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『すべてがifになる『LIMIT』』 作者:clown-crown / 未分類 未分類
全角17769.5文字
容量35539 bytes
原稿用紙約49.15枚

すべてがifになる







 序幕 もしも……、少しだけ運命が異なっていたら。

 運命の分岐路で違う道を選んでいたら。運命の歯車が別の方向に回っていたら。運命の賽が他の目を出していたら。
 昔は厳格であったが今では息子のご機嫌取りをする小心者の父親もいなかったし、差し障りのない優しさを備えてはいるが眼が合った瞬間に怯えを隠し切れない母親もいなかっただろう。勉強もスポーツもでき、天から二物を与えられていても人当たりのよさは一切与えられなかった母の息子もいない。なにより、
 これほど命の大切さを感じることはなかっただろう。







 もしもその日、子子子貫之(こねこ つらゆき)が午前四時二十二分に起きていなかったら。

 貫之が七時前にベッドから抜け出すことは空前の出来事だった。名目上の起床時間は七時と設定されていたが、母親がその時間に貫之を起こそうとどんなに努力しても、それは報われなかった。モーニングコール程度などでは寝ている貫之の耳に何の干渉もしなかったし、怒鳴りつければレム睡眠からは覚めるのだが意識下と意識外の狭間にいる貫之は無意識により布団の世界をたぐり寄せ、潜り込んでいってしまう。目玉焼きを作り終えたフライパンと味噌汁を作り終えたオタマで不協和音を奏でてやっと貫之を夢から醒ましてやることに成功しているのだが、最近ではそこまでしても貫之の起き出す動作が鈍くなっていた。最終的にはこのフライパンで目いっぱい貫之の五厘刈り頭を叩いてやらねばなるまい、と母親は覚悟していた。
 よって、貫之が母親より早起きするなどとは当の貫之でさえ予想していなかった。



 もしも昨日、子子子貫之の父親がグローブを買い与えていなかったら。

 貫之が四時二十二分に起きたのはグローブを買ってもらった興奮ゆえだった。父親が日曜日を潰してまで息子とスポーツ用品店で過ごしたのは単に息子のおねだりがあったからではない。父親は食品関係の営業マンをしているのだが、少年時代から青年時代にかけての夢はプロ野球選手になることだった。父親が子供のころ熱中していたのが野球であったのでそれは当然ともいえる希望だったのだが、それはそのころの男子学生全員の将来の希望であったといえる。他に遊ぶことがなかったのだ。父親は自分の子供のころと同じ夢を見る息子に自分の血が流れていることを再確認し感涙し激励し、
 グローブを贈った。



 もしも先々週の火曜日、子子子貫之が所属を野球部に決めていなかったら。

 現代に生きる貫之は野球しか見えないような熱血溢れる子供ではなかった。四月に入り中学二年生になった貫之は勉学だけでなくいずれかの部活動に励むことが義務づけられていた。それは学校の規則なので反発しようとしても仕方ない。内心はともかく表面上は反発をするような貫之ではないので活気のない部に入り幽霊部員として在籍することが当初の目的であった。廊下に張り出された部活動の案内掲示板トップ2を飾るのは野球部とサッカー部である。貫之は他の部活案内を見ることなく野球部に入ることを決定した。どうして活気のない部に入るつもりでいた貫之が活動内容も上下関係も厳しい野球部に入ろうとしたのか。その理由は明瞭だ。自分では複雑な精神構造をもっていると信じ込む貫之でも理由はあまりに即物的すぎた。トップ2というだけあり野球部の案内紙面は大きなものだったのだが、その割には文章の中身がすかすかだった。その責任は野球部部員の頭の中身がすかすかだったせいにある。すかすかな文章でさえ紙面を埋めきれていない案内紙面はそのほかで埋めるしかない。案内紙面は数枚の写真によってようやく埋まっていた。                                                                
その中の一枚に女子が写っていたのである。



 もしもその写真に虎乃嶺浦巳(このみね うらみ)が写っていなかったら。

 貫之が最初にその写真に眼が入ってしまったのは実のところ偶然ではない。自分たちのような活動内容も上下関係も厳しい部では、とてもではないが有望な新規入部者が現れないことを自覚していた野球部顧問と部長、副部長は部室で勧誘方法を熟考していた。もちろん解決策としてすぐに思い浮かぶのは部内の活動内容と上下関係を易しくすることであっても、野球部顧問は貫之の父親と同世代の人間で、しかも未だに夢をもち続けている情熱家であったのでそこは譲ることのできない点であった。この夏で引退する部長はそんな野球部顧問の意地で部が弱体化することを真剣に危惧していたのだが野球部顧問は頑として姿勢を崩さなかった。そこで副部長は欠点を補うのではなく長所を前面に押し出そうと提案をした。野球部顧問はすかさず野球には夢があることを前面に押し出した宣伝をしようと声高に主張したが、それは野球部顧問にしか見えないまやかしだと知っている部長と副部長は野球部顧問を白い目で見つめていた。初めから決定事項であったかのように副部長は己の案を披露した。「学校という場であるのであからさまにはできませんが……、それとわからないように臨時マネージャー虎乃嶺浦巳をなにより最優先にアピールしましょう」。それには野球部顧問も異を唱えなかった。平均的にオツムの出来があまりよくない野球部関係者ではあっても、平均的男子中学生の欲望についてはよく理解していたのだといえる。
 虎乃嶺浦巳の写真は部活案内紙面の眼につきやすい位置に貼付された。



