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『春に咲く菜の花のように  ―完―』 作者:神夜 / 未分類 未分類
全角96820.5文字
容量193641 bytes
原稿用紙約287.1枚




     「プロローグ」      




 あなたは、


 人を、殺めたことはありますか?

 人の血で、手を染めたことはありますか?

 大切な人を、失ったことはありますか?

 大切な人を、自らの手で殺したことはありますか?

 あなたは、それらのことを、体験したことが、ありますか?

 
 それがもし、自分の身に起こったとき、あなたはどうしますか?

 
 わたしと同じように、心を閉ざしますか?

 わたしと同じように、人々を拒絶しますか?

 わたしと同じように、世界を恨みますか?


 大切な人を自らの手で殺し、手をその人の血に染め、それでも生きなければならないのなら、


 ――あなたは、どうしますか?

 
 どうして、わたしなのか。
 どうして、こんなことになってしまったのか。
 もう二度と目覚めることのない大切な人をその胸に抱きかかえ、真っ赤な血が流れ続ける傷口にそっと手を添える。生暖かい、本物の人の血。その赤さに気が遠くなる。その血の流れが止まる頃、その人はもう冷たくなってしまっていた。もう、本当に逢えなくなってしまった。
 残ったのはわたしがこの人を殺したという事実と、血に染まった手だけ。
 わたしが、殺してしまった? ――そうだ、おまえが、殺したんだ。殺した、殺した、殺した、殺した。
 やめて。こうするしかなかった。それに、わたしが殺したんじゃない、『あなた』がこの人を
 ――なぜだ? わたしはおまえだ。そして、おまえはわたしだ。わたし達はふたりでひとり。
 嫌だ、わたしはわたしだ。『あなた』なんて知らない。わたしに話し掛けないでっ。
 ――無駄だ。おまえはもう戻れない。くっくっく、なにせおまえは、人をひとり殺めたんだからな。
 やめてやめて! 聞きたくない!!
 ――聞け。おまえは人を殺した。これは揺るぐことのない事実なんだ。そしておまえはもう死ねない。永遠に生き続け、この苦しみからは逃れられない。諦めろ。
 嫌だ、嫌だっ!! どうしてわたしなの!? わたしが何かしたの!? 答えてっ!!
 ――自分自身で考えろ。なにせ、おまえには永遠の時間が与えられたのだから。時間はいくらでもある。さて、後はおまえひとりの時間だ。わたしはまた消えるとするよ。そしてまたわたしが出てきた時、おまえはまたひとり、大切な人を自らの手で殺めるだろう。それまで、たったひとりで、死ねないこの地獄の世界で生き続けろ。それがおまえの、罪だ。
 お願い、やめて、わたしをひとりにしないでっ!!
 ――生き地獄とはまさにこれだ。わたしを抜いた罪は重いぞ。贖罪に、果たしておまえは耐えられるか。ふふ、だがどちらにせよ、次にわたしとおまえが逢う時に、おまえの罪は終る。同時に、大切な人を失う。わたしにとって、これ以上の快楽はない。
 「うぅゥわァああァああああァああああああァああああああああッ!!」
 絶叫する。視界が涙で押し潰される。
 どうしてこうなってしまったのか。
 どこで何が狂ってしまったのか。
 涙を流し、わたしは泣き続ける。
 やがて世界は真っ暗な闇に包まれて消える。


 ――あなたは、人を殺めたことがありますか?

 

 
――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 
  
  

      「せみの料理方法」




 絶体絶命の大ピンチではないのか、と萩原祥季(しょうき)は思う。
 高校三年の夏休み、この後に及んでまだ進路が決まっていない祥季は母親に「そんなにいつまでも遊んでないでさっさと進路決めなさない! 大学行くなり就職するなりなんでもいいから、この夏の間には絶対決めるのよ! しばらくおばあちゃん家に行ってそこでじっくり考えなさい!」と実にあてつけがましい理由で強制的に夏休みの間、家から排除されてしまった。
 祥季の住んでいるのは都会である。祖母の住んでいるのは頭に「ど」が付くほどの田舎である。交通時間はなんと車で五時間も掛かる。しかし車などという上等の代物で送ってもらえるはずもなく、交通手段はバスと電車だった。もちろん交通費はすべて祥季の自腹だ。言い出しっぺは母親なのだから、それくらい出してくれていいのではないかと思うのだが、それを面と向っていう度胸を祥季は持ち合わせていない。
 そんな訳で、祥季はバスと電車に長時間揺られに揺られ、やっとの事で辿り着いた森林町の森林駅の改札口でクソ重いボストンバックを肩に掛けて立ち尽くしている。
 まずは前を向いてみよう。そこに広がるのは田んぼの天国だ。見渡す限り田んぼで、田んぼの地平線まで見える。冗談ではない、本当に見えるのだ。
 続いて左右を見てみよう。と、その前に下だ。なんだこの道? と思う。アスファルトという人類の素晴らしい発明品が一切使われていない。道は砂のままで車のタイヤの跡がはっきりと浮び上がっていた。今まで生きて来た十八年、記憶にあるだけ考えるなら、アスファルトじゃない道を見たのはこれが初めてだった。
 さて、今度は本当に左右を見てみよう。車の跡が付いた道路と呼ぶのかどうかもわからない道が永遠と続いている。もちろん冗談ではない、この道は遥か彼方まで続いていて、地平線へと消えている。おまけに太陽の光のせいで意味不明な蜃気楼みたいな物が見える。
 そして一番の問題はその太陽だ。空を見上げる。まるで地球に向って突っ込んでくると思わせる程大きい。しかもそれに加えて暑い。サウナにいるのと同じ状況だと思う。証拠に、今祥季が着ているシャツは汗でぐしょぐしょに濡れていた。
 わなわなと祥季は震える。心の中でつぶやき続ける。
 ちょっと待て、待ってくれ、待てっつてんだろ、待てって、なんだこりゃあ!?
 ボストンバックを地面に落とし、拳を握り緊め、
 力の限り叫んだ。
「家が一軒もねぇえ――――――――――――――っ!!」
 その声は、どこまでも響く。何度も何度も反響して祥季の耳に届く。
 叫んだ通りに、家が一軒も見当たらない。そもそも人の気配すらない。土の地面には車のタイヤの跡があるのだが、一体これはいつの物なのかは見当が付かない。後ろの駅には祥季以外誰もおらず、駅員どころかこの駅で降りた乗客すらいなかった。改札口を通過したときに探してみたが、公衆電話すらここにはなかった。もちろん祥季は都会に住んでいるわけで、公衆電話なんて過去の物だ。今では携帯電話を持っていない高校生は本当に極わずかであって、祥季も携帯電話を所持するひとりなのであるわけで、公衆電話なんて探したこともここ数年はなかった。だからもちろん、すでに携帯は確認した。考えなくても当たり前である。こんな場所に、電波が届くはずもないのだ。アンテナなんて一本も立ってない。目に付くのは『圏外』の文字だけ。
 つまり祥季は今、絶体絶命の大ピンチなのだ。
 祖母の家がある田舎の森林町まで来たはいいが、実のところ、祥季はここから先、どうやって行けばいいのかなんてのは全く知らない。祖母の家に行ったことは小学校の低学年の頃に一回だけだ。あの頃の祥季はまだガキで、車の中で行きも帰りも寝てしまっていたので道なんて憶えていないし、仮に起きていたとしても道なんて到底憶えていないだろう。
 当初の予定では、駅に着いてからは人に聞いてあわよくば連れて行ってもらうなどと甘い考えを持っていた。しかし現実を突き付けられた今、祥季には何もできなかった。テレビで聞いたことがある、田舎の人は人情に厚い、と。それは確かに都会の人々よりかは遥かにそうだろう。しかし、しかしだ、それは人と出会って初めてわかるのだ。人と出会わなければ人情もクソもない。これならまだ都会の人込みで無視覚悟で聞きまわった方がよっぽど効率がいい。
 長らく突っ立っていたので汗を通り越して目眩がして来た。いつまでもこうしているわけにはいかないだろう。とは言うものの、どうするべきか。もう一度左右を確認する。やはり車どころか人すらいない。
 どうするか、どちらに行くか。もしどちらかが当たりでどちらかが外れだったらどうなるか。当たりならいい、それでめでたしめでたしだ。しかしもし外れならどうなるか。人っ子ひとりいないこの状況で、嘘のような太陽の光を体に浴び続けたら一体自分はどうなってしまうのか。やがて水分がなくなり、人はひとりもいなくて、誰の目に触れずに干乾びてミイラになってしまうのではないか。冗談ではなかった。本気で怖くなった。こんなところで死んでたまるか、生き続けなければならないのだ。まだ恋人だっていない、やりたい事はこれから山ほどある。それなのにこんなど田舎で死んでたまるか。ふざけんなよ、ふざけてんじゃねーよ、てゆーか誰か助けて。本音を言ってしまえばそれだけである。
 地面に置いたバックを再び肩に掛ける。一瞬だけ悩んだ末、祥季は右に行こうと決めた。理由なんて特になかった。ただ、右の方が何となく家があるような気がしたのだ。自分の勘に掛けてみるしかない。こんなところで死んでたまるものか。
 無人駅から歩き出す。五分もしない内にシャツが汗でベトベトになる、持ってきたペットボトルのスポーツ飲料が底を尽く。まるで砂漠で遭難したような錯覚に陥る。もはやこの世界には自分だけいしか生き残っていないのではないか。そんな突拍子もないような想像が膨らむ。
 道は一向に先が見えない。左右は田んぼに囲まれ、そこで作業している人なんてひとりだっていやしない。孤独感を味わう。都会ではそんなことは絶対感じない。むしろ人が多過ぎて邪魔になるほどだ。それなのに、今はその人込みが恋しがっている自分がいる。おかしなものだ、人はそのときの状況で態度がころころ変わるのだから。
 祥季は走り出す。はっきり言って、怖かった。人がひとりもいないその絶望感は、生半可なものではなかった。人を求めて祥季はどこまでも走る。汗が滝のように流れ続ける、水分なんて体にもう一滴たりとも残ってはいなかった。
 結局、それがいけなかった。走ったのもそうだし、一番の原因はこの炎天下だ。そんな下で水分もなく走ったらどうなるか、馬鹿でもわかる。祥季も心の底ではわかっていたが、しかしそれでも走らずにはいられなかったのだ。
「……死ぬのかな……おれ……」
 情けなくなった。祥季の勘は見事に外れたのだ。
 道路の端に一本だけ生えていた木を見つけたので、その日陰に逃げ込んで幹に凭れ掛かって空を眺めている。雲がのんびりと流れてゆく。太陽はまだまだ元気一杯だ。そろそろ消えてくれてもいいのに、これでもかと言わんばからに気温を一定に保とうとフル活動する。汗で濡れたくった手をポケットに突っ込み、中から携帯を取り出す。もちろん奇跡が起こって電波が届いているはずもなく、そこには圏外の文字以外なにもない。期待はしていなかったが、それでもショックは受ける。時刻を確認する。三時過ぎだった。確か駅に着いたのが一時十三分だったはず。あれから約二時間もさ迷っていたのだ。本当に死ぬかもしれない。祥季の頭上でやかましい鳴き声が聞こえる。見ればそこにせみがいて、忙しなく声を張り上げていた。それを全くの別物を見る目付きで、祥季はせみを眺めていた。
 ふと唐突に、せみって食ったら美味いのかな、との考えが浮んだ。
「やべッ……何考えてんだ……」
 しかし一度考えてしまったことはすぐには頭からは離れず、しばらくせみを料理するならどういう方法でするか、などどいう実に気色悪い想像をしていた。やがてそれもせみが飛び立ってしまったので頭からは消えてしまう。
 視線を空に向け、また呆然と眺める。太陽はまだまだ消えるつもりはないらしい。
 喉が干乾びていた。まさか田んぼの水を飲むわけにはいかず、だがどうしようもないくらいに喉が乾く。今なら絶対に2リットルのペットボトルくらいなら一気飲みできるはずだった。意識がぼんやりとしてくる。そろそろお迎えが来たのかもしれないと思う。こんな情けない死に方はしたくなかったが、もう立ち上がる気力も尽きていた。ああ、惨めな死に方だ、ごめんなさい世界中の皆様、ここでアホがひとり生き絶えます。
 すっと目を閉じ、天からの使者を待ってみる。本当に来てくれたらどれほど楽か。砂漠で遭難なんかしたら、本当にこんな気持ちになってしまうのだろう。水が欲しかった。雨粒ほどでもいい、贅沢は言わない、どんなに少量でもいいから水が欲しい。
 頭がぼんやりする、脳みそが溶けてしまっている。
「……死ぬのかな……」
「こんなところで死ぬんですか」
 天使の声が聞こえた。とうとうお迎えが来たのだ。やっとこの苦しみから逃れられる。
 こんな場所で死ぬなんて男の死にザマワースト3に入るだろうが知ったことではない。この天使に導いてもらおう。
「たぶん」
「そうですか」
 足音が聞こえる。その足音がどんどん遠ざかって行く。ああ、見捨てないでくれ。
 呆然と遠くなる足音を聞きながら、それでも祥季は目を開けずにお迎えを期待した。
 ふと我に返る、
 って、ちょっと待てえいっ!!
 目を開いた、辺りを急いで見まわす。そして、少し離れた場所に天使の背中を見た。
 立ち上がる気力はなかったはずなのに、体が自然と動く。遠ざかる天使を死に物狂いで追った。
「ま、待ってくれっ!!」
 必死だった。
 その呼び声に気付き、天使は振り返る。
 女の子だった。祥季は人の年齢を当てるのは上手くないが、せいぜい高校一年かそこらに思えた。頭に麦わら帽子、服装は真っ白なワンピース、肩に掛かる真っ直ぐな髪。少し不思議な感じのする子だった。
 その子に追い付き、息も絶え絶えに頭を下げた。相手が自分より年下だろうがなんだろうが知ったことではなかった。
「助けてくれ!! まだ死にたくない!!」
 祥季は顔を上げる。その子の瞳を直視する。
 吸い込まれそうに澄んでいて、しかしその奥に何かが閉ざされいるような、そんな瞳だった。そしてその瞳から視線を外せなくなってしまう。
 女の子は、全く表情を変えなかった。
「……なんですか?」
「あ。いや、なんでもないっ。そ、それより助けてくれないかっ?」
 しかし、彼女は表情も変えなければ何も言わない。ただ祥季を見ているだけだ。
 それでも祥季は続ける。
「あのさ、この辺りで萩原って家知らないかな? 萩原昭蔵(しょうぞう)と美佐江(みさえ)って老夫婦が住んでる家なんだけど。おれはそこに行きたいんだけど道が全くわからなくって死にかけてたんだ。それで天使……じゃない、君が通り掛ったからさ……。知ってたら道だけでも教えてくれないかな?」
 それでも、なぜか女の子は全く表情を変えない。真っ直ぐ祥季の瞳を見据えている。
 やがて彼女は、何かを諦めたように軽く息を吐いて祥季に背を向けた。
「……付いて来てください」
 そして歩き出す。その後を祥季は追う。
「って、もしかして連れてってくれるのか?」
 肯定もしなければ否定もしない。祥季なんて人物いないかのように、女の子は無言で歩き続ける。
 その横に並んで祥季は歩く。それとなく様子を覗うが、この子は全く変化というものがない。見知らぬ男が隣りにいるというのに警戒しているようには見えないし、それになんていうのだろう、もっとこう冷たいような、そんな空気が漂っている。
 だが何はともあれ、連れて行ってくれるのならそれに越したことはない。
 孤独の状態で人に会った、という状況は祥季の口を軽くさせた。「なあ、ここってこんなに人少ないのか?」「君はここに住んでるの?」「っにしても暑いなあ」「てゆーかせみがうるさい」「うわっ、おい見ろよ、田んぼにカカシが突っ立ってるよ、初めて見た」「あの鳥ってなんて言う名前か知ってる?」
 しかし、女の子は何の反応も示さなかった。ただ黙々と歩いている。ここらで祥季も少しはしゃぎ過ぎたかもしれないと思いはじめる。
 やがて二時間前に祥季のいた駅を通り越し、そこでふと思った。不吉な考えが脳裏を過ぎる。いや、まさかな、そんなわけねーよ。その考えを否定した。
 女の子は歩き続ける。暑くないのかそういう体質なのか、女の子は汗一つかいていない。頭に被った麦わら帽子に秘密があるのではないかと変態染みたことを思う。それによくよく見れば、女の子は日焼けの一つもしていなかった。ワンピースから見える腕や肩は真っ白で、それは病気ガチで今まで外に出たことなどないような子を思わせた。しかしこうして歩いているのだから、それはないだろう。
 それからまた歩くことしばし、祥季の不吉な考えは的中する。
「……マジっすか?」
 眼前に広がる光景。
 そこには、家があった。疎らだが、確実に見えるだけでも数軒ある。つまり何か? もしあの時、祥季が右に行かず左に行けば、あんな死にそうな思いもせずに済んだということなのか。おいなんだこのお約束のような展開は。いいのか、それで物語りははじまるのか?
 家を三軒ほど通り越し、四軒目の家の前で女の子が足を止めた。すっと手を前に出し、表札を指差す。
「ここです」
 表札には確かに「萩原」と書かれていた。
 幼い頃の微かに残った記憶と照らし合わせる。石で出来た塀、そこから見える大きな柿の木、一階建てだがそれなりデカイ建物、周りを田んぼに囲まれた、そしてガキの祥季がまだ渇いていなかった石畳のコンクリートに付けた小さな手形。間違いなかった。ここは、捜し求めていた祖母の家だった。
 肩に掛けてあったバッグを地面に落とし、まるで戦争から帰って来て見る我が家のような感覚に祥季は包まれる。
 まずは何より、喜びが溢れ上がった。
「マジでありがとう!! 助かったよホントに!! 何かお礼を――」
 振り返ったそこに、女の子はいなかった。
「……あれ?」
 辺りを見回してみるが、あの女の子の姿はどこにもない。目を離していたのはほんの数秒だったはずだ。この辺りに隠れる場所などどこにもない、それにこの道を数秒で過ぎ去るのはまず不可能。つまり、女の子は消えたと推理するのが一番ではないかと思――えるわけねえだろ!
 叫んでみるが返事はなく、祥季の声はせみに鳴声に飲まれて消える。
 不思議と怖さは感じなかった。
 せみの声がうるさい、田舎だ。なんでもありに決まっていた。
 祥季の夏休みがはじまる。
 何か起こりそうな夏休みだ――などと物語の主人公みたいなことを思ったりしてみる。
 まあそれはともかく、死なずに済んだことが本気で嬉しかった。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「ハルハル」




 ガタがきているスライド式のドアを開けると「ガラガラガラガラ」と騒々しい音が出た。
 最初に出迎えてくれたのは匂いだった。都会のコンクリートの建物ではまず感じられない木造の建物特有の香り。懐かしいような、それでいて落ち着くような、そんな匂いだった。正直疲れ果てた体にはそれだけで眠ってしまいそうな効果があった。
 玄関に入って床に座ってボストンバックを置き、靴を脱ぎながら、
「っちわー宅配便でーす」
 などど言ってみる。
 すると家の奥の方から何やらゴソゴソするような音が聞こえ、やがて足音がこっちに近づいて来る。黒と白が疎らに混ざった髪、しわくちゃだけど優しそうな目、如何にも田舎の畑仕事をしていますと言わんばかりの服装。それは、正月に会った時から何も変わっていない祖母の姿だった。
 その手にはしっかりと判子が握られており、玄関に座っている祥季を見て不思議そうな顔をする。
「おや、宅配屋さんは?」
「ああ、それおれ」
 ああそうかい、と言って祖母は安心したような、がっかりしたような、そんな表情を見せた。
 そしてそのまま家の奥の方に帰って行こうとして、ふと足を止めて考え、祥季の顔をもう一度眺めた。その顔に急速に理解の色が広がる。
「祥季、あんたえらく遅かったねえ」
 ワンテンポ遅いんだよな、と祥季は思う。
 靴を脱いで家に上がる。祖母の隣りまで行くと、実に嬉しそうに祖母は祥季を見上げた。
「あんたまた身長伸びたんかい?」
「まあそれなりにね。それより風呂って入れる? 汗すげえんだけど」
 ああ、と祖母は手を叩いた。そのまま祥季を風呂まで連れて行く。そこまで案内すると、祖母は飯の用意をと居間に行ってしまう。
 連れて来られた脱衣所は狭く、服を脱ぐのに手間取った。もともと汗だぐだった体からその匂いがして気持ち悪かった。脱いだ服を適当にその辺に放置し、風呂へと続くドアを開けて祥季は絶句した。
 風呂が半端なく大きかった。一度何も言わないままで脱衣所に戻ってドアを閉め、深呼吸をしてからまた開けた。光景は何も変わらない。まるで明日から銭湯を開くと言わんばかりの大きさの風呂が目の前にある。祥季の家の風呂と比べれば月とすっぽんも真っ青だ。おっかなびっくりで祥季は風呂に足を踏み入れ、辺りきょろきょろと見まわす。家の半分をこの風呂が締めているのではないかと思わせるその光景。小学校の頃に来たことはあるけど、風呂ってこんなに大きかったっけ? と思う。が、記憶がどうも曖昧で思い出せない。
 取り敢えずその追究は置いておいて、まずはシャワーを浴びたかった。どこにあるのかと探せば、壁に銭湯のように五つもあった。どれにしようか悩んでから、真ん中のシャワーを使う。はっきり言って、ものすごく気持ち良かった。体が溶けるようなその感覚は言い表せないものがある。シャンプーで頭を洗ってそれから体を洗う。一通り終った頃になって祥季は立ち上がる。背後に広がっている浴槽に視線を移す。
 ついにこの馬鹿でかい風呂に入るときが来たのだ。歴史的瞬間だ。一歩、また一歩と祥季は踏み出す。そして恐る恐る水面に足を踏み入れ――
 祥季はダイブした。一度でいいからやってみたかった。風呂で泳ぐという愚行を。それは銭湯や温泉ではクソガキにしか与えられない特権だ。良い子ちゃんを演じていた祥季にはしてはならないタブーだったのだ。しかし今、この自分しかいないこの空間ではそれが許される。なんと素晴らしいことだろう、なんと心地良い開放感だろう。祥季は全裸のままで宙を舞い、そして浴槽の中央にその身を委ねた。
 最高の瞬間だ――と思ったのは体が湯船に浸かった瞬間だけだった。
 直後、萩原家の風呂場から悲鳴が上がる。
 そのお湯は、熱湯だった。


 すっかりゆでだこになってしまった祥季は、バックから引っ張り出したタオルで頭を拭きながら、上半身は裸で半パンだけ履いたようなスタイルで居間に向った。
 と言うのは前提であり、居間がどこにあるのかわからなかったので十分ほどしてからやっと辿り着いた。この家は見掛けに寄らず大きく広く、それ以上に複雑な構造になっていた。一時本気で怖くなり、叫んで助けてもらおうとしたのだが恥ずかしく、自力で探し出した。冒険のかいあってか、この家の構造は大体理解できたと思う。開かずの間もあってすべてではないのだが……。
 居間には祖父がいて、隣りの台所で祖母が夕食の用意をしており、年代物のテレビが鈍い音を奏でていた。参上した祥季に最初に気付いたのはちゃぶ台の前に座ってテレビを見ていた祖父で、孫を見るような優しい目(そりゃ孫だし)で祥季を眺めた。
「久しぶりだのォ祥季、元気しとたっか?」
 タオルを首に掛け、祥季は笑った。
「元気だよ。じーちゃんも元気してた?」
 力コブを作り、煙草のヤニで黄ばんだ歯を見せて祖父は、
「ワシを誰だと思ってんだ若造」
 祖父の体は、ボディービルダーもびっくりの筋肉質だ。幼い頃からこの町で畑仕事をしていたらそんな体になってしまったという。その御かげかどうかは知らないが、祖父は今まで生きていた人生の中で病気になったことは一度もない。そんな祖父がもやしっ子の祥季に元気かと聞くのは当たり前だが、祥季が聞くのは愚問だった。
 祥季はちゃぶ台の側まで歩いて行って座ると、すぐ隣りにある台所から祖母がキンキンに冷えた麦茶を持って来てくれた。それを受け取って半分くらいを一気に飲み干すと歯が冷たさに痛んだ。なんとかそれを我慢してからコップをちゃぶ台に置き、
「そういえばさ、ここの風呂ってあんなに大きかった?」
 そう訊ねると答えたのは祖父で、
「おお、どうだ? 凄かっただろ。あれはな、ワシが作ったんだぞ」
「作ったって……じーちゃんがひとりで!?」
「もちろんだ。ワシに不可能はないからのォ」
 そう言って祖父はガッハッハッハと笑った。
 まあ筋肉が凄い人に不可能はないという結論でまとめておこうと思う。
 台所の祖母が、
「祥季、夕食もう食べるかい?」
「あ、うん」
 腹は減っていた。というより減るに決まっている。二時間も永遠と夏の空の下をさ迷っていたので当然だ。
 考えてみれば、よく生きていたなと思う。あんな炎天下でよく生き抜けたものだ。水分はなくなって動く気力もなく、そのままミイラになって死ぬのを覚悟して、天使の導きを待ってみて。今ここでこうしているのはあの天使の――
 あ。
「ねえじーちゃん、」
 いつの間にか缶ビールを持って飲んでいた祖父は祥季に視線を向ける。
 祥季は訊ねる、
「あのさ、この辺に女の子住んでない? こう、髪が肩まであって、麦わら帽子被った肌が真っ白な高校生くらいの女の子。そんな子、じーちゃん知ら、ない……? ど、どうしたの、驚いた顔して?」
 缶ビールがちゃぶ台をコツリと叩く。祖父は真剣な顔だった。その気配に祥季は気圧される。
 何か自分がとんでもないことを聞いてしまったのかもしれないと思い始める。こんな祖父を見るのはじめてだった。
 やがて、祖父はその口を開く。
「おめえ、ハルちゃんに会ったんか?」
「ハルちゃん?」
 その声に反応して、台所から祖母が口を挟む。
「祥季、あんたハルちゃんに会ったの? どこで?」
「ちょっと待ってよ、ハルちゃんてだれ?」
 しかし祥季をほったらかし、話しはどんどん進んで行く。
 祖父と祖母は二人でうんうん肯き、「そうか、ハルちゃんが……」「珍しいですねえ」「まったくだ、あの子が余所者と会うなんて」「祥季、何か変なことしてないでしょうか?」「いや、仮にもワシの孫だ、そんなことはしてないだろう」そう言った瞬間、祖父の目がこっちに向いた。
「祥季、おめえハルちゃんにどこでどうやって会った?」
 意味がわからなかったが、その祖父の口調と目付きには有無を言わせないものがあった。
 二人の会話から考えるに、その『ハルちゃん』というのはあの祥季の命の恩人の天使のことなのだろう。だからそのままを説明した。
「いや、別にただ道案内してもらっただけだよ……。死にそうになってたとこを助けてもらっただけ……。それがどうしたの……?」
 するとまた二人は、「ハルちゃんが祥季を道案内?」「本当に珍しいですね……」「まったくだ。ハルちゃん、もしかして祥季のこと気に入ったんじゃ……」一瞬二人が沈黙、やがていきなり笑い出した。「そんなことあるわきゃねえか」「そうですよぉ、ハルちゃんに限ってそんなことあるわけないでしょう」「そりゃそうだ、ガッハッハッハ」
 ムっとした。理由もわからず、この二人にとんでもなくバカにされているような気がする。いや、絶対バカにされている。
 そんな祥季の視線に気づき、祖父が「わりぃわりぃ」と頭を下げた。そして一つずつ祥季に説明していった。
 まず、あの女の子の名前は『春菜』で、この町の人は皆『ハルちゃん』と呼ぶらしい。両親はおらず、ここから少し離れた山の中腹で一人で住んでいる。彼女は物静かであまり積極的に人に関わろうとはしないが、この町の人には礼儀正しく接する。しかしそれはこの町の人に対するだけで、余所者、つまり違う町から来た人については口も聞かないどころか姿さえ見せないという。だから、祥季の前に彼女が現れたのはかなりの異例らしい。
「っかぁ、ハルちゃんが祥季にねえ」
 嬉しそうに祖父は何度も何度も肯いた。
 そんな祖父の行動を軽く流し、祥季は訊く。
「それより彼女にお礼したいんだけどさ、」
 どんな状況であれ、彼女に命を救われたことに代わりはない。大袈裟かもしれないが、祥季にしてみれば一生ものの出来事だった。だからこのまま何もせずに過ごすなど無理な話なのだ。
「自転車とかない? この町、歩いてたらおれ死にそうだから」
 せっかく繋がった命をもう一度散らすなど愚の骨頂。そのためには交通手段が必要だった。歩きで彼女を探し回るなど、祥季にしてみれば自殺も同然。そんなような思いからその問いを訊いてみたのだ。
 祖父はどこかを見ながら少し考え、「自転車……ああ、あれがあったな」とつぶやいて立ち上がった。付いて来いと言われたので祥季はその後に続く。祖父は居間の縁側から草履を履いて外に出て庭を歩いて行く。裸足で後に続くのは抵抗があったので、祖父の草履を履いてみるがバカでかいそのサイズに戸惑う。しかしそうこうやっている内に祖父がどんどん遠ざかって行くので、なんとかそれでペタペタとその後を追う。柿の木の横を過ぎた時に、そこに止まっているせみを見て鳴声に気付く。不思議とその音はもう耳に慣れていたので違和感がなかった。人間とは不思議だなとまた思った。
 祖父に続いて門近くの物置まで行くと、祖父はその引き戸を開けて中から片手でそれを引き摺り出して来た。
 それが自転車ならなんの問題もない。だが、祖父が引き摺り出したのは50ccのスクーターだった。それを片手で軽々と引き摺り出すその腕力は一体どうなっているのか。いやそれ以前に、「ほれ、この自転車使え」と平然と言ってのける祖父。じーちゃん、それは自転車は自転車だけど、原付き自転車だよ? 免許とかいるんだよ? おれは、その免許持ってないんだよ? てなことを言ってみると、祖父はガッハッハッハと笑って「この町に免許なんていらねえよ。何なら車でも運転するか?」と返された。
 さすがに車はまずかったので、このスクーターを有難く借りることにする。無免だが何度も運転したことがあるので問題はない。
「それにしてもこれZX(ゼッペケ)の最近モデルだよね? なんでじーちゃん持ってんの?」
「ぜっぺけ? なんだそりゃ?」
「いや、このバイクの名前だよ。知らなかったの?」
「ほう、ぜっぺけって言うのか。これな、暇だから買ってみたら進まねーんだよ。体重オーバーっていうのか?」
 マジですか? まあ祖父の筋肉質の体なら無理もないような気もする。
「好きなだけ使えな。キーは刺さったままだからよ」
 それだけ言い残し、祖父は笑って家の方に戻って行った。
 その後姿を見送ってから、改めてバイクを見つめる。新品同様だった。この申し出は、正直嬉しかった。都会では遠慮気味でしか運転できなかったがここでは違う。遠慮なく運転できる。限界に挑戦できるんだ、と祥季は思う。
 それに、これで天使を探してお礼をしよう。
 天使こと彼女――春菜ことハルちゃんに。いや、何かそれだけつまらないな。ここは一つおれ専用のあだ名でも考える必要がある。ふむ。捻り過ぎるのもあれだし、『ハルハル』でいいか。
 よし、それでは明日午前十時、『ハルハル大捜査線』を決行しようではないか。
 いやそれより先に、祥季の腹が「腹減った飯食わせろバカヤロー」と鳴いた。
 まずは夕飯を食おうと思った。
 せみの声は、まだまだ元気一杯だ。
 太陽がやっと傾き始めていた。
 長い一日が、ようやく終る。


