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『オーナーの使命 〜柚木拓馬の生き様〜【完】』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:オレンジ
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1
翔子は、まるで赤ん坊のように無垢な寝顔を見せながら、俺の腕枕に身を委ねている。天使が舞い降りてきて、俺の傍らで居眠りを始めたのなら、きっとこの様な感じなのだろう。翔子の寝顔に眼を細めながら、俺はふと、今までの柚木拓馬としての人生を振り返っていた。
俺の親父、柚木孝平(ゆずきこうへい)は、一代で日本有数の飲食チェーン店を築き上げた豪傑だった。
街の小さなジャズ喫茶が瞬く間に巨大な飲食店のグループに替わって行く様はさぞ圧巻だったのだろう。親父は、勢いに任せてあらゆる権力を勝ち取っていった。特に、音楽業界では、確固たる地位を手中にしていた。それは、無類の音楽好きが功を奏したと言えよう。
俺の周りには音楽が溢れていた。親父の影響だ。今思えば幼い頃の遊び道具といえば、サックスやギター、ドラム等の楽器しか無かったのだから、至極一般的な子供達の常識など持ち合わせていなかったのだろう。俺にはあまり友達もいなかった。
親父の影響はそれだけでは無かった。柚木孝平の息子というプレッシャーは、俺というアイデンティティを崩壊させていた。小さい頃から俺は、柚木拓馬ではなく、柚木孝平の息子でしかなかったのだ。誰一人として、俺を柚木拓馬という一個人として見ている者など居なかった。所詮俺は、偉大なる豪傑の一部分にしか過ぎないのだと、その思いは歳を重ねる毎にどんどん強くなって行った。
近寄ってくる人間も大勢いた。しかし、友達はあまりいなかった。いくら欲しいものを手に入れても、いくら大きな権力を持っていてもそれは、親父の威光によるものでしかないのだ。
一度は結婚もした。だが、その時妻であった女は、俺ではなく柚木孝平の息子と結婚していたのだ。そう、柚木孝平という権力と金の巨魁の一部と。
親父が、ニューヨークで行方不明となり、最早、帰る見込みも失せた頃、俺は親父の跡目として柚木グループのトップに立った。だがそれが、単に神輿として担がれていたのだと知るまでにはそれ程時間は掛からなかった。親父の友人だっただの、右腕だっただのとほざく金の亡者共は、グループの事は何も考えておらず、自分の権利ばかりを主張し始めるようになり、柚木グループは半年を待たずに崩壊していった。時を同じくして、妻だった女も私の元を去って行った。
だが、俺は別に焦りだとか憎しみだとか、そういった感情は不思議と沸いてこなかった。むしろ、何か呪縛から開放されたような、体中に埋め込まれた鉛の枷がすべて落ちたような、そんな初めて感じる心の軽やかさを満悦していた。
次々と財産や権力を奪われていくのをただ平然と見送る俺を見ながら、きっと奴らは無能だ愚鈍だと口汚く罵っていた事だろう。俺は、それを滑稽なことに感じ、内心彼ら金の亡者共を笑い、蔑んでいた。俺は、そんなもの欲してなどいなかったのだから、いわば、お前ら卑しい者共へ哀れみの施しをしているのに。愚かなのは一体どちらか。
ただ、そんな俺もたった一つ譲れないものがあった。
『ジャズ喫茶ムーンレディ』
俺の親父が最初に建てた店、俺の実家。今は誰一人住んでいないけど、この権利だけは俺は主張し続けた。金の亡者共は、快くその権利を差し出した。奴らには無用な物だったのだろう。こんな古くて小さな店舗など利益を生む筈無いとでも思ったに違いない。
俺は、残された全財産を使い、この寂れたジャズ喫茶を改装した。
それが、ライブハウス『クラブ・ジャッジメント』であった。
2
俺は、此処に来て遂に本当の意味で一国一城の主となった。
しかし、俺にはこの店以外は何も無かった。当初、ライブハウスの経営は困難をめた。金も、経営知識も、コネクションも何一つ持ち合わせていない俺は、程なく『クラブ・ジャッジメント』を閉店寸前まで追いやった。最早、従業員の給料さえ支払えない。
途方に暮れながら、その日もガランとした店内を眺めていた。ライブの無い日はバーとして、店を開けていたのだ。
すると、エントランスを潜り一人の初老の男性が入ってきた。
お客様かな?初めて見る顔だ。客層としては、あまり無い層なので、何度か来ているのならば、見覚えがある筈なのだが。
「いらっしゃいませ」
バイトの女の子がその男を奥の席へと案内する。男は、席に座ると何も言わずにただ店に流れる音楽に耳を傾けていた。
「ご注文は?」
バイトの問いかけに答える様子もなく男は、アナログ盤のジャズの調べに浸っている。何度か問いかけたが、答える様子も無いので、バイトの子はお手上げだ、という表情で戻ってきて、私に眼で「フォローしてください」と合図を送った。
俺は、店の奥から出てきて、選手交代と言う感じでバイトの子とハイタッチをした。
「いらっしゃいませ」
俺は、その男に頭を下げ、少し様子を伺った。相変わらず男はすまし顔で曲に心酔している。
「いい曲だね」
男は、初めて言葉を発した。眼を閉じながら。
「はい?」
「この選曲は誰がしているのかね?」
「せ、選曲ですか?それは私がしてますが」
男はやっと眼を見開いて、私の顔をまじまじと眺めた。そして、顔を縦に潰した様ににっこりと笑顔を浮かべて俺に語りかけた。
「店長さんですか?」
「はい、左様でございますが」
「ジャズはお好きですかな」
「そうですね、ジャズ……というよりケニーGを私は尊敬しておりまして」
今日は、たまたま店のBGMにケニーGを流していたのだ。
「ほう、まだお若いのに渋いところがお好きですなあ。このアナログ盤はご自分でお求めになったのですか」
当時は既にCDが出回っていて、アナログレコードなど殆ど出回らなくなっていた頃だった。なので、その初老の男も珍しがったのだろう。
「いえ、これは死んだ親父の残していった物です」
「ほう」
