『獣月 序章〜4』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:晶                

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 ガランドウとした部屋には、犇(ヒシメ)く闇が充満していた。
 夜空を彷徨う月の光も、ここには届きはしない。密閉された漆黒の空間。受刑者の独房。
 世界に背いた大罪ゆえに、わたしは烙印を刻まれ、心と身体を侵され続ける。
 その中で、わたしの心に一人の青年の顔がかすめる。
 ……久しぶりだ。
 認識できたのは一瞬のみ。刹那的で奇跡的な一瞬だった。
 痛みがわたしを、さいなみ侵し、むしばみ穢し、おとしめ幾度も殺し、だが同時に繋ぎとめいた。
 霞がかった意識の深淵で、わたしは虚ろな目を開く。多分もうほとんど自我というものは崩落しているのだろう。
 手首や足首に、蛇の如く絡みついた枷の鎖が、ジャラリと鳴く。わたしの体には何十にも及ぶ鈍色(ニビイロ)の剣が突きたてられていた。
 際限なく流れ落ちる血は、滴り、溢れ、飛沫を上げ、不思議に黒に酸化されることなく、限りなく朱色だった。
「はぁ、ぐぅ……」
 灼熱が全身を走りぬける。身体(カラダ)の内側から肉を焦がすような痛みに、わたしは声すらあげることができずに、眼球が飛び出るほど目を見開く。透明な涙なんて流れはせずに、代わりに眼から血が、ごぼりと吹き零れた。
 わたしの赤く滲む視界の中央に、黒服の男が立っていた。
「一万の苦痛を、一万の方法で繰り返す。この刑期もあとわずかだよ」
ザシュッ!
 呪うように男は唄い、わたしの胸に剣を突き立てる。剣は心臓を抉り、鼓動を繋ぎとめた。
「ひっ、が……」
ザシュッ!
 次ぎは喉に剣が突き立てられる。静脈も動脈も、気管も食道も、切り裂かれた。
「言葉さえ忘れて! 心さえ失って! それでも――
 お前は想うのか!? お前は選ぶのか!? それでも――
 お前は弓引くというのか!?」
ザシュッ!
 ザシュッ!
  ザシュッ!
 けれど同時に愛しむように男は唄う。
 最後に額――人体で最も硬い骨の一つである頭蓋骨を貫かれ、柔らかい脳ごと串刺しにされた。
 常人(ツネビト)ならば、致死の絶痛を幾千幾万、否、幾億も繰り返されてきた。
 男の言葉は意味をなさない問いかけだった。だってわたしには答える術も思考も、もう残されてはない。完膚なきまでに、残虐に、人の想像力を超えて、執拗に、わたしは殺(ソ)がされる。
 想いを全否定される。
 故に、烙印を刻まれ、救いはなく、希望はなく。
――――だが絶望はしない。
 それは決して矛盾ではない。
 わたしはこの世界が終焉を向かえたとしても絶望を信じない。わたしは藻掻(モガ)く者。
 確かに希望はない。だが絶望ではないのだ。わたしには、まだこの想いがあるから。
 どんなに希望がこの手を擦り抜けても、絶望ではない。そうでなければわたしはここで朽ち果ててしまう。
――――わたしは孤独ではないのだ。

 不意に、別種の痛みが走った。
 心に直に響き、目の前の男が与える痛みよりも、なおいっそう激痛だ。
 嗚呼、感じる。
 貴方の叫びが聞こえる。
 それが何よりも苦しい。

――――魂に連結する光景。 
    わたしは少年と少女の姿を見た。


  ◇◆◇

 揺れる木々。
 舞い散る葉。
 草木の香りと血の臭い。
 一面の赤い海。
 天は高く、遠く、丸く、けれど黄昏はすぐ側に。

 累々(ルイルイ)と積み重なった瓦礫に成り果てた校舎は、辺り一面を赤く染め上げられていた。燃えるような夕日と、白い破片を染める血によってだ。
 風が、粉塵を巻き上げ、臓腑の臭いを運ぶ。
 至極、人々は原型を留めるものはなく、食い散らかされたように、ばら撒かれていた。千に切れた肉片があちこちに散乱していた。
 嗚呼、死んでいる。
 生は唾棄(ダキ)され、残虐な死が蔓延(マンエン)していた。
 だが、木の葉が舞う、その下で、呆然と、
 少年と少女は生きていた。
 結果として生き残ったのか、それとも自分たちで生を勝ち取ったのか、どちらにしろ――…
 守れなかった。
 無力だった。
 救えなかった。
 等しく死んだ。
 失ったものはこの世の全てに想え、得たものは絶望だった。
 深く刻み、簒奪し、頚木(クビキ)となり、腐敗のように、病巣のように、きっと侵食していく。ゆっくり時間をかけて、爛(タダ)れ落ちて、取り返しのつかないぐらい、心を狂わせてしまう。
 ――そういった呪いじみたものが、心に根付いてしまった。
 視界が暗かった。
 夜はまだ少しばかり早いはずなのに、暗転して今にも倒れてしまいそうだった。
 少年も少女も全身に傷を負い、無事な箇所を探すほうが困難だった。
 思考を凍らせているのか、それとも、既に狂ってしまったのか、二人はぞっとする静寂に身を委ねたまま動かない。
 唐突に、空を突き抜けるほどの赤い炎が、渦を巻いた。
 破壊された残骸をさらに破壊し、消失した想いをさらに消失させ、徹底に徹底を重ね、全てを炎滅(エンメツ)させるために劫火は踊る。

 
 力が欲しかった。
 もう何も失いたくない。
 だったら、全ての力に敵い肯定する、力。

 力が欲しかった。
 誰もを守れるように。
 だったら、全ての力に否定を与える、力。

 少女は剣を目指し――
 ――少年は盾を目指した。


    0/


 高校二年生という表向きの生活を更新しつつ、一見当然のように俺は日常に溶け込んでいた。クラスでも当り障りなく過ごし、そして、友達と呼べるような関係も何人かいる。
 JRで四十分もかかる毎日の通学にも慣れたし、学校の行事にも参加する。課題の提出も、まあ人並みには行っている。
 欠席は否応なく多いが。
 平穏を希求するでもなく、当たり前に恋焦がれるまでもなく、日常は傍らに存在するのだ。
 だが、その日常の裏側、或いは間隙、その非日常、破綻という知られざる裏の世界――『魔術の世界』に、この俺、御剣裕也(ミツルギユウヤ)は身を置いていた。



   1/


 朧な人影。焦燥にも似た、胸を締め付けられる感情の奔流。
 白く白く白濁し、やがて何もかもが漂白されていく。
 ――白い夢。
 だが、それは清浄な光がまぶたの上から注いでいるのだと理解して、目を細めるように開けた。
「…………?」
 最初に目に入ったのは、微かな風に棚引く艶やかな黒い髪だった。何より、光と混じっても黒いまま煌いているようで見惚れてしまった。次に鋭い瞳に出くわす。いつも彼女はそうだ。それが、彼女の凛とした容姿を引き立てる反面、周囲を圧倒しているのは確かだった。しかもジーンズと白いワイシャツという簡易な服装は、二十歳という若い女性を彩るには、華やかさにかけると思う。美人なのにもったいないが、その存在感は、そんな些事など意に介さず、他の追随を許さず際立っていた。
 次第に輪郭を露にする視界に、我が姉、御剣真名(ミツルギマナ)が立っていた。俺が起きたのに気づいても、長身端麗な彼女はどこか不機嫌そうにこちら暫く見つめていた。
「……裕也、バカか貴方は? 風邪をひくわ」
 燃えるような黎明(レイメイ)に染め上げられ空を背にして、不意に彼女は俺に告げた後、踵(キビス)を返して立ち去る。颯爽とした真名の姿を、半身を起こして目で追うと、庭から居間へと戻ったようだ。
 彼女が自分を起こしに来てくれたのだと、ぼうとした頭で思い至り、ついでここが庭先なのだと気づいた。
 立ち上がり深呼吸をして、眠気を払拭する。顎を下げ自分の服装を確認すると、簡易な稽古着のままだった。動きやすい材質なだが、多少保温性に欠け、肌寒くある。
 晩夏の暑気(ショキ)は立ち去り、秋が顔を覗かる今日では、まあ、風邪を引いても文句は言えない。そもそも庭先で眠り込むんじゃない。それに多少、関節の節々が痛んだ。
「んー、おはようだ」
 背伸びをして身体をほぐし、誰にともなく挨拶をした。

