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『神様、聴いていて。 ―完―』 作者:ゅぇ / 恋愛小説 恋愛小説
全角75862.5文字
容量151725 bytes
原稿用紙約249.7枚




 プロローグ:遥かなる翼


 
 
 『女は素晴らしい楽器である。恋がその弓で、男がその演奏者である』
                             ―スタンダール―




 ……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……

 仄かに甘い水か空気のように、音もなく心に沁みこんでくる音色。頭がくらくらするような恍惚感とともに、目も醒めるような鮮烈な臨場感を聴衆に与える。
 まるく、くるくると包みこむような澄んだ音色だ。ひとつひとつの音色の欠片がきらきらと輝き、雲間からのぞくほんの僅かな光にも虹色に反射する。
 たとえ闇夜を歩いている人間の行く末さえも、その音色は一条の光を差し出してやるのだ。
 そんな天上の音色を奏でるのは世界一バイオリンに愛された英国人バイオリニスト――カイン=ロウェル。十九歳の若き貴公子。そしてその後ろで彼のバイオリンを惹きたてるのは柔らかく美しいピアノの音色。

 
 ……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……

 
 バイオリンの音色と調和し絡みあって、聴衆の心を天空へ舞いあげる。
 ふわふわのマシュマロが、口の中ですっと溶けてゆくあの感覚にも似た繊細な旋律。バイオリンとピアノが、まるで愛しあっている夫婦のように抱き締めあっている心持ち。
 天使が旋律を奏でるとすれば、きっとこんな感じに違いない。人はみな恍惚として夢を見、そして何の変哲もないはずだった音色から甘く優しい香りと、それから切なくほろ苦い味わいさえも手に入れるのだ。
 カイン=ロウェルと世界で最も美しく調和するのは、世界一ピアノに愛された――世界一カインに愛された日本人ピアニスト北条流麗。十七歳になる。



 

 そこはミュンヘン空港。
 『……カイン……やっと会えるわ』
 綺麗に口紅を塗った唇が、呟いた。
 『可愛い可愛い私の息子』


 
 ――――――――――――――――――――――――――


 『風邪でもひいたの?』
 マリア=ルッツが言う。
 二十歳のドイツ人ピアニスト、ゆるやかにウェーブを描く金髪と品の良い顔立ちが美しいが、幾分性格が悪い。

 『誰かが噂でもしてるのかな』
 朝倉鏡が言う。
 十七歳の日本人ピアニスト、七年前に指の怪我をきっかけに渡独し、そしてそのままドイツでデビューした。
 目立つほどの上背があるわけではなかったが、端整な顔立ちが眼を惹く。

 『風邪ならいっそのこと、こじらせて死んでくれ』
 ビーリアル=ウェズリーが言う。
 英国の美男子チェリストではあるものの、世界のカイン=ロウェルとともかく仲が悪く何かにつけすぐ喧嘩を売る。
 性格はやはり悪い、としか言いようがない。それなのに彼の奏でるチェロの音色はカインに追随するもので――至高かつ清明。

 『……痛ぇ!!』
 そして流麗がビーリアルの頬を思いきりつねりあげた。


 カイン=ロウェルがたったひとつのくしゃみをしただけで、四者四様の反応をする。
 カインは軽く笑って前髪を払った。今年の秋は、去年に増して暑い。
 流麗が日本からドイツへやってきて二度目の秋。屋外と屋内の温度差が激しいせいで、鼻風邪が絶えない。
 冷房が程よく効いたカイン=ロウェルの自宅。ドイツヴェルンブルク音楽院から森ひとつ隔てた土地に、堂々と建っている一軒家である。広々とした家であるから、元気溌溂の青少年が五人集まっても何も問題ない。緋色の絨毯が、適度に足裏を柔らかく刺激する。
 『だいたい何でこの五人がリサイタルを組まなきゃならねえんだよ』
 ビーリアルが煙草を咥えながら洩らした。
 『何、あんたはいちいち文句が多いわね』
 『うるさいぞ。おまえにだけは言われたくねえな』
 ピアノの傍らに立ちながら見下ろすマリアに、ビーリアルが悪態をつく。
 結局ひどく不似合いな五人が一堂に会しているわけだが、もちろんそれには理由があるわけで。
 このヴェルンブルク音楽院の三羽烏――といえば以前はカイン=ロウェルに朝倉鏡、マリア=ルッツのことを指していたのだが――今はそれに加えて新しき天才ピアニスト北条流麗及びチェリストビーリアル=ウェズリー。
 つまり『三羽烏』ならぬ『五羽烏』が、クリスマスリサイタルと称して世界各国で公演することが決まったのである。
 『五人で演奏する曲を決めてくれ、なんて無茶を言うよ』
 『だいたいこの中で、ピアニストが三人もいるのよ』
 ピアノ三台で連弾をしろ、と今回のリサイタル一切を引き受けた流麗のマネージャーギルバート=ロウェルは暴言を吐いた。
 天才肌の五人を信頼しての言だったに違いないが、自己主張の強いビーリアルとマリアが、案の定言葉の限りを尽くして文句を連ねたものである。
 ともかく何故か絶対的な権力を持つマネージャー。カインの血縁だというだけで年端もゆかぬ少年少女が彼に太刀打ちできるはずもなく、結局こうしてカインの家で雁首突き合わせて愚痴を言い合っているのだった。
 『ルリは独奏で何を弾くの?』
 どうやらカインはすでに独奏曲を決めたらしい。何かにつけ噛みついてくるビーリアルを放置したまま、隣に座る流麗の顔を覗きこんできた。
 『あたしはねぇ……』
 弾きたい曲は幾らでもあって、けれど弾ける曲数は三曲に限定されていて、だからその狭間で流麗は眉間に皴を寄せながら悩んでいるのである。
 ともかくリストとショパンは外せないわ、と思って顔をあげたちょうどそのとき、電話が鳴った。
 『うるさいな』
 言ったのはやはりビーリアルだったが、カインは意に介することもなくテーブル上の受話器を取った。
 『――もしもし』
 電話口に出たカインの第一声は確かにドイツ語だったが、しかしその後から彼の口から飛び出る言葉はすべて英語。
 ドイツ人からの電話じゃないのか、とマリアと流麗は顔を見合わせた。鏡とビーリアルは黙々と楽曲リストに眼を通している。流麗はその様子を見つめながら幸せそうに笑った。
 『何が嬉しいのよ』
 『だってこの五人でリサイタルするなんて、思ってもなかったもの』
 夢だったんだもの、と流麗はマリアに微笑みかける。幾分突き放すような冷たさのあるマリアの語調に、まるで気分を害する様子もない。
 そう、夢のようだった。
 カインと流麗の間を嫉妬したマリアに、実は相当の嫌がらせをされた過去がある。それなのに何故こんなにも憎しみがないのだろう。
 それは流麗自身不思議なことであったが、どうやらマリアにとっても充分に不思議なことだったらしい。何であんたはあたしと平気で付き合えるの、と彼女はアルコールが入るといつも訊ねる。
 『まったく……』
 どれだけ毒づいても一向にこたえない流麗に、マリアは溜息をついた。
 流麗には分からない神経をマリアが持っているのと同じように、マリアも流麗の神経が分からないのだろう。


 

 『――――何!?』


 不意に出された小さな叫び声に、流麗たちは思わず顔をあげる。叫んだのは、先程から受話器を手にしていたカイン=ロウェルだった。





 
 

 第一楽章:氷上のWプリンセス(上)



 『もしも人から、何故彼を愛したのかと問い詰められたら、「それは彼が彼であったから。私が私であったから」と答える以外には、何とも言いようがないように思う』
                               ―モンテーニュ―
 


  《弦楽の部》
 
 カイン=ロウェル:バッハ『無伴奏バイオリンパルティータ二番よりシャコンヌ』
          サラサーテ『ツィゴイネルワイゼン』
          バッハ『無伴奏チェロ組曲プレリュード』
 
 ビーリアル=ウェズリー:フォーレ『夢のあとに ―オリジナル編曲―』
             フォーレ『チェロソナタ第一番』
             メンデルスゾーン『アレグロアパッショナートOP.70』
 

  《ピアノの部》
 
 キョウ=アサクラ:ラヴェル『水の戯れ』
          バルトーク『ルーマニア民俗舞曲Sz.56』
          リスト『ハンガリー狂詩曲第二番』
 
 マリア=ルッツ:ショパン『バラード四番』
         シューベルト『四つの即興曲』
         リスト『ためいき』
 
 ルリ=ホウジョウ:ショパン『スケルツォ二番』
          ムソルグスキー『展覧会の絵』
          ベートーヴェン『ピアノソナタ月光』


  《特別プログラム五重奏曲》

  1:エルガー『威風堂々』
  2:ビートルズ『LET IT BE』
  3:デビッドボウイ『LIFE ON MARS』
  4:クライスラー『愛の喜び』
  5:パッヘルベル『カノン』


  ――――――――――――――――――――――――――――――――

 
 流麗とマリアは茫然と立ち尽くし、カインは天を仰いで溜息をついた。
 ビーリアルと鏡は、二人別々に車で帰宅している。あたし泊まるわ、と我儘を言い通したマリアだけが、今こうしてロウェル家のリビングに居残っているのである。
 そしてリビングに立ち尽くす若者三人に対峙しているのは、三十代後半かとも思える美しい女性と。それからもう一人、明るい栗色の髪を頭の上に纏めあげた貴族的美貌の若い女性。
 『母さん……』
 呟いたカインの声が、幾分迷惑そうな色を帯びていた。驚く。
 この人が、と半ば感心する思いで目の前の美人を見つめ、それからふと隣に立つマリア=ルッツを見上げてみて、流麗はさらなる不可解さに眼を見開いた。
 マリアが、今にも怒鳴りだしそうな風情でもって唇をぎりぎりと噛みしめているではないか。
 (な、何なのよ……)
 怖い、と流麗は単純にそう思う。マリアが睨みつけているのは、どうやら流麗たちと対峙する二人のうち若い美少女のほうらしい。なるほどマリアと彼女は仲が悪いのか、とあっさり納得する。
 あまりにあからさまな敵意に、栗色の髪の女性もマリアに視線をあてた。白い肌に栗色の髪、丁寧に口紅の引かれた厚めの唇。背はマリアよりも少し高いように見える――ということはジュリアと同じくらいの身長だということか。
 そしてその彼女が、マリアを真っ向から見下ろして鼻で笑った。
 『ひ・さ・し・ぶ・り』
 『――――……ッ!!』
 興奮の度が過ぎると、人間の顔色は蒼白になるらしい。マリアの眉がこれでもかというほどに吊りあがり、顔は幾分青ざめて見える。
 いったい彼らの人間関係はどうなっているのか、と流麗は背中を汗が伝うのを感じながら立ち尽くした。確かにマリアが顔色を変える気持ちが分かるほどに、その相手の少女の第一印象は悪い。人を見下すことが、当然だと思っている顔つきである。
 『とにかく座れよ』
 『会いたかったわ』
 焦げ茶を帯びた髪はくるくるとパーマがかかっている。近くで見れば多少目尻に皺が見てとれたが、それもほとんど目立たない。
 紅茶を淹れて運んできたカインの両頬に、言いながら母親は軽くキスをした。
 『で?』
 彼女たちをソファに座らせて紅茶を淹れてやったものの、カインの機嫌は傍目に見ても機嫌が良さそうには思えない。
 マリアほど殺気立ってはいなかったが、母親と美女の来訪を喜んでいないのだけは確かなようだった。
 『何でキャサリンがいるの』
 訊ねるカインの声はいつも通りとても穏やかで、誰の耳にも心地よい低さを持っている。
 『あたしがいちゃいけないの? 冷たいわ、カイン。せっかく忙しい時間の合間を縫ってイギリスから来たのに』
 忙しいんなら来なきゃいいのよ、とマリアが小声で毒づいた。流麗とマリアは、遠慮がちにキッチンサイドの椅子に腰かけているのである。
 あまりにマリアが激怒しているせいで、自分さえも何か怖ろしい毒に侵されるような不気味な心持ちがした。
 『それとも何? とうとうあの馬鹿なマリア=ルッツに情が移ったとか? そんなの、あたし許さないわよ』
 (性格悪――……)
 『そうよ、カイン。あんな家柄の違う子と付き合うなんて、ママも認めないわよ』
 『母さん、あのね』
 カインが苛立っているのが、流麗には手に取るように分かった。マリアがこれほどに罵倒されていることも流麗にとっては驚愕だったが、キャサリンとカインの母親の性格のきつさも無論大きな衝撃だった。
 常々カインと生活を共にしているだけに、どこか無意識のうちに彼の血縁者は『良い人』なのだろうと思っていたからかもしれない。
 ともかく、今このリビングがひどく険悪な空気に包まれているのは事実で。
 『何か勘違いしているようだけどな、俺はマリアと付き合ってないよ。マリアにはちゃんと恋人がいる』
 母親の――彼女の名前はレイチェルと云うのだ、とマリアが教えてくれたが――眼にも、キャサリンの眼にも、どうやらまるで流麗の姿は入っていないらしい。マリア憎しの一念で、彼女たちの敵意は確実にマリア一人に向かっている。
 それが喜んでいいことなのか否か、流麗には分からない。ただ西洋人の強烈かつ激烈な会話の応酬に、黙っておとなしくしている他に術がないのである。
 『そうなの? ……それがいいわ。家柄も違う、音楽家としてカインと肩を並べられるでもなし、それにこんな性格悪い子なんて付き合ったって一つもいいことないわ』
 『……ちょっと聞いてればさっきから何なのよ!? 都合のいいときだけのこのこ現れて、誰が性格悪いって? お互い様よ、よく頭冷やして考えることね!』
 我慢の限界を超えたのだろう、マリアがテーブルを思いきり叩いて怒鳴った。
 お互い様、と言ったところを見ると、マリアも自分の性格は自覚しているようだ。
 ちらりとカインを一瞥する。ばちりと視線があった――何も言わずにおとなしくしてろ、と彼の双眸がそう言ったのを流麗は理解して、立ち上がりかけた椅子に再び腰をおろす。
 カインが不機嫌ながらも静かに女の会話を聞いているのは、今のところ流麗がこの騒ぎに巻き込まれていないことを認識しているからのようだった。
 『家柄が滲み出てるような子ね。これだから成金は嫌なのよ、下品で』
 レイチェルがそっとティーカップを置く。
 『何でもいいから、とにかくカインには関わらないで頂戴ね。Ms.ルッツ』
 一瞬の沈黙を、ぽぉぉん、という時計の音が貫き――ひと呼吸おいてレイチェルは続けた。



 『カインの婚約者は、このキャシーなんだから』







 
 第一楽章:氷上のWプリンセス(中)



 『ルリ、マリア。寮まで送るよ』
 レイチェルとキャサリンの冷たい視線を跳ねのけて、カインが静かにソファから立ち上がった。マリアが幾分不審そうな顔をしたが、すぐに彼の意図を理解して自分のバッグをひったくるように手に取る。流麗もまた、パウダールームに行くふりをしてその場を離れた。
 
 ずっと使わせてもらっていた自室に戻り、目につくものを手当たり次第にバッグに詰め込む。
 ――おそらくカインは、流麗をしばらく寮に置くつもりだ。このままロウェル家に滞在していれば、流麗がキャサリンの餌食になることなど目に見えている。カインと長年の付き合いになるはずのマリアでさえもあの扱い。もし流麗がカインと同居しているなどと知れたら、きっと人生が終わるのではなかろうか。
 マリアと仲良くなったのも束の間、結局あたしには平穏な毎日はやって来ないわけ?  思いながら流麗は眉根を寄せて大きめのバッグの口を開けた。
 こんな爆弾のような日々、始まったきっかけは思えばカイン=ロウェルと出逢ったあの奇跡に違いない。もしも彼と出会わなければ、きっとこんなトラブルにも巻き込まれなかっただろう。
 階段から突き落とされたり、腕を折られたり、それから拉致されたり。だいたいこの一年半、それこそトラブル続きの怒涛の一年半。何とか我慢してやってきたのは、カインとピアノへの深く甘やかな想いがあったからだった。
 そして今度はカインの母親と婚約者。
(……溜息しか出てこないわ)
 下着や衣服を出来る限りバッグに放り、それでも入りきらないものは手近にあった箱に詰めてクローゼット上部と天井の間に押し込む。
 そして流麗は急いでリビングに戻った。
 『帰る支度できた?』
 『うん』
 緊張のせいに違いない。唇が渇いているのが分かったが、かろうじて何事もないかのように微笑んでみせる。ちょうど紅茶を飲み干したレイチェルが、そのとき不意に流麗を見つめた。
 『そういえば、あなたは?』
 どくん、と心臓が高鳴る。大観衆の前でピアノを弾くときには決して感じない緊張感で、流麗の小柄な身体は弾け飛んでしまいそうなほど。
 えっ、と言葉に詰まりかけた流麗を救うのは、やはりカイン=ロウェルだった。
 『俺の伴奏をしてくれている子だよ。母さんも知ってるだろ、日本のMr.ホウジョウ。彼の一人娘さ』
 『あら、そうなの? いつもカインがお世話になってますね、ありがとう』
 意外に好意的なレイチェルの視線に、なかば不信感すら覚えながら流麗は頭をさげる。 ともかく先刻までのマリアに対する態度があまりに衝撃的すぎて、まるで馴染めそうにない。
 『この子たちを送ってくるから』
 カインは無表情のままに車のキーを鳴らして玄関へ向かう。マリアは、キャサリンともう一度ひどく睨みあってから不機嫌に彼のあとに従った。
 『……あの、失礼します……』
 おそるおそる挨拶すると、キャサリンは軽く会釈を、そしてレイチェルは艶やかな微笑を流麗に返した。どうやら今のところ、彼女らの不興をかってはいないようである。
 彼女たちの敵意と侮蔑は、明らかにマリアに向かっていた。




 『冗談じゃないわよ、何あれ!』
 マリアが、車の後部座席で興奮気味に叫んだ。横の運転席を見れば、カインも相当不機嫌な様子でハンドルを握っている。空気も居心地も悪い車内で、流麗は何ということもなくスカートの裾を指先で弄んだ。
 『悪かったね、ルリ』
 あたしには悪くないってわけ、と後ろでマリアが怒鳴り散らす。思わず流麗が哀れに思うほど、カインはそれをまるで無視して。
 そしてこちらに視線を流した。
 『まあ、あんな母親と幼馴染みでね。見ての通り、昔っからマリアとも反りが合わないのさ』
 『…………』
 流麗は、黙ったままカインに微笑を返す。何と言えばいいのか、皆目見当がつかないのである。
 大変ね、と言えばいいのか、へえそうなんだ、と返せばいいのか。どちらにしろ下手をすれば自分にふりかかってくる災難のような気がして、流麗は口を閉ざした。
 森ひとつ隔てる道のりが、ひどく長い。しかし外の暗闇を見ていると、ついさっきまでの険悪な人間関係もまるで嘘のような心持ちがした。決して自分が罵られたわけではないのに、どうも後味が悪い。心の底が澱んだような、何かひどく厭な気持ちだ。
 『あなたルリをどうするつもりなの』
 二十分ほど車を走らせた頃、マリアが少しばかり落ち着いた口調でカインに訊ねた。
 『…………しばらくおまえのところに置いてやってくれないか。キャシーの敵意がマリアに向いているうちに、俺と流麗が無関係だと思わせておいたほうがいい。俺と深く関わっていると知ったら何をするか……』
 カインの冷たい双眸が、真剣である。閉ざされた車内空間のなかで、彼の緊張感が流麗にもよく伝わってきた。
 『あたしの家に?』
 つまりあたしは生贄代わりってことね、とマリアが毒づく。
 『…………っふ』
 マリアが後ろから流麗を睨みつける。しまった、と流麗は慌てて唇を押さえた。
 『何で笑ってんのよ、ルリ』
 『ううん、何でもないわよ。置いてくれる?』
 思わず笑い声が洩れたのを後悔しながら、しかし流麗は小さく微笑んだ。
 何だかんだ言って、カインはマリアのことをしっかり信用してるんだわ。そう思って、つい笑ってしまったのである。
 信用していないところに、カインが流麗を不用意に預けるはずがなかった。
 『別にいいけど……ジュリアの部屋のほうが居心地いいんじゃないの』
 流麗の親友ジュリアは、音楽院の女子寮に暮らしている。マリアと犬猿の仲だった頃から、ジュリアはずっと流麗の支えになってくれていた。ドイツに来てからの、最高の友人である。しかし流麗としてはともかくカインの言うとおりにするつもりだったから、ただ大人しくカインの横顔を仰ぐ。
 『確かにおまえの過去の悪行を考えればね』
 その一言に、再びマリアが不機嫌な表情で足を組みかえた。
 『ただキャシー……キャサリンは確か新聞記者になってるはずなんだ。もし俺のいないところで記者として学院に探りを入れられたら厄介だから』
 『ま、確かにあたしの家なら、あの女が踏み込んでくることもないだろうから』
 『とりあえず数日間でいい。ジュリアたちとも相談して、色々なことを決めるから』
 カインの声が静かだ。感情の起伏に欠けた声音は、聞いていて寂寥感すら感じるほどに冷たい。
 『分かったわよ』
 吐き捨てるようにマリアが承諾した。自分のよく分からないところで、どんどん話が進められている。
 つい数時間前までは鏡たちとリサイタルの選曲をしていたのが嘘のような――そんな突然の展開にわけがわからなくて、だからこそ余計に口を挟むわけにもいかず、流麗はバッグを抱き締めながら息を潜めた。
 その流麗の手に、そっとカインの美しい手指が重ねられた。
 『大丈夫だ。大丈夫だよ、ルリ』
 『……ん』
 『数日間でいいから、マリアのところで待っててくれ。学院では会えるからね』
 『……うん』
 流麗にだけ見せる優しい表情。彼の包みこむような物言いと表情に、流麗はいつでも安心させられる。無条件に信頼できる。きっと少し我慢すれば、すぐに平穏な日々を取り戻せるに違いない。
 カインがいるのだから――何も心配することはないのだ。
 『ほら、着いたわよ。さっさと降りなさいよ、ルリ』
 『ルリを頼む。怪我なんかさせるなよ、いいな』
 『ハイハイわかった、わかりましたよMr.ロウェル!!』
 ロウェル家から森ひとつ越え、学院を通り過ぎておよそ二十分。街並みを一望できる小高い丘の上に、マリア=ルッツが両親とともに暮らす邸があった。
 カインの住む邸よりもひとまわりほど大きく、雰囲気のある欄干がふたつ門のわきに掲げられている。
 マリアに急かされながら、流麗は重いバッグを引きずるようにして持ちながら車を降りた。
 『あぁ、ベス? あたしよ、開けて』
 おそらくメイドなのだろう、門に取り付けられた大層なインターホン越しにマリアが言う。
 車のドアを閉める流麗の手が、少し戸惑った。数日間我慢すればいいだけよ、と頭の中でもう一人の自分が囁く。
 そう、数日間我慢すればいいだけ。なぜってカインがそう言うのだから。
 流麗にとってカインの言うことは絶対で、そして全幅の信頼を置くに値する。
 ――だから。
 『ルリ、風邪をひかないように気をつけろよ。マリアに苛められたらすぐ言いな』
 だから少しの間だけ我慢すればいい。
 『カインも……』
 『ルリ! 早くしなさいよっ、閉め出すわよ!』
 マリアが少し向こうから怒鳴る。こちらを見つめるカインの心配そうな双眸を見て、流麗は懸命に冷静な笑顔をつくってみせた。
 (……大丈夫)
 予感がする。
 大丈夫、ではない予感が。もうあの家で、ふたり仲良く暮らすことができないような予感が。
 『ルリってば!』
 流麗はバッグを持ち直した。少しずつ冷たくなってきた秋の風が、カインと流麗の間を滑り抜けていく。
 『行かなきゃ。じゃあね、カイン。また明日学校でね』
 『ああ。遅刻するんじゃないよ』
 軽くカインが手をふる。何だか次会えるのがいつか分からない遠距離恋愛のカップルみたいだ、そう思いながら流麗も手をふる。
 とにかく明日も学校で会えるのだから、深く考えなくてもいいはずだ。
 向こうで怒鳴るマリアを一瞥してからカインに背を向け、流麗はバッグを抱えてルッツ家の門の中へと足を踏み入れた。






