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『大地の上の籠の鳥 (続編『憂える大地は彼の下』更新)』 作者:べゲモート / ファンタジー アクション
全角56237.5文字
容量112475 bytes
原稿用紙約157.75枚
親に捨てられた少年と親を捨てた少年とが犬に噛み殺された時、分断された国家の片隅で罪人が護送されるのを待っていた。家をなくした彼等の安住の地への渇望が人間と魔法使いとの闘争に繋がった今、其の末に待つのは夢か挫折か? はたまた怠惰なる現実が過ぎるにまかせるか? 泡沫と消えゆく彼等は、何処を見るべきか解らずに、だが毅然と顔を向ける! 彼等が料理するは人間か魔法使いか? たれのみぞ知る!(『大地の上の籠の鳥』)
『大地の上の籠の鳥』
   序

 いつも彼は人間の希(のぞみ)を叶える時、機嫌が悪い。馬上から怜悧な無関心で対象者を測りながら腹の中では、何故人間は幸せになろうとしないのか? 何故破滅へ向かっていると感じながらも黙々と歩むのか? と苛立っていた。其の苛立ちは裏返しの愛情なのだと彼女は思っていたが、彼の前で決して口に出さなかった。彼女は自分も人間に対して同様の感情を抱いているのかもしれないと言う事を無意識下では感じていた。が、其の事実に対しては全然注意を払わなかった。
 魔法使い連の言葉を借りるとすれば「或いは存在する筈の無かった者達」である処の二人は人間の或る希を叶えて廻っている。二人が定めた条件を満たす者ならば、其れが何者であろうと如何なる条件下に置かれてい様とも何時でも何度でも叶えてやった事だろう。というのも一度(ひとたび)彼等に希を叶えられた者で、再び願い出た者は殆ど居なかったからである。二人の叶える希とは救済であり、援(たす)けを求める手を掴む事である。だが、二人は人間が振舞う様には振舞わない。一時的な措置ではなく、対象者が生涯、自力で絶望を乗り越えて行ける様に力を与える。其れに寄って事実、二人の庇護を受けた者は強く成ったと言える。しかし、其れは奇妙に近視眼的な施しであり、全体としては酷く調和の取れていない、特定の行為にのみ特化した力であった。或る種の才能を持つ者が、其の為に死ぬまで向き合う事となる様な業を、後天的に付与された人間は上手く生きて行かれるのであろうか。答えは否でもあり、是であろう。だが、そんな事、二人にとっては『知ったこっちゃない』のだ。
「よく、みえて……?」
「左がスフス、右がイナーク」
「風がきつくて……」彼女は外套のフードを目深に被り直し、手で押さえた。「続けてちょうだい」
 雪掻きもされていない路地裏に少年が二人、雪に顔を押しつけて倒れている。一人は腕を胸に押し当てて蹲っており、もう一人はこちらに足を向けて大の字で寝転がっていた。踏み荒らされた雪には土と血が混じり、少年達をより不様に見せていた。綿入れジャケットは引き裂かれ、腰を縛っていた紐は飛んで無くなり、痩せこけた肉体を曇天に晒していた。左の蹲っている方の少年、スフスは足の指を二本失ってさえいた。
「犬だ」彼は淡々と続けた。「何者のつもりだったのだろうか。なるほど、こいつ等はマンホールの住人ではないし、地下鉄の片隅でふてぶてしく寝泊りしている廃兵共とも違う。倉庫の様な代物だが、曲がりなりにも雨風を凌げる家を持っている。トラック一台が何とか通れるだけの小路の奥に四方を家々に囲まれた中庭程の空間があって、(誰も中庭として使用したがらないがな)其処に到れば其の小路の他に肉屋の裏口と其の正面にある家と家との間に挟まった様な奴等の持ち家だけだ。他は皆(みな)、背を向けている、と言う訳だ。さて、奴等の口過ぎだが、外国人旅行者から盗った物を地域住民と金銭で取引するか、直接物々交換をしている。浮浪児としては性質(たち)の悪い部類だ。浮浪児全体に対する官憲の締め付けは厳しくなるし、周囲の治安にも影響する。だが一方で、重宝されてもいたのだ。外国の物は手に入り難いからな。予約をするお得意様もいる始末だ」
