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『避けてた自分 <八>』 作者:zenon / 未分類 未分類
全角18552文字
容量37104 bytes
原稿用紙約57.25枚
 <一>

 僕が生まれ育った街は、嫌になるくらい事件が多かった。「殺人」「誘拐」「放火」――そんな言葉はもう聞き飽きた。
 犯罪発生率ランキングでもあったら、この街は必ず上位に入るだろう。もしかしたらワースト1になるかもしれない。
 この前も近くで放火事件が起こった。二世帯住宅が焼かれた。中には幸い人はいなかったものの、そこに住んでいた人は大きく人生を狂わされた。しかしそのことを何とも思わなかった。当事者ではないから。

          *

 なぜか僕はどきどきしていた。今日は始業式の日。別名クラス替えの日。誰と同じクラスになるのだろうか――それがどきどきの原因だった。

 一年前、中学校の入学式。このときも今と同じ「どきどき」を感じていた。式がはじまる前、各クラスのメンバーが発表される。
 名前も知らない、先生と思われる男性が長い巻紙を広げていく。ここに全部で三つあるクラスのそれぞれのメンバーの名前がここに記されている。
 まず、1年A組のメンバーが記された紙がめくられる。自分の名前はない。
 A組の紙を広げた後、すぐにB組の紙だろう、また新たな巻紙が出てくる。出席番号1番から明らかになる。2番、井上啓介。3番、江藤那美。
 僕の名前は五十音順にして後のほうだった。頭文字は「ま」。一クラス30人くらいいるから25番くらいか。21番、野口康太。
 あと4つ。
 ――22番、濱口ゆかり。
 25番は刻一刻とせまっていた。くる、くる、くる。
 ――23番、松元裕仁。
 僕の名前は突然来た。一瞬混乱した。同姓同名か? そんなことを一瞬思った。
 ――24番、美山昭次。
 23番、松元裕仁。その名前は本当に僕の名前だった。僕は1年B組だった。その後のことはあまり覚えていない。なんでここまで僕がクラス替えに執着していたのだろう。

 時計の短針と長針は一直線になっていた。こんな時間に起きるのは何ヶ月ぶりだろうか。家を出なければならない時間まであとニ時間。その間ずっとどきどきしてなければならないと思うと嫌になってくる。
 どきどきに悩んでいてもしょうがない。そもそもこのどきどきの原因をなくせばいいんだ。どきどきの原因は単純なこと、誰と同じクラスになるのだろうか。それだけの話。なんでこんなたいしたことでもないのに僕はどきどきしているのだろう。何にどきどきしているのだろう。
 考えに考えたが答えは出てこなかった。ただ、気を紛らわすのにはよかった。
 時計の短針はさっきより15度動いていた。あと、一時間半。
 テレビをつける。朝の情報番組が放送されていた。爽やかな顔立ちの男性と女性が次々にニュース、天気、スポーツ、芸能情報と伝えていく。僕はなぜかこの二人が羨ましかった。何でこんなに笑っていられるのだろう。それに対し僕といえば、たかがクラス替えのことで悩んだり、どきどきしたりしている。――馬鹿みたい。自分で自分をそう思う。

『時刻は7時になりました。引き続きお伝えします。それでははじめのニュースです――』
 あと一時間。半分が過ぎた。今まで乗り越えた時間をもう一度乗り越えれば。そう思ったが、やはり一時間というのは長いもので、すでに耐えられなくなっていた。僕は布団から出、部屋を出、キッチンへと向かう。
「おはよう」ガスコンロの前に立っている母さんが言う。
「おはよう」僕は返す。
「それにしても今日は何か早いわね、裕仁」
「いや、何か早く起きてしまったから」
 適当に返しておく。
「朝ごはんなら今から作るわ」
 今日の母さんはやたらと機嫌がよかった。いつもなら「そこら辺にあるパン、適当に食べといて」くらいしか言わないのに、「作るわ」と。いったい何があったんだ。
 朝ごはんを作ってる間、僕は顔を洗う。髪の毛伸びてきたなぁと思う。
 キッチンに戻る。ふと冷蔵庫に磁石でむりやりくっつけられているカレンダーを見る。四月八日、つまり今日に丸がつけられていた。その傍にこう書いてあった。シャネル。

 朝ごはんはまだできていなかった。普段まともに作ったことのないサンドイッチに挑戦するも、切ろうとするたびに中の卵やハムなどがぶちゅっと出てくる。出てくるたびに母さんは「ウザ」と一言いい、もう一度挑戦する。それを確か五回くらい繰り返した。
「できた―――――!」
 馬鹿でかい叫び声をあげる。ちゃんと切れたのがそこまで嬉しかったのだろうか。目の前に皿がならべられる。一つ目の皿はさっきまで苦戦していたサンドイッチ、二つ目の皿は自称目玉焼きの卵焼き。三つ目の皿は丸ごと茹でたじゃがいも。最後の皿を見たときはさすがに顔を顰めてしまった。これをどうやって食べろと?
「お隣さん、泥棒に入られたんだって」
 僕がじゃがいもとにらめっこをしていると、いきなり話し掛けてきた。泥棒か。たいしたことはない。スルーする。
「ねえ、きいてるのー?」
 スルーする。

 朝ごはんを食べ終えたころには時計の長針は真下をさしていた。あと三十分。その残りの三十分を何をして過ごそうか考える。とりあえずテレビをつける。そのテレビ画面をじっと見つめる。となり町で殺人事件が起こったらしい。殺されたのは無職の女性、七十三歳。もう七十三年も生きたんなら十分だろ。冷たくもそう思う。
 その後も、高速道路での正面衝突事故や、ある芸能人二人が結婚したことや、自分にとっては全く関係のない話題が続いていた。

