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明けましておめでとうございます。 ……濃密ですね。 たった今見た夢のような、理由の判然としない、しかし明らかな必然の世界に、畏れも安らぎも感じました。 いえ、狸は今日から仕事なのですが、とろとろとなにか夢を見たと思ったら目が冴えてしまい、今、起き出したところなのです。でも今日は昼からの遅番なので無問題――いや、私事失礼。 漱石先生や百鬼園先生ばりの、夢を模した心象世界の成文化に、きっちり成功していると思います。いいものを読ませていただきました。 | |||
バニラダヌキ | |||
>バニラダヌキさま 明けましてアケオメでございます。本年もよろしくアケオメ申し上げます。 いやー「濃密」とおっしゃってくださってほっと安心しました。書いてみて「どうも薄いなあ」と思い、何度も手直ししていたのです。なかなかしっくりこなくて…。 まさにおっしゃる通り、漱石先生や百關謳カのひそみに倣って、不調法ながら挑戦してみたのでありました。お褒めいただいて恐縮です。 | |||
中村ケイタロウ | |||
拝読しました。明けましておめでとうございます。猫ですにゃん。 これは夢なのかな。それとも夢じゃないのかな。解らないですが、多分夢なのでしょう。暗いなかで、自分と他人が隔たっているような感じがなんだか切なくて良いと思います。 私もここに行きたい。物語の中に行きたい。でもちょっと怖いような気もする。でも行ってしまえば、きっと苦にならないに違いない。そんな気がします。 | |||
水芭蕉猫 | |||
>水芭蕉猫さま あけましておめでとうございます。にゃんにゃかにゃん。 そうですね、この小説自体は夢に似た何かですが、この小説の中の世界は現実なのかもしれません。我々が夢で経験する諸々が、夢の中では現実であるのと同じように。…って、よく分かんないですけど。 この物語の中へは、僕は正直あんまり行ってみたくないです(笑)。怖い方が勝ってしまいます。 コメントと点数、いただきましてありがとうございました。それから、実ははこれ、去年の夏のいつぞやに水芭蕉猫さんがここに投稿なさった掌編(「浜辺」でしたっけ…?)に刺激されて構想したものでありました。その点についてもお礼申し上げます。 | |||
中村ケイタロウ | |||
明けました。おめでとうございます。まんまと新年一番乗りを掠め取って行った浅田ですw 何というか、私は正直この手の作品は読むのも書くのも苦手なんであんまり深い感想は言えないのですが、読んでいてとても不思議な印象が残る話でした。舞台そのものがどこか判然としなくて、出てくる人々も存在そのものがあやふやで、確かにそこにあるのに触れれば消えてなくなってしまいそうな、そんなイメージでした。 話のジャンルも純文学にもホラーにもファンタジーにも見える。個人的にはホラーちっくな感じがしましたが(こう、「あの子」の肩に触れた瞬間、腐り落ちたかのように肩が崩れ…みたいな) それでは、最後になりましたが今年ものんびりまったりよろしくお願いしますノシ | |||
浅田明守 | |||
>浅田明守さま (ひそひそ…一番乗りということは…今年の夏祭りのイケニエは…ひそひそ…) …い、いえなんでもありません。 あけましておめでとうございます。 ご感想ありがとうございます。そうですね、ホラーの雰囲気はあると思いますよ。僕は書いててけっこう怖かったです。ただ、なんていうか僕は、ジャンルというのは書くほうが決めるものではなくて、読んだ人や、小説を解説したり紹介したりする人々が決めるだと思うんです。ですのでまあ僕としてはジャンルというのは決めなくてもいいかなと。 ではでは、今年もよろしくお願いします熨斗 | |||
中村ケイタロウ | |||
読ませていただきました。 何度も読んで、時間も数日置いてみましたが、うまく感想を伝えられそうにありません。 でも、この作品を読めて本当によかったです。口に出して読んでみても素敵で、しあわせな文章でした。物語っていいな、ってしみじみ思いました。 こんな感想でごめんなさい。 | |||
夢幻花 彩 | |||
>夢幻花 彩さま どうも恐れ入ります。 文章としては「こんなもんかなあ」「いやもっと練ることができるはず」「でもこれが今の限界かなあ」と迷いつつ出したものだったので、そこまでおっしゃっていただいてなんだか申し訳ない気もします。そして「素敵でしあわせ」というご感想にはちょっとだけ意表を突かれました。いや、「意図とは違う」ということではありません。もちろんそういう側面を持った物語でもあるのですが。 読んでくださってありがとうございました。 | |||
中村ケイタロウ | |||