 中学から高校、併せて五年も使用してるため所々ほつれた制服に、自室で着替えて慌てて居間に戻った。当然既に、朝食の支度は整っており、真名が無言で瞑想するかのように正座している。朝の精錬な空気をまとい、背筋をぴんと伸ばしている様は、成る程、一枚絵のように静謐としていた。
 時刻は午前六時を僅かに回ったところ。
「おはよう、裕也。今日は久しぶりにあたしの馳走だ。細工は流々、さあ下郎、思う存分貪るがいい」
 久しぶりに食事を作りに来たのだろう、ヒカルが妙な言い回しで豪語する。下郎って何だ。エプロン姿のまま、弾むような声と茶色に染めたツインテールが、楽しそうに揺れていた。
 佐野ヒカル、隣町に位置する佐野総合病院の委員長の孫娘で、知り合いになってからもう三年は過ぎているだろうか。その奇抜な性格とは裏腹に、何でもソツなくこなしてしまうし、何気ない配慮もある。
 事実、テーブルの上に盛り付けられた朝食は、まあ、食欲を誘う匂いだった。見た目も芳しく、食器にも気配りがあるのが感心である。
「裕にい、おっはようー」
 厚焼き玉子とローストハムのサラダに関心が向いていると、死角から妹ユキが飛び込んできた。なかなかに熱烈な体当たりであったが、ご愛嬌だろう。ユキは、すっぽりと胸の内に納まってから顔を離し、こちらを柔らかな笑顔で見上げる。
「うん、おはようだ。今日は早起きだな」
 ご褒美とばかりに「ちゅ」っと唇を軽く額に触れさせると、「んー」とユキはむずかゆいような嬉しそうな表情をした。ちなみに横では「うおっ!?」などと、ヒカルが奇声を上げていた。
 可愛いなあ、などとほのぼのとしてしまう。心のオアシスとかいうやつだろうか。名残惜しみながら「よし、じゃあ、食事にしよう」と、俺は真名の横で胡坐をかいた。
「妹煩悩め! どんな権限があって貴様は、ユキちゃんにそんな無礼を働く! よしアタシもやろう。それで問題ナッシングだ。ユキちゃん、こっち向いてね。こういうときはまず見詰め合うの。うん、そういい感じ。熱く視線を絡ませた後は、目を瞑るのよ。リードはアタシにまかせて――、んんー」
 ヒカルは無垢なユキの肩を確り両手で掴み、略奪接吻を実行しようとする。激しくヤメロ。
「ユキの『初めて』を散らすじゃない」
「こういうのは奪ったもの勝ちだ」
 本人の意向さえなければ確かに真理のようなセリフを吐いて、なし崩し的に、俺の静止の声なんて微塵も意に介さずに強行しようとする。
 だがそこで、傍観というか、言葉なく、こくこくと吸い物を啜っていた真名が、お椀から口を離し、
「ヒカル」
 静かに呟いた。
 びっくうぅぅ。それだけでヒカルは完全に硬直してしまった。唇と唇が触れ合うまで残りリミット三センチのところで、絶対命令が下されてしまって、渋々顔を離す。俺も事なきを得た事態に、安心したようにお茶を飲む。
「――ユキは私のよ」
 ソレも違う。
「そして私は裕也のよ」
 ぶっぱぁ。思わず噴出した。
「面白い反応ね、裕也」
 真名は何事もなかったように箸を再開した。
 心臓に悪い発言をするんじゃないと、胸中で独りごちながら口を拭う。
「な、何だと! 貴様、貴様、貴様! まさか姉様にまで不埒な行いを!」
「……俺が死ぬ」
「それもそうね」
 あっさり納得して、ようやくヒカルは他の三人に遅れながら朝食を食べ始めた。
 だが結果、一番早く食べ終えたのはヒカルであった。ダントツで、なんか周回遅れを食らった気分になるぐらいの早さだった。
 それもいつもの光景である。
 そう、普段朝食を作りに来てくれるだけに留まらず、泊まることもしばしばある居候状態の佐野ヒカルを数に入れても、食卓に着く人数はたった四人である。七年前に父は他界し、母は一年前ほどから本館出向いていて、暫く戻れそうにない。その数は、地価の書斎も合わせて二十の部屋を持つ広い屋敷では、些か寂しいのかもしれない。
 ふと疑問に想う。
 ――かもしれない。つまり自分でも判ってない感情なのだ。寂しいとは何だろう。根本で行き詰る。考えると息詰まる。閉塞して窒息してしまうような感覚だった。だがそれすらも疑問。疑問は終始に渡って付きまとう。何処からともなく湧いてくる。
 ――寂しいのは、……誰?
「――――というわけで、」
 テレビの音でハッと我に返る。それほど深く思考に没頭したわけではないが、真名も食事を終えていた。ユキが半分ぐらいで、俺は最後の一口で止まっている。
 テレビの画面には古びた骨董品のような一階建てアパートが映し出される。その画像中央に猟奇殺人の四文字が大々的に表示されていた。
 どうもこの近辺のようだ。辺鄙なこの町では、かなり物騒な事件だった。真名も気づいたのか一度だけ画面に険しい視線を送る。ヒカルも心持ち真剣な表情していた。
 そして内容を聞けば、聞くほど、それは異常だった。アパート内部の人全員、計七名をバラしにバラし、細切れになるまで、バラバラにしてあったそうだ。
 それは猟奇なんて言葉で括(クク)れない、常軌を逸した異常だった。
 真名が無言でチャンネルを変える。ユキが色を失った顔で画面を眺め続けていた。
 胸の裡(ウチ)に暗い感情が込み上げる。泉のように、膿のように溢れて出す。
 今のような虐殺は、一方的な暴挙だ。そういうのは単純に許せない。無力は許せない。失うのは許せない。無意味に戻るのは許せない。無価値に貶められるのは許せない。理屈抜きで嫌悪を超えた憎悪の念を抱いてしまう。理不尽で、唐突で突然変異染みた、異形な、無意味を強制される死。何処にも辿り着けずに、旅の中途で途絶える、無価値な生。人生が、まるで脆く崩れ去る砂の城であるのに、それを堅固な城砦だと思い違いをしているのは、お前のような愚者だけだと、哄笑され嘲笑されているようだった。
 連想するのは炎。
 無意味だと、無価値だと、炎が嗤(ワラ)う。
 我知らず自分の握る手に爪が食い込んだ。
 ――真名が俺を見ていた。
 真っ直ぐな眼差し。
 彼女もまた笑う。それこそ不敵に。
「裕也、今日は出かけるわよ。用意しなさい」
「今日も休むのか、裕也? 流石サボりの裕ちゃんだ」
 ヒカルが皮肉というわけではなく、豪気に笑った。サボリの裕ちゃん。それが、いつの間にか学校でついた俺の二つ名である。犯人を捜すまでもなく、愛称とも蔑称とも判断つかない汚名を吹聴してまわったのはこいつだけだ。事実なので否定はしなかったし、何より面倒なので黙認してたので、すっかり他のクラスまで伝播してしまった。
「おう。真名とデートだ」
「そうか、行って来い」
 全くヒカルは取り合ってくれなかった。視界の端で真名の肩が、ぴくりと動いたのは気のせいだろう。
「あっさり流すのかよ」
「たわ言は聞く耳持たん」
 行け行け、とヒカルは手で振って示し、食器を流しに持っていく。ツッコミなしかっ、などと思っていると予期せぬ伏兵が潜んでいた。
「ユキぱーんち」
 いい按配の右ストレートが決まった。
「にゃー、酷い、ユキも裕にいと真名ねえとデートしたいんだよ」
 ユキが頬を膨らませて抗議の声を上げるので、何となく抱きしめ、頭を撫でながら、ぬいぐるみのような扱いをしてみる。
「にゃー、にゃー」と腕の中で暴れているが、気にしない。気にしないどころか可愛かったのでエスカレートしてみた。
「あはっ」
 無邪気そうに笑い、ご機嫌になってくれた。うむ、一件落着だ。
「これから仕事に出かけるの。ユキは学校にちゃんと行きなさい。眠くなれば保健室で休んでいいから。分かった?」
 優しい声音で真名はユキに告げる。ユキは「うんっ」と元気よく返事をして、俺の腕から飛び出してヒカルの後に続いた。どうも今日は絶好調のようだ。
 ユキは三年前まで佐野総合病院に入院していた。四年間に渡る植物人間として点滴による生活。植物人間と果たして呼んでいいのかわからない症状だが。
 植物人間とは普通、大脳が働かないで脳幹が主に働いているため、動物性機能が働かないで、植物性機能だけが働いている。目覚めた状態で意識があって初めて、外界からの刺激を受け入れ、統合作用を経て運動として外界へ働きかけることが出来るのであるが、大脳が働かない状態では、意識がなくなる。この意識のない状態は睡眠と違って、外界からの刺激を与えても目覚めない。肉体は活動しているが精神は活動してない状態である。
 だがユキの場合はその逆だ。肉体活動はほぼ停止しており、精神活動のみが確認されていた。
 レム睡眠に近い脳波。
 しかし肉体に脳からの電気信号は届かずに体は弛緩したままであった
 よくわからない話を確かヒカルの祖父にしてもらったのを思い出す。
 ちなみに、佐野総合病院でユキがヒカルと知り合い、退院祝いと称して、家に押しかけてきたのがヒカルとの腐れ縁の切っ掛けである。
 さて、退院したユキだが、ただ一つ後遺症が残っている
 眠り病。
 言っておくが、アフリカとかで広がってるツェツェバエによる危険な病気ではない。
 ユキは後遺症として、よく眠るようになった。何度か医者に診てもらっているが原因は依然不明。脳が疲労しやすい体質になっている可能性があるということだ。
 だから、みんなユキのことをいまだに心配している。
「裕也、手早く支度なさい。ああ、学生服のままでいいわよ。ほら、置いていくぞ」
 玄関に向かいながら、真名は指で車のキーをもてあそんでいた。
 いつの間に準備を済ませたのだろうか。それは電光石火だと思う。
 ヒカルに後は任せると伝え、慌てて玄関へと向かう。
 真名はブーツを履き終えており、「行くわよ」と、告げると引き戸を開けた。
「おう、わかってる」
 しかし覗いた空は、雲が薄く広がり、雨が降り出しそうな漠然とした予感がした。


