『IN LOVE AGAIN』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:鳥野栖                

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 僅かにだが、右足が痙攣を起こした。後頭部は鈍器で殴られたように鈍い痛みを反芻している。付随したように頬に軽い痛みが走る。体は重く、既に自分自身の上半身を起こすことすらできない。

 重く閉ざされた瞼をゆっくりと持ち上げた。そして少年は全てを悟った。

(おれ、このまま死ぬんだ。きっと)

 視界が段々とぼやけていくのを感じ、史朗(しろう)はなんとなくそう思った。視線を横にそらすと、そこには一面に血の絨毯が広がっている。それは、彼の推論をより一層確かなものにした。こんなにも血が出ているのだ。助かる筈がない。

「浸ってるとこ悪ィけど、……鼻血じゃ人間死なねェと思う、フツー」

「へ?」

 聞き慣れた悪友・夏川(なつかわ)の声に、史朗は思わず上半身を起こした。大量の出血に見えたそれも、起き上がってみればなるほどただの鼻血で、大した量でもないことが分かった。学生服の袖で軽く鼻をなぞると、既に固まり始めた血が付着する。

「ほら、なんともねェだろ。どうでもいいけど、さっさと片したほうがいいぞ」

「何を?」

 状況が分からず思わず問い返す。と、夏川は頭に手を当てると、わざとらしく、はあ、とため息を付いた。柔らかいヘーゼルの髪が僅かに揺れる。

「血。染み付いたら、拭き取るの大変だろ」

「なあ、おれさ、どうして鼻血出してこんなとこに倒れてたんだっけ」

 こんな所というのは、史朗にとっては見慣れた県立S(自分の)高校の二年A組の(自分の)教室だ。規則正しく並べられた机の、一番近くのそれは、間違いなく史朗自身のものだった。机の側面に油性マジックで書かれた落書き――今時の少女特有の妙にひしゃげた文字で<しろ→Cだいすき? ナナ>と書かれている――からも、それは間違っていない。ちなみに、それは「しろーちゃんだいすき」と読むらしいが、史朗自身は解読不能の暗号だと思っていた。

 夏川は史朗の問いには答えなかった。変わりに彼の口が何か吐き捨てるように歪んだ。
  ばか、そう言われたのだと史朗は思った。自分が罵られる理由も分からず憮然としていると、夏川は呟く。奈奈(なな)ちゃんが可哀相だ。そう聞こえた。

 ふっと奈奈の、低く押し殺した声が脳裏に浮かんだ。

『……史朗なんかもう知らない。絶交だかんね』

 胸に蘇る苦い思い。奈奈はその言葉の直前に、思い切り平手で史朗の頬を叩いた。そして、教室から走り去った。その後、机の足を思い切り蹴り上げ、バランスを崩し倒れこんで……。

「やっと思い出したか」

夏川は呆れ顔で吐き捨てた。「で、何回目の絶交なんだ」言われ、史朗は徐に胸ポケットに入っていた手帳を取り出す。

「あー……と、ちょっと待てよ。……正の字が一、二、三…………と。お、すげー、丁度五十回目だ。付き合い始めたのは中二の今頃だから大体三年ちょいだろ、……ざっと二十日に一回絶交してる計算になるな」

「すげェ、じゃないだろ。お前がそんなだから、奈奈ちゃんが愛想尽かすんだ」

「悪いのは全部おれだって言うのか?」

「あァ、そうだよ。全部お前が悪ィ、そうに決まってる」

「やけに奈奈の肩持つんだな」

「まァ、なりゆきとはいえ、彼女はオレの恩人だからな。一つや二つ願い事くらい叶えてやろうって思ったんだが……。お前がソレじゃ、なァ」

「何言ってるんだよ、夏川」

 振り返り、史朗は夏川をまじまじと見つめた。「変なこと聞いていいか」史朗が言うと、夏川は口の端を上げる。「どうぞ」余裕のある笑みだった。

「お前、誰だ?」







「どうしたの、鈴木(すずき)くん。気分でも悪い?」

 ふわり、と空気が和らいだ。柔らかい、花の香りが辺りに充ちる。懐かしい、史朗は思った。よくは覚えていなかったけれど、何時か何処かで嗅いだことのある香りだった。

 いつのまにか蹲ってしまっていたらしい。身を起こし振り返ると、そこには見覚えのある少女の大きな瞳が、史朗を見つめていた。

「あれ、奈奈?」

 けれど。どこかおかしい。どこがおかしいのかは、すぐには思い出せなかった。

「え、……と、そう、だけど…………やっぱり変だよ、どうしたの?」

 奈奈は眉を寄せ、小さく首を傾げた。艶のある肩までの髪が、さらさらと風になびく。

 そこで史朗は何がおかしいのかを完全に理解した。目の前に立っていたのは確かに奈奈だった。それは間違いない。ただし、そこにいたのは現在の奈奈ではなく、中学生時代の奈奈らしい。面影がどことなく幼いだけではない。ノーメイクなのだ。深緑のセーラー襟がはたはたと揺れていた。