こんにちは。 これはまた時代がかった……というのが初めの感想でした。 そして読み進んでいくと、何なのでしょう、お盆に帰ってきた先祖の霊か何かでしょうか。これは夜に読むものではないですね。びくびく、ぞくぞくしながら読んでいました。というのがぼくの感想です。いえ、感想にすらなっていないかもしれませんが。 すみません、もうひとつ。ぼくは右左の概念をすぐにイメージできないほうなので、冒頭の「右手には青い闇に沈んだ庭があった。左側は……」の様子を頭に思い描くのに時間がかかってしまいました。左右を指定する必要はなかったのでは、とも思います(しょうもないことですみません)。 では次回作も期待しています。 | |||
ゆうら 佑 | |||
>ゆうら佑さま おお、こんにちは。お久しぶりです。 いやいやそんなに時代がかってなんかいませ……いますか…いますかね…。でもまあ田舎に行けばこういうお庭とかお座敷というのはまだまだあるわけで…。でもそういう問題ではないですか…。うん…。 そ、そんなに怖かったですか。必ずしもホラーを意図したというわけではなかったのですが。でもお盆に帰ってきた祖霊という解釈もいいですね。たしかに彼らの目線はこんな風かもしれない。 左右は必要だったかというお話ですが、うーむ。右と左ってそんなにイメージしにくいですか。 確かに、右が左でも左が右でも物語には何も影響しないんですよね。「片側」「反対側」でもいいのですが、なんとなく生硬な感じがするし、一方が主で一方が従という印象になっちゃうし…とか…境界領域としての縁側の象徴性をクリアにしたかったとか…とか…むにゃむにゃ…。 ただ、ただですね、右と左というのは完全に対等で交換可能なものとも限らないとも思うのです。舞台の上手と下手とか、絵巻物を紐解くときの方向とか、右と左には何かの流れや動きを暗示するようなシンボリズムも含まれています。僕としては、僕の脳内に最初にあった視覚的イメージ(と、そこに含まれているかもしれない無意識的な象徴性)を重んじたいなあとも思うんです…とかいう理屈も少々言い訳がましいですね…。んー、いや、ちょっと真面目に考えてみます。 ご感想ありがとうございます。感謝します。 | |||
中村ケイタロウ | |||
そういえばこうしてお話(?)するのは何年ぶりかですね……。 すみません、前回の補足です。冒頭についてあのようなことを書いたのは、左右ってリクツの概念ですから、この作品にはそぐわないのでは、とも思ったからです。また、主体がまだ明らかになっていない冒頭で「右」「左」と言われると、余計に混乱してしまいます。 失礼しました。 | |||
ゆうら 佑 | |||
>ゆうら 佑さま いやいやどうも。補足、再補足、二度レス三度レスは大歓迎というのが僕の姿勢です。反論いただけてうれしいです。運営サイドにとっては容量的にどうなのか分からないけど。 >左右ってリクツの概念ですから、この作品にはそぐわない どうなんでしょう。僕にとっては理屈の概念という感じがしません。むしろ左右って直観的っていうか身体的じゃないですか? 「お箸を持つ方が右」ってよく子供に言うじゃないですか。逆に、左右という概念を理屈で説明・定義するのはかなり難しいことだし。 >また、主体がまだ明らかになっていない冒頭で「右」「左」と言われると、余計に混乱してしまいます。 これは小説論的に興味深い見解だとは思うのですが、僕の立場は違います。会話であれ文章であれ、言葉が存在している以上、言葉を発した主体(=語り手)は必ず存在します。ましてや「左右」というのは必ず主体(=視点)の存在を必要とする概念です。この文章の最初の一文字である「右」という字が発せられた瞬間に、主体の存在は100%明示されていると僕は考えます。 たしかにいきなりな感じがするかもしれませんが、この文章には唐突な始まりが必要なのです。「気がつくと私は、薄暗い日本家屋の中にいたのだった」みたいな文章では絶対に始めたくなかったのです。日常的経験に依拠した「私」の存在を所与の前提としたそんな書き方ではドッチラケ(古い)です。 いやそもそも、「左」「右」で混乱するというのが僕には不思議なんだけどなあ。だって「右も左も分からない」という慣用句もあるくらいじゃないですか。あれって「左右の区別は人間にとって最も基本的な認識である」という通念が前提になってるのでは? | |||
中村ケイタロウ | |||
遅くなってしまい申し訳ありません。 中村さんとは意見が異なるのかもしれませんが、ぼくの認識としては「お箸を持つ方が右」という例はむしろ、左右は直感的でない概念だということを示しているような気がします。だってお箸を持つ手を思い浮かべないと左右を特定できないわけですから…。子供は左右をよく間違えますし。とはいえ大人の場合はほとんど直感的だと思います。 ただ、ひとりの人間から見れば直感的なんですが、複数の人間がいるときの「左」「右」は主体によって変わります。もちろん一人称小説あるいは語り手のいる小説であれば主体=語り手になると思いますが、神視点だと思って読んだ場合、「右には」と来ると“何の右だろう?”と思ってしまわないでしょうか? ケンジさんの右なのかシンジさんの右なのか…あるいは仏壇の右なのか郵便局の右なのか…みたいな。考えすぎなのかもしれませんが。 | |||
