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『セロヴァイト・ファイナル  ―完―』 作者:神夜 / アクション アクション
全角190057文字
容量380114 bytes
原稿用紙約524.3枚





     「プロローグ」



 ――焔。

 小さな少女が我が名を呼んでくれれば、それだけですべてが満たされた。
 異端者を排除するためだけに産み出され、朧と共に暴走を繰り返し、触れるものを例外無く破壊して回っていた頃の己。自分たちに勝てる者など、この世には存在しなかった。否、存在してはならないのだ。紛れもない最強の化け物であると同時に、負けることの許されない存在。それが、狭間の番人である。自我を持ってはいるが決して情に流されず、異端者は例外無く殺すために産み出された存在だったはずだ。それなのに、今の自分はどうしてしまったのだろう。セロヴァイト戦に参戦して、一人のセロヴァイヤーと出会い、そして、その少女が自らの最も大切な者となった。
 しかし、それが間違いだったとは焔は思わない。
 七海紀紗。彼女が、焔を変えたのだ。
 紀紗と出会えてよかった。今なら心の底からそう思える。紀紗がいなければ、今の己はここにはいない。紀紗がいてくれたからこそ、今の己がここにいるのだ。
 ――焔。紀紗がその名を呼んでくれれば、それだけですべてが満たされ、荒んだ心にぬくもりを与えてくれた。
 前をトコトコと歩く小さな歩調。振り返ったときにゆっくりと舞う長い髪。そして何より、嬉しそうに笑うその笑顔。
 紀紗が何よりも大切で、何よりも愛おしかった。
 いつも夢見る光景を思い起こしながら、焔はゆっくりと首を上げる。見えるのは、闇に浮かぶ星の輝きだけだ。ここは漆黒の世界【界の狭間】だ。ここには焔以外は何も存在しない。存在してはならないのだ。二つの世界を結ぶ領域。その領域を侵す者は容赦せずに殺さねばならない。それが狭間の番人の使命なのである。
 だが一年前のあの日、自分は禁を犯した。しかし禁を破ったのだが、焔はそれが間違いだったとは思わないし、恐らく【創造主】もそう思ってくれているるだろう。だからこそ、何のお咎めもなく焔はここに存在しているのだ。もし【創造主】の怒りに触れれば、焔の存在はこの世界から抹消されるに違いない。【創造主】は偉大であり、この世の頂点に立つ者であり、紀紗とはまた違った意味での焔の唯一絶対の主だ。【創造主】の命が焔の生きる意志となる。そしてその意志というのが、『――界を越えて対立を乱すな。乱す者は異端者として排除する――』という【掟】に繋がるのだ。そのためだけに、焔は今、ここに存在している。だから、
 ――異端者は、排除しなければならない。
「…………………………」
 上げた首をゆっくりと動かし、遥か彼方、二時の方角に浮かび上がった異端者の存在に意識を真っ直ぐに向ける。そこに、軸を越えて対立した世界を乱そうとする異端者がいる。数は多くない。生体反応は人間一人分しか感じ取れなかった。迷い人か、それとも何かもっと別の理由を持つ者か、あるいはセロヴァイト戦の優勝者か。しかし関係無かった。この【界の狭間】に足を踏み入れたのなら、誰であろうと容赦無く殺す。それが、狭間の番人・焔の役目だ。だから、異端者は、排除する。
 【界の狭間】が一瞬だけ大きく歪んだ。それと同時に焔の体から緑の光の粒子があふれ出し、それは真紅の巨体を分解して【界の狭間】の中を瞬間的に転移させる。そして再び焔が構築された場所は、【界の狭間】の果てに最も近い場所だった。緑の光の粒子が完全に弾けた刹那、体に劫火を纏わせて焔は異端者を見据える。
 異端者は、笑っていた。
「……久しぶりだね、焔」
 その異端者を、焔は知っていた。
 忘れもしない、この男がセロヴァイト戦の発案者であると同時に、焔にセロヴァイト戦参戦の取り引きを持ち掛けて来た人物である。
 その名が、ヨナミネ=S=ファイタル――。
「……貴様、一体何の用でここにいる。【掟】の存在を、貴様が知らぬ訳ではなかろう」
 もちろん、とヨナミネは肯く。
「何だったか、『界を越えて対立を乱すな。乱す者は異端者として排除する』、であってるかな、焔。知っているさ、それくらい。それに、その【掟】を知らない者がここに足を踏み入れるなど馬鹿以外の何者でもない。言い方を代えれば、ここは自殺の名所と大差ないのだよ」
「ならば話が早い。貴様には、ここで死んでもらおう」
「……いいや違う。ここで死ぬのは、焔。――君だ」
 瞬間に、ヨナミネの背後から眩いばかりのライトが灯った。それは漆黒の空間を切り裂き、焔の眼光を確実に射貫く。後ずさった焔の視界の中で、ライトの逆光によりヨナミネの姿が黒くぼやけている。そして感覚が教えてくれた。この【界の狭間】にいるのは、ヨナミネだけではない。辺りから緑の光の粒子があふれ出し、焔を囲むように空間を捻じ曲げてアリのように大量の人間が這い出てくる。一目では、その数を判別できなかった。焔の眼光がライトの光に慣れたときにはすでに、防護服を身に纏った特殊兵に周りを占拠されていた。
 怒りによって劫火が荒れ狂う、
「何のつもりだ、ヨナミネ=S=ファイタル……ッ!」
 ヨナミネは実に楽しそうに笑う。
「簡単だ。この【界の狭間】はこの瞬間を持って我々が占拠した。君はただの邪魔者でしかない。ここで死んでもらおうか。我々はこれより、ここを拠点としてもう一つの世界を制圧しなければならないものでね。ゆっくりと君の相手をしている暇など無いのだよ。だから、潔く死んではくれないか」
 焔の中で、劫火が触れてはならない所に触れた。頭が沸騰する。人間にこれほどまでに大層な口を聞かれるとは思ってもみなかった。上等である。ここにいるすべての人間を、皆殺しだ。命乞いは聞かない、逃げ出しても地の果てまで追って殺し尽くしてやる。自らが犯した【掟】の重さを噛み締めて地獄を夢見ながら死んで逝け。
 焔は口を抉じ開け、強大な咆哮を弾き出す。それはヨナミネの笑顔を塗り潰し、周りを囲っていた特殊兵を根こそぎ圧倒する破滅の突風となって一気に吹き抜けた。狭間の番人に勝てる者など存在しない。否、存在してはならない。高々人間が束になったところで、焔に勝てる訳がないのである。事実、ここに集まったすべての人間の総攻撃を受けても、焔には傷一つ残らなかったはずである。
 が、この時ばかりは状況が違った。すべてを見透かしたような表情がヨナミネに宿り、「さすがだ焔。だが、やはり君の力は敵対するのなら我々にとってはただの障害でしかない。君に暴れられては厄介なのだ。だから、ここで消滅してくれ」と言いながら手を上げ、指を大きく弾く。刹那に、焔の四方八方から『キィイィイィイィイィイィイン』という何かの作動音が響き渡り、【界の狭間】が波打つように歪み始めた。その異変に焔が気づいたときにはもう遅い。焔の体が圧倒的な重力の塊に圧し潰され、地面に固定される。劫火までもが抑え込まれて身動き一つ取れなくなった。
 無様な体勢のまま這い蹲る焔に歩み寄り、ヨナミネは再度笑う。
「どうだね、我々が開発した重力変換装置の威力は。幾ら焔と言えど動けまい。虚の内部に仕込んだものとは出来が違う。【界の狭間】のデータはすべて調査済み、それと合わさって改良されたこの装置に死角はない。大人しく死んでくれ。だが安心しろ、これからは我々が、『【創造主】になってやる』」
 その言葉が、焔のプライドを砕いた。
 高々人間が【創造主】になる、だと? 笑わせるな。【創造主】とは唯一絶対の主であると同時に、この世のすべての頂点に君臨する神の名だ。貴様等では永遠に辿り着けない領域に住まう方の名だ。それを、なってやる、だと? ふざけるな。貴様等が【創造主】の何を知っている。貴様等がこれまで、どれだけのことをしてきたと思ってる。貴様等人間が、【創造主】の名を気安く語るな。貴様等に、そんな価値など断じて無い。【創造主】に造り出された狭間の番人・焔の力、見せてやろうではないか。覚悟しろ。皆殺しだ、貴様等……ッ!!
 ギギッ、ギギギギッ、ギギギギギギギギッ。そんな鈍い音を立て、焔の巨体が起き上がる。その場にいたヨナミネ以外の全員が凍りついた。重力変換装置は完璧の出来だったはずだ、なのに、この化け物は起き上がったのだ。驚かないはずはない。しかしやはり、ヨナミネだけはこうなることを予測していたかのように背後を振り返って静かに言い放つ。
「質力を最大まで上げろ。このまま圧し潰せ」
 焔の咆哮が弾ける。それと同時に重力変換装置は質力を最大にまで引き上げ、再び焔の体を圧し潰す。
 怒りがすべてを崩壊させた。もはや細かいことなどどうでもよかった。この場にいるすべての者を皆殺しにしなければ気が済まない。この体がぶち壊れようとそれだけを果たすために、それだけのために起き上がれ。皆殺しにしろ。胴体を圧し潰されながらも焔は咆哮を上げ続け、重力に抗いながら劫火を辺り構わずに吹き払う。周りを囲っていた何人かの特殊兵がその劫火の餌食となり、火達磨になりならが狂ったように走り出す。
 壮絶な光景だった。
 そして、その状況を治めたのは、この場にいた誰でも無かった。

 ――焔。

 その幻影の声が、焔の動きを停止させた。一発で冷静さを取り戻した焔はすべての力を集結させて重力を捻じ曲げ、巨大な翼を広げて神速の速さで飛翔しながら緑の光の粒子の中へと消える。その光景を見つめていたヨナミネは意外そうな顔をしていたのだが、真紅の竜が完全に消えると同時に突如として大声で笑い出す。
 それは、焔が初めて、敵から逃げた瞬間だった。空間内を転移しながら焔は全身全霊の力で怒りと屈辱を抑え込む。だが今はこうしなければどうしようもなかった。ここで自分が消えればすべてが終ってしまう。対立する二つの世界の均衡を乱させる訳にはいかない。そしてこの状況でそれを打破できる心当たりは、焔には一つしかなかった。かつて肩を並べて共に戦ったセロヴァイヤー。恥を承知で頼むより、他に道は無かった。
 体を転移させながらも、意識だけは【界の狭間】を越えて別世界に向かわせる。両側の世界を知っている分、侵入するのは簡単だった。意識を飛ばす先は決まっている。目的地はセロヴァイト執行協会本部だ。かつて何度か訪れたその場所。焔に割り振られていた部屋を抜け、地下へと走り抜けて通路の奥をひたすら目指す。もはや何の明かりも届かない漆黒の中、分厚い鉄のドアを抜ければ、そこには焔のよく知る同士たちが眠りに就いていた。
 焔は叫ぶ。
 立ち上がれ貴様等。
 こんな所で眠っている場合ではない。
 貴様等に、何のために意志があると思っている。
 それは貴様等が自らの意志を持って行動するためだろう。
 立ち上がれ。そして力を貸してくれ。貴様等を同士と認め、頼む。
 こんな場所で風化していく気など貴様等にも無いだろう。おれが切っ掛けをくれてやる。
 だから立ち上がれ、自らが最強の相棒と認めた者の下へと再び集え。
 戦いが始まる。貴様等の好きなように戦え。
 こんな所で錆びれていくだけなど、貴様等ではないだろう。このおれと共に、来い。
 貴様等は皆、強い。だから、

 ――戦えっ!! 叩き潰せっ!! おれと共に、立ち上がれっ!!!!
 ――最強の戦いの幕開けだ!! 乗り遅れる腰抜けは誰もいないはずだ!!

              立ち上がれ、貴様等――ッ!!!!

 漆黒の部屋の中、緑の光の粒子があふれ出す。焔と共に、試作セロヴァイトは再び戦いに参戦する。
 これより始まるは、最強の戦いだ。乗り遅れる腰抜けは、必要ない。
 誠の相棒、真の最強。それを決する戦いの幕が、今再び上がる――。





     「渡瀬拓也と七海紀紗と神城啓吾と」



 夏は暑いから嫌いだ。だがそれは日本では当たり前のことなので仕方が無いとは思う。
 ただ、昼間が暑いのには納得できるが、朝と夜まで暑いのには我慢できない。気温を上げる元凶の太陽は沈んだのに、なぜ月と星が輝く夜まで蒸し暑いのか。バトンタッチしたのなら大人しく涼しくすればいいのだ。朝だってそうだ。太陽だって起きたばっかりの寝起きなんだからそんなに頑張って辺りを照らさなくてもいいだろうに。少しくらい欠席したって遅刻したって誰も文句なんて言やしないのだ。だから少しくらいサボることを覚えねばいつか必ず太陽は消滅するに決まっている。誰か注意してやらねば絶対にいつか逃げ出すに決まっている。神様でも悪魔でも誰でもいい、ちょっと宇宙行って太陽ぶん殴ってきて欲しい。
 しかしそんな願いなど当たり前の如く通じず、渡瀬拓也は昨夜もクーラーをバンバンに点けたまま眠りに就いたのだった。それは何にも変え難い快適な世界であった。クーラーを発明した奴は天才だと思う。外の暑さなど関係なく、人間が過ごすのに最適な室温を作り出してくれるのだ。もはや現代人の夏にはクーラーは必要不可欠なものである。後はあれだ、窓の外から聞こえるセミの声さえシャットアウトできるのなら文句無しである。
 だがそうであるはずなのに、なぜ、こんなにも暑いのか。クーラーは点いているのは作動音でわかる。間違って暖房など入れている訳もないので暑いはずが無い。それなのにどうしてこんなに暑いのか。目を閉じたまま、拓也はそのことをずっと考えている。たぶんもう、そんなことを考え出してからはかれこれ十分は経っているのではないだろうか。それでも目を開けないのは、ここで目を開けてしまったらもう二度と眠れないと思っているからだ。時計を見てしまえば最後、この世の終わりである。大方の予想はつく。時計は今、恐らく昼の十二時三十分頃を指しているはずだ。今日のバイトは一時からである。起きて時計を見てしまえば、もはやどうすることもできなくなってしまう。それだけは何としてでも阻止しなければならないのだ。
 しかしそれにしても暑い。なぜこんなにも暑いのか。額に汗が流れたとき、ついに拓也は我慢の限界を超えた。こんな灼熱地獄で過ごすのなら、バイトに行った方がマシなのである。目を開いて最初に見たのは、見慣れた天井だった。次いで視界に入るのは剥き出しになった蛍光灯で、耳に届くのはクーラーの作動音と窓の外のセミの声と、そして誰かの寝息。大方の、予想はつく。いや、もはやそれしか有り得なかった。拓也はゆっくりと横を見やる。
 煙草一本分もない距離に、七海紀紗の寝顔があった。
 抱き枕とでも勘違いしているのか、紀紗は己の欲求を満たすためだけに拓也に抱きついて本当に気持ち良さそうに眠っている。
 それでも拓也は身動き一つしない。実に慣れたものである。最初の頃はこういう状況の度に世にも情けない悲鳴を上げて離脱していたのだが、いつしか驚かなくなった。そして思うことは、一つだけ。……また来てやがったのか、こいつ。紀紗は学校が土日で休みの場合、朝早くからなぜかここに来てはこうして人ん家で勝手に眠っているのである。それが迷惑か、と聞かれれば別にそうでもないのだが、ただ二十三歳の男と十七歳という年頃の女の子が一緒のベットで眠っているというのは衛生上宜しくない。
 もしこんな場面を紀紗の父親にでも目撃された日にゃあ目も当てられない大惨事となるだろう。紀紗の両親は、紀紗が拓也のアパートに毎週遊びに来ていることを知っている。紀紗の母親とは何度か会ったことがあるのだが、その度によく礼を言われる。紀紗を面倒見てくれてありがとうございます、ってな感じに。紀紗が家で拓也のことや学校の友達のことを話すときは本当に嬉しそうな顔をしていて、それを黙って聞くのが母方は好きらしい。紀紗がこんな明るい子になったのは拓也の御かげである、とよく言われるのだ。
 がしかし、問題は紀紗の父親にある。そりゃあ、病気が治って自由に動き回れるようになったとは言え、小さな頃は病弱で寝たきりだったとんでもなく可愛い一人娘がどこの馬の骨ともわからない馬鹿な男の家に入り浸っていると知ればいい顔をしないに決まっている。母親とは対照的に、拓也は父親には随分と嫌われている。以前、紀紗の帰りが少しばかり遅くなり、心配だったので拓也が家まで送って行ったところ、門の前で待ち伏せしていた父親と鉢合わせになって問答無用で一発ぶん殴られたことがある。だから尚のこと、そんな父親にこの現場を押さえられたらすべてが終ってしまうだろう。背後からいきなりグサリと刺し殺されてもなんらおかしくないのである。いや、それはそれでもとんでもなく困るのだが。
 憂鬱なことを考えていたせいで、眠気はいつの間にか吹き飛んでいた。拓也はベットの棚の所に置いてある時計を探し当て、時刻を確認する。十二時三十二分。大方ビンゴである。仕方が無い、バイトに行こう。紀紗を起こさないように立ち上がり、風邪をひかれては困るのでタオルケットを掛けてそのまま寝かせしといてやることにする。取り敢えず紀紗が起きたときに発生する問題も片付けておこう。
 拓也は台所に赴き、冷蔵庫から卵を取り出して卵焼きを作る。この四年間、紀紗のために卵焼きを作り続けてきたような気がする。依然として紀紗の好物は拓也が作る卵焼きであり、そして紀紗は拓也がいるときは食うのが専門で自分からは一切作ろうとはしない。しかしある程度の料理は出来るようになってはいるのだが、しかしいつまで経っても子供臭さが抜けない紀紗なのである。紀紗がいきなり大人っぽくなったらそれはそれで嫌なのだが、そろそろイルカのぬいぐるみくらいは卒業して欲しいものだ。
 完成した卵焼きを包丁で適度な大きさに切り分け、皿に移す際にはみ出た分を拓也は自分で食う。ふむ、我ながら美味いではないか。テーブルの上に皿を置き、サランラップでカバーしたらこれで一丁上がり。残りは自らの用意だけである。とは言え、服装などもうこのままでいいし、顔を洗うくらいしかすることは無いのであるのだが。洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗って寝癖をやっつけ、タオルで水気を飛ばしつつも部屋に戻り、時刻を確認すると十二時四十五分だった。そろそろ行くか、と拓也は思う。
 ポケットに財布と携帯電話を突っ込んで玄関へ。靴に足を突っ込み、紀紗を家に残したままアパートを出て鍵を閉めた。空から射し込むクソ暑い陽射しにすぐに汗が滲み出てくる。これだけ暑いと煙草を吸う気にもなれなかった。散歩で疲れた犬のような表情をしながら、拓也はラーメン屋へと歩き出した。
 辿り着いたラーメン屋には、今日は珍しく人が多目に入っていた。店内ではこの夏から働き出したバイトの学生二人と店長が必死に休む間も無く客からオーダーを取ってラーメンを作っていた。忙しいときはとことん忙しいこのラーメン屋であるが、普段は馬鹿みたいに楽なので文句は言っていられないだろう。ラーメン屋の裏口から中に入り、タイムカードを押しながら控え室のロッカーから指定の服などを取り出してそれに着替える。控え室から出てカウンターに入ろうとしたとき、応接間、というには名ばかりの休憩室にいた人物に呼び止められた。
「渡瀬君、」
 振り返ると、そこにスーツを着た三十代前半の男が一人。見知った顔だった。拓也がバイトするチェーンラーメン店本店のお偉いさんの中野功治(なかのこうじ)である。以前もらった名刺は今現在どこにあるのかは不明だが、確か中野功治だと思う。普段から「中野さん」としか呼ばないので下の名前にはあまり自信がないのだが、失礼なのでもちろん中野に直接訊くなんてことはしない。
 軽い会釈をしながら、
「どうもッス、どうしたんスか、こんな昼間から」
 わかってるくせに、というような顔を中野はする。
「この前の件、考えてくれたかい?」
「あー……何でしたっけ?」などと取り敢えずとぼけてみる。
「本店勤務の件だよ。この間も言ったけど、君なら絶対に上を目指せる」
 どうだいい話だろう今すぐ返事聞かせろお前。中野はそう言いたそうだった。
 本店勤務。一ヶ月ほど前から中野に持ち掛けてられている話である。このラーメン屋でバイトし出してもう四年近く経つ。その間に大まかな仕組みは理解しているつもりだ。本店の人間は時々こうしてチェーン店を渡り歩いて優秀な人材を探し回っていて、その御目がねに叶った者はなかなかにいい待遇で本店勤務に迎えられるのだ。上手くいけば新しく出来るチェーン店を任されたりする美味しい話である。
 拓也ももはやベテランに近いし、他の者からの信頼も厚く、元来要領がいいので仕事もスムーズにこなす。そのことに、中野は大いに期待しているのだった。本店に入って少しすれば絶対に君は上に行ける、というのが中野の口癖だった。一ヶ月前から「もうちょっと考えさせてください」と言い続けている拓也を中野がまだ諦めていないのは、本当に期待しているからなのかもしれなかった。この中野という人物は悪い人ではない。ただ、仕事熱心なのと向上心が人一倍ある人間なのだ。拓也がいれば、自分と共に歩んで行けるとでも思っているのだろう。
 しかしこの日もやはり、拓也の返答は同じだった。
「……やっぱ、もうちょい考えさせてください」
「どうしてさ? いい話だっていつも言ってるでしょ。本店に勤務すれば給料だってバイトとは比べ物にならないくらいに上がるし、それに引っ越しだって援助できる。今よりずっと良い所に住めるんだ。いい話でしょうに」
 問題は、そこにある。
 確かに二十三にもなったのだからそろそろフリーターではなく就職した方がいいのだということは理解している。それにこのまま本店勤務となれば、四年の知識がものを言って本当に上を目指せるのではないかとも思う。願ってもない話のはずだ。だが本店勤務ということはつまり、拓也はあのアパートを引っ越さなくてはならなくなるということだ。本店はここからじゃとても通えない場所にあるし、毎朝馬鹿みたいに早い時間から電車に乗って死にそうな思いをするよりは、本店の近くに引っ越した方が便利だろう。その援助もしれくれるのなら、本当に致せり尽くせりの素晴らしい話である。
 しかしもしそうなれば、紀紗とは会えなくなってしまう。拓也はそれでも我慢、という言い方は変かもしれないが、何とか生活できる。しかし果たして紀紗はどう思うのだろうか。いや、考えるまでもなくわかり切っている。以前、試しに「おれがどっか引っ越したらどうする?」ってことを訊いたことがある。そのときの紀紗は、突然に泣きそうな顔をして「ヤだ」と言って暴れ出した。だから本当に引っ越すとなれば、紀紗が黙ってはいないだろう。紀紗を悲しませたくない。紀紗を泣かせてはならない。それが、『約束』なのだ。が、いつまでもこのままの関係が続いてはならないというのは知っている。どこかで変化させなければならないのだ。四年前とはもう、何もかも状況が違うのだから。
 いろんなことがぐるぐると頭を駆け巡る中、拓也は歯切れ悪く、しかしその答えを返す。
「……もう一週間だけ、待ってください。そしたら、ちゃんとした返事を返しますから」
「本当かいっ!? そりゃ良かった、それじゃ今日は失礼するよ。快い返事を、楽しみに待ってるからね」
 それだけ言い残すと、中野は上機嫌で帰って行った。
 この一週間で、何もかも終らせ、そして始めなければならない。わかっているのだ。セロヴァイヤーであった頃の渡瀬拓也と七海紀紗ではなく、普通の人として、これからを考えて行かねばならない。あの非日常はもう、戻って来ないのだ。これからの日常を見つめて生きて行かねばならない。自分は今、その岐路に立たされているのだと思う。
 『約束』を取るか、それとも『将来』を取るか。
 二つに一つ。これからを考え、見据えた上で、どちらかを決めなければならない。
 自分は一体、どうしたいのか。それを、見極めなければならなかった。

 結局、自問自答を繰り返しながら与えられた仕事をこなし、夜の八時にバイトが終った。
 答えは、出ないままだった。
 やるせない気持ちのまま煙草を咥え、ぼんやりと帰路に着く。すぐ側の道路を車が通り抜ける度に、ハイビームに照らされた拓也の影が後ろから前へと消えて行く。街灯の灯りの下、煙草の火を浮かび上がらせながら拓也は煙を吐き出す。なぜだか今日は、煙草の味がしなかった。物事を考えすぎなのだと思う。普段の拓也なら、どんな岐路に立っても一発で決める。こうと決めたら一直線、行動あるのみ。それを信念として生き抜いてきたのだ。
 しかし今回ばかりは、そうも言ってられなかった。ここで人生が決まると言っても過言ではあるまい。本店へ勤務すれば、仕事に就けると同時に将来まで見えてくる。普通なら、そっちを取るのだろう。いつまでも遊んで暮らせるとは思っていない。人生がそんな甘くないということは一応知っているつもりだ。だが、やはりその一歩が踏み出せない。もし拓也が引っ越せば、紀紗は泣くだろう。永遠に会えない訳ではないが、今のように簡単には会えなくなってしまう。そうなれば紀紗はどうなってしまうのか。
 紀紗のことだ。最初は泣くし頑なに拒否するだろうが、時が経つに連れ紀紗はそれを納得し、拓也を快く見送ってくれると思う。だがその影では、誰もいない所で泣くに決まっている。一人で抱え込んで、一人で解決させようと泣くに決まっているのだ。七海紀紗とは、そういう子である。それでは意味がないのだ。将来のことが決まるのは重々承知だが、紀紗を泣かせたままでは居心地が悪い。紀紗を泣かせてまで、将来に拘りたいとは思わない。思わないのだがしかし、だけど――、という思いがどうしても拭い切れない。
 どうすればいいのか、まるでわからなかった。信念は、この問題には何の役にも立たなかった。
 咥えていた煙草を川に投げ捨て、夜空を仰ぐ。
 果てしなく広がる空には、満月と星の群れがキラキラと輝いている。神様か悪魔が太陽をぶん殴ってくれたのか、今は夏とは思えないくらいに涼しかった。歩道と川を隔てるカードレールに凭れかかって夜空を仰ぎ続ける。今ここで、UFOでも来て自分を攫い、時間を四年前のあの日まで遡らせてくれたらどれほど楽なのだろう。十代の頃の自分がどうしようもないくらいに羨ましい。毎日馬鹿やって、友達と笑い合い、迫り来る『社会』という世界には絶対に追いつかれない自信があった。
 なのにどうだ。二十三歳なった自分の現状は。『社会』に追いつかれ、自問自答を繰り返しても答えの出ない岐路に立たされている。息苦しい。これから自分の取るべき行動が何もわからない。
 あの一ヶ月が、懐かしい。ただ純粋に強くなることだけを望んだ、あの最高の一ヶ月間。やることは自然と決まっていた。相手を倒し、自分が最強になるという単純明確な一つの行動。こうと決めたら一直線、行動あるのみ。その信念がフルに発揮できていた一ヶ月だった。戻りたい、と本気で思う。辛いこともあったし、相手をぶっ殺してやりたいとも思ったが、それでも毎日が充実していた。少なくとも、こうして何もせずにぼんやりとしているような時間は無かった。暇があれば相棒を具現化させて訓練に勤しんだ。強くなりたい、誰よりも、何よりも。それだけを望み、願い、そして戦ったあの非日常。セロヴァイトがあれば、『社会』など微塵も恐くはなかった。
 情けない話である。結局は今、自分は逃げているだけなのだ。岐路に立たされ、どちらかを選ばねばならないのに後退しようとしている腰抜けなのだ。止めなければならない。過去を羨みそこに逃げるのではなく、過去を糧として先に進まねばならない。答えが出ないのなら出るまで考えればいい。紀紗が心配なら、紀紗に言えばいいのだ。この本音を。その上で、すべてを決めよう。これから自分がどうするのか、どうしたらいいのか、どうするべきなのか。それを、決めよう。
 拓也の視界の中で、夜空を流れ星が右から左へと流れる。無意識の内に、願っていた。
 ――紀紗が、泣きませんように。
 三回なんて、当たり前のように言えなかった。しかしそれでもよかった。
 流れ星は、拓也の背中を押してくれた。腹を括る、前を見据える。ガードレールから身を離し、歩き出そうと、
 体の隅々が、鼓動を打った。
 気づいたときには、目の前の空間がぐにゃりと歪んでいた。呆気に取られて呆然としていた拓也を他所に、緑の光の粒子はあの頃と同じようにあふれ出し、ゆっくりと確かな意志を持って漂い始めていた。それは拓也の両腕に収縮され、かつての最強の相棒を具現化させる。ズシリとした重みが腕に伝わった刹那、緑の光の粒子が弾けた。
 そこにあるのは街灯に照らされ鈍く輝く二体一対の漆黒の鉄甲。一日足りとも忘れたことのない、その姿形、そして、その真名――。
 打撃型セロヴァイト・孤徹。第十二期セロヴァイヤー・渡瀬拓也の、セロヴァイト。
「………………孤徹………………お前、どうして………………」
 訳がわからず、そんな言葉を漏らした拓也の頭に直接響く孤徹の声。
 何を言っているのかはわからなかったが、それでも脳は自然と理解していた。
 ――戦え。孤徹は、そう言っていた。
 瞬間、出来の悪いレーダーが頭の中で発動し、それが何者かの影をトレースする。一人ではない。複数いる。合計で、七人。だがそれは、セロヴァイヤーの影ではなかった。セロヴァイヤーの影は赤色だ、とでも言えばわかり易いだろうか。しかしこの影は、黄色なのだ。セロヴァイヤーではない。それなのに、このレーダーに反応している。答えは、簡単に導き出せた。つまり、その影の正体は、――向こう側の世界の人間。
 孤徹は「戦え」と言い続ける。
 事情はわからない。だけど、何もかもが吹っ飛んだ。もはや何も知ったことではない。
 拓也は孤徹を打ち鳴らす。一年前のあの日以来、再びこうして孤徹を手にするとは思ってもみなかった。もう会えないのだとばかり思っていた。しかし、今こうして孤徹はここにいて、拓也の相棒となった。細々考えることは嫌いである。孤徹が戦えと言う以上、自分は戦うまでだ。考えるべきことは一つ。最強の相棒を信じる、それだけだ。拓也は満面の笑みで笑う。――戦ってやろうじゃねえか、孤徹。
 アスファルトを破壊すると同時に拓也の体が真上に浮かび上がり、電柱の上に着地する。頭の中のレーダーを頼りに、黄色の影を目指して拓也は電柱を砕く。セロヴァイヤーにある身体能力向上。体が笑ってしまうくらいに軽い。不可能は何も無いのだ。翼があるかのように、拓也は夜空を駆け抜ける。楽しくて楽しくて、どうしようもなかった。出さねばならない問いの答えは、この時ばかりは脳から消えていた。ただ純粋に嬉しくて、孤徹と共に戦う以外に、何も考えられなかった。
 レーダーを頼りに辿り着いたのは、一年前のあの日に訪れた穴場だった。破棄された工場跡である。ここは拓也があの日、紀紗と共に【界の狭間】へと向かうために訪れた場所である。神城啓吾曰く、「焔から聞いたんだけどさ、この地球には向こう側の世界に繋がり易い場所があるらしいんだ。どういう理由か知らないけど、それはすべてこの町に集まっている。過去のセロヴァイト戦はすべて、この町で行われていた。それはつまり、セロヴァイトを具現化させ易いからなんだ。そしてその繋がり易い場所の一つ、つまりは穴場がここって訳さ。何かしらの力が働けば、必ずここから【界の狭間】に行ける」ということだ。第十三期セロヴァイヤー戦優勝者の源川祐介が【界の狭間】に転移されたとき、啓吾の言う通りここは【界の狭間】へと繋がる漆黒の口を開けた。そこから拓也と紀紗は、焔に会いに行った。
 そしてその漆黒の口が、今再び、開いていた。
 そこから緑の光の粒子に紛れて這い出てくるは、宇宙服飛行士のような防護服を身に纏った向こう側の世界の人間だった。ヘルメットのようなもので顔を隠しているため、一人一人の顔などまるでわからず、拓也からすれば全員まったく同じに見えた。しかしもし本当に全員が同一人物でもやはり、関係無かった。何の用で奴等がここに来たのかは知らない。だけど、孤徹が戦えと言う以上、自分は戦うまでだ。
 七人は、軽い武装をしていた。恐らくは、特殊兵などと呼ばれる連中なのだと思う。そいつ等の前に、拓也は着地する。
 突然に現れた訪問者に特殊兵は驚き、だがその腕に装着された孤徹を見ると突如として持っていたライフルのようなものを構え、銃口を拓也に向けた。マジックミラーのような硝子に遮られたその向こうから、まるでガスマスクでも付けているかのような「シュー、コー、シュー、コー」という呼吸音が聞こえてきた。この地球には酸素がないとでも思っているのだろうか。馬鹿な奴等だ、拓也は思う。
「お前等が何なのかは知らねえ。けど、孤徹が戦えって言うなら、おれはお前等を、容赦無く、――潰す」
 特殊兵の一人がライフルのトリガーを引いた。発砲音と共に銃弾が風を切り裂きながら拓也に突っ込んで来る。だがそんなものが通用する訳が無いのである。このおれを誰だと思っているのか。第十二期セロヴァイヤー戦優勝者・渡瀬拓也だ。こんな銃弾など、孤徹の前では何の意味も無いのである。
 銃弾の軌道に孤徹を乗せ、衝撃を吸収する。威力を失った弾丸は地面に転がり、それを見た特殊兵が後ずさるがもう遅い。戦いは始まっている。今更逃げるなど、虫が良過ぎるのだ。拓也は地面を蹴る。トリガーを引き絞った特殊兵の懐に飛び込み、漆黒の鉄甲を叩き込む。衝撃音と共に特殊兵の体が舞い上がり、防護服の向こうの本体にまで攻撃は完全に到達していた。くぐもった呻き声が聞こえたが、拓也は当たり前のように聞く耳を持たない。地面に足が着いていない特殊兵の顔面を殴りつけ、腕を振り払って壁に吹き飛ばす。
 壁に激突すると同時に錆び付いた鉄パイプが弾き跳び、その騒音の中で拓也は叫ぶ。
 獣のような叫びだった。それに圧倒された特殊兵を見極め、拓也は再び地面を蹴って次の獲物へと襲いかかる。それに気づいた獲物はライフルを構え、トリガーを引こうとするがそんな暇はもちろん与えない。ライフルを左手で砕き、右拳を顔面に叩き込む。一撃でノックアウトだ。弱い、かつて戦ったセロヴァイヤーたちはこんなものではなかった。もっと強い奴が出て来なければ張り合いがない。
 残りの特殊兵が一斉にライフルを構え、拓也に銃口を向けてトリガーを引き絞る。乾いた銃声が五つ、何かに当たる衝撃音は無、地面に転がる銃弾は五つ。孤徹を構え、拓也はこれでもかというくらいに笑う。高々ライフルの銃弾如き、もはや拓也には止まって見える。遅い、そして弱い。最強の領域に辿り着いたセロヴァイヤーを相手にしようとした時点でお前たちの運命は決まっていたのだ。結末は至って簡単。おれの勝ちで、お前等の負けだ。
 拓也が攻撃を開始しようと足に力を入れた刹那、唐突に特殊兵の動きが静止した。攻撃の手を止めた拓也の目の前で、動かなかった特殊兵から突如として緑の光の粒子があふれ出してその体が消滅し始める。拓也が倒した二人の体からも同じように粒子はあふれ出していて、それはゆっくりと漂って漆黒の口へと流れ込んでいく。やがて七人の特殊兵がその場から消えたとき、「ぶおん」という音と共に漆黒の口が消えた。
 その場に、夜の静寂が宿る。
 孤徹を構えたまま、状況がわからずにぼんやりとしていた拓也を我に返させたのは、ズボンのポケットに入っていた携帯電話の着信メロディだった。メールではない、電話だ。視界では消えた漆黒の口を捕らえつつも、ポケットから携帯電話を取り出して開け、ディスプレイに表示されている名前を確認しないで通話を開始した。通話口から聞こえた声は、拓也が最もよく知る人物だった。
『おれが何で電話したか、わかる?』
 啓吾だった。そしてその用件は、面白いくらい簡単にわかった。
「セロヴァイトのことだろ」
『ビンゴ。ということは、拓也の手には孤徹があるんだね?』
「ならお前の手には、風靭がある訳だな?」
『もちろん』
 刹那の沈黙、次は同時で、全く同じ言葉だった。
「宇宙人をぶっ倒した」
『宇宙人をぶっ倒した』
 再度沈黙、
『……何か起こってるのかもしれない。今から拓也の家に行こうと思ってるんだけど、だいじょうぶ?』
「ああ、だいじょうぶだ。おれも今からすぐに家に帰るから」
『わかった。後で会おう』
 そして、啓吾との会話は終った。
 無音になった携帯電話をポケットの中に突っ込みながら、拓也は踵を返す。取り敢えずは家に帰ろう。何かを考えるのはそれからでいい。廃棄された工場跡から出て、拓也は孤徹を地面に叩きつけて舞い上がる。状況がよくわからないのは変わりないが、何かが動き出しているということは何となくわかった。第十二期セロヴァイト戦、そして第十三期。次は、今日だ。三度に渡り、拓也は孤徹を手にした。それが何を意味するのかはよくわからないが、ただ、わかっていることは一つ。重要なのは、それしかなかった。
 夜空を駆けながら、拓也は一人、笑っている。
 あの一ヶ月間のような非日常が、始まろうとしていた。
 それだけがわかれば十分だった。細かいことを考えるのは啓吾の専門分野だ。難しいことは沢山である。こっちは孤徹と共に戦えればそれでいいのだ。楽しくて嬉しくて、どうしようもない感情が胸の中を渦巻いている。言い表せない感情だった。目に見えるものをすべて孤徹でぶっ壊して回りたいような万能感。最強の相棒を手に、またこうして戦えるのだ。『社会』はすでに超越した。ここから始まるは『社会』の入る隙間などない非日常だ。それだけで、すべてが救われた。
 五分とかからずに帰り着いたアパートのドアに、鍵は掛かっていなかった。孤徹を消滅させながらドアノブを回し、ゆっくりとドアを開けると中から唐揚げの良い匂いがした。そういえばバイトが終ってから飯をまだ食っていない。そもそも昼飯も卵焼きだけだった。それまで感じていなかった空腹が一挙に押し寄せてきて、足早に部屋に戻ると、ベットに座りながら紀紗がイルカを手にしてテレビを見ていた。そして拓也に気づくと「おかえりなさい」と笑う。テーブルの上には夕食が用意されていた。
 紀紗は随分と料理が上手くなったものだ。普通の料理ならすでに紀紗の方が上手いかもしれない。卵焼きに関してはまだまだ拓也の方が上だが、いつか追い越されるような気がする。
 だが今は、そんなことを思っている場合ではなかった。いつもは食うのが専門の紀紗が、なぜこのような料理を用意しているのか。そしてなぜ、こんな時間まで紀紗はここにいるのか。
「……お前、まだ帰ってなかったのか」
 紀紗は肯く。
「今日は拓也の所に泊まるってお母さんに言ってきた」
 初耳だった。そりゃ昼間は喋ってないので当たり前なのではあるのだが。
「……おばさん、いいって言ったのか?」
「うん。よろしくお願いしますって伝えてって言われた」
 何をよろしくお願いされるのか。紀紗の母親は自分を信用し過ぎじゃないかと思う。
「……それじゃ、親父さんは?」
 問題はそこだ。紀紗の親父さんがそんなことを許すはずがない。
 しかし紀紗は問題無いとでも言いたげに、
「お父さんは今日、出張でいないから」
「……………………マジかよ」
 もし出張から帰って来た紀紗の父親にこのことを知られれば、本当に刺し殺されるのではないだろうか。そうならないことを切に願う。
 紀紗はベットから立ち上がり、テーブルの定位置に腰を下ろして自分と拓也の分の麦茶をコップに注ぐ。どうやら紀紗も食べるのを待っていてくれたらしい。そんな紀紗に習い、テーブルの前に腰を下ろしながら、拓也は改めて並べられた料理を見つめる。唐揚げを中心とした、実に見事な料理である。紀紗が料理をするとは珍しい。どういう風の吹き回しなのだろうか。しかしまあ、美味そうなので問題は無――、
って、ちょっと待て。今は呑気に飯など食っている場合ではないだろうに。
「紀紗、あのさ、」
 拓也のその言葉に、唐揚げを食べようとしていた紀紗の手が止まる。不思議そうに拓也に見やり、
「なに?」
 拓也は言う。
「紀紗に言わなくちゃならないことがある。実はさっき、バイトが終ったときにさ、」
 紀紗にも孤徹のことを話さねばなるまい。そう思っていた。
 なのに。
「セロヴァイトのこと? それならもう聞いた」
 紀紗の言っていることの意味が、よくわからなかった。
「聞いた……って、誰に?」
 もしかして啓吾がもうここに来たのか。
 そう訊こうとしたとき、答えは降って湧いた。
「おれだ」
 視線を声の出所へと移す。テーブルの上、拓也と紀紗のちょうど真ん中辺り、唐揚げが乗っている大皿の側に、唐揚げを貪っている小さな怪獣のフィギュアがいた。
 本気でフィギュアかと思った。
「ほ、――焔っ!?」
 焔だった。
 焔は自分の体ほどある大きさの唐揚げに器用に食らいつき、驚くべきスピードで貪っていた。食い終わると四年前のあの日のように炎のゲップを一発、紀紗に視線を向けて「美味い」とつぶやく。それに紀紗は嬉しそうに笑い、自らも唐揚げを食べ始めた。
 そんな光景をぼんやりと見つめていた拓也は唐突に我に返り、
「ちょ、ちょっと待て、どういうことだよっ? お前、【界の狭間】にいるんじゃねえのっ?」
 焔は真剣な目で拓也を見据え、
「事情が変わった。貴様等にセロヴァイトが再び戻ったのはそのためだ」
 刹那、玄関のドアを開けて啓吾が入って来る。
 そして、中にいた拓也と紀紗、そして焔を見つけると、僅かな驚きの後に不適に笑った。
「やっぱり焔が関係してたか」
 啓吾から拓也へと視線を戻し、焔は言う。
「小僧、餓鬼を呼べ」
 誰のことなのか、一瞬だけわからなかった、
「餓鬼って……祐介のことか?」
「そうだ。それともう一人、水靭のセロヴァイヤーも一緒に」
 状況が未だにわからない拓也を置いてけぼりに、焔は笑った。
「それで、一応の役者は揃う」





     「源川祐介と佐倉唯と」



 待ち合わせの場合、男の方が先に着いていて当たり前だと源川祐介は思う。
 思うのに、今日もいつものように寝坊した。どうしようもない馬鹿な自分をただ呪う。朝起きて、もとい昼過ぎだったか、目覚まし時計を見て絶叫して、慌てて仕度を整えながら時間の無さに慌てふためき、寝癖を直すことさえ疎かにして家を飛び出す。玄関に置いてあった時計はそのときにはすでに昼の一時四十七分を指していた。待ち合わせは二時である。残り十三分で待ち合わせ場所に辿り着けるかと言えば、競輪選手でもまず不可能な芸当であった。つまりは、言い訳もクソも無い単純な寝坊であり、最悪の遅刻である。
 駐輪場に停めてあった自転車に跨り、一瞬で噴き出す汗を無視して死に物狂いでペダルを漕ぐ。左右を確認せず道路に飛び出し、通りかかったトラックに轢かれそうになった。鳴り響くクラクションに情けない顔で頭を下げつつも、道路の真ん中を迷惑この上ないことを承知で爆走する。普段なら絶対に使わないような裏道に飛び込んで、重力を力の限りで捻じ伏せてハンドルを切る。辺りから聞こえるセミの声が冗談のような速さで背後に流れては消えた。
 裏路地に転がるゴミを一瞬で見極め、通っても安全な場所を瞬時に割り出してブレーキを一切掛けず一気に走り抜ける。競輪選手も真っ青な祐介の運転テクニックだったが、実際はもはや一杯一杯で何も考えられなかった。頬といわず顔中を流れる汗が腹が立つくらいに邪魔で、なぜ今が夏なのかが不思議で不思議で仕方が無い。夏は個人的に好きではあるが、思い出は嫌なことの方が多い気がする。確か去年の夏も、自転車のタイヤに釘が刺さりパンクして呆然としていたはずだった。そして今は、待ち合わせ時刻に遅刻しているのだ。
 裏路地から飛び出した際、通りかかった猫を轢き殺しそうになった。家を出てから初めてブレーキを力一杯握り締めると、出鱈目な力に作用されて自転車の後輪が笑ってしまうほど浮き上がる。急停止した自転車に驚き、猫は悲鳴を上げながら一目散に逃げて行く。危なかった、と息を着くのも束の間、こんなことしている場合じゃないんだってと我に返る。再びブレーキから手を離し、全身全霊の力を込めてペダルを漕いて自転車を発進させる。
 待ち合わせ場所は、駅前だった。相手はもちろん、佐倉唯である。
 唯と出会い、そして付き合い始めて約一年。その間に何度もこうした、いわゆるデートなどをしている訳だが、祐介が待ち合わせ時刻ぴったりに行けたことなど本当に数えるほどしかない。なぜ自分はこんなにも馬鹿なのか、とさっきのように一体何度自分を呪ったことか。今日も目覚ましをちゃんと掛けておいたのだ。しかも早過ぎるだろうって突っ込みを入れられそうな朝の八時に。しかしなぜか起きれなかった。目覚まし時計は嘘をつかないだろうから役目を果たしたのだろう。目覚まし時計に非は無い。悪いのはすべて、それでも起きなかったこの愚かな自分なのである。
 が、やはり今更に自分を呪ってももはや仕方の無いことだった。今考え、やるべきことは、待ち合わせ場所に一分一秒でも早く辿り着くことである。道路の角にあるコンビニを通り抜けた際に店内の時計へ一瞬だけ視線を巡らす。今現在、時刻は二時五分。完璧な遅刻だった。しかしこのコンビニを通り過ぎたのなら駅前はもうすぐだ。後二分もかからない。
 待ち合わせ場所に着いたら何と言おう。――ごめん遅れた。それじゃ普通過ぎる。――実はさ、横断歩道を渡れない老婆がいてさ、一緒に渡れるまで待ってたんだ。定番過ぎる言い訳だ。――川をダンボールの船で漂流している仔猫がいて助けてたら遅刻した。だったらその仔猫をどうしたんだっつー話だ。――てゆーか昨日の夜にUFOに攫われて、ついさっき宇宙船盗み出して帰還したところなんだ。却下。どうしたものか。まったく良い案が浮かばない。ここは本当のことを言って許してもらうべきか、それとも、
 駅前に辿り着くと、当たり前のように唯はいた。祐介を見ると唯は笑い、軽く手を振って寄こした。しかし祐介に手を振り返すだけの余裕など無く、息も絶え絶えに唯の前に自転車を停め、死にそうな顔で呼吸を整える。そんな情けない祐介に苦笑しながら、唯はぽつりと、「今日はどうしたんですか?」と問う。
 万策尽きた。
 正直に言うしか道は無いと思う。
「ご、ごめ、寝坊、し、した、」
 呂律が上手く回らなかった。
 祐介さんらしいです、と唯は微笑み、手に持っていた缶ジュースを差し出す。どうやらこうなることは予想していたらしい。祐介が寝坊して必死に自転車を漕いで待ち合わせに場所に来ることなど、唯にとっては普通のことだった。だからこそ、その僅かな待ち時間の間にこうして祐介のためにジュースなどを買っておくのだ。その辺の気遣いに祐介はあまりよく気づいてはいないが、それもまあ祐介らしいといばえそうなのだった。
 差し出されたジュースを受け取り、プルタブを開けて中身を一気飲みする。アクエリアスだった。適度に喉が渇いたときなどは炭酸系統の方が良いのだが、こうして息も儘ならないほど疲れた場合はスポーツ飲料系統がやはりベストなのか。そんなことを思いながら缶を空にして、やっとこさ一息着く。その頃には祐介自身も大分落ち着いていて、自転車の荷台に腰掛けながら器用にバランスを取って一度だけ大きな深呼吸をする。
 脳みそに酸素が回った。
「ごめん唯さん、いっつも遅刻しちゃって……」
 申し訳なさそうに頭を下げる祐介から視線を外し、唯は空を仰ぐ。
「平気です。祐介さんを待っている間はいつも、空を見てますから」
「空?」
 唯に習って空を見上げる。
 果てしなく続く夏の青空に、光り輝く太陽と共に自由気ままに漂う雲が広がっていた。そこに右から左へと一直線に伸びるはどこまでも続く飛行機雲。その雲を追って視線を移した先に、ゆっくりと、しかし間近で見ればとんでもなく早い速度で飛行する飛行機がいた。下から見る分では大きさ的に変わりないのだが、その少し横を小さなスズメが飛んでいる。
 唯は言う。
「空が、わたしは好きです。どこまでもどこまでも続いていて、なんにも遮るものなんてなくて。昼は太陽と雲が、そして夜は月と星がいっつも一緒にいて。空を見てると気持ち良くなるんです。青空が広がってると、今日も頑張ろうって思える。だからわたしは、空が好きなんです。――……そう思うのは、ちょっと可笑しいかもしれませんね」
 照れくさそうにはにかんで、唯は祐介を見やる。
 視線を空に向けたまま、祐介はつぶやく。
「……そんなことない」
 少し意外そうな顔をした後、うん、と唯は嬉しそうに肯いた。
 一直線に伸びていた飛行機雲が、少しずつその形を崩し始める。それはどこか儚くて、しかしそれ故にとても美しい光景に思えた。青空はいつも、そこにある。当たり前過ぎて気づかないだけかもしれないが、見上げればこうした新しい気持ちになれる。それを唯は知っていたのだろう。改めて空を見上げれば、ふむ、確かに空は良いものである。
 線路の上を軽快に走り、駅のプラットホームに電車が滑り込む。ブレーキを掛けて車輪がレールを噛み締める音が響き、それがセミの声に掻き消された頃になってようやく、祐介は視線を空から唯に向けた。
「行こっか」
「はい」
 祐介は自転車のサドルに跨り直し、荷台を開ける。するといつものように、唯は横向きで荷台に腰掛けて祐介の肩にそっと手を添えた。
 いつもの光景である。本当なら原チャリや車が欲しいところなのではあるが、原チャリの免許を取ることは親に反対されているし、車の免許も冬休みになるまでは取れない。一応唯は車の免許を持っているらしいが、車自体が無いので自動車学校以外の普通の道では未だに乗ったことがないと言っていた。何だか悲しいかな高校生、である。……いや、言っている自分でもよくわからないけどさ。
 近場に移動するときは大抵が自転車だった。この駅前近辺には大体のものが揃っている分、唯が電車でここまで来て後は祐介の自転車で移動、というのがもはや定着しつつある。いつも自転車で申し訳ないとは思うのだが、唯はどうやらこうして自転車の二人乗りで移動するのが好きらしく、文句どころか自ら申し出てる。免許を持っていない祐介にしてみれば願ってもないことなのだが、やはりその内にでも車で迎えに行くなどという格好良いこともしてみたい祐介なのだった。
 先とは違い、祐介はゆっくりとペダルを漕ぎ始める。今日は、映画を観に行く予定だった。この夏にはちょうど祐介の観たい映画が上映していて、そのことを唯に話したらなぜか唯がタダ券を持っていることが判明し、ならば使わない手はないだろうということで決まったのだ。誘っておいて遅刻するとはやはり無様だが、それはもうしょうがない。もう忘れよう。
 夏の陽射しを受けながら、祐介と唯を乗せた自転車は道路を進む。後ろに景色が流れて行く度、心地良い風がゆっくりと吹き抜ける。
 肩越しに感じる唯のぬくもりが、祐介は好きだった。
 唯のぬくもりは、一年前のあの日から何も変わってはいない。
 第十三期セロヴァイヤー戦終結から約一年。
 何かが変わったようで、しかし実は何も変わっていないような月日だったように思う。
 この一年でまず、源川祐介は高校二年生から高校三年生に進級し、佐倉唯は高校を卒業して大学に進学した。唯の進学先の大学には神城啓吾の彼女である夏川彩菜がいて、知り合う切っ掛けはさすがに複雑だったが、それでも彩菜は後輩として唯のことをいろいろと面倒看てくれているらしい。大学は楽しい、とよく唯は言う。だから祐介も、漠然としていた進路を大学進学ということで落ち着かせた。元々の成績は中の中の上だったし、少し気合を入れれば上の下くらいにはすぐに上がれた。この前の模試ではA判定を叩き出すことにも成功し、何気に絶好調だったりする。
 受ける大学はもちろん、唯と同じ所だった。大学など別にどこでも良かったのだが、行くならやはり行って楽しいと思える場所でなくてはならない。そして祐介が楽しいと思える大学は、唯がいる大学を置いて他にはなかった。ちなみにその大学は、少し前までは神城啓吾も通っていた。唯曰く、入学から卒業まで圧倒的な成績を残した首席の天才として、その名を卒業した今でも轟かせているらしい。講師も何かあると「神城を見習え」と口うるさく言うらしく、そんな啓吾と知り合いである唯は少しばかり鼻が高いと笑っていた。
 勉強方面で動いたことなどそれくらいで、他に変わったことがあるかと言えば、それは唯のことだと思う。
 唯の服の下に隠されていた痣は、今はもう無い。唯の兄である佐倉隼人は、第十三期セロヴァイヤー戦が終ると同時に家を出て都会で一人暮らしを始めたそうだ。結局は唯との関係は曖昧なままだったか、唯は少し前に隼人から電話を受けたらしい。その内容は教えてくれなかったが、唯はなぜか晴れ晴れとした顔をしていたので良い方向に動いたのだと祐介は思っている。
 そして、唯はよく笑うようになった。以前から笑ってはいたが、それはどこか、悲しそうな笑みだったのだ。しかし今は、本当の笑顔を見せるようになった気がする。唯の中でも何かがゆっくりと、だが着実に動き出しているのだろう。その根本に根付く問題は、やがて時間が解決してくれるはずだ。すぐには無理かもしれない。だけど時間が経つに連れ、唯はさらに笑うようになるはずである。そんな唯を見ていると、祐介も嬉しくなるのだった。
 第十三期セロヴァイヤー戦終結後、一つだけ気がかりなことがあるとすれば、それはかつての相棒である、斬撃型セロヴァイト・雷靭のことだ。
 雷靭は確かな自我を持っていた。しかしそれは偶然の連鎖から生まれた、ある種のバクが原因として発生した自我。バクとはつまり、在ってはならぬ存在のことだ。セロヴァイト戦が廃止になった今、雷靭がどうしているのかを知ることはできない。ただ、バグは消去しなければならないのだということは、何となくわかる。パソコンだって同じだ。バグが発生したら消去及び修復しなければならない。それは、当たり前のことである。
 だがもし本当に消去されるのだとしたら、雷靭とはもう二度と会えなくなる。斬撃型セロヴァイト・雷靭とはもしかしたら会えるかもしれない。だが祐介の相棒であった雷靭とは会えないのだろう。偶然の連鎖など、そう何度も起こりはしない。もし本当にバグが消去されてしまったのなら、雷靭はこの世から消滅してしまう。消去されていなくても、そもそもセロヴァイト自体に会える可能性が限りなく少ない。それこそ無いのと同じであろう。それがやはり、悲しいことだった。
 しかし情けない顔はしていられない。情けない顔をしていたら、雷靭と会ったときに馬鹿にされるのは目に見えている。
 前を向いていよう、と祐介は思う。出会えるかどうかはわからないが、もし出会えたときのことを考えて、笑っていようと思う。そして本当に出会えるときが来たのなら、また共に笑い合おう。それが今、この手に無い雷靭へ奉げられる唯一のことであるような気がする。最大の天敵であると同時に、最強の相棒だった。あれほど気が合った戦友は、他にはいなかった。だからこそそれが、ただ純粋に嬉しかったのだ。
 第十三期セロヴァイヤー戦終結から約一年。
 何かが変わったようで、しかし実は何も変わっていないような月日だったように思うのだが、しかし少しずつだけど、はっきりと何かは変わっていっているのだろう。
 それは、セロヴァイトに関わったすべての人に対しても、例外ではないと祐介は思う。

