『冬の精霊』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:ねこ
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石畳の道、古いアパートメントや不景気そうな顔をした商店や飲み屋が軒を並べたその先に、その広場はあった。
広場の中央には昔々、町の共同井戸があって、水汲みや洗濯、炊事などで町の女達が集まっては井戸端会議に花を咲かせていた。
水道が配備されると、井戸の跡にはこの町の立役者の銅像と噴水が出来た。
昔からの住民はもっと静かな環境のいい町を求めて去っていき、いつのまにかこの町は薄汚れて、移民や貧しい人々が住む町になった。
銅像も錆びてぼろぼろになり、噴水の水も出ず今はただの池になったけれど、相変わらずこの広場には人々が集っている。
昼間は子供たちの遊び場、夜は夜の女たちの仕事場、朝は酔っ払いと浮浪者の仮眠所として。
その旅人がこの町に来るのは一年ぶりだった。
広場は去年と同じ、いやその前の年、更に前の年と変わらず、薄汚れて、うらびれていた。
旅人はあまりこの町が好きではない。
昔は好きだったのだけれど。
早く南へ、次の町へ、行こう…
そう思ってきびすを返そうとしたその時、少女が泣いているのを見つけた。
まだ十歳にもならないだろう、七歳かそこらに見える。
その少女は、旅人が昔この町で恋した女性によく似た面影をしていた。
あの女性(ひと)は高貴で美しく、この少女は薄汚れていたけれど、同じとび色の巻き毛と緑の目をして、同じようにこの広場で涙をためている。
旅人はため息をつくと、もう少しこの町の滞在が長引くことを予感した。
――― × × × × × × × × × × × × ―――
ひっく…ひっく…
少女は大きな緑の目から涙がこぼれるたびに、乱暴にスゥエットのトレーナーの袖でごしごしとこすって、必死に涙を隠そうとしていた。
大人になったらどんなドレスよりも彼女を飾ってくれるに違いないとび色の巻き毛は、くしゃくしゃに乱れて、背中にたれていた。
汚れてぼろぼろになったバッグ。
スニーカーの紐はほどけている。
よく見ると、デニムのパンツは元々よく履き込んでいるらしく色落ちして裾もほつれてはいたけれど、転んだらしく泥がついて汚れていた。
「にゃおん」
少女の足元にどこからともなく現れた大きな猫が擦り寄った。
雪白の毛足の長い、青い瞳の、堂々とした猫だった。
「ねこちゃん……」
少女は泣き顔を猫に見せまいと、慌てて更にごしごしと袖でこすると、まだ震えている声で話しかけた。
少女がそっと手を伸ばすと、猫はまるで挨拶をするように彼女の顔を首をかしげて見つめて、少女にされるがままに抱き上げられると、優しくざらざらの熱い舌で、少女の涙の跡で汚れた顔を舐めた。
猫は抱きしめると暖かかった。
暖かい毛皮のぬくもりをそっと抱いていると、少女の悲しかった気持ちが少しづつだけれど、ほぐされていった。
「さ、お家に帰らなくっちゃ。
遅くなるとママンが心配するから。」
少女は名残惜しそうに猫を石畳に下ろすと、池の水で顔をバシャバシャと洗って、服とかばんについた汚れをパンパンと小さな手ではたいて落とした。
「じゃあね、ねこちゃん」
「にゃお〜ん」
少女は猫に手を振り笑顔を見せた。
笑うと可愛らしいえくぼがふたつ、少女の頬に浮かぶ。
そして少女は歩き始めた。
ところが、猫もとことこ小走りで少女に並んで付いて来る。
道の角まで来て、少女は困ってしまって、しゃがみこんで猫に話しかけた。
「ねこちゃん、迷子になっちゃうよ。
ついてきちゃダメ。
お家にお帰り。ね?」
「にゃおん」
そして少女が歩き始めると、猫はまた後を付いて来る。
少女は困ってしまった。
「ねこちゃん。め。」
「にゃおう」
何度か繰り返して、少女は諦めた。
なにがなんでもこの猫は自分の後を付いて来る気らしい。
「ねこちゃん、おうちがないの?