   2/


「昨夜、午後十時、犬哭山の中腹にある『火神』に属する白神神社を包む結界が原因不明の反転。異常に気づいた神主は、事態の深刻な状態を把握できずに、独自に揉み消そうと、裏で第三魔術機関の一部隊の派遣を要請した。だが結界の反転および、そこから生じた破綻は著しいもので、自体は悪化。対処の遅延が、そのまま上層部への情報漏洩につながり、『火神』に伝わる。そして『火神』直々に『御剣』に対して今朝、現場へ応援の達示があったというわけね」
 真名は言いながらも、どこか不機嫌な様子でアクセルをさらに踏み込んだ。
 加わったGに、圧迫感を覚える。
 いや、周りに車は見当たらないが、全開かよ……
 速ければ速いほどいい、といった感じだ。広々とした田園さえも、景気よく後ろに飛び去っていた。
「白神神社って、地脈とか火の元素が一点に集まってるところだろ? 結界が反転したのか? 拙(マズ)いだろうソレ」
 助手席で俺はげんなりと呟いた。
 結界とは通常、元素の流れが不安定な地盤を安定さるモノの他、その場所を他者と隔離するものなど様々な効能があるが、これが反転すると、まさに効果も反対になってしまうというわけだ。つまり、そのまま放置していると、本来目的とは正反対の効果のため非常に危険なことになる。
 具体的に考えると、地震とか噴火とか起こりそうだ。
「神主の莫迦(バカ)な判断のお陰で、外部から引き寄せられた低俗な魔がダース単位で、結界内部でひしめきあってるそうよ。現在、結界崩壊を防ぐので手一杯で、修復は望めないわ。まったく救いようのない阿呆ね。最初から研究専門の第三魔術機関ではなくて、実戦部隊を呼ぶべきだったのよ」
 言葉の端々に険があるのは気のせいではないようだ。どちらかと言うと、真名の機嫌のほうが俺には重要なので、当たり障りなく相槌を打っておいた。
「『火神』は迅速な処置をお望みだそうよ」
 真名は語調も強く、フロントガラスの先を睨みつける。それっきり沈黙が肩やら首の上から圧し掛かった。
 真名と二人っきりだと、こんなふうに会話が途切れることもしばしばだが……
 今日は何故か気まずい。
 なんか喋れよ! 
 というわけで話しかけてみることにする。
「……真名はなんでそんなに不機嫌なんだ?」
 単刀直入、一刀両断に、思い切って聞いてみた。
「あん?」
 切り裂くような、凄い眼つきで睨まれました。
 ユキ、この姉、怖いよ。どうしてユキの姉なのに、こんなに怖いんだろうね。
「……あれか? 月に一度の大事な、アイタァーッ!」
 めげずに投げ掛けた言葉の途中で、目視できないぐらいの速度で頭を叩かれた。
 場を和ます冗談は、頭の奥にジンと反響する痛みによって報われた。涙目で撫で付けて、口の中でぼやく。
 そんな俺が可笑しかったのか、口の端を少しだけ柔らかにし、真名はふっと肩から力を抜いた。
「そうね、悪かったわ。いらない心配をさせた」
 そう言ったものの、暫くすると、やはりまた車は加速を始めた。