 ハルハル大捜査線の第一歩である。

 



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――




     「ハルハル大捜査線」




 圏外の携帯電話を無線機のように口に当て、祥季は言った。
「事件は会議室で起きてるんじゃねえ!! 森林町で起きてるんだっ!!」
 あの映画の素晴らしい台詞をパクってみる。せみの声がBGMを奏でていた。
 そのままその状態で祥季はしばし動かない。やがてわなわなと震え、「いい、この台詞はいい」などとうわ言のようにつぶやく。アオシマさん、あんた最高だよ。ワクさん、どうして向こうに逝っちまったんだよ。ムロイさん、どっかで渋い顔してるんだろ。夏の空に向ってそう願う。
 さて。祥季は携帯電話をポケットに入れようとして時間を少し確認する。時刻はすでに正午を五分回っている。今日はハルハル大捜査線の決行日だ。昨日の予定では十時に始動しようとしていた。つまり、ばっちり寝過ごした。
 言い訳ではないが聞いてほしい。昨日、夕食をたらふく食った祥季は九時過ぎにはすでに布団に入って夢の中だった。疲労が思った以上に込み上げてきたので、完全に熟睡していた。夜はカエルとスズムシの声が子守唄を奏でていたのでそりゃもう最高のシュチュエーションだった。だから夜は気持ち良く寝れた。そして朝。鶏が鳴いてからせみが鳴き始めた。起きれなかった。目覚ましをセットしなかったことも原因の一つだ。起きたらもう十一時半だった。疲労が思った以上に残っていたのだ。だから起きれなかったのだ。これは言い訳ではない。言い訳ではないんだ。それだけは信じてほしい。
 懺悔(ざんげ)の時間はこれくらいでいいだろう。携帯をポケットに入れ、指に挟んだスクーターのキーをくるくる回す。今、祥季は萩原家の家の前にいる。砂の道にスクーターを引っ張り出し、少し埃を叩いた。そこでふと思ってさっきの台詞を吐いた。気合は十分だ、アオシマ魂は受け継いだ。さあ、ハルハル大捜査線のはじまりだ。
 祥季はスクーターに跨る。シリンダーにキーを突っ込んで回転させ、メインスイッチをONにする。深呼吸を一つしてからブレーキに触れる。久しぶりに運転する、初めて乗った時のような緊張感が甦る。ブレーキを握った。そして、イグニションボタンを押した。エンジンは一発でかかった。
 何の改造も、マフラーに穴も開けていない純正のエンジン音。心地良かった。アクセルを開けてその場で何度も吹かした。良い感じ。ふとガソリンのメーターに目が行った。ガソリンが半分を切っていた。ハルハル大捜査線を決行する前に、まずはガソリンを入れなければならない。
 ちょうど庭に出ていた祖父に声を掛ける、
「じーちゃん! ガソリンスタンドってどこにある?」
 草刈をしていた祖父は振り返り、カマを持った手を西に向け、
「こっからちょっと真っ直ぐ行けばトンネルがあるわ。そこを越したら隣り町に出るから、そしたらわかるだろ」
「ありがとう! 行ってくる!」
「ああ、きーつけてな」
 肯いてから祥季はアクセルを開けた。滑り出しが以外にも速くウイリーしそうになるのを前に体重を掛けて阻止し、そのまま走り出した。
 砂の地面でアクセルを一杯まで開けるのは少し危険だったので、40キロくらいで走行した。メットはシートの中に入ってはいるが、面倒臭いのでノーヘルだった。夏の陽射しが暑くはあったが、スクーターで受ける風で相殺できる。昨日とはえらい違いだった。道は真っ直ぐ続く。地平線の先まで続くのだ。そこを遠慮なく真ん中を突っ走る。目が乾いて痛かったが、サングラスなどないので我慢する。畑仕事をしていた人が軽く挨拶してくれたので、こっちも頭を下げた。田んぼに両側を囲まれた道を、祥季のスクーターは進む。
 隣り町に行ってガソリン入れたらハルハルを探そう。どうやってお礼しようか。何かを買うってのもあるが何を買おうか。まあ取り敢えずはハルハルに会って好みを聞いてから。それからだ。
 そのまま走ること五分、まだトンネルは見えてこない。そういえば都会の人と田舎の人の「ちょっと」には凄い差があると聞いたことがある。そしてここは田舎だ。祥季なら「ちょっと」とは長くても五分ほどで着くような時を差す。じゃあ祖父は? 「ちょっと」って、どれくらいを基準にしているのだろうか。不安になってくる。まさか一時間以上も掛かるのではないかと思い始めた。一時間以上ならどうするよ? ちょっとやばいのではないだろうか? そんなことを考えてバイクを走らせていた時だった。
 前方に、人影を発見した。その人影は麦わら帽子を被っていた。そしてその背中に見覚えがあった。それもそのはずだ、昨日見たばかりの背中なのだから。
 それは、ハルハルこと春菜だった。
 何とも簡単にハルハル大捜査線は幕を閉じた。
 そのまましばらくスクーターを走らせ、春菜の隣りに付けてエンジンを切った。
 言葉を掛ける。
「ヘイ、そこのプリティガール、お散歩ですカ?」
 自分でもバカではないのかと思った。
 そして春菜もそう思ったのだろう。何かを言うどころか祥季を完璧無視でどんどん歩いて行く。
 エンジンはかけずにそのまま春菜の後を押して続く。
「ねえハルハル?」
 無視。
「ハルちゃん?」
 シカト。
「春菜?」
 春菜が足を止めた。不機嫌そうな顔で祥季を見やり、なんですか? とでも言いたげな瞳を向ける。
 祥季は咳払いを一つ、軽くお辞儀をした。
「姫、お迎えに上がりました。わたくしめの愛馬にお乗り下さい」
 片方の腕でスクーターを差す。そして顔を上げたそこに春菜はいなくて、少し前を歩いている。
 慌ててその後を追う。
 ふざけ過ぎたと後悔する。
「いや、ごめんハルハル、ちょっと調子にのりました。少し話し聞いてくれない?」
 また春菜は足を止めて祥季を見やる。
 祥季は笑った。
「昨日はありがとう。助かったよ。それでさ、ハルハルにお礼したいんだよ。今から隣り町に行くんだけど、ハルハルも一緒に行かない? おれ昼まだだから、ハルハルもまだだったら何かおごる」
 春菜は考えもしなかった。即答だった。
「お断りします」
 そしてまた歩き出す。その後をまた祥季は追う。
「即答で言われるとこっちも傷付くんだけど……。まあいいや。それよりさ、おれここって昨日来たばかりだから道がわからないんだ。迷うかもしれないからハルハルも一緒に来てくれるとかなり嬉しいんだけど」
 もう話すことはないとでも言いたげな、いやそう言っている表情で春菜は歩き続ける。
 しばらく祥季は春菜の横で歩き続け、一時も休むことなく話しを振り続けた。根比べなら自信がある。話しに乗らせればこっちのものだ、などとナンパのような思考が祥季の頭の中にある。
 祥季の思惑通りに、先に折れたのは春菜だった。キッと鋭い瞳を祥季に向ける。
「何なんですかあなたは。わたしのことは放っておいてください」
「断る」
 面食らったような表情を春菜がして、祥季は続けた。
「おれは一目会った時から君を愛してしまった。だから放っておくなんてことは到底できない」
 呆れたようなため息を一つ、春菜はまた歩き出す。やはりその後に祥季が続く。
「まあそれは半分冗談としてさ、」
 半分かよってツッコミはなかった。
「お礼したいのは本当なんだよ。だから今日一日だけでもいい、おれに付き合ってくれないか?」
 ふと春菜が足を止めた。ここではじめて春菜は何かを考えるように黙った。しばらくしてから、躊躇い気味に祥季を見て、
「今日、だけですね?」
「おう、約束だ」
 多分、春菜は祥季が行くと言うまで付き纏うということを理解したのだと思う。祥季にしてみても行くという返答が返って来るまで付き纏うともりだった。つまりは最低人間の思考だ。しかし知ったことではない。最低だろうがなんだろうが、借りた恩は返すのがたった今決めた祥季のモットーだ。
 またため息を吐いて、春菜は渋々「今日だけですから」と返答してくれた。嬉しかった、というのが本音だった。いや、下心抜きでね。
 そうと決まれば行動は早い。祥季はシートに跨って春菜に「シートを羽の間に座って」と促す。しかし、ここではじめて春菜のポーカーフェイスが崩れた。注射を怯える子犬のように、スクーターをまじまじと見つめる。どうした?、と聞こうとして気付いた。
「ハルハルって、もしかして原チャリ乗るのはじめて?」
 遠慮気味に春菜は肯く。
「そうか、そうだよな……。この辺に住んでるんじゃ仕方ないか。あのさ、騙されたと思って乗ってみ。もちろんおれはゆっくり走るから。怖かったら言ってくれて構わないからさ。そしたらもう無理に誘わない」
 しばらく考えていたが、やがておずおずとスクーターに触れ、割れ物を触るような手付きでボディをなぞった。そしてゆっくりと、春菜は横乗りでスクーターに座った。横乗りは危ないと言おうとしたが、多分普通乗りでは乗らないだろうと思った。だからそのままにしておいた。スピードを出さなければ心配ないだろうし。
「あ、ハルハル。メット被る?」
 春菜は首を振る。
「そっか。じゃおれもいいな」
「あの、」
 はじめて春菜から声を掛けてきた。
 ふとそっち眺めると、少し怖い目付きで春菜はこう言った。
「ハルハルって呼ぶの、やめてもらえませんか?」
 一瞬ポカンとしてから、すぐに祥季は笑った。前に向き直ってシリンダーを回してメインスイッチをONにする。ブレーキを握ってイグニションボタンを押すとエンジンがかかる。
「了解だハルハル。あ、それとおれの体掴んでいた方がいいよ。肩でも腰でもどこでもいいから」
 不服そうな表情をした春菜だが、おっかなびっくりで祥季の腰に手を回した。それが何だかもどかしかったが、少し嬉しくもあった。驚くくらい真っ白できゃしゃな細い腕。なんかすげえな、と祥季は思う。
「行くぞ?」
 ゆっくりとアクセルを開けた。スクーターがトロトロと走り出すと、腰に回した春菜の手に力が篭った。10キロも出していないが、原チャリ初体験なら仕方ないだろう。祥季もはじめはかなり怖がっていた。
「怖い?」
 そう聞くと、背中で首を振った。
「もう少しスピード出してもいい?」
 しばらく反応はなかったが、やがて肯いた。さっきよりも強く手に力が入る。それを確認してから、ゆっくりと祥季はアクセルを開けた。
「怖かったから言ってくれていいから。そしてたらスピード緩めるよ」
 春菜が肯いた。そのままゆっくりとスクーターは進む。
 田んぼしかない道を進んで行く。どこからか聞こえるせみの声がエンジン音と重なる。腰に回された手から力が抜けた。どうやら慣れたらしい。このまま行ってもいいがそれは楽しくない。悪知恵が働いて、アクセルを少し開けた。途端に緩まった手に力が篭る。それが楽しかった。しかし春菜は怒っているのか、少しその力の篭め方に悪意が感じられた。
 そんなこんなでさらに二人乗りのスクーターは田んぼ道を行く。そろそろトンネルが見えてきても良い頃だと考え、ふと思い至った。
「ハルハル?」
 後ろで動く気配、
「この辺に交番とかないよね? おれ無免だから見つかると結構やばいんだけど」
 春菜からとんでもない言葉が返って来た。
「交番ならすぐそこにあります」
「マジで!?」
 視線を前にして目を研ぎ澄ませば、地平線のちょうどそこにトンネルが見えていて、その側に小さな建物がある。遠目だからなんとも言えないが、交番といえば交番のように見える。そしてもしそれが本当に交番ならそれはかなりやばいのだ。
「他の道とかない!? 見つかるとマジでピンチなんだけど!」
 だが春菜は平然と、
「だいじょうぶです。このまま行ってください」
 マジでか!? しかしだいじょうぶと言われて方向転換するのも気が引けて、結局はそのまま直進する。
 どうする、警察に捕まったら家裁(家庭裁判所)に連行だ。そうなると本気でやばい。ならばもし警察が何か言って来たら無視して直進するか? ってダメだ、よく考えればナンバーしゃくってないからどの道見つかる。人生最大の不覚だ。どうするどうする、どうやってどうにかするか、マズイマズイ、本気でマズイ。とか考えている内に、交番はすぐそこだった。中にいた警官が二人乗りのスクーターを発見し、道路に出てきて真ん中で仁王立ちする。こうなったらもう仕方ない、免許書忘れたって設定で誤魔化すしかない。
 警官のすぐ前でバイクを止めた。めちゃめちゃ怖そうな警官だった。ドスドスとこっちに向って歩いて来る。やべえ、マジやべえ。正直泣きそうだった。警官は祥季を睨み付け、その怖い口を開いた。
「ハルちゃん、今日はどうしたの?」
 ……は?
 すると祥季の後ろの春菜は警官にぺこりと頭を下げた。
「こんにちわ」
「おーおーこんにちわ。それよりどうしたの? スクーターなんか乗っちゃって」
 春菜は少し考えてから、
「用事です」と答えた。その返答に警官は目を丸くして、その後大声で笑った。
「そうかそうか、気を付けて行ってきな。……あん?」
 そこではじめて祥季に気付いたように警官は声を出した。そしてジロジロとヤクザのように祥季を睨みに睨み、やがて、
「小僧ォどこのモンだあコラァ?」
 本気で怖かった。今にも刃物か銃を出して襲い掛かってこんばかりの気迫があった。
「え、っとあの、萩原の家の孫……です」
 声が引き攣っていた。警官は小声で「ああ、萩原さん家の孫か」とつぶやき、しかしまだまだテメえを殺すと言わんばかりの目付きで、
「萩原さん家の孫だがな、もしハルちゃんに埃の一つでも付けてみろ、そんトキャ小僧ォ、テメえ一生豚箱暮らしにさせてやるからな」
「は、ハイッ! 承知しましたっ!!」
 そして一気に警官の口調が変わる、
「それじゃハルちゃん、行ってきな」
「はい」
 もうこれ以上ここにいたくなった。本気で殺されそうだった。急いでここから離れたかったが、警官の脅しが怖くて怖くて仕方なくて実にゆっくりとしたペースでスクーターを進めた。交番の前を通り、警官は手を振っていてそれに春菜が応えていた。もしここで祥季が応えたら撃ち殺されそうな気がした。
 交番を過ぎるとすぐにトンネルで、そこは光がずっと先に見えるような長い長い真っ直ぐなトンネルだった。そこに入るとさっきまでの世界が嘘のように涼しく、快適に過ごせた。少しスピードを上げてトンネルを進む。ライトを遠目に切り替え、光を求めてスクーターは進む。
 そして、トンネルを抜けるとそこは不思議な町でした――ってことはなく、普通の町がそこにはある。
 まずはガソリンスタンドを探そうと思った。それからどっかでメシを食おう。
 砂の道からアスファルトに切り替わる。
 ゆっくりと、祥季はスクーターのスピードを上げた。
 腰に回された春菜の手が、少し強張ったことに、祥季は気付かなかった。




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     「『また』の意味」




 トンネルを抜けると不思議な町ではないが、しかし驚いた。
 よく映画とかでトンネルを抜けるといきなり雪景色になっていて驚くことがあるが、多分今の状況もそれに似ている。トンネルを抜ければ、そこはかなり発展した町だった。いや、都会暮らしの祥季に言わせればまだまだ田舎なのだが、森林町に比べればこの隣り町はかなりの都会だった。道はアスファルトだし店や家も沢山ある。道に信号機があるのは森林町では考えられないだろう。車を森林町では見なかったが、ここでは当たり前のように走っている。一見すれば全くの別世界だった。
 単純に考えれば、森林町は理屈抜きで時間の流れが遅いのだと思う。
 信号が赤になったのでスクーターを止めた。その場でしばらく待つ。その時間を有効に利用して辺りを見まわし、どこかにガソリンスタンドがないか確認する。前方にはなく、左にもない。右を見たらガソリンスタンドの看板が見えた。指示器を右に設定する。しばらく待つと信号が青になったのでスクーターを発進させる。そのまましばらく進むとガソリンスタンドの入り口が見えてきてそこから入った。
 決められた場所に止めてエンジンを切った。後ろに乗っていた春菜に手を貸してスクーターから降りさせ、
「レギュラー満タン、現金で」
 アルバイト風の若い男が肯いて祥季からキーを受け取る。少し時間が掛かりそうだったので隣りに立っていた春菜に視線を向け、
 そこではじめて気付いた。春菜は、何かに怯えたように微かに震えていた。
「ハルハル? どうした? 気分でも悪いのか?」
 しかし春菜は首を振った。だがその様子には心配する。
 こういう時はどうするのが一番か考える。今までに読んだ漫画や小説を頭の中で再生させ、どうすれば最も男らしいのかを検討する。一つ浮び上がる『抱き締める』という選択肢。自分の頭を殴った。バカか、それじゃただの変態だ。恋人ならまだしも昨日今日会ったばかりの女の子抱き締めるなんてただの頭がトチ狂った変態真っ盛りのケダモノだ。もっと別のを考えろ。他に何かないのか。何もなかった。
 そうこうしている内に店員が作業を終え、料金を奪おうとしてきた。二五〇円だった。財布を取り出してそこからちょうど受け渡し、代わりにキーを受け取ってシリンダーに差し込んだ。
 視線を向ける、
「ハルハル、だいじょうぶ? もし気分悪いんだったらもうどこにも寄らずに帰るけど……」
 祥季に視線を合わせなかったが、春菜は小さな声で「平気です」と返した。しかしまだ微かに震えているその体を見る限りでは平気とは思えない。もし何か大変なことになったら春菜が――いや、祥季自信の身が危険だ。あの警官に殺され兼ねない。
 焦った。もうどこにも寄らずに帰るか、でもそれではお礼をしていない。悩んでいると、ふと視線がガソリンスタンドの向いの建物に行った。ハンバーガーを扱っているファーストフード店だった。閃いた。
「じゃさ、そこでハンバーガー買って帰ろっか? 森林町で食べた方がハルハルもいいだろ?」
「え……?」
 祥季が指差したそこを春菜が見て、しばらく悩んでからゆっくりと肯いた。
 それなら決まりだ。祥季はシートに跨ってエンジンをかけた。その後からおずおずと春菜が乗って腰に手を回す。それがさっきよりも強かったことに違和感を憶える。何かあるのだろうか。森林町で乗った時にはこんなことはなかったのに。もしかしてこの隣り町が嫌だったんだろうか。
 しかし検索はまた後回しにして、まずはあそこで食糧を買ってとっとと森林町に帰ろうと思った。スクーターを発進させて道路に流れ、すぐに指示器を出してファーストフード店のドライスルーに入る。店内に入るよりこっちの方が早いと思ったから車に混ざってそうした。祥季達の番が来るとスピーカーから営業音声まるだしの女性店員の声が『ご注文はお決まりでしょうかー?』と問うてきた。その声に、なぜか春菜は驚いたように身を強張らした。
 心配に思う。
「どうしたハルハル? 幽霊でも見えた?」
 春菜は返答しない。ついでに「何か食いたいものある?」と聞いたら、小さな声で「なんでもいいです」と言ったので、祥季が決めることになる。この店は全国に手を伸ばすチェーン店であり、ここで食うものは決まっていた。メニューに少しだけ視線を移してから、
「テリヤキバーガーセット二つ」
『ご注文は以上で?』
「はい」
『それでは前の方にお進みください』
 スクーターのアクセルを開けて前に進む。窓枠に到達してしばらく、女性店員が「お待たせしましたー」と注文品を渡してくれた。それに代金を払って応対し、袋の取っ手をハンドルの下に掛けて再度アクセルと開ける。
 道路に出て左に進み、十字路の信号が青だったので右に曲がる。ここから少し行けばトンネルが見える。ここらで腰に回してある春菜の手から力が抜けた。少し安心してからそのままスクーターを走らす。トンネルが見えてきて突入する。やはり涼しかった。唐突にこのトンネルで次元が捻じ曲がっているのではないかと思う。光を目指して進み、やがて視界が開ければそこに感じるのは森の匂いとせみの声だった。
 森林町に戻って来た。春菜の手から力が完全に抜け、祥季の腰に触れるだけとなった。交番を過ぎ去る時にはかなりドキドキしていたが、どうやら奥にいるのか警官はいなくて心底安堵した。田んぼに挟まれた道をそのままずっと走り、ちょうど行く途中に春菜に会った場所まで戻って来た。
 スクーターのスピードを緩める、
「ねえハルハル、どっかに食べるとこってある?」
 返答はすぐに帰って来た、
「そこを曲がってください」
 言われた通りに一直線の道から外れて横道に入る。森の中に入って行き、木のトンネルを抜ける。視界が開けると、そこに大きな広場があった。少ないが遊具もあるので公園ではないだろうか。
 その公園の入り口付近にベンチがあったのでそこまでスクーターを走らせてエンジンを切った。先に祥季が降りて、その後で春菜に手を貸して降りさせる。さっき買ったハンバーガーの袋を手にベンチに向う。木陰になっていて涼しそうな場所だった。
「へえ、こんなとこあるんだ」
 祥季がベンチに座ると、少し間を取ってその隣りに春菜が座る。
 春菜は気持ち良さそうに目を閉じ、静かに深呼吸をした。先ほどまでの震えが嘘のように、春菜はのびのびとしていた。
 何だか申し訳ない気分になる。
「ごめんなハルハル」
 急にそんなことを言われ、不思議に思った春菜の視線が祥季に向けられる。
 その視線を、受け止めれなかった。
「いやさ……、なんかハルハル怖がってたじゃん? あれってもしかして、おれのせいだったりする……?」
 勝手に隣り町まで連れ出し、それが原因で春菜は震えていた。どう考えても祥季に問題があった。もっとちゃんと話して誘うべきだったと今更ながらに後悔する。もしかしたら春菜は怒っているのかもしれない、そう考えるとその視線を受け止められなかった。
 しかし、春菜は少し慌てたように首を振った。その『少し』が、今の祥季には途方もなく嬉しかった。
 じゃあどうして? そう聞こうとすると、春菜が先に口を開いた。視線を前に広がる公園に向け、少し悲しそうに、
「わたしは、あの町の空気が苦手なんです……」
「空気?」
 微かに流れる風が春菜の髪を撫でた。サラサラと揺れるその髪は、純粋に綺麗だった。
「この町の空気が大好きなんです。森の香りっていうのかな。それが、わたしは大好きなんですよ」
「森の香りか……。そういえばそうだな、この町ってなんか緑の匂いがする」
 それに引き換え、隣り町にはその香りがなかった。車の排気ガスとか工業の煙の匂いとか。都会ではそれが当たり前の匂いであり、普通の常識だった。しかしここでは違うのだろう。視界一杯に広がる緑と森の香り、それがここでの当たり前であり普通の常識。あのトンネルは、その境界線なのかもしれないと祥季は思った。
「だから、わたしは隣り町が苦手なんです」
 その言葉がグサリときた。
「……ごめんな、知ってれば無理に誘わなかったのに……」
 春菜は首を振る、
「そんなことないです。苦手だけど、その乗り物に乗れたのは楽しかったです」
 ベンチの少し前に置かれたスクーターを見ながら、春菜は言った。
 それだけで、すべてが救われるような気がした。正直、本気で安心した。
「それじゃさ、乗りたい時はいつでもおれに声掛けてよ。夏の間、おれはずっとここにいるからさ。ハルハル姫がわたくしの愛馬にお乗りしたいと申されればいつでも参上致します」
 そう言って祥季は軽く頭を下げた。そして、顔を上げた時に、
 くすくすと、春菜は笑った。
 それは、はじめて見た春菜の笑顔だった。めちゃくちゃ嬉しかった。
「はじめて見たよ、ハルハルの笑顔。かわいいなあ」
 しかし春菜は動揺もせず、「誉め言葉として受け取っておきます」と流した。
 それで十分だった。祥季は自分の隣りに置いてある袋に手を伸ばし、そこから注文したセットを一つずつ取り出し、片方を春菜に手渡した。春菜は受け取ると不思議そうに祥季を眺めていた。
「どうした?」
 少し視線を外し、やがて遠慮気味に、
「あの……こういうの食べるの、はじめてなんですけど……」
「……マジで?」
 肯く。驚いた。年頃の人でこういうハンバーガーを食べたことがない人を、祥季は今はじめて見た。しかしふと考えれば当たり前のような気がした。春菜は隣り町の空気が苦手なのだから、自ら進んでその隣り町に行くなんてしないだろう。この町にファーストフード店はないにしろ、生活に必要なものを揃えるのには多分困らないだろうし。だからこれを食べたことがないことは無理もないのではないか。
 いやしかし、それでもやはり驚いた。
「珍しいなハルハル。でもまあいいか。これの食べ方……っつても普通に食えばいいだけなんだけど」
 祥季はハンバーガーを取り出し、紙を解いてそのままそれにかぶり付いた。その後から春菜に手で「こういう感じ」と促す。
 それを見た春菜はゆっくりと祥季と同じように紙袋に手を伸ばし、おずおずとハンバーガーを取り出した。不思議なものを見るような表情で紙を解き、出てきたそれにしばし視線を流した。やがて意を決したようにパクリとそれを食べ、口に手を添えてしばらくしてから、驚いたように祥季を見やる。
 祥季は笑った。
「感想は?」
「おいしいです」
 素直な感想だ、と祥季は思う。
 それから二人で残りを食べた。ポテトにも素直に春菜は「おいしい」と言い、もぐもぐ食べていた。その光景は純粋に微笑ましかった。少し驚いたのはドリンクを飲む時だ。祥季はコーラを頼んでいた。そうなれば自然と春菜のドリンクもコーラなわけで、そしてそれは強めの炭酸なのだ。まさかハンバーガーどころか炭酸さえ春菜が飲んだことないなんて思ってもみなかった。何の躊躇いなく春菜はコーラを飲み、見事咽た。目には涙を浮かべ。祥季は一人で焦りに焦った。春菜の周りをウロウロと歩き回り、「だいじょうぶかよ!? おいおいマジかよ!?」などど言いながらどうしたものかと考える。やがて涙を拭いた春菜は、そんな祥季を見てまた笑った。呆気に取られた祥季だったが、その笑いに釣られて二人して笑う。
 楽しかった。
 すごく楽しかった。春菜とこうしているのが、途方もなく楽しく、そして嬉しかった。
 食べ終わった後、二人でいろいろ話した。どれもこれも下らない話しだったけど、春菜からも何度も話しを振って来てくれたのが嬉しかった。ずっとずっと話していた。やがてせみの鳴声が小さくなった頃、辺りはすでに日が暮れ始めていた。広場の彼方に沈んで行く夕日を眺めた。綺麗だった。都会で見るよりずっと大きくて、そして偉大だった。そんな夕日に照らされた春菜の表情が、愛らしかった。
 春菜が「そろそろ帰らないといけない」と言ったのでそれを切っ掛けにお開きになる。もちろん家まで送った。スクーターの後ろに乗った春菜は、ずっと祥季の肩に掴まっていた。春菜が風が気持ち良いと言ったのを、祥季ははっきりと聞いた。スクーターのスピードを上げた。田んぼが赤く染まって不思議な感じがした。
 スクーターでしばらく行くと、春菜は「ここでいいです」とスクーターを降りた。見ればそこは萩原家より少し離れた山で、そこに真っ直ぐ伸びる石の階段があった。ここからは歩いてしか行けず、しかし少し行けばすぐに春菜の家がある。祥季が「今日ハルハルの家に泊まっていい?」と聞いたら見事に断られた。
 石段を数段登った辺りで、春菜は振り返った。祥季に向って軽く手を振って、こう言った。
「また」
 祥季は手を振り返した。
「おう、またな!」
 踵を返し、春菜は石段を登って行く。その姿が見えなくなるまで見送ってしばらくしてからやっと、祥季はスクーターのエンジンをかけた。
 アクセルを開けようとしてふと気付く。今さっき、春菜は何て言って別れたか。「また」って言ったはずだ。「また」って……「また今度」とかそういう時に使う言葉だよな? とゆーことはあれか? また会おうって意味なのか? 確か今日の昼の約束では今日だけではなかったか? って……マジで? しかしそれは、かなり嬉しいことだった。告白して返事を貰った時のような喜びが浮き上がる。
 祥季は叫んだ。
「ハルハルっ! またなっ!!」
 そしてアクセルを開けた。
 祥季のスクーターは田んぼ道を行く。
 日が暮れはじめていた。辺りを真っ赤に染めた不思議な光景。
 こうして、祥季のハルハル大捜査線は本当に幕を閉じたのである。