『それではもうお別れの時間です――』
 女性キャスターがそう言う。確かこの番組が終わるのは八時。もう行かなければ。そう思った途端、さっきのどきどきがぶり返してきた。いろいろして紛らわしていたというのに。
 鞄を手に持つ。始業式は持っていく物もほとんどないので、かなり軽い。
 階段を凄い勢いで降りる。これからは勢いだけでやっていこうと思う。凄い勢いでドアを開ける。心臓が今にも張り裂けそうだ。
「いってきます」
 そう言うと僕は見慣れた道を歩いていった。


 <二>

 家を出てから二十分後、学校に着く。校門を通り、運動場を見る。あと十分足らずでこの日の始まりを告げるチャイムが鳴るというのに、まだ人の数はまばらだ。不安になり、僕は前後左右、周りを見る。すると、校舎の壁にかなりの数の人が集まっていた。
 何かあったのか? そう思い、その人だかりへ向かう。そこでは生徒らが一喜一憂していて、奥には一枚の藁半紙が校舎の壁に貼ってあった。もしや。心臓がばくばくしてくる。
 遠くて藁半紙に何が書かれているのかわからなかったので、人だかりの中を強引に進む。少しだけ文字が見えた。替え詳。
 やはりそうだった。「替え詳」とたった三文字しか見えなかったが、その藁半紙に記してあるものはクラス替えに関するものであることはわかった。
 人だかりの中を強引に進む中、色々な声が聞こえた。
「きゃー、ゆいと一緒じゃーん!」
「また担任大野かよ」
「うわーさいあくだよー」
 人だかりの一番奥まで辿り着く。邪魔にならないように、できるだけはやく自分の名前を探す。
「えーと、ま、ま、ま……あった!」
 思わず叫んでしまった。その声に数人の生徒に睨まれたが、気にしている余裕もなく、自分の名前が載っている「2年A組」という表の一番上、つまり担任の名前が載っているところを見ようとしたそのとき、
「おー、松元ー」
 背後から聴き慣れた声。ほぼ反射的に振り返る。
「おー、和田じゃねーか」
 特別に親しい訳じゃないが、休憩時間にはよく一緒にいる和田がそこにいた。
「お前何組?」
「えーと、A組」
「おお、俺と一緒じゃん。けど、」
「けど?」
「担任大野なんだよなー」
「えー、まじでー?」
 僕は顔を顰める。大野、大野忠之53歳は学年の治安を維持していると言っても過言ではない。毎日のように説教していて、喉がつぶれないのかと思う。彼のような人は学年に一人は必要だと思うが、担任になられるのは嫌だ。
「これ、誰かの陰謀だよ絶対。誰かの陰謀だよ」
「誰のだよ」
「え、えーっと、誰かはわかんないけどさ、絶対誰かの陰謀だ」
 和田はその後も陰謀という言葉を繰り返す。担任が大野になってしまった悔しさを陰謀という言葉にぶつけているようだった。
「でさ、」
 僕が話を続けようとしたそのとき、屋上に設置されているスピーカーからチャイム音がした。運動場は周りを壁に囲まれているのでその音が小さくも反響する。チャイムに続いて聴き慣れた声。
『えーっと、生徒は各教室へ行きなさい、あ、教室はもちろん新しいクラスで。繰り返す――』
「なぁ、2のAはどこだ?」
 和田は僕に問う。僕は校内図を確認のため一瞥してから言う。
「2階の奥だ」
「遠いなー」
 そんなことを言いつつ僕らはその教室へと向かった。

 教室に入ると、半分くらいの座席は埋まっていた。黒板には座席の配置図がかかれ、その図にひとりひとりの名前がかかれていた。ふと横を見るとそこには和田の姿はなかった。どこに行ったんだろう、と教室の中を簡単に見回すと、すでに自分の席に座っていた。
 黒板の図をみて自分の名前を探す。僕の席は窓側の一番前の席らしい。
 その席に座ってから鞄を置く。後ろを向くと和田がいるが、ほかの奴らと話していた。
 窓の外を見やるとそこには桜の花が咲き誇っていた。たしか数日前この桜の見える道を通ったときは、桜なんてひとつも咲いてなかったはずなのに。
 そんなことを考えながらぼーっとしていると、突然背中につつかれた感触。
「ぬあ!」
 思わず変な声をあげてしまう。なぜか急いで振り向く。
「なあ、お前ここの席?」
 つついた奴が訊いてくる。
「あ、いや、まあ、そんな感じ……」
 一応肯定したつもりだが、自分でもよくわからない答えになってしまった。そんな感じってどんな感じだよ、と自分に突っ込む。
「そうか」
 相手はここは僕の席であると、ちゃんとわかってくれたようだ。彼は僕の隣の席に座り、続ける。
「俺は野口、お前は?」
 クールなキャラを気取っているのか知らないが、野口はそう訊ねる。その問いに答えようとしたものの、
「え、ぼ、僕はまつ、松元」
 なぜこう緊張してしまうのだろう。相手は同じ学年だし、男子だし……。
「そうか、松元か、そうか」
 そう言って彼は俯き、そして寝た。野口の行動はよくわからない。
 教室内の席は次々と人で埋まっていく。しかし始業のチャイムが鳴りそうな今でもいくつかの席はまだ人がいない。
 始業のチャイムまであと一分くらいとなったころ、慌てて駆け込む人が三人。一人は廊下側の端の席に座り、一人はなんとも言いがたい中途半端な場所の席に座り、そして一人は僕の斜め前、つまり野口の前の席に座った。
 斜め前に座ったのは女の子で、少し長めの髪の毛は急いでいたせいか、少し乱れていた。
 そして、黒板の上に取り付けられたスピーカーからチャイムが鳴った。