  ◇◆◇

 魔術という世界に少しでも関わった者ならば、『御剣』という家名を聞いたことはあるだろう。
 『御剣』家とは、人に仇なす人外の魔を屠る退魔を生業とし、常識とはかけ離れた世界を生きていくものである。政界との繋がりも強く、日本最大退魔師の『火神』家の分家にあたる。
 血を重んじ、他の退魔師たちとは一線を画する能力、マテリアライズ(元素固着)を代々受け継いでいる。近接戦闘に長け、圧倒的な攻撃力を有している――まあ、簡略化しすぎているが、こんなところだろう
 補足説明を付け足すなら、ここで言う元素とは魔術用語である。現代科学とは違ったプロセスで世界の神秘を解き明かそうとしたものであり、火、水、土、風の四大元素のことを指している。普通の人間に認知できるものはこの四つであり、一般にすべての現象、つまり存在や法則はこれらによって大半が構成されているそうである。高次の元素なども存在するのだが――
 つまるところ、『御剣』という家名には、言語道断の影響力があるのである。
 事実、
「現在、この地域一体の不発弾処理を行っておりますので、ここから先は立ち入り禁止になっております。申し訳ございませんが、すみやかにお戻りください」
 内容だけ丁寧な検問の警備員は、『御剣』の名を出すと露骨に態度を改め、「どうぞ、お急ぎください」などと、畏まって道を開けた。
 そして今、白神神社の前にいる。
 一の鳥居は微かに色づき始めた木々に囲まれた広場の先にあった。標高は約八百メートルという山中は、今にも雨が溢れ出しそうな空模様と相成って、日中だというのに肌にゾクリとくる寒さがある。
 何人かの自衛隊に扮した魔術師たちが、あたふたと右往左往としていた。だが、こちらに気づいた四十過ぎの男が慌てて敬礼をしたのを皮切りに、全員の視線が注目する。
「お待たせしました。現在の状況の説明をお願いします」
 義務的な口調で真名が彼らに近づいた。俺は少し離れて待機することにする。難しい話は、実際真名が請け負っていた。
 遅れて他の隊員も、ぎこちなくだが敬礼した。
 その十八の瞳は、驚愕やら当惑やら、さまざまな感情を見せている。
 彼らは、全身を覆う対魔用の黒い戦闘防護服に全身を包み、拳銃の他にライフルまで装備している。しかし一方こちらは、在り来たりな学生服の高校生と、ジーンズと白いワイシャツという簡易な服装の女性だ。
 はっきり言ってすごいギャップではある。
 こういった武装を好む連中は、政府関連や研究施設お抱えの魔術師である。元来の魔術師――特に家名で呼称されるような者は、そんなものは必要ない。
 まして『御剣』の名を冠する者なら尚更だ。
 最初に敬礼をした最年長のような人物を除いて、他の者は俄かに信じられないのだろう。その男が説明をしている途中も恐怖や好奇心の入り混じった、ぶしつけな視線を真名や俺に注いでいた。
 打ち合わせが終了したのだろう、真名が俺に視線で合図して先に進む。
 すると若い男が真名の行く手を遮った。
「道を明けなさい」
 鋭い氷の破片を含んだ声音で真名が告げる。
「こ、こ、こんな、装備もろくにしてない素人みたいな奴等に、ま、まま、まかせられるか」
 びびって声が震えるくらいなら、虚勢なんて張るんじゃないと内心で苦笑しつつ、同情した。
 はっきり言って真名は怖い。
「バカ野郎、早く退けっ! 御剣家ってのは、火神家の分家なんだと知らんのか!」
 諌(イサ)める野太い声にも耳を貸さず、男は果敢にも真名を睨みつけた。
 退魔のために幼少から実践を重ねた者に、魔術の探求のみに勤(イソ)しむ魔術師が敵(カナ)う道理は無いと判らないようだ。
「ふふ、そうね。私の実力が知りたいのかしら? いいわ」
 優しく微笑み、緩やかに一歩を踏みだした――ように見えた直後、真名の姿は掻き消えた。
 俺でも視認が辛うじてついていけるような動きである。そいつにはまったく視覚できなかったのだろう、呆然として立ち尽くす。
 口をパクパクとさせている男の背後から、真名がそっと花を摘むように彼の首に両手を添えた。
 男は一瞬硬直したのち、「う、うわあああああああああああぁぁっ!」と、わめき散らしながらホルスターの拳銃を引き抜こうと手を伸ばした。
 他の魔術師たちに、緊張が走る。直後の銃声を予測して、しかし何もすることが出来ずに息を呑む。
 だが何も起こらない。
 冷気を含む風がさざなみのように木々を揺らす静寂だけが、辺りを支配している。
 男はピクリとも動かなくなった自分の手に視線を下げることで、事実に気づきギョッとした。
「バ、バケモノ……」
 俺が男の手を離すと、掠れた声で呟いて二歩程よろめいた。
「そういったバケモノも世の中必要なんだよ」
 バケモノを抹消する為のバケモノが。
 失いたくないのなら、誰もを守りたいと強く願うなら、力を希うならば。
 ――心に絡まった鎖がギリギリと締まる。
「大人しく、そこでお待ちなさい」
 真名と俺は、それ以上は最早無言で一の鳥居をくぐった。
「これで、こちらの行動の妨害や、干渉しようなんて気を起こさないでしょうね」
 真名が軽く肩を竦めて見せた。
 急な石段で、右手は、そのまま森に繋がっている。左手はほぼ切り取られたかのようになにもなく、その下には鳥居を左に進めば行ける人家がある。ここの神主の住まいだろう。そういえば神主の姿は見えなかったのを思い出した。臆病風を吹かせて避難しているのだろうか。
 社殿を目指しながらそんなことを思っていると、階段上にある二の鳥居から風が吹き抜ける。
 厭(イト)わしい風だ。ヌメリと生暖かくまるで生き物のようだ。総毛立つような生理的不快感を感じる。
 こんなにも辺りが静かなのは、きっと結界のせいなのだろう。
 そして俺たちはたどり着く。
 しじまに包まれ、辺りはどこまでも暗く、闇は鋭く、そこは歪んでいた。


   3/


 流れ、幾重もの線が複雑に絡まりあり、別れ、螺旋をえがきながら、それでも円環であろうとするため、軋(キシ)む。奔流でありながら留まり、消滅を繰り返しては生まれる。
 どうすれば、こんな悪意や憎悪の固まりのような結界になるのだろうか。有り得ないほど歪曲している。
 眩暈がした。
「はっ、冗談! こんないびつな結界みたことないね」
 社殿を中心として張り巡らされているらしい結界は、今は醜悪極まりなかった。
 石段を登り終え境内に出ると、それなりに開けた場所にでた。そして、最初に目にしたのがこの異質な結界である。
 内部は、そのあまりの汚濁のため窺い知れない。
「怖気づいたの? ならここで結界の修復でもやってなさい。全て私が片付けてあげる」
「うーん。無理ではないけど、そもそもこれ反転結界じゃないな。明らかに外的作用によって歪められてる」
 目の前にある物騒な結界は、反転結界とは呼べない。反転結界とは、どこかしらに綻びが生じ、そこを中心として裏返ってしまう現象だ。
「作り変えたんじゃなくて、あくまでベースを忠実に歪めているのが救いかな。でも、どれくらい時間がかかるか見当もつかない。分解は駄目なのか?」
 これを修復するとなると存外に労力が必要だと嘆息したくなったが、真名が睨むので我慢した。
「ここは直轄じゃないが、『火神』家の管轄下にあるの。可能というなら、無駄口だけじゃなく、実際に行動で示しなさい」
 真名の有無を言わせぬ調子に不承不承に従い、流れを修正しようと、数歩進んで結界の境界線に立った。
 二の鳥居をくぐってすぐに結界は張られていたので、規模は半径百メートルの円ぐらいの大きさだろうか。
 軽く撫でるように結界の活性面に触れ、より鮮明にその流れを確かめる。どうやら隔離や人体影響といった類のものではないようだ。
「中身がどうなのかまだ判らないな。どんな影響が出るかサッパリだ。道を開けるか? まあ真名なら大丈夫だろうけど……」
「そうね、お願い。私の『熾焔(シエン)』で断ち切ったら、綻びが酷くなりそうだ」
 淡々と言うと、さして気負うでもなく、無造作に腕を振るった。
 その挙動だけで意識を集め、練り上げていた。
 真名の全身に刹那の間炎が立ち込め、陽炎のように姿がゆらめく。
 そして、
 苛烈な光を発しながら、大剣――『熾焔(シエン)』が生じた。
 刀身は燃える銀を秘め、鋭く、空間を切り裂く。 
 マテリアライズの能力。内在する法則を物質として留める力。
 大剣は身の丈以上もあるが、右手で軽やかに一閃すると火の粉が踊った。
 大剣の刀身が炎を纏う。灼熱を発している。銀の光と銀の炎。
 『砕き』を本懐にするような無骨さは形ばかりで、寧ろその本質は『精緻(セイチ)な鋭さ』だ。
「行く」
 鮮烈な煌きを瞳に宿し、真名は在る。
「気をつけろよ」
 俺は結界の一部を、過負荷を与えないように分解する。
「――無粋。黙って見送りなさい」
 不敵に真名は口の端を吊り上げると、内部へと向かって疾走を始めた。



