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『恋が恋でなくなった日』 作者:石田壮介 / リアル・現代 未分類
全角17902文字
容量35804 bytes
原稿用紙約50.65枚
 上野の画廊に出展している酒田信一は、恋に正直な男であった。恋に堕ちては幻滅を繰り返す日々に疲れ果て、若くして破滅した彼は公園で絵描きに出会い、自分自身を描き始めるのであった。
 東京の郊外で会社を経営する老人は、久方振りの休日に上野を散策していた。老人の足腰は高齢からすっかり弱って、よたよたと杖を支えに覚束ない。老人には近年再婚した若い嫁がいたが、老人の趣味である絵画には興味がなく、別の用事もあった為、付き添いで来なかった。雑踏を弱弱しく歩む一人きりの老人は、どことなくみすぼらしく映り、悲哀が漂っている風であったが、当の老人は朝から画廊を巡り、美しい絵画の世界の耽溺していた。既に気に入ったものを何点か購入しており、次はどんな美が待っているのだろうと、見た目とは裏腹に心は踊って、あまり馴染みではない画廊へ入った。
 画廊の床はサスペンションライトがくっきり映る程に艶やかで、汚れのない白い壁には花だとか緑溢れる街並だとかが窓のように並び、色彩豊かに眩しい。老人はそれらを眺めながら、奥から順に見ていこうと歩いていったが、入り口から陰になっていた場所に飾られていた絵を前に、おぉと驚いた。
 その絵は薄汚れた茶褐色のコートを着た男の胸から上が描かれた30号の大きな水彩であった。描かれている男の容貌はそこかしこに歪みがあって、絵というものは必ずしも写実であるとは限らないが、この絵からは実物そのものを描こうとしているのが見て取れる。すると、やはりどう見ても不均整な顔形をしているのが気になる。何よりもその歪みが生み出す表情が真顔なのか、微笑を浮かべているのか、判らない。背景は青みがかった漆黒がべったりと縁まで塗り潰されて、他に飾られているのが赤に黄に緑にと明るく華やかなのに対して、この絵だけが重苦しく嫌に生々しく、整って小綺麗な画廊の地下に蠢いている溝鼠を床板を剥がして見せつけているような、とにかく見ているだけで、うんざりする気分にさせられた。
 老人は狼狽しながら、額縁の下の表題を見た。表題には「酒田」と書かれていた。

       ×       ×       ×

 酒田信一は父親の顔を知らない。物心がついた頃には母親だけがいて、母親が言うには、優しく立派な男であったが、信一が生まれると逃げていってしまったらしい。頼れる身内もおらず、母親は生きる術をあまり持たなかった。しかし幸か不幸か、器量は良かったものだから、信一に人並みの生活をさせるべく、夜の街で身を削って働いていた。
 十歳の信一はその話に、ふぅんと凛々しい瞳を宙に遊ばせていた。母親に似て信一もまた美少年であった。

 ある時、信一は教室で高見という男子に突然胸を押された。一緒に遊んだ事のない、よく知らない子であった。痛ぇなと信一は語気を荒げて抗議すると、
「喋んなよ。菌がうつるだろ」
 と、高見は嗤った。
 信一は長い事風邪をひいていないし、悪さをした覚えもない。唯、喧嘩をする他ないという結論が素早く出た。信一は一歩進むと、その勢いのまま利き手で鼻っ柱を殴った。高見は鼻を押さえて、がくんと膝を折り、蹲った。
 教室は騒然となり、何人かが高見の顔を覗き込んだ。
「おい! 血が出てるぞ!」
 と、一人が振り返って睨んだが、立ち上がって来たら殴る事しか信一の頭にはなかった。
 やがて板倉という家庭科専門の先生が駆けつけて、高見は保健室、信一は板倉に職員室横の個室へ連れていかれると、パイプ椅子に座らせ、向かいに板倉はその痩せ細った体を信一に合わせるように屈めた。頭頂部の薄いパーマがかった癖毛に額には何本もの横線の皺を作って、黒縁眼鏡の艶々したレンズの奥から吊り上がった瞳がでっかく睨んでいる大人の迫力に、信一は委縮した。
「何で殴った?」
「菌がうつるって言われたから」
 信一は一旦は怖気づいたものの、自身に非がない事は明らかであったから、真っ直ぐに睨み返した。板倉は舌打ちして、
「お前、俺をなめてんだろ?」
 と、信一の髪を引っ張り上げた。
「高見のお父さんは銀行員で、お母さんは教育熱心で立派な方なんだ。高見はそんな事言わねぇんだわ」
「放せよ!」
 信一が痛みに暴れるのを、板倉はニタニタと笑って、
「お前のお母さんは体を売るしか能のない売春婦だろうが。売春婦のガキが足りねぇ頭で嘘ついたって、すぐ判んだよ」
 と、掴んでいた信一を力任せに放り投げた。
「次、調子乗ったらタダじゃおかねぇから」
 壁に後頭部を打ち付けてくらくらと揺れてぼやける部屋に、信一は一人取り残された。

 信一はその日の帰り道、泣きに泣いた。板倉がいなくなった後、そのまま学校を抜け出したので、余った時間を公園の遊具に隠れて過ごしたが、そこでも泣いた。干からびるのではないかと思われる勢いであったが、家に帰る夕方には泣き止んでいた。
 信一は母親から躾も教育も大して受けず自由に育ったが、泣いて家の敷居を跨ぐ事だけは許されなかった。信一が泣いて帰ると、母親は身支度の手を止めて彼を厳しく叱責した。そして最後には決まって、喧嘩するなら必ず勝てと言うのであった。それだから、信一は涙を隠して帰らなければならなかった。家に帰った後も敗北の記憶が甦り、その情けなさ不甲斐なさに何度も涙が溢れそうなのを堪えた。母親が仕事に出ていくのを見送ると、また泣いた。

