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『ヒトはカミ、カミはヒト 【一】』 作者:流雲 / リアル・現代 ファンタジー
全角25871文字
容量51742 bytes
原稿用紙約76.95枚

 <混沌T――エルハート・ヴァルセロナ>



 蒼穹の青を、血潮の赤が殺していた。
 火の赤光は美しく、地平線の彼方へと落ちていく夕陽。天では落陽と夜闇が争い始めて、染み出した様な紫は暗天の破片。
 一日が冬眠にでも入る様な風景は、人の手が及ばぬ自然の極地。そこに入るのは神々の聖地に踏み込むのと同意義だろう。
 萌える草原は彩を奪われつつあった。葉の緑から錆びた赤に変わり、今度は闇に押し潰されて溶解してしまう。
 遠くには小人の国。オブジェみたいに聳え立つ建造物が列を成して、人々の息が深くかかった都心だと言うのを一目瞭然とさせている。
 光点が灯り始めて、絢爛豪華には程遠い蛍みたいな明かりが生まれ始めている。街全体が破顔する様な発光は明暗を区分させて、外界と境界線を張ろうとしていた。
 隘路の薄闇でも抱いている様に暗い森林。その原因は梢の天蓋で、空模様を地にも反映している。マイペースな光源が空から去った事で視界が効かなくなり、相手の位置が一層掴みづらくなった事に、ソレは歯茎が砕く様な舌の弾きが苛立ちを漏洩させた。
 小鳥の囀りは哄笑に聞こえた。荒鷹の翔破で巻き起こる旋風が、怒気の代弁者となり音源に叩きつけられる。
 先刻まで足を付けていた地面が、地雷でも炸裂した様に爆発した。後方を見ながら前を進んで速度が落とす愚は避けているので、耳が目となり、触感は手足となって襲来する変化の濁流を迎え撃つ。
 爆発の規模は広大だった。余韻は恐竜の足音で、爆風は台風。円形に砲塔でも突き刺さった様な痕跡から、衝撃という産生児の咆哮が虎狼の爪痕を残す様に大地を抉っていく。
 バネを撓ませるが如く両足を縮こまらせ筋力を収束。身体に働いていた運動力を、釘でも打たれた様に動かず踏み止まる足のブレーキで減殺しきり、刹那の静の縛から生の動へと瞬時に移行する。
 跳躍。幾百の包丁となって飛来してきた木の幹などが靴裏を掠め、反射的にその具合を確かめて一呼吸の停滞に嵌る。
 夜が到来したのか。朝と昼の死後を写す暗黒が身体の色を蹂躙し、影の様に塗り潰されていく。
 ――いや、違う。
 夕陽の名残である赤がまだ他の地面には縫い付けられていた。黒が降り落ちたのは、自分のいる箇所だけ。
 気流は、墓土の匂いを運んできた。紫電が奔る熱が神経を通って脳へと送られる指令の加速を知らせ、一つの情報からこの異常の正体を調査し発覚。
 悪寒が氷片となって血管を通り、心臓を刺す幻痛。
 失敗した。逃亡者はどんなに傷だらけの雑巾になってでも、逃げるという行為に専念しなければ、精魂を使い果たさねばならなかったのに。
 現実は容赦が無い。借金取りみたいに代償を求めて、それは来た。
 観覧車にでも乗っているかの様な揺れが全身に伝播する。しかし直に止んで、口笛みたいな風の子守唄が耳朶には優しかった。
 滴り。獣の溜飲みたいに肌を垂れ下がっていく液体は赤い。最高の純度を誇る真紅は被害の臨界を越えた体という容器が零してしまう命の源だった。
 腹には、二つの指先。焼却炉となって臓器が焼かれていく様な灼熱など意に介さず、貫通を果たした指は纏っていた体温も色も、血に汚染されてしまっていた。元のままだったら、とてもキレイだったかもしれないのに。
 吐血。口紅が塗りたくられる様に唇に塗られた朱は、唾液を含んで粘液みたいな緩慢さで落ちていく。
 沸騰は消え始めて、激痛が奨励したのか、喪失の氷結が骨身を凍えさせる。いや、そんなものより羅列となった単語を、声帯に出せず脳裏でひたすら列挙していた。
 痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱いあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイ■■チ■イ。
 最後の言葉は霞がかかってしまう。惜しい。ようやく塗装を剥がされて露になった自分を拝められると期待していたのに。
 いや、この思考は何なのか。まるで別人。わからない。何処かが壊滅的に故障してしまったのか。
 蝶の斑紋となって頬を化粧してくれる血は、自身が生み出した息子みたいで、とても愛おしい。
 後ろを振り返って元凶を視認してやろうとしたが、隔壁となって瞼が落ち始めている。短冊に墨が垂れていくみたいに、漆黒が無明へと成長していく。
 死体となって寂寥の仲間になろうとする身は、どう足掻いても植物みたいに朽ちるしかない。
 最後に、中途半端なまま夢を叶えられなかった馬鹿者を、つまり自分を思い返してみよう。
 脳に録音されていた、恥らう処女のか細い声が素性を曝していく。


 エルハート・ヴァルセロナ。年はもう、数が記憶の許容量を越えたので数えるのは放棄しました。
 誰もが幸せになれる場所を作ろうと奮闘しましたけど、雀の涙くらいの幸福しか、皆に与える事は出来ませんでした。
 仕方ありません。エルハート・ヴァルセロナは落ちこぼれですから。
 三流のマジシャンが得意気に披露する現象しか発現できないので、皆からは迫害を受けて来ました。
 その辛苦も終わります。ああ、それは嬉しいけど哀しいです。
 何時か、凄くすごく精進して、皆を見返して、足を引っ張ってて御免ねって、謝罪したかったのに――コレハオモテダ。ウラメンノシコウハコウダ。ミセビラカセ。
 壊れた蓄音機みたいな雑音から、とてもミリョクテキなシンセイをモラッタので、ジュリします。
 皆の満月みたいに丸いあの柔らかい顔を、気持ちよくなるまで。ううん、飽きるまで、かな。
 潰してあげたかったです。とてもザン、ネン、で、す……。





 <平穏T――伏月行夜、水梨綾香>





 縛り付けた様に身体が動かなかった。この場所は全部が不明瞭で、直に反転し消滅する可能性を秘めた壮大な曖昧の絵画を使い回している。
 忘却という空白。記憶という曖昧の混合する架空に、何時の間にか精神は売り渡されていた。
 そこは、何枚もの写真を見ている様に映像が飛び交い、やがて戯画となって燃え尽きる。そんな郷愁と後悔が埋葬された夢という墓場。
 鳥となって大地を俯瞰しているのか、近くて遠い、奇妙な距離を感覚が感じている。手を伸ばそうと意識しても何も動かない。何故なら自分には操る手足は無く、幻肢を実物として扱おうとしているからだ。
 一人の、少年がいた。体育座りで膝に顔を埋もれさせ、腕は足が開かない様に拘束の役割を果たしている。
 その双肩が、そして時折頭も熱病に侵されている様に震え、その度に吐息とは違う、悲哀が尾を引く断片的な嗚咽が聞こえた。
 理由は分らず、所詮他者の立場である自分にはその心境など把握できはしない。だが、その少年が内から沸き上がる悲哀に思考を洗脳され、泣く事でその感情を必死に処理しようとしているのは分った。それはあくまで視覚が捉えた情報からの推測だが、自分がその考えに、何の熱も帯びさせていなかった。
 人間は、自分が可愛そうだから涙を流し、周囲を同情させて味方を作る為に泣くと聞いた。鋭利で冷酷な観察眼を持ったその人物は、高僧の悟りを開いた様に、物事にとにかく無関心だったと記憶している。
 幼い頃、自分は妙にその理論に共感を抱き、納得していた。父母がテレビの画面の番組で流した涙を、路傍の石みたいに安いものだと受け取り始めてもいた時期。
 その人物は、学者を気取る風でもなく、ただ退屈で凡百な言葉を並べた。
 結局、人は外側から何かを得る事など出来ず、内側から懸命に足りない部分を補い、それに失敗したら見栄を張る事しか出来ないと。