 <三>

 チャイムが鳴ったのと同時に、寸分の狂いもなく前の引き戸ががらがらと開き、大野忠之が入ってくる。教室内はそれと同時に緊迫感に包まれる。
「あと十分後か、八時四十分から始業式が始まる。各自体育館に行って並べ」
 怒っているときはあれだけ感情的になっているのに、普通に話しているときには感情の起伏は全くといっていいほど汲み取れない。まるでロボットのようだ。
 教室内にいる、三十人余りの生徒は次々と立ち、一言も喋らずに廊下へ出る。その流れに乗り、僕も同じように廊下へ出る。
 廊下へ出ると、皆は寄り道もせずに体育館のある方向へと向かう。親ロボットにただ従うだけの子ロボットかのように。
 こんなクラスで一年も過ごすのか。そうこれからの事を思うと僕は気が重くなる。

 前方では校長がのろのろとした口調で喋っている。その終わりは一向に姿を見せない。校長は今、一年の目標を立てましょう云々と喋っている。
 ――眠い。
 校長の喋り方はどの子守唄よりも睡魔を誘う。思わずあくびをしてしまう。大野の人工眼球に睨まれる。
 大野は何かを言いたげだったが、今は校長が一年の目標について熱く語っている途中だ。何かを言えるはずがない。
 それをいいことに僕は、ここぞとばかりにあくびをしまくった。
 校長はまだ喋っている。その終わりはいまだ姿を見せない。校長の顔を凝視するのもそろそろ辛くなってきた。
 僕はわざと目の焦点をずらし、校長の後ろの壁を見る。その壁はやたらときれいだった。当たり前だ。この学校はほんの数年前にできたものなんだから――。

 ここらの地域はいわゆる「ニュータウン」だ。大都市・K市の衛星都市みたいなものだ。どこかの会社が元々山地だった場所を切り開いて、造成した。売れるのかと疑問が出るほど家は建てた。
 K市まで電車で30分もかからないというアクセスのよさ。――それがよかったのか、一時は建てすぎだといわれた家も、瞬く間に売れてしまった。
 僕の家庭もほぼそれに近い。父親がK市の大手商社で働いているし、何より住みよい町だということでここに引っ越してきた。
 ――そんな完璧に見えるこの町にも、欠けているところがたったひとつ、あると思う。たとえば近所のおばさんに「こんにちは」と挨拶をしたとしよう。するとおばさんは「こんにちは」と返す。まあ、当たり前だ。問題はそこからだ。前住んでいた町(都会か田舎かわからない中途半端な町だった)は、「こんにちは」と返した後に必ずと言っていいほどさらに話を続けた。それは「どこへ行くの?」みたいなたわいないものだ。それに対し今いる町では、そこから話が続くことは全くと言っていいほどない。挨拶を返した後は家へ戻るなりゴミを捨てに行くなり、それぞれのするべきことをただ淡々と始めるだけだ。
 なんだか、殺伐としている、今の町は。
 確かに前いた町の近所のおばさんはうざったいと感じるときもあった。「どこへ行くの?」「その袋の中は何?」「ちょっとテストどうだったの?」――だけどそれらには「あたたかみ」があった。しかし今の町にはそれは感じられない、全く。

「礼!」
 いきなりの大声にびっくりする。その声は前に、校長の横に立っている生徒会のひとりによるものだった。
 生徒が礼をする。僕も遅れながら礼をする。校長も礼をする。どうやら校長のあまりにも長い話はやっと終わったようだ。
 しかし、苦しみからはそう簡単に抜け出せない。
「続いて生活指導の熊谷先生から一年間の生活についてお話があります」
 司会役の生徒会のひとりはそう続けた。ああ、まだ続くのか。生活指導だからそんなに長くはないだろうけど、校長の長ったらしい「熱弁」の後なのでかなり辛かった。
「えーっと、まず、けじめをつけよう。早寝早起き、うん、これは基本ですね。毎日朝早く起きることによって学校に来る頃には随分と脳の働きは活発になってるんです。つまり勉強がさくさく進む。まあ、しかし、朝早く起きるためには夜も早く寝なければなりません。夜、テレビをずっと観ていて時計を見れば『あっ! もう一時だ!』――そんなことはありませんか? これはいけないですね――」
 これまた熊谷は「熱弁」を振るう。彼はその後も早寝早起きに関して十分くらい喋っただろうか。思いの外長かった。校長と合わせると時計の長針はゆうに半周している。
「――ということで、今年度も、君達には頑張って欲しいと思う。以上」
 綺麗に締めくくれた、そんな顔をして熊谷は壁際へと下がる。そして司会が、
「その他先生方から連絡はございませんか?」
 大抵の場合ここで連絡はない。つまり「終わった」に等しい。しかしその考えは脆くも崩れた。
「はい、ちょっと連絡させて」
 そう言いつつ手を挙げたのは大野だった。
 大野はマイクのある前へ出て、マイクを手に持ち、
「おいお前ら、人が前で喋ってんのに、あくびとかすんな!!」
 そう怒鳴った。大野がロボットから人間に戻った。
 しかしこれは僕にとってラッキーだったかもしれない。ここで全体に大野は攻撃すれば、僕個人に対しての攻撃は免れるからだ。
 その説教には第二波があると思ったが、一回怒鳴ると大野は司会へマイクを返し、元いた場所へ戻った。
「その他先生方から連絡はございませんか?」
 繰り返す。
 無反応。
「それではこれにて始業式を終わります。三年生から退場してください」
 終わった。
 一気に硬直していた心はほぐれる。今になって気付いたことだが、なんで始業式ひとつにここまで力んでいたんだろう。
 とにかく始業式は終わった! あと適当に手紙とか配られれば、今日はもう学校へ帰れるだろう! 突然うきうきした気分になってくる。
「二年生退場してください」
 僕は立ち上がり、だらだらと他生徒のあとをついていく。