       ×       ×       ×

 信一は中学へ上がると、髪を明るい茶に染め、制服もだらしなく着崩し、学校へは気まぐれに顔を出す程度になった。
 その頃学生の間では、暴行事件がちょっとした騒ぎになっていた。それは通り魔的に行われているようで、鉄パイプのような凶器で滅多打ちにされるらしい。中学生ばかりが狙われているから、新たな被害者の噂が立つと、教室はその話題で持ち切りに、次は自分の番ではないかと怯える者や、自分が捕らえて懲らしめてやると強がりを言う者がいた。また一方で、この暴行事件の犯人を称賛する者もいて、前者と称賛する者とで揉める事もあった。この暴行を称賛する者達がいるのは、その被害者達がいずれも素行のよろしくない不良ばかりであった為、被害者達から多かれ少なかれ迷惑を被っていた者達からすれば、正義が執行されているように感じたのである。。
 信一はこの噂が盛り上がると気分が悪かった。そして他人が嫌いになっていった。この暴行事件の犯人は信一であった。

 きっかけはまだ入学して間もない頃であった。信一が教室で休憩時間を過ごしていると、俄かに廊下側の壁が、嵌め込まれた窓が落ちそうなくらいに震えた。上履きが慌ただしく床を擦るような音がしたかと思うと、また壁が揺れた。何人かの野次馬に混ざって信一も廊下へ出ると、
「ふざけんなよ。弱ぇくせによ」
 憤怒の顔が吐き捨てるようであった。日焼けて皺くちゃの顔は肥えた黒色の猛犬のようで、胴も顔に似て太い。経緯は判らないが、倒された方は完全に戦意を喪失していた。
「圭助は喧嘩強ぇからなぁ」
 野次馬の誰かがぼやくと、ぽつりぽつりと他も声を潜めて続いた。学区が違ったのか、信一はこの犬みたいな顔の圭助を知らなかったが、小学生の頃から喧嘩が滅法強く、曰く最強らしいと聞いて、これだと心が湧いた。

 信一は放課後、圭助の後を尾けた。圭助は二人の仲間と街中を闊歩していたが、一人また一人と別れ、暗くなった夜道で一人になった。
「なあ」
 信一はその背に向かって声をかけた。圭助は立ち止まって、やはり犬のような顔を向けた。
「圭助でしょ?」
「誰だよ、お前」
 ゆっくりと近付いてくる皺の深さが街灯で濃い影を作って、彫像のように渋い。その凄みはそれだけで人を尻込みさせそうなのに、信一は突っ込んでいた左ポケットから煙草を取り出して、
「吸います?」
 と、向かい合う間に挟んだ。信一が端正な顔立ちに涼しい微笑を浮かべて自然と煙草を差し出すものだから、圭助も拍子抜けして、おう……と答えると、二人で路地に隠れて吸った。
「喧嘩強いの?」
「……知らね」
「圭助より強い奴いる?」
「お前、雑魚だろ?」
「俺、雑魚?」
 信一は自分の顔を指さした。圭助はそれを鼻で笑って、そっぽを向いた。背格好で言えば、太い圭助に対して信一は痩せぎすで優形であるから無理もない。圭助は、俺とお前が喧嘩すれば確実に俺が勝つと言いたいのだろう。信一の目が輝いた。
「じゃ、帰るわ」
 と、圭助は吸い殻を踏みつけて、信一も立ち塞がるような形で向かい合った時、圭助は信一の顔にはっとした。それと言うのも、まるで恋する乙女の如く瞳を潤ませ、抱き着かんばかりに見つめて、憧れているようなのである。それが青白い宵闇に照らされて、唯々薄気味悪い。しかし頭の整理が追い付かない内に、信一のポケットに突っ込んでいた利き手が動いて、ギラリと眩しく瞬いたかと思うと、圭助は視界が真っ暗になった。熱い痛みに圭助は鼻を押さえてしゃがみ込んだ。信一が鼻っ柱を殴ったのである。
「何だコイツ」
 信一の前に圭助が惨めに丸いのを、冷ややかに見下ろした。信一はだんだんと腹が立って、目の前に突き出た頭を蹴飛ばした。圭助はされるがままに倒れて、顔を押さえたまま暴力を受け入れる風であった。

 翌日の昼食時、圭助が顔面に大怪我をして休んでいると、誰かがどこからともなく耳に入ってきた。
 信一は呆っと窓の外を眺めて退屈していた。圭助がどうなったかに興味はなかった。唯、強い奴の事を聞きそびれてしまった事ばかりが悔やまれた。しかし同級生の一人が、二年生の行雄の仕業じゃないかと名前を出したので、今度は行雄を探した。
 それから信一は芋蔓のように次々と不良を見つけ出しては殴り倒していった。殆どが一撃で鼻をやられて倒れた。間が悪く外した場合でも二撃目には崩れ落ちた。にも関わらず、信一を犯人と突き止める者が一向に現れないのは、誰もがやられた相手の事を口にするのは恥として黙っていたからであった。無法を働く者は、無法をされる覚悟を持たなければならない。何があろうと法や身内には頼らない。道を外れる者なりの筋道が暗黙の了解として、この街の不良にはあった。
 とは言え、不良達もやられっぱなしでは格好がつかないから、信一にやられた被害者の中には、記憶を頼りにわざわざ復讐に乗り込んでくる者もいたが、当人は気まぐれに登校する程度で、校内で目立った事もしていないから、やはり彼に当たりをつける事は出来なかった。
 信一は教室でその話を耳にする事もあったが、気にも留めなかった。彼は自身より強い奴に興味があった。だから、次々と殴り倒せば殴り倒すにつれて、だんだんと感情が動かなくなっていった。