迷子なの?」
「にゃおうん」
猫はお座りをすると、少女を見つめてまるでうなずくように鳴く。
そんなこんなを繰り返すうちに、とうとう少女は自分と母親が暮らすアパルトマンの前に着いてしまった。
「しょうがないなあ。
ママンに聞いてあげるね」
少女は他の人に見つからないように猫を抱いて、肩から斜めがけしている大きなバッグをずらして猫を隠すと、一気に四階まで階段を駆け上がり、自分たちの部屋の玄関のドアの前まで走って行き、ドアを開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
狭いアパルトマンの部屋は、玄関を入ってすぐリビング兼食堂になっていて、そこに少女の母親はいたので、すぐに母親は気が付いた。
「アンジェ…それ、どうしたの?」
少女が答えるより先に、猫はぽんと少女の腕から飛び降りると、お行儀よく少女の足元にお座りをして、長い尻尾を一回だけ振って、首をかしげて母親を見つめた。
「今日、学校の帰りに、広場からこのねこちゃんがついてきちゃったの」
「そう」
「迷子になるからだめだっていったんだけど、ついてきちゃったの」
「困ったわね」
母親は猫も気になったが、少女の様子を見て、またいじめられたのだろうかと思い、ため息をついた。
「いらっしゃい」
母親は娘を優しく抱きしめて、頬にキスをした。
少女も母親の頬にキスをする。
猫は先程の場所におとなしくお座りしたままだ。
「おいで」
母親が呼ぶと猫はゆっくりと母親の足元に来てお座りした。
「慣れてるわね。
首輪はないけど、きっと飼い猫ね。
すごく立派な猫だもの。
毛並みもつやつやだし、野良猫じゃないわね。」
「迷子かな?」
「そうかもしれないわね。
いいわ。
後でママンが仕事に行く時にでも、広場に張り紙をしてくるから。
飼い主から連絡があるまで、置いてあげましょう。」
「ありがとう」
娘の顔がぱっと輝くのを見て、母親は微笑んだ。
「その代わり、世話はあなたがしなきゃだめよ」
「はい」
「さ、お風呂に入って、着替えなさい。
それから夕食にしましょう。」
少女がバスルームに去った後、母親は猫を見ながら迷い猫の張り紙を書いた。
母親は、あの少女の母親というには若く見える。
それもそのはず、母親はまだ若かったのだ。
母親は昔、バレリーナだった。
まだ少女の頃に恋をして、恋に破れて、恋の遺児である娘を抱えて、いくつかの町を流れ歩きながら、二人きりで暮らしてきた。
学歴も保証人もいない彼女が子供を抱えて食べていくには、夜の仕事しかない。
彼女は酔っ払った男たちを相手に踊る踊り子だった。
――ただいつまでこの仕事が出来るかどうか。
娘のアンジェが学校でいじめられているのも、父親がいないからだけでなく、自分の仕事のせいかもしれない。
娘にはきちんとした教育と環境を与えたくて、隣町の住宅街の小学校へ行かせたのだけれど、その結果がいじめなら、私の選択は間違っていたのかもしれない。――
ふっと膝に暖かい重みを感じて母親は物思いから引き戻された。
いつの間にか猫が彼女の膝に乗っていた。
「ふふふ、迷子さん。
お家の人が心配して探してるわよ?」
――私の親も心配しているだろうか?
妊娠して親に大反対されて家出した。
少女が生まれる前に男には捨てられた。
私にとっての天使という意味で娘にはアンジェリクと名づけた。
あれから恋もせず、生きるために、娘を育てるために、必死に頑張ってがむしゃらに生きてきた。
でも、それで、娘は幸せなのだろうか?
私も幸せなのだろうか?