 
 第一楽章:氷上のWプリンセス(下)


 
 『これで一安心ね。とりあえずルリがカインの恋人だってことは内緒って、ビーリアルにも鏡にもメールしといたから』
 ひとつ盛大な溜息をついて、マリアは薄いピンクのネグリジェ姿でベッドに腰かけた。 ゆったりとした胸が妙に目立つ服装は、おそらく男といるときには絶大の威力を発揮するのだろう。
 (何……おっきな胸ね)
 半ば感心しながら、カインの家から慌てて持ってきたトレーナーとパンツに着替える。 ジュリアには流麗がメールをしたし、ともかくそうしてふたりは一段落ついたという安堵に胸を撫で下ろした。
 メイドが運んできてくれたハードブレッドとクリームチーズ。それと温かい紅茶が、今晩の遅い夕食だった。マリアの両親は数日前からオーストラリア旅行に出かけているらしく、今この家には流麗とマリアとそれから三人のメイドだけだという。
 『ホント、あんたって迷惑の塊よね』
 小指についたクリームチーズを舐めながら、彼女は流麗のほうを一瞥してくる。こうしてマリアが毒づくのはいつものことだから腹を立てることもない。
 今までのことを反省しているのかいないのか、まるで分からない態度。しかし文句を言いながら悪さをしてくることもないので、おそらく彼女なりに友好的な態度のつもりなのだろう。
 流麗も慣れた。
 『まったくあたしがさ、何であんたの身代わりみたいに散々な目に遭わなきゃいけないわけ。そうでしょ?』
 『いいじゃない、ね? ちょっと助けになってよ。あたしなんか腕折られたんだから』
 『………………』
 あんたホントは性格悪いでしょ、とマリアは呟きながらティーカップを口に運ぶ。
 ともかく傍目に見れば――仲が良いのか悪いのか分からない友情。しかしそれでも流麗は充分満足している。
 思い出してみればいい、流麗が初めてドイツを訪れた頃のことを。渡独当初に比べれば天と地ほどの差がある。この毒舌はマリアの愛情表現なのだと、そう思うようにすればそれでいい。



 
 ―――――――――――――――――

 
 ビーリアルは流麗に話しかけるカインの姿を眼の端に留めながら、昨夜マリアから送られてきたメールの内容を思い出していた。

 ――ルリとカインが恋人同士ってことは絶対キャシーに喋らないで。

 (キャシーか……)
 幾度か見かけたことはある。まともに喋ったことはないが、栗色の髪に見事な長身の美女だったはずだ。
 カインをめぐったマリアとの確執は、おそらく他人が思っているほど浅いものではない。皮を剥がしてみれば、もしかすると流麗に対する敵意よりももっと深い憎悪。
 カイン=ロウェルというたった一人の男をめぐって、女ふたりが壮絶な戦いを繰り広げるという何とも馬鹿馬鹿しい構図だ。
 くだらない、と思う一方でカインに対する苛立ちは募る。ともかくあの男のせいで、初めて本気で心動かされた女を手に入れることができないのである。
 (マリアも変わったもんだぜ)
 正直なところ、まさかあの女があそこまで変わるとは思わなかった。何かにつけ文句を言う性格は相変わらずだったが、流麗に対する視線の色が以前と違う。
 確かに流麗は人を変える不思議な力があると、ビーリアルも思う。他の人と何が違う、と問われれば何と答えることも出来ないが、どこか眩い暖かな輝きが彼女を包んでいるような心持ち。彼女と視線を合わせるだけで、心がゆるやかに満たされていくような感覚。分かっている。
 きっとあの男も――カイン=ロウェルも彼女の奏でる音色に惹かれ、ひいては彼女の持つ独特の雰囲気に恋したのだろう。
 『…………』
 その流麗が、カインを見た瞬間にひどく安心したような顔をする。それがビーリアルにとっては何よりも腹立たしいことだった。
 たったひとり、お互いが唯一無二の存在だと信じあっている姿を見ると吐き気がする。 ふん、と鼻を鳴らしてビーリアルは教室を後にした。すいと席をたつビーリアルに、注意を払うものはいなかった。西館を出て、足音のこだまする廊下を歩く。
 いったいこれは何だろう――以前とは違う苛立ちと胸のつっかかり。授業開始を伝える鐘の音が鳴っていたが、ここから教室に戻る気にはなれなかった。人気のなくなった石造りの廊下から、明るく陽が射しこむ前庭に眼をやる。
 前庭の正面には堂々とした門扉が口を開いていたが、ほとんどの生徒が寮生だということもあってこの時間に遅刻してくる者の姿は見られなかった。
 (――…………?)
 だから余計に、門扉の近くでうろうろしていた女の姿は鮮やかにビーリアルの眼に留まった。ぱりっとした黒のスーツに長身を包み、外したサングラスを右手に持ちながら門扉の前で中に入ろうか入るまいか迷っているようだ。
 その栗色の髪と長身に見覚えがあったビーリアルは、一瞬考えてから廊下柱にもたせていた背を起こした。
 『おい、あんた』
 プライドの高そうな女の双眸が、ビーリアルを貫く。どこの馬の骨とも知れない男が、気安くあたしに話しかけてこないでよ。そう言いたげな表情にも見えた。
 『誰……』
 幾度かマリアと一緒にいるときに見知った顔だと、無意識のうちに覚えているのかもしれない。
 少しばかり何かを思い出すような仕草をしているのが、ビーリアルにも分かった。
 『あぁ……あんた、もしかしてマリアに付き纏ってた男?』
 『妙な言い方をするな。お互いの利害が一致しただけさ』
 『どうでもいいわよ。で、何? 何か用なの?』
 ほんの少し、心の奥底に眠る良心が咎めた気がした。
 『おまえ、何しに来たんだ。わざわざイギリスから来たんだろ?』
 煙草を取り出して火をつける。キャサリンもその華奢な指を出してきたので、彼女にも煙草を一本差し出して火を与えた。
 色白の指に長い爪、真っ赤なマニキュアを塗ったそれはまるで流麗の指とは違う。そんなことを思いながらビーリアルはキャサリンの指を何とはなしに見下ろした。
 『カインと婚約するためよ。一応仕事ついでだけどね。せっかくイギリスからやってきたのに、どうやらまだマリアが手を出してるみたいね』
 正真正銘の名家令嬢の余裕なのか、落ち着いた微笑を見せながら彼女はゆったりと煙を吐き出す。
 しかしマリアの名前を口にするときだけは、底知れぬ敵意がはっきりと感じられた。
 『マリアがカインと付き合ってるって言ったのか』
 『カインは相手にしてないわ』
 (そりゃそうだろう、カインはルリに夢中なんだから)
 『マリアにはちゃんと他に恋人がいるって、カインも言ってたしね』
 ビーリアルの双眸が沈みがちに光る。
 ――何を戸惑うことがある。おまえはあの女を手に入れたいんだろ?
 もうひとりの自分が、ひどく低い声で囁いたその一瞬の迷いのあとに、しかしビーリアルははっきりと言った。
 『カインにもちゃんと恋人がいるぜ。知ってたか?』
 『…………なんですって?』
 ほんのわずか沈黙がふたりを遮り、そしてキャサリンの大きな瞳がこれまでになく鋭く輝いた。
 男ひとりの為に、女はここまで凶悪な双眸を見せることができるのか。半ば感心と驚きの眼で彼女を見つめながら、ビーリアルは静かに笑った。
 『なんですって? カインに恋人がいる?』
 『おまえ、カインの家で会わなかったか? マリアのほかにもうひとり、女の子がいたろ?』
 『……カインの伴奏者だって子……?』
 『ああ』
 流麗の純粋な笑顔が、脳裏に浮かんだ。涼しげで清冽な美貌と、その指から奏で出される驚愕の音色。
 ――機会があれば俺は何でもする。
 (……ルリ。おまえを手に入れるためにな)
 『その子がカイン=ロウェルの恋人だぜ。しかもその子の片思いじゃない。カインのほうがベタ惚れなのさ』
 キャサリンの顔色が、そこで初めて変わった。マリアのことを話しているときは余裕だった瞳に、動揺と焦りと、それから怒りが浮かぶ。
 その姿を見て、ビーリアルは落ち着き払った笑みを静かにたたえた。きっとビーリアルが事実を暴露したことを知れば、口止めしたマリアどころかカインも流麗も激怒するだろう。
 しかし実際のところ、こうでもしなければ流麗を手に入れる可能性など無に等しい。
 カインにとって流麗が唯一無二の存在であるのと同じように、ビーリアルにとっても流麗は初めて出逢った重い存在。
 そのカインと流麗を引き裂くきっかけは、どんなに些細なことでも構わない。
 (あんな生ぬるい関係はまっぴらだ)
 カイン=ロウェルたちと五人で仲良くリサイタルだと? 同じ部屋に五人顔を揃えていたときの、不思議な感覚。それを打ち消しながら、ビーリアルは己の欲望に忠実に行動する。

 ――ルリ。おまえとカインの仲など潰れてしまえ。




 『ちょっと、あんただったわね。カインの伴奏者って』
 カインが専科レッスンに行ったその直後、流麗にとってそれは最悪のタイミングといえた。
 突然黒いスーツの長身の女が、つかつかと教室に入ってきて流麗の前に立ちはだかったのである。それは昨夜マリアをひどく罵倒していたカイン=ロウェルの婚約者その人で。 彼女の敵意を逸らすために昨夜からマリアの家に飛び込んだり、鏡たちに口止めしたり、散々な労力を費やした。にも関わらず、その見惚れんばかりの女は今完全に流麗に対する敵意を剥き出しにしているではないか。
 何があったのだ、と流麗は思わず茫然とし、傍らにいたジュリアもマリアもただ呆気にとられて立ち尽くした。
 『そうですけど』
 キャサリン=セーラールーフ。彼女は一度だけマリアを一瞥して物凄い眼つきで睨みつけたが、すぐにその視線を流麗に戻す。
 『……騙されたわ。この女は手癖が悪いから、てっきりまだカインに付き纏ってるものだと思ってた。まさかカインに手を出してるのがあんただったとはね』
 この女は、といいながらキャサリンはマリアを指差した。そんな闖入者に困惑しきって流麗はマリアを見る。
 ――何でばれてるのよ!
 マリアの瞳がそう泣いている。カインにどれだけ叱られるかと怖れているに違いなかった。そのマリアに気を配る暇のなく、流麗は長身のキャサリンと対峙する。
 『手を出すって……』
 『いい? カインの婚約者はあたしよ。あんたも昨夜聞いてたはずよね』
 深い事情を知らないジュリアが、そこで流麗を庇うように立ち上がる。
 長身のキャサリンが、ジュリアを見上げる格好になった。特に目立って流麗の身長が低いということはないのに、もとからの身体の線が違うせいか流麗だけ妙にほっそりとして見える。
 守ってあげたい、と女でさえも思うような清廉さで、それがかえってキャサリンの敵意を大きくしたらしい。
 『今すぐカインと離れてくれるかしら。そうすればあたしも何もしないわ』
 『ちょっと待ちなさいよ、黙って聞いてりゃいきなり教室に乗り込んできてぎゃあぎゃあうるさいわね!』
 ジュリアが怒鳴った。
 彼女が胸を張って啖呵をきると、大柄だけにひどく迫力がある。声楽にも本格的に取り組んでいるために、彼女が大声を張り上げると教室中に朗々と響きわたった。
 『カインはルリを誰よりも大切にしてんのよ。そのルリになんかしたら、困るのはあんたのほうだと思うけど?』
 マリアが複雑そうな顔で怒鳴るジュリアの様子を見ている。
 一番最初に流麗に手を出して、散々カインにやり込められたのは紛れもなくマリア=ルッツである。彼女もなんともいえない気持ちで思い出しているに違いない。
 『何も知らない部外者がいちいち口を出さないで頂戴』
 『何!?』
 ジュリアを押しのけて、キャサリンは再び流麗の前に立つ。
 栗色の髪を優雅にかきあげ、そしてマリアを凌ぐほどの底意地の悪い顔をして、言い放った。
 『……手切れ金が必要なら、幾らでも渡してあげるから。さっさとカインと別れて』
 流麗の柳眉がぴくりと動いた。
 (手切れ金……?)
 見上げると、キャサリンと激しく視線がぶつかる。その双眸に昨夜マリアに向けられていたのと同じ憎悪と侮蔑の念を感じて、流麗は鳥肌だつ思いがした。
 そして昨夜の予感を思い出す。
 もうカインと平穏に暮らせないのではないかという――不吉な予感。底知れぬ不安。
 それから、今不意に芽生えた不安。
 (またあたしはカインに迷惑をかけるのね)
 そう思いながらも、大人しく引き下がれない流麗の利かん気が顔を出した。金で物事を片付けようとする人間は、根本的に信用ができない。裕福な家に生まれながらも流麗がこうしてまともな感覚を身につけることができたのは、おそらく両親がまともだったからだろう。
 『手切れ金なんて結構よ』
 ハッとした顔でマリアがこちらを見た。流麗の声色に、微妙な変化を感じ取ったからかもしれない。
 『あら、そう? 慣れないドイツでお金に困ってるのかと思って。とにかくカインから早く離れてね。さもないとあたし、何するか分からないわよ』
 『お好きに。カイン本人が離れてくれって言ったら、離れるわ。あなたの言うことに従う筋合いは、あたしにはこれっぽっちもないのよ』
 『……何ですって?』
 動揺した顔ひとつ見せず、ひどく穏やかな声色で抵抗をしかけてきた相手に、むしろキャサリンが動揺したようだった。
 流麗は机の上に広げてあったテキストをまとめ、澄ました顔で立ち上がる。慣れている。カインをめぐるトラブルなんて、今までにたくさん経験してきたから。こんなことには慣れている。
 平気な顔をして人を見下すような人間なんて、世界を見渡せば腐るほどいるのだから。 教室を出ようとした流麗の背中を見て、正気にかえったキャサリンが流麗の手首を後ろから思いきり引っ張った。
 『……痛っ……』
 物凄い力で引っ張られた流麗の体が引きずり倒され、机の角やらドア枠やらでひどく身体中を打つ。テキストが豪快に辺りに散らばり、その場にいた全員が思わず息を呑んだ。 よく怪我をする子だな、と思った生徒もいるかもしれない。考えてみれば災難に遭ってばかりだ――ジュリアが駆け寄ったそのとき、聞き慣れた声が降ってきた。
 『ルリ!?』
 ジュリアもマリアも、あからさまにホッとした顔をする。
 彼はまさに救世主で、そして他の生徒たちも胸を撫で下ろした。カイン=ロウェルがそっと流麗を抱き起こし、もう片手で手早くテキストを片付ける。
 カインの炯々とした双眸は一瞬傍らに寄ってきていたマリアに向けられたが、懸命に首を横にふるマリアを見てすぐにキャサリンに目を移した。
 『カイン、ばれてる。もうばれてるわ』
 マリアが小声で呟いた。
 『キャシー……おまえ。誰から何を吹き込まれた。乱暴なことをするな』
 カインが流麗を見る視線は、誰から見ても一目瞭然優しく温かいもので。
 それが他人に向けられるときは、特に目立った表情のない眼元になる。キャサリンの神経を逆撫でするには充分だった。
 カインも己の視線にまで嘘はつけない。キャサリンが紅い爪を流麗に向けて、半ば呻くように言った。


 『……ビーリアル=ウェズリーよ。そこのマリア嬢の元ヒモだっけ? あの男に全部聞いたわ』






 

 第二楽章:この腕にいて

 
 『愛することは、ほとんど信じることである』
                              ―ユゴー―


 秋の空は目に眩しいほど青く、色づきはじめた街路樹の葉々も美術館の名画のように美しかった。ほんの少しだけ冷たくなったかと思える風が、ともすればやや強く吹き抜けていく。
 外の景色が窓から一望できるレッスン室の簡易ソファに座りながら、カイン=ロウェルはきつく唇を噛んだ。男にしては長い睫毛が頬に影を落とし、脚を組んだまま深く考え込んでいるのがよく分かった。
 何ともいえない気持ちで、流麗は彼の整った横顔を見上げる。
 『カイン……』
 呟いた声から一拍ほど間を置いてから、カインがハッとしたように眼を見開いた。
 我を忘れるほどに考え込んでいたのだろう。
 『ああ……悪い、ルリ。つい考え込んでしまって』
 そして左側に座る流麗の細い身体を、そっと抱き寄せる。
 抱き寄せられると、流麗の頭はカインの胸ほどにまでしか至らない。傍目には細身に見えるカインの胸は、いつも意外に大きく温かかった。普段クールで冷ややかそうに思われるが、彼にもしっかり体温があるのだと流麗はごく当たり前のことを感じた。
 『ルリ……大丈夫だよ』
 大丈夫だよ、と自分に言い聞かせるようにもう一度繰り返して、カインは流麗を抱き締める。
 キャサリンは――イギリス屈指の名家の令嬢だった。彼女の思い通りにならないことなど、おそらく今までになかっただろう。マリアとはまた違う金と権力にものを言わせて、彼女が何を仕掛けてくるかカインにすら見当もつかなかった。
 きっと彼も困惑しているのだろう。それが分かるから、余計に流麗は何も言えない。
 少しずつ日が暮れていくときの独特の陽射しの色が、それからどこか遠くで鳴いている鳥の声が、やはり流麗を不安にさせた。
 『何があっても俺の腕から離れていくなよ』
 きつく流麗を抱き締めながら、カインは静かな声で呟いた。半ば流麗の髪に顔をうずめているせいで、その声が少しくぐもって聞こえる。
 (きっと大丈夫よ)
 きっと大丈夫。
 どんなに不安でも、どんなに辛くても、カインが大丈夫だというなら大丈夫だ。
 彼が離れていくなというなら、絶対に離れない。
 彼の言うとおりにドイツへ来て、辛い思いこそすれ後悔だけはしたことがなかった。だからきっと今度も大丈夫だと、そう信じる。
 それにマリアとも少しずつ仲良くなれている。
 『あたしが傍にいても平気なの? きっとカインに迷惑をかけるわ』
 『ルリ。俺が見つけた最初で最後の……たったひとりのパートナーだ。ピアニストとしても、ひとりの人間としても、ひとりの女としても、俺はおまえを愛しているから』
 だからおまえが傍からいなくなることのほうが耐えられない。そのほうが怖ろしい。
 カインはそう言って、右手で流麗の手指を弄ぶ。きっとまた厄介な日々がやってくるに違いないと、もはや確信に近いものがあっても彼のその言葉を聞くだけで流麗は安心できた。
 ドイツにやってきたときから――彼しかいない。流麗には、カインしかいない。
 やはり今でも憧れのバイオリニスト。神に愛されたバイオリンの貴公子。流麗の何もかもが、彼とその音色に彩られていて。
 だから信じる。つらくても、頑張ることができる。
 『そんなことよりも、俺のせいで何度もつらい思いをさせる。許してくれ、ルリ』
 見上げると、彼の双眸が優しく苦しんでいる。繊細な流麗の心は、それだけでカインの愛情を感じることができた。
 『俺を信じろ』
 『信じるわ。いつでも信じてるわ』
 『俺を置いてどこにも行くな』
 『行かないわ。あんなに憧れていたあなたから、そんな簡単に離れたりできないもの』
 カインは無敵だと思っていた。それがたった流麗の一言で、こちらがとても切なくなるほど安心したような表情を浮かべて微笑む。流麗はその彼の美貌に、同じく微笑を返した。
 『大丈夫よ。毎日カインのCDを聴いてるもの』
 レッスン室の扉が、無遠慮に叩かれる音がした。外から聞こえてくるのはマリア=ルッツの声で、さっさと帰るわよ、と怒鳴っている。

 立ち上がる流麗の手とまだ座ったままのカインの手が、するりと解けた。


 
 ――三日後に、流麗はカインの勧めで寮に移った。街中から離れたマリアの自宅よりも、かえって学院の女子寮でたくさんの人の目に囲まれているほうが、キャサリンも手出ししにくいだろうという理由からだった。





 『なあに、珍しいわね。あなたから夕食に誘ってくれるだなんて』
 いつもなら流麗とふたりで談笑しながら料理をして、音楽のひとつでも聴きながらとるはずの夕食。
 その人がいないと身も心も満たされない――今まで何人の恋人と付き合っても感じたことのない空虚感だった。
 生涯にたった一人の人間を見つけることで、人はこうまでも弱く贅沢になるのか。
 カインは、傍らに流麗がいない不自然さを改めて感じながらワイングラスを傾ける。今までどんなに自分の周りでマリアとキャサリンがいがみ合っていても、こんな不快感は覚えたこともなかった。怒りを感じたこともなかった。
 『正式な婚約はいつがいいかしら?』
 流麗の存在を知ったことで、彼女のカインとの結婚に対する焦りが増したようだった。 カイン=ロウェル。十九歳の若さで天性の美貌と抜群のプロポーション。男も惚れ惚れするような涼やかな性格とカリスマ性に、加えて世界一のバイオリニスト。確かに形式的な婚約者としては焦る以外に何ができようか。
 『婚約なんてしないよ』
 『………………』
 あっさりと切り捨てたカインの言葉に、フォークを持つキャサリンの手が止まる。
 『結婚も、もちろんしない。婚約者なんて親同士が決めたようなもんだろ? おまえは俺のただの幼馴染みだ。それ以上でも以下でもない』
 『何ですって? 本気で言ってるの?』
 『本気だよ』
 恋と愛は、女を変える。
 女という種族は、悪魔が産んだのではないかとさえ思えるほどに。
 それでもカインは、己の愛する女を偽るわけにはいかないと思った。もしここで流麗の安全を祈るあまりに妥協してしまえば、一生後悔する。
 きっと流麗さえも傷つけることになるだろう。自分のためにも流麗のためにも、流麗を盾にするだろうキャサリンの脅しにだけは屈することはできない。
 『ルリって子がどうなっ……』
 『ルリに何か手出しをしたら、俺はおまえを殺すことも厭わないよ』
 『カイ……』
 かたり、とカインはフォークを置いた。
 彼の双眸は無表情だったが、ひどく冷酷で真剣でもある。これがカイン=ロウェルの本来の姿だともいえた。決して心の素顔を他人に見せない氷の仮面を身につけている。
 それでいながら愛する女ひとりのために、幼馴染みにさえも容赦しない。愛情を注ぐのはその女とバイオリンだけに限られていて、それが特別な愛情だからこそ女もバイオリンも彼に応える。
 『ルリには決して手を出すな。いいな』
 カイン=ロウェルには、北条流麗しかいなかった。
 カイン=ロウェルの眼には、北条流麗しか映らなかった。
 どんなにそのふたりが出逢ってしまったことを悔やんでも、もうすでに遅い。ふたりが出逢ったのは小さいけれど確かな奇跡で、それはやはり神様があらかじめ決めておいた約束事に違いなかった。
 ピアノの女神とバイオリンの男神が恋に堕ちた。
 神様から見れば、きっとそれだけのことだ。
 『あたしはあなたを諦めないわよ、カイン』
 キャサリンが再びフォークを持つ手を動かし始める。カインは瞳を伏せたまま微笑んだ。
 『そうか。俺は永遠におまえには振り向かない』
 『後悔するわよ』
 『あとで後悔するのはおまえだぞ』
 美しいスーツ姿の女の瞳が氷のように冷たく輝く。口にした料理を必死で嚥下し、彼女はがたりと席を立った。
 
 

 一週間の仕事によるドイツ滞在を終えてキャサリンがイギリスへ帰国したときには、マリアも流麗も、そしてカインも心身ともに疲れ果てていた。
 一番疲れていたのはカインだったかもしれない。音楽院での講義と仕事の打ち合わせ、それから専科レッスンに加えて流麗を見守り、ビーリアルとキャサリンの動向に欠かさず眼を配り、思えばまともに休む暇さえもなかった。
 キャサリンが帰国したら流麗をすぐに呼び戻せると思っていたにも関わらず、結局母親のレイチェルがすっかり居ついてしまったのである。
 流麗を家に戻すこともできず、カインの疲れは癒されないまま澱のように彼の心に溜まっていた。それでも学院で顔を合わせる時間は多く、寮の門限まではいつでもカインが流麗の傍にいた。
 今まで一緒に暮らしていたせいか、そんな生活が少し新鮮に感じられたのも事実。まだ一緒に暮らせないとはいえ、それでも平穏な日々が戻ってきたと思っていた。



 
 ――英国バイオリニストカイン=ロウェル、女と同棲。

 ――カイン=ロウェルと同棲の女性は、以前他の男との子供を中絶している!?

