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『夏』 作者:みやねこ / 恋愛小説 未分類
全角18801文字
容量37602 bytes
原稿用紙約64.7枚
死者も我々がまったく忘れてしまうまで、本当に死んだのではない。                  ―ジョージ・エリオット
 人はいつか死ぬ。それは自然の摂理であり、生命として避けて通れない道。そう、決して避けて通れないのだ。

 僕、灰谷祐一の先輩であり、想い人でもあった、中雪なずな先輩は、部活から帰宅途中、交通事故で亡くなった。即死だった。信号を無視したトラックが、先輩のほうに突っ込んだ、と聞いた。
「お兄ちゃん。早く起きないと、部活に遅れちゃうよー。それとも、今日も行かないつもり―?」
「…」
「じゃあ学校に連絡しておくねー」
 8月1日。先輩が僕の所属する天文学部から居なくなってもう…49日。僕はいまだに先輩のことが忘れられず、部活にも学校にも出席せず自分の部屋にこもっている生活を送っていた。
 先輩が死んだことを認めたくなかったのかもしれない。部活に行き、先輩の顔が見られない事が怖かったのかもしれない。だから、家でずっと引きこもっている生活をしていたのだ。
 ならいつ学校・部活に出席するのか、と問われれば、未定だ。僕が先輩の事を本当に想っているなら、死を受け入れ、学校などに顔を出すべきなのかもしれないが、僕には出来そうもなかった。僕の前に再度先輩が現れるまでは。

 
1話 コクハク
 異変に気付いたのはいつからだろう。ついさっきからのような気もするし、ずっと前―先輩が亡くなってからのような気もする。しかし異変は、確実に今目の前で起こっていた。
 異変とは、背中を丸め、壁にもたれかかっていると、右隣から、かすかに何かの気配がある、というものだった。いつしかそれは、気配から確かな感覚となっていた。だが僕は、恐ろしくてその方向を見ることができなかった。
 なんだろう。しばらくカロリーメイトと水しか食べていなかったので、死神が迎えにきたのだろうか。もしくは、妖怪。それとも、ただの幻覚だろうか。いくつもの推測と憶測が飛び交う中、僕は独り言のように呟いた。
「誰ですか?」
 答えはすぐに返ってきた。それも、僕が2度と聞けないと思っていた人の声で。
「誰だと思う?」
 その声は、少しうれしそうで、―それでいて恥ずかしそうな、いたずらが見つかった時のような声だった。
「まさか、中雪先輩?」
「ふふ、当たり。さびしかったんだよ、ずっと傍に居るのに、気付かれなくて。今日気付かれなかったら、消える所だった」
「どういうことですか?だって先輩は―」
「そう、私は死んだ。でも、私は幽霊となってここに居るの。夏休みの間だけ、だけれど」
「えっと…どうして幽霊になったんですか?」
「それは祐一君のことが好きだからだよ」
「へ?」
 思いがけない事を言われた。片思いだとばかり思っていたのに。幽霊になって、性格が変わったのだろうか。
 声のする方に顔を向けた。そこには、黒いつややかな長髪と、淡い黄色のワンピースを着た、笑顔を顔に浮かべている中雪先輩の姿があった。
「ほ、本当ですか?」
「うん。本当だよ」
「あの、実は…」
 ここで言ってもいいのだろうか。ドラマとかなら、もっと…夕日のきれいな場所とか、観覧車の中で言う物だけれど…。
「なあに?」
「あの、ずっと、ずっと好きでした。一目ぼれ、って言うのかな、その、なんだかよく分からないけれど、入学して、天文部に入って、先輩の姿を見たときからずっと…」
「本当に?」
「本当です」
 先輩の顔がかすかに赤く染まる。
「よかったあ。祐一君に嫌われてるんじゃないかと思ってたよ」
「どうしてですか?」
「だって、いつも”一緒に帰ろう”って言っても、断られてばかりだったもん」
「あ、あの、それは、周りの人から見たらその、こっ、恋人同士に見えそうだったからで…」
「でも、今は違うよね」
 先輩が僕の右手を両手で握った。
「どっ、どういうことです?」
 落ち着け僕。
「幽霊は、霊感のやたら強い人と、波長があう人と、強くその人のことを思っている人にしか見えないし、触れないの。今私が見えて、手を握っているって事は、お互いに好きって事なんだよ」
「つまり…?」
「恋人同士に見えてもいい、むしろ見えて欲しい」
 えーっと、落ち着け、落ち着け僕。素数を数えて落ち着くんだ。
「私なんかが祐一君の彼女になってもいい?」
「もちろんです!」
「でも、祐一君はまだ生きてるんだよ?死んだ人の事なんか、放っておいてもいいんだよ?」
「僕が”イヤ”って言ったら、中雪先輩はどうするんですか?」
「成仏します」
「だったら、なおさらです。好きな人…それも二度と合えないと思っていた人と、もう一度逢えたのに、それを手放す必要は無いじゃないですか」
「…」
「それに、中雪先輩のことが単純に好き、っていうのもありますし」
「…」
「…先輩?」
「…ありがとう」
 先輩が下を向いてうつむいた。
「ありがとう。死んでまで押しかけて…それでも好きだなんて…」
 長いようで短い沈黙が、辺りを包む。
 沈黙を破ったのは僕だった。
「…中雪先輩」
「なずな、って呼んで」
「そんな、一応先輩なんですから」
「君にしか見えないのに、気を使う必要ないよ」
「で、でも…」
「なずな、と呼びなさい」
 口調がちょっと強くなる。
「先輩命令です。なずな、と呼びなさい」
 同じ事をもう一度。
「じゃあ…なずな先輩、でいいですか?呼び捨ては流石に…」
「しかたないなあ。それでいいよ」
 ニコッと笑う。
「なずな先輩」
「なあに?」
「部活、あるんです。行ってみませんか?」
「そうだね。久しぶりにみんなの顔が見たいし」
 先輩がすっくと立ち上がったので、僕もそれにならう。そして、ドアのほうに歩み寄り、通り抜けた。
「便利ですね」
「でしょう?幽霊だけの、特権みたいなものかな。空は飛べないけどね」
 もう一度ニコッと笑った。前と変わらない、でも、いつまでも見ていたい笑顔で。

