を見上げて、目を細めた。
何もない空に向かって、ゆっくりと口の端をあげて微笑んだ。
それは、何の屈託もない、無邪気な笑みだった。
また五月が来る。
今年も、きっと帰るのだろう。
あの裏林のあるあの家に。
家で、萌の部屋の人形が微動だにせず佇んでいる。
だが、そのガラスの瞳には、蒼い雫が、うっすら浮かんで見えた。
人形の顔は、驚くほど幸せに満ちている。
そして、人形は少し揺れた。
もう、自分の役目は終わったかというように。
霞のように
消え去った。
――Fin――
-
2004/05/24(Mon)00:07:04 公開 / 冴渡
■この作品の著作権は冴渡さんにあります。無断転載は禁止です。
-
■作者からのメッセージ
「貴方のいる世界」を読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
短編を書かせていただきました。
えー、何とか書き上げたミステリーです。
必死でした…スランプから脱却できたのか、今だによく分かりませんが、何とか書き上げる事ができたのも、一重に皆様のおかげだと感謝する日々です・・・!
本当に、ありがとうございました。
是非、感想、ご指摘などなどよろしくお願い致しますm(_ _)m
未熟者ではありますが、これからも頑張っていきたいと思っています。
それでは、失礼いたしました。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。