 教室についたときは大野の姿は無かった。A組の生徒は思うがままに行動している。色々な声が聞こえる。
「今日遊びに行ってもいい?」
「大野が怒鳴ってたときの顔すごくなかった?」
「うっそー、あの子が!?」
 いつもどおりの、会話。しかし僕はそれらの会話には参加せず、また窓外の桜を見ていた。すると、
 ――さー
 ドアが開く音。
 教室内は緊張に包まれた。
 ドアが完全に開いたとき、ドアの前にいたのは、野口だった。
「違うのか」誰かが言う。
 その言葉とともに緊張感は簡単に崩れた。しかしそろそろ大野が来そうだ――そう感じた生徒らは次々と自分の席へと戻っていった。
 野口は表情ひとつ変えずに自分の席、つまり僕の隣の席に座った。野口は筆箱からペンをひとつ出すと、顔をうつ伏せ、寝た。やはり野口の行動はよくわからない。

 そしてその数分後。もう一度ドアの開く音がした。そして入ってきたのは予想通り大野だった。生徒らはあらかじめ大野が来るのに備えていたので何事もなかった。
 大野は手に溢れんばかりのプリントの束を持っていた。十束くらいあるだろうか。彼はそれを机の上にどさっと置くと、淡々と配り始めた。

 すべてのプリントを配り終わった頃には十時をまわっていた。大野は時計をちらっと見ると「それじゃ終わろうか」とさっきの怒鳴り声とは比較にならないくらい小さな声で呟き、続けて「起立」と言った。
 さようなら、と挨拶して、僕らは解散した。
 ある人は部活動へ向かい、ある人は帰り、ある人はまだ教室に居座って喋っていた。
 そのうち僕は部活動へと向かった。「帰宅部」という部活動へと。


 <四>

 帰宅部は学校から家までの帰る時間を有意義に過ごすことを目的としている部活動である。帰宅部には部長および部員という概念は無く、むしろ入部退部という概念もない。日本国内でも類を見ない自由さだろう。
 ――というのは僕が考えた帰宅部だ。しかしそれを考え出した張本人、僕はその目的をまだ達成できていない。今日もまた。
 見慣れた風景、見慣れた光景。目の前では三歳くらいと思しき子供二人がアスファルトの上でなぜかプラスチックでできたスコップを持ち、走り回っている。
 僕の家まであと百メートルくらいかというところまで来た。道はまっすぐなのでじっくり見れば家を見ることができるかもしれない。
 僕はもしかしたらカタツムリより遅いかもしれないスピードで歩く。たった百メートルがやたらと長く感じる。時は正午に近づいていく。まだ春だというのになぜかかなり暑い。太陽光線がぐさぐさと僕の身体に突き刺さる。

 やっと家についた。目の前には真新しい家。僕の家。
 僕はポストの中を覗く。封筒がひとつ。取り出してそれを見ると、保険会社の名前が書いてあった。そしてその上部には、料金後納郵便、親展。
 その封筒を手に持ち僕は家の中へと入る。そしてフローリングの床を思いっきり音を立てて少し速く歩く。
 リビングに入りお休み中のこたつへ向かってその封筒をブーメランの如く放り投げる。しかしいつもはいるはずの母さんが今日はいなかった。いつもならば母さんはこたつの中に入って煎餅かポテトチップスをばりぼり食べているはずだ。なのに今日は。
 そう思いながらこたつとは違う方向を向くと、そこには母さんがいた。母さんはこちらを向いて、
「おっかえりぃーっ」
 と。
「…………」
 僕は言葉を失った。
 漫画なら台詞の語尾に音符マークでもつきそうな「おっかえりぃーっ」。
 「おかえり」なんて普段は言わないのに「おっかえりぃーっ」。
 いつもなら「帰ってきたんか」なのに今日は「おっかえりぃーっ」。
 僕ははじめ戸惑ったが、すぐにその気持ちは消えた。今日は「シャネル」か。
「昼は?」
 シャネルを頭から消し去り僕は問うた。ちなみに「昼」とは「昼ごはん」の略である。
「あー、テーブルの上に置いてあるから食べてぇー」
 やはり「シャネル効果」か。シャネルおそるべし、と僕は思う。
 いつもならば昼ごはんなんぞ冷凍食品かスーパーのお惣菜だ。昼ごはんを作るなんて冷凍食品も惣菜も切れたとき以来だ。しかもそのときは嫌々作っていた。なのに今日は帰ってきたらもうできていた。やはりシャネルおそるべし。
 僕は椅子に座り、箸を持ち、昼ごはんを食べ始める。
 まず卵焼き。普通の味だ。しかし途中で茶色のかけらがでてきた。多分殻だと思う。
 続いてソーセージ。見るからにソーセージの色ではない。何かどす黒い。しかしそのどす黒いのは表面の半分くらいだ。残りの半分はやたらと白い。わかりやすく言うなれば「生の色」だ。片面しか焼いてないだろ。
 最後に主食、ご飯。びっくりにも硬くも軟らかくもなくちょうどいい硬さだ。よく水の量を間違えなかったなと思う。かなりいい出来だと料理をしたのは去年の1月に家庭科の授業でマッシュポテトを作ったのが最後の僕が評価する。けどおいしいのには違いない。

 ご飯と二つのおかずを食べ終えて小声ながら「ごちそうさま」と言うと、僕は鞄を手に持ち自分の部屋へと向かおうとする。
 ふとみたテーブルの端には今にも落ちそうな空のプラスチック製と思われる容器があった。なぜか今にも落ちそうなその容器がすごく気になったのでそれをテーブルの奥のほうへ寄せる。その容器にはこう書いてあった、「レンジで一分! 魚沼産コシヒカリ使用・ぱっとご飯」。

 部屋に入ってとりあえずテレビをつける。画面の奥では、骨粗鬆症にならないために注意すべき点を、六十歳くらいと思しき男性と、そのアシスタントが喋っていた。
 床に放り投げた鞄の中身をどさっと出す。どこから手をつけていいのかわからない。プリントの山。
 ――家庭調査票
 とりあえず母さんにわたそう。
 ――保健調査票
 これもわたそう。
 ――演劇「しらゆきひめ」のおしらせ
 どうせ見に行くことなんてないし、捨てよう。
 プリントの山を整理する。その中からは去年の日付が記されたプリントが一枚でてきた。PTAが発行しているらしい。まぁこんなものは別に重要でもないし……いいっか。