「割り切れないものね」
「どちらもな。優越と劣等との綯い交ぜだ」
 言葉の端々に苛立ちが混じるものの、あくまでも彼の語り口は冷たく、落ち着いている。突風の切れ切れに、或いは風音の旋律にのせるかの様に、二人の声が響いてくる。
「だれが犬を?」
「普通の警官だ。マンホールの住人達とこいつ等とは仲が悪かった。マンホールの住人達が縄張りを主張して、こいつ等の売り上げを奪おうとしたが、なに、あちらよりもこちらの方が商売上手だっただけの事……。こいつ等も、同じ孤児(みなしご)の分際でクソ面白くもないといつも喧嘩を買って怯まなかった」
 まるで彼は己の目で見て来たかの様に事物を語るが、実際に目撃した訳でも、伝聞した訳でもない。彼の目に映る色は別個の識別信号ではなく、歴史や記憶の推移を遡らせ、映し出す。異色の絵の具を混ぜながら色を知るのを逆算する様に、対象の事物が過ぎ去った過程を遡って視る事が出来た。彼等が未だ肉の体を持たなかった頃は、さながらオーロラを纏って微睡むかの如く過去も未来も果てがなく、見通すことさえ出来た。或る時、空から一筋の雷となって地面にひびを成し、彼は未来を失った。其の地面の断絶から囁く様に燃え上がって浮遊する様に起き上がったのが彼女であった。彼女も又、未来を捨てたのだ。彼と彼女が未来の夢を捨てたのは、人間の為である。人間が人間として進化した故に生物に対して抱く様になった不遜を思い知らせる為に、彼と彼女は肉の体を得、人間から更に進化した気でいる魔法使いを蔑ろにするかの様に只の人間を魔法使いに仕立て上げ続けている。お前達の思い上がりは、此の程度の物なのだと……。しかし、其れは魂に対する不遜と言えはすまいか? 彼等も又不遜であった。
 彼は話している最中、一方の少年の頭に視線を落としていた。そして時折目の動きだけでもう一方の少年に視線を移し又移ししながら話を進めている。
「スフスは親から捨てられる前に自分から家族を捨ててやったのだと、良く言っていた。此の哀れな少年は此の事実を誇らしげに話したが、此の街に辿り着く以前の事は全く話したがらなかった。イナークの物心が付いた頃、父は家に居なかった。だが、数年後に父が帰ってくると今度は母が働き口の無い父に見切りを付けて家を出て行った。未だ夜も明け切らぬ薄暗い時刻に夜通し飲み歩いて帰って来ない父の為にベッドへ一人残されるイナークを置いて、母は出て行った。母は他に家族を持たなかったから、もしかしたら此の家に帰ってくるかもしれないと云う気持ちがイナークを家に縛り付けた。だが其れは希望ではなかった。只の可能性に過ぎなかったのだ」
「何故スフスとイナークは一緒に居るのかしら」
「イナークがスフスに毛布をやったからだ。余っていた母の毛布を。其れは未(ま)だ雪が降る以前の月の明るい晩だった。イナークの自宅前で着の身着のままで転がっていたスフスに無言で毛布を投げつけたのが出会いだ。突然顔面に柔らかい物をぶつけられてスフスは泡を食って身体を起こした。が、既にイナークは家の中へ引っ込む寸前で、スフスには彼の横顔しか見ることが出来なかった。万物の色彩を奪う月光に良くはえたイナークの白い横顔がとても印象的だった。其の横顔をいつまでも覚えておきたいと彼は思った。これはスフスの心の秘密だった」