 もしも子子子貫之が写真を見ても鼻の下を伸ばしていなかったら。

 冷静であったなら野球部に入部するよりもサッカー部に入部した方がモテるであろうことに気が付いていたのだが、貫之の心拍数は平常よりやや高くなっていたのでそのことについては考えの外であった。実際、野球部には日雇い臨時マネージャーがひとりいるだけなのだがサッカー部には正式な女子マネージャーが三人いたし、チアガール部の女子たちも野球部とサッカー部の試合が重なった場合はサッカー部の応援を優先することは彼女たちの間では暗黙のルールだった。フェンス越しに覗く女子の数もサッカー部のほうが多い。真実を表そうとするのならば、比較すらできないというのが本当のところである。貫之はそのとき確かにほかのことに気が回らないまでに浦巳に恋をしていた。しかしそれは平均的男子中学生と同じように日常的な、いや、一時間に一回は経験するような恒常的な感情だった。つまり、一時間後には貫之が別の誰かに恋をしていてもおかしくはなかったということである。貫之は学校での成績が優秀だとしても人間的に大きいわけでも広いわけでも深いわけでもない。
 自己評価がどうであろうと他人の評価がどうであろうと貫之は平々凡々だった。



 もしも月曜日にも野球部の朝練習があったら。

 月曜日と木曜日の始業前はサッカー部が運動場を占領するため野球部は朝練習がない。サッカー部の部員は多いので月曜日と木曜日の朝の間だけは運動場全面を使わせてほしい、と二年前にサッカー部顧問が前野球部顧問に交渉し成功させた結果だった。もちろん現野球部顧問はそのことについて苦々しい思いをしているわけなのだが、校長と教頭に説得させられているので強く意見することはできなかった。そもそも中学校において野球部はサッカー部と人気を二分しているのではなく、在籍部員がサッカー部の次に多いというだけのことだ。野球部をこの中学の二大部活動にのし上げているのはひとえに野球部顧問の人徳だった。担当の体育科の授業は教育熱心で通っており、部活動に際しては熱血一筋で教師の鑑だと校長と教頭に評価されている。しかしそう思うのは古い頭の教育者だけで野球部顧問より新しく聖職者となった先生方は自己演出の過剰な人間だと判断している。記すまでもないことであるが野球部顧問は決して演出をしている気はなく己に忠実であるだけなのだ。そんな校長や教頭の高評価を得た野球部顧問の部活風景は当然のこと生徒にはウケていなかった。授業後の部活は必ず日が落ちるまで続けられる。夏休みもほぼ部活でスケジュールがはちきれてしまう。この二つの条件を満たす事象は簡単に類推できるように、夏の部活は身体がカラカラとなるまで続くのである。このほかにもいくつかの条件が野球部顧問の脳内に存在しており、それらが複雑に絡み合うことで生き地獄は完成する。野球部部員が総じて成績が悪いのにはこういうわけがある。勉強するには心身ともに疲弊しすぎているのだ。それでもサッカー部ほどではないにしろ野球部も頭数は多いのでこの疲労を充実感と捉えるポジティブなものもいる。それらは一般にレギュラーと呼ばれる人種であり、それ以外の野球部員から見ればヒーローと崇められる存在である。
 あるいは狂信者と。



 もしも子子子貫之が夜明けの公園に出かけなかったら。

 いつもは希少なはずの朝の時間を満喫する貫之であったが、やはり新品のグローブを使いたくて使いたくてしょうがなかった。しかし月曜日である今日は野球部の朝練習がなかった。そこで貫之は近くの公園へ出かけ、登校する時間までひとりキャッチボールをすることにした。朝の空気はまだまだ身を切るようであっても自然と頬がほころんでしまう貫之には北風だろうがかまいたちだろうが効果はない。ひとりキャッチボールというのは壁に向かってボールを投げ、跳ね返ってくるボールをキャッチするとても単純で飽きのきやすい行為なのだが、飽きすらも幸せによって麻痺した貫之には無効化されていた。動いているボールを拾えること、それだけで貫之は幸せだったのだ。新入部員は全員球拾いを徹底しなければならなく、例え二年生であっても半年間はその状態が続く。貫之はグローブ越しに少しじんじんする左手に幸せを見出していた。しかしながら本来、活気のない部に入ろうと目論んでいた貫之が急にスポーツで汗を流す快感を覚えたといえばそうであるはずがない。いくら複雑ではない精神構造をもっているとはいえ新しいグローブを買ってもらったぐらいでそれが即ち野球熱に火が点くのではなかった。野球が巧くなることは貫之にとって手段であったのだ。レギュラーになることさえ貫之の計画にとって通過点でしかなかった。レギュラーともなれば他の野球部員から憧れの眼で見られることとなる。野球部顧問からの信頼を得ることにもなり、ひいては学校全体から尊敬の眼差しを一身に受けることもできるのだ。その視線の中にはマネージャーの浦巳も例外なく含まれているはずだ。つまりそういうことだった。まだ実質一週間しか部活動を行っていない貫之はレギュラーになることの苦労を知らず、あまりにも楽観的にマネージャーと乳繰り合うことしか妄想していないのだった。
 しかし、一週間もの間冷めなかった恋は貫之の中ではここ最近の最長記録で、それは本気の恋であったのかもしれない。