 プリントの整理が終わった。テレビには中年の女性が「1」だとか「2」だとか番号のプレートをあげていた。
 …………。
 それにしてもやることがない。
 学校が早く終わるのはいいけれども、家でやることがない。あ、宿題があったような。整理されたプリントの山を漁る。でてきた。
 しかし、その宿題のプリントを見て僕は絶望感に苛まれた。計算問題。
 いや、計算問題ならいいんだ。しかし最後の計算問題の左上にこういう番号が丸囲みでついていたんだ、100。百問。


 <五>

 ひゃくもん。

 しかし僕はその宿題を後回しにした。いつも夜遅くになってあー、あー、とか言いつつ、さらに眠気とも戦いながら宿題をせねばならないのだ。そんなことは百も承知している。しかし僕はその宿題をする気には全くならなかった。
 もう、寝よう。

 ――そう思ってもこの時間帯にそう簡単には眠れない。今日学校は午前で終わって眠りを誘う疲れはない。
 僕は再び考えた末、テレビを観続けることにした。

          *

 父さんが帰ってきた。それはやたらと母さんが張り切って作った夕食(ちなみに味は途轍もなく微妙だった)を食べ終わって数分経った頃。
 父さんは手に書類の詰まった鞄と、そしてもうひとつ紙袋を持っていた。その紙袋には数学に出てくるエックスの記号に似たマークと、そして「CHANEL」の文字。一瞬チャンネルかと思ったがそれはシャネルだ。
 母さんはそれを見ると、顔の筋肉をめいっぱい使ってにへにへ笑って父さんの前へ。そして、
「ありがとうー政仁くーん、お礼に……」
 年に数回しか目撃できない異様なオーラを発し、そう言う。
「どういたしまして、え? お礼に? いやあそんなあ……」
 こんなことを子供の目の前でやるのはどうかと思う。しかしあの二人にそんなことを言っても通じるはずはない。なぜなら二人はすでにこの世にはいない。また別の世界にいる。

 父さんは今の台詞では到底思えないがこれでも公務員だ。しかも係長という管理職。結構給料もいいらしい。何とも安定している仕事だと思う。
 しかしなぜこの父さんがあんな母さんと結婚するに至ったのか。そしてその結婚生活が十数年にわたって続いているのか。はじめはよくわからなかったものの、最近はなぜかわかってきたような気がする。
 それは簡単だ。父さんは母さんの顔を求め、母さんは父さんの金を求める。これは仮定にしかすぎないが、僕はそうだと確信している。

「見て、あなたのために晩御飯を作ったのよぉ」
 ソプラノの声でそう言う。
「ありがとう裕子ちゃーん」
 事情を知らない人が見れば不審極まりない二人。その光景を最もよく見ているはずの僕もなんか見がたくなってきた。
 そして僕は部屋に逃げた。

 今日という日は二人にとっては特別な日。今やそれは父さんが母さんにシャネルの鞄やら財布やらをプレゼントする日と化しているが。元を辿れば今日は結婚記念日だ。松元政仁と遠藤裕子という二人が結ばれた日。
 僕の仮定では二人の結婚は「顔目当て金目当て」だ。それは違いない。けど、その中にも多からず少なからず愛があっただろう。そして今も。

          *

 風呂上がり、火照った体に春の涼しさは気持ちよいものを感じる。リビングには父さんと母さんがいたが、すでにあのような事情を知らない人が見たら不審がられることは必至な状況はかけらもなくなり、いつもの状態に戻っていた。
 所詮一過性か、と僕は思う。
 それにしても父さんも母さんも、ギャップがひどすぎる。

 僕は部屋のドアを開け、頭の中のチェック表にチェックマークを書き込む。
 ――風呂……完了
 ――宿題……
 未完了。
 後悔先に立たず、という言葉が突如襲来する。
 すでに溜息しか出ない状況。いっそのことやらないという手もある。しかしその手に反対する僕の中の真面目くん。しかしそれに反抗する勢力もいる。だがそれは真面目くんに押されっぱなしの状況だ。僕はどっちを応援すべきかわからなかった。
 結果、真面目くんの勝ち――。

 目の前にはプリント、そしてノート。プリントにはこれでもかと数字が印刷されている。
「よし!」と気合いをいれ、取り掛かる。
 ――●次の問題を解きなさい
 よし、解いてやる! と、何の変哲もない問題文に対して一方的に対峙する。いや、それは対峙とは言わないか。それでは一問目。
 ――(1)3+5
 おちょくってるのか、と思った。さんたすご。僕は中学生だぞっ! と心の中で叫ぶ。ノートに答えを書く。7……じゃない、8だ8。
 あまりの簡単さに僕は間違えそうになってしまった。自分を恨めしく思う。
 二問目。
 ――(2)4+8
 少しパワーアップしやがったな、と僕は思う。繰り上がりだ! いひひ、でも簡単だからねー。12。はい次。
 ――(3)7−2
 5。
 ――(4)14−5
 9。
 ――(5)10+12
 22――

 ――(12)1343+987
 四桁の数字が出てきた。早くも気力は失せてきて「少しパワーアップしやがったな。繰り上がりだ!」などとしょうもないことを心の中で言っていた自分が馬鹿みたいに思えてくる。さんたすななはじゅう、くりあがりでいちたすよんたすはちは――

 ――(50)(−3)×(−3)
 9。やっと半分。まだ半分。マラソンにして21キロとちょっと……いや、そんなことを考えている場合ではない。今は計算に集中するんだ。さぁ次の問題は――、おっ一桁の数字だ。マイナスもない。
 ――(51)3+5+8+9+2+5+0+1+4+2+6+7
 数字オールスター。そしてついにその声が出た。あー、あー。

