『最後のサヨナラ』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:明太子                

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 ちいちゃんが突然目の前に現れたのに私は初め何の疑問も抱かず、おう、久しぶり、なんて普段通りに挨拶して、その後も中身のない会話をいくつか交わしていたのだが、しばらく話をしているうちに何かがおかしいことに気づいた。
「ちいちゃんよう」
「はい?」
「ちいちゃん死んだよね、一ヶ月ほど前に」
「君は相変わらずつまんないこと言うよね」
 ちいちゃんはわざとらしく溜息をついた。呼びかけた時に素っ頓狂な声で「はい?」と返事をするのも、答えに窮する質問をされると「君はつまんないこと言うよね」と返すのも、紛れもない彼女の口癖だった。喧嘩をしていても、彼女のこの一言でそれ以上喧嘩をするのがバカバカしくなって、何度別れる危機を乗り越えてきたか知れない。言わばこれが私たちの会話のお決まりの型みたいなものだった。弁当で言うなら幕の内、バスケで言うならピックアンドロール。
 不意に、これ夢なんじゃねえの? という声が私に語りかけてきて、ああこれは夢か、うんそうだろう、そうだ夢だ夢だ、そりゃ夢なら死んだちいちゃんも登場するだろうよ、というような脳内協議の末、これは夢であるということで一応の結論は出た。
 でもこれが夢であるのを自覚したということは眠りがかなり浅くなっているということで、もうじき目が覚めてしまうのだなあ、もう少しちいちゃんと話をしていたいなあ、なんて考えていたら、彼女が私の心の中を見透かしたように、
「大丈夫、君はまだ起きないよ。そんなにすぐには帰さないよ」
 と言って、彼女には珍しくマリア様のような優しい微笑みを向けるので、私はその言葉に安心して、そうか、ならいいんだ、と唇が切れるくらいの笑顔を作って喜んでみせた。


1.夢の断片:学校


 ちいちゃんと私は、母校である小学校の校庭にあるブランコに腰掛け、お互いに時折思い出したように地面を蹴って少しだけ前後にブランコを揺らせながら、とんでもなく大きな夕陽をバックにした古い校舎を眺めていた。縦に引き伸ばしたような校舎の影が、巨大な地上絵のような鮮やかさで校庭に下りていた。
「俺、なんでここにいるんだろうね」
「なんで私に訊くのよ」ちいちゃんは呆れた様子で言った。「でも、夢だからじゃないの? さっき、夢だ夢だって一人ではしゃいでたじゃん」
「まあね」
 まだ状況が飲み込めていなかったけれど、自分が今こんな所にいるということよりも、ちいちゃんが横にいるということの方が驚きであり、また嬉しくもあるのだ。あまり辻褄ばかり突き詰めていると、それはちいちゃんがいることを否定してしまうことになるからやめておこう。
「昔さあ」暫しの沈黙の後、ちいちゃんが言った。「体育の授業で馬跳びやったの覚えてる?」
 馬跳び。私はその言葉を聞いても、最初どういう遊びだったかすら思い出せなかった。ただ、彼女がそれを言った時の、懐かしさの中に混じった物憂げな表情を見て別のものを思い出した。
 私は校庭の真ん中に目を遣った。そこには、うずくまって泣いている、子供の頃のちいちゃんの姿があった。これが「馬跳び」の言葉で私が思い出した光景。そこから芋づる式に記憶がぐいぐいと引き上げられた。

 小さい私は両手を膝について頭を下げ、前屈みの姿勢でじっとしていた。私の背中に手をついて、クラスメイトが一人また一人と跳び越えていき、一定の間隔を空けて私の横に並び、同じ体勢をとって列を成していく。
 いよいよちいちゃんが私を飛び越える番になって、お下げ髪を左右に振りながら彼女が近づいてくるのを横目で見ていた私は突如腰をあげて直立した。
「俺千尋に触られんの嫌だよ! 気持ちわりいよ!」
 確かそんなことを言ったのだったと思う。スキンシップを意識するお年頃だったのだろう。事情をすぐに察した先生が走ってやって来て、何かを叫びながら私の頬に平手打ちを見舞った。
 ちいちゃんは呆然と立ち尽くしたまま私の奇怪な行動を見届けると、その場にうずくまって泣き出した。周りの友達が慰めても、私に罵声を浴びせかけても、彼女はそこから動くことを拒んで泣き続けた。いつまでも泣き続けた。
 現に今だって、校庭の真ん中で、独りになってもまだ泣き続けている。