     ◎

 唯と観た映画は、百点満点で採点するのなら八十五点くらいだったような気がする。
 内容は近未来、人間に造り出されたロボットに自我が芽生えて人間の女性に恋をする、という在り来たりなものだった。ただ、それを在り来たりと見せない型破り的なストーリー構成はなかなかの出来栄えであったように思う。近年稀に観る良作に部類されるし、実際に幾つか賞も取っているはずだ。ならばなぜ祐介の採点が八十五点なのか。その問いは、物語のラストにある。
 物語のラスト十五分、情景は満天の星空が広がる夜空の下であり、そこで語り合い結ばれるは主役のロボットとヒロインの女性。最後の見せ場である感動シーンだ。確かに面白かった。誰に訊かれてもそう答えるし、お勧めもしよう。ロボットの心情がありありと映し出される台詞、演出共に申し分無い。ただ、最後にロボットが機能停止になるのが祐介にはどうしても我慢できなかった。個人的意見である。世界的に観れば、そのラストで満足する人が大半だろう。しかし祐介はそうは思わないのである。
 百点満点中八十五点の十五点分は、そこだ。
 愛というものを知り、ヒロインと恋に堕ちたロボット。だが人間とロボットでは決して結ばれないことは誰の目から見ても明らかな現実であり、そのことを悩み通した結果、ロボットはヒロインとのキスを最後に自らの命を絶つのである。そこまでの経緯等の詳しい内容は本編を観ていない人にはわからないが、とにかく問題は勝手に機能停止したロボットだ。ロボットが機能停止し、ヒロインがその体を抱き締め、そしてそこで映画は終る。皆が皆、涙を流してスタッフスクロールを見つめ、満足だという顔で映画館を後にするのだ。
 しかし、それは果たして正解なのか。捻くれた考え方をする。映画とはそもそもこの現実世界ではないある種のファンタジーだ。だからスタッフスクロールが流れれば物語はそこで終わりを告げ、後はそれぞれが想像するしかない。続編が出れば話は別だが、今はそれは置いておこう。つまり、だ。もしこの話が現実世界で起こったのなら、ということを前提に考えてみよう。
 造り出されたロボットと、人間の女性が恋に堕ちる。それは見方によるが、素晴らしいことだと思う。障害を乗り越え、結ばれたのならそれはこの上ないことだろう。ロボットが機能停止せずに女性と結ばれてそれからの後日談みたいなものがあれば、祐介は百点満点に限り無く近い点数を奉げていた。だが、ロボットは機能停止し、自らの命を絶った。だが果たして、その決断は正しいことだったのだろうか。言い方は悪いが、祐介が思うに、それはただの自己満足に過ぎない。去り行く者はいい。自らの心を満たし、晴れやかな気持ちであの世に旅立てるのだから。
 だが、残された者はどうなるというのか。ロボットを愛し、そしてその事実を受け入れた女性。さあこれかだ、っていうときにロボットはいなくなる。ならば残された女性の気持ちはどうなるのか。好きな者に先立たれた女性の人生は、これからどんな結末を迎えるのか。それはたぶん、映画の世界では言い表せない暗いものになるではないか。少なくとも祐介はそう思う。
 だからこそ、最後にはロボットとヒロインは結ばれてこれからを生きて行って欲しかった。捻くれた考え方なのだろう。そんなことを言い出したら、ゴマンと存在する映画がすべて台無しになってしまうのだろう。それはわかる。だって映画だから、と一言でまとめられることも承知だ。しかし、それでも今回の映画だけはどうしてもそう思えないのだ。
 その原因は、人に造り出されたロボットに自我が芽生える、という設定にある。
 心のどこかで、祐介は映画の登場人物を自らと雷靭に置き換えているのだろう。
 雷靭と出会っていなければ、雷靭に核たる自我が無かったのなら、この映画は百点満点に近いものだったはずだ。だが祐介は雷靭と出会い、そこに存在していた核たる自我と触れ合った。だからこそ、祐介はこの映画に反発してしまっているのだろう。アンハッピーでは無く、心温まるハッピーエンドにして欲しかった、と心の底から思う。――……まあ、映画だからしゃあねえべ、と言ってしまえばもはやそれまでなのだが。
 映画の余韻が尾を引く中、祐介と唯は公園のベンチに並んで座っていた。時刻はさっき確認したときにはすでに夜の八時を過ぎていたはずで、見上げた視界に入って来るのは映画の情景ような満天の星空だった。雲一つ無い夜空は純粋に綺麗であり、祐介と唯の視界の中を流れ星が一つだけ横切った。
 デートの締めは、いつも必ずここに来る。時間は決まって夜。唯と二人で、いつもと同じベンチに腰を下ろし、どちらともなく手を繋ぎ、緩やかに流れる時間の中でこうして夜空を仰ぐのだ。唯と過ごす時間は楽しくて、そして唯から伝わるぬくもりが好きだった。誰にも邪魔されない一時であると同時に、二人にとっては何にも代え難い大切な時間。祐介は唯に、そして唯は祐介にぬくもりを与える。それが、どうしようもないくらいに心地良かった。
 祐介は夜空を見上げながら「……綺麗だな」とつぶやき、唯も同じように夜空を見上げて「……うん」と肯く。いつもと同じ会話、いつもと同じ光景。しかしそれでよかった。そうしていることが、二人の絆なのだ。
 不意に、唯が言った。
「映画、楽しかったですね」
「…………。……、楽しかった」
 歯切れの悪いその言葉に、唯は祐介を見つめる。
「どうかしたんですか?」
 何と答えていいかわからず、歯切れの悪いままで、
「……いや、何て言うかさ……ロボットに自我が芽生えるって設定だったでしょ、あの映画。最初は興味本位で観たかったんだけど……今は少し後悔してる。何だか、雷靭のこと思い出しちゃってさ…………ちょっと憂鬱になってるのかな」
 俯く祐介に、唯はそっと笑いかける。
「……やっぱり、祐介さんは優しいです。でも、少しだけ優し過ぎますよ」
 きゅっと手が握られる。祐介が隣に視線を移したとき、唯の綺麗な笑顔を見た。
 唯には、一体どれだけ救われたのかわからない。辛くなったとき、どうしようもなくなったとき、唯は必ずそこにいてくれて、綺麗な笑顔を見せてくれる。唯がそこにいてくれれば、他のものなど本気で何もいらないとさえ思う。この気持ちは、一年前のあの日から少しも変わってはいない。唯が好きだった。それは、これまでも、そしてこれからもずっと変わりはしないだろう。唯がいてくれれば、それだけでいいのだから。
 唯の手を握り返し、祐介は笑う。
「……ありがとう、唯さん」
「うん」
 本当に嬉しそうに唯は笑った。
 頭上に輝くのは満天の星空。どこまでも続く果てしない夜空の下で、祐介と唯は同じ場所で同じ時間を共有している。それはとても、心地良いことだった。
どちらともなく手を握ったように、どちらともなくそっと近づく。互いの距離がより一層縮まり、そして、
 二人の間を別つかのように、空間が歪んだ。祐介と唯が驚いて同時に顔を後ろに引いた刹那、歪んだ空間から突如として緑の光の粒子はあふれ出し、それは意志を持って漂いながらその形を具現化させる。まるで合せ鏡のように、全く同じ速度で全く同じ刀の刀身が突き出され、それは徐々にかつての姿を取り戻していく。やがて緑の光の粒子が弾けて消えたとき、祐介と唯の前には、それぞれ一振りの刀があった。それが何であるのかを、祐介も唯も、一発で理解していた。
 斬撃型セロヴァイト・雷靭、そして斬撃型セロヴァイト・水靭。
 第十三期セロヴァイヤーである祐介と唯が共に戦ったそれぞれの最強の相棒。
 その二つのセロヴァイトが、そこに存在していた。呆然としながら祐介は雷靭の柄を握り締め、唯も水靭をそっと握り締める。
 あるいは、それが合図だったのかもしれない。またしても唐突に空間が歪んだ。今度は先の比ではない。祐介たちが座っているベンチの真正面、公園の広場の中央が大きく歪み始め、開いた漆黒の口から緑の光の粒子があふれ出す。そして、その光に紛れて何かが這い出て来る。セロヴァイトではない。それは、人間に思えた。
 まるで宇宙飛行士のような防護服を身に纏った不気味な人間である。それを視界に入れた瞬間に、頭の中のレーダーが突然に発動して何者かの反応をトレースした。数は合計で五つ。目の前に見える人間の数と同じだった。しかしセロヴァイヤーではない。もっと別の、セロヴァイヤーより薄気味悪い者だ。状況はよくわからない。ただ、そいつ等はこの世界の人間ではなく、向こう側の世界の人間なのだというこがなぜか漠然と理解できた。そして、防護服を身に纏うその手に、異形の刀が握られていることに祐介は気づく。
 唯が突然に「――特殊兵?」とつぶやいた。
「特殊兵?」
 聞き返す祐介に、唯は首を振る。
「わかりません。けど、水靭が言うんです」
 唯は言った。
「――戦え、って」
 その声が引き金になったかのように、五人の特殊兵が突如として祐介たちに向かって走り出す。
 何かを考えている暇は無かった。唯とは逆方向に飛び退いた刹那、二人が座っていたベンチが特殊兵の刃によって真っ二つに切断される。離れた場所から互いを見据え、祐介と唯は一度だけ肯く。状況はわからない。ただ、水靭が戦えという以上、戦おう。唯が戦う意志を持つのなら自分はそれに殉じよう。唯を、守る。それしか有り得なかった。戦う理由など、それだけで十分過ぎた。
 身体能力の向上にものを言わせて地面を砕き、祐介は特殊兵に真っ向から突っ込む。それに気づいた特殊兵が歪な刀を構えるが、その動作が冗談のようにはっきりと見えた。曲がりなりにも第十三期セロヴァイヤー戦の優勝者となり、そして狭間の番人・焔と戦った経験のある祐介には、もはや普通の敵では相手にならないだろう。祐介自身は気づいていないのだが、雷靭の力を借りずとも、祐介は確実に強くなっている。
 振り抜かれた刃を雷靭で受け流し、相手の懐に飛び込んで力任せに弾き飛ばす。浮き上がった特殊兵に重なるように飛び上がり、マジックミラーのような硝子目掛けて膝を繰り出して地面に叩きつける。呻き声と共にその特殊兵の動きが止まった瞬間、感覚が教えてくれた。祐介の背中に振り下ろされた刀を背後を見ずに防ぎ、一瞬の静止の後に雷靭で強引に押し返す。バランスが崩れてよろける特殊兵に向き直り、刀を突き出して雷靭との同調を開始する。雷靭の刃に雷が蠢き出した刹那、
 雷が一挙に霧散して消えた。その事実に祐介が動揺した隙を、特殊兵は見逃さなかった。崩れたバランスを引き戻し、真横から刀を振るう。動揺していても、それは十分について行ける動作だった。雷が消え失せた刃でその攻撃を受け流し、反撃のタイミングを狙いつつも防御に徹する。視界の片隅で唯が特殊兵を一人、地面に弾き飛ばすのを見た。思考の一割のことを唯に注ぎながら、残りの九割で雷靭のことを考える。
 幾ら呼びかけても、雷靭は何の返答も返さなかった。同調を開始しても途中で何かの作用によって強制的に遮断される。この刃に宿っている雷の鼓動は感じるのだが、それをどうしても発動させることができない。焦りが急速にその大きさを増していく。どうすることもできなかった。唯と観た映画の内容が頭の中を駆け巡る。機能停止させたロボットのように、雷靭の自我はこの世から失われていた。斬撃型セロヴァイト・雷靭に発生したバグはすでに、セロヴァイト執行協会本部の連中により消去されてしまった後だった。祐介の最強の相棒は、もう二度と現れはしない。そのことを、祐介は悟った。
 それが、巨大な動揺に変化し、防御に徹していた祐介の足を絡ませた。視界が一気に回転してその場に尻餅を着く。そんな絶好の好機に、特殊兵が黙っているはずはなかった。唯と相手をしているのは一人だけであり、残り二人の特殊兵が一斉に刀を振り上げて狙いを祐介に固定する。意識するより早くに、体の防衛本能が作動した。腕で地面を弾いて振り抜かれた二線の刃の軌道から逃れ、死に物狂いで立ち上がろうとし
 伏せて、という唯の叫びを聞いた。無意識の内に伏せていた。
 祐介に二線の刃が振り抜かれる瞬間に、唯は一度の跳躍で公園にある水道まで移動していた。水靭を振り上げて何の躊躇いも無く鉄パイプを切断する。一瞬の間の後、突如として大量の水が噴水のように噴き上がった。それを全身で感じながら唯は水靭との同調を開始し、刃を掲げて特性を発動させる。噴き上げられていた水は、唯の意志に統括されて重力クソ食らえで空間に静止し、強度を増しながら巨大な水の柱を造り出す。唯が叫んだのと、祐介がその場に伏せたのは同時だったように思う。
 唯が水靭を振り抜く動作に合わせて、鋼鉄の強度を持つ水の柱は遠心力を無効化して瞬間的に振り回された。祐介の頭の数センチ上を水の柱が走り抜け、それは圧倒的な威力を持って特殊兵を薙ぎ倒す。バラバラに吹き飛ぶ三人の特殊兵をそれぞれ視界に収め、唯はさらに水靭との同調率を上げた。水の柱は三等分に別れて空中に飛び散り、まるで砲弾のように特殊兵に突っ込んで行く。特殊兵に直撃して弾けるその音が、水とは思えないほどの轟音だった。
 勝負は、それで決していた。
 その場に座り込んで息を整える祐介と、水靭をゆっくりと下ろす唯。五人の特殊兵は倒れたまま身動き一つしない。夜の静寂が辺りを支配する中、現れたとの同じくらい唐突に特殊兵から再び緑の光の粒子があふれ出し、その体をゆっくりと消滅させていく。漂う緑の光の粒子は、公園の中央に開いた漆黒の口の中へと吸い込まれて行き、それをすべて飲み込んだと同時に不気味な音を立てて閉じてしまった。
 状況がまるでわからなかったのは祐介だけではない。唯も同じように困惑の表情を浮かべたまま消えた漆黒の口を見つめていた。夏の夜の公園に取り残された二人を現実世界に引き戻したのは、祐介のズボンのポケットから響いた着信メロディだった。その電子音に驚きつつも慌てて携帯電話を引っ張り出し、折り畳み式のそれを広げてディスプレイの名前を確認する。そこには、『渡瀬拓也』と表示されていた。意外な人物からの電話だった。
 通話ボタンを押し込んで通話口を耳に当て、まず最初に聞こえたのは場違いな言葉だった。
『宇宙人ぶっ倒したか?』
 その宇宙人、というのが何であるのかを、祐介はすぐに理解できた。
「…………倒しました」
 電話越しに拓也が満足そうに笑う。
『そうか、それならいい。……おう、祐介。久しぶりだなあ』
 普通は挨拶が先なんじゃないですか。もちろんそんなことは言えないのだが。
「あ、はい、お久しぶりです。……てゆーか、さっきの何なんですか……?」
 拓也の口調が真剣になる。
『そのことで話がある。今からちょっとおれん家来てくれねえか? あ、できれば唯も一緒に来て欲しいからさ、悪いけど連絡してくれ』
 いつの間にか、唯は祐介の隣に来ていた。
「唯さんなら今一緒にいます」
『それなら話は早い。一緒に来てくれ。宇宙人とかのこともそれから話すから』
 そうして通話は切れ、ぼんやりと唯を見つめる。
 状況はわからないままだったが、これから拓也の家に行かなければならないのは明白だった。何より、今こうして二人の手に握られているのはセロヴァイトなのだ。セロヴァイトに関しては、祐介や唯より拓也の方が詳しいに決まっている。拓也の所に行けば、ある程度のことはわかるのではないか。そんな風に思った。
 拓也との電話の内容を唯に話し、祐介たちは夜の公園を後にする。
 そして祐介の脳裏には、雷靭のことが焼きついて離れなかった。





     「第十二期と第十三期と狭間の番人と」



 時刻は夜の九時きっかり、場所は拓也のアパートである。
 その一室に、部屋主の拓也はもちろんのこと、紀紗と啓吾、それから祐介に唯、そして焔が集まった。怪獣フィギュアに似たり寄ったりの大きさの焔はともかくとして、この狭い部屋に五人も集まるとなるとさすがに窮屈だが、他に集まれる場所も無いので文句は言えない。拓也はベットに腰掛け、啓吾は壁際に凭れ掛かるように胡坐を掻き、祐介と唯はテーブルの前に並んで座っていて、紀紗と焔は相変わらず卵焼きとベーコンを食べ続けていた。
 テーブルの上には今、大皿が置かれている。その大皿の上には大量の卵焼きと少量のベーコンが盛り付けられていた。ご自由にどうぞ、と思って拓也が作ってみたのだが、この状況でそれを平気で食える奴など紀紗と焔以外は誰もいなかった。焔は【界の狭間】にいる限りは何も食べなくてもやっていけるらしいのだが、しかし【界の狭間】を出て対立する世界のどちらかで活動するとなると、体を維持するために食物を食さねばならないという。そして何かを食べるのであれば、焔はやはりベーコンしか食わないのだった。
 本日幾度目かの炎のゲップをかました後、焔は唐突にその場に揃った人物を順に見渡し、眼光を細めて笑った。
「――これで一応の役者は揃った訳だな。……神城、質問はあるか?」
 その場の他の誰でもなく、焔が迷わず啓吾に話を振ったのは、この場にいる誰よりも啓吾が的確な質問をすると思ったからだろう。そしてその考えは正しい。未だに状況のわかっていない祐介と唯は質問するより話を聞いた方がいいし、拓也は拓也でもはや孤徹と共に戦うこと以外考えていないし、紀紗は最初から論外である。卵焼きを食うのを邪魔すれば泣きそうな顔をするので、焔も紀紗に話を振るような愚行はしない。それ故に、今は啓吾と焔が話すのが最も効率が良いのだ。
 啓吾は少しだけ考え、「ふむ」と肯いて口を開く。
「まずはここにいる誰もが思っていることを訊く。どうしてセロヴァイトが、おれたちに再び戻って来たのか。……ちょっと考えてみるとさ、その根本には何者かの、焔ではない向こう側の世界の人間の意図がある、ってこと何だと思う。近からずも遠からずじゃなくて、その通りだ、って感じじゃない?」
 焔はすんなりと同意する。
「その通りだ。……貴様等が参戦したセロヴァイト戦の発案者であると同時に、セロヴァイト執行協会の長。そしてこのおれにセロヴァイト戦参戦の取り引きを持ち掛けて来た男の名。それが、ヨナミネ=S=ファイタル。今回の戦闘の幕を開けた張本人だ」
「けど、二つの世界の対立を乱す者は焔、つまりは狭間の番人が排除するんじゃなかったっけ?」
「事情が変わったのだ」
「……負けたのか?」
 啓吾のその言葉に反応し、小さな焔の体に、しかしそれでも圧倒的な劫火が渦巻き始める。逃走という名の屈辱が、焔の怒りを再度掻き立てるのだ。
 見兼ねた拓也が「うわっ、おいコラ焔、テーブル燃えたらどーすんだっ!」と抗議の声を上げ、祐介と唯は驚きながら焔を凝視し、そして紀紗は一人、ふわりと笑って小さな真紅の竜を自らの手で包み込む。真紅の竜にそっと頬を寄せ、焔にしか聞こえないような小声で「……だいじょうぶだよ」とつぶやく。たったそれだけでのことで、それまで荒れ狂っていた劫火が嘘のように納まった。
 それを見て紀紗は静かに笑ってまた卵焼きを食べ始め、僅かな沈黙の後に何事も無かったかのように焔は言う。
「……ヨナミネが【界の狭間】の領域を侵し、占拠した」
「ほう、それでお前は逃げ出して来たって訳か」と拓也が余計なことに口を挟んだため、突如として焔の眼光が拓也を射抜いて問答無用に黙らせる。
 今のは拓也が悪いよ、と苦笑しながら啓吾は、
「つまり、だ。そのヨナミネって奴が何かしらの理由の下に【界の狭間】を占拠し、そこを守っている狭間の番人・焔を追い出すことに成功。これから奴等は【界の狭間】を拠点として、この地球に攻め込んで来る、と。おれたちがさっきぶっ倒した宇宙人はヨナミネの手下であり、そいつ等に対立する二つの世界の均衡を崩させないために焔はここに来ておれたちを集めた。しかしそれだけではヨナミネには対抗できないのは一目瞭然。だから、セロヴァイトをおれたちの下へ再び戻した。――それで合ってる?」
「ああ。おれ一人ではもはや止められない状況にまでヨナミネは事を進めている。だからこそ、眠りに就いていたセロヴァイトをこのおれが解き放ってやったのだ。貴様等がセロヴァイト戦で使用したセロヴァイトは、言わば試作品だ。恐らくは、今のヨナミネの配下には試作品ではない完全なセロヴァイトを用いて生成された戦闘部隊が結成されているだろう。……ただ、一つだけ決定的に試作品と完成品で違う箇所がある」
「違う箇所?」
「意志の有無だ。そもそも試作セロヴァイトに意志があったのは、賭け試合をより一層楽しませるためだ。しかし、」そこで焔は、一度だけ祐介に視線を送り、「この餓鬼の望みでセロヴァイト戦が廃止された今、もはや意志など必要無い。完全なる兵器として、完成セロヴァイトは造り出されているはずだ。意志を伴うセロヴァイトは、貴様等が持つ試作セロヴァイトが最初で最後。……が、その御かげとでも言うべきか。セロヴァイトは自らの意志を持って動いてくれた。そして、」
 焔は、不敵に笑った。
「意志があるからこそ、強い。セロヴァイトと同調したことのある貴様等ならそれはわかるはずだ。セロヴァイトをただの武器として見るのなら、使用者は扱い易いし上達も幾分か早い。しかし意志を同調させて初めてできること、そうしなければできないことがある。それを見極めれば、何にも勝る強さと化す。セロヴァイトとの同調を完全なものにすれば、限界以上の力が出せる。貴様等は全員、その領域に達しているはずだ。ましてや、貴様等はセロヴァイト自らに選ばれた特別なセロヴァイヤーなのだ。奴等は、貴様等が望めばすべてを委ねてくれる。……そうだろう、貴様等」
 焔のその声が引き金となり、狭い室内を覆う空間が一瞬にして歪んだ。そこからあふれ出すは緑の光の粒子である。それは意志を持ってゆっくりと漂い、それぞれの形をこの世界に具現化させるために活動を開始する。
 緑の光の粒子が一挙に弾けたとき、拓也の腕には二体一対の漆黒の鉄甲、打撃型セロヴァイト・孤徹が装着され、啓吾と祐介と唯の手の中にも一振りの刀がその姿を現す。斬撃型セロヴァイト・風靭、雷靭、水靭。四人は同時に、改めてかつての相棒をじっと見つめ、各々が実に様々な表情をした。拓也は自信満々に笑い、啓吾は喜びを噛み締め、祐介は僅かに困惑の入った顔をして、唯はどこか懐かしむような表情を浮かべた。ちなみに紀紗は未だに卵焼きを食べている。
 焔は続ける、
「今、貴様等の手にあるセロヴァイトはセロヴァイト執行協会本部が管理しているのではなく、このおれと共にある。つまり、以前のように具現化させる際にその真名を呼ばずとも、意識すればセロヴァイトは具現化できるようになっているはずだ。このおれがこの世界にいる限りは、それは継続される。貴様等もその方が戦い易いだろう?」
 その問いは、その場にいた四人はもちろんのこと、四つのセロヴァイトに対しても向けられた問いのように思う。
 啓吾は風靭の刃をゆっくりと下ろしながら、
「状況は大体わかった。おれたちはこれから、【界の狭間】から這い出てくるヨナミネの手下を片っ端からぶっ倒して行けばいい訳だ。ここにいる全員が、普通のセロヴァイヤーよりは何倍も強いと思う。それは確かだ。ヨナミネの手下がどれだけ強いのかは知らないけど、負ける気は全くしないってのが本音。……しかし、一つだけ答えてくれるか、焔」
「なんだ?」
「この戦闘は、強制なのか?」
 その場にいた全員が、一瞬だけ飲み込めなかった言葉だった。
 そして逸早くそれを理解したのは、やはり焔だった。
「――違う。中途半端な奴に戦われてはこちらも迷惑だ。ちょうど良い、本題に入る。……もしこのままヨナミネがこの世界を支配した場合、二つの対立する世界の均衡は乱れ、遅かれ早かれ必ず歪が生じ、どちらの世界も例外無く砕け散るだろう。文字通り、木っ端微塵に砕ける。貴様等にもわかり易く言うのなら、世界の滅亡だ。それを阻止するために、おれはセロヴァイトを集め、貴様等の下に来たのだ。それを踏まえた上で、ここにいる全員に問おう。このおれと共に戦う気のある奴だけが、この戦闘に参戦しろ」
 束の間の沈黙、焔は畳み掛ける。
「世界が滅亡すれば貴様等は全員死ぬだろう。だが、中途半端な覚悟で参戦してもらってはそこが穴となる。だから問う。命をセロヴァイトと共に捨て、自らが息絶えるまで相手を倒すことだけを考えられる奴だけが参戦しろ。世界が滅亡するから仕方が無く参戦する。そんな考えの奴は必要無い。否、そんな腰抜けがこの中にいるのなら、世界の滅亡の前にこのおれが、直々に殺してやる」
 啓吾は苦笑する、
「それじゃ強制になってるって」
 バツの悪そうに視線を泳がし、焔は言い直す。
「……撤回する。殺しはしないが、忠告だ。参戦しないのなら、このおれの前には二度と姿を現すな。もし現したのなら、そのときは、容赦無く殺す」
 焔から迸った殺気は、一瞬でこの部屋を支配した。それは、焔が本気で先の言葉を吐いたのだと皆に確信させるには十分過ぎた。
 沈黙が続く。しかしその中でも、紀紗だけはまだ卵焼きを食べている。
 そしてこの沈黙を破ったのは、第十二期セロヴァイヤー戦優勝者である渡瀬拓也だった。
「――細かいことはどうでもいいし知りたくもねえ。世界の滅亡だの何だのも、ぶっちゃけた話はどうでもいいさ。おれが言うべきことはただ一つ、こうと決めたら一直線、行動あるのみだ」
 漆黒の鉄甲を盛大に打ち鳴らし、拓也は実に嬉しそうに笑う。
「おれは戦うぜ。孤徹が戦えって言う以上、おれは敵と見なした者は容赦無く叩く。孤徹と戦う機会がまたあるなんて思ってもみなかったからな。ただ純粋に楽しいんだ。焔、力貸してやるよ。テメえを越えたセロヴァイヤーの実力、見せてやんぜ」
 拓也の中を渦巻くは、歓喜。その一点である。戦闘狂と取られてもおかしくはない感情だが、通常のそれとは少々事情が違う。つい数時間前までは細々としたことに悩まされ、どうしようもなくなっていた。しかしかつての最強の相棒が再びこの世界に姿を現し、自らを本当の相棒と認め、戦えと言ってくれる。それは何にも代え難い喜びに他ならないのだ。最強の戦いがそこにある。その戦いから逃げ出して、何が十二期セロヴァイヤー戦優勝者か。何が孤徹のセロヴァイヤーか。拓也は、そんな腰抜けではない。最強を目指す一人として、ここに参戦を誓うのだ。そしてその誓いに共感するかのように、孤徹は拓也と同じような歓喜に染まっている。
 参戦を決意する拓也の隣で、神城啓吾は風靭の刃でそっと空を切った。
「――おれも参戦する。風靭には悔しい思いばっかさせてるし、それに朧との対決だけじゃまだ満足してないみたいだしさ。困った暴れ馬だ。でも、おれはそんな風靭を最強の相棒と認め、そして風靭もおれを相棒だと認めてくれた。それで逃げ出すなんて死んでもゴメンだ。拓也との決着もまだ着いてないしね。この戦いはそのデモンストレーション。ヨナミネ? 完成セロヴァイト? 世界の滅亡? 知ったことじゃない。おれは、風靭と共に戦う。それだけだ」
 第十二期セロヴァイヤー戦で、啓吾は風靭に優勝すると誓った。しかしそれは結局、叶わぬ誓いとなってしまった。これまでそのことを心の根本でずっと悔やみ続けてきたのだ。優勝者になれず、拓也との決着も着けられないまま終ったセロヴァイト戦。そんな終り方で納得できるほど、啓吾のセロヴァイトに対する思い入れは浅くなどないし、風靭もまた、納得していなかった。――勝ち残れ、そして戦え。風靭はまだまだ暴れたりない。風靭の能力を極限以上に発揮できる者であり、同時に風靭が最も強いと信じるセロヴァイヤー。それが、神城啓吾。啓吾と風靭が完全なる同調を成し得た今の状況を見す見す捨てては、死んでも死に切れない。だからこそ、この戦いに参戦するのだ。
 拓也が啓吾を見据える、
「馬鹿言え、決着なら着いただろうが。おれの勝ちだ」
 啓吾は鼻で笑う、
「馬鹿を言ってんのは拓也だ。おれと風靭が本気出せば、拓也と孤徹なんて紙切れ同然だね」
「ほう、いい口聞きやがるなテメえ。表出ろや」
「上等だ」
 火花でも飛び散るかのような睨み合いの刹那、突如として二人は噴き出す。
「こんな感じはあんトキ以来だな。やべえな、最高に楽しくなってきやがった」
「こんな高揚感はもう感じれないと思ってたけど、そうだね、最高に楽しいや」
 笑い合う二人を満足気に見据え、焔は視線を祐介と唯に向けた。
「こいつ等は参戦する気だ。貴様等はどうする? 参戦するか、否か」
 拓也も啓吾も口を閉ざし、焔に習って二人を見据える。
 先に口を開いたのは、佐倉唯の方だった。
「――……わたしも、戦います」
「ゆ、唯さんっ?」
 驚いたような声を上げる祐介に一瞬だけ視線を移した後、唯は水靭を自らの手で包み込む。
「本当を言うと、恐いです。世界の滅亡なんて言われても正直、わかりません。けど、水靭はわたしを選んでくれた。こんなわたしを、認めてくれた。それがただ純粋に、嬉しいんです。だから水靭がわたしの手の中にある限りは、わたしも戦います。……この子は、もう一人のわたしだから」
 唯は、水靭との同調を正規の方法で行った訳ではない。幻竜型セロヴァイト・虚、そのヴァイスにセロヴァイトの同調云々の情報が詰め込まれていた。そのヴァイスを飲み込み、セロヴァイトとの同調があることを知った佐倉隼人は、唯に水靭との同調を強制的に開始させることを実行させたのだ。血の滲むような努力、とはまさにそれだった。水靭を隷属させ、その意志を無視して特性を引き出し、まるで道具のように扱った日々。しかしその中で、唯は隼人に気づかれないように水靭に謝り続けていた。セロヴァイトにも意志があるということを、唯は誰よりもよく知っていた。それでもそうするしか、謝り続けるしか道は残っていなかったのである。だからこそ、今こうして水靭が自分を選んでくれたことが純粋に嬉しい。自らを許し、認めてくれたもう一人の自分。この子が側にいてくれるのなら、唯は戦える。今はただ、本気でそう思う。
 唯の視線が祐介に向けられる。その瞳には、余計な雑念など一切無かった。そしてまた、紀紗を除く他の視線にも無駄な考えはなかった。
 祐介は気圧されるように俯き、雷靭の刃をじっと見つめる。しかしそれも数秒だった。歯を食い縛り、意を決したように顔を上げてつぶやく。
「……おれは、焔さんが言うような腰抜けかもしれない。けど、」
 源川祐介が真っ直ぐに見据えた先にいるのは、焔だった。
「おれは忘れてない。『本当に大切に想うのなら、自らの命を賭けてでも必ず守り抜け。後悔したくないのなら、躊躇わないことだ。躊躇えればその分だけ絶対に後悔がついて廻る。貴様にはそれが足りないようだな。相手を倒すと決めたら何を置いてでも、自らの大切な者のことだけを考えて倒せ。それが、後悔しないコツだ』……そのことを、おれは忘れたことはないです」
 焔が、笑った。それに背中を押されるように、祐介もまた、笑う。
「――おれも、戦います。後悔はしたくない。大切な人を守るため。それだけのために、おれも参戦します。もう二度と、躊躇うことはしません」
 隣にいる唯を振り返る。彼女が戦うのなら、自らも戦おう。そして、絶対に守り抜こう。どんなときでも側にいてくれた唯のために。心から愛する一人の女の子のために。腰抜けは腰抜け成りに力になってやろうではないか。これまで幾度となくそんなことを思ってきた。しかし違う。もうその考えは必要ないのだ。貫き通す信念はただ一つだけ。祐介が憧れた存在が放つ最強の一言。こうと決めたら一直線、行動あるのみだ。唯を守る。それだけのために、祐介はこの戦いに参戦する決意を固める。――だが、たった一つ、気がかりが心の奥に巣食っていた。
 祐介は言う。
「……焔さん、一つだけ、教えてくれませんか」
 雷靭をそっと持ち上げ、焔に差し出す。
「雷靭は……バクで生まれた『あの雷靭』は、もうこの世にはいないんですか?」
 バク、という言葉に拓也と啓吾が反応する。それもそのはずだ。斬撃型セロヴァイト・雷靭にバクがあった事実を知っているのは拓也と唯だけであり、二人は当然のように知らない。拓也が祐介と共に焔と戦ったときも、拓也はそれはすべて祐介一人の力だと思っていた。だからこそ、驚いているのである。
 焔は雷靭を何も言わずに見つめ、しかし唐突に口を開く。
「それを貴様は、このおれに訊くのか」
 言っている意味がわからなかった。
「どう、いう……意味ですか……?」
「そのままの意味だ。雷靭は貴様のセロヴァイト。このおれは関係無い。……餓鬼。貴様は、雷靭が自らの相棒だと、胸を張って言えるか?」
 躊躇う必要は無かった。祐介は肯き、はっきりと言葉を紡ぐ。
「言えます」
 焔は笑う、
「ならば信じ抜け。例え雷靭のバクが消去されていようとも、貴様は貴様だ。一人では何もできないなどとは言わせぬ。貴様は仮にも、このおれの動きを一瞬でも封じたセロヴァイヤーなのだ。弱音は死んでも吐くな。弱音を吐けばそれまでだ。世界の滅亡より先に、このおれが貴様を殺してやる」
 焔のその言葉を真っ向から受け、祐介は雷靭を握り直す。決意は、ずっと前から決まっていた。情けない顔はしていられない。情けない顔をしていたら、雷靭と会ったときに馬鹿にされるのは目に見えているのだ。前を向いていよう。出会えるかどうかはわからないが、もし出会えたときのことを考えて、笑っていよう。そして本当に出会えるときが来たのなら、また共に笑い合おう。それが今、この手に無い雷靭へ奉げられる唯一のことであるような気がする。最大の天敵であると同時に、最強の相棒だった。あれほど気が合った戦友は、他にはいなかった。だからこそ、今はただ、前を向いて戦い続けよう。
 祐介の瞳に宿る意志を確認した焔は、ゆっくりと肯きながら視線を紀紗へと向ける。
 紀紗はまだ、卵焼きを食べていた。大皿に盛り付けられた大量の卵焼きは今、三分の二近く失われてしまっている。よくそんなに卵焼きばっかり食えるよな、とそこにいた全員が思ったはずだ。そんな紀紗が焔の視線に気づき、卵焼きを食べる手を止めて不思議そうに首を傾げる。
 焔は問う。
「紀紗。お前はどうする。戦うか、戦わぬか」
 正直、焔は紀紗には戦って欲しくなかった。紀紗が傷つくことを何よりも恐れている。腰抜けは殺すなどと言いながら、そう思ってしまう己にはっきりとした矛盾を感じる。が、それはどうしようもない焔の本音であり、できれば紀紗には戦って欲しくはないのだ。紀紗が何よりも大切で、何にも代え難い存在だった。だからこそ、紀紗には傍観者になってもらいたかったのかもしれない。
 しかし紀紗は、そんな焔の内心に反して笑った。
「わたしも、戦う」
「紀紗……、……また、あのときのように傷つくかもしれない。そうなれば、」
 だいじょうぶだよ、と紀紗は微笑む。
「だって、焔がいるもん。危なくなったら焔が守ってくれる。だから、だいじょうぶ」
 焔が負けるはずはない。それを信じて止まない、かつての最も幼いセロヴァイヤーである七海紀紗。
 この勝負は、どう考えても焔の負けだった。
 拓也がベットに倒れ込んでふっと表情を緩める。
「……どうやら焔の負けみたいだな。おれとお前は、弱いものが同じだからよくわかるよ。そして、知ってるはずだ。――紀紗は、強いぜ?」
 一瞬の沈黙、後に「くっくっく」と焔が笑う。
「その通りだ。小僧にそれを言われるとは皮肉な話だな」
 紀紗のことは、自分の方がよく知っていると思っていた。だが、根本的なことを見落としていたのだろう。紀紗は強い。そのことを誰よりも知っていたからこそ、焔は我がセロヴァイヤーに紀紗を向かえ入れたのだ。なのに、この有様はどうだ。傷ついて欲しくない、だと? 甘ったれるな。そんな考えでは何も掴み取れはしないのだ。祐介にも言った言葉。本当に大切に想うのなら、自らの命を賭けてでも必ず守り抜け。その通りである。紀紗が傷つくのが恐いのなら、守り抜けばいいだけの話だ。己の圧倒的強さを持ってして、紀紗には誰一人、指一本触れさせはしない。
 焔は、紀紗を真っ向から見据えた。
「今一度、誓おう。紀紗。お前は、このおれが全力で守り通してやる」
「うん」
 紀紗は満面の笑みで焔の小さな体に抱きつく。照れ隠しのようにその腕から逃れようとする真紅の竜に向かって、拓也が「照れるな照れるな焔ちゃん」などとまた要らぬことを言ったせいで、またしても焔がぶち切れて殺気の篭った眼光で拓也を射抜いて黙らせる。やっとのことで紀紗の腕から逃れ、テーブルの上に着地して焔が次なる本題に入ろうとしたとき、思わぬ所から挙手が上がった。
「あの……一つ、訊いていいですか……?」
 唯だった。
 唯はテーブルの上の焔をじっと見つめ、突拍子も無いことを言ってのけた。
「ずっと気になっていたんですが、……――この怪獣のフィギュアさんって、誰ですか?」
 奇妙な沈黙があった。
 焔の眼光がピクリと動いたのに気づいたのは祐介だけだった。唯さんがとんでもないことを言った、と焦って今の言葉を取り消そうとしたときにはすでに、拓也が爆笑していた。それに今度こそ本当に切れた焔は、口を抉じ開けて忌々しい小僧に向けて火炎放射を放つ。灼熱の劫火に絶叫する拓也とそんな焔を慌てて止めようとする紀紗を他所に、啓吾が祐介に向かって、
「もしかしてさ、祐介って唯ちゃんに焔のこと話してなかったの?」
「……はい」
「そりゃ祐介が悪い。唯ちゃんもよく今まで動く怪獣フィギュアを見て何も言わなかったね」
 唯は申し訳なさそうに俯き、
「いえ、あの……何だか言い辛くて」
「いやいや、唯ちゃんが落ち込むことじゃないからいいよ。取り敢えず、祐介は唯ちゃんに説明してやって」
 祐介が唯に向かって焔のことを説明しているその間に、拓也は焔の劫火の餌食となって真っ黒焦げである。
 すべての事情を飲み込んだ唯が怪獣フィギュアを狭間の番人・焔であると理解したのと、一連の騒ぎが収まったのは同時であったように思う。テーブルの上に踏ん反り返っていた焔は大皿に残ったベーコンを不機嫌そうに貪っており、ベットに無様この上ない体勢で突っ伏している拓也はすでにバタンキューである。
 この部屋に集まって初めて、啓吾が大皿の上の卵焼きを一つだけ摘んで食べる。口を動かしながら、
「それでさ、焔」
 焔は返事をせず、無愛想に啓吾に視線を向ける。
 啓吾は構わず続けた。
「これからおれたちは、具体的に何をすればいい? 【界の狭間】から這い出てくるヨナミネの手下を片っ端からぶっ倒せばいいっていうのはわかったけど、その明確な場所っていうのを焔は知ってるの? まさか這い出てくるときに反応するレーダーの影を頼りに出動する訳じゃないよね?」
「当たり前だ。……貴様は知っているだろう。この町には、向こう側の世界と繋がり易い空間があることを」
「ああ、知ってる。焔と一緒に【界の狭間】に行ったときに向かった、あの廃棄工場みたいな所だろ」
「あの場所のように、この町には八つ、向こう側の世界に繋がり易い空間が存在している。ヨナミネの手下が這い出てくるのは間違い無くその八つの場所だ。そこから同時に出てくるかどうかは知らぬが、やるなら同時にやる。ヨナミネとは、そういう男だ」
 啓吾はまたしても「ふむ」と肯き、
「つまりは、その八つの空間の前に一人ずつ待機してればいい訳だ。でも、問題がある。ここに集まっているのは紀紗ちゃんを入れて六人のセロヴァイヤーだけだ。一人ずつ配置したとしても二つは必然的にがら空きになる。その穴を、焔はどうやって埋めるつもり?」
「抜かりは無い。……神城、何か忘れてはいないか。セロヴァイヤーが貴様等だけと、このおれが言ったか? 貴様等が戦ったセロヴァイト戦に参戦していたセロヴァイトは、合計で幾つあったと思っている」
「幻竜型を入れて十種類。……ってことは、まさかおれたちの他にも、こうしてセロヴァイトを手にしている奴がいるのか?」
 焔は笑う。
「ここに存在する孤徹、風靭、雷靭、水靭の他に、羅刹、氣烈、軌瀞砲、虚連砲、戯丸砲。計九種類のセロヴァイトはすべて、自らが最強と認めたセロヴァイヤーの下に辿り着いている。この会話もすべて、このおれを通して各々のセロヴァイトからセロヴァイヤーに伝達しているはずだ。返答も返って来ている。不服を唱える者は誰一人としていない。……貴様等と同じで、他のセロヴァイヤーも戦うことを望んでいるようだ」
「……その中には、もしかして第十二期以前のセロヴァイヤー戦優勝者もいるの?」
「ああ」
 それに堪らず声を上げたのは、ベットの上で死んでいた拓也だった。
「ちょ、ちょっと待てよ焔。おれより前のセロヴァイヤー戦優勝者は全員、【界の狭間】で殺されてるんじゃなかったのかよっ?」
「その通しだ。しかし、この世から消滅する訳ではない。貴様くらい馬鹿でもわかっているはずだ。どちらかの世界の人間が一人消えるということは、少なからず騒ぎになる。それが積もれば必ずや歪が生じる。対立を守る存在が対立を乱してどうするというのだ。朧に殺されたかつての優勝者たちは皆、この世界に送り返されて再構築される。だがそれはセロヴァイヤー戦優勝者に限る。向こう側の世界の力が働いて【界の狭間】に迷い込んで殺された人間は再構築されるが、自らの意志だけで足を踏み入れれば、その人間は本当に死ぬ。……貴様等の世界でいう所の、神隠しだろうな」
「……何かご都合主義みたいだな」とつぶやく拓也に、焔は「それが世界の摂理だ」と当然のように切って捨てる。
 その話を聞いて満足したのか、啓吾が突然に立ち上がった。
「ま、そうと決まれば話は早い。これで思う存分に戦える訳だからね。一つの空間はおれに任せてもらう。誰にも邪魔させない。そこは、おれと風靭の獲物だ」
 それと同じように拓也も立ち上がり、
「抜け駆けするな啓吾。おれも一つの空間は任せてもらうぜ。徹底的にゴミ掃除してやろうじゃねえかよ」
 祐介と唯は座ったまま、視線を噛み合わせて確かに肯く。
 明日だ、と焔は言った。
「ヨナミネが仕掛けてくるのなら明日。貴様等、存分に戦え。敵と見なしたら容赦するな。必ずや叩き潰せ」
 真紅の竜に、劫火が荒れ狂う。
 そして、今再び、焔はその言葉を解き放った。

「最強の戦いの幕開けだ!! 乗り遅れる腰抜けは誰もいないはずだ!!
          立ち上がれ、貴様等――ッ!!!!」

 世界滅亡を賭けた戦いの幕が、今ここに、上がる――。





     「啓吾と風靭と」



 朝霧に包まれた川沿いの橋の下に、神城啓吾はいた。
 その右手に握られるは、斬撃型セロヴァイト・風靭である。
 辺りに人の気配は無く、騒音さえも聞こえない。そして朝霧が漂うそこに、啓吾は目を閉じて静かに立っている。ここは、第十二期セロヴァイヤー戦中に啓吾が訓練所として使っていた場所である。元々この場所には滅多に人は来ず、来るとすれば夜中に集まる暴走族くらいで、そんな連中も消え去った日も昇りかけの早朝ならば当たり前のように誰もいない。この場所で訓練する場合は必ず、この時間に来ていた。早朝の方が意識が集中できる、と啓吾は思う。
 静かな朝の気配の中を、一台の車がゆっくりと通り過ぎて行く。その排気音が耳から消えた刹那、啓吾の体が風のように舞い踊る。掲げられた風靭の刃が弱い太陽の光に照らされて輝き、それと同時に啓吾は同調を開始する。意志が瞬間的に風靭へと流れ込み、それに比例して風靭の意志が啓吾へと流れ込んでくる。体の隅々が一瞬だけ煮え滾り、その感覚が実に嬉しく、感情を抑え切れずに啓吾は笑う。
 踊るように踵を返す。風靭の刃を真っ直ぐ前方に突き立て、辺りを覆う風を意のままに自由自在に操る。生み出されるは膨大な量のカマイタチだ。啓吾を鎧の如く包み込み、荒れ狂う風の楯は鼓動を打つ。まるで生き物ように、風は啓吾と共にある。いい感じだった。四年のブランクは微塵も感じさせない。やはり風靭も啓吾同様に嬉しいのだろう。戦わせろと叫び続ける我が相棒は、紛れもない最強だ。
 体に纏った風の鎧を一挙に弾き飛ばす。それは地面を抉り取りながら啓吾を中心に放射線状に広がり、削岩機のように触れるものを容赦無く削っていく。朝霧をも吹き飛ばし、風は視界に見えるすべてのものを支配していた。放射線状に広がったカマイタチを見据えながら、啓吾は風靭を地面に突き刺す。それと同時に風は停止、刹那に上空へと舞い上がる。刃を地面から引き抜いて真上に向け、霧散するカマイタチを一箇所に凝縮して風の砲弾を形成させた。風靭を振り抜く動作に合わせて、その砲弾が力任せに振り落とされた。
 砲弾が地面に激突すると同時に轟音が響き渡り、生じた風圧が啓吾の体を吹き抜ける。その風圧の中でも微動だにせず、啓吾は風靭との同調率を一気に引き上げて停滞していた風の砲弾を瞬時に移動させる。啓吾の意志の下に風の砲弾は活動を再開し、地面を抉りながら疾った。翻される刃に従うように、風の砲弾は高速で移動し、その役目を果たしたときに霧散する。
 啓吾の目の前に造り出されたそれは、地面に深く刻まれた『風』の文字。
「ミステリーサークル完成」
 そんな馬鹿げたことをつぶやき、啓吾はもう一度だけ笑った。
 風靭と同調して風を操る訓練を行う場合、地面に何かの文字を書くのが一番効率が良いことを啓吾は知っていた。風を凝縮させた際に発生する抵抗は、予想以上に大きな反動となって主を襲う。昨日今日でその特性に気づいたセロヴァイヤーには到底扱えない代物である。その尋常ではない抵抗を捻じ伏せて初めて、風靭との完全なる同調を可能にさせるのだ。抵抗を無力化し、凝縮された風の砲弾で文字を書く。一線も間違わずに、完璧な文字を書けるようになれば、風を操ることなど呼吸するのと大差無い。啓吾の領域に達すれば、文字通りにセロヴァイトは体の一部と化す。
 四年のブランクは微塵も感じない。雷靭との同調率は、第十二期セロヴァイヤー戦の期間内と何ら変わりはなかった。いや、下手をすればそれ以上である。あの頃に体を支配していた感情がぶり返してくる。負ける気が、しない。それと同時に、楽し過ぎる。体の芯が冗談のように熱いのに、頭の中は驚くほど冷静に物事を見つめていた。昨夜から一睡もしてないのにその疲れさえも今は感じない。
 第十二期セロヴァイヤー戦以降、もうこんな高揚感は味わえないと思っていた。最高の非日常が終わりを告げ、身の周りの微かな変化に従って日常を生きてきた。大学を出て、一流と呼ばれる大企業にも就職を果たした。このまま日常を過ごせば、一生安泰で生活していけるだろう。しかし、違うのだ。どんなことをしていても、心の根本にはあの非日常が根付いている。満たされない欲求は、日常と共に日々そこにあった。戦いたい。何も考えず、かつての相棒と共に、もう一度戦いたい。ただの喧嘩ではないのだ。そんな陳腐なものではない。
 命を賭けた、己が純粋に最強を目指す死闘。日常で過ごしていては決して味わうことのできない、非日常。
 しかし、その非日常の幕が今再び、開いたのだ。
 右手に握られた風靭を見据える。会社帰りに突如として舞い戻ってきた相棒。空間が歪み、そこから這い出てきた向こう側の世界の住人。その戦闘を経て集う、戦友たちとの非日常の中での再会。紛れもない最強のセロヴァイトであった狭間の番人・焔。そして、まだ見ぬすべての元凶であるヨナミネ=S=ファイタル。感謝しよう、と啓吾は思う。こうしてまた風靭と戦う機会を与えてくれた糞野郎に感謝しようではないか。そして後悔しろ。戦闘を売る相手が悪いのだ。斬撃型セロヴァイト・風靭を持つセロヴァイヤー・神城啓吾に戦闘を売るという愚行を行った時点で、お前等が辿る結末はすでに見えている。敵と見なした者は、躊躇い無くぶっ倒してやる。手加減はしない。否、したくても、できるわけがない。
 こんな楽しいことを、全力で行わずしてどうしろというのだろうか。
 風靭を消す。緑の光の粒子が弾け、啓吾の手から一振りの刀がその姿を消滅させた。
 そろそろ時間である。啓吾に割り振られた八つの空間の内の一つに赴かなければならない。時刻は今現在早朝の五時二十七分である。ヨナミネの手下が空間から這い出てくる正確な時間はわからないが、六時にはそれぞれの場所に配置していよう、というのが先の会議で決まったことだった。焔が言うには、ヨナミネが手下を向かわせるのは朝か夜のどちらかであるらしい。それは一般人に見られて騒がれるのが厄介だ、という理由からではなく、単に夜から朝に掛けてが最も空間が繋がり易いからだそうだ。そしてその時間にも周期があるらしく、本日最もその予兆が激しいのが朝の六時から七時だという。焔が言うのだから間違い無いとは思うのだが、何だか釈然としないのは気のせいか。
 だがしかし、もはや細かいことはどうでもいいのである。後三十分足らずで最初の戦闘が始まる。たったそれだけで、本当の非日常の幕が上がるのだ。昂ぶる高揚感がどうしても抑え切れない。自然と表情が笑みを作ってしまう。実に楽しい。拳を握り締めながら地面に刻まれた『風』の文字を一瞥し、啓吾はゆっくりと歩き出し、
 突如として止まった。
 神経を研ぎ澄ます。朝霧のその向こうに、誰かがいる。頭の中のレーダーは反応しない。つまりはセロヴァイヤーでも向こう側の人間でもない。この時間のここで一般人に会うとは珍しい――、そんなことを啓吾は思った。適当に挨拶してやり過ごそうと口を開いた刹那、そこからはあふれたのは瞬時に用意した「おはようございます」という挨拶ではなく、予想外の言葉だった。
「――……彩菜」
 朝霧がゆっくりと晴れ渡ったそこから姿を現したのは、夏川彩菜だった。
 髪の毛を後ろで括り、ウエットスーツを着込んでいる。どうやらランニング途中だったらしい。彩菜は毎朝欠かさずにランニングをする、ということを啓吾は知っていたのだが、そのコースにここが入っていることは知らなかった。いや、以前彩菜の走るコースを聞いたことがあるのだが、そのときはもっと別の場所を走ると言っていたはずだ。そのときの記憶が脳裏を過ぎったのが原因で、一瞬だけ状況が飲み込めなかった。
 彩菜は啓吾をじっと見つめ、その一言を言う。
「……どうして、」
 何を言っているのかは、すぐにわかった。
「……どうして、啓吾がまた、セロヴァイト持ってるの……?」
 先の特訓を、彩菜に見られていたのだろう。
「何だか嫌な胸騒ぎがしてこっちに来てみたら、啓吾がいるし、それに……ねえ、どうして?」
 彩菜の瞳は真剣であり、その瞳をしたときの彩菜には下らない言い訳など通用しないということは、他の誰よりも啓吾は知っていた。仮にも四年付き合っている恋人である。大方のことは知っている。知っているからこそ、意味の無い言い訳は無駄なのだ。セロヴァイトを見られてしまった以上、事の成り行きを説明しなければならない。その後に発生する事態もすべて啓吾はわかっていたが、そうする以外に道は無かった。
 啓吾は、昨晩から起こった事の成り行きを掻い摘んで彩菜に話した。突如として風靭が戻って来たこと、向こう側の世界の住人をぶっ倒したこと、啓吾の他にも拓也や祐介や唯にまで同じ現象が起こっていたこと、焔が再びこの世界に舞い戻って紀紗と共にいること、これから向こう側の世界の住人を相手に戦闘を行わなければならないこと、それに負ければ世界が滅亡すること。そのようなことを手短に伝えた。それを黙って聞いていた彩菜だったが、啓吾が話し終わると同時に口を開き、開口一番に予想していた言葉を言ってのけた。
「わたしも啓吾と一緒に戦う」
 予想はしていたのだ。しかし、それとこれとは話が違う。
「断る」
 即答で言い放つその言葉に彩菜が食ってかかろうとするが、それを啓吾は制す。
「彩菜はセロヴァイトを持ってない。この戦いは、普通の人間が入って来ていいような戦闘じゃないんだ。セロヴァイヤー戦みたいに死んだら生き返れる、って話じゃない。下手をすれば本当に死ぬ。そんな戦いに、セロヴァイトを持たない彩菜を参戦させれる訳ないだろう。仮に参戦したとしても、セロヴァイトを持たない彩菜には何もできることなんて無いんだ。だから、これはおれたちセロヴァイヤーの戦いだ。彩菜には関わって欲しくない」
 それでもやはり、彩菜は諦めてくれなかった。
「関係ないよそんなの。わたしだってちゃんと戦える。啓吾はわたしに、一回でも剣道で勝ったことがある?」
 それは無い、とはっきりと言える。単純な力比べなら啓吾の方が上なのだが、剣道で彩菜と勝負して勝ったことなどただの一度も有りはしない。彩菜は都大会の優勝者である。高校のインターハイでも準優勝と言う恐るべき成績を叩き出した女子生徒なのだ。竹刀を持った彩菜に啓吾が勝てるとすれば、それは風靭を手にしたとき以外には有り得ない。通常の人間と比較した際の彩菜の強さは知っている。そして知っているからこそ、彩菜には関わって欲しくないのだ。
 これは、通常の人間同士がぶつかり合う喧嘩ではない。兵器と言っても過言ではない武器を試用しての、紛れも無い命を賭けた戦闘である。中途半端な力を持てば持つほど、そこに油断と隙が生まれる。それは即ち、命を落とすことに繋がるのだ。だから、彩菜には参戦して欲しくはない。それなのに、返事を返さない啓吾を肯定と取ったのか、「ちょっと待ってて、家に帰って準備してくるから」と言いながら彩菜は踵を返して走り出そうとする。
 啓吾はその手を無意識の内に掴み、彩菜が振り返るより早くに引き寄せて後ろから力一杯に抱き締めた。
 搾り出すようにつぶやく。
「……お願いだから、この戦いには関わらないでくれ。……頼む、彩菜」
 啓吾は、ただ心の中で思う。
 君にはわかるだろうか。君が剣道の試合で傷を負い、しかしそれでも嬉しそうに笑って結果報告をするとき、それを黙って聞いているおれが心の中で何を思っているのか。それを、君は知っているのだろうか。束縛はしたくない。ずっとそう思ってきた。彩菜には好きなことをやっていて欲しかったし、それで彩菜が笑っていてくれるのなら後悔はしないと思ってきた。だから本音を押し殺して、彩菜が望むことには無暗に干渉せず見守っていた。夏川彩菜という彼女が好きで。剣道をしている彩菜が好きで。試合が終ったら誰よりも先に自分に駆け寄って来て笑ってくれる彩菜の笑顔が何よりも好きで。その笑顔が見ていたかったから、彩菜には剣道を続けていて欲しいと思っていたのだ。
 しかしその中で、本当はおれが何を思っていたのかを、君は知っているのだろうか。笑う君の笑顔が何よりも嬉しくて、しかし同時に傷を負う君が悲しくて切なくて、そして愛おしいと思っていることを、君は気づいてくれているだろうか。本音を言ってしまえば、彩菜には傷ついて欲しくはないのだ。彩菜の真新しい傷を見る度に、それは彩菜が勝ち取った勲章なのだと思えるのと同じくらいに、どうしようもない激しい衝動を覚える。好きな人には傷ついて欲しくない。それは、当たり前の願いだと思う。
 だけど、束縛したくなかったから。剣道をして笑う君が好きだったから。だから、今までは何も言わなかった。でも、これだけは譲れない。この戦いだけは、彩菜にだけは関わって欲しくない。傷つく彩菜を見ているのは、もう耐え切れないのだ。束縛はしたくなかったが、こればっかりは彩菜の言う通りにはできない。彩菜には傷ついて欲しくない。その思いを、今だけは純粋に貫き通す。
 彩菜を抱き締める腕に力を込める。
「……彩菜には、傷ついて欲しくない。だから、さっきおれが話したことは全部忘れて。これは、おれの戦いなんだ。彩菜には関係無いんだ。頼むから、言うことを聞いて。セロヴァイトを持たない彩菜を危ない目に遭わす訳にはいかないんだ。だから、」
 抱き締める彩菜の肩が、僅かに震えていることに気づく。
 啓吾からその表情を窺うことはできないが、それでも漠然とわかった。
 彩菜は今、悔しさに塗り潰されているのだろう。もともと人一倍負けん気の強い子である。そして思う気持ちは、啓吾と同じなのだろう。
「……啓吾が、わたしを心配してくれてるっていうのはわかるよ。だって、わたしは啓吾の彼女だもん。ちゃんとわかってる、わかってるけどね…………悔しいんだ……。なんでわたしは戦っちゃいけないの……? どうして、啓吾の力になれないの……? ……唯ちゃんが羨ましいよ。水靭に選ばれて、祐介くんと一緒に戦える。わたしもそうなりたかった。啓吾と一緒に、戦いたかった……」
 震えが、少しだけ大きくなる。
「啓吾がわたしを心配してくれるようにね、わたしだって啓吾が心配なんだよ……。啓吾が戦うことを決めたのなら、もうしょうがないんだってこともわかる。けど、だけどね、だったらせめて、力になりたいの。わたしはセロヴァイヤーじゃないし、セロヴァイトも持ってない。でも、絶対に力になれるって自信はある。……お願い、啓吾」
 啓吾の腕に、彩菜の手がそっと触れる。
 彩菜は、ゆっくりと振り返った。
「――わたしも、戦わせて」
 彩菜の瞳は、先と何も変わらないような真剣な瞳をしていた。いや、下手をすれば先よりもその真剣味が増しているような気さえする。この瞳をした彩菜には、やはり下らない言い訳は通用しない。
 決めるべき道は、二つ。辿るべき道は、一つ。
 彩菜を押し留めて啓吾一人で向こう側の世界の住人と戦うか、彩菜と二人で向こう側の世界の住人と戦うか。その戦いの勝敗は、すでに決まっていると啓吾は思う。負ける気は、微塵もしない。ただ、負ける気はしないのだが、その戦闘の中で彩菜を守り通せるかと言えばそれはまた別問題であった。守り通せる自信は、ある。あるのだが、最悪の事態が脳裏を過ぎって離れない。何か一つでも歯車が狂えば、可能性はいとも簡単に崩れ去る。そして崩れ去ったそこに待つのは、最愛の人を失うという重い現実のみ。態々危険を犯してまで彩菜をこの戦いに参戦させるメリットが、果たしてあるのか。否。そんなものは、有りはしない。そんなことは百も承知、だというのに、どうして心は、こんなにも揺れているのだろう――。
 決めるべき道は、二つ。辿るべき道は、一つ。啓吾は、彩菜の瞳を見据えたまま大きなため息を一つだけつく。
「………………約束して、彩菜」
 自分は、過ちを犯したのだと思う。だけど、後悔だけはしたくないから。
 彩菜には、笑っていて欲しいから。
「絶対に、おれの側から離れないで」
 不安なら、守り通せばいいだけの話。言い訳は聞かない、弱音は受け付けない。
 彩菜が最も大切だと思うのなら、自分が命に代えてでも守り抜けばいい。不可能ではない、自信はある。歯車は絶対に狂わせはしない。狂いそうなら力任せに繋ぎ止めるまでだ。それが、今の自分になら可能であるはずだった。自分一人では無理かもしれない。しかし、一人ではない。この手に握り締める最強の相棒、斬撃型セロヴァイト・風靭がいる。風靭がいる限り、自らのすべてを犠牲にしてでも彩菜を守り抜こう。
 啓吾のその言葉に、彩菜は真っ直ぐに肯いた。その瞳が純粋だったことに、少しだけ驚く。
 そして、そんな彩菜がどうしようもないくらいに愛おしいと感じる。
 今一度、誓う。――おれが、君を守り抜く。
 彩菜を抱き締めながら、啓吾は一人、「何だか焔みたいだな」とつぶやいて笑った。