 その日も二駅離れた学校の奥園という生徒を公衆便所で殴った。トイレの壁に潰すようにして殴ったから一発で動かなくなって、口元の出血で髭面みたくなった坊主頭が水色のタイルに凭れ、遠い目で信一の後ろにある遥か夜空を仰いでいる。その頃の信一は最早何の感情も涌いては来なかった。荒野の真ん中に捨てられたような、途方もない絶望をいつも抱えていて、悄然とした気持ちの内に踵を返すのであるが、不意に目の前の坊主頭に影が差して、
「君、どこの番張ってんの?」
 と、背中へ掛かった声に、信一の身体は素早く向き直ると、一切の迷いなく公園の街灯を後光に黒い人影となっている頭へ、ギラリと利き手を突き出した。人影はとっさに両腕で顔を守った。
「痛っ!」
 信一の拳は手首に阻まれて、倒してはいない。信一は今一歩踏み込んで、顔を覆う両腕を押しのけると、慣れた身のこなしで会心の二撃目を放った。ところが、人影は突き出した信一の拳を脇へするりと抜けて、かと思えば、信一の手首を捻り上げていた。
「危ねぇ、拳鍔かよ」
 と、信一の指に嵌ったそれを取り上げた。短髪の精悍な男が難しい顔で見つめているのが、公園の薄明かりに浮かび上がった。男の持つ誠実で真っ直ぐな雰囲気に信一は逃げ出したくなったが、掴まれた手は微動だにしない。
「行くぞ」
 と、男は信一を引きずって公園を出ると、電話ボックスで救急に場所だけ告げた。
「放せよ」
「俺は君に用があるんだ」
 暴れる信一の肩を男は抱え込んで、宵に活気づいていく街の、絢爛に鮮やかな光の海をかき分け、雑居ビルの暗い階段を上ると、赤と青の柱を四角くロープで囲ったリングがどっしりと構えていた。鏡に向かって拳を振るっているのが、二人を見て軽く会釈した。男は部屋の奥で座っている中年を見つけて、「会長」と呼んだ。会長は如何にも気難しい風で、余所者の信一を不審げに見張っていた。
「こいつとスパーリングをやらせて下さい」
 やって来た会長に男が言うのに、
「やらせて下さいったって、まだ子供だろうがよ」
「例のアレです」
 会長は顔を顰めて、信一をじっと見つめて、それから男を見た。やがて諦めたように、
「……グローブつけな」
「ありがとうございます!」
 男は元気よく頭を下げ、早速グローブを信一に着けた。信一は大きな綿の塊に自身の手が呑まれていくのを見て、手を揺らしてみると結構重い。重い割に弾力性がある。こんなもので殴ったところで人を倒せるとは到底思えなかった。鮮やかな手際でグローブまで着けられてしまったものの、何故ボクシングに付き合わなければならないのかと、今更ながらに顔を上げたが、
「俺はリングでしか人を殴れないから、さっきの続き、ここでやろう」
 と、男は待ち構えていたとばかりに答えて、
「俺は君と関係ないから悪いんだけど、ボコボコにさせてもらう。恨みはあるんでね」
 信一は、あんた誰と言いかけて、奥園さん、その子のグローブ着け終わりましたかという声にはっとした。
 男は奥園の兄であった。最近不良狩りがいるとの噂から弟の身を案じ、時間を見つけては夕飯に誘う等して、なるべく一人にならないように注意していた。ところが公園で待ち合わせをしていた今日、折悪しく弟は信一にやられてしまったのであった。そんな事であるから、信一は事と次第によっては、リング上で殺されてもおかしくない状況に立たされていた。しかし、信一は先程殴った相手の兄と知って驚きはしたものの、復讐心から何をされるか解らない恐怖よりも、ボクサーへの期待に胸を高鳴らせていた。殺す気でいるなら逆に歓迎したいとさえ思っていたのである。
「三分だけね」
 と、会長の許可で鐘が鳴った後は、ボクサーと素人の殴り合いであるから、とても見れたものではなく、信一は容易く腹を打たれてはリングに沈み、何とか痛みに耐えながら立ち上がるも、また打たれて苦しむ。終始そんな具合で、それなのに制止される事はなく、スポーツとは名ばかりの一方的で野蛮な私刑が行われたのであるが、ここにいる誰もが一分と持たずに立てなくなると確信していたところ、信一は再び鐘が鳴るまで、ふらふらになりながらも手を出していた。
「君、根性あるなぁ!」
 と、会長は感激の声をあげた。信一は鐘が鳴ると糸が切れたように、ぷつりと崩れ落ちたが、それは苦悶に険しい顔ではなく、満足した微笑を浮かべていた。それだから回復を待って、会長は喜色満面にあれこれと信一に訊いた。信一は饒舌に奥園の素晴らしさを語って、それがまた会長は嬉しかったようで、月謝は払えるようになってからで良いから、いつでも来なさいと、信一を気持ちよく見送った。
「良い子だね。本当に彼が不良狩りなの?」
 振り返って会長が言うも、奥園は、ええ……と生返事であった。
「まあ……お前も大人になったな」
 会長は我が子の成長を喜ぶかのように去っていった。巷を騒がせている不良狩りとは言え素人であるから、怪我をさせないように上手く手加減したなと褒めたのである。しかし、奥園は手心どころか彼が死んでしまうのも構わず、憎しみのままに拳を振るう気でいた。トイレで血まみれに倒れていた弟の顔は見慣れない形であった。病院で処置を受けても恐らく元には戻らないだろう。会長は凄惨な現場を知らない。だから仕方のない事ではあるが、もし自分と同じ光景を目にしていたならば、きっとその場で殺してしまうに違いない。そこを堪えに堪えてここまで連れて来たのだと奥園は思っていた。少なくとも大人等という言葉で片付くような軽い感情ではなかった。だから、実際に殺すつもりで最初は腹を打った。起き上がって反抗的な闘争心を向ける信一に絶望を突きつけ、起き上がれず後悔と苦しみに溺れる信一を無理にでも吊り上げて、地獄へ送る。そんな悍ましい妄想に駆られていた。
 ところが、実際に起き上がってきた信一の目は、まるで運命的な出会いに感動するかのように潤んでいた。初めは気のせいかと思ってもう一度打った。そういう顔なのかと思ってまた打った。打てば打つ程、素人では立ち上がれないくらいに打っても、彼は恋する者の縋り付くような気配を濃くして、殴られているのに、現に倒されて苦しい筈なのに、その幸福感に陶然としている。奥園はその異様に気勢を挫かれるばかりか、だんだんと戦意を削がれて、前後不覚の内に鐘が鳴ってしまったのである。
 スパーリングを終えた直後は、罪悪感から信一を傷付けまいとして、自制を促すために身体がそう感じさせたのかも知れないと思った。しかし回復した信一が散々な目に遭わされたにも関わらず、幼子を思わせる無邪気さで、見えている透明人間と戦っているみたいだ、彼こそ俺の求めていた最強だ等と、聞いている側が恥ずかしくなる程に絶賛するので、奥園はいよいよ気が変になりそうなのであった。
 奥園はポケットを探ると、信一から取り上げた拳鍔を返し忘れたのに気付いた。彼はやはり不良狩りで、ファンではない。

