- 『彼の歯車に』 作者:雇われ世界観 / リアル・現代 ショート*2
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全角1545.5文字
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原稿用紙約4枚
吊革が揺れていた。顔を少し左に捻れば週刊誌や雑誌の広告が垂れ下がっている。右を見れば歴史小説の広告が貼ってあった。どうでもいい。心底そう思う。ふと意識を自分に集めてみるとダウンのポケットから伸びたコードが首の前で絡まっていることに気付く。なかなか解けないコードに舌打ちをし、聞こえてくる音楽にさえ苛ついた。きっと気に入るから、と半ば強制的に友達が私の携帯電話にダウンロードした曲だ。音楽を聴かない私にとっては携帯電話に入っている唯一の曲になる。アイデンティティが無いだの有るだの。耳障りとまではいかないが好んで聞こうとも思わない。それでも私がコードを絡ませてまで機械を耳に詰めるのは私が生きるこの世界が奏でる醜悪で混沌とした音たちよりは幾分かましだったからなのだろうか。
改札を出ると外国人が犬の銅像をカメラで撮影していた。はたしてあの写真は何に使われるのだろう。そんなことを考えながら人の波をかき分け進む。行き交う無数の鉄仮面はどれも同じ表情に見えた。ふと交差点の真ん中で立ち止まり正面の大きなスクリーンに目を向けると五人組の少女たちが色とりどりの服を着て映っている。今横をすり抜けたスーツの男よりも口角は上がっているが、やはり私には鉄仮面に見えた。あのスーツの男は、五人組の少女は、その仮面の下に何を隠しているのだろう。信号の点滅に気が付き、慌てて交差点を渡りきると珈琲のにおいが鼻についた。珈琲は好きだ。混じり気のない匂いといい、全てを染め上げるあの黒には好感が持てるのだ。雑多な景色から生まれる色に、溢れる音に、数えきれない鉄仮面に脳を壊されまいと、私は漆黒を求め階段を上った。
私は交差点の見下ろせる席に座り、お釣りの五百円をポケットにしまうと、珈琲で指を温めた。よく見れば鉄仮面たちはどれも似たような恰好をしていた。宣伝のトラックに目を奪われ、信号が青になると我先にと早足で交差点を渡っている。ふと私は考えた。空を覆う看板に目を奪われ横から近づいてくる宣伝のトラックに轢かれたらどんなに間抜けだろう。演説する政治家の声に耳を傾け、恋人の声に気が付かなかったらどんなに馬鹿くさい事か。要は情報が多すぎるのだ。電車に垂れ下がる広告も、五人組の少女が映るスクリーンも、空を覆う看板も、到底処理できる量ではない。一人が石を投げれば全員で石を投げ。一人が左を見れば全員が左を向く。情報に圧倒され、真偽について考えることをやめ、あまつさえ素顔すら仮面の中に隠しえしまうとはなんと嘆かわしいことなのだろう。取り留めのない意識は置き場を与えられずに宙をさまよった。私は冷めかけた珈琲に気が付き一気に飲み干した。
階段を下り再び溢れる波と音に身を投じた。コードがまた首の前で絡まっている。リピートで繰り返し流れる曲にも慣れてきた。点滅する信号にぎりぎりで進路を拒まれ、私は交差点の手前で立ち往生した。信号の色が変わったのを皮切りに、仮面たちは交差点を占拠した。私は敢えて歩みを遅くした。理由は自分でもわからなかった。お釣りの五百円玉を使い、切符を買った。階段を上り終えるのとほぼ同時に電車がやってきた。扉が開きホームはあっという間に人で溢れた。私はなるべく人にぶつからないように電車に乗り込み、うまく乗れた事に安堵のため息をついた。一呼吸を置いて電車は走りだす。あっという間に過ぎ去る駅のホームとは裏腹に私の意識はゆっくりとイヤホンに吸い込まれていった。
仮面を積んだ電車は徐々にスピードを落として、やがて静かに動きを止めた。見慣れない駅のホームに目的地とは逆の方向に来てしまった事を悟った私は、無機質な天井を仰いで少し乱暴に耳からイヤホンを外した。
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2014/11/02(Sun)21:56:06 公開 / 雇われ世界観
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