ゆうら 佑 | |||
>ゆうら佑さま どうもどうも。お付き合いいただいて恐縮です。 ちょっと話が食い違っている気がします。「お箸を持つ方が右」という例を出したのは、「左右は理屈の概念」とおっしゃったことに対する反証です。つまり、身体性に依拠しているのであって、論理性に依拠しているのではない、という意味です。繰り返しになりますが、左右を論理的に定義するのは大変困難です。 子供にとって直観的ではない、というのは事実だと思います。しかし「大人であればほとんど直観的」という点で合意していただけるのなら、その点に関してはこれ以上問題にならないと思います。この小説は大人の読者(もしくは大人と同等の読解力を有する読者)を対象としていますから。そもそも、言語形成期の子供にとっては、いかなる言葉も直観的ではありえないじゃないですか。 言葉が発せられている以上、語り手は必ず存在します。そもそも「神視点」などというものは存在しないというのが僕の立場です――というのはいささか極論に聞こえるでしょう(僕にとっては極論ではないのですが)から他の言い方をしますと、 つまり、のっけから「右手」という言葉を使うことによって、「これは神視点の小説ではない」ということを示していると考えていただけないでしょうか。唐突でしょうか? 唐突でいいのです。主人公と座敷の世界を、読者の前に唐突に現前させたかったからです。その唐突感がこの小説の本質とかかわっていると、僕は思っているのですが。 その意味では、最初の一文字で「なんの右だろう?」と読者が一瞬思われるのは当然かもしれません。そう思ってくださってもかまわないし、逆にそれがひとつの効果を生むこともあるのではないでしょうか。最後までお読みになった読者にそれを伝えきれていないとしたら、もちろんそれは僕の失敗ですけど。 なんとなく見えてきた気がするのですが、この議論の本質は「左右」の性質にあるのではなく、小説観の相違にあるのではないでしょうか? | |||
中村ケイタロウ | |||
左右の話については、もう結論は出ているのではないでしょうか? 「会話であれ文章であれ、言葉が存在している以上、言葉を発した主体(=語り手)は必ず存在します。ましてや「左右」というのは必ず主体(=視点)の存在を必要とする概念です。この文章の最初の一文字である「右」という字が発せられた瞬間に、主体の存在は100%明示されていると僕は考えます。」 全くその通りだと思うのです。そもそも「書かれたもの」である以上、語り手が存在しないということはあり得ないですよね。あたかも存在しないように見せて書く、というのは文章内でのトリックと言うかだまし絵のようなものに過ぎないわけです。特にエンタテインメントなんかの場合は、上手にだまして書くのが重要になる時がありますけども。 まあ、メタレベルの議論はともかく、戯曲的な手法による書き出し、と捉えるとわかりやすいのではないでしょうか。一幕劇のような書き出しから始まり、最後にはその舞台もろとも闇の底に向かって崩してみせる、そんなイメージの作品なのかなと思いました。 | |||
天野橋立 | |||
>天野橋立さま はい。僕の見解は一貫してそのようなものです。しかし他の方には他のご意見があるでしょう。そのへんの差異を知ることができるのもここに投稿することのメリットの一つだと思います。 おっしゃる通り、いわゆる「神視点」というのはひとつの技巧ということになるでしょうね。しかも結構難しい。僕はまだうまく扱えないのでやってません。技術が無いと、あるいはそれが技巧であることに無自覚だと、「神」が「神」として機能せず、読者はぽかんとしたまま取り残されてしまうことになるのではないかと思います。 書くこと自体がひとつの立場であり、世界観(言葉の本来の意味での)でなければならないと思います。そしてその世界観は、説明されるのでなく、作品そのものの中に盛り込まれていなければならないとも思います。 ですから、この感想欄でこのように言い訳がましい理屈を述べねばならない時点で、すでに僕の作品がある面で失敗しているということを意味しているのだとも言えましょう。 だから、ゆうら佑さんのおっしゃることにも、一理も二理もあると思います。 たしかに僕の書き方は読者に対して不親切であったと思います。しかしこの小説においてはこのような書き方しかなかったのではないかとも思います。難しいです。 実は戯曲や舞台劇といったものは意識していませんでした。僕としては「○○てみせる」といった技巧的な意図ではなく(もちろんそこまでの技術もなく)もう少し感覚的で切実なもの(「崩した」というより「崩れる」という感じ)だったのですが、客観的に解釈すればそういうことになるのでしょう。 しかし最後に舞台装置ごと崩れるなんていうと、ちょっとドリフのオチみたいで楽しいですね。ダメだこりゃ…。 | |||
中村ケイタロウ | |||
[簡易感想]読み易く、そして飽きなくてよかったです。 | |||
Laicee | |||
合計 | 5点 |