   /side真名


 私は魔力(チカラ)を開放した。
 雄叫びにも似たそれは、結界内部を蹂躙(ジュウリン)した。大気が悲鳴をあげ、罅(ヒビ)割れる。
 私は社殿に向かって一気に走り出した。
 眼前に群れをなすのは――複雑怪奇な化け物ども。有象無象のその群れは、この悪意ある結界が、低魔と人の記憶の残滓(ザンシ)を繋ぎ合わせて変異を起こした結果のようだ。
 人の想いが地脈とともに縛られていたのか?
 部品の足りない人間の成り損ない、人間と昆虫を掛け合わせたような異形、黒い人影、大きな顔の一つ目。どこかの怪奇本に出てきそうな不恰好揃い。統一性のない出来損ない。死にながらに死に蠢く姿は、否応無しの不可抗力だ。不合理の絶対強制による、混ぜ合わせの肉体の再構成(レストア)。
 ――なんて憐れを誘う姿。
 そして、
「……不自然だ」
 原因は何だ? こんなフザケタものが自然に発生するか。
 私は自身に問いかけながらも眼前の人形の化け物を大剣で一刀両断する。相手にこちらの太刀を視覚すらさせない。左右に分かたれた肢体は、けれど地面に倒れることなく、燃え尽きる。
 私の『熾焔(シエン)』は炎を生じさせる。その剣事態が斬りつけた物に炎を生じさせる起爆剤だと思えばいい。燃えるという因子を含むものなら必ず燃える。法則を物質化した剣。
 そして、燃えるという因子を相手に送り込む内在する法則を操る剣である。
 故に斬られた者は必ず燃える。
 私は、続き飛び掛ってくる蟷螂もどきの横薙ぎの鎌を低く状態を滑らせ、懐に潜りそいつの腹部を豪(ゴウ)と斬り抜ける。蟷螂もどきは上半身のみ後方に吹き飛び、そして晒された下腹部から湧き出そうとした幼生の化け物と同様に、火郡(ホムラ)に包まれて身を焼かれた。
 戦闘を続けながらも、もう一度周囲を観察する。妙な違和感がある。
 そして今も、ずっと付きまとっていた不安がある。
 ならば、徹頭徹尾でこの『熾焔』で斬り裂いてやる。
 私の道を立ち阻むならば、容赦はしない。 
「ハアァァァー」 
 弾けた。
 私は弾丸、否、風だ。疾風となり、颶風(グフウ)となって、化け物の隙間を滑走し、次々に大剣で両断していく。
 両断を免れたとしても、一太刀を浴びれば結果は等しく灰燼(カイジン)と帰していた。
 突然目の前に五メートルは越す巨躯(キョク)が出現する。
 回避は不可能。ならば力押しで押し通るのみ。
 そのまま、私は速度を緩めず相手の唸る巨腕を紙一重のギリギリで避けながら、相手の足元まで潜り込む。そして左脇ためていた大剣を、逆袈裟の形で振り抜いた。
 我が剣は、魔術を秘す。
 我が一撃は、必殺の宿業。
 何一つとして私を阻むものは無い。すべからく滅びの道を行け。
 巨躯の体に一筋の線が入った。
「散れ」
 一瞬後には、溝を穿つような深い傷となり、血飛沫を上げながら、炎に包まれた。
 ――翔ける。
 だが、私は敢えて囲まれるように敵を誘う動きを取った。
 敵を切り伏せながらも、ほぼ一箇所に留まる。
 思惑通り、上空、四方より敵が飛来する。速度では圧倒的に不利と踏んだか、物量で押し寄せてきた。全く阿呆どもだ。そんな程度で私の猛威はとまる筈が無い。
「真紅の御使い――」
 一呼吸で高速演算処理された魔術が展開する。
 私を中心に、蜘蛛の巣じみた無数の細い糸が、飛び掛る十数もの敵に絡みつく。細い細い極細の糸。だが束縛する蜘蛛の糸であると同時に導火線でもあった。
 異形どもの、動きが時間を停止したように凍りつく。
「――炎食(エンショク)しろ」
 それは大魔術に属する、凶悪無比な代物だった。
 魔術の火炎は波紋となって伝播し、捕縛した敵を断末魔すら残さず半瞬で塵と化す。
 残り五匹。
「どうした? お前たちの力はその程度か? ――なら私の糧となりなさい」
 そう、今の私は、貴方たちの上に成り立っている。
 無数の屍を超えて、全ての敵を屠(ホフ)り、それでもより高みへと目指す。
 全てに敵い、肯定するために。
――――最強を求める。
「グルルゥラアアアァァーッ!」
 私の殺気に耐えかねたムカデもどきが吼えた。圧迫から開放されたその化け物は、私を押しつぶそうと、身をくねらせ、馬の棹(サオ)立ちのように鎌首を上げる。そして空気を切り裂きながら倒れこんできた。
 衝撃が破片を散らしながら石畳を抉る。
 だが、私の姿は既に消えていた。
「つまらない」
 私はボソリと呟くと、背後からソイツを一突きした。
「グァア?」
 そして燃え散った。
 残りの異形どもは、ここに来て、ようやく散り散りになって逃げ出した。だが、結界が邪魔をして、外にでることは不可能である。
「無様」
 一匹一匹と確実に仕留め、そして無造作に私は、最後の化け物を切り伏せた。

「あっけないな」
 子供のような不満の口調が私の口をついて出た。
 私の中で冷めやらぬ熱い激情が燻(クスブ)っている
 だが取るに足りない。
 そんなものでは私は満たされないのだから。
 私は、戦闘のために荒れ果てた境内を、見回した。
 やはり、社殿だけが無傷。
 その光景は異様である。
 古く所々舗装されているが、まるで損害がない。
 今回の核心が其処にあるのだろうと、私の直感が告げていた。
 だが、
「……何だ?」
 今まで周囲を覆っていた闇がビクリと胎動した。
 消し炭となったはずの屍骸からも闇が立ち昇る。
 そして社殿に――
 闇が集う。
 わずかな光を侵食しながら、闇が一箇所に収縮する。
 あらゆる闇が集う。
 ――顕現しているの?
 私は、唖然と立ち尽くした。


 …真名(完)



   /side裕也


 法則とは大まかに二つある。まず外在する法則、これは一般の日常の法則と思ってもらっていい。次に内在する法則、結果を導きだす因子や、また通常とは違う法則で括られる目に見えない秘匿される法則である。
 高度な結界とは、この二つを精密に織り交ぜて作りだされるものである。
 故に、結界の修復というのは普通、専門の魔術師が複数人で時間をかけて紡ぎなおしていくものである。
 だが、俺は自分一人で十分事足りるのだ。だが負荷もやはりかかってしまう。
 胸中で嘆息しつつ、俺は両手を結界内部に掲げた。
 手を媒介にして行われる修正。
 臓腑を素手でつかんだような生暖かい嫌な感触だ。ドロリとした粘着質なゲルが腕を這い上がってきそうで、全身に鳥肌が立つと同時に再認識した。これは禍(マガ)った結界だと。
 今から行う作業は、『調整』である。
 御剣の『元素固着』とは少しかけ離れたこの能力。
 それもそのはず、裕也とは『御剣』の養子なのだ。
 俺は、御剣家の長男にあたるのだが実は血はまったく繋がっておらず、正当な後継者は姉であり、かつ、血を重んじるこの家にはただの養子は後継に関与することはない。
 では、何故養子にとして迎えられたのか?
 それは多分生まれながらの御剣家とはまったく相反する希少能力のせいだろう。
 それとは別にこの『観る』能力がある。
 俺の場合は、物体の存在や法則にかかわる元素の流れを看破するもので、『調整』、『分散』などに必要である。
 つまり、結界の綻びを正確に探り当て、調整しようという話である。
 繕いを始めて十数分。寡黙に、直向(ヒタム)きとは情熱が足りず言えないが、それでもわずかな疲労を感じてきた頃、ソレが起こった。
 結界内部の気の流れが豹変した。
 
「――――ッ!!」
 えもいわれぬ焦燥。
 ……いや、歓喜?
 俺は打ち震えた。
 身体(カラダ)の内で吹き荒れる感情に押し流される。眼前の結界を衝動的に破壊して、駆け出していた。
 そして――、


 揺れる木々。
 舞い散る葉。
 草木の香りと血の臭い。
 思い出すのは一面の赤い血。
 天は高く、遠く、丸く、けれど黄昏はすぐ側に。

 そして、
 揺らぐ景色。

 少女が空間を裂いて現出した。

 細い四肢に絡まった鎖と枷、数々の赤黒い拘束具に全身を覆い、頭は魔力を帯びた呪付帯で巻かれている。そしてどれもが最大級の魔術封印を施してある。唯一、金の髪だけが水に浸っているかのようにユラユラと広がっていた。
 禍々しい呪法、残虐な束縛、漆黒の王女。
 だが、
 ――その呪われた姿に心奪われた。

 ドックン!
 ドックン!
 ドックン!
 ドックン!