「小さい頃から親父の影響でジャズやフュージョン、60年代ロックなどそんなものばかり聴いていましたので、歳の割りに選ぶ曲が渋すぎるとよく言われるんですよ。でも、自分が聴いていて気持ちの良い音楽を聴いていたいですし、それでも私は構わないと思っています。ジャズだけが好きという訳ではないですよ。時には今時の音楽も聴きますし。それが自分に心地よいものだったらどんどん、この店でも掛けていきたいなと思っています」
「ふむ。なるほどねえ。店長さん、あなたにとって音楽とは何ですか?」
「そうですね……まあ、あえて言うなら宇宙旅行でしょうか。音と言う無限の中に放り出されて宛ても無く彷徨う自分がいる。そんなイメージがありますね、音楽には」
「宇宙旅行ですか……。はあーっはははは――。いやあ、そりゃいい。」
俺は、その男の笑う意味がわからず、ぽかんと口を開けながら笑い声を聞いていた。
「そうかそうか、君のお父さんも全く同じ事を言ってたよ。いやあ、愉快、一目見て解っていたよ。あなたは孝平の息子さんだね、顔かたちが若い頃の孝平にそっくりだ」
その初老の男性は渡辺と名乗り、そして、親父の古くからの親友だと言っていた。最初はとっつき難い印象のあった渡辺さんだったが、次第に俺も打ち解けていき仕事も忘れソファーに座っていろんな事を話した。渡辺さんは、しばらく遠くで仕事をしていて20年ぶりくらいにこちらへ帰って来たとの事だ。懐かしさのあまり、『ジャズ喫茶ムーンレディ』を訪れたのだが、そこには別の店が建っていた。せっかく来たので覗いてみようかなと思ったらしい。すると、心地よいジャズのメロディーが漂ってくるではないか。思わず渡辺さんは、店の中に入って来てしまったのだと言う。
「だけど、本当にお父さんにそっくりだな、君は。顔も考え方も。音楽を聴く耳の良さも、あいつに勝るとも劣らないな。君もお父さんみたいに凄い人物になれるさ、きっと」
また親父か……。やはり俺には何時までも親父の影が付いて回る。俺はなんだかとても不愉快な気分に陥って、
「いや、私なんか父親の足元にも及びません」
と、少し声のトーンを低くして言った。渡辺さんは俺が気分を害した事を悟ったようだったが、それでも尚、微笑を浮かべながら話をする。
「君のお父さん、孝平も最初は何も無かったんだよ。あったのは君と同じで、音楽好きだという事実と音楽を聴く耳だけだった。そう、孝平はその自分の感性だけを信じてあそこまでやってきたんだ。君だって、何者にも惑わされない強い信念を持って生きればいいんだよ。孝平は関係ない。君の人生だろ。いろんな事言う奴も多いだろうが、惑わされちゃだめだ。一度の人生なんだから、自分の思うようにやったらいい。」
「い、いや、しかし」
「しかし何だね?まあ、これだけは言っておくよ。君の音楽の感性は素晴らしいものだ。これは、孝平の息子だから持っている訳じゃない。君が最初から持っているものなんだ。それを生かすも殺すも君次第だ。一度の人生。柚木拓馬の人生。もっと大事に生きなさい」
この日以来、渡辺さんとは逢っていないが、渡辺さんとの出会いが俺の人生の転機となった。
そう、いままでの俺は、親父の影にかこつけて、ただ甘えていただけだったのだ。自分自身を表に出す事が怖かったのだ。
あの日以来、俺はがむしゃらに働いた。
3
まず俺は、この『クラブ・ジャッジメント』でライブをしてくれるアーティストを探す為に脚を棒にして全国を渡り歩いた。コネクションの無い俺は自分の勘と、体力以外頼れるものは無い。昼夜を問わず俺は駆け回り、次々に人材を発掘していった。俺は、いくら良い噂のあるバンドやアーティストでも、場慣れして小さくまとまってしまったものは目もくれず、どちらかというと、全くのど素人(という表現が適切かどうかは解らないが)でこれから、どの様にでも変幻しそうな素材を集めた。
新たな人材の確保に東奔西走しながら、彼ら素人の世話までするという無謀な働きぶりのおかげで俺のライブハウスは活気を取り戻していった。俺は、彼らの育成の為なら何でもやった。
少ない予算の中でインディーズのCD製作の面倒も見てやった。ライブの告知も手伝ったし。今思えばこの頃の俺の生活は、彼らとの共同生活の様なものだった。一晩中恋の悩みなんかも聞いてやった。プロを目指している奴らとは、一緒にレコード会社を回って、一日何十人にも土下座をした。そんな草の根活動が実を結び、初めて俺の育てたバンドがプロデビューした時は正に感無量だった。あいつらは今でも音楽業界の第一線で頑張っている、あの時の血の滲む様な努力のかけら一つ見せずに。
それが功を奏してか、次第に無名の新人達が自ら『クラブ・ジャッジメント』の門を叩く様になっていったのだ。噂が噂を呼び、俺のこのライブハウスは新人アーティスト達の『登竜門』といつしか呼ばれる程になった。類は友を呼ぶとはよく言ったもので、うちを訪れる新人たちは皆何か可能性を秘めた奴らばかりだった。運も良かったのかもしれないが、彼らは次々と頭角を現し音楽業界へと飛び込んでいき、素晴らしい活躍をしていったのだ。 『クラブ・ジャッジメント』と柚木拓馬の名は業界中に知れ渡り、いつしか俺にはその方面に深い人脈が出来上がっていた。
時を同じくして、『クラブ・ジャッジメント』が建っていた場所は、市街地再開発とかいう事業に引っかかり、駅裏の薄ぼんやりした様な商店街だった場所はガラリと様相を変え、若者で溢れかえる様な街となった。お陰で今ではこの場所は商業地の一等地である。
ショットバーや、ジャズの聴けるアメリカンレストラン、オープンカフェ、居酒屋にラーメン屋、オープンさせた飲食店はどれも大成功を収めた。
バブル経済が弾け、世の中全てが息切れしている中、俺だけには追い風が吹いていた。金も権力も次から次へと転がり込んでくる。何もかもが思いのままに運んで行く。しかし、俺はこんな所で満足などしなかった。自分がどこまで登ってゆけるのか、この先に俺を待っているものは何なのか。それを見極める為、俺は走ることを止めない。走ることを止めた時が、俺の人生の終焉なのだろうと思う。走り続ける事こそが、オーナーとして生きる俺の使命なのだ。