 ――魔性の娼婦、カイン=ロウェルも騙される。

 ――ヴェルンブルクの天才ピアニストは、実はとんでもない淫乱女だった!!



 世界の有名誌。芸能誌。そして芸能番組にそんなニュースが流れたのは、ちょうど十月初旬に入ったころ。少しずつ、少しずつ、冬の足音が聞こえてくる晩秋の日だった。









 
 第三楽章:愛の狂気

 
 『夜の静けさの中で、私は千の人々の喝采より愛する人からの一言二言が欲しくなるわ』
                            ―ジョディ=ガーランド―


 
 芸能誌の下品な記事には、流麗の名前もプロフィールも事細かに記されてあった。
 天下のカイン=ロウェルを「誑かし騙した女」である。北条流麗というピアニストの名前は芸能誌だけでなく音楽専門雑誌にも流れ、そしてインターネットで瞬く間に世界中に知れ渡ることになった。
 つまりカイン=ロウェルを愛するというのは――こういうことなのだと。
 (ただの一人の日本人なのに……)
 つまりカイン=ロウェルを愛するというのは――こういうことなのだと思い知った。
 芸能記者だろうと思われる無数の人間が、今朝ヴェルンブルク音楽院の正門や裏門に集まっていたのである。ジュリアが敏感に危険を察知し、流麗を隠しながら学院内に入ったが、すでに辺りはあらぬ噂と昨夜のうちに世界に流れたニュースで騒然としていた。
 少し平穏になったかと思えば、結局こうなる。マリアのときのように、ヴェルンブルク学院内だけで解決できる問題ではなかった。
 芸能記者にスクープされる芸能人を見ていていつも可哀想だと思っていた、情報は本当にあっという間に広まるものなんだなと感心してもいた。
 それがまさか自分の身に降りかかるとは思ってもいなかったことである。
 『ルリ……』
 マリア=ルッツの声が、背後から降ってきた。彼女にはまるで似合わない、幾分不安そうな声である。思わず罪悪感に似たものを微かに覚え、流麗はパソコンから眼を離して、傍らのマリアを見上げた。
 『あたしがもっと固く口止めしてたら……』
 たまたま見ていたカイン=ロウェルの応援サイトのBBSには、今も北条流麗に対する憤激とカイン=ロウェルに対する激励のメッセージが書き込まれ続けている。

 ――ルリなんてピアニストの資格はないと思います。

 ――カインの邪魔をするくらいなら死んでよね。

 そんな書き込みも複数見られた。傍目から見れば流麗はまるでこたえていない様子で、むしろマリアのほうが何ともいえない顔をしている。どうやら敵とみなした人間には容赦ないが、一度友達になれば情に厚い女らしい。
 『……気にすることないわよ』
 『大丈夫よ。マリアこそ気にすることないわ。あたしは平気だもの。平気よ』
 ちらり、とパソコンを一瞥して電源を落とす。
 心にはすでに晴れない靄がかかっていたが、それをマリアに気付かれるわけにはいかないと思った。
 『平気よ』
 もう一度だけ小さく呟く。
 どんなにつらくても、カインとピアノがいればそれで平気。きっと耐えられる。
 (大丈夫よ、頑張れるわ)
 



 
 こういった類のスキャンダルは、人の心を変える。流麗が教室に入っただけで辺りはしんと静まり返り、おはようと挨拶をしても返ってくる言葉はなかった。
 ジュリアの挨拶だけが妙に大きく響きわたり、結局マリアも気まずそうな顔をしながら席につく。つい昨日一昨日までは、何の屈託もなく笑いあっていたはずのクラスメイトが今日は視線も合わさない。
 流麗はぼんやりと席についたまま、自分の細く白い手指を見つめた。
 ひそひそと噂しあう声が耳に入る。あの芸能ニュースを信じかけている生徒が多く、それだけに驚愕の色も大きかった。
 よく見知っているはずの流麗なのに、『流麗があんなことをするはずがない』という考えでなく『あの流麗がそんな子だったなんて』という考えに辿り着いてしまっているらしい。
 ついさっき、カインと会ったばかりだった。大丈夫だと。俺がいるから心配するなと。そして自分を悪く言うやつらを決して相手にするなと。彼はそう言った。
 (大丈夫よ。あたしはそんなに弱くないもの)
 
 しかしさすがの流麗も、眉を顰めた。
 『何してる? さすがのおまえでも落ち込んでるのか』
 マリアもジュリアも、皆専科レッスンに行ったあと。かけられた声に、流麗は思わず柳眉を顰めて顔をあげた。ビーリアル=ウェズリーである。彼が涼しげな双眸で流麗を見つめていた。これといって反省の色もなく、ただ自分の思い通りにことが進んでいるのを愉しんでいるような顔をしている。
 『キャサリンに……あたしとカインのこと話したのね』
 『ああ』
 『言わないでって頼んだはずよ』
 『何で俺がそんな頼みを聞かなくちゃならない? 俺はおまえが好きなんだぜ。カインとの仲を壊したいと思って当然だろうがよ』
 ビーリアルに対する怒りは、自分でも思っていたほど大きく込み上げてはこなかった。 ただ心がひどく澱んでいて、何もかもが悲しく眼に映る。流麗とカインの意志をまるで無視しながら掻き乱される生活、しかも流麗が我慢すればいいだけの出来事ではなくて、今回ばかりは明らかにカインに迷惑をかけている。
 淫らな東洋人女に誑かされた哀れなバイオリニスト。そんなイメージでもってカインを書いた記事も無数にあった。
 『俺と付き合えばいい』
 ビーリアルの言葉が、宙でくるくると踊っているようだ。彼に対して何の感情も湧いて来ず、ただここまで大きくなった騒ぎをどうすればいいのか。
 それだけが流麗の心を締め付ける。
 ドイツには――カインに迷惑をかけるために来たわけではない。
 『それですべて丸く収まるだろ。今カインを返してやればキャシーの気も済む。おまえもこれ以上叩かれなくてすむ』
 『…………』
 そういうことじゃないのよ、と言いたかった。言いたかったが唇が渇いて声にならない。
 ピアノを弾くために。カインと音楽を奏でるために。
 そのためにドイツまで来たのに、何故こんなくだらないことで躓かなくてはならないのか分からない。
 口惜しくて悲しくて、そしてこんなことで悩む自分が腹立たしかった。
 『ちょっと!!』
 ちょうどそのときビーリアルと流麗が突っ立っていた休憩室に飛び込んできたのは、流麗のあまり知らない女子生徒だった。
 バイオリン科の生徒のようで、ビーリアルはごく静かな顔で彼女に視線を向ける。流麗もまた彼と同じように、闖入してきた女子生徒に顔を向けた。
 『何だよ、カタリーナ。騒々しい』
 『あんたに用はないのよ、ビーリアル。用があるのはそっちのルリよ』
 流麗はそっと視線をあげた。カタリーナと呼ばれた女子生徒の剣幕から、どちらにしろ自分にとって良い報せを持ってきてくれたとは考えられなかった。
 『あんたね、どういうつもり!? カインのソロリサイタルが取り消されたのよ!』
 (…………え……)
 『ルリ!』
 続いて駆け込んできたのは、カインのマネージャーであるギルバート=ロウェルだった。茫然とする流麗に追い討ちがかけられる。
 『ルリ、頼む。カインの伴奏を辞退してくれ』
 ビーリアルの唇が、わずかに歪んだ。
 『公演先が……おまえのことをよく知らないからだろうが、そんなピアニストの面倒は見られないと。おまえが公演を辞退しないなら、カインのソロリサイタルはキャンセルさせて欲しいとのことだ』
 『そうよ、あんたどれだけカインに迷惑をかけてるの!? そのくせ自分はビーリアルとの間の子どもを堕ろしたですって!? そうなんでしょ、ビーリアル!』
 『ああ』
 (何なのよ、それ) 
 流麗の中絶相手はビーリアル=ウェズリーということになっているらしい。溜息をついて、ビーリアルを見上げる。
 怒りというよりも絶望と、妙な切なさと失望が胸を蝕んでいくのが分かった。こんな男だったのか、と。あれほどの音色を奏でるチェリストがこんな男だったのかと思うと、自分の見る目のなさに笑えた。
 そこまでして自分の欲しいものを手に入れなければ気がすまないのか。
 世界中で自分ひとりが特異な存在ででもあるかのような気持ち。あまりに周りの人間の感情が激しすぎて、複雑に入り乱れすぎて、自分が奇怪な人間じゃないかとさえ思えてくる。
 そして――やはり思い知らされたカインへの飛び火。
 自分が退かないせいでキャサリンの逆鱗に触れ、そしてそれがカインに飛び火した。キャサリンの無言の脅しが、厭というほど聞こえる。
 カインを人質にとられたのと同じこと、これ以上流麗がカインの傍にいれば、必ずもっとひどいことをされるのだろう。いや、カインがひどい目に遭うのかもしれない。
 キャサリンが頭脳明晰な女なら、きっとカインを盾にとる。
 カインを傷つけてでも、きっと彼女はカインを手に入れようとするのだろう。
 『ルリ……俺たちはおまえが悪くないって分かってる。でもカインのリサイタルを心待ちにしてるファンが星の数ほどいるんだ。とりあえず今回だけは辞退してくれ』
 『………………』
 ビーリアルがいる。カタリーナがいる。
 思わず零れそうになった涙を、流麗は必死でこらえた。
 カイン=ロウェルのバイオリンの伴奏を、したかった。ずっと彼の傍で、ピアノを弾いていたかった。
 けれどこのままではカインに多大な迷惑がかかると分かっている。カインから流麗に辞退を促すことは、決してないだろう。
 だから辞退するならば、流麗が自主的に辞退するしか術はない。
 『とりあえず一晩時間をやるから、考えておいてくれるか』
 この後もスケジュール調整などで忙しいのだろう、ギルバートが急いだ様子で踵を返しかけた。
 出逢ってしまった、最初で最後のパートナー。
 世界中でたった一人のバイオリニストで、誰よりも大切に想うようになった存在。
 彼が何を言ったとしても、彼に迷惑をかけたくない。
 バイオリンを弾く場所を、奪うわけにはいかなかった。彼がバイオリンをどれだけ愛しているか、バイオリンにどれだけ愛されているか。
 それを世界で一番よくわかっているのは――おそらく流麗だから。そしてカインのバイオリンに魅入られた流麗だからこそ、世界中のファンからカインの音色を奪ってはいけないと思った。
 きっとカインは怒るだろうけれど。
 『ギル』
 流麗は、ビーリアルとカタリーナが見つめる中でマネージャーを呼び止めた。
 『辞退するわ。でも直前までカインには黙っててね』


 

 大丈夫じゃない。全然大丈夫なんかじゃない。何でなの、ピアノはここにあるのに。
 こんなにも悲しくて苦しいのは何でなの。

 ……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……

 動揺しているのが自分でも分かる。ショパンの『スケルツォ』を弾きながら、自分の指が幾度か鍵盤を外すのを半ば驚きながら両耳で聴いた。しかしどこかでひどく落ち着いている自分がいる。
 『Ms.ルリ?』
 レッスン室の外からかけられた声に気付いて手を止めた。西館の一階にある事務室で、いつも電話の取次ぎをしてくれている中年のドイツ人男性である。小太りの身体が重いらしく、常に噴き出る汗を一生懸命拭っていた。禿げかけた額が電灯に照らされて輝いている。
 『おじさん』
 『電話だよ、下まで降りてきてくれるかい』
 『……電話? はい、分かりました』
 時計を見ると時間はすでに夕食前を指している。レッスン室の電気を消してスコアを抱き、流麗は事務員の男性について部屋を後にした。
 廊下にはまだ生徒の姿が見られたが、流麗の顔を見るとすぐに眼を逸らした。
 人間なんてこんなものよ、と思うには流麗の心は優しすぎる。ただ純粋に、悲しいと思った。
 『もしもし』
 事務室に入り、保留にされていた受話器をとる。受話器が耳と手に冷たくて、思わず眼を閉じた。

 ――『お久しぶりね。ルリ』
 『…………お久しぶりです』

 
 事務員も、少しくらい気を利かしてこんな電話など遮断してくれれば良いのに。思いながら流麗は呟くように挨拶をする。聞き慣れた声ではなかったが、聞いたことのある声。 今一番聞きたくなかったキャサリン=セーラールーフの声を耳にして、流麗の双眸は深く沈む。

 
 ――『お気の毒なこと。あんな記事が流されるなんて』
 『お気遣いどうも。でもあなたなんでしょう? あんな記事を流したの』

 

 鼻で嗤う気配が、電話越しにも明らかに伝わってきた。

 

 ――『冗談じゃないわ。どこにそんな証拠があるっていうの?』
 『………………』
 ――『どこまでもカインに迷惑をかける人ね。さっさと離れなさいって忠告したわよね?』
 『あたしはカインのことを愛してるわ』

 


 心の中では、もう何もかも理解している。それでも流麗は、認めたくなかった。
 愛しているから離れない。そんな単純な行動が認められる状況は、すでにない。

 

 『いい加減にしてよ。あたしだけならともかく、何でカインに迷惑をかけるの?
 ――『カインを愛してるからよ。カインはあたしのものだから。分からないの?』
 『愛してるなら……』
 ――『愛してるなら、離れて。今すぐカインの傍から離れて。もう一度だけ忠告するわ』

 
 

 (ひどいわ)
 けれど流麗一人の力では、何も出来ない。英国名家の令嬢の肩書きを持ち、なおかつ新聞記者でもあるキャサリンが相手ではどうにもならない。
 世界スターのカインですら、報道を止めることはできないのだ。
 事務室の中は、完全に外とは隔離されていて温かい。冷たさを増してきた秋風もここを吹き抜けることはなく、暖かな空気がふうわりと室内に溜まっているだけ。
 ともすれば汗が滲んでもおかしくない室内で、流麗の全身はひどく冷たい。血の気が完全に失せていることを、流麗はどこか意識の外で認識していた。
 マリアに腕を折られたときとは違う。
 何かがひとつ終わった、そんな空虚な心持ちがした。
 (……ひどいわ)

 
 

 ――『そうそう、そういえば言い忘れてた。ルリ、この世の中はね、お金があれば何でもできるのよ。意味、分かる? あんたなんてすぐに潰せるし……それに』

 
 

 頭が痛い。

 
 
 ――『あたしは別にカインがバイオリニストじゃなくても構わないのよ。あんたがこれ以上カインの傍に付き纏うって言うんなら、彼の腕がどうなってもいい覚悟で付き纏うことね』

 
 
 
 頭が痛い。
 頭が痛い。
 息が出来ない。


 
 ただ深く、死のような寂しさを感じる。








 
 第四楽章:愛しているのに 好きなのに。

 
 『一緒に泣いた時に、初めてお互いがどんなに愛しあっているのかが分かるものだ』
                             ―エミール=デシャン―


 
 繁華街に埋もれた小さな楽器店で――出逢った頃は夢か現か分からなかった。
 予想外の出逢いと進展に何度も頬をつねったこと。
 貰ったチケットを何度も何度も確認したこと。
 リサイタルホールの入り口で、偽物だと言われないかとうか不安に駆られていたこと。 彼のリサイタルに行くために、恋をした乙女のように必死で服を選んだこと。
 カイン=ロウェル。一度その音色を聴いたときから虜になり、憧れ、いつか会ってみたいと望んでいたバイオリニスト。あの頃はきっと会うだけで満足だったはずなのに、会ってしまえばどんどん欲張りになって。
 彼とピアノを弾きたい。彼のバイオリンを毎日でも聴きたい。彼の傍にずっといたい。 そうやってどんどん贅沢になっていって。
 世界中にたったひとりしかいないと直感した、最高のバイオリニストだった――カイン=ロウェルは。
 初めて協奏したのはパッヘルベルの『カノン』だった。次に彼の伴奏をしたのは、ちょうどリサイタルから数日後のことだと今でも覚えている。クライスラーの『愛の悲しみ』を知っているか、と訊ねたカインに、流麗は頷いたのだった。

 
 ――ヴェルンブルク音楽院に、一緒に来ないか。

 
 あの奇跡。流麗の運命がひらけたあの瞬間を、決して忘れない。
 憧れのカイン=ロウェルと一緒に音楽が学べる。そんなチャンスが舞い込んできたときには、やはり夢だと思って何度もカインの言葉を思い返した。
 カインはつまり、流麗の憧れで――それから恩人で。そしていつしか愛する人になっていって。
 ピアノとカインがいれば、どんなことでも耐えられる。流麗はそう思っていた。
 平凡だった生活に、ぱっと差した一筋の光。

 
 ――愛しているよ。

 
 その一言で、微笑みが零れるほどに幸せになることができた。
 ほとんど知り合いのいない異国の地に、言葉も分からないまま飛び込んでいったのはカインがいたからに違いない。
 ヴェルンブルク音楽院生の好奇の視線に囲まれながら、『木枯らしのエチュード』を弾いたこと。
 何かが解放された、あのときの輝かしい気持ち。
 決して忘れることのできない快感。
 カインの傍にいることでどんなに嫉妬されても平気だった。マリアに何を言われても、平気だった。家が恋しくても我慢できた。
 すべてが新鮮で、すべてが楽しかった。
 カインがいて、ピアノがいて、それだけで。

 
 ――ルリ。

 
 低いけれど優しい声音。心揺さぶる彼の声は、眼を瞑ればすぐに聴こえる。
 天上の人で、そして大好きで大好きで大好きで。マリアに腕を折られたとき、確かにあのときは絶望の淵で喘いだが、それでも流麗は耐えてきた。
 きっと治る。きっとピアノを弾けるようになる。その強い願いと想い。それからカインの励ましと。
 そうして流麗はあんなにも苦しい試練を乗り越えてきた。
 だから今回も耐えられると思った。だから今回も我慢できると、思ってしまったのだ。 とても悲しい、勘違い。
 そしてバイオリンを弾けなくなったときのカインを想像してみる。

 
 ――俺はバイオリンを愛しているし、バイオリンも俺を愛している。

 
 キャサリンは脅した。流麗が完全に身を引かなければ、カインの腕さえも傷つけてやると。
 彼からバイオリンを奪うということは、彼の命を奪うも同然のことだった。
 流麗は分かっている。理解している。
 どれほどカインがバイオリンを愛しているかということ。
 どれほどバイオリンがカインを愛しているかということ。
 どれほどの人々が彼の音色を待ち望んでいるかということ。
 きっと世界で一番、流麗が分かっている。流麗だからこそ、分かっている。

 『迷うな。迷わされるな。常に自分に問わなければならない。無駄な迷いはないか。最善を尽くしたか。自分に対する猜疑心はないか。自分が正しいと思う道をゆけ。そのときは何も手にできなくても、きっといつか何かがついてくる。していいのか、してはいけないのか。そんなことは考えるべきではない。己のしたいことを、どのようにして達成するかだけに全てを賭けよ。己がしたいと決めたこと、己がゆくと決めた道に対して、一瞬たりとも気を抜くな。それが栄光への道だ。環境が良くとも悪くとも関係ない。恨むな、羨むな。全ては己の責任だ。決して心を賎民にしてはならぬ。心はいつでも気高き貴族のままに』
 
 カインがいつか出したCDに記されていた、彼の言葉。過去に何度も力を貰った。
 それが今、痛いほどに切なく流麗の心に沁みこんでくる。絶対に見失えない、ひとつの灯。

 
 ――迷うな。迷わされるな。自分が正しいと思う道をゆけ。

 
 自分が今とるべき正しい道は何だろう。
 「カイン…………」
 レッスン室のグランドピアノ。ようやく今回の騒ぎの数々が、実感を伴って流麗を襲う。
 いつだって泣くことを我慢してきたはずだった。
 いつだって、大丈夫大丈夫、と。
 平気よ、と。
 そうやって自分に言い聞かせてきた強さが、今あっけなく崩れ落ちてゆく。無意識のうちに抑えようとした涙は、あっさりと流麗の睫毛を濡らして――流麗をひどく驚かせた。 一度溢れだした涙は止まらない。
 神様、と流麗は小さく呟いた。自分が今とるべき正しい道は何だろう。
 「…………ごめんね」
 人には譲れないものがある。
 流麗にとったらピアノで、カインにとってはそれがバイオリンだったりする。
 どんなにお互いが愛し合っていたとしても。