「そんなことあったな」私は泣き続ける子供のちいちゃんを眺めながら、隣にいるちいちゃんに向かって言った。「あの頃は『千尋』って呼んでたなあ。大きくなってから『ちいちゃん』だもんな。普通逆だよな」
 ちいちゃんが座っているブランコの鎖が軋む音がした。
「ええと、ポイントはそこじゃないんですけど」
 隣のちいちゃんが冷めた声で言った。
「わかってるよ。冗談だって」
 私は隣のちいちゃんをなだめるように言ってから、おおい、千尋、悪かったな、と大声で呼びかけると校庭の真ん中のちいちゃんはお下げ髪を揺らせて勢いよく立ち上がり、目を強く瞑って憎々しげに私に向かって舌を出しながら姿を消した。



***



「ちいちゃんよう」
「はい?」
「この夢、やたら鮮明なんだけど」
「君はすぐつまんないこと言うよね」


2.夢の断片:道上

 
 ちいちゃんと私は、硬くなった地面を穿つ道路工事用のドリルの音がけたたましく鳴り響く中、駅へ向かう道を歩いていた。高校へ通っている時に毎日自転車で走った、周りに何もない道である。とんでもなく大きな夕陽を背にして前に伸びる自分の影には、いくら進んでも追いつくことがない。
 工事をしている現場はどこにも見当たらず、ドリルの音だけが響いている。道も、荒れた大地が剥き出しのままだった。
「この道っていつ舗装されんのかね」
 私はおもむろに立ち止まって、ところどころ石が突き出たでこぼこ道を二度、三度と踏み鳴らしてみた。もちろん何がどう変わるわけでもないが、ただ何となくやってみたかっただけだ。
「もう舗装されてるよ、今は」
「え? だってこれされてないじゃん」
「そりゃあ、あの頃はこのままだよ」
 ちいちゃんが歩きながら言った。私は二、三歩駆けて追いついてから彼女の顔を覗き込んだ。
 あの頃。

 親父の拳が飛んだ。高校生の私はよろめかないよう、歯を食いしばってそれを受けた。
 大学に行けと主張していたオヤジと、東京へ行って演劇をやりたいと前から思っていた私との間で、起こるべくして起こった衝突だった。オフクロはオヤジの傍らで正座して、震えながら心配そうに私たちの遣り取りを見守っていた。
 昔は殴られるとすぐに倒れて泣き叫んでいた私が、次第に我慢してよろけるだけになり、そしていつしかびくともしなくなっていた。これこそが、自分が強くなっていることを知るバロメーターだと思っていた。時、とは成長をもたらすものとしか考えていなかったのだ。そんな一方的な浅慮しかないものだから、時と共にオヤジが弱くなっている、というもう一つの事実には目を向けようとさえしなかった。
 もしあの時それに気がついていれば、私だってオヤジを殴るなんてことはしなかっただろう。
 でもあの時のことをいくら思い返してみても、いくら後悔してみても、やはりあれ以外の行動を取ることはなかっただろうと今でも思う。所詮、歴史に「もしも」はないということか。