 人生には試練があり、それを乗り越えられれば社会という檻に入れられても直に環境に適応できるが、もし乗り越えられなければ、無価値な家畜にしかなれないと。
 君がそうならない様に、心に祈っておけばいい。そう言われた。
 神に祈れとは言わなかった。その点を詰問したら、その人は笑いの発作に身を任せ、腹をかかえて高笑いした。
 それが夢に敗れた革命家の哄笑にさえ聞こえたのは何故だろう。今となっては、無駄に感受性が豊富だったから、と適当な返答を用意できてはいる。だが、正しいとは思えない。
 臨終を迎えた老人みたいに息を切らしながら、その人は無垢な質問に冗談も混ぜず、真剣に答えてくれた。
 神はいない。もし実在したのなら命の親である筈の神が、命に寿命という制限を付ける筈がない。だから、その存在は虚構。
 愉快な成分がその声には含有されていたが、まるで論文を音読する様に淡々とした台詞だった。
 視点は過去から今の夢幻へと戻る。
 少年の嗚咽は止まらない。幽霊でも可視できるかの様に、未だ沈静の兆は見えていなかった。
 退屈だ。不謹慎だとは思うが、彫像と化した自分にも、泣く事に没頭している少年にも倦怠感が芽生え始める。
 泣き止め。とても耳障りだ。
 泣き止め。扱えない感情の清算など放棄して、とにかく立て。
 泣き止め。後は前に進み、その負が見失う程に心を駆けさせろ。
 子供の彼には、弱者でいる事は許される。でも、時間の断罪は永遠なのだ。何時までも止まっていれば、やがて制裁が来る。
 脆弱な乙女が紡ぐ歌声の様に。その泣き声の余韻は、まるで怨恨に囚われた死霊のざわめき。
 闖入者。
 瞼がたった一度の開閉を成した最中に、少年の前に誰かの裸の足が見えた。
 音が、振る。それは水晶の鈴の音みたいに、澄み切った聖母の言葉。
 陶器みたいな、抜ける様に白い手が少年の肩に触れた。小雪が振る光景を見る様な感慨が生まれ、胸中で渦巻く。
 取り残された残雪の肌。冷水を浴びた様に痙攣して頭を上げる少年。
 栗鼠みたいな、可愛い系統の顔つきだった。目元には火傷の様な腫れがあり、表情筋は硬直して柔軟な表情が出来なくなっている。
 そこで、蜃気楼の歪みが訪れた。二人の個が形を失い、粒子となって霧散していく。
 さよならも、また今度という当然の概念が無い、宇宙の様に空虚な王国。
 今度来訪した時には、今の続きが見れるのだろうか。
 もうそれだけが、夜を待つ自分にとって、人間らしい期待を抱ける行事(イベント)だった。
 水晶の鈴が鳴り響いた気がして。それは綺麗な声だった。

 やっと、君に会えるね――。










 十一月中旬、肌を切る冬の季節は魔女の世界だ。
 まるで接着剤で付けられた様に開かない。瞼の重さは鉛だった。
 感覚が環境の情報を拾い始める。空気だけを嗅いでいる様な無臭、呼吸を始めた世界に向けて目覚めの歌を歌う小鳥の囀りは、睡魔の残滓を払えない今の自分にとっては催眠術染みていた。
 足裏は沼にでも沈めている様に何かと接触している感触が無い。踵は薄い粘土でも潰しているのか、何か柔らかいものと触れていた。
 脳という記憶の保管庫から、自分の体性を示す単語が発掘され、焼き付いた。
 横臥。休養を要求する肉体の圧力に屈伏し、直立以外に二足歩行の生物が取る基本的な姿勢だ。
 重厚な城門が開くかの様に瞼が持ち上げられ、正面から浸入していた光条の一矢が網膜を刺し貫いた。
 粘土と隠喩で表していたその正体は毛布だ。ベッドの上に長躯とも小柄とも言えない、年齢からして平均的な体躯を預け、体重の負荷を乗せている。
 掛け布団などは台風にでもあったのか、全て下のカーペットの上に落ちており、毛布も老婆の皺みたいな歪が目立つ。
 冬の時期で何も掛けずに眠ったらしい。普通なら風邪を招く体調崩壊の一歩を踏んでいる所だが、鼻孔が通し、吐き出す気流に乱れは無く、至って平常を維持していた。
 麻酔をかけられた様に感覚の乏しい肉体も、指や頭、足などの動作を試験している内に感度良好になってくる。
 まるで無機物を精査する確認を始めるのが、伏月行夜の生活のリズムの序曲。
 周囲を見回せば、質素という印象が浮かび、曇天が充満している様な薄闇が昼夜を逆転させる。
 窓のカーテンが外界と部屋を隔絶し、極力光量を削いでいるのだ。空気も湿気を含んでおり、換気の回数が微小なのを示している。
 四方を均等のスペースを開けて塞ぐ壁。箱の様な部屋の構造の一番奥にベットがあり、調度品も一通り揃っていた。冷気を凌ぐ必需品の一つである火燵。底の浅い湖みたいな色具合の布に付いた模様は複雑な顔をした粗末な人顔で、見方によっては溺れている様に見えた。値段を優先して品物を購入しているので、疾走してはやがて暴走し破滅する流行の情勢などは異界の出来事の如く無視している。
 正四角形のテーブルで布を挟み、内部を羊水の様な温度を満たす。この部屋で、彼がいつも団欒で味わえる温もりの代用品。
 だがそれは偽者。昔に触れた本物とは、雲泥の差があった。
 廊下へと続く扉の右隅には小型のテレビがあり、その画面を霧が覆う様に埃が張り付いている。家具として機能させた事は無い。そもそもコンセントすら差し込んだ記憶も無い。
 両親が最低限の物は揃えてくれた。だが、テレビの配置だけは頑なに拒み続けたのだが。
 伏月行夜という人間にとって、音は世の理が無尽蔵に生み出す宿敵だ。現状では心音にすらその敵愾心を燃やし、その勢いは衰退を知らない。
 その真逆の位置には冷蔵庫。ただ、これも中はほぼ伽藍と化している。大抵の食事はコンビニに売っている軽食で済ますのだ。飲み物は全て付近の公園にある蛇口の水。路地に投棄されているビニール袋を引き裂き、そこから空のペットボトルを入手し、中に溜め込む。
 放蕩人の収容所。マンションの一室を寝床として生活する身分としては、変にサバイバーな行動を取る。欲望と堕落が育つ東京という享楽の園の住人にとって、確実に異分子だ。
 そう、彼は異分子だった。”普通”から逸脱している、律に囚われない一つの罪。
 殺人や麻薬、禁止された領域でしか順応できない偶然の悪戯の胎児。
 彼は、音を嫌っている。少し装飾を付けるなら、親の仇であるかの様に憎悪していた。幼少期の頃からだ。
 突発的にその感情は理性を蹂躙する激流となり、その時から彼は裸の本能に恭順して生きている。
 騒々しいなら静め、鼓膜に渦巻く喧騒の音源を抹消し、太陽からは逃げて、そう矢面には姿を曝さない。まるで密林に潜む黒豹。
 そんな彼にも多少は人間性がある。両親を神の様に崇拝していたのだ。自分を生んでくれた事に感謝し、王侯に仕える臣下の如く忠実だった。
 父親などに良くあるケースなのだが、息子に自分の立場がどれだけ大層なものかを理解させる話題としては、高確率で出産を選ぶ節があるらしい。
 曰く、『自分が妻と結婚してなければお前は生まれなかった』など。これを強味として、威風堂々と構える輩が多い。親であるにも教育などの条件があるのだが、その部分を完全に失念していてこその、間抜けの台詞だ。
 僥倖にも、彼の両親はその例から外れた稀有な人物だった。富や地位などの力など無い平凡な二人だったが、世俗化が加速するこの時代に置いて、その寛大さは本当な貴重だった。
 彼の目上の者へ敬意を払う姿勢に赤の他人と接する様な距離を抱き、学業など必要最低限の事を頑張って欲しいとだけ告げて、自分勝手な指図など一度もされた記憶が無い。近所でもその信頼性や人気は飛び抜けていて、善意の塊などとも噂されている。
 その性格がより行夜の忠誠心を重厚なものにさせてしまう訳なのだが。日々両親の長寿を心から願い、家事などの労働での負担を最小限にする様に努めていた。苦ではなかった。軽い賛辞を貰っただけでも、それは彼の生の中で何よりも名誉となった。