走り続ける俺の前に、翔子が現れたのは今から二年前。翔子は雨音という不協和音の中、雨具ひとつ身に着けずに、駅前広場の片隅でしゃがみ込んでいた。小さな体を小刻みに震わせ、何者かを待つその姿は、何も解らずにご主人様のお迎えを待ちわびる捨て猫のよう。梅雨独特の重たい雨は、翔子の体を覆い尽くし、より深い悲壮観を漂わせていた。
「傘、使いませんか?」
その姿にひどい憐憫を感じたのか、普段ならば絶対にしないが、俺は無意識にその震える体に近寄って傘を差し出したのだった。
翔子は、濡れたストレートの長髪を気にしながら俺のほうを振り向いた。
その瞬間、俺は、その深く透き通った瞳に全てを吸い込まれた。
4
俺と翔子はその日のうちに結ばれた。
お互いの全てを絡ませて、俺は翔子の絹の様に優しくしなやかな肢体に埋没していった。18の早熟かつ妖艶な弾力のある瑞々しい肌は透き通る程に白く、暗闇の中で異様ほどに浮かび上がる。
女なら数え切れない位知っているが、これほど怪しく優しく大きく包み込まれた事は今まで無かった。翔子という名の大海に身をゆだねると俺の傷口全てが塞がれ癒されて行く様だった。
「柚木さんって、言い難いね、拓馬さんってのも固いし……『たーさん』て良くない?」
「たーさん?なんだそれ?」
「決めた。私たーさんて呼ぶことにする、あなたの事。何だかターザンみたいで強そうじゃない」
「はあ?何だかダサくないか?」
「えーかっこいいよ。それに強そうなのがすごくいいでしょ」
「別に強そうじゃないけどなあ。それになんか間の抜けた感じで……」
「もういいの、決まったんだから。ね、たーさん!たーさんは、たーさんなの」
「はいはい、解ったよ。たーさんでもたーちゃんでも好きに呼んでくれ」
「うん、そうするね、たーさん」
行為が終わり一息吐くと、翔子は無邪気な笑顔を俺にぶつけて来た。さっきまでの妖艶な雰囲気は全く消え失せ、歳相応というか、それ以下のあどけない姿をさらしている。そのギャップがとてつもなく愛おしくて、俺は翔子を何度でも抱きしめた。
翔子は今まで俺が女性から感じ取ってきた打算的な要素は一つも無く、ただ純粋に俺と居るのが楽しいのだと言った。俺はそれがとても嬉しかったのだ。多忙を極める俺だが、何とか時間を作り翔子と逢っていた。逢いたい時に逢えず、翔子にはすごく申し訳ない思いがいっぱいだが、それでも翔子は満面の笑みで俺を迎えてくれる。癒される。今の俺にとって翔子の存在は必要不可欠なものである。
今までの人生を振り返りながら俺は腕枕で寝息を立てる翔子を見つめる。最近ふと思う、俺は翔子と結婚するのだと。そうすれば、毎日翔子と居られるのだ、この寝顔を毎日隣で見守ってやれる。俺は思わず翔子の頬を指でなぞる。すると、翔子はくにゃっと顔をしかめた。その仕草がとても可愛らしくて、俺はもう一回頬を指でなぞった。今度は、どうやら目を覚ましてしまったらしい。少し腫れぼったい瞳で俺を見つめる。
「ごめん、起しちゃったね」
「ううん、いいよ、何どうしたのたーさん。なんだか、すごく真剣な顔してる」
「えっ」
俺は、思わず口に出てしまいそうになった、言葉をぐっと飲み込んだ。『結婚しようか』という言葉。
いつかは翔子と結婚したい。しかし、俺にはその前にやり遂げなければならない一大プロジェクトがあるのだ。
それは、来月行われる、インディーズバンドのみのライブ大会。これを大手レコード会社のビーベックレコードが主催し、わが『クラブ・ジャッジメント』が会場を提供するのだ。このタイアップ企画を成功させるまでは、とても結婚は考えられない。これが成功したあかつきには、俺は、ビーベックレコードの役員として迎え入れてもらえる事になっている。しかも、この大会の模様はテレビで全国に放映されるとの事。全国規模で『クラブ・ジャッジメント』が知れ渡る事となる。
まあ、そもそも、この大会そのものはデキレースなのだが、俺はそのデキレースをうまく運んでこその成功なのだ。この大会の優勝者はビーベックレコードから相当なバックアップをもらってプロデビュー出来るという名目で出場者を募集しているのだが、既に優勝者は決まっているのだ。まあ、この業界ではこれくらいの工作は日常茶飯事である。それをいかにスムーズに運営するかが今回の俺の役回りだ。これが無事に終わるまではその他の事は出来ないし、成功したならば、俺は大出世である。親父に追いつくのも目じゃあない程の。
今日は、翔子の20歳のバースデイ、きっと『結婚』の言葉が最高のプレゼントになるのだろうが、
「いや、何でもないよ」
俺は翔子に嘘を吐く
「うそだよ、絶対何かある」
「また、今度話すよ。仕事がひと段落したら……」
「ひと段落したら……?」
翔子は唇をとがらせる。
俺は、その唇を唇で塞ぎ、この空間では言葉など無用なのだと翔子に伝えた。
5
今日の照明は、山岡か。あいつのオペレーティングはいつも思うが最高だな。指一本の演出で、勝手気ままに放出されるオーディエンス達の熱量を、一瞬にして、まるで十年に一度の幻の大波がビーチに襲い掛かるかの様に、ステージ中央の歌い手に集中させた。観客席は静まり返り、同時にサンプリングのピアノの音がステージに響きだす。
篠部ミツキ(しのべみつき)は、俺が発掘した中では最高の歌い手である。今日もわが『クラブ・ジャッジメント』のステージに立ち、最高のパフォーマンスを披露してくれた。彼らのラストナンバーは、いつも決まっている。
〜No I can't forget this evening. Or your face as you were leaving〜
彼の唄が、ステージ全体を包み込む。彼の唄う「Without you」は、誰一人として、模倣出来ない領域にあると思う。それは彼の中性的な高音の魅力を最大限引き出す曲。もし、彼の唄を聴いたとしたら、マライヤは舌を巻き、ニルソンさえ唸り声をあげるだろう。
〜I can't live if living is without you. I can't live I can't give any more〜
今日はいったい何人が感極まって涙を流すのか。
