『この愛は始まってもいない』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:杉山                

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 彼女は泣いていた。
 夢の中で彼女は、今日も、泣いていた。
 ベッドの上でぼんやりと僕は、その夢はきっと、虫の知らせのようなものなのだと思う。
 現実に彼女は今とても苦しんでいて泣いていて、僕に救いを求めているのだ、と、思う。
 電話をしよう。
 彼女に。
 だけど直ぐに、ため息とともにその考えを打ち消す。
 そんなのは甘えだ、と。
 彼女に救いを求めて泣いているのは自分の方で、電話をしたがっている甘えたがっている自分に都合よくついた嘘だ、と。
 そうだ。
 甘えだ。
 もし彼女が現実に苦しんでいて泣いていて僕に救いを求めているのならば、きっと彼女の方から電話をくれる。
 僕はそれを待っていればいい。
 彼女からの電話を待っていればいい。
 僕たちはまだ、ちゃんと終わってもいないのだから。

 電話が鳴った。
 まだぼんやりしている頭の中に無理矢理入り込むようにそれは、張り切って鳴っている。
 月に二度ほどしか鳴らないからきっと、呼出音を鳴らすのが嬉しくて仕方ないのだ。
 電話の内容はだいたい想像がつく。
 分譲マンションかハウスクリーニングのセールスだ。
 だから気分が悪い時は聴こえない振りをする事もある。
 今日は別段、気分は悪くない。
 夢見のせいもある。
 僕は受話器を持ち上げた。
 こちらが応答するよりも先に、相手の声が聴こえた。
『今晩12時、あなたは死にます』
 その一言だけ言って、一方的に電話は切れた。

 覚えのない声だった。
 子供の声だった。
 抑揚のない声だった。
 悪戯だろうと思った。

 忘れてた。
 目覚めの一服をつけよう。
 僕はベッドに腰掛けて、マイルドセブンに火を点けた。
『今晩12時、あなたは死にます』
 その声は既に、耳にこびり付いていた。
 白木みのるが何かの台詞を棒読みしたものをテープに録音して流した、そんな声だった。
 何年も前の、製菓会社が脅迫された事件を思い出した。
 僕はその事件の経過をテレビで見ていて、子供心に得も言われぬ恐怖を覚えたものだ。
 時計は午後4時を指していた。

 テレビはドラマの再放送とアニメと主婦向けの情報番組を流している。
 どれにも興味が涌かない。
 雑誌を手に取った。
 文字が頭に入らない。
『今晩12時、あなたは死にます』
 ちくしょう。
 耳にこびり付いて離れない。
 ちくしょう。
 耳にこびり付いて離れやしない。
 いつの間にか6時になっていた。

 飯を食いに出た。
 馴染みの中華そば屋。
 格別美味いという訳でもないが、アパートから歩いて来られる場所なので通い続けている。
 七、八人も座れば一杯になるカウンター席と、小さなテーブル席が二つ。
 こぢんまりとした店だが、だから僕には居心地が良い。
 彼女が部屋を出て行ってからの二年間、僕はこの店に通い続けている。
 今日、初めて、会計を済ます時に『ごちそうさま』と言った。
 店のおかみさんが驚いたように動きを止めて、けれど、『毎度どうも』と言ってくれた。

 店を出た時、7時をちょっと過ぎていた。
 いつもならコンビニに寄って飲み物とちょっとしたつまみを買ってアパートの部屋に戻るのだけど、僕は、見えない何かに引っ張られるように逆方向に歩き始めた。
 本能だろうか。
 このまま部屋に帰ればあの電話の声を思い出す。
 いや、それは今も耳にこびり付いたままなのだが、部屋に帰れば、一人の部屋に帰ればそれは今よりも鮮明に再生されるに違いないのだ。
『今晩12時、あなたは死にます』
 それが本当なら。
 それが本当なら一人の部屋で。
 一人の部屋で死ぬのは嫌だ。
 誰か。
 誰か。
 誰か。
 誰か、もしかしたら今夜12時に死ぬかもしれない僕を。
 僕を。
 誰か。
 僕を。