 ――今の日々は矛盾していて、全く本意ではない。出来損ないの悪夢に放り込まれた様な気分だ。胃の腑に煮立つ黒い溶岩の泡立ちが、次の爆発を待望している。
 この現状を作り出した最大の元凶は、皮肉にも行夜自身だった。狂人としての素養と、もう一つは両親が唯一自分に言い聞かせた必要最低限の完遂――学業に関係している。簡潔に言ってしまうと成績だ。
 最初に成績表を渡された時、まるで生徒という作品がどの程度の性能を持っているかを評価する教師の驕慢ぶりを感じて不快だった。
 三つのアルファベットを使う事で能力を明確にするその表の内容が、全て一つの文字しか使っていない事も奇妙に思っていた。何かの手違いか。だとすればテストで書き終えたら見直す様にだのと執拗に警告しておいて随分な怠慢だと憤慨したりもした。それが顔に出ていたのか、付近の生徒から含み笑いが絶えなくて、気分は最悪だった。請われて自分の成績を生徒達に見せてみると、酸欠の鯉みたいに口を真円の形に開いて硬直して、最悪に疑念が混ざった。あれはもう石化の域だったと思う。
 下校中も色々と不安が残留していたが、意を決して成績表を渡すと、両親は同時に立ち上がって小躍り。狂喜乱舞を体現し、過剰な賞賛を送られた。
 あまり得心がいかなくて眉根が寄ったが、まぁ父母を喜ばせる良い材料になる、と当時の自分は何とも適当にその疑問を完結させた。
 小学校、中学校に上がっても記された数字は一つ。自分は他者と同じく、雑事を掃討する軽い気持ちで勉強や運動などをこなしているのに、その結果はおかしかった。
 心境は真理を知る為に奔走する哲学者。職員室にまで行ってその理由を担当の教師に尋ねてみると、何故か異国の言葉を聞いた様に間の抜けた顔をされた。
 何処かで発音を間違えた?だとすれば恥ずべき失態だったが、後に教師は微苦笑してこう語る。
 『他の子には言わない方がいいよ。目の仇にされるか、プライドを砕いちゃうだろうから』
 質問の解答になってない。不満を覚えたが、それ以上は取り繕って貰えず、渋々追求を断念。
 儀式でもするみたいに毎度小躍りする父母の様子に至福を感じながら、砂の様に時間は過ぎていった。
 自分の能力が裏目に出たのは高校の入学試験で上級生が強制的に勤勉になった頃。あの頃は教室も伽藍の静寂が降っていて極楽だった。
 そんな些細な幸福を完膚無きまでに破壊したのは、とある一言。推薦入学だった。
 今までの経歴は筒抜け。教師にその案を言われた時は保留という形にしていた。自分の行動の決定権は両親にある。それが自己の欠落だと、薄々は自覚していた。
 相談した結果、受けるべきだと両親は賛成の意を示した。躊躇なく首肯。多分あの反応が分岐点で進む方向を確定させたのだろう。浅慮だった。
 決まった高校。酒精の勢いで夜空に咆哮する父。いつもなら窘める母だが、その時は慈愛の微笑が崩れる事も無く。
 その場所を知った時、己が登っていた階段が死刑囚を待つ断頭台に繋がっている幻覚を見た。
 自宅があるのは秩父方面だったのだ。高校は東京にあり、通学するには電車が必須で、時間を計算すると面倒極まりない。
 そこで、母が出したのが東京に一時期独立し、近辺に居を構えるというもの。
 多分、両親としてはどうにも協調性などが不足している自分を家庭という檻から放り出し、個人での生活がどれ程大変か、コミニュケーションの重要性を伝えたかったのだろう。
 無論、彼は断固抗議した。玩具を欲しがり駄々をこねる子供の如く、挙句の果てには土下座までして拒んだものだ。十七年間人間をやって、最初で最後の感情の発露だろう。
 だが、親は子を崖から突き落とした。つまり懇願は受容されず、身支度を整えて翌日には家から叩き出された。
 普段からは考えられない迫力で叱責を受け、目尻に何か熱いものが浮かびつつも巣立ちを迎えたのだ。
 そして、現在。鬱屈は溜まるばかりだ。
 惰性で高校に通い、時折国際電話で連絡を取り、両親の体調、周囲の変化などを入念に聞き、何か悩みがあれば休日を使って即座に駆けつける。友達など一人も出来ず、若人らしく娯楽を満喫する機会など一度も無い。
 そこに音の問題まで便乗し、今や飢餓感に屈し、腹を満たすまで止まらない肉食獣になる寸前で何とか止まっている。深夜にその衝動を発散してはいるが、根絶させた訳ではない。嵐は何度でも来るのだ。
 真剣に自殺を考えたが、父と母が墓前で落涙する光景が脳裏を過り、想像内で愚行した自分を何度も殺した。
 何時か線が切れるかもしれない。そうなったらどうなるだろうか。結末だけは明白で、まず警察の世話になるだろう。度を失ったら制裁が待っている。
 それは駄目だ。伏月行夜に課した絶対律に背く事になる。そう自制を効かせても、そろそろ限界が近い。頭蓋が溶けそうな煉獄の憤怒は、もう血液に溶岩流の灼熱を与えていた。
 ”しかし”と”でも”は何度も交錯して渦潮になる。その均衡が崩れた時、行動の方針が決定するだろう。
 何所までも壊れるか、この退屈に馴染んで人となるか。
 今の所、前者が勝利する可能性が圧倒的に高いのだが。
 思考に耽っていたら、不意に胃が収縮する感覚があるのに気付いた。まだ育ち盛りな行夜の健康体は、活力の充填を訴えている。
(……冷蔵庫……)
 何も無い。かといって、コンビニでまた軽食を買うのも栄養が片寄る恐れがある。
 別に病気など畏怖の対象でも何でもないが、その事が両親に知れたらとても顔向けできない。
 料理などに縁は無い。夕食の手伝いをしようとすると、決まって母に”キッチンは女の城。男は無粋なの”と言われた。まるで聖域に侵入する悪魔みたいな扱いだ。
 皿洗いなど、用具は許容範囲だったがこの年になって味噌汁も作れないのはどうなのか。
 味には固執しないから、喰えればいい。高校は購買屋があったので良く利用したものだ。
 隣室にいる住人から何か拝借するか。いや却下だ。上手く頼める自信が無いし、色々と誤解されるかもしれない。
 一食抜いてしまおうか。一週間は水だけで生きられると言うし、この身体は馬鹿がつく程頑健だ。早々病に侵される事も無いだろう。
 腹時計では今は多分、六時後半と言う所か。昨日の喧騒の亡骸が、まだ地に層を作っている。
 何より弛緩が酷い。疲労が取れてない証拠だろう。今日は日曜で休校だ。流されるままになってしまえ。
 枕に顔を埋め、映像が燃え尽きた様に黒が映える。先刻の空間にまた意識が接続したら、今度は前よりも大きな声であの泣き虫を呼びかけてみよう。
 眠い。とにかく眠い。二度目の虚無への旅立ち。道標は何も無く、ただ漂うだけ。
 瞼が堅牢な城門となり、瞳を閉じ込めた。後はひたすらに停滞する。
 耳障りなチャイムが、小石を投げられた湖面みたいに大気を揺るがす。それが動を命令した。
 客人の来訪を告げる、主への呼びかけだ。
(…………)
 虚構を創造する頭の中で、ある女の静止画が自動で浮かんだ。
 いや、有り得ない。確かに日課みたいにいつもここに来ているが、早朝だ。
 足を運ぶのが早過ぎる。両親が懸念くらい抱くだろう。いや、まさか行き先を告げずにここに来たのか。
 ……一見すれば、分る事だ。
 間断なく鳴り響く電子音は苛立ちの灯火の激しさを増させる灯油だ。
 足裏がカーペットに触れ、羊の体毛でも撫でている様な触感が気持ちいい。
 正面に聳える行夜の身長二人分の距離が開いた扉に歩み寄り、開ける。次に見えたのは玄関まで続く一本道と、その途中の右にある洗面所に繋がる扉。
 目指せば徒歩で五秒にも満たないその間隔が、マッターホルンの頂上まで続く坂道を彷彿とさせた。何故だろう。
 他の住人の迷惑を考えずに電子音は機関銃の如く連続で鳴り響く。苦情を言われる立場じゃないので気楽なものだろう。親の顔が見てみたい。いや、一度見たが。
 到達。洗わずに虎に引き裂かれた爪痕の様な傷が目立つスポーツシューズを履いて、銀の蝶番に手を掛ける。