 
 ――ルリ。

 
 カインを愛している。
 声を思い出すだけで、彼の顔を思い出すだけで、切なく胸が締め付けられる。くんっ、と糸で引かれるような胸の痛み。苦しみと悲しみで膨らんだ心は、もう少しでも突けば弾けてしまう。風に揺れる風船のように。
 無理やり微笑んでみても、ピアノの黒光りする楽譜台に映る顔は涙で歪んでみえた。笑えていない、それがこんなにも辛いことだとは思わなかった。
 何ということもなく、鍵盤をひとつふたつ叩く。あなたも泣いているの、と流麗は鍵盤を撫でた。
 (そうよね)
 だって、もう二度とカインのあのバイオリンと協奏できないんだもの。出逢わなければ良かったかもしれない。そうすれば、こんなに胸が痛むこともなかったかもしれない。
 けれど出逢ってしまった。そしてそのことで、これ以上ない幸せを感じたのも事実。消せない事実。
 どれほど頑張っても、カインを心から消すなんてできっこない。
 カインを愛している。
 それだから、と流麗は暖かく伝う涙を拭った。眼前のピアノも、涙ぐんでいるように見えた。自分の涙で滲んで見えたから。
 きっとカインは世界中でリサイタルをするだろう。きっと世界中に愛されるバイオリニストとして生きていくだろう。
 比べて自分は一度はピアノから離れた身だから。
 大丈夫、我慢できる。
 カインが永遠にバイオリンを弾いてゆけるなら――それなら大丈夫だ。彼の姿を客席からひっそり見ることくらいはできる。
 きっと少し高望みをしてしまっただけ。少し思い上がってしまっただけ。きっとずっとカインの傍にいれる、と。
 カインを愛している。
 だからあたしは決断できる。どんなに悲しく辛い決断であっても。必死で涙をこらえながら、微笑みかけてくるカインの残像を打ち消す。流麗はそっと呟いた。

 

 カイン。あなたから、バイオリンを奪うことはできないわ。
 カイン。あなたから、バイオリンを弾く手を奪うことはできないわ。
 カイン。この世界から、あなたの音色を奪うことはできないわ。



 

 神様、お願いします。あたしのこの決断が――どうかカインに少しでも優しく伝わりますように。


 


 ――さよなら、カイン。
 
 ――さよなら、あたしの大切な人。







 
 第五楽章:距離(上)

 
 『あの愛が永遠に続くと思ったけれど、私は間違っていた』
                              ―オーデン―


 
 ――――想いは。

 
 想いは。

 青空よりも高く、光る海より深く輝いている。

 この日を、きっとあたしは忘れない。



 
 日用品は、置いていく。きっとマリアも使うだろうから。
 楽譜と最低限の衣服。貴重品とパスポート。持っていくものといえば、それくらいだった。
 置いていこうか最後まで迷ったが、ヴェルンブルクでの生活で撮った写真はバッグに詰め込む。一枚一枚見るたびに、幾度も流麗は涙を拭った。
 写真の中では、流麗もカインも皆笑っていた。そして首筋に指をやる。
 腕を怪我して日本に帰国していた頃、カインが来日して。あの日貰ったペアネックレス。持って帰りたかった。
 輝きを失わない美しいシルバーに、流麗はやはり悲しくなる。置いて帰ろう、と思ったけれど、しかしどうしても首から外せなかった。
 日用品は置いていく。きっとマリアも使うだろうから。
 思い出も出来ることなら置いて行きたかったけれど、それができないのが自分の弱さだと流麗は思った。
 退学届を受け取った学院長は、ひどく悲しそうな顔をした。あなたは悪くないのに、と何度も退学届を押し返そうとしたが、流麗の決意は固く。
 では休学届ということにしておきましょう、という学院長の言葉に流麗も譲歩した。
 体調が悪いので休む、とマリアには言ってある。
 おそらくマリアからジュリアに伝わっているだろうし、彼女たちからカインにもその旨は伝わっているだろうと思われた。
 全員が礼拝堂に集まる祈りの時間――つまり学院内が最も静かになる時を見計らって、流麗は学院長室へ足を向けたのだった。
 荷物もすでにまとめていた。飛行機のチケットも、取っていた。
 『いつか貴女が帰ってくるのを、私たちはずっと待っています』
 流麗は、ただ黙って頭をさげる。
 『ピアノを続けて頂戴ね』
 『はい』
 お世話になりました、と流麗はずいぶん上達したドイツ語で挨拶をした。
 初めて渡独してきたときには、ほとんど話すことの出来なかったドイツ語であった。
 (大丈夫。あたしにはピアノがあるわ)
 それだけが心の拠りどころとなるだろう、これから先は。
 『さようなら、ルリ。必ず戻っておいでなさい』
 『ありがとうございました。先生』
 専任講師だったオットー=エアハルト講師には会えないままだった。手紙を学院長に託す。
 そして流麗はもう一度深く頭を下げると、学院長室を後にした。廊下は、しんとしている。
 今まで親交を深めてきたクラスメイトたちがどんな思いで神に祈っているのか、もうすでに流麗には分からない。荷物がひどく重く、何かとても寂しい気持ちがした。

 芸能記者がうろうろする正門裏門を歩いて抜けることは出来ないので、中庭から学院長が手配してくれた車に乗って学院を出る。窓にはグレーのフィルムが貼られているので、おそらく外からは見えていないはずだった。
 正門から滑り出す車中から、何ともいえない気持ちで遠ざかるヴェルンブルク音楽院を見返る。嫌なこともたくさんあったけれど、それでも心は惹かれてやまない。こうして振り返れば、今にも走って戻っていきたいほど懐かしく。たった一年半の間に、いろいろなことがあった流麗の聖地。
 数限りない音色に囲まれて過ごした、きっと一生涯の中でも最も輝いていた日々。
 決して忘れない。
 「さよなら、ジュリア」
 ずっと支えてくれた親友だった。大好きな大好きな女の子。
 「さよなら、マリア」
 どれだけマリアには苦しめられたことだろう。大嫌いだった。彼女に何をされるかと、腕を折られてからはずっと怯えていた。
 まさか女子寮で一緒に生活できるようになるなんて、あの頃は欠片も思ってはいなかった。今でも口は悪いけれど、それでも仲良くなった女の子である。語ることのできる思い出は、尽きない。
 きっと年をとったら――あんなこともあったよね、と。笑って話せる。
 「さよなら、ビーリアル」
 それでも彼のチェロの音色は清明である。この男が秘密を暴露しなければ、もしかするとこんなことにはなっていなかったかもしれない。
 憎もうと思えば幾らでも憎めるのに、何故かこみあげてこない憎悪。
 ただ切なくて――ただあなたとも純粋に仲良くなれればいいと願っていた。叶わなかったけれど。
 『もうすぐ空港に着きますよ』
 運転手の男性が、中途半端に流麗を見返りながら教えてくれた。
 『荷物運びますから、まとめといてくださいね』
 頷いて微笑み返す。
 「さよなら、鏡」
 同じ日本人だから、もしかするといつかまた会えるかもしれない。彼はマリアと結婚でもするのだろうか。そうしたら彼らの結婚式にも出てみたい。
 鏡がドイツへ発ってから、ずっと帰ってくるのを待っていた――初恋の人。

 
 今思い返せば、いい出会いだったなと。
 
 
 懐かしさと幸福感は流麗の胸をひたひたと満たし、最後に行き着く想いはやはりあの人。
 さよなら、と口に出すのは辛すぎる相手。


 

 ――さよなら、カイン。



 
 誰一人見送りなどないまま、流麗を乗せた東京行きの飛行機は、ドイツミュンヘンから飛び立った。



 
 ―――――――――――――――――――

 ふわ、と前髪を揺らす秋風に、カインは空を見上げた。遥か遠くで轟音を立てながら、飛行機が飛んでゆくのが見える。
 そういえば流麗は飛行機が苦手だったな、とカインは小さく口許を緩めた。
 『カイン!』
 駆けてきたギルバート=ロウェルの声に、カインはバイオリンケースを左手に持ったまま振り返った。
 胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。煙がふらふらと上に昇っていく。
 『リサイタルの件だがな』
 『……そのことは昨日も言ったろ。流麗の伴奏ならキャンセルするって相手が言ってきたんなら、それでいい。リサイタルを白紙に戻せよ』
 伴奏が流麗でないのなら、意味がない。俺はあいつを愛しているし、それに何よりも俺はプロのバイオリニストだ。
 世界で最高の音色を提供するのが俺の仕事だ、とカインは思う。そのためには流麗の伴奏が必要不可欠だった。
 『そのことだけどな、キャンセルしなくても良くなったんだ』
 『何?』
 あれだけメディアが騒げば、顔も名前も知られていなかった流麗の印象は悪くなる一方だろう。公演先が、そう簡単に流麗の伴奏を許すわけがなかった。
 それでなくとも頭の固い連中が中枢を占めているクラシック界である。中絶だの淫乱だの、そんなイメージがついたピアニストなど使うはずもない。
 (俺は忠告してやったつもりなんだがな。キャサリン)
 なぜこうも女たちというのは、神経を逆撫でしてくるのだろう。
 『ルリが……辞退したんだ』
 幾分迷った様子を見せた後に、ギルバートが呟いた。彼にも罪悪感がある。
 カインがどれほど流麗を愛しているか。流麗がどれほどカインを愛しているか。彼らふたりがどれほどお互いの音色を尊敬してやまないか。
 傍で見ていて、ギルバートにはよく分かっている。流麗ほど純粋で優しい子を、ギルバートは見たことがない。
 そんな彼女に辞退させたのは自分だと、彼はしっかり自覚していた。
 『…………おまえ、ルリに何を言った。あいつの伴奏が駄目だというなら、リサイタルなんぞこっちから願い下げだ』
 『でもおまえ、せっかくルリが……。ルリはおまえのために辞退したんだぞ』
 『断っておけ』
 煙草を乱暴に揉み消し、カインは足早にその場を離れる。
 『カイン!』
 ついてくるな、とひどく冷たい双眸でギルバートを睨みつけると、カインは真っ直ぐに女子寮へ向かった。
 だめだ、と思っても心は明らかに動揺している。女子寮の入り口でマリアとジュリアがしゃがみこんでいるのを見たとき、しかしカインはひどく厭な予感がした。
 『マリア』
 『カイン…………ルリが』
 あのマリアが、流麗を思って涙ぐんでいた。
 『………………』
 自分と流麗の距離が、今ひどく遠いのをカインは感じた。


 

 ――哀しみの白い天使よ。

 ――凍えさせてくれ、別れの時を。



 カイン=ロウェル。
 ビーリアル=ウェズリー。
 キョウ=アサクラ。
 マリア=ルッツ。
 ルリ=ホウジョウ。


 

 ――――クリスマスリサイタルは、無期延期となった。







 

 第五楽章:距離(中)

 

 遠い。何もかもが遠すぎる。
 初めて涙を零したあの夜から、すべてが凍りついたまま。時間だけが無情に過ぎていく。
 『分かったよ』
 『ホント……!? 嬉しいわ、カイン……ホントに信じていいのね?』
 『ああ』
 カイン=ロウェルの綺麗な手が、栗色の髪の美女を抱き締めた。


 
 ―――――― 同じ空の下。

 同じ空の下なのに遠い。同じ空の下なのに、日本とドイツはあまりにも遠い。

 


 昨夜は高校のクラスメイトたちに誘われたクリスマスパーティーがあったが、参加する気分にも結局なれずに北条流麗は家でぼんやりと楽譜を眺めていた。
 休学という形で帰国しているわけだが、もうドイツに戻るつもりはなかった。
 今覚悟を決めなければ、きっと心が揺らいでしまう。
 そう思った流麗は、帰国した翌日に高校編入の手続きをとった。県立南高校――つまり流麗がドイツヴェルンブルク音楽院に編入する以前に通っていた懐かしい高校である。
 普通に高校を卒業して、普通に大学に進学して。普通の生活を送ろう、と流麗は思った。
 あのとき楽器店でカイン=ロウェルと出逢ったのは間違いではなかったけれど、つまるところあれは夢だったのだと。そう思うことにする。明るく輝かしい夢を見ていただけのことなのだと。
 (夢から覚めたんだわ、あたし)
 本当ならクリスマスリサイタルで――流麗の横にはカインやマリアがいるはずだった、なんてそんなことは思わないことにする。
 明らかに流麗は無理をしていたが、そのことを自覚する余裕すらも彼女にはなかった。

 『ルリ♪ お茶でも行こうよ。早く返信してちょ☆ 待ってるポン』

 恭子からのメールを見つめながら、流麗は迷う。帰国してきてから、学校以外のために外出するのがひどく億劫になった。
 何かをする気力もなく、一日一日を必死の思いで切り抜けているような感覚であった。
 (流麗。戻るのよ、自分で戻ろうとしなきゃダメなのよ。カインと出会う前の日常に)
 昔はどうしていた? 必死で思い出す。そう、恭子から誘いがあればすぐに乗っていた。
 戻るのだ、カインと出会ってしまうそれより以前のあの日々に。
 (戻るのよ。カイン=ロウェルはただの憧れのバイオリニスト。それでいいのよ)
 いつか会えたらいいなあ、と。ただぼんやりとそう思うだけの憧れの相手。
 
 『駅前のカフェで待ち合わせしよっか☆』
 
 恭子にメールを送る。あの頃の日常を忘れてはいけない。
 ベッドの上に出しっぱなしになっていたジーンズを履き、薄いピンクのハイネックの上から黒いダウンジャケットを羽織る。フードのぐるりにはファーがついていて、それが流麗の身動きに合わせてふわふわと首筋をくすぐった。
 カインと会うときには迷いに迷った服選び――何度も何度も着ては脱ぎ、着ては脱ぎ。 そんな過去をふと思い出しながら、また涙ぐむ自分が切なくて情けなくて嫌だった。



 お洒落なそのカフェは、意外と穴場でもある。若年層を標的にしている、というよりはクラシックファンを標的にしたシックなカフェで。
 例に漏れずカイン=ロウェルや朝倉鏡のCDなどをこまめに流してくれる店でもあったから、流麗はドイツへ行くずっと前からこのカフェには足繁く通っている。

 ……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……

 ちょうど流れていた曲がベートーヴェンの『月光』で、危うくじんわり涙ぐむところだった。ひとつ大きく息を吸ってから、心の欠片も動かさないようにして店内に入る。
 すでに恭子が来ていて、店の一番奥のボックス席からこちらに向けて手を振っていた。
 「ごめんね、待った?」
 「大丈夫よ。何してたの?」
 アールグレイを頼みかけて、流麗は慌ててやめた。ホットココアを頼んで、恭子に向き直る。
 「ボーッとしてただけ。誘ってくれて良かったわ、暇してたから」
 「そっか。どう? 日本にも慣れた?」
 少しばかり心配そうな恭子の視線が、まだ仄かに痛い。帰国した当初は、気遣わしげな視線で見つめられるたびに胸が締め付けられて今よりもよほど苦しかったが。
 「慣れるも何も、ドイツには一年半しか居なかったんだから」
 
 
 ――……婚約したらしいよ、正式に…………ったのかな……

 
 ココアが運ばれてきて、流麗と恭子の会話が途切れたそのときに、近くの席で話す女性客の会話が耳に飛び込んできた。

 
 ――ほら、噂になった日本人の女の子ってどうしたのかしらね。

 ――可哀想だよね、ちょっとね。

 
 恭子が焦りの表情を浮かべて、落ち着かない仕草でジュースをすすった。流麗は困惑しながら大丈夫だよ、と恭子に微笑みかける。
 あまり友人に心配をかけるわけにもいかなかった。女性客が話している内容は、流麗の思いとは裏腹にはっきりと耳に入ってくる。
 聞くまいとしても、無意識のうちに耳が会話の内容を捉えようと躍起になっているようだった。結局忘れようと思っても忘れられないのだと、事あるごとに実感してしまう。
 それが厭だ。

 
 ――でもホラ、婚約相手のキャサリンって人。何かタカビーで厭な感じィ。

 
 (キャサリンと婚約……)
 ココアを飲もうとする指が微かに震えているのが分かり、慌てて流麗は両手をテーブルから下ろした。誰にも、この動揺は見られたくなかった。
 見られれば最後、動揺が本当になってしまう気がして。
 「あ、流麗。もう出よっか、あたし用思い出して……」
 残ったジュースを一気に飲み干して、恭子が無理やり席を立つ。彼女の気遣いがひどく痛かったが、それでも流麗は彼女の行為に甘んじた。
 この場には、もう一瞬たりとも長居したくなかった。
 あたしってこんな子だったかしら、と流麗は自分がまるで知らない人間のようにも思えた。何故だろう。何故人は、こんなにも弱くなるのだろう。
 「恭子、別に無理しなくても……」
 「いやホント、用ができちゃって。ごめんね、あたしから誘ったのに」
 分かりやすいんだから、と流麗は微笑む。
 その気遣いがとても辛いのよ、とはとても言えなかった。
 「いいよ、また改めてお茶しよっか」
 弾けそうな心を抱えたまま、流麗は笑って恭子に手をふる。何となく気まずそうな顔をして去っていく彼女の後ろ姿を、流麗はあえて見ないようにした。
 日本へ帰ってきてから、ヴェルンブルクでの写真を見るたびに、彼のことを想うたびに涙涸れるほど泣いたのに、それでもまだじんわりと浮かんでくる涙が憎らしい。
 (やっぱり断ればよかった……)
 恭子の誘いに乗って外出しなければ良かった。こんなにも自分は弱い人間だったのだろうか、と流麗は切なく思う。
 ドイツで見知らぬ少年たちに拉致されたときだって、もっと毅然と対処できていたのに。
 ほんのわずかカインの婚約の話を小耳に挟んだだけで、こんなにも揺れる心。
 忘れなければ、と思えば思うほど忘れられない。そんな当たり前の感情、よく漫画のモノローグなんかで読む言葉が、実はこんなに実感できる感情だとは、思ってもいなかった。
 陳腐な恋愛ドラマの主人公になったような気がして、思わず流麗は顔をしかめた。
 もう少しでこの一年も終わる。一年が終わると同時に、記憶もさっぱりなくなってしまえばいいのに。
 (どんどん馬鹿になってく気分だわ)
 自嘲気味に小さく笑って、流麗は俯いたまま帰途についた。



 

 ――――――――――――――――――――

 
 『珍しいわね、あなたがそんなに簡単に承諾するなんて』
 深い色合いの紅茶を差し出して、レイチェルは微笑んだ。そんなことを言いながら、意外にも容易に婚約を承諾した息子に満足しているのである。
 母親の安堵感あふれる笑顔に、カイン=ロウェルは冷たい笑みを返した。
 息子の笑みがひどく無感情であることに、母親は気付かない。
 『結婚式も出来たら早めに挙げたいわね。いつがいいかしら?』
 『いつでもいいさ。そっちで好きに決めてくれれば』
 『リサイタルが来年の夏までひっきりなしだから……それが落ち着いてからのほうがいいわね』
 『………………』
 鬱陶しい、とカインは母親の笑顔から眼を逸らした。ごちそうさま、と呟いて席を立つ。
 まとまった休みができたから、と彼女はずっとこの家に居座っているのである。
 『あら、もういいの?』
 『食欲がないんだ。俺はこれで』
 レイチェルが用意した豪華な食事をほとんど残したままで、カインは静かに二階の自室にあがった。
 (――……っくそ)
 脱いだジャケットを、思いきりベッドに叩きつける。
 数ヶ月前まで、流麗も一緒に腰を下ろしたり寝転がったりしていた場所。
 カインはベッドに腰をおろして、溜息とともに手で額を覆った。考えれば考えるほど苛立ちと怒りが募り、あまりの激情に身体中を悪寒が走ることさえある。
 キャサリン=セーラールーフ。殺せるものなら、この手で殺してやりたかった。
 それでもあの女を抱き締めたのは、いつか必ず流麗を取り戻すため、それだけのためである。
 (時を見極めろ)
 そうして毎日自分に言い聞かせる。
 いつか必ず、キャサリンをどん底へ突き落としてやる。
 いつか必ず、流麗をこの手に取り戻す。
 必ず流麗と演奏する未来を勝ち取ってみせる。
 (――耐えろ)
 必死でこみあげてくる憎悪を押し殺して、カインはシャツに着替えレッスン室へ足を運んだ。今の自分には、バイオリンしかないことを彼は痛いほど自覚している。
 レッスン室に堂々と鎮座するグランドピアノを見るたびに、思い出すのは北条流麗しかいなかった。
 あの純粋で優しい笑顔が脳裏を走り抜けるたびに、いいようのない苦しみが胸中を貫く。
  『ルリ……必ずおまえを迎えに行くから』
 そっとピアノを撫でるだけで、流麗の明朗な顔が眼裏に蘇る。楽しそうにピアノを奏でていた彼女の姿が、眼裏に浮かんでは消えてカインの心を切なく揺さぶった。
 カイン=ロウェルは、流麗を諦めてなどいなかった。諦めてなどいなかったし、やはり今でも誰より流麗を愛していた。だから。
 (いつか叩きのめしてやる……キャサリン)

 ――……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♪♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……

 クライスラーの『愛の悲しみ』。切なく柔らかな旋律と、心奥深くを揺さぶるような音色。流麗がリサイタルに来てくれたあの夜、カインが滞在するホテルで一緒に奏でた懐かしい楽曲だった。
 今、流麗は遠い日本で何を想っているのだろうか。
 俺が流麗を想っているように、彼女もまた俺を想ってくれているだろうか。
 そんなことを考えながら、バイオリンを静かに奏でる。
 流麗と――――もしかすると出逢わなければ良かったのかもしれない。彼女の代わりは世界のどこを探してもいない。
 これほど愛するバイオリンを弾いていても、心のどこかに穴があいている空虚感。
 時折その空虚感に耐え切れず、死にたいとさえ思うことがある。

 …………♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫…………

 愛の悲しみか、とカインは黙り込むピアノを見つめながら指を動かす。出逢わなければ良かったのかもしれない。愛さなければ良かったのかもしれない。
 そう後悔しながらも、もし出逢わなかったら――愛し合えなかったら、と思うと苦しくて息が詰まる。
 (過ちにしてたまるものか……)
 思い出になどさせない――この俺が。流麗は永遠に俺のもので、俺は永遠に流麗のものだ。他の誰にも譲れない。
 『ルリ……』
 呟けば怒涛のようにこみあげてくる感情。
 会いたい。
 流麗に会いたい。
 会って抱き締めて、そして愛していると一言でいいから――。
 『ルリ』
 必ずおまえを取り戻す。
 (……泣くな、ルリ……)
 眼を閉じる。バイオリンを持つ手から、力が抜けた。

 泣くなと心で呼びかけているはずのカインの睫毛が、涙で濡れていた。









 
 第五楽章:距離(下)


 セーラー服の襟が、冬の風に揺れる。
 厭なこともたくさんあった一年が終わり、冬休みも終わり、南高校は三学期を迎えていた。
 「実力テスト数学八点だったんだけど」
 恭子が赤いペケだらけの答案用紙をひらひらさせながら呻く。
 「授業聞いてないからよ」
 「ホント、いいよね。流麗は成績いいし、ピアノも弾けるし」
 成績がいいとはいっても、恭子ほど悪くないだけである。楽譜の暗譜が得意なだけあって、文系科目は非常に良かったが――理数科目ともなれば少々躓く。
 恭子は授業中寝ているか、鏡を見てヘアスタイルと化粧のノリを気にしているかのどちらかである。
 よほどの天才か、それともよほど家で勉強していなければ良い点数を取れるはずがない。
 「流麗、今日はどうすんの? 直接帰る?」
 「ちょっと寄るところがあるの。用事済ませてから帰るわ」
 「そう? じゃ、また明日ね」
 いつもよりマスカラを多めにつけているところを見ると、おそらく今からデートなのだろう。楽しそうにスカートを揺らして駆けていく恭子を見送って、まるで年寄りにでもなった気分で流麗は微笑んだ。
 きっともう二度と――あんなふうに恋をすることはないだろう。
 しばらく立ちつくした後に、流麗は震えているのではないかと思うほど凍える手で鞄の中を探った。
 (――…………)
 指先が冷たいのは、きっと冬の冷気だけではない。極度の緊張が流麗を襲っている。
 鞄の中からそっと取り出した紙切れが、強い冬の風にぴらぴらと微かな音をたてた。
 忘れられるはずなんてなかった――そんな簡単に彼を切り離せるはずなんてなかった。