 信一はそれ以来、ジムへ足繁く通うようになった。特に奥園がジムへ練習に来ると、熱い眼差しを向けてスパーリングをせがんだ。会長は奥園の試合が近いからと二人をリングへ上げる事はなかったが、育てた選手を通い詰めるまでして興味を持ってくれている信一がいじらしく、折角だから観戦に来なさいと、チケットをあげた。
 一方、奥園は信一の視線が不気味で今一つ練習に身が入らなかった。本音を言えば出ていってほしかった。しかし、会長がすっかり気に入っているから、どうにも言い出せなかった。唯、信一はもう不良狩りをしていないようであるし、どんな形であれ、人の道に戻りつつあるのであれば、弟の傷は残念ではあったものの、ボクサーとして一人の人間を救えた事を誇りに思うべきと、自身に言い聞かせた。
 犯人が信一である事をジムの人間は口外しなかった。

 一ヶ月後、奥園は試合をした。
 相手はパンチパーマがよく似合うチンピラ風情の選手であった。しかし戦績は大した事がなかったので、奥園の実力であれば楽に勝てるだろうと考えていたが、開始早々にカウンターパンチを貰って敗けた。
 信一はマットに沈む奥園を見ると席を立った。そして、それきりジムへ顔を出す事はなかった。

       ×       ×       ×

 陽が山間へ沈み、空がその余韻の仄明るく耽っている頃、三面鏡の中では楕円に美しい瞼の縁から睫毛が元気一杯に伸びをして、その先端を黒い雪の結晶が戯れて艶を振り撒いていた。睫毛がぱちりと揺れると結晶は去って、湖に浮かぶ蓮のように円らな瞳がじっと静かにしている。やがてその瞳が反射するものは、澱みのない白い肌、薄紅色が初々しい唇、ふんわりと巻かれた髪へと移って、鏡の世界は閉じられた。
 信一は畳に寝転がって、天井の羽目板に遠い目をやっていた。時折、蛍光灯の白い輪に舞う羽虫を追いかけていた。
 母親が立ち上がるのに信一は顔を向けると、鞄の中身をそそくさと確認していた。
「もう仕事?」
「今日はお客さんと約束があるからね」
「お母さん抱きたい人なんているの?」
 信一の母親は美しい。とは言え、もう四十を超えていた。美しさのピークはとうに過ぎていると、信一は不思議であった。
「勿論! 男ってのはね、若いからとか、綺麗だからって抱くんじゃない。私を抱きたいから抱くのよ。皆そう。優しくしてくれるわ」
 母親は姿見で腰を捩じって、それからヒールを突っかけた。
「信一には、私がお母さんに見えるかも知れないけど、街の男には女に見えているのよ。それじゃね」
 と、笑顔を残していった。
 そんなものかと、信一はまた天井を仰いだ。退屈だけが彼の身体を血のように巡っていた。しかしそれは、喉の渇きに似たものである事を知っていた。だから彼はそれが早く満たされる事を祈って、静かにその時を待った。
 一時間程して親しい足音が遠くで呼び掛けているのを耳にして、彼は家の外へ飛び出した。向かいの二階に灯りが点いている。信一は自分の棟の階段を駆け下りると、棟と棟に横たわる砂利道を渡って、鏡のように対照的な鉄の階段を駆け上がった。灯りの点いた部屋の戸を叩こうとする前に、向こうから開いた。歯並びの美しい微笑が覗いて、信一の顔も綻んだ。
「びっくりした」
「足音で来たってすぐに分かるよ」
 信一は自身と同じように足音を聞いているのに、運命を感じた。
「おかえりなさい」
「ただいま。あがって」
 と、信一を招き入れて、卓袱台の前に座らせた。
「冷たい麦茶でいい?」
「うん」
 冷えたペットボトルの麦茶を透明のグラスに注いで、どうぞと信一の向かいに座った。信一は麦茶を口にして、身体が満たされていくのを感じた。

 松永悠は二十歳のフリーターで、このアパートへ三ヶ月前に移ってきた。夜遅くに欅の大きめな棚を二階へ運ぼうと階段で往生していたところを、信一が手伝ったのが始まりであった。その時は運んだきりであったが、後日お礼の菓子折りを悠が持ってきたところで、目鼻がくっきりと優し気に美しい白い歯を覗かせる微笑が太陽のように眩しくて、それが信一の心に火を点けた。
 それからと言うもの、信一は悠が帰ってくるのを見計っては雑談目当てに外へ出て、挨拶をするようになった。とは言え、信一には荷物運びを手伝った事の他に何もなかった。共通の話題もなければ、親しくなる術も心得てはいなかったから、明日の天気がどうだとか、傍から見て格好のつかない話ばかりであった。それでも信一は悠といられるだけで幸福であったから、出来るだけ長く一緒にいたかった。悠も悠で、恋する乙女みた縋ってくる視線が可愛らしく思えたのか、通い詰める姿に誠実を見たのか、はたまた信一の母親譲りの美形に魔が差したのか、雨が続いて冷たく湿った梅雨の夜に、うち来る? と、悠を招き入れた。その日は温かいココアを前に少し話をして、信一は帰った。近所の目もあるからと言う事で、その日以来、悠の家へ上がるのが日課となった。
 しかし、家へ上がったからと言って、信一の話が変わる事もなく、悠が身を寄せる事もなかった。卓袱台を挟んで、信一が熱い視線で見つめながら、不格好な話をし、悠が優し気に眩しい微笑で見つめ返し相槌を打つ。その二人の穏やかな一時は、これから夜を迎える一日の終わりに憩いの華を咲かせていた。