 開けたくないが、開けるしかない。とりあえずまた一日が雑音で満たされるのは約束されただろう。妖精でも追いかけてそのまま地平線の彼方まで行きたい気分だ。
 来訪者を歓迎する笑顔などなく、ただ冷厳な大理石の表情を浮かべて客人を網膜に写す事にした。
「……はい」
「おはようです、伏――寝間着姿の新鮮な伏月さんです!計算通りです!」
 予想は裏切られない。寝間着が薄紙であるが如く冷気は肌を愛撫し、神経を瞬間的に麻痺させた。
 挨拶の半場で紅葉の朱を頬に浮かべて、これまで誰かに叩き付けた事の無さそうな柔らかい両手がガッツポーズとして拳を作る。少女だ。
 この時間に来たのは偶然では無いと自明するその度胸に敬意を評し、褒美として拳を見舞ってやりたかった。
 群生する林の様に立ち並ぶ高層ビルを背景に、その人物は背筋を伸ばして緑の宝珠が視認している光景を反射させている。
 脳裏に浸透してしまっている眼前の人物の情報。それは土足で他者の時間に浸入してきた無法の形。
 太陽を浴びて黄金の奔流となった河川の様に流れるのはブロンドの肩までかかったロングヘアー。一本一本はまるで妖精の繊手を思わせる。
 整った鼻梁に顔立ちは、完成間近を迎えた女神像でも眺めている感慨を沸き起こらせる。が、これに騙されると手痛いカウンターを浴びせられるのだ。
 校庭のグラウンドなどでしか運動の機会は無いと言うが、無駄な脂肪などまるで無い、白鳥みたいに優美なスタイル。
 一般的な女性の嗜好の枠に入っていると主張する、引き締まったウエストから腰にかけてフィットした、細身で海原の青を塗られたタイトスカート。
 上半身に着用してきたのはセーターで、その形状としては代表的なブルーオーバーだ。頭から被って着るもので、前後の明きが無い衣類の総称。
 その前にも何枚か重ね着しているだろうが、別に知りたいとは思わない。性別から価値観の違いもあるし、素直に教えてはくれないだろう、多分。
 靴はローファーズ。ファッションに関して門外漢な彼には、靴紐を結ぶ必要の無い靴という認識しかない。そういえば、高校で女子の指定靴にも使われていた。欠伸が出るくらいどうでもいい。
 染めているとしか思えないが本人は地毛と言い張っている髪を除外すれば、珍しく飾り気の無い服装だろう。微風に乗って届くシャンプーの香りは、久しぶりの清潔だった。
 笑顔は春の日溜り。とりあえずそれに、剃刀の鋭利さを秘めた厳冬の視線の矢を飛ばす。
「……来るな、と何度も言ってないか……」
「はい、言われてます」
「なら帰れ」
「拒絶は私にとって反対の意味を持つんです」
 包丁でその顔に一生物の傷跡を残してやりたいくらいに都合のいい言語解釈だ。
「両親が心配するぞ」
「いつも”飛び立て!綾香!”って言われてます」
 どう理解しろと言うのか。そして父母の思考回路は異次元に繋がっていると言うのか。
「俺が迷惑だ」
「私が喜びます」
 保育園から抜け出した幼稚園児の魂でも憑依しているのか。親の顔が見てみたい。いや、一度見ていたが。
 上手い口実が見つからない。思考の猶予を与えるのは得策ではないが、閉口は終わらなかった。
「それじゃ、お邪魔しますね!」
 何故か意気揚々とした調子で玄関に入り込んでくる。どちらにせよプライベート満載の空間に入れさせる訳にはいかない。
 それ即ち、自分という人間を余すことなく露見させるのと同じだ。勝手の代名詞みたいなこの少女を止めるのは難儀だが、やらなければならない。
 玄関に四肢を付け、全身で大の字を作り防壁となる。
 が、何故か喜色満面の表情で少女は突貫を開始。全体重を預けて衝突するが、星霜に耐えかねて折れゆく老木の様に軽い。
 腹筋の力のみで押し返すと、頬を風船みたいに膨張させる。その膨らみが永遠の水平を保つ胸板に装備されれば、大砲の威力を誇っていただろう。
「何で入れてくれないんですか!」
「何故入れると思ってるんだ。常識が無いのか」
 今更の詰問だった。
 この少女――水梨綾香との交戦は、これで三桁を超えるかどうかといった所なのだから。
「もう他人と他人の関係じゃないです!立派に友達の域です!何の心配も」
「ある。そもそも異性を簡単に受け入れる器量は俺にはない。何よりお前は雑音だ。消え失せろ、今すぐに。走って新幹線を追い越せる速度でな」
「そんなの無理です!」
 彼にも無理だ。というか、声のトーンを抑えてほしいと願う。それと中間の雑音という箇所は否定しないのか。
 そろそろ住人の活動が本格化する時間帯だ。こんな場面を目撃されたら羞恥心で心停止するかもしれない。
 その予兆なのか、各所から暗い韻律が鳴り出した。恐らく起床の合図だ。
 綾香もその状況に気付いたらしく、姑息な策士の微笑を浮かべ、その意図を示唆した。
 薔薇の蕾の様な口唇が真円を作り、声帯という音波が大海嘯となって大気の波を呑み込む、その十分の一の一秒。
 万人に彫像の静が降る時限の縛鎖の中、彼の右手が迅雷となって閃き、口を抑える壁となった。
 口腔での呼吸の阻害となり、鼻孔から二酸化炭素を蒸気機関の如く排出。男なら設定された反射行動で痛烈なフックを浴びせて悶絶させ無力化するが、流石に女性相手では抵抗がある。
 仕方なく、蟻地獄に誘う様に緩慢に綾香を部屋へと引き摺りいれる事にする。俊敏な動作で背後を取ると首を右腕で絞めて喉を圧迫。食道まで届いているらしく、蛙がくぐもった悲鳴をあげる声しか漏れずに瞳に稲妻みたいな充血の線が刻まれていく。
 しかし満面の笑みを浮かべている綾香が癪に触り、その絹みたいな毛を一本引き抜く。
 夏の頃と比較して遠くなった晴天には、白雲の回遊魚が粛々と遊水していた。
 この空の色は、自分の瞳の染料。だが大地に這い蹲るしか無い伏月行夜という人間には全く持って不似合いだった。
 伏月行夜。来月に十七になる誕生日を迎えて、職業は学生。大半の若人と一致するこの面白味の無いステータス。特別から絶縁状を送られた命の一つ。
 外見。黒瞳黒髪。空色の双眸は懐く前の猫みたいな気難しいものを孕んでおり、何処か不思議な愛嬌を感じさせる。
 百七十七という身長を守護する筋肉は特に練成されている訳ではない。綾香と同等、無駄な脂肪は削るだけ削り、スマートな肢体は女性すら嫉妬を抱く程だ。
 月下の雪原を思わせる白皙の美貌はもはや芸術。額に垂れる前髪の黒がまるで墨であるとすら思わせる。
 肖像画から飛び出した絵みたいに完成された容貌だが、その性格は破滅的に異質である。
 同輩、と呼ぶのは少し妙なのだが、クラスの知人からはファザコンやマザコンと、彼にとって呪文みたいな称号を与えられている。周囲や世間に合わせる気の無い、自己中心的な性根の人間だ。
 夢は無く、趣味も無い。滔々と流れる時の大河に溺れて沈む運命を辿っている。
 そんな簡単な自己解析を終えた彼が第一にした事は、とりあえず私服に着替えて昨日という過去の自分から今日の新しい自分になる事だった。
 結果的に部屋に侵入した水梨綾香を右腕の拘束から解放して、しばらく待つ様に指示。具体的な説明を要求されたので、許可を出すまでと廊下に待機させた。
 だが、とりあえず念には念を入れる。決めたら天へと延びる樹木の様に真っ直ぐに動く直情径行の女だ。あんな約定など破る危険がどうしても消えない。
 鉤をかけると、ベットの下に放り込んであった衣服を取り出し、長く洗濯していない寝間着を千切る様な荒々しさで脱ぎ捨てる。
 選んだのは随分とラフな服だった。まぁ休日には適任であるだろう、軽いものだ。少しくらいは羽目を外したくもあった。
 どうもサイズが合わなくなってきた緑のジャケットに、裾が破けた安物の群青色のジーパン。頻度の多い組み合わせで、春夏秋冬で利用している。
 行夜は体温調節か何かが常人とは差異があるのか、暑さや寒さに翻弄されない強靭な身体を持つ。悪く言えば鈍感だろうか。