 もしもボールが脇にそれていなかったら。

 妄想にふけっていたからか初心者ゆえにコントールができなかったからなのか、何度目かに投げたボールは壁のふちに当たり予測不可能な動きで飛んでいった。あさっての方向に飛んでいくのを貫之は眼で追っていた。そのボールは公園から道路を挟んで向かいにあるアパートのベランダへと吸い込まれていく。ボールもグローブと同様に昨日買ってもらったばかりの新品であったので回収しないわけにはいかなかった。ボールがベランダに入ったときには貫之の頭は真っ白になっていたのだがガラスの割れる音が聴こえてこなかっただけでも幸いではないかと自分を奮い立たせていた。ベランダの位置からアパートの部屋番号を予測して記憶していた貫之であったが、道路に面したベランダ側からアパートを見るのと、その裏側である各部屋の玄関の並んだ側からアパートを見るのとでは部屋の左右の位置が逆転しているので少し混乱した。それでも貫之は線対称の授業などはお茶の子さいさいでこなしていたのでボールの入り込んだのは204号室の井中さんの部屋であると割り出すことができた。貫之がインターフォンを押してしばらく待っていると部屋の中から髪を脱色させたジャージの女の人が出てきて「用か? ガキ」と訊いてきた。説教を垂れそうなオヤジであったならピンポンダッシュまがいに逃げ出そうとしていた貫之は、出てきたのが若い女の人であったのでひとまず胸をなでおろした。こういう女の人のほうが説教オヤジよりも理屈が効かない分だけ恐ろしい存在であることを貫之はまだ理解できてはいなかったのだ。ベランダに入ったボールの返却を求める旨を井中さんというらしい女の人に伝えると、勝手に入れ、という意味らしいジェスチャーをするので貫之は井中さんの部屋に入る。
 そこは部屋というよりも巨大なゴミ箱だった。



 もしも井中さんが家の掃除をこまめにしていたら。

 貫之は足の踏み場のない部屋の中を足先で、ゴミにしか見えないものをかき分けながら足場を作っていた。井中さんはそのままジャージで二度寝をする様子であったのだが貫之には寝床がどこなのか想像だにできなかった。ようやくベランダまで辿り着いたところで貫之は大きく深呼吸をする。部屋の中は異臭で満たされていたので貫之は息をすることを我慢していたのだった。ベランダであっても中身の入ったピンク色の大きなビニール袋は三階のベランダに届きそうなほどどこまでもうず高く積まれている。ベランダが四畳ほどのスペースであってもこの環境下で小さな野球ボールを探索するのは非常に難儀である。苦難の末、貫之はボールを発見することができた。しかし悲しいかな、それはすぐには手が届く位置にはなく、ベランダの隅の壊れかけている衣類乾燥機の上に位置している。貫之は不快な弾力のあるビニール袋を積み上げてそれを踏み台にし、手を伸ばした。そうまでしても貫之はボールを我が手にすることはできなかったので、不愉快な粘液がまとわりついている鉄棒らしきものを操りボールを少しずつ自分の方へと転がそうと考えた。考えを実行しようとして、それでもまだ長さが足りない事実を思い知った貫之は不愉快なビニール袋をさらに重ね不快な鉄棒のできるだけ端をつかんで操作することにする。不安定な足元と背伸びした無理な体勢、それに加えて貫之はボールに神経を集中しすぎていた。鉄棒にまとわりついた不愉快な粘液が貫之の手を滑らせ、よろめいた貫之を不快な弾力のあるビニール袋が上へと押し返した。危機を感じる間もなく貫之はベランダのフェンスを半身以上乗り越えており、その後は落下するばかりである。貫之は落ちている間に走馬灯のことを考えていた。走馬灯のようにこれまでの人生を感じていたのでは決してなく、走馬灯のように人生を振り返るべきときであるのになぜ自分は走馬灯のようなものを感じずにいるのだろうか考えていた。一向に現れる気配のない走馬灯に憤慨した貫之は走馬灯のようなものを自意識によって作り上げたのだった。

 今日はいつになく四時二十二分に起きたこと。

 昨日は父親にグローブを買ってもらったこと。

 先々週の火曜日には野球部に入部したこと。

 野球部の案内紙面を初めて見たときのこと。

 その中にあった写真を見て運命を感じたこと。

 朝練習の球拾いの間ずっと浦巳を見ていたこと。

 部活を終えて公園まで浦巳と一緒に下校したこと。

 浦巳を見すぎていてボールがまぶたに当たったこと。

 部室の掃除をしていた浦巳とキスをしたこと。

 しかしながら中学生であるため過ごしてきた人生も、二階からであるため落ちるまでの距離も、ともに短い貫之は自作の走馬灯もすぐに終わる。







 もしも子子子貫之が死んでいたら。

 貫之が意識を取り戻したのは気を失ってからそれほど時間の経っていない未来だった。まるで自分の頭の中で製作した走馬灯の続きのように浦巳の顔がアップで映りこんでいた。泣いているのか笑っているのかよくわからない奇妙な表情で、視線が合うなり「お帰り」と言ってきた。自分の置かれた立場が並ではないことだけは思い出していた貫之はそのあまりにありふれた挨拶に戸惑ったが、長年培われてきた日常会話の返答マニュアルは健在で「ただいま」とすぐに言うことができた。自分の置かれた立場をほとんど思い返すことのできた貫之は、今が学校の一時限目の始業チャイムが鳴り始める前の時間であることと、ここが市立病院の一室にあるベッドの上であることと、自分が子子子家の一人息子の貫之であることを理解していたが、なぜ浦巳がここにいるのかは理解の範疇を超えていた。
 感覚的には、赤と白のチェック模様のパジャマはかわいらしいと思った。



