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『さあ、白黒つけようか。(#1 #2)』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:春一
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#1 「トリコロール」
2004年 12月20日 十六時頃
長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。
今オレが見てる景色は、まさにそういうのなんだろうねぇ、と思って、白井恵一は車窓のさんに頬杖をつきながら、薄く優しく笑った。
彼は袖の長い白のセーターに半分拳を、腰を隠した着こなしをし、Vネックの襟元からはシャツの襟をのぞかせ、下は黒いジーンズ。首は細く、胸板は薄く、足はひょろながく、中性的な印象を与える。
そして、男性にしては長めで、多少ウェーブのかかった金髪をしていた。目も青灰色。地のものである。
恵一の目に映る光景は、ほぼ全て白。視界のスペースを埋める順に山、森、おそらく田畑、おそらく家。ただ、空だけは薄いねずみ色をしていた。人影はなし―――というか、動くものが降りしきる雪以外に何もなかった。
あと二駅ほどで御先(みさき)駅、目的地に到着するはずだった。
恵一は一度、隣席に特別扱いですまし顔で座っているヴァイオリンケースに目をやってから、また外の景色を眺め始めた。
列車の座席は、普通車両だというのに特急電車か新幹線のように、列車の進行方向に向いたものが、中央の通路を挟んで二列ずつに縦に並んでいた。恵一は二両編成のうちの後部の車両、前から三番目、右窓側の席にいる。
やがて車内アナウンスが入って、この山々に囲まれた空間内にある二つのうちの一つの駅に到着した。目的地ではないので、恵一は降りない。
杖をついて腰を曲げ、しかし足取りはやたらとしっかりとした風呂敷包みを担いだおばあさんが入ってくるのが見え、目で追っていると恵一の座席の所まで来て、
「お隣、いいかい? お若い異人さん」
と言った。
恵一はヴァイオリンケースを隣の席から取って胸に抱え、
「ええ、どうぞー」
と、にこやかに返した。
おばあさんは少し驚いて、
「おや、言葉が通じたよ」
と半分独り言のように言い、風呂敷包みを網棚に上げるのを恵一に手伝ってもらってからお礼をして、ヴァイオリンケースの代わりに腰をおろした。 列車は二両ともがらがらで、他に座ることのできる席はいくらでもあったが、このおばあさんはあえてココに座って来た。話相手がほしかったらしい。――いや、話が通じずとも人がそばにいればそれで良かったのだろう。
おばあさんが口火を切った。
「異人さんは、どちらまで?」
「葵下坂(あおいしもさか)神社までですけどー」
恵一が間延びした声で答えると、おばあさんは驚いて、
「へぇ、珍しいねぇ、あそこにかい? だけど、初詣にはまだ早いんじゃないのかい?」
「ああ、オレは、あの神社の神主さんと親戚なんです」
おばあさんは一瞬納得した顔をしてから、
「へぇ、それでかい。それじゃあ初詣の準備とか、大掃除のお手伝いでもするのかい?」
もう一度質問をぶつけた。
そこで恵一は険しい表情になったが、おばあさんは気づかなかった。
彼は、
「まぁ、そんな所です」
と、作り笑顔で答えておいた。
『御先、御先。お出口は、左側です』
都会の統制された声質とは違う、運転手からのアナウンスが流れた。
彼は窓の脇のフックにかけてあった灰色のダッフルコートとマフラーを急いで身につけ、網棚から紙袋をおろし、ヴァイオリンケースの取っ手を掴むと、おばあさんと長い間座っていた座席に別れを告げて、コートのボタンも閉めずに車外へ駆けた。
途端、冷たい空気。息が白くなる。背後でドアの閉まる音がした。