2話 メイワク
 家の外はまちがいなく8月の気温だった。そして、セミの声も本物だった。
 ゆっくり歩きながら、先輩と話す。5分もあれば学校につくだろう。僕の家と学校は近いのだ。
「熱いですね」
「そうね。でも、夏はこの暑さあればこそなのかもしれないよ?」
「そうですね。暑くなければ、つまらないですしね」
「そうそう」
「あと、先輩は地面は通り抜けれないんですか?」
「私の体は、地面に還ったの。つまり、地球の一部になったの。自分の体が自分の魂と波長が合わないわけ無いでしょう?」
「なるほど、よく分かりました」
 他愛ない話で、5分は潰れた。

 しばらく触っていなかった部活のドアノブに手をかけ、そっとまわした。
 ガチャリ。しばらくぶりの音がする。
 キィ、とドアを開けた。中には部長の中谷純先輩と、2年の横山俊之先輩、同じく2年の穂積ゆかり先輩が座っていた。僕をいれてこれで全員だ。
「おお、祐一じゃないか。今日も休むと思っていたよ。…もう、大丈夫か?」
「ごめんなさい、部長。これからは出席します」
 一通り謝ったあと、後ろから肩に手を置かれた。
「灰谷君、今日は何の日か知ってる?」
 穂積先輩だった。
「誰かの誕生日ですか?」
「…今日は流星群の近づく日よ。カメラ用意しておいてね」
「はい」
 横山先輩は中心部に置かれた一つしかない机に突っ伏して居眠りしている。良くある事だ。この人は毎晩、睡眠時間を削って天体観測をしているから。
「あの、僕朝ごはんまだなんで、そこのコンビニで買って来ますね」
「なら、紅茶かって来て。…はい、お金」
 穂積先輩より150円を受け取り、外に出た。そして、ずっと黙っていたなずな先輩に声をかけた。
「どうでしたか?」
「なんだか元気がなくなっちゃったな。…戻りたいな」
 悲しそうな顔をする。
「戻りたいな。皆と話して、テストの点数聞きあって、先生の悪口言って、お弁当一緒に食べて…。戻りたい…戻りたいよ」
 なんと言えばいいのだろうか。なんと言うべきなのだろうか。
「あ、あの、元気出してください」
 結局、こんな情けない言葉しか出なかった。
「…ちょっと、散歩してくるね」 
「なずな先輩…」
 風が吹いた。木々が揺れる。汗ばんだ体に、ちょうどいい心地よさだ。
 風が吹き終わったあと、目の前には誰も居なかった。 
「…」
 事の重大さに気付くのに、しばらくかかった。
 あの人には、僕しか話せる人が居ないんだ。
 それがどんなに辛いことだろう。どんなに悲しい事だろう。目の前に人間が居るのに、気付いてもらえず、気付かせる事も出来ず。ずっとひとりぼっちなのだ。
「だから、僕が―」
 僕が―何だ?僕が、何を出来ると言うのか。行って、慰める?馬鹿な、そんな体験なんかした事ないのに慰めてあげれるハズがない。
 なら、何が出来るのか。僕が、何をしてあげれるのか。
 頭の中を、はてなマークが飛び交う。でも、
 …僕はあの人の恋人じゃないか。
 恋人が、相手を護れなくてどうするんだ。
 行って、護ってあげなくちゃ。

 気が付くと、同じ場所に戻ってきていた。陽はもう沈みかかっている。
 自宅、先輩の家、学校の校庭、屋上、先輩のお墓、何処を探しても居ない。
 そのとき、生前言っていた言葉が蘇った。
『あの神社の境内は、私の好きな場所なんだ。天体観測もよく出来るし、スケッチもはかどるし』
『どうやって見つけたんですか?』
『こないだ親に叱られて家を飛び出した時に見つけたんだ。それから、悲しい事があったときは、ずっとそこに行くようにしてるんだ』
 今行けるのはそこしかない、行かなくちゃ。確証はないけど、そこに居るような気がする。

 神社への階段を2段飛ばしで駆け上がる。脚の疲れが限界になって来た頃に、登りきった。そして、鳥居をくぐった。
 始めてやってきた神社の境内は、少し小さめの公園と言う感じで、周りには林があった。その中に、取り残されたように佇む女の子の姿があった。
 東の空は群青色に染まり、西の空は夕焼け色に染まっている。セミの鳴き声はもうしなくなっていて、かわりにケラの声がしている。
「…ここが良く分かったね」
「昔、なずな先輩が言ってたじゃないですか。それで、ここに来たんです」
「そうだったね。…いい所でしょう?好きなんだ」
「本当にいい所ですね」
「来て」
 そう言うと、奥にある社殿の、その横の周りの木よりひときわ大きな木の根元まで歩いた。
「登ろうよ」
「危ないですよ。落ちたらどうするんですか?」
「大丈夫、大丈夫。落ちないって」
 低い太目の枝に手をかけると、引き上げられるようにするすると登った。
「早くおいでよー。気持ちいいよー」
 木登りなんて、小学生以来やった事が無い。だから少し迷ったが、運動神経はいいほうなので、自分を信じる事にした。
 先輩と同じ枝に手をかけ、次の枝に。また次の枝に。数回繰り返した後、先輩が腰掛けているのと同じ枝まで到着した。先輩の隣に腰掛ける。
「ほら、届いたじゃん」
「結構難しいですね。1回落ちそうになりました」
「私、昔から木登りは得意だったんだ。…ほら見て。綺麗でしょう」
 先輩が指差した先には、夜景が広がっていた。夜景といっても、都会ではないので明るくはないが、周りの林で地面が見えなくなっており、幻想的な雰囲気が漂っている。
「…」
「…」
「…祐一君」
 先輩が僕の肩に頭を寄せる。デキる男ならここで肩に手をまわすのだろうが、こんな体験がはじめてな僕は、縮こまってしまう。
「は、はい」
「ありがとう…私の事をさがしてくれて…ごめんね…」
「あ、謝る必要ないじゃないですか。なずな先輩は悪くないんだし」
「でも…ちょっと嬉しかった。もう嫌われちゃったのかと思ってた。祐一君、大好き」
「…」
 頭がくらくらしてくる。顔が熱い。おそらく、真っ赤になっているだろう。
「祐一君?」
「なずな先輩、僕も…大好きです。だから、謝らないでください。それに、大好きな人に謝るなんて、おかしいでしょ。大好きなら、迷惑かけたっていいじゃないですか。全部受け止めますよ」
「…」
 先輩がこちらを向き、胸に顔をうずめた。
「ありがとう」
「…なずな先輩、一緒に帰りませんか?その、僕の家でよかったら」
 うずめたまま、答えてくれた。
「うん。でも、…今はこうしていたい」
 そのとき、ゆるやかな風が吹いた。
 風は、葉を舞い上がらせ、葉は町の方にとんでゆく。町は灯を灯らせ、僕らはその灯を見つめていた。