「でも其の半面は実父の暴力の為に出来た紫斑で見るも無惨な物でした」
 しだいに風が弱まってきたお陰で眼前を直視する事が出来る様になった彼女が彼にもう声を出さなくて良いと示す様に続けた。
「遂には此の路地で犬の牙に掛かった時、其れでもイナークは前を睨み続けておりました。其のイナークをスフスは一心に見詰めておりました」
 強風が止んで新たに聞こえてきた物があった。スフスの呻き声である。
(……畜生……畜生…………アノヤロウ……)
 風音一つしなくなると雪に埋もれた此の街の宵は曇天と澱んだ様に積もった雪とで空間が凝縮し、天地の狭間に籠もってしまった。表通りの雪を踏みしめる足音もくぐもって聞こえる。
「如何かしら?」
「どう、とは?」
 彼が下馬した。彼女も降りる。
 彼等は夫々、男女の相違を施すのみに留めた様な凡庸性の高い着物を着ていた。が、其れは一つの様式美を持った、格調高く美しい衣である。色は鮮やかだが決して出しゃばらず、あたかも自然界の草木の暖かみと無関心とを写し取ったかの様な品だった。まるで、「別に貴方方に愛でて頂か無くとも結構」とでも言っているかの様な賞賛も追従も必要としない、確実性の有る美であった。其の衣を纏った二人の容姿は一対の陰陽の様に対照的である。フードの隙間から垂れる彼女の髪は烏の濡れ羽色をしており、腰よりも長い。其の表情は柔和且いつも心持ち上がっている口角によって微笑んでいるかの様に見えた。反対に彼はいつも口元をきつく結んだ冷たい表情をしている。寒風に曝された髪は短く、雪の様に青白いがあたかも淡雪の如く朝露に消えてしまう物の様ではなく、何処か刃金を思わせた。彼等の乗馬も主に倣った。彼女の馬は月毛であり、彼の馬は青毛である。対照的な二人だったが瞳の色だけは同じ、紫がかった灰色だった。
「泣いているではないか」彼は衣が濡れるのも構わず、片膝を付いてしゃがみ込むと少々荒っぽくスフスの髪を掴んで引き起こした。スフスの反応は僅かな物だ。寒空の下で泣いた為に下瞼が黒ずんでいる。「ん?」どうだと言わんばかりに彼女に振り向いた。「涙を流している」
「では彼を……」
「彼等を」彼女の言葉を遮って彼が言った。「そんな手落ちはしない」心外そうに顔を蹙(しか)めた。
「スフス。起きなさい。スフス。助けてあげよう」
 もう一度、今度は強く髪を引っ張った。其れに対し薄く開かれた目は反抗的な様子だった。彼の態度は何も変わらない。
「君等を助けてあげようと言っているんだよ」ニコリともせずに言った。
 其の言葉にスフスの瞳は哀願する様な調子になった。スフスはイナークの事を忘れていた訳では決してなかったが、自分の咄嗟の感情を抑えるには未だ幼かったのだ。彼は髪を掴んでいた手を緩めると、片膝を立てている自分の膝の上にスフスを抱き起こした。濡れて血と泥に汚れた身体を外套の中に入れてやりさえした。彼女もスフスの足下に膝を付いた。
「でもね、援けを求めるのはあなたの意思ですよ」
「呼びなさい。援けを。我等の名において」
「彼はつえ」
「彼女はさや」つえは若干語気を強めて続けた。「さあ」
 スフスは膝の上でゆっくりと頭を横に倒した。さやがスフスの足下にしゃがんでいた為、彼からはイナークの裏返しの足しか見えなかった。
 スフスが何かを言おうと口を開いた時、再び風が強く吹き始めた。風が止んでいたのはせいぜい僅かの間に過ぎなかった。


第一部
   必要ない

   そうとも。人間は、それまでの自分と違っていることを自覚するのは、ひどく不快に思うものだ。
   アルカージイ&ボリス・ストルガツキー『世界終末十億年前』


   一