 熱などにかかった事は無いし、鼻風邪半日が今の所、病人でいた最長の記録だ。これも両親に敬意を誓った理由の一つである。
 マンションの後方にある小学生や幼稚園児に標的を絞った幼稚な公園で開催されていたフリーマーケットに行き、殺到する婦人の猛威を掻い潜って入手した戦利品。その時に出来た痣が右膝に残っているが、まぁ戦士に送られた勲章とでも受け取っている。
 準備完了。足首や手首を解し、万全の状態に近付く様に体操を始める。屈伸、背伸びの運動。腕立てなど色々だ。
 ドアの向こうから太鼓を叩く様な音量が轟いた。五分かそこらだったと思うが、もう業を煮やしているらしい。短絡的すぎる。主婦としては致命的な欠点だ。
 あの専横な少女とは日本と外国の間にあるくらいの距離を置きたいが、磁石みたいに追走してくるだろう。切っても切れない縁ではなく、切ろうとしても切らせてくれない縁だ。何だか運気でも吸い取られる気さえしてくる。。
 行夜の矮小な世界で、綾香といるとそこは渦中になる。以前はレールを突き破ってまで迫ってきた飲酒運転のトラックの車輪で挽肉にされかけたし、ハンバーガーを頬張りながら帰路についていたら、鴉の群れが夜天を作って襲来してくるという怪奇現象にまで襲われた。ちなみに、綾香は前者の時、躓いていて被害の範囲からは離脱しており、後者の時は小走りして先行し、危機を回避していた。
 綾香と居る事は時限爆弾を赤子でも抱える様に胸に抑えて自滅を待つのと同じ。殺られる前に殺る。弱肉強食に基づいて完全犯罪を模索すらしたが、そこまで聡明な頭脳など行夜には無かった。
 七ヶ月前。高校で入学式を済ませてマンションに戻り、誰もいない静寂にまどろんで満悦の体だった行夜はその夜、ベッドの中に彼女に出会った――。
「ふーづーきーさーん!女の子を待たすなんて最低です!」
 獣の咆哮の響きを持って叫んでくる綾香。
 常識人としては既に失格である彼女の罵倒など、蚊が耳障りな羽音を撒き散らして飛び回っている程度のものでしかない。いや、結局鬱屈は蓄積されるが煩いが。
 玄関での紛争を繰り返すのも不毛。ここは白旗を揚げて彼女を招くしかないのか。男は女に勝てないと言うが、ずっとこのままなら進んで絞首刑の階段を駆け上がった方が断然いい。
 ドアの取っ手に手をかける。二人の空間と時間が繋がろうとした、その間際だった。
 温度の無い乾燥した音色は、まるで風に浚われる砂漠の砂を連想させた。その源は、ドアの向こうから。恐らく綾香か。短く鳴ったのは押されたボタンが指の圧力に対して漏らした雀の悲鳴。
 もしや持参していた携帯に、娘の貞操でも予感した父親か母親が連絡を入れたのか。だとしたら奇跡のタイミングだ。神など字面上の架空の産物くらいにしか思ってなかったが、その株が行夜の中で急上昇する。
 会話を聞き取る為、壁に張り付いて一言一言を聴力に拾わせる。これでも五感の警戒網は優秀だ。瞑目したまま蝿を指で掴む事さえ出来る。
 だが、聞こえたのは破片だけ。単語として成立していないものばかりで、内容が全く把握できない。
 ボタンを押す音を聞き取れたのは僥倖だった。壁に密着してスパイみたいに情報を窃取しようと必死な姿を見られるのを忌避していたから、相手の行動の変化は逃せなかった。
 持ち上がって落ちる。開いたドアはそんな、陽気で陰気な雑音を発してこの部屋への入口の役目を果たした。行夜としては果たさなくて良かったのに、だ。思わず舌を打ち鳴らす。
 綾香の、臨終を迎えた老人でも憑依した様な沈んだ顔があった。何となく質問が憚られる様子に眉根が寄ったが、間隙を置いて、努めて冷たい霜の声で質問を投げる。
「何だ。その亡霊の顔は」
「……親に、何してるって言われて……」
 行夜は将来、殉教者になる事を誓った。
 弾む気持ちを踏み倒す勢いで抑圧し、芝居という皮膜で本性を覆い始める。
「で、何だ」
 口数を減らして失敗を抑える策を実行。何かの箍が外れたのか、頭の回転の速さが独楽だ。
「……事情を話したら……」
「話したら?」
 栄光まで目と鼻の先。
「……昨晩取っておいたプリンを食べちゃうからなって……お父さんが……」
 ――とりあえず、今度からはチェーンロックで警固を強化しよう。








 太陽という光の王冠は、雲海を臣下として従えるかの様にその全貌を晴天に現していた。もし意志でもあれば唯我独尊なのかもしれない。
 寝ぼけ眼にも容赦のない日差しは硫酸を浴びせる様な灼熱で網膜を焼き、硝子体が飛び出す錯覚を植え付けた。そのイメージは卵の殻から滴る黄身みたいなものだ。
 まだフィルターのかかっていた視界も、平手を喰らったみたいに明瞭さを取り戻す。本当の覚醒を終えて、輪郭と色が百二十度の世界に帰って来た。
 アスファルトで舗装された街路が、商店街へと直線で繋がっている並木道。紅葉という秋の名残が惨憺としていて、チェスの盤上で作られた杯盤狼籍の図に似ていた。
 風の旅人に導かれて浮き上がる葉は、紙吹雪の様に舞い散らせる。人工でも何でもない、偶発性という気紛れの親戚が起こした、小さな自然の演出。
 まだ、感性が豊富だった子供の頃。この風景を行夜は折り紙の鶴が飛び交うみたいに見えて、夢幻に魅入られていた。
 だが、それも大地という、翼を持たない命を縫い付けて離さない死蔵の絶対律による、退屈な事象の娯楽に過ぎない。それを知識として得ても、裏切られた様な気はしなかった。別にどうでもよくなっていたからだ。
 今は昆虫の無感動さでこの欺瞞の映像を、真相を受け止めた上で直視している。
 星が用意したただ一つの断罪。それが時間。回避不可能の破滅を齎す神罰。
 時計の針が動く度に、心は磨耗していく。倦怠は好奇心を砕いて、寿命に縛られた傀儡へと人を変えていくのだ。
 復讐という呪縛を糧に、未来永劫に時間は不滅の拷問吏である。
 大気の咆哮は疾風を呼集させ、産毛を引き抜く寒気を持って二人を殴打した。
 行夜は別に何の影響も受けず、正に柳に風といった所。だが、綾香の長髪は台風でも直撃している様に荒れ狂い、腹痛を起こした蛇みたいに荒れ狂って縦横無尽に顔面で舞踊している。可愛い怒気を孕んだ声の音波は、更なる憤怒を持った真空の怒号に咀嚼されてしまった。
 今日は山姥の哄笑染みた風切りが聞こえてくる程に強風だ。綾香の携帯のディスプレイ画面には八時半ばの時刻があったが、人気が無く通夜みたいに閑散とした状況も、これなら頷ける。
 通行人の雑木林に直面する必要の無くなった行夜は、綾香が天候に粛清を受けている場面も見れて満悦の体。口元が弧月を作ろうと歪むが忍耐。ここで堪えなければ彼女の逆襲に合うかもしれないからだ。その予想が的中したら、完全に八つ当たりだが。
 堪忍袋の尾でも切れたか、綾香が終点をマンションの付近の公園に指定した。通常はもっと遠出になるが、流石に短縮された模様だ。
 足運びが重力の負担が減った様に軽やかになる。先行し始めた行夜は、並木道に捨てられたゴミ袋に集る鴉の衆人環視の的になった。
 だが、今の彼は巨人の如く豪放磊落。やがて歩行は疾走になり、少女の避難を双肩に背負って自制という箍を外した。
「ま、待ってくださ……わぷっ!」
「そんな義理は無い。誘ったのはお前だからな」
 口と鼻という酸素補充の器官を髪が漣となって覆い、綾香の発音に狂いを齎す。
 とても爽快な気分だった。何処かの場所では、”宝の風”と言われるものがあるらしいが正にソレだ。この暴風は自分の激情の代弁者なのかもしれない。
 行夜と綾香がこうして外を出歩く理由は別に特別な事ではない。簡潔に言うと散歩である。
 引きこもり予備軍候補の行夜の私生活の全貌をどうやって知ったのか、綾香は外気に触れないからそんなに性格が捻じ曲がると専断を爆発させた。