 悠のアルバイトは昼に始まって、夕方に終わる。信一は悠の働いている姿を見たがった。悠は断っていたが、余りにもせがむので、通わない事を条件に、アルバイト先まで連れていくという話になった。
 平日の午前中に二人は家を出た。信一は二人で出歩く時の事を考えていなかったから、着ていくものに困って、結局目の前にあった部屋着にスニーカーといつも通りで、並んで歩く悠はモノトーンのスリッポンに、三角襟の純白ブラウス、それにブルージーンズの裾がすらりと伸びて長かった。信一は周りに比べ長身な方であったが、悠はそれよりも少し高かった。
 見慣れた商店街も二人で並んで歩けば、新鮮であった。見廻した視線の果てに、茶色い髪の繊細な曲線に悠のこめかみがある事、そこに信一は子供のような喜びを感じた。
 最寄りの駅から電車を乗り継ぎ、車窓は少しずつ緑がまばらに、降りた駅は商店が何軒かだけの長閑なところで、そこから車通りの多い道を一列にしばらく歩くと、薄緑に明るい外壁のアパートがカラオケという真っ赤なネオンの冠を被って、畑と駐車場の間に怪しい魅力を放っていた。駐車場に散らばったゴミを掃除に出てきた店長と鉢合わせになって、おはようと声をかけてきたのに、
「おはようございます」
 と、ばつが悪そうに悠は言った。
「送ってもらったの? 彼氏さん?」
「そんなんじゃないです」
 悠のはにかむような微笑で一生懸命に手を振るのを見て、ああ、そうと店長は意地悪く笑うと、信一の方を真っ直ぐ見て、
「この子、良い子だから、大切にしてあげてな」
「はい!」
 信一は思わず背筋を伸ばして、真剣な面持ちで言った。
 仕事場へ向かう悠と店長を見送って、来た道を戻る信一の脳裏には店長の顔があった。髪の毛が左右に残るばかりのふくよかな顔は本当に丸く、明朗な態度と小柄な体格が漫画を見ているような思わず笑みが零れてしまう親しみ易さであったが、信一に声を掛けたその顔は悠を思い遣る気持ちに真剣で、信一は悠を一生大切にする事の誓いを求められているように感じて、思わず改まった態度になってしまったのである。しかし、今の彼にとって悠は全てであった。彼もまた悠を思い慕う気持ちで真っ直ぐなのであった。

 二人の関係が動き出したのは年の瀬であった。二人は職場へ行った以外に出掛けた事がなかったのに、夜景が見てみたいという話から、クリスマスにお台場へ行く事になった。信一は紺の肩口が広いシャツに白いスキニー、焦げ茶のムートンコートを羽織って昼過ぎに家を出た。電柱の傍らでアイボリーのファージャケットに、花柄ドットのバルーンスカートの悠が、穿いたブーツの足を持ち上げて退屈しているようであった。
 信一は転がるように駆け下りて、
「あの……ごめん」
 と、苦しそうに言ったのに、悠は首を傾げた。信一も言ってから、何故謝ったのかと不思議がった。約束に遅れたわけではない。唯、初めて目にする悠のプライベートな格好に強く異性を感じて、信一は胸の動悸に窒息するんじゃないかと思った。色々な感情に混乱して、つい口をついて出てしまったのである。
 新橋は人の頭がぎっしりとどこまでも広がって、少しずつ動いていった。ゆりかもめに乗って、ようやく青海に降りた時、一緒くたに黒っぽい頭であったのが、人と人との間隔が広がって男と女で一組ずつになっているのが判ると、その一組がどんな間柄であっても、デートで来たと感じて気恥ずかしくなる。そんな熱気の向かう流れに任せるまま、ショッピングモールが生み出す小さなイタリアの夜空を目の前にして、二人は天井を仰いだ。それから露店風の小物屋や噴水の広場を回り、パスタを食べて、隣のゲームセンターで遊んだら、太陽は意地悪く橙に沈みかけていた。
「観覧車に乗ろう」
 と、信一は悠を誘って、果てしなく続く男女の列に並んだ。出来事をあれこれ振り返るのが楽しくて、待ち時間は苦にならなかった。しかし列の先頭が見えてくると、密室で起こる予感に心が乱れて落ち着かなくなり、口数は少なくなった。
 ゴンドラへ乗り込み、係員に扉を閉められたのをきっかけに、信一は用意していた思いの限りをつっかえながらも懸命に伝えた。中学の頃、自分は強さに憧れて、多くの人を殴った。もしかしたら、それで死んでしまった人もいるかも知れない。それでもいつか強い者に出会える事を信じて、人を殴り続けた。しかし強い者には出会えなかった。変な事を言うけれど、悠さんを見ていると、強い者に出会えた気がする。よくは解らないけど、あなたの事が本当に好きです。
 悠は信一の言葉を静かに唯々受け止めた。最後に好意を告げられた時、涙が頬を流れた。そして信一の首に両腕を絡ませると、強く唇を押し付けた。後ろには、港のクレーンと高層ビルの明りが星屑のようで、二人はお台場の空に浮いている。きっと悠は天使で、この楽園まで地上から連れてきてくれたのだと、信一は思った。ずっと離れたくなくて、信一も悠の肩に手を回した。地上という現実が訪れるまで、二人は楽園の中にいた。
 観覧車を降りてからはどちらが話し出したのか、今日の事を振り返りだして、まるで何事もなかったかのように、いつもの穏やかな雰囲気で二人は帰っていった。