 スフスはいつもの場所であぐらをかいた。彼よりもストーブの近くに在るものは、彼とイナークの泥がこびりついて濡れた長靴と靴下だけだ。どれもきちんと並べられておらず、脱ぎ散らかしてあるが一応ストーブの一番近くで乾かされてはいた。元は物置だったイナークの家は床を張っていない為、どれだけストーブの熱を浴びても冷えた印象を拭えなかった。事実、この家を温めるにはストーブが小さかった。
 彼等が床からの冷気を避ける為には椅子かベッドの上に避難するしかない。今は椅子の上だ。スフスは玄関に顔を向け、ストーブには横顔を向けていた。イナークはスフスの右斜め後ろで二脚の椅子を並べて背もたれに寄りかかり足を伸ばしている。これは以前の暖の取り方だ。(三脚の椅子の内の一脚は薪として燃やしてしまった)だが彼はイナークが悠々とその二本の足を伸ばして寛いでいると思っていたし、今其の様な事は彼にとっては関係がなかった。スフスは自分の左肱に止まって離れない梟に手を焼いていたのだ。
 其の白く長い毛の梟はどれだけ腕を振り回そうとも離れなかった。其れ処か意思表示をするかの様に上下左右に振り回される度、恰も時計の秒針の様に首と目を動かしスフスを……ジ……ジ……と見つめていた。彼は梟に構う事に疲れてしまい、右手を膝に付いて頬杖をつき、梟付きの左肱は不貞腐れた視線の的となった。フと其れ迄注視していた視線を逸らすと左肩にもう一羽黒い梟が明後日の方向に傾きながら留まっている事に気が付いた。これには彼も苦笑してしまった。そして、笑顔のまま、左肩を差し出す様にして振り返った。
「イナーク、一羽やるよ」
 スフスは確かに口を動かしてから目を覚ました。スフスは非常にきめ細やかで手触りが良く、一つ一つが赤子の掌(てのひら)程の白い綿毛に埋(うず)もれていた。其れは優しい触り心地の蔓から生えており、柔軟且微かに弾力を感じさせる大地を成している。
(俺、今何か言ったか?)
 白い光に目を瞬(しばた)かせながら、起き上がらずに周囲を確かめると女が一人で座っているらしいのを視界の隅に捉えた。と言うのは、スフスの頭上にはサラサラと耳に心地良い音を立てて流れる湧き水を溜める為の低い土壁があったからである。
(聞こえたかな。聞こえたよな。寝言)
 恥ずかしいなあと心の中で呟いた処で其れ処ではなかった事を思い出した。彼は起き上がって女を見たが、確かに見覚えのある筈の其の女の名前が出て来ず、悪戯に口を動かすだけだった。さやが万人に笑顔と受け取られる顔で口火を切った。
「お目覚めね。スフス。おかげんは如何?」
「体中擦り傷が有るみたいに痛むね。でも本当はこんなもんじゃない筈だけど」
 まるで只転んで拵(こしら)えた傷が治ったに過ぎないかの様だ。たった今起き上がった時も痛みを感じたのは身体を動かした其の後だ。
「お手をごらんになって。薄く桃色になっていらっしゃる部分がおありでしょう。それが私共の治療の痕です。完璧ではないのですわ。痛みは何れひくでしょうからお待ちなさい」
 スフスは女の顔を正面に捉えながら自分に施された不思議の事を聞いていた。だが彼は既に起こって終わってしまった事よりも眼前の人物の大樹の様に老成した落ち着き払った雰囲気と新緑の様に瑞々しい姿との矛盾から我が身の置かれた事態を量っていた。
(……奇妙だ……)
 衣(きぬ)に金の縁取りがなされている寝巻きに包まれた自分の四肢を繁繁と眺めてみると、片足の指の何本かにはジグザグに白色(はくしょく)の輪が走っているだけで両足の全てが揃っていた。スフスは自分の指を失った事を覚えていた。
(完璧ではないだって? へぇ……)指を動かしてみると他の傷と同様に痛んだ。(本当に俺の指なんだろうか?)