3話 アオゾラ

2時間前―
 目覚ましが鳴る3分前に僕は目が醒めた。目覚ましを確認し、スイッチを切ってから、
「お兄ちゃん。早くしないと、部活に遅れるよー。今日も休むのー?」
 ドアの向こうから微妙に高い妹の声が聞こえてくる。いつもなら、”ああ…”で済ます所だが、今日は違う。
「いや、今日は行くよ。朝ごはんはコンビニで済ますから、制服持ってきてくれ」
 妹がリビングのほうに歩いて行った。
 クーラーが涼しい風を吹き出している。少し肌寒いので、妹が制服を持ってくるまで、布団に包まって置く事にしよう。こんなひと時がなんか気持ちよく感じる。
 そのときだった。体の上に、何か重たいものが乗った。
「…なずな先輩、やめてください」
「え〜?しかたないなぁ」
 楽しそうな声が聞こえて、すっ、と体が軽くなった。同時に、ドアが開けられて、妹が制服を持ってきた。
「ほい」
 投げてきたそれを受け取って、妹を部屋から追い出す。
「なずな先輩。着替えるんで…」
「ふふふ、何?」
 かなり楽しそうだ。
「あの、しばらく出てってください」
「じゃあ外で待ってるね。…3分で用意してね」
 着替えを終え、顔を洗い、外に出た。時刻はまだ早いので、涼しい。セミもまだ鳴き始めていない、不思議な時間帯だ。
「遅い」
「ごめんなさい。…行きましょう」

 部室のドアを開けると、先輩たち3人の視線が集まった。そして、一通りの挨拶。この人たちには僕の横に居る先輩の姿が見えないのだろうか。そう思うと、悲しい。
「祐一?珍しいな」
「おはよう、祐一」
「おはようございます、中谷先輩、横山先輩」
「昨日はどうしたんだ?星空観察って伝えたよな?」
「あ…すっかり忘れてました。ごめんなさい」
「まあいいよ。そのかわり、今日の天体観測は出席しろよ」
「はい」
 男子の先輩と挨拶を交わした後、肩に手をポン、と置かれた。
「灰谷君。昨日紅茶買ってきてって言ったよね?紅茶は?」
「…今から買ってきます」

 まず、先輩の紅茶。続いて、サンドイッチを2つ、コーラを二本手にとる。すると先輩が怪訝な顔で尋ねてきた。
「ねえ、コーラ二本もどうするの?」
「飲むんですけど…」
「あったまっておいしくないから、今は買わないほうがいいんじゃないかな」
「いいんです」
 このコーラは先輩に飲んで欲しいから。 言おうとしたけど、言えなかった。
 レジで代金を払い、店を出た。そのまま部室に戻り、先輩に紅茶を渡した。
 そして、
「ちょっと用事があるので失礼します。…天体観測は行きます。8時から、いつもの所でしょ」
 と言い、部室を後にした。
 別に行きたい所があるわけでもないが、あの部室は今居るべきじゃないだから、出た。
「どこいくのぉ〜」
「えっと、何処にいきたいですか?」
「もしかして何も考えずに出てきたの?」
「はい。なずな先輩が悲しそうな顔をするのが、耐えられなかったんです。…だから、行き先は何も考えてません」
「…川で泳いだらすっきりするかも」
「それいいですね。どこかいいところ知ってますか?」
「とっておきがあるんだ」

 僕の家から見える山。その谷間に、先輩の言う”とっておき”の川が流れていた。あまり大きくは無いが、ちょうどいい幅と深さだった。二人でちょうどいい広さだ。
 さらさらと流れる川の水面下に、小さな魚の姿が見える。それが川岸に生えている草とぴったりだった。
「彼氏ができたら、一度来ようと思ってたんだ。映画館とかもいいけど、私はこっちのが好きだな」
 そういう先輩の横顔は、嬉しそうだった。
「なずな先輩、そこに座りましょう。僕おなか空きました。…お昼ご飯になっちゃいましたけど」
「え?…食べれるかなあ」
「大丈夫、食べられますよ。きっと」
 確信なんてない。ただ、なにか食べて欲しい、それだけ。先輩は出会ったときから何も食べていない。
 ”お腹がすかない”らしいが、僕が食事をとるとき、背後でうらやましそうな気配を感じる。
「いただきます」
 重なる僕と先輩の声。
 一口かじると、口の中に普通のサンドイッチの味が広がった。だけど、今はかなりお腹がすいているので、美味しい。
「…食べないんですか?」
 先輩がサンドイッチとにらめっこしていた。手に持っているので、食べられると思う。
「…」
「もしかしたら、食べられるかも知れませんよ。がんばってみませんか?」
「…うん。そうだね。がんばってみるよ」
 目を閉じて、一口…。
「うう〜。食べられない〜」
 食べられなかった。何度挑戦してみても、歯はパンを通り抜けるばかり。
「じゃ、じゃあ、コーラは?コーラならきっと大丈夫ですよ」
 泣き出しそうな先輩にコーラをすすめてみる。コーラのペットボトルを傾け、
 ゴクッ。
 怪訝な表情から、だんだんと晴れやかな顔になった。
「飲めた!飲めたよ!」
 僕も喜ぼうとした瞬間だった。
 ザバッ。
 何か液体が地面に落ちる音がした。