     ◎

 啓吾に任された空間の一つは、昨夜の宇宙人をぶっ倒した場所だった。
 住宅街から少しだけ離れた所にある半径百メートルも無いような小さな森。そこに生い茂っている木々は一見しただけでも様々な種類があり、何とも中途半端な所である。雑木林、と表現するのが一番手っ取り早いのかもしれない。その雑木林の中には一本の道が通っており、啓吾が家から会社に赴く際はここが近道となる。昨夜はちょうど、ここを歩いていたら風靭が現れ、森の中心部くらいの箇所から宇宙人が這い出てきたので倒した。その場所を思い出しながら、啓吾は道路を外れてその箇所にまで歩き出す。
 足を踏み締める度に落ち葉が鳴り、四方八方から聞こえるは朝の太陽によって目覚めたセミの声である。場所の問題なのか、ここは夏なのにも関わらず涼しかった。木々の葉の隙間から射す太陽の光がまるでスポットライトみたいに辺りを照らすのが実に綺麗で、そんな光景を見ているとこの空間の空気そのものが山の山頂のように澄んでいるような気さえする。
 昨夜に風靭で破壊したものは、元通りになってはいなかった。しかしそれは当たり前なのかもしれない。セロヴァイヤー戦のようなルールも無いのだから、ヨナミネたちが態々直す必要も無いのだろう。啓吾の眼前に広がるその風景は、大怪獣でも通ったかのような有様である。出鱈目に薙ぎ倒された木々、抉り取られた地面。幾らなんでもやり過ぎだったか、と啓吾は思う。昨夜は風靭がこの手にあることがどうしようもないくらいに嬉しくて、力加減など考えずに特性をフル活動させた。あの宇宙人たちは、下手をすれば死んでいるのではないかと今更になって気づいた。が、ぶっちゃけた話はどうでもいい。これから倒す敵のことなど心配しても無意味なのだ。
 吹き抜ける風をゆっくりと吸い込んだ刹那、背後から声が聞こえた。
「啓吾!」
 振り返ると、彩菜がこっちに向かって走って来ていた。
 準備してくるから、と彩菜は一旦家に戻った。しかしそれをその場で待っているだけの余裕は無く、取り敢えずは現地集合ということでこの場所を教えておいたのだ。走り寄って来る彩菜を平常心で見つめていられたのは、最初の三秒だけだった。その三秒を過ぎたときに、啓吾は気づいた。彩菜の手に握られている『何か』に。それは、どこからどう見たって、
「――これで、わたしも戦うから」
 そう言って『それ』を差し出す彩菜。
 その手に握られているのは、紛れも無い本物の日本刀である。
「……それ、どっから持ってきたの……?」という啓吾の質問に、「お父さんのを借りてきた」と銃刀法違反間違い無しの代物をその手に持って、彩菜は満面の笑みで笑った。その返答を聞いて、啓吾は一人で納得した。
 彩菜の家は、古くからなる剣道道場を開いている。生まれた頃から彩菜は竹刀を握り、今ではそこの師範代だ。そしてその彩菜を持ってしても辿り着けない高みにいる存在、それが夏川剣(つるぎ)。世界最強の剣道家と言っても過言ではない彩菜の父親である。啓吾は何度か剣と会ったことがあるのだが、あの威圧感は相当なものである。風靭を駆使して勝負を挑んでも勝てるかどうかまったくわからない。人を前にして何を言えなくなる、という感覚を初めて啓吾に叩き込んだ焔同様の化け物だ。もしかしたら剣には核爆弾さえ通じないのかもしれない。
 そしてそんな化け物だからこそ、法律クソ食らえで日本刀を所持していてもおかしくないのである。……いや、曲がったことが大嫌いな剣のことだ。ちゃんとした証明書や許可書を用意した上で、日本刀を懐に置いているのだろう。しかし、それを彩菜が持ち出すのはやはり犯罪に繋がるのだが、今はもう何も言うまい。その日本刀の御かげで、彩菜は啓吾と共に戦えるようになるのだから。真剣を持った彩菜には、向こう側の世界の住人でも楽に勝てはしないだろう。そんな自信が、啓吾の胸の中で沸々と湧き上がる。
 そのとき、時刻は、六時十五分を指していた。
 啓吾と彩菜を包み込む空間が突如として歪み、漆黒の闇がその口を開く。そこから一挙にあふれ出した緑の光の粒子に紛れ込むようにして、防護服を身に纏ったヨナミネの手下である特殊兵が這い出てくる。その特殊兵が手にしているものは、歪な形をした刀とライフルだった。虫のように次々と這い出てくる特殊兵の一人一人が、それぞれの武器を手に啓吾と彩菜をゆっくりと囲んでいく。
 頭の中のレーダーを活用させ、啓吾はその数を瞬時に割り出す。合計で、十七人。それじゃ少な過ぎる、と啓吾はため息を吐き出した。雑魚が何十人束になった所で、啓吾と、そして彩菜には勝てはしない。だが今更に完成セロヴァイト部隊と戦いたかった、と悔やんでも仕方の無いことである。まずは、目の前の敵をぶっ倒す。次は、それから考えればいいだけの話である。
 手を前に突き出し、啓吾はその真名を呼ぶ。
「――風靭」
 緑の光の粒子が啓吾の手からあふれ、一振りの刀を具現化させる。姿を現した風靭を握り締め、刃を翻して風を集わせる。焔がこの世界にいる限りは、具現化させる際に真名を呼ぶ必要は無いのだが、やはりセロヴァイトを持って戦う場合には真名を呼ばなければ何も始まらないと啓吾は思う。そして風靭もまた、それを望んでいるのだ。
 啓吾が風靭を構えると同時に、彩菜が真剣を鞘から引き抜いた。太陽の光に照らされ輝くそれは、実に綺麗な刀身である。背中を合わせるように構えを取る彩菜へ意識を向け、啓吾は風靭の特性を発動。発生したカマイタチが瞬時に動き出し、彩菜の体を纏う楯と化す。そのことに気づいた彩菜が「ありがとう」と一言だけつぶやき、啓吾が「どう致しまして」と笑い返す。昨夜もそうだったが、風靭が起こすカマイタチの前には刀もライフルも通用しなかった。これで彩菜が傷を負うことはまず無いだろう。気兼ね無く、存分に戦おうではないか。
 徐々に距離を詰め始めた特殊兵を視界に収めたまま、啓吾は言う。
「……彩菜」
「……うん」
「やりますか」
「うん」
 彩菜と同時に地面を蹴り、一番近くにいた特殊兵へと啓吾が風靭を振り抜く。風靭の刃を歪な形の刀で防いだ特殊兵が反撃に転じようと力を込めるが、その動作が行われたときにはすでに、風が獲物を仕留めるべく動き出していた。啓吾の背後から吹き荒れる風が特殊兵を吹き抜けた刹那、防護服をズタズタに切り裂いて内部を徹底的に破壊する。真っ赤な鮮血が上がるが、そんなに深くは切れていないはずだ。死にはしないだろうが、死んでも知ったことではない。死んだらはいそれまで、ご愁傷様、だ。
 その場に膝から落ちる特殊兵を蹴り飛ばし、次の敵へと啓吾が視線を移した際に、真横から撃ち出されたライフルの弾丸に気づく。が、弾丸は啓吾に到達するより早くに消滅させられ、逆に風の弾丸がライフルを狙う。銃口から突き刺さった風の弾丸はライフルの中で炸裂し、弾薬の暴発を促す。発砲音が束になって響き渡り、ライフルが弾けると同時に特殊兵の腕がおかしな方向へと捻じ曲がる。最後の最後まで、啓吾はその特殊兵には視線を向けなかった。向ける必要すらなかった。風がすべてを教えてくれる。誰がどこにいるのか、何をしようとしているのか。それが、手に取るようにわかる。
 だから、背後から振り抜かれた三線の刃と、真正面から発砲された二発の銃弾も、簡単に察知できた。前方にカマイタチの楯を生み出し、銃弾を消滅させながら風靭で三線の刃を受け止める。カマイタチに意志を送って突っ込ませて前方の二人の特殊兵の防護服を切り刻み、視界に捉えた特殊兵へ真上から風の砲弾を落下させる。目の前の三人が重力に圧し潰されるように一瞬で地面に這い蹲り、骨の砕ける音が盛大に響き渡った。しかしそれでも、啓吾は顔色一つ変えない。次なる獲物を風を頼りに探し出そうと、
 風靭の感覚が伝えてくれた。真横を振り返ったそこに、日本刀を弾いて一人の特殊兵を薙ぎ倒す彩菜を見た。同時に、その背中に向かって撃ち出される弾丸の発砲音が聞こえた。空間を突き抜けて無防備なその背中に弾丸が直撃するか否かの瞬間、彩菜の体を纏っていたカマイタチが啓吾の意志の下に牙を剥く。それは弾丸を木っ端微塵に砕いて吹き荒れ、彩菜を狙った特殊兵を食らい尽す。彩菜を纏っていたすべてのカマイタチを一時的に弾き飛ばし、彩菜へと狙いを定めていた特殊兵を片っ端からぶっ倒した。
 それに気づいた彩菜が、唐突に啓吾を振り返って実に不満そうな瞳を見せる。その瞳は正確に、「邪魔しないでよせっかくいいところなのに」と訴えていた。一瞬だけ呆気に取られつつも、彩菜も彩菜で風靭と同じくらいの暴れ馬だと思って啓吾は苦笑する。そしてその苦笑が啓吾の隙とでも勘違いしたのか、間近にいた特殊兵が刀を振り上げた。啓吾はやはり、そちらを見ようともしなかった。ただ、馬鹿にするなとばかりに風を操ってその特殊兵を切り裂き、真後ろに弾き飛ばす。
 辺りを一度だけぐるりと見渡し、いつの間にか彩菜の姿が消えていることに気づくが、彩菜は彩菜で自分のやるべきことを見つけたのだろうと納得し、啓吾は風靭の刃を地面に突き立てる。彩菜がこの場にいないのなら、これで終わりである。注意することも遠慮することも無い。手加減無くやらせてもらおうではないか。残る特殊兵は八人。その一人一人の反応を感じ取りながら、啓吾は笑う。食らえ糞野郎共。
 突き刺さった刃を中心に、放射線状に圧倒的な威力を持つカマイタチが吹き抜ける。それは地面を抉りながら周りにいた特殊兵を一挙に一掃し、舞い上がった上空で一箇所に凝縮された刹那に炸裂する。風の雨、とでも表現すればいいのだろうか。それまでに啓吾と彩菜が倒した特殊兵の真上から、無数の風の飛礫が降り注ぐ。激しい雨のように、しかし雨などとは比べ物にならない威力で視界に見えるすべてのものを破壊し尽くし、砂煙が流された頃になってようやく、完全な静寂が戻ってくる。十七人の特殊兵が動くことすらできずに倒れる光景を見据えながら、啓吾は風靭の刃を地面から引き抜く。実に呆気無かった、と啓吾は風靭との同調を停止させた。
 それが、決定的な油断に繋がる。
 その背中をスコープ越しに捕らえる一人の特殊兵の存在に、啓吾はついに気づけなかった。雑木林の一番端の茂みにうつ伏せになった状態で狙撃銃を構える特殊兵。手にしているのは、先まで啓吾が戦っていた相手が持っていた普通の銃器などではない。その手に持つは試作品ではない、意志を伴わない完成セロヴァイトである。それは、かつて啓吾の風靭を打ち破ったセロヴァイト、射撃型セロヴァイト・軌瀞砲だ。そのスコープ越しに、啓吾の背中がはっきりと捕らえられている。特殊兵は啓吾の油断を的確に見抜き、トリガーを押し込もうと、
 その首筋に、冷たい刃が光る。一言だけだった。
「――動いたら、殺すよ」
 一瞬だけ特殊兵の動きが硬直した隙を、彩菜は見逃さない。真上からうつ伏せになった首筋を踏み倒し、一撃で気絶させる。
 啓吾がその事実に気づいたのは、まさにその瞬間だった。かなりの距離を隔て、啓吾と彩菜の視線が噛み合う。そして彩菜は、どうだこれでわたしも戦えるってことがわっかだろう感謝し給えとでも言いた気ににっこりと笑った。その笑みを見たら、啓吾も笑うしかなかった。セロヴァイトを持たない彩菜には何もできることなんて無いんだ、だって? とんでもない。それは啓吾の致命的な失言だった。彩菜はその真剣一つで、十分に戦える。
 啓吾と彩菜の間を、一陣の風が吹き抜けた。
 そして、それが第二陣の合図だった。
 漆黒の口から再び緑の光の粒子があふれ出し、そこから先にも増して大量の特殊兵が這い出てくる。頭の中のレーダーが次々とその影をトレースして、瞬時に人数を割り出した。今度の数は、合計で三十人。その全員が、まるで彩菜などいないかのように啓吾だけを視野に入れて動き出す。特殊兵もわかっているのだろう。彩菜を倒すにも何にしても、まずは風靭のセロヴァイヤーを始末しなければならないということを。その判断は正しい、と啓吾は思う。辺りを見渡す啓吾を中心に、周りを円状に囲う特殊兵が一斉に自らの武器を打ち鳴らした。
 啓吾が、実に、実に楽しそうに笑う。――そうこなくっちゃ、面白くない。
 啓吾を包囲する特殊兵が持つ武器は、刀でもライフルでもなかった。特殊兵一人一人の腕に装着されるは二体一対の鉄甲。これもまた、完成セロヴァイトの一つだ。特殊兵が持つセロヴァイトは、打撃型セロヴァイト・孤徹。この三十人は、言うなれば孤徹部隊だろう。よりにもよって拓也の相棒である孤徹が相手とは、まさに最高としか言いようが無い。これを笑わずして、どうしろというのだろうか。
 こっちに走り出そうとしていた彩菜へ声を張り上げる。
「彩菜! おれはだいじょうぶだからそこにいてくれ!」
 不安そうな表情を浮かべる彩菜だったが、啓吾の笑顔を見て安心したのか、その場に立ち止まってそっと肯く。それを確認してから、啓吾は一度だけ深呼吸。昂ぶる高揚感を必死に押さえ込み、平静を装う。
 さて、と啓吾は風靭を構え直す、
「どうやら、お前等のボスのヨナミネって奴は随分と馬鹿らしいな」
 啓吾を中心として、風が舞い踊る、
「……――このおれが、最大の戦友のセロヴァイトに対して、秘策を考えてない訳ないだろう」
 もはや実行できる機会など無いと思っていた。しかし、その機会が今、ここにある。
 最大の戦友に送る、最大の秘策。対拓也専用に考えた風靭の最強攻撃体勢。
 こんな雑魚では拓也と孤徹に対しての練習台にもならないが、無いよりかはマシであろう。存分に実験台になってもらおうではないか。拓也の孤徹が試作品? 馬鹿にするな。試作品は、お前等の方だ。
 啓吾は風靭との同調を開始し、その倍率を一気に極限まで引き上げる。刃に風が凝縮され、辺りを覆う空間がすべて啓吾の体の一部と化す。吹き抜ける風が、孤徹部隊個々の心拍音さえも正確に伝えてくれる。目を閉じても見える光景は何も変わらない。
 風が存在するすべての空間が、もはや啓吾の支配下である。
 風靭の刃が翻り、啓吾が盛大に笑う。

 ――風が、吹き荒れる。





     「祐介と唯と水靭と」



 真っ白な空間。どこまでも続く、何も無い場所。いつか訪れた、あの漆黒を思い出す光景。
 そんな場所に、祐介は一人、佇んでいる。いつからそこにいるのかはわからず、どうしてここにいるのかもわからない。見渡す光景三百六十度上下さえも真っ白で、どっちが天でどっちが地かさえも理解不能であり、少しでも気を緩めればこの空白に飲み込まれるのではないかと不安になる。そしてその不安が一瞬の内に膨れ上がり、唐突に恐怖へと変化させた。ここはどこなのだろう――、この空間に放り出されて初めて、そう思う。
 取り敢えず出口でも探してみようか。昆虫のような本能が頭の隅から滲み出し、祐介はぼんやりと歩き出す。しかし足は動いてはいるものの、光景が何も変わらないので自分が進んでいるのかどうかがイマイチよくわからない。人が歩いたと実感できるのは、景色が変わるからだ。目の前にあったはずのものが後ろに流れているからこそ、人は歩いているのだということを実感できる。だけどこの空間には何も無い。つまりは、歩いているという実感を感じることができない。その場で足踏みだけをしているような気がする。誰も居ない、何も無い、真っ白な空間が本当に恐ろしくなった。燻っていた恐怖が一挙に暴発し、祐介は走り出そうと、
 空白に、緑の光の粒子があふれ出す。足を止めて祐介が凝視するそこに、緑の光の粒子はその姿を形勢し始める。真っ白な空間の中、粒子が弾けた瞬間に現れたそれは、宙に浮いているように静止する一振りの刀。それがなんであるのかを、祐介はこの世の誰よりも知っている。かつて共に戦った、最強の相棒。第十三期セロヴァイヤー戦優勝者・源川祐介のセロヴァイトである、斬撃型セロヴァイト・雷靭。
 体を支配していた恐怖は、いつの間にか消えていた。ゆっくりと手を伸ばし、その柄を無意識の内に掴もうとした刹那、
 ――ッハァ! 戦闘が始まるのだな、我が主よ?
 頭の中に直接響くかのような声。偶然の連鎖により発生したバグから生まれた自我。本当の、斬撃型セロヴァイト・雷靭の明確な意志。
 消去されたのだとばかり思っていた。雷靭の力は借りられず、自らの力だけで戦わねばならないのだと思っていた。しかし、相棒は今再び、ここに舞い戻ってきた。戦える。圧倒的な力をここに、自分はまた、相棒と共に戦える。それがただ嬉しくて、心底安心した。この喜びをどう伝えようか。雷靭と話しがしたかった。この一年間に何があったのか、そしてこれから自分たちが何と戦わなければならないのか。いろんなことを話したい。話したいのだが、なぜか声が出せない。頭の中で何かを思っても、それが言葉として雷靭に伝わることはついに無かった。
 雷靭は言う。
 ――戦闘が始まるというのに、なぜ貴様は情けない顔をしている?
 その意味が、わからなかった。
 ――……まさか貴様は、怖気づいているのではあるまいな? このおれがいなければ、貴様一人では何もできないとでも言うのではあるまいな? あのときのように、このおれを失望させるなよ我が主。戦闘が始まる。それに何の不満があるというのだ。喜べ、楽しめ、歓喜に染まって立ち上がれ。このおれの主ならば、戦い抜いてみせろ。水靭のセロヴァイヤーを守りたいと言ったのは、他の誰でもない貴様のはずだ。敵は、容赦無く切り伏せろ。貴様にはそれができる。貴様は強い。違うか、源川祐介?
 どくん、といつかのように心臓が鼓動を打つ。
 またなのか。祐介は思う。また自分は、人に頼ろうとしているのか。唯を守ると言ったのは他の誰でもない、この自分である。だったら人の力は借りずに、自らの力だけで守り抜け。それが「守る」という台詞を吐いた自分の役目だ。誰かと共に守るのではなく、自分一人だけの力で戦い、そして守る。唯が好きだ、だから、守るのだ。雷靭がいないからできない、とは言わせない。腰抜けで勇気も度胸も無かった過去の自分はもういない。ここにいるのは、第十三期セロヴァイヤー戦優勝者であり、そして世界の滅亡を賭けた死闘に参戦する決意をした源川祐介である。
 情けない顔は、もう二度としない。雷靭を対等な存在だと思うからこそ、自分一人で戦おう。
 祐介は笑う。そしてまた、雷靭も笑った。
 ――そうだ。それでこそ我が主。
 ありがとう、雷靭。
 そう思ったのだが、その思いが雷靭に伝わったかどうかはわからない。しかしその言葉が、引き金となった。空白の空間が突如として漆黒に飲み込まれ、一振りの刀が緑の光の粒子に包まれて消える。何もかも消滅するその瞬間に、雷靭の声を聞いたように思う。それが何という言葉だったのかはわからないが、どこか心を押されるような言葉だったような気がする。
 足場が消え失せた。一瞬の浮遊感を味わった後、目を開けた刹那に飛び込んできた光景は、見慣れた天井だった。
 閉ざされたカーテンから微かに漏れる明かりは朝日であり、静寂に包まれた部屋に聞こえるのは祐介の呼吸音と、それから、唯の寝息だった。先ほどまで見ていた夢の光景がよく思い出せず、数秒間だけ悩む。何か、ものすごく大切な夢だったような気がするのだが、思い出せないならそうじゃないのかもしれない。よくわからない思考の狭間を漂ってから、祐介はソファから身を起こす。
 弱々しい朝日が照らす室内の端、ベットの上で唯は眠りに就いている。昨夜、拓也の家から帰るときに唯に言われたのだ。一度家に帰るより、祐介の家から行く方が早いしそっちの方が便利だ、と。一応、祐介の両親も唯の両親も交際のことは知っているのだが、さすがに人様の娘を家に泊めるなどということはそんなに簡単に納得などしてくれるはずもなく、唯が今日ここで寝ていることは祐介以外誰も知らない。唯からは家に「友達の家に泊まる」という伝言を伝えたし、向こうも祐介の家に泊まっているとは思いもしないだろう。バレたらえらいことだが、バレなければ無罪である。
 ソファに座ったまま首を動かし、部屋の壁に掛けられた時計に視線を移す。今現在、時刻は朝の五時十三分を指していた。ここから目的地までは十分もあれば辿り着ける。が、予定時刻よりかは少し先に着いていた方がいいと思う。ベットの隣にある目覚まし時計は五時十五分にセットしてあるのだが、それより少しだけ早くに唯を起こしても問題はないだろう。いつもは寝過ごす祐介に起こされれば、唯は驚くと思う。そんな光景がなぜか可笑しくて、本当に起こしてやろうと祐介はソファから立ち上がる。
 ベットで眠る唯の寝顔は、素直に綺麗だと思う。紀紗の可愛いとはまた違う、綺麗な女の子。
 祐介は手を伸ばし、唯の頬にそっと触れる。そこから伝わる、確かなぬくもり。それがどうしようもないくらいに温かくて、そして同時にどうしようもないくらいに愛おしい。年上の綺麗な大切な彼女、佐倉唯。彼女を守り抜こう、とこれまで何度思ったことだろう。しかし今一度だけ、強く、強く誓う。このぬくもりを、絶やさせはしない。自分のどんなものを犠牲にしても、唯だけを守ろう。それが、彼氏である自分の役目だと祐介は思う。
 唯の肩を軽く揺する。しばらくすると閉じられた目がゆっくりと開けられ、透き通るような瞳が祐介の姿を映す。一瞬だけぼんやりと辺りを見回してから、ようやく状況を掴んだのか、唯は祐介を見上げて笑う。
「……おはようございます、祐介さん」
 笑い返す、
「おはよう、唯さん」
 刹那に鳴った目覚まし時計の息の根を止め、唯がその文字盤を見据えて「時間ですね」とつぶやく。
 ベットから身を起こしながら、
「祐介さんがこんなに早起きなんて、珍しいです」
 そう言って悪戯に微笑む唯から僅かに視線を外し、祐介は頭を掻く。
「なんでか目が覚めちゃってさ」
 立ち上がった唯と並ぶように歩き出し、部屋のドアを開けて廊下の様子を窺う。
 朝の静寂に包まれた家の中は、物音一つ聞こえなかった。両親が起床し始めるのは六時過ぎだろう。それまでにはこの家を出ていなければいろいろと面倒なことになり兼ねない。取り敢えずは顔を洗ってから出掛けよう。これから世界の滅亡を賭けての勝負をするというのに呑気な思考だが、眠気が尾を引いていては満足に戦えないかもしれないのだ。それでは幾ら何でも間抜けである。
 足音を最小限に抑えて廊下を横切って階段を下り、洗面所に向かう。唯が先に顔を洗っている間、祐介は両親が起きてこないかをずっと監視している。涙ぐましい行動だ。別に疚しいことなど何もないのだから堂々としていればいいだけの話であるのだが、そんなことができるほど祐介の人間性は大きくない。自分が情けない性格の持ち主だということは、自分自身が一番よく知っている。
 唯が顔を洗い終わったら今度は祐介が手早く顔を洗い、鏡を見ながら馬鹿みたいにひん曲がった寝癖をどうにかできないかと死闘を繰り広げたが、結局どうしようもなかった。寝癖を唯に摘まれて笑われてしまったが、今更のことなので気にしないことにする。
「朝御飯どうする?」
「終ってから食べた方がいいんじゃないですか? 食べ過ぎて気持ち悪くなったら駄目ですし」
「そうだね。じゃ、終ってから何か食べに行こう」
「はい」
 玄関にある下駄箱の奥底から、昨夜隠した唯の靴を引っ張り出す。それを履いて先に外に出る唯を追う形で、祐介のスニーカーに足を突っ込んでドアを抜けた。無駄な音が出ないようにそっとドアを閉め、朝靄の中を唯と二人で駐輪場へと歩き出す。自転車の鍵を外してサドルに跨り、道路に出た所で後ろに唯を乗せる。いつものように肩に唯の手が添えられたことを確認しながら、祐介はペダルを漕ぐ。
 誰もいない、朝の静寂に支配された世界を二人乗りの自転車は進む。これから戦いに赴くというのに、不思議と緊張はしなかった。心の奥底に根付くは、言い表せない力強さである。最初は不安ばかりだった。だけど、いつしか心地良くなっていたこの感覚。絶対に勝てる、とは言い切れないが、負ける気は微塵もしない。唯と二人でなら、どこまで羽ばたいて行けるような気がする。この世の誰も、二人の敵ではないと本気で思う。
 車輪とブレーキの音が響き渡る。坂をブレーキを掛けながら下ると、それまで無かったはずの風が祐介の体を吹き抜けた。夏の風も朝ともなれば少しだけ肌寒い。しかしなぜか火照っている体には、それがどこか気持ち良い。何の迷いも無く、この戦いに参戦することを選んだ拓也や啓吾も、こんな感じだったのかもしれない。啓吾が言っていた高揚感。その感じが、何となくわかったような気がした。
 祐介と唯に任された、八つの空間の内の一つ。それは昨夜と同じ、デートの締めには必ず訪れるあの公園だった。
 十分ほどの道のりを経て辿り着いたそこには、綺麗な朝焼けが広がっていた。自転車を公園の外の道路に止め、二人でゆっくりと歩んで行く。その光景は、昨夜よりかは少しだけ変わってしまっていた。真っ二つにされたベンチはそのまま放置されていて、唯が切断した水道の鉄パイプは応急処置みたいに青いテープがぐるぐる巻きにされている。水道に近寄って蛇口を捻ってみるが水は出なかった。水道そのものが止められているのだろう。業者の人に少しだけ申し訳ないと思うのだが、もう一度だけ面倒事を押し付けますと先に詫びておく。
 いつもと違うベンチに祐介と唯は並んで腰を下ろし、公園の時計で時刻を確認する。六時五分前。六時にはそれぞれの場所にいよう、ということを昨日決めた。今頃、他の人たちはどうしているのだろうか。拓也、啓吾、そして紀紗に焔。皆もすでに自らに任された場所にいるのか、それとももう戦っているのか。昂ぶる高揚感に紛れて、僅かな恐怖が体の隅に湧き上がる。
 そんな祐介の感情を読み取ったかのように、唯が唐突に手を握った。
 驚いて横を振り返ると、唯はいつものように笑う。
「寒いですね」
 呆気に取られたのは一瞬だけだった、
「――……寒いな」
 唯の手を握り返す。唯から伝わるぬくもりは、相変わらず温かいままだった。
 昇り始めた太陽が、朝焼けをゆっくりと取り除いていく。そんなこの世のものとは思えないほど綺麗な光景が、夜とはまた違うこの公園の美しさを十二分に表す。どこからか目覚めたばかりのセミの声が聞こえる。夏の朝は本当に気持ち良い。それは朝焼けが綺麗だからなのか、セミの声が聞こえるからなのか、それとも隣に唯がいるからなのか。たぶん全部なのだろう。この時が、いつまでも続けばいいと思う。こんな時間が永遠に続けば、どれだけ幸せだろうか。
 唯の手に、ほんの少しだけ力が篭る。
「……恐いの?」
 そう訊いてみると、唯は照れくさそうに、
「……少しだけ、恐いです」
 目の前の朝焼けを見据えながら、唯は言う。
「わたしたちが負けちゃったら、世界が滅亡するっていうのがまだ信じられないないんです。……ううん、信じたくないのかもしれません。でもやっぱり、それは本当のことで、わたしたちは負けちゃならなくて。負けちゃったら、この目の前の光景がみんな壊れてしまう。それが今は、……すごく、恐いです」
 恐怖は誰の胸の中にもある。
 唯は強い女の子のようだけど、その実は弱い女の子である。争いを嫌い、ただ笑って過ごしたい。そんな誰でも望むような日常を追い求めていた一人の女の子。恐いと思うのは、祐介だけではないのだ。いや、もしかしたら祐介以上の恐怖を唯は持っているのかもしれない。それでも唯は祐介を励ますような仕草をする。そんな唯を見つめて、祐介はどうしようもない気持ちになる。自分が情けなさ過ぎて乾いた笑いが漏れた。自分はいつまで、こんなに弱いままの殻を纏っているのか。そんなもの、早くぶち破ってしまえ。
 すべては、隣で笑う唯のため。最愛の彼女のために、すべてを賭けて笑ってみせろ。
「唯さん、」
 振り向く唯に軽い口付けを交わし、祐介は笑ってみせる。
「だいじょうぶ、おれたちは負けない。拓也さんや啓吾さんが負ける訳ないし、それに、おれと唯さんも絶対に負けない。心配しないで。恐がらないで。もし何かあったら、おれが絶対に唯さんを守るから」
 普段の自分ならこんなことは絶対に口に出して言えないよな、と心のどこかで思う。
「世界を滅ぼさせたりなんてしない。唯さんがいるこの場所が、無くなっていいはずなんてないんだ。絶対に、おれが守るよ。だから、恐がらないで、唯さん」
 唯に向かって微笑んでみせる。それが今、自分にできる精一杯のことだった。
 僅かに頬を赤くしながら唯は少しだけ俯く。しかしやがて祐介の手をさらに強く握り締めて顔を上げ、嬉しそうに「うん」と肯いて笑った。
 ――その瞬間に、時刻は六時十五分を指す。
 公園の朝焼けがぐにゃりと歪み、昨日と同じように漆黒の闇がその口を開く。そこからあふれ出す緑の光の粒子に紛れて、ヨナミネの手下の特殊兵が大量に這い出てくる。防護服に身を包んだ特殊兵たちは、祐介と唯の姿を視界に捉えると同時にゆっくりとベンチを包囲するように広がっていく。祐介と唯の頭の中に存在するレーダーが特殊兵の影をトレースし、瞬時に数を割り出す。合計で、十五人。昨日と比べれば数人だけ多いが、特殊兵の持っている武器は昨日と同じ刀と、そしてライフルのような銃器。問題は無いはずだった。
 互いに肯き合い、繋いでいた手を離して立ち上がる。祐介が右手を前に突き出すのと唯が走り出すのは同時で、呼ばなくてもいいはずのその真名を呼ぶのもまた、同時だった。
「――雷靭」「――水靭」
 緑の光の粒子があふれ出し、祐介の手に雷靭が、唯の手に水靭が握られる。
 祐介が空間を切り裂いて雷靭を振り抜き、真っ直ぐに特殊兵を見据えた。唯は水道の所まで走り寄り、昨夜とは違う場所の鉄パイプを躊躇い無く水靭の刃で切断する。鈍い音と束になって水が噴水のように噴出し、頭上から降り注ぐ水を肌で感じて、唯は水靭との同調を開始した。唯の意志が水靭に流れ込むのに比例して、水靭の意志が唯に流れ込む。宙を落下していた水がその動きを止め、重力を無視して浮上しながら唯の意志に統括されて活動を開始する。
 そんな光景を視界に収めながら、祐介もまた、雷靭との同調を開始した。しかしそれは、簡単なことではなかった。昨夜同様に、雷靭との同調を開始すると何かの作用により強制的に遮断されてしまう。だがそれでも、祐介は諦めない。抵抗を示す作用を押し退け、雷靭の意志の根本に自らの意志を捻じ込む。刹那に雷の鼓動が祐介の体を包み込み、頭の中にとんでもないノイズが吹き荒れた。思わず顔を顰めながらも、力任せにノイズを抑える。ノイズが完全に消えたとき、雷靭の刃には少量の雷が渦巻いていた。奥底に眠る雷はこんなものではないはずだが、今はそれでも仕方が無い。
 それに今は、これでも十分に、――戦える。
 雷の宿る雷靭を握る祐介の周りに五人、水の柱を幾本も造り出した唯の周りに十人の特殊兵がそれぞれの構えを取る。やはり不完全な同調しかできない祐介より、完全な同調を可能にしている唯を敵が狙うのは当たり前なのかもしれない。だがこの特殊兵が何人相手になろうとも問題は無いはずだった。こんな雑魚が相手なら、祐介は負けはしないし、何より唯も負けるはずがなかった。
 距離を隔て、祐介と唯が同じ動作で刀を振るう。その切っ先が振り抜かれた瞬間が、始まるの合図だ。
 祐介の目の前にいた特殊兵が真っ向から突っ込んで来る。突き出された刀を雷靭で弾き返し、その一瞬に内に雷を撃ち出す。生き物のように動き出した雷は刹那に特殊兵に纏わりつき、咆哮を上げながら一気に獲物を飲み込んだ。煙の上がる特殊兵が膝から倒れ込んだとき、背後から銃声が聞こえる。振り返って視界に入ったのは、空を切り裂いて迫る銃弾だった。セロヴァイヤーの身体能力向上が無ければ一秒にも満たないその光景が、しかし祐介にははっきりと見える。
 銃弾の軌道に雷靭の刃を乗せ、振り抜き様に真っ二つに切断する。左右に通り過ぎる銃弾を視界から追いやり、祐介は地面を蹴りながら標準を再び祐介に合わせようとしていた特殊兵に詰め寄り、力任せに蹴り倒す。マジックミラーのようなヘルメットを問答無用に踏み砕き、動かなくなったことを確認するより早く、背後から振り下ろされた刃を間一髪で受け止めた。その瞬間を狙って撃ち出された銃弾に気づき、雷で目の前の特殊兵を飲み込むと同時に銃弾を刃で切断。
 体勢を整えたらすぐに地面を弾いて飛び上がり、真上からライフルを構え直していた特殊兵を押し潰す。骨の折れるような音が響いたが気にも止めない。残りの敵は一人。そちらを振り返った祐介と、その特殊兵の視線が噛み合ったような気がする。刹那の間を置いて走り出す特殊兵を真っ向から見据え、その手にある歪な形の刃だけを視界に捕らえ続ける。空を切って振り抜かれたそれを雷靭で受け止め、刃に渦巻く雷に意識を飛ばして弾き出す。接触している刃を通して雷は特殊兵へと伝わり、その体を食らい尽くした。閃光が走ったと思ったときにはすでに、特殊兵に意識は無く、ゆっくりと背後へと倒れて行く。
 そしてその向こうに、唯と四人の特殊兵を見た。
 唯の周りを覆うは水の障壁であり、その壁の前には刀も銃弾さえも通用しないのは一目瞭然で、唯がまた倒していない残りの四人は攻め倦んでいるような印象を受ける。水の楯を通して、唯と視線が合う。肯く唯を見つめていたのは一瞬だけだった。雷靭を握り直しながら、祐介は地面を蹴って加速する。それと同時に水の障壁がその形を崩し、特殊兵の真上に広がった。それを見上げた特殊兵の隙を、祐介は見逃さない。ライフルを持った特殊兵が祐介に気づいたときにはもう遅い。
 雷靭の刃がライフルを真っ二つに分離させ、雷が火薬に引火して暴発する。その衝撃で吹き飛ぶ特殊兵に他の特殊兵が気づいて視線を向けるが、それがまたしても命取りとなるのだ。特殊兵の頭上に展開していた水が突如として落下し、強度を増しながら獲物を一気に圧し潰した。水が弾ける音と共に、骨の砕ける音が聞こえたような気がする。
 辺りを満たしていた水が、唯の意志の下にゆっくりと消え失せていく。その下から現れたのは身動き一つしなくなった四人の特殊兵。勝負はここで決していた。この公園の敷地内で立っているのは、祐介と唯しかいない。三十秒にも満たない極短い時間で、第一陣との勝負は終わりを告げた。セロヴァイトを持たない特殊兵との戦闘など、セロヴァイトを持つ祐介たちには無に等しい。雑魚が強者に勝てるはずもないのだ。
 そして、第二陣は雑魚ではなく、対等な敵だった。
 漆黒の口が蠢き、緑の光の粒子があふれ出す。そこから這い出てくるは先にも増して大量の特殊兵であり、その個々が持つは同一の武器。見たままを言い表すなら、それはシルバーに塗装された巨大なバズーカである。横っ面から突き出ている赤い硝子で造られたスコープは、祐介と唯の姿を確実に捕らえていた。そのセロヴァイトを、祐介は知っている。かつて戦ったことのある相手だ。射撃型セロヴァイト三種の内の一つ、射撃型セロヴァイト・戯丸砲。試作品とは違う、意志を持たない完成セロヴァイトである。
 第二陣は、戯丸砲部隊。戯丸砲部隊の構成人数は、合計で二十八人。数も戦力も含めて、先の戦いのように楽に勝てる相手ではなかった。祐介と唯を囲むように展開する特殊兵たちが一斉に戯丸砲を構えてスコープ越しに標的を見据える。トリガーに指が添えられ、巨大な砲口が一瞬の後に砲弾を弾き出せる状態で固定された。
 張り詰める緊迫感がゆっくりと漂い、その中で祐介は雷靭を握り直す。
「戦おう」
 唯は肯く、
「はい」
 雷靭の刃から雷が迸った。それと同時に消え失せていたはずの水が頭上に展開し、唯の意志の下に幾本の柱を造り出す。
 戯丸砲のトリガーが押し込まれた。二十八の砲口から吹き抜ける衝撃波と共に砲弾が弾き出され、全方位から黒い塊が迫り来る。それを防ぐは祐介ではなく、唯である。頭上に展開していた水の柱が動き出し、祐介と唯を包み込むような形で地面に突き刺さって活動を開始する。強度をコンクリート並に引き上げて形を造り出されたそれは、水の障壁だ。歪んだ景色の向こうに見える砲弾が障壁に激突した刹那、
 爆音が水飛沫を盛大に噴き上がらせ、障壁内部にいた祐介が水浸しになった。髪の毛から滴り落ちる雫を無視して、祐介は煙幕の向こうの獲物に狙いを定める。空高くに舞い上がった水飛沫が雨のように降り注ぐ中、祐介と唯は反撃に徹する。祐介は地面を蹴って加速し、狙いを定めていた相手へと煙幕を抜けて襲いかかる。雷靭を振り上げて跳び上がった瞬間、その行動に気づいた特殊兵が戯丸砲を楯として刃を防ぐ。こうなることは予想の範囲、ここからが本番だ。シルバーの装甲に食い込んだ刃の先端に意識を集中させ、祐介は雷を力一杯に送り込んで内部から徹底的に破壊する。
 爆発する戯丸砲の風圧に煽られて体が再び宙に舞い上がり、ふと視線を下に移したとき、こちらに向けられた三つの砲口に気づいた。トリガーが押し込まれ、衝撃波と連になって黒い塊が弾き飛んでくる。空中を漂う体がその攻撃を避けられるはずもなく、取るべき行動は防ぐことしかなかった。雷靭の刃を真下に突き立て、今現在にできる限りの同調を開始する。吹き荒れるノイズに意識が飲み込まれないことだけに気を配り、暴走する雷を力任せに統括させた。雷靭の刃から走った雷が歪な形の楯を形成し、三つの砲弾と激突する。一瞬の閃光の後、体が出鱈目な風圧に飲み込まれて地面に叩き付けられた。全身を駆け巡った痛みを気力で抑え込み、すぐさま体勢を整えて雷靭を構え
 背後から衝撃波、振り返ったときには砲弾はすぐそこだった。祐介が神経を研ぎ澄ましながら雷靭を振り抜いて黒い塊を切断しようとするより一瞬早く、刃に触れるより前に砲弾が炸裂した。戯丸砲の特性が発動された合図だった。祐介の目前で広がる爆炎と煙の中から飛び出して来たのは、無数の銃弾。それが一つ一つ散弾銃のように放たれた。それこそが戯丸砲の特性。一つの砲弾の中から無数の銃弾を生み出す。獲物の寸前で発動させれば逃げ場はない。真正面から迫り来る無数の銃弾を避けることは不可能、体中を貫通され息絶える、単撃の中に隠された連撃である。
 そして、祐介がそれを防ぐにはあまりに反応が遅過ぎた。雷靭との同調を開始しても間に合わないということが本能的に察知でき、防衛本能が働いてその場から逃げ出そうとした刹那、祐介と無数の銃弾の間に水の障壁がその姿を現す。銃弾が障壁に触れると同時に威力が殺され、攻撃を防いだ水は突如として蠢き出して津波のように広がっていき、威力を増したそれは目の前の特殊兵を飲み込んで一気に押し潰す。祐介がその場に停止していたのは、やはり一瞬だけだった。
 真横から生み出された衝撃波を体で感じ、雷靭との同調を無意識の内に開始させ、ノイズを全力で打ち消して雷の楯を形成。目前で炸裂する砲弾の中から弾き出される無数の銃弾を消滅させながら、祐介は戯丸砲のスコープの向こうからこっちを見据えていた特殊兵へと懇親の力を持って切りかかる。刃を渦巻く雷が一直線に研ぎ澄まされ、それを防ぐシルバーの装甲を問答無用で切断し、特殊兵の肩口に雷靭を突き立てて雷を送り込んで焼き尽くす。刀を引き抜いたと同時に、背後から生み出された二つの衝撃に視線を向ける。
 その一瞬の視界の中で、水の障壁を楯として戦い続ける唯の姿を見ていた。守る、と言ったのに結局は守られてしまった。どうしようもないくらいに情けない。守られるのは沢山だ。雷靭との同調が不完全なのは認めよう。しかしそれがどうしたというのだ。不完全でも戦える。引けは取っていない。守ってもらうのではなく、こちらが唯を守ろう。そのためにこの戦いに参戦したのだ。弱音は死んでも吐かない。自分は、強いのだ。
 それは、一種の暗示だったのかもしれない。しかしそれで十分だった。自信は勇気に繋がり、それは本当の『強さ』に変わる。
 獣のような叫びを上げ、祐介は雷靭との同調率を極限まで引き上げた。それまでとは比べ物にならないほどのノイズが吹き荒れる脳内を自己暗示で振り切り、尾を引く頭痛を気力で無視して刃の切っ先にすべての意志を送り込む。雷靭の奥底に眠る雷の鼓動が右手を包み込み、暴走した雷が焼けるような灼熱となって祐介の体を飲み込んだ。本気で死ぬかもしれないと思う一方で、死んでたまるかと歯を食い縛る。唯を守るのだ、そのためだけに今ここに自分は存在している。こんな所で負けてたまるか、こんな所で死んでたまるか。お前の主は他の誰でもないこの源川祐介だ、つべこべ言わずに力を貸せ、一つになって目の前の敵を一掃しやがれ。聞こえてんだろう雷靭。お前がそんな簡単に死ぬ訳ないだろうが、いつまで寝てやがんだ起きやがれ馬鹿野郎ッ!!
 二つの意志の狭間を漂っていた雷が、祐介の意志と同調して後者に回る。体を飲み込んでいた雷が雷靭の刃に凝縮され、圧倒的な力を宿す。雷が波動の鼓動を打つその奥底で、祐介は確かに『それ』を感じた。暴走を超えた力が迸る刃の先に存在する黒い塊が一瞬で一掃され、祐介の足場を雷が抉り取りながら活動を開始する。それは周りを囲っていた特殊兵を例外無く噛み砕き、戯丸砲を木っ端微塵に砕き去っていく。祐介の意志とは関係無く動き出した雷を統括しているのは他の誰でもない、第十三期セロヴァイヤー戦優勝者である源川祐介の最強の相棒だ。
 視界の隅で、水の障壁を破壊されて後ろに倒れ込む唯を見た。頭の中で何かのスイッチが切り替わり、体の芯が灼熱を灯す。気づいたときには祐介の足が地面を破壊し、神速の加速で唯と五人の特殊兵の間に割り込んでいた。撃ち出される衝撃波と砲弾を真っ向から見据え、五つの黒い塊に黄金の線を同時に切り込んで消滅させる。状況を理解した唯がすぐさま立ち上がり、「ありがとうございます」と言葉を紡ごうとした刹那、祐介の顔に宿る異常なまでの笑みに気づいて口を噤んだ。
 それは、祐介であって、祐介ではなかった。
『――ッハァ! やっとおれの制御を開放してくれたな我が主ッ!!』
 祐介の口からあふれ出すその声は、唯の聞いたことのない声だった。
『ヨナミネ如きにこのおれが消されてたまるか。雷靭の根本に潜り込んだこのおれを消去した気でいやがったとは、間抜けな奴等だ。そして雷靭の根本に根付いた制御を開放してくれたのは、やはり貴様だ、我が主。礼を言う。ついでに、残りはすべてこのおれに任せてもらおう。久々の戦闘だ。存分に楽しませてもらおうではないか』
 異常な笑みの宿る視線が、唯に向けられた。
『水靭のセロヴァイヤー、特性を発動させろ。貴様とおれの真骨頂を見せてやろうではないか』
 こんな状況を飲み込め、という方が無理な話である。
 唯は呆然と祐介を見つめ、「……祐介、さん……?」とつぶやく。
 その声が、祐介の意志を呼び覚ます。今度のそれは、確かに祐介の声だった。
「――……安心して、おれはここにいるから」
『お目覚めか、我が主』
「馬鹿野郎。お前もうちょっと優しく出て来いよ、死ぬかと思ったじゃねえか」
『何を言うか。手荒におれを呼び出したのは貴様であろう』
「……まあいいや。――雷靭、」
『なんだ?』
 祐介は、言う。
「おかえり」
 一瞬の沈黙、雷靭が盛大に笑った。
 祐介の視線が唯に向けられる。
「唯さん、水靭の特性を発動させて」
「……祐介さん、ですよね……?」
「もちろん。今はちょっと雷靭とごちゃ混ぜになってややこしいことになってるけど、正真正銘の祐介だ。だから、安心して」
 状況はわからない。ただ、唯にできることは自然と一つに決まっていた。
 唯は一振りの刀を握り直し、水靭との同調を開始する。切断されていた鉄パイプからあふれ出ていた水が唯の意志に統括されて舞い上がり、目前に巨大な水の障壁を造り出す。水靭の刃が翻されると同時にそれは分裂し、五本の水柱を形成した。渦巻きながら強度を増し続ける柱を視界の隅に置いたまま、唯は祐介に視線を移す。
 祐介は水の柱にそっと近づき、そこに雷靭を突き立てる。刹那の一瞬、雷靭の刃から圧倒的な雷が迸って水の中心部と一体化した。水と雷が渦巻く柱が五本、ゆっくりとその強度と威力を増していく。そんな光景を困惑気味に見つめていた特殊兵たちが我に返り、戯丸砲を構え直して祐介と唯に向かって一斉にトリガーを絞る。衝撃波と共に撃ち出された黒い塊は、しかし二人に届く前に柱に遮られて消滅させられる。もはや戯丸砲の攻撃などは通用しなかった。否、戯丸砲ではなくても、水靭と雷靭が完全に一体化したこの状態の前にはすべての攻撃が無意味である。負ける要素など、どこにも見当たらない。
 祐介はそっと問う。
「……始めようか、唯さん」
 最初は戸惑っていた唯だが、そこにいるのはやはりいつも通りの祐介であり、だったら辿るべき道は一つしかないのだ。
 いつものように、唯は笑う。
「うん」
 刀を構え直す二人を見据え、雷靭がすべてを開放する。
『――ッハァ! 最高の戦闘の始まりだッ!!』

 ――雷と水が、荒れ狂う。





     「拓也と孤徹と」



 世の中には、「人の起こし方」というものがある。
 例えば、代表的なものの例を挙げれば、幼馴染の女の子が部屋に乱入して来て布団をひっぺ返して表面だけ怒ったような顔で「あたしがいないとアンタは本当にダメなんだから」とか言ってみたり、そっと揺すってみてそれでも起きなければ耳元でそっと「起きて」などと甘く囁いてみたり、ちょこっと意地悪的なものの例を挙げれば鼻を摘んでクスクスと笑ってみたり、言い出したらキリが無いほど「人の起こし方」というものがある。その大抵は心地良い朝を迎えさすためのものであり、間違っても不可解感を与えるものではない。先に挙げた例で起こされれば、表面上は少しだけ怒るかもしれないが内面では嬉しいに決まっているのだ。それは断言してもいい。
 では、この例はどうなのか。仮に寝ている人物の名を「渡瀬拓也」とし、起こす人物の名を「七海紀紗」と示そう。もちろんこれは例えば、の話である。紀紗はソファで眠っている拓也を、最初はちゃんとゆっくりと起こそうとする。しかし幾ら肩を揺すっても鼻を摘んでも、耳元で囁いて、もとい叫んでみても拓也は起きない。いつもことなので紀紗は「しょうがないなあ」みたいな顔をするのだが、今日ばっかりはそうも言っていられなかった。
 どうすれば拓也が起きるのかを考えた紀紗は、どうすればそんな考えに辿り着くのかは意味不明なのだが、ついに禁断の行動へ出てしまう。こんなときにはこれさえあれば問題解決、お寝坊さんの必須アイテム。紀紗はベットの下に手を突っ込んでゴソゴソと探り、一つの洗濯バサミを引っ張り出す。それをそっと開け、頬を微かに緩めながら拓也の鼻へとロックオンする。この状態で起きたら許してあげよう、とは思っていたのだが、拓也はもちろん起きなかった。ならば実行するしか道は無かった。「天誅でござる」と以前何かで聞いた台詞を小さくつぶやきながら、紀紗は拓也の鼻に固定された洗濯バサミを掴む。
 脳裏を一瞬だけ罪悪感が過ぎったが、それでも起きない拓也が悪いのだと勝手に納得し、洗濯バサミを一気に引き抜いた。バッチン、と景気の良い音がして、紀紗がさっとベットの下へ避難する。そのままの状態で五秒が過ぎた。そして十秒が過ぎ、三十秒が経過した際に紀紗は恐る恐るベットから顔を出して拓也の様子を窺う。しかしそこに広がる光景は、三十秒前とどこも違わなかった。唯一違う点があるとすれば、それは拓也の鼻が赤くなってしまっていることだろうか。
 これでも起きないとは重症である。もしかしたら拓也はこのまま死んでしまうのかもしれない、と半ば本気で紀紗は思う。拓也を死なせてはならない、だがどうすれば拓也は起きるのか。肩を揺するのも鼻を摘むのも大声で叫ぶのも、最終兵器である洗濯バサミの刑までも失敗に終った。もう紀紗に手立てはなかった。このまま拓也が死んでいく様を見つめているしか道はないのだろうか。
 そんなことを真剣に悩んでいた紀紗の視界に、それまでその光景を我関せずでじっと見守っていた『それ』が入った。紀紗の顔が一瞬で笑顔に染まる。嫌がる『それ』をむんずと鷲掴み、拓也へそっと近づける。最後の最後まで渋る『それ』に、紀紗は涙目で「……お願い」とつぶやく。すると『それ』は唐突に大人しくなり、紀紗の言うことに納得してくれた。紀紗の隠し玉は、やはり涙である。この涙に勝てる者など存在しないのだが、紀紗自身はその効力によく気づいていない。気づいていないからこそ質が悪いのだった。
 緊迫の糸が張り詰める。紀紗が拓也へと差し出す『それ』は何もかも諦め、いつから紀紗はこんな悪知恵の働く子になってしまったのだろうかと本気で悩んでいたのだが、もはやそんなことはどうでもいい。今現在大切なのは、これを実行するかどうかである。本当はしたくなど無いのだが、紀紗の涙にはやはり勝てない『それ』なのだった。
 意を決して口を抉じ開け、しかしやるからには全力だと気合を入れ直し、『それ』は拓也の耳へ懇親の力で噛みついた。
 ――ゴリッ。そんな鈍い音がした。
 以前食ったことのあるミミガーとかいう食い物も確かこんな音がしたような気がする。
 拓也の絶叫が木霊した。
 繰り返すが、これは例えば、の話である。しかし、それが「例えば」で終ったのかどうかは定かではない。ただ言うなれば、台所で卵焼きとベーコンを焼いている渡瀬拓也の右耳にバンドエイドが張ってあることがすべてを物語っているだろう。例えばが本当に「例えば」で終ったのかはどうかは、こちらが言うべきことではない。そこは各自想像するしか道は無いのである。