 もしも眼が覚めたとき虎乃嶺浦巳がいなかったら。

 貫之が救急車に運び込まれるときから浦巳は既に貫之のそばにいて、サイレンを鳴らしながら病院にやって来るときも貫之と一緒だった。午前六時五十八分、浦巳はダイニングテーブルで朝食を摂りながら突然けたたましく鳴った電話に応対する母親の会話を耳に入れていた。「もしもし」「はい」「いつもお世話に──」「えっ」「公園がどうしました?」「冷静に、冷静に話してください」「ボール?」「寝た? 寝ていたときに、ですか?」「二回。ええ、はぁ」「病院には?」「こちらから救急車を呼びます」「204ですね?」「どんな人だったんですか?」「ボール? ボーズ? 坊主?」「はい?」「大丈夫ですか?」「ええ」「わかりました。そちらに伺います」母親が電話を切るときには娘はもう玄関から飛びだしていた。ボールと坊主の言葉が、走っている浦巳の頭の中を回っていた。信頼されている虎乃嶺一家にアパートの住人から電話があることは珍しくない。住人の悩みを聞き、相談に乗ることこそ大家としての役割であると信じて疑わないからだ。浦巳はボールと坊主で形容される人物が貫之であるとは考えていなかった。むしろそうではないことを願い、そうでないことを確認するためにアパートに向かっていた。浦巳の家からアパートまでの距離はシロナガスクジラの体長とほぼ同じである。アパートに着いたときには怪我人は救急車に運び込まれていて顔は確認できなかったのだが救命隊員の持つまっさらなボールを見て、浦巳は臆面もなく言った。
 「家族です」



 もしも病室に二人きりでなかったら。

 起き上がろうとして起き上がれないことに気が付いた貫之は、顔の一部分以外は自分がミイラ男になっているのを知った。事実を認識するほどに自分が生死の境を歩んでいたことを理解し、恐れおののいた。生命が残っていることに感謝したいのはやまやまだったが貫之は神を信じてはいなかったので眼前にいた浦巳に感謝した。「ありがとう」に対しては「どういたしまして」かそれより簡易に「いいえ」が返答にふさわしいと感じていた貫之は返ってきた言葉が「はい」であったのでまたも戸惑ったが、それは今まで聞いたことがなかっただけで実にいい返答であったのではないかと思い直した。患者数とベッド数それに病室数の関係であろうか、貫之にあてがわれたのは個室だった。自分がいつベランダから落ちたのかは不知な貫之であったが、浦巳以外はこの個室の見舞い客はいないことからまだそれほど時間が経っていないのであるらしいことを考察した。実際のところ貫之は怯えていた。病室は清潔感に溢れる白ばかりで、個室という名称から連想されるVIP待遇の語感どおりに広々とした自由な空間だった。だが、貫之にとって清潔感溢れる白は空白の虚無感であったし、病室が広くても身動きが取れないのであれば自分の矮小さを感じるだけだった。広い空間であって貫之の心を満たしてくれるのは浦巳ただひとりであった。心の弱まった病人が漏らしがちな絶望感たっぷりな訴えを、貫之も漏らした。その訴えはただの貫之の弱音なのだが、本音でもあった。
 「そばにいて」



 もしも運命が異なっていたら。

 運命の分岐路で違う道を選んでいたら貫之は浦巳に会っていなかった。運命の歯車が別の方向に回っていたら貫之は怪我をしていなかった。運命の賽が他の目を出していたら二人だけの時間をもつことはなかった。浦巳は貫之の訴えを聞き入れた。貫之の両親が病院に到着したときも、娘が心配になって両親が駆けつけたときも、貫之の友人が見舞ってきたときも、貫之がリハビリテーションするときも、貫之が退院するときも、中学校の授業中でも、まだ完治しておらず部活中は応援するだけの貫之にも、家で開催したクリスマスパーティーではしゃぐ貫之にも、夏の引退試合で活躍する貫之にも、中学校を卒業する貫之にも、成人式に出席する貫之にも、結婚式を挙げる貫之にも。
 浦巳は貫之のすぐ隣にいた。







 幕間 もしも物語がここで終わっていたら

 もしも私の話がここで終わっていたら貫之と浦巳の馴れ初めがわからなくても文句なしのハッピーエンドだった。落ちてもただでは起きぬ貫之をはじめ登場人物はみな幸せでいられる。これから私が話すことは奇妙に捻じ曲がっていて結末まで語っても素直には喜べない話である。あなたが聞きたいというのなら話を続ける、と言うべきところであるけれど私はこの幸せを誰かに聞いてもらいたくてうずうずしているのだ。聞いてもらえれば今までの話はすべて前振りでしかなく、これからが話の本筋であることがわかるはずである。まずはあなたが気になっている貫之と浦巳の馴れ初めからはじめるとしよう。この部分が話の重要な核を担うために今まで話せなかったのだ。
 さあ、続きをはじめよう。