「ごめんね」
「いいんですよ、僕がすすめたんですから」
 結局、飲めなかった。飲み込んだコーラは、地面に降り、辺りを濡らした。
「でも、味は分かった。久しぶりだよ、コーラなんて」
「僕もです。…あの、泳ぎませんか?」
 水面付近で魚がはねた。
「そうだね。せっかく来たんだから、泳ごうか。…着替えてくるから、あっちに行ってて」
「はぁい」
 先輩が奥にある林に消える。
 着替えか…。そういえば、水着もってきていなかったな。
「あの、僕水着とって来ますね」
「りょーかい」
 林の向こうから嬉々とした顔が見えた。

「やっほー。冷たいよー。気持ちいいよー」
 川の中で先輩が手を振ってくる。川の中といっても、腰くらいしか深さが無いのだが。
「今行きますー」
 自転車を置き、水着の上に羽織っていた制服を草の上に放る。
 そして、助走をつけて、勢いよく…!
 ザブン!冷たい水が、僕の体を包んだ。
「ひゃあ!冷たい!」
「いきなり飛び込むからだよ。準備運動した?」
 水着を纏った先輩が近寄ってくる。…目に毒。
「いいえ、大丈夫だと思います。泳ぎには自信ありますから」
「自信がある人が一番危ないんだよ。泳ぐときはちゃんと準備運動しないと」
 目の前が真っ黒になった。体が言う事を聞かない。膝から体が崩れ、水の中へ…。

 …。
 静かだ。静かで、涼しい。そして、暗い。
 仰向けになっているのか、うつ伏せになっているのか。立っているのか、座っているのかも分からない。
《祐一…。》
 どこからか僕を呼ぶ声が聞こえる。動こうとするが、体が動かない。動かせない。
《祐一…。》
 また…。
「祐一」
 今までと違う、はっきりした声。間違いなく先輩の声だ。その事に気付いた途端、体が軽くなった。
「起きて、祐一君…。お願いだから…」
「…う」
「あ!起きたぁ!よかったぁ」
「…う…ん」
 ゆっくりと上体を起こし、瞼を開ける。
「先輩…」
「よかったぁ…」
 目に飛び込む、空色と白。そして、僕の胸に顔をうずめる、先輩の姿。
「おはようございます。…先輩?」
「うっ、えぐっ…。よかった、起きてくれた…」
 ゆっくりと顔をあげ、こちらを見る。目が赤い。ほおに涙の跡が見える。
「…心配させて、すみません」
「ううっ、えぐぅ…。祐一…」
 そして飛びつく先輩。再度動けなくなった僕。
「なずな先輩…」
 僕のほおに、先輩の顔がくっつく。とても、冷たい。
「なずな先輩が助けてくれたんですか?」
「…そう、だよ…。うっ、私が、ここまで、えぐっ、ひっぱってっ、来たの」
「ありがとうございます。…命の恩人ですね」
「おおげさ、だよ。私は、祐一君が…」
 顔を離し、超近距離で見つめあう。微妙に紅い顔、濡れた髪、涙で潤んだ瞳。とても、魅力的だ。
「…祐一君が…」

 家への帰路を、僕は自転車を押して帰ることにした。
「空が蒼いですね」
「本当だね。日本晴れなんて、久しぶり」
 二人して空を仰ぐ。
 荷台に先輩を乗せて、颯爽と帰るのもいいが、もったいなさ過ぎる。
 いつまでも蒼い空、ゆったりと流れ行く白い雲。
 そして、好きな人と過ごす、貴重な時間。
 これらをわざわざ手放す必要は無いと思ったから。それに、事故でも起こしたら、立つ瀬が無いしね。

4-1話 オマツリ
 
 次の日、僕は昨夜の天体写真を現像するためにコンビニに行った。相変わらず空には光り輝く太陽、地面には陽炎。
「夏祭りかぁ」
 コンビニの扉のに貼られたチラシを見て呟いた。場所はあの神社。夜店もいくつか出るらしい。
「なずな先輩、行ってみますか?」
 隣に居る先輩に声をかけてみた。
「…」
「なずな先輩?」
 そこに先輩は居なかった。少し離れた所に、座っている。何かを覗き込んでいるようだ。なんだろう。
「なずな先輩。何してるんで…。わ、猫だ」
 猫が日陰で寝ていた。小さな猫だ。どことなく不思議な雰囲気を纏っている。首輪がついていない。野良だろうか。それにしては毛が綺麗な気がする。
「かわいいですね」
「本当だね。よし、いまからお前の名前はジョンだ」
 夏の暑い日差しは、僕にのみ降りそそぐ。しばらく笑って猫をいじくっていたの後、
「…で、なんだっけ?」
「…夏祭りですよ。あの神社で、次の土日の2日間ですって」
 猫から目を離し、僕のほうを見た。
「行こうよ」

 部活に行く途中、先輩が猫を見てくると言って別行動となった。離れる前に、
「じゃあ、僕はお昼時になったら家に帰りますね」
「りょーかい」
 と言っておいたので大丈夫だろう。
 いつも通り、ドアを開ける。クーラーのよく効いた部屋の中は、男子二人だけだった。 
「おはようございます。…あれ?穂積先輩は?」
「夏風邪だって」
 机に突っ伏した横山先輩が答えてくれた。起きてたんだ…。
「あの、写真現像してきました」
 たくさん現像して、束になった写真をわたした。
「お、どれどれ。…やっぱあそこは環境がいいんだなあ。邪魔な光が入ってない。これからも通う事になると思うから、機材準備たのむぞ」
「はい」
 横山先輩が中谷先輩に写真を渡した。
「うん、よく撮れてる。今年の文化祭の写真はあそこで撮った写真でいいだろう」
 嬉しそうに写真を眺める先輩たちに、
「あの、次の土日はお祭りがあるらしいですよ。…あの神社で」
「次の土日は、小学校もお祭りじゃなかったっけ?」
「たしかそうだったな。よし、次の土日がすぎるまで部活は休みだ」
 この部活に基本休みはない。先輩が休み、といったらその日は休みなのだ。
「じゃあ僕、今日も用事あるので」
「ああ、また明日。…今日は何曜日だっけ?」
「えっと…金曜です」
 学校から家への帰り道、ちょうど神社の下辺りに来た時、立ち尽くしているなずな先輩を見つけた。
「何してるんですか?」
 声をかけられた先輩は、ちょっとびっくりしたようで、少し焦りながらも、どうしたのか教えてくれた。
「あのね、ジョンを追っかけてたの。どんどん小さなところや、壁を渡っていくんだよ。それで、何処に行くのか調べてみようと思って。…この辺りに来たときに、フッと消えちゃったの。それで、ずっと探してるんだけど…」
「どれくらいですか?」
 先輩が見逃したとしても、突然消えて、探して見つからないなんて事は少ないはずだ。
「1時間くらい」
「1時間探して見つからない、ということは、きっとどこかに行ったんですよ。おそらく、明日になれば出てくると思います」
 先輩は何も言わなかった。悲しそうにうなずいただけだった。