 
 『何よりも深い愛をこめて ―無伴奏ソロリサイタル― 』


 カイン=ロウェルのリサイタルチケット。気を遣った父親がチケットを入手して、そっと流麗の机の上に置いてくれたのだった。帰国したあの日、母親よりも先に流麗に駆け寄り、抱き締めて泣き叫んだ父親である。気丈な母親が声を殺して泣く脇で、父親はうるさいほどに泣き喚きながら流麗の運命を呪っていた。何で俺の娘がこんな目に遭わなきゃいけないんだ、と。
 破り捨てよう、と思った一枚のチケット。たった一枚のチケットを見ただけで、あの日あの時カインと出逢った思い出が怒涛のように蘇ってくる。それは懐かしいことでもあったが、しかしまた何より流麗を苦しめている要因でもあった。
 チケットに印刷されている日付は――――今日。結局破ることなど出来なかった、長方形の薄っぺらい紙切れである。
 (……だめよ、あたし)
 行っちゃだめよ。決して行ってはだめ。きっと今以上に忘れられなくなるだけだから。 取り出したチケットをしばらく見つめてから、流麗は深く深呼吸をしてそれを鞄の中に押し込む。
 いつか笑ってカイン=ロウェルのことを思い出せるようになるまで。
 いつか笑ってカイン=ロウェルのことを話せるようになるまで。
 きっと何よりも時間が必要だと思った。
 
 帰宅途中に、ショッピングモールの中に入っているCD店に寄る。母親に尾崎豊のCDを買ってくるように頼まれていたことを、ぎりぎりで思い出したのだ。
 あの年になっても、尾崎はいいよねぇ、とうっとりしている母親にはさすがの流麗も感心する。
 (自分で買いに行けばいいのに……何で今頃尾崎豊なのよ。金城武のファンじゃなかったの?)
 何枚か置いてあるCDのうち、ベストアルバムを一枚手に取る。タイトルを確認してレジに持っていく流麗の足は、やはりあるところで知らず知らず止まった。
 (キョウ=アサクラ……マリア=ルッツ…………)
 無意識のうちに探してしまう、あの名前。探すまいと思っても、自然と眼が彼の名を探す。悲しいまでに制御できない自分の行動。
そして探せばあっという間に見つけることができる。
 きっとどんなことがあってもその名前を見つけることができる。
 きっとどんなことがあっても、どんな人ごみの中でも、彼の姿を見つけることができる。
 心が彼を捜し求めてやまないから――いつでも彼の姿を求めて泣いているから。
 (……カイン=ロウェル)
 思わずCDに伸びる手を、流麗は止めることができなかった。バイオリンを弾くカインの姿が、ジャケットで雄々しく踊っている。色素の薄い髪、野生的な美しい双眸。まるで貴公子のような品のよい容姿。
 その何もかもが懐かしく流麗の眼をうち――心を揺さぶる。そのCDコーナーの傍らで、コンポからバイオリンの音色が溢れていた。
 (…………ぁ)
 
 ――――♪♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫…………

 どこかまるい切なさ。柔らかで優美な音色でありながら、何かを守ってやまない強靭さをあわせもった心地よい音色。音のひとつひとつに羽根があって、どこか遠い光に向かって舞い上がってゆくような。それはまるで神様に捧げる美しいカノン。
 まぎれもないカイン=ロウェルの奏でるバイオリン。涙が出る、と思って流麗は反射的に眼元に手をやった。
 (パッヘルベル…………)
 何度聴いても思い出す、あの出逢い。今思えば儚い、しかし確かな美しい奇跡だった。

 ♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫…………

 無理やり足をレジに向け、震えそうになる指を押さえて支払いを済ませる。
 耳を塞ぎたかった。耳を塞ぎ眼さえも閉じてしまいたかったが、しかしバイオリンの音色は残酷なほどに流麗の耳を貫き、心を震わせた。どうしたって彼の音色には勝てないことを、流麗は心の奥底で理解している。だから涙が出る。
 心が何をおいても彼を求めるばかりで、涙が零れて止まらない。
 会いたい。カインに会いたい。会って抱き締めて、そして愛していると一言でいいから――。
 
 買ったCDを鞄の中に突っ込んだときに、再び眼に入る一枚のチケット。

 (……だめよ。絶対に行っちゃだめ)

 ――でもたくさんの人が来るんだから、気付かないわ。

 (だめよ。もう忘れるって決めたんだから)

 ――忘れるっていったって、カインは世界の人よ。どうしたって忘れられない。

 (行ったってつらくなるだけじゃない)

 ――忘れられないんなら、いっそ聴きに行ったほうが得じゃないの。彼のバイオリンに憧れてただけの北条流麗に戻るのよ。


 
 CD店を出たところで茫然と立ち尽くす流麗を、人々が見てゆく。もう一度流麗は、鞄の中から裸のままのチケットを取り出した。
 なかなかとることのできないカイン=ロウェルのチケットだった。凍える心の中で、流麗は自問自答を繰り返す。
 (あたしは、どうしたいの?)
 カインに会いたい。一目でいいからカインの姿を見たい――渇ききった唇が、カインの名を呟く。
 心が、走れと叫んでいた。心が叫ぶままに、足が動いていた。
 「カイン…………」
 ちょっと見るだけなら。ちょっと聴くだけなら。流麗の足が踏み出される。
 (カインは知らない人。会ったこともない人よ。世界一のバイオリニストの演奏を、あたしは聴きに行くだけ)
 制服のスカートが揺れる。
 一度行ったことのある、あのリサイタルホールへ流麗は向かう。ショッピングモールからすぐ近くの駅まで全力で走った。何人か知り合いとすれ違ったような気もしたけれど、立ち止まることはできなかった。
 大丈夫だ、と心に言い聞かせながら流麗は電車に乗り、改札を駆け抜ける。既視感を感じながら――あの日心躍らせながら見たリサイタルホールを複雑な思いで見つめながら、すでに人気のなくなった受付でチケットを切ってもらう。
 父親が買ってくれたチケットは、その大学教授としての力なのかバイオリニストとしての力なのか前から二列目の真ん中という席で。流麗は幾分カインに見つかるのではないかと怯えながらその席についた。
 見渡すと辺りは若年の女性客が多い。以前カインのリサイタルを聴きに来たときも、そういえば女性ファンの多さに驚いたのだったと流麗は懐かしく思った。
 開演寸前に滑り込んだ流麗をまるで待っていたかのように、ホールが暗くなりブザーが鳴る。心臓がうるさいほど脈打っていた。
 そして左手から堂々と闊歩してくる一人の青年と――――割れんばかりの拍手。恍惚と見惚れる女性ファンの溜息。








 何も聴こえなかった。まったく音のない静寂が流麗を包んでいた。燕尾服の凛然としたカイン=ロウェルの姿だけが鮮やかに眼に映り、そして気付いたときには我慢できずにホールを飛び出していた。


 見つめることさえできなかった。


 リサイタルホールを飛び出た階段の下で、流麗は声も抑えきれずに泣き続けた。







 第六楽章:孤独の渓(前)


 『孤独はこの世で一番怖ろしい苦しみだ。どんなに激しい恐怖も皆が一緒なら耐えられるが、孤独は死に等しい』
                                ―ゲオルギウ―



 それでも流麗はピアノを弾く。


 ♪♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫…………


 烈しく強い音色。その細い指のどこにそんな力があるのかと思われるほど、浮ついたところのない音色。こんなに哀しくて苦しい時でも、自分はピアノを弾くことができるのだと。流麗は切なくも嬉しくも思う。ハンガリー舞曲ト短調、ニ短調。知らず知らずのうちに短調の曲ばかりを奏でているのは、やはり心が泣いているせいだろうか。
 誰か助けて、と泣き叫んでいる。何でこんなにも悲しいの、と心を痛めている。

 ……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……

 それでも流麗は、ピアノを弾いているときだけは純粋にピアノだけを考えることができた。そのときだけはカインを忘れることができた――たとえ無意識のうちに彼を想っていたとしても。
 流麗にとっては、もうピアノしかなかったのである。ピアノしか残っていなかった。きっと両親もクラスメイトも、話せば受け止めてくれるのだろうけれど。
 (頑張ろうね、あたし。大丈夫よ、あたしはそんなに弱くないもの)
 そうでしょ、神様。
 あたしはこんなことでダメになるほど、弱くないでしょ?
 (頑張って。あたしにはもうピアノしかないんだもの)
 それは訣別でもある。
 あの日、リサイタルホールでカイン=ロウェルの姿を見ただけで逃げ出してしまった自分への訣別。零れる涙を抑えることができない自分への訣別。
 (ピアノしかないんだったら――ピアノで一番上まで這い上がってみせるわ)

 ……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……

 訣別と悲鳴の音色。引き裂かれた想いをもう一度繋ぐために紡ぐ音色。
 (頑張るのよ。あたしは負けない。絶対に負けないわ)
 あたしは負けない。カイン=ロウェルのことも、無理やり忘れようとしなければいい。素敵な思い出だったな、と。
 そうでしょう、神様。
 神様がプレゼントしてくれた、最初で最後の素敵な思い出。
 そう思えば、きっとこれからも頑張っていける。ピアノを奪われてしまうよりは、きっと些細な苦しみなんだと思うことにする。
 必死で頑張っていれば、時間なんてあっという間に過ぎていくから。

 涙も、もう出ない。
 
 「流麗? ちょっと買い物行ってきてくれない?」
 防音室の扉が開いて、無遠慮に母親が声をかけてくる。彼女も故意に明るく振舞ってくれているような感があった。
 「はーい……っ」
 (――……痛……)
 右手に鈍く重い痛みを感じた。特にぶつけたわけでも、体重をかけたわけでもなかった。
 (………………?)
 どこか傷つけたかと思って自分の手首を見下ろす。しかしどこに傷があるわけでもなく、いつもと同じ白く細い手首がそこにあるだけだった。
 「流麗?」
 「……っえ? ああ、買い物ね。何買って来ればいいの?」
 小首を傾げながら右手首をちょこちょこと動かし、そうしてから流麗は防音室を後にした。



 ――――――――――――――――――――――――――


 今日の夕飯はシチューらしい。じゃがいもの入ったネットやら人参の袋などを買い物袋に詰めていく。フードのぐるりについているファーが、人気の多い店内では少し暑苦しく感じられた。
 まったく自転車も車もない娘にこんな大量の買い物を頼むなんて、と流麗は微かに眉を顰めながら重いほうの買い物袋をまず一つ左手に提げる。
 (重……)
 牛乳のパックも入っているわけで、左手にかかる負荷は相当大きい。
 そして骨折後から無意識のうちに庇うようになった右手で、もう一つの買い物袋を持ち上げた――持ち上げた瞬間に流麗の右手は袋を取り落とした。
 そう重くない買い物袋だった。中には食パンとシチューのもと。鶏肉のパック程度しか入っていない。
 たったそれだけの重さの袋を持っただけの右手に走った痛みに、流麗は思わず不安を抱く。これが左手であれば、偶然かと笑い飛ばしたかもしれない。
 だが右手は、一度階段から落下したことによって骨折した経験がある。ピアノを弾く流麗が、右手の痛みに敏感になるのは当然のことといえた。

 『遅い! 早く帰っておいで』

 母親からのメールで我に返り、こぼれ落ちた鶏肉のパックを袋に戻して慌てて店を出た。
 自分が今、カイン=ロウェルの存在をすっかり忘れていることに流麗は気付かない。
 少しばかり右手が痺れるが、それでもすぐに治るだろうと。流麗は幾度か首を傾げながら右手を握り握りし、そして次に買い物袋を持ったときには痛みがなかったということで安心して家路についた。
 (何か手が痺れるのよね、最近……)
 それでもそんな思いは家に帰ってしまえば影を潜め、流麗はピアノに没頭する。
 ピアノを弾いているときだけが、この世で最高の幸せを享受している瞬間のように彼女には思われたのだった。



 ピアノを弾いているときだけが、この世で最高の幸せな時間だった。






 


 

第六楽章:孤独の渓(後)


 ――「安静が必要です」

 
 ピアノを弾いているときだけが、この世で最高の幸せを享受している瞬間のように流麗には思われた。
 ――だから、医師の言葉は流麗を地獄の底に突き落としたも同然であった。一瞬流麗を囲むまわりの音が消えうせた。
 「…………ぇ?」
 何か聞き間違えたのだと思って、流麗は小さく医師に訊き返した。夜中や早朝といった寒い時間帯に右手が痺れ、時折は痛む。
 事故の後遺症でもあったら大変だ、と思い。しかしまさか後遺症なんてあるはずがないという矛盾した確信を抱きながら県立病院の外科にやってきたのである。
 念のためにという軽い気持ちだった流麗の心は、検査後不意に突き落とされた。
 「安静って……あの、あたしピアノ弾くんですけど」
 医師が静かに頷く。何か納得したような顔であり、そして流麗の不安はどんどん大きくなっていった。
 「ピアノを弾くということは、一般の方よりも北条さんの場合は……手を過度に使用する傾向があるということですね」
 「………………」
 カルテを見ながら医師が再び幾度か頷いた。
 「一年ほど前に手を骨折されてますよね。その骨折と、手の過度使用っていう二つの要因が重なって今回の症状が出てるんですよ。もしも悪くすれば元通りに動くかどうか分からないということにもなりますからね」
 正中神経麻痺っていうんですがね、と落ち着いた顔立ちの中年医師は呟くように言う。 流麗と同じような症状の患者を何人も見てきているのだろう。流麗の動揺とは裏腹に、無論医師のほうは泰然と落ち着いていた。
 「ともかく酷くなってしまうと手術しないといけなくなりますから」
 流麗の眉が小さく揺れた。
 頭では理解している出来事を心が理解しきれていないがために、流麗の表情はひどく静かだった。
 「しばらくピアノは弾かないでください、安静第一ですからね」
 (…………またなの?)
 また、あたしはピアノから離れなくてはならないの?
 また、あたしは大切なものを手放さなくてはならないの?
 あたしは何より大切なものを、ふたつも失くさなくてはならないの?


 ――――神様、ひどいわ。


 左手と比べてみても、何ら変わりはない右手だった。骨折はもうとっくに完治したはずだった。
 過度の使用が原因だなんて――ピアノを弾く人間にとっては致命的な理由。手を過度に使用しないピアニストなどいるはずがない。
 「流麗!?」
 自宅にいた父親が声をかけてきたが、流麗は黙ったまま防音室に飛び込んで鍵をかけた。
 防音装置を施した床の上に鎮座する黒いグランドピアノにゆっくりと歩み寄り、そっと鍵盤の上に指を乗せる。そっとGの鍵盤を叩いてみても、若干の痺れは感じるものの痛みは走らない。手を握り閉めすると、僅かな鈍痛が流麗を襲った。
 医師の話によると、あの骨折が大きなきっかけになっているらしい。だからといって、自分を階段から突き落としたマリア=ルッツを今更憎む気にもならなかった。
 ただ茫然とするだけで――流麗の視線は宙を見つめたまま動かない。
 辺りの風景がぼやけて、何か身体ごとふわふわと闇に浮いているような気持ちだった。視点が定まらず、眩暈に襲われて思わず流麗はふらついてソファに倒れこんだ。
 (カイン……)
 前に手を骨折したときには、傍らにカイン=ロウェルがいた。
 日本に帰国したときも、いつか治ると。いつかカインの傍に戻れると信じることで乗り切れた。
 でも今は。
 今は――――カインがいない。

 ――明日も病院に来てください。習慣的にピアノに触れてしまうと思いますので……

 骨折なんて治ればそれでおしまいだと思っていた。
 一生懸命我慢して、一生懸命頑張って、そして治ってしまえば大切なものは再び自分の胸に戻ってくると信じていた。
 だからあんなに苦しくても、頑張ることができた。だからあの絶望の淵からも、必死で這い上がってくることができたのである。

 ――明日来ていただいたときに、固定装置として簡易ギプスをつけましょう。

 治療期間は曖昧で、はっきりとはしなかった。手の調子によって長くもなるし短くもなると医師は言った。
 どれだけ、とも知れない時間をピアノなしで過ごせというのである。
 (嫌よ、嫌……ピアノがあるから、カインを失っても頑張ろうと思ったのに)
 これでピアノを失ってしまったら、何もなくなる。あたしの中には何にも残らないことになってしまう。
 空っぽの人間になってしまう。
 (ギプス…………? 冗談じゃないわ)
 思うとおりに手を動かせない苦痛を、流麗は知っている。知っているからこそ、流麗のその繊細な心は恐怖と嫌悪で震えた。
 ピアノを弾けなかったあの頃には、何があっても戻りたくなかった。
 「どうしよう……」
 か細く呟いた流麗の声が、防音室の中で儚げに消えていく。これからピアノも弾けなくなって、どうすればいいのか。どうすればいいのか。どうすればいいのか分からない。いつになればピアノに戻れるのか、それも分からない。
 ふらつく足取りで洗面所に向かい、ぼんやりとしたまま鏡を見る。唇が白く渇いていた。
 ふとした拍子に右手に鈍痛が走るが、しかしその痛みはすぐにおさまる。ピアノを弾くのに、支障があるとは思えなかった。

 ……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……

 嫌だった。
 ピアノから離れなくてはならないという現実から、流麗は必死で身を捩って逃げようとする。ベートーヴェンの『熱情』を弾きながら――直情の大地からこみあげてくるような烈しい情念は、行き場のない流麗の苦しみ。
 ピアノを弾くことは当分禁止です、という医師の言葉を脳裏に走らせながら、流麗はピアノの鍵盤を叩き続ける。
 痛くないのに何故ピアノを弾いてはいけないの。
 少し痺れるくらいでしかないのに、痛んでもすぐにおさまるのに、何故ピアノを弾いてはいけないの。
 頭の中では、それでも悪化する前に弾くのをやめなくてはならないと分かっている。 『熱情』の第三楽章。決して穏やかな旋律ではなく、熱情というに相応しい烈しい音色だった。
 手指を酷使するなと言われた人間が弾いて良いような曲では、決してなかった。
 ――それでも流麗は現実から逃れようとする。傍目から見るとそれはひどく痛々しい、悲しい姿で。

 ……♪♫♪♬♩♪♫

 (――痛っ)
 身体の重心をすべて鍵盤に乗せた瞬間、反射的に流麗は鍵盤から指を離した。現実から逃げようとしていた流麗を、その痛みが力任せに引き戻す。
(痛い……)
 一気に気力が失せ、のろのろと流麗は緩慢な動きでピアノの蓋を閉めた。適度に暖房が効いていたが、不思議と身体は寒かった。




 ――――――――――――――――――――――――――――

 
 しかしそれでも友情は輝きだす。


 ぴんぽん、ぴんぽん、ぴんぽん、と立て続けにドアホンが鳴らされた。学校から帰ってきて、することもなくリビングのソファでテレビを見ていた流麗は気だるい気持ちを抑えて立ち上がる。
 流麗がドアのところまで行く間に、ドアホンは更に三回ほど鳴らされた。両親は大学のゼミ合宿で二人とも家を空けている。
 (何なの、うるさいなぁ……)
 「は…………」
 外から入ってきた風が、流麗の制服のスカートを揺らした。
 小さく唇を開けたまま、流麗は玄関で立ち尽くす。茫然として流麗は突然の来訪客を見つめた。
 『不用心よ、そんな簡単に開けちゃあ』
 背の高い、ふたつの金髪頭。この閑静な住宅街を闊歩するには、あまりにも目立ちすぎるだろうと思われる長身の女。
 そのうちの一人が、愛想が良いのか悪いのか分からない口調で流麗をたしなめた。
 『何ぼんやりしてるのよ。あたしたちの顔、忘れた?』
 『ジュリア……。マリアも何で……』
 『何でも何も。友達だと思ってたあんたが何も言わないで消えたから、心配して来てやったのよ。忙しいスケジュールの合間を縫ってね』
 マリアの物言いは、以前とまるで変わっていない。偉そうにつんと鼻を上向けながら、流麗のほうを見つめている。
 『ごめんってば。どうぞ、入って』
 苦笑して、二人の大柄な西洋人を家の中に招き入れる。ギプスをつけた右手を後ろに隠しながら、流麗は彼女たちをリビングのソファに座らせた。
 『あたしコーヒーね』
 『あたしは紅茶』
 『はいはい、分かってます』
 心配してやって来たというわりには、我が物顔でリビングを眺め回している。それでも最近憂いがちだった流麗にとってみれば、嬉しい光景でもあった。
 キッチンに立ち、ジュリアたちからは見えないところで白い固定器具を外す。決して誰にも知られたくなかった。
 調味料などを入れてある大きめの引き出しの中に、外したそれを突っ込んだ。
 マリアにはコーヒーを、ジュリアには紅茶を淹れてやる。そして流麗は、向かいの一人がけのソファに腰を下ろした。
 『元気そうだね、二人とも』
 『当然よ』
 二人の声が揃う。意外と似たタイプの人間なのかもしれない。勝気で活発で。
 『学校はどうしてんの?』
 マリアがテレビを見ながら、気のない質問をする。変わってないな、と思いながら流麗はジュリアと目配せをして微笑んだ。この三人でお茶をするなんて、まさか天と地がひっくりかえってもないことだと思っていたのだが。
 実現してみると幸せなものだ、と流麗は笑う。
 『ドイツ行く前に通ってた高校にね、復学させて貰ったから』
 『へえ、良かったじゃない』
 ジュリアが出されたクッキーを頬張りながら喜んだ。
 誰ひとり、あのバイオリニストの名前を出さない。まるで忘れてしまったかのように、流麗もジュリアもマリアもヴェルンブルクのことには欠片も触れなかった。
 他愛もない話だけが三人の間をめぐりめぐり、しかし三人三様、心の奥底で『彼』のことを少なからず考えていただろう。
 夕暮れが少しずつ北条家を包みはじめ、辺りもそろそろ陽の光を失いつつある。
 『ルリ、ご両親は?』
 『大学の用事で明後日まで帰ってこないのよ』
 『そうなの? え、なら泊まっても平気なんじゃない?』
 ジュリアが眼を輝かせて身を乗り出した。
 これが友情なのかな、と流麗は素直に思う。
 両親といてもクラスメイトといても、どこか空虚だった心の穴がゆるりと満たされていくような感覚。同じ空間で、同じ音楽を奏でてきた人間同士には何か切っても切れない絆があるのだろうか。
 二人の友人がわざわざドイツまで来てくれた、その喜びが流麗を幾分安堵させた。
 『いいよ、何か夕飯食べに行く? 作る? 部屋は幾らでもあるから安心してよ』
 『作るって、あんたは料理できないんでしょうが』
 マリアがコーヒーカップをテーブルに置いて、呆れたように毒づく。
 『だから、マリアとジュリアが作るのよ。決まってるじゃない』
 『…………バカね』
 それでも十代の女の子が三人。集まれば自然話も弾む。ジュリアが、ばんばんと音を立てて冷蔵庫をチェックし始めた。
 『…………ルリ、これ何?』
 ふと乱暴に引き出しや冷蔵庫を開け閉めする音がやんだ。
 『え?』
 視線を向け、しまった、と流麗は言葉に詰まる。調味料の引き出しを漁っていたジュリアの手に、外した白いギプスがあった。
 どっか怪我してるの、とジュリアが詰め寄ってくる。マリアも何事かと青い目を見開いてこちらを見つめた。――厭、厭だ。絶対に知られたくない。
 『ああ、それ……それ、お母さんの。ちょっと腱鞘炎になりかけたらしくて』
 『ふうん……? そうなの?』
 それならいいんだけど、とジュリアがギプスを引き出しに突っ込む。意外におとなしく引き下がったジュリアを盗み見て、まだ波打つ鼓動をおさめようと息をつく。うまく誤魔化せただろうか。
 流麗はまだ跳ね上がったままの心臓を抱き締めるようにして、愛想笑いをしてみせた。

 ――シーフードドリアが作れるわ。そうだ、ブレーチェン買ってきてよルリ。

 ジュリアの言葉に、流麗は財布ひとつで外に出る。とにかく手のことは、彼女たちが帰国するまで隠し通さなければ。
 (あたしの手は大丈夫よ)
 そう思い込むことで、何とか毎日を過ごしているのだから。ドリアに相応しい小型パンを買うために、流麗は近所のパン屋に向かって歩く。
 どれだけ胸が痛くても。
 どれだけカインが恋しくても。
 それは決して見せてはならないことだと、流麗は必死で気持ちを抑える。ヴェルンブルクとカイン=ロウェルに関する一切の言葉を口にしない、素晴らしき友人たち。
 彼女たちの気遣いを無駄にしてはいけない。
 むしろ気遣われるというよりも、流麗のほうが気遣っているといえた。
 「大丈夫、大丈夫」
 足を進めるテンポに合わせて呟きながら。一人胸に言い聞かせながら。
 
 大丈夫、大丈夫。あたしは弱くない。
 
 大丈夫、大丈夫。耐えなくちゃだめ。

 


 神様、頑張ったら。
 神様、耐え抜いたら。
 そうしたらまたピアノを弾かせてくれるでしょ?