出て行く列車に乗るおばあさんを見送ってから、恵一はコートのボタンを全て閉め、マフラーをきちんと整えた。
手荷物はヴァイオリンと紙袋だけで、雪国の無人駅に立った金髪碧眼の異人。彼は気づいていないが、異様に絵になっている。
恵一は、屋根がないせいでホームに均等に降り積もった雪をブーツで踏みしめながら、三角屋根の駅舎へ降りていった。歩を進める度、歯軋りに似た音がする。
駅舎内に人影は、なし。切符を探すのが面倒だったので「ここに使用済みの切符を入れてください」と書かれた箱は無視して、形だけの改札口を通り抜けて外へ出た。
毎年――去年と一昨年は一度も来ていないが――のことだが、圧倒された。
白い、全部。
駅舎の正面には、その三角屋根に積もった雪で押しつぶされてしまいそうな木造の小さな売店があるが、「冬季休業」の看板。当然だ。よほどの物好きでなければ、この季節にこんな雪深い山奥へは来ない。雪のせいで、先刻の列車がこの時期にココを通ることができるのは五分五分といった所で、そのせいで去年と一昨年は断念した。今年の夏に来なかったのはもっと別の理由があったが。
道路であった所には、わだちが一対。この雪深いなかを車で移動する命知らずもいたらしい。売店の左にはバス停があった。おもしになっている潰れた円筒状のコンクリートにだけ雪がかぶっていて、そこからこけしのような形のダイヤと駅名の書かれた鉄製の看板が生えている。去年の夏はそのそばのベンチで30分ほど待たされ、汗だくになって神社前のバス停で降りた。二時間に一本しか来ない列車と、二時間半に一本しか来ないバス。そのダイヤがかみ合っていないのだから、待たされる時間は恐ろしく長い。そしてそのバスも、もう今年は出ない。まだ雪は今年はこの時期にしては奇跡的に浅く、なんとか走ることは出来そうだったが、11月から翌年の3月まで運行はなくなるのと決まっている。
売店の右手は、元・田んぼと線路の柵に挟まれて、どこまでも道が続いていた。終わりはわからない。降りしきる雪の白の保護色で、地平がぼかされている。
恵一はもう一度反対側を見、探したが、待ち人はいなかった。
駅舎の中で待つことにした。
さっき通り過ぎて来た改札の両脇にベンチがあって、恵一はその右手の赤い方を選んで座った。向かい合ったベンチに挟まれるようにして、改札の真ん前にはいつ灯油が切れたのかわからない、円筒状の古びたストーブが置いてあった。
寒い。前髪が凍りつくかと思われるほど。建物の柱にかけてある薄く埃をかぶった小さな温度計は、氷点下の7℃を示していた。頬がぴりぴりと痛んできたので、恵一はフードをかぶりヴァイオリンケースをコートの中に入れた。もう手遅れかもしれないが、調律を狂わせないように。
静かだった。勿論誰も来ない。駅舎の木造建築の焦げ茶と、外の雪の白の中心で彼だけが生あるものとして存在した。まぶたが重くなってきた。まさかここで凍死なんてことはないだろうねぇ、と恵一はひとりごちて、震える唇で薄く笑ってから、ベンチの上で足を抱えて本当に目を閉じた。
◇
やがて、鎖の音がした。車のチェーンが擦れ合う音だった。
恵一がそれを聞いて薄く目を開けると、外からばたんと車のドアを閉める音がして、短い間隔で雪を踏む音が駅舎に近づいて来た。恵一はゆっくりと立ち上がってヴァイオリンケースを左手に掴んだ。
藍色の傘を降りたたんで駅舎の中を見回し恵一の姿を見つけると、その女性はほっとした表情になり、
「おかえりなさい。恵一さん」
と、優しく微笑んだ。
恵一は力の抜けた笑みで、
「ただいま帰りました。ご無沙汰してます、楓姉さん」
と返した。
楓と呼ばれた女性は人の良さそうな、というか人の良い(断定)笑顔の人で、目測20代前半。だが、その暖かな後光は若さの中に母性を感じさせた。手のかかる下の兄弟か子供がいそうな感じだ。