 その日の晩、食卓で祖父と祖母に、春菜と隣り町に行ってそれから公園でずっと一緒にいたと報告したら、二人ともお茶を噴き出した。


 

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     「お兄ちゃんは萌える」




 そもそも祥季はなぜ森林町に来たのか。
 それはこれからの人生の進路を決めるというなんともブラックな理由だ。母親に言われて家を追い出され、夏休みの間ずっとここにいることになっている。つまり、祥季はこの夏休みの間に大学に行くか就職するか、進路を決めなければならないのだ。だが正直な話、それを完全に忘れていた。思い出す切っ掛けになったのは祖母の家にかかってきた電話。母親からだった。何も決めてないというどころか、「あ、忘れてた」と素直に告白したら思いっきり怒鳴られた。ぶっちゃけ鼓膜が今もおかしい。
 しかし、しかしだ。どうしてそれと畑仕事が関係してくるのだろうか。怒鳴りに怒鳴った母親は、息も絶え絶えに祥季にこう言う。「これから進路を決めるまで、おばあちゃん達の畑仕事を手伝いなさい!」と。進路と畑仕事にどんな繋がりがあるんだよ! と母親に向って言うだけの度胸は祥季にはなかった。
 そんな訳で、素直に祥季は祖父と祖母の畑仕事を手伝っていた。
 というのは前提であり、ぶっちゃけ祥季はあまり役に立ってはいなかった。祥季は、自分は一応力のある方だと思っていた。喧嘩はしたことがないが、多分それなりに強いと思う。腕相撲でも上位に入るし。だから祥季は力のある方だと勘違いていた。その実績は、都会暮らしのもやしっ子の中だけの話であり、肉体労働する田舎の人々に比べればこれも月とすっぽんも真っ青だった。
 とにかく農作業するための道具がやたらと重い。くわを持ち上げてみても力強く振り下ろすなんて不可能だった。それどころかバランスを取るだけでも精一杯だ。
 そんな祥季を見て祖父はガッハッハッハと笑う。どれ、貸してみろと祥季が持っていたくわを軽々と片手で持ち上げ、そのまま振り下ろして畑を耕して行く。祥季が苦戦苦闘する農具をまるで玩具のように扱う祖父は、本当に人間なのだろうか。多分、祖父がくわの二刀流で耕せば機械よりも正確で素早いと思う。
 しかし、なぜか無意味に悔しかった。さっきまで祖父が使っていたよくわからない農具を奪い、持ち上げようとして、持ち上がらない。意地になった。両手でしっかりと握り緊めて全身全霊の力をその手に込め、思いっきり農具を振りかぶった。農具が持ち上がる、そのまま上まで運んで行き、
「お……? おおっ!?」
 バランスが崩れて見事に後ろに倒れた。体がさっき耕したふかふかの土の上に仰向けで転がる。近くで祖父がガッハッハッハと笑っている。
 ちくしょう、などと思ってみる。ため息を一つ、倒れたままで空を見上げる。雲が少しあるだけの驚くほどの快晴。太陽がやはり馬鹿みたいに大きくて、気温を保とうとフル活動する。暑かった。最近ではこの暑さに慣れてきたような気もしていたが、その炎天下の下での農作業は予想以上に困難で、それに加えて体力を消耗する度合いが半端ではなかった。祥季の来ているシャツもそのまま風呂に入ったのか? と聞かれるくらいにビショビショだ。どこからか聞こえるせみの声を微かに意識しながら、祥季は目を閉じた。
 あれから三日経った。春菜と隣り町に行ってハンバーガーを食ったあの日から、すでに三日経っていた。その三日間、祥季は一度も春菜に会ってはいない。いや、正確には会えなかったのだ。春菜の別れ際の言葉、「また」を頼りに祥季はスクーターに乗って探してみた。その辺をぶらつけば見つかると思っていた。甘かった。春菜がどこにいるのかさえわからなかった。白状すると、昨日は春菜の家があるあの石段の前に張り込んでいた。しかしいつまで経っても春菜は現れず、ぶっちゃけ日射病で倒れそうになった。ならば家に行ってみればいいだろう、という考えは当然却下だ。これは悪まで偶然を装うことに意味があるのだ、と祥季は思う。しかしそんな綺麗事では春菜に会えなかった。
 目を閉じ春菜を想う。正直、春菜に会いたかった。自分でもどうしてそんなに会いたいのかなんてのはわからないが、どうしてか無性に会いたい。少し前に春菜に向って言った「おれは一目会った時から君を愛してしまった。だから放っておくなんてことは到底できない」という祥季の言葉。苦笑する。それは強ち嘘ではないらしい。一頻り笑った後、祥季は目を開けた。
 春菜は、どこにいるのだろうか。青い空を見ながらそんなこと思い、ふと視線をやった。天地が逆になった地面に、見付けた。一瞬、蜃気楼かと思った。しかしそれは蜃気楼なんて陳腐な代物ではなく、紛れもない現実だった。四つん這いで地面に這いつくばる、叫んだ。
「ハルハルっ!!」
 祥季からかなり離れた場所にいる麦わら帽子をかぶった人影は、苦笑気味に一度だけ手を振ってよこした。
 祥季の声に気付いた祖父と祖母もそっちに視線を移し、二人とも目を丸くした。
 祥季は立ち上がる、
「じーちゃん! おれ行って来ていい!?」
 呆気に取られていた祖父は呆然と「あ、ああ」と肯き、それを確認してから祥季は走り出す。耕した地面に蹴躓きながら春菜を目指した。
 その背中を見送っていた祖父は「たまげた……ハルちゃん本当に祥季と……」その少し離れていた祖母が「本当ですねえ……ハルちゃん、もしかして本当に祥季のことを……?」祖父は首を振り「まさか……いやしかし……むぅ」などと唸っていた。
 そんな二人の会話はとっくに祥季は聞こえない。畑から砂の道路に到達して、春菜のすぐ側に走り寄った。汗がさらに流れ、息が切れた。膝に手をやって呼吸を整え、祥季はまず最初にこう言った。
「マイスウィートハニーハルハル! 会いたかった!」
 トチ狂った頭からはそんな言葉しか出てこない。
 春菜は少し戸惑ったように笑って「なんですかそれ」と祥季を見やる。
 テンションが上がっていた。
「いやマジで会いたかった! どこで何してたんだよハルハル! おれずっと探してたんだぞ!?」
 その言葉に春菜は驚いたように、
「探してた……? わたしを……?」
 ストッパーが見事に外れていた。多分探せばその辺に頭のネジの一本でも落ちていたかもしれない。
「もちろん! この三日間ハルハルに会いたくて探し回ったっつーの! ぶっちゃけ昨日なんてハルハルん家の前に張り込んでたし!」
「……はい?」
「んなこたあどうでもいい! それよりハルハルどうしたのこんなとこで!?」
 それには春菜は一言「散歩です」で答えた。
 ここらでやっと祥季のテンションが落ち着き始め、吹っ飛んだネジが戻って来る。
「散歩か。ハルハルっていつも散歩してんの?」
 春菜は笑う、
「そうですよ。午前中は家の手入れをしてから、午後は散歩するのがわたしの日課なんです」
 通りで会えなかったわけだ、と祥季は思う。それからもうちょっと聞いてみれば、春菜は午後はずっとこの森林町を散歩するらしい。昨日張り込んだのは昼からであり、その時すでに春菜は散歩していたのだ。
 しかしそんなことより、春菜に会えたという事実が単純に嬉しかった。
「そうだハルハル、これからドライブしないか?」
「ドライブ……ですか?」
「おうよ。原チャリ乗ってその辺走ろうよ。おれまだこの町ってあんまり知らないし」
 春菜は考えなかった。即答だった。
「いいですよ」
 そう言って春菜は微笑む。
「っしゃ、そうと決まれば――ってここに原チャリなかった……。一回家に帰ってもいい?」
 はい、と春菜は肯いた。祥季は畑にいる祖父と祖母の方を見て、
「ハルハルと出掛けてくる!」
 叫ぶと、二人から軽く返事が来た。それを確認してから祥季と春菜は歩き出した。ここから萩原家までは徒歩で五分くらいだ。
 いつの間にか暑さなど忘れていた。それは春菜のおかげかもしれないと思ってからふと気付いた。
「……あのさ、家帰ったら少しシャワー浴びて来ていい? めちゃめちゃ汗かいてるからさ……」
 いいですよ、と春菜が返答してから思い出したかのように手に持っていたそれを祥季に差し出した。
 お茶の入った新品のペットボトルだった。そんな物を持っていたことに祥季ははじめて気付いた。
「って、これ飲んでいいの?」
「そのために買ってきたんです」
 その言葉は一瞬理解できす、理解した時にはすごく嬉かった。ペットボトルを春菜から受け取り、キャップを外して中身を飲んだ。乾いていた喉に伝わるその水分はまさに最高の瞬間だ。
 そのままでふと思う。
「そうだ、ハルハルも一緒に風呂入ろっか?」
 すると春菜は顔を真っ赤に染めて慌てて首を振り「な、なにを言ってるんですか!?」ってコメントを、
「いいですよ」
 さらっと、春菜はそう言った。
 お茶が鼻に入った。
「ぶはあっ!? おえっ、うォおっ!? ま、マジでえっ!?」
「冗談です」
 くすくすと笑って、春菜はトテトテと先に歩いて行ってしまう。
 鼻に入ったお茶が馬鹿みたいに痛い。前を歩く春菜を呆然と見送り、冗談かよ!! と一人嘆き、その後で当たり前かと思う。しばらく鼻の痛みと格闘し、それに勝利してから春菜の後を追った。
 太陽はまだまだ消えず元気一杯で、せみの声が耳によく届いてくる。
 そんな夏の空の下、祥季と春菜は並んで歩く。


 シャワーを浴びている間、春菜には居間で待っていてもらった。
 汗を流して綺麗さっぱりした体をタオルで拭き、このままタオル一枚腰に巻いた姿で出て行ったらどうなるだろうと露出狂みたいなことを考える。やはり頭のネジがまだ一本どこかに転がっているのかもしれない。その考えをどうにか振り切り、ちゃんと服を着て脱衣所を出た。この家も六日目もともなるともう迷わない。一直線に居間に向うことが可能となった。しかしまだまだ未知の部屋が数多く存在し、祖父に開かずの間を一つを見せてほしいと申し出たら、「その代わり大切な物を失うぞ?」と返答され、怖くてやめた。あれが本当がどうかはわからないが、別に見なければ支障があるわけでもなく、ならば大切な物を守る代わりに見ない方がいいのだ、と祥季は思った。
 居間に行くと、ちゃぶ台にさっき祥季が用意した麦茶が入ったコップが置いてあり、その近くで春菜は神妙な表情をしていた。見れば春菜は、祥季の圏外で使い物にならない携帯電話をじっと見つめていた。
 不思議に思う。
「どうしたハルハル?」
 やっと春菜は祥季に気付いたように視線を向け、しかし神妙な表情は変わらずに携帯電話を指差した。
「これって何ですか?」
 ふむ、携帯電話が珍しいのか。そういえばそうだろうな、と考えた。この町に携帯電話などあるはずもない。電波が届かないのに携帯電話持ってる馬鹿はいないだろう。隣り町に行けば多分大丈夫だろうが、そもそもこの町の人にはそんな物は必要ないのだろう。だからそんな異物に、春菜が興味を惹かれるのもわかるような気がする。
 祥季は近づいて携帯電話を拾い上げ、折り畳み式のそれを広げた。当たり前のように圏外だが、ショックは受けない。この町にいると、携帯電話が不必要に思えてくる。祥季は春菜の視線を受けながら、携帯電話のディスプレイの中でメニューをいくつも開けた。やがて準備が整い、カメラのレンズを春菜に向けてシャッターを押した。「カシャ」っと鳴る機械音に春菜が驚き、しかし祥季は笑ってその画面を春菜に見せた。
 そこにはちゃんと春菜が写っていて、それを見ると驚いたような視線を祥季に向ける。
「これは携帯。簡単に言えば電話だよ。でも近頃のヤツにはカメラとかいろいろ変な機能ばっかり付いてる。骨伝導とかいう意味不明な使いどころがよくわからない物まである」
 祥季にしてみれば当たり前の説明でも、春菜には新発見だったに違いない。驚いている春菜の表情が可愛らしかった。
 ふと意地悪を思い付く。さっき撮った春菜の画像に『大好きだよ祥季』とメッセージを付け加え、その後にハートを並べ、それをベストなところへ貼り付ける。それから画面を春菜に見せる。春菜が顔を赤くして怒った。それに謝り、「ごめん消すって」と言いながらちゃっかりファイルに保存する。するといきなり春菜が不思議そうに、「祥季……?」とつぶやいた。
 それに違和感を憶え、唐突に自分が信じられない馬鹿ではないかと思う。よくよく考えれば、祥季は自分の自己紹介をこの後に及んでまだしていなかった。祥季は春菜のことを祖父から聞いて知っているものの、春菜にしてみれば祥季の苗字は知っていても、名前は知らなくて当然だった。
 こんな古典的なミスを犯すとは、人生最大の汚点だ。
「いやごめん、そういえばおれの名前まだ言ってなかったよな……」
 春菜は肯く、祥季は視線を正す。
「遅らせならがおれの名前は萩原祥季。春菜ことハルちゃん、ハルちゃんことハルハル、とんだ失礼を許してほしい」
 春菜は首を振った。
「そんなことないです、わたしも訊こう訊こうと思っていたけど訊けなかったんですから……」
「ふむ、やはりそれはおれのミスか……痛いな……。もっと早くに自己紹介を……いやしかし忘れていたのだから仕方ない……待て待て、忘れていた事自体おかしい……」
 ブツブツとつぶやく祥季を心配に思った春菜は、恐る恐る、
「あの、祥季さん?」
 瞬間的だった。祥季は春菜の目の前に手をかざした。
「ストップハルハル!」
 ビクっと春菜は言葉をつむぐ。
「おれのことを祥季『さん』とか呼ばないでくれ。『さん』とか『くん』とか付けられるともどかしい。普通に呼び捨てで構わないよ。それかハルハルとお揃いの『ショウショウ』でもいい。あ、もしくは萌える、」
 せみが鳴いていた。

「――お兄ちゃんとか」

 その言葉で、春菜の気配が一瞬で変わった。
 春菜は、悲しみに塗り潰された表情で、今にも泣き出しそうな視線を見せた。
 祥季は一発で我を忘れた。
「お、おいどうしたハルハル!? お兄ちゃんってそんなに嫌だったのか!?」
 大声で、春菜の表情が一瞬驚いたように変わり、それから慌てて首を振った。
「い、いえ、なんでもないです」
「なんでもって……」
 春菜が立ち上がった。その時には、いつもの春菜に戻っていた。
 祥季を見てから春菜は笑う。
「ドライブ、行かないんですか?」
 その笑顔で、祥季は我を取り戻す。視線を一度春菜から外し、少ししていからもう一度春菜に向ける。その時には、祥季も笑っている。細かいことは置いておこうと思う。ただ、春菜に笑っていてほしい。それだけを願って、今は過ごそう。だから今は、ドライブに行こう。
 もう少し考えてもいいでのはないかと思わせるほど、祥季の頭は切り替えが速い。言い換えれば馬鹿なだけなのかもしれない。
 しかし何はともあれ、今は春菜と一緒にいることだけを考えよう。この太陽が暑く、せみの鳴声がうるさいこの森林町で、春菜と一緒にいることだけを。それだけで、いいと思った。
 さっき春菜が見せた表情が気にならないといえば嘘になる。でも、今は、
 それだけでいい。
 緑の香りがする、夏の午後。
 太陽の暑さとせみの鳴声が目立つ田舎町で、祥季の夏休みはゆっくりと動き出している。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 



      「今夜ここに泊めてほしい」




 スクーターに跨ってシリンダーにキーを突っ込んで回転させメインスイッチをON、ブレーキを握ってイグニションボタンを押すとエンジンがかかる。
 純正の排気音が辺りに広がり、ふとガソリンのメーターに目をやればかなり減っていた。底を尽き掛けている。これでは一日持たない可能性大だ。取り敢えずはガソリンを入れに行こうと思った。それからハルハル大捜査線Uを決行しようと計画を立てる。
 祥季はアクセルを開け、スクーターは走り出す。最近は砂の道には大分慣れてきて、それなりにスピードを出しても平気になった。もちろんスリップや転倒する危険があるので無茶な運転はしないが。それにちょうど昨日、春菜とドライブした時にそれに似たようなことが起きた。家の前にスクーターを出して祥季が乗り、春菜を乗せる前に少しカッコイイところを見せようとして、アクセルを前回まで開いたら見事スリップして田んぼへ突っ込むとこだった。春菜はそれからスクーターに乗るのを怖がった。しかし祥季の必死の説得のかいあって、最後には二人乗りでずっと走っていた。まあそれもガソリンが無くなる切っ掛けになるのだろう。だがこれだけの日にちを持つところを見れば、このスクーターはかなり燃費がいい。
 隣り町に行ってガソリンを入れるために、祥季はスクーターを走らせている。春菜はそれに誘わない。わざわざ春菜が苦手な空気の元に連れ出す必要がどこにあろうか。春菜と一緒に行けないのは残念ではあるが、春菜が嫌がることをさせる方が遥かに願い下げだ。
 最近よく通る田んぼ道を行く。真っ直ぐ、ハンドルを切らなくても行けるこの道はそれなりに便利だった。太陽の暑い陽射しもせみのうるさい声も、すでに体と耳が慣れてしまったらしく何の抵抗もない。やはり人間はすごい。適応能力がある。
 十五分ほど進むとトンネルが見えてくる。ここを通るのはあの日以来。あの日とはもちろん春菜と行った時のことであり、警官がめちゃくちゃ怖かったあの日だ。嫌なことを思い出してしまった、と思う。警官のことなどすっかり忘れていたいのに。もしかしたらまたあの警官がいるかもしれないと思うと、交番が物凄く怖かった。だから交番を発見した時、姿を消す能力が今まで生きてきた人生の中で一番強く欲しいと願った。しかしそんなことで姿が消えれば何の苦労もいらない。
 姿がばっりち見えたままで交番を過ぎようとして、ふと無意識に中を覗けば警官がこっちを見ていた。人生が終った、と確信した。急いで逃げようとアクセルを開けつつも、礼儀として軽く頭を下げた。すると警官は「なんじゃあ小僧ォ、誰に挨拶しとんじゃあボケェ、慣れ慣れしいんじゃコラあ」という意味を明確に込め、「おう」と言葉を発した。本気で怖い。よくこんな人が警官になれたものだ。しかしそんなことを言うと殺されそうなのでもちろん言わないってゆーか言えない。
 トンネルに入る。やはりそこには涼しく、相変わらずここで世界の空間は捻れているのだろう。光を目指してそこを出れば、道はアスファルトになって排気ガスなどの匂いに出迎えられる。都会にいた時は全く感じなかった違和感が生まれる。なぜ世界はこんなにも汚れているのだろうか。どうして森林町みたいにできないのだろう。だがそれを言うだけの資格は、多分自分はないのだろうと思う。
 少し気分がブルーになったので無意味にスクーターのクラクションを鳴らしたら、前を走っていた車から顔を出したサングラスを掛けたあの警官と同類と思わしき兄貴に睨まれた。怖かった。急いで進路を変えてガソリンスタンドに入った。この前と同じ店員に迎えられ、レギュラーを満タンにしれくれと頼む。今回は現金三百円を強奪された。ボッタクリにあった気分だと思うのは恐らく祥季がアホなのだろう。
 ガソリンスタンドを出て、反対側のハンバーガーショップに向う。初めっからここに来る予定だった。ドライブスルーに車に紛れて並び、自分の番が来たらメニューに少しだけ視線を流してテリヤキバーガーセットを二つ注文する。窓枠に行って品物と引き換えに代金を支払う。こっちの方が値段が高いのにボッタクリと思わない祥季はやはりアホなのだろう。
 そのまま祥季はスクーターを走らせて道路に流れ、トンネルへと引き返す。トンネルに入ると警官の怖さが甦ったので、今回は無視しようと決めた。しかしトンネルを抜けると恐怖が倍に跳ね上がり、結局は頭を下げる形となる。しかもやはり警官に睨まれた。これさえなければいい人なんだろうなと思う。まったく、こんな人を採用するなんて世界はどうなってるんだ。もちろんそんなことを言ったらどうなるか考えなくてもわかる。もういいや、と思って祥季はスクーターを走らせた。
 さて。それでは祥季はこれからどうするのか。決まっている。今日はハルハル大捜査線Uの開幕日だ。今朝決めたのだがそうなのだ。
 そして今までの説明は過去の物だ。今現在、萩原祥季は作戦を立てている。
「ふむ……。ハルハルの家の前まで来たはいいけど、これからどうするか……」
 つまりその作戦だ。春菜の家がある石段の前までは来たはいいが、これからどうやって春菜を探すのか悩んでいる。早目に探さないとハンバーガーが冷めてしまう……のか? この暑さで。いや冷めるっていうより飲み物が温くなってしまう。温いコーラなど人が飲む物ではない、と祥季は思う。
 ならばどうするか。早く春菜を探さなければならない。携帯を確認すると時刻はすでに一時になっている。春菜は午後から散歩する。ということはつまり、春菜はこの森林町のどこかを歩いていることになる。探し出すのは無理だと思う。初代ハルハル大捜査線は偶然春菜を見付けて幕を閉じたが、あれがかなり運が良かったことを祥季は知っている。だって三日探しても会えなかったし。それを踏まえ、マジでどうしようと唸る。ノリでハンバーガーまで買って来てあわよくば春菜と一緒にいようと思っていたのに、その望みが終ってしまう。それは勘弁だ。
 ハルハル〜ハルハル〜と、とある映画のように心の中で叫んで出会えたら苦労は、
「……祥季?」
「ハルハルっ!?」
 声のした方を見れば、石段のちょうど半ば、そこに春菜が立っていた。
 マジで? こんなノリでマジでいいの? これだと読者が在り来たりだとか思わないのか? てゆーかおれ、読者って誰に向って言ってんだ? いやそんなことより、マジで? 呆然と春菜を見ながらそんなことを思う。
 春菜は一段一段ゆっくりと石段を降りて、祥季の隣りまで歩いて来た。
「こんなところでどうしたんですか?」
 まあ出会えたことには素直に感謝しよう。神様もたまには仕事をするではないか。
 祥季はハンバーガーの入った袋を手に持ち、
「これ買ってきたから一緒に食べようと思ってさ。ハルハルこれ食べる?」
「それって……この前の……?」
 もちろん、と祥季は肯く。
 驚くべきことが起きた。春菜が目をキラキラさせて「食べます!」と言うのだ。気圧された。まさか春菜がこんなコメントするなんて予想もしていなかった。普通に食べますとゆっくり言うかと思っていたのに、いきなり目をキラキラさせてそう言うのだ。
 素直に驚いた分、笑いが込み上げた。
「ハルハルってそんなキャラだったっけ?」
「え……あ、いえっ……その……」
 顔を赤くして俯いてしまう。胸にグッときた。めちゃくちゃこの春菜の様子を写真に撮りたかった。右手がポケットの中の携帯を取り出そうとして、しかし左手でそれを阻止する。待て待て、今は待て。と自分自身に言い聞かす。にしても、すげえ「萌える……」
 その祥季の言葉に、春菜は不思議そうな顔をした。
 ついポロッと出てしまった本音に慌てて首を振った。
「いやいや何でもないよ。それよりさ、どこで食べる? この前の公園?」
 春菜は少し考え、やがて、
「わたしの家で食べます?」
「マジでっ!?」
 突然の大声に驚きながらも、春菜は「はい」と応えた。
 おお、めちゃくちゃいい極上のシチュエーションではないのか、と祥季は思う。春菜に簡単に会えるは一緒にいれるは、挙げ句の果てには春菜の家にまで上がり込めるわで最高ではないのか。そこでふと思った。
「てゆーか、春菜まだ散歩に行ってなかったの?」
 昨日聞いた話では、春菜は午後から散歩に行くのが日課。今はもうその午後であり、日課通りならすでに散歩に出掛けているのはないだろうか。
 その問いに、春菜は少し照れたように笑い、
「寝坊……したんですよ」
 と言う。何だか楽しかった。
「へえ、ハルハルでも寝坊するんだな。まあそのおかげでこうしてハルハルに会えたんだから、今回の寝坊は有難いけど」
 祥季は笑い、それにまた春菜も笑う。
 取り敢えずさっそくハルハルの家に行こう、と祥季が言い出し、春菜が肯いて二人で石段を登って行く。この森林町では木のトンネルが多く、ここもそうだった。木漏れ日が階段を照らすのが光の柱に見えて綺麗で、木が周りにあるのでせみの声が普通より大きく聞こえる。石段には枯葉も落ちてなく、神社などの光景と重なった。そういえばスクーターに鍵を突っ込んだままだと気付き、しかし盗まれることなどないだろうと思ってそのままにしておいた。
 石段を三分ほど登ると、そこは小さな平地になっており、家が一軒だけ建っていた。森林町にあるどの家のタイプとも違う、少し不思議な感じのする建物だ。家の左側には洗濯物を干すような台があり、右側には小さな畑があった。家庭菜園とでも言うのだろうか。キチンと整理されていて、野菜が大きく育っていた。
 春菜のに後に続いて家の玄関まで歩いて行き、ドアを開けてくれたので中に入る。緑の香りと、これまた何か不思議な匂いがする綺麗な空間だった。しかしそこにはちゃんと生活の色があった。そのまま春菜に連れられ、玄関で靴を抜いて上がり、小さなドアを抜けるとそこにはリビングと呼ぶような部屋があった。森林町では大半の家が畳みにちゃぶ台という昔ながらの作りだが、春菜の家はテーブルとイスだ。だが違和感はなく、何となく春菜らしいとも思う。
 適当なイスに腰掛け、テーブルにハンバーガーの袋を置くと、向い側に春菜が座った。イスは祥季の隣りに一つ、春菜の隣りに一つ、計四つある。祖父の話を思い出すと、確か春菜は一人暮しだったはずだ。ということはつまり、春菜はこの家のすべて、家庭菜園さえも一人でやっていることになる。素直にすごいと思う。
「女の子の家の入るのってはじめてなんだよな」
 無意味にきょろきょろと室内を見渡す祥季。
「わたしも、誰かをこの家に入れるのははじめてなんです」
「マジで? っつーことはあれか? おれが第一号?」
 春菜は肯く。何となく嬉しい。そのまま部屋を見まわしていると、違和感を憶えた。この部屋、というよりはこの家に春菜は一人で住んでいる。しかし、この家はあまり女の子の家という感じがしなかった。生活に必要な物だけは一通りちゃんと揃っているが、それだけだった。不必要な物、女の子なら持っていそうな物を、春菜は一切持っていなかった。だが隣り町に行かない春菜にしてみれば、それが普通なのかもしれない。
 気持ちを切り替え、袋からセットを二つ取り出して片方を春菜に、もう片方を祥季の前に置く。
「それじゃ食いますか」
「はい」
 今回は食べ始めるのは春菜の方が早かった。得意げにハンバーガーの袋を開け、美味しそうにパクリと食べる。そんな春菜を見ながら祥季は微笑み、自分の分のハンバーガーの袋を開けて中身を食べた。本当に美味しそうに頬張る春菜の姿を見ていると、買って来てよかったと本気で思えた。
 コーラを飲んで一息付くと、春菜はポテトを一本持ってそれを食べる。
 ふと唐突に、
「ねえハルハル、今夜ここに泊まっ――」
「お断りします」
 にっこり笑ってさらっと断られた。
 しかし祥季はめげない。
「まだ最後まで言って――」
「お断りします」
 にっこりさらっと。
 祥季はコーラを飲んだ。喉に響く炭酸を感じながら、それで出た涙を悪用する。
「ハルハル、ガード堅いよ……。おれはハルハルが淋しがると思って……善意で……」
「本当に善意ですか?」
「え?」
「もし本当に、祥季がそう思っているのだったら、泊まってもいいですよ?」
 真剣に、春菜にそう言われた。
 負けた、と祥季は思う。
「いや、それもあるけど……下心もあるっちゃーある……」
「じゃお断りです」
 春菜はまた笑ってポテトを食べた。
「……ハルハルぅ〜……」
 子犬のような視線を向けてみるが、春菜にそれが通用するとは到底思えなかった。
 案の定、春菜はその視線を受けても笑ってポテトを食べる。ちくしょう、と思って春菜のポテトを一本強奪したら怒られた。それりゃもう怖かった。そんなにマジに怒らなくてもいいじゃん! と弁解してみるが無意味で、春菜に涙目で睨まれた。ものすごく可愛かったかそれどころではない。いやいや、機嫌直してよ、おれの分全部やるからさ、と言えばおずおずと祥季が差し出したポテトを春菜は受け取り、それからしばらくして機嫌が直った。食べ物の恨みは怖いって言うが、まさか春菜に当てはまるとは思ってもみなかった。
 ふむ……最近春菜のキャラがかなり変わったな、と思う祥季である。まあしかし、楽しいのでよしとしよう。
 ハンバーガーを食べ終わって、二人でのんびりと話をしていた。祥季が「今日は散歩行かなくていいの? 何ならおれも付き合うけど」と言えば、春菜は「今日は特別です。祥季と一緒にいたいと思うから」とさらっと言われた。その言葉で祥季は調子に乗って「やっぱり今夜ここに泊まっ――」「お断りします」とにっこりさらっと断られる。それからはあの手この手で攻めてみたが、結局春菜に負けてしまった。そりゃ下心があるにはあるけど、もうちょっとこう……ねえ? 世界中の皆様に同意を求めるが、誰一人として祥季に返事を返す者はいない。当たり前である。
 春菜と話していると時間を忘れる。最終的には夕方の五時過ぎまで話し込んでいた。一時間置きに泊まってもいい? と訊いてみたが、もちろん見事に断られた。
 そろそろ夕食の時間かなと思って、そのことを春菜に言うと「お昼のお礼もしたいですし、食べて行きますか?」と夕食のお誘いを受けた。もちろん即答で「食べて行く!」と叫んだ。
 てな訳で祥季は今、リビングのイスに座って台所で料理する春菜の姿を眺めている。
「ねえハルハル?」
 包丁を完璧に使いこなし、料理をしたまま春菜は祥季に視線は向けなかったが、
「なんです?」
 祥季は続けた。
「なんか新婚みたいだね」
「そんなことないです」
 ぬぅ……これもダメか。春菜は祥季の言葉に動揺すらしない。もっとオロオロしてくれれば楽しいのに、と思わなくもない。しかし春菜はこういう感じの方がいいと祥季は思う。春菜らしい、といえばそうなのだろう。
 しばらく待つと、春菜が料理を持って来てくれた。美味しそうだった。一緒に食べてみたけど、これはなかなか行けるではないか。レストランでも開けば繁盛しそうだった。素直に感想を言うと、春菜は嬉しそうに笑ってくれた。うん、いいな、こういうの。
 夕食を食べた後、また祥季と春菜は話していた。しかし夜も更け始め、時刻が八時を過ぎた辺りでそろそろ帰らないとならなかった。最後の賭けで泊まってもいい? と訊いても結果は同じで無駄に終った。
 春菜は石段の下まで見送りに来てくれた。祥季がスクーターに乗ってエンジンをかけると、
「おやすみなさい」
 春菜がそう言ってくれた。
「おう、おやすみ」
 祥季もそう返す。二人して手を振って別れた。サイドミラーで春菜の姿を見えなくまで確認していた。
 夏の夜は涼しかった。太陽の代わりに月が辺りを照らし、どこかでせみの代わりにスズムシが鳴いている。
 綺麗な夜だった。
 この夏休みが、ただ楽しかった。