「気になる処がおありなの?」
 さやはスフスが何を気にしているか解っていたが其処は人間の少年に合わせて解らない振りをした。スフスは顔を持ち上げずに首を軽く横に振った。
「イナークの事はつえが看ていますからね」
 スフスは目を見開いて、直ぐ様パッと顔を上げたが「ふぅん」と言うとどうでも良さそうに視線を下ろして指を弄っている。さやは色々とせっついて聞かれると思っていたので此の反応は彼女にとっては意外だった。心配でない筈がない或いは心細く思わない筈がない。どうして一人で生きていかれるか?
 自分の傷が余りにも容易に治ってしまったのでイナークの事も心配は要らないと思っているのかもしれないとさやは考えたので、怖がらせない程度に現状を説明しようと思った。
「彼の傷は首でしたから……」
「俺等、何か言った?」
 彼は膝を抱えて両足の指を調べている。
「いつ?」
「治療中とか、ここに連れて来られる途中とかに。何で名前を知ってるのかと思って」
「おっしゃいましたよ。お互いに相手をとても案じていらっしゃいました」さやは罪の無い嘘を付いた。人間として辻褄を合わせる為に。
「あんな奴、くたばりゃ良いんだ」
 其れ迄スフスはふてぶてしい態度を取りながらも寛いだ様子だったが、今や彼は猟犬に襲われていた時の怒りを思い出し、其の表情は固かった。一瞬の間(ま)に膨れ上がった内面を押さえ様としていたが、一言の言葉でも掛けられれば其れは無駄な試みに終わると言う事を彼女は解っていた。
「何故、そんなひどい事をおっしゃるの? あなたの傷は彼のせいだとお思いなの?」
「俺の事じゃない」
 素早くスフスは袖口で目を拭った。二度拭い、三度拭った。涙で息が詰まって、たったこれだけの言葉を発するのも辛かった。だが既に感情の奔流は出口を穿たれ、外界に溢れ出してしまった。
「畜生、あいつ……あいつは、惨めに成りたくなかったんだ……」
 泣くまいとするかの様に何度も目を拭うと何故か本当に涙は止まったが、未だスフスの睫毛は濡れていた。
「逃げたくないんだ。いつだって。出会った時からそうだったし、きっと生まれた時からそうだったんだ……だから……俺は……」 カッと顔が熱くなり、僅かに持続した様に感じた。彼は伏し目勝ちに地面を睨み、抱えていた膝を胸に押しつけると、両腕をだらんと垂らして裾を握った。
「…………畜生」
 彼は、と彼女は思った。彼は友人の喉元に歯牙が突き刺さる瞬間を見ていたに違いない。其の瞬間でさえも友人が見ていたのは彼ではなく、眼前の障害であり、其れを如何に斥けるかという事に傾注していたのだ。イナークは彼の最も近しい者であるスフスに援けを求めず又スフスを己の力として行使し様ともしなかった。彼は悔しかった。彼は友人に従属する存在で良かった。常に現実を正面から斥け様とする友人の視界に入らなかったとしても、其の横で援けていたかった。後ろから只付いて行くだけの脆弱な存在だとは思いたくなかったのだ。さやのスフスを見つめる眼差しは優しい。
 つえとさやにとって人間を束縛すると言う行為の目的は、今スフスが表した様な人間の裸の魂を観る為でもある。生と死との此岸と彼岸とを渡るか渡らないかの叫喚或いは沈黙、それが人間の魂が剥き出しになる時だと信じていた。つえとさやの二人を「人間として生まれる事の無かった物或いは存在する筈の無かった物」と侮った人間を理解しようと試みていた。何が彼等をして我等を侮らせるのか? 認識は正当か? 不当か? 否。人間奴等の内包する正当性に触れ、その上で否定してやりたいのだ。あくまでもつえは。が、さやは……さやは只、孤独に寄り添って居たかった……。
「そこに」彼女が口を開いた。「食べ物がありますから、どうぞ召し上がって」