 もしも虎乃嶺浦巳が自分を表現できていたら。

 浦巳は良家のお嬢様とは言わないまでも、いい家の娘さんだった。どんな親もそうであるように浦巳の両親は浦巳が立派な大人になってほしいと願っていた。しかしそれは程度を超えており、浦巳にとってあまりに過負荷な期待であった。中学校に入学するときまさに反抗期という期間が浦巳の中で始まっていたのだが、いまさら人前でストレスを発散できるような性格ではない浦巳は鬱憤が溜まる一方だった。給食の時間に、机をくっつけてきた友人の一人がパンプキンスープをすすった後に言ったことは浦巳の脳裏に焼きついた。「優花がさ。サッカー部のマネージャーになるとか言ってんの。あんなのになるのはさ、男に飢えた女だって思われるがオチだってのに」。その言葉は午後の授業になっても下校中の通学路であっても忘れることはなかった。浦巳が帰宅したとき母親はいつものように「遅かったわね。何をしていたの?」と訊ねてきた。そのとき浦巳の中の混沌とともに佇んでいたものが解放された。虎乃嶺家では当たり前のやりとりであった一言は最悪のタイミングで、魔が差している浦巳に放たれた。
 次の日、浦巳はかねてから予定していたバレーボール部と昨日まで予定していなかった野球部マネージャーの入部届けを提出した。



 もしもマネージャー業に人気があったら。

 二週間に一度かそのぐらいの割合で、浦巳は野球部部室内にて密やかに喫煙をしていた。もともと野球部部員の何人かは部室内でタバコを吸っていたので吸殻や臭いの問題はなかった。さて、浦巳の思考は飛躍していると感じられるので解説しようと思う。浦巳はバレーボール部とは別に人気のない部と掛け持ちをし、ひとりだけの時間を過ごすことは以前からよこしまな思惑として想像を楽しんでいた。そんなときに飛び込んできたのが「運動部のマネージャーになると女子の間から村八分にあう」情報だった。ただでさえ女子から敬遠されるマネージャーで、さらに見栄えのよくない野球部のマネージャーであれば自分以外誰もこなす人間がいないだろうと浦巳は踏んでいた。バレーボール部に顔を見せていなくても野球部にいっているのだろうと思われ、野球部マネージャーの仕事をしていなくてもバレーボールの練習をしているのだろうと思われる。サボっていることがばれないようにすることこそが浦巳の、部の掛け持ちの必要性だった。部室内で喫煙をしている部員がいたのを知ったのは後からではあるが、その点も浦巳にとって都合がよく最適な喫煙所だった。いかがわしい行動のインスピレーションを与えた張本人であるパンプキンスープの友人は浦巳になぜ野球部マネージャーになったのか問い質しても浦巳は曖昧にはぐらかすだけだった。給食の時間に集まる女の子グループ内で友人があの発言をすることは「みんなで仲良く優花をシカトしようね」という合図に他ならず、そんな友人たちに浦巳は辟易していた。反発心からの行動がタバコに向かったのはそれほど大きな理由がない。不良のとる行為の代表的なものとして記憶されていた、というのが理由として挙げられそうな理由ではあっても浦巳は意識していないだろう。単に反抗的な態度をとっていたかっただけとも言える。
 それでも喫煙行為で浦巳は胸の中から紫煙と一緒に鬱憤も吐き出すことができていた。



 もしも子子子貫之が惚けていなかったら。

 部の掛け持ちをしていることを知らない貫之は、部活中であるのに浦巳の姿が見えないことに疑問を感じていた。落ちている球を拾うために視線をさまよわすフリをしながらその実、捜しているのは浦巳の姿だった。このとき野球部の三年生は二チームに別れて練習をしていた。一方のチームは有力候補として選ばれた二年生チームと練習試合、もう一チームは素振りである。練習試合で打たれたボールを拾うのが貫之の役目なのだが、恋の盲目に陥っていたので素振り練習のエリアに入り込んでしまっていることに気が付いてはいなかった。それだけならまだよかった。貫之は素振りをしているひとりの三年生を中点とする半径バットの長さの円内に足を踏み入れたのだった。三年生が金属バットで振るうフルスウィングは貫之の肩をジャストミートし貫之の魂魄を場外ホームランした。しかしながらいつ浦巳に見られているかわからないという一種の強迫観念にも似た心理状態である貫之はすぐさま歪んだ口元を引き締め、しっかりした足取りで野球部顧問に保健室への入室許可を求めた。きびすを返してその後、直接保健室に向かいたかった貫之であるが左手にはめているグローブは部から貸し出されているものだったので神聖なる運動場から離れるときはいついかなるときでも返却しなければならないのだった。
 その返却先は現在、浦巳が喫煙中の野球部部室であった。



 もしも子子子貫之が喫煙する女性に対して幻滅を感じていたら。

 そのときは突然やってきた。内側からでは鍵をかけられないため浦巳はなかば諦めていたことで、いざそのときとなっても不思議と後悔は浮かんでこなかった。ガチャリと扉が放たれ煙は外界へと逃げていった。その様子を見ながらなお、浦巳はゆったりタバコをくゆらせていた。これが最初にして最後、浦巳が不良少女の一面を含めた虎乃嶺浦巳すべてを誰かに認めてもらいたかった一瞬である。唯一それを認可できるのは第一発見者だけなのだがその人物は「ああ、部員にタバコを持ってきた馬鹿がいたのか。馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが野球部はこれほどまで馬鹿だったとは。可燃廃棄ご苦労さん」と言葉を投げかけるのみだった。浦巳は面食らった。当たり前の判断であるはずの喫煙を咎める行為をせずに、仮にも労いの言葉をかけたのだから。「あなたは──」誰? と訊こうとして止めた。浦巳は記憶力がいいほうであって部活中に自分をじろじろ見る気持ち悪い新入部員がいたことを思い出したからだ。しかしその印象は吹き飛んでいた。だから「黙っていてくれる?」と訊くと、その新入部員は浦巳の口唇からタバコを奪い自ら吸い始めた。「俺も廃棄処理に協力した。これでいいか?」。浦巳の新入部員に対する印象は線対称に反転した。
 保健室に着いた貫之は咳き込みながら涙目で保健医に肩の痛みを訴えつつ、間接キスをしたことにどぎまぎしていた。