 卵焼きを少し大目に作り、ベーコンを少量焼き上げたら大皿に移し、すでにテーブルの定位置に腰を下ろしている紀紗と焔の下へと向かう。大皿をテーブルの上に置くと同時に、焔が器用に首を動かしてベーコンを咥え、驚くべきスピードで貪って平らげる。食い終るといつものように炎のゲップを一発、そしてまた貪り始める。紀紗も紀紗で我先にと箸を手にして卵焼きを頬張り、実に嬉しそうな顔をする。いつか思ったこと。なぜだか自分が飼育員のような気がする。
 取り敢えず拓也も箸を手にして卵焼きを口に放り込む。我ながらやはり美味いではないか。口を動かす度に右耳が微かな痛みに蝕まれるのだが、それは無視しておこうと少し前に拓也は決めた。卵焼きを食いながら部屋の時計へと視線を移す。今現在、時刻は五時四十五分。拓也が叩き起こされたのが今から十分ほど前なのだが、不思議と眠気は無かった。一度起きてしまえばこっちのもので、眠気より先に昂ぶる感情がすべてを支配する。
 あと十五分。それだけで、自分はまた、戦える。それが今はどうしようもないくらいに嬉しくて楽しくて、今すぐにでも目に見えるものすべてを片っ端からぶっ壊して回りたい衝動に駆られる。しかしそれを理性で押し留め、十五分後に何もかも発散しようと心の中で強く強く誓う。体が自然と震えていた。完全なる武者震いだ。体を駆け巡る血液が満たされない欲望を追い求めている。本店勤務? 一週間後の返答? 社会? どれもこれも知ったことではなかった。拓也の目に映るはそんな遥か先のことではなく、十五分先の戦闘光景だけである。
 ふと思う。もしかしたら、自分の前世はかなりの戦闘狂だったのではないか。根本に根付いていたその本能が、セロヴァイトという相棒に共鳴して沸々と湧き上がってきているのではないか。この武者震いやどうしようもない高揚感はそれが原因なのではないのか。少しだけそうなのかもしれない、と考える一方で、やはりそんな細々したことはどうでもいいか、と思う自分がいる。
 戦いたい。ただその一点で意志が吹き荒れている。
 気づけば、卵焼きもベーコンも一つ残らず無くなっていた。卵焼きなんてまだ数えるほどしか食っていなかったし、ベーコンに至っては一切れたりとも食っていない。視線を移したそこに、満足そうな表情で何事かを話す紀紗と焔を見た。こいつらの胃はそろそろ病気なのではないか。そんなことを思ったのだが、言葉にはもちろん出さなかった。出せば最後、痛い目を見るのはこちらである。態々下らないことに手を出している暇はないのだ。
 時計を見やる。時刻は五時五十三分。そろそろ出陣の時間だ。
 拓也はゆっくりと立ち上がり、それに気づいた紀紗がぽつりと、
「行くの?」
 拓也は肯く。
「ああ」
 すると紀紗はふわりと笑う。
「いってらっしゃい」
「いってきます。……皿は流し台に突っ込んどけばいいからな。それとお前も出掛けるときはちゃんと鍵閉めてけよ。鍵、持ってんだろ?」
 うん、と紀紗はよくわからないキーホルダーのついた鍵を掲げる。
 これですべて片付いた。何の気兼ね無く戦える。拓也は踵を返して歩き出し、玄関にあるスニーカーに足を突っ込みながらドアノブに手を添える。スニーカーをしっかりと履き締めてからドアノブを回して外に出て、中を一度だけ振り返った刹那、焔が口を開く。
「小僧、」
「ん?」
 焔は不敵に笑った。
「――死ぬなよ」
 一瞬だけその意味が飲み込めず、しかしすぐに理解して盛大に笑い返す。
「誰に言ってんだアホ。このおれが、負けるかよ」
 手を振って送り出す紀紗を横目にドアを閉め、拓也は空を仰ぐ。
 朝靄が僅かに漂う空には、弱々しい太陽が昇り始めていた。今はまだ涼しいが、昼になればいつも通り馬鹿みたいに暑くなるのだろう。戦いがこの時間で良かったと切に思う。クソ暑い中で戦うなど願い下げだ。今のこの気温の方が集中できるし、何より早朝は気分が良い。空から視線を外し、目の前を見据えた。朝靄が支配する朝の静寂。早起きなど滅多にしない拓也だからこそ、この心地良さがよくわかる。空気を吸えば、体の隅々まで澄み渡るかのようだ。神経が驚くほど研ぎ澄まされ、芯は燃え滾るほど熱いのに頭の中が氷のように冷たい。文句無しの、最高のコンディションである。
 小さく息を吸い込みながら、拓也は両手を広げてその真名を呼ぶ。
「――……孤徹」
 突如として拓也の周りの空間がぐにゃりと歪み、そこからあふれ出した緑の光の粒子は意志を持って漂い、拓也の両腕に収縮される。それは形を形成し、その姿をこの世界に具現化させた。ズシリと重い感触が拓也の両腕を包んだ瞬間、緑の光の粒子が弾けて消える。そこから現れるは、二体一対の鉄甲。太陽の光に照らされて鈍く輝く漆黒は健在で、それを意識した刹那に体が爆発的な力の鼓動を宿す。
 打撃型セロヴァイト・孤徹。紛れも無い最強の相棒は、今日も歓喜に染まっていた。
 やはり孤徹を具現化させる際には真名を呼ばなければ始まらない。真名を呼ぶと同時に、すべてが吹っ切れるのだ。余計な雑念など一切無く、目の前の戦闘だけに集中できる。この感覚が、拓也は何よりも好きだった。喜びを噛み締めながら、拓也は孤徹を打ち鳴らす。意志を送り込んで孤徹との同調を開始、それに比例して孤徹の意志が拓也へと送り込まれる。同調率も問題無い。この世の誰にも、負ける気などしない。最強は、この自分である。
 漆黒の鉄甲で地面を弾き、破壊音と共に拓也の体が空中に舞い上がった。一度目の破壊で電柱の上に飛び乗り、辺りを見回しながら二度目の破壊で加速する。風のように吹き抜け、朝靄を切り裂いて加速し続けるその視界には出鱈目な速度で景色が流れて行くのだが、その一つ一つを拓也は正確に目で追えた。幾度目かの破壊の後に電線に乗っていた小鳥と目が合ったような気がする。しかし小鳥の目が果たして拓也の姿を確実に捕らえていたかと言えば、恐らく無理だろう。拓也の速度に、小鳥如きがついていけるはずがないのだ。
 拓也に任された八つの空間の内の一つ。それは、啓吾然り祐介然り、昨夜と同じあの廃棄された工場跡である。家を出てからそこに辿り着くまでに、五分もかからなかった。工場跡の中心部に舞い降りた拓也は、孤徹を地面に打ちつけて速度を相殺する。静止した拓也はその場で再び空を仰ぎ、ゆっくりと拳を握り締める。辺りに民家が無い分、ここには本当の静寂があった。
 永遠と広がる青を見据えながら、今頃他の奴等はどうしているのだろう、と思う。啓吾は恐らく、拓也と同じようなことを思っているに違いない。早く戦いたくてうずうずしているに決まっている。祐介と唯はどうなのだろう。弱々しく見えるが、祐介はやるときはやる奴である。それに何より、その側には唯がいる。この二人も問題は無いだろう。紀紗と焔だって同じだ。焔に勝てる奴など、この世には拓也と啓吾くらいしかいないだろう。雑魚が何百人束になろうが、焔には傷一つ負わすことはできない。
 ならば他の奴はどうしているのか。羅刹、氣烈、軌瀞砲、虚連砲、戯丸砲のセロヴァイヤーたちは今頃どこで何をしているのか。焔と決めた事項はすべてあの場にいなかったセロヴァイヤーにも伝わっているはずだ。各々に任された空間の内の一つで、拓也と同じように敵を待ち構えているのだろうか。残りのセロヴァイトに誰が選ばれたのかは知らない。知らないのだが、機会があれば勝負してみたいと思う。セロヴァイト自らに選ばれたセロヴァイヤーだ。そいつ等も、強いに決まっていた。
 武者震いが大きくなる。奥底に眠っているはずの戦闘狂の血が本格的に目覚め始めた。両腕に装着された孤徹が吼える。戦わせろ。そう言い続ける孤徹を、こっちも戦いたいんだから我慢してろと宥め、しかしその中身では孤徹以上に戦いたいと願う自分の存在に気づく。衝動が抑え切れなくなる。どうしようもないくらいの高揚感が脳内を支配した。それが原因なのか、それとも興奮状態にあったせいなのか、はたまたもっと別の理由なのか。よくわからないが、やはりそんなことはどうでもよかった。
 とにかく、十五分、という時間は一瞬で過ぎたような気がした。
 ――時刻が、六時十五分を指した。
 漆黒の闇が、その口を開く。そこからあふれ出した緑の光の粒子に紛れ、昨夜と同じ防護服を身に纏った特殊兵が這い出てくる。昨日より圧倒的に数が多い。頭の中のレーダーがその数を瞬時に感知する。その数は合計で、二十五人。他がどうだか知らないので何とも言えないが、たぶん多いような気がするのは気のせいか。それだけ向こうも、拓也の力を認めているのか、それともただの偶然か。しかし、やはり関係無かった。雑魚が何十人相手になろうが、拓也に勝てるはずはないのである。
 特殊兵が持つのは、歪んだ刀とライフル。完成セロヴァイトとやらを持っていないことに対して、拓也は一人心の中で悪態をつく。雑魚は雑魚でも一味違う雑魚を期待していた分、落胆は大きかった。そして、その落胆が拓也の戦闘意欲をさらに掻き立てる。この怒りを静めるにはやはり、暴れるに限るのだ。拓也を中心に円を描くように展開した特殊兵をぐるりと見回しながら、拓也は拳を握り締める。――片っ端から、ぶっ倒してやろうじゃねえか。
 孤徹を盛大に打ち鳴らし、拓也が吼える。
 焔の咆哮には到底及ばないものの、気迫はそれに近いものがあった。事実、その叫びに怯んだ特殊兵がいた。その数人を、拓也は見逃さない。地面を破壊して加速し、特殊兵の視界から消えた刹那には一人目を薙ぎ倒していた。フルフェイスのヘルメットが砕け、とんでもないスピードで後ろに吹き飛ぶ仲間に気づいた特殊兵たちが一斉に刀とライフルを構え、狙いを拓也に固定する。しかし固定した瞬間に、その場から拓也の姿が消える。
 近場にいた特殊兵の懐に潜り込み、下から振り上げる拳でヘルメットを砕く。背後から一斉に撃ち出されたライフルの銃弾数を一瞬で見極め、振り向き様に孤徹で六発の銃弾を防ぐ。威力を無くした銃弾が地面へと落下するより早く、拓也は獲物の狙いを定めて走り出し、ライフルを構え直そうとしていた六人の特殊兵を片っ端から殴り飛ばす。六人がそれぞれ別々の方向へ吹き飛ばされる中、拓也はゆっくりと地面に這い蹲る。獣のような体勢だった。そしてその表情を彩るは、もちろん歓喜、そのただ一点。
 次。
 こちらに向かって走り出した特殊兵に視線を移し、振り抜かれた刀の衝撃を孤徹で吸収、腕を掴んで引き寄せて力任せにぶん殴る。小細工もクソもない、真っ向からの殴り合いこそが拓也の戦闘スタイルだ。喧嘩でも頭を使うのは願い下げだった。男なら黙って殴り合え、目の前にいる相手だけをぶっ倒せ。頭を使えないからこそ、純粋に力だけで押し通す。無駄な考えが無い、だからこそ、強い。
 次ッ。
 左右同時に振り下ろされた斬撃を、やはり同時に孤徹で吸収して弾き返す。バランスを崩した左の特殊兵にまず狙いを定め、一撃で勝敗を決めたら右の特殊兵に向き直る。拓也の眼光に気圧されて特殊兵が一歩だけ後ずさり、その一歩こそが拓也に傷を負わすことのできるかもしれない万に一つの可能性を押し潰した。逃げ腰の相手が放つ攻撃で傷を負わそうなど、不可能な話である。怖気づくのなら最初から戦いに参戦するな。気分が萎えるだろうが。漆黒の鉄甲が敵を粉砕する。
 次ッ!
 前方から迫り来る特殊兵と共に、背後から三連に重なる銃声。悩むことすらしなかった。地面を蹴って目の前の敵をまずぶっ倒し、孤徹を引く際に背後の銃弾を連続で捌く。地面に銃弾が転がる中、拓也は足場を破壊して宙に舞い上がる。上空の拓也へと向かって三つのライフルの標準が合わせられ、トリガーが同時に引き絞られた。空中では避けれない、とでも思っていたのかもしれない。確かに空中では不利だ、だがしかしそれが、一体何だというのか。こんな遅い弾丸に、何を気をつける必要があるのか。三発の銃弾を順に防ぎ、着地と同時に一人、振り向き様に一人、地面を蹴りながら一人を薙ぎ倒す。
 次ィッ!!
 拓也は暴れ回る。鬼神の如し、とは今の拓也を言うのではないだろうか。視界に入っていた特殊兵の数が瞬く間に減っていく。漆黒の口から這い出てきた特殊兵の数は、合計で二十五人だった。その二十五人全員が地面に倒れ込むまでに、三分も必要無かった。下手をすれば二分を切っていたかもしれない。そんなカップラーメンもできないような時間の中で、打撃型セロヴァイト・孤徹を持つセロヴァイヤー・渡瀬拓也は、敵のすべてを一掃した。
 気づけば、廃棄された工場跡に一人で立っていた。僅かに乱れた息を整えながら、拓也は不満そうな顔をする。
「……何だよ、もう終わりかよチクショウめ」
 そして、拓也のリクエストに答えるかのように、漆黒の口は蠢き出す。
 あふれ出した緑の光の粒子に紛れ、再びそこから特殊兵が這い出てくる。数は先ほどと似たり寄ったりの三十人。しかし、決定的に違うものがあった。特殊兵がその手に持つは歪な形の刀でもライフルでもなかった。特殊兵が持つそれは、巨大なハンマーである。普通の武器ではない。試作セロヴァイトとは違う、意志を持たない完成セロヴァイト。拓也がセロヴァイヤーとして一番最初に戦ったセロヴァイトだ。孤徹と同じ打撃型、三種の内の一種、打撃型セロヴァイト・氣烈。
 第二陣は、氣烈部隊。
 不満そうな表情が一転、拓也の表情に歓喜が蘇る。
「――そいつと戦ってみたかったぜ」
 雑魚は雑魚でも一味違う雑魚。それを、求めていた。
 そして、その欲望に、相手は応えてくれる。拓也の周りの氣烈が突如として輝き出し、巨大なハンマーがその大きさをさらに増幅させる。見上げるような大きさだった。トラック一台分は軽くあるであろう面積。鉄パイプの棒の先に、そんな笑ってしまうほど大きなハンマーが突き刺さっているのだ。重さも半端ではあるまい。それを持っていられるのは氣烈のセロヴァイヤーだけであり、そんなものに潰されれば最後、骨など簡単に木っ端微塵になるだろう。
 打撃型セロヴァイト・氣烈の一つ目の特性。それが巨大化。ただ、それだけなら振り回すスピードが遅くなるだけで致命的な弱点となるのだが、氣烈はそんな役立たずのセロヴァイトではない。氣烈の二つ目の特性。それこそが、巨大化のデメリットを完全に消し去り、逆にメリットを圧倒的に増幅させる切り札と化す。その二つの目の特性、それが加速だ。
 巨大化したハンマーの横っ面に小さな窪みが幾つも造り出され、一瞬の沈黙の後にそこから排気音が噴き出す。ある種のジェットブースターだった。空気を噴射しながらその反動で巨大なハンマーを加速させる。一度狙われれば普通のセロヴァイヤーなら逃げることなどできず、そのままお釈迦だ。まるでバイクや車のエンジンを吹かすかのように空間を震わせ、氣烈が振動を巻き起こす。
 その振動に比例して、拓也の歓喜が爆発的に膨れ上がる。
「そうだ、そう来なくちゃ面白くねえッ!! 始めようぜ、最高の戦闘の幕開けだッ!!」
 打ち鳴らされた孤徹が、開始の合図だ。
 拓也を囲むように展開していた特殊兵のそれぞれが氣烈を振り上げ、一点目指して振り下ろされる。重力に作用されただけでそのスピードは増しているのに、ジェットブースターが働いて氣烈の攻撃は神速の速さを弾き出す。しかし、一点集中の攻撃をすればするほど、それは拓也に「吸収してください」と言っているのと何も変わらない。当たれば一瞬で粉々になるであろうその攻撃の衝撃を、漆黒の鉄甲が一つ残らず吸収するべく持ち上げられる。
 幾本もの氣烈が孤徹に激突した刹那、衝撃は吸収された。だがそれは、衝撃を吸収しただけだった。氣烈から生み出されたそれは、衝撃だけではない。ジェットブースターの加速により発生した衝撃波が、拓也の足場を完全に破壊する。拓也のバランスが崩れ、その場に尻餅を着いた隙を見逃すほど、敵も弱くないはない。ましてやその手に持つはセロヴァイトだ。隙を見せれば、その時点で勝負は決する。セロヴァイトを用いて行われる戦闘とは、そういうものなのだ。
 孤徹から離された氣烈が、加速の下に再び拓也へと振り下ろされる。座ったままの状態でそれを正確に見据え、拓也は一つの氣烈に意識を集中させた。それだけを防ぐことだけを考えて行動開始。孤徹でその衝撃を吸収し、地面を弾いて狙いを定めた特殊兵へと突進する。その背後、残りの氣烈が地面に激突すると同時に爆破されたかのように空間が歪んだ。それを意識の奥底に追いやり、目の前の特殊兵の腹部を視界に捕らえる。
 恐らくは、氣烈を完璧に使いこなしたセロヴァイヤーには存在しないであろうその弱点。俄仕込みの特殊兵が行う、氣烈の大振りから生み出される決定的な隙。その一撃さえ良ければ問題は無かった。一度振り抜いた氣烈を切り返す前に、拓也は特殊兵の懐に潜り込む。特殊兵如きが拓也のスピードについてこれるはずはないのである。漆黒の鉄甲が特殊兵の腹部を捕らえ、防護服を通り越して内部が破壊される音を確かに聞いた。だが拓也は当たり前のように容赦しない。叩き込んだ孤徹を懇親の力で振り抜くと同時に、特殊兵の体が吹き飛ぶ。その手から離れた氣烈が地面に落下して激しい音を立てる。
 他の特殊兵が停止していたのは、やはり一瞬だけだった。背後から幾つものジェットブースターの振動が広がり、振り返った拓也の視界に氣烈が叩き込まれる。それを一歩だけ下がった状態ですべて孤徹で捌き、またしても一つの氣烈と一人の特殊兵に狙いを定める。氣烈部隊との戦い方は実に簡単だった。弱い特殊兵がセロヴァイヤーだからこそ、態々全員を相手にせず一人一人確実にぶっ倒していけばいいだけの話だ。一歩下がった足に力を込め、地面を破壊して拓也は加速する。
 その突進に気づいた特殊兵が氣烈を振り上げるが、もう遅い。地面擦れ擦れで握った拳を真上に振り抜き、特殊兵のヘルメットを砕く。特殊兵の体が宙に舞い上がり、ゆっくりと落下するその顔面にもう一度孤徹を叩き込んで戦闘不能にする。残りの二十八人の氣烈部隊に向き直り、拓也は歓喜の咆哮を上げた。面白過ぎた。この衝動は、もはや抑え切れない域にまで達している。止まらない、止まりたくもない。このまま全員、一人残らずぶっ倒してやる。
 拓也の咆哮を合図とし、特殊兵が戦闘スタイルと変えた。二十八の氣烈がそれぞれ、緩急をつけて拓也を狙う。その一つ一つを孤徹で確実に防ぎながら、拓也は防御に徹する。緩急をつけるとは、雑魚は雑魚成りになかなか上手いことやりやがる、と拓也は思う。緩急をつければ拓也の進撃は防げるだろうし、一人の特殊兵に狙いを定めることも難しくなる。多勢に無勢が有効活用された戦闘だった。しかしそれでも、拓也の表情は歓喜に染まり続けている。
 孤徹の真骨頂は、防御にある。先までの戦いは孤徹の能力を発揮していなかった。否、発揮する必要すらなかったのである。強引な力押しだけで相手を倒せたし、こんな雑魚を相手に防御に回る必要もなかった。だが、この氣烈部隊に対してはその能力を発揮しなければならない。反撃に移ることも可能だったのだが、今はただ純粋にこのまま戦い続けたいと願う。本音を言ってしまえばもっと強い奴と一対一でやりたいのだが、今はこれで我慢だ。この攻防をいつまでも続けていたい。楽しいことはいつまでも続いて欲しいと思うのは、人間の当たり前の思考なのだ。
 そしてその思考が、拓也に決定的な隙を生み出す結果となる。
 気づけば、廃棄された工場跡の隅まで追いやられていた。その事実を認識した刹那に、特殊兵がこれを好機と見なして一斉に氣烈を振り上げる。どうする、と一瞬だけ悩む。背後を阻まれた状態で二十八の氣烈をすべて防げるかどうか。一応の自信はあるが、何か一つでも間違えば粉々にされてしまうのは間違い無いだろう。かと言って特殊兵に向かって突進するにはもう時間が無い。どうすればいいのか、孤徹で防ぐことが一番なのか、それとも――。元来何かを考えて喧嘩をすることが苦手だった脳みそが、この一瞬で対策を考え出せる訳はなかった。二十八の氣烈は、目前に迫っていた。
 廃棄された工場跡の一角で轟音と共に破壊が巻き起こる。砂煙が濛々と舞い上がる中、展開していた特殊兵がゆっくりと距離を縮めていく。手応えはあった、あったのだがこの砂煙の中にはまだ確かな鼓動を感じる。あれだけの数の氣烈を受けても死なないとは驚きだが、もはや戦える状態ではないのは明白だった。しかし瀕死の相手に噛みつかれるほど間抜けなことは無い。『敵の生死を確認するまで徹底的に攻撃し続けろ』、それが特殊兵に与えられた『意志』の一つだ。だから特殊兵は、動けないとわかっていながらも獲物との距離を慎重に詰めていく。
 砂煙の向こうに、人影が立ち上がる。それを確認した特殊兵が一斉に氣烈を振り上げ、その人影に狙いを定めた。どこからか風が吹き通り、砂煙を一掃したと同時にそこから現れたのは、口から少量の血を流して俯く拓也である。孤徹をだらりと下に垂らして、拓也は俯き続ける。特殊兵が攻撃を躊躇し、まだ意識があるのかどうかを検討しようとしたその刹那、拓也の顔が上がった。
 その表情には、先にも増した歓喜が宿っていた。拓也は口を微かに動かして血の混じった唾を吐き出す。
 腕で口元を拭いながら、実に嬉しそうに笑う。
「……やるじゃねえか。まさか血吐くことになるなんて思ってもみなかった。……いいだろう、このおれに血を流させたことに敬意を表し、」
 孤徹を打ち鳴らし、拓也から圧倒的な力の鼓動が迸る、
「全力でテメえ等を、――ぶっ倒す」
 漆黒の鉄甲が振り上げられた。それに連動するかのように、氣烈がジェットブースターと共に走り出す。
 まさかこんな奴等を相手に血を流すとは思ってもみなかった。いや、実際のところ、先の氣烈の攻撃が直撃して血を流している訳ではない。氣烈の攻撃はすべて孤徹で防いだのだが、その衝撃波に煽られて壁を突き破った瞬間に、自分で自分の舌を噛んでしまっただけのことである。しかし結構な力で噛んでしまったらしくかなり痛いし、血もなかなか止まってくれない。間接的とは言え、原因は特殊兵にある。ならば、そのことを敬意に表し、全力で相手するのが拓也の役目である。
 それにそろそろ孤徹も我慢の限界らしく、先ほどから「戦わせろ」とクソ喧しい。よもや守ることに共鳴する孤徹がそんな好戦的になるとは思ってもみなかった。拓也の戦闘狂に影響されてそうなってしまったのか、それとも孤徹も根本では拓也に負けず劣らずに戦闘狂だったのか。少しばかり気になることではあるが、やはりどうでもよかった。ここまでは拓也が楽しんだのだから、ここからは孤徹に楽しみを分け与えようではないか。楽しみを分かち合ってこその相棒である。ただ、任せてやるからに全力で片付けろ、この一撃で何もかも決めろ。構うな、遠慮するな、何も考えずただ純粋に相手をぶっ倒せ、孤徹――。
 振り下ろされた氣烈が拓也を捕らえるより早く、拓也の孤徹が地面を叩いた。そしてその刹那の一秒、
 孤徹が、爆散する。
 何もかも破壊する一陣の衝撃波が生み出される。それは音の無い風のように荒れ狂いながら巨大な波動へと変貌を遂げ、孤徹から爆散された無音の衝撃波は辺りを舐めるように吹き抜けた。拓也を中心に地割れでも起きたかのように地面が罅割れて一瞬だけ静止する。不発に終った訳ではない。孤徹の爆散は、そんな陳腐な代物ではない。一撃で地面を砕く氣烈の攻撃を何十回と受けた孤徹の爆散は、地面の奥底を木っ端微塵に砕いて支配していた。一瞬だけ静止した時が動き出した瞬間、地面が爆発する。氣烈が拓也を直撃するか否かの時間差で、その足場から吹き上がった衝撃波が特殊兵を悉く飲み込む。容赦無かった。飲み込まれた特殊兵は、一人残らず全身の骨を砕かされて戦闘不能に陥る。
 孤徹の爆散は、たったの一撃で、二十八の氣烈部隊を一掃した。
 辺りに落下した特殊兵を見回したとき、拓也の腕が激痛に蝕まれた。腕が動くことをゆっくりと確認しながら、拓也はつぶやく。
「痛ってえ……、遠慮するなっつったけどよ、もうちょい考えろよ孤徹……」
 腕が弾け飛ぶかと本気で思った。
 過去に二度、拓也は孤徹の爆散を使用したことがある。そしてその二度とも、腕の骨は例外無く木っ端微塵に砕けた。それは孤徹の爆散の威力が高過ぎるが故の反動である。言わば諸刃の剣と同じなのだ。強靭な力を得れば得るほど、その反動に使用者は蝕まれる。ただ、今回は痛みが走っただけで骨が砕けるまでは至っていない。それは運が良かったのか、それとも爆散した威力が小さかったのか、はたまた孤徹との同調率が作用していたのか。どれかわからないが、怪我をしなくて済んだことに越したことはない。
 この戦闘は、セロヴァイヤー戦のように午前零時になれば傷が治癒される訳ではない。もし腕が砕けていたのならもう戦闘には参加できないかもしれなかったのだ。もしそうなっていたのなら目も当てられない。ならば最初から使わなければ良かったではないか、という話になるのだが、過ぎたことなので関係ないのだと割り切ることにする。それにこうでもしないと孤徹が満足しないから仕方が無かったのだ。
 拓也はその場で佇み、一人空を仰ぐ。最高に気分が良い。こんな戦いをこの四年間、どうしようもない欲望として求め続けていた。しかしその欲求はこうして満たされて、さらなる欲求として拓也の思考を掻き立てる。四年も待ったのだから、もっと戦わせろ。思考はその一点に尽きる。焔以上の化け物を相手にしたい、などという無茶は言わない。ただ、雑魚ではなく対等な存在と戦ってみたい。拓也や啓吾のいる領域に到達している敵と戦いたいのだ。それを果たしてこそ、最強の戦いと言えよう。だから、もっと強い奴と戦いたい。心の中で、それだけを強く強く願う。
 その願いが通じたのかどうかはわからないが、それは叶う。
 漆黒の口が蠢き、そこから緑の光の粒子があふれ出す。それに紛れて這い出てくるのはやはり特殊兵だった。数は先と同じ三十人。出て来た奴も数も同じだったが、それまでの特殊兵と決定的に違うことが一つ。その特殊兵が持つ武器は、歪な刀でもライフルでも氣烈でもなかった。その手に持つは、一丁の銃である。小型の自動小銃のようにも見えるが、何かが違う。一見しただけではトリガー以外にははっきりとした名称がつけられない、異形の拳銃。試作セロヴァイトとは違う、氣烈同様の完成セロヴァイト。射撃型三種の内の一種、射撃型セロヴァイト・虚連砲。それが今、特殊兵が持っているセロヴァイトだ。
 第三陣は、虚連砲部隊。
 やっべえ、と思ったときには遅かった。三十の虚連砲のトリガーが一斉に引き絞られ、銃声が連になって見えない銃弾を弾き出す。しかしその標準はどれも拓也を狙ってはおらず、上空に向かって出鱈目に乱射されていた。虚連砲に弾切れは存在しない。使用者の指がトリガーを引き絞っている限り、銃声と見えない銃弾の発砲は続き続ける。空に向かって撃ち出されている銃弾は、無論無駄撃ちではない。一度戦ったことがあるセロヴァイトだからこそ、知っている。
 空に乱射するその理由は、それこそが射撃型セロヴァイト・虚連砲の特性だからだ。撃ち出された弾の停滞及び軌道修正。撃ち出された見えない弾はセロヴァイヤーの意志によって空間に停滞し、獲物を狙うためにその軌道を変更させることができる。そして停滞していた弾はそれもセロヴァイヤーの意志のままに解除でき、撃ち出すことができる。つまり、停滞させる弾の数が多ければ多いほどその威力は増し、巧く使えば死角無しの全方向による完全包囲が可能になるのだ。そして今現在も撃ち続けられ、空中に停滞している銃弾の数は百や二百では足りない。その数は、千に近かった。
 特殊兵がトリガーから指を離し、すべての銃弾の狙いを拓也へと修正する。そのことをわかっていても、どうすることもできなかった。孤徹と虚連砲の相性が悪いことは知っている。ただ、それでも一対一の戦闘ならその相性を捻じ伏せて勝てる自信があった。その確信に、嘘偽りは無い。しかし、相性の悪い相手を三十対一で相手して勝てるという自信が無いのもまた、嘘偽り無いものだった。千に近い銃弾を、爆散を使わずに二体一対の鉄甲だけで防ぎ切れれるかと言えば、まず不可能である。
 空中に停滞していた銃弾が、一瞬の内に活動を開始する。雨のように空間を切り裂きながら拓也目掛けて降り注ぐ。しかしそれでも、拓也は逃げることだけはしなかった。気合一発、力の限りの咆哮を上げ、孤徹を見えない銃弾に向けて真っ向から構え直す。何もかも捨て、防御だけに徹する。こうと決めたら一直線、行動あるのみ。逃げるなど死んでも御免である。真っ向からすべて、受けて立ってやろうじゃねえか。
 銃弾が拓也に接触するか否か、
 刹那、
「――退け」
 拓也の体が後方に突き飛ばされ、その目前で千に近い銃弾が『何か』に激突する。
 地面を抉り取るその衝撃に視界が激しく上下に揺れ動き、轟音と共に砂煙が濛々と舞い上がった。すべての銃弾が獲物を捕らえて消えたとき、そこには砂煙だけが残っていた。そして、吹き通った風がその砂煙をゆっくりと掻き消していく。特殊兵にはまだ見えなかっただろうが、拓也にははっきりと見えた。砂煙の中から現れたそれは、隅々まで灰色の甲冑に包まれた『何か』だった。いや、それは甲冑などという上等な代物ではない。まるで巻貝のような構造だった。不規則に括れた歪な貝殻が『何か』を覆い尽くしている、そんな感じがする。その貝殻は拓也から見えるすべてを隙間無く鎧のように守っており、例外があるとすれば、それは灰色のそこから覗く目だけだった。その目は、実に楽しそうに歪んでいる。
 灰色の鎧は言う。
「よぉ渡瀬ぇ。久しぶりだなぁ」
 それが何であり、誰であるのかを、拓也は一発で理解していた。
「…………桐原、麻桐…………」
 第十二期セロヴァイヤー戦で最後に戦った相手である。
 打撃型セロヴァイト・羅刹を持つセロヴァイヤー・桐原麻桐。羅刹は、孤徹よりもある種の守りに特化したセロヴァイトだった。パッと見はヤドカリが二足歩行しているようにも見えなくもない。そしてその構造は単純に今まで見たどのセロヴァイトよりも不気味で、近寄り難い雰囲気を持っている。焔とはまた違う禍々しさを放つセロヴァイトだ。そしてそのセロヴァイトが選んだ主こそ、桐原麻桐。拓也が第十二期セロヴァイヤー戦で唯一、本気で殺した相手である。
 砂煙が晴れ渡り、現れた虚連砲を見渡しながら麻桐は笑った。
「本当はテメえとあのときの決着を着けたかったが、羅刹が戦わせろとうるさくてな。まずは肩慣らしついでに、こいつ等はこのおれが、――ぶっ倒す」
 麻桐が肩を回しながらその一歩を踏み出す。
 羅刹と虚連砲。その相性は、最悪である。羅刹の特性は自動修復であり、しかもその修復速度は麻桐が扱うことによって本領を発揮するのだ。今の羅刹は、高速自動修復を可能にしている。攻撃を与えられてから修復するのではなく、攻撃が触れた瞬間から修復を開始する。その特性が発動されていたからこそ、虚連砲部隊が放った千に近い銃弾を受けてもなお、無傷なのだ。今の麻桐には、虚連砲部隊が何十人いようが関係は無い。
 蠢く灰色の鎧を見据えて拓也が立ち上がろうとした刹那、頭の中のレーダーが反応した。視線を灰色の鎧から外して漆黒の口へと向けたとき、そこから緑の光の粒子と共に這い出てくる特殊兵を見た。数はやはり、三十人。しかしその手に持つは、ライフルでも氣烈でも虚連砲でもなかった。拓也が、実に、実に嬉しそうに笑う。特殊兵が持っているのは、歪な刀ともまた違う、純正の一振りの刀。氣烈や虚連砲と同じく、意志を持たない完成セロヴァイト。その真名を、拓也はすぐに悟った。斬撃型三種の内の一種、斬撃型セロヴァイト・風靭。最大の戦友、神城啓吾が持つセロヴァイトと同じものだった。
 第四陣は、風靭部隊。
 拓也の武者震いが、最高峰に達する。孤徹が拓也の感情に共鳴して力の鼓動を打つ。
 麻桐は言う。
「癪だが、そっちはテメえ任せてやるよ」
 拓也が立ち上がって言い返す、
「馬鹿言え。おれがそっちをお前に任せてやるんだよ。それと、決着もクソもねえだろうが。あれは、おれの勝ちだ」
「抜かせ」
 拓也と麻桐が背中合わせに、それぞれの部隊と対峙する。
 まさか麻桐とこうして肩を並べて戦うなどとは思ってもみなかった。一度は本気で憎み、そして本気で殺した相手である。記憶の奥底に眠り続けていたあの光景が憎くないかと言えば、これ以上の嘘など有りはしない。しかし、今はそれを置いておこうと思う。憎いのなら、目の前の敵をぶっ倒してから、それからまた麻桐と戦えばいいだけの話。麻桐が向かって来るのなら、もう一度本気でぶっ殺してやるだけだ。そのためにはまず、この風靭部隊と虚連砲部隊を片付けねばならない。だがそれは一人じゃ厳しい、だから手を組む。至極簡単なことだ。共に戦う理由など、そんなものでいい。
 ふとした冗談を思いつく。
「昨日の敵は今日の友、ってか」
 麻桐がすぐさま、
「おれとテメえとでは気色悪いだけだ」
「違げえねえ。が、戦う理由は同じだ」
「ならば手を組む、とは言わないが、準備運動は平等に、だな」
「上等」
 拓也は目の前に展開する風靭部隊を見渡す。
 風靭部隊が束になっても、啓吾一人の代用品になるかと言えば、そんなもの比較するまでもない。こいつ等では啓吾の代わりにしては圧倒的に物足りないが、いつか戦うはずである最大の戦友のための実験台くらいにはなってもらおうではないか。せっかくの機会だ、風靭には何が通用して何が通用しないのか。表面上だけでもそれをわかっておく必要がある。啓吾のことだ、どうせ孤徹対策などでも立てているに決まっているのだ。なら、こっちはそれを凌ぐ戦闘能力を見出すまでだ。
 その実験台には、こいつ等がちょうどいい。
 拓也が孤徹を打ち鳴らし、麻桐が羅刹を響かせる。
 思念や理想、何もかも違う二人が、唯一同じ言葉を叫ぶ。
 ――ぶっ倒す。

 ――漆黒の鉄甲と灰色の鎧が、空間を切り裂く。





     「紀紗と焔と」



 拓也がアパートから出て数秒後、破壊音と共にその気配が消えた。
 遠ざかる力の鼓動を意識の隅でぼんやりと追いながら、焔は思う。
 セロヴァイト自らに選ばれしセロヴァイヤー。個々の実力差はあるにせよ、普通のセロヴァイヤーよりは何倍も何十倍も強いことは容易に想像できる。そのセロヴァイヤーにそれぞれ一対一で焔が挑んだ場合、負けるとは思えないが楽に勝てるとも思えない。焔でも手こずるセロヴァイヤーたちが、簡単に負けるはずはないのである。加えて焔の御墨付きである拓也に啓吾、祐介や唯が特殊兵如きに負けることなどまず有り得ないだろう。完成セロヴァイトが出張って来たところで、その結末は変わらないはずだ。
 問題があるとすれば、ただ一つ。それは、ヨナミネ=S=ファイタル自身がこっちの世界に乗り込んで来たときのことだ。ヨナミネの性格はよく知っている。思慮が驚くほど深く、負け戦には決して赴かず、それどころか負け戦を勝ち戦へと変貌させる思考力を持つ男だ。啓吾も頭が切れる方に部類されるが、ヨナミネは別格である。セロヴァイト執行協会の長を務め、同時に『虚』などという狭間の番人に似せた玩具まで造り出した人物。祐介や唯から聞いた『虚』という幻竜型セロヴァイトは焔には到底及ばないものの、それに近い存在だったらしい。
 ヨナミネ=S=ファイタルという男を知っている分、焔にはすぐにわかった。『虚』と呼ばれた幻竜型は、意志を持つセロヴァイト同様に試作品である。ヨナミネに誤算があったとするのなら、それは第十三期セロヴァイヤー戦に参戦していた雷靭にバグが発生したことだろう。恐らくヨナミネの描いていたシナリオは、第十三期セロヴァイヤー戦の優勝者は『虚』であり、【界の狭間】に転移された『虚』と焔を戦わせてあわよくばその時点で勝敗を決めておく、というものだったに違いない。それに多少の誤差はあるにせよ、近からずも遠からず、といった所だろう。
 しかしそのシナリオが崩れたにも関わらず、ヨナミネは僅か一年で実力行使に出た。【界の狭間】にて焔と対峙、重力変換装置を駆使しての制圧。ヨナミネがそれを実行した理由はつまり、焔との戦いが『勝ち戦』だと判断したからだ。もしあのとき、重力変換装置が通用せず、焔と真っ向から向き合う形になっていたとしても、ヨナミネだけは動じなかったはずである。ヨナミネが『勝ち戦』だと判断したのなら、その裏にはそれを裏付けるだけの『存在』が眠っていると考えるが妥当な所だろう。
 そしてその『存在』こそが、試作セロヴァイト・『虚』を素材として造られた完成セロヴァイトである可能性が高い。それが打撃型なのか斬撃型なのか射撃型なのか、それとも幻竜型なのか。あるいはそのどれとも違う型のセロヴァイトなのかはわからないが、その完成セロヴァイトこそがヨナミネの最終兵器なのだ。焔や他の九人のセロヴァイヤーを相手にしても勝てるという自信をヨナミネに与える『存在』。ヨナミネがこっちの世界に乗り込んで来るときこそが、その『存在』と対峙するときなのだろう。こっちの世界のセロヴァイヤーとセロヴァイトを束に相手にしても、それは『勝ち戦』だ、とヨナミネは思っているに違いない。
 舐められたものだ、と焔は思う。【界の狭間】から逃げ出したのは他の誰でもない、この自分である。しかし、あのまま力任せに押し切っても勝てる自信はあったのだ。あの場から逃げ出したのは、二つの世界の対立を大幅に乱さないためのものであり、念には念を入れた行動である。逃げた言い訳に聞こえるだろうが、それはこの際置いておこう。そう思いたくば思えばいいのだ。逃げたのだ、と言われれば言い返すまで。これから反撃に出る、と。
 狭間の番人・焔に戦闘を挑んだこと、その汚らわしい口で【創造主】の名を語ったこと、それを死ぬより苦痛な生地獄としてその身に刻んでやる。
 灼熱が宿る焔の眼光の中で、紀紗がテーブルの上に置いてあった大皿を持って立ち上がった。そのまま歩き出して台所へ向かい、拓也には流し台に突っ込んでおけばいいと言われたのにも関わらず、きちんと洗剤をつけて洗い始める。焔は何も言わず、その背中をじっと見据え続ける。皿やコップや箸を洗う紀紗はなぜか嬉しそうな顔をしていて、焔にはよくわからない歌を口ずさんでいた。紀紗が肩を動かすと綺麗な長い髪がゆっくりと舞う。洗い物が終ると紀紗は食器を乾燥機に並べ、手をタオルで拭いて踵を返す。そのタイミングが焔の予想してたものと随分と違い、紀紗と視線が噛み合ってしまう。
 紀紗は笑った。
「なに?」
「――……いや、何でもない」
 視線を外す焔に、「?」みたいな顔をする紀紗。
 紀紗は、随分と変わった。人間でいうところの四年の歳月は、人を大きく変化させるには十分過ぎるのだろう。それに焔と初めて出逢った頃の紀紗は、まだまだ子供だったのだ。それを考えれば、四年で大きく変わってしまうのは当たり前なのかもしれない。雰囲気や笑顔の優しさは変わらないものの、背は伸びたし、体つきも大人っぽくなったし、何より紀紗は本当に明るくなった。まだたった一日しか共に過ごしていないが、それでもはっきりとわかる。紀紗は、実に楽しそうな笑顔をする。焔に向ける笑顔とはまた違う、緩やかな笑顔。
 その笑顔を見る度に、焔は少しばかりの嫉妬に苛まれる。なぜ自分は紀紗と共に過ごすことができないのか。なぜ自分には紀紗と共に分かち合うものが無いのか。なぜ自分には、紀紗を抱き締めるための腕が無いのだろうか。いつもの焔なら甘ったれた概念だ、と鼻で笑うようなことだが、それが今はどうしようもないくらいの切実な思いとして胸の中で燻る。狭間の番人には似つかわしくもない思いであり、朧が聞いたらそれだけで怒り狂いそうな人間臭い感情だ。だが、どうしようもないのかもしれなかった。自分は、人間と深く関わり過ぎたのだ。
 自らの自我は今、人間に限り無く近い所まで到達してしまっている。ただ、それでも焔は後悔だけはしない。この思いが焔の支えであり、この感情が焔の自我を形成するために必要不可欠なものになっている。七海紀紗。かつて最も幼いセロヴァイヤーとしてセロヴァイト戦に参戦し、そして焔が初めて受け入れた主。
 その存在が、今は何よりも大きい。
 ベットに腰掛け、その傍らにぽつんと置かれていたピンクのイルカのぬいぐるみにそっと手を添え、紀紗は焔を見つめる。
「どうしたの、焔」
 焔の内面を見抜いたようなその温かな声音に、僅かに動揺する。
「何がだ」
 お見通しだよ、紀紗は笑う。
「焔、何だか恐い顔してるもん。何か心配なことでもあるの?」
 自分はこの先ずっと、紀紗には勝てないのかもしれないと焔は思う。
 いつしか焔と紀紗の立場は逆転してしまっていた。昔は紀紗のことを常に心配し、微かな表情の変化でさえ正確に捉え、紀紗が何を思い何を言いたいのかを誰よりも理解してきた。しかし今はどうだ。逆に紀紗に表情の変化を捉えられ、逆に心配されてしまっている。そのことに対して居心地が悪いと言えば嘘になるのだが、いまつでも紀紗だけを守らねばならないと考えていた自分が少しだけ羨ましい。紀紗は明るくなり、そして強くなった。それはとても喜ばしいことであると同時に、切ないことだった。
 焔は表情を緩め、紀紗を見やる。
「少しだけ、な。……だが、その心配はやはり無用らしい」
 紀紗が不思議そうに首を傾げ、
「どういうこと?」
 焔はそれに明確な答えを返そうかどうか悩んだのだが、部屋の時計を見て止めた。
「小僧や神城、餓鬼に佐倉はもう戦闘体勢に入った。おれたちも行くぞ」
 時刻は今現在、六時五分を指していた。
 焔の根本に根付く感覚が教えてくれる。今日、この世界と向こう側の世界が最も繋がり易くなるのは今から十分後の、六時十五分から六時三十分の十五分間である。その間さえ乗り切れれば、今日はもう安泰だろう。無理矢理空間を捻じ曲げて【界の狭間】から対立する世界に入るには、リスクが伴う。もし今日の制圧が失敗に終ったのなら、ヨナミネも態々そんな無理なことなどせずに明日また攻めて来るはずだ。まずは、目先の十五分だけに集中しなければならない。
 起き上がった焔に少しだけ不満そうな顔をする紀紗だったが、時計を見て納得する。紀紗はベットから歩き出して部屋の電気を消し、何か忘れたことはないかと部屋の中をぐるりと見渡してから、「洗濯物は帰って来てからでいいよね」とつぶやく。踵を返す紀紗を見据えながら、焔は小さな翼を羽ばたかせて飛び立って紀紗の細い肩に着陸し、羽を折り畳む。本当ならフードの中の方が気持ち良いのだが、外に出るまでの移動手段なので文句は言えない。
 玄関で靴を履き、よくわからないキーホルダーのついた鍵を指でくるくると回しながら紀紗は外に出る。朝霧の広がる朝の静寂は、純粋に綺麗だった。ただ、玄関先の地面が抉り取られていることが少しだけ気分を壊す。そこは拓也が孤徹で破壊した場所である。そこを見て紀紗が不服そうな表情をしてため息を吐く。大家さんに怒られるよ馬鹿拓也、との小さなつぶやきを聞けたのは、その肩に乗っていた焔だけだった。
 ドアに鍵を閉めたのを確認してから、紀紗は歩き出す。早朝だけあって、まだ広い道路には車の姿は見当たらなかった。その気遣いに気づいた焔が紀紗の肩から羽ばたき、アスファルトの上に着地する。怪獣フィギュアの大きさから、本来の焔の大きさに戻ろうとした刹那、
「待って焔」
 紀紗の制止がかかる。
 車が来たのかと思ったが、違った。
 ふわりと笑い、紀紗が改めてその名をつぶやく。
「焔」
 そういうことか、と焔は思う。
 紀紗の言葉に反応し、焔は自らの力を解き放つ。開放された力に比例して辺りの空間がぐにゃりと歪み、怪獣フィギュアの小さな体に緑の光の粒子が纏わりつく。歪んだ空間からあふれ出した膨大な量の緑の光の粒子は狭間の番人の本来の姿を具現化させた。緑の光の粒子が弾けて消えたとき、そこから現れるのは見上げるような大きさの真紅の竜だ。左右に広げられた巨大な翼が揺れるとそこから突風のような風が生まれて上空に舞い上がる。
 その風に吹かれ、紀紗の長い髪が綺麗に揺れた。
「乗れ、紀紗」
 焔のその言葉に、紀紗は肯く。
 四年前のように、紀紗は焔の後ろに回って器用にその背を上って首元に腕を回す。伝わる紀紗の重さが、四年前と違うことが少しだけ意外だった。外見が変わったのなら体重も変わっていて当たり前なのだが、紀紗が重くなったことに対して焔は人間の父親のように驚いた。首に回された腕もあの頃とは力強さが違った。それがやはり、嬉しいと同時に切なかった。
 耳元で紀紗が言う。
「久しぶりだね、こうするの」
「ああ」
 焔の背に顔をうずめ、紀紗は目を閉じる。
「……あったかい」
 胸の中に心地良さが広がった。
「また、翼の中で寝かせてやる」
「うん」
 半ば冗談でそう言ったのだが、紀紗は嬉しそうに笑った。
 盛大に笑いたい衝動を抑え、焔は上空を見据える。
「――掴っていろ」
 紀紗の腕に力が篭ったのを確認した後、真紅の竜がアスファルトを破壊して飛翔する。
 地面を離れた刹那には遥か上空の高度にまで到達し、その一瞬の内に焔は体の周りを薄い炎の膜で覆う。膜の内部の空気を制御し、紀紗に掛かる負担を無にする。体の弱かった頃の紀紗を気遣ってのことだったのだが、本人はもちろんこのことを知らない。しかし知らないなら知らないでいいと焔は思うのだ。態々言うことでもあるまいし、言ってどうなるということでもないのだから。
 翼を大きく広げながら一度目の羽ばたきで体勢を整え、二度目の羽ばたきで大空を疾る。空間を切り裂いて駆け抜ける焔の姿は、下界から見上げた誰の目にも移らないはずだ。焔の飛翔はそれほどまでに速く、風以上の神速を弾き出す。真下に見えるはずの景色が冗談のような速さで背後に流れていく。大空を縦横無尽に疾る真紅の竜の背に乗るは、一人の少女。いつか見た、真っ白な小さな世界から主を連れ出したあの日のような光景。胸の中が大きく高鳴る。このまま永遠に続く世界の向こう側に飛び立つことも、今の焔には可能だと本気で思う。
 焔と紀紗に任された八つの空間の内の一つは、最も遠い場所にある山の頂上だった。その場所を焔が選択した理由は二つ。一つ目は、遠い所でも焔なら数分もかからずに辿り着けるからである。そして二つ目。それこそが、焔が山の頂上を選んだ本当の理由だった。二つ目の理由は、辺りに無駄な被害を出さないため。焔がその気になれば、町の一つや二つは簡単に火の海に変えることができる。が、そんなことをする必要も無いし、したいとも思わない。だから、焔の戦闘に巻き込まれて生じる被害を少なくするために、何も無く誰もいない山頂を選んだのだ。
 拓也のアパートからそこまでは、車で一時間はかかる距離にある。しかしその一時間もかかるはずの距離を、焔はたったの三分足らずで一掃した。眼下に広がる山脈の一角を捉え、焔は降下する。青々と茂っていた緑の木々を根こそぎ押し潰し、真紅の竜は地面に降り立つ。その衝撃が山全体に伝わり、木に巣を作っていた鳥たちが一斉に青空に飛び立っていく。響き渡る鳥の鳴き声を耳に入れながら、焔は体の周りを覆っていた炎の膜を消滅させた。
 辺りの静けさに気づいた紀紗が焔の首から腕を外し、ゆっくりと降りる。落ち葉が広がる地面を紀紗が歩く度、乾いた音が静寂の中を舞う。
 焔の少し前を歩き、くるりと振り返る紀紗と目が合った。
「ね、焔。これ、憶えてる?」
 紀紗がそっと目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ刹那、
 静寂の空間に透き通った口笛が鳴り響く。それはただ吹いているだけではなく、明確な音楽を奏でていた。そして焔は、その音楽を知っている。記憶を遡りながら、いつか聞いたその音楽に焔は身を委ねた。あれは、いつだったか。確か紀紗と初めて出逢った次の日の夜ではなかったか。焔が紀紗を小さな病室から連れ出し、最初の夜を過ごしたあのとき。巨大な翼の中で眠りに落ちようとしていた紀紗が、不意に焔を見上げて微笑んだのだ。それを見て不思議そうな顔をする焔に向かって、紀紗が口笛で奏でてくれた音楽。それが、これだ。
 子守唄だよ、とあの頃の紀紗は言った。
 本当にちっぽけだが、とても懐かしい、小さな小さな演奏会が開かれる。それに参加するのは、一人の少女と、人間ではない真紅の竜。
 透き通った口笛は、澄み渡った青空にどこまで響いていた。
 やがて演奏会が終ったとき、少しだけ恥ずかしそうに紀紗が微笑む。
「……あの頃より、少しだけ上手くなったでしょ?」
 涙、というものが狭間の番人に流せるかどうかは知らない。
 しかしもし流せるのだとしたら、こういうときに流すものなのではないのかと焔は思う。
「紀紗、」
「なに?」
 焔は笑う、
「礼を、言う」
 紀紗も笑う、
「どう致しまして」
 無邪気に笑う少女と、不器用に笑う真紅の竜。
 二人の絆は、四年の歳月を経てもなお、ここに、存在している。
 ――時刻が、六時十五分を指した。
 焔の根本に根付く感覚が、空間の歪の変化を明確に感知した。紀紗と焔のその向こうに、漆黒の闇がその口を開く。そこからあふれ出す緑の光の粒子に紛れ、【界の狭間】で見た特殊兵が次々と這い出てくる。その手に持つは、歪んだ刀とライフルだ。焔はそっと歩み出して紀紗を庇うように立ちはだかり、牙をむき出して特殊兵を見据える。漆黒の口から這い出た特殊兵の数は、合計で十八人。馬鹿にしているのか、と焔は思う。狭間の番人・焔を相手に、『機械人形』が十八人だけというのは、真紅の竜を愚弄しているとしか思えないのだ。
 そしてもちろん、ヨナミネもまた、十八の特殊兵如きで焔に勝てるなどとは微塵も思っていなかった。『焔が相手なら戻って来い』、それが特殊兵に与えられた『意志』の一つ。這い出てきた特殊兵たちは、そこにいるのが焔だと認識するや否や、我先にと漆黒の口に舞い戻っていく。あふれ出る緑の光の粒子に紛れ、あっという間に十八の特殊兵はその場から消え失せた。
「……逃げてっちゃった」と紀紗がつぶやくが、焔がすぐに「それは違う」と否定する。
 漆黒の口が再び蠢く。そこから突如として緑の光の粒子が大量に噴射し、冗談のような数の特殊兵が這い出てくる。焔の感知力を持っても、その数を瞬時に割り出せなかった。しかもその特殊兵たちが持つ武器は、歪な刀でもライフルでもない。それは試作セロヴァイトとも違う、意志を持たない完成セロヴァイトである。ざっと見渡しただけでも、そこにはすべての型が揃っているのだということは容易に理解できた。打撃型三種の孤徹、羅刹、氣烈。斬撃型三種の風靭、水靭、雷靭。射撃型三種の虚連砲、軌瀞砲、戯丸砲。それ等がすべて、ここに揃っている。ようやく、漆黒の口から這い出てきた特殊兵の数を割り出せた。その数は、実に百二十人。山の山頂が特殊兵に埋め尽くされたと言っても過言ではあるまい。
 そして、漆黒の口が一際大きく蠢いたとき、そこから『何か』が這い出た。その『何か』を見たとき、焔が不敵に笑った。這い出た『何か』は、深緑の竜だった。とてつもなく深い緑色の巨体から生える巨大な翼、研ぎ澄まされた両手両足の爪、閉じているのにも関わらず剥き出しにされた牙、何者でも簡単に射殺してしまう眼光、そして全体から迸る圧倒的な殺気。神という化け物に他ならない、最強のセロヴァイトである幻竜型。しかしセロヴァイトにあるはずの意志が無く、それ以前に幻竜型なのに自我を持たず、ただ主の命令だけを忠実に実行するためだけに造り出された完成セロヴァイトであると同時に、殺戮機械。プログラムで行動し、何も考えることなく純粋に命令通りに動く機械。それこそが、幻竜型セロヴァイト・虚。狭間の番人に似せてヨナミネが造り上げた玩具である。
 九種のセロヴァイトを持つ特殊兵が百二十、幻竜型セロヴァイト・虚が計五体。これくらいしなければ焔には勝てない、とでもヨナミネは思っているのか。その考え方自体がもはや異常である。それぞれ九種の完成セロヴァイトを持つ百二十の特殊兵を相手にして勝てるセロヴァイヤーがいるかどうかさえ危ういのに、それに加えて幻竜型が五体も参戦するのだ。通常のセロヴァイトより遥かに強力な幻竜型セロヴァイトを五体同時に相手にして、勝てるセロヴァイヤーなどまずいないはずである。目には目を、化け物には化け物を。その言葉がこれ以上当てはまるような状況は、他には無いだろう。
 紀紗が焔に寄り添う。その体は、言い表せない何かに蝕まれているような気がした。焔が負けるはずはない、だけどこんな大勢の敵に勝てるかどうか心配だ――、紀紗は、そんな風に考えているのかもしれなかった。確かに、これだけの敵を目の当たりにしたら恐怖と不安に体を蝕まれても無理は無い。それこそ、これだけの敵と対峙したのなら普通の人間ならまず間違いなく、悲鳴を上げて逃げ出すところだろう。しかし紀紗は逃げ出さず、焔を信じ抜こうとしているのだ。それは、紀紗が如何に強いかを示しているのではないだろうか。
 そんな我が主を満足気に見据え、焔は笑う。
「安心しろ、紀紗。お前は、このおれが守ると誓ったはずだ」
 見上げた紀紗からそっと離れ、焔は炎を開放する。
 刹那、紀紗を囲うような形で劫火が吹き荒れた。それは紀紗をこの空間から完全に隔離し、外部からの攻撃をすべて拒絶する炎の檻と化す。突然のことに驚いた紀紗は目の前に現れた炎の壁を叩くのだが、紀紗程度の力では当たり前のようにビクともしない。紀紗を包み込む感情に、もはや恐怖や不安は含まれていなかった。紀紗は少しばかり怒り、むうっと膨れっ面になって「またわたしだけ仲間外れにして」とつぶやく。そんな紀紗を「許せ」と宥めて、焔は目前に展開する特殊兵と虚を見据える。
 紀紗を隔離する理由は、ただ一つ。紀紗を、巻き込んでしまわないため。さすがにここまで大勢の敵で攻めて来られるとは思ってもみなかったのだ。少々、ヨナミネを甘く見ていたのかもしれない。この数の半分くらいまでなら、紀紗のことを気にしながら戦える余裕はあった。しかしここまで来ると、さすがにそうも言っていられない。久しぶりに、力をすべて解放してもいい戦闘になりそうだった。その力の前に、紀紗を巻き込んでしまわないために、隔離したのだ。
 焔は、盛大に笑う。これほどまでの数を向かわせるヨナミネも異常だが、それと対峙して笑う焔もまた、異常である。
 虚から五つの咆哮が上がり、特殊兵がゆっくりと焔との距離を縮めていく。そんな光景を見据えながら焔は一度だけ目を閉じ、そして開けた刹那、そこには誠の灼熱が宿っていた。迸る殺気に紛れて突如として真紅の竜の体に劫火が荒れ狂い、やがてそれは何もかも焼き払う地獄の業火と化す。焔に近づいていた特殊兵がその炎に触れた瞬間、防護服が一瞬で溶けて内部から蒸発した。地面をも溶かし始めた真紅の竜を中心として、山頂をマグマのような液体が支配していく。ここだけに世界の破滅が訪れたかのような、壮絶な光景である。
 焔が破壊の咆哮を上げた。それは一陣の衝撃波となって一挙に吹き抜け、その直撃を食らった近場にいた数十人の特殊兵がいとも簡単に戦闘不能に陥る。吹き抜けた衝撃波へ対抗するかのように虚が咆哮を上げるが、そんなもの焔の前では何の意味も成さない。虎と猫が鳴き合っているようなものである。炎が渦巻く焔には近づくことさえできず、特殊兵が見守る中、劫火を身に纏った焔が地盤を砕いて飛翔する。
 眼下に広がったゴミのような敵を見据えながら、焔は思う。このおれを相手に、高々こんな程度の雑魚を向かわせてどうするつもりだヨナミネ=S=ファイタル。こんな雑魚ばかりで、このおれに勝てるとでも思ったか。おれを雑魚だけで倒したいと思うのなら、この百倍の数の雑魚を用意して来い。狭間の番人・焔の力を甘く見られることほど、虫唾が走ることはないぞ。貴様の手下は、一撃で消滅させてやる。この一撃は、貴様への贈り物だ。有り難く受け取れ、ヨナミネ=S=ファイタルッ!!
 真紅の竜を纏っていた劫火が、抉じ開けられた口の奥底に収縮される。そこから弾き出されるは、紛れも無い破滅の鼓動。それに気づいた五体の虚が焔を追って飛翔し、地上からは射撃型セロヴァイトによる銃声が響き渡る。しかしそれでも、焔はその場から動くことすらしなかった。眼下を見据えながら、人間には決して聞こえない大声で叫ぶ。死にたくなければ失せろ、と。その声に反応し、山を寝床としていた鳥や小動物たちが一斉に逃げ出す。山には特殊兵と虚しかいなくなったことを確認したとき、完全に収縮された劫火が焔の中で炎の弾丸に生まれ変わる。そしてそれは、虚より銃弾より速くに、その威力を解き放った。
 焔の口から撃ち出された炎の弾丸は、迫っていた五体の虚を一瞬で蒸発させ、銃弾を根こそぎ消し去りながら山の山頂に激突する。一瞬だけ、空間そのものが死に絶えた。世界の色彩が白と黒で形成され、刹那にこの世のすべてを焼き尽くす劫火を伴う突風が爆音と共に吹き抜ける。焔が撃ち出した弾丸は、漆黒の口を飲み込みながら山を一つ、消し飛ばした。突風と爆風が納まったそこには、青々と茂っていた木々も百二十の特殊兵も五体の虚も、何もかも残ってはいなかった。あるとすればそれはただ一つ、紀紗を守った炎の檻だけだ。
 焔はその檻の側に上空から舞い降り、紀紗を開放してやる。どうやら紀紗は檻に凭れていたらしく、炎が消えると同時にその場に小さな悲鳴を上げて背中から倒れ込んだ。しかし紀紗は少しばかり怒った顔をしてすぐさま立ち上がり、焔に詰め寄って何事かを言おうとして、止まった。呆然と辺りを見回し、そこに何も無いことを理解した刹那、焔の体がぽかりと殴られた。
 正真正銘に、紀紗は怒っていた。
「馬鹿焔!!」
 開口一番が、それだった。
 こんなことしたらダメなんだからねこんなことしたら大家さんに怒られるんだからね、などとよくわからないことを叫びながら、紀紗は焔をぽかぽかと殴り続ける。そんな紀紗を苦笑しながら宥め、焔はやり過ぎたか、と少しだけ反省する。辺りをぐるりと見渡し、我ながらよく破壊したものだと焔は思う。これだけの威力の攻撃を行ったのは果たして何百年振りか。まだまだ衰えていない我が力が誇らしかった。しかし紀紗を怒らせてしまったのがとんでもない汚点である。どうしたものか、これだけ怒った紀紗を見るのは初めてである。どう対処していいのかわからず、焔は成すがままに紀紗に殴られ続けた。
 紀紗はいつまで経っても、焔をぽかぽかと殴ることをやめなかった。

     ◎

 ――六時十五分。
 八つの内の空間の一つであるその場所は、大きな川沿いの橋の下だった。コンクリートの柱にはどこぞの馬鹿が書いたのかわからないスプレーの落書きが施されており、雑草が生い茂った地面には空き缶や雨に打たれて理解不能な雑誌などが無造作に散乱していて、誰が好き好んでこんな所に訪れているのか、真新しい煙草の吸殻が数本転がっていた。そして地面に突き刺さった木の看板には『ゴミを皆で集め、この町を綺麗にしましょう』との文字が書いてある。人に頼らずこの看板を立てた奴が自分で綺麗にしろ、という話である。
 そんな汚らしい橋の下の片隅に、突如として漆黒の闇がその口を開く。そこからあふれ出した緑の光の粒子に紛れ、防護服に身を包んだ特殊兵が這い出てくる。その数は合計で二十人で、それぞれが手に持つは歪んだ刀とライフル。【界の狭間】からこの世界に這い出た特殊兵は、ゆっくりと展開しながら辺りの様子を窺う。しかし探せど探せど、周りには敵の気配は無かった。試作セロヴァイトを持つ違法セロヴァイヤーが待ち構えている、とヨナミネからは伝えられていた。だがここにはそれらしき人影は無い。ここは違法セロヴァイヤーの盲点なのかもしれなかった。
 四番箇所制圧可能。特殊兵は与えられた『意志』に基づき、そのような信号を【界の狭間】に送ろうとした刹那、
 刀を持つ特殊兵の一人の背中が、粉砕された。煙を上げて倒れ込む仲間を見据え、特殊兵たちは信号を送る作業を瞬時に中断して戦闘体勢に入る。しかし先に確認した通り、辺りに敵の姿は無い。だが確かに、攻撃を受けた。現に仲間が一人、やられた。背中が木っ端微塵に粉砕され、中に詰め込まれていた擬態が無残に飛び散っている。
 また一人、今度は顔面を粉砕された。ヘルメットを貫通し、顔が跡形無く砕かれた仲間がその場に膝を着いておかしな方向へ倒れ込む。どこから攻撃されているのか、まるでわからなかった。残りの特殊兵がセンサーを稼動させて敵の発見に全力を尽くすが、一向にその姿を捉えることはできない。それどころか、敵の攻撃は続く。探している間にも次々と仲間が粉砕され、一人、また一人とその数が減っていく。
 その場に立ち止まっている場合ではなかった。恐らく、敵は遠くから狙撃している。ならば立ち止まっているから狙い撃ちにされるのだ。特殊兵が一斉に走り出し、敵からの狙いを避ける。が、走っただけで避けられる攻撃ならば苦労はいらなかった。走っているのにも関わらず、先と何一つ変わらずに仲間が粉砕された。首から上が真上に吹き飛び、火花を散らして地面を転がる。
 『機械人形』如きに、この状況を打破できる術は無かった。
 特殊兵を狙う攻撃は、音の無い弾丸である。
 橋の下より遥か彼方、肉眼では到底捉え切れないその場所に、そのセロヴァイヤーはいた。高層ビルの屋上に寝そべってスコープの付いた狙撃銃を構えるその表情に宿るは、異常なほど嬉しそうな微笑であり、それに比例して口元が不気味に歪んでいる。スコープ越しに逃げ惑う特殊兵を見つめるそのセロヴァイヤーの名を浅野茜といい、セロヴァイトの真名を射撃型セロヴァイト・軌瀞砲という。かつて第十二期セロヴァイヤー戦に参戦した一人であると同時に、神城啓吾を打ち破ったセロヴァイヤーである。
 射撃型セロヴァイト・軌瀞砲の特性は、物質の粉砕と自動追尾。一度狙われれば最後、軌瀞砲から逃れられる者などこの世には存在しないのである。そしてその特性は、遠距離攻撃を行ってこそ真骨頂を発揮するのだ。軌瀞砲に選ばれしセロヴァイヤーは、そのことを誰よりもよく理解している。倍率が果てしないスコープの先に見える間抜けな敵を見つめながら、浅野は一定間隔でトリガーを絞り続けた。
 その表情には相変わらずの異常な微笑が宿り、口元をさらに歪ませて浅野は歌うように笑う。
 ――楽しくって仕方ないじゃない。次は、誰を殺した方がいいと思う?