 こうして二人の関係はクリスマスで確かに動き出したわけだが、口づけを交わした二人ではあったものの、日常に戻ってくると愛を囁き合うでもなく、あのクリスマスは淡い夢のようであった。信一は悠と話している時以外は、何をするにも観覧車の思い出が中心にあった。そして思いが募れば募る程、もう一度あの楽園を求めるのは自然の事で、かと言ってキスをしたいとせがむのは下品に思えて言い出せなかった。唯、そんな内心は口には出さなくとも、態度には出るもので、二人の会話は内容こそ変化は見られなかったが、そこはかとなく重い空気を含んでいた。そのせいか、悠も元気がなくなっていくように見えた。
 そこで信一は一月も中頃に入ったある日、俺と付き合って下さいと、悠に告白をした。思い返せば、悠に恋人として認められているわけではなかった。あの楽園を欲するのであれば、先ずは関係をはっきりさせなくてはならない。その一念であった。
 ところが悠は、ごめんなさいと言って、涙を流した。
「何で?」
 信一は断られる事を夢にも思っていなかった。白い膝丈のスカートで横座りに頬の涙を指で掬っている、ほんのりと赤に染まった優し気な眼はさざ波のように煌々と、泣き顔もまた眩しくて、その涙の前では誰もが罪悪に呑み込まれそうなものだが、信一は頭の締め付けられるような衝撃に打ちのめされて、ぐらぐらと視界が揺れていた。
「私……付き合う事できない」
「だから、何で?」
 信一も泣きそうになるのを無理に微笑んで、悠を落ち着かせるべくいざり寄った。悠はいよいよ本降りになって、大粒がぼたぼたとスカートを濃く染めた。
「私……男なんだ」
 悠はそう言うと、おもむろに信一の手を取って、スカートの被さった両腿の間に押し付けた。
 信一は意地になって、何だよそのくらいと言おうとしてみたものの、布越しに伝わる膨らみは何よりも説得力を持っていて、しかし目の前には好きな人が座っていて、それらは違和感なく繋がっている。その紛れもない事実が信一の育まれた感覚にはどうにも受け入れられず、心の底からこみ上げてきた嫌悪感に震えあがると、慌てて手を退けた。
「ごめん……ありがとう」
 信一は声を絞り出して、玄関へ歩いていった。戸を閉める時、温かみのある電灯に照らされた和室の、卓袱台を前にさめざめと泣く悠が、手前の部屋の闇に四角く切り取られて遠ざかっていくようで、ドアが溝に収まった時、楽園は終わりを迎えたのだと、信一は思った。

 信一は自分の部屋へ戻ると、有り金をかき集めて夜の街を怪しい方へふらふらと歩いていった。とにかく体が凍えそうに寒くて、彼は女の温もりを知らないのに、女を買おうとしていた。小さな橋の向こうは極彩色の灯りが、その内に秘める後ろめたさを打ち消すように派手であった。灯りの照らされている入口には、ダウンコートを羽織った女達がもう信一を見ていた。信一はどの女にしようかと、ポケットの札を握り締めながら物色した。すると、その中に母親を見かけた。擦った手に白い吐息を吹きかけて、右に左に揺れていた。他の女同様、信一に向いていたが、橋の手前は暗いせいか、信一と判らないらしく、信一はここまで女を買うと自棄になっていたが、母親を前にして、さすがに躊躇われた。帰ろうかとも考えたが、折角来たのだし、母親が建物に消えた後、まだその気があったら女を買う事にして、橋の手前で煙草を点けた。
 すると間もなくして、母親の前に男がやって来た。信一は嫌な予感がした。それと言うのも、その男は野球帽の庇を後ろにスタジャンを着て、腰までだらしなく下げたパンツに踵を履き潰した風体が、とても女を買いに来たように見えなかったのである。それは母親に何やら囁くと、辺りを見廻してから、土塀と体で陰を作るように立った。男は壁側の方のポケットをまさぐると、何かを母親に渡した。それが何であるかは、母親の作った陰で見えなかった。しかし、何であるかは想像できた。
 信一は吸いかけの煙草を川へ投げ捨てて家へ帰ると、見つけた大きな鞄に着替えを詰めて、そのまま行方を晦ませた。

       ×       ×       ×

 それから信一は繁華街へ出て日雇いの生活を始めた。安宿で一緒になった男が信一の器量に目をつけて、水商売を勧めてくれたが、信一は断った。誰もが日々の暮らしに追われて、同じ顔ともあまり顔を合わす事のないこの生活が、信一は気楽で良かった。しかし二十歳を迎えた彼の容貌はいよいよ美しく、凛々しい瞳に少し女らしさを感じる甘い顔立ちの、清潔感溢れる雰囲気に誰もがはっとさせられ、どこから聞きつけたのか、今度は経営者が直々に乗り込んできて、ボーイでも良いから店に置いておきたいと懇願した。錆び付いて老朽化の著しいアパートではあったものの、寮はあったし、実入りも特別な計らいをしてもらえるとなると何となく気が向いて、信一はその申し出を受けた。懐が温かくなれば、街で飲み歩くようになり、すると彼の美貌を今度は街の女が放っておかなかった。合コンや援助交際に誘われたが、信一は相手にしなかった。唯、ある時居酒屋に勤める女に一目惚れされ、熱心な好意を寄せられ続ける内に何となく気が向いて、関係を持った。
 信一の美しい器量はそれ一つで世を渡っていけると思わせる程、生活は順調に良くなっているかに見えた。しかし信一の内心では、このまま何となく気が向いてが続いて、やがて死を迎えるのだろうかと、いつでも荒涼たる気分の中にいた。華やかな街や、華やかな生活の内に彼の興味はなかった。また気が向いてくっついた女にも興味はなかった。女は寮に家事をやりに来てくれて、それが一段落すると信一は女を抱くのだが、いざ行為に及ぶ時は決まって、自身に目隠しをした。そうして女の柔肌の肉感に溺れながら、目隠しの暗闇の先に悠の面影を見ていた。女の名前が優と言うのが、何かと都合が良かった。
 信一に会う者は、その美貌と自由気ままに飲み歩く華やかな生活を羨んで、皆一様に、人生楽しいだろうと言う。そんな時、彼は苦々しい顔に微笑を作って曖昧にやり過ごす。そうして心の内で軽蔑する。彼の他人嫌いは中学の頃にも増して、いよいよ酷くなっていった。彼の周りが一様に彼を美しいと見るように、彼もまた一様に自身の周りを軽蔑の目で見ていた。それでも華やかな日々は華やかなまま、春の小川のような麗らかさを含んで過ぎ去っていった。