 もしも人の感情に表裏がなかったら。

 これでやっと貫之の表の顔と浦巳の裏の顔が対面した。貫之が浦巳の弱みを握った感も否めないのだが、ともあれ浦巳は貫之に少なからず恋心を抱いたしその縁があったために二人は結婚した。新婚旅行は二人で計画したグァムに行き、観光名所を巡り、地元の名産品を買い漁り、熱い夜を過ごした。貫之が学生時代を終えたときには、浦巳の両親からの多大な援助があったお陰で一戸建てを一括で購入することもできた。夫婦喧嘩をすることもあったが傍目から見れば甘い新婚生活であると判じられる夫婦仲だった。このまま何も起こらなければ何もないまさに平々凡々で幸せで退屈な運命を歩むことになっていた。が、
 このときの私には二人の運命に干渉する余地が生まれていた。



 もしも子子子浦巳が私に嫉妬心を感じることがなかったら。

 貫之は幸福の絶頂にいた。今の私と同じように、貫之は誰かに自分の幸福を分け与えたくてやまなかった。その浮かれっぷりは妻の浦巳でさえ失笑したほどだった。だがその失笑も憤怒へと変貌を遂げることとなる。貫之の幸福のお裾分けを私がたまたま享受してしまったのだった。あからさまに貫之と浦巳の時間は減っていき、おおっぴらに私と貫之の時間が増えていった。それはいわゆる浮気心と呼べる感情ではなくても、浦巳はそう感じてはくれなかったようだ。本来であれば私は二人を仲介するよき相談相手という立場であることが望ましかったのだがどこかで運命の選択を間違えてしまったらしい。初めて会ったときにはお互い悪い印象はもっていなかったと断言できるのだが、私はだんだん浦巳に嫌悪されるようになっていた。
 一度絡んだ運命の糸は解そうとするほどに、より難解な結び目へときつくねじれていくのだった。



 もしも子子子貫之が妻の嫉妬心に感づいていなかったら。

 平穏であるはずの昼下がりも私と浦巳の二人きりでは剣呑な気配に成り果てていた。私が二人の愛の巣であるマイホームのリビングにいるのはランチをご馳走になるためであり浦巳はランチをふるってくれるはずであった。そんなできあいな話し合いの場を貫之にセッティングされていても私と浦巳はぎこちない関係にすらなれず沈黙の空気が空間を覆っていた。ふと、何かに気付いたかのようにランチを作る手をとめて浦巳は私のいるリビングへと歩み寄ってきた。私の声が気に障ったのかもしれない。負の感情の緩衝材となっている貫之はもはや浦巳の心から消えていた。蓄積された憎悪を害意と変え、侵された理性を押し退けて浦巳の裏の顔が再び出現していた。その手には出刃包丁を携えている。浦巳は私の前に腰を下ろし私に何かを呟きかけたがやはり何も喋らずに、私の眉間に出刃包丁を突きつけた。私は目の前で光るものがなんであるか、そのときとっさには理解できていなかった。浦巳は持っていたものを突き出したり引っ込めたりして、私の首筋や肩口を赤く傷つけた。浦巳の持っているきらめくものを眺めているだけで、私は自分の生命が危機に瀕していることなど気にかけていなかった。私を斬りつけるその間、浦巳は唇をかみ締めている以外は無表情だった。玄関からチャイムが聞こえてこなければ私は死んでいただろう。浦巳は少しびっくりした様子をしながらも出刃包丁をキッチンに戻すこともせずに、激情ゆえの無表情のまま玄関へと客人を迎える。最近、浦巳の私への接し方がおかしいことを察知していた貫之は実家の母親に電話を入れ昼間の家の様子を見てきてほしいと依頼していたのだった。母親は浦巳に突然の訪問を詫びようとしたがその手にしっかと血濡れの出刃包丁を握られているのを視認すると玄関扉を開け放ち、中にいる私の無事を確認した。
 そのときの私は血まみれになりながら笑っていたという。



 二人が人生をやり直そうとしていなかったら。

 この件は警察沙汰になった。貫之の母親に連れて行かれた病院で私は思いのほか重大な損傷を受けていると医師に診断され、事の顛末を話さなければならなかったのだ。浦巳は家庭裁判所で有罪判決を言い渡され執行猶予一年が付いた。その他にも執行猶予の間は私に近づいてはならないと命じられたそうだ。その影響もあって貫之も浦巳と距離を置きたいと言いだし、二人は私の知らないうちに籍を外していた。家を出て行ったのは浦巳で、貫之は新婚生活の思い出の詰まったあの家に住むことになった。一軒家購入の最大の出資者は浦巳の両親であるので貫之は当初自分が家を出ることを決意するも浦巳の意向と近所の眼があってこのような状態になっている。事件の後も私は毎日貫之と会っていたが浦巳がいなくなった空白感は時間を経ても心を埋めることはないようだった。家にいる貫之は日がな一日、あのプロポーズらしき言葉を浦巳にかけた日の病室と同じような感覚であっただろう。掃除をするものがいないので清潔感などみじんもないが浦巳の好きな色だった、部屋を包む白い壁紙。生きていくことにも活きていることにも疑問を感じる日常であるのにもかかわらず、だだっ広い生活空間。白の虚無感と居住空間が広いゆえの自己の矮小さ。それは広大な空間であっても、救いなどはいっぺんもない。この家に不足しているものは、この家に必要なのは、この家を完遂させるには浦巳を包括するしかなかった。
 家はまさに貫之のこころそのものだった。