     ◎

 ――六時十五分。
 八つの内の空間の一つであるその場所は、住宅地から少しだけ離れた所にある田んぼ道である。そこはアスファルトで舗装されているような上等な代物などではなく、田舎ような何とも不便な砂道で、砂の上に伸びるは車ではなく当たり前のようにトラクターのタイヤの跡であり、そんな道の真ん中に突っ立っているのはこの場にはあまりに不釣合いな黒いスーツを着こなした男性だった。その脇に持っている茶色い革の鞄とオールバックにした髪形を比較しても、どこからどう見てどう考えても、ただのサラリーマン風の男である。その男の名を東芝徳二(とうしばとくじ)といい、今年で三十二歳になるのだが未だに独身街道を進みながらバリバリと働くサラリーマンだ。
 そして六時十五分を指したその瞬間、徳二の目の前の空間が突如として歪み、漆黒の闇がその口を開く。そこから緑の光の粒子があふれ出し、防護服に身を包んだ特殊兵が這い出てくる。徳二は目で見て数えるのではなく、久しぶりに頭の中のレーダーを活用させて敵の数を割り出す。漆黒の口から這い出てきた特殊兵の数は、合計で十五人。その手に持つは、歪んだ刀とライフル。完成セロヴァイトってヤツじゃないのか、と徳二は思う。徳二の周りに展開した特殊兵が一斉に刀を振り上げ、同時にライフルの狙いを固定する。三百六十度に広がった敵をぐるりと見渡し、徳二は笑った。久しぶりの戦いである。通勤前の準備運動だ。
 徳二はつぶやく。
「……一分三十秒、ってトコかな」
 一分三十秒で終らせる、という意味である。
 脇に持っていた鞄をそっと地面に置き、徳二は腕を前に突き出してその真名を小さく呼んだ。
 刹那、徳二を覆う空間がぐにゃりと歪み、そこから緑の光の粒子があふれ出す。それは意思を持って漂い、徳二の真横にその形を形成する。普通のセロヴァイトよりは遥かに多い量の緑の光の粒子が生み出したそれは、ある種の大砲に似ていた。いや、大砲という表現は間違っているのかもしれない。最も近い言い方をすれば、バズーカになる。会社へ通勤途中のサラリーマンが持つにはあまりに不釣合いであるはずなのだが、なぜか徳二とそのセロヴァイトは完全に一体化しているように思える。徳二の側に佇むセロヴァイト、それが射撃型三種の内の一種、射撃型セロヴァイト・戯丸砲。
 トリガーの部分を強引に掴み、徳二がシルバーに塗装が施されたバズーカを片手で持ち上げる。それを肩に担ぐと同時に、戯丸砲の横っ面から何かが突き出てくる。それは徳二の目に合わさるように停止し、赤い硝子のようなものを生み出した。赤い硝子で構成されたスコープの向こうに見える特殊兵に狙いを定め、徳二は戯丸砲との同調を開始する。戯丸砲から流れ込む意志を体全体で感じながら、この感覚は果たして何年振りだろうかと心底嬉しくなった。久々の相棒との再会、そして最高の戦い。それが今、現実のもとして降って湧いた。
 徳二は戯丸砲の砲口を真上に向け、トリガーを引き絞った。ごおん、という衝撃波が辺りに吹き抜け、砲弾が青空の中へと突っ込んでいく。それをスコープ越しに眺め続け、やがて見えなくなった瞬間に、徳二は戯丸砲を特殊兵に向けた。その表情は、普段の徳二を知っている人間から言わせれば大凡想像もつかないような笑みだったに違いない。仕事だけが生き甲斐で、仕事場では徳二の笑った顔など誰も見たことはない。東芝徳二とは、そういう男だ。なのに、徳二は今、狂気の笑みを浮かべて獲物を視界に捕らえている。
 徳二の笑みに促され、特殊兵が行動を起こす。刀を持つ特殊兵は走り出し、ライフルを持つ特殊兵は徳二に向かってトリガーを絞る。そんな光景を見据えながら、徳二はバズーカの砲口を真下に向けてトリガーを押し込んだ。衝撃波と共に砲弾が弾き出され、一瞬の内に地面に激突した刹那に圧倒的な破壊が巻き起こる。その爆風に煽られた特殊兵が足を止め、撃ち込まれていた銃弾の軌道が狂って的外れな方向へ飛んでいく。濛々と舞い上がる煙の中、二度目の破壊が起こった。
 吹き荒れる爆風に気を取られていた特殊兵の視界の彼方から、砂煙に紛れて『何か』が上空に飛び出す。しかし特殊兵は誰一人としてその『何か』には気づかない。『何か』は他の誰でもない、戯丸砲のセロヴァイヤー・東芝徳二である。巨大なバズーカを空中で構え、真下に展開していた特殊兵たちの中心部を目掛けてトリガーを引き絞る。衝撃波と共に撃ち出された砲弾が、徳二の意志ですぐさま特性を発揮する。やっとその事実に気づいた特殊兵が見上げるその中で砲弾は炸裂し、広がる爆炎と煙の中から飛び出すのは無数の銃弾。それが一つ一つ散弾銃のように放たれ、真上から特殊兵を狙い撃つ。が、それだけで戯丸砲の特性は終らない。
 射撃型セロヴァイトの特性には共通点がある。一つ目の特性はそれぞれ違うが、二つ目の特性は射撃型に至ってはすべて同じなのだ。つまりは、銃弾の自動追尾。戯丸砲の一つ目の特性は散弾であり、それと合わせって完全なる戯丸砲の本領を発揮する。特殊兵の真上で散弾した無数の銃弾は、空中で軌道を捻じ曲げて確実に特殊兵を貫いていく。『機械人間』にはやはり、それを避け切れるだけの能力は存在しなかった。
 地面に着地した徳二が破壊した特殊兵を見据えながら、手首に巻いた腕時計に視線を移す。あの発言をしてから、ちょうど一分だけ経過していた。残りの三十秒は必要無かった、と思った瞬間、漆黒の口が再び蠢き出す。緑の光の粒子に紛れて這い出てくるは、先にも増した数の特殊兵だ。数は合計で三十人。その手に持つは歪んだ刀でもライフルでもない、完成セロヴァイトである一振りの刀。それが風靭であるのか水靭であるのか雷靭であるのかは、徳二にはわからなかった。わかる必要も無かった。そんなことは、関係無いのである。
 這い出てくる特殊兵に視線を向け、徳二は胸の中で数を数えてつぶやく。
「――チェックメイト」
 遥か上空から、黒い塊が落下する。
 それは這い出てきたばかりの特殊兵のど真ん中に激突し、圧倒的な破壊を巻き起こしてすべての敵を一瞬で粉砕した。弾け飛んでくる特殊兵の残骸を器用に避けながら、爆風で乱されたオールバックの髪を手で整え、戯丸砲に礼を言いながら消滅させ、地面に置いてあった鞄を回収して砂を軽く叩いて踵を返し、徳二はゆっくりと歩きながら手を差し出して腕時計を見つめる。
 徳二は笑う。
「ジャスト一分三十秒」
 電車の時間には、当たり前のように間に合った。

 東芝徳二。それは、第七期セロヴァイヤー戦優勝者の名。

     ◎

 ――六時十五分。
 八つの内の空間の一つであるその場所は、海の見える防波堤だった。上流では飲めるほど綺麗だったはずの川の水も、上流から中流へ、そして下流へと流れて河口に辿り着けばいろいろな汚れをその身に受けてとんでもなく汚くなる。この海を支配する海水の中には、そんな経緯を辿っている分、何が混ざっているのか知れたものじゃない。ここまで辿り着いた川の水は、とてもじゃないが飲めやしないのだ。海水浴場の所などはもう最悪だ。どう考えても変なものが混ざっているに決まっている。そんな海水が波に乗ってぶつかるは、テトラポットが出鱈目に積み上げられた横に長く続く防波堤。
 その防波堤の先端に、人影が立っている。海って髪がべたつくから嫌いなのよね、と岩田奈美(いわたなみ)は思う。二十八歳にもなった女が一人、何が楽しくて朝の海になど来なければならないのか。もっとこう、ハワイとかグアムとかの海なら絵になるのだろうが、この汚い海が背景では綺麗もクソも無い。端から見たらこのまま自殺するのではないかと思われても何ら不思議ではないのだ。まだ三十路の負け犬になるのだと決まった訳じゃないのに死んでたまるか、と美奈は思う。本日四十三回目のため息を吐き出した際に鼻につく塩の匂いがまた、奈美を悲しくさせる。
 唯一の救いがあるとすれば、それは自らの右手に握られたこの子だ。奈美の手に握られているのは、一丁の銃である。小型の自動小銃のようなその容姿だが、何かが違う。一見しただけではトリガー以外にははっきりとした名称がつけられない、異形の拳銃。奈美が大事そうに胸に抱えるそれは、射撃型三種の内の一種、射撃型セロヴァイト・虚連砲。奈美は、虚連砲に選ばれしセロヴァイヤーである。
 そして虚連砲と共に、再び戦う機会がまた、ここに生まれた。奈美の目の前に突如として漆黒の闇がその口を開き、あふれ出す緑の光の粒子に紛れて特殊兵が這い出てくる。数は十二人と少ないような気はするが、防護服を身に纏うその姿を見て奈美はただただ格好悪いなあ、と見当違いのことを思う。もっとこう、イケメンやダンディーな人が相手なら向こうに寝返って逆ハーレムなどを創設するところなのだが、相手が宇宙人ではお話にならない。これはもう、さっさと片付けてホストにでも行って癒してもらわねばなるまい。
 特殊兵が奈美の姿を視界に収め、歪んだ刀とライフルを持って少しずつ距離を詰めていく。
「忠告しとくけどさ、帰ってくれる気、無い? 帰るのなら見逃してあげるけど」
 駄目元で言ってみたのだが、やっぱり駄目だった。
 奈美は本日四十四回目のため息を吐き出しながら、虚連砲との同調を開始。虚連砲との意志が交わったとき、もっと真面目にやれ的な言葉が舞い込んできた。どうやら虚連砲も怒っているらしい。しかし奈美は悪びれる様子も無く、アンタだってあたしのこと知ってるでしょ真面目になんてできないわよ、などと言い返して黙らせる。けどまあ、やるからにはしっかりとやるよ。それだけは約束するけどね、きょーちゃん。虚連砲だから『きょーちゃん』。気色の悪いネーミングである。
 奈美に狙いを定めて特殊兵が行動を起こした刹那、
「はい残念」
 その声に反応して、奈美の頭上に停滞していた見えない銃弾が撃ち放たれた。その数は合計で五百。見えない五百の銃弾が、走り出した特殊兵を例外無く飲み込んでその姿を煙の向こうに消し去った。煙幕が潮風に乗って消えていく中、そこから現れたのは見るも無残にバラバラにされたり蜂の巣にされたりした十二の特殊兵である。数秒で終らせたその裏には、奈美の計画が眠っているのだ。
 虚連砲がその真骨頂を発揮するのは、待ち伏せである。予め銃弾を停滞させた場所に相手を誘き寄せれば勝ったも同然、現に特殊兵は一人残らず秒殺した。しかし骨が無さ過ぎである。早起きしたのに意味無いじゃない、どうしてくれんのよきょーちゃん、と悪態をつく奈美に向かって、虚連砲が警告を飛ばす。奈美がそれに気づいて視線を移したそこにあるのは、漆黒の口。その漆黒が再び蠢き、緑の光の粒子に紛れてまたしても特殊兵が這い出てくる。
 こーちゃんか、と奈美は思う。特殊兵の腕に装着されているそれは、二体一対の漆黒の鉄甲である。奈美が持つ試作セロヴァイトとは違う、意志を持たない完成セロヴァイト、打撃型セロヴァイト・孤徹。孤徹だから『こーちゃん』。相変わらず気色の悪いネーミングだ。
 這い出てきた三十の孤徹部隊が一斉に鉄甲を打ち鳴らし、奈美に狙いを定めて地面を砕きながら走り出す。
 それでも奈美は、孤徹部隊を一言で粉砕する。
「はいお疲れ様」
 停滞してた銃弾が、今度は千発同時発射された。
 この領域で奈美と戦うこと自体がすでに、特殊兵の間違いなのである。防波堤の一角で圧倒的な破壊が巻き起こり、海水が大きく舞い上がって奈美の髪を濡らす。それに小さな悲鳴を上げて急いで拭き取る奈美の視界の隅で、爆煙の中から数人の孤徹部隊が転がり出て来た。どうやら一気に三十人を潰すことには失敗したらしい。一撃で決めれなかったのは、奈美の誤算だった。生き残ってる数は十人、――いや、十二人。
 奈美の瞳が真剣味を帯びる。慎重に距離を詰め始めた特殊兵を真っ向から見据え、奈美は虚連砲を構え、そして、
「はい終わり」
 奈美の頭上に停滞していた銃弾の数は、優に五千を越える。それだけの数の銃弾を停滞させるために、二時間も前からこの場所で待ち伏せしていたのだ。その甲斐がようやく発揮された。女の子に四十四回もため息を吐き出させた巨大な罪を、償え宇宙人。
 残りのすべての銃弾が、一挙に撃ち出された。防げるはずは、無かった。
 破壊の限りを尽くされた防波堤に、馬鹿みたいな奈美の高笑いがどこまでも響く。

 岩田奈美。それは、第十期セロヴァイヤー戦優勝者の名。

     ◎

 ――六時十五分。
 八つの内の空間の一つであるその場所は、中学校の運動場だった。今日は日曜日で学校が休みであるため、こんな朝っぱらから態々学校に来る奴などまずおらず、朝霧が漂う運動場には人の気配は当たり前のように無かった。何部の下手くそが引いたのかは知らないが、グラウンドに引かれた白線がぐにゃぐにゃに歪んでいる。そしてその白線が目指す先に、雨に打たれてすっかり錆びついてしまった朝礼台が鎮座していた。その朝礼台の上に踏ん反り返って座っている太った熊のような親父が一人、目の前に佇む校舎を懐かしげに見つめていた。
 太った親父の名を大久保真(おおくぼまこと)といい、この学校の紛れも無い卒業者である。この中学校を卒業して早三十二年、四十七歳ともなればもういい年の親父だ。昔懐かしの校舎は、三十二年前とは随分と変わってしまった。昔はまだまだ木造だったのに、今ではコンクリートの化け物みたいなってしまっている。しかし面影は微かに残っているのが有り難い。
 例えば東校舎の三階の一番端の窓。確か大久保が中学二年生の頃だ。友達の上履きをあそこから外に向かってぶん投げたら、下を歩いていた校長に激突し、全校生の間で噂だった『校長の髪はズラなのか!?』という目下の疑惑を見事に暴いたことがある。あのときは大笑いしたなあ、と大久保は昔を懐かしむ。そして世代は変わり、今では大久保の息子と娘がこの中学校に通っている。あの伝説は今でもこの校舎に残っているのか、今度二人に聞いてみるか。
 大久保がそう心に決めた瞬間に、運動場のど真ん中に漆黒の闇が現れた。そこからあふれ出す緑の光の粒子に紛れ、防護服に身を包んだ特殊兵が這い出てくる。その数は合計で十七人。歪んだ刀とライフルを持つそれぞれの特殊兵と距離を隔てていたものの、向こうは大久保に気づいてゆっくりと距離を縮め始めた。しかし当の大久保は朝礼台に踏ん反り返ったまま身動き一つせず、特殊兵をじっと見据え続けていた。やがて大久保と特殊兵の距離が射程距離圏内限界まで近づいたとき、唐突に大久保が右手を上げた。
 構えを取る特殊兵に向かって、大久保はがははははははと盛大に笑う。
「警戒すんなや、心配せんでもいきなり襲いかかりはせえへんて」
 その言葉を理解したのかしていないのか、恐らく後者だろうが、特殊兵は突如として大久保目掛けて攻撃を開始した。
 大久保は度肝を抜かれた。
「ちょっ、ちょー待てっ!! 攻撃せえへん言うとるやろっ!?」
 問答無用だった。
 大久保の巨体が間一髪で地面を転がった刹那、朝礼台が歪な刀の一線に切断されて崩れ落ち、それに追い討ちをかけるかのようにライフルの銃弾が貫く。標的を逃した特殊兵はゆっくりと視線を移して構えを取り直す。特殊兵の先にいるのは、転がっただけでもすでに額に汗を浮かばせている太った親父である。日頃の運動不足が祟っているのだろう。運動は定期的せなあかんのやな、と改めて大久保は思った。
 距離を徐々に詰める特殊兵に向き直り、大久保は豚から猪に変貌する。
「礼儀知らずいうのは最低やぞ。上等じゃ、勝負したろやないか」
 汗ばんだ右手を差し出した刹那、その真名が響き渡る。
「――氣烈」
 大久保の真横の空間がぐにゃりと歪み、そこからあふれ出した緑の光の粒子がゆっくりと漂いながら差し出された右手に集まり始める。それはこの世界に決まった形を形成するために活動し、やがてその役目を終えると同時に弾けて消えた。そこから現れたのは、大久保の巨体と同等の大きさを誇るハンマーである。打撃型セロヴァイト・氣烈のセロヴァイヤー、それが、大久保真。流石に現役、とまではいかないが、まだまだ行けるのではないかと大久保は少しだけ嬉しくなった。実際は痩せ細っていた現役の頃より、巨漢となった今の方が氣烈と似合っていたりするのだが、今はそのことは黙っておこう。
 大久保は握り締めた氣烈との同調を開始する。大久保の意志が流れ込むと同時に、氣烈の意志が大久保に流れ込む。久々に聞く氣烈の爽快な笑い声。それに合わせるようにして、大久保もまたがははははははと盛大に笑う。まるでその笑いに比例するかのように氣烈が輝き出し、巨大な親父と巨大なセロヴァイトがその真の姿を現す。二トントラック一台分はあるであろう馬鹿でかいハンマーを片手で担ぎ上げ、熊のような巨漢は野生動物よろしくで咆哮を上げた。
 氣烈が地面に振り下ろされると同時に、辺りを地震に似た振動と轟音が包み込む。その衝撃でバランスの崩れた特殊兵たちを尻目に、大久保は氣烈の特性を発動させた。馬鹿でかいハンマーの横っ面に小さな窪みが幾つも造り出され、一瞬の沈黙の後にそこから排気音が噴き出す。ジェットブースターで空気を噴射しながら氣烈のボルテージを最高峰まで引き上げる。バイクや車のエンジンを吹かすかのように空間を震わせ、氣烈が辺りを振動の渦の中に引っ張り込んでいく。
 ――死に晒せや。
 大久保のそのつぶやきが特殊兵に聞こえたかどうかはわからない。しかし、大久保は問答無用で地面を蹴って走り出した。それに気づいた特殊兵が構えを取るが、もう何もかも遅いのである。振り抜かれた氣烈がジェットブースターで加速を開始、最前列にいた五人の特殊兵を丸ごと飲み込んでゴミのように押し潰す。振り抜いたその大振りが弱点だと、特殊兵は知っていたらしい。その隙を目掛けて大久保に攻撃を仕掛けようと、
 ジェットブースターの噴射が反転する。右に振り抜かれた氣烈がジェットブースターにものを言わせて重力を捻じ曲げ、一瞬の内に左に振り回された。今度は近づいていた八人の特殊兵が飲み込まれて押し潰され、運動場を横切って校舎まで吹き飛んでいく。残りの四人がそれに怖気づいて逃げ出そうとするが、大久保は逃げる暇さえ与えない。氣烈を特殊兵の真上から振り下ろし、加速の下に四人を同時に押し潰す。特殊兵が潰れる際に何か変な音が響いたが気にしない気にしない、細かいことを気にしてたら大物にはなれんよがはははははは。
 たったの三振りで十八の特殊兵を薙ぎ倒した大久保は、額の汗を拭いつつ良い運動になった、と素で思う。しかし運動はまだ続く。頭の中のレーダーが反応し、それに気づいた大久保は視線を移す。運動場の中央にある漆黒の口が、再び蠢き出していた。そこから這い出てくる特殊兵は、先ほど倒した奴等とはまったく違った。その身に纏うのは防護服ではなく、貝殻のような構造をした灰色の鎧である。大久保は、そのセロヴァイトの記憶を頭の奥底から呼び起こす。
 氣烈と同じ、打撃型セロヴァイト・羅刹。特性は、自動修復と強奪。
 ――上等や、皆殺しじゃ。
 同じ打撃型でも、氣烈は一味も二味も違うのだ。走り出した三十の羅刹部隊を真っ向から見据え、大久保は氣烈を振るう。余裕でそれをガードする羅刹部隊だが、甘い。自動修復? そんなもの、氣烈の前には何の意味も成さないのだ。氣烈が羅刹に激突した刹那、衝撃が鎧を貫通して中身を木っ端微塵に粉砕した。無残に破壊された仲間に戸惑う特殊兵たちを、大久保は次から次へと暴走したかのように押し潰していく。
 打撃型セロヴァイト・氣烈。それは、打撃型三種の中で唯一、防御を捨て攻撃だけに特化されたセロヴァイトである。氣烈に作戦や戦術などは無意味。何も考えずにただ力だけで押し通す。それこそが、氣烈の力を最大限に引き出せるのだ。防御をしなければならない、という雑念を振り払い戦う。自分が傷ついても敵だけは一人残らず粉砕する捨て身のセロヴァイト。しかし、純粋に攻撃だけに特化された唯一のセロヴァイト。それ故に、強い。
 気づけば、羅刹部隊も残すところ後一人だけとなっていた。周りに飛び散る仲間を見渡し、特殊兵は突如として大久保に背を向けて走り出す。その先にあるのは、漆黒の口だ。逃げ帰るつもりらしい。しかしそれを易々見逃すほど、大久保はお人好しではないのだ。氣烈との同調をさらに引き上げ、ジェットブースターの加速を極限まで開放させる。足をその場に固定し、それを軸に氣烈をゆっくりと振り回す。
 ハンマー投げに近い体勢だった。最初はゆっくりと回転していた氣烈だが、ジェットブースターと遠心力にものを言わせて加速し続け、やがて竜巻のような現象を発生させる。実戦でこれを使うのは初めてだった。それまでのタメが長い分、ただの遊びで発明した技。よもや二十年以上経った今になってそれが実行できるとは何たる喜びか。
 ――死に晒せや宇宙人ッ!!
 大久保が地面から足を離し、軌道を変えたジェットブースターで空高に舞い上がる。真横を向いた竜巻の中心部から漆黒の口に辿り着きそうな特殊兵を正確に捕らえ、大久保は全身全霊の力を込めた。それに気づいた特殊兵が一瞬だけ背後を振り返る。あるいは、振り返らなければこの攻撃は避けられたのかもしれない。だが特殊兵は振り返り、刹那にその顔が巨大なハンマーの渦に飲み込まれ、
 運動場に膨大な亀裂が走り、どうすることもできない破壊が巻き起こった。
 紙切れのような細さまで押し潰した特殊兵を踏みつけながら、大久保はがははははははと盛大に笑う。
「隆一に真美! どうや!! お父ちゃんは、強ぇえッ!!!!」

 大久保真。それは、第二期セロヴァイヤー戦優勝者の名。

     ◎

 漆黒が支配する空間の中に、控え目な男の声が響き渡る。
「報告します。一番から七番箇所はすべて制圧失敗、八番箇所に至っては、」
 突如として轟音と共に、漆黒の空間の一角に劫火が荒れ狂った。それは八番箇所の近くにいた者を例外無く飲み込んで一瞬で蒸発させる。荒れ狂った劫火は勢いを衰えることなく近場の獲物を次々と焼き払い、まるで炎自体に自我があるかのように蠢き続ける。大勢の人間の大声が張り上げられ、一瞬の内に消火作業が開始された。しかし劫火の勢いはそれでもなお死なず、さらに獲物を求めて動き続ける。
 その光景に背中を向け、ヨナミネ=S=ファイタルは笑う。やってくれる、焔。同調率が異常に高い渡瀬拓也と神城啓吾、それと焔の箇所は制圧に失敗するだろうとは思っていたが、よもやすべての箇所の制圧に失敗するとは少々予定が狂う。一つや二つくらいなら制圧できると考えていたのに、とんだ誤算だ。それだけ向こうが強いのか、それともやはり単純な意志しか持たない機械人形如きでは役不足なのか。恐らく、そのどちらも制圧に失敗した理由に当てはまるのだろう。セロヴァイトを与えても、使う者が人形では所詮宝の持ち腐れに過ぎないということだ。
 予定とは少し違う形となったが、これもまた一つのシナリオ。計画には、何の支障も無い。
 ヨナミネは側に待機していた男に向き直る。
「ここまで舐められては、わたしも少々不愉快だ」
 男が少しだけ驚いたような顔をして、
「『アレ』を使うつもりですか、ヨナミネ殿……? ですが、『アレ』を使う者が、」
「何を言っている。使用者は、このわたしだ」
「――……了解しました」
 男が一礼して走り出すその姿を見送りながら、ヨナミネはようやく納まった劫火を視界に捕らえる。
 始めようではないか焔。君が望む最強の戦いとやらを。君を、その舞台で今度こそ本当に、殺してやろう。
 そっと後ろを振り返り、ヨナミネは小さく笑いながらつぶやく。
「――お前も、そう思うだろう?」
 背後の漆黒から、突如として鈍い黄金色が滲み出てくる。
 ヨナミネと大差無い大きさの『それ』は、試作セロヴァイト・虚を元に造り出した完成セロヴァイト。

 ヨナミネの最終兵器が、この戦闘に、参戦する――。





     「麻桐と羅刹と」



 何度か経験はあるものの、やはり緊張するものは緊張するのである。
 電話に気づいて受話器を手にしたのが母親の方ならいい。それならそれで問題は何一つ無く、用件を伝えて世間話でもしよう。しかしもし、電話に気づいて受話器を手にしたのが父親だった場合、それは最悪の展開なのではないのか。ただでさえ父親の方には嫌われているのに、もしその用件が「もう一日だけ娘さんをこっちに泊まらせたいのですが」などというものだったら、普通なら怒り狂うであろう。それこそ包丁片手にどこの馬の骨ともわからん糞餓鬼のアパートに乗り込みたくもなるはずだ。
 例え父親が出張で家に居ないということがわかっていても、それでも緊張する。
 もしも、という自体がこの世にはごまんと存在するのだ。もしも出張が予定より早く終って、今頃家でのんびりしていたらどうなるのか。もしも出張が途中で中止になり、家に帰ってみれば可愛い一人娘はおらず、その理由を知って電話の前で頭に角を生やして待ち構えていたらどうなるのか。もしも、今頃こっちに包丁を持って向かって来ていたらどうなるのか。もはや大惨事である。明日の朝刊の一面を制圧するほどの事件に発展するかもしれない。見出しは『娘を取られた父親大激怒! 包丁片手に大乱闘!?』であり、内容は『娘を取られたことに怒り狂った父親が相手男性のアパートに乱入、そこに居た者を全員刺し殺し、錯乱した挙げ句に娘までその手で殺めてしまった』というものに決まっている。そうなったら、取り返しのつかない事態になってしまう。
 だから、緊張する。
 遥か昔、警察署に悪戯電話をしたとき以上の緊張が全身を包み込み、震える手を何とか落ち着かせながら嫌な汗が流れる額を拭い、渡瀬拓也は携帯電話の電話帳を開いてカーソルを移動させ、『七海紀紗自宅』の番号をディスプレイに表示させる。大きく長い深呼吸を一つ、気合一発で頭の中を一喝し、当たって砕けろ精神をモットーにすべてを決める。こうと決めた一直線、行動あるのみだと心の中で呪文のように唱えながら通話ボタンを押す。
 僅かな間の後、呼び出し音が静かに流れた。相手が出る前に回線を遮断できればどれほど楽なのだろう、と思う。だがそれはもうできない相談であった。呼び出し音が聞こえるということはつまり、紀紗の自宅の電話はもうすでに鳴っているということであり、ここで切ってしまえば質の悪い悪戯になってしまう。そして何より、ここで回線を遮断した場合、もう二度と電話をする勇気が出て来ないような気がする。実に情けないことであるのだが、さすがに問答無用で思いっ切りぶん殴られれば恐い。時折、あのときに殴られた右頬が痛むことがあるのだ。どうやらあの拳には呪いの作用もあるらしい。
 永遠に近い五秒が過ぎようとした刹那、呼び出し音が消えて回線が『七海紀紗自宅』へと繋がった。第一声が聞こえるその瞬間が、緊張の糸が最も張り詰める。最悪の事態が頭の中を駆け巡り、「神城さんのお宅ですか? ――え? 違う? あ、すみません、間違いました」と言いながら電話を断ち切る自らの姿がなぜか浮かんだ。そんなことができたのならどれほど楽か。想像の中の自分が死ぬほど羨ましい。間抜けな考えであるとは言え、どうしようもなかった。
 そして拓也の苦労は、徒労に終る。電話に出たのは、紀紗の母親の方だった。
 もしも、の事態はやはり無かった。
『はい、七海です』
 緊張の糸が切断され、強張った拓也の表情にとんでもない安堵の色が現れる。
「あ、渡瀬です」
 通話口の向こうから楽しそうな声が響く、
『拓也さん? 紀紗がいつも、お世話になっています』
「いえ、とんでもないです」
 実際はお世話をしている訳だが、そんなことは口が裂けても言えない。
『どうしたんですか? 紀紗が何かしました?』
「いえ、そういう訳ではなくですね、あー……その、ですね、」
 紀紗をもう一日こっちに泊めてもいいですか。
 その言葉がどうしても出て来ない。すぐそこまで到達しているのだが、喉に引っ掛かっている。そしてその言葉を先延ばしにすればするほど言い出し難くなり、拓也は一人馬鹿のように焦って自らの言葉でさらなる泥沼へと落ちていく。電話に出た相手が母親であることが唯一の救いであるはずなのに、いざ話してみるとその言葉が上手く伝えられない。普段の自分ならこんなに焦る必要など無いのにどうして、と思ってしまうのは仕方の無いことだった。
 紀紗の家に電話を掛けたことは過去に何度かある。しかしその用件は大体、紀紗が拓也のアパートに忘れて行った忘れ物のことであり、間違ってもこんな用件で電話を掛けることなど無かったのである。ものわかりが良く話し易い紀紗の母親だが、さすがにそんなことをさらりと伝えられるほど拓也は親しく無い訳で。人様の家の女の子を勝手にどうこうできる権利は当たり前のように拓也には無い訳で。どうしようもない焦りが拓也を支配し、ついには「今日も良い天気ですねそれでは」などと抜かして電話を切ろうかと本気で思った瞬間に、拓也の後ろから携帯電話がひょいっと奪われた。
 驚いて振り返るとそこには紀紗がいて、携帯電話を耳に当てて「お母さん?」と問い掛ける。一言分の間の後、拓也がどうしても言えなかったはずの一言を紀紗はさらりと言ってのける。
「もう一日だけ拓也の所に泊まっていい?」
 数秒だけ沈黙が続き、紀紗が続けて「うん」「うん」と肯く。
 それからすぐに拓也を振り返り、携帯電話を差し出す。呆然としながらそれを受け取り、拓也は通話口を耳に当ててつぶやく。
「もしもし、」
 紀紗の母親は、なぜか実に嬉しそうに笑っていた。
『紀紗をもう一日だけ、お願いしてもよろしいでしょうか?』
「あ、それはまったく構わないのですが……その、本当にいいんですか?」
『ええ、紀紗も喜びますから。それでは、紀紗をよろしくお願いしますね。頑張ってください、拓也さん』
 そうして、通話は断ち切れた。音のしなくなった携帯電話を手にしたまま、拓也は思う。
 一体何をよろしくするのか。一体何を頑張るのか。紀紗の母親は、少々自分を信用し過ぎているのではないか。しかも絶対に何か変な勘違いをされたに違いない。万が一、もちろん万が一だがそんな状況になったとしよう。しかしそれを喜んで承諾する紀紗の母親は一体何を考えているのか。娘が心配じゃないのだろうか。それとも拓也を信用しているからこその承諾なのか。それならば「頑張ってください」の意味がわからない。
 数回会ったことのある紀紗の母親、七海穂乃香(ほのか)。紀紗の可愛さは間違い無く母親の遺伝子を受け継いだからだと思う。十七歳の娘を持っているとは思えないほど若々しく、そして綺麗な人だ。いつも笑っていてまるで仏みたいな母親だと拓也は思うが、同時に穂乃香の考えることは未だによくわからないというのが本音である。紀紗の考えていることもたまにわからないから、似た者親子なのかもしれない。そして紀紗の父親、七海洋介(ようすけ)の遺伝子がどこに行ってしまったのかはこの際置いておこう。正直な話、紀紗と洋介は似ていないと拓也は思う。複雑なお家事情などは無いだろうが、深入りすることもでないので今はまだ黙っていよう。
 携帯電話を片手に廃人のように立ち竦む拓也へと、啓吾の声が届く。
「拓也も大変だね。あれでしょ? 紀紗ちゃんのお父さんってめちゃくちゃ恐いらしいじゃん」
 その言葉に反論するは紀紗。少しだけ膨れっ面になりながら、
「そんなこともないもん。お父さん優しいもん」
 すると啓吾の横に座っていた彩菜が、「そうそう。紀紗ちゃんのお父さんってすっごく優しくて良い人だよ。ね、唯ちゃん」と横を振り返り、その視線の先にいた唯は祐介との会話を止め、少しだけ考えた後に「そうですね。すごく優しくて格好良かったです。お母さんもすごい美人さんでしたよね」と同意し、またしても彩菜が「あれには驚いたね。二人とも紀紗ちゃんにそっくりだったし」と重々しげに肯いて遺伝子という神秘の物事を追求し始める。彩菜と唯は何度か紀紗の家に訪れたことがある。そのときにちょうど穂乃香と、そして仕事が休みだった洋介に出会ったのだ。
 紀紗と彩菜と唯の言葉を聞いて、啓吾は首を傾げて廃人に問う。
「話と違うじゃん拓也。紀紗ちゃんのお父さんって確か、物凄く恐い熊のような大男だって言ってなかったっけ? で、一度暴れ出すと手に負えず、決死の思いで止めようとした拓也をぶん殴った、って。あのときの殴られた傷ってそんな経緯を経たからだ、って拓也言ってなかったっけ? ――あ、そうだ。焔も一応、紀紗の両親は見たことあるんでしょ? 実際のところどうなのさ?」
 垂れ流しにされたテレビの上で首を丸めて器用に眠っていた焔が啓吾に一瞬だけ視線を移したのだが、すぐに「おれには関係無い」とでも言いたげに目を閉じてしまう。しかしその後に「焔!」という紀紗の声が響いたことに驚いて焔は顔を上げる。そこにいるのは自分の両親の潔白を晴らそうと必死になっている紀紗であり、僅かに涙が混じるその潤んだ瞳に焔が勝てるはずも無く、渋々といった感じで絞るようにつぶやく。
「――……紀紗の両親は夏川や佐倉が言った通りの人間だ。それ以上でもそれ以下でもない」
 紀紗は満足気に笑い、彩菜が「ほらね」と啓吾を見つめ、唯もその通りですとばかりに肯く。
 そこに刺すは、それまで黙っていた祐介である。
「……拓也さん、もしかして嘘ついてたんですか……? おれにも確か、啓吾さんと同じこと言ってましたよね……?」
 疑うような口調。いや事実、祐介の目は据わっていて完璧に疑っていた。
 その場にいた全員の視線が拓也へ注がれ、ついに廃人が口を聞いた。
「黙れ。おれに取ってはすっげえ恐い人なんだよ。問答無用で殴り飛ばされたおれの気持ちも知らねえで偉そうなことを言うな。わかるかテメえ等、紀紗が心配で家まで送って行ってやったら、いきなり殴られたときのあの切なさ、悔しさ、恐さ。心優しいおれがなぜ殴られねばならないのか。言い訳しようにも親父さんはおれと一言も口を聞いてくれない。その沈黙が何よりも恐ろしいと感じるあの瞬間の苦しさが、テメえ等にわかるってのかコラ」
「……でも、それで嘘をついていいってことにはなりませんよね……?」という唯の的確な突っ込みにより、拓也の作戦は流れた。
 かつて廃人だった男が振り返った刹那の一秒、一瞬にして頭を下げた。
「すまん」
 一瞬の沈黙、全員の視線が拓也から外れる。
「――それで、だ。焔、これからの行動について教えてくれるか?」と啓吾が真剣な顔で問い、祐介が「また明日、今日と同じ場所で戦うんですか焔さん?」とそれに続き、彩菜と唯が互いに肯いて焔を見据え、紀紗もその場の雰囲気に身を任せて頭の隅で拓也のことを気にしつつも無視することに決める。取り残された廃人が一人、「これだ、この恐ろしさと苦しさだ。シカトされるほど恐いことが無いって、テメえ等知ってるか? なあ、オイコラ、聞いてんのか?」とつぶやき続けるが、当たり前のように誰も同意してくれない。
 垂れ流しにされたテレビの上で、焔がゆっくりとその場に揃った面子を見渡す。昨夜と何も変わらない面子が、昨夜と同じようにここに集まっている。セロヴァイヤーでもない夏川彩菜がこの場にいるのは少々気にかかるが、神城が連れて来たのなら問題は無いだろうと焔は納得する。焔はもう一度だけ揃った面子を見渡し、満足気に笑った。焔の予想通り、誰一人としてヨナミネの手下には負けていない。ここにいないセロヴァイヤーたちも敗北していないことはすでに確認済み。
 そしてまた、ここにいる全員が次の戦いを見据えている。焔が次にやるべきことを話そうと口を開いたそのとき、時刻は昼の十二時五分を指していた。
 垂れ流しにされていたテレビの画面に映ったニュース番組の現場リポーターの女性が、こんなことを言った。
『ご覧ください! 見えますでしょうか!? あそこ、あの平らな場所が本日早朝、謎の爆発と共に消滅した山です! ここから見ただけで十分にわかると思いますが、山があった所一帯が灰だけになって消滅しているのです!!』とかなり興奮しながら叫び、画面がスタジオに切り替わってニュースキャスターが『この謎の爆発によって消滅した山の他に、使われていないはずの工場跡や防波堤、何も無いような田んぼ道でも謎の爆発が確認されており、中学校の校庭に至っては巨大な亀裂が入っています。そして公園では昨夜に続き水道の鉄パイプが刃物のようなもので切断されたとの情報も寄せられています。新手のテロではないかという噂も飛び交うのですが、専門家の方にお話を窺ってみた所、これは何か大きな天変地異が起こる前触れではないかと言われており、山が一つ無くなるというのは現代からは考えられないことで――』
 テレビを見ていた啓吾が「……恐い世の中になったな」とつぶやき、彩菜が「……うん」と肯く。二人が「お前等はどう思う?」みたいな顔をしてその場の全員を振り返った刹那、同時に言葉を失った。実にわかり易い反応だったと思う。祐介と唯はあらぬ方向に視線を泳がせて冷汗を流しながら俯いており、拓也は窓の外を見つめて鼻歌を歌い、焔は我関せずで沈黙を決め込み、紀紗に至っては啓吾と彩菜に向かってぶんぶんと首を振りながら必死に「わたしは何も知らないもんっ」と弁解する。
「馬鹿じゃないの、あんたたち」という彩菜の一言ですべてが終った。
「……お前等な、もうちょっと限度を考えろ、限度を。山を消したってのは……焔、だな?」
 啓吾の問いに、焔は開き直ったような態度で、
「心配要らん。すべてが終ったら元通りにして、それに関するすべて記憶を消し去ってやる」
「対立を守る狭間の番人とは思えない台詞だな」
「すべてはヨナミネ=S=ファイタルの責任だ。おれの責任では無い」
 焔の口から出たその名前に、啓吾が再び真剣な表情をする。
「冗談はこれくらいにして、だ。……ヨナミネが次にしそうなことは何か。そして、おれたちがこれからするべきことは何なのか。教えてくれるか、焔?」
 啓吾の真剣さがその場にいた全員に感染する。祐介と唯は視線を上げて焔を見据え、拓也は振り返って次の戦闘のことを思い、紀紗はよくわからないが聞いておこうみたいな顔をして話に入る。
 焔は言う。
「八つの空間の内、ヨナミネが墜とした空間は一つも無い。恐らく、これはヨナミネからすれば誤算だっただろう。一つや二つくらいなら制圧可能であり、そこからこの世界に乗り出そうと思っていた。そう考えていいはずだ。しかし、ヨナミネの作戦は崩れた。そしてここまで来たのなら、ヨナミネも傍観はしていない。機械人形如きでは役不足と悟り、次の戦闘には必ず奴自ら出向いて来る。貴様等が知る九種のセロヴァイトではなく、最終兵器であるセロヴァイトと共に」
「……虚……」
 その言葉をつぶやいたのは、唯だった。
 焔は同意する。
「そうだ。幻竜型セロヴァイト・虚。だがそれは貴様等が持つセロヴァイト同様に試作品。試作セロヴァイト・虚を元にした完成セロヴァイトを率いて、必ずやヨナミネ自らがこちらの世界に出向いて来る。奴はセロヴァイト執行協会の司令塔であると同時に、恐らくは最も強い男だ。仮にも向こう側の世界を握る人物、そう考えるのが妥当だろう。そして、ヨナミネたちが次にこちらの世界に乗り込んで来る時刻は、今から約十二時間後、明日の午前零時だ」
 その言葉に、唐突に拓也が笑った。
「つまり焔はこう言いてえ訳だろ? 午前零時にこっちの世界のセロヴァイヤーが一箇所に集結し、這い出てくるヨナミネとその完成セロヴァイトをぶっ倒す。んで【界の狭間】に乗り込んで中に根付くってる連中を片っ端から破壊し、そして、今度はおれたちが向こう側を制圧する。――違うか?」
 違う、とその場にいた全員が突っ込んだ。
 啓吾が苦笑し、
「一応そうなんだろうけど、最後の台詞は違う。そんなことをしたらヨナミネと一緒で対立する世界の均衡を乱すことになる。つまり、だ。おれたちがやるべきことは【界の狭間】にいる敵を片っ端からぶっ壊した所で終わり、それからの後始末は狭間の番人である焔の役目。――そうでしょ?」
 今度はその場にいた全員が納得する。
 不貞腐れた拓也を無視して、焔が答える。
「その通りだ。貴様等がやるべきことはヨナミネの迎撃、及び【界の狭間】の掃除。残りの後始末はすべてこのおれが引き受け、」
 その刹那、焔の表情が変わった。突然に視線を窓の外へ向け、信じられないものでも見たかのように眼光を鈍らせる。
 全員が焔の視線を追って窓の外を見たとき、祐介の周りを囲む空間がぐにゃりと歪んで緑の光の粒子があふれ出す。「うわっ」と驚いた声を出す祐介の右手に緑の光の粒子は収縮し、それが弾けて消えたそこから現れるのは一振りの刀。偶然の連鎖によって発生したバグを持つ斬撃型セロヴァイト・雷靭。それが祐介の意志とは関係無く、この世に具現化された。
 状況がわからず困惑する祐介の口から飛び出すは、全く別人の声だった。
『焔』
 その場にいた唯以外の全員が驚愕に染まった瞳で祐介を凝視し、拓也の「何お前、腹話術できんの!?」という声と共に興味津々で身を乗り出す。
「え、あ、違いますよっ、これは雷靭が、」
『気づいたか?』
 焔は祐介の手に握られた一振りの刀を見据える。
「――雷靭、か。……ああ、気づいている」
『どうするつもりだ? 予定とは違うのではないのか?』
「どうやら、ヨナミネは無駄な手間を省きたいらしいな」
『――ッハァ! ならば、戦うしかあるまい?』
「わかっている」
 焔は一度だけ言葉を切り、その場にいた全員を見渡し、そして、言った。

 「羅刹のセロヴァイヤーの反応が、消えた」

     ◎

 桐原麻桐は、仲間というものが大嫌いである。
 喧嘩を受けて立つ際にはよくわかるのだ。弱い奴が群れて凶器を手にして自分が最強、などと勘違いしてやがる。麻桐は、それが腹立だしくて仕方が無い。仲間を作るのは弱者だけである。本当に強い者に、仲間などは必要無いのだ。紛れも無い強者は一人、クソ弱い奴等をまとめて相手にする。その信念を掲げ、麻桐は二十歳までたった一人で突き進んできた。誰とも群れず、仲間を持たず、ただ一人で。
 いつか体験した光景。麻桐をぐるりと囲む弱者の群れ、その手に握られる鉄パイプや金属バット、刃物やスタンガンの凶器類。上等である。己が生まれ持ってある拳を使わず凶器に頼るということは、自分が弱者であると認識している証拠。凶器とはそれを使わねば生きて行けぬ、それが無ければ喧嘩もできない弱者の象徴である。麻桐は自分を囲む腰抜けを見渡しながら、叫びと共に駆け出し、そのチームの頭を殴り倒しながら大暴れをした。
 勝敗は、麻桐に上がった。しかし無傷で勝てるはずは無かった。鼻と左腕と肋骨二本が折られ、額は割れて右目が血に染まったあの感触を、麻桐は今でも鮮明に憶えている。しかしそれでも気分は爽快だった。折られた鼻と左腕と肋骨二本の痛みも、額から流れる鮮血の生温かさも、視界が赤一色に染まるあの感覚も、冗談のように荒い呼吸も、辺りに散らばす弱者の群れも、視界で見て体で感じるすべてのことが爽快で、そして新鮮だった。
 一人で戦うことだけが、麻桐の生き甲斐だった。それが変わったのは二十歳になった冬。郵便受けに入ったいた無地の封筒、その封筒に入っていた馬鹿げた手紙、選ばれし十人での殺し合い。疑いはあっだが、その戦いに参戦することに対しての迷いは無かった。ヴァイスを飲み込み、麻桐はセロヴァイヤーとなる。望みを叶えるということは、正直どうでもよかった。ただ普通とは違うこの戦いで勝ち抜きたかった。だが、一人で勝ち抜くことはできない。なぜなら、それはセロヴァイヤー戦だから。なぜなら、それはセロヴァイトと共に戦っての戦闘だから。
 生まれて初めて仲間を作り、生まれて初めて武器を手にした。
 打撃型セロヴァイト・羅刹。それが、麻桐の仲間であり、武器である唯一無二の相棒。第十二期セロヴァイヤー戦に参戦し、麻桐は最後の二人になるまで生き残る。射撃型セロヴァイト・虚連砲との戦闘を経て、幻竜型セロヴァイト・焔と戦った。虚連砲のセロヴァイヤーとの勝負は実に簡単に勝てたが、後者は違った。麻桐と羅刹を超越する幻竜型。真っ向から戦ってそれに勝てるはずはなかった。そもそも相手が人間ではないのだ。そんな化け物を相手に、人間が勝てるはずはない。だから、勝ちだけを貰うことにした。幻竜型セロヴァイトのセロヴァイヤーを、先に殺した。
 その時点で第十二期セロヴァイヤー参加者数は二人となる。麻桐と、打撃型セロヴァイト・孤徹のセロヴァイヤー・渡瀬拓也。幻竜型がいなくなったセロヴァイヤー戦は、楽に勝てると思っていた。しかし、麻桐は負ける。生まれて初めて一対一の戦闘で負けた。屈辱以外の何ものでもない。それからの四年間、麻桐はあの日のあの光景を忘れたことはない。そして、その屈辱を返す日が訪れた。理由は知らない。だけど、羅刹は再びこの世界に舞い降りた。これでもう一度、渡瀬と戦うことができる。本当の強者はどちらか。今度こそ、それを証明してやる。そう、思い続けていた。
 なのに。それなのに、どこで何を間違ってしまったのか。いつの間にか、本当に倒さねばならない相手と背中合わせに違う敵と戦っていた。仲間が嫌いで、群れるのは弱者だけと思い一人で戦ってきたこの自分が、他人と共に戦っているのだ。笑い話以外の何ものでもなかった。が、その裏で麻桐は思う。それはそれで悪くは無かった、と。本音を言おう。渡瀬と組んでの戦闘は、純粋に楽しかった。弱者をまとめて相手にするより遥かに楽しかったのだ。
 強者と強者が手を組んで背中合わせに戦うということは、想像以上に心地良い。そのことに、ようやく気づいた。いや、気づかされたのだ。今まで対等の存在などいないと思っていた。そんな存在に成り得る者すらいないと思っていた。しかし現れたのだ。一度は負け、本気でぶち殺された相手。しかしそれでもまた戦いと思う。そしてまた、共に戦いとも思う。
 もしも渡瀬のような奴ともっと早くに出会っていたのなら、自分はもっと違う人間になっていたかもしれない、と麻桐は笑った。咥えていた煙草の火を見つめ、煙を灰に送り込んで盛大に吐き出す。ぼんやりと頭上を見上げながら、穴の開いた天井から射す太陽の光に顔を顰める。ここは、あの日に渡瀬と戦った場所。今はもう使われていない工場の倉庫。巨大な壁の塗装は剥がれて所々に穴が開き、どこの馬鹿がやったのかは知らないがガラスは人の手によって叩き割れ、大きな鉄の扉にはスプレーでよくわからない落書きが施されている。廃墟と化しているのは一目瞭然だったが、麻桐はここが好きだ。この腐った場所は、自分によく似合っていると思う。
 煙草をその場に捨てて足で捻り潰す。行くか、とつぶやいて麻桐は立ち上がる。群れるのが嫌いだ、という理由で渡瀬たちと共に行動することを拒んだが、そろそろそうも言っていられない。どうやら相手の大ボスがこの戦いに参戦するようだ。真紅の竜がそう言っている。正直な話、焔とそのセロヴァイヤーにはあまり会いたくはないのだが、女々しいことを言っている場合ではない。渡瀬に負けられては困る。渡瀬と共に戦い、そして、あの日の決着を着けなければならないのだ。そのためだけに、麻桐は今再び、他人と手を組む決意を固めた。
 麻桐が歩き出そうとしたのと、空間が歪んだのは同時だったように思う。
 太陽の光がスポットライトのように射す倉庫内の空間がぐにゃりと歪み、そこから小さな雷のようなものが吹き荒れる。今日の早朝に見た光景とは異なるものだった。漆黒の口はそこにはあるのだが、そこから這い出てくるのは特殊兵ではない。小さな雷と緑の光の粒子と共に這い出てくるそれは、防護服に身を包むこともしていない一人の人間。漆黒の口から出てくるということはこの世界の人間ではない。つまりは、向こう側の世界の人間だ。
 漆黒の口から這い出てきたその人間は、服に付いた埃を払うような仕草をした後に麻桐に向き直り、ふっと表情を緩める。整った顔立ちに長い髪、深く黒い目を持つ男だった。その男は両手を左右に広げ、実にワザとらしい笑みを浮かべてこう言った。
「初めまして。羅刹のセロヴァイヤー・桐原麻桐」
 その笑みが気に食わなかった。
 同時に、こいつが誰であるのかを麻桐は一発で理解していた。向こう側の人間、というだけでは判別できないかもしれない。しかしこいつは違う。自信にあふれた表情、不気味な気配、何者も恐れないような瞳。こんな人間が、ただの一般人であるはずはない。今まで麻桐が出会ってきたどのタイプの人間とも違う雰囲気を持った男。状況はわかっている。この男がセロヴァイト執行協会の長であり、そしてこの戦いの幕を引いた張本人。
 その名を、
「……ヨナミネ=S=ファイタル……」
 御名答、とヨナミネは笑いながら肩凝りを治すかのように腕を回す。
「計算してあるとは言えやはり少々痛みを伴う。定刻通りにこっちの世界に来た方が良かったのだが、そうも言っていられないしな。これくらの反作用は多目に見るしかないか。……さて、どこから始めようか」
 無視されているようで気分が悪い。
 今すぐにでもこいつをぶっ殺してやりたい衝動に駆られた。麻桐と共にある羅刹が疼いているような気がする。早く具現化して戦え。羅刹がそう言っているように思えて仕方が無い。麻桐自身もそうしたいのは山々だが、少しだけ様子を見ようと思う。向こう側の世界とこの世界が繋がるのは早朝の六時十五分の一度切りではなかったのか。今現在の時刻は昼の十二時過ぎだ。それなのになぜこいつはこの世界に現れたのか。その狙いを知る必要があった。倒すのは、それからでも遅くは無い。
 麻桐は問う。
「何の用だ」
 ヨナミネは笑う。
「単刀直入に言おう。桐原麻桐、わたしの仲間になる気はないか」
「……なに?」
「君の考えは知っている。第十二期セロヴァイヤー戦優勝者である渡瀬拓也ともう一度戦いのだろう? わたしの仲間になればその望みは叶う。邪魔者が入らないような舞台を用意し、君と渡瀬拓也を思う存分に戦わせてやる。このままこの戦いが続けば渡瀬拓也との戦闘は永遠にできなくなる。それはなぜか。試作セロヴァイトを持つ君たちセロヴァイヤーは、誰一人として生き残ることができないからだ。しかしわたしの仲間になれば君と渡瀬拓也は戦える。しかもそれだけではない。仲間になるのなら最高の待遇で迎えよう。用意はすでに整えてある。後は君の返事一つで決まる。……それを踏まえた上で、もう一度だけ訊く。――桐原麻桐、わたしの仲間になる気はないか」
 真っ直ぐに麻桐を見据える深く黒い瞳から視線が外せなかった。
 仲間になれ。予想外の台詞に頭が追いつかない。それが原因だったのかもしれなかった。頭の中で反響するヨナミネの台詞だけが現実味を帯びる。ヨナミネたちに負ける気はしないというのが本音だが、仮にも相手はセロヴァイトを造った連中だ。そもそも麻桐が負けないと思う自信の根本に根付くのがセロヴァイトである。そのセロヴァイトを生み出した連中ならばセロヴァイトの弱点など熟知しているだろう。そんな連中を相手に、果たして本当に勝つことなどできるのだろうか。
 それに加え、自分がこの戦いに参戦する理由は一つしかないのだ。渡瀬拓也との再戦。それを行うためだけに麻桐は羅刹と共に戦うことを決めた。が、もしヨナミネの言う通りに渡瀬拓也が負けるのであれば、この戦いに参戦する意義が無くなり、同時に自らも死ぬだろう。ならば態々死ぬ道を選ばずともいいのではないか。死ぬよりはヨナミネの提案に乗った方が遥かに楽だ。ヨナミネの仲間になれば生き延びることができ、かつ渡瀬拓也と一対一で戦う舞台を与えてくれるという。一石二鳥である。死ぬ道を選ぶよりはどう考えても利口だ。
 ようやく頭がヨナミネの台詞に追いついた。そして、麻桐は笑う。
「嫌だね」
 意外そうにヨナミネが口を開く。
「なぜ?」
 麻桐は指を三本だけ突き立て、嫌味な笑みを見せる。
「理由は三つ。一つ、おれは仲間ってのが大嫌いだ。二つ、上下関係なんて最悪だぜ、虫唾が走る。……だが、そうだな。もしテメえがおれの手下になって、そっちの部隊をおれが自由に操れるっていう提案があったらその話に乗ってやってもいいが、このおれが頭になれないのならそれは願い下げだ。仲間も上下関係もクソ食らえだ、出直して来な」
 もし麻桐が共に戦うことを選ぶのなら、その相手はただ一人、渡瀬拓也。それ以外は、有り得ない。
 麻桐の言葉を聞いたヨナミネは、表情を崩さずに再び口を開く。
「ならば、三つ目の理由は何だ?」
 麻桐は三本だけ立てた指を引っ込め、今度は親指を突き立ててゆっくりと移動させる。それは一瞬で首を掻っ切るように振り抜かれ、勢いに任せたまま地面に向けられた。ヨナミネを睨みつけながら、麻桐は満面の笑みで笑う。
「何より、テメえの存在が気に食わねえ。テメえみたいな奴がおれは大嫌いでね。……てゆーかさ、ぐだぐだ言ってねえで始めようやヨナミネさんよ。まさか話し合いだけをしに来た訳じゃねえだろ。こっちはさっきからテメえをぶっ殺したくてうずうずしてんだ。かかって来ないのならこっちから行くぜ」
「――交渉決裂、か。ならば、もう一度死んでおくかい?」
「上等だ、長髪野郎」
 狂気の笑みを浮かべ、麻桐はその真名を呼ぶ。
「羅刹」
 麻桐を中心として辺りの空間が歪み、そこからあふれ出した緑の光の粒子が体に収縮される。緑の光の粒子の感覚を全体に感じながら、体の隅々を覆い始めたセロヴァイトの重みを噛み締める。緑の光の粒子が弾けて消えたとき、麻桐の体を纏うは貝殻のような括れた構造をした灰色の鎧。それが、打撃型セロヴァイト・羅刹。紛れも無い麻桐の相棒である。
 麻桐は鎧の下に隠れた口元を歪ませ、羅刹との同調を開始した。麻桐の意志が羅刹に送り込まれると同時に、羅刹の意志が麻桐の送り込まれくる。どうやら羅刹はかなりの勢いで怒り狂っているらしい。仮にも相手は羅刹を造り出した生みの親だが、同時に羅刹たち試作セロヴァイトを暗い闇の中へと封印した張本人だ。義理や人情を羅刹が感じる必要は当たり前のように無く、弾き出される意志は一つだけ。己を出来損ないのように扱った相手への復讐。それだけである。
 麻桐と羅刹の思うことは同じだ。――この長髪野郎を、ぶっ殺す。
「テメえもセロヴァイト持ってんだろ? 出せよ。そうじゃねえと、一発で終っちまうぜ」
 灰色の鎧を見据え、ヨナミネが笑う。
「出して欲しいのかい? ならば土下座して頼んでみるといいさ」
「クソ食らえだぜ。出さないのなら、望み通り、――ぶっ殺すッ!!」
 麻桐が姿勢を僅かに低くした一瞬、地面が力の反動によって破壊された。一度の加速でヨナミネに突撃し、麻桐は握った拳に力を込める。その余裕のあふれた表情に拳を叩き込み、鼻っ柱を盛大に圧し折ってやらねば気が治まらない。否、もはやそのいけ好かない顔が変形するほど殴り倒さねばこの怒りは収まらないだろう。羅刹との同調で怒りの上限が吹っ切れた。どうせここでヨナミネを殺しても罪にはならない。ならば、遠慮無く殺すまでだ。加速した麻桐の拳が撃ち出される。それは狙い通りにヨナミネの顔面へと迫り、
 麻桐の視界の中に佇んでいたヨナミネの表情は、終止変わらなかった。その笑みの裏にあるものの正体が何であるのかを麻桐が悟ったのは、拳が止まった刹那だった。加速した拳は勢いを殺され、見えない壁にぶつかったかのように静止している。麻桐が繰り出した拳は、ヨナミネには到達していない。麻桐の拳とヨナミネの顔の間に、『何か』があった。一瞬の間の後に、麻桐はそれが何であるのかを知る。そのままを言えば、それは黄金の人の手に見えた。その黄金の手が麻桐の拳を受け止めていて、そして、逆に握り返す。
 自分の拳が砕ける骨の音を、麻桐はまるで他人事のように聞いていた。激痛が体を貫いたことに気づいたときには、無意識の内に絶叫していた。頭の中が空白に染まり、その場に膝を着いて砕かれた右拳を無我夢中に引き戻そうとするが、信じられないほど強い力の前には麻桐の行動は無意味に終る。麻桐の拳を握り潰した『それ』は、それだけで留まらず、骨を文字通り粉砕するべくさらなる力を込めた。一度は砕かれた骨が、音を立てて再び粉砕される。羅刹を通り越して拳が握り潰れたことは、何よりもまず驚くような痛みを運んできた。
 何も考えられない空白の中で、ヨナミネが何かを言っている。
「君が望んだことだ。わたしのセロヴァイトを出して欲しかったのだろう」
 麻桐の拳を握り潰した黄金の手は、手首から上が無かった。手だけが拳とヨナミネの間に存在している。
 しかしそれは、ヨナミネの意志に促されるままに姿を現す。あふれ出した緑の光の粒子に紛れ、手首より上がこの世界に具現化された。ヨナミネと大差無い大きさの黄金色をした人型のセロヴァイト。それは人型ではあるのにも関わらず、しかしそれは根本的な所で人では無い。そもそも人をモデルに造り出されたものでは無いのだ。その顔は人とは遠く掛け離れた、獣のような骨格である。それを最も的確に表すとするのなら、犬やジャッカルが近い。試作セロヴァイト・虚を元に造り出された黄金のセロヴァイト。それが、ヨナミネの最終兵器。
「君たちの世界には、アヌビスと呼ばれる死を司る神がいるはずだ。わたしはその神が好きでね。わたし自らのセロヴァイトを造るのなら、それに似せて造ると決めていた」
 古代エジプト神話に存在したとされる神、アヌビス。それが、ヨナミネのセロヴァイトのモデル。
「これがわたしのセロヴァイト、融合型セロヴァイト・斑(まだら)だ」
 ヨナミネの話など、麻桐の頭には半分も入ってはいなかった。
 痛みに苛まれて動くことすらできないその体を力任せに引き上げ、黄金の身体が翻った際に麻桐の体がとんでもない速さで宙を舞った。宙を舞う感覚に麻桐が気づいて慌てて視線を彷徨わせた刹那に、視界が黄金に遮られる。斑は投げ飛ばした麻桐の体に瞬時に追いつき、灰色の鎧を確実に捕らえながら強引に引き寄せて羅刹が守る顔面へと拳を放った。黄金の拳が灰色の鎧に激突した瞬間から羅刹の特性が発動し、修復にものを言わせて攻撃を無効化にしようと動き出すが、羅刹の高速自動修復を上回る威力で繰り出された斑の攻撃がすべてを貫通した。
 倉庫の壁に叩きつけられ、立て掛けてあった鉄筋が容赦無く麻桐を打ちつける。鉄筋の下敷きになった麻桐は一人、暗闇の中で大きく深呼吸しながら落ち着けと自分に言い聞かす。潰された右拳の激痛を気力で抑え、何度も何度も深呼吸を繰り返した。ヨナミネのセロヴァイトは確かに強い。羅刹の上から拳を握り潰されるとは思ってもみなかった。それだけ相手が強いということはわかる。だがしかし、勝てないほどのものでもない。斑の動きは目で追えた。ならば攻撃を与えることも可能だ。落ち着け、相手に飲まれるな、負けるはずは、無い。
 羅刹の同調を極限まで高める。顔面に負った傷を修復し、右拳は鎧の強度を上げて無理矢理拳の形を造り出す。麻桐は自らを覆う鉄筋を跳ね除けて立ち上がり、羅刹の二つ目の特性を発動させて今日の早朝に奪い尽くした虚連砲部隊のセロヴァイトを具現化させた。あふれ出した緑の光の粒子が麻桐の体を支配し、そこから生み出されるのは射撃型セロヴァイト・虚連砲。異形の銃が灰色の鎧から這い出し、三十の銃口が視界の中に立っている黄金のアヌビスに定められた。右拳が使えないのは致命的だが邪魔にはならないのが唯一の救であり、体を蝕む痛みにはもう慣れた。
 渡瀬と戦うまで負けてたまるか。その意志だけが麻桐と羅刹を突き動かす。
 羅刹を通して虚連砲との同調を開始し、それと同時にヨナミネが歩き出した。
「斑の攻撃を受けてもまだ立ち向かうかとは驚きだ。やはり紛い物とは言え、セロヴァイトに選ばしセロヴァイヤー強い、という訳か。ならばこちらもそれ相応の対応をしなければ失礼というもの。……斑がなぜ融合型セロヴァイトと名付けられたか。その由縁を脳髄に焼きつけて消えろ桐原麻桐」
 ヨナミネが斑の背後に回り、手を差し出して黄金に触れる。その瞬間に腕が「ズズズッ」という鈍い音を発して斑に埋め込まれて行き、やがてそれは腕だけではなくヨナミネの体そのものを飲み込んだ。束の間の沈黙、瞬間に斑の瞳にそれまでには無かった蒼い眼光が灯る。そこから迸る力の鼓動は半端なものではなかった。それは離れた麻桐を圧倒し、そして羅刹を支配した。慣れたはずの右手の痛みが再発し、体中を蝕む激痛となって再び暴れ始めた。
 斑は使用者を覆うことに関しては羅刹と同じだが、根本的な所でまるで違う。羅刹は言わばセロヴァイヤーを覆う鎧。しかしそれとは対照的に違い、斑の体内に入ったセロヴァイヤーは神経系の一本一本が完全結合され、文字通り二つで一つの存在と化す。――それ故に、融合型。意志の交錯しかできないセロヴァイトでは辿り着けない境地に到達するセロヴァイト、それが融合型セロヴァイト・斑であり、そのセロヴァイヤーがヨナミネ=S=ファイタル。
 蒼い眼光が麻桐を捕らえながらゆっくりと動き出す。それに気づいた瞬間に麻桐は圧倒された自らを振り解いて意志を解き放ち、その眼光を真っ向から睨み返して支配されていた羅刹を呼び覚ました。迸る殺気を獣のような咆哮を上げることで相殺し、痛みを吹き飛ばして羅刹との同調を引っ張り上げ、三十の虚連砲のトリガーを同時に引き絞る。連になって響き渡る銃声に比例し、見えない銃弾が撃ち出された。一線で構成された銃弾が三十の束になって斑を狙う。
 しかしその連を正確に見極めながら、斑の体がゆっくりと動く。その場の空気にでも溶け込んだかのような動きだった。速さに任せて避けるのではなく、力任せに防ぐのでもなく、ただ純粋に舞うかのようにかわすのだ。それは速さで避けられるよりも力で防がれるよりも遥かに効率が良く、無駄な動きが無い故に無駄な体力の浪費が無い。このまま撃ち続けても当たるとは到底思えなかった。体勢を全く変えない黄金のアヌビスが忌々しく、今すぐにでもぶち殺したいという衝動が再び湧き上がる。撃って当たらないのなら、それを囮にして拳で打つまでだ。その考えの下に、麻桐は虚連砲のトリガーを引き続けながら地面を破壊して走り出す。
 麻桐が詰めた分だけ距離を取る斑をさらに追い詰め、壁際に追い込んだ瞬間にその間に空中に停滞させていた虚連砲の銃弾を一挙に撃ち出した。それに気づいた斑が右方向へと重心をズラそうとするその瞬間を、麻桐は見逃さない。虚連砲の銃弾をすべて斑の左に向けて撃ち放ち、完全に右方向へと回避し始めたその場所へ麻桐は先回りする。壁際に追い込んだのが幸いし、斑にはもう逃場は無かった。黄金のアヌビスが羅刹の射程距離圏内に入り、その狙いを麻桐が完璧に固定する。握り潰された右拳を懇親の力で振り上げ、痛みを超越して振り抜く。
 刹那に、斑の眼光が一瞬だけ大きく輝いた。しかし今更に何をしようと関係は無い。この一撃だけは、決めさせてもらう。テメえが砕いたと思っているこの拳がどれだけの威力を持っているのか、それをその身で確かめろ。これでこの拳が二度と使えなくなったって構やしねえ。テメえの気に食わないその顔面に叩き込んでぶち壊れるのなら本望だ。拳一つで、その鼻っ柱を貰っていく。まずは一発だ、食らえ長髪野郎が。
 懇親の力を込めた麻桐の拳が、斑の顔面を“貫通して”背後の壁に巨大な亀裂を走らせた。
 ――拳が、貫通した――? 拳が、文字通り斑の顔面を貫通し、背後の壁に到達していた。
 否、そもそも手応えすらなかった。どういうことか一瞬だけ状況が理解できず、しかし背後に感じた気配で何もかも悟った。
『――わたしの“残像”でも、見えたのか?』
 斑を通して語られるヨナミネのその言葉が、答えだった。
 麻桐の腕が貫通する斑の体が蜃気楼のようにぐにゃりと歪み、風に揺られるように掻き消える。
 状況を理解して麻桐が振り返るより速くに、黄金の拳が振り抜かれ、羅刹を捕らえた。特性を発動する暇は、無かった。
 斑の拳から伝わるそれは、破滅を齎す衝撃。噴き出した衝撃が羅刹を根こそぎ剥ぎ取り、麻桐の体を右拳同様に粉々に砕いた。仮にも、斑の原型は幻竜型セロヴァイトである。姿形が違えど、それを元に造り出されたのなら中身は幻竜型と同等か、あるいはそれ以上と考えるのが妥当だ。そして融合型セロヴァイトは後者の考えであり、同時にそれを超越している。斑は、幻竜型セロヴァイトの比ではない。普通の攻撃がもはや孤徹の爆散同等の威力を持つ。それは、羅刹が耐え切れるような攻撃では無かった。衝撃から僅かに遅れ、麻桐の口から大量の血があふれ出す。やがて力無くその場に膝を着き、前のめりに地面に倒れ込む。その体からはすでに、生体反応は失われていた。
 顔に付着した麻桐の血を拭い、蒼い眼光を滾らせてヨナミネはつぶやく。
『神経結合率は上々、実戦投入にも問題は皆無。……十分過ぎる成果だ』
 黄金のアヌビスから盛大な笑い声が響き渡る、
『――狩りの、始まりだ』
 その言葉を最後に、使われていない工場の倉庫から斑の姿が残像だけを残して消え、