ミツキの率いる「沖の火祭り」は、『クラブ・ジャッジメント』出身で今いちばん客を集めてくれるバンド。そして、一ヶ月先にここで行なわれる大イベントの”優勝予定”グループである。つまり、彼らは既にビーベックからのデビューが決っているわけだ。俺が思うに、「沖の火祭り」は人気も実力も優勝するには申し分ないものを持っているのだが、主催者側が言うには万が一の保険をかけるとの事だ。また、大会の優勝を土産にすれば、これからの活動もし易い。全ては計算ずくなのだ。
ここまでは、何も問題ない。彼らに実力が無い訳ではない、人気が無い訳でもない。通常でも、彼らが優勝しても何もおかしい所は無い。ここまでは、何も問題は無かった。そう、ミツキがこの大会のヤラセに気付いてしまうまでは、何も問題は無かったのだ。
大会まで一ヶ月を切ったこの時期に、ミツキは大会出場を断ってきた。冗談ではない。このままでは、俺の計画が全てバアではないか。俺は、ミツキを説得する為に、少ない時間を割いてここへやってきた。これから、彼らの打ち上げがある。そこへ俺も行く事になっている。何としてでも彼を説得して大会に出場させねば、何の為に彼らを育ててきたのか解らないじゃあないか。やり方は気に入らないかもしれないが、育ての親でもあるこの俺に恩を仇で返す様な真似を……。
「柚木さん、悪いが俺はプロとかそんなのあまり興味は無いんだ。出来ればそういうのには成りたくない。それに、こんなやり方は……」
「何を言ってるんだ。お前、俺と出合った頃何て言ってた?音楽でのし上がってやるって、お前を理解しなかった廻りの奴を見返してやるんだって、言ってたじゃないか」
少々アルコールが入っている為、声を少し荒げながら俺とミツキは話し合った。
「いつもバタフライナイフを振り回して、誰とも群れずにたった一人で暴れていたお前を拾ってここまでにしてやったのは一体誰だと思ってる?なあ、ミツキ」
「いや、それは解ってるよ。だけど俺は、柚木さんみたいな仕事がしたいんだよ。音楽しか能のないバカ達を集めてさ、毎日音楽と仲間に囲まれた生活したいんだ。あんな『クラブ・ジャッジメント』みたいな大きな所じゃなくても、小さなステージのある店でも開いてさ」
「そう言ってくれるのは有難いんだが、お前のその実力をそんな所に埋もれさせてしまっては何とも勿体無いんだ。お前なら絶対にトップッが取れるんだよ。お前もそれを望んでいたじゃないか」
「最初は、そうだったよ。絶対天下取ってやるって思ってた。でも、俺は最近音楽をもっと楽しみたいって思うんだ。柚木さんあんたがが教えてくれたんだ、音楽の楽しみってやつを」
「別に、メジャーになっても音楽は楽しめるだろう。自分のやりたいようにやればいいんだよ。メジャーになったとしても。お前は好きなようにやっていてもトップに立てる実力がある。なあ、頼む。俺の最後のお願いだ、この通り」
俺は、椅子を蹴り倒し足元にスペースを作ると、そこに正座をし思い切り頭を床に擦り付けた。土下座である。
「ミツキ、どうかこの通りだ。俺の顔をたててくれ!頼む、どうか……」
「や、やめてくれよ、柚木さん、そんな事。解ったよ、出るよ大会に。柚木さんにそこまでされちゃあ、しょうがないじゃないか」
「ほ、本当か?」
「ああ、ちゃんと出させてもらうよ、そして優勝させてもらうから」
「あ、ありがとう!」
俺は、思わず涙を流した。ミツキの手を取り硬く握り締めた。表情には出ていなかったかも知れない
が、俺の心の中は、喜びというより安堵の気持ちで一杯になっていた。これで俺の成功も確約されたのだ。
「いいよ、柚木さんにはホンとに世話になってるからさ。恩返しもしなくちゃな」
「ありがとう、ありがとう……」
しばらく俺は、ミツキの手を握ったまま「ありがとう」とうわ言の様に繰り返していたらしい。
「ああ、それから柚木さん最近あまり翔子ちゃんと逢えてないみたいだね、この前店に翔子ちゃん来た時、かなり愚痴ってたよ。忙しくても、ちゃんと逢ってあげなよ」
そうだ、翔子ともなかなか逢えない忙しくて。だが、あと一ヶ月、あと一ヶ月経った時には、俺は翔子にプロポーズをしてやるんだ。翔子、待っていてくれ、今日もこれでまた成功に近づいた、人生の成功者に。
最早、俺の行く手を妨げる者はいない。その筈だった。
6
大会を明日に控え、『クラブ・ジャッジメント』の事務所では主催者との最終打ち合わせが行われていた。
事務所は、空気清浄機も役に立たないほどタバコの煙が充満し、視界が霞んで見える。淀みきった空気の中で、打ち合わせはとても非効率的に行われていた。もうかれこれ二時間は経過しただろうか。そろそろ俺の集中力も限界に達しようとしていた。気分転換にタバコを吸おうと胸ポケットを探ってみたところ、既に最後の一本を残すのみとなっていた。
一箱吸ってしまったのか……。仕方ない、これ以上この部屋の空気を汚すこともないし、我慢するか。しかし、吸いすぎだ。よっぽどこの打ち合わせにストレスを感じているのだろうな。
ふう、とため息を吐いて事務用椅子の固い背もたれに身を預けた時、「カチャ」という音がして、事務所のドアが開かれた。打ち合わせに参加している者は、俺を含めて計六名、十二の眼が多分条件反射なのだろうが、一斉にドアの方に向いた。
「はっはっは、がんばっとるかね」
そこに立っていたのは、一人の老人であった。しかも、俺には見覚えがある。白髪が随分増えた気がするが、張りのある低音の声や、ぴんと伸びた背筋などは、あの時と何ら変わりがない。少し皺も増えたかも知れない。だが、それは人生に刻まれた年輪のような物なのだろう。あれから十数年、まさか、再びここで出会うとは。
「わ、渡辺さん……」
「会長!お一人でいらしたのですか?」
主催者側の総責任者の男は、椅子を破壊するかの如き勢いで立ち上がると、机の角に足をぶつけながら訪問者の下へ駆け寄っていった。
「こちらへお越しになるのでしたら、一言おっしゃってください。迎えを出しましたのに」
「おうおう、そうだな」
老人は、煩わしそうにその男をあしらうと、俺の方へ歩み寄ってきた。
「拓馬君!久しぶりだな!元気だったか」
「渡辺さんですね。お久しぶりです、十年ぶり位ですかね」