親には一度も連絡を取っていないけれど、あの人たちも心配しているのだろうか……――
「ママン、ママンも入る?」
娘の声で母親は我に返った。
お風呂に娘と入るのは母親の喜びのひとつだった。
娘の体には心配していたあざはなかった。
「アンジェ、元気がないわね」
「……」
母親に心配をかけまいとして、少女はいつもいじめられたことを隠そうとする。
でも、こうして裸同士でお風呂に入って母親に抱っこされていると、ぽつり、ぽつりと少女は口を開く。
「ミッシェルがね、お前にはパパンがいないっていうけど、お前のパパンはきっと悪魔だっていうの。
緑の目はね、魔女のしるしなんだって。」
母親はぎゅっと娘を抱きしめた。
「お前のママンも緑の目だから、ママンも魔女だ、お前は悪魔と魔女の子で魔女なのに、天使の名前の魔女だなんておかしいって……」
母親は娘に優しくキスをして更に強く抱きしめた。
「ミッシェルにはママンがいないの。
だから、ミッシェルは私のママンがきれいで優しいから、やきもちやいてるんだって言ってやったの。
そうしたら、ミッシェルが私のこと突き飛ばしたの。」
ぽろぽろと大粒の涙が少女の緑の瞳からあふれて、少女は母親にぎゅっとしがみついてしゃくりあげて泣きはじめた。
母親は優しく少女の背中をあやすように手でなでながら、ため息をついた。
確かに娘の言う通り、それがミッシェルが娘をいじめた原因なのだろう。
だからといって、それを相手に突きつけてしまえば、相手は傷ついて凶暴化する。
真実を突かれると人は傷つくということを、娘にどう教えればいいのだろう?
娘は、口数は少ないのに、妙に人の心理を突くような鋭いところがあった。
幼い娘のこんな性質は、自分がこの子にさせている生活の苦労からだろうか。
「アンジェ、私の天使……。
魔女なんかじゃないわ。」
「にゃおん」
「あら?ねこちゃん?」
いつの間にか猫がバスルームに入ってきて、バスタブのふちに前足をかけて、のぞいていた。
「珍しいわね、猫は水が嫌いなのに」
「一人で待ってるのが寂しかったのかな?」
娘も自分が仕事に行っている間、一人で寂しいのだろう。
娘の何気ないその言葉に、母親の胸はぎゅっと締め付けられるような気がした。
娘は泣くだけ泣いたら、すっきりしたようで、大分元気になったようだった。
それに今夜はあの猫がいる。
猫は娘の慰めになるだろう。
それにしても不思議な猫だった。
妙にお行儀がよく人に懐いている。
どう見ても血統書つきの飼い猫だ。
迷い猫なら自分の家に帰りたがりそうなものなのに、すっかり居座ってしまって出て行こうとはしない。
このまま飼い主が見つからなければ、娘のためにも飼ってやりたいけれど、飼い主だって心配していることだろう。
「猫、お前、アンジェを頼むわね。」
「にゃおん」
「ふふふ、この子ったら、人の言葉がわかるみたい。」
食事の後、疲れたのかすぐ眠ってしまった娘を置いて、母親は仕事に出かけた。
母親の勤め先は広場の先のキャバレーだった。
行きがけに、昼間とは打って変わってにぎやかな広場の外灯に、先程作った迷い猫の張り紙を貼る。
猫やその飼い主のために早く飼い主が見つかればいい、でも娘のために飼い主がこのまま見つからないでいて欲しい気もする。
我ながら自分勝手だと母親は苦笑する。
それにしても今晩は急に風が冷えてきた。
