『にんべん』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:辻原国彦                

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 いつの頃からか、私は「にんべん」が怖い。
 漢字の部首のひとつである「にんべん」である。いつからだったのか、正確には思い出せない。しかし、その症状が出るようになって、思いがけない支障が生活に出るようになった。
 まず、新聞が読めなくなってしまった。紙面がすべて「にんべん」で埋め尽くされているわけではないと言うことぐらいはわかっているが、あの小さな文字を読み進めているうちに、いつか「にんべん」を目にするのが怖いのだ。
 会社での書類作業も苦痛をともなう。一字一句を正確に読めなくなり、大事な書類であるにもかかわらず飛ばし読みをするようになった。今目にしている文字の次に「にんべん」が現れるのではないかと怖い。
 もしも「にんべん」を目にしてしまうと、脂汗が大量に噴き出し、口の中がからからに乾く。足に力が入らなくなり、がたがたと震えだす。その後、目の奥で何かが弾け、耐え難い頭痛が頭を占拠するのだ。そして、意識が遠のいていく。
 最近は、夢にまで「にんべん」が現れるようになった。紙に印刷されているだけの薄っぺらいはずの文字が、血の通った生物の様になって私の周りをぐるぐると飛び回るのだ。

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その夢は毎晩続き、私は極度の不眠症に陥った。
私が日に日に痩せ衰えてその姿を見て、妻も最初の内は心配してくれたが、そのうち気にもかけなくなった。
やがて、妻が用意する料理の味もわからなくなり、会話も徐々に減っていった。すべては、私が「にんべん」を恐れるようになってからだと思う。しかし、その始まりはどうも曖昧で、その原因もわからない。
「にんべん」は、直立する人間を横から見た姿を表したものだという。しかし、街中で見かける人間の姿を横から見ても、それに恐怖心は抱かない。私は、「にんべん」だけが怖いのだ。
私は、どうやら「にんべん」恐怖症のようだ。
恐怖症というものは、それを恐れるようになった原因が解明できれば治まると聞いたことがある。幾度か思い出そうとして細い記憶の糸を手繰ってみたものの、一向に答えは見つからなかった。
「にんべん」が怖い。そんなことを打ち明けられるわけもなく、私は今日も会社に出かける。朝刊も読まずに家を出て、通勤電車の中でもうつむいたまま。見上げれば、中吊り広告が目に飛び込んでくる。どこに「にんべん」が潜んでいるかわからない。それは、会社の書類も同じことだ。もうこれ以上、「にんべん」は一切目にしたくない。
今日は、幸運にも「にんべん」をまだ一度も目にしていない。少し軽い気持ちでうつむいたまま、視界をできるだけ狭めるようにして家路を辿る。できれば妻に土産のひとつでも買って帰ってやろうかと思いもしたが、どこに「にんべん」が隠れているかわからない。街に氾濫する看板。土産の包装紙。どこに「にんべん」が・・・・・・
夜の八時を過ぎた頃、私はようやく家に帰り着いた。家の中には、すでに「にんべん」は存在しない。新聞は一週間前に解約したし、妻にはできるだけ週刊誌の類を買わないように言ってある。私も、少ないながら所持していた文庫本を処分した。
いつもと違い、家の電気は消えていた。ドアを開け、靴を脱いで廊下を歩く。家の中は真っ暗だった。リビングに入り、壁のスイッチを探して電気を点ける。
そこには、梁から垂らしたロープで首を吊っている妻がいた。ゆっくりと回転している妻が横を向いたとき、私は「にんべん」を見た。
だらしなく垂れた舌。俯き加減の頭。まっすぐに硬直した四肢。それはまさしく「にんべん」だった。
脂汗が額から噴き出す。口の中がからからに渇く。
吊り下がった妻がゆっくり一周し、再び「にんべん」になる。
目の奥で何かが弾け、私はその場にくずれおちた。
床に映った妻の影が「にんべん」になる。
そうか、私が恐れていたものは、これだったのか。
ロープに吊り下げられた「にんべん」は、頭上でくるくると回り続けた。何度も何度も、「にんべん」は床の上に現れ、そして消える。また現れ、消える。
私は「にんべん」が怖い。いや、「にんべん」が怖かった。
どうしようもなく「にんべん」が怖かったのだ。
 了

2003/10/17(Fri)02:29:51 公開 / 辻原国彦
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■作者からのメッセージ
今回のテーマは「恐怖症」です。
なにが恐怖の対象になるかは、本当にわからないものです。

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