 その情報網に戦慄の氷塊を背筋に感じた行夜は、しかし一つの数式の頑迷さを持って否定し続けた。
 外には出たくないのだ。自動車の車輪が地面を噛む音、エンジン音、窓という隔壁を抜けて反響するMDかラジオで運転手が拝聴している音楽。
 地球上の生物で屈指の増殖性を持つ人間の荒波。当初の目的はコミュニケーションで、話相手には困らなかった。図書館、喫茶店、露店などに立ち寄れば、主に女子学生やギャルが自分を収束点として殺到するのだ。
 仮面を被る様な、どれも同じ顔が至近距離まで絶え間なく迫ってくるあの体験は死神に鎌で首を切断されるよりも怯惰を招く。回想しただけで怖気が血液を凝固する感じがして、呼吸が途絶した。
 だから我が家を安全圏として避難している。先人だって敵国が空襲を仕掛けてきた時、防空壕という穴や構築物を作って身の安全を確保しようとしたではないか。いわばその手本を参考にしているのだ。この行動は人の倫理か正義か何かに基づくものだ。何が悪い。
 寡黙な行夜しか知らなかった綾香はこの反論に――何より扇風機みたいに呂律を回らせ舌を蠢かせる彼を、別人でも見る様に目を見開いた。
 同時に、嬉しくもあった。奇妙な邂逅を果たしてから四ヶ月、初めて彼が彼女に見せた一面を垣間見たから。
 ならば、彼が嫌っている音に耐性を付ければもっと別の彼を見れるのではないか。夢見る乙女として拍動を高鳴らせた綾香は、ここから孤軍奮闘を開始。その熾烈さは彼女にとって、戦争に匹敵した。
 今は勝利している。しかし敗北感もあって、あまり穏やかな気分ではなかった。


 

 二人はようやくゴールを果たした。
 あまり広くも無く、行夜の期待通りに深山の湖の静謐を降っている公園は、度重なる酸性雨の脅威で地金を曝したブランコやジャングルジムがあった。何だか未確認生命体の骸にも見えて居心地が悪くなる。
 見上げる前方には行夜の居所であるマンションが傲岸不遜な大臣みたいに住宅街を俯瞰していた。中にいると当然分らないが、客観的な立場から見上げると六階建ては流石に尋常の高さではない。これといった発見でもないのだが。
 悪天候の妨害があったからといっても、出発地点からここまで徒歩で二十五分もかかった。体育の授業でグラウンドを往復で走らされるスクールライフの一環を味わっている身分としては、あまり褒められた成績ではない。
 腹の虫の不満を聞いて朝食を取っていない事を二人はようやく思い出した。綾香も女の子で、プロポーションを気にする達だったらしい。ブランチは体重を倍化させる禁忌、などと大袈裟に狼狽。走狗となってコンビニに急行した。
 置いていかれた行夜は所在無いので、公園のベンチにでも腰を落ち着かせてこの静けさを堪能しようと決めた。座布団を敷かれた様に積もっていた紅葉に何故か微苦笑が浮かんで、硝子細工でも扱う丁寧さを持って右手を箒にして払う。
 座る時、膝の関節がカスタネットの様な音をたてて鳴り響いた。そういえば牛乳をしばらく飲んでいない。ここにも不養生の逆襲があった様だ。
 眼を瞑ればもうそこは超重洞轟。彼方はあっても終点の無い、行夜の理想郷。誰もが作れる児戯の闇。
 静かだった。耳が役目を放棄しているのか、何も聞こえず、まるで宇宙を彷徨っている感がある。
 静かだった。どんな微かな声もここでは氷雪の様に、焔の様に迸って加速していくだろう。
 静かだった。ここと一体化していたい。この魂を押し込めた固体を抜け出て、何もかもを放り出したかった。代償がいるなら何でも支払う。
 この静に狂熱の恋を伝えたい。銀幕の女優など眼中にも入らない、ただ一人だけの女神に。
 彼女に唇があるのなら、きっと重なった途端に雪みたいに溶けてしまう程に儚く、華奢な美貌はきっと活人形だと思うから。
 王子になれなくてもいい。奴隷でいいのだ。
 この孤独が彼女といられる条件ならば、幾らでも舞台を整えよう。
 増え続ける豚がそれを阻害するなら、そう。何度でも解体して威儀の御膳の材料にしてやる。
 手遅れなまでに、盲目的。
 何時か魔人の権威を伴って、支配者を気取って跋扈する蟻を踏み潰す怪物。
 それが、伏月行夜なのだ。
 どれだけ強い朋輩も、讃えるべき両親も、彼の庭園には足を入れる事すら出来ないだろう。
 その瞬間、新しく製造された文字の羅列が思考に刻まれる。冷たい、と。
 右頬に何かが当たっていて、それが全身に纏っていた陶酔の刷毛を引き千切る。遠雷の如く響いてくるクラクションや鶏が街を起こす目覚めの歌の一節の叫び。現実に自我が追いついた。
 双眸を開いて右を見てみると、綾香がいた。心配と疑問が等配合された表情をしている。その顔の皮の下では、方向性を失った感情が露出への出口を探して迷走しているのだろう。
 そうだ。この女は邪魔なのだ。
「……伏月さん、またトリップしてました?」
 右手でビニール袋を掴んで、小首を傾げている綾香は何故だか行儀のいい栗鼠を連想させた。
 そういえば、上級生、下級生問わず、ささやかな人気があると、隣の席の生徒の雑談にあった気がする。
 化粧をしたらどんな風に化けるのか。見たい様な、見たくない様な。
「……そんな事より、飯だ。話すならまず腹を満たすのを優先したいんだが」
 杜撰な話題転換の仕方だが、不慣れなのだから仕方ない。綾香の人の良さに賭けるしかないだろう。言及を受けたら白状するしかない。
 ただ、妙な印象なら口封じでもしなければならない。学校という若者の収容所では、どんな噂でも悪性の疫病の如く伝播するのだ。伝播、などと思われていたら、最悪頭に強烈なショックでも与えて記憶を欠落させる事を覚悟した。
「……そう、ですね。とりあえずご飯にしましょう」
 どうやら狂行に走る必要は無くなったらしく、安堵の息を漏らす。これで何度目の吐息だろう。少女と一緒にいて、自分はどれだけ幸せを掴み損ねているのか。そう思うと気が沈んでくる。
 ビニールを漁って取り出したものはシャケの具が入れられたおにぎりと焼きそばパン。それとスポーツドリンクのペットボトル。
 何だかホームレスの食事に一瞬思えてしまったのが虚しい。とても都会に似合う生き方じゃないだろう。
 腹はは減っては戦は出来ぬ。戦などしないし、戦場に出た所で訓練も受けていない素人の自分は狙撃でもされて即死だろう、などと思いながらとりあえずおにぎりを頬張る。
 文句ではないが、コンビニのおにぎりの米は微熱とも言い難く、冷たい。だが、両親の脛を齧ってるだろう綾香はともかく、自炊など滅多にしない行夜は米という和の結集した味を噛み締める機会があまり無い。だから渋面を作りながらも嚥下していく。
 焼きそばパンを口にしている綾香は、時折ドリンクで水分を補給してはまた口腔に限界まで溜め込んで食道に流し込む。胃と喉に同情したくなる、鹿などを食い殺す最中の豹に似て無我夢中の食べ方。
 噛んでるかどうかも怪しい速さで完食し、シャケを零さない様に慎重になっていた行夜に、何か催促をしてきた。
 多分、早く済ませろ、というのが妥当だろう。
 待たせるのも何だか悪い、と思う分には彼にもマナーがあった。太い三日月の形状になっていたおにぎりを押し込み、歯牙の門を閉鎖。頬の膨張も少しずつ収縮していき、処理し終えた証拠に盛大な息を吐く。これでまたカウントが一つ増えた。
「ご馳走様でした」
「……ご馳走様」
 滝に打たれる坊主の様に両手を合わせて、職人の労力の結晶へ、原動力となってくれた事に感謝する儀式。
 それを終えて、ようやく二人の視線が絡み合った――が、亜音速で行夜は首を逸らして明後日の方向を見る。ここには絶望しか無い。雄弁にその後頭部が語っていた。
 綾香は笑顔のままだ。それでも会話は出来る。親交は深められるのだから。
「伏月さん、いつも不機嫌ですね。それとそろそろ行夜さんって呼んでもいいですか?」