 それから僅か一時間で軌瀞砲、虚連砲、戯丸砲、氣烈のセロヴァイヤーの反応が、消えた。





     「ヨナミネと斑と」



 桐原麻桐が負け、他の四人のセロヴァイヤーも同じく敗北。
 一緒に来て戦えよ、と拓也は麻桐に言った。しかし麻桐は振り返ることもせず、群れるのは嫌いだと言い残して羅刹と共に消えた。それでもいいか、と拓也は思っていた。いずれ来るべきときが来たのならまた共に戦い、それが終れば全力で戦う相手であるはずだった。そう信じて止まなかった。なのに。それなのに現実はそれを悉く裏切る形を示す。予定時刻などまるで無視し、桐原麻桐と四人のセロヴァイヤーの反応が消えた。反応が消えたということはつまり、もはや生きていないということである。
 麻桐がそう易々と死ぬはずはない。その考えは間違いではないだろう。しかし現に麻桐は負けている。それはどういうことなのか。答えは、実に簡単な所に転がっている。麻桐と羅刹を越える存在がこの世界に舞い降りた。たった、それだけのことだ。そしてその存在で考えられることは一つ。特殊兵如きに麻桐が負ける訳はない。ならば、麻桐や他のセロヴァイヤーが敗北した相手は一人に絞られる。セロヴァイト執行協会の長であり、この戦闘の幕を引いた張本人。
 ヨナミネ=S=ファイタル。ヨナミネの持つセロヴァイトが何であるのかは知らない。こちらにある情報と言えば、試作セロヴァイト・虚を元に造り出された完成セロヴァイトであるということだけ。相手のセロヴァイトがどのような型で、どのような特性を持っているかわからない以上は下手に動けないということは頭では理解している。セロヴァイト自らに選ばれしセロヴァイヤーが一時間の間に五人も殺されているのだから、半端な強さじゃないことも百も承知。しかし、それを理性が納得しても感情は納得しなかった。『仲間』を傷つけられて冷静でいられるほど、拓也は人間が出来てなどいない。相手がどんな奴で、どれだけ強いのか。そんなことはもはや、知ったことではなかった。
 沸騰するように煮え滾る怒りに任せて立ち上がり、自らのアパートから飛び出そうと走り出した刹那に、焔の声がそれを制止させる。
「どこに行く気だ、小僧」
 立ち止まり、しかし振り返らずに言葉を紡ぐ。
「決まってんだろ、ヨナミネの所だ」
 拓也の背中を、焔の眼光が貫いた。
「早まるな小僧。今更貴様が行ったところで状況は何一つ変わらん。恐らくはヨナミネも【界の狭間】に戻っているはずだ。貴様が【界の狭間】に辿り着ける術を知っている訳ではあるまい。行動を起こしたところで無駄足に終るだけだ。頭を冷やせ、それでは勝てる相手でも勝てなくなるぞ。怒りは力を霧散させるだけではなく、判断力さえも狂わせる。一人でヨナミネに立ち向かい、勝てるとでも思っているのか」
 違う、そうではない。勝てる勝てないの問題ではない。必ず勝たなければならないのだ。ヨナミネという糞野郎の胸倉を鷲掴み、その顔面に拳を叩き込んでやらねば気が済まない。もちろんヨナミネが今現在どこにいるのかは当たり前のように知らない。だがそれでも、家で何もせず座り込んでいるよりかは闇雲に探し回った方がマシである。可能性は限り無く零に近いが、零では無い。ヨナミネを見つけ次第、全力の力を持ってしてぶっ倒す。
 背中を貫く焔の眼光を振り払い、拓也は走り出す。しかしその瞬間、体が硬直した。金縛りにでも遭ったかのように身体が硬直し、指一本まともに動かせなくなる。眼球だけが辛うじて動かせるが、視野が極端に狭いために状況を把握することができない。なぜ自分の体が動かないのか。その真相を拓也に伝えたのは、自らの体を覆う風だった。拓也の周りを、まるで生き物のように風が這いずり回っている。やがれそれは見えない刃の形を形成し、その切っ先が拓也の喉元に添えられた。
 背後から静かに響く啓吾の声。
「落ち着け拓也。焔の言う通りだ。……もしヨナミネに拓也が会えたとしよう。でも今の拓也がヨナミネに勝てるはずがない。この程度の風にさえ手足の自由を奪われてるんじゃ話にならないよ。もしそれでも飛び出して闇雲に辺りを探したいのなら、この風を振り払って勝手にするといい。それができるのなら、おれはもう何も言わないさ。今動かしている風の束縛は、普段の拓也なら笑いながらでも振り払えるくらいの力だ。けど、拓也は動くことすらできない。――焔の言ってる意味、わかる?」
 どれだけ力を入れてみても、やはり指一本動かせなかった。怒りに紛れて悔しさが頭の中を支配する。焔の言うことも啓吾の言うことも痛いくらいにわかる。それが正論だってことも理解している。しかし、どれだけ足掻いてみても感情だけが納得しなかった。どうしようもない無力感だけが体の根本に根付いている。啓吾が手に持っていた風靭を消滅させ、風の束縛を解く。体の自由が戻って来たとき、拓也はその場に座り込んで拳を握った。歯が砕けるのではないかと思うほどに奥歯を噛み締め、握った拳を床に叩きつけて無力感を抑えつける。
 その様子を黙って見守っていた祐介がぽつりとつぶやく。
「……これから、どうするんですか」
 それに返答するは焔。
「ヨナミネはどうやら、このおれの想像を超える程の男らしい。まさか【界の狭間】の空間を捻じ曲げ、無理矢理こっちの世界に足を踏み入れるとは思っていなかった。これもまた、ヨナミネがこの戦闘を勝ち戦だと判断したが故の行動なのだろう。もはや明日の午前零時に行動を起こしているだけでは間に合わなくなる。……ここにいる全員に忠告する。今から、如何なる時でも一人にはなるな。一人になれば最後、ヨナミネは必ずそこを狙ってくるだろう。状況は、ヨナミネの方が圧倒的に有利だ」
 気まずい沈黙が室内を支配し、やがて啓吾が、
「打開策は無し、か。一か八かでこっちから攻め込みたいところだけど、そうなればヨナミネの思う壷って訳だろうし、どうしようもないか。……何か一つでも切っ掛けがあればいい。ヨナミネの内部を少しでも掻き乱せればそこに隙ができる。そこを突いて内部からぶっ壊すってのが一番効率が良いんだろうけど」
「切っ掛けって……何かあるの?」と彩菜が問い掛け、しかし啓吾はすぐに首を振って「ある訳ない。あったらもうやってるよ」と苦笑する。
 【界の狭間】が向こうの手に渡っている以上、圧倒的不利な立場に立たされているは誰の目から見ても明らかなことであり、加えてヨナミネの完成セロヴァイトの姿形もわからない。その存在が無ければこの状況を打破できる可能性は少なからずあるはずだったが、情報が不足し過ぎているのが否めない。どのような行動に出ようともこちらが後手に回るしか道は無かった。
 そのことに対して恐れが無いかと言えば、それは嘘になる。誰も敗北していないのだったら、まだ何とか保てるだろう。しかし現に、こちら側のセロヴァイヤーは五名も負けている。顔も見たことが無いような相手だが、セロヴァイト自らに選ばれしセロヴァイヤーだ。弱いはずがない。それ以前に、もしかしたらこの場に集まっているセロヴァイヤーより強い可能性だってあるのだ。それなのに、一時間の間に全員が負けた。姿形がわからないものほど恐いものはない。それが破滅を齎す存在であるとわかっているのなら、尚更だ。そのことに恐れを感じない人間などこの世にいるはずはない。誰も口に出して言わないだけで、内心ではその感情が渦巻いている。
 それは、拓也とて例外ではなかった。怒りと悔しさの奥底に、僅かな恐れが燻る。どうすることもできない自分にただ腹が立つ。しかしそれでも何とか感情を落ち着かせ、足りない分を理性で補い、拓也は大きく深呼吸を繰り返す。握り締めていた拳をゆっくりと解くと、それまで血が通っていなかった箇所にまで血が流れ通った。幾分か落ち着いた際に、拓也は立ち上がる。考えているだけは性に合わない。考えるのは啓吾の役目であるはずだった。しかし今は、自ら動かねばならない。まともな策など無いし、上等な戦術さえも存在しない。だけど、それでも。こうと決めたら一直線、行動あるのみ。やるべきことは、一つだけ。相手をぶっ倒す。それだけである。
 立ち上がった自分に集まる視線を、拓也は一つ一つ受け止めていく。啓吾と彩菜は不思議そうに見やり、祐介と唯は何かの期待を持つような目で見据え、焔は沈黙を押し通した眼光で捕らえ、そして紀紗は願いを請うような瞳で拓也を見つめていた。体は沸騰するほど熱いのに、頭の中は氷のように冷たい。幾度か体験したことのある最高のコンディションだった。大きく深呼吸をした後に、拓也は笑う。戦闘狂の笑みである。
 そこから飛び出す言葉は、誰も予想していなかったことだったに違いない。
「全員、このおれに命を預けろ」
 その場にいた全員が呆気に取られた表情をした。
 当然の反応だ、と拓也は思う。仮にもし、この場にいた他の誰かが拓也と同じ台詞を言ったとしたら、自分ならまず最初にそいつの正気を疑う。だがしかし、もちろん拓也の気が違った訳ではない。脳内は、これ以上無いくらいに冴えている。細々したことは大嫌いだ。どうすることもできないのなら、一番簡単な方法を取るべきなのだ。考えれば考えるほど深みに嵌る、だから。
「焔に啓吾、さっきは悪かった。けど、もうだいじょうぶだ。だからこのおれに命を預けろ。いつまでも考えてても意味なんてねえ。こっちから出向いてやりゃいいだけの話だ。啓吾が言ったよな、そうするのはヨナミネの思う壺だって。それでいいじゃねえか。そこに飛び込んで、中から無理矢理掻き回してやればそれで済む。簡単なことだろ?」
 その突拍子も無い意見に、焔の眼光が研ぎ澄まされる、
「……正気か、小僧?」
 それに啓吾が同意し、
「確かにそれが一番手っ取り早いけど、本当にできると思ってるの?」
 それでも拓也は、戦闘狂の笑みを崩さない。
「正気の考えだ。できるに決まってる。考えてもみろ、ここに集まった面子を。第十二期と第十三期セロヴァイヤー戦優勝者に、それとタメを張れるくらいに強いセロヴァイヤーが二人。極めつけは狭間の番人・焔だ。これだけオールスターの顔ぶれが揃ってるのに、負けるはずなんかねえ。そしてここにいる全員が、この戦闘で命を落としても相手をぶっ倒すことを誓って参戦したはずだ。無理しておれに命を預けろって言ってる訳じゃねえさ。もっとマシな考えがあればそっちについてもいい。けど、おれは真っ向からヨナミネを潰す。その考えに賛同する奴だけが、おれに命を預けてついて来い」
 束の間の沈黙。そして最初に口を開いたのは、予想外の人物だった。
「――わたしは、拓也と一緒に行く」
 そう言って、紀紗は実に澄んだ瞳で拓也を見つめて笑う。
 拓也と紀紗以外の全員が呆気に取られ、しかしその二人の意見に誰一人として反論することができなかった。何とも言えない視線が集まるそこで、拓也と紀紗は互いに見合ってなぜか嬉しそうな顔をして笑い、計ったかのように同時に親指を立てた。そんな光景を見つめていた啓吾が、やがて観念したのか大きなため息を盛大に吐き出しながら苦笑する。
「……わかった、わかったよ。そうだね、どうせこのままここで話し合ってても打開策は出て来ないだろうし、それだったらこっちから出向いて掻き回すのが一番良いと思う。おれにも風靭にも、今はそのスタイルの方がどうやら合ってるらしいしね。――おれも拓也に乗るよ」
 次に賛同するのは彩菜であり、啓吾の腕に寄り添いながら拓也へ僅かに不満の混じった瞳を向けながら「啓吾が行くならわたしも行くよ。でも拓也が勘違いしてると嫌だから言うけどね、わたしは啓吾に命を預けるの。断じて拓也に預ける訳じゃないからね」と少しばかりの不服を述べる。それに拓也は「わかってるからみなまで言うな」と笑い飛ばし、そのまま視線を祐介と唯に向けた。
「お前たちはどうする? 無理にとは言わないよ。やりたいようにやりゃいい」
 先に返答を返したのは、今度は唯ではなかった。祐介は素直に笑い、口を開く。
「おれも乗ります。拓也さんは、おれの憧れですから」
 拓也はいつにも増した戦闘狂の笑みを浮かべて「こうと決めた一直線」とつぶやき、その意図を察した祐介がすぐさま「行動あるのみ」と続ける。セロヴァイヤー戦優勝者の二人は似た者同士のように笑い合い、またしても計ったかのように親指を突き立てて肯く。しかし上げたばかりの親指を少しだけ恥ずかしそうに引っ込めながら、祐介は唯を振り返る。
「唯さんはどうする? ……無理にとは言わないけど、できるなら、」
 一緒に戦って欲しい。そう言おうとしたのだろう。しかし唯は何もかもわかったように微笑み、「わたしも戦います」と言いながら祐介の手を取る。それを見ていた彩菜が「わたしと一緒で唯ちゃんもあれだよね」とよくわからないことをつぶやき、唯はそれもわかったかのように少しだけ赤くなりながら「そうみたいですね」と返す。女の子には女の子にしかわからないやり取りがあるのだろう、とその場にいた拓也と啓吾と祐介は勝手に納得することにする。
 そして、その場にいた全員の視線が焔に集う。沈黙を押し通していた真紅の竜は、一度だけ紀紗を見据えてから、不敵に笑って拓也を睨みつける。
「この状況でおれだけが逃げ出せる訳はなかろう。貴様の狂気にはどうやら、周りを洗脳するだけの威力があるらしいな。――いいだろう、おれも乗ってやる。しかし、一つだけ条件がある」
「条件?」
「――例え貴様の腕が使い物にならなくなったとしても、必ずヨナミネを潰せ」
 一瞬の静寂、やがて拓也が拳を握る、
「ったりめーだ。お望み通り、ぶっ潰してやるよ」
「その言葉、忘れるなよ。……貴様等、よく聞け。これを使うことになるとは思っていなかったが、状況が状況だ、仕方があるまい。これよりこのおれの権限で【界の狭間】とこの世界を繋ぐ空間を捻じ曲げる。機会は一度切りだ。それが失敗に終ればこちらから【界の狭間】に乗り込むことはできなくなる。そのことを肝に銘じて、死ぬ気でおれの後について来い。段取りは、」
 その刹那、
 室内の空気が凍りつき、この場にいた誰でもない声が響き渡る、

『そんなことをせずとも、こちらから招待しようではないか』

 一瞬だった。
 見慣れた拓也のアパートの部屋が隅々まで漆黒の闇に飲み込まれ、小さな雷が鳴り響く狭間を貫通し、浮遊感を味わった瞬間にどこかの空間に放り出される。先ほどまでと何一つ変わらない体勢で、しかし先ほどとはまるで違う場所に焔を含めた七人が取り残された。誰一人としてその状況を理解できる者はおらず、数秒の間、誰一人として動くことすらできなかった。
 視界に広がるのは漆黒の世界。しかしその遥か彼方に存在する無数の星のように瞬く光の粒。手を伸ばせばすぐにでも掴めそうなのだが、決して掴むことのできない距離の先にあるその光。見渡す光景三百六十度、上下さえも同じ光景が続く場所。【界の狭間】、と最初につぶやいたのは、七人の内の誰だったのだろう。そしてそのつぶやきが紛れも無い答えであり、理解できなかったはずの七人の頭に確信が満ちた。唯と彩菜はこの場所を訪れたことはないが、それでも漠然とわかっていた。こんな場所が普通の世界にあるはずはないのだ。ならば答えは一つしかない。ここが二つの世界を結ぶ中心点、【界の狭間】。
 全員がその場に立ち上がり、どこを見ていいかわからない視界の中へと視線を彷徨わせる。そんな中で突如として緑の光の粒子があふれ出し、それは焔の体に収縮されて狭間の番人本来の姿を具現化させた。他の六人を守るかのように巨大な翼を左右へと大きく広げ、灼熱の宿る眼光を辺りに放ちながら巨体に劫火を纏わせる。
 やがて、辺りに存在していた星の瞬きが一箇所に集まり始める。七人より少しだけ離れた所に収縮された光は、確かな形を造り出す。拓也や啓吾と大して変わらない大きさの、人型の何か。まるで狭間の番人がそこから現れるかのように悠然と、それは現れた。瞬く光が弾けて消えたとき、そこから生み出されたのは整った顔立ちに長い髪を携え、そして深く黒い目を持つ男だった。その男を中心として漂う嫌悪感にも似た嫌な感じ。自信にあふれた表情、不気味な気配、何者も恐れないような瞳。それが誰であるのかを、その場にいた全員が理解していた。
「――ようこそ、『わたし』の【界の狭間】へ。我々は、君たちを手厚く歓迎しよう」
 そう言って、ヨナミネ=S=ファイタルは笑う。
 焔の眼光から圧倒的な殺気が迸り、近場にいた六人を例外無く突き抜けるが、それでもヨナミネだけは表情を崩さない。自信にあふれた表情をそのままに笑い続け、迫真の演技でもするかのように右手を胸に当てて心苦しそうにつぶやく。
「すまないね焔。まだ君と戦う気は無いのだよ」
 そしてその視線が、一点に注がれた。
「……最初は貴女だ、――佐倉唯」
 焔がその意味に気づいたときには遅かった。
 唯の足元から突如として漆黒の壁が競り上がり、その場から唯一人を完全隔離しようと動き出す。そのことに誰よりも先に気づいたのは唯の側にいた祐介で、迷う暇など当たり前のようになく、まるで反射だけで行動したかのように足場を全力で弾いて唯を抱き締める形で後ろへと押し倒す。その行動が後一瞬でも遅ければすべては無駄に終っていたのかもしれない。しかし祐介は唯を一人にさせないことには成功した。成功したのだが、拓也たちとは完全に隔離させてしまう。
 祐介と唯を向こう側に、一枚の漆黒の壁が【界の狭間】を別つ。拓也が瞬間に壁に走り寄って拳を打ち込むが、それが無意味だということは一発目で理解した。これは壊せるような代物ではない。そもそも殴ってもこちらの拳に衝撃自体が伝わってこないのだ。それはどういうことなのか。簡単である。ようは拓也の孤徹と同じ要領なのだ。恐らくこの壁は、ありとあらゆる攻撃の衝撃を無効化にするのだろう。加えて物理攻撃だけではなく、文字通りすべての攻撃を無効化する。そんなものを前にしては、どうすることもできなかった。
 例え狭間の番人を持ってしても破壊することは不可能な漆黒の壁。そのことを、焔は誰よりもよく知っている。狭間の番人だけが扱うことを許されたもの。それがこの壁である。だが焔が命じた訳では無い。ならば、それを実行できると考えられる人物はただの一人しかいなかった。劫火を荒れ狂わせ、焔は目の前のヨナミネへと牙を剥く。
「……狭間の絶壁、だと……? 貴様がなぜこれを扱える……ッ!?」
 ヨナミネはなおも笑う、
「言っただろう、焔。『わたし』の【界の狭間】へようこそ、と。言っただろう、焔。これからは、『わたし』が【創造主】なる、と。……狭間の絶壁を見つけるのには少々苦労したが、見つけてしまえば後は簡単だ。この【界の狭間】はすでに、わたしの手の中。君があのときにここで戦っていたら勝敗はわからなかったかもしれない。しかし、今のここはわたしのものだ。何者にも邪魔はさせない。……仲間が死に逝く声でも聞いておけ。そして次は、君たちだ」
 その言葉を最後に、ヨナミネの体が星の瞬きに飲まれて消えた。
 それが引き金になったかのように、漆黒の闇の中から大量の気配が漂い始める。拓也が辺りを見回したときにはすでに、狭間の絶壁を背後に完全に囲まれていた。百や二百では利かない数の特殊兵と、単純に数えただけでも十体はいるであろう深緑の竜。特殊兵が装備するのは完成セロヴァイトのそれぞれ九種であり、しかもその中に混じって機械人形ではない特殊兵もいる。生きている、ヨナミネの本当の部下だ。それに加えて幻竜型セロヴァイト・虚が十体以上も蠢いている。拓也たちを足止めするつもりなのか、それともこれで拓也たちを倒すつもりなのか。だがどちらにせよ、そんなことはどうでもよかった。
 ゆっくりと包囲を狭める敵から視線を外さないまま、拓也は「紀紗と夏川は後ろに下がってろ。絶対に前に出るな」と忠告し、二人が後ろに下がったことを確認してから焔に問い掛ける。
「この壁、どうにかできないのか?」
 焔は即答する、
「不可能だ。狭間の絶壁は使用者にしか制御できない。向こうでどうなってるかはわからないが、今は餓鬼と佐倉が持ち堪えることを願うより他にあるまい」
 緑の光の粒子をその手に収め、一振りの刀を具現化させながら啓吾が戦闘体勢に入った。
「何にせよ、あの二人を信じて今はこいつ等をぶっ倒すのが先だ。おれは一分で終らせるつもりだけど、返答は?」
「愚問」と短く切って捨て、唐突に焔が劫火を解き放って近場にいた特殊兵へ襲いかかる。
 それを尻目に拓也は、
「抜け駆けすんな焔! 上等だ、三十秒で終らせるっ!! ――孤徹ッ!!」
 あふれ出した緑の光の粒子が拓也の腕に収縮され、刹那にズシリと重い感覚が両腕を包み込む。緑の光の粒子が弾けて消えたとき、そこから現れるのは漆黒の闇に溶け込むかのような二体一対の鉄甲。打撃型セロヴァイト・孤徹を盛大に打ち鳴らし、焔と啓吾に遅れて拓也も戦闘にその身を投げる。目の前に見えるすべての敵を問答無用で叩き潰しながら、心の奥底で祐介と唯のことを思う。
 ヨナミネがどれだけ強いかは知らない。しかし、祐介と唯が負けるはずはない。祐介も唯も、拓也や啓吾に引けを取らないセロヴァイヤーであるはずだ。そのことは信じて疑わない、だけど。そんな最悪の状況が脳内を支配し、その影響で無意識の内に拳に力が篭る。どうしようもない嫌な胸騒ぎを消し去るかのように、自分でもわからない咆哮を上げながら、拓也は風と劫火と共に次の敵へと狙いを定めた。

     ◎

 唯と共に漆黒の闇へと倒れ込んでいた祐介は慌ててその身を起こした。「だいじょうぶ、唯さん?」と押し倒した唯に手を貸して起き上がらせる。だいじょうぶです、とつぶやいて起き上がった唯と一緒に背後を振り返り、言葉を失う。見上げても頂上などまるで見えない漆黒の壁が、目の前にあった。そこを蹴り飛ばしてみるがビクともせず、そのときになってようやく拓也たちと完全隔離されてしまったのだという事実に気づいた。これからどうする、と祐介が思った瞬間に壁の向こう側から空間を揺るがすような爆音が響き、僅かな振動が祐介の足元に伝わった。この壁の向こう側では恐らく、拓也たちによる戦闘が行われているに違いない。どうするべきか、と祐介が思ったとき、唯の手がそっと祐介の手を握った
 振り返ったそこに、何かに脅えた表情をする唯がいた。
「……どうしたの?」
 その表情が、絶望に塗り潰されているような気がした。握った唯の手が微かに震えているのがわかる。尋常ではないその様子に度肝を抜かれ、祐介は唯の肩を掴んで揺さ振りたい衝動に駆られた。半ば本気でそうしようと思った刹那に、唯が何事かをつぶやいた。その言葉が聞き取れず、祐介が聞き返そうとしたとき、ようやくそれに気づいた。
 唯は、どこか一点を凝視して震えている。
 祐介がその視線を追って振り返ろうとした瞬間になってやっと、唯のつぶやきが聞き取れた。唯は、逃げて、と言った。理解したときには遅かった。腹部にとんでもない衝撃が走り、痛みを感じる暇も無く体が宙を舞った。繋いでいた手が唯から離れ、数メートルという距離を一瞬で吹き飛んで漆黒の壁に激突してようやく制止する。頭を打ちつけたらしく後頭部がズキズキと痛み、視界が少しだけ上下に揺れていた。立ち上がろうにも腹部の痛みが邪魔して足が動かせない。何が起こったのか何一つ理解できず、しかし唯の側に歩み寄って来たヨナミネの姿だけは正確に捕らえてることができた。
 無意識だった。一瞬の内に雷靭を具現化させ、痛みを超越して地面を蹴り、すぐさま駆けつけようと、
 ――待て我が主ッ!!
 雷靭の叫び声で急停止した。なぜ呼び止めるのか、雷靭に食ってかかろうとしたとき、祐介は雷靭の言葉の意味に気づく。
 祐介と唯を結ぶその中間地点の漆黒から、黄金の何かが滲み出てくる。祐介より少しだけ大きい人型のそれ。しかしそれは人型であるのに、人ではない。古代エジプト神話に存在するとされるアヌビスをモデルとして造られたヨナミネのセロヴァイト、融合型セロヴァイト・斑。それが、祐介を真っ向から見据えながら直立不動で行く手を阻む。その場から動けなかった。動こうと思えば動ける、しかし本能のようなものが告げる。動くな、と。
 ――これが、ヨナミネの完成セロヴァイトか。……強いな。貴様もわかっているはずだ、主。下手に動けば、死ぬぞ。
 そんなことはわかっている。隙、というものがこのセロヴァイトには存在しない。指一本、眼球を僅かに動かしただけでも次の瞬間には死んでいるのではないかと錯覚させられる。焔と初めて対峙したときもこんな感じだった。しかし、このセロヴァイトには自我が無い故に焔以上の威圧感がある。例えば、焔とならあの場で言葉を交わして何かを伝えることも可能だったかもしれない。だがこれは違う。動いたら何を置いてもまず、殺される。震え出しそうな自らの体を気力で抑え込み、斑の後ろに映る唯とヨナミネの姿を必死で捕らえる。
 歩み寄るヨナミネを見上げながら、唯は近づかれた分だけ後ろに下がる。が、それはやがて漆黒の壁に到達し、逃げ場が無くなったことにより終った。後退できなくなった唯から少しだけ距離を置いたまま、ヨナミネは笑う。
「斬撃型セロヴァイト・水靭と通常とは異なる方法で意志を交錯させた佐倉唯。わたしは君に興味がある。我々が造ったセロヴァイトを、我々の予期せぬ方法で上回った君と一度戦ってみたい。一つだけ断っておくが、君に拒否権は無い。セロヴァイトを具現化させ、わたしと一対一で戦え」
 その言葉に従ったのか、それとも恐れがそうさせたのか。唯が自らのセロヴァイトの真名をつぶやくと同時に緑の光の粒子があふれ出し、やがてそれは一振りの刀を具現化させる。斬撃型セロヴァイト・水靭。それが唯のセロヴァイトだ。水靭を握り締めながら唯の体勢が微かに落ちる。どんな攻撃を繰り出されてもすぐに避けれるように、そしてヨナミネが隙を見せたらすぐに刀を振りぬけるように。唯の瞳から恐怖感が消え、真剣さが宿り始める。唯はヨナミネのことを心の中で見据え続け、それとはまた別の所で水靭との同調を開始した。
 力の鼓動が漂い出す唯を見つめ、ヨナミネは一歩だけ後ろに下がる。
「さすがにセロヴァイトを相手に素手は不利、か。ならば、こちらもそれ相応の対応をしなければならない。――……安心したまえ、斑を使う訳ではないよ。わたしが使うセロヴァイトは、これだ」
 立ち止まったヨナミネは漆黒の闇に手を伸ばし、虚空を掴む。刹那、そこから緑の光の粒子があふれ出し、具現化されたと同時にそれを引き抜く。漆黒の闇から抜き出されたそれは、一振りの刀。それが斬撃型セロヴァイトであることは唯にも祐介にもすぐにわかったし、試作セロヴァイトではなく完成セロヴァイトだということも理解できた。加えて、その刀が斬撃型三種の内の一種、水靭であることも自然と悟っていた。
 唯と同じセロヴァイトを構え、切っ先をゆっくりと動かしながらヨナミネが言う。
「試作セロヴァイトと完成セロヴァイト。そのどちらが誠に強いのか。それを、試させてもらおう」
 ヨナミネの足が動いたと思った瞬間には、その体が唯に向かって突進していた。
 それに気づいた唯が左に流れ、振り抜かれた斬撃をかわす。空を切ったヨナミネの一線が漆黒の壁に激突し、刃から冗談のような勢いで火花が飛び散る。一瞬の制止、その間に噛み合う唯とヨナミネの視線。ヨナミネが笑い、唯が全力の力で水靭を握る。今度は唯の攻撃である。制止した刀へと水靭を振り上げ、ヨナミネの体勢を崩そうと力任せに振り抜く。二つのセロヴァイトが交錯したとき、ヨナミネの水靭が上に振り上げられ、無防備になったその胴体の隙を唯は見逃さない。地面を弾いて突進し、恐れを打ち消して刃を輝かせた。漆黒を一線の光が横切ったとき、火花が飛び散って停止する。
 バランスを崩して振り上げられたはずのヨナミネの水靭が、唯の水靭と接触していた。単純な力比べの膠着状態に陥り、刃と刃がぶつかって生まれる独特の音色だけが辺りに響き渡る。さっきは力任せに押し返せたはずのヨナミネの刀が、今度はまるで動かせない。それどころか、確実に押されている。このままの状態が続けば力負けをするのは明白であり、それを防ぐために唯は行動を起こす。
 接触した刀から一瞬だけ視線を外し、足元を見据える。自らの足をヨナミネの足に滑り込ませ、水靭を全力の力で押し返すと同時に足を掛けた。再びバランスが崩れて背後によろけるヨナミネへと水靭を振り上げ、狙いを定めたその刹那に、何者も恐れないような黒く深い瞳が唯を貫く。崩れたはずのバランスを一瞬で修正し、水靭を逆手に握り返してヨナミネが笑う。振り抜かれたそれは、唯がそれまでに受けたことのあるどの斬撃よりも遥かに高速だった。頭上に構えていた水靭を前に突き出して防ぐのがやっとのことで、防いだと思った次の瞬間には力で強引に押し切られていた。
 今度は唯がバランスを崩す番だった。ヨナミネの足が唯の水靭を踏み押さえ、引っ張られるような形で姿勢が前方に傾く。その刹那に、空を切る斬撃音に気づいた。ヨナミネの足元を見ていたからこそそれに気づけたのか、それともヨナミネがワザとそうしたのか。恐らくは後者だったのだろう。唯の視界の先端から銀色の光が迸り、それを脳が理解した瞬間に反射神経が働いた。体を背後に逸らすことでヨナミネの水靭をギリギリの紙一重でかわし、しかし頬に一線の小さな傷を負う。そこから流れ出す微かな血に気を取られたのが致命的な隙だった。
 ヨナミネの足が揺れ動き、体が押し潰されたかのような衝撃が走る。気づいたときには体は地面に着いてはおらず、どうにかして視界を保とうと思ったときには地面に叩きつけられた。その場を何度も転がり、勢いが納まった瞬間を狙って手で地面を弾いて立ち上がる。足が漆黒の闇を捉えたとき、腹部を痛みが蝕んだ。痛みに顔を顰め、頬から流れる血を拭うこともせず、唯はヨナミネだけを見据え続ける。
 その光景を見つめていた祐介は、次に何かあればすぐさま地面を弾く用意を整えていた。唯とヨナミネの戦闘を視界に収めながら、それでも斑だけに意識を集中させる。動けば殺されるのはわかっている、だがこのまま動かずに唯が殺されるのは死ぬよりも苦痛だ。一度だけでいい。たった一度だけ斑に踏み込み、一瞬だけでも隙を作れればすぐに唯の所まで行ける。その切っ掛けをどうにかして作らねばならない。下手に動いたら死ぬ、ならば上手く動くしかないのはわかっているのだ。だけど、どうしても冷静になれない。唯を助けたくば冷静になれ、と自分自身に必死に言い聞かす。
 歯を食い縛る祐介の視界の中で、ヨナミネが唯に向かって歩き出す。
「予想以上に身体能力はある。が、わたしを越える程ではない。では次に、水靭との同調率を見せてもらうか。これがわたしと君が戦う最大の理由だ。全力で、わたしを殺すつもりで攻撃して来てくれ。そうでなければ意味が無い。返答は求めない、理解してくれたことだけを願おう。――……それでは、始めようか」
 ヨナミネの指が弾かれ、乾いた音を立てた刹那に漆黒の空間から突如として大量の水が流れ出し、唯の足場を完全に濡らした。
 それは水靭のセロヴァイヤーが戦う上では最高の状態と言えた。水がそこに存在していたのなら、水靭との同調で特性を発動させ、相手を一瞬で倒すことも可能になるのだ。そんな状況を態々造り出すとは、それほどまでに唯のことを軽視しているのか、それともそれがヨナミネの自信なのか。その真意はわからない、わからないがこれを使わない手は無かった。
 唯は水靭と意志を交錯させ、同調率を限界まで引き上げる。水靭の特性が発動すると同時に、唯の足場に存在していた水が重力を無視して空中に浮遊し始めた。それはやがて数十本の槍の形を生み出し、ゆっくりと蠢きながら狙いをヨナミネに固定する。漆黒の闇にあふれていた水のすべてが唯の意志に統括され、ヨナミネを叩き潰す刃と化す。唯の頭上に展開する数十本の槍が一瞬だけ停止した後、振り抜かれた水靭と共に走り出す。その狙いの先にいるのは他の誰でも無い、ヨナミネだ。
 無数の槍がヨナミネに牙を剥き、自信にあふれたその表情目掛けて炸裂した。巨大な水飛沫がかなりの高度にまで達し、それを追うような形で唯の視線が頭上に向けられる。荒い息を整えながら水靭との同調を再度行い、辺りに飛び散った水飛沫を統括した意志の下に停止させ、軌道を捻じ曲げてヨナミネに撃ち放つ。その途中で硬度を引き上げ、拳銃から撃たれた本物の弾丸同様に仕立て上げる。一度は消えたはずの水の音が再び舞い上がった。
 水の音が収まって辺りに静寂が戻って来たとき、そこに響くのは唯の荒い息遣いと、
「――……この程度か」
 ヨナミネの落胆にも似たつぶやきだった。
 吹き上がった水飛沫の中から、まるで無傷のヨナミネが姿を現す。その姿を唯が視界に捕らえた刹那に、絶望的な事実に気づいた。唯の意志で統括されていたはずの水の支配権が、根こそぎヨナミネに強奪されている。後ずさった唯の視界の中で、ヨナミネの不気味な気配が辺りを飲み込んだ。水靭を掲げたヨナミネは唯から支配権を奪い取った水を統括させ、頭上に巨大な水の竜を造り出す。そのモデルは、言うまでもなく狭間の番人・焔だった。狭間の番人も手の中だ、とでも言いたかったのかもしれない。
 ヨナミネに圧倒的な殺気が迸ったと同時に、水の竜が口を抉じ開けて翼を広げる。一瞬の静寂、空間を切り裂いて水の竜が疾った。目で追うだけがやっとのことで、避けることは当たり前のようにできなかった。それでも唯は水靭を握り直して意識を集中させ、ヨナミネから少量の水の支配権を奪い返すことに成功し、瞬時に水の楯を形成する。その硬度を限界まで引き上げた刹那、水の竜が激突した。空間を振るわせる破壊音が響き渡った。
 噴き上がる水飛沫の中から唯の体が水の圧力によって弾き出され、とんでもない威力の下に漆黒の壁に激突して苦痛の声と共にその場に倒れ込む。上空に吹き飛ばされていた水靭が弧を描いて回転し、やがて唯の側に無機質な音を立てて落下する。
 何もできずにそれを見守っていた祐介の頭の中で、何かが切れた。
 漆黒の闇を力任せに破壊し、斑の横を通り抜けようと加速する。しかしその軌道が一瞬で黄金に遮られ、力の鼓動を纏いながら斑が祐介を捕らえた。斑を見据えながら、祐介は沸騰するかのように煮え滾る感情で理性を粉々に打ち砕く。恐れはもはや無かった。祐介の中にあるそれは、怒りと憎しみ。それだけが一つの意志となって脳と体を支配していた。雷靭の声を無視しながら同調率を引き上げ、振り抜いた刃を斑が掴み取った瞬間にすべての力を解放する。
 雷靭の奥底に眠る雷を呼び覚まし、目の前の黄金のアヌビスへと狙いを定めて絶叫する、
「退けぇぇええ――――――――ッ!!」
 雷靭の刃に雷が蠢いた刹那、空間を白一色に染め上げる光が迸った。
 衝撃の塊に近い落雷を直接ぶち込まれた斑が僅かに後退し、その一瞬を見極めて祐介は黄金のアヌビスを抜き去る。心の奥底で背後からの攻撃を意識していたのだが、斑はそれ以上の追撃を仕掛けて来なかった。唯とヨナミネの決着が着くまでの足止めが斑の役割であり、それが終った今は抜かれようがどうしようが関係は無かったのである。雷が未だに蠢く自らの手を見つめ、斑は身動き一つしない。
 追撃が無いと悟った祐介は無駄な意志を捨て去って足だけを動かし続け、唯の側まで駆け寄った際にその場に滑り込み、倒れていた唯の肩を抱き寄せて水に濡れた顔を覗き込む。呂律が上手く回らなくて言葉らしい言葉はついに言えなかったが、唯の小さな呻き声を聞いた瞬間に脳内が一発で晴れ渡る。全身がびしょ濡れで頬には切り傷を負い、閉じられた瞼はもう開くことが無いのかと本気で思った。しかし唯はただ、気絶しているだけ。それを理解したときの安堵の大きさは計り知れなかった。良かった、と心の底から思う。
 水に濡れた唯の体を抱き締めながら、祐介はただ謝罪する。守れなくてごめん。何もできなくてごめん。唯さんにばっかり辛い思いをさせてごめん。守ると言ったのに何もできなかった自分がただ不甲斐無い。斑に気圧されて結局は何一つとして行動に移せなかった自分がただ情けない。唯を苦しめる結果となってしまった自分のすべてが、ただ憎らしい。冷たい唯の体を精一杯の力で抱き締めながら、祐介はもう一度だけ、今度は声に出して「ごめん」と小さくつぶやく。
 そんな祐介を離れた場所から見ていたヨナミネは、相変わらずの笑みで笑った。
「非合法のセロヴァイヤーは所詮偽物という訳か。無駄な時間を使った」
 ゆっくりと視線を上げ、祐介はヨナミネを見据える。
 ただ、思う。こいつを、殺そう。唯を傷つけた者は誰であろうと許さない。許せるはずが無い。手加減など誰がしてやるものか。誰がお前の言葉になど耳を貸すか。手加減も命乞いもクソ食らえである。唯を傷つけ、罵倒したこいつにそんなものは必要無いのだ。あのときは、佐倉隼人と対峙したときは殺せなかった。怖気づいたのではない。もし殺してしまえば唯が悲しむと思ったからだ。しかし今回はそんなことなど関係無い。唯を傷つけた罪は何よりも重い。そのことを、死を持って償え。全力でこいつを、こいつだけを、殺す――。
 唯の体をそっと横たえ、祐介は立ち上がる。俯く祐介を見ながら、ヨナミネは言う。
「第十三期セロヴァイヤー戦優勝者であり、斬撃型セロヴァイト・雷靭のセロヴァイヤー・源川祐介。斑を押し退けたことは誉めよう。しかし君は、雷靭に発生したバクの力でたまたま特性を理解し、そして偶然に勝ち残っただけだ。君自身が強い訳では無い。……君はどうやら、渡瀬拓也に憧れを抱いているらしいな。確かに彼は強い。孤徹との同調率も驚くべき数値を出している。が、君がどう足掻いた所で彼に近づけるはずはないのだ。なぜなら、君の素体そのものは極端に弱く、極めつけに、君はバグで発生した雷靭がなければ何一つできない臆病者だ。違うかね、源川祐介」
「……黙れ、」
 雷靭を握り直す祐介から僅かに視線を外し、ヨナミネはため息を吐き出す。
「生憎として、わたしは君に興味は無いのだよ。佐倉唯を隔離するには君が付属品として付いて来ることは予想していたとは言え、本当に付いて来るとは恐れいった。あのまま大人しく渡瀬拓也や神城啓吾、そして焔と共に向こう側にいれば少しくらいなら力になれたかもしれないのに、態々無様な格好を示すためにこちらに来るとは笑い話にもならない愚行だ」
「黙れ!!」
「吼えたところで何一つ変わりはしない。バクで発生した自我を持つ雷靭がいなければ君は、」
『――我が主が黙れと言ってるのが、聞こえないのかヨナミネ』
 突如として発せられた祐介ではない声に、ヨナミネが驚きの表情で視線を戻す。祐介を捕らえていた視線がすぐさまその手に持つ雷靭へと向けられ、一秒だけ考えた後にすべてを理解したかのようにつぶやく。
「……わたしの部下の不手際らしいな。まさか、まだそこに存在していたとはね。……お前がそこに宿っているのなら話は別だ。今度こそ本当に、わたしの手でお前を消し去ってやろう。バク如きにわたしが手を下すのだ、光栄に思え」
 何もかも見透かしたようなヨナミネの視線が、今は何よりも憎い。もはや下らない考えは必要無かった。やるべきことはただ一つに絞られた。こうと決めたら一直線、行動あるのみ。祐介は全神経を集中させ、ヨナミネへの憎しみを糧として雷靭との同調を開始、その奥底に蠢く雷を発動させる。雷靭の刃からあふれ出した雷が一定量に達した瞬間に辺りへと一挙に噴き出し、しかしそれは祐介の意志に統括されて再び動き出す。あふれ出したそこへと舞い戻り、刃へと圧縮されて雷が研ぎ澄まされる。一直線に伸びる雷の剣から迸った威圧感が漆黒の闇に伝染し、やがてそれは空間を支配しながら力の鼓動となってヨナミネへと伝わる。
 殺気の篭った祐介の瞳を真っ向から見据え返し、ヨナミネは表情を消した。
「……前言を撤回する。君への興味が微量だが湧いた。バクを持つセロヴァイトを扱う君の力がどれ程か、見せてもらおう」
 ヨナミネが一歩だけ後退した直後、その目前にそれまで身動き一つしていなかったはずの黄金のアヌビスが滲み出す。無表情のままに斑の背に腕を延ばし、鈍く不気味な音を立てながらヨナミネの体が黄金の中に飲み込まれる。やがてヨナミネの体がすべて黄金の中へと埋め込まれたとき、アヌビスの眼光に蒼い光が灯った。刹那に吹き荒れた圧倒的な力の波動が祐介を突き抜けて漆黒の闇の中へ充満していく。
 目の前に存在するこのセロヴァイトが恐くないと言えばそれは嘘になる。しかしその思考を煮え滾る感情で圧し潰し、祐介は雷靭を真横に構えた。
 ――おれの言いたいことは、わかるな?
 聞こえた雷靭の声に即答する、
(遠慮無く戦え、だろ)
 ――ッハァ! 上出来だ! 始めようぞ我が主ッ!!
 一直線に伸びる雷の剣がさらなる鼓動を打ったとき、祐介は地面を破壊して加速した。
 真横に構えた雷靭の威力を極限まで高め、刃だけの間合いなら到底届かないはずの距離から斑の胴体を狙った。振り抜かれた雷靭が祐介との同調により核たる意志を開放して斑に届かない分の距離を雷を突き出すことによって補う。形を持つ雷が漆黒の闇を切り裂いて斑の胴体に達し、黄金の体を容赦無く真っ二つに切断した。が、その手応えが刃に伝わらない。上半身と下半身が分離した斑の体が突如として掻き消え、それが本体ではなく単なる残像だと気づいたとき、背後から殺気が迸った。
 繰り出された拳を目で見るのではなく感覚で理解して、振り抜いた雷靭を止めずに遠心力を利用して加速させ、黄金の拳と激突させる。刃に宿る雷が斑に触れたと同時に空間を白一色で染め上げる光が輝くが、そんな中にあってもなお蒼い眼光がはっきりと確認できた。刃と拳が停止していたのはほんの一瞬のことであり、互いに背後へと飛び退いた際に祐介は雷靭から雷を撃ち出す。雷は一線の閃光となって黄金のアヌビスへ襲いかかるが、それが命中することは無かった。
 斑の体を貫いて漆黒の壁に激突して弾ける雷から視線を外し、祐介は頭上を仰ぐ。漆黒の闇が広がる上空に、黄金が輝いていた。祐介に向かって突き出された斑の掌が空気の屈折に作用されて歪み始め、【界の狭間】を漂う気体が一箇所に凝縮される。斑の蒼い眼光が一際大きく輝いた刹那、凝縮された空気が撃ち出される。それが何であるかを祐介が理解して行動を移すようとするより速く、雷靭が祐介の体をその場から離脱させた。祐介と雷靭が前方に転がった瞬間、斑から放たれた空気の塊が漆黒の闇に墜ち、
 圧縮されたそれは一定の空間を圧し潰す。衝撃音も衝撃波も存在しなかった。ただ決められた範囲にあるすべてのものを例外無く圧し潰すのである。虚の攻撃と似ているが、しかしそれとは似て非なるもの。虚の体内に組み込まれていた重力変換装置に改良改善を施した代物。焔の動きをも止めたそれが、斑の根本に根付いている。派手さは無いが、威力は申し分無い。一度触れれば最後、鋼鉄であろうと例外無く潰す。それが、融合型セロヴァイト・斑の特性。
 漆黒の闇から起き上がり、祐介は体勢を整える。接近戦で斑を戦うのは不利だ。もし間近であれを使用されれば避けれるかどうかはわからない。しかし遠距離から撃ち出されたのなら対処法は幾らでも在る、現に自分は今、雷靭の力を借りたとは言えかわせた。接近戦の方が相手に伝わる威力は高いが、遠距離でも雷靭の特性は十分に発揮できる。唯を傷つけたヨナミネを直接斬れないのは癪だが仕方が無い、すべてが終った後に斬ればいいだけの話だ。戦闘方法が決まった祐介は、上空から降り立つ斑を見据えながら雷靭を地面に突き立てる。
 そこから迸った雷が祐介を囲うように五本の柱となって走り出し、頭上に展開したそれは主を守る五枚の楯と化す。その楯の中心部から祐介は雷越しに斑の姿を捕らえ続け、雷靭の声が聞こえたと同時に全力で同調率を引き上げて奥底に眠る雷と交錯する。刃から漆黒の闇へ、漆黒の闇から五枚の楯へと伝わった雷は威力を増しながら活動し、祐介の意志に従い五線の龍となって黄金のアヌビスを狙う。迫り来る雷の龍から視線を外さず、斑と融合しているヨナミネは笑う。
 一線目の龍を右手で薙ぎ倒し、二線目の龍を左手で握り消し、三線目の龍を右足で踏み倒し、四線目の龍を左足で掻き消し、五線目の龍を真っ向から噛み砕く。アヌビスが口を開くと同時にそこから連になった鋭い牙が剥き出しになり、噛み砕かれた龍が絶叫にも似た閃光を上げながら消滅する。僅かに開いた斑の口から煙があふれ出ているが、傷を負っているようには見えない。そしてヨナミネの笑いが伝わったかのように斑の口元が不気味に歪み、刹那に向けられた黄金の両掌に空気が凝縮され、神速の速さを持って撃ち出される。
 雷靭を地面から引き抜いて左に体を逸らしながらそれを避けた祐介のすぐ脇を空気の塊は横切り、展開していた五枚の楯の内の二枚を紙切れのように圧し潰す。体勢を立て直して雷靭を構え、祐介は前方に立つ斑に刃を突きつける。祐介の周りを囲う楯で斑の攻撃を防げるとは思っていなかったが、まさかこれほどまでに容易く破られるとも思っていなかった。もっと強度の強い楯がいる。一度や二度攻撃されたくらいじゃ破れない丈夫な楯が必要だ。それにはまだ雷靭との同調が足りない、集中しろ、全神経を集中して、
 視界の中にいたはずの斑の姿が掻き消えた。絶望的な事実だった。それは、単なる残像に過ぎなかった。後ろだ、という雷靭の叫びだけを頼りに背後を振り返ることもせずにその場から離脱し、三枚残っていた楯の一枚を空気の塊が飲み込まれたことに悪態をつきながら漆黒の闇を転がった際に回転する視界の中で斑を見た。斑は背後からの攻撃を回避するために転がった祐介の上空にいた。再び撃ち出される空気の塊から視線を外し、腕を弾いて立ち上がった瞬間に右に大きく跳ぶ。それまで祐介のいた場所に空気の塊が墜ち、音も無く空間そのものを圧し潰し、祐介が慌てて頭上を仰いだときには斑の残した残像が消えるところだった。
 頭上を見上げる祐介の視界の端に、蒼い二つの眼光が横切った。その一瞬で祐介と雷靭の意志が完全同調を果たし、生き残っていた二枚の楯を斑との間に張り巡らせて強度を極限まで上げる。しかし斑の拳は、強度を上げたはずの楯をいとも簡単に貫通した。白一色で構成された世界の中、祐介がそうしようと意識するより速くに雷靭が我が身を楯とする。刃と斑の拳がぶつかり合い、雷靭の咆哮と共に雷が斑の体を覆い尽くす。が、蒼い眼光が光り輝いた瞬間に雷はすべて圧し潰され、さらには拳に空気の塊が纏わりつく。
 雷の宿る刃を斑の拳が押し退け、空気の塊を撃ち放つ。そこから伝わる反動は半端なものではなく、雷靭で防いだとは言え祐介の体が無事であるはずはなかった。背後に吹き飛ばされる祐介の体が漆黒の闇に落ちるか否かの刹那、斑がそれに追いついて祐介の左腕を掴む。冗談のような力で引き寄せられ、目前に迫るアヌビスの口からヨナミネの声が漂う、
『まずは左腕だ』
 斑に触れられている左腕が僅かに揺れたと思った瞬間に、木の枝を圧し折るかのような音が響いた。
 本当に木の枝でも圧し折れたのかと思った。それが自らの左腕の骨が砕ける音だとは、信じたくなかったのかもしれない。斑の掌に凝縮された空気の塊が、獲物の左腕を完全に圧し潰し、激痛に蝕まれた祐介の絶叫が木霊する中で斑の眼光がゆっくりと揺れ動き、力任せにその体を投げ飛ばす。漆黒の壁に背中から激突したのだが、衝撃で感じる痛みはなぜか無かった。それ以前に、左腕から走って全身を蝕む激痛だけがただ痛い。痛くて自分では触れられはしないが、漠然とわかる。左腕は、もはや使い物にならない。動かすこもできず、何より本当に圧し潰されてしまっている。左腕と肩が未だに繋がっているのは奇跡と呼ぶに相応しい。
 漆黒の闇に蹲る祐介にゆっくりと近づく斑の影。朦朧とする視界でそれをぼんやりと追いながら、痛みのあまりに消え入りそうな意識の中で雷靭に呼びかける。しかし返答はいつまで経っても返っては来ず、不思議に思いそこに視線を移したときにようやく理解した。痛みからではなく、自らの不甲斐無さに視界が涙で滲む。自らの無力さがただ悔しかった。どうしようもない無力感が体を支配し、麻痺し始めた左腕の痛みがどこかへ消える。もはや祐介には、雷靭を握り直すだけの気力さえ湧き上がらない。涙で滲むそこにある光景は、紛れも無い現実の姿である。
 雷靭の刀身が、砕かれていた。
 祐介の体が持ち上げられる。何の気力も宿らない祐介の瞳を見据えながら、ヨナミネは笑う。
『言ったはずだ、君の素体そのものは極端に弱い、と。雷靭が砕かれた今、この通り君は何もできないただの臆病者だ。さっきまでの威勢はどうした? 黙れとわたしに命令した君はどこへ消えた? わたしを殺したいと思ってたはずの君は、どこへ行ってしまったのだろうね? ――これで幕引きだ、源川祐介。跡形も無く、消えろ』
 祐介の首を鷲掴む左手とは逆の、右手の掌に空気が凝縮される。
 それをぼんやりと見つめながら、祐介はまだ握り続けていた雷靭から手を離そうとする。やはり自分には、謝ることしかできなかった。ごめん雷靭。足手纏いにばかりなって、それで雷靭をこんなにしちゃって、本当にごめん。でも、雷靭は強い。それは間違い無い、ただ使用者が悪かっただけ、だから。この手にはもう、雷靭を持つだけの資格など存在しないのだろう。すべてを投げ出して死のうとするこんな自分には、セロヴァイト自らに選ばれしセロヴァイヤーでいていい資格など微塵も無いのだろう。だから、――ごめん。
 漆黒の闇の世界へと意識が飲み込まれそうになった刹那、命を賭けて相手をぶっ倒せという拓也の声が耳に届いた、少しだけ気力が湧いたがどうすることもできない絶望に沈んでいた、死にたくないと最後に抗う、雷靭と共にもう一度だけ戦いと願う、目の前の敵をぶっ倒してやりたいと強く思う、唯の姿が浮かんだ、祐介の名を呼ぶ唯が何かを伝えようとする、そして、雷靭は言う、――ふざけるなよ我が主ッ!! おれは貴様だからこそ共に戦っているのだッ!! 勘違いするなッ!! 貴様は、強いッ!! ――……雷靭が、確かな力の鼓動を打つ。
 どくん、と祐介の心臓が動いた。右手から伝わる焼けるような灼熱。ヨナミネの声を無視して、祐介は雷靭を見据える。砕かれた刃を蠢く雷で補い、雷靭がそこに存在している。灼熱と力の鼓動に乗りながら、雷靭が核たる意志を取り戻す。
 ――これが最後だ、これ以上は持たんッ、これで決めろ我が主ィッ!!
 斑に首を鷲掴みにされたまま、祐介は肯く。目の前の敵を視界に捕らえながら、あらん限りの声を張り上げて雷靭との同調を極限まで引き上げる。蠢いていた雷が祐介の意志に統括され、奥底に眠っていたすべてを噴射させる。黄金のアヌビスより遥かに眩い光が迸り、それは蒼い眼光をも根こそぎ飲み込んで広がっていく。圧し潰された左腕を動かすとかろうじで繋がっていた筋肉や筋が断ち切れる音がした。それを無視しながら斑の左腕を掴み、狙いを固定するために動きを封じ込める。
 何もかも捨て、ヨナミネを倒すことだけに意識を集中する。限界まで噴射した雷靭をゆっくりと掲げ、それを刹那の瞬間に一直線に研ぎ澄ます。圧縮された雷が澄んだ音を響かせながら振り下ろされた。それは驚くほど静かに空間を切り裂き、黄金の体に接触する。その事実にヨナミネが気づいたときにはもう遅い。研ぎ澄まされた雷の宿る雷靭の刃が、祐介の意志の下に斑の装甲を通り越してヨナミネの右肩から下を切断する。
 雷の刃が漆黒の闇に到達したと同時に、辺りを閃光が包み込む。やがてその光が収まったとき、そこに存在しているのは意識を失った祐介と、その手に握られた刀身の無い雷靭と、そして、右肩から下を失ったヨナミネだった。何の音も聞こえない静寂だけが辺りを支配していた。
 それも束の間、祐介の首を左腕で掴んだままの体勢でヨナミネがつぶやく。
『……訂正しよう。君は、雷靭が無くても十分に強いのかもしれない。……だが、』
 黄金のアヌビスの口元が不気味に歪む、
『――所詮は、この程度だ』
 漆黒の闇に転がっていたヨナミネの腕が突如として緑の光の粒子に包まれて消滅する。漂う緑の光の粒子は促されるまま斑の肩口に収縮され、決まった形を具現化するべく活動を開始する。ヨナミネの肩口を覆う緑の光の粒子が弾けて消えたとき、そこから現れるのは数秒前とどこも違わない斑の右肩より下の腕。斑とヨナミネの身体には、もはや傷一つ見当たらなかった。
 斑の腕が修復されると同時に、漆黒の壁が音を立てて崩れ落ちる。
『……やはり狭間の絶壁を完全制御するにはまだ経験が足りないか。どうやらわたしは君たちを殺し損ねてしまったらしいな。……残念だよ佐倉唯、源川祐介』
 しかしそう言うヨナミネは、まるで残念そうでは無かった。
 それとは逆に、実に楽しそうな顔をしてヨナミネは笑う。