「やけにチンケな歴史だねえ」
 ちいちゃんが、指まで開いた手を口にあてて大袈裟に前後させながら欠伸した。歴史は言い過ぎだったか。

 あの日からオヤジとはほとんど口を利かなくなり、オフクロは私たちの冷戦の狭間で泣いてばかりで、なんとも過ごしにくい日々が続いた。卒業間近になっても私の進路は白紙だったが、オヤジは何も言わなかった。
 卒業式の帰り、私は前もって計画していた通り、卒業パーティーに行ってくるとオフクロに偽って、適当な着替えを詰めた鞄と貯金だけを持って、机の上に予め準備していた置手紙を残して家を出、東京へ向かった。
 駅へ向かう道すがら、聞こえていたのが道を掘り返すドリルの音だった。当時の私の気分を紛らせるにはちょうどいい騒音だった。駅のホームで、なかなか来ない電車を苛々しながら待つ間も、遠くから聞こえるドリルの音は私の耳から侵入して全身を震わせるように響いた。今でも東京で、工事現場の近くを通ると身体が火照ったように熱くなる。

「うるさいねえこの音」
 ちいちゃんが耳を塞ぎながら言った。
「おい、この音バカにするんじゃないよ」
「別にバカになんかしてないよ。うるさいってだけ」
「それが冒涜だっつの。俺が、人生で思い出に残る一曲を挙げろと言われたら、迷わずこのドリル音を挙げるね」
「うん良かったね。挙げとけば?」
 ちいちゃんとは、こういう、意味を全く見出せない会話が日常だった。

 東京で二晩野宿したのちに、いつ取り壊されてもおかしくないようなボロアパートで部屋をようやく見つけ、手紙で、当時付き合っていたのにほったらかしにしてしまったちいちゃんだけに住所を連絡した。
 数日後に部屋の呼び鈴が鳴って、扉を開けると涙で顔を醜く汚したちいちゃんが立っていた。

「ちいちゃん、あのときほんとブサイクだったなあ」
「君の顔も十分ブサイクだったよ」

 私はその頃、まだ東京に来てから一週間程度しか経っていないというのに我ながら呆れるくらいに人恋しくなっていて、玄関の前に佇むちいちゃんの姿を見た時には、彼女に負けないくらい涙が溢れて、彼女の背骨を折らんばかりに抱きしめたものだった。

「じゃあ、ブサイク同士ってことで」
「そだね」
 私は、脱力しきった会話に和みながら、ふと私を殴る鬼の形相のオヤジを思い浮かべようとしてみたが、どうしたことか穏やかに笑う姿しか浮かんでこなかった。こんな表情、ほとんど見た記憶がないというのに。 
(頑張れ)
 不意にドリル音が消え、代わりにオヤジの声が聞こえたような気がして、反射的に周囲を見回してみたが姿はどこにもなく、とんでもなく大きな夕陽の前を、黒い影となった鳥の一団が見事な「く」の字を崩さずに横切っているだけだった。



***



「ちいちゃんよう」
「はい?」
「俺、いつになったら起きるの?」
「君は本当につまんないこと言うよね」


3.夢の断片:駅前


 空は今も茜色。さっきも茜色。ずっと茜色。とんでもなく大きな夕陽は、その姿の三分の一ほどを地平線の下に隠したまま、少しも沈む気配がない。
 駅の周辺の道はさすがに舗装され、通りの脇にも古い木造家屋や店が目立ちはじめた。夜の十一時に閉まるコンビニもどきの店まであるが、辺りに人の気配は一切ない。
 ちいちゃんと私はそのうちの一軒の前で立ち止まり、建物を見上げていた。それは他の家と変わらぬ二階建ての古い造りだったが、その外観に似合わぬ重厚な木製扉を正面に構え、その上には扉を護るようにして毒々しい紫色をした雨よけが据え付けられている。雨よけには白抜きの字で「スナック○○」と店名が書かれてあった。
「通称『オバケ屋敷』だっけ」
「昔いつもここの前通ってさ、結構不気味だったよね。こんな所に来るヤツの気が知れなった」
 お前が言うなお前が、と言おうとしてちいちゃんの顔を見たら、彼女は長い髪をまとめ上げてばっちり化粧も施した、夜の女に変身していた。
 私が嫌いなちいちゃんだ。