 脈絡が無さすぎた。怒濤の勢いで急激に接近しようとしてくるが、それを迎撃するのは毒舌の散弾群。
「まず前半の問いの原因は何なのか答えてやる。お前といるからだ。後半の問いは勿論駄目だ、却下だ、有り得ん、転生してくれ。
 俺は一人がいい」
「何でです?確かに行夜さんは勤労威力の沸かない蝋みたいに白い顔してる時が多々ありますし、私の友達も一匹狼なんだからほっとけば、なんて事を言ってますけど」
 その割には自分と顔を合わせる度に黄色い声をあげては逃げ去っていくのは何なのだろう。
 結論。伏月行夜に女という生物は理解できない。そもそも自分の存在すら説明しきれない無知なのだから、何かを得られる筈もないだろう。
 とりあえず、反撃しておく。
「この顔色は生まれつきだ。確かに勤労意欲が沸かないという点は正論だが別にいいだろうが。迷惑をかけている訳ではない。
 それとどさくさに紛れて本名で呼ぶな」
「減るものじゃないのに」
「そういう問題じゃない。周囲にくだらない誤解をされる発端になるだろう」
「本望です」
 確信犯だったらしい。その顔は敗北の遁走曲をあげて退散していく敵を嘲笑う女王だった。
 台詞とはあまり合わないその微笑は何所となく怖い。
「ふざけるな。ならお前は子供を生む覚悟はあるのか?その後に子供の面倒を見るのは億劫だから離婚するといって、女手一つで息子を育てる気概があるのか?」
 話が飛躍しすぎている上に闇色の妄想だ。
「逞しい想像力尊敬します。あっ、でも女の子かもしれませんね」
 便乗してしまった。
 埒が開かない。頭蓋が割れる様な痛みに苛まれつつ、行夜は懊悩する。
 どんなに突き放しても餌を求めて走ってくる野良犬の執拗ぶり。なぜ自分に固執するのか知らないが、いい加減にしてほしい。
 目頭を右手で揉んで、最強の病原体との闘争に向けて準備する。綾香は眉を曇らせてこちらを見つつ心配していた。その姿を分子一つの質量も残さず消えてくれれば、彼も快調になるのだが。
 勇者が魔王と激突する乾坤の大舞台はここだ。伝説の武器とか無敵の防具とか、何も持たず徒手空拳で挑む気合の入った自殺志願者な勇者だが、戦いは常に非合理と不条理の超数学が展開し、一+一が二にも三にもなって方程式の常識が根底から破壊する。
 そんな事を思ってもやはり捨て鉢なものは捨て鉢。とりあえず暴行という選択肢だけは厳重封印。話術で男が女に勝てないなら、もう勝てる要素が残ってない。先程男は女に勝てないと思っていた都合の悪い過去は抹消した。
 前に向かって突き進む。後ろを振り向かず、あの傍観者の太陽へと走っていく。
 しかし、もう何度も救助要請を誰かに送信し続けている。この場で弱者は行夜だ。
「……もう好きに想像しろ」
「名前は――」
 顎に人指し指を添えて熟考する綾香。本当に好きな想像をしていた。
 いつも通りだ。ここまでの過程から、クワガタの相撲よりどうでもいい決着の結果も。
 徐々に鼓膜に入る音の種類が増加していく。もうモグラの仲間にでもなりたかった。
 墓の下に眠る屍の境遇に憧憬が沸いて止まらない。だが実際に屍になるかどうかと問われれば、解答はならない。
 自分が持つ命の値段は、そう安くはない。選んでの死はただの逃走経路に走っただけに過ぎないからだ。





 <衝動  川原修二>



 
 
 沸騰したコールタール。憎悪という凄絶な行動の動機を獲得していたその少年は、黒のジャンパーを握り締めて激発を堪えていた。足元には首輪をロープで繋がれたドイツ原産のアーフェンピンシャー。ドイツ語で「猿顔テリア」という解釈困難な意味を持つ。幼子からしてみれば怪獣の名称に聞こえるのではないだろうか。鼻髭顎鬚の様な口吻の長い毛や、目の上にブラシの様に生えた毛などユニークな容姿の中心的な剛毛のカラーは灰色だった。物静かで利口な家庭犬だが、敵だと認識した相手には猛然と立ち向かう犬である。
 そんな勇猛果敢な犬が、熱病に侵されている様に震えていた。それは主人に対しての恐怖。敵ではなく、暴君に対して取った防衛本能からの反応だ。
 回想の回廊を意識は巡っていく。愛犬の散歩コースであの二人――伏月行夜と水梨綾香を見かけたのは一ヶ月ほど前だ。
 太陽光を跳ね散らすブロンドは神々しくさえあり、まるで天女をそこに顕現していると思ったものだ。その隣で肩を並べて歩いているもう一人は、彼女の美を際立たせる為の付属品としか捉えられなかった。
 入学式。校門前で邂逅を果たしてから彼の歯車は一気にズレを生じ始める。手足の末端に微細な砂でも詰まったみたいに上手く動けなくなり、硬直はやがて石化の段階へ進んだ。棒になったまま通行の妨げになっていた彼は、不良からの悪罵でようやく自由を取り戻して。
 魔法というより、もはや呪い染みていた。底無し沼に両足が沈んだあの停滞は、脳内での綾香が母や姉といった他の異性を蹂躙するのに用意された時間、だったのだろうか。
 馬鹿馬鹿しい仮説。十人に聞かせたら十人が笑いの発作で腹筋を痛め、捻じ切ってしまうかもしれない。
 だが止める術は無く、綾香は少年の私生活を侵食し始めた。
 目線の的は彼女に注がれ、見失ったら君主を探す騎士みたいに校内を走り回って探索した。
 こういうのを一様に青春と言うのかもしれない。そんな砂糖より甘酸っぱい一時など、どうせ大人になったら疼痛にしかならないから注意していたのだが、徒労に終わってしまった。
 耳目で掻き集めた沢山の彼女は、やがて一つの結晶となってその人種を確定させる。 
 綾香は優等生だった。中間テストの成績でも常に上位に食い込み、賞賛を送る友人達には同等の立場、つまり普通の学生として接していた。
 先天性なものなのだろう、恐ろしく処世術が上手い。人望が厚くて偏執的なまでに世話好き、温厚と来て少年にとって彼女は絶世の美女。
 それは、男という駄犬にとっては高給な餌だったのだろう。休み時間や下校中、友人という盾が手薄になった頃を狙って口説いた。
 しかし全滅。儚い希望に魅了された野朗の兵団は、生まれたての赤子の如く純真無垢な綾香の断りの前に戦死していく。
 三日後には死屍累々。念仏みたいに何かを復唱する気味の悪い男子はリストラされたサラリーマン。
 それでも、挑戦すらしなかった臆病者よりは価値はあったのかもしれない。
 淡い恋心。でも、告白を逡巡してしまう。彼女と手を繋いで道を歩いたり、少し猥褻かもしれないけれど、双方共に頬を赤らめて唇を重ねる想像に、どうしても妙なモザイクがかかるのだ。
 つまり、非現実すぎるという事。心の片隅で、どうせ無理、世捨て人の意見を述べる自分が逗留しているのだ。
 それに、何故か自分は肯定してしまう。恋愛小説や膨大な権力を手にした人物、何もかも卓抜した能力を持つ輩に対して、妬み深い凡人が抱き、一発の銃弾として放つ言葉が理由だった。
 世界が、いや、次元が違うのだ。綾香達が一度の跳躍で辿り着けてしまう領域は、大勢の者にとっては研鑽と辛苦に苛まれながら進む千尋の海を渡った先にある。
 致命的なまでの差別。それが、同じ種の生物を二つに分離してしまう。
 だから、埋葬した。綾香の顔も見ず、声も聞かず、様々な関門に背を向ける彼は夢敗れた革命家。
 彼女の前には、相応しい男が現れる。秤をかけて、水平を保てる一番の男が。
 自分では何もかも足りないから、もう祈ることしか残されていなかった。
 欺瞞も不満も、赫怒も憐憫も、何もかもを咀嚼して飲み干す、空は宇宙の無限を誇る胃袋。そこに願いという餌を投げ入れた。
 どうか。どうか彼女が、幸せになります様に――だが、それを聞き届けたのは小悪魔だったのか。
 彼女の隣に、当然として立つ男が出来た。勿論最初は心苦しかったが、引き離すのも駄目だ。そう暗示として自分に言い聞かせるのは、金鑢で骨が削られる様だった。
 伏月行夜。同じクラスメートの一人で、騒動の表には立たず、その裏で静かに息を潜める。貪欲に何かを欲する光を持った瞳は、狩猟へと赴く餓狼だった。