 もしも私と竜が出会わなければ。

 あれから十八年の歳月が経ち貫之も私もそれだけの年齢を重ねた。結局私と貫之は愛し合ってきたつもりでもそれはお互いを慰め合ってきただけのことを勘違いしていたのかもしれない。私はそんな、もたれ合いの精神から抜け出したかった。そのころの私はあんな事件もあったためか社会生活に役立つ知識を渇望しており、慰め合いを抜け出すこの機会に寮つきの大学に受験しようと考えていた。寮に入ることは言わずに大学入試を受けたいとだけ告げると貫之は喜んで賛成してくれた。少々胸が痛んだが、おいおい折を見て話していけばいいことだ。一発合格とまではいかないまでも、昼夜を問わず勉強し翌年には祈願の東西宝生寺大学合格を果たした。学科は経済学部である。社会生活に通ずるとなると社会学を選ぶべきかもしれないが社会学は学派が多く複雑であったのでとっつきにくかった。社会を数値として認識することができる経済学の方がわかりやすいと考察したのだが今にして思えば大差なかったかもしれない。四月も中旬に入り、キャンパスライフに慣れてきた私たち新入学生は大学仲間作りに本腰を入れ始める。その手法が最も際立っていたのが竜、その人だった。いや、他の学生は竜が友人作りをしているとは夢にも思っていないだろう。それは私に対してのみ行われ、後にも先にもその一回だけだった。今まで表情筋を感情によって動かしたことがないかのような意識的に過ぎる顔面のまま「隣空いてますか」と言われれば首を縦に振るほかない。それは経済理論のひとつ、ゲーム理論の最初の授業でのできごとだった。竜は鞄から二枚の紙切れを取り出して一枚を私に差し出し、もう一枚になにやら自分で記入し始めた。それはよくある『○○への100の質問』と呼ばれるものに似せてあり、いくつかの質問項目が書いてあった。どうやら竜が考えた質問のようで100題もある分いくらか時間がかかったがなぜか用意した竜の書き終わるほうが遅かった。

 問1   相手になんと呼ばれたいですか。 答.私『つらみ』   竜『竜』

 問25  人助けをしようと思いますか。  答.私『あまり』   竜『まったく』

 問36  求める恋人像はありますか。   答.私『優しい人』  竜『性交できる体型』

 問37  どんな人間が嫌いですか。    答.私『同情する人』 竜『自分』

 問57  あなたに裏の顔はありますか。  答.私『皮肉屋』   竜『いくつか』

 問79  許されない恋におちたら。    答.私『諦める』   竜『恋にはおちない』

 問90  生まれ変われるとしたら。    答.私『男の人』   竜『静物』

 問100 相手に出会えた感想は。     答.私『特に』    竜『運命』

 思春期を抜け出せていないような悲観的な竜の解答群のなかで最後の問いの答えだけは心に引っかかった。







 もしも私が竜に心惹かれていなかったら。

 「恋愛は非ゼロ和ゲームと言われますが、竜はそうは思いません。恋愛は囚人のジレンマ・ゲームに酷似しています。有限回の繰り返しゲームと限定した場合、非協力解が均衡解として成立します。フォーク定理によりますと無限回の繰り返しゲームであれば協力解こそがナッシュ均衡解となる、とありますが現実的に無限回が不可能である以上、アリエル・ルービンシュタインがフォーク定理を証明しようと、それはやはり現実社会における恋愛に適用できるものではありません」。ゲーム理論の授業中に竜はずっと私に話しかけていた。無駄口を叩いていると思い、たまりかねた女性教師が竜にゲーム理論について意見があれば立って発言するように、と言ったときには「意見はありません」と答えるもののその後も私に話しかけ続けた。「恋愛はゼロ和ゲームです。そして非協力ゲームです。しかし確定ゲームでも完全情報ゲームでもありませんので二人零和有限確定完全情報ゲームとして成り立たず、理論の上であっても完全な先読みができません」。竜は大学構内では人に語りかける行為をしていなかった。観察したわけではないが少なくとも私は竜が話しているところを見たことがなかったのである。そんな竜が、しかも難解な専門用語を用いて私に語りかけるとは思っていなかった。そもそも孤独を愛すると思っていた竜が私の隣に座ることなど予想外だったのだ。動揺しつつも私は「ゲーム理論について意見があるなら先生に言ったら?」と言ってみても、この問いかけには「ここが大学だからといって彼女のルールに従う必要はありませんよ。それに竜はゲーム理論について語っているのではなくて、つらみの恋愛観が訊きたくて自分の意見を述べているのです」。問79に『恋にはおちない』と回答した竜であるが恋愛関係を否定するわけではないらしい。私は竜の人格に興味が湧いたので恋愛関係を結ぶことにした。
 竜に言わせれば恋愛は勝負であるらしい。