そろそろ、コートをださなくっちゃ。
娘は今年の夏は急に背が伸びたから、新しくコートを新調しなければならないだろう。
少しでも多くチップをもらえるように頑張って踊らなければ。
――― × × × × × × × × × × × × ―――
母親は、猫にざらざらしたしめった舌で顔をなめられて、目が覚めた。
娘はもう学校に行っているはずだ。
娘は一人で起きて朝食をとって、学校へ行く。
入学したての時は、母親が起きて、仕度して見送っていたものだけれど、一ヶ月も持たなかった。
自分のだらしなさ、こんな生活をしなければならない母娘のわびしさが、胸に罪悪感のしこりとなって、いつも母親の寝起きは憂鬱に始まる。
電話が鳴っていた。
電話を取ると穏やかな男の声が流れてきた。
「あの…張り紙をみたんですが。
うちの猫かもしれないと思いまして。」
探している猫かどうか、確認のため会う約束をして電話を切った。
女所帯だから、この部屋で会うリスクを避けるため、夕方に広場で会う約束をした。
飼い主が見つかって、この猫が引き取られていくと、娘も寂しくなるだろう。
かわいそうに…
このアパルトマンは表向きペットは禁止になっているけれど、おとなしければ誰も文句は言わないだろう。
現に小型の犬や猫と暮らしている住民も数名いたはずだ。
娘が望むなら、猫を飼ってもいい。
犬でもいいけれど、ほえるかどうかが心配だし、やはり猫がいいだろう。
「にゃおん」
猫が冷蔵庫の前に座ってこちらを見て鳴いた。
「お腹が減ったのね」
冷蔵庫からミルクを出して皿にそそいで猫に与える。
猫はミルクを平らげると、満足そうに顔を洗った。
「ただいま」
アンジェが頬をばら色に染めて、ドアから飛び込んできた。
いつもより一時間近くも早い。
猫のことが気になって、急いで帰ってきたのだろう。
「おかえりなさい」
いつもの挨拶の母親へのキスもおざなりにして、アンジェは猫のもとへすっ飛んでいった。
「ねこちゃん、ただいま!元気にしてた?」
「にゃお〜ん」
猫はアンジェに抱き上げられて、甘えてアンジェの顔をぺろぺろ舐めて挨拶する。
母親は娘にどう告げたらいいか悩んで眉をしかめた。
「ねこちゃんの飼い主、見つかった?」
心配そうにアンジェは猫を抱いたまま母親に聞いた。
「それがね、さっき電話があったの」
「そう……」
「その人の探している猫かどうか確かめてもらうために、夕方に広場で会うことにしたの」
「ねこちゃんもお家の人と会いたいよね。
私もママンと離れ離れになったら嫌だもん。」
「アンジェ……」
「ねえ、ママン、私も一緒に広場に行くね」
夕方、母娘は猫を連れて、広場に行った。
猫にリードをつけるか、籠に入れなければならないかと悩んだが、猫はそんな心配をよそに、抱きかかえるアンジェの手を離れて、ちょこちょことおとなしく、母娘に並んで歩いて付いて来た。
広場の水の出ない噴水の周りに並んだベンチに腰掛けていると、向こうから、三十台半ばくらいの男性が七歳くらいの少年の手を引いてやってきた。
アンジェが急に立ち上がってつぶやいた。
「ミッシェル?」
少年もびっくりしたような目をして「アンジェ……」とつぶやくと慌てて父親の背中に隠れた。
どうやらこの少年がいつも娘をいじめるミッシェルだと母親は気が付いた。
「デュヴィヴィエさん?