 新緑の若々しい緑の匂いに夏の始まりを思わせる頃、夕方の湿気でより青臭い中を街の方へ信一が歩いていると、背後からカマロが狂気をはらんで走ってきた。ぶつかると思ったのも束の間、ボーリングのピンのように弾かれて、前ドアから丸刈りにジャージの男二人が倒れた信一を、フィルムで暗い後部の席へ押し込んだ。信一が身体を起こした時には、深緋のスーツに、グレーのワイシャツ、黒っぽい柄のネクタイに金のタイピンが嫌味っぽいのが、熊のように大きく、角刈りでサングラスにマスクをした男の顔がじっと見つめていた。
「よぉ、覚えてるか?」
 と、サングラスとマスクを取ったが、知らない顔であった。しかし鼻が歪に曲がっているのを見て、あぁと信一は察した。
「覚えてないか。……昔は酒田君が俺を知っていて、俺が知らなかったのに、今は俺が酒田君知っていて、酒田君が俺を知らない。不思議なもんだな」
 車はどんどん寂しい方へ走っていった。窓に映る街の華やかさは失われて、終にはなくなると、今度は夜空に明るさを感じるようになったが、聳える木々の尖った闇に底知れない孤独を感じたのと、これからその孤独の内で寂しく消えていく現実について、信一は原始的な恐怖を感じた。そんな道から、砂利道を山へ少し入ったところで車は止まり、運転していた方の丸刈りが信一を乱暴に引っ張り出した。
 プレハブの小さな倉庫が葛の鬱蒼と茂る闇に喰われていた。立て付けの悪くなったドアを開け、裸電球が目の眩む程に近い、悪い意味で歴史のありそうな椅子へ信一は座らせられると、
「ちょっと車行ってて、済んだら携帯で呼ぶわ」
 と、信一と男だけになった。
「悪いな。本当はこんな金にもならない事やってもしょうがないんだけど、なんて言うか、やっぱりケジメつけないといけないと思ってな」
 男はどことなく申し訳なさそうに言って、信一の顎を掴んで眺めた。
「それにしても、つまらん顔してんなぁ。なんでこんなつまらん顔してんの?」
 信一はされるがままであった。かと言って、言葉を尽くして命乞いをしようとも思わなかった。殺されて山へ埋められ、誰に知られるともなく、人生を終えるのかも知れないと想像して、一旦は恐怖を感じたものの、生きて帰ったところで何があるだろうかとも思えて、それならば、いっそ終わってしまったってかまわないと、諦めに捕らわれていた。
「まあ、ケジメはケジメでしっかりつけさせてもらうつもりだけど、今更いきなり拉致ってボコるってのも卑怯だし、先に殴らせてやるわ」
 と、信一の前に立って、
「よぉ、鼻にガツンと一発くれよ。あの時みたいに。あの時は一発でやられちまって本当に悔しくてな。あれから鍛えたんだぜ。今ならどんなのだって耐えられるぞ」
 男が自慢げに両腕を広げて見せびらかす大柄な肉体が裸電球で影になって、いよいよ熊のようであった。
「ヤクザにビビって手出せないなんてタマじゃなかったよな?」
 男は信一を目の前に座らせている。しかし、目の前に座らせているだけであった。
「よぉ、なんでそんなつまらん顔するんだ? 殴れ! あん時みたいに嬉しそうに殴ってくれよ!」
 と、肩を揺さぶった。その瞳は縋り付くようであった。その少しも隠そうとしない男の生々しい欲望を前にして、信一は心底軽蔑した。そして信一は信一で、
「殺せよ」
 と、ようやく口にした言葉に男は立ち尽くした。
「そうか、殴らんか」
 努めて平静を装っていたものの、隠しきれない声色の震えが痛ましかった。
「それならもう、後はビジネスだ。やられた分のケジメを清算させてもらうわ」
 外で待機していた舎弟の二人は、ロープと杭打ち用の大きなハンマーを持ってきた。その内の一人が信一を手際良く椅子に縛り付けて、もう一人は男にハンマーを差し出したが、
「あぁ、なんかだるくなったから、お前ら代わりにやってくれ」
 と、男は転がった椅子を直して腰掛けると、億劫そうに眺めた。
「おい、しっかり当てんじゃねぇぞ。殺さないように丁寧にな」
「はい」
 丸刈りの頭がハンマーを構えて神妙な顔つきをしているのが、信一は何だか可笑しく感じた。
 信一は頬に左右何発か打たれた後、左肩へ一回落とされた。信一の顔は真っ赤な干し柿のようにぐにゃぐにゃとして、左肩の骨が外れたのか、不自然にだらんと垂れ下がっていた。
「もういいや」
 との声にハンマーは正しく静止して、気だるそうに立ち上がった男の手に渡った。
「生きてるか? ……喋れないか。もう歯ないもんな。それにしても、酒田君の苦しそうな顔見て、なんか安心したわ。やっぱりケジメって大事だな」
 男は嬉しそうに、肩で息をする腫れた顔を覗いた。
 それから舎弟に優を迎えに行かせて、帰り道は男と信一の間に優を挟んで乗った。男はご機嫌で、仲間内で談笑していた。信一は息をするのも精一杯で、突然連れてこられた優は、信一が気にはなるものの、声を掛ければ、男の機嫌を損ねるのではないかと恐れて、じっと固まっていた。
「あ、優ちゃんにこれあげるわ」
 と、男は十万円の入った封筒を懐から出して、カマロは荒々しく去っていった。