「お兄ちゃん。朝だよ。早くしないと、部活に遅れちゃうよ。続けようよ部活」
「もう朝か…。今日は部活休みだよ」
「そうなの?じゃあいいや」
 ドアの向こうで遠ざかる足音が聞こえた。
 足音が完全に聞こえなくなってから、うつぶせの僕の上に馬乗りになっている先輩に声をかけた。
「さて、どいてくださいなずな先輩」
 僕は金縛りにあったみたいに体が動かない。
「え〜。もう少し〜」
「…じゃあ、あと5分でいいですか?」
 意外だったらしい。
「え〜っと、…なんて言ったの?」
「あと5分でどいてください」
「あ…うん、分かった」
 
 そしてコンビニの前。溶けるようなアスファルトと焼け付くような日差しのなかで、昨日と同じ場所で木陰で涼んでいる猫を見つけた。
「ほら、あの猫じゃないですか?」
「本当だ〜。ジョンだ〜」
 喜んで猫の元へかけていく。…なんか面白くない。
 猫が目を開けた。そして、先輩のほうをじっと見た。
「…」
 しばらく二人は見つめ合っていた。だが、
「ニャーゴ」
 という声でそれは中断された。猫の背後に別の猫が立っていた。
 3つの視線がその猫に向かう。しかしその猫は、関係ないという風に、先輩の前に居る猫に近づいて行く。そして、ジョンの前に回りこんだ。
「なずな先輩、こっちへ」
 先輩を手招きでこっちにくるように言う。険悪な雰囲気だ。セミの鳴き声がすこし小さくなった気がする。
 二匹が対峙する。
 お互い自然体だ。特に、ジョンのほうは寝転んだままだ。
「喧嘩…?」
 僕が呟いた瞬間、ジョンが立ち上がった。そして、新しく来たほうに近づいた。新しく来たほうは、背中を向けてやって来た方向に歩み去った。ジョンを連れて。
「ジョン」
 駆け出しそうになる先輩を、手を握って引き止める。
「なずな先輩」
「ジョン…」
 2匹が完全に見えなくなるまで、同じ姿勢のままだった。
 …ジョンが涼んでいた木陰は、不思議な悲しさが漂っている気がした。

「じゃあ、着替えてくるので、ここで待っててください。すぐに戻ってきますので」
 神社の階段の下にあるベンチに座りながら、横に居る先輩に話した。すでに日は傾き、陰が長くなっている。
「分かった。じゃあ私も着替えてくる」
 自転車に乗り、猛スピードで家まで帰った。そして、制服から普段着に着替えた。
「お祭り行ってくるから。…晩御飯はいいよ、夜店で済ます。遅くならないようにするよ、じゃ、行ってきます」
 神社までの道のりに、とても急な坂がある。そこを登っている時だった。視界の隅に何か見えた。自転車を急停止させ、何があるのか確かめた。
 ジョンだった。水の無い乾いてひび割れた田のあぜに、ジョンがいた。いつもと同じ姿勢ではなく、倒れているといった感じで。
「ジョン?!」
 すぐに駆け寄った。右前足と左後ろ足が怪我をしていた。血が足を汚している。
「まってろ、すぐ何とかする」
 何とかする、といっても、この辺りに薬屋は無い。まずは、用水路で血と汚れを落とし、シャツを破いて包帯を作った。その間ジョンは全く動かなかった。
 数十分が過ぎ、治療は完了した。ちょっと不恰好だけど。
「ほら、もう大丈夫だ。動けるか?」
 ジョンは何も言わず走っていった。動けるようだ。

「遅れてごめんなさい」
「何をしてたの?」
「ちょっと、いろいろあって…ごめんなさい」
「…行こっか」
 神社のお祭りにはあまり人が入っていなかった。神社が小さいので、仕方ないが。
 前の方で何かやっているようで、小さな人だかりが出来ていた。
「何かやってるね。見てみようよ」
 それは、何かの儀式のようだった。季節的に、豊穣を願うものだろうか。
「わぁ。上手だねえ」
「本当ですね。…こんなのが何時までも継がれるといいですね」
 演劇をする後ろに横切る小さい姿。…ジョンだった。
「あの、ちょっとトイレ行ってきます。…今度こそすぐ戻ります」
 ジョンは社殿の後ろに回った。誘っているようだった。先輩に見えないように移動した。
 社殿の後ろに、猫は居なかった。代わりに、一人の少女が居た。薄紅色の着物を着た、髪の短い小さな女の子だった。視線は鋭く、僕に注がれている。
「あれ?確かにここに…。ねえ君、猫を見なかった?前足と後ろ足に包帯巻いてる猫なんだけど」
「見なかった。ここには私しか居ない」
 冷たく、淡々とした声だった。それでいて、しっかりした声だった。
「そ、そう…。じゃ、またね」
 鋭い視線で見つめられた。不思議な感覚だ。なんとなく神々しい、近寄りがたい感覚。
「祐一〜。見つけた〜」
 背後から声が聞こえた。同時に、この少女の視線も移動する。…視えるのだろうか?
 少女が先輩を見た瞬間、冷機を纏ったかのような言葉が聞こえた。
「その人といる限り、いつか必ず、あなたは死ぬ」
「…え?」
 その方向に顔を向けたが、暗闇がひろがるばかりだった。
「祐一?なにやってるの?一人で」
 先輩が僕の方を向いて話す。
「あ、いや、別に何も…」
「ふーん。終わっちゃったよ、踊り」
「じゃ、じゃあ、帰りましょうか。あ、明日も、お祭りはあるんですし」
「そうだね。明日ゆっくり楽しもうね」