 その日の夜、居間でビールを飲んでいた祖父に、春菜の家で夕食食わしてもらったと報告すれば、祖父がビールを盛大に噴き出した。




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     「春菜が好きだから」




 正直な話、祥季は朝にすごく弱い、というより起きない。
 休みの日などは平気で昼過ぎまで眠っていることが多いし、目覚ましを掛けてその時間に起きられるなんてのは無理に等しい。周りがどれだけうるさかろうとも、祥季は一度寝ると自然に目を覚ますまで起きれないのだ。家にいる頃は、母親に布団を引き剥がされ、それでも起きないのなら階段から突き飛ばされるのが日常だった。だから、祖母の家でもそうなのだ。せみの声がうるさかろうとも、祥季は全く気にせずに眠っていて、起きたのはついさっきだった。
 時刻は十二時半。ぼんやりする頭で廊下をふらふらと歩き、洗面所で顔を洗ってからやっと意識がはっきりし始める。しかしまだまだ本調子ではない。迷いそうになりながらも居間に向う。そこには昼食を食べている祖父と祖母がいて、祥季の顔を見ると呆れたような笑いをして祥季の分の朝食か昼食かよくわからない料理を運んで来てくれた。軽くお礼を言ってからちゃぶ台の前に座り込む。
 テレビが付いていなかったのでチャンネルを探して付けようとして、
「祥季、話がある」
 と祖父に真剣に言われた。何だかテレビを付けるような雰囲気ではなかったのでチャンネルをちゃぶ台の上に置き、祖父を見やる。
「なに?」
 しばらく祖父は無言だったので、取り敢えず昼食に手を付けようとして、
「お前、進路は決まったか?」
 それに手を止めた。不様にも「あ、」と声を漏らした。またすっかり忘れていた。この前母親に怒鳴れたばかりなのに忘れるなんてどうかしている、と思うものの、興味がないのでそれも仕方ないのかもしれない。そもそもここに来ている理由を履き違えているような気がする。当初、祥季はここに進路のことをじっくり考えるために来ていた。しかし今では、春菜に会いにここに来たようなものになっていた。
 それではやはりマズイよな、と祥季は思う。だがちゃんとした意見もなく、祖父には正直に言った。
「それがまだ全然……」
 そうか、と祖父は祥季から少し視線を外した。
 何なんだ、と思う。祖父のこんな様子を見るのははじめてだった。何かすごい隠し事でもあるのだろうか。
 そのまま祖父が次に何を言うのかと待っていると、先に祖母が口を開いた。
「さっきおじーさんと話してたんだけどね、あんた、高校出たらここに住む気はないかい?」
「……は?」
「あんたがここに来てからもう二週間経ってるだろ? この町には慣れたんじゃないのかい?」
 少し考える。確かにこの町には随分と慣れた。居心地もいいと思う。
 そして黙っていた祖父も口を開く。
「のォ祥季、その考えを本気で考えてはくれんか? ハルちゃんもお前のことを気に入っているようだしのォ」
 急に出てきた春菜の名前に反応する。ここに来て二週間経ったいる。その内、春菜と会わなかった日の方が少ない。最初の頃の三日会えなかったのを例外に、残りはほとんど毎日春菜と会っていた。それは祥季にしてみても楽しかったのし、春菜も喜んでいてくれた。
 だから、この町に住んでみないかと言われ、少し真面目に考えてみようと思った。
「まあ今すぐ決めなければならないなんてことはないからな。大学でも就職でも、祥季の好きなようなやればいい。だがの、ここに来るって進路もあるのを憶えてくれてればそれでいいでのォ」
 祖父はそれから、さっきまでが嘘のようにガッハッハッハと笑った。昼食をまたすごい勢いで食べ始める。
 それに釣られて祥季も昼食に手を付けた。美味しかった。それから、昼からは農作業を手伝うよと祥季が申し出たが、今日はやることが少ないから休みでいいよと祖母に言われた。まあそれなら、今日はオフということで休みを満喫しますか。
 昼食を食べながら、祥季は呑気にそんなことを思う。


 スクーターを家の前まで出したはいいが、どうしてか乗り回す気にはなれなかった。
 家の塀に凭れながら座って、祥季は空を見上げている。雲が一つだけゆっくりと流れていた。この町の太陽は元気一杯で、今日も気温を保とうとフル活動する。暑いといえば暑いのだが、どうやらもうその暑さに慣れたらしくあまり感じない。せみの声も同じだ。都会にいる時に感じる車の排気音と同じような感覚になっている。といっても、車の排気音よりはせみの声の方がまだ自然の優しいのではあるが。そんな光景を、何となくに祥季は眺めていた。平和というか何というか。心が休まる、と表現するのが一番いいのかもしれない。
 座ったままで目を閉じる。微かに吹く風が気持ち良い。
「この町に住んでみないか……か」
 その考えは、深く祥季の胸の中に入ってきた。今から慌てて進路を決め、目的もなく勉強するよりはそっちの方がよっぽどいいと思う。この町は確かに田舎だ。しかし隣り町に行けばちゃんと一通りは揃えることができるし、不自由はない。それにこの町の人は皆良い人だし。いや、警官は別だけどね。祖父と祖母にしたってそうだ。どうやったらこの二人から祥季の母親が生まれたのか謎だというほど人情が溢れている。この町にいるのは、都会にいるよりは遥かに居心地が良かった。
 そして、一番の理由は春菜にあった。この町で偶然にも出会った少女、春菜、通称ハルハル。彼女といる時間は純粋に楽しく、話していると時間を簡単に忘れる。春菜の笑顔が見たかった、春菜の声が聞きたかった。
 春菜のことが、好きになっていた。春菜と一緒にいたい。本音はそれだけだった。
 その理由でこの町で暮らそうとしているおれは、いい加減なのだろうか? その理由は不純なのだろうか? そんな考えが浮んでしまう。ため息を一つ吐く。
 いかんね、いかんいかん。こんなしんみりするのはおれじゃない。もっと気楽に行こうではないか。理由はどうであれ、今は純粋にこの時間を楽しもうではないか。春菜と一緒にいれるこの時間を、大切にしようではないか。
 携帯電話を取り出し、メニューをいくつも操作してから画像を開いた。そこにあるのは春菜の画像。書かれた『大好きだよ祥季』というメッセージを削除する。まずは、この辺からはじめればいいだろうと思う。携帯を閉じてポケットにしまう。しんみりするのはやめだ、自分の思った通りに生きよではないか。
 祥季は立ち上がる。真っ直ぐに晴れた青い空に向って叫んだ。
「ハルハルっ!! 好きだあ―――――っ!!」
 と。急に恥ずかしくなる。
 ふむ、まあこんなもんか。そしてそれとなく辺りを見渡してみる。そこに春菜がいたらえらいこっちゃ、と思う。しかし春菜はおらず、周りの田んぼにも誰もいなかった。よし、気合はこれで十分だろう。
 さてと、会いに行きますか。すでに午後ではあるが、散歩しているのならその辺をぶらぶらすれば多分見つかるだろう。
 祥季は歩み出す。携帯を入れた逆のポケットからキーを取り出し、スクーターに跨ってシリンダーに突っ込んで回転させる。メインスイッチがONになったのを確認してからブレーキを握ってイグニションボタンを押す。エンジンがかかって微かな振動と純正の排気音が祥季を包む。何度感じてもいい気持ちになる。アクセルを吹かしてからスクーターを発進させる。砂の道を祥季のスクーターは走って行く。ガソリンはこの前入れたばかりなのでほぼ満タンに近い。ガス欠の心配は無用だ。
 取り敢えず春菜の家がある石段まで向った。もう何回もそこまで行っているので祥季の運転も慣れたものだ。石段の手前まで来るとエンジンを切った。ふとまだ春菜は家にいるのかもしれないと思って石段を登った。木漏れ日が綺麗な木のトンネルを祥季は歩く。何度見てもこの光景には目を奪われる。風が涼しい空間だった。石段を登り切るとそこにあるのは春菜の家だ。ここに来るのは夕食を御馳走になったあの日を会わせれば三回目だった。しかし家の中に入ったのはあの日だけであり、それ以外は大抵スクーターでドライブしてぶらぶらとしてから話をしていただけだった。
 玄関まで行ってドアをノックしてみる。しかし返答はなかった。もう散歩に行ってしまったのかもしれない。ならば探してみるか。祥季は体の向きを変えて石段を下ろうとして、気付いた。いや、聞こえたというのが正確な表現かもしれない。だがはっきりとした確信はなかった。
 不思議に思って祥季は歩き出す。春菜の家の右側、つまり家庭菜園がある方へ。
 そこで、祥季は春菜を見付けた。
「ハル、っ!!」
 しかし言葉は途中で途切れる。
 春菜は、異常だった。畑の側に一本だけある木の根本に祥季に背を向けて蹲り、少し離れた場所から見ていてもわかるくらいに春菜は震えていた。
 声が出なかった。ハルハルどうした!? そう叫んで近寄りたいのに、その一歩がどうしても踏み出せない。体が凍ったように、自由が奪われている。
 そして、苦しそうな春菜の声が聞こえて来た。
「――ちがっ――……」
 何だ……?
「――おね……、」
 何を言って……?
「――彼、は……」
 彼って、誰だ……?
 春菜のその声は、はっきりと聞こえた。
「――祥季を、巻き込まないで……っ!」
 気付いたら、春菜に手が届く所まで歩んでいた。そんなつもりはないのに忍び足になっていた。
 無意識だったと思う。震える春菜の肩を、祥季の手が掴んだ。
 瞬間、
「ぅわああっ!!」
 悲鳴にならない悲鳴を上げ、春菜は立ち上がろうとする。だが足が縺れたのか背中から地面に転倒し、まるで悪夢から醒めたような蒼白な表情で祥季を見ながら震える。その瞳が虚ろで、端から見てもわかるくたいに怯えていて、恐らく春菜は目の前にいるのが誰なのかを認識していない。
 まずは落ち着けようと考えた。座ってこっちを見ながら震える春菜の両肩を掴む、それに本気で驚いたように振り払おうとする春菜の瞳を直視する、
「ハルハルっ! おれだっ、祥季だっ!! 落ち着けっ!!」
 その声を聞き、春菜の表情が変わる。
 希望と絶望と拒絶が混ざった表情。
 虚ろな瞳に光が差し込み、そこからポロポロと涙が溢れた。
 春菜が、声を上げて泣いた。本当に、春菜は大声で泣いた。普通の涙とは違う。恐怖の時に流す涙でも、嬉しい時に流す涙でもない。もっと別の、祥季には到底わからないような次元の涙。
 祥季の胸の服を掴んで、春菜は泣いている。
 ――本当は、
 だいじょうぶだって、抱き締めてやりたかった。
 ――おれがいるから、
 だいじょうぶだって、肩を抱いてやりたかった。
 ――しかし、
 それを言うだけの資格が、祥季はなかった。理由もわからず泣いている春菜に、そんな自分の無責任な言葉は、逆に春菜を追い詰めることになる。それを、祥季は理解してしまった。春菜のこの涙は、祥季などには想像が付かない所で流す涙だった。だから、そんな春菜に、祥季の言葉は掛けてはならない。
 もし、それでも言葉を掛け、抱き締めてやりやいと思うのなら、春菜と同じ所まで歩まなければならなかった。それ相応の覚悟を決めなければならなかった。
 そして、今の祥季にはその度胸がなかった。
 何もできなかった。胸で泣いている春菜に、何もできなかった。
 祥季に、できることは何もないのだろうか――。


 春菜が泣き止んだ。
 祥季から離れる際に、「泣いてごめんなさい」と頭を下げた。心が痛んだ。謝られる資格も、祥季にはないのだから。
 でも、それでも、祥季は歩んで行こうと思う。春菜に笑っていてほしい。それだけでいい。ゆっくり、少しずつでもいい。春菜の場所まで歩んで行こう。
 春菜のことが、好きになっていたから。
 畑の側に生えている木に背を向け、祥季と春菜は座っている。
「ハルハル……、」
 返事はなかった。けれど、祥季は続ける。
「今はまだ何も話してくれなくていい。けどさ、もし苦しくて苦しくて、どうしようもなくなった時は、」
 祥季にできることは何か。力になれないかもしれない。しかし、春菜が少しでも安心してくれるなら、どんなことでもする。
「おれに、話してみてくれないか? おれなんか役に立たないかもしれない。でも、もしかしたら何かできるかもしれない、だから、」
「……ごめんなさい……」
 春菜はそう言った。
 そして祥季が何を言うより早くに、立ち上がった。
「今日は……帰ってください……」
「……あ、おいっ! ハルハル!」
 一度も振り返ることなく、春菜は走った。そまま家のドアを開け、中に入って行ってしまう。
 木の側に取り残された祥季は、一人で立っている。
 太陽の光は強く、周りから聞こえるせみの声が大きい。
 何でもありの田舎だ。何が起きても不思議じゃない。
 迷いはなかった。やることは決まっていた。
 風が吹くと同時に、祥季は笑う。
 っしゃ、そうと決まればこっちにも考えがある。
 ハルハルがそう来るなら、こっちはこっちで行動させてもらおうではないか。
 できること何か。春菜に笑っていてほしい、だったら、春菜に笑顔をプレゼントしようではないか。
 迷いはなかった、やることは決まっていた。
 春菜が、好きだから。


 夏休みは、ゆっくりと過ぎ去っていく。
 



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「ハルちゃんの敵はこの町の敵」




「ハルハルっ! 夏祭りに行こう!!」
 ドアを開けた春菜に、まず最初にそう言った。
 いきなりの声に驚いた春菜は言葉をなくし、しかし祥季はさらに、
「今日森林町で夏祭りあるだろ! それ一緒に行こう!」
 多分、春菜はよく状況を理解していなかったのだろう。
 何とも言えない表情で、祥季の声に圧されて遠慮気味に、
「は、はい……」
 祥季は笑った、
「よし、じゃあ今日の夕方六時、春菜の家に迎えに来るから用意しといてな! それじゃ!」
 言うだけ言って、祥季は春菜の家から走り去る。
 その背中に春菜の声が、
「あ、あの!」
 しかし祥季は聞こえないフリをしてそのまま石段を降りて行く。
 せみの声を聞きながら、木漏れ日が綺麗な木のトンネルを通り、
 作戦成功、と祥季は思う。


 発端は祖父と祖母が言った言葉だった。
 今朝、珍しく八時過ぎに祥季が起きて居間に向うと、祖母が「今日って夏祭りの日でしたよね?」と祖父に問い、祖父は「おお、そういえばそうだの。回覧板に書いてあったからな」「今年はわたし達は何もしなくていいんでしたよね?」「去年やったからいいだろう。っにしてももうあれから一年か、早いのォ」「ねえ、それっておれも行けるの?」と、これは祥季だ。
 いつの間にか祥季がいたことに気付き、祖父は少し驚いたように、
「おお祥季、もう起きたのか」
 祥季はそんなこと聞いていない。
「その夏祭りっておれも行けるの?」
「ん? おお、もちろんだ。公民館の広場で夕方からやってるぞ。暇なら行ってみろな」
 すると隣りの祖母が「祥季、あんたハルちゃん誘ってみなさいよ」と促すが、初めっからそのつもりだった。
 これを使わない手はないだろう。あれから、春菜に「帰ってください」と言われた日からすでに二日。一応会いに行ってみたのが、散歩に行っているのかそれとも居留守を使っているのか、春菜には会えなかった。どうしようかと悩んでいたら、さっきの言葉を聞いた。つまりは夏祭りだ。
 しかし誘うにしても取り敢えずは春菜に会えなければ意味がない。昼から行動に移すのは遅いだろう。時計を見る。まだ八時過ぎだ。今から行けば会えるのではないだろうか。そう考えれば行動は早い。その場で服を脱ぎ散らかし、部屋に戻って服を着替える。慌しく走り回る祥季を不信に思った祖父と祖母に出掛けてくると言い残して玄関から外に飛び出す。
 門の側に置いてあるスクーターを引っ張り出し、シートに跨ってキーを突っ込んでメインスイッチをONにしてエンジンをかける。初っ端からアクセルを思いっきり開けた。後輪が砂にスリップし、しかしそれを片方の軸足で固定して向きを変更。全開までアクセルを開けて祥季は突っ走る。朝が早いせいかまだせみの声は聞こえず、田んぼ道にはスクーターのエンジン音だけが静かに響く。
 石段まではすぐに着いた。エンジンを切らずにスクーターを放置し、走って石段を登る。昼間見るのとはまた違う木漏れ日が綺麗だった。石段を登り切ると春菜の家が見えて来て、玄関まで走り寄ると息を整えた。
 ここで焦ってはいけない、と祥季は思う。荒々しくノックなどしたら春菜が怪しむ。ならば静かに、祥季ではない町の人と思わせるために、祥季は軽くドアをノックした。
 しばらく返答はなかったが、室内から微かな物音の後、ドアの向こうに春菜が現れて鍵を開け、ドアノブを回して、
 そこからは一気にだった。微かに開いたドアの隙間に手を突っ込んで開け、祥季は言った。
「ハルハルっ! 夏祭りに行こう!!」


     ◎


 てな訳で、時刻は約束の六時に移る。
 強引過ぎたかもしれない、と今更ながらに後悔する。もしかしたら迎えに行って断れるかもしれない。事実あの時の春菜は状況をあまり理解してなかったようだし、帰り際の呼び声を無視したし。断られる原因としては十分だと思う。しかし元からそう思っていなかった訳でもなく、もし断られたら別の方法を考えようと決めていた。断られたらそれはそれでへこむのだが。
 約束の時間の十分前にはすでに春菜の家の前の石段に到着していたが、ギリギリまでそんなことを考えていた。だが携帯の時計が六時を示すと同時に、祥季は石段を登った。一段一段が重い。が、今更引き返すことなどできない。用は当たって砕けろなのだ。
 ドアの前に立ち、ノックするのに一瞬躊躇していから軽く叩いた。しばらく反応はなかったが、やがて中に人の気配を感じた。ドアノブが回ると、恐る恐るという感じで春菜が顔を出した。
 強気で行こうと思う。
「っちス! 約束通りに迎えに上がりました!」
 一旦視線を外し、しかしすぐに春菜は玄関から出て来た。
 その姿に目を奪われた。そりゃ夏祭りに行く女の子なのだから当たり前といえば当たり前である。だが実際にその姿をした女の子を見るのはこれが初めてだった。
 春菜は、浴衣を着ていた。可愛かった、というのが本音だった。
「似合うじゃんハルハル」
 そう言うと、照れたように顔を赤くして俯いてしまう。それも何だか愛らしい。
 そしてそれ以前に、春菜がちゃんと夏祭りに行く意思を示してくれたのが素直に嬉しかった。
「それじゃ行きますか……って、あのさ、」
 俯いていた視線を祥季に向ける、
「おれって、実は公民館の場所知らないんだけど」
 一瞬呆気に取られたようにポカンとし、それから春菜は少し遠慮気味に笑って、
「知らないのに誘ったんですか?」
「おうよ。ハルハルに連れてってもらおうと思ってたからな」
 本当は、公民館の場所は知っていた。だって今日の昼に行ってみたのだから。
 祥季は歩き出す。それに少し遅れて春菜もその後に続いた。
「公民館ってこっから遠いの? 原チャリ乗ってった方がいい?」
 いつの間にか隣りまで歩いて来ていた春菜は、視線を前に向けたままで、
「歩いて五分くらいですよ」
「そっか。じゃあ歩いて行くか」
 春菜は肯く。
 石段を降りると祥季のスクーターが置いてあり、キーが突っ込まれたままだったがどうせ盗まれないだろうからそのままにしておく。祥季の家とは反対方向の道を並んで歩く。田んぼ道は少し暗めの夕日に照らされ、赤い色が微かに反射する。空にはすでに一番星が輝いていて、せみは夜を威嚇するように鳴いている。どこからかそんなせみの音に混じって太鼓の音が聞こえてくる。その方向に視線を向ければ、ライトアップされた光が空まで届いている場所があった。そこが公民館だ。すでに祭りは始まっているみたいだ。
 隣りを歩く春菜との会話はなかった。二人して黙って歩くのは、春菜と初めて会った時以来ではないだろうかと思う。
 春菜は時折、祥季の様子を覗うような仕草をするが、祥季はそれに気付かないフリをする。
 そのまま歩くこと五分、春菜の言った通りに公民館に到着した。昼間見た時よりもその光景はグレードアップしていた。公民館の広場は無意味に広く、その周りをフェンスに囲まれている。フェンスに沿って四方から出店がずらりと並び、その中央に太鼓が置かれている矢倉があって一番奥に公民館と呼ばれる一階建ての建物。昼間の時は矢倉と公民館しかなかったのだが、今は出店が賑わっていた。そして、この町にはこんなに人がいたんだと思わせるほどの人込み。隣り町からも来てる人もいるのだろうが、恐らく大半がこの森林町の人だろう。町全体で取り組む祭りだった。矢倉に登っている法被を着た男の人が太鼓を叩く度に腹に響く音が聞こえる。
 久しぶりに見る人込みに、祥季のテンションは上がる。都会にいる時は毎日見ていたその光景が、懐かしく思えた。
「ハルハル! すげえなここの祭り! 初めてだよこういうの!」
 都会ではこういう祭りをするスペースすらないので、地区での祭りなんか一切なかった。だから、森林町みたいな祭りに憧れていた。
 春菜の手を取って祥季は歩き出す。思って行動したんじゃないと思う。無意識に、そうしようと感じた。
 急に手を握られた春菜は驚き、少し頬を赤くしてその横を歩く。
 出店から聞こえる客引きの声が新鮮で、この町ではじめて見る子ども達が元気一杯で走り回り、出店の隣りに置かれたテーブルで数人の大人がビールを物凄い勢いであおっている。その中で一番飲みっぷりがいいのが祥季の祖父だったことに少しだけ驚く。しかしまあ祖父ならまだまだ余裕だろうと心の隅で思い、周りを包む人込みと出店と太鼓の音に胸を躍らせる。
 するとどこからともなく、「ハルちゃんこんばんわ」という声が上がる。それが引き金になったかのように、次々とどこからともなく「よおハルちゃん久しぶり!」「こんばんわハルちゃん」「元気にしてた?」「おーいハルちゃん、こっち来て一緒に飲もうやあ」「ハルちゃんだあーこんばんわあー!」「おお、ハルちゃんだハルちゃん! みんな、ハルちゃんが来てるぞー!」最後には矢倉に登っている人までもが太鼓を鳴らすのをやめて春菜に声を掛ける。すごかった。ほとんど全員が春菜を見付けると挨拶をする。皆が皆優しい声色だった。たったそれだけ春菜がこの町の人に好かれているのだろうと思った。そしてそれだけなら微笑ましい光景で終っただろう。問題はここからだ。「ハルちゃんこんばんわ」と挨拶をした人は皆、次にあろうことかそのハルちゃんと手を繋いでいる祥季をあの警官のようにジロジロと睨み付け、「なんだぁあの小僧ォ、どうしてハルちゃんと手ぇ繋いでんじゃあボケぇ、地獄みるかコラあ?」という視線を向ける。視線が痛いと感じたのは生まれて初めての経験だった。胃に穴が開くとはこういうことか、と祥季は一人思う。
 そしてそんな祥季に、春菜がくすくすと笑った。このうるさい人込みの中でも、その声だけははっきりと祥季の耳に届いた。
「笑うなよ。これ、結構痛いぞ……」
 そう言う祥季も笑っている。冗談めかしにそんな言葉を言ったのは、嬉しかったからだ。
 春菜が怯えていたことを、祥季は知っていた。だから敢えて、ここに来るまでは春菜と話さなかった。それは少し酷いことだったかもしれないが、その分こっちの方が春菜を安心させられると思った。しかしこの視線はもちろん計算外だ。痛い……。はっきり言ってこれは辛かった。
 だがそれも、春菜が笑って手を引いてくれたことで簡単に打ち消させた。
 二人で出店に向った。数多くある中で、まずはそれとなく目を付けた店に歩み寄ってみる。そしてよく考えれば祥季はまだ夕食を食っていなかった。そのことを春菜に伝え、進路を少し変えてたこ焼き屋へ向った。「春菜も食べる?」と聞いてみたらいらないと言われた。「遠慮しなくてもおごるよ」と言えば、実は食べたい物があるらしい。それは何か聞いてみても教えてくれなかったので、取り敢えず祥季はたこ焼きを一パック買う。その出店の主人が気前の良い人で、「ハルちゃんの知り合いならおまけしてやる」と三個余分に突っ込んでくれた。しかしその後で「ハルちゃんに手ぇ出したらお前がたこ焼きの具になれ」と脅された。どうやらこの町の人は春菜のこととなるとめちゃくちゃ怖くなるらしいと今更ながらに理解する。
 そして春菜が食べたかった物というのが、祭りに定番の綿アメだった。そこの出店まで歩いて行くと、主人のオバちゃんが春菜に気付いてふんだんにおまけしてくれた。綿アメの大きさが通常の二倍以上に跳ね上がっている。代金は祥季がおごろうとしたのだが、オバちゃんのおごりだった。なんと気前の良い人達だろうと思ったのも束の間、そのオバちゃんにさえ「ハルちゃんに手を出したら……わかってんね?」と脅された。何だこの町に人達……と思う。
 それからは祥季がたこ焼きを、春菜が綿アメを食べながら出店を見て回る。途中で春菜の綿アメを少し強奪したら本気で怒られた。そりゃもう怖かった。涙目で睨まれた。ものすごく可愛かった。が、それだけではなかった。場所が悪かった。「ハルちゃんの敵はこの町の敵」と言わんばかりの気迫を込めて祭りに参加している人全員に睨まれた。アホみたいに怖かった。勘弁してほしい。
 出店の数は本当に多かった。クジや輪投げはもちろんのこと、金魚すくいや射的、食べ物屋もすべて揃っている。活気溢れる祭りに完全に飲み込まれていた。途中で見つけたリンゴ飴を春菜に買ってやったらやっと機嫌が直った。どうやら春菜は甘い物が好きのようだった。にしても、ポテトの時もそうだったが、食べ物の恨みって怖いなと実感する。
 機嫌の直った春菜とまた出店を見て回る。そうすると声を掛けられ、射的をタダでやらしてくれた。祥季も春菜も何も取れなかったが、これまた店主が春菜に好きな景品をくれた。ちょっと小さ目のうさぎのぬいぐるみだった。今はそれを胸に抱いて春菜は歩いている。そんな姿を見ると春菜がすごく幼く感じた。こうやって幸せそうに笑っている春菜が一番可愛かった。
 祭りは、純粋に楽しかった。時間を忘れて、春菜と一緒にずっと遊んでいた。
 時刻が夜の十時を回った。どうやらこの祭りはオールナイトで行われるらしく、祭りの勢いは逆に加速していた。この辺で酔いつぶれる大人が目立つようになり、子どもは親に連れられて帰って行く。しかしまだまだ人込みと喧騒は止まず、太鼓の音は休むことなく鳴り続けていた。
 すべての出店を回り終わって、公民館の玄関で一休みしていた時、春菜が祥季を上目づかいに見つめ、
「あの、」
 祥季はさっき買ったフランフルトの最後の一口を食べながら春菜に視線を向ける。
 言い難そうに春菜は、
「そろそろ帰りませんか……?」
 そう言われて携帯を見れば、すでに時刻は十一時になろうとしていた。
 祥季にしてみればこのままオールしてもいいだろうが、さすがに春菜はしないだろう。それに春菜がいないのならこのまま残るのもあまり意味がないような気がする。つまり、もうそろそろお開きの時間だった。
 携帯を閉まって、何も付いていない棒をゴミ箱に捨てる。
「そうだな、帰るか」
 少し残念な気持ちもあるにはある。この祭りを最後まで見届けたい、という気持ちも確かだがあった。
 そしてそれは春菜も同じだったのだろう。残念そうに目の前に広がる光景を眺める。
 またいつか、春菜と一緒に来たいと思った。
 それからしばらくして、二人は歩き出す。出店から聞こえる喧騒、矢倉から響く太鼓の音、わいわいと騒ぐ酔っ払った大人達。まだまだ、祭りは勢いを失ってはいなかった。公民館の敷地内を出ると、街灯は一つもない道が広がる。しかし公民館が異様に明るいせいで足場ははっきりと確認できた。そのまましばらく行くと、背後で光と音が瞬いた。
 振り返ると、公民館から幾つも花火が打ち上げられていた。七色に輝くもの、一色のもの、星の形を描くもの。すべて色形ともに違うその花火は、夜空の元で弾けて目を奪う。綺麗だった。その光景をしばらく眺めてから、また祥季と春菜は歩き出す。
 石段まで辿り着くと、春菜が「ここまででいいです」と一段だけ登ってから祥季に向き直った。
 少し不安の入った悲しげな表情を見せる。
「……この間はごめんなさい……」
 いきなりそう言われたが、春菜が何を言っているのかはすぐにわかった。
「本当は怖かった……。本当は、祥季に嫌われたんじゃないかって……ずっと怖かった……」
 少し潤んだ春菜の瞳が、夜の中で輝いていた。
「だから、今日誘ってもらえて嬉しかったです。本当に、本当に楽しかったです」
 ぺコリと、春菜は頭を下げた。
「ありがとうございました」
 そして頭を上げた春菜の視線と、祥季の視線が結び付く。
 祥季は笑った。それ以外は、有り得なかった。
「おう、どう致しまして。また今度どっかにデートしような」
 指をグっと出す祥季を見て、嬉しそうに春菜も笑ってくれた。
「はい!」
 二人して笑った後、「おやすみ」と言って別れた。
 どこかでピントの外れたせみが「ジリリッ」と鳴く。
 公民館から聞こえる微かな喧騒と太鼓の音と花火の音。それらがすべて心地良かった。
 夏の夜風の空気は良くて、空に輝く月と星が辺りを照らす。
 こうして夜は、ゆっくりと更けて行く。
 帰る途中で見掛けた看板に、一体何の冗談かこんなことが書かれている。