 


 ――――――――――――――――――



 ――調味料を取り出したジュリアの手から、ひらりと一枚の紙切れが落ちる。
 『…………? マリア、これ何かしら』
 『……診断書? ホウジョウルリ……』
 傷病名、正中神経麻痺。当分手首の安静を保つこと。
 殴り書きのような医師の汚い文字で、そんなふうに書かれた一枚の診断書だった。まだ日本語の読み書きが覚束ないジュリアに代わって、マリアがその紙切れの文字を読み上げる。
 ジュリアとマリアの視線の隅に、さっき流麗が母親のものだと断言したギプスがちらりと映った。







 第七楽章:激情の行方



 
 『人間には幸福よりも不幸のほうが二倍も多い』
                              ―ホメロス―


 

 激怒しながら帰国していったマリアの後ろ姿を思い出しながら、流麗はピアノにすがってひとり泣いた。
 涸れるほど泣いたと思っても、涙は滑稽なほどに後から後から溢れ出してくる。あまりに涙を流しすぎているせいか、それとも精神的な苦痛のせいなのか、こめかみがずきずきと痛んだ。
 こめかみの皮膚の内に、言い知れぬ怖ろしい蟲がうごめいているような悪寒さえもした。
 (……痛い……)
 ギプスをした右手首が痛いのか、こめかみが痛いのか分からない。まるで睡魔に襲われたときのように瞼が重く、滲む涙に視界はぼやけた。曖昧な眠気に意識をゆらりと委ねながら、流麗はひたすらに切望する。

 ――このまま二度と眼が覚めなければいいのに。
 
 すがりつくピアノの脚が冷たかった。けれどそのピアノが自分を突き放しているわけではないことを、流麗はやはり本能的に感じ取っている。
 暖かく使いこまれた黄ばんだ鍵盤。弾きこみすぎて塗料が剥げてきた黒鍵と――そして何度も何度も切れては直した弦。
 流麗の愛情と情念のすべてを知り尽くしたピアノでもある。心はじりじりと切なく痛み、もしも今誰かが自分を殺そうとするならば甘んじてその行為を受けるだろうとさえ思った。
 ピアノにすがっていなければ、そのまま眩暈とともに倒れ伏してしまいそうな感覚。
 (…………痛いの)
 心が悲痛に叫びかけている相手が誰なのか分からない。しかし脳裏を奔るのは懐かしい面影で、その涼しげで静かな双眸がこちらを見つめていた。
 耳奥で交錯するのは、きっと世界で一番美しいピアノとバイオリンの音色。
 「…………っふ……」
 そうして張りつめた心の弦が切れる。抑えていた声が洩れ、暮れなずんだ空気に溶けて消えていった。
 大丈夫。平気よ、と。
 そうしてずっと言い聞かせていた言葉が、もう出てこない。
 あたしは弱くないわ、と踏ん張っていた力が泡のように消えていく。
 (きっと治るわ、だから)
 完全に治る保証なんてどこにもない。治療期間が長引けば長引くほど右腕は痩せ細り、ピアノを弾く力さえ失ってゆくだろう。
 (大丈夫よ、乗り越えられる試練に決まって、る……)
 もう、自信がない。
 もう身体中、心中のどこを探しても自信がない。
 
 神様、お願い。あたしからピアノまでとらないで。
 神様、お願い。今すぐあたしの右手を治して。

 「何でぇ…………?」
 力任せにギプスのままで鍵盤を叩く。
 「痛……痛い……」
 何かもう自分の姿が分からない。何もかもが自分を責めたてているような厭な気持ちがぐるぐると身体中を巡りめぐって、決して口にしてはいけないと思っていた名前が流麗の唇を象る。
 絶対に彼だけは求めてはいけなかった。決して求めてはならなかった彼の名が。
 「お願い助けて……」
 神様なんていない。どこを探したって神様なんていない。神様は何にも見てくれてなんていない。
 あたしがどれだけピアノを愛してるかってことも。
 あたしがどれだけカインを愛してるかってことも。
 何も見てくれていない。だからこんなにも平気で奪っていけるんだわ。

 

 ――助けて、カイン。お願い、助けて。

 ――あたし、ピアノまで奪われたら死んでしまう。


 

 ――――――――――――――――――――――――

 

 ルリが神経麻痺でピアノを弾けなくなった。


 フランスのパリで公演を行っていた英国人バイオリニストカイン=ロウェルが、流麗の現状を電話でマリアから伝え聞いたのは。
 『………………』
 伝え聞いたのは、マリア=ルッツが日本からドイツへ帰国してきた翌日のことだった。
 あたしが骨折させた後遺症かもしれない、と泣き叫んだマリアをそれ以上責めることはできなかった。少なくとも流麗がすでに友人と認めた女である。それをカインが責めるわけにもいかなかった。
 震えていた電話口のマリアの声を思い出しながら、カインは力任せに座っていた椅子を蹴り倒す。大きな音をたてて転がった椅子の姿と、足先に残った鈍い痛みが妙に空虚な切なさを含んでカインを襲った。
 ビーリアルによって一度傷つけられたことのある己の右手に視線を落とす。あれは以前の流麗の怪我よりもひどく、ずいぶんと長い間バイオリンから遠ざからなければならなかったあの苦しみ。
 持って生まれた羽根を根元から捥ぎ取られたような苦悶の日々は、きっと一生涯死ぬまで忘れない。
 そしてあの過去があったからこそ、手を折った流麗の苦しみが痛いほど分かった。あのとき世界で一番流麗の気持ちが分かっていたのは、確かにカイン=ロウェルだった。あいつは何のために俺の傍を離れたのか、とカインは再び暗く思考をめぐらせる。
 (……わかっている)
 分かっている。流麗が自分から離れていった理由など、痛いほどよく分かっている。
 俺からバイオリンを奪えない。奪いたくない。彼女のそれは、切望にも近いものだったろう。きっと泣いたはずだ。きっと涙涸れるほど泣いたはずだ。
 そしてきっと彼女は、こうして諦めたはずだった。
 
 ――あたしにはピアノがあるから。
 
 きっと大丈夫だ、と。そう泣きながら言い聞かせ、カイン=ロウェルとの関係を諦めたはずだった。
 その北条流麗から、ピアノまでもが消えようとしている。
 決してカインは流麗を諦めたわけではなかった。キャサリンとの婚約が公になったというのも、すべて母親レイチェルとキャサリンと。そしてキャサリンの両親が有無を言わせず新聞記者に発表したからなのである。
 微笑むことを忘れて久しい。カインは凍りついた双眸のまま流麗に想いを馳せる。
 時間がない、と思った。キャサリンを完膚なきまでに叩きのめすことをいちいち考えていたら、間に合わなくなると思った。
 カインには流麗のことが痛いほどによく分かる。きっと時間が経てば、カインが迎えにゆくその前に流麗が壊れてしまうだろう。
 
 流麗が、壊れてしまう。
 今まではバイオリン以外の何ものにも無関心だった自分である。バイオリンさえ傍にあれば、それだけで己を確立することができた。他のなにかに己が左右されるということなど、有り得なかった。
 『ギル、日本行きのチケットを取っておいてくれ。内密に、だ』
 受話器の向こうに無理やり依頼する。
 
 流麗が、壊れてしまう。
 それはつまり、カイン=ロウェルの身の破滅をも意味していた。天上の音色に惹かれ、己のために手に入れるはずだった彼女を飽くまでピアニストとして愛した。
 それだけだったはずが、いつしか砂山を崩すようにカインを包む氷は消えうせていっていた。
 流麗の奏でる音色を、カインは愛している。
 流麗のピアニストとしての天賦の才能を、カインは愛している。
 そしてカイン=ロウェルは何よりも、北条流麗という人間を愛していた。北条流麗という女を愛していた。
 月並みな心情でありながら、それはしかし真実の愛。
 
 流麗が、壊れてしまう。
 (――ルリ、諦めるな。諦めずに俺を待て)
 俺もまた、壊れてゆきそうだ。
 (俺が行く。ルリ、手は治る)
 全知全能の神など信じはしない。
 けれどきっとピアノがおまえを視ている。けれどきっとバイオリンがおまえを視ている。
 楽神たちが必ず、おまえを助ける。




 透徹とした美しいカインの双眸が、つと閉じられる。長い睫毛が頬に影を落とし、ホテルの橙色の灯が彼の美貌をちらちらと縁取った。
 『………………』
 北条流麗は、決して誰にも渡さない。深々としたぺリドットの瞳は、流麗を想うときばかりは柔らかく優しく歪む。
 今までカインの中で曖昧とした形しか成しえなかったものが、初めて確固たる情熱として彼の心を突き動かした。
 改めて誓える言葉。流麗は守る。他の誰でもなく俺が守る、と。
 バイオリンと己しか居なかった世界に、初めて水のように沁みこんできた少女。カインにとって、最早バイオリンがすべてではなくなった。バイオリンと同等――いや、むしろそれを越える世界の頂点に今、北条流麗が立っている。
 それはカイン=ロウェルの最大の弱点であるとともに、しかしまた最大の強みであるともいえた。
 バイオリンと彼女を守るためなら、きっと何でも出来る。
 『日本、か…………』
 カインは、ふと唇に微笑を滲ませて呟いた。同じ空の下にいる、と思うと少しばかりの安堵感が心を満たす。
 考えていることも話す言葉も違うけれど、人はみな同じ空の下にいる。憎みあう人間がいれば愛し合う人間もいるけれど、人はみな同じ空の下にいる。
 (それだけで充分だ。同じ空の下にさえいれば、俺はいつでもルリを守る)


 
 流麗が見た月を、俺も見ている。
 俺が見た月を、流麗も見ている。

 流麗が見た太陽を、俺も見ている。
 俺が見た太陽を、流麗も見ている。

 流麗が見た星々を、俺も見ている。
 俺が見た星々を、流麗も見ている。


 思えばそれは、些細な事実だ。
 しかしそれは、何より大きな輝ける奇跡。









 
 第八楽章:愛、今ここに。

 
 『多くの女性を愛した人間よりも、たった一人の女性だけを愛した人間のほうがはるかに深く女というものを知っている』
                               ―トルストイ―

 右手がピアノを奏でなくなり、流麗の顔から微笑みが消えた。
 両親が演奏旅行に行っているせいで、流麗には最近話し相手さえもいない。クラスメイトたちからの誘いも断りがちになり、学校へ行って帰って。それだけの生活が続いていた。
 流麗の生活から、色彩が消えた。
 (――……暇)
 左手だけでピアノを弾くことも、今の流麗には辛すぎる。黒光りするグランドピアノを見るのもクラシックCDを聴くのも、今は嫌だった。
 学校で出された宿題を終えてから、流麗は自由な左手で冷凍のピザトーストをオーブンに突っ込む。両親がオーストリアに旅立ってから、流麗はここ一週間まともな食生活を送っていなかった。母親が置いていった三万円も、ほとんど使っていない。
 テレビ画面から流れるバラエティ番組では、若手芸人のくだらないコントを見て出演者がひどく楽しそうに笑っている。今のコントの何がそんなにおもしろかったのか、と流麗は冷めた眼で画面を見つめた。
 上滑りな笑い声に混じって、じじじじ、というオーブンの音が耳をつく。流麗は柔らかなソファの上に腹ばいになり、健康な左手と白いギプスに包まれた右手の間に顔を埋めた。
 心の奥底では、前向きにならなければと思っていた。しかし前向きにならねばと泥沼でもがいているのに、もがけばもがくほど底深く沈み込んでいく。

 ――滔々と流れる無音の世界。身体を押し潰してくるような虚脱感。

 玄関のチャイムが鳴って、流麗はびくりと身体を震わせた。震わせたきり、あとは微動だにしない。できれば不必要な訪問はやり過ごしてしまいたかった。
 それでもチャイムは、まるでこの前マリアたちが来たときと同じように幾度も幾度もしつこく鳴らされる。
 「………………」
 一向に諦める気配がない。流麗はゆっくりと右手を突かないようにして身体を起こし、チャイムが鳴り止まないものかと思いながら玄関へ向かった。
 玄関のタイルの上に裸足のまま出て、左手でゆっくりと鍵を開けノブを回す。
 「………………」
 『久しぶりだな、Honey』
 右手がひどく鈍く痛んだ。寒さのせいかそれとも精神的な苦痛のせいか、それは分からない。
 痛んだ右手をだらりと身体の脇に垂らしながら、流麗は長身の来訪者の顔を見上げた。
 「何しに来たの……?」
 『英語かドイツ語で喋れよ』
 ハッと気付く。そういえばドイツ語から離れて久しい。母語というわけでもないから、話さなければ自然記憶もおぼろげになる。反射的には出てこなくなったドイツ語。
 『…………何をしに来たの、ビーリアル=ウェズリー』
 決して憎んでいるわけではなかった。決して嫌っているわけではなかった。
 けれどこの男が、最も会いたくない人間の一人であることは事実だった。顔を見れば、忌まわしい出来事を厭でも思い出す。
 思わず唇が震えた。
 『おまえに会いたかったから。カインも婚約したし、おまえもそろそろ忘れなきゃいけないだろ?』
 『帰って、お願い。あなたがいると忘れられるものも忘れられないわ』
 『それは困る。……俺が忘れさせてやるさ』
 『…………お願い、帰ってビーリアル。あなたがいるべき場所はここじゃないのよ』
 玄関に押し入って来ようとするビーリアルの身体を、流麗は細い手で押し返した。ビーリアルの視線が流麗の右手で止まった。
 『その手、どうしたんだよ?』
 『あたし、ピアノやめるの。ドイツにももう二度と行かないし、ヴェルンブルクの人とは誰とも会わない』
 言葉にすると改めて実感が流麗の胸を締めつけ、それがまた彼女の声を小さく震わせる。
 さすがにビーリアルが慌てた。
 『おまえ、ピアノをやめるってどういうことだ』
 『言葉のとおりよ』
 かろうじて涙をこらえる。そう、言葉にでもしないと踏ん切りがつかなくなりそうで。ビーリアルに言うというよりも、むしろそれは自分自身に言い聞かせる言葉だった。
 『何でだよ』
 人のせいにしたかった。あんたのせいでカインを失ったの、と。あんたのせいでヴェルンブルクを去ることになったの、と。
 それでも北条流麗は責めることができない。どうしても責めることができなかった。
 手が神経麻痺に冒されても、マリアを恨まなかった人間である。
 『……お願いだから帰って。あたしの生活にもう入って来ないで!』
 カインもいない。ピアノもいない。それならいっそ、もう全てなかったことにしてしまいたい。
 玄関先で扉も開いたまま、自分の裸足の足先に視線を落としながら小さく叫ぶ。
 あっ、と思ったときには涙がぽたぽたと落ちていた。
 『――おい、何だおまえ。どうしたんだよ!?』
 『帰ってよ、あたしはカインが好きなのに。あたしはカインを愛してるのに忘れなきゃいけないのよ!! お願いだからあたしに関わらないで、出会わなかったことにしてよ!!』
 『…………ル……っ!?』
 ルリ、と言いかけたビーリアルの身体が突然背後に倒れこんだ。

 何かがビーリアルを後ろに引きずり倒したらしい。不意に影が眼前から消えたことに驚いて、流麗は涙を拭いながら顔をあげた。
 「大丈夫か、ルリ」
 降ってきたのは流暢な日本語。
 『てめえ、何しに……!』
 ビーリアルの存在が、流麗の中からするりと消えた。
 するりと消えたあとに残った空白部分に、決して脳裏から離れなかった姿がぴたりとはまりこむ。
 「な……んで……」
 色素の薄い癖のない髪。すっと通った高い鼻梁に、深みのある貴族的な深緑の双眸。
 見る者すべてを魅了するような美貌が、見上げたそこにあった。
 幾度も幾度も見つめたことのある貌なのに懐かしく。
 ビーリアルの身長を上回るすらりとした男の手が、ぐいとビーリアルを玄関外に引きずり出し、そしてあっという間に扉を閉めた。
 ビーリアル=ウェズリーの鼻先での出来事だった。玄関のタイルの上にへたり込んだ流麗は、ぼんやりと眼前の男を見上げる。
 幻なのか現実なのか分からず、流麗は思わずいやいやをするように首を幾度か振った。 カイン=ロウェル恋しさに、とうとう己が発狂でもしたのかと思った。
 「――……っぁ」
 声が掠れて出ない。腹立ち紛れに外から扉を蹴る音がして――初めて流麗は正気に戻ったように息を整えた。立ち上がろうと思わず床に右手をつき、走った痛みに小さく悲鳴をあげて再び崩れ落ちる。
 温かい手が、そっと流麗の細い身体を助け起こした。
 耳元で、悪かったと美しい声が囁いた。
 「ど、して……ここにい、るの……?」
 驚愕と困惑と歓喜と、そしてこらえてきた切なさと悲哀と、何か自分では制御しきれない感情が一気に押し寄せてくる。
 それが嗚咽となって流麗の言葉を途切れ途切れに千切り捨てた。
 「ルリ。悪かったね、待たせて……悪かった」
 何ヶ月ぶりだろう、この声を聴くのは。
 何ヶ月ぶりだろう、直接彼の美貌を見上げるのは。
 「カイン…………」
 呟いてようやく現実を悟る。今ビーリアルのかわりに流麗の眼前にいるのは、何度眼をこすってみてもカイン=ロウェルその人だった。
 昔はただ純粋に憧れていた世界のバイオリニスト――いつしか音色だけでなく彼の全てを愛するようになっていた英国の貴公子。
 「ルリ、大丈夫だから。安心しろ、手は治る。俺もちゃんとおまえの傍にいるよ」
 嬉しくて嬉しくて、しかしそれでも消せない過去。
 「キ……キャシーは……? また怒るんじゃ……」
 「俺がおまえ以外と結婚するわけがないだろう? 何もかも済んだら、俺が何を考えてたか教えてあげるよ」
 いつかカフェで小耳に挟んだ、カインとキャサリンの婚約話を思い出す。
 けれど今カインが眼前にいるのは紛れもない事実で、流麗にとってはそれが全てだった。

 ――信じる心がすべてだと思う。信じることが愛だと思う。

 信じることが愛ならば、あたしはどこまでもカインを信じることができる。
 「俺の言うことを聞けるね?」
 黙ったまま、流麗は静かに頷いた。玄関口の冷たいタイルが、流麗の裸足をゆるゆると冷やしている。
 「俺とドイツに戻ろう、ルリ」
 「………………」
 心臓の音が内側から流麗の耳をうち、右手がふと強く痺れたような気がした。
 ドイツに戻りたいと思う気持ちと、戻ることを怯える気持ちが交錯する。
 脳裏に蘇るのはビーリアルとキャサリンの顔――世界中に撒き散らされた誹謗中傷と。そして使えないこの右手。小刻みに唇を震わせた流麗を見て、カインはそっと彼女の身体を抱き上げた。
 「ルリ、俺から片時も離れないと約束してくれないか」
 リビングまで軽々と流麗の身体を運び、静かにソファに座らせる。流麗の重みで、ソファがゆったりと優しくたわんだ。
 カインはソファに座らないまま、流麗の真ん前に屈みこむ。まるで子どもを相手にするかのような優しい双眸で、彼は屈みこんで流麗に視線を合わせた。
 包み込むように流麗の右手を撫でる。
 「ルリ、頼むよ。俺から離れないと約束してくれないか」
 カイン=ロウェルはもう一度ゆっくりと言った。
 真剣な美しい瞳、魅惑的な双眸が真っ直ぐにこちらを見つめている。
 それは怖いほど真剣で、怖いほど真摯であった。
 「でもあたし、迷惑を……」
 『北条流麗』の存在ひとつで、カイン=ロウェルの公演を駄目にしてしまう。自分の存在ひとつで、カインを傷つけてしまう。自分のことよりも人のことを先に考えてしまう流麗にとって、それは最も彼女を傷つける要因であった。
 「ルリ。この際だから言っておく。……俺は」
 「………………?」
 
 
 「俺は、本当におまえを愛しているよ」


 ふわり、と何かが胸から抜けてゆく心持ちがした。そしてずっと空虚だった場所がゆっくりと甘やかな砂糖水で満たされていくような感覚。
 茫然として流麗はカインの瞳を見つめる。
 「おまえが傍にいないと、俺が困る。おまえのピアノが必要だし、おまえの存在が必要だ。俺と一緒にドイツに戻ろう。おまえを一生傍に置いて、俺が必ず守るから」
 真摯な言葉だった。心に秘めていたことが一気に堰をきったらしく、珍しく彼にしては饒舌であった。
 「おまえが俺を嫌いでないなら、どうかもう一度戻っておいで」
 よく考えてくれてかまわない、とカインは囁いた。