白いブラウスに紺のプリーツのあるロングスカートを履き、藍色のエプロン。その上にベルトを外し、前を開けたままのベージュのトレンチコートを羽織っていて、背中の中くらいまで届く長い髪をうなじのあたりで藍色のリボンで束ねていた。いかにも炊事中に慌てて出てきたお姉さん、といった感じ。
楓は白い息をきらしながら、本当に申し訳なさそうに謝った。
「ごめんなさいね。お夕食の仕度に夢中になっちゃって、それから台所で眠ってしまって――気がついたら、時間がとっくに過ぎてしまっていたんです…」
恵一はまた、へら、と笑って、
「あぁ、だいじょぶですからー。楓姉さんの可愛らしさに、眠気も吹っ飛びましたしー」
フードを脱いだ。
楓はくすりと笑ってから恵一のヴァイオリンケースを見て、
「……。それ、どうしたんですか? 前には持っていませんでしたよね?」
「あぁ、これは――」
恵一は一度ケースを見やってから、
「始めたんです、代わりに。『荷物はヴァイオリンと栗羊羹さえあればいい』って感じです」
紙袋を持ち上げて見せ、半分はぐらかし気味に自嘲を混ぜて答えた。その後、「栗羊羹、好きでしたよねぇ。あいつ」と付け足す。
「他の荷物は、もう二階の部屋に届いてますから」
楓は複雑な笑みを浮かべた。
行きましょうか、と恵一が促して傘、一本しかない傘の中に頭一つくらい背の低い楓を入れてやり、彼女が運転して来た青色の軽自動車の方へ向かって歩き出した。
恵一と楓。この二人は従姉弟同士だ。恵一が17、楓が21。楓の方が目上だが、彼女は幼い頃から習慣的に敬語を使うので、恵一もそれに合わせて敬語を使っていた。彼女に礼儀正しい習慣が身についたのは、神社の家に生まれ敬語を使う場面が多かったせいなのかもしれない。
そして、葵下坂の家にはもう一人姉妹がいた。
「唯(ゆい)は、どうしてますかー?」
恵一が、助手席から言いにくそうに切り出した。
楓も言いにくそうに言葉を選んで返す。
「あの子は…お風呂でも沸かして、入ってるんじゃないかしら? 部活で疲れたー、って言っていましたから」
恵一は、唯のその時の言動がおおかた予想できた。恵一を散々なじってから「行くはずないじゃない。あいつの迎えになんて」とでも言って、思い切りふすまを閉めたに違いない。
恵一は楓の気遣いをとりあえず受け取っておいて苦笑し、
「あいつらしいです」
と言った。段々、会うのが楽しみになってきた。――不謹慎にも。
楓がハンドルをきりながら話題を変えた。
「恵一さん、随分背が伸びたんですね。髪がそうでなかったら人違いかと思ってますよ? ――何cmになったんですか?」
「180、だったかなぁ。それぐらいだと思います。中3の時から急に伸びだしたんですよー」
「そんなにあるの?…じゃあ唯とは、もう40cmも差がついちゃったのかしら」
恵一は若干大きな声を出して笑い、
「え、じゃああいつはー、中1の時から全然伸びてないんですか?」
楓は苦笑して、
「1cm、縮んでしまったそうですよ。――すごくむくれていたわ」
最後は二人して大笑いしてしまった。
目の端に涙を浮かべて、楓が話を続ける。
「今年は雪、少なくて良かったですね。去年や一昨年のようだと、こんな所へは来れませんもの」
「えぇ、そうですねぇ。ほとんど追い出されたようなものだったですしー、あのトンネルが通れなかったらオレ、行き場を失ってましたよ。多分」
恵一が苦笑すると楓はすまなそうな顔になって、
「あ…。嫌なこと言いましたね、私…。ごめんなさい、気がまわらなくって…」
恵一は、いえいえとかぶりを振って、
「だいじょぶですよー? 第一オレが悪いんですし。楓姉さんは、なんにも気にすることありませんから」
楓は、本当にごめんなさいと言ってハンドルをきり、最後の角を曲がった。小高いおわんを伏せたような形の山が見えてきて、そのふもとには雪をかぶった赤い鳥居が見えた。
◇
「大丈夫ですか? 恵一さん」
「えぇ……多分……」