 日付が変わろうとしていた。宿題をはじめたのはそれほど遅いというわけでもなかったが、ところどころテレビを観てしまったのが大きな影響だ。それが例え数分間でも積もれば。
 プリントに書かれた括弧に囲まれた数字は、97だった。そして97番目の問いも何とか答える。睡魔もそろそろやってきた。しかしもうすぐ100なのでその睡魔には勝っていた。
 僕は、今までの道のりにしみじみしていた。「少しパワーアップしやがったな」なんて言ってたなあ。「あー、あー」と漏らしたこともあったなあ……。
 そんなことを思いつつ98問目を難なくクリア。
 思えば何問目だったか忘れたけど、「数字オールスター」の問題も今思えばそう難しくなかったなー。気力は本当に影響が大きいなー。今はそれがあるからすべての問題が簡単に見える。
 99問目を解き終える。
 ――(100)
 三桁の数字がこれまでに嬉しく思えたことはないだろう。僕は世界で最も三桁の数字に喜びを感じている人間だ、と思う。
 ――(100)[1342.78+{423×(−34)−9876.54321+(−23)×32}−342031]×0
 僕は世界で最も三桁の数字に絶望を感じている人間だ、と思う。ナンデスカコレハ?
 どこから手をつけたらいいのかわからない。「かける」を先にやるんだよな……。括弧の中を先にやるんだよな……。まず、「423×(−34)」からか……? えーっと、えーっと……。
 やっとのことで「423×(−34)」の答えを出す。−14382。
 次はどれをやれば……僕はそう思い、次解くべき計算を探す。どれかな……?
 ……ん?
 ……んん?
 僕は見つけてしまった。大括弧の後に「×0」があることを。
 それを見つけるやいなや僕は答えを一秒もかからない早さで書く。史上最高の達成感。
「やった―――――!!」と心の中で叫ぶ。
 そして僕は手をあげながら後ろに倒れ、そのままこの世からおさらばし、夢の世界へと旅立った。


 <六>

 ふと目が覚めた。眠たい。無意識にあくびが出る。目を開けたり閉じたりを繰り返す。なんだかまだ眠いような感覚。
 時計に目をやると八時ちょうどを指していた。その数字は僕を即座に覚醒させた。
 あ――――――――――!!
 声には出さずに頭の中でそう叫ぶ。その叫びが脳内でぶわんぶわん反響する。
 どたどたと廊下を走り抜ける。早くしなければ、遅刻しちゃう!
 キッチンに入るとそこには母さんがいたが、椅子に腰掛け眠っていた。いつもならここで起こして何を食べるか訊いて冷凍庫から出してそれをレンジに突っ込むという、とても面倒くさい行為をしなければならないのだが、今日はそんなことをしている余裕はない。もう、朝飯は抜きだ!
 そして玄関へと向かう。と、あることを思い出す。
 教科書入れてねぇー!
 鞄の中はまさに昨日の始業式のときの物しか入っていなかった。こんなに鞄が軽いのに、なぜ気付かなかったのだろう。
 あ――――――――――!!
 声には出さずに再び頭の中でそう叫ぶ。その叫びが脳内でぶわんぶわん反響する。
 今日の時間割は国語なのか数学なのかはたまた体育なのかそれとも家庭科なのか――頭の中がぐちゃぐちゃになっていて、考えられなかった。なので目の前にある教科書と体操服を全部強引に突っ込む。
 そして再びキッチンを経由して玄関へと。キッチンでは母さんが目を覚ましていた。そして、
「朝からうっさいわねー」
 と、お決まりのセリフを言う。
 それにかまってられるような余裕はなかったので無視する。時計を見ると針は八時の五分と十分の間を指していた。
 少しばかり汚れた靴を履いて外へ出る。踵の部分を踏みながら。

 教室に入ったときには始業の二分前だった。
 間に合ったとわかっているのに、慣性で机におさめられた椅子へ滑り込む。椅子の脚と床とが擦れ合い、ががががが、という小さな轟音が鳴り響く。
「寝坊?」
 斜め前の席に座っている女子が僕に問う。
「う、うん、まあ、そんなとこ」
「そうなんだ」
 また曖昧な答えを返してしまったことに少し後悔する。女子は続ける。
「そういえば、野口くん……だっけ、野口くんもいないね?」
「そうだね」
 相槌を返す。
「野口くんも寝坊だったりして」
「そうかもね」
 彼女はそう言って微笑んだ。
 そしてチャイムが教室内の会話を遮るように鳴った。
 と同時に、担任の大野が教室に入ってきた。1秒単位の誤差もなく。教室のドアの前で待機していてチャイムが鳴ったのと同時に開けたのではないかと思わせるほど同時に。
 席を外れていた生徒たちはだらだらと自分の席に戻る。その途中、お調子者の佐東が、彼とよく一緒にいる木下にちょっかいをかけようとしたが大野に睨まれたのでやめた。
 大野は目線を教室の中心の空気に戻し話し始める。
「えーっと……、げほ、げほん」
 言い始めたそのとき、大野が痰でも絡んだのかえずいた。しかもそれは長期化し――その間は異様な空気が教室内に漂った。
 何とか平常に戻った大野が顔を微かに顰めながら続けた。
「えーっと、野口は……」
 と言った後、さっきの咳か何かがぶり返したのか少し顔を下に向ける。そしてごくり、と飲み込んだ後再び続けた。
「えーっと、野口は諸事情により休みだそうだ。さっき親から電話があった」
 諸事情って何だよ。そう突っ込みたくなる。しかし言えやしない。と思っていたら佐東が、
「せんせえー、諸事情ってなんですかー?」
 と。それに対し大野は、
「諸事情は諸事情だ。あとで国語辞典で調べろ」
「いやいや諸事情の意味じゃなくて、その中身を訊いてるんです、ナカミ」
「そんなこと知らん」
 大野はごまかした。
 そう曖昧に言われると、余計に気になる。その思いをどうか……佐東……代弁してくれ! と思ったが、今度は佐東も何も言わなかった。
 そして大野は半ば強引に続けた。
「えーまー、新しいクラスになったわけだけれども、な、みんなクラスメイトのことをよくわからんだろうから軽く自己紹介してもらおうと思うのだが、どうだ?」
 もちろん、異論なし。というか異論なんてできない。
「じゃ、出席番号順にいこうか。じゃあまず1番、浅井から」
 浅井は隣の男子にぶつぶつ何かを言って立ち上がった。たぶん、「俺からかよー」みたいなことだろう。
「えーっと、僕は、浅井信二、えーっとよろしくおねがいします」
 浅井は多少詰まりつつそう言う。すると大野が少し笑みを浮かべて言う。
「もうちょっとないのかー?」
「え……、もうちょっと……? えー、えーっと……」
 クラス中の視線が浅井に集まる。僕も彼のほうを向く。
「えーっと、バスケ部で、好きなスポーツは、バスケットボールです」
「じゃあもう座っていいぞ、それじゃあ次……出席番号2番は……」
 大野のテンションは高かったが、それに対し生徒のテンションは低い。そんな中でそれは始まった。