 もしも竜が勝負に勝っていなかったら。

 聞いたわけではない。でもそのときの竜はつまらなさを感じていただろうと思う。竜は頭がよかった。先達の頭のいい人たちに倣って竜も厭世的であった。なんでもよく理解しているから不確定要素の存在を排除してしまい驚きを感じることがない。身の上に降りかかることをあらかじめ知っているのは不幸なんだと思う。私との出会いの中にようやく偶然を見つけたと喜んでもそれはすぐにいつもどおりの勝利であることに気が付いてしまう。竜にとっては運命そのものがゲーム、勝負だった。このゲームは私に興味を抱かせた時点で竜の勝利は決しており、恋愛までに持ちこむことすらなかった。勝利し続けることが竜の定められた運命で、いくら勝つことに興味がなくても、どんなに相手が努力をしていようと勝利以外の結果は用意されていない。自チームを国内ジュニアリーグの優勝に導こうと、高等学校で飛び級をしようと竜が充足することはなかった。大学に入ってから竜はわざと自分が普通であるかのように実力をセーブしていた。人から好奇の眼で見られることが、教師から優待という名の邪険に見られることが、社会全体から異端として見られることに嫌気が差していたからだそうだ。何かに圧倒されることが竜の望みだった。勝負の分かれ目を理解しているのでそこをあえて相手に握らせれば自分の敗北になるのだが、それは勝負が敗北になっただけで敗北感を味わうことはできなかった。
 竜は、勝つ運命という相手にだけは勝利できなかった。



 もしも事実を知らないままでいられたら。

 私は竜とともに大学での学業を終え、それを伝えるため卒業式後に少し寄り道してから貫之の家へと向かった。そこには頼りなげでげんなりして生きる意欲を失ってひさかたぶりそうな貫之の顔があった。私たち三人が来なかったらすぐにでも死んでいたことだろう。貫之は落ち窪んでいた眼を飛び出させて自分と私と浦巳の三人の再会を喜んだ。しかし竜がなぜここにいるのかはわかっておらず困惑した表情をしていた。ひとつには私の恋人だと紹介するために連れてきたのだが、もうひとつもっと重要な理由があった。私は付き合ってわりあい早い段階で竜からその事実を打ち明けられたので、そのときに問79の回答を実行しようとしていた。でも、それは無理だった。私は完全に竜との勝負に負けていたのだから。浦巳は有罪判決を受け貫之と離婚したあと、引越し先の地の人と再婚したそうである。その人はすぐに死んでしまったがその人との間には子供をもうけていた。その子供は浦巳に慈しまれあまりに賢くあまりにたくましく育った。そしてもっと上の大学に入れるにもかかわらず中庸を望んだため東西宝生寺大学の経済学部に入り私と知り合ったのだった。
 つまり竜こそ浦巳の子供だった。



 もしも家族でなかったら。

 竜と私と貫之と浦巳は一つ屋根の下で暮らすことになった。相変わらず私と浦巳の関係はギクシャクしていたがそれ以上にぎこちない竜と貫之に比較すれば仲良しであるとさえ錯覚した。貫之は愛している私の恋人ということで竜を目障りな存在と感じているのであるが同時に、愛している浦巳の子供ということで竜の父代わりの存在とならねばならない自覚があり、その相反する二つの感情に板ばさみにされ行動理念が存在しないアトランダムな接し方をしていた。竜はというとアトランダムな接し方からであっても貫之の行動理念を把握していたようだが、その理念が生理的に嫌悪を催すものだったようでぞんざいな接し方をしていた。いつだったか貫之は竜と私に浦巳との馴れ初めを語ったことがあった。そのころの貫之は竜に父親だと認めてもらいたくて必死に行動を起こしていたわけである。その短慮の結果母親が、未成年時にタバコを吸っていたことや私を出刃包丁で刺したことや有罪判決を受けたことなども詳細にわたって竜の知ることとなった。これについて竜はなぜか好意的に受け取ったようであるがその理由は私の知るところではない。その話の中に竜の聞きたかったことが含まれていたのか、貫之のバカ正直さに観念したのか、貫之の中に自分と似たものを見つけたのか、竜の考えを私が知る由もないのだ。ただ、その話を機に竜と貫之の関係は徐々にではあったが良好な状態へと改善されていった。その馴れ初めの話をしなければ竜をこうまで言わしめることはなかっただろう。
 「つらみさんをいただけるなら、竜は貴方をお義父さんと呼んで差し上げますよ」







 終幕 もしも……、少しだけ運命が異なっていたら。

 運命の交差点で違う道に曲がっていたら。運命の女神が別の誰かに笑っていたら。運命の籤で他の紐を引いていたら。
 昔は厳格であったが今では息子のご機嫌取りをする小心者の父親もいなかったし、差し障りのない優しさを備えてはいるが眼が合った瞬間に怯えを隠し切れない母親もいなかっただろう。勉強もスポーツもでき、天から二物を与えられていても人当たりのよさは一切与えられなかった母の息子もいない。なにより、
 私の腕に眠るこの小さな寝顔を見ることはなかった。






2005/04/21(Thu)22:15:06 公開 / clown-crown
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■作者からのメッセージ
△『if』は今の私の可能性であると言えます

▽『LIMIT』は現時点での私の限界点です

△この小説でいろいろな試みをしてみましたが

▽今の私があなたに贈れる最高傑作の物語です

△これで楽しんでいただけましたでしょうか?

▽騙されたと思ってくだされば物語りは成功です

△物足りなさを感じるかたもいらっしゃいます

▽でもそれは前編であるのだから仕方ないこと

△一文が長いと投げ出したかたもいるでしょう

▽それはひとつひとつの言葉を重要視した結果

△こんな小説を最後までお付き合いいただいて

▽気分を悪くさせてしまったかもしれませんが

△感謝してもしきれないほど感謝しております
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