 『平和でありますように』




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     「最後はベットに押し倒せ」




 祥季が例によって昼過ぎに起きると、祖父が祭りの煽りを受けて寝込んでいた。今日で三日になる。
 祖母の話では、祖父は周りの知り合いと飲み比べをし、調子に乗ってビールの缶を五十二本、一升瓶を十二本たった一人で空にしたらしい。よく死ななかったよな、と祥季は思う。祖父の他にもこんな大人が多くいて、祭りの後はしばらく畑が手付かずなのは毎年恒例である。森林町の風物詩でもあるのだ。しかしそれで楽しいのは飲んで潰れた本人だけであり、それを介護する祖母はいい迷惑だと言う。
 森林町は怪物の溜まり場だと思わなくもない。普通それだけ飲んだら間違いなく死ぬだろう。だがそれでも死なないのは、この町の人達だからこそだ。基本的に体の造りが違うかもしれない。祥季がやったら間違いなく天国へゴールインだ。
 そんな祖父に一言掛けたが返事はなく、布団に倒れてうんうん唸っていたのでそのままにしておいた。居間に行くと祖母が昼食を用意していてくれたので取り敢えず食べる。テレビのリモコンをちゃぶ台の下から発掘し、電源をONにして適当にチャンネルを変える。微妙な番組しかやっていなかったので、チャンネルをニュースにしてそれとなく視線を流してまた食べる。キャスターの声をそれとなく聞きながら、一定のペースで昼食を食べ続けた。
 軽い洗い物を終えた祖母が台所から歩いて来て、ふと視線を送れば手に何か持っていた。A4サイズの茶色の封筒だった。
「祥季、ちょっと頼まれてくれないかい?」
 食べながら「なにを?」と返す。
 祖母はその封筒を祥季に差し出し、
「これを公民館まで届けてほしいんだけどね。いいかい?」
 公民館か。ちょうど帰り道に春菜の家があるし、その時に寄ってみようか。
 考えるのはそれだけだった。
「いいよ、そこ置いといて。食べ終わったら行ってくる」
 お礼を一つして、祖母はまた台所へ戻って行った。
 決まれば行動が早いのが祥季である。ペースを上げて昼食を食べ、すべて平らげてから「ごちそうさま」と台所の祖母に声を掛ける。立ち上がって自分の部屋に引き返し、途中で見付けた開かずの間のドアを押してみるがやっぱり開かない。まあいいか。もう慣れたので興味もあまりなかった。それでもこうやって確認するのは、「もしかしたら」ということがあるかもしれないからだ。しかしこの開かずの間が開いていることのは一度もなかった。
 開かずの間を通り越して自分の部屋に足を踏み入れ、適当に脱ぎ散らかして新しい服に着替える。布団の側に転がっていたスクーターのキーを拾い上げ、指でくるくると回しながら封筒を回収して玄関へ向かう。祖父に大声でいってきますと叫んでやろうかと思ったが、後が怖いのでやめる。玄関に脱ぎ捨てられているスニーカーに足を突っ込み、つま先を地面に打ち付けてちゃんと履く。祖母に声を掛けてから玄関を開けて夏の空の元へ歩み出る。
 太陽の光に手で影を作る。今日も快晴だ。この町に来てから一度も雨を見ていなかったが、どうやら水が豊富らしくあまり必要ないということを最近気付いた。門まで歩いて行ってスクーターを引っ張り出し、ちょうど擦れ違った近所のおじさんに頭を下げた。スクーターのシートを開けて中に封筒を入れ、そういえばメットなんてあったなと思う。しかし必要ないのでそのままにしておく。休むことなく聞こえるせみの声にも随分慣れ、今ではそれが当たり前になっていた。
 深呼吸を一つ。森の香りが体を包んだ。今日も一日頑張りますか、と老人みたいなことを思う。スクーターに跨ってシリンダーにキーを突っ込む。メインスイッチをONにしてからブレーキを握り、イグニションボタンを押してエンジン始動。振動と排気音が体に伝わり、アクセルを二、三度吹かした。方向を変えて足を上げ、そのままスクーターを発進させた。
 風が気持ちいい。たまに目が乾いて痛いのだが、サングラスなどないので我慢する。砂の道なのに祥季のスクーターはアクセルスロットルを前回まで開けていた。人間とは本当に不思議なもので、どんな状況でも一度慣れてしまえば抵抗がなくなる。曲がり角がないのでスピードを出しても何ら問題がなかった。もちろん二人乗り、つまり春菜が後ろに乗っている時にはちゃんとスピードを制限する。そうじゃないと春菜が乗ってくれない。目の前でスリップして田んぼに突っ込みそうになったところを見られているので尚更だった。
 しばらく走ると春菜の家がある石段が見えて来て、その前で一度スクーターを止めた。石段の上を見てみるが春菜の姿はなく、携帯を確認するとすでに一時を回っていた。もう散歩に行ってしまったのだろうか。帰り道に寄ってみていなかったら、その辺を探し回ってみよう。見付かればめでたしめでたし、見付からなかったらここで張り込んで春菜が帰って来たら偶然を装って声を掛け、あわよくば夕食を御馳走になろうではないか。最低だろそれ、と突っ込みをする者はもちろんいない。
 取り敢えずは先に公民館に行こうと意識を戻す。アクセルを開けてスクーターをさらに進ませた。するとすぐに公民館を囲むフェンスが見えて来て、指示器を出さずに敷地内に入ろうとして急ブレーキを掛けた。一瞬その光景に呆然とする。公民館に入れなかった。いや、入ろうと思えば入れるのだが、このスクーターでは無理だった。公民館の広場には、祭りの残骸が広がっていた。屋台などはばらされるだけばらされてほったらかしだし、矢倉も分解されて放置されている。足の踏み場がないくらいにそれらが転がっていた。恐らく、片付けをする大人達がまだ復活してないのだろう。皆、祥季の祖父の二の舞になっているのは簡単に想像できた。しばらくはこのままなのだろう。
 仕方なくスクーターのエンジンを切り、スタンドで立て掛けてからシートを開けた。中から封筒を取り出してこの無法地帯へと足を踏み入れる。どこか歩く度にペキっと何かが割れる音がするが知ったことではない。悪戦苦闘でさらに進むとやっと公民館に到着できた。そこから一度振り返って改めてその光景を眺めてみる。三日前とはかけ離れたその光景にしばし思考を巡らす。
 どうしても、この場所があの日の夜と同じ場所には思えなかった。春菜と見たあの祭りの光景とは全くの別世界になってしまったこの広場。あの夜は特別だったのかもしれないと思う。あれは、夏のあの日だけその口を開く異次元だったのかもしれない。と、そんなファンタスティックみないな思考を巡らした自分に気付いて少し恥ずかしくなる。
 気持ちを入れ替えて公民館のドアを開けた。この中に足を踏み入れるのは初めてだった。一歩室内に入ると、クーラーが効いていて涼しかった。しばらくその冷気に身を委ねて体を冷やし、それからまた歩き出した。下駄箱に靴を突っ込んで床に上がり、スリッパは面倒臭いので素足で歩く。どこに届けるのかわからないので適当に探し回っていると人を見付けた。
 二十代前半の綺麗な女性だった。
「あの、」
 しゃがんでダンボールの箱と格闘していた女性は、その声に気付いて顔を上げて祥季を見やる。
 これを届に来たんですけど。そう言おうとしたのだが言えなかった。なぜか女性は小学校の時の同級生に出会ったけどどうしても名前を思い出せなくて、それでも必死に思い出そうとしている目付きで祥季を見ていた。怪訝にその女性を見返す祥季を余所に、一瞬で女性の顔に理解と納得の色が広がった。どうやら思い出したらしい。
 女性は立ち上がると、細い指を祥季にビシっと向けてこう言った。
「あー! 君ってさ、祭りの時にハルちゃんと一緒にいた男の子じゃない!?」
 気圧されながらも、祥季は肯いた。それを確認した女性は「そうかそうか」と嬉しそうに声に出し、祥季の方へ歩いて来た。祥季は背が高い方であるが、この女性はその祥季より少しばかり高かった。スタイルも良い。モデルのような人だった。
 そんな女性が祥季の顔をじっくりと覗き込む。声が出なかった。
「ふ〜ん、ハルちゃんて君みたいな子が好みなんだね。あ、でも結構かっこいいじゃない」
「あ、あの、」
 声を絞り出すと、女性は「ん?」と不思議そうな顔をした。
「あなたは……?」
 この初対面なのに何の警戒もなく話し掛けてくる女性は一体誰なのか。それがどうしても気になった。
 すると女性は胸を張った。
「あたしは美香。この町に住んでる二十よ……十八歳の乙女だよ!」
 何だ、何だこの人? 今さっき絶対に二十四と言いそうになってたぞ? しかも歳をサバ読む度合いが間違ってる。十八って少し無理があるだろう。そんなようなことを思っていたら、美香と名乗った女性に勘付かれた。
「あ、さては君、あたしが歳をサバ読んでるとか思ってるでしょ? 失礼しちゃうわよ」
 怒ったように、美香は祥季を睨んだ。何だか不思議な人だと祥季は思う。
 そしてさっきまで怒っていたような表情が嘘のように、美香は好奇心剥き出しの表情で祥季に詰め寄り、
「ね、それよりハルちゃんとどこまでいった? キスくらいはもうしたんでしょ? というかどこでどうやってハルちゃん引っ掛けたの? すごいよね君、ハルちゃんといきなりデートしてるなんて。もう町中の噂だよ。交番の御巡りさんいるでしょ、あの人なんてそれ聞いて倒れてたよ。あ、でもさ、ハルちゃんって結構ガード堅いでしょ? 君も苦労してるんじゃない?」
 ここは、普通なら照れ隠しに怒るかそのままやり過ごすべきなのだろう。
 しかし、祥季はあっさりと話に乗った。この女性の口調には、不思議とその効果があった。
 祥季も身を乗り出し、
「そうなんスよ、ハルハルってガード堅くて苦労してるんです」
 美香も更に乗って来た。
「そうでしょ! やっぱりそうだよね!」
「ハルハルに泊めてくれって言っても見事に断られるし」
「そりゃそうでしょうよ。ハルちゃんの家に入ること自体不可能に近いんだから」
「あ、でもおれハルハルの家には入りましたよ? 夕食も食わしてもらいました」
 美香は目を見開いて驚き、
「うそぉ、ホントに!? ハルちゃんの家に入ったの!?」
 祥季が肯くと、美香は力を込めた声で、
「それは前代未聞だわ……。でもさ、そうなればお泊りももう少しでできるようになるかもよ?」
「マジっすか!?」
「うんマジマジ、大マジよ。ここは押して押して押しまくって、最後にはベットに押し倒しちゃえ!」
 見事に話術にはめれていた。この美香という女性は、都会で暮らせば悪徳セールスでかなりの功績を残せるのではないだろうか。
「今度行ってみたらやってみます!」
「いやいや、まだ少し早いわよ。もう少しムードを作って、ハルちゃんが弱いところを見せたら一気に……」
 一瞬場がシンとなる。が、いきなり二人は大声を出した。
「素晴らしいです姉さん!!」
「任せておきなさい弟よ。この姉さんに掛かればどんな女の子だって一ころよ!!」
 馬鹿笑いする。二人揃って親指をグっと付き合わせて不敵に笑う。
 付け加えおくが、この二人は今日が本当に初対面である。正真証明の姉弟でも、腹違いの義理姉弟でも、小さい頃に生き別れにあって再会した姉弟でもない。類は友を呼ぶとはこういうことだと思う。
 一頻り笑った後、やっと落ち着いた。先に素に戻ったのは美香だった。
「で、どうしてここに来たの?」
 その言葉で祥季も正気をを取り戻し、
「ああ、これを届に来たんですよ」
 祖母から与っていた封筒を渡す。それを見た美香は「ああそれね」と肯いて受け取った。
 するとそのまま美香は歩き出し、公民館の奥へと進んで行く。用件はもうないのだが、少し興味を引かれたのでその後を付いて行ってみた。奥にドアがあって、そこを通ると少し小さ目のホールになっている。円形になった壁に沿ってずらり本が積め込まれており、ちょうどホールの中央にカウンターのような場所があった。
 美香はそのカウンターまで歩み寄り、封筒の中の紙を取り出して何やら作業をし始める。暇だったので少し探検してみる。ドアから右に沿って歩いてみた。壁の本棚に突っ込まれた本は、どれもこれも小中学校の図書館にありそうな物ばかりだった。
「美香さん、ここって何ですか?」
 視線は向けずにそう訊ねてみる。と、美香も作業を続けたままで、
「んー、簡単に言えば図書館ね。暇だったら少し読んでいてもいいよ。あたしもまだここにいるし」
 そう言われても、別に興味を引かれる本はなかった。しかし暇だったのでそのまま一通り眺めてみる。時折、小学校の頃に読んだ懐かしい本を見付けは手に取り、こんな感じだったなと昔を思う。それを何回も繰り返していると、すぐにホールをぐるっと一周してドアまだ戻って来た。
 またやることがなくなって、ふと視線を向ける。ドアの左側の本棚に入っている、他の本とは違う分厚く黒いファイル。見出しはただ『集合写真』と書かれていた。不思議に思って引き摺り出してみると、それなりに重さがあって危うく落としそうになる。
「集合写真……?」そうつぶやいて一ページ目を開けると、そこには二枚の写真が貼り付けられていた。学校で撮るような集合写真だった。それが一ページに二枚貼り付けてあり、重さから考えると相当な量だ。
簡単に言えば、これはアルバムなのだろう。
「それね、この町で恒例なの。毎年、年に一度だけお正月に町の人達がこの公民館に集まって写真を撮るんだ。ずっと昔からの伝統だね。一番最初のページにある写真の左端にあたしも写ってるでしょ?」
 聞こえた美香の声でなるほどと肯き、確認してみると本当に写っていた。お正月というだけあって着物を着ていた。ふと思って探してみると、そこには祥季の祖父も祖母もちゃんと写っていた。もちろん春菜もちゃんといる。春菜の着物姿が可愛かったので、この写真を盗もうとしたがあの警官も写っていることに気付いてやめた。
 興味を引かれたのでそのままページを捲ってみる。一年毎に若返って行く町の人を見ると何だか楽しかった。祖父と祖母も、あまり変わっていないようで変わっていた。何かこの伝統っていいな、と祥季は思う。どんどんその写真に引き込まれて行った。
 そして三ページほど捲った辺り、つまり六年もの時間を遡った時だった。祥季の脳裏に、不穏な考えが過ぎる。
 違和感。
 これは紛れもない現実の証拠であり、嘘はないのだろう。しかし、ならばなぜだ?
 最初のページに戻る、そして三ページ目の写真と最初のページの写真を見比べてみる。真っ暗な点が浮き上がり、それがどんどんと大きくなっていく。心臓の鼓動が大きく、そして速くなってきている。嫌な汗が体から流れ、自然と手が震え始める。
 六年だぞ……? 三ページ分、つまりは六年だ。
 真っ暗な点は、すでに点ではなくなっている。アルバムを床に叩き付けるように置き、膝を着いてさらにページを捲って行く。その異常な行動を心配に思った美香が声を掛けるが今の祥季には聞こえない。祥季の耳に届いているのは外から聞こえているせみの声だけた。
 手だけではなく体全体が震えている。脂汗が頬を伝った。体を、真っ暗な感情が支配する。
 祥季はさらにページを捲る。時間は一気に遡って行く。
 十年、十二年、十四年――二十年――三十年――五十年。
 白黒の写真になってもなお、祥季は手を止めなかった。
 嘘だろ……。怖くて、どうしようもなくなって涙が出た。体が本当に自分のものかどうかさえわからないくらいに震えている、涙が汗と混ざって床に滴り落ちる。現実を受け入れられない。いや、受け入れれるはずがない。そもそもこれが現実かどうかさえわからなくなっていた。
 そしてアルバムは最後の一ページまで遡る。もう何年遡ったのかはわからない。わからいないけど、たった一つだけ、わかることがある。
 どうしてか涙がボロボロと溢れた。目尻が熱くて熱くてどうしようもなくて。体が嘘みたいに震えて。
 せみの声がどんどん大きくなって。
 抑え切れなくて、祥季は泣き叫んだ。
 それ以外に、思い付かなかった。
 すべてを声に出して、何もなかったことにできるならどれほど楽か。
 涙が止まらない、
 嗚咽が止まらない、
 震えが止まらない。
 壊れていた。世界は、壊れていた。
 恐怖と、理解できない感情が心の底から溢れ出てきた。
 嘘だろ、嘘だろ、嘘だろっ!!
 どうして……っ、どうして……っ!!
 泣き叫ぶ以外に、思い付かなかった。


 床に置かれたアルバムの白黒写真の上に、祥季の涙が落ちる。
 その涙が落ちた所には、春菜が写っている。


 春菜は、アルバムの最初から最後まで、全く同じ姿で写っていた。
 春菜は、歳をとってはいなかった。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 
     「ポロポロと」




 現実を受け入れられなくて、怖くて、涙と嗚咽と震えが止まらなくて。
 祥季は必死に立ち上がって走り出す。後ろから聞こえる美香の声を無視してさらに突っ走る。公民館のホールを抜けて廊下に転がり出し、そのまま一直線に玄関へと向った。下駄箱に入れてあったスニーカーを引っ張り出して踵を踏ん付けて履いて夏の空の下に飛び出した。広場を突き進む度に祭りの残骸に足を取られて転びそうになる。半分ほど広場を走り切った時に、木材に蹴躓いて派手に転がる。いろんな小物を吹き飛ばし、祥季は地面に倒れた。体中が痛かった、どこから血が出ているのかもしれない。しかしそんなことはお構いなしに立ち上がり、再び死にもの狂いで走り出す。公民館の広場を抜けるとそこは砂の道で、目の前には祥季のスクーターがある。いつの間にか片方のスニーカーが脱げていることにさえ気付かない。スクーターを力一杯蹴り飛ばした。スタンドが固定さていなかったのかスクーターは簡単に倒れた。また走り出そうとして足が縺れてその場に倒れる。気力が尽きていた。その場に膝と肘を付いて拳を握る。涙と嗚咽と震えが止まらない。怖くて怖くてどうしようもなかった。夢なら醒めてほしかった。
 せみの声がどんどん大きくなる。
 知らなければよかった。見なければよかった。何も知らず、何も見ず、のうのうと春菜と一緒にいればよかった。現実と事実を受け入れず、時が来たら自分の住む世界に帰ればよかったのだ。そうすればこんな思いはしなくて済んだはずだ。悲しくて哀しくて、怖くて苦痛で、言い表せない感情が心の中を渦巻く。
 これからどうしろというのだろう。こんなことを知って、今まで通りに接してやれるのだろうか。
 まず最初に、何を置いても訊いておくべきだった一言、「君はだれ?」
 いつの間にか祥季の目の前に現れ、死にそうになっていた祥季を導いてくれた。一緒にスクーターで二人乗りして隣り町まで行った。公園でハンバーガーを二人揃って食べた。そこで初めて笑顔を見た。可愛かった。探し回っても会えなかったけど、畑仕事をしてたら偶然にも会えた。嬉しかった。遅らせながらそこで自己紹介した。ハンバーガーをまた買って行ったら喜んでもらえた。ポテトを強奪したら怒られた。涙目で睨まれた。ものすごく可愛かった。泊めてほしいと言ったらにっこりさらっと断られた。夕食を食べさせてもらった。美味しかった。夏祭りは二人で行った。楽しかった。綿アメを強奪したら怒られた。涙目で睨まれた。ものすごく可愛かった。視線が痛たくて怖かった。帰り道に花火を見た。綺麗だった。別れ際に「ありがとう」と言われた。すごく嬉しかった。
 そして気付くべきだった。あの日の春菜の行動。体を震わせてつぶやいた。――祥季を巻き込まないで。あれは何を意味していたのか。どうしてもっと深く考えなかったのか。あの時に気付いていたのなら、こんな思いはしなくて済んだのかもしれない。でも、心の奥底ではわかっていた。春菜が普通ではないと。わかっていながらそれを見て見ぬフリをしていた。
 ただ、春菜がそこにいてくれるだけでよかった。春菜の笑顔を見ているだけでよかった。春菜のことが、好きになっていた。
 表面ばかりを気にして、それでよかったと満足していた。ずっと音楽に乗って踊っていたかった。そして気付いた時には、音楽は鳴り終って自分の座るイスはどこにもなかった。楽しかったから、嬉しかったから。だから春菜と一緒にいたかった。ただそれだけよかったのに、いつからレールを踏み違えていたのだろう、どこから自分は脱線してしまったのだろう。
 春菜は、一体何者なのだろうか。


 せみの声が大きい。太陽の光が熱い。
 涙と嗚咽と震えは、いつの間にか止まっている。
 しかしいつまで経っても、祥季は起き上がろうとはしない。


     ◎


「落ち着いた?」
 缶コーヒーを飲み干した美香にそう言われた。
 同じく缶コーヒーを手に持って呆然としている祥季は何も返答しなかった。
 ため息を一つ、空になった缶をゴミ箱にぶち込んでから美香は祥季の隣りに腰掛けた。そしてどこを見るでもなく、空間をただ眺める。
 今、祥季は美香に連れられて公民館の中にいる。待ち合い室のような場所まで案内され、そこで自販機からコーヒーを二つ買って片方を祥季に渡してくれた。しかし祥季は受け取っただけでプルトップは開けない。その缶を握り緊め、美香と同じように空間を眺めている。
 そんな時間が数分続き、先に口を開いたのは美香だった。
「……あたしのミスだったわね……まさか君がハルちゃんのこと知らなかったなんて思ってもみなかったから……。もちろん全部承知して、そして彼女を受け入れたと思ってたからさ……」
 足を組み直して続ける。
「でもまあ、ハルちゃんからそんなこと言わないだろうし、君はこの町の人じゃないから知らないのも無理はないんだろうけど。……ああ、でもやっぱあたしのミスだわ。ごめんね、辛い思いさせちゃって」
 祥季はコーヒーの缶を床に落とした。それに気付いて美香は口をつむぐ。
 視線は相変わらず空間を眺めているが、祥季は間違いなく美香に問うた。
 最も知りたいこと。まず最初に何を置いても訊いておくべきだったこと。
 言葉にすればたった一言だった。
「ハルハルは……何者んですか……?」
 美香はすぐに答えを口にする。
「知らない」
 その声に、初めて祥季は美香に視線を向けた。美香は膝に肘を付いて、その手に顎を乗せて少し考えているようだった。そのまま待つことしばし、美香は話し始める。
「あのね、ハルちゃんって君が思った通りに歳をとってないの。でもその原因はみんな知らない。病気かもしれないし、もっと違うものかもしれない。でもね、この町の人はそれを受け入れ、偏見を持つことなく接する。だって、みんなハルちゃんが好きだもん」
 美香は微かに微笑み、その後で真剣な瞳を祥季に向けた。
「君も憶えておいて。この町にいる限り、君は森林町の住人なの。そしてこの町、森林町は来る者は拒まない。それがどんな者でも、例え物の怪の類であろうともね。それに君がさっき見た集合写真、あれは『絆』なんだよ」
「絆……?」
「うん。年に一度あの写真を町の人全員で撮るの。それはね、『家族』っていう『絆』の証なんだ。この町に住むすべての人が家族で、困った時は助け合い、どんなことにも一緒に乗り越えていく。それがこの町の伝統。だからね、ハルちゃんもまた、あたし達の家族なんだ。家族を嫌う人なんていないでしょ。それと同じなんだ。ハルちゃんは家族だから、一緒にこの町で歩んで行くの。それは歳をとってなかったら少し戸惑うこともあるけど、あたし達は偏見を持ったりしない。それどころかハルちゃんが羨ましいくらいよ。だってずっとピチピチの綺麗な肌でいられるんだもん。って、それは置いておいてね、ハルちゃんて良い子じゃない? だからみんなはハルちゃんが大好きなんだよ。それは、君が一番良くわかってるんじゃない?」
 それだけ話し終えた美香は、ふうっと一息付いた。
 そんな美香から視線を外し、祥季は一人で春菜を想う。
 答えは、簡単な所にあったのかもしれない。些細なことに惑わされ、それを見付けれなかっただけかもしれない。答えは、手を伸ばせばすぐ届く所にあったのだ。美香の言葉は、その手の伸ばし方を思い出せてくれた。
 春菜が何者だろうと関係ない。本音は、いつも決まっていた。春菜と一緒にいたい、春菜の笑顔が見たい。春菜が好きだ。たったそれだけのことを隠そうとしていた。もう何も隠さなくていいのではないか。本音を、ぶつけてもいいのではないか。
 春菜と一緒にいられる時間は楽しかった。話していて時間を忘れるのはそれの何よりの証拠ではないのか。何を戸惑っていたのか、何を怖がっていたのか。春菜は春菜だ。他の誰でもない、この森林町に住む春菜だ。祥季が大好きなハルハルなのだ。
 答えは、そこにあったのだから。手を伸ばせば、そこにあるのだから。
 祥季は無言で動いた。さっき自分が落とした缶コーヒーを拾い上げ、プルトップを開けた。そのまま何も考えずに一気に中身を飲み干す。空にしてから一息付き、呆然とその光景を眺めていた美香に視線を移した。
 祥季は笑う、
「美香さんって、都会で悪徳セールスとかやれば結構稼げると思うよ」
 一瞬呆気に取られた美香だが、すぐに冗談混じりに笑って、
「なによそれ、誉めてるの?」
「もちろん」
 立ち上がってから空の缶をゴミ箱にぶち込む。
 考えるのはもうやめだ。ブルーになっては意味がない。思った通りに、本能のまま行動する、それが祥季である。それさえも、美香は思い出させてくれた。
 祥季は頭を下げた。
「ありがとうございました」
 照れたように美香は首を振った。
「や、やめてよ、お礼言われるってあんまり好きじゃないんだから」
 そんな光景を見て、祥季はまた笑う。
「さてと。それじゃ行きますか」
「お、元気になった?」
「元気バリバリです。愛しのハルハルが待ってますからね」
「熱いねぇ、青春っていうのは」
「まだまだ美香さんも若いですよ。なんたって十八歳の乙女ですから」
「う〜ん、素晴らしい! 君はやっぱり良い子だね。もしハルちゃんのことで困ったことがあれば、いつでもこの姉さんに任せなさい。報酬はどこまで進展したかの情報提供でいいわ。ファイトよ弟!」
「了解です姉さん!」
 二人揃って親指を突き付ける。馬鹿みたいに笑ってから祥季歩き出す。後ろから美香が「まだ押し倒すのはダメよ〜」と声を掛けて来たので、「いいムードになって、ハルハルが弱気を見せたら、ですよね?」と返す。また二人揃って親指を立てた。良い人だ、と祥季は思う。
 待ち合い室から出て廊下を進み、玄関まで歩く。スニーカーの片方は美香が回収してくれたのでちゃんとある。スニーカーに足を突っ込んでつま先を地面に打ち付けちゃんと履く。そのまま公民館から夏の空の元へ。気持ち良い夏の風と緑の香り、もちろんせみの声だって聞こえる。今度はゆっくりと、転ばないように広場を歩く。さっき祥季が転んだと思われる場所があったので、見付かるとまずいので他の機材でカモフラージュする。これで完璧。ふと転んだ拍子に体から血が出ていないかを確認する。だいじょうぶだった。無傷で元気バリバリだ。
 広場を抜けると砂の道で、そこには倒されたスクーターがある。だ、誰だこんなことをしたヤツは!? と一瞬本気で思い、その後に自分がしたことを思い出して赤面する。どうしてこんなことをしてしまったのか、傷が付いてたらどうしよう。頑張って持ち上げてからスタンドで立て掛ける。砂を叩いてボディをチェックする。幸いにもスクーターも無傷らしい。よかったよかった。
 ポケットからキーを取り出してシリンダーに突っ込んで回転させる。メインスイッチがONになってからブレーキを握ってイグニションボタンを押してエンジンの息を吹き返す。振動と排気音が祥季を包み、今回は吹かさずにスクーターを発進させる。
 行き場所は決まっている。春菜の家だ。取り敢えず会えたら抱き締めようと思う。なぜに!? っという突っ込みはもちろんない。会えなかったら張り込もう。春菜が帰って来たら偶然を装い声を掛け、あわよくば夕食を御馳走になろうではないか。ふむ、そして夜になって春菜が「今夜泊まって行きますか?」とコメントし、もちろんそれに速攻で返答して、夜中になって春菜が弱気を見せたら一気に――。待て、待て待て、公共の場に示す物語でそれはまずい。どうすれば十八歳未満でも拝見できるような物語にできるか、まずはそれからだ。
 などど考えている内に祥季のスクーターは石段に到着する。エンジンを切ってキーは抜かずにそのままでスタンドで立て掛ける。真っ直ぐ伸びる石段に視線を向け、そこに降り注ぐ木漏れ日に心を洗われる。綺麗だった。石段には登らず、しばしスクーターの隣りでじっとしていた。
 太陽の光と夏の風を体に受け、せみの声を聞きながら思う。
 高校を卒業したらこの町に戻ってこよう、と。どうも吹っ切れなかったが、今日の出来事ですべてが決まった。携帯を出して日付を確認する。夏休みも、残り二週間を切っていた。祥季は夏休みが残り一週間くらいになったら都会に帰らなければならない。理由は簡単で、宿題を全くしていないからだ。帰ったら友達に写させてもらうしか手はない。あのアホみたいな、どう考えても生徒への嫌がらせにしか思えない量の宿題を片付けるには、一週間でギリギリ間に合うかどうかだろう。しかし本当はもっとこの町にいたかった。本音を言ってしまえば『この町』ではなく『春菜』となのだが。今日、春菜に会ったら訊いてみよう。もし春菜がいいと言ってくれれば、その時は。
 携帯をポケットにしまう時に時刻を確認する。二時を少し過ぎていた。もうとっくに春菜は散歩に行ってしまったのだろう。帰ってくるのは五時頃くらいだろうか。辺りを見回してみるが春菜の姿はなく、どこまでも続く砂の道が地平線へと飲まれて消えている。
 振り返れば石段がある。一応確認してみようと思う。スクーターを置き去りにして、祥季は石段を登って行く。木漏れ日のトンネルを抜けるのは本当に気分がいい。しばらく歩くと春菜の家が見えてくる。
 心が自然と弾む。