 更に言えば、そこはついさっきまでの教室ではなかった。中学の、裏庭だった。俄かに信じられず、目を見張る。

「ねぇ、やっぱり何かおかしいよ?」

 奈奈は史朗を覗き込むように一歩近づいた。彼の鼻腔を再び花の蜜の香がくすぐる。

 少し、胸の辺りがこそばゆくなる。

「あ、いや、ごめん、奈……安孫子(あびこ)。ちょっと寝ぼけてたみたいだ」

「変なの。今日も授業中寝てばっかりだったのに、まだ寝足りないの?」

 白い八重歯を見せて笑う奈奈。今の状況に疑問が残らなかったわけではない。けれど史朗は場違いにも、久々に見る奈奈の笑顔に見惚れていた。

「えと、安孫子はさ、何してんの?」

「ん? あ、花壇の手入れ。急に先生に頼まれちゃって、緑化委員だから」

 制服汚れるのは分かってるんだけどね、今日体育無かったからジャージ持ってなくって。言い訳するようにそう続けた彼女のセーラー服の袖口は、よく見ると赤土が少し付いていた。軍手を付けた右手にはスコップを持っている。

 『今』の奈奈だったら、間違いなくサボっていただろう。まず百発百中こう言うのだ。えー、花壇の手入れなんか、めんどくさーい。爪や服が汚れるからイヤ、史朗ちゃんがナナの変わりにやって。いとも簡単に想像できてしまった自分に、史朗はため息を付いて肩を下ろし、その場にしゃがみこもうとした時のことだった。

「あ、だめ。座っちゃ!」

 訳も分からず中腰のまま固まる史朗をよそ目に、奈奈はあきらかにほっとした顔でよかった、と独りごちた。何が何だか分からず硬直し続ける史朗に、彼女は噴き出し笑い出す。肩を震わせ腹まで抱えひとしきり笑ったあと、ごめんね、と付け足すように言った。鈴木くん、変なポーズで固まるんだもん。まだ幼さの残る頬に、ぷくりとえくぼが浮かんだ。

「どうしてここで座っちゃいけなかったんだ?」

「リコリスが植えてあるから。潰したりしたら可哀相でしょう」

「は、りこりす? って、何?」

「お花。彼岸花の仲間なの。今はまだ蕾だけど、あと十日もすれば、綺麗な赤の花が咲くんだから」

「ヒガンバナぁ? 縁起悪いだけじゃん、そんなの」

「そうかなぁ、わたしは結構すきなんだけどな。蜜の匂い、甘くていい感じなんだよ。わたしが今付けてるトワレもね、リコリスの蜜の匂いがするんだ。イン・ラブ・アゲインって名前なの」

「トワレ? ああ、香水のことか」

 道理でいい匂いがすると思った。呟くように言うと、奈奈はそうでしょ、と言った。

 正確には香水じゃないんだよ、これ。オー・ド・トワレはね、香水(パルファン)より匂いの元が少ししか入ってなくて、アルコールでたぷたぷに薄めてあるの。もっと薄いのはオー・デ・コロンっていうんだよ。ヨーロッパなんかだとね、コロンは十六歳を過ぎた女のコは使わないんだよ。もともとコロンは気付け薬みたいな役割で使われたものだから、大人の女性はパルファンを使うの。もっとも、日本ではいかにも香水って香りは嫌われるから、大人でもトワレやコロンを使ってる人も多いんだけどね。

 奈奈は次から次へと香水について話し始める。嫌な感じはなかった。ただ、彼女はよっぽどフレグランスが好きなんだな、と新鮮に思う。付き合って三年も経つのに、史朗は奈奈がそのことを知らなかった。逢う度に香るトワレの匂いも、化粧の一貫程度にしか思っていなかった。

(おれは今まで、奈奈の何を見ていたんだろう)

 考えた途端、ふっと体が軽くなった。







「どーしたの、史朗ちゃん。さっきからナナの話聞いてないでしょ」

 腕に軽い重みと温もりを感じ斜め三十度下を見ると、そこには奈奈が居た。史朗の腕に自分の腕を絡め、不機嫌そうに上目使いで口を窄める奈奈、それは先ほどまでの彼女とは違う。栗色に脱色したソバージュヘアに、すらりとした足の映えるミニスカートの改造制服――セーラー服ではなく、高校の紺のブレザーだった。マスカラを塗った睫に、グロスの乗った唇……。限り無く現実の奈奈に近い。しかし、史朗の知る奈奈は、ブロンドのストレートヘアだ。