 
 ――人間の運命よ。おまえは何と風に似ていることか。

 
 どこに吹いてゆくか分からない。
 試みは怖れてはならない。試みを怖れることで、勝ち取れるはずのものまで失ってしまう。
 機会が二度、流麗の人生の扉を叩くとは考えてはならない。カイン=ロウェルとともにドイツへ戻る機会は、もしかするとこれが最後になるかもしれない。
 (右手も動かないのに、カインにのこのこついていくの……?)
 右手が動かなければ、どうしたらいいか考えろ。そう、考えろ。カインをリビングに残したまま自室にあがり、流麗はじっと眼を閉じる。
 右手が動かなければ――左手で弾けばいい。それが人生だ。
 (そう。そうよ、そうやって前に怪我したときも乗り越えたんじゃない)
 カイン=ロウェルの顔を見ただけで、絶望の淵から這い上がるための光を得たような気がした。
 自分はこんなにも単純だったのか、と流麗は幾分情けなく思いながらギプスを見つめる。
 風に似ている、と思った。その風に乗らなければ、きっと一生後悔すると思った。
 会いたい、と胸焦がすほどに切望していたカイン=ロウェルが日本まで来てくれた。その事実が流麗の瞳を濡らす。
 あの世界に戻れば、きっとピアノを弾けないことを痛感するだろう。そしてビーリアルともキャサリンとも真向かわねばならぬ。それでもいいか、と流麗は己に問いかけた。
 誹謗中傷を受けたピアニストとして、それでも生きていけるか。
 淫乱女だと罵られ芸能誌に書き殴られても、それでも耐えられるか。
 クラシック関係の掲示板で死ねといわれても耐えられるか。
 ひとつひとつ、流麗はゆっくりと自分に問いかけ向き合う。ついさっき、ピアノはやめると宣言した自分は消えていた。
 (耐えていけるの?)
 手は治るよ、と言ったカインの言葉。他の誰もかけてくれなかった言葉だった。
 それにすがりたいと思うのは、流麗がピアノを愛する証でもあった。
 (もしかしたら、ちゃんと治るかもしれない……?)
 右手が動かなければ――左手で弾けばいい。それが人生だ。
 別にあたしは世界中の脚光を浴びるために生まれてきたわけじゃない。ピアノに少しでも触れていることができるなら、大丈夫、生きてゆける。
 流麗は少しばかり左手よりも細くなった右手を見つめた。
 「信じるわ」
 呟く。
 あたし、自分の運を信じるわ。自分の右手を信じるわ。
 それからカイン=ロウェルを信じるわ。
 カインが傍にいる。それを考えるだけで、心が少しずつ前方を見晴るかしてゆく。
 光の見えなかった絶望の淵で。
 「……大丈夫」
 カインが傍にいる。負けたくない、と思う気持ちがゆっくりと心を満たしはじめて。幾分軽々しいのではないかと、流麗は自分の単純さを思った。
 (あたしは大丈夫)
 どんなに苦しくても、カインがいてくれるなら大丈夫かもしれない。
 もしもこの手が治るなら、どんなことがあっても耐えていけるかもしれない。キャサリンやビーリアルと同じように、己の欲しいものを一度くらい力ずくで取りにいっても良いかもしれない。


 

 

 ――本当のあたしを見失わないで。


 
 ――きっと奇跡は起こるから。







 
 第九楽章:奇跡(前)


 『奇跡は自然に反して起こるのではなく、私たちが自然だと思っていることに反して起こるだけである』
                             ―聖アウグスティヌス―


 
 もしかすると奇跡は、最も自然の流れに沿った現象なのかもしれない。



 
 両親の帰国を待ち、カイン=ロウェルが土下座をした。あのときの衝撃を、流麗は一生忘れない。土下座をして、命にかえても必ず守りますと。あの気高い貴公子が、自分よりひとまわりも小柄な両親に向かって額をついた。――あの鮮烈な光景。



 
 ――――――――――――――――――――――――――

 
 ドイツ。ミュンヘン空港。
 
 「ルリ。いつでも胸を張っていな」
 カインの言葉に、流麗はようやく腹を決めて頷いた。空の上にいる間まるで夢でも見ているような心地でぼんやりとしていたが、地上に降りて初めてドイツに戻ってきた実感を覚えたのだった。この空港に降り立つのは、これでちょうど四度目になる。
 カインに誘われて編入準備のために一度。本格的な編入で一度。右手が治ってからヴェルンブルクに戻るために一度。それから今回で四度目。
 どこにパウダールームがあって、どこに土産物が売っているか。どこに休憩するためのカフェがあるのか。もう流麗はよく知っている。
 「大丈夫だ、俺がいる」
 いつでも不安なときに、カインは嬉しい声をくれる。その一言で、流麗はまっすぐ前を向いて胸を張れる。たとえこの右手に白いギプスをはめていたとしても。
 中世的な街並みと整えられた石畳を歩く――流麗は強くカインの手を左手で握り返した。
 懐かしいヴェルンブルク音楽院の荘厳たる正門を眼に映しながら、身体の左に暖かいカインの存在を感じながら、流麗は学院の敷地内に足を踏み入れた。
 バイオリンケースを持った生徒やチェロケースを持った生徒。楽譜を見ながら歩くピアノ学科と思われる生徒。
 すれ違うたびに驚愕の表情で流麗を見てゆく。なかにはひどく嬉しそうなはにかんだような顔で声をかけてくる生徒もいた。時間は、それでも少しずつ物事を解決してくれているのかもしれない。
 靴音が心地よく響く廊下を渡り、学院長室の前で幾分躊躇する。カイン=ロウェルが、優しく流麗の肩を叩いた。
 (……大丈夫)
 『失礼します』
 チャコールブラウンの重々しい扉を開け、そこに嬉しそうな院長の顔を見た。流麗がドイツを離れるときに、流麗の無実を信じ、引き止めてくれた院長であった。
 皺だらけの顔はやはり厳しそうな色が濃かったが、それでも眼の奥が寛大に流麗を迎えてくれている。
 『戻ってきたのね』
 机を挟んで向かい合う。カインが流麗の左後方で静かに佇んでいるのが気配で分かった。
 まるで深窓の姫君を守る騎士のような風情で清々とした立ち姿を見せるカインを一瞥して、院長は再び流麗に視線を戻す。
 『カインやマリアからすべて聞いているわ。手の調子は?』
 『………………』
 そっと椅子をたって流麗の傍らまでやってきた院長は、優しい皺くちゃの手を流麗に添えた。
 『大丈夫、治りますよ。あなたはピアノを弾くために生まれてきたのだから』
 ――ピアノを弾くために生まれてきたのだから。
 (……そうよ)
 そう、ピアノを弾くために生まれてきた。ピアノとあたしの間には誰にも引き裂けない絆があって――そして星々はそうなるように巡っている。
 『自分の運命を信じなさい。自分とピアノと、そしてあなたをいつでも想っている人々を信じなさい。そうすれば必ずあなたは救われるわ』
 幾年、幾十年も日々を重ねてきた老婦人の言葉は、流麗を温かく包んだ。
 思わず零れ落ちそうになる涙を、かろうじて抑える。涙を抑えながら流麗は頷き、そして院長に深々と頭をさげた。
 頑張れる、大丈夫。そう信じる思いが、彼女の言葉で強く深くなった気がする。
 (頑張れるわ、あたし。まだ頑張れる)
 『手が治ったら、どんどん世界に進出してもらいますからね』
 はい、と流麗は笑顔を返した。





 ――信じることが愛。信じることが大事だと――そう信じる。


 
 


 ドイツへ戻ってきて数週間。カイン=ロウェルが英国公演のためにドイツを発ってから、何故かマリアやジュリアがそわそわしている。
 連弾ならば左手だけでも弾けるから、と付き合ってくれているジュリアの横顔を一瞥して流麗は小首を傾げた。
 (何なの、皆して……)
 カインが留守の間、流麗は特別に女子寮の大部屋を利用させて貰っている。カインが内密に院長に頼んだものらしく、マリアとジュリアがその間のルームメイトであった。
 その友人二人を筆頭に、仲の良いクラスメイトたちが皆何か隠し事をしているような気がするのである。とはいえ、それほど重大で深刻なことを隠しているようにも見えず。
 しかしやはり複雑な気持ちで流麗はその様子を窺っているのだった。
 『……ジュリア』
 『………………』
 幼少からピアノに慣れ親しんでいる。上の空であっても、指は正確に鍵盤上を滑ることができる。
 ぼんやりしながら連弾の右手パートを引き続けるジュリアに業を煮やし、流麗は左手を止めた。
 『ちょっと、ジュリアってば』
 『………………』
 『ジュリア』
 『――んぇ!?』
 嘘のように晴れつつある心。ついこの間までは絶望の淵にあった心が、カインたちの存在で少しずつ陽射しに向かっている。
 裏返った自分の声に慌てるジュリアを、流麗は疑わしそうに見つめた。ここ数日――カインがドイツを発ってからは、マリアもこの調子なのである。鏡が何か知っているのではないかと思って話しかけてみても、ろくに口を割らない。
 じっと見つめるとうろうろと視線を彷徨わせ、どうにも皆態度が奇妙なのだった。
 『やっぱりおかしいわ。どうしたの、皆なんだか変よ』
 『変!? 何言ってんの、あんたの気のせいよ。バカねぇ』
 ジュリアが軽く流麗の額を小突いた。
 『さて、ルリ。夕飯食べに行こ!』
 話題をすり替えたな、と思いながら流麗は仕方なしに立ち上がる。たとえ右手が動かなくとも左手が動く。心が前向きになるだけで、その事実がひどく嬉しい。どんな噂を流されても、世界中に認められなくても、ともかくピアノが弾けるだけで幸せだと。
 それだけで充分だと流麗はジュリアに従って食堂に向かった。

 


 『あ、そうだ。ルリも行くでしょ?』
 肌の手入れをしながら、マリアがベッドに転がる流麗に問いかけた。キャミソール姿のマリアの肢体は、非のうちどころがないほど見事で美しい。流麗とは異なる大胆な美しさだったが、指の爪先にだけは派手さがない。ピアノを弾くための指爪は、お洒落をする年頃の女にしてはひどく短く、マニキュアもろくに塗れなかった。
 『……? 行くって、どこに』
 寝返りをうち、枕を抱えながらマリアに聞き返した。バスルームからは、ジュリアが使うシャワーの音が小さく聴こえている。化粧水をぱたぱたと掌で頬になじませながら、マリアは流麗のほうを見返りもせずに答えた。
 『どこにって、イギリスによ』
 『え? どういうこと、なあに、それ』
 『来週の日曜、カインの英国公演がファイナルじゃない? 打ち上げよ』
 来週の日曜が、彼の英国公演ファイナルだとは分かっていた。分かっていたが、打ち上げだとかイギリスに行くだとか、そんな話は聞いていない。
 驚いて思わず流麗は上体を起こす。
 『……カインが連れておいでって言ってたわよ』
 『でもそれ、色んな人が来るんでしょ? あたしが行ったら……』
 場所が悪い。
 イギリス――イギリスでの公演後に、あのキャサリンが打ち上げに顔を出さないという保証は、どこにもなかった。
 彼女の顔を見て平静でいられる自信は、さすがにない。右手が動かないこととあわせて本気で恨んでしまいそうで、怖かった。
 流麗は、どうしても人を恨みたくないのである。
 恨んでしまえば、憎んでしまえば、自分が穢れ堕ちてゆくような気がして不快だった。 綺麗ごとを唱えているようでいながら、流麗のそれは強情である。
 決して汚い生き方はするものか、と思う潔癖すぎるほどの情が流麗を美しくしていた。
 『カインがおいでって言うんだから、大丈夫でしょ。あたしもキョウも行くし、ジュリアも行くんだから』
 本当に大丈夫なのかしら、と流麗は呟いて鏡越しにマリアを見上げる。
 『っあぁ!! すっきり!!』
 繊細さの欠片もなく、バスタオルで髪を拭いながらジュリアがバスルームから出てきた。
 『………………』
 何か隠し事をしていても――これならたいしたことではなさそうだ。
 ジュリアがこんな調子なら、イギリスへ行っても大丈夫かもしれない。
 『ね、行くでしょ?』
 はいはい、と頷いて流麗はペットボトルの水を口に含んだ。





 ――――――――――――――――――――――

 
 栗色の髪の女性を抱き締める、美しく逞しい腕。
 『カイン――……』
 カイン=ロウェルの双眸に、幾分愉快そうな光がちらついた。








 
 第九楽章:奇跡(後)


 
 『お疲れ、カイン。いよいよ打ち上げパーティーね。今夜結婚を発表してくれるんでしょ?』
 黒いイブニングドレスを着たキャサリンが、そっと背伸びをしてカインの頬にキスをする。英国公演の最終日、演奏を終えたカインがネクタイを外した燕尾服のままで控え室へ戻ったところだった。
 『……ああ』
 バイオリンケースをそっと卓上に置き、グラスのミネラルウォーターを飲み干す。
 『そうだ、記者も呼んであるからな。とりあえず先に会場へ行っててくれ』
 『そうね、分かったわ』
 もう一度美しく口紅を塗った唇をカインの頬に寄せ、キャサリンがドレスの裾を翻す。 太もものあたりまで入ったスリットから美しい脚がのぞく官能的な姿は、やはり人目を惹いた。
 『カイン、車は? 車まわして置きましょうか』
 『いや、いい。ギルの車を出すから』
 そう、と頷いてキャサリンが控え室の扉を開け、楽しげに出てゆく。
 その姿を見送ることもなく、カインは再びバイオリンケースの中から愛器を取り出した。艶のある滑らかな曲線。
 カイン=ロウェルというバイオリニストに、すっかり恋をしてしまったたおやかなバイオリンである。
 カインが弓をあてると、驚くほど深みのある繊細な音色を奏でだした。

 ♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫…………

 北条流麗と離れている間は、毎日のように弾いた。ひとつひとつの音色が柔らかく朗らかに重なり絡み合って、遥かの高みまで昇り昇ってゆく感覚。
 何か己の力では制御しきれないような大いなる感情が、透明な輝きをもってこみあげてくる。
 日本の小さな楽器店で出逢ったあの奇跡を、カインはつい昨日のことのように思い出すことができる。ただお互いがお互いの音色に惹かれ――もしもあのとき流麗が楽器店のピアノで遊んでいなければこんな関係にもなってはいなかった。

 …………♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫…………

 パッヘルベルの『カノン』。簡単ではあったが、カインにとって何よりも愛すべき思い出の曲だった。
 これを弾けば流麗との出逢いを思い出す。これを聴けば流麗の笑顔を思い出す。
 (これが栄光との訣別になるかもしれない)
 キャサリン=コーンウェル。英国屈指の名家令嬢――どれほど己のバイオリンに自信と誇りがあったとしても、コーンウェル家の怒りをかってしまえば音楽界から追放されてもおかしくない。もしかすると、一度はどん底へ落ちるかもしれない。
 それでも、とカインはカノンの音色に身を委ねながら流麗の笑顔を思い浮かべる。

 …………♪♫♪♬♩♪♫♩

 『カイン、そろそろ行かないと遅れるぞ』
 扉をあけて催促してきたギルの声に、カインはそっと手をとめた。柔らかで気品ある光沢を放つ愛器にキスをして、何事かを決心するかのように瞼を閉じる。
 (楽神よ、俺は――俺は賭けにでるぞ)
 『カイン』
 『ああ、今行くよ。車を出して』
 俺の人生は、流麗なしでは有り得ない。急かすギルバートに答えて、カインはそのすらりとした肢体を控え室の扉の外へと滑らせた。




 カイン=ロウェルがしばらくぶりに北条流麗の顔を見てホッとしたのと同様に、北条流麗もまたカイン=ロウェルの顔を見て安堵感に胸を浸らせた。普段着でいいものかと思っていたのが、マリアとジュリアによってイブニングドレスというものに着替えさせられたばかりである。
 さすがに芸能記者や新聞記者、各界の著名人が招待されているとあって、そういい加減な格好はできないようだった。
 マリアは常どおり胸を強調するかのような紅いドレスに身を包み、ジュリアはそのスレンダーな身体を黒のドレスになじませている。流麗が彼女たちによって着せられたのは、まるで慣れない純白のスリムドレスだった。
 ノースリーブの肩が寒い寒いと流麗が文句をいい、やっとのことでボレロを着せてもらう。裾には音符をかたどった白の刺繍が浮き上がっており、見る人間が見れば実に流麗らしい衣裳だと思われた。
 『カイン……あたし、ホントに行って平気なの?』
 『ああ、大丈夫だよ』
 彼の声音はいつもと変わらず穏やかである。その平静さが、やはり流麗を安心させた。 マリアもジュリアも笑っているし、先程少し遅れて合流した朝倉鏡も笑っている。
 これならキャサリンやビーリアルと鉢合わせしても平気。我慢できるわ、と流麗はようやく曇りのない笑顔を見せた。
 『今日は思いっきり高級ワインが飲めるわよ、早く行こ!』
 ジュリアが豪快に笑って皆を促す。貧乏たらしいわね、と悪態をつきながらマリアもまたドレス裾をさばいてホテルのロビーに出た。
 ロンドンの中心に位置する主要ホテルのロビー天井では、少し揺れれば落ちてくるのではないかと思うほど大きく重そうなシャンデリアが燦々と暖かな光を放っている。
 流麗の右手を案じるようにして、カインが優しくエスコートした。鏡もまた燕尾服姿でマリアの傍らにつき、はみ出されたジュリアとギルバートが並んで先に車へ向かう。
 『そのドレス、気に入った?』
 『うん、可愛い。この音符の刺繍。カインが用意してくれたの?』
 『ああ。マリアたちに任せても良かったんだけどね、どうせろくなもの選ばないだろうと思って』
 どうせ流麗のだから自分が選んであげたかったんでしょ、どうせあたしはセンス悪いわよ、とマリアが暗くなった車外の風景を見ながら愚痴を言う。
 『仲良くなったもんだよな』
 鏡がしみじみと呟いた。おそらくここにいる全員が思っていることに違いない。
 一度は流麗を階段から突き落とし怪我をさせ――つまりはその後遺症のために流麗の手が麻痺しているといっても過言でないほどなのだが――そのうえ非行少年の集団に流麗を拉致までさせたことのあるマリア=ルッツ。彼女がこんなにも穏やかな表情で流麗と車に同乗するなど、いったい誰が思っただろう。
 そういえばジュリアとカインもまた仲が良い関係ではなかったのに、こうしてみるといつの間にか険悪な空気は消えている。息苦しかった流麗と鏡の関係もどこか霧散していた。
 『……ごめんね、ルリ』
 ぼそり、と向かいから声が聞こえて流麗は視線を向けた。高級車の後部シートは広々としており、五人が座っても決して窮屈ではない。不意に流麗に対して謝意を表したのは、思いもかけずマリア=ルッツであった。
 『ぇ? どうしたの、何?』
 何をどう謝罪されているのか分からずに、助けを求めて流麗はカインの横顔をまず見上げる。
 日頃流麗以外の人前であまり表情を変えることのないカイン=ロウェルが、瞳を見開いて驚いた顔をしていた。鏡を見てもジュリアを見ても、皆一様に鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてマリアを注視していたし、運転していたギルバートさえも一瞬驚きにブレーキを踏みかけたほどだった。
 マリア=ルッツは自尊心が高い。自分が悪いと思っていても、人前で謝るような女ではなかった。
 『マリア? 何、どうしたの? 何か悪いことしたの!?』
 少々間の抜けた流麗の声に、ジュリアが複雑そうな顔で笑いをかみ殺す。しん、とした車内でマリアは見つめる流麗の視線を避けるようにうつむいた。
 『ごめんね、ルリ。あんたの手……あたしがあのとき階段から突き落としたりしなかったら、こんなことにもなってなかったかもしれない』
 (――…………!)
 少々面食らった。
 『……っふ』
 思わず笑ってしまい、静かな車内の空気に慌てて口許を押さえる。しかしその流麗の微笑で、空気は一気に和んだ。
 『何ガラでもないことしてるの? びっくりして笑っちゃった』
 『ちょっとルリってば、あたし本気で……!!』
 『わかってるよ、大丈夫よマリア。もう気にしてないってば』
 高飛車なマリアの美貌が、珍しく今にも泣き崩れそうだ。そんな姿を見れたなんて貴重だわ、と思いながら流麗はマリアの手をそっと包んだ。
 『ルリ、せっかくだからグランドピアノのひとつでも買わせたらどうだ』
 カイン=ロウェルが涼やかな笑みをたたえて平然と言ってのける。彼も流麗の気持ちを酌んだのか、軽く冗談で流そうとしてくれているようだった。鏡が優しくマリアの髪を撫でる。
 『もう謝らなくていいのよマリア。性格悪くてこそマリアでしょ?』
 『ル……ッ!』
 マリアがひどく複雑そうな顔をした。友達になったんだなぁ、という実感。
 いつかきっと楽しく笑いあえるかもしれない、と信じていて良かったと。
 今改めて思う。
 『楽しそうなところ悪いけど、もうそろそろ着くぜ』
 ギルバートがホッとしたような顔で後部シートに声をかけた。フィルムが貼られた窓越しに外を覗くと、流麗たちが宿泊するホテルとはまた趣の異なる大きなホテルがすぐ傍に近づいている。古風かつ格式高い雰囲気を存分に醸しだしているそのホテルは、立派な石造りであった。
 名バイオリニストであるカイン=ロウェルの公演打ち上げパーティーが開催されるには非常にふさわしい場だといえよう。
 車からカインと鏡が降り、それから流麗たちを慣れた仕草で降ろす。
 滅多に履かないような豪奢で上品な靴は、意外とヒールが高く歩きにくい。よろめく流麗を助け起こし、カインがそっとその手をとった。正面玄関からファンや記者たちが居並ぶ中を、大広間へ向かってまっすぐ歩いていく。
 名家コーンウェル家令嬢キャサリン――ではない美しい少女を連れたカイン=ロウェルに、記者たちは幾分当惑しながらフラッシュをたいた。
 フラッシュの音とファンの悲鳴、それを止める警備員の怒号。本来ならば閑静であるべきホテルのロビーが、カイン=ロウェルただひとりの存在から一気に騒々しくなっていく。
 後ろから朝倉鏡とマリア=ルッツが仲良く腕を組んで歩いてくるのを見つけると、記者たちがフラッシュをたく音は一層騒がしくなった。
 

 ホテルマンが大広間の前で中を指す。それに導かれて流麗たちは広間内へと足を踏み入れた。カインがそっと流麗の腕を自分からはずす。
 すっとジュリアが寄ってきて、足元のおぼつかない流麗を脇から支えた。
 ご足労いただき有難うございます、とか何とか。そういうような言葉だったのだろう、カインが母国語である英語を流暢に使いこなして挨拶をしている。
 盛大な拍手。来賓客の中にちらりとキャサリン=コーンウェルの姿が見えた。
 ひどく喜びに満ちた、誇らしげな美貌でカインを見つめている。一瞬沈んだ気持ちを振り払って、流麗は足元に気をとられながらジュリアの腕につかまった。
 どうにも高すぎるヒールに、流麗はパーティー前の挨拶に集中できない。しかも滑らかでスピード感溢れる英語を、まるで聞き取ることができないのである。
 (――…………?)
 