 円形の部屋にはつえとさやの外套と元々スフス達が着ていた綿入れジャケットを掛けたコート掛けの他には、突起物は一切なく、恰も後から取って付けたかの様に、一台のコンロが壁の凹所に設置されていた。其れは子供の背丈程の高さにあり、パンと野菜を乗せた皿も其の隣に置いてあった。
「取りなさい。……さ」スフスは俯いたまま、頷き、素直に従った。
 彼女も彼も人間を憎んではいない。しかし、観察実験に於いて感情が不要である事は自明の理である。


   二

 立ち上がると指の間々に挟まった綿毛が意図も容易く微粒の繊維と成って崩れた。だが一向に足下が沈み込む気配は無く、此の植物が地中深く何処迄も何処迄も敷き詰められているかの様に感じられた。其の微粒の繊維の塊全体が放つ燐光は淡く、幽かである。小川に彷徨う蛍の感がある。そして、暖かい。此れ迄スフスが感じたことの無い安逸が此処には在った。しかし其れは、そこはかとなくではあるが、強制された安逸であり、何か気分が緊張する。全体としては、自分の心を空気の挙手に託して、何処迄も広がって行けそうなのに却って全身を気配に包まれているかの様で何とも身動きし辛い。ジッと身を凝らしているのは、あちらなのか、こちらなのか解らなく成って来る。現実では、スフスは独りで歩を進めており、他には誰も居ないのだが……。スフスは燐光を斑の輪に写す小堀を軽く一っ飛びに跳び越えた。円形のドームには湧き水から流れ出る水が小堀と成って縦横に走っているが、其処に生き物の影は無い。正真正銘、今、宵闇に染まる此処にはスフスしか居ないのだ。丸天井のプラネタリウムには頂点に穿たれた穴一つしかなく、建築物の方が夜空よりも遥かに黒く沈んでいた。其の黒々とした屋根に繋がる壁面の下方は植物の燐光を反映してぼんやりと輝いて見える。其処に一カ所、光を吸収している部分がある。扉である。他にも此処には昼と夜とでは大きな、だが余り顕著ではない変化があった。コンロの凹所とコート掛けが無くなっていた。コンロもスフスの綿入れジャケットも綿毛に埋もれている。だが、つえとさやの外套は其れ自体が無く、もしかしたら、二人は出掛けているのかもしれなかった。
 彼はさやとの会話からずっと思考の堂々巡りをしている。結局は、何かが終わってしまったのだ、と。導かれているつもりで支えていて、支えているつもりで手を引かれ、片翼を与えて両足を挫き、羽根を食む。
(馬鹿だ。糞馬鹿野郎だ)
 彼には満ち足りた記憶が無かった。彼は十二人兄弟の六番目として農民の父母の間に生を受けた。家は貧しく、父母が彼に与えた物は全て兄達の不用となった物、所謂お下がり以外には全く無かった。個人的に貰ったと言える物は只、拳だけであった。大体其れは故あっての折檻だったが、其の拳が一番上の兄に向けられる事は余り無かった。兄弟間の年功序列が其のまま人生の定めであった。将来、長兄は父の跡を継ぎ、弟達は其の作男となると言う青写真だ。幼いスフスは何も考えていなかった。が、其れは即定めを受け入れたと云う事になるのだった。そんな事よりも彼の神経を刺激したのはやはり愛情の多寡だ。抱きしめられても抱きしめられても尚足りない其の時期に彼は餓(かつ)えていた。何故か? 彼は長兄では無かったのだから! 家にとっては替わりの効く部品でしかない。私情と言うには公的な其れが彼にはそのまま親の愛情と思われた。だがやがて今は長兄である男が実は次兄であり、正真正銘の長兄は乳呑み児の時に亡くなっていた事を知った。ちっぽけな事実が嘲り嗤う。声をたてて! 誰が決めた? 定めなどと誰が決めた? 人は全ての過ぎ去った事物の中からしか其れを判じ得ない!