「奈奈、なのか?」

「何言ってんの、史朗ちゃん? やっぱ、変! 絶対変だよー」

「や、何でもない。ちょっと寝ぼけてたみたいだ」

「あやしい……」

 奈奈は史朗をじと目で睨つけた。しかしすぐに飽きたようで、甘えるように体重を預けてくる。グレープフルーツに似た香りがした。

「奈奈、新しい香水買ったのか?」

「違うよ、これ、前にもつけたことあるじゃん。イン・ラブ・アゲインってヤツ」

「え、でも前と違う匂いだぞ。前はもっと花みたいな匂いで……確かリコリスの蜜の匂いなんだろ」

 時を経ていたならばともかく、史朗にとってはたった数分前の出来事だ。嗅ぎ間違えるはずがない。

 戸惑う史朗に、奈奈は微笑みながら言う。

「史朗ちゃん、知らないの? フレグランスはどんどん香りが変わっていくんだよ」

 つけてから最初の五分から十分くらいに香るのがトップノート。よーするに香りの第一印象なの。大体、サワヤカーな感じのが多いかな。んで、一時間後くらいのがミドルノート。香水本来の香りで、甘いお花の匂いとかが多いかな。史朗ちゃんが覚えてたのが多分これだよ。あと、二、三時間後くらいの匂いはラストノートって言うの。んー、ムスクとかアンバーとかそういう匂いが多いかなぁ。

「本当に、好きなんだな。香水の話」

「うん。だいすき。でも、一番すきなのは史朗ちゃんだけどね」

 史朗ちゃんの幸せはナナの幸せ。ナナ、史朗ちゃんがずっとそばにいてくれるなら、それ以上嬉しいことなんてないよ……。

 楽しそうに話す奈奈を横目に、史朗は思った。

(トップノートが第一印象、ミドルノートが一番良いとき……か。だとしたら奈奈とおれの『今』はもう、ラストノート(苦い別れ)しか残ってないのか?)

 再び、意識が遠のく。







 見慣れた教室の中だった。

 そこにはブロンドの髪を振り乱し、泣き腫らした目の奈奈と、『自分』が居る。

 今までとは違い、史朗は他人のように二人の言い争いを見る位置にいた。

「だーかーらー、本当に違うんだって。こないだ一緒に居たのは、耕(こう)太(た)のカノジョ。耕太の誕生日プレゼント選びに付き合わされただけで、誤解されるようなことは何にもしてないって」

(本当に誤解なんだ。奈奈との待ち合わせ場所に行く途中で捕まって、振り切れなかっただけで)

「もういいよ、……言い訳なんか聞き飽きた」

「言い訳なんかじゃねーって。おい、聞けよ」

(お願いだ、奈奈。聞いてくれ)

 『史朗』が奈奈の腕を掴むと、彼女はイヤイヤをするように大きく首を横に振った。

「それがホントだったとしても、ナナとの約束ドタキャンしてまですること?」

「それは……」

(どうしても振り切れなかったのはおれが悪い。だけど……)

「ほら、何も言えないんじゃん。史朗っていっつもそう、都合が悪くなるとすぐ誤解だ誤解だって」

「……んだよ、それ」

(だけど、聞いて欲しいんだ。おれの話を)

「今度は逆ギレ?」

 呆れるように、吐き捨てるように奈奈は肩を竦めた。

「もういい。……信じてくれないなら、全部終わるだけだ」

(そうじゃないと、このまま俺たち終わっちまう!)

 奈奈は目を伏せ、感情の籠らない能面のような笑みを浮かべた。

(まだ好きなんだ、奈奈のこと。こんなことがないと気づけなかった自分が、情けなくてたまらないけど。でも、このまま終わらせたくなんか無いんだ。おれだってずっと奈奈と一緒に居たいんだ)

 史朗が必死に叫んでも、言葉は奈奈には届かない。奈奈に見えるのは、ふて腐れたようにそっぽを向く『史朗』だけだ。

「そっか、オシマイなんだ。よくわかった」

 奈奈は『史朗』に平手打ちをした後、そのまま出口まで一直線に進み、教室の引き戸のところでもう一度振り返った。

「史朗なんかもう知らない。絶交だかんね。……二度とナナに話しかけないで」

(奈奈が好きだ! 過去の幻の奈奈じゃない、今の、本当の(・・・)奈奈に逢いたい! 逢って本当の思いを伝えたい!)







 気がつくと、史朗は教室に一人倒れていた。

 上半身を起こす、と小さな血の水たまりが出来ていた。鼻血は完全には乾ききっていない。木床をなぞると、人差し指の先が紅く染まった。奈奈が去ってから、まだ時間はあまり経っていないらしい。 今までのことが夢なのか現実なのか、それはもうどうだってよかった。

 史朗はすぐに立ち上がると、教室を出て走りだした。

 奈奈にもう一度、好きだと伝えるために。







 誰も居なくなった教室に、リコリスの花が一輪落ちていた。









《IN LOVE AGAIN》

1998年2月、イヴサンローランより1年間だけ限定発売されたオードトワレ。
発売時の定価は9500円/100ml。しかし、最近になり人気は再燃。

特にネットオークションでは高値を付けることも。

甘いフルーティな香りは、現在同ブランドより発売中のベビードールに通じるものがある。

ちなみにこのトワレに使用されているリコリスの花言葉は「追想」。

「IN LOVE AGAIN=再び恋をする」の名をもつに相応しい、

切ない香りを持ったフレグランスである。


2003/08/20(Wed)19:18:40 公開 / 鳥野栖
http://s1.buttobi.net/sumikano_oheya_t/index.htm
■この作品の著作権は鳥野栖さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 はじめまして。鳥野と申します。
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 香水が好きな方もそうでない方も、興味を持っていただけたら幸いです。

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