 剣呑な雰囲気を衣として纏う人物だったが、過ごす日々を重ねる度に、少しずつ彼を構成する幾多ものピースを集められた。
 まず、とても無口。外国から日本に来て、言葉を覚えていない異人でも、そこまではいかないという壮絶なレベルの。
 人見知りするのかな、なんて思っていたが、授業中に教師から質問を受けても、顔に鑿で刻まれた様な重厚な皺を浮かべて不快を表しただけ。何も語らなかった。あの硬質の沈黙には誰もが生唾を飲んだものだ。自分も例外ではなかった。
 それで別段気取っているのではなく、単に彼は他者との交流を拒み、一人という境遇を望んでいるのだと判明した。
 次に、容姿。男というのは競ったりして、見栄を張りたがる本質を持ち、女は逆に共鳴などを重んじるらしいが、前半は疑う余地無く真言だった。
 端正な顔立ち、鼻梁。最後になる作品で死力を尽くした彫刻家か何かが、その人生を形にした様な完成度を誇る外見。これが遺伝子によるものなら親は更に上を行くのだろうか。そう思うと矜持という虚飾が、無音で崩れていく。御涙頂戴の真実だった。
 女子にとってはそれはもう、途轍もない磁場だった。娼婦の嬌声をあげて彼へと向かうその波は、誘蛾灯で飛び交う蛾を連想させた。口にしていたら特急で保健室行きだったろう。
 そんなこんなで初日から上級生や同級生に天敵扱いされ、知性の感じられない野蛮人たる不良から熱烈な誘いを受ける事も日常茶飯事。
 回数を増すごとにその数を増していき、その武装も凶悪になっていく。それでも無害で生還を果たしてきた彼は、本当に人間なんだったんだろうか。今でも怪訝だ。
 不良達は後日、頭を垂れて僕となっていた。犬の糞尿でも踏んだ様に嫌な顔をしていた彼だが、資源は有効活用するタイプなのだろう。女子という爆雷に備えて円陣を作って防壁として使っていたり、昼食を買わせにいったりしていた。
 益々謎な男だったが、自分は批評家でも学者でもなく学生なので、伏月行夜の分析はそれくらいで打ち切った。
 綾香と関わりを持ったのは何時だったかは知己していない。
 行動力というものが、何というか死亡してしまっている彼から干渉の契機を作ったというのはどうにも低確率。なら、綾香から彼に接触したのだろう。
 登校していたら、坂道を左右に分かれて幅を開いた二人という珍風景を眼球が捕まえて、雷光となって予想が頭の中で駆け回った。
 喜色満面で会釈をかける綾香。彼女は常に莞爾としていたが、濃度が違っていた。
 反応を返さず、歩調を速めていく伏月行夜。明らかに敬遠していたが、彼女は小走りでその背中を追いかけていく。
 奈落へ落ちていく気がした。もうどんな主役にもなれないと、裁判官か陪審員にでも告げられた気がした。
 勝手に思い出は採掘され、また疫病を振り撒いてくる。脳という保管庫は、たまに駆除しようの無い病巣なのだ。
 川原修二の内で、貯蓄されたストレスを肥料として育てられて萌芽したものは二つ。
 死にたいという絶望と、殴りたいという衝動。それは無意識に、低くくぐもった声から発露した。
(伏月、行夜――)
 ベンチに座る二人の間隔は狭い。どちらかが体重をかけて寄りかかれば、直に肩が触れ合う距離だ。
 頭部が上下したり、肘が下がる代わりに手元が顔へと持ち上がっていく。何をしているのか接近して確認したいが、伏月行夜は感覚に敏感だ。真面目に高校生をやっていて、異色な技巧を何一つ持たない修二の足運びでは、これ以上は察知の網を被る。
 格闘技の心得でもあるんだろうか。然程修練を積んだとは思えない、平均的な身体付き。重心を中央に置かず、夢遊病にかかっているみたいに定まらない歩行の方向。
 不良と喧嘩した現場を観察してもいないし、ただの誤解で、実は自分でもやろうと思えば簡単に泣かせられるのではないか。そこまでいって、修二は驚愕した。
 俗物の考えだった。武力行使を基準にして動くなど、精神が類人猿にでも退化しているのか。
 違う。違う、と信じたい。川原修二は至って特化したものは無いが、欠点も無い、それなりに万能型な人間だ。
 荒事の快感に麻痺している訳は無いし、衝突よりは和解を尊重する。そんな温和な性格の筈なのに。
 とても薄い皮膜が。不可視の包丁で剥ぎ取られていく様な。
 自分の顔は本当は能面で。もう手遅れなまでに亀裂が生じてしまっているのか。
 心の柔らかな部分が解剖されている。呼吸を止めても終わらない。
 バラバラになったパーツが、何かアタラシイモノになっていく。修正の効かない、変革。
 胸を更に強く握り締める。心臓の鼓動が、太鼓が叩かれる様に早く鳴り続ける。徐々にペースが上がっていく。
 熱い。血液がマグマになって、火事が起きている様な。
 熱射病か。いや、根本から的を外している気がする。そんな普通な事象じゃない。
 これは、そう。言葉にするなら――川原修二を殺す破壊劇。
「ふむ、中々に優秀そうだな」
 声。それは新しい真理の解明に血すら捧げそうな教授の知性を孕み、同時に熊みたいに重苦しく、腹腔に圧し掛かる響きを帯びていた。
 唐突に嘔吐感が込み上げてきて口元を左の掌で抑えるが、何とか堪える。魔的な韻を含んだ言葉。初めて聞く種類のモノだ。
 後方に振り返ろうとすると、その声は制止した。
「ああ、振り返らなくていい。誰かに姿を見られて覚えられると後々面倒になるかもしれないのでね。そのままでいてくれたまえ」
 脱獄した犯罪者みたいな台詞は第一印象の変更は要求させたが、芯がしっかりとしている一言一言はむしろ碩学の長老を思わせた。
 万人は大抵二面性を持っている。後ろの人物もそうなら、その落差はかなり凄いかもしれない。単純な好奇心は嵐となって、瑣末な疑問や先刻の感情も一時だけ忘れさせる。
 以前から躾をされていたみたいに声の持ち主の弁を聞き入れてしまった自分にも、少なからず驚いていた。金縛りにでもかけられた様に、身体が動かない。指先くらいは動くが。
「あと、済まないが私に詰問を投げるのも駄目だ。これから私は君に質問をする。
 返事としては、頭を頷かせるのがイエス。左右に振ればノーだ。猿に芸を仕込ませるより簡単だから、分らないという事はあるまい」
 何だか、上下関係を明確にする仕事の上司の舌鋒だ。だとすれば自分は部下みたいなものか。いや、こんな例えを無意味だ。
 とにかく、寡黙に徹しろと、そういう事か。干渉も極力最小限が、声の持ち主と関わる条件らしい。
 神父みたいに喋る割に、その内容は結構横柄だ。
「では、質問する。君に、夢はあるかね?」
 夢。それは原動力の一種であり、何もかも不確定な明日への道標となる矢印。
 それに近いものなら該当するものがある。既にその夢は廃棄物、未練となってしまった訳だが。
 コクリ、と彼は頷いた。
 そうか、と味気の無い感想が返って来る。ある程度の距離を維持するかの様に。
「では、それを叶えたいと思っているか?――ああ、失敬。夢を持っていると言う事は叶えたいという熱意と繋がっているのは周知の事実だったな。無駄な問いだった。許して欲しい」
 故意では無いだろう。
 だが、嫌に当て付けがましい物言いに、炎がまた勢いを取り戻してきた。
「なら、その残留している夢という怨霊を払えるチカラをあげよう。それで、理想に支配された隷僕ではなくなる。
 ……こっちを、向いたまえ」
 どうして、だろう。
 鋲みたいに精神に突き刺さる声の持ち主の言葉は。
 とても痛くて、どうしようもなく希望に思えた。
 愛犬は、喉が潰れてしまった様に言を封じられていた。
 それが、少しだけ心細かった。
 
2007/04/26(Thu)17:31:00 公開 / 流雲
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