 信一は街医者から処置を受けて入院を勧められたが、歩けるからと頑なに断って家へ帰った。
 信一もその界隈に勤める者であるから、ヤクザに暴行されたという話はすぐに広まって、信一を誘った経営者が心配してやって来たが、その顔を前に悲鳴を漏らした。誰もが羨む美貌は見る影もないどころか、輪郭はこねた粘土の如く不均整で、そのなされるがままに歪んだ目鼻は、笑っているのか怒っているのか判然とせず、唯々訳もなく不安な気持ちになるのを悟られまいとして、思わず目を背けてしまった。とにかく、病院に行きなさい。整形外科を紹介するからと言って、経営者は帰った。しかし数日後、お店からヤクザと訳有りなのはこちらも困るから、辞めてほしい。申し訳ないけど、寮も貸せないから出てくれと、部屋を追い出された。まだ包帯も取れない内に追い出されるのを優は不憫に思って、具合が良くなるまで彼女の家で厄介になる事となったが、それも大方傷も癒えてきた頃、故郷へ帰って暮らすと告げられ、信一は公園に行き着いた。
 彼らが尤もらしい口実のもと、追い出した事について、信一は一切の異議を唱えずに従った。彼らが何者であるかは解っているつもりであったし、同時に自身が何者であったかもよく解った。要するに、信一に捨てられたのだ。

       ×       ×       ×

 信一が公園での生活に慣れてきた頃、池端で絵を描く老いた絵描きの小さな背中が目についた。蓮が鴇色に鮮やかな砌、この公園で絵を描く人は別段珍しくはなかったが、爽快な空は青に突き貫けて、木々の葉も成熟の喜びで煩わしい程の緑なのに、紙面が真っ赤に橙に彩られているのが妙であった。
「なにを描いているんですか?」
「なにって林檎だよ。そこにでっかいのあるだろう?」
 素気ない態度で絵描きは池の方に熱心であった。目の前には池があるのに、絵描きには林檎が見えている。惚けてしまっているのかも知れないが、少なくとも彼の世界では林檎が真実であった。それが信一の退屈な心を打った。
「すいません。俺にも描かせてもらえませんか?」
「えぇ?」
 絵描きは、けったいな顔をして振り返った。吐き気を誘う悪臭に傍へ寄られるのも憚られる風であったが、その双眸はゴミ捨て場に紛れた高級時計のようにきらりとして、それが退屈な老後を過ごす為に始めたささやかな趣味に意義を感じたのか、
「今度、あんたの分も持ってくるよ」
 と、言った。
 それから絵描きの指導の下、四苦八苦の末に絵は完成した。暗闇を背景に浮かんでいる部屋は真っ白に唯四角い。その中央の椅子に中学生くらいの少年が座って、不機嫌そうにこちらを睨んでいる。その容貌は嘗ての信一によく似ていた。
 その絵は画廊に持ち込まれ、誰かの手に流れていった。

       ×       ×       ×

「どうですか? この絵」
 年配の職員に声を掛けられて、
「おどろおどろして、悪趣味だね」
 と、老人はポケットから手巾を取り出して、額を落ち着きなく拭いた。
「あまり悪く思わないで下さい。これ、自画像なんですよ」
「自画像? 自画像と言ったって……」
 老人は言いかけて口を噤んだ。職員は絵を掌で示しながら、
「この方、最近絵をよく持ち込んでくれる人で、これで……六作品目かな」
 職員は、ああと小走りにデジタルカメラを取ってきて、今までの作品を老人へ見せた。
「こんな絵を描いている方なんです」
 絵はどれも暗い迫力に満ちて、老人は参ってしまった。
「この白い部屋のが一番最初ので、誰か解らないんですけど、この少年綺麗でしょう?」
「へぇ……」
「それで、つい先日この作品を持ってきましてね。もう、しばらくは書けないと思うって仰られてまして、これが最後の作品になるかも知れないんですよ」
「そうですか」
「どうですか? 一つ」
 老人の態度から、職員は少し冗談ぽく言って勧めるのを、
「いやいや」
 と手を振って、老人は「薔薇」と「セーヌ河の畔で」を買って帰った。

                    了                           
2022/10/29(Sat)13:21:03 公開 / 石田壮介
■この作品の著作権は石田壮介さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 石田壮介です。
 書きかけのまま放置されてしまった二作品の内の一つとなります。
 最後の更新はおよそ十八年前になります。
 私は八年前に書く事がなくなってしまった感覚に陥って筆を折り、それから小説やテレビドラマ等とは疎遠な生活を送っていたのですが、ふとした切欠で今回書けるような気がした為、それならば、書きかけのまま放置しておくのは、何らかの未練が残ってしまったら良くないと思い、今回、完結まで執筆させていただく事としました。
 十八年前の記憶を辿ると、朧気ながらも書こうとしていた事は思い出せたのですが、続きを書くには、余りにも当時の感覚と異なっていたので、一から書き直す事と致しました次第でございます。

 以前に書いた作品につきましては、重複投稿となってしまいますが、パスワードも失念してしまい、編集も困難であった為、大変身勝手ながら、管理人様へ削除を依頼しておりますので、ご了承ください。

 尚、現在我が家はパソコンを所有しておりませんので、今回は加筆修正につきまして、御遠慮させていただきます。
 感想につきましては必ず目を通させていただき、今後の参考させていただきたいと思いますので、いただけますと嬉しいです。

 令和 四年 十月二十九日 石田壮介
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