 鼓動が鳴り響いた。ただただ、少女に魅入られてしまう。
 鳴り響く。
 止まらない。
 脈打つ、荒れ狂い、逆しまに暗転する。

 世界が閉じた。

 真名が何か言った気がしたが、聞こえない。今や全ては二人だけのために巡る。それが在るべき姿。真意、真実、真理、どれだって一緒だ。永劫とも永遠ともつかない世界で、二人して朽ち果てるまで一緒にいよう。切に願う。想いが掠める。会いたかった。こんなにも貴方に会いたかった。何千何万何億回貴方に会いたいと思ったことか。言葉だけじゃ足りない、ココロだけじゃ足りない、カラダだけじゃ足りない。渇きにも似た想い。渇望し羨望し切望し欲望する。だけど足りない。もっともっと貴方が欲しい。貴方に会えたことを驚喜し狂喜し狂気しよう。貴方は私だ。私は貴方だ。貴方は貴方で、私は私。必要十分、可逆反応、意味的等号。
 何秒間、それとも何年間、或いは永遠に永遠を重ねたくらい、繋がったのだろう。
 言葉は要らない、ココロも要らない、カラダも要らない。そんなものは必要すらない。それ以前に、それ以上に、繋がり交じり合っているのだから。
 だが渦巻く想いの片隅で、俺は疑問に思う。
 全くの疑問の余地すらない、圧倒的な感情の奔流の前で俺はそれでも疑問に思う。理屈を超えた直情的な感情を前にして、疑問を挟む。
 これは、誰の感情だ……と。
「裕也ッ! ボウとするなッ!」
 真名の厳しい声で我に返る。決して長くはない時間、俺は少女と同調、或いは共鳴とも言うべき異質な体験をしていたのだろうか?
「まだ何かあるぞっ!」
 真名の怒声が轟(トドロ)いた。
 そう、魔術師の常識すら超えた新たな異変の兆しがもたげていた。
 闇がモゾリと身じろぐ。
「何が起こっている……?」
 俺は掠れた声を搾り出した。
 思考が状況についていけない。目の前の少女を救い出せねばならないというのに。彼女の顔を人目見たい。触れ合いたい。彼女を失うのは嫌だ。
 ……疑問。
 先程から自分の脳が暴走しかけている。何だというのだ。判らない。冷静になりやがれ。
 だが、それでも状況は悪化の一途を辿っていた。

 闇が増殖する。
 空気が凍る。
 息苦しい。
 胸が痞(ツカ)える。
 気持ち悪い。

「ふふ、私たち二人で正解だったわね」
 こいつは大物だ、と真名が心底嬉しそうに呟く。
 微かに口元を手で覆うが、可笑しさを隠しきれないといった感じだ。
 本当だ。少女からは何かしらの気配がある。まるで胎児が成長するような。
 脳の芯がチリチリと焼ける。
 駄目だ、本当に気持ち悪い。拒否反応って言ってもいいぐらいに、頭がぐらぐらする。
 何かを思い出しそうで、思い出せない。焦燥する。
 怯えにも似た静寂が辺りを支配する。
 時間が氷結し、鼓動だけが高まる。
 そして急速に渦巻くようにして、幾重にも邪悪な流れが絡み合って生じる存在。
 悪寒! 背筋に高圧電流を流されたかのようにそれに感電する。吐き気を催す圧倒的な殺意。ああ、知っている。でも……
 戸惑う。ありえない。
 戦慄が走る。
「ケ、モ……ノ?」
 叫んだつもりだった。だが喉に堰(セキ)が出来たように上手く声が出せない。
 少女の腹から、這いずるように黒く霞んだ狼は生まれた。
 すべてを焼き尽くすような眼光。
 世界を見下すように、静かに狂気を孕んでそこに在るのだった。