 そして、祥季は春菜を見付けた。


 家のすぐ前、石段から平地へと切り替わるちょうどその場所。
 祥季が見上げるそこに、春菜はいた。
 祥季は歩むのをやめる。自分の目がどうかしてしまったのではないかと思う。
 進むことも、引き返すこともできない。体が凍ってしまったみたいに動かない。
 動くことすらまともにできない祥季の視界の中で、春菜はゆっくりと動いた。
 ――カラン。
 そんな無機質な音を奏で、春菜は鞘を捨てた。
 鞘がころころと地面を転がり、やがて静止する。
 太陽の光が綺麗に反射して祥季の目を直撃する。
 目の錯覚であろうはずもない。これは、紛れもない現実の姿なのだろう。
 せみの声すら聞こえない無音の世界。
 不思議と何も感じない。ただ、祥季は春菜を見つめている。
 祥季の視界の中にいる春菜は、祥季をゆっくりと見つめる。
 その手に、輝く刀を持って。
 日本刀なのだろう。それも、本物の。
 何も考えられなくなった。体が全く動かない。
 声すら出なかった。
 涙も嗚咽も震えも、そして恐怖さえも感じない。
 現実が、受け入れられなかった。


 春菜の手に持っている刀の切っ先が、ゆっくりと、祥季に向けられる。
 無表情の春菜。
 そして、


 春菜は、ポロポロと涙を流して、


 ――泣いている。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「大切な人」




「――……ハル、ハル……?」
 祥季の口からそんな掠れた声が盛れた。
 自分に向けられた刀の切っ先が、どうしても現実だとは思えない。
 体が凍ったように動かず、頭の中が真っ白になっている。
 無音の世界は続く。すぐ側で鳴いているせみの声さえも聞こえないその世界で、つぶやきだけは鮮明に聞き取れた。
「……に、げて……」
 刀を微かに震わせ、涙が流れる視線を祥季に向ける。
 無表情だが、その下に隠された本当の表情を確かに見たと思う。
 春菜は、震える声でこう言った。
「しょう、き……に、げて……っ!」
 その声で、祥季は我に返った。
 無音の世界から解き放たれ、凍っていた体が溶け出し、頭にある思考が流れ込んで来る。
 春菜を助けろ。それだけだった。
 石段を祥季は駆け上がる。一段ずつなど下らない歩幅ではない、三段飛ばしで駆ける。刀が震えながらもゆっくりと祥季に狙いを定める。関係なかった。何がなんでも、春菜を助けなければならない。さっき見た春菜の本当の表情。悲しみと恐怖と絶望と、そして希望を求める表情だった。自分がどうなろうと知ったことではない、ただ春菜を助けたかった。
 あと少しで春菜に手が届きそうになった瞬間、頭の中に何かをぶちまけられたようなノイズが走った。下半身から力が抜けて倒れ込み、石段を数段転げ落ちた所で止まる。体中を打ったはずなのに痛みは感じず、しかし脳内で弾けるノイズは一向に止まない。打った体よりも、頭が割れそうなくらいに痛い激痛に死にそうになる。口から自分のものとは思えない呻き声が出て、自然と手が耳を塞ぐ。だが中で起こっているそれは、外の音を遮断しても意味がなかった。無意味と知りわかっていながら、そうでもしなければ絶えられなかった。
 ノイズは、唐突に始まったのと同じくらいに、唐突に終った。まだ耳鳴り程度に聞こえて頭痛はするが、さっきに比べればほとんど通常に戻りつつある。しかしその代わりに、何かが聞こえた。ノイズが混ざった声と呼ぶような代物。そして、ノイズは完全に消え、それと引き換えにはっきりと聞こえた。
 ――おまえが生け贄だな?
 なんだ、誰の声だ……? そう思うがどうも意識がはっきりとしない。聞いたことがない声。どこかで聞いたことがあるのかもしれないが、記憶にはなかった。
 その声が続ける。
 ――くっくっく、随分と長持ちしたようだな。永かった……あれからもう五百年か……。しかし、わたしは再び解き放たれた。そして、おまえが生け贄だな?
 (生け、贄……?)
 ――そうだ。おまえはもう一人のわたしにとって、『大切な人』になった。喜べ、五百年もの間その感情を閉ざしていたのだから。それをおまえが解き放ったのだ。同時に、おまえはわたしも解き放ってくれた。礼を言うぞ、萩原祥季。
 (おまえは……誰だ……?)
 声が高ぶった。その声は、こう言った。
 ――わたしは神魔。神に仕えし悪魔だ。そして、わたしはおまえがいう春菜と同体なのだ。
 出てきた春菜という言葉に、力が入った。
 石段に倒れていたことを認識し、拳を握る。力が入らない下半身を無理やり奮い立たせ、その場に立ち上がった。目の前にいる春菜へと視線を移す。止まることなく流れる涙と、手に持った刀。不思議と理解はできた。せみの声のうるさい田舎だ。何でもありに決まっていた。
 春菜ではなく、刀を睨み付ける。
「それが、テメえだな……?」
 ――理解がいい。しかし一つだけ間違っている。わたしは、春菜でもあるのだ。
「お前も、一つ間違ってるよ……ハルハルは、ハルハルなんだよ……」
 足に力を込める。今度は刀ではなく春菜を見据える。
 頬を伝う涙。無表情だが、その下にある本当の表情。春菜は、泣いている。泣いているんだ。突き動く理由はそれだけで十分過ぎる。好きな人を、大切な人を、泣かされて黙っていられるか。普段は馬鹿で間抜けでどうしようもない自分だと思う。でも、たった一人くらいは護り切れる自信がある。無機質な相手に、負ける気はしない。
 祥季は笑う。
「ハルハル、少しだけ待ってろな。すぐに助けてやるから」
 春菜が、微かに肯いた気がした。さっきまでとは違う涙が頬を伝う。
 体はもう解き放たれている。自由に動く。負ける気はしない。春菜を助け出せる自信はある。
 春菜が、大切だったから。
 ――助ける? 笑わせるな。わたしをどうするつもりだ? 圧し折りでもするのか?
「その考えいいな。お前を、圧し折る」
 ――威勢がいいのは好きだが、それがわたし相手なら不快だ。身の程を知れ。
 拳を打ち合わせる。喧嘩したことはないが、こうやった方が気合が出ると思う。
「春菜を泣かせた代償は、払ってもらうぜ神魔」
 ――笑止。おまえが生け贄にされていることを忘れるな。そして、わたしの力を甘く見るな。
 春菜の震えが止まった。刀がゆっくりと動き、左から右へと振られた。その刀身が太陽の光を受けてキラキラと輝いている。春菜が、刀を構える。
 祥季は石段を駆け上がった。映画や漫画では、こういう時主人公は必ずヒロインを救出することができる。今の状況をそれに当てはめると、祥季が主人公で春菜がヒロインだ。助け出せるに決まっていた。ハッピーエンドを迎えられるに決まっている。確信はあった。
 最後の石段に足を掛けた瞬間、春菜が動く。体を翻して刀を振るう。避けれると思った。今のその光景が、スローモーションのように見えた。姿勢を低くして第一撃をやり過ごし、頭上を通り越した刀身を確認してから一気に春菜に近づき、
 ――終りだ。
 現実の再生スピードがスローモーションから早送りに切り替わる。今度は目でも追えなかった。
 気付いた時には体は止まっていて、体から力が抜けていた。
 体中に熱を感じるように思う。無意識にそこを見ていた。右腕を血が真っ赤に染めている。
 肩より少し下の腕を、白銀に光る刀身が真っ直ぐ貫いていた。
 春菜の悲鳴を聞いたような気がする。
 刹那、何かが頭の中に流れ込んで来る。


     ◎  ◎  ◎


 両親は幼い頃に病で他界したと聞かされた。その時まだ幼かったわたしは、両親の顔は覚えてはいない。
 たった一人残った肉親は、兄さんしかいなかった。わたしは、兄さんが大好きだった。優しかったし、何より兄さんから感じる温もりが本当に暖かかった。兄さんはわたしより十歳も年上だったので、両親に代わってずっと育ててくれた。お世辞にも裕福とは言えない暮らしだったけど、わたしは幸せだった。兄さんさえいてくれればそれでよかったから。兄さんと一緒だったら、わたしはずっと幸せでいられたから。
 わたしの家は石段から続く場所にある。兄さんは朝から夕暮れまでずっと仕事をしていて、一人で留守番をしていたわたしは、家の窓から見える木漏れ日のトンネルが綺麗だったのでいつもそこで遊んでいた。夕暮れになって、辺りが赤く染まる頃になると、わたしは散歩に出掛ける。兄さんを迎え行くために。仕事から帰って来る兄さんを待つのかわたしの日課だった。道の途中で兄さんを見付けると、そこまで走って迎えに行っていた。そんなわたしを、兄さんは笑って「しょうがない妹だ」と抱き上げてくれた。その時に感じる暖かさが何よりの喜びだった。
 手を繋いで田んぼ道を歩いて行く。隣りで笑っている兄さんが大好きだった。たった一人の家族で、大切な人だったから。
 家に帰るといつも兄さんには怒られた。料理をするのはわたしの役目だったけど、わたしはいつもそっちのけで兄さんを迎えに行っていてから。そんなわたしに、兄さんは怒りながらも料理を作ってくれる。何でも出来る人だった。兄さんに憧れていた。わたしも兄さんに教えてもらって料理はできるけど、兄さんには敵わない。テーブルに料理が置かれる頃には、兄さんは笑っている。料理を食べようとするわたしを、「よし、待て」と犬のように扱う時がある。兄さんは少し変わっていた。怒っている時も冗談なのか本気なのかよくわからない時がある。でも、それも兄さんの良い所でもあった。
 どんな時でも、家にいる時はずっとわたしの側にいてくれた。嵐などで怖い夜には一緒に寝てくれた。少し照れたように笑うわたしに、兄さんは「笑うなら一緒に寝てやらん」と言うけど、やっぱりずっといてくれる。兄さんが大好きだった。
 そんな幸せな日々が続いたある日、兄さんが仕事に行く際に「家を掃除しといてくれるか?」と頼まれた。わたしは得意顔で肯く。兄さんが帰って来たら驚くくらいに綺麗にしてやろうと思った。
 家の隅々まで拭いた。新築のように家は綺麗になる。やっぱりわたしは兄さんの妹なんだと思う。兄さんには敵わないけど、わたしも何でも出来る人だったから。得意げに、最後は兄さんの部屋を掃除する。何もない部屋だったけど、不必要な物を置かないのが兄さんの部屋だ。
 壁や棚などを丹念に拭いて綺麗にする。最後に床を掃除する。ふとした拍子に、わたしは水の入った桶を倒してしまった。水が床に広がり、掃除は困難になる。泣きそうになりながらも、兄さんが帰って来るまでに綺麗にしようと思いを胸に、
 水の滴る音を聞いた。不思議に思って耳を澄ませば、床に広がった水がどこかに滴り落ちているような音がする。疑問に感じて音の出所を突き止めることにする。しばらく探し回った結果、部屋の中央からその音は聞こえていた。
 この家に、地下室なんて物はなかった。だから下に水が落ちるのは不自然だった。その部分と他の部分の床を叩いて音を比べてみる。地下室なんてないはずなのに、確かにこの中央だけは音が違った。下に何かあるのかもしれない。そう思ってどうやって開けるのか思案してみる。
 小さな窪みを見付けたのはその時だった。小さな小さな、よく見なければ気付かないような窪みだ。そこに、興味を惹かれた。兄さんの部屋を探してみると、よくわからない堅い棒があった。それを窪みに押し込み、引き上げてみる。が、力が足りないのか元々開かないのか、床はビクともしなかった。
 益々興味を惹かれたわたしは、何としてでもそこを開けてみたくなる。その後もいろいろな手で試みたけど、結局そこが開くことはなかった。がっかりして外を見れば、もう夕暮れになっていた。そろそろ兄さんが帰って来る時間だった。そして床を開けることに夢中になっていたわたしは、部屋が水浸しになっていることをすっかり忘れていた。どうしようかと悩んだけど、やはり兄さんを迎えに行くことが優先された。怒られるならあとでもいい。そんな考えがあって、部屋をそのままにして出ようと歩いた瞬間、
 ――パキッ。
 何かが割れる音がして、ゆっくりと、床が開いた。出ようとしていた足を止め、引き返す。心臓の鼓動が速くなっていることを不思議に思う。恐る恐るその中を覗き込む。真っ暗なはずのそこを、窓から射す夕日が照らしていた。
 その中に、細長い木箱があった。何か紙が張ってあり、それを何とか読んでみる。しかし所々欠けていて、読み取れたのは『神』『仕え』『悪』の三文字だけだった。その文字の意味を考えるより、この箱の中身がどうしか気になった。
 緊張したように震える手をそっと伸ばし、木箱に触れて持ち上げる。重いと思っていたのに、それは以外にも軽かった。床下から出して床に置く。息を吹き掛けて埃を払い、無意識に木箱を開けた。
 中には、刀と思われる物が入っていた。兄さんがずっと昔に誰かから借りてきて見せてくれたことがあるけど、それとはまた違う。なんと言うか、不思議な感じのする刀だった。
 駄目だとわかっていても、勝手に体は動いてしまう。兄さんに怒られてしまうという気持ちは決して小さくなかった。しかし、体は独りでに動いてしまう。手が刀の鞘に触れ、そっと持ち上げる。思っていたよりもずっと軽い。さらに興味を惹かれる。この鞘を、開けてみたかった。
 その時、わたしは我に返った。慌てて首を振る。これ以上は本当に駄目だった。床下にあったということは、兄さんが意図的に隠した物なのだろう。それを偶然にも見付けてしまったのは仕方ないけど、これ以上するのは本当に駄目だ。
 それは、兄さんを裏切ったという意味だ。もし本当に興味があるなら、兄さんが帰って来て、ちゃんと兄さんに訊いてみて、それから。だから、今はちゃんと片付けておこう。兄さんももうすぐ帰ってくる。今は早く迎えに行こう。
 そして、そう心で決めたのに、体の中の何かは納得しなかった。思考とは別に、体は動いてしまった。
 自分でも信じられないその行動に驚いた。誰かに操られているような感覚がある。
 刀を捨てようとするが無駄だった。手はすでに鞘を握って今にも引き抜こうとしていた。
 わたしは悲鳴を上げる。本当に怖くなった。涙が溢れて、体が震えて、
 そして、わたしの手は、
 ――鞘を解き放った。


 そこから後のことは、記憶が曖昧になっている。
 途切れ途切れに思い出せる記憶の断片がまるで写真のように頭の中で浮んでは消える。
 呆然と立っていたような気もするし、何かをしていた気もする。
 記憶の断片で印象に残ったのは、兄さんだった。入り口の前に立った兄さんが、わたしを驚いた表情で見付け、何かを叫んだ。何て言っていたのかはわからない。
 それからまたいくつも断片が頭の中に飛び込んで来て、ふと意識が戻った時にはすべては終っていた。
 微かに残った夕日に照らされた室内で、わたしは手に刀を持って座り込み、腕の中には兄さんがいた。
 異常な光景だった。刀には血がベッタリと付いていて、そして兄さんの体は血塗れだった。刀をその場に落とし、目の前にいる兄さんを抱き起こした。兄さんは「ゴフッ」と口から血を吐き出し、ガクガクと震える手でわたしの頬に触れた。恐ろしいくらいに冷たいその手。温もりをわたしに与えてくれたその手は、信じられないくらいに冷たかった。
 掠れた声で、兄さんは何かを言っていた。必死に聞き取ろうとしたけど、わたし自身が状況を理解できていなくて、何もわからなかった。ただ目の前にいる兄さんだけが心配だった。どうしてこうなってしまったのか、わたしには全くわからなかった。
 わたしは泣いた。どうしていいかなんてちっともわからなくて、兄さんがどうしてこうなってしまったのかなんてわからなくて。泣いて泣いて、それでも涙は流れ続けた。
 そんな時、兄さんの指がわたしの涙を拭った。
 兄さんの、その時に見せた笑顔の意味を、わたしは今でもわからない。
 そしてその笑顔を最後に、兄さんは目を閉じた。
 どれだけ揺すってみても、どれだけ叫んでみても、兄さんはそれから起きることはなかった。
 泣いて泣いて、泣き続けても涙は流れた。
 たった一人の家族の兄さん、大好きな兄さん。
 わたしの大切な人だった。


 その日、わたしは家族を失った。
 その日、わたしは兄さんを殺めた。
 そしてその日から、わたしの成長は止まる。


 世界は、真っ暗な闇に包まれて消える。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「一緒に」




 最初の百年は、まずは絶望だった。
 たった一人で生きるという孤独の世界。誰もいなくて何も感じない。本当に自分が生きているのかどうかさえ危うかった。何度も何度も死のうと思った。それですべてが終るならどれほど楽だっただろう。死のうと思った回数分、自殺未遂をした。未遂というのは本当だ。現に死ねてないのだから。死のうとすると、絶対に何かしらの力が働いて死ねなかった。崖から飛び降りても、刃物で胸を突き刺してみても、首を吊ってみても、ただの一度も死ねず、それどころか体に傷一つ付かなかった。これが、自分の犯した『罪』なのだと思い知った。この贖罪に、絶えれるとは到底思えなかった。生き地獄とは、本当にこういうことだと思った。
 次の百年は、後悔だった。
 どうしてこうなってしまったのか、どこで何が狂ってしまったのか。一体、自分は何をしたのだろう。どこからが間違っていたのだろうか。あの時桶を倒さなかったら、あの時何も気付かなかったら、あの時床を開けてみようなどど思わなければ、あの時兄さんを迎えに行っていれば、あの時木箱を見付けなければ、あの時木箱を開けなければ、あの時刀に触れなければ、あの時鞘を抜かなければ、こうならずに済んだのかもしれない。どうしてあんなことになってしまったのか。どうして自分が、自ら大切な人の命を奪わなければならなかったのか。もっと慎重に行動していれば、こうならずに済んだのに。全部自分のせいだ。自分のせいで、大切な人は死んでしまった。
 今度の百年は、生き方だった。
 これからどうするか。死ねないこの体を引き摺って、自分はこれからどうなってしまうのか。人と接しても絶望と後悔を負うだけなのはすでに嫌というほど味わっている。しかし、この生き地獄から逃れる術はそれしかなかった。大切な人を作り、その人を自らの手で殺める。そうすればこの地獄は終る。だが、それをしてしまえば自分は本当にもう戻れない。この地獄よりも遥かに深い地獄が待っている。人と接するのは、もう嫌だった。大切な人なんて、兄さん一人だけだった。この世界に、大切な人なんてもういない。この世界でそんな人は、絶対に現れない。苦しむのは自分一人だけでいい。誰にも会わず、誰とも話さず、自分の心を閉ざし、人々を拒絶し、世界を恨んで生きて行くしかなかった。
 そう、選んだ。このまま一人で、ずっと生きて行こう、と。
 自分が住んでいたこの家は、山奥だった。兄さんが自然が好きだからと言って、両親が他界した時に自分一人で作った家がここだ。この家で三百年ずっと住んでいた。壊れてしまった個所は自分で直した。兄さんに工具の使い方も全部教えてもらっていたので難なく直すことができた。しかし兄さんの部屋だけは何も変わっていない。あの日からずっとあのままだ。毎日の掃除は欠かしたことはない。いつ兄さんが帰って来てもいいように、そう願を込めて毎日綺麗にした。愚かなことなのは百も承知だった。だがそうでもしなければ、自分を保てなかった。そして、兄さんの部屋と同じように、自分の姿形はあの日から少しも変わっていない。髪も爪も伸びなければ、体の変化すらなかった。どんなに暑い中にいても汗もかかない。どんなに寒くても震えもしない。季節なんて関係なかった。ただ、季節があるということは、あれから何年経ったかを実感できるだけだった。
 たった一人で、三百年もの時を過ごした。季節は巡りに巡って、
 そして、この百年で世界が動き出していた。


 この山に、人が住み始めていた。
 やがて人の数は増え、その人達は石段の先にある家に気付く。何人もの人がわたしの元を訪れに来た。何度か会ったこともある。久しぶりに、三百年振りに人と話しをしたと思う。しかしわたしはもう生き方を決めていた。
 心を閉ざし、人々を拒絶し、世界を恨んで生きて行く。
 そうしなければ、またあんな想いを繰り返すことになる。そんなくらいなら、そうやって生きて行く方が数段よかった。
 しかし、この山に住んでいる人々は諦めなかった。皆、心優しい人だというのは簡単にわかった。でも、わたしが心を開くことはなかった。拒絶をやめることはなかった。世界を恨み続けた。そんな感じで、わたしと人々がこの森で数年暮らしていた時、やっと人々はわたしの異常に気付いた。当たり前だ。なにせわたしは歳をとっていないのだから。いつまで経っても、姿が変わらないのだから。これで人々も諦めてくれるだろうと思った。わたしに偏見を持ってもう接してこないだろうと思った。
 大きな間違いがあったのはそこだった。人々は、それでもわたしに何も変わらずに接してきてくれた。しかしわたしは自分の生き方を貫き通していた。それがまた数年続き、そんなある日、一人の男の人がわたしに会いに来た。その人は、この町の名前が決まった、聞いてほしいと言う。返事を返さずにいると、彼はこう言った。「この町は森林町、緑に囲まれた町だ」その言葉に、わたしは驚いた。森林町と名付けられたこの町。それは、兄さんの意見だったからだ。この家に引っ越して来た時に、兄さんが言っていた。『もしここが町になったら、森林と名付けよう。緑に囲まれた町、だから森林町』
 その時、わたしは自分でもどうしてそうなったのかはわからない。ただ、この町に兄さんを感じたからかもしれない。
 気付いたら、わたしは涙を流して泣いていた。
 そんなわたしを見て困ったようにオロオロしている彼の周りに、いつの間にか町の人達がいた。皆、本当に心優しい笑みで迎えてくれた。この町が大好きだった。兄さんがいるこの町が、何よりも大好きだった。
 この年、わたしは森林町の本当の家族になった。


 森林町にある伝統が出来たのは、それからしばらくしてからだった。
 年に一度、お正月になったら役所に町の人達が集まって、カメラで写真を撮るというものだった。撮影する前に、少し小さな会議みたいなのが開かれた。そこで皆で決めたことが一つだけある。
 この写真を撮ったら、そこに写っている人は皆『家族』なのだと。この写真は、家族という『絆』の証なんだと。この町に住むすべての人が家族で、困った時は助け合い、どんなことにも一緒に乗り越えていく。それをこの町の伝統にしようと。
 町の人全員が賛成した。誰も反対する者はいなかった。もちろん、わたしも賛成した。嬉しかった。この三百数十年、家族というものを失ったままだったわたしに、また家族と呼べる人達ができたのだから。嬉しくて楽しくて、今までが嘘のように生きる喜びを知った。
 でも、わたしが大好きなのはこの町であり、この町の家族だった。だから、他所の町の人はまだ拒絶したままだった。この町の人だからこそ、この町の人達だからこそ、わたしはまた笑うことがきでた。だからわたしは、自分でも驚くくらいに他の町から来る人を拒絶していた。
 そしてまた季節は巡る。その度に、写真は一枚ずつ増えて行く。最初からずっと写っているのはわたしだけだった。でも、それでよかった。それから何十年経っても、この森林町に住む皆はわたしに変わらずに接してくれた。だからわたしも、それに応えるように自ら町の人達に接して行った。優しい皆の笑顔を見ているのが嬉しかった。
 ずっと昔からの『兄さんを迎えに散歩をする』という日課は、少し理由が異なったけど元通りになった。『この町の人達に会うために散歩をする』という理由になっていが、兄さんもそれで納得してくれると思う。兄さんなら、それでいいって頭を撫でてくれると思う。


 季節は巡る。
 いつしか写真は白黒からカラーになっている。
 あれから、あの忌まわしい日から五百年経った。季節は夏。
 聞き慣れているせみの声が、今日も元気に響いている。緑に囲まれたこの森林町は、他の町とは違った。時間の流れが普通より遅いのだ。隣り町は急速に変化してしまったが、この町だけはのんびりと変わっていく。わたしはそれでいいと思う。この町から緑がなくなることはないのだろう。だって、それは兄さんの願いでもあるのだから。
 陽射しが強い夏の空の元へとわたしは歩み出る。町の人達がプレゼントしてくれた麦わら帽子を被るのは、それも絆の証であるからだ。いつものようにこの町を散歩する。会う町の人は皆優しい笑顔を向けてくれる。それに一つ一つ、わたしは挨拶を返した。この町は、いつまでもこうあるべきだ。わたしの大好きなこの町は、ずっとここにある。わたしがこの町の家族になった時から、ずっと大好きなこの町。この町で生きて行こうとわたしは思う。
 その日は天気がよかったので、いつもより長く散歩していた。
 そして、その人を見付けたのはそんな時だった。
「やべッ……何考えてんだ……」
 道脇に生えた木に凭れながら倒れている人。
 見たことがない顔。他所の町の人だった。わたしの心が自然と拒絶する人だった。わたしは引き返そうとして、ふと気付いた。
 その人の面影が、兄さんに似ていた。どこがどう、と言われれば返答には困る。だけど、その人は兄さんに似ていた。少しだけ、話しがしてみたいと思った。好奇心からその人に近づいてみる。しかしその人はわたしの足音には気付かない。目を閉じてうんうん唸っている。
 その人の前に立って、しばらくするとその人はこう言った。
「……死ぬのかな……」
「こんなところで死ぬんですか」
 何となく、そんな言葉が口を出た。
 その人は返答する。
「たぶん」
「そうですか」
 これだけ会話できればいいと思った。もうこれ以上関わらないでおこう。そう思ってわたしは歩き出す。
 そして、いきなり荒々しい足音が聞こえた。
「ま、待ってくれっ!!」
 わたしは振り返る。
 その人は、頭を下げるなりこう言った。
「助けてくれ!! まだ死にたくない!!」
 頭を上げた時、その人と目が合った。
 その人の瞳は、兄さんと似ていた。澄んでいて、綺麗で、でも少し変わっていて。
 その人は、次の日に、わたしの前にもう一度現れる。
 その人は、わたしのことを『ハルハル』と呼ぶ変わった人だった。