はじめまして。
お電話差し上げた、レイモン・サヴィニャックです。
これは息子のミッシェルです。」
母親は立ち上がって差し伸べられた手を握って握手する。
アンジェは少しおびえたように後ずさった。
「はじめまして、ムッシュウ。
エレーヌ・マリー・デュヴィヴィエです。
娘のアンジェリクです。」
「どうやら息子とお嬢さんは既に知り合いのようですね。」
「ええ」
「息子がよくアンジェちゃんの話をするんですよ。
同じクラスに緑の大きな目をした名前通り天使みたいなきれいな女の子がいるって。
美しきエレーヌ(有名なオペラの題、エレーネはフランス語で女神の名前)と天使(アンジェはフランス語の天使)のお嬢さん。」
アンジェはあっけにとられてぽかんとこの父子を見ていたが、父親が伸ばした手にされるがまま握手をした。
いじめっこのミッシェルはどうかといえば父親の背中に隠れたままだ。
どうやらこのいたずら坊主は父親の前ではおとなしい内弁慶のようだ。
少し意地悪な気分になって、母親はこの少年を見つめた。
「はじめまして、ミッシェル君。
昨日もうちのアンジェと“仲良く”してくれたみたいね。」
ミッシェルはこれ以上赤くなるのは無理なほど真っ赤になった。
父親はなにか息子の様子から察したのか怪訝な顔をした。
「にゃおん」
「ブラン!」
ミッシェルが飛び上がって猫を抱き上げた。
「ああ、この猫がその猫ですね」
「ええ」
「間違いありません、うちのブランです」
アンジェは真っ青になって母親の手をぎゅっと握り締めて、猫を抱きしめて喜んでいるミッシェルを見つめた。
母親はアンジェの様子に気が付いて、優しく手を握り返した。
そんな母娘の様子に気がついたのか、ミッシェルの父親が優しく微笑んでアンジェに話しかけた。
「アンジェちゃん、ブランを可愛がってくれてどうもありがとう」
「はい……」
「よかったら、時々はブランを訪ねてきてくれないか?」
アンジェは『勿論!』と言いたかった。
でも、いじめっこのミッシェルの猫だったなんて……。
ほら、返事をしなくちゃ。
ミッシェルのパパンが変な顔をして見ている。
アンジェは困ってしまって母親の顔を見上げた。
「ミッシェル、お前もお礼を言いなさい」
「アンジェ、ありがとう。
ブランのこと、ほんとに、本当に、どうもありがとう」
ミッシェルはうれしくてたまらないと言った様子で、赤い頬のまま、何度もお礼を言った。
――そんなに悪い子じゃないのかもしれない――
アンジェの母親はそう思った。
別れ際、ミッシェルの父親はアンジェの母親にそっといった。
「改めてお電話します」
冬の早い夕暮れが、二組の片親の親子のそれぞれ手を繋いで違う方向へ歩いていく姿を照らして、長い影を作った。
片方は父親と少年と猫。
もう片方は母親と少女。
お互い家につく頃には日は落ちているだろう。
――― × × × × × × × × × × × × ―――
アンジェは泣きながら眠ったようだった。
深夜に帰宅した母親は、娘の涙の跡で汚れた寝顔を見つめて、優しくキスをして、目覚ましをセットして、翌朝は早起きして、娘のために朝食を作って、学校へ送り出した。
夕べは二時間も眠っていない。
一眠りしようとベットに入ろうとした途端、電話がなった。
こんな朝っぱらから誰だろう?
少し腹をたてながら電話に出た。
「アロー」
「アロー、マダム・デュヴィヴィエ?
レイモン・サヴィニャックです」
誰だったろう?
考えていると苦笑するように相手が言った。
「ミッシェルの父親です」
「ああ、ムッシュー」
「朝早くから申し訳ありません。」
「いえ…」
「昨日はありがとうございました。」
ご丁寧に昨日のお礼を電話してきたのだろうか。
「昨日、息子と話をしました。」
「はあ」
「ミッシェルとお宅のお嬢さんの様子がおかしかったものですから。」
ああ、そのこと。
ミッシェルの父親はどうやらしっかり息子を見ているらしい。
「今日、よろしかったら、ご一緒に昼食でもいかがでしょうか?