神社の境内までたどり着くには、数百段の石段を登る必要があった。もう大分登ったはずだが、まだ山上にあるはずの玉垣と鳥居は見えなかった。
恵一は先刻、駅舎の中でガチガチ震えていたのに今はセーターのわきまで汗が染み、歯の代わりに膝がガタガタ震えていた。
十数段先を行き、心配そうにこちらを見やる楓の表情からは疲労の色の欠片も感じ取れなかった。楓姉さんは運動オンチのはずなのにー…、と内心ショックを受けながら、美人は母性の他に体力も兼ね備えているんだ。あぁ、きっとそうだよ。と自分に意味があるのかないのかわからない暗示をかけて、二年前から封印していた『根性』を使って登った。
◇
やっと境内まで登りきった。
楓が「お疲れ様です……――大丈夫ですか?」と気遣ってくれたが、それは恵一の心の傷をえぐるにすぎなかった。情けない。
漫画に出てくる金髪さわやかさんなら、こんな場面でも涼しい顔でこなすんだけどねぇ、と、半分現実逃避気味に三次元の物理法則を呪ってみた。
いつしか日暮れの時刻を過ぎていたらしい。石段を登っている間に雪はやみすっかり晴れていたので、今は山々の稜線が白と黒ではっきりと区別されていて、東のひときわ高い山の影からこうこうと光る月がのぞいていた。
ここ、御先村の中心にあるこの神社の山からは、この辺り一帯が一望出来た。周囲は隙なく、遊びなく、全て雪山だった。外との連絡手段は、あのトンネルを抜ける列車のみ。冬季の御先村は雪の要塞と化す。だからこの時期、村に入れる率が五分五分なのだ。
鳥居をくぐると、目の前には立派な拝殿がそびえていた。二階建ての住宅ほどの高さで、幅はあの駅舎の倍はある。本を伏せ、その表紙をこちら側に向けたような形の屋根には、雪がかぶっていても反りがあるのがわかる。賽銭箱の手前には数段の階段が設けられ、勿論あのガラガラとなる鐘についた巨大な三つ編みのような綱がぶらさがっている。建物は短い支柱に支えられて地面より高い位置にあり、縁の下に風が通るようになっている。そこだけは大きな屋根のひさしで守られ、雪は積もっていない。
今は雪のせいでわからないが鳥居からは参道がしかれていて、それは拝殿へ伸び、直角に枝分かれして左手にある神木と本殿へ伸びしているはずだ。
神木は雪囲いをされていた。樹木がなんの種類かはわからないが巨大で、幹が白い。白樺の樹にそっくりだった。注連(しめ)がひかれ、その網目に挟まっている白いじゃばらの紙が雪のせいで幹に張り付いていた。円錐状に藁で囲いをされているところの周りは、雪が丸く囲むように盛り上がっていた。柵があるのだ。夏に来た時には、柵の内側に葵の花が一面に咲く。柵の中に入って葵をふんずけて、楓姉さんに怒られたんだっけねぇ、と恵一は忍び笑いを漏らした。
本殿は拝殿とほぼ同様のつくりで、中には御神体が祀られているはずだ。
恵一はよろよろと歩を進めながら、楓に尋ねた。
「刀の神様は、健在なんですかー?」
楓は少し苦い表情になって、
「えぇ…そうみたいです。いい人がなかなかあらわれなくって――ってこれでは、荒御裂神(あらみさきのかみ)様に失礼ですね」
それからくすくすと笑った。
荒御裂神。この神社で祀っている神様の名だ。嫉妬深い女神で、男女の仲を裂いてしまうと言い伝えられている。本殿にある彼女のご神体は何故か二つあり、刀なのだと恵一は楓から聞いたことがあった。
やがて、葵下坂家の住居に着く。建物は二階建てで、すり硝子を縦に木製の格子で仕切った引き戸のついた玄関口には、板で雪垣がつくられていた。
「これ、楓姉さんが作ったんですか?」
恵一が尋ねると、
「いいえ、これは唯がつくってくれたんです。ご神木の雪囲いも…。あの子、体力がありますから」
楓は笑って答えた。恵一は驚愕して、
「一人で、やったんですか…?」
「ええ、そうですよ」
神木は、拝殿よりも背が高い。
楓が雪垣をくぐって、引き戸を開けた。
「ただいま帰りました。――ゆいー? 恵一さん、帰って来たわよ」