渡辺さんは皺と見間違うくらい目を細め、やわらかな口調で俺に話しかけた。ああ、この穏やかな喋り方、変わってないな、と思った。
「いやあ、随分活躍してるそうじゃないか。たくましくなったなあ」
「照れますよ、そんなこと言われると。でも、何故渡辺さんがここに?」
「明日、うちの会社と一緒にイベントをやるんだろう。うちもこの大会にはかなり力を入れておってね」
「うちの会社って……」
主催者側の総責任者の男は、目を白黒させながら言った。
「柚木さん、これから一緒に仕事するって言うのにうちの会長の顔も知らないんですか?それにしては昔からの知り合いみたいだけど、一体どうゆう事なんですか?何がどうなってるんだか」
なんと渡辺さんは、ビーベックレコードの現会長で、創業者だという事だ。彼らビーベックの社員達もまさか一人でこんな所まで来るとは思っていなかったらしく、突然の訪問に面食らったのだ。
渡辺さんは話し上手で、物事を順序だてて理路整然と今の状況を俺たちに代わって説明をしてくれた。とてもわかり易い説明だった。渡辺さんと俺の親父が古くからの親友であったこと、その関係で、以前に俺と渡辺さんは、面識があったという事。そして、今日渡辺さんがここに訪れたのは、打ち合わせの状況も気になったのだが、この俺に何か渡したいものがあったからというのがいちばんの目的であったという事。
「拓馬君、ちょっと外で話をしないか?この部屋は煙たくてかなわん。よくこんな所に閉じこもっていたものだな」
渡辺さんは、わざと顔をしかめて掌を鼻の前でひらひらと振って見せた。
「そういう事だから、打ち合わせは三十分程休憩だ。さあ、行こうか、拓馬君」
「わかりました」
俺と柚木さんは、『クラブ・ジャッジメント』を出て徒歩五分位の駅前広場までやってきて、噴水と意味の分からないオブジェの前のベンチに二人並んで腰を下ろした。既に夕日が沈みかけた駅前広場は初夏という季節において最も過ごしやすい時間帯にあった。排気ガスや粉塵の混じった空気だが、先程の部屋の空気とは比べ物にならない位澄んでいると感じた。思わず背伸びをし深く空気を吸った。
「ところで、君に渡したかったものはこれなんだが」
渡辺さんが差し出したのは、一通の何の飾り気も無い封筒だった。俺は、それを受け取り封を開けてみる。そこには、写真が一枚と、何やらアメリカの住所らしいものが書かれたメモ用紙か一切れ入っていた。
「それは、ニューヨークにいた頃の君のお父さんの写真だ、そして、そのメモは……君のお父さんの眠るお墓の住所だ」
「親父の、墓……?」
「そう、十年前私があの店に訪れたのも、本当は誰か孝平の親族にこれを渡す為だったんだ。偶然あの時君がいたのだが、私はね、あの時君にこれを渡したら君の為にならないし、孝平もそれを望んでいない様な気がしてね、渡さなかったんだ。もしあの時君にこれを渡したら、今の君はいなかったと思うよ。お父さんを恨んでもいただろうしね。だが、今の君なら大丈夫かなと思ってね。今の君の活躍を聞く限りでは、もう動揺は無い筈だ。また、時間が出来たらニューヨークへ行って墓参りでもしてやってくれたまえ」
写真の親父は、俺の記憶の中の親父より少しやつれている感じがした。写真には親父を囲んで大勢人が写っていた。楽器もいっぱい写っていた。仕事は結構順調だったのだろうと伺える写真であった。
「孝平は、世界を相手に渡り歩いていこうとしてね、足元をすくわれてしまったんだ。良からぬ組織に狙われるようになってね。行方不明となった一週間後に排水溝に遺体が浮かんでいるのを発見されたんだ。……すまない。無神経だったな、こんな話をして」
「いえ、ありがとうございます。真実を伝えていただいて。何だかふっ切れました」
「音楽とは、音を楽しむものなんだ。孝平はいつしかそれを忘れ、音楽を道具として手駒として使い始めたんだ。それから、あいつはおかしくなっていったのかも知れないな。拓馬君、君は音を楽しんでるかね?」
「はい、楽しんでいますよ、今、最高に楽しいです」
俺は即答した。
「そうか、いいことだ。これからも頑張りたまえ。一緒に音を楽しもうじゃないか」
「ええ、まずは明日の大会を見ていて下さい。見事に成功させて見せますから」
「大会か……そうだな、重要な大会だ」
渡辺さんは、そう言って俺の肩をぽんと叩き、続けて
「さ、そろそろ三十分経つかな、戻ろうか、あの煙たい部屋に」と言ってベンチから立ち上がった。
再開した打ち合わせは、渡辺さんの仕切りで進行していったので、とてもスムーズに運んでいった。
殆ど何も決まっていなかったのに、ものの一時間で全ての段取りが立て板に水を流すかのように決まっていった。渡辺さんの手腕に感心しつつ、俺は同時に感謝をした。現在PM7:50分、まだ間に合う。
俺は、愛車のAMGを走らせ、宝石店へと駆け込んだ。
「頼んでおいた指輪は出来ていますか?」
「柚木拓馬さまから石川翔子さまへのエンゲージリングでございますね。出来上がっておりますよ」
間に合った。
翔子の瞳も、このダイヤの眩さに負けてはいないなと、客観的に俺は思った。
この大会が無事に終わり、仕事にも一息ついたら親父の墓参りにでも行こう。もちろんその時は翔子と一緒だ。見せてやるのだ、俺は親父の一部では無い、俺の力でここまで駆け上がって来たのだという事実を、そして、こんなにいい女を妻に迎えるのだという事を。どうだ、オフクロみたいにすごくいい女だろう。
親父の存在は、俺にはコンプレックス以外の何物でもなかった。また、大方の誰もが彼の死を暗黙の了解として受け入れていた。よって、鬼籍に入った親父の事実を渡辺さんから聞かされても、それほど俺の心に波風は立たなかった。
きっと、明日が無事終われば、そのコンプレックスも風の様に何処かに消え去るだろう。
親父の死を認識することで、俺は親父を超えたのだと確信をした。……しかし、
7
楽屋には、全国から集まった各地区の代表がそれぞれの思いを胸に集合している。談笑や、歌声等も聞こえては来るが、張り詰めた空気は否応なしに彼らの心理を刺激している。間もなく全国大会の幕開けである。
それなのに、何故あいつは此処に在ないのか。篠部ミツキが何故?