  4/


 心に付随して体も麻痺していた。
 認識が追いつけない。ただ胸中で畏(オソ)れの呻き上げた。
 全身が吸い込まれそうな闇の狼。外に向かうのではく裡(ウチ)に向かう闇だ。中心へと吹き込む黒い瘴気(ショウキ)を纏っている。だが明滅を繰り返すように、存在がボヤけていた。
 ソレはしなやかに地上に着地し――しかし、大量に湧きこぼれるヘドロじみた何かが、足元に腐敗を撒き散らしていた。
 石畳が酸を浴びたように煙を上げる。
 少女は未だ空中で、呪われた姿のまま、束縛され続けている。
 早く、……早く彼女を助けなくては。
 自分でも何故そんな風に想うのかは判らない。ただ焦せりが体の内部を沸騰させる。
 だがそれでも、足は竦んでいた。
 鋭利な恐怖が全身を包む。
「…………」
 言葉をうまく紡げない。
 眼前の異容は、本当に『ケモノ』のなのか?
 世界――神に弓引くような殺意。その姿を『観』ても、法則が読めない。まるで――別次元の生物。
 その在り様は、まさに『ケモノ』。
 思い出す。
 一面の赤い海を。
 ――動けない。
 硬直したままの脳に、瞳が眼前の映像だけを伝えている。
 真名が駆け出したのが見えた。一瞬だけ真名の鋭い視線が自分に注がれるのを感じる。だがその十分の一秒にも満たない間で、真名へと弾丸のように、跳躍するケモノの体躯が迫っていた。
 真名は、寸前のところで身を捻り、躱(カワ)す。
 距離は直線にしてまだ二十メートルはあったというのに、一足飛びだった。
 石畳が抉れている。
 真名は、捻った勢いを殺さずそのまま半回転すると、無理矢理慣性を無視するような動きで、体勢を立て直していた。
 ケモノは勢いを殺さず、背後にいる俺へと疾走している。真名もすぐ後を追っていた。
 視神経を伝わる意味をなさない情報。
「裕也あああっ!」
「――ッ!!」
 真名の一喝に、呪縛が解けた。
 ケモノが俺に突っ込んでくる。咄嗟(トッサ)に両掌(リョウショウ)で受け止めたが、紙よりも容易く体を貫通しかねない腹部の衝撃に、後方へと吹っ飛んだ。そして、もつれたまま鳥居を通り抜け、階段を落ちる。
 石段に一度衝突し、激しくバウンドする。回転する視界。
「――痛(ツウ)ッ!」
 肺が圧迫され息が詰まった瞬間、ケモノの牙が喉元を狙っていた。
 上下感覚などないまま、本能的に右拳を相手の暗い口腔(コウコウ)に殴りこませた。
 チクショウッ!
 ――己を律することが出来ず、何が退魔師だッ!
 心に活を入れ、そして全神経を掌(テノヒラ)に集中させる。
 滾(タギ)るように熱く――。
 ――ハッ! 喰らいやがれ!
 だが、こちらが力を解放する一瞬、再度、地面に激突した。
 タイミングがずれる。
 僅かな間隙に、肩や腿(モモ)に食い込んでいた四肢に力が入り、そしてケモノの跳躍。
 俺も受身を取りつつ、両手を軸に跳ね起きる。そして四秒あまりに浮遊が、ようやく終わりを告げた。
「……ハァハァ」
 酸素を求める肺に空気を送り込むと、遅れて体の至る所が痛んだ。右腕の先から血が溢れている。数度、指先に力を込めて、握り開(ヒラキ)を繰り返した。
 激痛に眉をしかめたものの、――良し、大丈夫。
 ここから、仕切りなおしだ。
 ケモノと対峙する。
 しかし緊迫の只中、狼狽(ロウバイ)して口々に叫んでいる奴らがいた。神主の要請によって派遣された魔術師たち。まだ一の鳥居の前で待機していたのだろう、だが、今はそれが非常に拙(マズ)い。
 ――チイィィッ!
 内心で舌を鳴らす。
「逃げろッ!」
 警告の声を上げるだけで、視線は真正面から外さない。油断は出来ない。一瞬の気の緩みが、致命傷へと繋がる。
 恐怖が体に付加をかける。
 だが、逃げない。今度こそ逃げてたまるか。
 誰も殺させない。
 すり足で重心を低く移動させて、相手を見据える。
 そして一歩を踏み出そうとしたとき、だが視界の端に小さな人影を捕らえた。すぐさま大きくなるその姿は、――真名ッ!
 石段の頂上から、真名がケモノに飛び込んできた。
 腕を顔の前で交差させ、背筋を丸め、膝を折る形で、風を裂きながら、飛来する。
 ――大剣を一文字に薙いだ。
 こちらに注意が向かっていたケモノだが、ギリギリのところで素早く跳ねて避ける。
 真名は、片手両足での低い姿勢の着地で、衝撃を滑りながら摩擦で逃し、間髪おかずケモノへと駆け出した。反動をつけ、胴体を流すことなく一直線に、ケモノに肉薄する。
 短く一閃、二閃、そして三閃。その全てが外れる。やはり運動能力は相手のほうが数段上か。だが容易に反撃されないのは間合いの差。だったら!
 合図をしたわけではなく、真名が大降りの一撃を振り下ろした。
 だがケモノはこれも苦もなく躱(カワ)す。今度は真名の生じた隙を逃がさず、ケモノが喉笛を喰い千切ろうと牙を剥き出しにして跳ぶ。
 姿勢を崩した真名には避けられない。
 だが避ける必要はない。ケモノの注意を真名が引き付けたのは――。
 真名の背後から俺が踊り出る。
 このためだ!
「吹き飛べ」
 俺は氷晶のような冷たい声で、ケモノに手刀を喰らわせた。
 渾身の力を込めた一撃。ケモノは石段に痛烈に叩きつけられた。
 痛烈、そう痛烈だ。鋼ですら、千切れ飛ぶくらいの。
 だがケモノはゆっくりと立ち上がる。その純粋なる殺意をいっそう膨らませて。
 ケモノに外傷は見当たらない。
 石段がガラガラと音を立てて崩れていく。
 受肉した法則に近いのか?
 その時、
「総員、撃てーッ!」
 号令が響いた。
 そして鼓膜を突く銃声と銃から漏れる発射炎(マズルフラッシュ)
 銀でアルミを覆った高速弾が、ケモノに集中砲火される。
 魔術文字(ルーン)を施された弾丸を惜しげもなく、連射している。
 だが、ある確信を持って俺たちはケモノに追撃を仕掛けようと走り出していた。
 数瞬後、最後の薬莢(ヤッキョウ)が地面に落ちて乾いた音を立てた。
「はん、し、死にやがれよ。ここ、こけおどしがッ!」
 真名に情けない啖呵(タンカ)を切っていた奴が、震える声で、だが勝利を信じて叫んでいた。
 バカッ! 人の忠告聞きやがれッ!
 ――ケモノが動く。
 黒い塊の疾駆。
 間に合わない。
 ――ダメだッ! 死ぬなッ!
「逃げろっていってんだよッ!」
 血を吐くような叫びも無意味。位置関係が拙い。ほぼケモノを支点として扇形のように開いていた。
 さらに魔術師たちの銃声が木霊す。
 だが照準が合うはずがない。視認できない相手に闇雲に撃っても、それは同士討ちに繋がってしまう。
 ケモノが烈と、その男と交錯した。
 半瞬して、栓(セン)を無くした首から、血が噴水のように飛び散る。
 クソッ!!
 さらに半瞬、次の獲物へとケモノが襲い掛かる。
 合わせて一瞬、だが辛うじて、真名と俺は間に合った。
 俺がケモノの攻撃を受け、真名が斬りかかる。
 自身に巡らせた魔術により強化された左腕を盾にして、ケモノの牙を防ぐ。肉に深く食い込むと同時に、真名の『熾焔』がケモノの胴を両断した。
 二つに分かれたケモノは、衝撃によって地面に落ちる。腕に突き刺さっていた牙から開放されたが、肉ごと削ぎ取られた。
 苦悶(クモン)の声を抑えつつ、状況を確認する。
 終わった?
 だが、真名の『熾焔』に斬られても燃えていない?
 ――その切り口がゾワリと蠢動(シュンドウ)した。
 無数の触手が伸びたかと思うと、二つは結びつき、グロテクスな再生を見せる。
 唖然とする。
 だが、真名は笑っていた。戦闘に対する愉悦を抑えきれずに、全身の高揚を隠そうとしていない。
「裕也、私が引き付けるから、お得意の技で貴方がアレをしとめなさい」
 言葉少なく真名が告げる。
 俺が真名に答えようした時、予想外に魔術詠唱が聞こえた。
「ケテル(王冠)、コクマ(知恵)、ビナ(知性)、ケセド(善)、ゲブラ(力)、ティフェレト(栄光)、ニサ(勝利)、ホド(名誉)、イェソド(基盤)、マルクト(王国)」
 見れば、隊長と思(オボ)しき男が、ただ一人、残っていた。見栄か一矢報いたいのか、だが、それは――、
「天がしろしめす軍勢よ。気高き天馬の蹄(ヒヅメ)を鳴らせ。轟雷(ゴウライ)を放て。旋風となりて、我の前に姿を顕現(ケンゲン)せよ。我は汝らを召還する者なり。我は命ず。急々(キュウキュウ)にして、我に仇名す愚者を斬奸(ザンカン)せよ」
 魔術の演算が遅い。しかも、西洋の流派の一つだと思われるが、基本に忠実でまるで洗練されないない。
 ――そんなものは無駄だ。
 真空の刃がケモノを八方からケモノを襲うが、表皮すら切り裂けずに霧散した。
 ――それを戦闘再開の狼煙とし、真名が疾走を始める。
 見惚れるような身のこなし。
 ケモノの溶鉱炉のような爛(ラン)とした眼が一段と見開かれた。
 「早く退(ヒ)け」と、隊長に告げて、観察を開始する。
 二人とも目で追うのがやっとの攻防を繰り返している。
 まったく化け物どもめ。
 だが目の前にいるのが、あのケモノなら、真名の大剣でしとめるのは至難だろう。
 ギリっと奥歯を噛む。
 一面の夥(オビダタ)しい赤い血の中で誰も救えなかった――――、
 あの頃とは違う!
 目の前にいるのは曖昧な存在。法則とも肉体ともつかない流れをしている。
 この世のものは全てが波。法則と存在とは、即ち波が重なり合った流れ。
「だがそんなことは関係ない」
 如何(イカ)な存在だろうが。
 真名とケモノの攻防は尚も続く。真名は強い。だがそれ以上にケモノは速い。
 傷つかないケモノとわずかながらも傷ついていく真名。
 真名は脚をやられたのか、グラリとよろめく。
 そして再び真名に隙が生じた。
 だが血しぶきを上げたのはケモノ。
 真名の左の手元に鋭く閃く何か――ナイフが握られていた。
「バカね。同じ手に二度も引っかかるなんて」
 真名の呟きがハッキリと聞こえた。ああ、きっと真名は愉しそうに笑っているのだろう。
 そして生じる絶好の機会。
 この世のものは全てが波。法則と存在とは、即ち波が重なり合った流れ。
 その流れに道を作る。ケモノへと続く無音の道。
 そして俺は動く。自身にさえ、認識がかろうじて着いていけるような音速の動き。
 文字通り一瞬でケモノへと間合いを詰める。そして、
「消えろ!」
 
 腕に捉えたケモノに意思を叩きつける。
 ケモノがビクンと体を大きく仰け反らせる。
 これが『御剣』家と相反する元素分解(アナリシス)の能力。
 どんな法則だろうが存在だろうが関係ない。

――――全ての力に否定を与える、力。
    ただ分解する。

 だが、
「痛!」
 はじかれる腕。
 シンと右腕に、針を神経に通したような痛みが走る。
 それから焼けるような感覚。外傷は何処にもない。だが、しばらく動かせそうにない。
 意志で防がれたのか?
 為損じたという事実に、困ったなと、一言漏らす。今度は易々と捉えることはできないだろう。
 ケモノは、暗雲に響く唸(ウナ)り声を上げる。
 殺戮本能。
 そこのケモノは、それだけで構成されていても疑わない。
 再び距離を置き対峙する。
「まったく、一撃でしとめろとは言わないけど、せめてもう少し弱らせろ」
「悪い」
「接近戦では、足手まといだ。援護に専念しろ。隙を見てもう一度アレをやれ」
「了解。――悠長に話してる暇はなさそうだな」
 ケモノがその四肢を屈める。肉食獣が獲物に襲い掛かるような低い姿勢。
 殺意が空気を凍結させる。
 そして――――、