 東京へ来て七年が経っても、両親とは一切連絡をとることもなく、相変わらず芽が出ずに小さな劇団で活動を続けながら、私はプラスチック工場でアルバイトをしていた。ちいちゃんは色々な職を転々とした後、三年ほど前に始めたホステスを続けていた。
 それ以前は彼女の飽き性が災いして、どこで働いても長くて半年というような有様だったので「水商売っていっても、お客さんの話相手をするだけの店だから」と相談を受けた時も、どうせまたすぐ飽きるだろうし、そうでなくてもこの容姿では店側からいずれ解雇されるだろうと思っていたので、そういう店だったら試しにやってみれば、と深く考えずに了承した。

「何、そんなこと思ってたわけ?」
「うん。だってちいちゃんブサイクじゃん」
 私が言い切ると、ちいちゃんは「あ、そか」と呟いて一旦納得するふりをしてから、よける隙を与えない素早い動きで私の頬の肉をむしり取るようにつねり、子を叱りつける母親のようにかぶりを振った。
「いたいいたい、ごめんごめん」
 私は助けを乞うように言った。本当は痛くもなんともなかったけれど、なんと言うか、流れで。
 彼女の頭の動きに合わせて、彼女がいつも出勤前につけていた香水の匂いが漂ってきた。その匂いは、吐き気を催すような記憶を一緒に運んできた。
「でも、君がそのとき思った通りになっていれば良かったな」
 彼女はそう言って手を離した。

 初めのうちは、ちょっと高い時給といった程度の稼ぎで、贅沢といってもたまに二人で居酒屋に行って、地酒をメニューの右端から順に注文してはがぶ飲みするくらいだったが、徐々にちいちゃんの収入が増えてくると部屋中が彼女の衣服で溢れかえり、仕舞いには、こんな部屋に住んでいたら格好がつかない、などと言い出して引越しを繰り返した。部屋がレベルアップして広くなればなるほど私の肩身は狭くなり、私は居場所を失っていった。
 生活レベルの上昇ぶりが段階的だったのであまり気にならずにいたのだが、ある日ふと、彼女の収入が、この仕事を始めた頃と比較したら格段に増えていることに気がついて、私は彼女を問い詰めた。
 しかし問い詰めるといっても、その頃の私にはもはや弱々しく彼女を諌めることしかできなかった。「君がもっと稼いでくれたらこんなことする必要ないんだけど」の一撃で勝敗が決してしまうからだった。

「そのへんから先は、思い出さなくていいよ」
「いいよ、って言われても無理だって」
「なんでよ」
「だって、思い出さないようにするというのは記憶を隠すということであってそれを隠すためにはどうしてもその記憶に触れないといけないわけだから『思い出さないようにする』ためには一旦『思い出す』という過程を経なければなら」
 私の口が彼女の手で塞がれた。
「ああうるさい。私より成績悪かったくせに偉そうに」
 彼女の掌は思いのほかざらざらとしていて、そこから彼女の苦労が伝わってくるようだった。私は不憫の情に駆られてそれ以上思い出すことをやめたかったけれど、そのためにはやっぱり一旦思い出すという過程を経なければならないのでどうしようもない。

 それからちいちゃんは、夜に帰ってこないことが多くなった。翌朝に帰ってきて私が問い詰めても、朝まで飲むお客さんがいるのよ、と気怠げに言って布団にもぐりこむだけだった。
 その頃にはもう、私たちの絶妙のコンビプレーが生み出す会話も一切出ることがなくなっていた。

「俺さあ、ちいちゃんにどうしても訊きたいことがあるんだけど」
「えー、今日の会見は、プライベートなご質問には一切お答えできませんので」
 ちいちゃんは誰かの物真似をするように声色を変えたが全然楽しそうではなく、どこか遠くを見るような目をして答えた。
 