「さ〜て、今日はいっぱいお祭り楽しもうね」
 先輩は、朝からずっとこんな調子だった。
「そうですね」
「どうしたの?悩みごと?」
 悩みと言えば悩みだが、どちらかと言うと考え事に近い気がする。昨日の晩からずっと、あの少女のあの言葉が気になっている。
 ”その人といる限り、いつか必ず、あなたは死ぬ”
 死ぬ?僕が?そりゃ、僕だっていつか死ぬだろうけど、それが先輩のせいになるとは思えない。でも、なぜ死ぬか気になる…。
「もしかして、勉強の事?わからないなら、教えてあげるよ」
「違いますよ。…なんでもないです」
「ならいいけど。でもわかんなくなったら言ってね。教えてあげるから」
「そのときは、お言葉に甘えさせていただきます」
「待ってるよ〜」
 笑顔で微笑んだようだが、見えなかった。

 2回目のお祭りは、人も昨日より多くなっていた。照明用のランプがまぶしい。
「わあ〜。昨日よりたくさん夜店があるね。…あ。金魚すくい〜。久しぶりにやってみない?」
「ほら、金魚すくいだけじゃなく、から揚げやたこやきの夜店もありますよ。定番ですね」
「本当だ。あれ、今日は踊りまだ始まってないよ。今日は最初から最後まで見ようよ」
「昨日は少ししか見れませんでしたからね。…あ。あれ、ジョンじゃないですか?」
 僕の指差した先に、不思議な雰囲気の猫が歩いていた。手足に不恰好な包帯を巻いていた。
「あ、本当だ。猫もお祭り楽しみたいのかな」
「そうですね…。でも、猫だし…」
 にぎやかな中、どうでもいいことに考え込む二人。
「ねえ、包帯してない?」
「あ、あれ、僕です。怪我してたんで…」
「それで昨日遅れたの?それなら言ってよ〜」
「ごめんなさい」
「でも、治ってるみたいだね。…ほら、しっかり歩けてるから」
 確かに、悠々と歩く姿に、怪我をしているとは思えなかった。
 でも、そんなに早く治るのか?
「近くに行きましょうよ。逃げないと思いますよ」
 ジョンに近づいた。案の定、逃げなかった。
 包帯はところどころ汚れていた。しかし、僕が巻いたのよりしっかりと巻かれていた。誰かが巻いたのだろう。
 怪我は跡形もなく治っていた。
「あ。踊りそろそろ始まるみたいだよ。見に行こう。…ジョンはどうする?」
「連れて行きましょう。身勝手ですけど」
 そういって僕はジョンを胸の中に抱え込んだ。嫌がってはいないようだった。
 踊りは、季節の豊穣を祝うものではないようだった。太陽の神様を崇める、というような内容で、最初からずっと似たような動きの連続だった。
「…ジョン?」
 じっと踊りを見ていたジョンが、地面に降り立った。そして、尻尾をふりながら、昨日と同じ場所に行った。僕もそれにならった。
 裏は、表の照明の光が入ってきており、薄暗い感じになっていた。どこにもジョンは居ない。
「お前…」
 目の前に、昨日と同じ少女が居た。着物の右袖から、汚れた包帯が見えた。
「…その手、どうしたの?昨日はなかったよね?」
 答えない。その代わり、冷たい視線で見つめられた。
「なあ、昨日のあれ、どういう意味?…その、僕が…死ぬ、ってやつ」
「そのままの意味。あなたがあの霊といっしょにいる限り、あなたは必ず死ぬ」
「あの、どうしてどうして分かるの?」
「…私は、この社の主だから」
 その声からは、昨日や先程のような鋭さは感じられず、悲しさ漂うものだった。
「…もしかして、神様?」
 あたりがしんと静まり返った。熱帯夜の熱気も、表に居る人たちのざわめきもなくなった。
 風に吹かれて揺れる木の葉の音のみが聞こえる。
「…そう」
「えっと、それで、何故僕にその事を伝えたの?」
「あなたが、私の傷に」
 右手首をみせた。見慣れたシャツのロゴが見えていた。
「布をあてがい、治そうとしてくれたから」
 治そうとした、ってことは、治らなかった、ってことだよな…。
「それだけ?」
「…私、あなたにやさしさを与えてもらったから。やさしくされたから」
「…わざわざありがとう。でも、僕は…、僕は」
 あの人といっしょにいるって決めたんだ。…例え、僕が死ぬとしても。
「…そう。なら、困った事があったら遠慮なく言って。私に出来ることならなんでもしてあげるから。二人を応援するから」
 少し儚い顔をしていた。
 その目から、何かが伝い落ちるのが見えた。
「そのときは、助けていただきます」
 顔が自然と笑った。
「祐一。またこんなところで、何やってるの?」
 先輩の声が聞こえた。振り向いた。
「あの、ジョンがこっちに来たので…」
 少女のほうを見ると、ジョンが何事も無かったかのように座っていた。
「いいじゃない。もともと連れ出したのは私たちなんだし。…それに、猫の集会って知ってる?夜な夜な集まって、集会するんだよ」
「本当ですか?その話」
「本当だよ。だから、ジョンもそれに行く途中だったのかもしれないよ。だから、行かせてあげよう。私たちも、十分楽しませてもらったし」
「そうですね。…ジョン、また明日」
 ジョンの姿は無かった。
 遠くから僕を呼ぶ声が聞こえた。
「祐一〜」
 振り向いた。そこには、天文部の先輩たちがいた。全員揃っていた。
「あ、皆さん。こんばんは」
「おう、こんばんは。…何してんだ、一人で」
 そうだ、先輩…。
 横を見ると、不思議に楽しそうな先輩がいた。
「あ、すみません。ちょっと、トイレいってきます」
 先輩の手を掴んで、トイレ裏に連れ込んだ。
「なずな先輩、僕どうしましょう」
「ん〜。祐一君、私を案内して。たまには、女の子をエスコートするのも悪くないよ」
 確かに、そうかもしれない。
「じゃあ、僕が案内します。…えっと、…ついてきて下さい」
「は〜い」
 笑顔だ。見ているほうも、思わず顔が緩むくらい。そしてその笑顔の主の手首を、しっかりと掴んだ。
「祐一。遅いぞ」
「すいません。…あ、たこ焼き」
「分けてやらんぞ。自分で買えよ」
「相変わらずけちだね〜」
「へっ、美味しいものは自分で買うもんだ」
 確かにそうかも知れない。
 振り出しそうな夜空、とはこのような空を言うのだろう。
 星々が煌いていた。小さい星、大きい星。明るい星、暗い星。
 先輩のほうを見た。
 もしかしたら、この人は最初から聞いていたのかも知れない。
 知ってか知らずか、先輩の目から、儚い何かが流れた。それは頬を伝い落ち、地面に吸い込まれる前に消えた。