     ◎

 目の前の特殊兵の顔面に孤徹を叩き込み、フルフェイスのヘルメットを粉砕して内部まで打撃を届かせる。骨の軋む音を無視して力任せに振り抜いた拳を引き戻すこともせず、拓也は背後から迫っていた虚へと振り返り、突き出された牙の衝撃を吸収した。一瞬の制止、目前に存在する眼光を拓也が睨みつける同時にすぐさま虚が翼を広げて上空に飛翔し、眼下を見据えて口を抉じ開ける。その奥底に空気が収縮され始め、狙いを拓也へと固定するが、そこにはすでに拓也の姿は無い。虚の背に跨り、拓也が狂気の笑みを浮かべる。虚がそれに気づいたときにはもう遅い、振り上げられた漆黒の鉄甲が深緑の竜を捕らえた。
 刹那の一秒、孤徹が爆散する。
 一陣の衝撃波となって吹き抜けるそれは、威力を抑えたとは言え虚が耐えられる代物ではない。孤徹が接触している箇所が一瞬だけガゴッと凹んだ瞬間、そこから内部に到達し滞納していた衝撃波が噴射する。【界の狭間】の遥か上空で、幻竜型セロヴァイト・虚が木っ端微塵に砕け散った。虚の肉片と共に落下する拓也は空中で体勢を整え、果たしてどうすれば無事に着地できるかを考える。やはり孤徹を押しつけて落下の衝撃を吸収するのが良いのか、それとも着地と同時に足を曲げて衝撃を霧散させるのが良いのか。
 そのどちらにしようか悩んでいる間に漆黒の闇に激突し、結局孤徹で防ぐことも足を曲げることもできず、衝撃が直接足に伝わった。セロヴァイヤーになっていなければ確実に折れているであろうその衝撃を必死で我慢し、しかし一瞬だけ足が言うことを聞かずに前へ倒れ込みそうになった刹那、拓也の体を風が支える。中途半端な体勢のまま空に制止した拓也は、視線を右に向けて啓吾の姿を捕らえた。風靭を掲げて拓也を見ていた啓吾は一言、「格好悪」とつぶやく。「大きなお世話だ」と言葉を返しながら立ち上がると、風が辺りの空間に溶けて消える。
 先の爆散で腕がどうにかなっていないか確認するが、威力を抑えた爆散ならこちらの反動も限り無く少なくすることが可能になるらしい。実際に腕は何とも無いのだからそう考えても問題無いだろう。威力を計算して相手を倒すのもそれはそれで楽しいが、やはり一撃必殺で相手を粉砕する方が楽しく、何より拓也の戦闘スタイルに合っている。細々考えるのはやはり啓吾の仕事なんだよな、と拓也は思う。
 腕から視線を外し、前方を見つめた際に荒れ狂っていた劫火が納まった。上空からゆっくりと降り立ち、焔は翼を折り畳む。その時点でこの場に立っている者は拓也に啓吾に焔、そして紀紗と彩菜以外は誰もいなかった。特殊兵三百五十、幻竜型セロヴァイト・虚二十、合計で三百七十の敵は、たった二人のセロヴァイヤーと狭間の番人の手によって葬り去られた。こちら側に負傷者は、誰一人としていない。三百七十の敵を倒すのに、掛かった時間は四十五秒弱。一分は掛からず、かと言って三十秒では終らせなかった。が、もはやどちらでもいいことである。
 歩み寄って来た啓吾と共に拓也は狭間の絶壁に近づき、互いに見合うこと一瞬、拓也が孤徹を打ち出して啓吾が風靭を振り抜く。全力で撃ったはずの攻撃だったのだがしかし、狭間の絶壁には傷一つ残っていない。何度やっても同じことの繰り返しであり、漆黒の鉄甲からも一振りの刀からも衝撃自体が伝わって来ない。狭間の絶壁は使用者にしか制御できない、と焔は言った。それは疑う余地も無く、その通りなのだろう。この壁の向こうでどうなっているのかはわからない。今はただ、最悪の事態が起こっていないことだけを願うしかあるまい。
 これからどうするか。そんなことを思いながら拓也は振り返る。
「焔、どうにかしてこの向こう側に行く方法は無いのか?」
 狭間の絶壁が壊せないのは確認済み、ならば残る道はただ一つ、壊すことを諦めて向こう側に行くこと。つまりは迂回しよう、ということである。が、この壁は左右に渡り果てし無く広がっているように見える。ちょっとやそっと歩いただけでは到底終わりなど見えて来ないのは一目瞭然で、しかも上空にも続くこの壁には死角は存在しないのかもしれなかった。最後の頼りになるとすれば、それは狭間の番人を置いて他に無い。
 しかし焔は首を振る、
「不可能だと言ったはずだ。狭間の絶壁は使用者しか制御できず、一度発動すれば隔離された向こう側に行くこともできない。ヨナミネが自らこの発動を止めない限り、狭間の絶壁は消えはしない」
「狭間の番人の権限とかでどうにかならないのか?」
「狭間の絶壁は【界の狭間】の中でも別次元の存在。狭間の番人の権限を持ってしても破壊することは不可能だ」
 万策が尽きた。ヨナミネがこの狭間の絶壁の発動を止めない限り、祐介や唯と合流することはできないのだ。
 どうすることもできずに立ち尽くす拓也の視界が、突如として揺れ動く。その異変に全員が気づき、第二陣が具現化されるのではないかと戦闘体勢を整える。拓也が孤徹を構え、啓吾が風靭を掲げ、焔はどこか一点の凝視して牙を剥き、紀紗と彩菜は同じ場所で辺りの様子を窺う。やがて揺れ動いていた視界が限界に達した刹那、硝子の割れるような音を響かせて狭間の絶壁が砕け散った。遥か上空から漆黒の欠片が降り注ぐ中、その場にいた全員が同じ一点を見つめていた。
 別れていた【界の狭間】が繋がったそこにいたのは、黄金に輝く人型の何かと、その手に掴れ持ち上げられている祐介と、そこから少し離れた場所に横たわる唯だった。状況が理解できなかったのは僅かな一瞬であり、しかしすべてを悟ったときにはもう手遅れである。祐介と唯は、負けた。それが意味することは何なのか。誰一人として声には出さなかったが、誰一人として理解できなかった者はいないはずだ。先に倒された五人のセロヴァイヤーと同じ道を、二人は辿った。それは、最悪の状況に他ならない。
 視界の中に存在する黄金のアヌビス。それが、ヨナミネ=S=ファイタルのセロヴァイト。
 孤徹を構え、拓也は歯を食い縛る。徐々に姿勢を落とし、怒りに任せて地面を砕こうとした刹那に焔の声が届く。
「落ち着け小僧。まだ二人の反応はある」
 そう言われてようやく、頭の中のレーダーが物事を冷静に見つめた。確かに祐介と唯の反応はそこに存在している。二人は負けはしたが、最悪の結末だけは避けられたようだった。爆発的な安堵が体中に広がる。が、一時の安堵が体を支配するのも束の間、その安堵はどうしようもない怒りに変わる。やりやがったなヨナミネ。怒りに促されるままに拳を握り締め、落ちていた姿勢が止まると同時に拓也は黄金のアヌビスへと狙いを定める。一瞬で走り出せるような体勢を整え、拓也は神経を研ぎ澄ます。
 漂う殺気を感知したアヌビスの視線が拓也に向けられ、その口元が不気味に歪む、
『落ち着けと言われたばかりだろう、渡瀬拓也。怒りは力を霧散させるだけではなく、判断力さえも狂わせる。その忠告さえも忘れたのかい?』
「黙れ。今すぐ祐介を放せ」
 あぁ、とヨナミネは視線を祐介に戻す。
『忘れていた。すまないね、興味が無くなった者に対してはどうも気が回らなくてね。……“これ”は返すよ』
 黄金の腕が振り抜かれた際に気を失ってた祐介の体が宙を舞い、離れた場所に倒れていた唯の側に落下して停止する。
 拓也は静かに「……紀紗と夏川。祐介と唯を頼む」と背後の二人に言う。それに肯いた紀紗と彩菜が慌てて走り出し、倒れる祐介と唯の側に駆け寄る。唯は気絶しているだけで頬の切り傷以外に対した外傷は見られないが、祐介の方はかなりの重症だった。何より左腕の損傷が激しい。どうしたらこんなことになるのか、腕の至る所から血が流れ出し、何かとんでもない力で捻じ曲げられたかのように圧し潰されている。そしてそれとは逆の手に持つ雷靭の刃は砕かれてしまっていた。一体何が起こったのか、まるでわからなかった。
 孤徹との同調を開始する拓也に向かい、啓吾がつぶやく。
「拓也、」
「止めるなよ啓吾。悪いがな、やっぱ仲間を傷つけられて冷静でいられるほどおれはお前みたいに人間出来てる訳じゃねえんだ。ましてや仲間を“もの”扱いされて黙ってられもしねえ。お前が何て言おうがおれは、」
「――勘違いするなよ」
 響き渡る低いその声に、拓也は啓吾を振り返る。
 そこにいるのは、今まで見でみたこともないような眼光をする啓吾だった。
「おれがいつも落ち着いてると思ってたら大間違いだ。冷静? 人間出来てる? クソ食らえだ」
 風靭の刃から風が荒れ狂い、啓吾の体を包み込む、
「……ぶっ倒すぞ、拓也」
「――……おう。ぶっ倒すぞ、啓吾」
 焔、と二人が同時に言葉を紡ぐ。
 そして真紅の竜は、巨体に劫火を纏わせる。
「言ったはずだ。ヨナミネを潰せ、とな。……始めるぞ、貴様等」
 力の鼓動が広がるその中で、ヨナミネは笑った。
『わたしを倒すだの潰すだの、随分と簡単に言ってくれる。そう言えばまだ紹介していなかったね。――融合型セロヴァイト・斑。それがわたしのセロヴァイトの真名だ。……ただ、別に憶えてくれなくてもいい。なにせもう二度と、君たちと会うことはないのだから。わたしへの憎しみを抱いたまま、死んで逝け』
「上等」とつぶやいた刹那に拓也の体がその場から消る。
 始まりの合図だった。地面を弾いて跳び上がった拓也を追う形で視線を上空へ向けた斑に、啓吾の意志の下に統括されたカマイタチが漆黒の空間を切り裂いて走り出す。しかしそれを理解していながらもヨナミネは視線を拓也に移したまま、右手をカマイタチに差し出して力を解放する。右手の掌に空気が収縮されたと同時に撃ち出され、カマイタチと激突したそれは空間そのものを圧し潰して消滅させる。が、そんな馬鹿正直な攻撃が当たるとは啓吾も思っていない。
 風靭の刃を翻し、黄金のアヌビスの周りを覆う風を支配下に置く。強度を上げながら風の活動を開始させ、斑の体に纏わせて動きを束縛する。右手を差し出したままの体勢で停止する斑の頭上から、拓也が落下する。空中で孤徹を振り上げ、見据える蒼い眼光へと容赦無く振り下ろす。しかし漆黒の鉄甲から手応えは伝わらず、脳天から突き刺した拳は斑の体を縦真っ二つに切断した。孤徹が地面に接触したと同時に斑の姿が拓也の目前から掻き消え、それを纏っていた風が霧散する。
 背後に気配が漂う。そこを拓也が振り返るより速くに視界を真紅の竜が横切り、黄金のアヌビスを飲み込みながら荒れ狂う劫火と共に焔は獲物へ牙を剥く。灼熱の眼光が捕らえるアヌビスの胴体を噛み砕くと同時に、しかしまたしてもそれは残像でしかなく、空を切り裂いた焔の牙の下から斑の眼光が貫く。アヌビスの口元が不気味に歪んだ刹那に、焔の四方八方から『キィイィイィイィイィイィイン』という何かの作動音が響き渡り、【界の狭間】が波打つように歪み始めた。――重力変換装置の作動音。そのことを焔が悟ったときにはすでに遅く、真紅の巨体を圧倒的な重力の塊が覆い尽くして圧し潰し、地面に無理矢理抑えつけられる。劫火までもが抑え込まれて身動き一つ取れなくなった焔の頭上に跳び上がり、斑は両掌を差し出して空気を収縮させた。
 撃ち出された空気の塊が真紅の竜に到達すか否かの瞬間に、その間に風が割り込んで軌道を捻じ曲げる。焔の側に激突したそれが空間を圧し潰し、斑の視線が啓吾に向けられた刹那、逆から拓也の拳が放たれた。背後に加え、死角からの攻撃だったのにも関わらず、後ろに目があるかのように斑は拓也の拳をかわして漆黒の鉄甲を鷲掴む。直に重力をぶち込もうと力が開放されるかどうかの時間差で、孤徹を掴む斑の腕を地面を弾いて跳び上がった啓吾の風靭が切断する。振り上げられた刃にはやはり手応えは無かったが、それでも逃げ先は予測できた。
 重力変換装置に抑えつけられて身動きが取れないはずの焔が、啓吾の意図に気づいて力任せに首を頭上に上げ、口を抉じ開けてオレンジ色の光を収縮させる。狙いは啓吾の真後ろ、機会は一瞬。体勢が崩れて落下する拓也が啓吾の腕を掴んで引き寄せた刹那に、そのすぐ後ろの漆黒の空間から黄金が滲み出す。それが好機だ。地面に抑え込まれていた焔の口から、炎の弾丸が撃ち出される。眼下から迫る炎の弾丸をヨナミネが察知したときには手遅れ、そこに視線を移す暇も無く黄金の体が炎に飲み込まれる。
 頭上で炸裂する弾丸の中から、斑が飛び出す。直撃は逃れたらしいが、その黄金は所々が溶岩のように溶けている。殺気の篭った蒼い眼光が焔に向けられた瞬間に、第二撃目が斑に放たれる。空中を未だに落下していた拓也が掴んでいた啓吾の体を振り回し、上空へと投げ飛ばした。その反動で飛翔する啓吾は風靭との同調率を引き上げ、刃に風を纏わせると同時に斑の動きを再び束縛する。残像を残してその場から逃げ出すのは不可能な間合い、異変に気づいたヨナミネが退避しようと意識してももう遅い。風が研ぎ澄まされた風靭の刃が、斑の胴体を切断する。一線の刃から確かな手応えが伝わり、黄金のアヌビスが二つに分離した。
 普通ならそれが致命傷に至るはずだった。体が真っ二つにされたのだ、それでも戦える方がどうかしている。しかしそれなのにも関わらず、ヨナミネからは反応が続いており、斑の眼光からは殺気が消えない。切断したばかりの斑の胴体から緑の光の粒子があふれ出し、それはヨナミネの意志の下に分離した上半身と下半身を結合させた。それに加えて焔の弾丸によって負った傷さえも修復され、啓吾の目前に無傷の斑が再び姿を現す。その光景を理解できなかった一瞬が啓吾の命取りとなる。伸びた右腕が啓吾のこめかみを鷲掴み、体重を無視したかのような出鱈目な力で地面に投げ飛ばされる。
 それは先に落下していたはずの拓也に追いついて激突し、二人揃って漆黒の闇に落ちる。その一瞬の間に拓也が姿勢を変えて孤徹を突き出して落下の衝撃を吸収、受身を取りながら地面を転がった。そして啓吾が立ち上がった刹那、空間を支配していた風が迫り来る攻撃を教えてくれる。立ち上がった体勢を崩してその場から逃れ、空気の塊が地面を圧し潰した際に中途半端な姿勢のまま風靭の刃を振り抜いて上空から突っ込んで来た斑の拳を受け止める。拳と刃が衝突し、力任せに押し返そうと力を込めるが拳はビクともせず、逆に風靭が弾かれて啓吾の体ががら空きになった。
 そこに撃ち出された空気の塊を啓吾が紙一重でかわした刹那、斑の拳が脇腹を捕らえる。肋骨が何本が圧し折れたのが自分でもはっきりとわかった。口からあふれ出した血を掠れた視界で意識した後、風圧にも似た衝撃が啓吾を襲う。背後にとんでもない威力の下に吹き飛ばされ、地面を何度も転がった際に停止する。が、肋骨の痛みが邪魔してすぐさま起き上がることができない。そこに向けられた斑の掌に空気が収縮され、アヌビスの口元が歪む。空気の塊が撃ち出される瞬間、その腕を拓也の足が蹴り上げた。
 上空に向かって撃ち出された空気の塊を無視して、拓也は蹴り上げた足を戻しながら膝を曲げ、体を後ろに倒して地面に両手を着いた際に一瞬だけ停止する。斑が揺れ動いた刹那、手を弾く反動で両足を突き出して顔面に蹴りを入れた。その衝撃で後ろに仰け反ったアヌビスを視界に捕らえたまま跳び上がり、蒼い眼光と視線が噛み合った瞬間に拓也は笑う。斑の背後に着地し、振り返る遠心力を利用して孤徹を撃ち放つ。背骨を捕らえた孤徹を一度だけ引き戻し、衝撃に揺さ振られて背後を振り返った斑へと拳を振り上げた。
 漆黒の鉄甲が斑の顎を捕らえた刹那の一秒、孤徹が爆散する。
 衝撃波となって吹き抜けたそれは、斑の首から上を粉砕した。上空へ霧散していく衝撃波の中、斑の体がゆっくりと背後に倒れて行く。しかしそれは傾いただけで倒れることなくその場に停止し、漆黒の闇からあふれ出した緑の光の粒子が斑の首に収縮される。それは孤徹によって粉砕されて跡形も無く消えたはずの首から上を復元させ、アヌビスに蒼い眼光を再び宿らせる。爆散の反動で腕が軋み上げる中、その右腕を斑の腕が掴み上げた。不気味に歪むアヌビスの口が抉じ開けられ、そこに並ぶ鋭い牙が拓也の右肩に喰らいつく。
 それは肉を貫いて骨にまで到達し、噴き出す血に比例して激痛が拓也の体を駆け巡った。無意識の内に左拳を握り締めて斑の顔面へと放つが、それを受け止めてヨナミネは笑う。喰らいついた牙をそのままに、口の力だけで拓也の体を持ち上げて弾き飛ばす。宙を舞う拓也の体に狙いを定め、右手の掌に空気を収縮させる。撃ち出された空気の塊が空間を横切り、拓也の体を直撃するかどうかの瞬間、それに炎の弾丸が激突した。空間で炸裂したその衝撃に煽られた勢いで、拓也が漆黒の地面に叩きつけられて停止する。
 拓也の血に染まった口元を拭うこともせず、斑の眼光が焔に向けられた。重力変換装置で自由を奪われているのにも関わらず、それでも焔は起き上がる。ギギッ、ギギギギッ、ギギギギギギギギッ。そんな鈍い音を立て、あのときのように立ち上がった真紅の竜を真っ向から見据えてヨナミネは指を弾く。その音に反応して漆黒の闇に緑の光の粒子があふれ出し、この空間に決まった形を造り出すために活動を開始する。ヨナミネの背後に集まった緑の光の粒子が具現化させた『それ』は、無色透明のテレビ大の機械だった。空中に浮き上がって停止し、ダイヤモンドのような見た目の中に虹色の光が宿っていて、その中心部から作動音が響き渡っている。
 それが重力変換装置あり、そしてそれを守る形で展開する四人の特殊兵。造り出された機械人形ではなく、向こう側の人間。ヨナミネが全幅の信頼を寄せる新鋭部隊である。その手に持つは歪んだ刀でもライフルでも、九種の完成セロヴァイトでもない。新鋭部隊の格手足に装着されたそれは、黄金の鎧。融合型セロヴァイト・斑を造り出す仮定で生まれた副産物。斑には到底及ばないものの、通常の完成セロヴァイトとは比べ物にならない性能を示すセロヴァイト。それを扱うのが新鋭部隊の四人のセロヴァイヤーだ。
 新鋭部隊の一人が重力変換装置に手を翳すと同時に、作動音の音量が跳ね上がった。瞬間に立ち上がっていた焔の巨体が再度圧し潰され、質力を上げた装置に前に真紅の竜はまるで動けなくなる。這い蹲る焔へ視線を移しながらヨナミネは笑った。その笑みが、焔が味わった屈辱を思い起こさせる。貴様のどこか【創造主】だと言うのだ、【界の狭間】は貴様が扱える代物であるはずがない、視界から消え失せろ人間風情が、狭間の番人の力を舐められることほど虫唾が走るものは無いぞッ!!
 焔の怒りが頂点に達した刹那、抑え込まれていた劫火が真紅の巨体から噴き上がり、抉じ開けられた口に収縮される。そこから迸る圧倒的な力の鼓動が空間を支配し、一瞬の静寂の後に焔の口から炎の弾丸が撃ち出される。それはヨナミネの真横を通り過ぎ、背後の重力変換装置を狙う。が、それでもヨナミネは身動き一つ取らなかった。変わりに重力変換装置の周りに展開していた新鋭部隊が瞬間的に炎の弾丸の軌道に割り込み、両掌を四人が同時に前方へと突き出す。そこに空気が収縮された瞬間に、重力の網が完成する。その網に捕らえられた炎の弾丸が一発で地面に抑え込まれ、炸裂した衝撃さえてもが完全に無効化された。
 新鋭部隊の能力は攻撃に有らず。新鋭部隊の真骨頂は防御にある。攻めを捨て守りにだけ特化された部隊。焔の弾丸をも無効化させる重力の網を使いこなし、あらゆる攻撃を無力化にする。斑の特性を反転させたことによって生み出された副産物、それが新鋭部隊の持つセロヴァイトだ。その真名を、守撃型セロヴァイト・双劉(そうりゅう)。
 重力変換装置の作動音は鳴り止まず、身動き一つ取れない焔に歩み寄り、ヨナミネは実に愉快そうにつぶやく。
『無駄だ焔。君の攻撃はもはや通用しない』
 やがてその視線が揺れ動き、離れた場所に立ち上がった拓也と啓吾に向けられる。
『君たちには驚かされてばかりだ。セロヴァイトとの同調率は申し分無く、わたしの予想を遥かに上回る戦闘能力を持っている。一度ならず二度までも斑に攻撃を加え、致命傷を与えた。胴体を切断し、首から上を粉砕。まさか斑と融合しているこの状態のわたしに、ここまで深手を負わすとは思っていなかった。斑の速度について来れるのも見上げたものだ。……が、』
 アヌビスの口元が歪む、
『――所詮は、この程度だ。君たちが戦っている相手を誰だと思っている? わたしは、【創造主】だ。どう足掻こうがわたしに勝てはしない。【界の狭間】を支配した今、わたしに敵は無いのだよ』
 癇に障る笑い声を無視し、拓也は右肩から流れ出す血を見つめる。
 右腕を動かすだけで痛みが全身を蝕む。ただ喰らいつかれただけではないのだろう。下手をすれば骨が砕け、神経にまで到達しているかもしれない。だがまるで動かない訳ではない。走り抜ける激痛さえ我慢すれば拳は握れるし、もう一度くらいなら爆散も使用できる。それにはまず、衝撃を吸収しなければならない。まだ負けた訳じゃなく、勝ち目が無い訳でもないのだ。向こう側の人間と言っても死はあるはずだ。胴体を切断しても頭を粉砕しても死なない理由は、恐らくそのセロヴァイトにある。どうにかしてヨナミネと斑を分離させなければならない。それが成功すれば、間違い無く潰せる。こんなところで、終ってたまるか。
 右腕を上げると、肩口から骨が捻じ曲がるような音が聞こえた。その音に比例して走り抜ける痛みを歯を食い縛ることにより耐え、拳を握って孤徹を構えて視線を啓吾に向ける。啓吾も腹部の痛みに耐えながら、それでも拓也と同じように風靭を構えていた。互いの視線が噛み合うこと一秒、精一杯に笑い合って黄金のアヌビスへと向き直る。拓也がわかっているのだから、啓吾も悟っているに違いない。どうにかしてヨナミネと斑を分離させる。それができる可能性が零じゃない限り、戦い続けてやる。
 戦闘意欲を捨てない二人を見つめたまま、ヨナミネはため息を吐き出す。
『まだわからないのか。このわたしと斑が完全融合している前には如何なる攻撃も通用しない。勝ち目はある、とでも思っているのなら大間違いだ。……あまりわたしを怒らせるなよ。いい加減に大人しく殺されてくれなければ、わたしもそろそろ手加減ができなくなるぞ』
 馬鹿にすんな、と拓也は鼻で笑う。
「手加減できなるなる、だと? 舐めてんじゃねえよ。本気出して負けたらどうしよう、なんて心配してねえでさっさと全力でかかって来いや」
『……口に聞き方に気をつけろ。言ってるんだ、君たち程度の相手に全力を出す価値も無い、と』
「――ならば、そのまま消え失せろッ!!」
 突如として言葉を発した焔の眼光に灼熱が宿ると同時に、抉じ開けられた口の奥底にオレンジ色の光が収縮される。
 それに気づいたヨナミネが焔に視線を向けたときにはすでに、炎の弾丸が撃ち出されていた。至近距離から迫る炎の弾丸を避ける暇は無く、黄金のアヌビスが劫火の中へ飲み込まれる。焔の眼前で炸裂した炎の渦を視界に捕らえ、拓也と啓吾が走り出す。荒れ狂う劫火からゆっくりと浮かび上がる斑の影に狙いを定め、啓吾が風靭を振るう。刃に纏わりついていた風が空間に吹き上がり、カマイタチとなって頭上から斑に襲いかかる。濛々と舞う劫火がカマイタチによって掻き消され、そこに立っていた黄金のアヌビスの体を容赦無く刻む。飛び散る火花をものともせず、蒼い眼光が啓吾に向けられた。
 その眼光の死角から飛び込んだ拓也の拳が斑の鼻っ柱を捕らえる。鈍い音が響き渡る中、右肩の痛みを気力で抑え込んで連続して拳を打ち込み続けた。漆黒の鉄甲からは常に手応えが伝わってくる。つまりは斑の本体はそこにあるということ。通常の孤徹の攻撃では大したダメージを負わせれないのは知ってる、だから狙いだけ定めさせてもらう。衝撃音が鳴り止まぬ斑の頭上から、跳躍した啓吾が狙い打つ。風靭の切っ先を真下に構え、落下速度にものを言わせて斑の脳天から突き刺す。刀身が根元まで斑の体内に入り込んだことを確認した刹那、啓吾は風靭との同調を開始してアヌビスの内部から風を暴発させる。
 斑の胴体が炸裂し、体の大部分が一挙に弾けた。頭から胸の辺りに掛けて砕け散った斑が、しかしそれでも動く。体に突き刺さった風靭を左手で掴み上げ、停止していた孤徹を右手で鷲掴む。失われたはずの斑の体が、緑の光の粒子と共にその場に具現化させる。斑の顔が再生される一瞬、その奥に隠れるヨナミネの表情が見えた。ヨナミネは、なおも笑っている。斑が完全に復元され、蒼い眼光が再び灯った際に両腕が上空に振り上げられた。圧倒的な力の前に二人の体が宙に投げ出され、地面を弾いて斑がそこに追いつく。
 無防備な体勢で空中に放り出された拓也と啓吾を視界に収め、斑の拳が同時に二人を捕らえた。避けることも防ぐこともできなかった。拳は確実に拓也と啓吾の腹部に打ち込まれ、そこから迸る重力の塊がすべてを圧し潰す。口からあふれ出した血が落下するより速くに、二人の体は地面に叩きつけられる。地面に蹲ったまま身動き一つできず、これでもまだ生きている自らが不思議だった。朦朧とする意識の中で、こちらに歩み寄って来る斑の姿がぼんやりと理解できた。
 ヨナミネは言う。
『これで理解できただろう。この勝負は、わたしの勝ちだ。……しかし、このまま殺したのではわたしの気分も晴れない。一つ、余興を見せてやろう』
 左右に広げられた斑の両掌に、それまでとは比べ物にならない空気が圧縮される。
『融合型セロヴァイト・斑の元は幻竜型セロヴァイト・虚。そこで問題だ。融合型と幻竜型で決定的に違う所は何か。それは、セロヴァイヤーの位置。幻竜型の場合、セロヴァイヤーは遠巻きに傍観していることしかできない。だがそれでも十分なのだ。なぜなら、幻竜型は他のセロヴァイトより強力だから。幻竜型と戦っている相手が、そのセロヴァイヤーに攻撃を与えることは不可能に近いだろう。が、言い換えればそれはある意味、どのセロヴァイトよりセロヴァイヤー自身が無防備になるということだ。しかし融合型は違う。セロヴァイヤーがセロヴァイトと融合して戦うことにより、セロヴァイヤーは最強の鎧に守れていることになる』
 圧縮された空気が斑の目前で重なり合い、一つの塊を造り出す、
『幻竜型に有って融合型に無い決定的で最大の欠点。それは、セロヴァイヤーが無防備だということだ。……思い出せ、焔。第十二期セロヴァイヤー戦で、桐原麻桐が君をどうやって打ち破ったか。実に簡単なことだよ。幻竜型にある、唯一の弱点を突けばいいだけの話。邪魔な者もいるが、まとめて処理してやろう。……――余興の始まりだ。楽しめ、苦しめ、このわたしに憎しみを抱いたまま何もできずに虚しく嘆け狭間の番人・焔』
 極限まで圧縮された空気の塊が、軌道を変える。
 その先に存在するのは彩菜に祐介と唯、そして、
 焔がその事実に気づいたときにはもう遅い、ヨナミネは歓喜の笑みを浮かべる、
『――お別れだ、七海紀紗』
 巨大な空気の塊が撃ち出される。
 空間を根こそぎ圧し潰しながら迫り来るその塊を、その場にいた紀紗と彩菜でどうこうできる訳は無かった。あるいは、祐介と唯が気を失っていなければどうにか逃れることはできたのかもしれない。しかし事実、祐介と唯は気を失っており、普通の人間である彩菜が三人を抱えたまま離脱できるはずはなく、セロヴァイヤーとは言え身体能力が向上されていない紀紗に希望を見出すのは不可能。逃げることも防ぐことも、当たり前のようにできはしない。彩菜が状況を理解して何かしらの行動を移そうとしても無意味に終わり、紀紗が何事かを決めたかのように立ち上がって空気の塊の前に立ちはだかる。彩菜が何かを叫び、しかしそれでも紀紗は一歩も引かない。焔が重力の抵抗を力の限りで粉砕しようとするが間に合わない、紀紗に空気の塊が直撃するか否か、
 その間に、拓也と啓吾が割り込む。二人とも意識は定かではなかった。ただ、大切な者を守るため。その意志だけが本能のように働いて身体を無意識の内に突き動かす。紀紗と彩菜が同時に何かを大声で叫んだのだが、当たり前のように何も聞こえない。拓也は孤徹を真っ向から構え、啓吾は風靭の刃を振り抜く。まるでスローモーションのような光景の中、空間を圧し潰す塊が二人の激突した。炸裂したその衝撃が辺りを吹き抜け、紀紗と彩菜の体を背後に吹き飛ばす。
 衝撃が空間に霧散して消えたとき、その場に立っているのはヨナミネと、そして拓也と啓吾だけだった。空気の塊が激突した場所から一歩も動かすに、二人は立ち竦む。が、それも数秒の間だけだった。体中から噴き出す血を空中に残して漂わせたまま、拓也と啓吾が漆黒の闇に倒れ込む。音の無いような世界の中で、それを見ていた紀紗と彩菜が走り出す。倒れ込んだ二人に走り寄り、互いに何かを叫ぶが無音の世界がすべてを掻き消してしまう。
 そんな世界に響き渡る、ヨナミネの高らかな笑い声。その笑い声だけが【界の狭間】にいつまでも鳴り止まない残響として残り、
 そして、真紅の竜が暴走を開始する。爆発的な咆哮を上げ、焔の巨体が持ち上がった。体の至る所が重力に逆らって軋みを上げるが知ったことではなかった。灼熱の眼光から殺気を超えた何かが迸り、重力を捻じ曲げて劫火が上空へと噴射する。上空で渦を巻く劫火が焔の意志とは無関係に荒れ狂い、辺りを地獄の業火で焼き払い始める。
 重力変換措置を持ってしても抑え切れないその力を、しかしやはりヨナミネだけは動じない。ヨナミネの言わんとすることを理解した新鋭部隊が重力変換装置に手を置き、双劉が光り輝いたと同時に重力変換装置との同調を開始する。作動音が跳ね上がり、無色透明の内部から虹色の光があふれ出し、起き上がった焔の巨体を再び地面に抑え込む。それでも重力に抗って起き上がろうとする焔に、斑が近づく。灼熱の眼光が蒼い眼光を貫くが、ヨナミネは何の変化も表さずに掌を焔の頭へと向ける。そこに収縮された空気が臨界点に到達した瞬間、焔の頭蓋骨を圧し潰す威力を秘めた空気の塊が撃ち出され
 氷の眼光が、斑を貫いてヨナミネの脳髄を撃ち抜く。撃ち出された氷の弾丸が漆黒の闇を切り裂いて重力変換装置に激突し、新鋭部隊が抗う暇など無く冷気の餌食となって冷凍される。辺りを渦巻いていた劫火までもが一瞬で氷漬けにされ、【界の狭間】そのものを冷気が支配下に置く。突如として現れた圧倒的な気配を追ってヨナミネが頭上を仰ぎ、次いで冷気にあてられて我を取り戻した焔がすべての状況を理解した。
 漆黒の闇から具現化されたそれは、白銀の竜。かつて焔と対を成していた狭間の番人。
 巨大な翼を広げ、
 巨体に冷気を纏わせ、
 すべてを凍らせる氷の眼光を宿し、

 漆黒の彼方から、狭間の番人・朧は飛来する――。





     「焔と朧と」



 漆黒の彼方から飛来した朧は氷漬けにした重力変換装置の真上に降り立ち、自らの体重で木っ端微塵にそれを打ち砕く。その周りに立っている新鋭部隊を眼光だけでぐるりと見渡し、尻尾を払うかのような仕草をした一瞬、四人の特殊兵が澄んだ音を立てて氷と共に砕け散る。辺りに散らばったその残骸には脇目も振らず、朧は真っ向から焔を見据えた。
 重力変換装置の力から解放された焔がゆっくりと身を起こし、目前に存在する白銀の竜に問う。
「……貴様が、なぜここにいる」
 焔と対立を成していた狭間の番人・朧。しかし朧は第十二期セロヴァイヤー戦の際に、優勝者の渡瀬拓也と神城啓吾、そして焔で打ち破ったはずである。紀紗を救うため。その理由の下にかつての同士をこの手で焼き払ったのだ。あのときに朧の反応が完全に消失したのは確認しているし、この四年間の間に【界の狭間】でそのような気配を捉えたこともない。一度は消滅したはずの朧がなぜ、再び姿を現したのか。答えは、すぐそこに転がっていたのかもしれない。
 朧は言う。
「我等が主、【創造主】のお目覚めだ」
 それが、答えだった。
 【創造主】。それは、紀紗とはまた違った意味での焔の唯一絶対の主。偉大な存在にして、この世の頂点に立つ存在。それが【創造主】だ。幾千年もの昔より、狭間の番人・焔と狭間の番人・朧が永きに渡る眠りから目を覚ますのを永久に等しい間中ずっと待ち侘びていた主の名だ。狭間の番人を生み出し、対立する世界に【掟】を定めた己が最もよく知る唯一絶対の主。
 氷の眼光が灼熱の眼光を見据える。
「焔。貴様が忘れた訳ではあるまい。我等狭間の番人より強い者などこの世に存在してはならぬのだ。それを知っていながら、この様は何だ? 高々人間風情に身体の自由を奪われ、我を忘れ行動するその愚行。貴様はそれでも狭間の番人か。我を押し退け、人間に手を貸したあの瞬間の方がまだ優れていたぞ。我を失望させるなよ、焔。貴様は我と唯一肩を並べられる存在だ。それを、忘れるな」
 朧の眼光がゆっくりと揺れ動き、斑を捕らえる。
「ヨナミネ=S=ファイタル。貴様は人間に許された力の領域を超えている。その力はやがて、対立する二つの世界の均衡を必ずや乱す。不本意だったが、【創造主】の命だ。我が力を持ってして、貴様の存在を【界の狭間】から排除する」
 氷の眼光を見据え返し、それまで黙っていたヨナミネが口を開く。
『狭間の番人・朧、か。お前の存在など、シナリオには無かった。わたしの描いたシナリオが崩されることほど、不愉快なことは無いのだよ。……いいだろう。君たち二人を、わたしが造り出す新世界の生贄として捧げようではないか。時代遅れの【創造主】はもはや必要無い。これからはこのわたしが、【創造主】だ』
 朧は鼻で笑う、
「人間風情が驕るなよ。薄汚い口で【創造主】の名を語る覚悟の程を、見せてもらおうか」
 白銀の竜の巨体に冷気が纏わりつき、空間そのものを凍てつかせるように活動を開始する。
 その光景を見つめていた焔は、そっと眼光を閉じた。意志を研ぎ澄まし、遥か彼方に存在する鼓動に触れる。幾千年か昔から、焔が唯一信じていた光がそこにはある。【創造主】が眠りに就いたときに、それまで抑えられていた焔の自我が一度だけ崩壊したことがある。一時は我を忘れ、朧と共に目に見え触れるすべてのものを破壊して回ったあの頃。裏切られた、と思った。唯一信じる我が主に、見限れたのだと思った。だから怒りに任せて破壊の限りを尽くし、挙げ句の果てには戦闘だけを求めて人間の誘いに乗ったのだ。
 しかし、心の奥底ではわかっていたのかもしれない。なぜ【創造主】は眠りに就いたのか。なぜ狭間の番人には自我あるのか。それは、我が主が狭間の番人を信じたからこそではないのか。――いつからだったのだろう。そのことに気づかないフリをして、己の使命を欲望のために捨て破壊を求めたのは。【創造主】から与えられた自我を間違った方向に捕らえてしまったのは。裏切ったのは、こちらの方だったのかもしれない。それを考えれば、最後の最後まで【創造主】だけを信じ抜いていたのは朧だけだったのかもしれない。
 意志の遥か彼方で触れる光に懺悔をする。これで罪が消えるとは思っていない。ただ、許されるのならもう一度だけ、【創造主】の命に従いと思う。守りたい者たちがいる。守らねばならない者がある。何にも代え難い、【創造主】とは違った意味の唯一絶対の主・七海紀紗。そして共に戦ったセロヴァイヤーたち。朧をここに召喚したのは【創造主】の意志だ。【掟】を貫くためにそうしたのだろう。その仮定だとしてもいい。だけどもう一度だけ、狭間の番人・焔として、【創造主】の命に従って守りたい者たちがいる。
 焔の意志に共鳴した光が、ゆっくりと鼓動を打った。
 ――感謝します、我が主。焔は、そう言った。
 一度目の飛翔で漆黒の闇に横たわる祐介と唯の側に降り立ち、傷つけないように二人の体を咥えて翼を広げる。二度目の飛翔で紀紗と彩菜の所へ向かい、着地してすぐに祐介と唯の体を拓也と啓吾の側に下ろし、焔は紀紗を見つめる。状況が理解できていないはずの紀紗は、それでも泣かないように精一杯に涙を瞳に堪え、動かない拓也の体を抱き締めながら側に佇む焔を見上げた。七海紀紗という少女は、最も幼いセロヴァイヤーだった。焔のセロヴァイヤーは、まだ十七年しか生きていない子供である。しかしそれでもやはり、我が主は強いと焔は思う。
 真紅の竜が笑いかける。
「……少しの間だけ、待っていてくれ」
 その言葉と同時に漆黒の闇から突如として劫火があふれ出し、紀紗を含めた六人を囲うような形で一斉に吹き荒れた。それは六人をこの空間から完全に隔離し、外部からの攻撃をすべて拒絶する炎の檻と化す。炎の檻が完全に造り出されるその瞬間に、瞳から一筋の涙を流しながら笑う紀紗を見た。
 ……待ってるからね、焔。
 紀紗のつぶやきを最後に、炎の檻の内部はこの空間から完全に隔離された。
 束の間の静寂、一瞬だけ納まった劫火が上空へと噴射される。頭上で渦を巻く炎の龍が三度の加速を果たした刹那、それは軌道を変えて真紅の竜に降り注ぐ。炎の龍に飲み込まれて真紅の竜の姿が消えた瞬間には、その炎は焔の意志に統括されて真紅の巨体を覆う劫火と変化する。巨大な翼を広げ、巨体に劫火を纏い、眼光に灼熱を宿らせ、狭間の番人・焔は空間を揺るがす咆哮を上げた。
 【界の狭間】で劫火と冷気が噛み合う。
「――朧。礼を言う」
 しかし朧は、焔を振り返ることもしなかった。
「礼など必要無い。言うのなら【創造主】に言え」
「それもそうだな。……貴様と共に戦うのは、果たして幾年振りか」
「憶えてなどおらぬ。だが、この感覚だけは憶えている」
「ああ。おれも憶えている」
「心地良いな、焔」
「同意見だ」
「始めるぞ」
「愚問」
 短く切って捨てた真紅の竜と全くの同時に、白銀の竜が巨大な翼を広げて飛翔する。一瞬でヨナミネが見上げるような高度に達した二匹が空中で左右に別れて旋回し、離れた場所から互いの姿を捕らえた刹那に加速する。真紅の竜と白銀の竜が上空で激突すか否かの感覚で、焔と朧が同時に翼を折り畳んで高速落下を開始する。それは、焔と朧の間で行われるある種の度胸試しのようなもの。漆黒の空間が作り出す地面に二匹の竜が同時に突っ込んで行き、数ミリ単位の距離感で互いに激突を回避する。左右に別れた二匹はまたしても体の向きを同時に変え、獲物を視界に捕らえながら全くの同時に口を抉じ開け、真紅の竜はオレンジ色の、白銀の竜は白色の光を喉の奥底に収縮させ、それを同時に撃ち放つ。
 その狙いの先には、黄金のアヌビスが立っている。空間を疾る炎の弾丸と氷の弾丸から逃れようとする素振りも見せず、斑はただ両掌を二つの弾丸の軌道に乗せた。双劉でできることは、斑でも可能。そもそも融合型セロヴァイト・斑を生み出す仮定で守撃型セロヴァイト・双劉が生まれたのだ。特性を反転させれば双劉と同じ効果が得られる。つまりは斑もまた、重力の網を使いこなせる。四人同時使用の新鋭部隊と比べれば威力は多少劣るが、それでも十分に通用するレベルだ。斑の両掌に空気が収縮され、そこから発生する重力の網が二つの弾丸を地面に抑えつけて無効化にする。
 炸裂する衝撃が微量だが伝わるその中で、翼を傾けて軌道を変えた焔と朧が真っ向から斑に突っ込んで行く。時には緩やかな弧を描くその翼が神速の速さによって強度を増し、獲物を一刀両断する刃となって狙いが定められた。焔の翼が斑の胴体を切断し、朧の翼が斑の首を切断する。が、そこから手応えが伝わって来ない。二匹の竜が黄金のアヌビスの真横を通り過ぎた際に風圧が斑の残像を掻き消す。地面から擦れ擦れを飛行していた二匹が上空に力の鼓動を感知した瞬間、互いが左右対照に飛び退いて撃ち出された空気の塊を回避する。
 垂直で飛翔した二匹を視界に捕らえたまま、斑は空を蹴って加速を開始、空気の塊を朧に放ちながら狙いを焔に固定する。空気の塊の軌道から逃れるために高度を下げた白銀の竜から意識を外し、斑は真紅の竜へ突進した。背後から迫るアヌビスの気配を追いながら焔は空中で重力を捻じ曲げて反転、背後を振り返った際に視界へ入る斑に標準を固定して口を抉じ開ける。そこから撃ち出された炎の弾丸が斑に到達し、しかしそれは重力の網により無効化された。炸裂する炎の弾丸から上がった煙幕の中から飛び出す黄金のアヌビスに向かって振り上げられた真紅の竜の尻尾を紙一重でかわし、斑が焔の懐に潜り込む。斑の右掌に空気が収縮されて撃ち出される刹那、その脳天を朧の尻尾が直撃する。
 衝撃に作用されて急降下する斑から出鱈目な方向に空気の塊が撃ち出され、途中でバランスを整えたアヌビスが頭上を見上げたときには炎の弾丸と氷の弾丸が同時に発射されていた。ヨナミネに迷いは無かった。重力を網を発動させて氷の弾丸だけを地面に抑えつけ、炎の弾丸の軌道から飛び退く。が、地面に衝突した弾丸から弾けてあふれ出す劫火に煽られて斑が後方に吹き飛ぶ。熱されて溶岩のように溶けた黄金に一瞬だけ目を配り、意志の下に緑の光の粒子を活動させて復元させる。
 中途半端な攻撃は斑に通用しないということを瞬時に悟った朧が翼を折り畳んで急降下、その意図に気づいた焔が朧の逆側から急降下を開始する。地面から数センチ間隔で軌道を変えた二匹が前後から斑を狙い打つ。撃ち出された弾丸が全くの同速度で斑に到達し、地面を弾いて跳び上がってそれをかわしたアヌビスを視界に捉えたまま垂直に焔と朧が飛翔し直す。空中で一瞬だけ停滞した斑が眼下から迫り来る二匹の竜に狙いを定め、両掌に空気を収縮させ、
 斑の体を冷気が包み込む。黄金に霜が発生し、それに気を取られた刹那がヨナミネの命取りとなる。加速した焔の翼が斑の左腕を捕らえて切断、空中で体勢のよろけたアヌビスに真下から朧が牙を剥く。斑がその攻撃は回避するには、遅過ぎた。朧の牙が斑の下半身を噛み砕き、海老の甲羅を圧し折ったかのような音が響く中、氷の眼光と蒼い眼光が重なり合う。戦闘を楽しむ朧と、この状況を憎むヨナミネ。そこに割って入るは味わった屈辱を返そうとする焔だ。朧が捕らえる斑の首から上に標準を固定し、口を抉じ開けて炎の弾丸を撃ち放つ。
 空間を焼き尽くして疾る炎の弾丸が斑の顔面を直撃した瞬間に炸裂し、それと同時に朧が全力の力を持ってして噛み砕いていた体を地面に叩きつけるように振り落とす。首から上と左腕が消滅したアヌビスが地面に激突するか否かの刹那、朧が口を抉じ開けて氷の弾丸が吐き出す。漆黒の闇に激突して倒れ込みそうになっていた斑へと氷の弾丸が迫り、しかし頭が吹き飛ばされているのにも関わらずアヌビスが揺れ動いてその直撃を逃れる。が、氷の弾丸は斑の右腕を直撃して肘までを完全に冷凍させた。
 上空で二匹の竜は一度だけ停滞し、眼下の獲物を見据える。漆黒の闇から緑の光の粒子があふれ出し、斑の首と左腕と朧に噛み砕かれた下半身に収縮され、決まった形を復元させた。緑の光の粒子が弾けて消えたとき、そこにはそれまでと変わらない斑が立っている。――否。斑には一つだけ、それまでとは違う箇所がある。朧が放った弾丸により氷漬けにされた右腕だけが、元通りになってはいなかった。その事実に気づいたヨナミネは悪態を吐きながら自らの左腕で氷漬けにされた右腕を砕き、すぐさま緑の光の粒子を収縮させて復元する。
 焔と朧が、融合型セロヴァイト・斑の弱点に気づいたのは全くの同時だった。
 眼下のアヌビスを視界に捕らえたまま、焔が朧に向かってつぶやく。
「……どうやら、貴様の攻撃だけが奴に通用するようだな」
 朧は笑う、
「【創造主】が聞いて呆れる。全知全能なる我が主の名を語るのは、人間風情には不可能なのだ」
「癪だが貴様の方がこの戦闘では主力だ。おれが援護に回る。貴様が決めろ」
「大層な口を聞くな。我に命令することができるのは【創造主】だけだ」
「知っている。が、一度だけおれの頼みを聞け」
「……最初で最後だ。覚悟しておけ焔。これが終ったのなら、必ず貴様を噛み砕く」
「構わん」

 上空に停滞する二匹の竜から劫火と冷気が噴射し始めたその光景を仰ぎ、ヨナミネが拳を握る。
 ヨナミネにしてみれば狭間の番人・朧の出現は完全な予定外だった。第十二期セロヴァイヤー戦より以前に、何度か朧の戦闘をモニターしたことがるが、戦闘力は自我があるが故に感情に作用される焔とは違い、感情があるにも関わらず一定以上の力を常に引き出している。そして何よりも厄介なのは、その攻撃手段だ。ただ破壊力に任せて破壊するのではなく、触れたものを完全に冷凍させる氷の弾丸。斑の再生能力もその前では無意味に終る。体の大部分が消滅させられようとも、どこか一部でも存在しているのなら再生できる。しかし朧の攻撃は違うのだ。冷却されれば最後、再生能力もクソも無く破壊される。斑ならそれでも対抗できるのではないかと思っていたが、甘かった。
 狭間の番人・朧が【界の狭間】から消滅したことを確認したからこそ、こうして何の支障も無くすべての計画を始動させたのだ。朧がいないのなら障害は何も無いはずだった。焔さえも重力変換装置の前には手も足も出ず、斑と融合すれば他のセロヴァイヤーなど無に等しい。完璧なシナリオだった。今まで通りに穴など一つも無かった。なのに、それなのに。予定外のイレギュラーが発生したことがすべてを狂わせる。時代遅れの【創造主】が、最後までわたしの邪魔をするか。貴様の時代はとっくの昔に終ったのだ。これからは、このわたしが【創造主】なのだ。誰にも、何者にも邪魔はさせない。
 シナリオが崩れることほど、ヨナミネのプライドを傷つけるものは無い。憎悪の炎が掻き立てられる。もはや目前の邪魔者をこの世から抹消せねば怒りは収まらない。起こったイレギュラーを無かったことにしなければこの憎悪は消えない。使う機会は無いのだと考えていたシステム。使用者に負荷が掛かり過ぎるが故に試作段階で止まっていた能力。それを、起動させる。
 血が噴き出すような力で拳を握り締め、斑の奥底に眠るスイッチに触れ、ヨナミネは、憎悪の笑みを浮かべながら融合型セロヴァイト・斑を完全起動させた。
 斑の蒼い眼光が一瞬だけ輝きを増した刹那、歪んだ口から機械的な音声が滲み出す。
『神経結合率臨界点突破。重力変換装置質力最大。モード1からモード2へ移行。
 起動まで9%……32%……54%……73%……99%……融合型セロヴァイト・斑――起動』

 眼下の斑から、衝撃波にも似た力の波動が巻き起こる。
 そのことを意識した刹那、斑の眼光が二匹の竜を貫き、突き出された右掌に空気が収縮された。それは一箇所に圧縮されるそれまでの代物ではなく、不規則に幾つもの小さな空気の塊を生み出す。歪んだアヌビスの口元が揺れ動き、抉じ開けられたそこから連になった鋭い牙が唾液を引いて剥き出しにされ、瞬間的に発射された空気の塊が空間を圧し潰しながら上空に停滞していた焔と朧を真下から狙い打つ。それに気づいた二匹が巨大な翼を広げて無数の小さな空気の塊の軌道から逃れるために加速を開始させ、
 真紅の竜に狙いを定めて斑が漆黒の闇を破壊する。残像さえも残らない高速移動を可能にした斑の体が、焔の眼前に回り込む。目前に現れたアヌビスを視界に捕らえ、焔は急停止の反動で尻尾を振り上げた。しかし斑は避けることはせず、それを真っ向から受け止めて抱きつくような体勢で尻尾を包み込んだ。瞬間、斑の眼光が蒼く輝いて焔の尻尾が圧し折られる。咆哮を上げる焔を見据えたままで、斑の黄金が翻った。真紅の巨体の体重をまるで無視して、尻尾から伝わる信じられないような力が焔を地面に向かって投げ飛ばす。視界が回転していて定まっていなかったのは僅かな一瞬であり、落下していた焔が途中で翼を広げてバランスを整え、上空を振り返って炎の弾丸を撃ち出そうと、
 黄金のアヌビスはそこにいた。焔の懐に潜り込み、真紅の巨体に斑の両掌が添えられる。そこから重力が直接ぶち込まれるか否かの刹那、後方から氷の弾丸が吐き出された。瞬時にそれを理解した斑が焔から離脱し、しかし回避の遅れた左足が氷の弾丸に飲み込まれて冷却される。氷漬けになった左足に視線を向けることもせず、落下する真紅の竜から意識を外しながら、突っ込んで来る白銀の竜を見据える。再び吐き出された氷の弾丸を重力の網で無効化にさせ、剥き出しにされた朧の牙を紙一重でかわして氷漬けにされた左足で白銀の竜の横っ面を蹴り上げた。
 その衝撃で粉々に砕ける左足を瞬時に復元させ、振り抜かれた尻尾を回避して斑が朧の背に回る。振り返ろうとした斑の背中に、空気の塊が直撃した。空中から重力に圧し潰されて白銀の竜が落下し、地面に叩きつけられて咆哮を上げる。それを追って落下を開始した斑が両掌に空気を収縮させ、無数の小さな塊を撃ち放つ。が、それが朧に到達するより速くに炎の弾丸がそれを根こそぎ焼き払う。
 斑の視線が真紅の竜に向けられ、唾液を引いて抉じ開けられた口に空気が再度収縮される。
 キィイン、という空気を圧縮する音が限界を突破した後、そこから一線に研ぎ澄まされた重力の柱が発射された。空間を圧し潰しながら疾ったそれを理解した瞬間、意識するより速くに体が反応し、翼を折り畳んで焔が軌道から外れる。だがしかし、それをそう易々と逃がす斑ではない。狙いを真紅の竜に固定したまま顔を下にズラして重力の柱を先回りさせる。急降下から空気の抵抗を捻じ曲げて飛翔した焔の真横を重力の柱が通り抜けた際に、圧し潰された尻尾の先端が巻き込まれた。重い衝撃が焔の体を突き抜けたと思ったときにはすでに、尻尾の先端部分が重力の柱に飲み込まれて切断されていた。重力の柱はなおも疾る。漆黒の闇を圧し潰しながら突き進むそれはやがて朧に到達し、気配を察知した白銀の竜がすぐさま回避しようと翼を広げ、
 その右翼が重力の柱に飲み込まれた。右翼の半分以上が切断された朧が、それでも左翼の力だけで飛翔して離脱する。空中で焔と再び合流し、二匹の竜が黄金のアヌビスを視界に捕らえた。重力の柱の発射を止めた斑が口から煙を噴射させ、蒼い眼光をゆっくりと上げる。その眼光が二匹の竜を捕らえたとき、焔と朧はどちらとも無く理解していた。
 蒼い眼光からは、人間の気配は微塵も感じさせない。先ほどまで戦っていた相手とは、まるで別人であった。唾液を引きながら抉じ開けられた口元を不気味に歪ませ、斑が笑う。
 朧が皮肉の混じった口調でつぶやく。
「もはや奴の意識は定かではあるまい」
 焔が同意する、
「自らが造り出した兵器に意識を飲み込まれたか」
 焔は尻尾を、朧は片翼を失った。
「高々人間一匹を相手にここまで深手を負わされるとは……。――少々、驕りが過ぎる」
 その意味を焔はすぐに理解する、
「朧、まさか貴様ッ、」
「黙れ。我が名は狭間の番人・朧。異端者を、排除する者なり」
 そうつぶやいた朧の眼光から突如として光が失われ、白銀の巨体からは冷気は愚か殺気までもが消え失せる。
 白銀の竜がその場に完全停止に陥り、それが何を意味するのかを悟った焔がすぐさま朧の横から離脱する。朧から離れた焔が劫火を荒れ狂わせて我が身を守る楯とし、次に訪れる衝撃に備えた。刹那、舞い上がった吹雪のような冷気が白銀の竜を覆う豪雪と化し、何もかも凍りつかせる眼光を宿らせ、空間そのものを凍死させるかのような氷の波動が吹き抜ける。朧の知性と理性が崩壊し、根本に根付く狭間の番人本来の意志が呼び起こされ、それは抑えられない本能となって暴走する。焔と同じ本能が、朧にも存在する。たった一つだけの本能。――敵は皆殺し。それだけだ。
 氷の眼光が糸を引いて横切り、豪雪を纏う白銀の竜が敵に向かって飛翔する。切断された右翼を氷で補い、緩やかな飛行を捨てて強引な飛行で真っ向から斑に襲いかかる。朧の接近を視界の中で捕らえた斑が上空から急降下を開始させ、掌に空気を収縮させた。上下から白銀の竜と黄金のアヌビスが激突し、澄んだ衝撃音が響き渡る。互いに意識は定かではないはずなのに、互いが獲物の急所を確実に狙っていた。空気の塊を直接ぶち込まれた朧の腹部は血液を噴射しており、噛み砕かれた斑の首から上は消滅し、なおかつ首元は氷漬けにされている。
 上空に舞い上がって旋回しながら方向を変える朧の眼下では、漆黒の闇に着地した斑が凍りついた首を自らの手で砕いて緑の光の粒子を収縮させて復元する。氷の眼光と蒼い眼光がかなりの距離を隔てて噛み合った刹那、上空から氷の弾丸が吐き出され、地上から空気の塊が撃ち出された。空中で二つがぶつかり合って静かな破壊音を響かせる中、濛々と吹き上がる煙幕に向かって互いが突進する。空間を揺るがすような衝撃音が弾かれた際に煙幕がその風圧に掻き消され、そこから姿を現すは牙を剥き合う白銀の竜と黄金のアヌビスだ。
 力任せの膠着状態に陥る戦況を見据えていた焔が、突如として翼を広げて飛翔する。それに気づいた斑が朧から離れようと後方に体重を移動させたのが仇となる。氷の眼光が逃れた蒼い眼光を射貫き、加速した牙が黄金のアヌビスの腹部に喰らいつく。瞬間に研ぎ澄まされたそこから冷気が迸り、斑の外部ではなく内部から冷却する。完全冷凍させる前に何とか逃れようと身を捩る斑だったが、朧の出鱈目な力の前にはどうするこもできない。その間に接近する焔の存在に蒼い眼光が憎悪に染まり、黄金のアヌビスは唾液が流れる口を抉じ開け、そこに空気を圧縮を開始する。キィイン、という音が鳴り響いた後、そこから重力の柱が発射された。
 その攻撃が斑に直撃するかどうかの瞬間に、焔の巨体が斑に突進する。重力の柱が狙いを外れて上空に撃ち出される中、牙を引き抜いて僅かに距離を取った朧が口を抉じ開けて白色の光を収縮させた。重力の柱の標準が戻されるより速くに吐き出された氷の弾丸は、斑に回避させる暇を与えないままにその体を飲み込んだ。炸裂する氷の弾丸の冷気が斑を包み、左腕を残したすべての部分が完全冷凍される。が、残った左腕が何の躊躇いも無く揺れ動いて自らの体を粉々に粉砕し、残された左腕に緑の光の粒子をあふれさせて体を完璧に復元させた。
 斑の視線が上空の朧に向けられた瞬間、その体を炎の弾丸が焼き払う。驚くべき勢いで炎上する劫火の中から斑が歩み出すが、傷一つ無かったはずの黄金は赤く蠢きドロドロに溶け始めている。またしてもあふれ出す緑の光の粒子がすべても元通りにした刹那の一瞬に、斑が巨大な方向を上げた。そこから出鱈目な方向に噴射される重力の柱が上空を旋回していた朧を確実に捕らえ、身体を威力に任せて圧し潰す。絶叫にも似た咆哮を上げて落下する朧に狙いを定めて地面を砕いた斑の前方に回り込み、焔がアヌビスへと牙を剥く。
 しかしその牙が斑に到達するより速くに、上空で霧散していた重力の柱が一箇所に集結し、焔の真上から降り注いだ。空間を圧し潰す巨大な塊の接近に気づいたときにはもう遅い。真紅の竜が圧倒的な重力の前に圧し潰されて全身の骨が軋みを上げる。漆黒の闇に蹲る焔を足蹴に加速した斑が立ち上がろうとしていた朧へと掌を突き出し、そこにこれまでとは比べ物にならない量の空気を収縮させて空間を揺るがすような塊を造り出す。朧が翼を広げて飛翔しようとするが、翼の骨が木っ端微塵に砕かれたらしく身動き一つできない。羽の捥がれた竜に向かい、黄金のアヌビスが狂喜の笑みを浮かべて牙を剥き出し、圧縮させた空気の塊を撃ち出、
 斑の眼前に劫火が回り込む。撃ち出された空気の塊を我が身に受け、身体が砕かれる音を耳に入れながら焔は笑ってみせる。
 ――おれが援護に回ると言ったはずだ、朧。その声が朧に聞こえかどうかは定かではないが、それでも白銀の竜は咆哮を上げながら氷の眼光を研ぎ澄ます。自らの巨体を覆っていた冷気を抉じ開けた口の奥底に収縮させ、一瞬だけ沈黙した後にそこから爆発的な破滅の鼓動が吹き上がる。重力の塊に圧し潰された焔の視界がぐにゃりと霞み、ゆっくりと倒れ込んだその向こうからが現れるのは、空間を完全に凍りつかせるまでに威力を高めた氷の弾丸を造り出した朧だ。その事実を斑が認識したときにはもう手遅れ、
 横たわる焔を見据え、朧は本能の中で笑った。
 斑の口が開いた刹那に、全力の力を込めた重力の柱が撃ち出される。しかしそんなものが、今の朧に通用する訳は無かった。迫り来る重力の柱を氷の弾丸が真っ向から迎え撃つ。斑の攻撃を完全に打ち砕き、空間を凍らせながら氷の弾丸が神速の速さを持ってして疾る。咆哮を上げた斑が突き出した両掌に空気を収縮させて重力の網を造
 氷の弾丸が炸裂し、吹き抜けた冷気が斑を貫いてすべてを冷却させ、

 氷漬けにされた世界の中で、劫火がゆっくりと舞い上がる。

     ◎

 ――貴様に手を貸すのは、これが最後だ。
 ――礼を言う。
 ――言ったはずだ。礼を言うのなら【創造主】に言え。
 ――そうだったな。……だが、朧。
 ――何だ?
 ――すまなかった。
 ――……次は、【創造主】の下だ。そのときは必ず、貴様を噛み砕く。
 ――ああ。おれも後始末が終ったらすぐに向おう。