 四散した。
  花弁(カベン)として舞う肉片と、大地を濡らす鮮血。
   かくも華麗なる残酷。

「……え?」
 呆気にとられる。
 ……ケモノは内側からの圧力に耐えかねたように破裂したのだ。
 やがてはサラサラと儚き砂の如く風化していった。
 残されたのは静寂。
 しかし場違いな笑い声が、それを切り裂く。
「カッカッカッカ。低質な影よ。こんなものにてこずるとわの。お主ら、気合が足りとらん証拠じゃ」
「D(ディー)、そんなに強く言うものではありません。相手はケモノなんですよ」
 ゆっくりと闇から滲み出るように現れたのは青年と……、
 本?
「何だ、お前たちは?」
 不機嫌そうに真名が呟く。目前の絶好の相手を奪われたからだろう。
「我か? 我はDとでも呼べばいい。こいつは、そうじゃな、九番目の創造師というところだな」
「また貴方はそんなことを」
 しかし青年は訂正する気はないらしく、肩を竦めてみせた。
 黒いロングコートに黒い手袋、黒い髪。何処までも深い黒の瞳は深遠と呼べばいいのだろうか? そして全身が黒尽くめでいながら、くっきりと浮ぶ存在感。
 その肩の辺りを漂う本は、多分、魔導書と呼ばれる類だろうが、言語を駆使する本なんて聞いたことがない。ページを開けた状態が口を開いているのと同じだ。ご丁寧に牙まで生え揃っている。
「そうそう、今のケモノ見た目以上に、かなり弱ってましたよ。倒せるのも時間の問題だったでしょう」
 横にいる真名は、いっそう相手を睨みつける。
 だったらなんで倒したんだと、その目が語っていた。つまりは、目の前にいる青年か本はそう言う性格なんだろう。
 遠まわしに、こちらを挑発している。
「ここにはアノ娘を回収しに来たのじゃがな。折角、彼奴(キャツ)らから開放してやっとというのに、こんな辺鄙な山奥に顕現しおってからに。なに呆けた顔をしとる。今も社に佇むアノ娘はお前を待っとるぞ」
「なっ!」
 俺は思わずうめく。あの少女の話を切り出せるとは思っていなかった。
「まったく、余計なことばかりを」
 一つ息を吐くと真名は相手をその目で射抜く。
「だがな。私の勘だと――、
 お前たちは敵よ!」
 言うと同時に疾駆する。
 間合いを詰めるのは、まばたきにも満たない。
 躊躇(チュウチョ)せず青年に剣を薙ぐ。美事(ミゴト)な一撃。
 俺なら確実に殺されていた。
「まったく、物騒ですね」
「どっちがだ」
 穏やかに微笑を浮かべながら青年は掌で『熾焔』を防いでいた。剣と掌の間には薄く輝く青い靄(モヤ)が流れている。
「三つ質問だ。答えろ。まずは二つ。はいか、いいえかでかまない。
 まずお前たちが現れたのは必然か?
 そしてケモノと少女には繋がりがあるのか?」
「核心にせまる質問をしますね、まあ、答えなくてもわかるでしょ?」
 青年の言葉に真名は一つ頷く。
 真名も確認のための質問らしく、もともとそれ以上情報が引き出せるとも思っていなかったようだ。
 そうでなければ、陳腐で、しかし重要な疑問を口に出していただろう。
「最後に」
 真名は俺の横までフワリと跳び距離をとる。
「また会える?」
 そう言って剣を突きつける動作をする。
 一瞬青年はきょとんとしたあと可笑しそうにクスクスとわらった。
「はい、もちろん。今度会うとき真っ向から敵かもしれないですよ」
「助けてもらった礼がまだだった。ありがとう、おかげで手間が省けたわ」
 真名は、そう言うと大剣を消失させ、臨戦体制を解除する。
「そっちの君、なにか言いたそうですね。あのコは貴方に任せます。でももうコレ以上は生憎ですが答えることはできません。真実は――
 自分でたどり着いてこそ価値があるもの。そうでしょ?」
 ニッコリと、だが不敵に笑うと、青年は穏やかな歩調で、踵を返す。
 最後に「あのコを大切に」と言い残して、本ともども消えていった。
「まったく中途半端、この上ないわね」
 確かにそうだ。謎ばかりだ。
 だが、そんな意識とは裏腹に、いや無意識に、俺は社へと衝動的に、走り出していた。
 胸が痛む。
 高鳴る。
 会いたい、会いたい、会いたい。
 貴方に会いたいッ!
 一秒でも早く。
 一秒でも長く。
 一秒でも永遠に。
 そして、少女の前に――自分の真実に辿り着く。
 ケモノと出現と同時に意味を成さなくなった結界の中、やはり呪われた姿のまま虚空に停止している。
 金色の髪だけが、空(クウ)という水面に揺れていた。
 ――嗚呼、もう離さない。
 その少女は、顔を覆った呪布帯の下で、微笑んだ気がした。

2004/05/07(Fri)03:13:15 公開 /
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■作者からのメッセージ
現在着合い入れて書いている作品の一つです。渾身の一撃です。これが精一杯です。ファンタジー入っています。
ようやくひと段落?です。当初、ここまでが、長めの序章でした。さすがに長すぎると想って、分けましたが(汗

バニラダヌキさん、いつも感想ありがとうございます。本当に嬉しいです。最後まで引っ張れるよう努力したいです(汗
メイルマンさん、オープニングとどう繋がるか、楽しみにしていただけると嬉しい限りです。(期待はずれにならないよう頑張ります)
白雪苺さん、アップダウンというか、ちょっと確かに文章がごちゃごちゃしている気がしています。ちょっとまだまだ苦手みたいです。流しというか、さっと読める箇所。重要でない部分と、強調したい部分。そうでなければ、全体が窮屈になってしまいますね。ですが頑張りますッ! いや、もう頑張るしかないです。
オレンジさん。場面転換なんですが、それはもう資質の問題かも・・・。どういった感じが自然になるか考えて追求していきたいと想います。
明太子さん、キャラの書き分けがなってないとのことですが、それはこちらの構成の段階での落ち度です。もっと早い段階(日常パートとか)に真名を出すべきだったかもしれません。裕也の戦闘シーンという比較対照がまずなかったのも痛いですね。書き分けがはっきりできるように努力します。(真名パートあんまり出ないのですが)
雫さん、感想ありがとうございます。そのように言ってくださるととても励みになります。不自然に感じたところがあれば、いつでも書き込んでいただけると嬉しいです。
yagiさん、誤字脱字ごめんなさい。自分、本当に多いです。(猛反省はしているのですが) これからも読んでいただけると幸いです。


TAMAさん、感想ありがとうございます。感謝です(涙、全部に書き込んでいただけるなんて思ってませんでした)すでに読むでくださった方に影響でない程度に最初書き直しました。(Oの着けたし)自分でも年齢、わからねーよ! とか思ってしまいました。(反省)
有さん 最後までお付き合いしてくださると書いていただけて本当に嬉しいです。
戦闘シーンなどたくさんこれから出てきますが、力不足なところも多々あります。それでも全力を尽くしていきたいです。


卍丸さん。オレンジさん感想ありがとうございました。作者の痛恨のミスがあったこと深くお詫びします。また反省していますので、どうかこれからも読んでやってください。
神夜さん。これからもフルスイングでいきますので暖かく見守ってやってください。(空振りもありますでしょうが)

戦闘シーンおわーたーッ!! 嬉しいです。書いてて楽しいですが、難しいです。というか実力勝負となりそうなので、ホントにダメダメになりそうで。
やっぱり感想などをいただけると動力源となって嬉しいです。どのようなものでも、かまいませんのでお願いします(ペコリ)。一話だけ読まれて飽きたかたでも、飽きた理由を書いてくれるとホントに嬉しいです。問題点の指摘などがあると改善に励みますので。
また楽しんでいただけるように努力します。

誤字脱字多くてごめんなさい。見つけ次第訂正していきます。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。