返事なし。
楓は「変ね、寝てるのかしら」とつぶやいて、靴を脱いできちんとそろえると中に入っていった。恵一もブーツを脱いで楓にならってそろえ、後に続いた。唯の姿は見当たらない。
「どこに行っちゃったのかしら」
居間、こたつのある部屋に入って楓がつぶやいた。右奥の低い棚の上にはいくつかこけしが立っていて、硝子張りの戸棚の中には古めかしい食器が整然と並べられているのが見えた。左側、都会の住宅よりはるかに高い天井の付近には神棚があって、飾ってある破魔矢や注連(しめ)縄は少しも埃をかぶっておらず、楓の手入れ――あくまで楓の――が行き届いているのがわかった。
部屋のぐるりを見渡してから「お夕食はもう少し待ってくださいね」と言い残して、楓は唯を探すために隣のキッチンに消えた。
恵一はそのうち出てくるでしょー、と思い、ヴァイオリンと紙袋を置いてコートを脱ぎ、こたつに入ろうとして、何か赤い糸の束のようなものが布団からはみ出しているのを見つけた。
「んー?」
布団に手をかけてめくると、
「あ」
こたつの中に少女が、猫のようにまるくなって幸せそうに眠っていた。
少女の髪は赤毛だった。頭の高めの位置に二つ結いにされ、それは彼女の腰を回り込んでお腹の前に垂れていた。少女らしい、しかし高2にしては幼い寝顔。頬に生えた産毛や赤毛の毛先は、こたつの夕日のような色の暖色の灯りに照らされて、萌え立つようだった。ハイネックの白いセーターに、赤のチェック柄のプリーツのあるミニスカートを履いていて、足は素足だった。
恵一はその猫――もとい、少女が口からよだれを垂らしているのを見て苦笑し、彼女の両わきを抱えて頭だけ布団から出してやり、楓を呼びに立とうとした。
その時、
「………けーくん、おかえり………」
寝言が聞こえて振り向くと、少女は「むにゃ」と寝返りをうってこちらを向いた。
何故か、涙が出た。
「――ただいま、唯」
抱きしめてキスをしてやりたくなったが、やめておいた。
『おかえり』
『ただいま』
果たしてこの家は、
この少女は、
彼の逃げ場となるのか。
それとも。
#2 「涙の理由は」
大きな、木製の背もたれのある椅子が三つずつ向かいあって並ぶテーブル。その席の一つに、恵一は腰掛けた。醤油のいい香りがする。
その向かいに赤毛の少女が腰をおろして、
「世間の目に耐えられなくなって、逃げてきたの? 恵一」
寝起きのくせに、ややつり上がり気味の猫のような目をしっかりと恵一に向け、毒を吐いた。
だが、皮肉を言われた恵一はいっこうに意に関せず、
「まぁ、そんなとこかなぁ」
もう慣れっこだ、といわんばかりの態度を取る。その後で、
「惜しいねぇ、元に戻っちゃったかぁ」
と、唯にも聞こえる声で、いかにも残念そうにつぶやいた。
唯は怪訝な顔つきになって、
「? なによ、元って?」
「いや、別に」
唯の赤毛と青灰色の瞳は、恵一の母方の家系の血を色濃く受け継いだものだった。白人の親戚は白人。しかしどちらも完全に日本に帰化している。白井家と葵下坂家に、恵一と唯の母親がそれぞれ姉妹で嫁ぎ、恵一と唯に母親の形質が遺伝した――という、かなり複雑で稀なケースだった。
楓が二人の喧々囂々(けんけんごうごう)とした―― 一方的に、だったが――会話を湯気で中和するように、二人の前にそれぞれ茶碗を並べた。里芋と牛肉、それからネギ、キノコなどを醤油汁で煮込んだ郷土料理だった。それから焼いた虹鱒、恵一には名前のわからない漬物等――手際よく、次々に料理を並べていった。それから丸いお盆を胸に抱えて、恥ずかしそうに言った。
「ごめんなさいね、いつも田舎料理ばかりで…私、これくらいしか作れないんです」
唯がすかさず突っ込む。
「悪いのは、お姉ちゃんじゃなくてこの場所よ。冬になったら自給自足ぅーなんて、時代錯誤もはなはだしいわ」
頬をふくらませて憤慨してから、「まぁ、魚は好きだけどね」と付け足す。