 <七>

 自己紹介に何の意味があるのだろうか。僕はそう思う。同じ教室の中で半日も一緒にいるのである。一ヶ月も経てば大体のクラスメイトの性格くらいわかるのではないだろうか。
 しかし始まってしまったものは止まらない。
 すでにクラスの生徒の半分はそれを終えている。「あ」とはいかなくても「あ―――――」という間には順番は回ってくる。何と言おう……。
 しかしこういうときにはなかなか思いつかないもので、さっぱり自分を紹介するのに何を言えばいいのかわからない。と、僕は思いついた。ほかの人のを盗もう!
 とりあえず大体の生徒は名前と趣味や特技、そして好きな教科、所属している部活動で済ませている。僕の場合、部活動には所属していないのでそれは削除して、項目は三つだ。
 まず名前。これはいい。自分の名前くらいわかる。
 続いて趣味や特技。趣味……、特技……、思いつかない……後回し。
 最後に好きな教科。これって好きな教科はない。ここは前回の定期テストで一番点数の高かった社会にしておこう。点数が高いと言っても、あくまで僕の中で、だけど。
 あと、趣味や特技は何にしよう、そんなことを考えているうちに順番は斜め前の例の女子のところまで来ていた。
「沼津有里です。えーっと、趣味は読書で、国語が得意です」
 そうだ! 読書だ! 趣味の定番。適当に言うときには便利な趣味。
 ……けど、追求されたらどうしよう……。僕は無駄に心配になる。
 読書。確かに本は読む。しかしそれは漫画だ。漫画を読むイコール読書になるかなあ……。けど、漫画も本だ。読書には変わらない。
 そう迷っていたら大野が、
「どんな本が好きなんだ?」
 と。今まで大野はたまに質問を返したりしていた。それが今、また行われたのだ! 趣味を読書にする計画、最大の危機。まさか好きな本は「そこに名前を書かれたらその人は死んでしまうノートの漫画」と言うことなんてできない。
「えー、村上春樹の『ノルウェイの森』とか人だったら赤川次郎とか……」
 彼女はさらっと答えた。赤川なんたらは聞いたことがあるような気がするけど、はじめに言った人は聞いたことすらない。大場とか小畑なら知ってるんだけど……。
「そうか」
 大野は頷くと、「次ー」と言った。
 次は野口はいないのでその後ろにいる男子だ。

 そんなこんなで今や順番は僕の前の席まで。はやくなる心臓の鼓動。すごい勢いで血液が循環中。
 そして地獄の一言から大野の口から放たれた。
「はい、次ー」
 とりあえず、立つ。妙に静かな教室の中、椅子と床と擦れる音が大きく響く。
 しかしかたまっていてもしょうがない。ここは何か言わねば。
「えっと、松元裕仁です、社会が得意で、趣味はドクショです」
 そう早口で言って座ろうとする。しかし。
「どんな本が好きなんだ?」
 さっきと全く同じセリフを大野が放つ。
「え、えーっと、作家でいうとー、えー、竹之内譲二とか」
 今考えた人名。我ながら文学っぽい名前だと感心する。
「ほー、竹之内譲二とは聞いたことのない名前だけど、どんな本を出しているんだ?」
 沈黙。
「え、えーっと、『ミステリー列車! ジェイアール殺人事件!』とか……」
 苦しい題名だと思うがこれで精一杯だ。
「ふーん……じゃあ次」
 助かった――。その話の中身を訊かれずによかった――。最高の安堵感に僕は包まれた。

 自分の順番が終わると楽なもので、思考もそれなりに活発になってきて他人の自己紹介に頭の中で突っ込みを入れたりすることもできるようになった。
 そして最後。和田。
「和田浩二です。クラブ活動はバスケ部、バスケが得意です!」
 こいつは緊張というものを知らないのかと思わせるほどの異様なテンションでそう和田は言う。しかもその自己紹介の内容は嘘だ。そう僕は突っ込んだ。
 和田と同じバスケ部の浅井は和田はバスケ下手なんだよなあ、と漏らしていた、確か。それを聞いた僕は後でそのことを和田本人に面白半分に追求してみたら、和田はこう言った。
「大会に出たこともあるし、それは間違ってる」
 更に僕は質問。
「何の大会?」
「バスケの大会」
「いや、そんなことはわかってる。何ていう名前の大会?」
「チャンピォ……あ、いや、おい、そういうなあ、大会の名前とかは興味ねーんだよ。別にそんなのがテストに出るわけじゃないんだしさ」
 和田が自己紹介を終え、席に座る。浅井に睨まれていたのも知らずに。
 そして恐怖の自己紹介が終わる。と同時にチャイムも鳴り、授業時間も終わる。
 そのチャイムを聴いて僕は一気に力が抜けた。安心。そこからは眠たい授業があるだけで、特に緊張するところもない。
 しかしそれは思いっきり裏切られることとなった。自己紹介とは比べものにならない、恐怖と緊張の十分間が始まる。