「連絡が取れないとは、どういう事だ!」
俺は、思わず『沖の火祭り』のメンバーに怒号を浴びせた。怒号というよりは、悲鳴に近い。
「仕方ないだろ、もう昨日から何回もケイタイ鳴らしたり、部屋に行ったりしてるけど、全く連絡が取れないんだから」
メンバーの一人が俺を諭す様に語る。今日は一体何回このようなやり取りを繰り返しただろう。
「仕方ないじゃないだろう。ミツキを早く連れて来いよ!」
「柚木さん、もう今更何ともならないよ。悪いとは思う。けど、ミツキがいないんじゃ俺達はステージ
上がれないからさ。」
「お前達諦めるのか?あと一歩でメジャーデビュー出来るというのに、成功の道が開かれているというのに。こんなとこでお前達は諦めるのか!」
正直に言って、ミツキがいなければ『沖の火祭り』に魅力は皆無なのだ。例え、ミツキ無しでインストで大会に臨んだとしても、それは相当無理がある。まさか、あいつがこの土壇場に来て逃げ出してしまうとは。
「柚木さーん、もう待てませんからね、本番始めますんで」
ビーベックの責任者が俺を呼ぶ。俺は、その小柄で髪の薄い一見貧相な男に駆け寄る。
「すみません、もうちょっとだけ、もうちょっとだけ待ってもらえませんか」
「いや、もう無理ですって、これ以上待たせたら観客やテレビ局を抑え切れませんから」
「じゃ、じゃあ、順番変えてもらえませんか。『沖の火祭り』は最後に廻してもらうとか……」
「無茶言わないで下さい。そんな事できる訳ないでしょ」
男は、取り付く島も無い態度で俺をあしらう。
「柚木さん、あなたも往生際が悪いですね。こうなった以上、諦めるしかないんじゃないですか。これは我々にとっても大きな痛手なんですよ。『沖の火祭り』の為にいろいろ準備して来ましたからね。でも、起きてしまった事態には素早く対応しないとこの業界生き残れませんから。このまま彼らは欠場という事で進めていきます」
「そ、そんな……。じゃあ、私の役員の話は……」
「まあ、今回は縁が無かったと言う事で……」
「冗談じゃない!この日の為に俺はどれだけ耐えてきたことか。それを、こんな事で!お願いします、もう少しだけ待ってください、どうかこの通りです」
「いい加減にしてくれ!何も耐えてきたのはあなた一人じゃ無いんだよ!」
責任者の男は、そう吐き捨てるときびすを返して俺の前から去っていった。何やら若い男に指示を出しながら。
「くろちゃん、待たせたね、じゃあ始めるよ。よろしく」
責任者の男のその一言で、スタッフが一斉に動き出す。もう、俺の力では何一つ止められない。今まで築いて来た物全てが崩壊してゆく様も。
俺は、ただ廊下に膝をつき、慌しく動き回る人々の中で一人取り残されていく。トップを飾るバンドが、俺を尻目にステージに上がっていった。
それからどれ位経過したのだろう。ポンと肩を叩かれて俺はふと、我に返った。『クラブ・ジャッジメント』は、オーディエンスの熱気と、ミュージシャン達の勢いで今にも破裂しそうなほど盛り上がっている。いつの間にか、内ポケットに仕舞ってあった指輪のケースを握り締めている俺が、その熱気の渦中にぽつりと存在していた。
「柚木さん、俺達は帰るよ。もう俺達が出る予定だった時間はとうに過ぎたから」
俺の肩を叩いたのは、『沖の火祭り』のギター担当のレイジだった。
「ああ、そうか。もうそんな時間だったか」
何故か俺は、冷静さを必至に装っていた。
「こんな事があったんじゃ、俺達はもうバンドやっていけない。残念だけど今日で『沖の火祭り』は解散だ。今皆で決めたよ」
「そうか」
特に感想もなく、俺はその言葉を心に受け止めた。
「ところでさ、今日は翔子ちゃん此処にきてるのかい?」突然、レイジが話題を変えてきた。
「えっ、翔子がどうしたって?」
「いやね、今日は此処で翔子ちゃん見てないから、どうしたのかなって思ってさ」
そういえば、今日は翔子に逢っていない。大会を見に来るようにメールを出しておいたのだが。俺は、通用口から観客席をそっと覗き込んだ。百人からいる観客の中から一人を見つけ出すのは非常に困難な事だろう、一般的には。だが、この俺が翔子を見逃す筈は無い。無いはずだ。だが……。
翔子は、何処にもいない。
俺は、携帯電話を取り出し、着信履歴をたどって翔子の番号に掛けてみた。
『お掛けになった電話は、電波の届かない所にあるか、電源が入っていないため、掛かりません……』
あわててもう一度掛けなおす。返答は先程と何も変わらない。機械的な女性のアナウンスがただ繰り返されるのみだった。そして、俺が4回目のリダイヤルをした時、レイジが堪りかねた様に俺に話しかけてきた。
「あのさあ、柚木さん。怒らないで聞いてくれるかい?冷静になって聞いて欲しいんだけど」
「ん?なんだ、その含みのある言葉は。俺はいつも冷静だ」
いやな予感は拭いきれないが。
「いいかい、本当に落ち着いて聞いてくれよ」
「わかってる。いいから何だ?」
この胸騒ぎは何だ、本当は聞きたくないのだが。
「あのさ、ミツキがいなくなった日の前日に、翔子ちゃんとミツキが逢ってるのを見た奴がいるんだ」
「は?何が言いたいんだ?」
それ以上は何も言わなくていい。やめてくれ、それを聞いたら……俺が、壊れてしまう!
「ミツキの奴、結構悩んでたんだ、この大会に出ることを。それを翔子ちゃんと逢って悩みを話したりしてたみたいなんだよね。それで、二人は……」
「うわあああーっつ!」
俺は、正気の沙汰とは思えない声を発しながら、通用口のドアノブを千切らんばかりの力で引っ張り観客席へと躍り出た。
「翔子ー!しょうこーっ!」
俺の叫び声はしかし、観客の熱気に全て打ち消され、水中で叫ぶかのように何一つ外の世界には伝わらなかった。熱気で我を忘れた観客の肘うちを食らい、しっかりと握っていたはずの指輪のケースを床に落としてしまった。無慈悲にもその指輪は観客の群れに痛々しく踏みつけられる。
「やめろー、やめてくれ!俺の、俺の夢が」
俺は、ただただ床に這いつくばり、無慈悲な観客の群れから指輪を守ることしか出来なかった。
8
ビーベックのインディーズ大会は、無事終了した。多少の段取り違いはあったものの一応は大成功と言って良かっただろう。そして、日常は事も無げに過ぎ去っていく。ただ俺だけはあの日に取り残されたまま、何処にも行けず……。
今日もまた、駅前広場のベンチに腰掛け無駄に時間を費やす。噴水が、意味の解らないオブジェが、少年の銅像が、この無気力で自堕落な俺を蔑んでいる。何を期待しているのだろう、俺は今更……。
踏みつけられて、歪んでしまった指輪のケースを胸ポケットに、あの頃の思い出と一緒に仕舞い込んでいる。とてもちっぽけだが、それだけが、この俺の唯一の心の支え。一縷の望みを信じて通う、このベンチのみが今の俺の居場所だ。
あれから三ヶ月が過ぎようとしていた。翔子もミツキもあれから一度も見ていない。二人同時に失踪した事は、決して偶然ではないのだろう。二人の知り合いに昼夜問わず聞いて廻った情報を整理した結果、やはり二人は駆け落ちをしたと考えるのが妥当だ。俺が鈍感なのか、仕事の忙しさでそこまで気が付かなかったのか。どちらにしても、この俺が最低の愚か者であった事には間違いは無い。
この失態によって、俺の音楽業界での地位は失墜していった。『クラブ・ジャッジメント』は、業界からの信用も失くし、また当のオーナーもこの様に腑抜けてしまった為、そのブランドイメージだけを過去の遺産として保つのみであった。
ここは、初めて翔子と出会った場所。此処にいれば、再び翔子に逢えるのではないだろうか。そんな妄想にも似た希望を抱いてこの駅前広場のベンチへ毎日やって来る。健気では無い、未練がましいのだ、俺は。