「いーえぇ、オレ、楓姉さんの作る料理、好きですからー」
踏んだり蹴ったりに言われている東北の郷土料理を、恵一がお世辞でなく弁護した。その後で唯に向かって、
「好き嫌い言ってるからそんなにちっちゃいんだよー? ゆいゆいはー。たくさん食べないと、楓姉さんみたくなれないよー?」
と、呆れたように肩をすくめた。
唯が眉を跳ね上げて、
「あんたこそ、筋肉に栄養足りてないんじゃないの? 相も変わらずひょろひょろしててさ――それと、その呼び方やめてくれない?」
「可愛くっていいじゃない? ――あーでも、本当に足りてないかも? もう石段登った時の反動が来たしー」
反論せず、薄く笑ったまま「痛たた」とももをさすっている恵一を見、唯は脱力したように背もたれに体を預けて、
「情けない……。夏から一歩も外に出てなかったんじゃないの?」
恵一の顔がこわばって、
「唯!」
楓が叫んだ。
◇
真っ暗な部屋の中心であぐらをかいて、恵一はケースを開けた。
ヴァイオリンは寒さで壊れてしまっていた。
恵一のいる部屋は六畳ほどの広さで、床は畳。右奥、押入れのふすまの横には小さな桐箪笥があって、左手の壁際には、今は針が折れて聞けないが、スピーカーやターンテーブル――つまり、レコードプレーヤーが一式そろって鎮座していた。箪笥もプレーヤーも、どちらも埃をかぶっていない。使う人間がいなかったこの部屋も、楓はこまめに掃除していた。
そして、荷解きされていないダンボールの箱が部屋の入り口と中央、それから押入れの前を避けて、恵一を囲むように山積みにされていた。
恵一はもう一度弓を取りあぐらをかいたまま弾いてみたが、やはりきてれつな音色しか出なかった。調律どころか、木自体が駄目になっているようだった。
恵一は諦めてヴァイオリンをケースにしまって、レコードプレーヤーのターンテーブルの透明なカバーの上にそれをそっと置いた。そして、
「暇だねぇ…」
一人なのに、へにゃ、と笑ってつぶやいた。
こたつの中で眠って汗をかいたので、唯はもう一度お風呂に入った。襟付き、赤い水玉模様のパジャマに着替えて髪をおろし、居間に置いておいたぬいぐるみの片耳をひっつかむ。
「お姉ちゃん、おやすみ」
「ええ、おやすみなさい。明日は学校あるの?」
「んー、多分あると思う。予報では晴れるって言ってたし」
「そう、わかったわ。それじゃ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
キッチンと居間の間の障子越しに大きめの声で挨拶し、唯は二階へ向かった。
階段を上りきった所に、恵一の部屋の部屋に入りきらなかったダンボールがいくつか積んであり、それが邪魔で、向かいの唯の部屋のふすまの手をかける所に手がとどかなかった。
「……。邪魔ね」
ダンボールをひと睨みして、唯は恵一の部屋のふすまを思い切り開けた。
たん、という音と共に部屋が一瞬にして明るくなり、恵一は驚いて肩越しに入り口を振り返った。まぶしさに目を細める。そして、そこにいるシルエットに、
「……。どっちですかー?」
身長でわかってはいたが、とりあえず確かめた。
「私」
「何用でー?」
「ダンボール片付けてくれない? 私の部屋、開けらんないんだけど」
「あ、廊下のやつ、邪魔だったー?」
恵一は立ち上がって、唯のいる出口の方へ歩き出す。
「ごめん、今片付ける」
自分の胸くらいしかない唯を通り越して、恵一は一つダンボールを抱えた。唯はその間、ずかすかと部屋に上がりこんで「電気くらいつけなさいよ」と、めいっぱい背伸びをして紐を引き、白い電灯をつけた。
恵一はダンボールを一つ運びこみながら、唯の左手にぶら下がっているものを見、
「それ、まだ持ってたんだ」
「い、いいでしょ? 別に……」
唯は一瞬焦って、
「――これくらいしか残ってないんだから」
それから目を伏せた。恵一はそれ以上、その巨大な猫のぬいぐるみについて何も言わなかった。