     ◎


 最初は戯れのつもりだった。
 だた、兄さんに似ていたから少し話しをしてみたいと思っただけだった。でも、その人は兄さんとは違う。それに気付いた時には、逆にその人に興味を惹かれていた。その人といる時間は、純粋に楽しかった。話していると時間を忘れていた。
 変わった人だったけど、優しい人だと思った。その人が畑仕事をしているのを見付けたのは、隣り町に行ってから三日後のことだ。炎天下の下で、この町の萩原さん夫婦と一緒に農作業をするその人がいた。もう一度、話しをしてみたいと思う。それで切っ掛けがほしかった。少し考えて、近くのお店でお茶を買った。それを持って引き返すと、その人はわたしに気付いた。どうしていいかわからず、ただわたしは苦笑気味に手を振った。この日、わたしは生まれてはじめて冗談を言った気がする。
 次の日、少し寝坊してしまって散歩に行くのが遅れた。急いで支度して石段を降りたら、そこにその人がいた。驚いて近づいてみると、その人はあの隣り町の食べ物を買ってきてくれていた。嬉しかった。一度しか食べたことがなかったけど、わたしにとってはお気に入りになっていた食べ物だから。思い切って、わたしの家で食べてみないかと誘った。初めて、この家の中に他人を入れた。兄さんとわたしだけの場所に、初めて人を迎えた。楽しかった。途中でその人がわたしのポテトを食べてしまった。自分でも驚くくらいに怒ったような気がする。この日、生まれて初めて兄さん以外の人に料理を御馳走した。美味しいと言ってくれた。すごく嬉しかった。
 そして、わたしは忘れていた。大切な人を作ってはいけないという決まりを。気付かない内に、その人が好きになっていた。次はいつ会えるんだろうって、いつもそんなことを思っている自分がいた。その感情を認めた時に、もう一人のわたしは動き出している。――今度はあいつが生け贄か? ――違う! ――だがおまえの心は開いているではないか。あいつが生け贄だな? ――違うの! お願い、お願いだから、彼を巻き込まないでっ! ――無駄だ。おまえはすでに心を解き放とうとしている。そして、これでおまえの罪は終る。喜べ。 ――お願いだからっ、祥季を、巻き込まないでっ!!
 肩を掴まれたのはその時だった。驚いて、怖くて、どうしようもなくて。そこにいたのが祥季だとわかった時、わたしは愚かにも希望を望んだ。しかし、その後で思い知った。それは駄目なのだと。あの過ちを繰り返すことになるのだと。絶望と拒絶を認識した。けど、それでもわたしは自分が抑えられなかった。気付いたら、祥季の胸で泣いていた。怖くて、助けてほしくて、でもそれは駄目で。
 ――本当は、
 だいじょうぶだって、抱き締めてほしかった。
 ――おれがいるから、
 だいじょうぶだって、肩を抱いてほしかった。 
 でも、それはしちゃいけないとわかっていた。もしそうなっていたら、わたしは、自分の手で祥季を殺めなければならなかったから。大切な人を、自らの手でまた殺めなければならかったから。
 祥季が、好きになっていたから。
 その日、わたしは大切な人を、自ら拒絶した。


 会いたかったけど、会えなかった。会ってしまったら、本当に抑えられなくなってしまうから。だから祥季が訊ねて来ても、わたしは祥季に会わなかった。もう、あんな思いをするのは沢山だったから。このまま祥季と別れた方が、ずっと楽だと思ったから。
 油断していたと思う。朝早くに来たのが、祥季だとは思わなかった。町の人だと思っていた。だけど、それは祥季で、夏祭りに行こうと誘われた。断る暇はなかった。家の中で、一人でずっと考えていた。そしてわたしは決めた。これを最後にしようって。これで、本当に祥季とお別れだって。最後の最後に、祥季にたった一言、「ありがとう」と言って終らせようって。そう決めて、わたしは最後に祥季に会うことを望んだ。
 祭りに行って、純粋に楽しんで、祥季が本当に好きになって。いつまでもこうしていたいと思った。だけど、もうそろそろ限界になっていた。これ以上祥季と一緒にいたら、本当に自分は過ちを繰り返してしまう。最後に、この祭りの光景を祥季と二人で眺め、わたしは決意する。今日の夜から、もう二度と、祥季と会わないでおこう、と。
 祥季と別れる時、今度デートしようと約束した。わたしは嬉しくて肯いたけど、それが叶わないことをわたしは知っていた。これでお別れなんだって、決めていたから。
 そして、


 わたしは愚かだった。
 そんな考えで、もう一人のわたしを抑えられるはずもなかった。
 発作のようにそれは起こる。頭の中でノイズが聞こえ、体を何かに操られているような感覚が包む。そこから後のことは、記憶が曖昧になっていて、途切れ途切れに思い出せる記憶の断片がまるで写真のように頭の中で浮んでは消える。
 呆然と立っていたような気もするし、何かをしていた気もする。
 記憶の断片で印象に残ったのは、祥季だった。
 その時、わたしは石段が平地へと切り替わる場所に立っていた。祥季は、その石段の途中からわたしを見つめていた。
 体が自然と動く。刀の切っ先がゆっくりと祥季に向けられる。
 やめたくてもやめられなくて、怖くて怖くて、祥季を失いたくなくて。
 でも、心のどこかでは助けてほしいと思っていた。
 わたしの意思とは別に、体は動く。
 祥季を、傷付けたくはなかった。
 けど、
 わたしは傷付けてしまう。
 もう一人のわたしが、祥季を傷付けてしまう。


 悲鳴を上げる。
 祥季が、何よりも好きで、何よりも大切だった。
 祥季と一緒にいたい、たったそれだけを望んで――。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「せみの声」




 頭の中に流れ込んで来たそれは、半分も理解できなかった。
 理解しようとすると痛みが遮り、腕を貫いている刀から血が滴り落ちる。体中が痛いのだが、なぜか貫かれている腕の傷口には痛みではなく熱を感じる。刀を滴り落ちる自分自身の血が以外にも水のような感じに寒気を憶える。
 ――上手く避けたものだ。が、痛みはあるのだろう?
 春菜の手が微かに右に捻られる。それに比例して刀身が傷口を右にぐるりと抉る。痛みと熱を超越して言い表せないものを感じた。口からは自分のものとは到底思えない声が溢れ、身を捻るがその瞬間に激痛が走って動けなくなる。
 刀が腕を貫いているという事実が、単純に恐ろしかった。痛み以上にその事実に恐怖する。そしてそれが雪ダルマ式に膨れ上がっていく。苦痛過ぎるその状況は、頭を真っ白にさせた。右手の感覚はすでになく、動かしてみようとすら思わない。麻痺しているのかもしれない。
 恐怖に苦痛し、苦痛に恐怖する。体が嘘みたいに震えた。
「かっ……はっ……」
 息苦しさを感じるのは思い込みなのだろうか。
 石段に膝を着く。目の前にいる春菜を見上げれない。石段を流れる血の赤さに気が遠くなる。他人の血なら絶えられるかもしれないが、それは間違いなく祥季の腕から流れ出ている血だった。右手が体以上に震えていたことに今更ながらに気付き、しかし真っ赤なその手を見る気には決してなれない。視線を石段にさ迷わせ、どうして自分がこんな状況になっているのかを必死に考える。
 春菜を助けようとして、一撃を避けて、それから後のことがぐちゃぐちゃになっている。頭の中に流れ込んで来た何かを一つ一つ追い掛けた。何が何だかわからないその映像は、結局一つには結び付かない。だが、そんな中で理解したことが三つだけあった。
 一つ、これは春菜の記憶。
 二つ、春菜は祥季の想像を遥かに超えて苦しんでいた。
 三つ、そしてその元凶は、祥季の腕を貫いているこの刀。
 歯を食い縛る、拳を力一杯握り緊める。右手が痺れたような感覚だが知ったことではない。
 春菜の力になりたいと言ったのはどこのどいつだったか。それは今ここで刀に貫かれただけで泣きそうになっている萩原祥季本人だ。ふざけるなよ、と祥季は思う。ただ刀に貫かれただけだ。それにそこは腕だ、そんなみみっちい傷で死ぬとでも思ったか。こんな下らない傷が何だと言うのだろう、こんな下らない痛みが何だと言うのだろう。春菜の心の傷に比べたら、春菜の心の痛みに比べれば、そんな些細な傷など無に等しいではないか。春菜の場所まで歩んで行こうと決めたはずだ。ならば、そこまで歩んでみろ。血を流そうとも、例え自分の命が尽き果てたとしても、春菜を助けなければ一生後悔するぞ。力になると言った以上、それを守るのが男だろう。普段は馬鹿で間抜けでどうしようもない奴でも、ここ一番でそれを覆してみせるのが男ではないのか。力を振り絞れ、痛みなど忘れて立ち上がれ。
 好きな人を護ってみせろ、大切な人を助け出してみせろ。どれだけ時間が掛かっても、そこまで歩んで行け。対等に話せるその場所まで、必死に這い上がれ。前を向け、後ろを向くな、先に進むことだけを考えろ。心を決めろ。
 前を向いて立ち上がれ。
 震える体を抑え付ける。視線をゆっくり上へと上げる。刀を持った春菜の瞳を見据える。
 涙は止まることなく流れていた。無表情に祥季を眺めるその下の本当の表情は何か。泣かせたままで、終ってたまるか。
 左手で体を貫く刃を掴んだ。指の第二間接に刀身が食い込み、ポタポタと血が石段へと流れ落ちる。血などただの水だ。そんなものに恐怖を憶える必要などどこにあるのか。涙に比べれば、その重みは計り知れない。血などいくらでも流してやろうではないか。そんなもの、欲しければくれてやる。だがその対価はきっちり返してもらおうではないか。
 だから、
「ハルハルは……返してもらうぜ……っ!!」
 祥季は立ち上がる。左手は刃を掴んで離さない。刀がぶれる度に右腕に千切れるような痛みが体を走り、しかしその痛みを体を奮い立たせる力に代える。
 ――気でも狂ったか。腕も指も捨てる気か?
 石段に両足を固定する。全身全霊の力を込めて刀を押し返し、右腕から引き抜いた。無音で引き抜かれた傷口からドロリとそれまでとは違うタイプの血が溢れ、ズキズキと痛みが増す。その痛みを糧として、刃を両手で握り緊める。元々赤く染まっていた手から更に血が流れた。
「指でもなんでもくれてやるよ……。でもな、その代償は高いぞ……ッ」
 ――代償? 下らない。おまえに何ができる? 血塗れの分際でも威勢だけは変わらぬな。
 その時、春菜が何かを言っていた。しかし何て言っているのかは聞き取れない。震える口を必死に動かすが、そこから言葉が出て来なかった。そんな春菜を見て、祥季は微かに微笑んだ。
 春菜は、「逃げて」と言っているのはちゃんと理解していた。しかし、祥季はこう言った。
「ありがとう、だな? 礼はまだ早いよハルハル」
 微笑みを打ち消す、手に持っている刀を睨み付ける。
 深呼吸を一つ、
「……少し手荒い真似するけど、許せよ」
 瞬間、祥季は地面を蹴った。握った刀は決して離さず、体を突っ込ませて春菜を突き飛ばした。
 春菜にしても神魔にしても、予想外の行動だったに違いない。春菜の体が宙をさ迷い、祥季の血で濡れていた柄から春菜の手がずるりと抜けた。突き飛ばされた春菜は背中から地面に倒れ、それを確認してから祥季は刀を回転させる。握る場所を刃から柄へ。
 ――貴様、何をするつもりだ?
「言ったろう? テメえを、圧し折るんだよ」
 ――無駄だ。おまえはわかっていない。わたしを手に持つということはつまり、こういうことだぞ。
 祥季の手から何かが流れ込んで来た。
 漆黒の気配だった。それは手から腕へ、腕から体へと、止まることなく祥季の体を駆け巡る。体全体を痺れるような感覚が包み、力を振り絞っていなければすぐに飲み込まれてしまいそうになる。握っている刀が震え始め、それが伝染するかのように体が震え出す。何かに体を乗っ取られる感覚だった。
 ――結末は変わらない。わたしはおまえを殺し、春菜の罪は終る。喜んだらどうだ? おまえの大切な人が、地獄から救われるのだから。
 口すらまともに動かなくなっていた。しかし、それでもそこから声を絞り出す。
「ふざ、けんなよ……っ。地獄に叩き落したテメえが、その台詞を吐くなっ」
 自由が殆ど効かなくなった首を微かに動かす。そこにいる春菜へと視線を移す。
 春菜は倒れていたのだが、ゆっくりと起き上がっていた。呆然と辺りを見まわし、やがてその視線が祥季と繋がる。一瞬表情が綻び、だがその手に持っている刀を見た瞬間にその表情が絶望へと切り替わる。
 足に力が入らないのか、両手を地面に着いて身を乗り出すように祥季を見つめて悲鳴にも似た声を上げる。
「祥季ぃっ!!」
 よかった、と祥季は思う。春菜はもう解き放たれている。自由に動けるのだろう。
 だったら、残る問題は一つ。手と足に力を入れる。これで最後だ。春菜を助ける最後の行動だ。
 例え自分の命が尽きようとも、春菜を助けるんだ。
 祥季は笑う。
「ハルハル、」
 その声に、春菜は祥季をすがるように必死に見つめる。
 祥季は、こう言った。
「元気でな」
 春菜が言葉の意味を理解する前に、祥季は体に力を込めた。最後の抵抗で体の自由を奪い返す。
 力は体から溢れて来る。
 (知ってるか? 愛は世界を救うんだぜ)
 ――下らない。おまえ如きのその感情で一体何ができる?
 (確かにおれ如きじゃ世界を救えないし、救いたいとも思わない。けどな、これだけは憶えておけよ)
 刀の柄を逆手に持ち変える。
 それをゆっくりと振り上げる。
 せみの声が聞こえる。もう当たり前になっていたその声を再確認して少し嬉しくなる。
 また聞けるといいな、と祥季は思う。
 (ハルハルだけは……)
 世界なんて大層な物を救いたいんじゃない、たった一人、大切な人を救いたいんだ。
 (春菜だけは、救えるんだよ)
 ――粋がるな、おまえの体はもうわたしの支配下に
 (黙れ神魔っ!! 終わりだっ!!)
 祥季は、自らの体を後ろに傾けた。
 ゆっくりと傾いて行き、その視界の中で春菜を見た。最後に、祥季は笑う。
 その時見た春菜の顔を、祥季は忘れないと思う。
 傾いて行く祥季の背後には、地面がなかった。
 そこから先は一瞬だった。木漏れ日を感じる石段を祥季の体は転がり落ちる。体中を石段に打ち付け、それでも激痛に耐えながら視界を保つ。天地が一発でわからなくなったその中で、手に握った刀だけは絶対に離さない。どうせ力なの入らないこの体じゃ普通に圧し折るのは不可能だ。だったら、賭けてみるかしないのだ。
 信じられないくらいのスピードで回転する自分の体が玩具のように思えた。チャンスを必死に探す。一回きりのそのチャンス、失敗すれば――いや、失敗はしない。自分のすべてを賭けてでも成功させてみせる。
 体の方向感覚が一瞬だけ戻り、そこにすべてを賭けた。握った拳を石段に叩き付けて体を浮かし、逆手に持った刀を振りかぶる。すぐにまた後ろに流れる体を認識し、懇親の力を込めた。
 刀を、石段と石段の隙間に叩き込んだ。元々の切れ味いいのか、それとも単なる偶然か、刀の刀身は半分ほど鈍い音を立てて突き刺さる。握った柄を離さず、そのまま刀を圧し折ろうとする。体ががくんと一瞬停止し、刃が異常な角度まで圧し曲った。が、ギリギリの所で刀は折れなかった。
転がっていた体がその力に引き返されて戻ろうとする。ここまで来て、諦めるわけにはいかなかった。
 石段に足を叩き付け、石段の更に下へと体を突き飛ばす。信じられないくらいに曲っていた刀の刀身が、その力に耐えられるはずもなかった。
 その時、神魔の叫びを聞いた気がする。
 刀は、突き刺さった場所より少し上から、小さな破片を飛び散らせて、
 真っ二つに圧し折れた。
 澄んだ音が響いた。それは周りの木にいくつも反響して、まるで楽器のような音色を奏でた。
 引っ張り戻される力を失った祥季の体は、勢いを増して石段に叩き付けられ、更に下へと突き落とされる。
 途中で刀身が折れた刀を捨てた。自然に身を任せ、祥季は石段を転げ落ちる。意識がぼんやりする。体に衝撃は走るが痛みは感じない。やはり麻痺しているのだろう。
 最後の最後で、死にたくないと少し思った。
 だけどまあ、本当はあの時に干乾びて失っていたかもしれない命だ。だったら、その命を救ってくれた人のために尽くそうではないか。これで死んだら、男の死にザマ堂々のトップは間違いなしだろう。かっこいいんじゃねえのか、それって。とかそんなことを思ってみる。
 ふと見た視界に、祥季のスクーターがあった。
 地面は、すぐそこだった。


 刹那、今までとは違う真っ黒な衝撃が体を襲った。


     ◎  ◎


 夢を見ていた。


 どこまでも続く真っ白な世界。
 そこに立っている一人の少女。後ろ姿しか見えないけど、頭に麦わら帽子を被り、服装は真っ白なワンピース、肩に掛かる真っ直ぐな髪。少し不思議な感じのする子だった。その少女は何をするでもなく、ずっとそこに立っている。麦わら帽子を被っているので顔はわからない。だけど、その子に興味を惹かれた。
 最初は、助けてほしかったからだったと思う。次はお礼をしたかったからだと思う。その次はどうしてか会いたかったからだと思う。今度は楽しかったからだったと思う。そして好きになっていたからだと思う。笑顔をプレゼントしたかったからだと思う。最後は、彼女を救いたかったからだと思う。
 側にいたかったから、笑顔が見たかったから。好きになっていたから、大切な人になっていたから。
 いつしか彼女は、必要な存在になっていた。いなくてはならない存在になっていた。血を流したとしても、例え命が尽きようとも、彼女を助けたかった。悔いはないと思う。その逆に安心したと思う。もう、彼女は苦しまなくていいのだから。
 真っ白な世界に立っている少女に近づく。
 その背中に声を掛ける。
『お散歩ですかいハルハル?』
 少女はゆっくりと振り向く。
 その表情を見た時、心がざわめいた。
 少女は泣いていたのだから。瞳からポロポロと涙を流して、彼女は泣いているのだから。
『おいおいっ? なんだよ、何で泣いてんだよ? もう苦しまなくていいんだろ? だったらどうして泣いてるんだよ?』
 少女の口がゆっくりと動く。しかしそこから言葉は出て来ない。口の動きだけで何と言っているのかを見極める。が、途中途中でしゃくりあげるような仕草をするのではっきりとは見極められない。
 焦りと苛立ちを感じた。少女の肩を掴んで少し揺すってみた。
『何だよ? 何で泣いてるんだよっ? もう苦しまなくてもいいんだろ? おい泣くなって。ハルハルに泣かれたらおれがやったこと無意味になっちまうだろ?』
 しかし少女は泣くのをやめない。
 向けられていた視線を外し、俯いてさらに泣く。
 困った、と思う。折角苦しみを取り除いてやったのに、泣かれては意味がない。どうして泣いているのだろう、何が原因で泣いているのだろう。もう彼女を縛る物はないのだから、泣く必要はないだろうに。それどころか喜んでもいいだろうに。でも、彼女は泣いている。原因は何か。それを考える。しかしいつまで経っても考えはまとまらない。人の思考を読むのは得意ではなかったからだ。ならば発想を変えてみてはどうだろうか? もし自分が彼女の立場なら、なぜ泣くのか。そういう風に考えてみてはどうだろうか。何百年もたった一人で地獄をさ迷い、しかしそんな時に一人の大切な人が現れて自分を助け出してくれたらどんな気持ちか。嬉しい、という以外に考えは出て来なかった。ますます原因がわからなくなった時、ふとした拍子に理解した。
 そうか、それが原因か、と一人で納得する。原因は、その大切な人にあるのだ。その大切な人は、あろうことか死ぬ覚悟で少女を助け出したのだ。いや、もしかしたら死んでいるのかもしれない。馬鹿ではないかと思う。いくら地獄から救い出したとしても、その救い出した本人が死んでしまったのならハッピーエンドは迎えられない。二人とも助からなければハッピーエンドは迎えられないのだから。本当の馬鹿ではないか、と思う。自分が苦しみを増やしてどうするのだろうか。助け出してもまたそこに一人ぼっちで置き去りにして何になるのか。ハッピーエンドは、二人が生きて始めて成し遂げられる最高のシナリオなのだ。それを実現させなければ、彼女はずっと泣いているのだろう。バッドエンドを迎えてしまうのだろう。それでは駄目だ。彼女には笑っていてほしい。最高のハッピーエンドを迎えてほしい。そして、それを実現できるのはたった一人だけだ。
 彼女の大切な人、萩原祥季ただ一人だ。
 やっぱり自分は馬鹿で間抜けでどうしようもない奴だと思う。自分一人が納得して終るなど、最悪のシナリオではないか。彼女の側にいて、彼女の笑顔を見て、彼女と一緒の時間を共有する。そんなシナリオでなければならないのだ。そうでなければ、彼女は一生地獄で生き続けることになってしまう。
 帰らなければならないのだ、と祥季は思う。こんな夢の世界でふらふらしている訳にはいかないのだ。とっとと現実に戻って、そして、彼女を抱き締めようではないか。ただいまって、彼女を安心させようではないか。彼女には、笑顔でいてもらおうではないか。
 祥季は笑う。
『ハルハル、もう泣くな。だいじょうぶだから。今すぐに、そっちに行くから。だから、もう泣くな。な?』
 泣いている少女は、ふっと顔を上げた。
 瞳から流れる涙を、祥季の指が拭う。
 まだ涙を流している彼女だけど、不器用に微笑んだような気がした。
 それで十分だ。今はまだそれだけいい。残りは、そっちに帰ってからでいい。その時には見せてほしい、君の本当の笑顔を。そしたら教えるよ、君の兄さんが言っていた最後の言葉の意味。君はわからなかったみたいだけど、おれにはわかったから。だからその時に教えるよ、君の本当の笑顔の意味を。
 さてと、帰りますか。大切な君が待っているその場所へ。そこまで歩んで行こうか。対等に話せるその場所へ。
 春菜が待っている、その場所へ――。
 その世界にいた少女は、いつの間にかいなくなっている。
 それを確認してから、祥季は真っ白な世界を歩き出す。
 やがて、その世界に光が射し込み、世界は変わる。


 感じたのは体に受ける太陽の光と、
 大きく聞こえるせみの声だ。
 また聞けてよかった、と祥季は思う。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 


     「エンディング」




 視界に入り込んで来た太陽の真っ直ぐな光と、耳に聞こえるせみの声。
 どちらも心地良く、馴染みあるものになっていた。そのまま視線をさ迷わせ、下に砂の道、近くにスクーター、右に田んぼ、左に木漏れ日の綺麗な石段を確認する。ここはどこか、と聞かれたらすぐに春菜の家の前と答えられる。どうやら頭は正常に働くらしい。その頭に痛みを感じ、そっと右手を額に置く。しばらくしてから離して目の前に持ってくると、結構な量の血が流れ出ていた。額に当てた右手に血が付着して――
 右手。つまりは右腕。急いで左手で右腕の肩の少し下を探る。そこに、傷口はなくなっていた。痛みも感じず、腕を見てみるがさっき付着した頭の血以外は血痕らしき物はなかった。血が出ている頭がズキズキと痛く、疑問は山ほどあるのに考えがまとまらない。
 が、今はそんなことより、あれからどうなったのかを知りたかった。石段から飛び降り、あの刀を圧し折ってから自分は一体どうなってしまったのか。今こうして思考を巡らせることができるということは死んではいないのだろう。体を動かしてみる。あちこち打撲のような痛みはあるがすべて正常に動く。頭も血の量とは裏腹に傷はあまり深くないはずだ。
 息を一つ。生きててよかった、と祥季は思う。
 そして、生きているのなら気になることはたった一つ。視線を辺りに向ける。体は動くのだがどうしてか起き上がる気にはなれない。首だけを動かして近くにいないものかと探してみる。しかししばらく探しても見付からなかったので、今はいないのかもしれないと諦め、ふと視線が石段に移った時に見付けた。一瞬蜃気楼かと思ったが、それはそんな陳腐な代物ではなく、ちゃんとした現実の姿だった。
 砂の道に引っくり返ったまま、石段に視線を向けて祥季は笑う。
「ヘルプミーハルハル!」
 トチ狂った頭からはやっぱりそんな言葉しか出てこない。
 石段の途中、こちらに向って急いで駆け下りて来た春菜は、その言葉を聞いて固まった。視線をすぐさま倒れる祥季に向け、一瞬驚きに貫かれたような表情を見せる。しかしすぐに手に持っていた濡れたタオルをその場に取り落とし、瞳に涙を浮かべてさらに石段を駆け下りて来た。石段から砂の道に切り替わり、春菜はすぐに祥季の側に走り寄り、その隣りに膝を付いて座り込んだ。
 手を祥季の頬に添え、涙がポロポロと流れる瞳を向ける。
「祥季っ、だいじょうぶですかっ? 痛くないですかっ?」
 そんな必死に言う春菜に、祥季はこう言う。
「やべえッス、マジ死にそうです」
 珍しく、祥季の馬鹿な言葉で春菜がオロオロとした。
「ど、どこが痛みますかっ!? あ、えっと、タオルが……っ!?」
 急いで辺りを見ます春菜。さっき石段でタオルを落としたのがどうも思い出せないらしい。何か楽しいな、と祥季は思う。春菜がこんなにも挙動不審になるとは。見ていてかなり可愛らしいのだが、これ以上心配させるのはやはり酷いだろう。だが、こんな春菜はしばらくお目に掛かれないだろうと考えるのが本音だった。もう少しだけならいいのではないか、などど最低な考えが頭に浮ぶ。
 祥季は真顔で、
「ハルハルの愛でおれを救ってくれ」
 やはり、頭を打って本格的にトチ狂ったのかもしれない。
 そして、春菜はてんてこ舞いになっていた。その言葉の意味を理解できないらしく、「ど、どうすればいいんですかっ!?」と本気で祥季に訊ねる。さすがにこれ以上はまずいっていうか、春菜のキャラが変わるのでそろそろ駄目だろうと思う。
 これからどうするか。決まっている。やることは決まっているのだ。随分長く感じた。こうしようと決めたのは今日の昼だったか。それがもう何年も昔の決意に思える。時間にすればほんの数十分、だけど、本当に、本当に長く感じた。もう何も隠さなくてもいい、隠す必要などどこにあろうか。側にいたい、笑顔が見たい、好きだから、大切だから。春菜が、何より愛しい。
 祥季は、手を春菜の背中に回して抱き寄せる。突然のことに春菜は驚き、祥季の胸の中で身動きができなくなっている。
 そんな春菜から感じる温もりが、本当に暖かく思えた。
 祥季は言う。
「――ただいま、ハルハル」
 その言葉を聞いた時、春菜の体が微かに震え、何かを我慢するように言葉を噛み締めた。
「――おかえりなさい……祥季っ……」
 春菜は泣いた。祥季の背中に手を回し、力一杯しがみ付いて春菜は泣いた。
 悲しい気持ちにはならなかった。春菜の流している涙の意味を、祥季は知っていたから。苦しいのではない、怖いのでもない、辛いのでもない。嬉しいから、春菜は泣くのだ。大切な存在を確かめるように、泣くのだ。
 それに応えてあげようと思う。
 春菜を優しく抱き締める。大切な存在を確かめるように。
 そんな二人を見守るのは太陽とせみだけ。素晴らしい光景ではないか。太陽の光が照らし、せみの鳴声が包み込む。気持ちいいことではないか。何でもありの田舎で起こった、少し不思議な物語だ。忘れたくても忘れれない、忘れたいとも思うことない最高の物語だ。
 とある夏休みに起こった、そんな物語だ。
 祥季にとっての大切な人は他の誰でもない、春菜なのだ。