 <八>

「ねぇ、ま、えー、松元くんだっけ?」
 チャイムが鳴ってすぐに僕の方を向いて斜め前の女の子が言った。始業前に野口について多少話した子だ。確か名前は……沼津だ。
「う、う……ん、何?」
「あのさ」
 たったの三音が無闇に長く聞こえる。なぜか嫌な予感。それはたぶん、話すのが今日がはじめてだというのに、彼女がやけに笑っているからなのだろう。そして彼女はこう言った。
「タケノウチジョウジについて教えてくれない?」
 え?
 ……タケノウチジョウジ? 一体何だそれは? 僕はタケノウチジョウジとは何なのかよくわからなかった。しかし数秒経って気付いた。竹之内譲二。さっき脳内で作り出したミステリー作家の名である。続けて彼女は言う。
「タケノウチジョウジってどんな本出してるの?」
 答えられない。さっき自己紹介の時、確かやたらと長い本のタイトルを考えた。だけれどそんなのを覚えているわけがない。
 僕は咄嗟に考える。……、!
「山田太郎の事件簿……ファイブ」
 苦しすぎる。山田太郎って安易な名前すぎないか、なぜファイブなのか。このタイトルに突っ込みどころなぞ、たくさんあった。
 もうタケノウチジョウジはウソだ、全部ウソだ――そう暴いてしまおうか。そう僕は思った。それがたぶん得策であろう。しかし、
「えー、おもしろそー、ヤマダタロウノジケンボファイブね、後でメモっておうか……」
 彼女はこんなことを言い出すのである。ミステリー小説というものはあまり……いやまったく読まない僕でさえさっきのタイトルはおかしいと思うのだが、そんなことを彼女は全く気にせずに――気付かずに、かもしれないが――、しかも面白そう、と言った。ますます状況は苦しくなる。
「ねえ、ほかには?」
 ほかには……ってそんなに小説のタイトルなんてたくさん思いつくわけがない。さっきはたまたま咄嗟に思いついたが、それはたまたまだ。詰まった僕はしぶしぶと……
「山田太郎の事件簿、シックス」
 ファイブがシックスになっただけ。なのに沼津はそれに疑問さえ浮かべず「ほぉー」とそのタイトルを頭に書き込んでいるようなそぶりを見せる。
 質問は続く。
「もっと教えて!」
 事態は、
「山田太郎の事件簿、セブン」
 ますます、
「へえ……セブンね」
 苦しくなる。
 しかしそう言う彼女の表情は熱心そのものである。彼女は笑顔を浮かべながらいかにもウソのようなそのタイトルを聴き続ける。
 苦しい。溜息さえ出ない。心臓の鼓動がおかしくなるのがよくわかった。しかしこの野暮ったいタイトルを聞いて彼女が「面白そう」と言い続けていることがまだの救いだった。だがさすがにもう山田太郎はやめたほうがいいだろうか……。

 竹之内譲二(たけのうちじょうじ)。昭和二十九年京都府に生まれる。二十三歳の時、「御殿密室殺人事件」で芥川賞を受賞、デビュー。その後ミステリーを中心に執筆活動を続ける。ミステリーと社会現象を織り交ぜた巧みなストーリーが特に三十代から四十代の人々に好評され、多くのヒット作を世に送り出した。代表作に「山田太郎の事件簿(既刊九巻)」「刺殺事件」「毒殺事件」など。

 いつのまにかこんなに設定が増えてしまった竹之内譲二に関する話は延々と続いていた。何分経っただろうか、そう思いふと時計を見ると休み時間は終わろうとしていた。僕はずっとタケノウチジョウジについて延々と訊かれて、憔悴しきっていた。
「ねえ、松元くん、」
 とその時。
 無機的な色をしたスピーカーからキーンコーンカーンコーンという聞きなれた音が聞こえてくる。いわゆる始業のチャイムだ。……やった――!! やっと! 終わった!
 僕は自己紹介が終わった時より、さらに強い安心感、安堵感に包まれる。心臓の鼓動は通常に戻りつつある。次は嫌いな教科だったが、そんなことはもうどうでもよかった。
 そう僕が安心していると、沼津が一言。
「ねえ、次の休み時間も竹之内譲二について聞かせて?」
 …………。
 僕は遺言状を書いて今すぐ窓の外へと飛び降りたい気分になった。もちろんそんなことはしないけど、でも。でも。
「ね、お願い」
 彼女は両手のひらを合わせ懇願のポーズを取る。心臓の鼓動が再び異様になりつつ僕はそれに反応できずにいる。断る言葉が思いつかない。空白が過ぎ行く時間を埋めていく。僕らのまわりの空気はみるみる固まる。その状況の中で僕は思わず言ってはいけないことを口にしてしまう。
「い、いいよ」
 後悔先に立たず。
 僕が最大級の後悔に包まれていると先生がやってきた。この一時間、竹之内譲二についてまたいろいろ考えなければならないのだろうか、そう思うと遺言状を書いて屋上から飛び降りたい気分になった。
 先生は教壇に立つ。すると沼津は前を向いた……と思ったら、沼津はもう一度僕のほうを向いて優しくこう言った。
「竹之内譲二、」
 僕を見ながら。
「そんな、無理して嘘を言わなくてもいいんだよ」
 遺言状を書いて上空三千メートルから飛び降りたい気分になった。
2005/07/28(Thu)16:43:38 公開 / zenon
■この作品の著作権はzenonさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
◆<八>
<八>です。前回の投稿より一ヶ月も経っています。理由を言ったら言い訳がましくなっちゃいそうな気がしましたのでそこは避けておきます……;
 また余計なネタに一回を費やしてしまい、結末がどんどん先延ばしされるばかりです。「次こそはちゃんと進めるぞ! おー!」と胸に誓いながら――。
#芥川賞が新人賞として扱われていますがそこはスルーでお願いします。
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