 誰も、居ない。
 僕には、居ない。

 彼女が部屋を出て行ったのは二年前の事だ。
 別れ話を切り出したのは僕の方だ。
 いや。
 僕はそれを、突き付けた。
 五年間の同棲生活に僕が一方的に終止符をうったのだ。
 甘えていた。
 惰性があった。
 停滞感を抱えていた。
 だからこのままじゃ駄目だと思った。
 僕は一方的に、彼女を追い出した。
 彼女の引っ越し先が決まるまでの間何度も、何度も何度も何度も僕は、引き留めようと思った。
 だけどその思いは決して口には出さなかった。
 環境が、状況が変われば、停滞感は消えると思った。
 それにそれは、考えた末の結論だった。
 停滞感を消し去る為に僕は、口をつぐんだ。
 彼女は泣いていた。
 泣いていたけれど彼女は、理解してくれた。
『言い始めたらきかないもんね』
 理解してくれていた事を僕が理解したのは、けれど、彼女が部屋を出て行ってから一年も経った後だった。
 彼女は泣いていた。
 僕は応えなかった。
 彼女は泣いていた。
 僕はその意味を知る事を拒否していた。

 今君は。
 今、君は。

 たどり着いた先は、彼女が住む街の駅だった。
 無意識下の意識がそこに導いたのだろうか。
 時間は11時半を過ぎていた。

 今君は。
 今、君は。
 今、君は、元気ですか?

 駅前のロータリーはまだ明るく、それなりに人通りもあった。
 勿論その中に知った顔がある訳じゃないけど、一人で死ぬよりは幾分かマシだ。
 ここでその時を迎えよう。
 コンビニエンスストアの明かりが届く、公衆便所の前に置かれているベンチに腰掛けた。
 ベンチに身を預けた僕の上に、力士か何かがのっかっているかのような疲労感があったが、むしろそれは心地よいものだった。
 頭の中も空っぽだった。
 ただ、例の声はまだ耳にこびり付いたままだった。
 だけどその声に対する恐れはもう、僕にはなかった。
 あと10数分過ぎれば、12時になる。

 驚いた。
 彼女が居た。
 十五メートルほど離れたところ、駅舎の階段の昇り口付近に、彼女が立っていた。
 こちらに背中を向けているが、あの後ろ姿は間違いない。
 肩の辺りで切り揃えた黒髪も昔のままだ。
 背が低いのも相変わらずだ。
 彼女が、居た。

 そして彼女は、階段を降りてきた背の高い男の腕に飛び付くように身体を絡みつかせ、僕の前を通り過ぎていった。
 彼女は笑ってた。
 彼女は笑っていた。
 僕の夢の中で毎日毎日泣いていた彼女は、けれど、笑っていた。

 ちぇっ。
 泣いていたのは僕の想い出の中の彼女だ。
 詰まりそれは僕自身だ。
 泣いていたのは、僕だけだ。

 唐突に、安っぽい電子音がどこかから聴こえてきた。
 それが奏でるメロディは、二年前に流行った歌謡曲。
 あぁ、そうか。
 僕が無意識に上着のポケットにねじ込んでいた携帯電話の着信音だ。
 これを聴くのはいつ以来だろう。
 この流行歌を謡っていた歌手も今じゃ昔の人だ。
 着信音に応え電話に出ると、相手は例の声だった。
『死ぬのは嫌ですか?』
 と、子供の声はそう言った。
『生きるのは辛いですか?』
 と、抑揚のない声はそう言った。
 その声は再び繰り返された。
『死ぬのは嫌ですか?』
 答えはイエスだ。
『生きるのは辛いですか?』
 答えはノーだ。
 だけど、このままじゃ駄目だ。
 哀しみに浸る麻痺した心には、停滞感が居座り続ける。
『生きるのは辛いですか?』
 答えはノーだ。
 僕は、屑篭に携帯電話を投げ入れた。
 どうせ住所録には彼女のそれしかメモリーされていない。
 駅舎の壁に埋め込まれた時計を見上げると、12時を過ぎていた。

 死んだ僕の亡骸を捨ててはこれなかったけれど、死に損ねた身体で僕は、一人の部屋に戻った。


2004/05/07(Fri)12:18:19 公開 / 杉山
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