食事をしながらお話でも。」
いい加減寝不足だったが、アンジェのためにも一度はきちんと子供たちのことを話しておいたほうがいいだろう。
そう思って母親は、ミッシェルの父親と会う約束をした。
待ち合わせは、町の広場近くのビストロだった。
時間より五分前には着いたのだが、既にミッシェルの父親は待っていた。
「マダム!」
アンジェの母親を見つけると大きく手を振って呼ぶので、アンジェの母親は少し恥ずかしくなった。
「どうも申し訳ありませんでした」
いきなりミッシェルの父親は頭を下げた。
昨日の子供たちの様子が変だと気が付いた父親は、家に帰ってから、息子を問いただしたらしい。
「家ではいつも、お嬢さんの話ばかりしているので、きっと息子はお嬢さんのことを好きなんだと思っていました。」
「ええ、そうかもしれませんわね」
「好きだからいじめてしまうのかなぁ。
だからといっていじめられるほうはたまりませんね。」
「ええ」
「お父さんがいないといっていじめるとは……
あれも母親がいないというのに。
なさけないことです。」
父親は大きなため息をついて首を振った。
「そういえば、いつだか、アンジェちゃんには若くてきれいで優しいお母さんがいて、いつもアンジェちゃんが学校から帰ってくると家にいて迎えてくれるんだと羨ましそうに言ってましたっけ。
ウチは家族は息子と私だけなので、昼間いつも息子は一人ぼっちで。
嫉妬したんでしょうね。
いや、全く、だからといって、お嬢さんにそんなことをして許されるわけではない……
お恥ずかしい限りです。
本当に申し訳ありません。」
「いえ、あの…」
ミッシェルの父親に頭を下げられて素直に謝られて、母親は少しびっくりして、もっと強く言ってもいいくらいだったのに、言えなくなってしまった。
「息子にはきつく、私から話をしておきました。
二度とお嬢さんをいじめたりからかったりしないようにきつく言っておきました。
もし今後、なにかあったら、すぐ、私に電話してください。
お願いします。」
「はぁ…」
「これが私の仕事場の電話番号です」
「あ、はい…」
「よろしかったら今度の週末、うちへお嬢さんと夕食にでもいらしてくださいませんか。
ブランもお嬢さんにすっかり懐いていたようですし、ミッシェルもその、お嬢さんのことを嫌いでいじめてるのではなくて、好きなんだそうです。
ですから、どうかお詫びをかねて。」
「いえ、あの」
「ああ、大丈夫です、こう見えても私は料理が趣味でして。
男所帯でむさくるしいかもしれませんが、美味しい食事を用意しますので。」
「いえ、その」
押しが強いミッシェルの父親にすっかり押し切られてしまって、アンジェの母親は週末、サヴィニャック家へ夕食に訪ねる約束をさせられてしまった。
でも、アンジェのためにも、そのほうがいいのかもしれないとは母親は思う。
どうやらミッシェルはアンジェが好きなのだ。
小さな男の子にはありがちだけれど、好きだからついいじめてしまうのだろう。
そして、母親がいないミッシェルはアンジェに母親がいるので嫉妬したらしい。
父親もきちんとした人のようだし、ミッシェルも陰湿ないじめをしたわけではないのだから……
これをきっかけにアンジェとミッシェルが仲良くなってくれればいい。
「にゃおん」
「ブラン?!ブランじゃないか。
全く、いつのまにまた抜け出したんだ?」
窓の外にはあの猫がいて、こちらを見ていた。
アンジェの母親にはブランがウィンクしたように見えた。
『寝不足だわ…帰って少しは休まなくちゃ』
――― × × × × × × × × × × × × ―――
旅人はそろそろ次の町へ旅出つことにした。
この町には予定より長居してしまった。
でもきっとこれで、あの少女はもう一人で泣くことはない。
美しかったあの人の面影がある少女。
あの母親ももしかしたら、あの父親と……
あの父親はすっかり一目ぼれしたようだし。
父親が優しく暖かい人物だと言うことは、旅人は夕べ一晩一緒に過ごしてよくわかったので、そのことは心配していなかった。
あの母親の故郷に立ち寄ったら、両親に娘と孫娘のことを伝えてやろう。
旅人は仮そめの二晩なじんだ体に別れを告げて、ブランの心をそっとくすぐって起こすと、ゆっくりと空を漂って、上空からもう一度町を眺めてから、別れを告げた。
また、来年まで……さらば。
その夜、町に初雪が降った。
2003/11/07(Fri)19:03:38 公開 /
ねこ
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ねこさん
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■作者からのメッセージ
現代FTというか、大人の御伽噺です。
ちょっと長いのですが、読んでいただけたらうれしいです。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。