     ◎


 祥季は頭に巻かれた包帯に手を添え、
「すげえなハルハル。よく包帯なんて使えるよな」
 その言葉に春菜は得意げに笑い、「何でも出来ますから」と答えた。
 ふむ、それでこそハルハルだ、と祥季は思う。
 今現在、祥季は春菜に連れられ、春菜の家に上がり込んでいる。前にハンバーガーを二人で食べたあのリビングのような部屋のイスに座り、ついさっきまで春菜に傷の手当てをしてもらっていた。頭の傷だと思い込んでいたのは実は額の傷で、そして額の傷口からは血がなかなか止まらずに流れ出るらしい。幸いにも傷口は浅く、縫わなければならないような危険はなかった。しかし一応消毒して包帯を巻いてもらった。春菜の診察では少ししたら包帯は取っても平気だと言われた。が、春菜が巻いてくれた包帯なのでしばらくは取らないでおこうと祥季は心に決めた。
 額の傷以外は特に目立った外傷はなく、骨も折れていなければ血も出ていなかった。ただ体中が打撲で痛いのだが、石段を転げ落ちてそれだけで済んだのは奇跡に近い。やはり神様もたまには仕事をするではないか。
 イスに座っている祥季の隣りで、テーブルの上に置かれた救急箱に包帯をしまい終えた春菜は祥季に視線を向ける。
「もう痛いところはないですか?」
 なぜかその台詞が無性に心にグっと来た。
「心が痛い」
 口から出た言葉はやはりトチ狂っている。
 そして春菜ももう落ち着いたらしく、「そうですか、じゃ心配はありませんね」と流して救急箱を片付けるためにリビングから出て行った。そんな春菜を見送り、それでこそ春菜だと祥季はまた思った。だが少しだけ、オロオロとする春菜を心惜しく感じる。
 そのまま何をするでもなく、祥季はイスに座って春菜の帰りを待つ。自然と、祥季の左手が刀に貫かれた場所を触っていた。暇だったので思考を巡らせてみる。あの後、つまり祥季と春菜が抱き合った最高の時間の後、春菜に手を貸してもらって石段を登った。手当てをしてもらっている時に少し春菜と話をした。刀――神魔はどうなったのかと。全部見ていたわけではないので確信はないけど、見た時には刀はゆっくりと消滅していったと春菜は答えた。そして、ここから先は春菜の憶測だと言う。
 昔、春菜の家は悪魔払いなどを専門とした仕事をしていたらしい。深い所まで行けば、陰陽道とかそういう類の仕事だ。そんな仕事の中で封印して隠しておいたのがあの刀ではないのか、と。春菜も詳しくは知らないが、両親はそんな仕事をしていて、春菜の兄はその仕事を何度も手伝っていたことがあるという。
 つまり、あの刀、神魔の存在を知っていた春菜の兄は、春菜にそれを知られないために床下に隠した。しかし偶然にも春菜はそれを発見し、そしてそれがすべての発端になった、ということだろうか。
 そう考えるのが一番納得できると思う。だが、それでも疑問はいくつか残る。祥季の腕の傷だってその内の一つだ。あの時、祥季の腕は確かに貫かれていた。見た血も感じた痛みも、幻覚などではなくちゃんとした現実だった。ではなぜ、その傷が今こうして塞がって何もなかったかのようになっているのか。が、考えてわかるのなら苦労はいらないと祥季は思う。そしてわからないならわからないなりに理解しようと思う。神魔の刀を圧し折ったから傷は消えた、そして春菜はもう傷付かなくて済むし苦しむ必要もない。簡単で簡潔だけど、それでいいのではないか。難しいこと、わからないこと、それはこれからゆっくりと理解して行くことにして、今はそれだけていいのだはないか。
 そう結論付け、祥季が一呼吸着いた時に春菜が姿を現した。そのまま歩んで来て、祥季の向かい側のイスに腰掛ける。
「なあハルハル」
 ふと春菜の視線が祥季に向けられる。
 祥季は珍しく真剣な表情をしていた。
「考えてたんだけど、あと三日したらこの町から出て行こうと思う」
 その時、春菜の表情が変わった。不安と悲しみが入り混じった、そんな瞳を祥季に向ける。
 その瞳で決意が揺らぐ。しかし流されてはならない。もう春菜を縛り付ける物は何もないのだ。だから、これからは自分で決め、自分の人生を生きていかなくてはならない。それがどんな道であれ、春菜は歩んで行かなければならないのだ。
 そしてその中に祥季がいるかどうかはわからない。祥季にしてみても、それを聞くのには勇気が必要だった。しかしそれでも、これだけは聞いておかなければない。
 向けられた瞳を真っ直ぐ見据え、祥季は続ける。
「高校を卒業したらこの町に戻って来ようと思ってる。理由は一つ、ハルハルと一緒にいたいからだ。でもそれはおれ個人の意見で、ハルハルが」
「――戻って来てくれるんですか?」
 祥季の言葉を遮り、春菜はそう言った。
 しかし、
「待ってくれ、最後まで言わせてくれ。――あのさ、おれがこの町に戻って来たいと思ってるのは本当だ。けど、ハルハルはそれでいいのか?」
 言っている意味がよくわからない、とでも言いたげなし線を祥季に向ける。
 そんな春菜を見据えながら、祥季は続けた。
「もうハルハルを縛り付ける物は何もない。自由に生きれるし自由に恋だってできる。だからおれは思う。そんなハルハルを、今度はおれが縛り付けているんじゃないかって。ただ偶然が切っ掛けでハルハルに出会って、そしておれはハルハルが好きになった。結果的にそれがハルハルを解き放ったことになるんだけど、何か違う気がする。だからさ、一旦おれなんかのことは忘れて、これからハルハルを本当に幸せにしてくれる人を見付けてみないか?」
 その時、春菜はイスから立ち上がった。
 春菜は、怒ったような、悲しんでいるような、複雑な表情を見せていた。
「違います! わたしは、わたしは祥季だから、祥季だったから……っ!」
 祥季も立ち上がる。春菜に笑い掛け、その後で真剣な表情に戻す。
「そう言ってくれるとすげえ嬉しい。でもさ、やっぱりもう少し考えてみてくれないか? おれもこのままじゃすっきりしないし。だからおれがこの町にいる最後の三日間、おれはここには来ない。ハルハルは、一人で、ゆっくりと考えてみてくれないか? 三日後、この町の駅の一番早い電車に乗っておれは帰えるよ。そのギリギリまで、おれは待ってる。別に無理に返事を返してくれなくてもいい。ハルハルにとって、おれが大切な人だってのは正直ものすごく嬉しい。けど、やっぱりハルハルも考えてみてくれ。その時、ハルハルの心が決まったのなら、おれに教えてくれればいいから」
 それを有無を言わせぬ口調で告げ、祥季は歩き出す。
「それじゃハルハル、バイバイ」
 軽く手を振って歩き、部屋のドアノブに手を掛け、
「待ってください!」
 足音を聞いた。振り返ると、春菜はすぐ側まで駆け寄って来ていた。視線を下に何度もさ迷わせ、そして意を決したように顔を上げた。必死に、何かを言おうとしている。口が微かに動くが、そこから言葉が出てこず、それからじばらく春菜は何も言い出せずに祥季を見つめていた。
 やがて、祥季が先に口を開こうとすると、切羽詰った口調で春菜はこう言う。
「だったらっ、だったら、最後の今日だけは、ここに泊まっ――」
「断る」
 真剣な口調で、祥季はそう言う。
 その言葉を聞いて、春菜は驚いたように口を閉ざす。
 それから、祥季はいきなり笑った。
「ダメだなハルハル。そんなこと言うのはハルハルらしくないよ」
 でもっ、と言い掛けた春菜の体を抱き締めた。
 力一杯、優しく抱き締めた。
 今、自分はどんな表情をしているのだろうと思う。やっぱり、自分は春菜が好きなんだと思う。
 この提案は、春菜にとって残酷なのだろう。だけど、それでもはっきりさせておきたかった。春菜が好きだと思う心の奥底で、本当は春菜は自分のことなど何とも思っていないではないか、本当はただ大切な人と言うだけでそれだけではないか、そんなことを思っていた。そんな思いがある内は、春菜と真っ直ぐ向き合えない。いや、向き合うことはできるがそれは春菜にとっての裏切りなのではないか。
 春菜には本当に幸せになってほしいと願っている。自分の大切な人が幸せになってくることは、想う人にとっては最高の祝福だろう。その中に祥季がいるかどうかはわからないけど、それでも春菜の幸せだけを願う。だから、春菜に考えてほしかった。祥季といることが春菜の幸せになるのかどうか。春菜と真っ直ぐに向き合うために、それがどんな形になったとしても、考えてほしかった。
 春菜が、何よりも愛しかったから。
 抱き締めていた春菜からそっと体を離す。手を両肩に添え、春菜の瞳を見据える。
 自然に、だったと思う。その時だけは、すべての時間が止まっていたと思う。
 家の窓から太陽の光と、家の外から聞こえるせみの声に包まれたその場所で、
 祥季と春菜はキスをした。
 そしてそれを終えた後、祥季はたった一言、
「元気で」
 と言い残し、部屋から出た。
 無言で廊下を歩き、玄関にあるスニーカーに足を突っ込んで外に出る。目の前に広がる木漏れ日のトンネルに向って歩き出し、石段を一歩一歩踏み締めるように歩き、夏の風を感じて心が静まる。石段を最後まで歩き抜き、砂の道に置かれたスクーターに近づく。シートに跨ってキーをシリンダーと一緒に回転させてメインスイッチをON、ブレーキを握ってイグニションボタンを押――
 唐突に、涙が溢れた。頬を伝った涙がスピードメーターに滴り落ちる。
 これでよかったはずだ、と祥季は思う。エンジンを掛けずにブレーキとアクセルを力一杯握り緊めた。春菜には誰よりも、この世の誰よりも幸せになってほしい。だから、これでよかったはずだ。祥季はもう十分過ぎるくらいに春菜から温もりをもらった。嬉しかった、楽しかった。この夏休みは、永遠に続くとすら思っていた。春菜と一緒に、この森林町でいつまでも。
 でも、春菜はもう一人で歩んで行ける。祥季といる理由はもう何もない。
 しかし、
 それでも、春菜が祥季と一緒にいることを望んだのなら、
 それでも、春菜が祥季と一緒にいることを決めたのなら、
 その時は――。
 涙を拭う。ブレーキを握ってイグニションボタンを押す。エンジンが動き出し、アクセルを開けてスクーターを走り出させる。
 本当の夏休みは、残り三日。
 物語のエンディングは、もうすぐそこだった。
 

 祥季の夏休みが終る――。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「エピローグ」




 森林駅の始発が十時二十五分だったことにものすごく驚いた。でも田舎ならそんなものなのかもしれないと思う。
 今日、朝の八時に目が醒めた。帰り支度はすでに済ましてあったので、朝食だけ食わせてもらった。玄関まで見送りに来てくれた祖父と祖母に別れを告げ、夏の空の下に歩み出る。門の側に置かれたスクーターを少しだけ心惜しく思い、一度玄関まで引き返して祖父に「スクーターは残しといて」と言い残した。それを最後に、今度は本当に祥季は門を通り過ぎた。肩に掛けたボストンバックがやたらと重く感じる。砂の道を踏み締めるように歩き、両側に見える田んぼの地平線を脳裏に叩き込み、聞こえるせみの声を耳に焼き付ける。近くの畑で農作業をしていた人に挨拶をしてまた歩き出す。
 太陽の光は熱いのだが、それはどこか気持ち良かった。森林町の太陽は突っ込んでくるほど大きくて今日も元気一杯で、気温を保とうとフル活動する。雲一つない快晴だった。どこまで続く青い空に手を伸ばせば空だって飛べるはずだった。結局、最後の最後までこの町で雨を見なかったが、それも森林町の風物詩の一つなのだろう。この森林町の見えるもの、聞けるものを、いつまでも忘れないでおこうと祥季は思う。
 それから歩くこと数十分、懐かしい場所に到着する。目の前にある古惚けて風格すら漂う森林駅だ。
 もちろん駅員なんていないし公衆電話もない。駅の前に立って、その場にボストンバックを落とし、眼前に広がる田んぼの地平線へと祥季は叫ぶ。
「家が一軒もねぇえ――――――――――――――っ!!」
 その声は、どこまでも響く。何度も何度も反響して祥季の耳に届く。
 ここからはじまったんだよな、と思う。あの時、祥季はそう叫んで歩き出した。家のある左ではなく、何もない道が永遠と続く右へ。そしてそれがすべでのはじまりでもあった。あの時、祥季がもし左へと歩み出していたのなら、こんなにも楽しい夏休みは過ごせなかっただろう。それが偶然であれ必然であれ運命であれ、やはり神様もたまには仕事をするではないか。
 祥季は笑った。ふと見た駅の柱にせみが一匹貼り付いていた。忙しなく鳴声を響かせている。やはりここでもこう思う。せみって食ったら美味いのかな、と。だが今は別に飢えている訳でもないで食う必要はない。そもそも生のせみが食えるかどうかが怪しい。……ってやめよう、何だかグロテスクだ。気色悪い想像を頭の中から追い出し、ポケットに手を突っ込んで携帯電話を取り出す。
 ディスプレイには圏外の文字がまだ広がっている。しかしショックなどは全く受けなかった。最近、この携帯は電話というよりポケット時計と成り果てていた。そして今も時刻を確認するためだけに取り出したのだ。只今の時刻は九時二十五分。森林駅始発は十時二十五分だ。つまり、ばっちり時間を間違えた。
 言い訳ではないが聞いてほしい。別にこれは祥季が間違えたのではないのだ。そもそも昨日の段階で、祖母に始発の時間は十時二十五分だと聞かされていた。だからその時間に着くように支度はしたし目覚ましも掛けた。そして目覚ましで今朝の八時に起床、朝食を食べた。そこまでよかったのだ。問題はここからだ。一つだけ誤算があった。萩原家の大きなのっぽの古時計……じゃない、普通の大きい時計がボケていたのだ。何を思ったのか、その時計は一時間もの時間を間違えていた。そしてもっとボケているのは祥季で、それをそのまま信じ込み、慌てて家を出た。そしてその事実に気付いたのがついさっきだった。これは言い訳ではない。というより悪いのはあの時計ではないだろうか? 皆さんはどう思います? 世界中の皆様に同意を求めてみるが、やはり返答などあるはずもない。当たり前であるのだが。
 つまり、祥季は今現在駅のホームのベンチに一人で座り、淋しく一時間もの間電車を待たなければならないのだ。
 ベンチに座って目を閉じる。日陰に流れる風が心地良かった。約一ヶ月前、この町で死にそうになっていたのが嘘のようだった。そのままで右手を額へと当てる。そこには一枚のバンドエイドが貼り付けてあった。微妙に歪んでいるのは祥季が鏡を見ずに適当に貼り付けたからである。包帯は昨日の段階で外した。ずっと付けていたかったのだが、それはそれで問題だったので仕方なくバンドエイドにしたのだ。
 今日はあれから三日経った、祥季が森林町を出て行くその日だった。
 三日間、いつも心の中で思うことはたった一つ、春菜のことだ。祥季が自ら提案した手前、春菜には一度も会ってはいない。それどころか祥季はこの三日間は家からも出なかった。自分の部屋の布団の上に死体のように転がり、ずっと考えていた。いくつも疑問があったからだ。最初の疑問が神魔だった。あれから祥季なりに考えてみたのだが、結局これだと思える解答は見付からず、この前春菜と立てた考えがそのまま適応している。しかしそれでもいいと思う。疑問は、細かいのを合わせれば数え切れいないくらいあった。萩原家の開かずの間だってその内の一つだ。昨日、祖父に最後だからここを見せてくれと頼んだら、「その代わり大切な人を失うぞ?」と返答されてまた怖くなってやめた。だって前は「大切なもの」だったのに、どうしてか「大切な人」へとグレードアップしているのだから。大切な人、つまり春菜だ。春菜を失うくらいなら見ない方が絶対にいいと祥季は思う。そしてそれにも仮説を立ててみた。もしかしたらあの部屋の中には萩原家に代々伝わる妖刀『春雨』が隠されていて、一度封印を解けば世界を滅ぼすのではないか、と。そのあとでそんな訳あるか、と祥季は思った。
 一息付く。胸一杯に広がる緑の香りが気持ち良くて、眠たくなった。春菜は、その香りが好きだと言っていた。今ならその気持ちがすごくわかる。この町にいたのなら、隣り町や祥季が住んでいる都会の空気はあまり好ましくない。世界中がこの町のようにできたらいいのにな、と思う。春菜もそんな風に考えているのだろうか?
 春菜は今、どうしているのだろうか。
 そんなことを思ってしまった。春菜は今、どこで何をしているのだろう。案外家で掃除とかをしているのかもしれないし、少し早目の散歩に出掛けたのかもしれない。もしかしたら、ここに向っているのかもしれない。
 本当にこれでよかったのだろうか。もしここで春菜に会えなかったから、春菜の返答をもらえなかったから、祥季はもうここには来ないだろう。それが、春菜の答えなのだから。最後の最後で、無理をしてしまった。でもそれでよかったはずだ。悔いはない。後悔もない。春菜には誰よりも幸せになってほしい。自分がそれの妨げになってしまっては意味がないのだ。春菜が自分で考え、自分で思った通りに生きて行ってほしい。その中に祥季がいるかどうかはわからいけど、それでも春菜には幸せになってほしいから、だから、
 その時、何かが近づいて来る音が聞こえた。その音でぼんやりしていた意識がはっきりとする。目を開けてその場所に視線を向け、携帯をふと見て時刻を確認する。もう大分時間が経っていた。時刻は十時十分。どうやらここでしばらく停車するらしい。
 ボストンバックを肩に掛け、祥季はベンチから立ち上がる。黄色い塗装が微かに色褪せた電車が、線路に沿って眠たそうにゆっくりとホームに入って来た。切符はここに来る時に往復で買っておいたので買う必要はなかった。誰もいない駅の改札口を抜け、誰もいないプラットホームに辿り着く。プシューと電車のドアを開く時独特の音がして祥季を迎え入れた。車内にも人はいなくて、ほとんど祥季の貸し切り状態だった。何人掛けかはわからないイスの真ん中に場所を陣取ってボストンバックを置く。クーラーは効いていなかったが、窓がすべて全開に開いているので熱くはなかった。
 向い側の窓から見える森林町の景色をぼんやりと眺める。なぜか故郷から上京する人の気持ちになった。ここが生まれて育った場所のような気がする。こんなにも居心地のいい場所は他にはないと思う。太陽の光とせみの声も、砂の道と田んぼの地平線も、異次元のトンネルと恐怖の交番も、公民館と夏祭りも、石段と木漏れ日も、風と緑の香りも、すべてがすべて、この森林町の一部でありすべてなのだろう。最高の場所ではないか、こんなところで夏休みを過ごせただけでも素晴らしいことではないのか。
 そして、夏休みはもうすぐ終るのだ。永遠に続いてほしいと思っていた、永遠に続くとすら思っていた夏休みが、長い長い時間が、あと数分で終りを告げる。音楽はもう鳴り止んでしまったのだろうか。それとも、まだ鳴っているのだろうか。その音楽が本当に鳴り終わった時、自分の座るイスはどこかにあるのだろうか。そのイスが、この町にあってほしいと思う。ここにいたかった。大切な人と過ごせるこの場所に。
 春菜に会いたかった。側にいたかった。笑顔が見たかった。もう一度、抱き締めたかった。その温もりが、消えてしまわぬように。ずっとずっと、その温もりを憶えていられるように。この夏が、永遠に続くと思いたかったから。
 電車に微かな振動が伝わった。時刻はすでに二十五分に達しようとしていた。時間は確実に一秒一秒その時を刻んで行く。下らないようで、しかしどれもこれもちゃんとした素晴らしい歴史の瞬間なのだ。それを、止まれと願うことは、ダメなことなのだろうか。
 春菜に会いたかった。今この瞬間、電車から飛び出して砂の道を突っ走り、あの石段まで走って行きたかった。木漏れ日が綺麗なトンネルを抜け、石段を掛け上がり、春菜に会いに行きたかった。その手を握って、どこまでもどこまでも歩んで行きたかった。少しでも気を抜けば、本当にそうしてしまいそうな衝動に狩られた。自分で自分を必死に抑えた。この電車のドアが閉まってしまえば、その衝動も落ち着くだろう。それまで、それまでの――。
 時刻が十時二十五分を示したその時、電車にそれまでとは違う振動が来た。一番前の運転席にいる車掌が作業をした。瞬間、ドアが音を立ててゆっくりと閉まって、それと同時に音楽が鳴り止み、夏休みが終って、


「祥季っ!!」


 春菜の声を聞いた。
 その時、体が思考より先に行動した。イスから立ち上がってすぐそこにあった閉まり掛けているドアに突っ込み、体が先に抜けて見事に足が挟まった。急いでいた分その勢いは半端な物ではなく、コンクリートに顔面からぶっ倒れた。それに気付いた車掌が慌ててドアを開け、しかし祥季にはそんなことは関係ない。足が抜けたと同時に立ち上がり、辺りを必死に見まわす。
 改札口に、春菜がいた。もちろん蜃気楼なんかじゃない。見間違えるはずもないのだ。そこにいるのは、祥季の大切な春菜なのだから。
 走ってここまで来たのか、春菜は肩で息をしていた。呼吸と共に体が微かに動く。春菜が、汗をかいている。それはつまり、春菜の成長が動き始めている何よりの証拠だった。
 嬉しくて嬉しくて、もう何て言っていいのかわからない感情が心の中から溢れて来て。
 祥季は春菜に走り寄った。そして、何を言うよりも早くに、祥季は春菜を抱き締めた。
 音楽は鳴り終わってはいなかったのだ。夏休みはまだ続くのだ。そう思うと泣きそうになった。しかしどうしてか涙は出ず、その代わりに口から笑い声が溢れた。
「ハルハルっ、会いたかった……っ!」
 そして祥季の背中に、春菜の手がゆっくりと回される。吹き込むような春菜の声が響いた。
「わたしも……会いたかったです……っ」
 春菜から感じる温もりが何よりも心地良い。この温もりが消えてしまわないように、この温もりをずっと憶えていられるように、祥季は春菜を優しく抱き締める。そしてそれに応えるように、春菜の手にも静かに力が入った。
 嬉しくて嬉しくて、泣きそうなくらい嬉しくて。でも涙は出ずに、喜びを伝える言葉だけが口からは溢れる。
「ごめんなハルハル……。ハルハルがいなくてやってけないのは、おれの方だったよ……っ」
 この三日間で、それを改めて実感した。春菜がいなければ落ち着かない。どうしても春菜に会いたくなってしまう。それでも、必死に自分を抑え込んで何とかなってきたが、今この瞬間、春菜に会えてすべてが開放された気持ちになった。
 そんな二人を見守るのは太陽の光とせみの声と、そしてもう一人、車掌だった。車掌は抱き合う二人を少し見てすべてを把握したように肯き、ポケットに入っていた煙草を取り出して火を付け、煙を吐き出しながら電話を手に取った。いくつも操作した後、通話口にこう告げる。電車のエンジンが壊れました、修復に多少の時間が掛かります、すぐに済むと思いますので到着時間が少し遅れます。その声は抱き合う二人には聞こえない。それでも車掌は笑って運転席に踏ん反り返って煙草を吹かす。
 もう何て言っていいのかわからなくなった祥季に、春菜はゆっくりと言う。
「祥季に言われた通りに考えたけど……やっぱり、わたしは祥季と一緒にいたいです……」
 その言葉は、どれだけ春菜が考えた答えなのだろうか。
 その言葉が、どれだけ祥季にとって嬉しいことだろうか。
 祥季は言う。
「ありがとうハルハル……、おれも、一緒にいたい……。だから、絶対に帰って来るよ……。高校卒業したら、ハルハルが待ってるこの場所に……絶対に……っ」
 春菜の震えるような声、
「約束、ですよ……?」
「ああ、約束する……絶対にここに帰って来るよ……」
 祥季は笑った。この後に及んでまだ言ってみる。
「おれがここに帰って来たら、一緒に暮らそう」
 そして、春菜の返答はこうだった。
「考えておきます」
 にっこりさらっと断るのではなく、ちゃんとそう言ってくれた。
 それだけで十分だった。だって、音楽は決して鳴り止むことはないのだから。
 想いを、隠す必要はもう何もない。すべてを、本音を春菜に伝えたかった。
「大好きだ、“春菜”」
 そう言ってから、“春菜”とちゃんと名前で呼んだのはこれが二回目だったなと祥季は思う。
 春菜の微笑みを聞いた。
「大好きです、祥季」
 素晴らしいではないか。音楽は鳴り止まないこの物語。いつまでもいつまでも、一緒にいれる最高のハッピーエンドだ。
 祥季は春菜からそっと体を離した。すぐそこにある春菜の瞳を見据える。そして最後に、伝えなければならないことがある。五百年もの時を越え、それでも春菜に伝えなければならないことがある。春菜の大切だった人からのメッセージ。祥季の口から伝えれば、あの人も許してくれると思う。春菜が大切な人と認めた祥季なら。
 祥季は笑顔を見せた。
「『泣かないでくれ春菜』」
 その言葉で、春菜が不思議そうな表情をする。それはそうだろう、だって今、春菜は泣いていないのだから。
 それでも祥季は続けた。
「『お前は知らないだろうけど、父さんと母さんはこう願っていたんだよ。【春に咲く菜の花のように、明るく元気で、そして優しい笑顔を見せてくれる】、そう願いを込めて付けた名前、それが【春菜】なんだ。だから、泣かないでくれ。ぼくにも、そんな笑顔を見せてくれ。お前は、ぼくの大切な妹だから』」
 祥季の言葉で、春菜の中ですべてが繋がった。驚いた視線を祥季に向ける。
「これはあの時、春菜の兄さんが最後に言ってた言葉だよ。おれにはわかったから、だからおれは春菜に伝えた。春菜の、大切な人として」
 祥季が微笑み掛けるその中で、春菜の瞳から涙が流れた。
 わからなかった最後の一欠けらがようやくわかったのだ。五百年もの時間を越え、そしてやっと春菜はすべてから解き放たれたのだ。それは、とても素晴らしいことなんだと祥季は思う。ずっと悩んで、苦しんでいた最後のピースが、ようやくはめ込まれたのだから。大切な人の最後の笑顔。その意味が、やっとわかったのだから。
 でも、それがわかったからといって泣いているばかりではいかない。
 祥季の指が、そっと春菜の涙を拭った。
「泣いちゃダメだ春菜。春菜の兄さんのためにも、笑ってあげなくちゃ。それに、」
 春菜の頬に手を添え、そっとキスをする。
「おれも見たいんだ、春菜の笑顔。春に咲く菜の花のように、明るく元気で、そして優しい笑顔を。春菜のそんな笑顔がおれは見たい。だからおれからも一つ約束だ」
「約、束……?」
 祥季は肯く。
「今度おれと春菜が会う時、春菜の本当の笑顔を見せてほしい。おれの大好きな、大切な人の、本当の笑顔を」
 そして、春菜は手で涙を拭った。少し俯いてから、すぐに顔を上げ、春菜は笑う。
 綺麗な笑顔だった。今まで見たどの笑顔より、優しい笑顔だった。
「約束します」
「よし、それでこそハルハルだ」
 最後の最後で、やはり祥季はそう呼んでしまう。しかしそれでもいいか。だって、春菜はハルハルなのだから。
 もう一度、二人でキスをした。この温もりを忘れてしまわぬように。この温もりをずっと憶えていられるように。
 そして、電車が鳴いた。ふと見れば、一番前の運転席の窓から片手だけが出ており、それがそろそろ時間だという感じに振られた。
 夏は必ず終る。終ったら秋が来て、冬が来て、春が来て、そしてまた夏へと季節は巡る。季節は必ず終る、しかしまた訪れるのだ。季節は永遠に続くわけではないが、永遠に訪れないわけではないのだから。春菜といられる季節は、夏だけではないのだから。いつまでもいつまでも、春菜といられるのだから。
 電車のドアが閉まる。ドア一枚を隔てて向かい合う祥季と春菜。
「今度会うのは春だな。その時まで、元気で」
 ドアの向こうで、春菜は笑う。
「祥季も、元気で」
「おうよ」
 そして電車は動き出す。ゆっくりと、ゆっくりと。しかし着実にその速度は増して行く。やがて電車は駅の端を通り越す。
 祥季は移動して窓から身を乗り出して手を振った。
「また原チャリでドライブしような!! それとちゃんとハンバーガーも買ってきてやるからさ!!」
 もっとマシなことは言えないのか、と思う。しかし、春菜も手を振ってそれに応えた。
「はい! 楽しみにしてますから! 元気で!!」
 春菜の姿が見えなくなるまでずっと手を振っていた。
 この夏が終る。だけど、夏はまたやってくるのだ。焦ることは何もない。音楽さえ鳴り止まなければいつまでも春菜と一緒にいれるのだから。そして、夏はまたやってくるのだから。
 窓から身を乗り出したままで、後ろに流れる景色を見ながら祥季は思う。
 今度春菜と会うのは春だ。
 その時にはちゃんと見せてくれるだろうか、春菜の本当の笑顔を。 
 そう、本当の春菜の笑顔を。
 明るく、元気で、そして優しい、そんな微笑みを。
 祥季が大好きな、春菜の本当の姿を。


 この夏は絶対に忘れないと祥季は思う。
 また季節が巡ろうとも、この夏だけは忘れない。
 春菜と過ごせたこの夏は、祥季の心の中で永遠に続くのだから。
 大好きな、大切な春菜と、どこまでもどこまでも、ずっと一緒に、続くのだから。


 ――この夏は、ずっとずっと続くのだから――。

 ――あなたの中で、この物語が続くように――。


 ――あなたには、大切な人がいますか?

 ――その大切な人の、笑顔が見たくありませんか?

 ――その側で、ずっと一緒にいたいと思いませんか?

 ――わたしがそう思うように、あなたもそう思ってくれますか?

 ――大好きで、大切な人と一緒に、いつまでもいつまでも。

 ――その人と一緒にいたい、その人の笑顔が見たい。

 ――そう、思いませんか?


 ――わたしは、そう思います。

 ――次にあの人と出会う時、わたしは見せてあげるつもりです。

 ――わたしの、本当の笑顔を。大好きで大切な、あの人のために――。


 ――春に咲く菜の花のように、

 ――明るく元気で、そして優しい、そんな笑顔を――。


 ――だって、


 ――あなたのために、わたしはここにいるのだから――。





                          END







2004/04/28(Wed)16:29:12 公開 / 神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
これにて『春に咲く菜の花のように』は完結になります。
目標、夢、栄光、黄金、伝説、未知、700、そして800を超えるという恐ろしいほどの評価を受けたこの作品を、今まで愛読して頂きありがとうございましたっ!!
今まで読んでいてくれたすべての方に感謝したいでありますっ!!
皆様の御かげで、自分はここまでやってこれました。この『登竜門』という素晴らしいHPに出会えたこと、そして素晴らしいこんなにも多くの『小説仲間』に出会えたことを、本当に、本当に感謝しております!!
今までありがとうございましたっ!!!!!!

今回、感謝のレスは手短にさせて頂きますことをお許しください。完結する時に未練を作りたくはありませんので……(オイ
ですが皆さんにレスをお返しするのは本当に楽しかったです!!特に兄貴!(マテ もといグリコさん!!いろいろと楽しかったッスっ!!
それでは!最後のレス返しッスっ!!
亀+さん、緑豆さん、冴渡さん、葉瀬潤さん、DQM出現さん、石田壮介さん、卍丸さん、ニラさん、オレンジさん、晶さん、風さん、飛鳥さん、daikiさん、グリコさん、明太子さん。
最後の最後までっ!!本当にありがとうございましたっ!!!

少し『春に〜』裏話を(ぉ
読んでいてふと疑問に思ったこと数点。
神魔は……もうこれで勘弁してください(マテ
では本題を。
一章のハルハルが祥季の前から姿を消した謎。……あれはハルハルしか知らない抜け道があった、ということで(オイ!
そしてこれは致命的ミス。
春菜の……苗字……忘れてました……(待て待て!
まあいいか、どうせ春になったら、春菜の苗字は『萩原』になるんだし(逝けっ!!
そして春菜の兄さんの名前も……。なんか穴だらけだ……(泣
しかしそれでも、楽しんでもらえたのなら光栄です!!(締めがそれか!!

番外編のことも報告です。二、三日したら、新規投稿で番外編を載せたいと思います。
題名は『ハルハルとネコネコ』ってな感じッス。お暇なお方がいれば、読んで頂ければ幸いです!!

それでは最後にもう一度。
今までっ!!誠にっ!!!
ありがとうっ!!!!ございましたあっっ!!!!!!
それでは、また次の作品でお会いしましょうっ!!!

てゆーか……まさか1000に到達するとは……怖いッスね……(マテ
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