 ある日ちいちゃんは私の知らない男の部屋で変死体となって発見された。

「これですよ。ここ」
「教えないよーん」

 私も警察に話を聞かれたが、現場が現場だったので容疑をかけられることもなく、精神的苦痛を負うほどの追及はなかった。それよりちいちゃんの両親が上京してきて、彼女の父親に殴られたことの方がよほど応えた。殴られることには慣れていたはずなのに、全く違う痛みが私を襲った。
 彼女が死んだ部屋の主は連日事情聴取を受けていて、犯行を否認している、というところまでは聞いていたが、結局殺されたのか自殺なのかは未だにはっきりしないままだ。
 私はもう彼女の死因に興味はなかった。いずれにしたって、最後にお別れができなかったということに変わりはないのだ。

「そんなことよりさあ」
「おい、そんなことってどういう意味だよ」
 ちいちゃんは私の抗議を全く聞いていないかのように一歩前に踏み出し、回りこんで私の正面に立った。その姿は、長い栗色の髪を下ろしたいつものちいちゃんに戻っていた。
「あんなに一緒にいたのに、ついに結婚の話は一度も出なかったね」
 彼女はそう言って、まるでその奥を覗いているかのような鋭い眼差しで私を見据えた。口元がきゅっと結ばれ、薄く笑っているようにも見えるが、これは真剣な話をしている時のちいちゃんの表情だ。
「言えるわけないだろう、俺があんな体たらくで」
 私はたじろいで視線を逸らした。
「そうか」彼女が小さく息を漏らした。「……でも言ってくれたら、仕事辞めてたかもね」
 
 これは私の夢だから、今の発言は私の潜在意識が彼女にそれを言わせただけで、断じて真実などではない。という考え方で矛盾はない。
 間違いない。
 はずだ。
 かもしれない。
 いや。
 でも。
 頼むよ。
 なんだよこれ。