4-2話 トマドイ
 先輩の目から、儚い何かが流れた。それは頬を伝い落ち、地面に吸い込まれる前に消えた。
「…先輩?」
「…帰ろう?そろそろ、夜店も後片付けし始めてるし」
「…そうですね」
 気のせいだったのだろうか。そう思ったが、家までの道を歩いている途中の、先輩の一言で吹き飛んだ。
「…どうするの?」
「…何がですか?」
「…聞いたんでしょ?私には視えなかったけど…」
 うつむいた。声が震えている。
「…はい。聞きました。あの社の主から、僕が、その…」
「”私といっしょに居ると死ぬ”」
「…」 
 そう、その通り。神様が言ってくれたんだから、ほぼ間違いないだろう。
「で、どうするの?私と離れる?それとも、…このままいっしょに居てくれる?」
 そんなの…。決まってる。
「僕は、僕は…」
 先輩と一緒に居ます。
 たったこれだけ。この言葉さえ言えれば、僕は。
 唇が動かない。言いたいけれど言えない。
 体から汗がひいていく。
「無理、しなくていいんだよ。それにもともと、私、こんなところに居るべきじゃないって…」
「僕はなずな先輩と一緒にいます」
 言った。言えた。
 先輩の顔が僕の方を向く。そして、悲しみから驚きへと変わる。
「…!」
「僕は、なずな先輩が大好きですし、それに、まだ一緒にいたいですし」
 視界が滲んでゆく。声もなぜか涙声になる。
「でも、いいの?死んじゃうんだよ?」
「死なない方法も無い事も無いって言ってましたし」
 嘘をついてしまった。
 愛する人に嘘。許されるのだろうか。許されるべきなのだろうか。
「本当?」
「…本当、です」
 許してもらえなくたって良い。
 先輩を、安心させてあげられるなら。僕でも、先輩を安心させてあげられるなら。

 夜はすぐにふけた。あれから朝まで、二人とも一度も話さなかった。
「うぅん」
 久しぶりに自力で起きた。妹はまだ寝ていた。自己新記録だった。
 いつもなら起きていると背中に乗っかっている先輩も、妹の部屋でまだ寝ているようだった。
 僕は布団から抜け出し、制服に着替えた。そして、玄関の扉を開けた。
 もう明るくなっていた。しかし、まだ暑くなかった。そして、歩き出した。
 向かう先は神社。昨日のことが夢であって欲しかった。
「はぁ、はぁ」
 階段をいっきに駆け上がった。昨日のお祭りの後が微妙に残っている中で、ジョンの姿を探した。それはすぐ見つかった。賽銭箱の上に乗っかっていた。
「ジョン」
 ピクン、と耳が動いた。
 瞼がゆっくりと開いた。
 そして、気がつくと、昨夜の少女の姿になっていた。無表情だった。
「何?」
「…聞きたいことがあるんです。教えてくださいませんか」
 無表情の顔は崩れない。
「何?」
 同じ言葉をもう一度繰り返した。
「僕がずっとあの人といるとして、僕が助かる方法はありますか?」
「…死ぬの怖い?」
 …怖い。とても怖い。
「…はい、怖いです」
「…残念だけれど、あなたが助かる方法を私は知らない」
 …無い、のか。
「…ありがとうございました。…僕が死なない方法なんて、あるわけないですよね。逢えただけでも、奇跡なのに」
 自然と目から涙が溢れ出る。
 右手で涙を拭ったあと、前に少女の姿は無かった。
 セミの声が聞こえてきた。
「お帰り。何処に行っていたの?」
 家に帰ると、先輩が聞いてきた。
 先輩の元気な姿をみて、また涙があふれてきた。
「ど、どうしたの?具合でも悪いの?」
「悪くないです。…その、ちょっと、ごめんなさい、また出かけてきます」
「え?あ、ちょっと、祐一」
 家を飛び出した。全力で走った。
 後ろから僕を呼ぶ声が聞こえて来たが、聞こえないふりをした。

 気がつくと、前に来た川に来ていた。
 川は、依然と変わらずにさらさらと澄んだ水を流していた。
 僕は土手に座った。近くで手ごろな大きさの石を探し、清流の表面に投げた。
 石は、三度跳ね、水面下に沈んで行った。そのあとから、波紋が広がり、消えた。
 もう一度投げようとした。しかし、その手は投げる寸前に止められた。
「祐一」
「…なずな先輩」
 黄色いワンピースと真夏の太陽よりまぶしい笑顔だった。
「…祐一。もう一度言うよ。…無理、しないで。私の為に、無理なんてしないで」
「…」
 僕は、無理をしていたのだろうか。『恋人』という無理をしていたのだろうか。死人と恋はするべきではないのか。
 もしそうなら、そんなの悲しすぎる。
「祐一…。本当は、祐一が助かる方法、…無かったんじゃない?」
 見抜かれていた。最初から全部。
「…僕って、かっこ悪いですね」
「…そうだね。…でも、私はそんな祐一が好き。…だから、祐一が死ぬのは耐えられない。お願いだから、無理しないで」
「…解りました。無理はしません」
 …決めた。もうこの決断が揺らぐことは無いだろう。
「…そう。じゃあ」
 悲しみにくれた顔をして立ち上がろうとした先輩の手首を、ぐっと掴んだ。
「僕は、ずっとなずな先輩といっしょにいます。最初に、約束したじゃないですか」
「祐…一…?」
 逆行で表情は見えなかった。僕がこの選択をしたことで怒っていたかも知れない。
 でも、これは僕が選んだ道なのだ。僕が決めた道なのだ。