今日も日が暮れようとしていた。駅からの客足が多くなる前に俺は、この場から去っていくのだ、人目をはばかる様に。重い腰をあげ、噴水や、オブジェや、少年の銅像に今日の別れを告げている時、背後から俺の名を呼ぶ声がした。聞き覚えがある声だ。
「柚木さん……久しぶりだね……」
決して太くて低い声ではないが軽い声ではない。それは、ある時期俺が徹底的に惚れ込んだ声。背後からのその声に反応し俺は振り向いてみた。
「ミ、ミツキか?」
「柚木さん、ごめんよ、本当に……」
言葉など必要ないと思った。まずは、右の拳でミツキの顔面にこの怒り(などと言う生易しい物では到底あり得ないものだが)をぶつけなければ治まらなかった。俺の右拳は、ミツキの左頬を完全に捉えた。ミツキは華奢な体を捻らせて、地面に倒れこまない様に耐えてみせた。さすがは若い頃バタフライナイフのミツキと恐れられただけの事はある。俺の渾身の右拳をまともに食らって倒れないのだから。
しかし、ミツキの膝を地面に付けさせるのに、俺の腕力は必要無かった。目の前の華奢な様にみえるその男は、自分から地面にひれ伏し、俺の足元で土下座を始めたのだ。
「ごめん、柚木さん、本当にすまない。今日はあなたに謝りに来たんだ」
俺は、全く予期していなかったミツキとの再会に、己の心の持って行き場所を見失っていた。足元に這いつくばるこの男に怒号や罵声を浴びせるか、力任せの破壊衝動に走るのか。敬遠してこの場から立ち去るか。俺には解らなかった。ただ、ミツキがあまりに卑屈に謝るものだから、俺はとりあえず湧き上がるこの怒りや戸惑いを、心の奥へ鎮めて、彼に手を貸して立ち上がらせた。
「まあいい、こんな所じゃ話も出来ん。俺の店へ行くか」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
通行人達の痛いような視線を気にしながら、俺とミツキは『クラブ・ジャッジメント』へと向った。
――ねえ、このまま二人で逃げちゃおうよ、思いの伝わらない者同士さ。
こんなに苦しんで、疲れてるんだもの私達……もう、いいよね。
何もかも捨てて、今夜この月の光を浴びて生まれ変わろうよ。そして、私達は一つになる。悩みも苦しみも、明日からは二人で一つ……。
さあ、行こうよ、無慈悲な夜空の下へ。月の光をいっぱい浴びよう。
なんて狂おしいんでしょう。
あなたも……いらっしゃい。全てを捨てて……軽くなるの。私達は翼を得たように空高く舞い上がれる、遠くキリマンジャロがみえるかもね。さあ、私のこの手を、獲って……一緒に――
「でも、解って欲しい、悪いのは全部俺なんだ。あの時、俺に止まる強さがあれば……」
ミツキは、頼まれもしないのに大会前日の、翔子とのやりとりを事細かく俺に伝えた。
「あの子は、翔子ちゃんは、人一倍寂しがり屋なんだ。なのにそんな素振りはおくびにも出さない。それは、彼女の中での優しさなんだろう。一見派手で、自己主張の強そうな気がするが、彼女は本当に自分を押し込んで生きてるんだ。だから、今回みたいに突然、せきを切ったように何かが溢れ出すんだろう。彼女は、悪くないんだ。本当に一所懸命生きているんだ」
「俺が、彼女の心を何も理解していなかった、ということだな、それは」
「あの子は、生きることに一所懸命なんだ。多分、俺や柚木さん以上にね。だからこそ、皆彼女に魅かれていくんじゃないかな」
「……そうだな。きっと、俺では駄目だったんだよな。二年半付き合ったがあの子の事を全て理解したのかと、彼女のために何をしたのかと、聞かれても何も答えられない。俺は、いつも自分ばかりだった」
「翔子ちゃんは、もう俺の所にも居ないよ。また、何処かへ行ってしまった。月の下を舞う蝶の様に」
その後、俺とミツキは何も言葉が思い浮かばず、かなりの時間店の中に沈黙が走っていた。
ビリー・ジョエルのピアノの音色だけが寂しそうに流れている。
「あのさあ、柚木さん、俺、本当に悪い事したと思ってる。こんな事いえる義理など無いかも知れないけど、せめて罪滅ぼしの意味で柚木さんの下で働かせてくれないかな。どんな事だってやるよ」
ミツキは、突然喋りだした。そして、こともあろうに俺の許しを貰う為に俺の下で働きたいなどと、虫の良いにも程があろう。「ふざけるな」と言ってやった。
「簡単には許してもらえないのは解ってるよ。だけど俺、柚木さんの役に立ちたいんだ。なあ、柚木さん頼むよ」
「くっ、お前が何をしたのかよく考えてから物を言えよ。俺は許さないからな」
「ごめん、本当にすまない。でも、この俺の気持ち少しでも解って欲しいんだ」
「ふん」
「気持ちが伝わらないって、すごくつらい事なんだ。翔子も俺も、そうだったんだ。思いが伝わらなかったんだよ、柚木さん、あなたに」
ミツキはいきなり何を話し始めたのだろうか。少し話の内容がずれ始めている事に俺は違和感を持った。
「届かないのなら、忘れようと思ったんだ。あの子なら、翔子なら……忘れさせてくれると思って……それで」
ミツキは、突然俺の胸の中へ飛び込んできた。不意を衝かれた俺は成す統べなくそれを受け止めた。
ミツキの視線が、俺の視線と重なり合う。
「柚木さん、俺ずっと好きだったんだ。あんたが。俺を路地裏で拾ってくれたあの頃からずっと」
ミツキの唇が俺の硬直したままの唇を覆った。ぬくもりが、ミツキの唇のぬくもりが俺の体に伝わって……
晴天の霹靂という言葉を使うのが適当かどうかは解らないが、俺は今正に道を歩いている時に、いきなり脳天に雷を落とされた様な錯覚に陥った。
唇を自らおれから引き離し、ミツキはなおも話した。
「きっと、この気持ちは伝わらないし、受け入れてもらえないって思って、苦しかったんだ。でも、今日初めて言ったよ」
ミツキは俺の眼を覗き込むように見つめる。なんて心細い瞳なのだろう。だが……
「お……俺はそっちじゃあないんだ……よ、止してくれ……」
無理だ、俺には。
「ごめん、また困らせてしまったね。もう、許してとは言わない、やっぱり無理だよね。どうやってもそれは、手に入らないんだ。……それなら」
一瞬、ミツキの手元で何か銀色の閃光が走った様な気がした。
――ドス――
何か凄く鈍い音がする。……何だ?何か脇腹が燃えるように熱いのだが。
ミツキがひらりと俺から飛びのいた。
「手に入らないのなら……今この瞬間を俺の記憶の中に……柚木さんは俺の心の中だけに……」
左手が、脇腹あたりで何か棒の様なものに触れた。それは、俺の左脇腹から伸びている銀色の物体だった。血が――銀の表面をまばらに覆う。俺の脇腹からは血の雫が、時を刻むようにしたたり落ちていた。
バタフライナイフか――
ビリー・ジョエルの『ストレンジャー』が俺の耳を掠めている。口笛がなんとも哀愁を感じる筈なのに。俺は脇腹の熱さと、事態の収拾のために哀愁を感じる余裕など無かった。
ミツキは、まるで月に吼える狼の様にけたたましい笑い声を発している。
俺は、バタフライナイフを握るのが精一杯で、床にそのまま突っ伏した。
9〜エピローグ〜
――ああ、目が霞む、力が入らない……。
くそ、何てことだ。血が纏わり付いてくる。もがけばもがくほど。ベタベタと気持ち悪いな。
何も見えないや……ミツキの笑い声だけが脳に響いてくる。
ミツキ、お前の「Without you」をもう一度聴きたかったなあ。
もう一度、お前の歌で心を揺さぶって欲しかった、……もう無理かな。
翔子、すまなかったなあ、結局何もしてやれなかった。
お前は、その背中の大きな翼を広げて飛び立っていくのだろう。
もう、俺の手の届かぬ所へ。
ああ、翔子、もう本当に何もしてやれない……さようなら、もう、何も見えない、何も、聞えない。
おや、此処は何処だ?