 彼女は踵を返して、私と横に並ぶことを避けるように早足で駅に向かって歩き出した。
 ……歴史なんて「もしも」だらけだ。



***



「ちいちゃんよう」
「はい?」
「これ、本当に夢なの?」
「…………」


4.夢の終わり:駅


 ちいちゃんと私以外に誰もいない駅のプラットホームに、横殴りの強い風が絶え間なく吹いていた。線路の向こうに見える木々が、猫背になって必死に倒れるのを堪えている。こんなに風が強いというのに、とんでもなく大きな夕陽は相変わらず何食わぬ顔で空を茜色に染めている。
「ここが全ての始まりの場所だったな」
 初めは希望に溢れた未知なる世界への扉だと思っていたここも、今や絶望への入り口のような場所になってしまった。そんな思いも込めて私が呟くと、
「うん。今もね」
 とちいちゃんが変な相槌を打った。
 それがどういう意味なのかを問いただそうとちいちゃんを見ると、彼女はおもむろに手を伸ばし、私の首と顎の境目あたりにそっと触れた。生々しい痛みが走った。
 今度は本当に痛かった。
「首吊ったんだよ」
「誰が」
「君が」
 何言ってんだ、と私がしかめ面をするのも気にせず、ちいちゃんが身を乗り出してまた私の目の奥を覗き込んだ。彼女の視線が皮膚を突き抜け、私の頭の中に詰まっていた黒い塊を割ってじわじわと記憶を溢れさせる。
 え、吊ったっけ、吊ったかもな、そうだ吊った吊った、確かに吊った。ぼんやりしていた記憶は、そんな感じで確信に変わっていった。するとそれを待っていたかのようにちいちゃんが口を開いた。
「つまりさ、君は私なしでは生きられなくなったのだよ」
「自分で言うのか、それを」
「高校を卒業した頃の私がそうだったようにね」
 何だか彼女の言う通りであるような気がしてくる。私は流されそうになる意識を抑えるように必死に考えた。彼女が死んだショックは確かに大きかったが、他にも生活苦とか、演劇における才能のなさに悩んでいるとか、失意のどん底で仕事をしていたら機械を誤ってぶっ壊してバイト先で大問題になっているとか、漠然と世の中が嫌になったとか、太陽が眩しすぎるからとか、今まで挙げたの全部とか……いや、どれもいまいちピンと来ない。
 私は何で死のうと思ったのだろう。
 面倒なことに、この疑問の答えが浮かばない代わりに新たな疑問が浮かぶ。
「まさか、死後の世界?」
 その疑問は沸き起こると同時に口から漏れ出た。夢の中だと勝手に結論付けていたここのことである。普段の私なら一笑に付すような言葉であり、自分で言ってから恥ずかしくなってしまったが、その一方で、それを口にしたことで頭の中がだんだんと整理されてきている感覚も確かにあった。死後の世界なんて、そんなわけなかろう、という確かな感覚が。
「ようこそ……と、言いたいところだけど」
 ちいちゃんはそう言って斜め後方を振り向いた。私は彼女の視線の先を追った。
 学生時代に毎日乗った二両編成の懐かしい電車が、田んぼの間を遠くから弧を描いて走ってくるのが見えた。視界を遮るものがほとんどないこの田舎で、それは小さな姿でゆっくりとこちらへ向かっていた。工事用ドリルがけたたましく鳴り響くあの日に、私の運命を運んだ電車でもある。それを眺める今の私の心は、あの日と同じような気もするし、全く逆のような気もする。
 ふと目の端に違和感のある映像を捉えて、私は電車の後方を細目に見た。
 線路が、走る電車を追うようにして、煌く光を霧状に舞い上げながら消滅していた。
 その霧の美しさに半ば魅入られながらも、私はその状況をたぶん理解している。なんとなくわかる。なんでわかるのかわからないけどわかる。
「あの電車は……」
 私が言いかけると、ちいちゃんが突然私の背中に顔を埋めて、背後から私の右手を取ると、腕を巻きつけて胴体を締めるようにしてしがみついた。結ばれた彼女の両手の間には、私の右手が挟まった。私は急に金縛りにあったように抵抗力を失って、指一本動かすことができなくなった。
「あっちに戻ったって何もいいことないよ。ここにいようよ」
「ちいちゃん」
 彼女の言葉が合図であったかのように、ずっと動きを止めていた、とんでもなく大きな夕陽が沈みはじめた。
 私は身動きがとれないまま、それでも走る電車と消える線路を凝視した。
 後ろに道はなし。まるで馬跳びのようだ、と思った。しかし自分のその連想に何かしっくりこないものを感じ、少し考えてから理由に気がついてはっとした。
 ちいちゃんの馬跳びは、前にも道がなかった。
 彼女の道は、私が閉ざした。
 私に果たして「あっち」に戻る権利があるのだろうか、いや、それ以前に私は戻りたいのだろうか、と自問した。

 不意に、右手だけが温もりに包まれて感覚が戻った。
 動かせるようになった右手で、自分の腹を押すように少し力を入れてみた。ほとんど力は入らなかったけれど、それを止めようとするかのように彼女が私を締め付ける力が強くなった。
 また力が抜けた。

「ここに残る気になってくれたの?」
 ちいちゃんの声がくぐもって聞こえた。
 私は、もうそこで拒む気力さえ失って「うん」と返事をするつもりだった。
 しかし、ちいちゃんと私しかいないはずの駅のホームに佇む二人の姿に意識が囚われて声が出なかった。

 オヤジとオフクロが立っていた。
 次から次へと起こる事態に対し、私はそれらを全て受け入れてきたつもりだったが、結局何も理解してはいなかったのだ。その証拠に、二人の姿を認めた途端に脳の中の暗雲が綺麗に掃われていく。
(もう気にしないでいつでも帰ってきなさい)
 オフクロが顔の前で手を合わせながら祈るような顔つきでこちらを見ている。
(頑張れ)
 オヤジが、普段見せることのないあの穏やかな微笑みを湛えている。
 二人の声は、確かに私の耳に届いた。そして私が聞き届けると二人の姿は消えた。