唯は猫の首を両腕で抱きなおして、青灰色の瞳をめぐらせた。ダンボールの山だったが、その中の、レコードプレーヤーの上に、
「何これ…」
恵一は二個目を運び終わると、ふうと息をついてふすまを閉め、
「ヴァイオリン。壊れちゃった」
さして何でもないかのように言った。
「なんで?」
「寒さでねぇ。多分、駅で待ってた時じゃないかな。致命的だったのは。…――こっちに楽器店とか、は、ないよねぇ…」
「あっても教えないわ。あってもヴァイオリンなんか直してくれない。それに第一、あんたこうなるってわかってて持って来たでしょ?」
恵一は一瞬絶句して、
「――鋭いねぇ。千里眼でも持っ」
かなりの力で突き飛ばされた。手をつく位置が低くくみぞおちを押されたので、咳き込みながら尻餅をついて仰向けに倒れた。服の裾に電灯の紐が引っかかって明かりが消え、非常灯だけになった。突き飛ばした張本人はその腹に馬乗りになり、猫を打ち捨てた。
「な。何す――」
「ふざけるな! どうして荷物の中に、面が、小手が、胴が、竹刀がないのよ!」
恵一の顔が凍りついて、唯から視線をそらした。
「何で楽器なんか持って来てるの? 壊れるの覚悟で持って来るほど、それがやりたかったの!?」
無言。視線は外したまま。
「ねぇ、剣はどうしたのよ!」
無言。ゆすられて白金の前髪が目を隠した。
「答えられないの!?」
無言。
唯の声には、いつしか嗚咽が混じっていた。
「なんで…どうして――――どうしてその人の分まで、剣道やろうとか思わないの…?」
長い、唯の泣き声がしばらく流れる。
そして、
「…………。そういうことは――」
へらへら笑いを完全に殺し、恵一が固い口を開いて、
「――誰か、親友を殺してから言、む?」
それはすぐに塞がれた。何か、やわらかいもので。
甘い蜜をはらんだ、『それ』。
小刻みに震えている、『それ』。
自分のものより一回り小さな、『それ』。
暖かな、しかし緊張感が伝わって来る、『それ』。
――恵一が気付くまでに、一瞬かかった。いや、あまりに唐突すぎて『それ』を『それ』だとは、信じきれなかった。
『それ』は、唯の唇だった。
恵一の両の二の腕を、ばったの足のように曲げられた唯の細腕が押さえつけていて、体が重なり、一つになっていた。距離、零。
紅い髪が、ほおにかかって来てこそばゆい。しかし、腕を拘束されていて振り払えない。リンスかトリートメント剤の香りが強制的に鼻へ伝わる。
恵一は彼女の匂いを、体温を、感触を、ただ感じてしびれた。いつのまにか、見開いていた目を閉じる。境界があやふやになる。
そして、唯に最後の壁を抜けられそうになって、
「――やめよ」
恵一は優しく体と体を裂いた。
ちゅ、と音がして、交じり合った暖かな唾液が糸を引いて冷え、非常灯の明かりを反射して唯の髪と同じ緋色に煌いた。後、重力に逆らえなくなって二人をもう一度繋いで汚す。
「味は」
唯が聞いて、
「栗、羊羹」
恵一が答えて、
「馬鹿」
唯がまた泣いた。
自分の上で泣きじゃくる唯を見て、恵一は、
「さっき、我慢したんだけどねぇ」
背中を叩いてなぐさめてやる資格は、彼に無かった。
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2004/05/19(Wed)17:36:45 公開 / 春一
■この作品の著作権は春一さんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
『は? 竹刀? ヴァイオリン?』
ええもう。(何
なにぶん時間がなくて、更新が遅れまくりです。(大学受験の為
ああ、キツい。ひがな一日中勉強しとりました。死ぬかと思いました。
『二作同時か、せいぜい自爆するなよ?』
がんばります…
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。