……俺の、店?『クラブ・ジャッジメント』
いや、この板張りのフロアー、真っ黒なカウンター、真っ赤なソファー、壁に掛けられたコカコーラのネオン……。
なつかしいな、ジャズ喫茶『ムーンレディ』俺の生まれ育った場所だ。
あそこで、サックスを吹いているのは……親父か?
やけに楽しそうだな、親父。
今まで一度もそんな顔を見せた事無いくせに。
墓参りに行く前に本人に出会うなんてな、冗談にもならんよ、ははは……。
……なんだ?俺を呼んでいるのか?そうか、俺もそこへ行ってピアノでも弾こうか。
聴いてくれよ、かなり上手くなったんだぜ、ガキの頃しか聴いてないだろ。
びっくりするぞ、親父。
ああ、でも、なんだか瞼が重たくなってきたな……。
最近ちょっと走りすぎてたからなあ。
少し疲れたのかも知れない。
ごめん、少しだけ眠るよ、そしたらさ、親父――
〜それから3年の月日が流れた〜
でね、お客さん、私は何とか一命をとり止めた訳ですよ。ほんと、奇跡としか言い様がありません。
それで私は思ったんです。いくら上を目指して頑張っても、死んじゃったら何も残らないんだよなって。地位や名誉なんて、もちろんお金だって、墓場には持っていけないですからね。昔の人はよく言ったものです。
ならば、今を楽しく生きようと、やりたい様にもっと楽に生きようと決めたんですよ。ええ、私の持っていた店は、閉めたり他人に譲ったりして全部処分しました。そして、今ではこの店だけをきりもりしてます。
すみませんねえ、何だか私だけ喋ってばかりで。
いやいや、……そんな事は……。
え?翔子に逢ってみたいって?
お客さん、それは無理ですね。でも、もし逢うような事があったら、間違いなく魅入られてしまいますよ。本当にいい女だったなあ……。
おっと、妻には内緒ですよ今の話は。
何故無理かって?
彼女は今、何をしてると思います?あの大人気俳優のAっているでしょ。そうそう、そのドラマに主演していた。なんと、そのAと同棲してるらしいんですよ。ええ、確かな情報ですよ。うちの常連で渡辺さんっているんですけどね、業界のかなり上の人なんですが。その人が言っている事だから間違いないですよ。住所も教えてもらってます。行ってはいないですけど。
それを訊いて、ああ、彼女まだ頑張ってるんだなあって思いましたよ。一所懸命に生きてるなあって。
おっと、これは此処だけの話にしておいて下さいよ。極秘情報!ですから。
カランカラン……
いらっしゃ――ああ、レイジ、おはようさん。今日もよろしく。
あ、お客さん、紹介しますよ。うちでギター弾いてもらってるレイジです。いい男でしょ、端正な顔立ちで。いやね、こいつはうちの常連のマダム達に大人気でね。まあ、ここだけの話、音楽で食べて行かなくても、ホストクラブでも十分通用するんじゃないかなって……おいおい、冗談だってもう、ムキになるなよ。
ところで、あと一ヶ月だな、ミツキが出所するまで。
そうです、そのミツキがね、あと一ヶ月で勤めを終えて出所するんですよ。彼がムショから出てきたら最初にこの店で「お帰りパーティー」をやってやろうと思ってまして。
良かったらお客さんも参加しませんか?
いやそんな悪い奴じゃないですから、心配しなくても大丈夫ですよ。彼も音楽大好きな人間ですから、根はいい奴です。あれは、俺の度量の狭さが招いた事故ですから。
今度は、あいつの事をきちんと受け止めてやれるようにしたいですね。まあ今の私には妻も子供もいますから、そこは諦めてもらおうと思ってるんですけど、まあ、2号さんくらいなら……いや、冗談ですよ。失礼しました。
自分ばかり喋ってしまってすみませんでしたねえ。え、何だってレイジ?変わっただと?いつからそんなにお喋りになったんだって?そんなに俺って変わったかな?自分ではそんな事感じないんだけど。確かに、今は本当に仕事がおもしろい、って心から思うよ、仕事を楽しんでいるなって。
ざまみろ、親父って感じかな。親父はあの世で楽しくやってるみたいだけどさ。
ありがとうございました。音楽好きなら誰でもOK。またのお越しをお待ちしております。また、一緒に音を楽しみましょう。
カランカラン……
おや、お客様だ。
いらっしゃいませ、ライブバー『ムーンレディ』へようこそ。
あなたも此処に来て私達と音を楽しみませんか?
「あなた、ちょっと手伝ってくださる?」
店の奥で仕込みをしている妻が忙しそうに俺を呼んだ。
ニューヨークで二人一緒に撮影した写真を眺めてから、俺は愛する妻の所へ駆けて行った。
了
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2004/06/14(Mon)00:48:18 公開 / オレンジ
■この作品の著作権はオレンジさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
どうも、いよいよ物語りも動き出しました。後半戦スタートってとこです。
良かったらこの物語に懲りずにお付き合いくださいませ。
皆様の感想、ご批判お待ちしてます。
>笑子さん、感想ありがとうございます。また読んでやってくださいね。そして、感想など頂けたら感謝のきわみです。
>卍丸さん、遥さん、湯田さん、笑子さん、感想ありがとうございます。物語りもそろそろクライマックスです。飽きなければもうしばらくこの話にお付き合いくださいね。
何とか完結しました。まだまだ不完全ではありますが、読んでくださった皆様本当にありがとうございました。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。