 残るわけにはいかなかった。
 戻ったっていいことなんかないかもしれないけれど、戻らなければいけない。それは権利云々とは関係ない。私には「あっち」でやるべきことが山ほどあるのだ。
 少なくとも私は、オヤジに一発殴られなくてはならない。
「俺、残らないよ」
 私はようやくそれだけ言った。ちいちゃんはしばらく返事をしなかったが、私の背中に当たっている彼女の額が小刻みに揺れはじめた。笑っているのか泣いているのかよくわからなかった。
 彼女が腕を放した。金縛りも同時に解けた。
「ばーか、冗談だよ。君はあっちでもうちょっと絞られてこい」
 私はしばらく放心状態のままその場に突っ立って振り返りもしなかったが、ちいちゃんのことだ、笑っているに違いない。
 電車がホームに滑り込んだ。
 この夢も終わる。もう彼女の道を邪魔することもないだろう。
 これがちいちゃんとの、本当に本当のお別れだ。



「ちいちゃんよう」
「はい?」
「それじゃあ、」

 振り返るとちいちゃんはもうそこにいなかった。
 伝えようとした最後の言葉は声にならぬまま、想いだけが空に散った。



 やがてとんでもなく大きな夕陽が沈んで、全てが闇に包まれた。



***



5.あっち


 長い眠りから覚めた。視界に飛び込んできたものを認識するのに時間がかかって、私は目を開いた時にたまたま見つめていた一点にしばらく焦点を合わせてから、徐々に視野を広げていった。
 白い天井と蛍光灯が中心にある。それを囲むようにして四つの頭が見える。白衣を着た見知らぬ中年、白い制帽を頭に載せた見知らぬ女性、そして壮齢を過ぎた夫婦。
 その夫婦は、震える唇を真一文字に結んで、穴の開くほど私のことを見つめていた。
 ああ。
 その白髪だらけの頭に、皺だらけの顔ときたら。
 私は無意識のうちに声をあげようとしたが、口がカップのようなもので塞がれていて失敗に終わった。しかし慌てる必要はない。もう時間は、いくらでもあるのだ。
 そう思ったら、勝手にあふれてきた一条の涙がこめかみを伝った。
 私は、「こっち」でまずやるべきことの一つとして、私の右手を握っているオフクロの手を強く握り返し、心の中で、老けたなあ、と呟いた。



<了>

2004/05/04(Tue)18:31:01 公開 / 明太子
■この作品の著作権は明太子さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
謝意表明、及び一部修正による最終アップです。

白い悪魔さん>ドリルの音は私もうるさいだけだと思います(笑)。こちらこそ、最後まで読んでいただいて本当にありがとうございました。  晶さん>最後の部分は、話が話だけに現実の場面はリアルさにこだわりたい、ということで修正しました。鋭いご指摘、どうもありがとうございます。  神夜さん>私にそんな力があるかは謎ですが…しかし文体が受け容れられるというのは、格別の嬉しさがあります。本当にありがとうございます。  バニラダヌキさん>何故か、バニラダヌキさんのコメントは内容に関わらず読むのに緊張します(笑)。二作も感想を入れていただいてありがとうございました。  紅い蝶さん>そのような感想をいただけるのは、モノ書きとしての本望です。もったいない言葉をありがとうございます。  律さん>不思議さを何とか最後まで持続できたようで良かったです。次回もぜひよろしくお願いします。  yagiさん>初めまして。あそこは余計な連想をさせて読者を本筋から離すことがないように「変死体」でごまかした(笑)のですが、引っ掛かりを感じたならば私の力不足です。この作品を目に留めていただきありがとうございました。

この作品、色々なジャンルの作者さん、及びお初の方々(KING含む)に読んでいただけたということが最大の収穫です。
評価ももちろん嬉しいのですが、その点についてははっきり言って、物語の舞台に「反則技」を使ったことによるところが大だと思っています。この世界、なんでもアリですから。
ガチンコ勝負となる次回もお付き合いいただけるなら、また厳しい目でよろしくお願いします。
(しかしいつになるやら。ネタが思いつかない……)

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。