 そして流麗は異変に気付いた。視線がすべて自分のほうへ向けられていることに気付いたのである。
 ジュリアとマリアと、それから鏡がにやにやと笑いながらこちらを見つめ、そのうえカインまでがいつもの落ち着いた微笑で視線を向けている。
 何が起こったのか、と流麗は動揺しながらジュリアに助けを求めた。
 『……ちょっとジュリア、何よ、何なの』
 『……っぶ。いいから、あの顔見なさいよ、キャサリンの!!』
 言われて見ると、黒いドレス姿のキャサリンが青ざめている。顔面を蒼白にしながら、そしてわなわなと唇を震わせ怖ろしいほど瞳を見開きながらこちらを睨んでいた。
 その憎悪溢れる視線に思わず恐怖を感じ、眼を逸らす。
 ざわめきが広場を支配していた。
 『何、カインが何か言ったの?』
 『あんた聞いてなかったの!?』
 『……ドイツ語は練習したから分かるけど、英語は分かんないってば』
 何をそんな当たり前のことを言うの、と恨めしく思いながら反論する。海に囲まれた島国の高校生にそんな何ヶ国語も要求しないでよ、と流麗は唇を尖らせた。
 『ドイツから来ていただいた方もいらっしゃるので、ドイツ語でもう一度お願いします』
 ギルバートが、カインに向かって促す。カイン=ロウェルが堂々と頷き、再びマイクを握った。



 

 『結婚します。日本人ピアニストのホウジョウ=ルリと、結婚します』



 
 流麗の手から、ウェルカムドリンクが音を立てて滑り落ちた。









 
 最終楽章:玉響のように

 
 『世の中には幸福も不幸もない。ただ、考え方でどうにでもなるのだ』
                              ―シェークスピア―


 

 明らかに驚愕の色を浮かべていたのは、記者及び来賓の著名人たち。
 そしてキャサリン=コーンウェルと――――北条流麗。
 カイン=ロウェルは憎たらしいほど涼しげな顔でその美貌に微笑をたたえ、傍らでギルバートも口許を緩めている。ふと傍らを見ればジュリアもマリアも、そして朝倉鏡も愉快そうに肩を揺らしているのである。
 流麗は思わず狼狽した。
 『結婚したもの勝ちよ、この勝負。コーンウェル家は、そう簡単に太刀打ちできるような相手じゃないんだから』
 マリアが脇から囁いた。記者の何人かがスクープだとばかりに広間を飛び出し、このパーティーのために呼ばれたクラシック界の巨匠たちは眼を見開いてカインと流麗を交互に見つめる。
 懐かしいミヒャエル=フランクルとヨハネス=コール。そして流麗の恩師でもあるオットー=エアハルトの三人ばかりは安堵したような顔で状況を見守っていた。
 彼らは――流麗のことをよく知っている。
 『ルリ、おいで』
 カインが向こうから手を差し伸べてきた。しなやかで強靭な、形のよい腕。身体を形作るライン全てが芸術品のように美しい男である。
 マリアとジュリアが揃って流麗の背を押した。
 『ちょ……っ』
 
 『ちょっとお待ちなさいよ』
 そのとき、広間を鎮めるかのように鋭い声が響いた。――声のしたほうに視線を向ける。完全に顔色を失ったキャサリンの傍らに、その母親らしき美しい熟女がドレス姿で立っていた。
 社交界にひどく慣れた立ち居振る舞いである。マリアが溜息をついて、視線を逸らした。
 『カイン、あなたはキャシーを馬鹿にしてそんなに楽しいのかしら?』
 あ、まただ。
 まただわ、と流麗は眉を顰めた。自分の存在によって、またカインに迷惑がかかる。
 『いえ、そんなことは』
 『婚約発表までした仲なのよ? どういうつもりか聞かせなさい』
 『……お言葉を返すようですがMs.コーンウェル。俺がみずからキャシーと婚約する、結婚すると口にしたことは一度もありませんよ。すべて貴女方と俺の母親が、勝手に進めてこられたお話でしょう』
 『何ですって!?』
 キャシーの母親の鋭い叫び声に、流麗はびくりと肩をすくめる。母娘してそっくりだわ、と思いながら状況を見つめた。
 『勘違いされたのは貴女方でしょうに』
 カインが無茶を言っているのは、ほぼ明白だった。それでもしかし、彼が言うと説得力があるというのだろうか。何かひどく有無を言わせぬ力がある。
 コーンウェル夫人は眉をつりあげてカインを睨み、そして予想通り流麗に視線をばちりと当てた。確かに――カイン=ロウェルは婚約発表の記者会見のときでもいつでも、公の場には姿を現していない。
 カメラの前で様々を発表してきたのは、あくまでコーンウェル夫人であったりキャシー自身であったりした。
 カイン=ロウェルという年の割にひどく大人びた世界のバイオリニストを相手にするよりも、驚きを隠せない東洋人の娘に矛先を向けたほうが勝てる。そう思ったに違いない。
 『あなた……どういうつもり。娘から婚約者を奪うなんて、どういうつもりでそんなことを?』
 不意に夫人は流暢なドイツ語で流麗に詰め寄ってきた。
 彼女の眼は蛇のように執拗であり、そしてまた獣のように敵意に燃えていた。思わず流麗を守ろうとしたマリアやジュリアも後ずさる。
 『身の程知らずも甚だしいわ。……私が認めるとでも思っているの? この結婚を!!』
 皆が止める間もなく、夫人の手が流麗の柔らかな髪を引っつかんだ。顔色を怒りに変えて止めに入ろうとしたカインを、鏡が止める。
 手加減のない力で夫人は流麗の髪を掴んで引きずり、そのために足元が崩れて床に倒れこむ。思わず右手を突いてしまって、流麗は小さく悲鳴をあげた。
 『………………』
 夫人の眼がその右手に留まる。ジュリアが怒鳴るように言った。
 『ルリは右手麻痺してるんですよ!? ピアノも弾けない状態なのに、そんな乱暴なことやめてもらえますオバサン!?』
 カインが鏡に押さえ込まれたまま溜息をつく。こっちから弱みを暴露してどうするんだ、とその双眸が明らかに怒っていた。
 『あら、そう……ピアノも弾けない、家柄もないただの小娘がキャシーを差し置いてカイン=ロウェルの妻になろうって!?』
 流麗の瞳の奥が、小さく煌めいた。
 こういう人種が――世の中で一番嫌いだ。根も葉もない噂で、しなくてもいい苦しみを味わった。淫乱だと罵られ、死ねと罵倒され、カインの傍でピアノを弾く機会さえも奪われた。
 全部あれは、この女の産み落としたキャシーの仕業である。
 あたしはただピアノが好きで、カインが好きで、ただそれだけなのに。
 金持ちの道楽で大切なものを次々奪われるわけにはいかない。
 『ちょうどいいじゃないですか、一番最初に流麗が淫乱だの何だのと報道した芸能誌の記者がそこにいる』
 そのとき不意にカインが低い声で呟くように言った。顎をしゃくった先に、サングラスをかけた若い男が立っている。
 右耳に――紫水晶のピアスをしているのが見てとれた。
 (…………ぁっ)
 『あんた、誰から流麗の噂を聞いた? 誰が新聞社にそんな根も葉もない噂を持ってきた?』
 カインが問う声色の冷たさとその内容に、キャサリンの顔色が変わる。口の渇きを抑えるように何度も唾液を嚥下し、震える足取りでカインの立つほうへ向かった。
 『ちょっ……何で』
 『ああ、このお嬢さんだぜ。ご丁寧にメモまでつけて、記事の捏造を頼んでいったよ』
 カインの口角がわずかに上がる。同時にキャサリンが得体の知れぬ生き物のような悲鳴をあげて崩れ落ちた。
 『何であんたがそんなこと――!! あんたじゃなかったじゃない!』
 言いかけてキャサリンは己の唇を手で覆う。この場に集まった芸能記者は数限りなかった。
 それらが皆、ざわめきながらこの状況を見つめている。ぴんと張りつめた空気が続くと思った瞬間、その場の緊張が再び切り替わった。
 『認めないわよ、こんな結婚。コーンウェル家の名誉にかけても認めないわよ』
 泣き崩れた娘の姿も顧みず、コーンウェル夫人が叫ぶ。そして流麗をまっすぐ指差して言った。
 『ちょうどいい、マエストロたちも皆さんいらっしゃってるわ。ピアノを弾いてみなさいよ』
 『……っそうよ、本気でカインを奪う気なら弾いてみなさいよ。マエストロが全員認めたら、あたしも認めてあげるわよ……その手で弾けるものならね!』
 きっと綺麗に化粧してきたのだろうキャシーの顔が、涙で汚れている。涙で剥げ落ちるマスカラも気にすることなく、キャシーは母親の言葉に乗って怒鳴った。
 『おまえいい加減に――』
 さすがに殺気立つ怒りを抑えきれなくなったカイン=ロウェルが言葉を挟もうとした、そのときに。
 あんたは黙ってなさいよ女狐、とマリア=ルッツが怒鳴ろうとしたそのときに。
 『弾くわ』
 北条流麗は、ひとことだけ。
 そう呟くように宣言して、落ち着かない足元の靴を脱ぎ捨てた。
 
 ざわついた空気が、すうっと波をひくように消えていった。


 
 ――――――――――――――――――――――――

 
 それは――決して闘いではなかった。

 それは――決して闘いではなく、恋敵とのいがみ合いでもなく。

 それは――愛だった。切望だった。

 ………………………………ピアノへの愛。ピアノを弾きたいという烈しい切望。






 くるくると包帯を外し、ギプスを外す。傍で見ている者が幾分どきりとするほど、その姿が美しかった。純白のイブニングドレスは、カイン=ロウェルが見立てたたった一着のウェディングドレス。白い裾に音符を躍らせながら、流麗はボレロをふわりと脱いでジュリアに預けた。
 『ルリ…………弾けるの!?』
 カインが眉を顰めて歩み寄ってくる。ホテルマンたちが、隅に寄せていたグランドピアノをいそいそと準備し始めていた。
 右手は、痛い。鈍い痺れと痛みが、やはりこの手首に蔓延している。
 カイン贔屓のマエストロたちはまだやはり流麗に心を寄せていないものらしく、彼らが流麗に要求してきたのはショパンの『バラード二番』と『革命のエチュード』だった。
 演奏時間は短く、流麗ほどのピアノ奏者にとってはそう難易度の高い技術を要するものではない。
 しかし病んだ右手で弾くには、二曲ともあまりに烈しすぎた。マリアも、そしてジュリアも、もちろん音楽に携わる者ならば皆そのことを熟知している。
 「ルリ、心配しなくていい。断っても平気なんだぞ」
 カインが流麗の久方ぶりに見せた素肌をそっと包み込んだ。彼が本気で心配しているのが、流麗には痛いほどよく分かった。
 「大丈夫よ。こんな機会がなきゃなかなかピアノ弾けないんだもの」
 「でもおまえ……」
 「弾きたいの。もうずっと離れ離れだったもの、ピアノとは。弾いていいでしょ?」
 今日だけだから、と流麗は澄んだ瞳でカインの整った端麗な顔を見上げる。
 ピアノが弾きたい。ピアノが弾きたくて弾きたくて、弾きたくて仕方がない。
 その想いが、キャサリンやコーンウェル夫人を恨むより先に流麗を突き動かす。
 今しかない、そう思った。流麗を最も心配しているのはカイン=ロウェルだったが、しかしその流麗の想いを最も理解しているのもまたカイン=ロウェルであった。
 「でもマエストロを満足させられなかったらごめんね」
 「そんなことはいいよ。無理だと思ったらすぐ俺に合図しな」
 流麗は微笑む。ふと向こうを見れば、綺麗に手入れされたスタンウェイがどっしりと鎮座して流麗を待っていた。
 「本当に弾くんだな」
 「……弾くわ。それにショパン、ずっと弾きたかった」
 あたしの手は大丈夫。あたしは弾ける。
 そして何度も言い聞かせる。信じることが――愛だと信じる。



 

 初めは湖面に広がる静謐たる波紋のように。

 ♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫…………

 (弾けるわ)
 指が、動く。初めまして、と呼びかける心の声にピアノが応えるのが分かる。どちらかといえば男性的な音色。鍵盤に指を乗せた瞬間に、落ちる恋。ピアニストとピアノがお互いに想いを通わせ、この世にないほど美麗かつ繊細な音色を奏でだす。
 初めは湖面に広がる静謐たる波紋のように。
 聴く者が思わず耳を澄ませてしまうような、繊細で静かな旋律――そして突然響きわたる雷鳴のように烈しく。
 右手に奔る痛みは、一瞬で消えた。思いきり両手でピアノと触れ合っている幸福感から、その痛みを忘れたのだといっても過言ではない。ピアノを弾くだけで、こんなにも幸せだ。
 流麗の唇から、無意識のうちに微笑がこぼれた。巨匠ミヒャエルやヨハネスは満足気に口髭を弄び、そして流麗を快く思っていないであろうバイオリン界の巨匠たちもまた思わず眼を閉じる。
 心配そうだったカイン=ロウェルもまた、諦めたように微笑んで瞳を閉じた。

 …………♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫…………

 バラード二番。
 湖面に広がる静謐たる波紋のように。そして溢れだす雄々しく強靭な旋律。ほっそりとした儚げな少女が奏でているとは思えない音色は、そう、ピアノが手を貸している。流麗の想いに乗せて、ピアノが流麗を抱き締め力を貸している。
 世界で一番ピアノに愛されているピアニストだ、と。流麗を知る者は皆思う。
 (ホント、優しいんだから)
 ねえ。あなた、ずっとホテルの隅っこで眠っているの? こんなに素敵な音色を持っているのに。カイン=ロウェルのバイオリンと協奏できたら、きっとあなたも喜ぶわ。
 ピアノに話しかける――少しばかり風変わりな流麗の癖が、ピアノと彼女との間にある壁を打ち崩している。





 キャサリンの唇が歪んだ。聴き惚れる旋律と、流れるように動く美しい流麗の手指。音楽に愛されるために生まれてきたような女なのだ、とまるで音楽に興味のないキャサリンにも分かる。広間中の来賓客が、皆恍惚と聴き入っている――それが事実だ。無防備に聴いていると、何故か不思議にも涙がこぼれてくるような音色だった。
 流麗に嫌悪感を抱いているように見えた巨匠たちの顔色が、すでに変わっている。
 真剣に値踏みをする双眸から、北条流麗というひとりのピアニストを認め、その音色に聴き惚れる双眸に。
 ただ――惹かれるのだろう。


 ♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫…………

 ショパンの想いが流麗に憑く。
 祖国ポーランドが列強によって分割されたときの、慟哭が。
 祖国を離れた旅の途中で、祖国革命軍がロシア軍に鎮圧されたことを聞いたときの激情。
 ワルシャワが陥落したと聞いたときの行き場のない怒り。
 そのときあなたは何を思っていたの、と。彼はそのときどれだけ泣いたのだろう、と最早今となっては誰にも分からないことを流麗は思う。
 奏でるだけで胸が締めつけられる旋律は、烈しい。烈しく、それでもしかし流れる旋律をもって人々の胸をうつ。己の悲運と祖国の運命を呪う、轟々たる旋律。

 …………♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫…………

 『革命のエチュード』。
 聴衆には、ロシア軍に鎮圧されゆく革命軍が視える。銃剣で突かれて散ってゆく若い命の慟哭が、聴衆には聴こえる。
 ひとり、ふたり。来賓客の瞳にうっすらと涙が浮かんだ。己の運命を呪い歎く悲痛な叫びに、皆侵されてゆく。
 これが、北条流麗の力だった。世界で一番ピアノを愛し、世界で一番ピアノに愛された北条流麗の力だった。
 右手を麻痺に冒されていてさえ、人の心を烈しくうち動かす力量。麻痺しているはずの右手は、ギプスから自由になったことを喜ぶかのように流麗の思い通りに動く。
 痛みも痺れも、感じない。
 (……あたしはやっぱり)
 やっぱり、ピアノを弾くために生まれてきたの。
 そういう星のもとに生まれてきたの。

 …………♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♬♩♪♫♩

 そして昂ぶる感情のままに終焉を迎え――――慟哭とともに静寂が訪れる。
 (だからあたしは)
 あたしはピアノから離れられない。愛しているから。




 ミヒャエル=フランクルがゆっくりと手を叩いた。ヨハネス=コールがそれに加わり、オットー=エアハルトもまた拍手を重ねた。
 流麗を嫌悪していたポール=セザンヌが手を叩いた。アルバート=シュナイダーが手を叩いた。
 そこに居並ぶクラシック界の重鎮たちが皆、流麗のピアノを讃えていた。
 カイン=ロウェルが向こうからこちらを見つめて微笑んでいる。ジュリアが泣いていた。
 あのマリアが泣きながら笑い、鏡がそれを支えていた。
 悄然とするキャサリン=コーンウェルの向こうで、紫水晶のピアスを右耳につけた若者が小さくウインクをする。
 マリアに頼まれて流麗を拉致し、結局流麗を助けた非行少年のボスだった。
 (カインってば……いつの間にピーターと繋がってたのよ)
 流麗の唇から、再び微笑みが洩れる。



 ――――激痛が走った。




 ぐるりと。
 ぐるりと世界が反転し、そこで流麗は意識を失った。




 ――――――――――――――


 カイン=ロウェルが、流麗から話に聞いていたピーターの性格を見込んで彼を探していたらしい。金さえくれれば何でもやる、という彼に依頼した。北条流麗の噂を雑誌社に持ち込んだのが誰か突き止めろ、と。
 ピーターは流麗を覚えていた。手を折るくらいなら脚を折れと叫んだ少女の姿を、彼はしっかりと覚えていた。
 そしてあいつのためなら一肌脱いでやろう、と。



 北条流麗の名は、カイン=ロウェルの愛する婚約者として世界中に知れ渡った。また罵られるべき女としてではなく、世界で一番ピアノに愛されたピアニストとして。
 しかし流麗の手は、患部固定だけでは治らなかった。
 あれからカインやマリア。ジュリアたちに宥めすかされ、そしてカインの眼を盗んで現れたビーリアルに乱暴に脅されてようやく入院し、手術を受けた。
 名誉毀損罪で訴える、とカインや鏡が脅したコーンウェル夫人とその娘キャサリンは、やはり愛よりも己の地位が大切だったのだろう。告訴しないことを条件に、もう二度と流麗に手を出さないと渋々誓った。告訴されるということが、余程怖かったらしい。
 カインの母親も英国帰国後、仕事で渡米していた間のその騒動を聞いた。彼女は彼女で、自分の息子が幸せになるんならそれでいいわ、と意外にもあっさり認めたものである。流麗が北条家の一人娘であるということも、彼女の怒りを鎮めるに充分な要素であったようだ。
 そしてカインたちの看病とともに必死のリハビリを流麗は越えてゆく。
 きっと独りならば耐え切れなかった試練だ。
 ピアノさえいれば、と思っていた流麗の世界に――ジュリアが、マリアが――そしてカイン=ロウェルが入ってきて。
 カインに殴られながらぶっきらぼうに謝ってきたビーリアル=ウェズリーもまた、流麗を成長させたひとりだったかもしれない。





 ――――想いは。

 時が経ってもこの想いは。

 青空よりも高く、光る海より深く輝いている。


 この日を、きっとあたしは忘れない。



 信じることがすべてだと。信じることが愛なのだと。
 あたしの未来はいつだって輝いているんだと、そう信じてきて良かった。
 流麗は微笑む。微笑む先には、いつでもカイン=ロウェルがいる。そして傍らにはピアノがゆったりと流麗を見つめている。
 何度も絶望の淵から這い上がってきたしなやかな心が、今はこんなにも輝いていた。
 カイン=ロウェルと北条流麗。そして朝倉鏡とマリア=ルッツによる――クリスマスリサイタル。
 この日を待ち望んでいた。ずっとピアノが弾きたかった。






 神様、聴いていて。

 
 輝く橙色の暖かい照明。鳴り響くブザーと客席を埋め尽くした聴衆。世界が甘く優しく満たされる。音色の粒子は虹のような色彩をもってきらきらと輝き、そしてまるで香水のように聴衆に散りばめられていく。
 それを浴びた何もかもが、ふわふわと音色のシャボンの中に包まれて天空へ舞い上がって――――心の奥底から何かが解放されてゆく感覚。

 ……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……

 しなやかな指が白い鍵盤を滑るたびに、優麗で肌理こまかな音色が踊る。
 ホール中のすべてが歓喜と幸福に満たされて、まるで涙を誘うほどに心を浮き立たせ。

 ……♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫♪♫♪♬♩♪♫♩♬♪♫……

 美しい指が弦に触れ弓を操るたびに、繊細でほんのりと甘みを帯びた音色が舞いあがる。
 微かに悲哀を帯びた旋律に、まるで魂はひとつひとつの音符にまるく包まれていく。
 奏でる者の魂がふんわりと沁みこんだ音色は、聴く者すべてに幸福を与えて。
 きっと未来は輝いている、と希みの光彩を放つのだ。心をゆっくりとひたしていく旋律の甘い波。
 くるくると踊り駆けめぐる音色の粒子たちが、どんな暗闇でさえも鮮やかに照らす。
 選ばれた者にだけ許された最高の調和。
 まるで玉響のように、この世にあるすべてのものを秘めやかな愛と優しさでもって包みこむ。そしてそれは神に捧げる舞曲となって、空高くきらきら舞い昇っていくに違いない。
 
 玉響のように――輝ける心の煌めきよ。
 
 だから。
 だからどうか神様、聴いていて。




 『次よろしくね、ゲストさん』
 ぱんっ、と掌をあわせる。
 『分かってるわよ。見てな、最後にあたしとキョウの婚約発表しちゃうから』
 『おいしいところは俺たちが貰うから』
 鍵盤を拭うためのハンカチを握りなおしながら、流麗は微笑んだ。――こんなにも幸せ。眼前で笑うマリア=ルッツと朝倉鏡の姿が、眼に鮮やかに映る。
 『お互い見惚れてヘマしないようにな』
 くすり、と穏やかに笑ったカイン=ロウェルは流麗のすぐ傍らに。

 いつでも未来は輝いている、と信じることが大切だった。ひとりじゃない、と思うことが大切だった。
 そして決して消えることのないピアノへの想い。
 すべては神に捧げる舞曲となって、空高くきらきら舞い昇っていくに違いない。
 出逢えてよかった。苦しんでよかった。――こんなにも幸せ。



 玉響のように――輝ける心の煌めきよ。

 だから。
 だからどうか神様、聴いていて。

 




 ――――天に捧げるめくるめく旋律を。







2005/05/09(Mon)16:41:46 公開 / ゅぇ
■この作品の著作権はゅぇさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ん〜???終わっちゃった、と一言。何か最後いまいち納得いかないんだけれども、でもこれが一番すんなりいくような……っと半ば無理やりハッピーエンドにしたようなしてないような。手術のところとかも書けばよかったんかもしれませんが、どうなんでしょう。何かもう、流麗が痛い目するのはもういいだろう、と自分で勝手に言い訳しつつ、こんな終わりかたにしてしまいました。さてと、次は何を書こうかなぁ。流麗とカインの新婚生活が書きたくて書きたくて仕方ないんですけど。流麗を悲劇のヒロインにしたくてしたくて仕方ないんですけど(コラ
ああ、ちなみにマリアと鏡の結婚式書きたかった(笑)結局ビーリアルはあれっきり!?ってのが自分の中で微妙なんですが、あいつを出すとまたややこしくなるのでもういいです(自己完結)もしもっていうかおそらく確実に『玉響のように第三弾』を書くだろう駄目作者ゅぇですが、もしもまた投稿したときはのんびりお付き合いいただければ幸いですっ♪
ありがとうございました皆さん〜(≧∀≦)
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