5話 サヨナラ
 8月30日。事件は起きた。

「お兄ちゃん、大丈夫?」
 布団に包まった僕の顔を、心配そうな顔で妹が覗きこんだ。
「えっと、大丈夫…じゃない」
 頭が痛い。吐き気もする。体がだるい。体全体が熱い。
 体温計が鳴った。取り出してみてみると、39度だった。
「高熱じゃないの」
「薬箱から風邪薬をとってきてくれ。…あと、水に濡らしたタオルと」
「わかった。…何か食べたい物ある?」
「ない」
 急いで洗面所の方に向かっていった。こういうときに妹は便利だ。
「祐一、大丈夫?」
 目を閉じているのでどこにいるのか解らないが、頭の中に先輩の声が響いた。
「全然」
 一昨日あたりからどんどん苦しくなっていた。
 その度に、大丈夫、と言っていたが、とうとうそうも言ってられない状況になってきたようだ。
 もし、このままこんな状態が続けば…。
 …死?
 首筋に冷たい汗が流れた。
 目の前に現実が立ちはだかっているようだった。
 目を開けた。飛び込んでくるのは、見慣れた天井。
「祐一、どうしたの?」
 目の前に心配そうな顔をした先輩が僕の顔を覗きこんだ。
「あの、実は」
 そこまで言った時、妹が部屋に入ってきた。
「はい。部活には休むって伝えたから」
「ありがとう」
 そろそろと出て行った。
「僕、そろそろ死期なんでしょうか」
「…私と一緒に居る限り、死は逃れられないの。でも、私から離れれば、祐一は死なずに済む」
「…僕はなずな先輩と一緒に居ます。そう決めましたから」
「…」
「例え死ぬとしても、人はいつか死ぬんです。それが少し早くなるだけです」
「…」
 目をつぶった。息をするたびに苦しい。暑い。
 クラリ、と意識が何度も吹っ飛んだ。体中から力が抜ける。頭痛もせず、耳からはクーラーの可動音が消え、布団の暑さも感じなくなった。
 少し落ち着いた。
「なずな先輩…」
 僕はうわごとのように呟いた。
 朦朧とする意識の中、薄目を開けた。顔はうつむいて見えなかった。

「う…」
 目が醒めた。夢の記憶などない。目を閉じ、開ければ今のような感じだ。体が軽い。頭痛もしない。
 ベッドに寝かされていた。見慣れない白い天井と、白い壁。そして、小さな窓。そこから入り込む茜色の光。病院の個室らしかった。
 枕もとに、時計がおかれてあった。使い慣れた灰色の時計には、“8月31日 PM6:00”と表示されていた。
「31…日…?」
 眠りからさめたばかりの体で呟く。それが夏休み最後の日だと気付くまで、すこしかかった。
 あんな一度も経験した事のない苦しみが、治るわけがない。
 先輩は、中雪なずな先輩は、自分から出て行ったのだ。
 それなら、僕はどうするべきか。追うべきか、追わざるべきか。
 体が自然に動いた。すぐさま飛び起き、病室を出た。

「先輩、こんなところにいたんですね」
 神社の階段を駆け上がり、裏手の大木の枝の上に先輩はこちらに背を向けて座っていた。
「隣、空いてますか?」
 返事は無い。相変わらず背を向けたままだ。
 幹に手をかけ、全身で登る。先輩の座っている枝まで来たとき、先輩はすっ、と横に移動した。
「祐一」
 横に座ると、先輩が体を寄せて僕を呼んだ。
「はい」
「…どうして、追いかけてきたの?」
 言葉に詰まる。
「…約束、したからです」
 思いもよらない言葉が、僕の口から出た。
「約束?」
「最初会った時、したじゃないですか。ずっと一緒にいる、って」
「そうだったね。ありがとう。…本当にありがとう」
「…」
「でも、それも今日で終わり。この最後の夏休み、とっても楽しかった。いつも私の傍に居てくれて。いつも想ってくれていて。とっても、とっても楽しかった…」
 先輩のほうに体を向けた。灯に照らされた横顔が、とても凛々しく見えた。その目から、涙がこぼれた。
「…なずな先輩」
 先輩が、こちらを向いた。僕の眼からも、涙があふれてくる。
「ずっと、ずっと大好きです。愛してます。だから…!」
 ひしと抱きしめた。顔は見えないが、恐らく笑ってくれていると思う。
「私も…愛してる」
 少し離し、見詰め合った。先輩が目を閉じた。僕も閉じた。
 唇が重なった。やわらかだった。
 目をゆっくりと開けた。すこし色が薄くなっていて、透けていっていた。
 最後に、にっこりと笑った。僕も笑った。
「ありがとう」
 声は聞こえなかったが、唇がそう動いた気がした。

 数秒で、先輩は完全に見えなくなり、枝に座っているのは僕だけとなった。
 結局、僕は死ななかった。なぜかは解らない。最後に、先輩が離れてくれたお陰かもしれない。神社の主のお陰かも知れない。

(先輩…。今、どうしてますか。お元気ですか)
 残暑も無くなり、僕は秋に変わろうとする空を見上げていた。
(あの夏休みは、夢だったのだろうか)
 夢であるはずが無い。そうわかっていても、そう思いたかった。もう一度、先輩が僕の前に来て欲しかった。
(そろそろ僕も、成長するべきなのかも知れないな)
 高い秋空の元、群青色に染まっている空から、2羽の烏が飛んだ。いちゃつくように、でも少し離れながら、すーっと飛んでいた。やがて視界から消えた。
 これから秋がきて、冬が来る。そして、春がきて、また夏が来る。
 この夏は一生忘れない。
 僕が愛した人と一緒にすごした、最初の夏だから。
 僕を愛した人と一緒にすごした、最後の夏だから。
 
 さようなら、なずな先輩。



 おしまい
2008/05/27(Tue)18:36:05 公開 / みやねこ
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思い切って書いてみました。
テーマは題名です。
感想を頂けたら嬉しいです。
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