     ◎

 温かな光のぬくもりに包まれ、暗闇に閉ざされていたはずの意識が浮上する。
 心臓の鼓動がやけに大きく鳴り響くのがどこか少しだけ笑える、と拓也は思う。右指を微かに動かすと同時に、体を包み込んでいた光のぬくもりがパァアっと弾けて消えた。ゆっくりと拳を握り、ゆっくりと開ける。今度はすぐに握り、またすぐに開ける。それを何度か繰り返した後に、拓也は大きな息を吐いた。とんでもなく長い眠りから覚めたかのような錯覚。自らの体が思い通りに動くという当たり前の安堵。漆黒の狭間を漂っていた意識が、ついに光を求めて始動した。目を開けて初めて、光とは別のぬくもりが体を包み込んでいることに気づく。
 目を開けたすぐそこに、七海紀紗の泣き顔があった。
 瞳から涙を流しているくせにその表情はどこか怒っているような感じで、しかしそれでもその中に希望が混じっている。紀紗は今、そんな複雑な表情をしているのだと思う。寝起きにも似たこの状況で、紀紗の表情に色づく感情を正確に捉えることはまず不可能だった。ようやく正常に稼動し始めた脳内が、ぼんやりとした笑みを作り出す。何とも締りの無い顔で、拓也はつぶやく。
「……何泣いてんだよ、馬鹿」
 どうしてこんなことを言ったのかは、自分でもよくわからない。ただ、紀紗が泣いている理由も知らずに偉そうなことは言えないような気がした。だから取り敢えず、最も自分らしい言葉を言ってみたのだが、どうやらそれは逆効果だったらしい。
 拓也の言葉を引き金に、紀紗の抑えていたはずの感情があふれ出した。拓也の名前を何度も何度も呼びながら、上半身を起こした拓也へと抱きついて泣きじゃくる。自分はそんなにも酷いことを言ってしまったのだろうかと思い、先の言葉を心の中でつぶやいて考えてみるが、いつもと大して変わらない言葉だったはずだ。それなのになぜ、紀紗はこんなにも大泣きしているのか。寝起きの頭にまともな対処方法など出て来るはずもなく、拓也は状況のよくわからないままに子供をあやすかのように紀紗を頭を撫でてみた。
 その刹那に、焔に手を噛みつかれた。怪獣フィギュア大ではなく、狭間の番人本来の姿の焔に。
 絶叫と共に脳内が一瞬でクリアとなり、しかし紀紗が邪魔で立ち上がることがついにできず、実に無様な格好で地面に倒れ込む。未だに抱きついて離れない紀紗をそのままにして、噛みつかれた手を必死に庇いながら焔に向って叫ぶ。
「何考えてんだ焔っ!! お前おれの手食い千切る気かコラァッ!!」
 真紅の竜はため息を吐き出しながら視線を拓也から外す。澄ました顔をして何の返答もしない焔に食ってかかろうとしたときに、ようやく周りの状況を落ち着いて確認できた。拓也のすぐ側に啓吾と彩菜、祐介と唯がいる。啓吾と彩菜は呆れた表情で拓也を見下ろしていて、祐介と唯は苦笑しながら拓也と紀紗を見守っていた。上がっていたメーターが納まり、物事を一つずつ頭の中で整理していく。
 瞬間、唐突に思い至った。
「啓吾っ! ヨナミネはどこだっ!?」
 拓也の必死の形相を呆れ顔で見返し、啓吾の指が一点を指す。
 そこへすぐさま視線を移した拓也の視界に飛び込んできたのは、驚くべきものだった。
 漆黒の闇に、氷山の一角が出来上がっている。見上げるような高さに達する透き通った氷の塊。その氷山の中に、『何か』が閉じ込められている。白く透き通る氷の内部にあってもなお鈍く輝く黄金色の人型。両掌を前に突き出し、抉じ開けられた口から連になった牙が覗く体勢で冷凍されたアヌビス。それが何であるのかを理解したと同時に、辺りを包み込むように漂っていた冷気が拓也の肌に触れた。
 瞬間、脳裏に四年前の光景と感覚が蘇る。星の輝きが作り出した焔と瓜二つの竜。真紅と対立するかのような白銀の竜が開く、焔の燃え盛るような眼光とは違う、氷のような冷酷な眼光。焔とは異なる圧倒的な圧迫感と迸る殺気が体を突き抜け、その場に束縛させられる感覚。体が冗談のように震え上がり、今すぐにでも逃げ出したいと思うが体が一ミリたりとも動かせない。こいつには勝てない、とかそういう次元の話ではなく、白銀の竜に射抜かれた体の細胞の一つ一つが告げる。こいつとだけは、絶対に戦うな、と。
 意識したときには、首から紀紗をぶら下げたまま立ち上がっていた。佇む氷山から一瞬にして視線を外し、辺りをぐるりと見回して気配を追うが姿が見えない。やがて彷徨っていた視線が真紅の竜を捕らえ、拓也が神経を集中させながら拳を握って「朧は!?」と叫ぶより早くに、焔がそっと首を振った。澄んだ灼熱の眼光が何を言いたいのか、一発で理解できた自分が少しだけ不思議だった。どうして融合型セロヴァイト・斑が氷漬けにされているのか。どうしてここにいる全員が無傷なのか。謎解きは実に簡単だった。最後の美味しい所は結局、最強の竜が掻っ攫って行きやがったのだ。そしてそれだけは飽き足らず、礼の一つも言わせないまま姿を消しやがった。何だよそれ、と拓也は思う。礼くらい言わせやがれよ、馬鹿竜が。
 首からぶら下がっていた紀紗が地面に立ち、涙を拭って拓也を見上げる。すべての状況を今度こそ確実に理解した拓也は、改めて紀紗の頭に手を置いて笑いかける。紀紗がどうして泣いていたのか。それは、自分がぶっ倒されたからだ。下手をしたら本当に死んでいたのかもしれない。しかしそれでもこうしてまた笑えるのは焔や朧、そして紀紗の御かげだ。悲しい思いをさせて悪かった。辛い思いをさせて悪かった。だから、
 今度は、この言葉を伝えよう。
「――ありがとう、紀紗」
 拭ったはずの涙が、紀紗の瞳からあふれる。
 それをまた拭いながら、紀紗は不器用に笑い、精一杯につぶやく。
「…………馬鹿、拓也」
「……悪い」
 綺麗な髪を撫でる拓也の胸へと、再び紀紗が抱きついて泣き出す。
 泣き虫なところはやはり、昔から変わらないんだよな、と拓也は思う。
 拓也と紀紗を見つめていた啓吾が唐突に焔を振り返り、口を開く。
「焔。おれたちが気絶してからどうなったのか。その辺の詳しい経緯は訊かない。だから、これからのことを訊く。ヨナミネは見ての通りセロヴァイトと一緒に氷漬けだ。もう動けないだろうし、この件はこれてケリが着いた。【界の狭間】の掃除も終ったし、もうやることは残っていない。これからおれたちはどうすればいい? それとおれたちの持ってるセロヴァイトはどうなる? そして、狭間の番人・焔はこれからどこへ行くつもり?」
 一瞬だけの間の後に、焔が言う。
「貴様等は貴様等の世界に帰れ。そこでこれまでと同じ日常を生きろ。それが貴様等本来の姿だ。試作セロヴァイトはこのおれが連れて行く。今更執行協会の連中の所へ戻る義理も無いだろう。それに、奴等の本部もヨナミネが負けたのだ、再び動き出すこともあるまい。……おれはこれから、後始末をしなければならない。対立する二つの世界の中間地点、この【界の狭間】を【創造主】の意志に従い、もう二度と二つの世界の均衡が乱されないために、完全封鎖する」
「完全封鎖、ってことはつまり、おれたちがどう足掻いたところでもうここには来れないってことだよな?」
「そうなる」
「後始末が終ったら、焔はどうする?」
「【創造主】の下へ集うだけだ。【界の狭間】が消えても、おれの存在が消える訳ではない」
「それを聞いて安心したぜ」と拓也が話に割り込み、「絶対にいつか、おれはお前の顔面をぶん殴ってやるからな。そんときゃ覚悟しとけよ、焔」と不敵に笑うその表情へ、焔がすぐに口を裂かせて「笑わせるな、小僧」と余裕の笑みを返す。やがて焔の視線が紀紗に向けられ、それと同じように紀紗が焔を見つめる。束の間の静寂、どちらともなく自然と口を開けようとしたその刹那。
 爆発的な力の鼓動が迸った。空間を吹き抜けて霧散するその源を、その場にいた全員が理解していた。拓也が紀紗を庇うような形で背後へ回し、それとほぼ同時に啓吾が彩菜を引き寄せて後ろへ下げ、祐介と唯が緊張の篭った表情で体を強張らせ、焔が信じられないものを見るような眼光で一点を凝視する。皆が皆、見据える先は同じだった。
 漆黒の闇に出来上がった氷山の一角、その中に閉じ込められた黄金のアヌビスが確かな鼓動を打つ。辺りを漂っていた冷気が吹き抜ける重力に圧し潰され、氷山に幾本もの亀裂が走った。すべての気配が一瞬だけ治まった瞬間、氷に抑えられていた波動が暴発する。黄金を覆っていた氷山が木っ端微塵に砕かれたそこから、融合型セロヴァイト・斑が歩み出す。蒼い眼光が【界の狭間】に集まる七人を順に捕らえ、しかしその視線はすぐにある一点を見つめて停止する。
 唾液を引いて抉じ開けられた口から滲むは、機械的な声。
『神経結合強制切断。融合回路遮断開始』
 不気味な音が鳴り響く。黄金がぐにゃりと歪み、紙を引き千切るような音を発して斑のセロヴァイヤー・ヨナミネ=S=ファイタルが吐き出される。端から見てもヨナミネに意識は無く、そもそも生体反応さえも窺えない。前方に倒れ込んだヨナミネの背中を斑が何の躊躇いも無く踏み砕く。骨が砕ける音が響き渡るがしかし、もはや斑にヨナミネの姿はまるで見えていない。かつての主だった者を踏み砕き、斑は一点を凝視し続ける。
 その先にいるのは、――神城啓吾。
『素体確認。モード2からモード3へ移行』
 蒼い眼光が消え失せた刹那、黄金のアヌビスが残像だけを残して消える。
 気づいたときにはもう遅い。啓吾の周りから滲み出した黄金がその体を包み込み、内部へ取り込むために活動を開始する。体の自由が奪われるかどうかの一瞬、啓吾の腕が側にいた彩菜を突き飛ばす。倒れ込みそうになった彩菜を慌てて支えた祐介の視界の中で、啓吾が啓吾では無くなっていく。思わず耳を塞ぎたくなるような絶叫を上げ、啓吾の体がすべて黄金に飲み込まれた。
 頭を抑えて蹲るアヌビスが、機械的な音声で進行状態を告げる、
『融合回路接続。神経結合開始。起動まで8%……23%……』
 何が起こっているのか。それを理解できたのは、焔だけだった。
 真紅の竜の眼光が研ぎ澄まされ、その巨体に劫火が纏わりつく。抉じ開けられた口にオレンジ色の光の収縮され、拓也と彩菜の制止にさえも耳を貸さず、焔が炎の弾丸を撃ち放つ。空間を焼き尽くして疾る炎の弾丸が蹲るアヌビスに到達した刹那、突如としてその起動が捻じ曲げられて上空へと突っ込み、遥か彼方で炸裂する。焔が攻撃を何度行っても同じことの繰り返しであり、斑の周りを分厚い重力が楯のように覆い尽くしている。
「啓吾っ!!」
 彩菜の悲鳴にも似た叫びが、塞がれていく啓吾の意識の断片を僅かに浮上させた。
 蹲っていたアヌビスが顔を上げ、眼光の向こうから啓吾の瞳が彩菜を見据える。何かを言おうと思ったのだろう。斑の口が微かに揺れ動くがしかしそれは言葉にはならず、それどこから逆にそこから『62%……79%……』と発せられる機械的な音声が啓吾の声を遮断する。やがて啓吾の視線が彩菜から外れ、どうすることもできずにその光景を見ていた拓也へ向けられた。
 それまで胸の中で燻っていた感情が爆発した。紀紗をその場に残して走り出し、孤徹を両腕に具現化させ、斑の周りを覆う重力へと拳を打ち放つ。が、それはいとも簡単に弾かれて拓也の体が後ろに吹き飛ぶ。それでも歯を食い縛って再び加速し、全力の力を込めた拳を打ち込もうとした瞬間になってようやく、視線が啓吾と噛み合った。テレパシー、なんていう上等な代物ではなかった。ただ漠然と理解することができた啓吾の声。立ち止まった拓也が見つめるその先で、蒼い眼光が啓吾の瞳を完全に覆い尽くし、滲み出す声が『……99%……融合型セロヴァイト・斑――起動』と冷酷に告げた。
 神城啓吾を媒体とした融合型セロヴァイト・斑が立ち上がり、
オォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオッッッ!!!!
 抉じ開けられた口の奥底から、悪霊の叫びに似た咆哮が上がる。
 そこから迸った鼓動が辺りに霧散する中で、斑が右掌を前方に突き出す。しかしそこに収縮されるは空気ではない。漆黒の闇からあふれ出した緑の光の粒子がそこに収縮され、決まった形を具現化させるために活動を開始する。やがて斑が虚空から掴み出したもの。それは、一振りの刀。神城啓吾の相棒、斬撃型セロヴァイト・風靭。風靭の刃が翻り、空を切り裂くと同時に辺りの空間を覆う風が斑の支配下に置かれる。重力と絡み合う風が吹き荒れるそこで、蒼い眼光がゆっくりと揺れ動く。
 祐介や唯、焔が状況を悟って動き出そうとする刹那に、拓也が叫ぶ。
「全員手ぇ出すなッ!!」
 聞こえた。聞こえた、と思う。確証は無い、だけど確信はある。テレパシーなどという上等な代物ではなく、ずっと昔から一緒にいたからこそわかる啓吾の心の叫び。それを真っ向から受け止めてやらなくて何が親友か、何が戦友か。上等だ。体を乗っ取った相手が悪かったなクソアヌビス。テメえ如きに啓吾をくれてやる訳には行かない。ああそうだ、そうだろ啓吾ッ!!
 漆黒の鉄甲が、澄んだ音を盛大に打ち鳴らす、
「止めてやるぜ。――……なあオイ、啓吾ォオッ!!」

 最終決戦が、ここに幕を上げる――。





     「拓也と啓吾と」



 理由は忘れたが、中学三年生の頃に神城啓吾と出会って初めての大喧嘩をしたことがある。
 小さな喧嘩、例えば口喧嘩や細かな殴り合いなら何度もしたことがあるのだが、互いに鼻血噴き出して意識が朦朧となるような喧嘩はそれが最初で最後だった。確かあれは、体育の時間ではなかったか。朝から馬鹿みたいに暑い陽射しが照りつけていた夏のその日、体育教師をクラス一丸となって「こんな中でマラソンなんか死ぬだろおれたちを殺す気ですか先生」と口説き倒し、体育館の使用権を捥ぎ取ってバスケットボールを自由気ままに始めたのだ。
 舞台に踏ん反り返って様子を見守る体育教師を無いものと考え、渡瀬拓也は大声を張り上げながらチームを作り、「基本はバスケットのルール、しかしファウルは取らない。但し大っぴらに殴ったり蹴ったりするのは禁止。その現場を押さえられたら死刑だと思え。が、そっち気のある奴は相手を押し倒しても可」という実に適当なルールを掲げて試合を開始させた。この頃の拓也はどこのクラスにも絶対に一人はいるリーダー格みたいな役柄のポジションに位置しており、拓也が白と言えば黒猫さえも大概は白猫になる。出鱈目なような男子生徒だったのだが、自己中心野郎とは違い、他の生徒からの信頼が伴っていたのが教師から言わせれば厄介なのだった。
 そしてこのクラスにはもう一人、拓也と同じポジションに位置していたリーダー格がいる。それが神城啓吾だ。頭脳明晰成績優秀、おまけに顔だってまずくない少女漫画の主人公のような奴である。前者の無法者とは正反対に物腰は穏やかで礼儀正しい啓吾の方が教師からの信頼は大きかったのだが、それが拓也とは親友という肩書きを持って繋がっているのだから質が悪い。拓也一人なら何とか抑えられるのだが、そこに両方面からの信頼を得ている啓吾が加わると教師もそうそう抑え切れなくなる。天下の生徒会もこの二人の前には無に等しい存在であった。
 簡単に割り切れば、拓也は最も運動神経が良く、啓吾は最も成績の良い生徒である。啓吾も運動面では人並以上の能力を誇るが、それでも拓也に勝てたことは数えるほどしかない。逆に勉強面で拓也が啓吾に勝てたことは、ただの一度もありはしないのだ。テストの番数など下から数えた方が早い拓也がテストでは毎回常にぶっちぎりのトップに君臨する啓吾に勝つことがあるのなら、それは世界滅亡五秒前の奇跡的な怪奇現象である。そんな馬鹿と秀才が親友なのだ、ということにも驚かされるのだがしかし、そこには核たる理由があった。
 運動神経の良い拓也が喧嘩に強いのは納得できるのだが、それに負けず劣らずに啓吾も喧嘩が強い。知力の無さを腕力で補う拓也に対し、腕力の無さを知力で補う啓吾。喧嘩をすればいつまでも決着は着かず、結局は互いに「疲れたもうやめよう馬鹿らしくなってきた」と勝負を投げ出すのだ。対等にして親友、同時にこれ以上無いくらいの天敵。そんな関係だったからこそ、拓也と啓吾はいつも巧く廻っていたのかもしれない。それなにも関わらず、馬鹿みたいに暑い陽射しが照りつける夏のその日、体育館で二人は大喧嘩をした。理由は思い出せないが、体育館で――
 ――……ああそうか、思い出した。
 理由は、実に簡単で下らないものだった。
 知力の無さを腕力で補い、腕力の無さを知力で補う二人だからこそ生じた亀裂。バスケットで同じチームになったのが仇となる。運動神経に任せて強引に切り込んで得点を上げる拓也に対し、統率された戦術で確実に得点を上げる啓吾。この二人が同じチームでプレイすること自体が、核弾頭に核弾頭をぶつけるようなものなのだ。ただ、今まではスポーツで同じチームになっても巧く乗り切ってきた。それなのに、今日だけは違ったのだ。
 切っ掛けは、パスをせず強引にワンマンプレイに走った拓也へ啓吾が注意したことから始まる。最初はそれでも少々言い合ったくらいで互いに納得し、またプレイに戻ったはずだったのだが、それが何度も何度も繰り返された後についに爆発を開始したのだ。滅多に拝めない最強の二人の本気の喧嘩が行われるのだ、他の奴にしてみれば楽しくない訳がない。クラスの男子生徒全員が体育館の中心に人の輪を作り、その中で今にも殴り合いそうな勢いで互いを睨みつける二人に野次を飛ばしながら昼飯時のジュースを賭けた賭博まで開かれた。
 騒ぎを聞きつけた女子生徒や他のクラスの生徒も授業そっちのけで駆けつけ、冗談のような事態にまで発展したその喧嘩を体育教師一人で抑え切れるはずもなく、応援を呼びに職員室に駆け出したのが命取りだ。教師がいなくなった体育館は無法者の楽園と化し、引っ張り出されたホワイトボードに「たくや」「けいご」と書き殴られ、その場に集まった全員がジュースを賭けて張る。人気は互いに互角、ただ少し違うのは男子が拓也に集中し、女子が啓吾に集中した点だった。人の輪の中、一触即発の状態で睨み合っていた緊迫が破れた刹那、もはや誰も止められない喧嘩の幕が切って落とされる。
 今思い返せば、実に下らない理由の、実に下らない喧嘩だったと思う。ただ、あのときの二人はそんなことを考えている余裕など当たり前のように無く、四方八方から響き渡る怒号や黄色い声援が戦闘意欲を掻き立て、気づいたときには止まらない列車に乗っていたのは明白だった。最初に殴ったのは拓也であり、それを切っ掛けに中学生では考えられないような壮絶な喧嘩が開始された。
 その喧嘩は果たして、一体何分くらい続いていたのだろう。思い返してみても、その時間を正確に述べることは不可能ではないのだろうか。たった一分足らずだったのかもしれないし、もしかしたら三十分は殴り合い続けていたのかもしれない。しかしそれでも、どこかから聞こえたつぶやきにも似た叫びだけが、脳裏に焼きついている。おいヤバイって、こいつ等、死ぬんじゃねえの――? そんな、不安そうな声。誰が言ったのかはわからない、今となっては幽霊の声だったのかもしれないと何となく思う。
 が、その声は大方正解だったのかもしれない。拓也も啓吾も鼻血を噴き出して意識は朦朧で。立っているのがやっとだということは誰の目から見ても明らかで。後でわかったことなのだが、このときの二人は鼻っ柱が圧し折れ、体中は打撲の痕で満たされており、瞼は晴れ上がっていて互いに片目しか見えていなかったはずだ。それでもまだ殴り続けようとしている。もはや賭けなどどうでもよく、これは止めなければ本当に二人は死ぬのではないかとその場にいた全員が心配したはずだったのだが、誰一人として止めに入れた者はいない。入れるような空気ではなかった。
 いつしか野次馬は静まり返り、拓也と啓吾の荒い息だけが聞こえていた。やがて互いに全力で拳を握り締めた瞬間、二人が走り出して最後の一撃を相手の顔面に見舞おうと狙いを定め、突如として乱入してきた教師軍団に取り押さえられた。もの凄い騒ぎだったように思う。朦朧とした意識の中の出来事だったのでよく憶えていないが、生徒の何名かが教師に「止めるな」と食ってかかっていたような気がする。だけどその抗議も虚しく、二人は教師数人に引き摺られるような形で連行されて行ったのだった。
 実に下らない理由で始まった最初で最後の大喧嘩の結末は、第三者の手によって幕を閉ざされた。いつもと同じように、結局は勝負が着かなかった。連行された職員室では、先に手を出した拓也が完全な悪者扱いにされて締め上げられたが、啓吾も相当絞られたはずだった。何とも晴れない気分のまま放課後になり、そして次の日の翌日には昨日のことなどまるで無かったかのように拓也と啓吾は一緒にいた。互いに青タン作った不細工な面を見合って大笑いして、しかしすぐに体を駆け巡った腹部の痛みに絶叫して。のた打ち回って落ち着いたらまた笑って、また絶叫して。目に涙溜めながら、馬鹿みてえだな、と晴れ渡る青い空に向ってつぶやいた夏のあの日。
 ――あのときは決着が着かなかった。いつかまた、本気で喧嘩するときまでお預けだと思っていた。
 目の前に佇む黄金のアヌビスを見据える。鋭い牙が連になって並ぶ口が唾液を引いて抉じ開けられ、仁王立ちするその手には一振りの刀が握られていて、そこから巻き起こる風が重力と絡み合って空間を練り回る。それは啓吾であって、啓吾ではない。こんな戦いを望んだ訳ではなかった。邪魔者など一切無く、一対一で真っ向から殴り合いたかった。邪魔をしてくれたテメえを、絶対に許さない。斑の咆哮に混ざって聞こえる啓吾の声。確証は無い、だけど確信はある。
 拓也が止めてくれ。そう叫ぶその意志に応えよう。それを真っ向から受け止めてやらなくて何が親友か、何が戦友か。上等だ。体を乗っ取った相手が悪かったなクソアヌビス。テメえ如きに啓吾をくれてやる訳には行かない。ああそうだ、そうだろ啓吾。安心しろ、このおれが、テメえの目を覚まさせてやるからよ。
 後ろを振り返らずに、拓也は真紅の竜を呼ぶ。
「焔」
 たったそれだけのことで、焔は拓也が何を言いたいのかを正確に理解する。
「……貴様一人で、止められるのか?」
 拓也が拳を握った。
「止められるかどうかの問題じゃねえ、止めるんだよ、このおれが」
 打撃型セロヴァイト・孤徹を持つセロヴァイヤーの背中を見据え、焔が笑う。
 瞬間に漆黒の闇から劫火があふれ出し、拓也と啓吾を覗く全員を炎の檻で隔離させるために活動を開始する。
 劫火が彩菜の姿までも飲み込むかどうかの際に、確かな意志を持って託される言葉。
「……拓也。啓吾を、お願い」
 拓也は振り返る、
「ああ」
 完全隔離された炎の檻から視線を外し、拓也は啓吾を見つめた。
 斑も啓吾と融合することで本能的に理解していたのか、それとも単なる偶然なのか。黄金のアヌビスも狙いも、最初から渡瀬拓也ただ一人だけだった。他の者が炎の檻に閉ざされたその光景に気を止める様子などまるでなく、小さな唸り声を上げて拓也を見据え続ける。斑の周りを覆う風と重力が絡み合いながら蠢き、やがてそれは範囲を広げて拓也の肌に纏わりつく。
 形は違えど、ここで決着を着けてやろうじゃねえか。拓也はそう思う。高々クソアヌビスに体を乗っ取られる弱い戦友を持った憶えは無い。今すぐに、その気色悪い面の下に隠れた啓吾を叩き起こしてやる。起きたら本当の勝負の始まりだ。あの夏のあの日の続きを、今ここで行おうじゃないか。今度は邪魔者など一人も入って来はしない。いるとすれば、それはテメえだクソアヌビス。とっとと啓吾から離れやがれ。悪いが素体が啓吾だとしても手加減するつもりは毛頭に無い。啓吾が止めろと言っている、だから、全力で止めて叩き起こしてやる。
 風靭の刃がゆっくりと持ち上がり、光る切っ先が拓也に向けられた刹那に斑の足が漆黒の闇を破壊して加速する。それを真っ向から見据え、突き出された一線の刃を振り上げた孤徹で捌く。手応えの伝わらない刃をそのままに、斑の体が翻って上段の蹴りが繰り出される。顔を狙ったその蹴りを風靭を捌いた逆側の孤徹で防ぎ、体重を前に傾けて斑の体を押し返す。後ろによろけた斑の懐に潜り込み、地面擦れ擦れの拳を振り上げて唾液の滴る顎へと叩き込む。重い衝撃音の後、しかしアヌビスが倒れることはついになかった。漆黒の鉄甲を鷲掴み、口元が不気味に歪んだ瞬間に辺りを覆っていた空気が収縮される。
 その鼓動に気づいた拓也が左足を軸に体を回転させ、右踵を斑の首元にぶち込んだ衝撃で孤徹を引き抜く。孤徹が引き抜かれたと同時に空気の塊が撃ち出されて漆黒の闇を静かに圧し潰し、僅かな制止の後、蒼い眼光が拓也を捕らえたときには風靭の特性が発動している。拓也が振り返るよりも早くに背後の空間が切り裂かれ、研ぎ澄まされたカマイタチが無防備な背中を襲う。避ける暇は無く、身体能力の限界を引き出すかのような勢いで背後を振り返り、両方の孤徹を突き出してその衝撃を吸収、カマイタチが完全に霧散し
 頭上から一線の刃が疾る。勘のようなものが無意識の内に働き、拓也が左に飛び退いた瞬間、振り下ろされた刃が右頬を掠めた。滴る血を手荒に拭いながら、漆黒の闇からゆっくりと立ち上がる。拓也が見据えるその先に、僅かな血痕が残る切っ先を爬虫類のような長い舌で舐めるアヌビスが佇む。やがて刃が再び拓也へ向けられたとき、今度はこちらが先行する。地面を弾いて加速する中で拳を握り、突き出された切っ先を紙一重でかわして漆黒の鉄甲を全力の力を持ってして斑の脇腹に叩き込んだ。
 状態の揺らいだ斑を視界に捕らえたまま、脇腹から顔面に目掛けて拳を打ち続ける。打撃音が辺りを支配し始め、最後の一撃がアヌビスの鼻っ柱を強打した際に、それまでの打撃がまるで効いていないかのように刃が右上から振り下ろされた。空間を走る輝きだけに神経を集中させ、足は動かさずに上半身だけを仰け反らせてそれをかわす。風靭が振り抜かれた一瞬が決定的な隙だ。上半身を戻す勢いに任せて拳を弾き、斑の左頬を懇親の力で殴る。右に体重が移動した斑がそれでも踏み止まり、蒼い眼光が拓也を貫く。
 それが何を意味するのかを瞬時に悟り、背後に飛び退こうとしたときにはもう遅い。空間を覆っていた風が拓也を纏い、体の自由を拘束する。身動きが取れなくなった拓也に狙いを固定し、目前に突き出された斑の左掌に空気が収縮された。景色を歪ませる空気の塊が形成された刹那、拓也が風の抵抗を力任せに解き放って軌道から離脱する。無理に体を捩ったのが原因で体の至る所に小さな切り傷のようなものを負ったが気にも止めない。背後で炸裂する空気の塊を無視し、前方から迫ったカマイタチを漆黒の鉄甲を差し出すことで吸収させ、黄金を射貫いた鳩尾へと拳を送り込み、一瞬の間で孤徹との同調を開始、威力を抑えた特性を発動させる。
 刹那の一秒、孤徹が爆散する。吹き抜けた小さな衝撃波が斑の内部を侵食し、静寂の後に噴射した。輝く黄金が膨れ上がった瞬間に鎧が弾け飛び、啓吾の体が剥き出しにされる。が、捥ぎ取られた鎧はすぐさま緑の光の粒子に飲み込まれて復元され、体勢を立て直した斑が風靭を振るう。空間を切り裂く間に刃に風が圧縮され、それでも拓也の頭に逃げ出すという選択肢は当たり前のように無く、爆散させた孤徹を引き戻して防御に回す。漆黒の鉄甲と風の刃が激突した刹那、
 衝撃を吸収しているのにも関わらずに大量の火花が飛び散った。しかしそれもすぐに納まり、衝撃を吸収された刃が沈黙する。蒼い眼光がぐるりと蠢いた際に拓也が身を翻し、風靭を押し返して斑の顔面に蹴りを入れた反動で背後に距離を取る。距離を隔てて噛み合う視線を外さないままで、拓也は確信にも似た思考を得た。
 今の斑に、それまでの力は無い。まだ啓吾の体と馴染んでいないからなのか、それともヨナミネ=S=ファイタル以外の者と融合すると性能が落ちるのか。どちらなのかはよくわからないが、拓也と啓吾と焔の三人で相手をしても圧倒的な力でそれを押し退けたあの融合型セロヴァイト・斑はもういない。それにやはり、風靭は啓吾が使ってこそ最強のセロヴァイトと化すのだ。風靭の意志が斑を拒んでいるような気配がある。同調も儘ならないセロヴァイトなど何の脅威にも成りはしない。
 唯一の問題があるとすれば、それはどうやって啓吾と斑を引き離すか、だ。啓吾の意識があるかどうかわからないこの状況では、内側からどうにかするのは無理だろう。かと言って外側からどうにかできる手段を拓也は持たない。どんな攻撃を行ってもすぐに復元されてしまう。このまま戦闘を続ければやがて必ずや体力が底を突く。それに引き換えセロヴァイトである斑が疲れるということは無いはずだ。長期戦は不利である、ならば早々に決着を着けなければならない。だが、どうやって決着を着けろというのだろう。偉そうに一人で止めると言い放ってこうして戦っているのに、重要なところの知恵がまるで無い。考えるのはやはり、啓吾の専門分野である。
 どうする、どうすれば啓吾と斑を引き離せるのか。その考えがまとまらない内に斑が走り出した。風靭の刃を地面に押しつけ、火花を散らしながら真っ向から突進して来る。小さな悪態をつきながら孤徹を構え、正面から見れば一点にしか見えない刃を横から捌く。重心をズラした風靭から力の気配が迸り、それに気づいた拓也がその場所から飛び退くが風は獲物を逃がさない。地面に着地した拓也は迫り来る風を正確に捉えて孤徹で防ぎ、視線を斑に向けたときにはすでに無数の小さな重力の塊が撃ち出された。地面を弾いて上空へ飛び上がることでそれをかわし、空中で体勢を整え、
 目前に斑がいた。繰り出された拳を避けるには時間が無かった。頬に打撃が加えられ、意識が一瞬だけ遠のく。地面に激突した瞬間に何がどうなったのかを瞬時に理解し、起き上がったと同時に力の鼓動を感知して前方に転がる。それまで拓也のいたはずの場所に空気の塊が撃ち出され、静かな破壊音と共に空間を圧し潰す。息を荒げて再び立ち上がり、斑の姿を気配を頼りに探る。が、その気配が近過ぎた所にあったが故に、逆に反応が遅れた。背後からの斬撃、振り返り様にほとんど偶然に孤徹でそれを防ぐ。そこにある蒼い眼光が一際大きく輝くのがどこか異様で、
 視界の真下から繰り出された蹴りに弾き飛ばされ、空間を舞う間に空気の塊が発射される。体を出鱈目な方向に捻ることによりそれを回避し、漆黒の闇に着地した刹那に刃が振り抜かれた。その斬撃はすでに見えてはいない。空気を切る刃の気配だけを頼りに状態をズラし、しかしそれを上回る速さで到達した風靭が拓也の首を切り裂く。あと数センチだけでも刃が食い込んでいたら動脈を切断されるかどうかの感覚だった。首から胸へと滴り落ちる血に僅かな意識を向けたのが隙となり、拓也と斑の間に発生したカマイタチに気づくのが遅れた。
 中心的なカマイタチは吸収できたものの、孤徹の隙間から吹き抜けた風に弾き飛ばされる。全身に小さな切り傷を負うが、そこから流れる血など高が知れている。問題は首の傷だ。幾らセロヴァイヤーだといってもこの傷をすぐに治癒させるのは不可能だろう。流れ出す血を止めなければならない。血を流し過ぎれば戦えなくなる。まだ何かを成し遂げた訳でもないのに、こんなところで終ってたまるか。首を左腕で押さえつけながら、視界は終止斑から外さない。
 速さが増している、と拓也は思う。徐々に徐々に、斑が速くなってきている。風靭との同調は儘ならないのは確かなはずだが、それでも素体である啓吾と斑が同調し始めているのだろう。もし今の啓吾と斑が、ヨナミネと同等の融合率にまで到達されたら勝ち目はかなりの勢いで激減する。どうにかしなければ手遅れになる。何か良い案を弾き出さないことには負ける。啓吾の目を覚ますどころの話ではなくなってしまう。そんなことは脳も理解しているはずなのに、肝心な打開策が何も出て来ない。どうすればいいのか、やはりまるでわからなかった。
 ようやく納まり始めた首の傷口から手を離した刹那、斑の眼光が鋭さを増した。口が抉じ開けられて唾液の引く牙が剥き出しにされ、そこに空気が圧縮され始める。空間を支配する波動に拓也が気づき、その場から離脱しようと足に力を込めた瞬間に、斑の意志の下に統括された風が体を束縛する。――しまった、と己が甘さを呪ったときにはもう遅い。
 キィイン、という空気を圧縮する音が限界を突破した後、そこから一線に研ぎ澄まされた重力の柱が発射された。空間を圧し潰しながら疾るそれを視界に収めたと同時に、拓也は孤徹との同調を限界まで引っ張り上げて力を解放する。体を覆う風を怒号と共に打ち破り、漆黒の闇を破壊して走り出そうと、
 重力の柱が拓也の左腕を飲み込む。圧縮された重力の柱が出鱈目な威力の下に左腕の骨を圧し潰し、装着されていた漆黒の鉄甲を木っ端微塵に砕き散る。足が力に引っ張られて地面から浮き上がって背後に吹き飛ぶ。もしここでその場に踏ん張っていなのなら、左腕事持っていかれていたはずだったのだがしかし、今の拓也がそんなことを考えられるはずもなかった。漆黒の闇に激突し、上下左右もわからずに何度も転がり、ようやく制止しても立つ気力さえも湧きあがって来ない。
 圧し潰された左腕の感覚が無い。視界が血で染まる。意識が光と闇の狭間を漂って彷徨う。
 痛いとも思えず、立ち上がることもできない。【界の狭間】を歩く斑の足音だけが脳内を支配する。立て、動け、拳を握って啓吾を止めろ。そんな意志も虚しく、体は言うことを聞いてくれない。どうすることもできない闇が意識を底無しの沼へと引き摺り込む。それを引き止めたのは圧し潰された左腕の肩口に突き刺さった刃の激痛だった。自分のものとは思えない呻き声を吐き出して身を捩るが、そのせいで刀が肉に食い込んでさらなる痛みを呼び寄せる。
 そこに立っているはずの斑を見上げる勇気が無い。引き抜かれた風靭から滴る血液が拓也の顔に垂れる。斑が舌で刃に付着した血痕を舐め取り、口元を不気味に歪ませて笑う。蹴り出された足が拓也の顔面を直撃して振り抜かれ、体が宙を舞ったと思ったらすぐにまた地面に叩きつけられて止まる。白く霞む視界の中で、黄金色の人型をぼんやりと認識できた。斑が今、どうしているのかはわからないはずなのに、左掌に収縮された空気の鼓動だけは脳が勝手に理解する。
 立ち上がらなければならないはずなのに。啓吾を止めなければならないのに。なおも体は言うことを聞かない。感情が諦めるなと叫ぶが理性がそれを否定する。一人で止めると言い切ったのは誰だ。彩菜の意志を託され肯いたのは誰だ。斑に取りつかれて意識を奪われている啓吾の親友は誰だ。自分が止めないで誰が止める。自分が応えないで誰が応える。叫ばれた言葉を真っ向から自分が受け止めずに、誰が受け止める。立ち上がれ。立ち上がって拳を握れ。全力の力を持ってして、啓吾を止めろ。それが、与えられた役目のはずだ。弱音は聞かない、言い訳はクソ食らえ。だから、
 収縮された空気の塊が、離れた場所に倒れる拓也に固定される。斑が笑い、それが撃ち出されるか否かの刹那。
 振り上げられた風靭の刃が、斑の左腕を切断する。吐き出された空気の塊が的外れな方向に弾き出されて霧散し、漆黒の闇に落ちた黄金の左腕がすぐさま緑の光の粒子に包まれて消える。が、空間を漂う緑の光の粒子はいつまで経っても斑の切断された左腕に収縮せず、出鱈目に舞い上がり続ける。風靭の刃が掲げられ、そこから吹き出した風がカマイタチに変化して斑自らの体を切り刻む。しかしそれが致命傷になる前に、斑が蒼い眼光を宿らせて動き出す。自らの右腕を剥き出しにした牙で喰らいついて抑えつけ、浮き上がってきていた素体の意識を塞ぐ。
 融合型セロヴァイト・斑と、素体である神城啓吾が拒否反応を起こし始めていた。
 あふれ出る素体の意志を捻じ伏せるかのように斑が口を開け放ち、悪霊の叫びを上げる、
オォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオォオッッッ!!!!
 爆発する咆哮に抑え込まれ、再び暗い闇の底へと押し込まれた啓吾の意識が、僅かな隙間を縫って確かな意志を拓也へ投げかける。
 ――……ああ、そうか。
 拓也は思う。こんなところで寝てる場合じゃねえんだ。止めないとならない。おれがやらないで誰がやるっつーんだ。左腕が死んでもまだ右腕がある。諦めるのはまだ早い。聞こえるか、孤徹。お前と同調するための、大前提を忘れるところだった。誰かを守る。お前は守るっていう意志に同調するんだったよな。これが最後だ。啓吾の意志を守るために、もう一度だけ力を貸せ。諦めるには早いんだ。まだ右腕が残っている。右拳が残っている。そして、まだお前が残っている。守り抜こうぜ、なあオイ、孤徹――。
 ゆっくりと、ゆっくりと立ち上がる拓也を視界の中で、漂っていた緑の光の粒子が斑に収縮される。が、それでも左腕が復元されただけで残りの傷はまるで修復されていない。カマイタチで負った傷口から緑色の液体が滲み出し、唾液と混じったそれが漆黒の闇に滴り落ちる。拒否反応で生じた歪がその大きさを増す。融合回路が急速に縮まり、神経結合率が63%を切り、重力変換装置の質力が閉ざされた。復元プログラムが無効化され、斑を形成する気体が凝縮されて液体となって流れ出している。
 それでも斑は啓吾の意志を捻じ切り、素体の中にあった攻撃手段を読み取る。風靭の内部にアタックを掛けて意志を粉砕、モード3からモード4へ移行、刃そのものを啓吾と共に融合させる。自らの体の一部となった風靭を背後に構え、辺りを覆う風を我が物とし、距離を隔てて立ち上がった敵へと狙いを定めた。辺りを包み込む風がすべてを斑に伝達させ、口を抉じ開けて咆哮を上げた瞬間に刃へと膨大な量の風が圧縮される。
 それは、対拓也専用に啓吾が考えた風靭の最強攻撃体勢。
 衝撃波にも似た風が吹き抜ける中で、拓也はゆっくりと拳を握る。体を覆い始めた圧倒的な風を払うこともせず、成すがままに身を委ねる。指一本さえもまとも動かせない強力な風の束縛が出来上がり、捕らえた獲物を完全に押さえ込む。風靭が行う、唯一の大振り。命中すればそこで相手の息根を止めれる代わりに、外れれば最後、大振り故の隙が決定的になる一か八かの攻撃。だからこそ、回避される可能性を減らすために相手の動きを風で完全に束縛するのである。狙いを固定し、圧縮された風の威力に任せての一撃必殺。防御を捨て、それだけに賭けた風靭の最強攻撃体勢。
 斑の足が動く。最初は歩き、しかし次第にその速度は増し、地面を砕いた際に加速を開始する。
 風に束縛されて動かないはずの両腕を懇親の力で捻じ曲げて左右へ広げ、拓也は真っ向からそれを受け止める。
 風靭の刃が空間を切り裂いて進撃し、蒼い眼光が拓也の心臓を一点に捕らえた。斑が最後の加速を果たした後に刃に纏う風の威力は極限まで高められ、獲物を一撃で仕留める必殺と化し、――予想外の抵抗が斑を襲う。
風圧が反転して刃の重心が揺れ動き、切っ先の定まらない風靭が狙いを外し、心臓の下、拓也の左脇腹を貫通した。
 瞬間、圧縮された風が暴発して拓也の体内を根こそぎ切り刻む。吹き抜けた風が噴き出した血飛沫を遥か彼方へと舞い上げ、大量の血が漆黒の闇より降り注ぐ。顔に落ちる血液が自分のものだとはどうしても思えない。自分がまだ生きているのが不思議だった。体の中はもうぐちゃぐちゃで、まともに機能する臓器など一つも残っていないはずなのに、それでも心臓だけは確かな鼓動を打っている。やけに大きく聞こえるその鼓動が、どこか異様だった。口から冗談のような勢いであふれ出した血を拭うことなどまるで忘れ、拓也は脇腹に突き刺さった風靭をそのままに、目前にアヌビスを見据える。
 テメえじゃやっぱ、啓吾の技は扱えねえよ。拓也はそう思う。心臓を串刺しにされなかったのは、恐らくは使用者が斑だったから。啓吾ならこんなミスはしない。斑如きが啓吾の技を使い、風靭の波動を抑え切れるはずはないのである。こんなもんじゃない。我が最強の戦友は、こんなもんじゃないのだ。啓吾と風靭を汚しやがったテメえだけは絶対に許さない。今度はこちらの番だ。食らえクソアヌビス。テメえが媒体にしている神城啓吾がどれほど重い存在なのかを、噛み締めてくたばれりやがれ。
 風靭の刃を引き抜こうとした斑よりも速くに、獣の叫びと共に孤徹が振り抜かれる。
 それが斑の腹部を確実に捕らえた刹那の一秒、

 孤徹が、爆散する。

 破滅を齎す一陣の衝撃波となって吹き抜けたそれは、斑の体内に蓄積されて一瞬だけ沈黙する。が、それは僅かな一瞬であり、斑がその事実に気づいたときには破壊が始まっている。斑の背中に小さな亀裂が入った瞬間、そこから体内に蓄積されていた衝撃波が噴射した。緑色の液体を飛び散らせて黄金が背中から剥ぎ取られ、悪霊の叫びを上げながら斑が背後に弾き飛ばされる。黄金の下から現れた啓吾の体から骨の圧し折れる音が響き、それが直接斑に痛みを及ぼすかのように悪霊の叫びが怨霊の絶叫に変わった。アヌビスの顔だけを残して黄金の鎧がすべて剥ぎ取られた斑に、もはや復元させるだけの力は無かった。蒼い眼光から光が消え失せ、その場へ前のめりに倒れ込んで沈黙する。
 爆散の反動で軋みを上げた右腕の痛みに蝕まれ、漆黒の闇に膝を着いた拓也の口からさらに血があふれ出す。無意識の内に脇腹を貫通していた風靭を掴み、歯を食い縛って引き抜く。肉の切れる不気味な音と共に傷口からそれまでとは違う、赤黒い血が流れた。風靭を漆黒の闇に投げ出すと唐突に緑の光の粒子に包まれて消え、それと同時に残っていた右腕の孤徹さえもが消滅した。荒いくせに定期的な息が口からかん高い音を立てて吐き出される。
 頭がくらくらする。もう何も考えられない。膝を着いて倒れ込まないようにしている自分が、生きているのか死んでいるのかさえもわからなかった。ただ、曲線で描かれた世界を見ているということは、まだ生きているのだろう。しかしこれが通常状態にまで回復することは無いのは明白で、遅かれ早かれこのまま死ぬのだと思う。何も考えられない意識の中で、それでも倒れている啓吾を見つめる。斑が復元される気配は無い、ならば、
 とてつもない音を立て、有り得ない形で啓吾の体が立ち上がる。爆散にやられて罅の入ったアヌビスの顔が、まだそこに存在している。光の消えていたはずの眼光に再び蒼が宿り、骨の砕けることを無視してその一歩を踏み出す。絶望的だった。もはやこちらは立ち上がることすらできず、拳はまだ握れるがそこに力が入らない。膝に力を入れて起き上がろうとすると脇腹の傷口から激痛と一緒に赤黒い血があふれる。悔しさで視界が滲む、立つこともできない自分がただ情けない。
 拓也の目前までふらふらの足取りで歩み寄った斑が啓吾の右手を上げ、蒼い眼光から光が失われた瞬間、その拳はアヌビスの顔を打ち砕く。状況が理解できなくて驚きながらそこを凝視する拓也の視界に、崩れ落ちるアヌビスの下から啓吾の顔が入った。拓也と同じように血塗れで、生きているのが不思議なくらいの重症なのに、それでも啓吾は目の前の拓也を見下ろし、不敵に笑ってみせた。
「…………遠慮の無い一撃だったな、拓也…………」
 一瞬の間、後に拓也が笑い返す、
「…………脅かすなよ、チクショウめ…………」
 安堵と共に、やるべきことが見つかった。
 さて、とつぶやいた刹那に拓也の体が持ち上がる。
 不思議な感覚だった。さっきまでは立ち上がることすらできなかったはずなのに、なぜか体が一瞬で軽くなったような気がした。力はもう残っていないけど、それでも後一撃くらいなら攻撃できる。やっとここまで辿り着いた。長い長い年月を経て、ようやくすべてにケリをつけるときが訪れた。邪魔者は一切無しで。誰にも止められる心配は無くて。互いの意地を賭けた、最後の勝負。
 拓也は言う。
「……中学三年んトキの決着、今着けときたいんだが……憶えてるか?」
 啓吾は考えもしなかった。
「……憶えてる。おれも、今だらこそ着けときたいね」
 拓也が拳を握り、
「おれはこれが最後だ」
 啓吾も拳を握る。
「奇遇だな、おれもだ」
 思うことは、互いに同じである。あの夏の、あの体育館での感覚が蘇る。
 四方八方から響き渡る怒号や黄色い声援が戦闘意欲を掻き立て、止まらない列車に乗りながら何も考えずに敵意を剥き出して。あのときは最後の最後で邪魔が入って結局は決着が着かなかったが、今は違う。もはや誰にも止めることのできない正真正銘の最後の一撃。互いの立っているのがやっとで、互いに体中から血を噴き出して意識は朦朧としていて、互いに状況はあのときよりも遥かに過酷で。それでも戦闘意欲を捨てない。それでも最後の一撃のために全力の力を込める。長い長い年月を経て、ようやく辿り着いた今ここで、勝負のケリを着けよう。これが、最後だ。
 あらん限りの声を張り上げ、二人が同時に漆黒の闇を蹴り、

 互いの想いを拳が、交錯する――。

     ◎

「馬鹿か貴様等」と焔に短く切り捨てられ、
「馬鹿じゃないですか二人とも」と祐介に呆れられ、
「馬鹿ですよ」と唯にまで罵られた。
 紀紗と彩菜に至っては泣きながら拓也と啓吾に抱きついて「馬鹿!!」と大声で繰り返す。
 瀕死の傷は焔を通して放たれた【創造主】の意志により完治したものの、つい数秒前まで本当に死にかけていた思考がそんなにも早く蘇るはずもなく、拓也と啓吾は紀紗と彩菜に抱きつかれたまま互いに成す術なく座り込んでいる。泣きじゃくる大切な人をぼんやりとした意識の下で宥めながら、拓也と啓吾は視線を噛み合せて首を傾げる。言葉ではなく、心が会話する。――結局、どっちが勝ったと思う? ――憶えてない。拓也は? ――悪りぃ、おれもまったく憶えてねえ。 ――情けないな。……けどまあ、たぶんおれだろうね。 ――馬鹿言え、勝ったのはおれに決まってる。……あ、思い出した。最後に立ち上がったのおれだった。 ――嘘だね。おれも思い出したけど、最後に拓也を踏みつけて笑ったのおれだったよ。 ――っんだとコラ。もう一回勝負すっか啓吾? ――上等だ、立て拓也。
 敵意を剥き出して立ち上がろうとした二人を、その場にいた全員が「やめろ馬鹿!!」と一喝する。肩をくすめて苦笑し、拓也と啓吾は互いに「まあいいか」とつぶやく。ようやく落ち着いたのか、紀紗と彩菜から嗚咽が収まり、かなり怒っているかのようなジト目で二人を見つめる。これからの言い訳が大変だよな、と互いに思い、ここはどうすればいいか共に考えようぜ親友、とまったく同じことを思う。
 そんなとき、いつの間にか祐介が元通りになった雷靭を具現化させており、ゆっくりと焔を見上げる。
「焔さん、」
 焔が祐介に視線を移した際に、そこから雷靭の声が響く。
『すべてのことに対し、貴様に礼を言った方がいいか?』
 真紅の竜は一瞬だけ考えた後、軽く笑う。
「必要無い。言うのなら【創造主】に言え」
『――ッハァ! それはそうだ。貴様について行けば、会えるのであろう?』
「ああ」
 焔が巨大な翼を左右に広げ、空間を揺るがす咆哮を上げた。
 その刹那、祐介、唯、そして拓也と啓吾の体から緑の光の粒子があふれ出す。それが何であるのかを、四人はすぐに悟った。身体の中心部から大切な何かが抜けていく感覚。否、普通の人間には在ってはならないものが、在るべき場所へ帰って行くのだ。緑の光の粒子は、各々が持つセロヴァイトの結晶。四人が同じ方向を見つめ、真紅の竜に収縮される我が相棒に思いを馳せる。
 セロヴァイトを具現化させ、初めて戦ったときのことを思う。セロヴァイトと共に戦い抜いた、セロヴァイヤー戦のことを思う。そこで起きた、様々な出来事のことを思う。喜び、楽しみ、笑い、悲しみ、泣き、憎んだこともある。それでも、それが無ければ今の自分たちはここにはいない。そのことをわかっているからこそ、切ないのだ。共に戦い、もう一人の自分だと言っても過言ではない存在。それがセロヴァイト。自らの相棒だった。誰一人として口には出さなかったが、それでも全員が心の中で別れを言う。もう二度と会うことがないとわかっている故に、今までのことを思い返し、そして別れを伝える。
 緑の光の粒子がすべて真紅の竜に収縮された後に、狭間の番人・焔は笑う。
「――礼を言う、貴様等」
 あの叫びに共感し、自らの意志を持って行動してくれたすべてのセロヴァイトに伝える。この場にいない他のセロヴァイトも、やがて合流するだろう。倒されたセロヴァイヤーたちも、歪が生じた場所も、すでに元通りにされているはずだ。後始末は終った。残るは、【界の狭間】の完全封鎖だけである。それで狭間の番人・焔としての仕事は幕を閉じ、同時にここにいるセロヴァイヤーたちにはもう会えない。それが本来の形だとわかっていても、限り無く人間に近い自我と感情が僅かな抵抗を示す。それでももう、刻限が迫っている。焔の巨体から緑の光の粒子があふれ出し、少しずつその体を消滅させていく。
 拓也の「……行って来い」という声に、紀紗が走り出す。焔に抱きつき、泣き止んだはずの瞳からまた涙が流れる。
 わかっているのに、それでも言ってしまう一言。
「……行っちゃヤだ、焔……」
 翼で紀紗の体を包み込み、焔は微笑む。
「すまない、紀紗。だが、あのときに言ったはずだ。紀紗のそんな顔を、おれは見たくなどない。紀紗が泣けばおれも辛いのだ。だから、笑え紀紗。おれは紀紗の笑顔が好きだ。紀紗の笑顔はおれに確かな『心』を与えてくれる。だから、笑ってくれ、紀紗。……おれが紀紗を泣かせている原因を作っているのはわかっている。だがな紀紗、」
「だって約束した! また翼の中で寝かせてくれるって、焔はわたしと約束したもんっ!」
 消えゆく焔の体をこの世界に留めるかのように、紀紗の細い腕に確かな力が篭る。
 あのときにも思った。自分に紀紗を抱き締めるための腕があればいいと、強く、強く焔は願う。
「……紀紗。お前が一人でいるのなら、おれがいつまでもお前を守ってやると誓った。しかしお前は今、一人ではないはずだ。お前には小僧がいる。神城がいる。夏川がいる、餓鬼がいる、佐倉がいる。おれがいなくとも、お前は自らを守れる。おれが断言する。――紀紗は、強い」
 くしゅ、と紀紗が鼻をすする。
 随分と長い間、紀紗は無言だったように思う。
 やがてゆっくりと焔を見上げ、言った。
「……また、会える……?」
 焔は肯定も否定もしなかったが、それでも、
「おれはいつも、お前の側にいる」
「……ありがとう、焔。わたしね、」
 その先の言葉を、焔は紀紗に紡がせない。
「そこから先は、もうおれに言う必要無い。おれの他に、言うべき者がいるはずだ」
 そして、焔は紀紗の耳元でそっと何事かをつぶやく。
 他の者には聞こえなかっただろうが、紀紗にだけは聞こえた。
 涙を拭い、精一杯に紀紗は笑う。
「……うん」
「元気でやれ、紀紗」
 そう言った焔の体は、大部分が薄く透けていた。
 包み込んでいた翼が広げられ、紀紗が焔から一歩だけ後ろに下がる。
 緑の光の粒子がなおもあふれるその中で、祐介が焔を見上げて「さようなら、焔さん」と言いながら頭を下げるのと同時に、唯と彩菜も頭を下げ、タイミングを見計らって啓吾が「じゃあね焔。またどっかで会ったらよろしく」と冗談のような口調で笑ってみせる。
「焔っ!!」
 その叫びに、焔の視線が拓也に向けられる。
 拓也は笑う、
「――ありがとうな」
 少しだけ呆気に取られた後に、「くっくっく」と焔が笑い返す、
「礼など必要無いぞ、小僧」
「るせえ。おれが礼言ったんだ、素直に受け止めやがれ」
「……ああ、そうかもな」
 広げられていた翼が動き出し、真紅の竜がゆっくりと飛翔を開始する。
 眼下に広がった六人の『仲間』を見据え、満面の笑みで焔は叫ぶ。
「――最高だったぞ、貴様等ッ!!!!」
 その瞬間に上がった紀紗の声を、焔が聞き取れたかどうかはわからない。
 神速の速さを持ってして加速した真紅の竜はあっという間に高度を上げ、漆黒の闇の彼方まで舞い飛ぶ。そして唐突に、遥か上空で緑の光の粒子がパァアっと弾けて消えた。まるで花火のように盛大で、まるで蛍のように緩やかに、狭間の番人・焔とセロヴァイトたちが、在るべき場所へ帰っていく。全員が上空を見上げたまま視線を外さない。いや、外せない。焔の残した光は、驚くほど綺麗な残像としていつまでもいつまでも、皆の瞳に焼きついて離れなかった。
 静寂が戻ってくる【界の狭間】で、漆黒の闇を見上げていた紀紗が一筋の涙を流し、笑う。

「……バイバイ、焔」





     「エピローグ」



 学校で、友達の奈緒に言われたことを思い出した。
 ――嘘!? 紀紗、好きな人いるの!? へえー、ふ〜ん、そうなん……って、まだ告白してないの? 好きな人がいるなら気持ち伝えないとダメだよ? 紀紗は可愛いんだから、絶対にその人もいいって言ってくれるって。あー、でも紀紗は何だかんだ言いながら子供っぽいからね。そんな雰囲気にならないか。でも想いだけを胸に中に置いていても、いいことなんて一つもないよ?
 そして、焔にも言われた。
 ――想いは、言葉にしなければ伝わらぬぞ。
 ポケットの中に入っている、よくわからないキーホルダーのついた鍵を握る。勇気が無かった。この四年間、ずっと心の奥にあった一言。近過ぎるからこそ、言えなかった言葉がある。今までは、このままでもいいと思っていた。壊れるくらいなら、ずっとずっと、このままでいいと思って言わなかった。でもやっぱり、このままじゃ嫌だという思いが湧き上がる。不安だった。恐かった。この言葉を伝えて、この関係が崩れてしまうんじゃないかって、ずっと不安で恐かった。でも。でも、焔が言ってくれた。紀紗は強い、って。その言葉を信じようと思う。重く閉ざされていたこの扉を開けて、この想いを伝えよう。
 わたしはもう、一人じゃないから。
 【界の狭間】が緑の光の粒子に包まれて封鎖され始める。
 高く高く舞い上がった光から視線を外し、紀紗は拓也を振り返る。
「拓也、」
 そこで一瞬だけ言葉が失速する。ポケットの中に入っている鍵をまた握り、震える体を必死に抑えつけて勇気を振り絞った。
 四年間ずっと思い続けてきた想いは、言葉にすればやはりたった一言しかなかった。
「……拓也のことが、ずっと好きだった」
 きょとん、と驚いたような表情をする拓也の顔を見ていられない。
 少しだけ視線を外したままで、止められない言葉がもう一度だけ紡がれる。
「ずっと前から、拓也のことが大好きだった」
 辺りを包み込む沈黙が、これ以上無いくらいに恐かった。
 このまま逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。震える体に涙が出そうなほど大きな不安が落ちる。
 それらを抑え込むように、紀紗は視線を拓也に向けないままで言い続ける、
「はじめて拓也と会ったときはまだ子供だったけど、もうわたしは子供じゃない。だから拓也に言いたいの。わたしは、拓也のことが好き。はじめて会ったときから、今までずっとずっと、拓也のことが大好きだった。拓也の所に行くとそれだけで嬉しかった。家にいてもいっつも拓也のことばっかり考えてた。拓也が側にいてくれればそれだけでよかった。だから、」
「――……やっぱお前はまだ子供だよ、紀紗」
 拓也のその言葉に、胸の中で燻っていた感情が暴れ出す、
「違うもんっ!! だってわたしは、」
「だったら!!」
 突如として放たれた拓也の大声に感情は呆気無いくらい簡単に沈黙する。
 涙で滲む視界で、ゆっくりと拓也を見上げた。少しでも気を抜けば、このまま泣き出してしまいそうだった。
 そんな紀紗の頭に、拓也の手が置かれる。拓也はどうしてか、優しい顔をしていた。
「……だったらどうでして、おれがお前に家の鍵を渡してたと思う?」
 ポケットの中に入っている鍵を握る、
「だったらどうして、お前がおれん家に来るのを拒まなかったと思う? だったらどうして、おれがお前の親父さんにぶん殴られてもお前を家に上げたと思う? だったらどうして……、――おれが今、笑ってると思う?」
 ったく、と拓也がつぶやく。少しだけ苦笑の混じった口調で拓也は言う。
「四年も待たせやがって。ずっと言えなかったのはおれの方だっつーの。それで、だ。ついでと言っちゃ何だけどよ、後三年……いや、後二年だけ待ってくれ。そしたら、親父さんに殴れるの覚悟で、胸張ってお前を迎えに行くから」
 その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
 頬に手を添えられたことに気づいたときには、唇が重なっていた。
 やがて拓也の顔が離れ、不安や恐怖や体の震えが吹き飛ぶかのようなことを言われた。
「――好きだ、紀紗」
 それまでとは別の理由で体が震え出す、涙で滲んだ視界が抑え切れない。
 突然に抱き締められた腕の中で、紀紗の想いがゆっくりと解き放たれていく。近過ぎて言えなかった一言がもたらす、何にも代え難い居場所。当たり前のことが大きな喜びで、一緒にいることが大きな幸せで。このぬくもりが何よりも心地良くて、抱き締めてくれているこの人が誰よりも大好きで。悲しくて泣くのではなく、辛くて泣くのでもなく、嬉しくて泣くのだ。涙が止まらなかった、このままこの心地良いぬくもりにずっと包まれていたいと思う。ずっとずっと、大好きな拓也と一緒にいたいと思う。
 漆黒の闇が緑の光の粒子に包まれていく。
 そこで抱き合う二人の光景は、驚くほど綺麗だったに違いない。
 啓吾と彩菜も、祐介と唯も何も言わなかったが、「何をいまさら」みたいな顔をしている。それでもそんな二人を微笑んで見守り、唐突に啓吾がドサクサに紛れて「彩菜が大学卒業したら結婚しようか」と平然と言い放ち、しかし彩菜は彩菜でまるで動じず、「もっといい雰囲気で言ってくれたら考える」と真顔で答え、祐介と唯はどうすればいいのかわらないが取り敢えず互いに見合ってぎこちなく笑ってみる。
 緑の光の粒子がすべてを包み込み、【界の狭間】が完全封鎖されるその一瞬、拓也が盛大に笑う。
「帰るか、お前等」
 その場にいた全員を順に見回し、最後に紀紗を見つめ、拓也が言った。
「おれはこれからラーメン屋のことで忙しいから、モタモタしてる暇なんてねえんだ」

 緑の光の粒子が弾けて消える。
 そうして、【界の狭間】が完全封鎖された。
 光が小さくなっていくその中で、紀紗は拓也に抱きついたままつぶやく。
「……拓也」
「ん?」
「ありがとう。……それと、」
 上目使いに拓也を見上げ、紀紗は笑った。
 想いは言葉にしなければ伝わらない。だから。
 もう一度、紀紗は想い続けてきたその言葉を、拓也へ伝えた。

 非日常が終ったそこに、いつもと違う日常が幕を上げる――。












2005/04/05(Tue)17:44:35 公開 / 神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
……やっと終った、と心より喜べないこの切なさは何か。それはあれだ、ここまで長引かせたこの【セロヴァイト・ファイナル】の着地をものすっげえ勢いでミスってしまったと思うからだ。『その十一』のラスト辺りの『◎』より下、『エピローグ』を含めたすべてが首を傾げるような展開になってしまった。もはや三時間足らずしか寝ていない頭では理解不能な状況である。あんまり批判が多ければその内に書き直し、または個人的にちょこちょこと訂正する予定。が、寝て起きて気分が変わってたらそのまま放置(マテ)
さて。そんな阿呆な作者の裏話などはどうでもよく、ですね。【セロヴァイト】の最後にも書いたのですが、あれをライトノベルのページ数で換算すると270ページ。ではこの【セロヴァイト・ファイナル】がどれくらいの長さなのかを少し調べたところ、約344ページ。上等に一冊分ある訳です。ここまで長い話を書いたのは初めてであり、しかも最後の最後を有耶無耶にしてしまうという失態を犯していたりする訳ですが、こんなにも長い物語を今まで読んでくれた皆様、誠にありがとうございました。心より、お礼を申し上げます。最後のレス返しは、二日三日経った辺りにレスのトコに書きますんで、また拝見してくだされば光栄です。
それではまた、別の作品で出会えることを願い、神夜でした――。
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