 程無くしてスフスは家にあった僅かな金銭を持って家を出た。スフスは生まれて初めて自分だけの物を手に入れる事が出来た訳だが、充足感も罪悪感も無かった。彼は餓えている。貪欲に最善を求め、顧みる事をしない。物を得た瞬間に其れは価値を失い、其れを必要としていた自分すら過去の事として忘れてしまう。路傍の石の如き価値の物に罪悪感を抱く筈も無く、更に言ってしまうなら一握りの金銭は家出の為に必要な物ではあったが其れが目的で家出をしたのではなかったからだ。実の処、彼も自分の欲する処を知らない。自然な願望に気が付く迄、彼は現状が求める物を夢中で手に入れ、そしてあっと言う間に忘れ、其れを何度でも繰り返すのかもしれない。無意識に自分の求める物を、友情として隣人に求めていたのだとしても……。
(糞馬鹿野郎の大馬鹿野郎だ。阿保でどじで間抜けで屑で滓で畜生、俺は何て人間だ?)
 スフスは勢い良く走り出した。俺達は出会った時から一緒だったのに、何も解っちゃいなかったんだ。あいつは考えて、其れを行動に移した。俺は其れを真似ていただけなんだ。そんな事は俺にとってもあいつにとっても何の意味も無かったんだ。
(俺は、何の意味も、無い。そうだ、糞ッ!)
 燐光を放つ綿毛がまるで蛍が一斉に飛び立ったかの様に、大量に舞い上がった。
(だったら何で此処にイナークは居ない!)
 スフスの片足が樫材の扉を粉微塵に砕き抜いた。此れが彼に施された偉業の術の効果らしかった。
「巫山戯んな!!」
 扉の向こうの真っ暗闇に向かって叫んだ。彼は顔を真っ赤にしながら、後悔も羞恥も怒りに変えた。もう涙を流しはしない。現在の異常に気を払わず、誰にも何も言わせない気概を持って、彼は絶叫し、石造りの緩い螺旋階段を綿毛の植物を頼りに走り出した。
「イナーク! イナーク! 起きろ、イナーク! 何やってやがんだ、糞馬鹿野郎! 俺が呼んでんのはお前なんだぜ!! 逃げると思ったんだろ! 此処に居るなんて思ってねぇんだろ。そうだろ? お前の思う通りなんかなりゃしねぇよ! お前なんか其の程度じゃねぇか!! 偉ぶってんなよ! 俺は何も出来ねぇのかよ? 俺はお前の為に出来る事がねえってのかよ? 馬鹿なんじゃねぇか!?」
 スフスは勢い良く階段を踏み外していった。


   解らない

   なぜこんなに悩まなくちゃならんのだ? さっぱり得心がいかんよ。
   アルカージイ&ボリス・ストルガツキー『世界終末十億年前』


 落ち窪んだ土の上で焚き火が爆ぜる音で彼は目を覚ました。しかし意識は朦朧とし、焚き火の向こうに座る白髪の男の後ろに在るのが其の男の影なのか或いはポッカリと空いた坑(あな)なのかも解らなかった。其れを判断する間も焚き火に陰影を象られた男の表情を読む間も無く、彼の意識は再び夢に墜ちていった。彼は斯うして織物の上に横たえられてから、且つ消え且つ結ぶ泡沫(うたかた)の様に現と夢とを行きつ戻りつしていた。血と泥がこびり付いた彼の唇に色は無く、顔面が蒼白である事は一目で解かる程であったが男は何もしてやらなかった。さも、自分のすべき仕事は終わったと言わんばかりに、只、焚き火を絶やさない様に枝をくべていた。
 イナークの夢見は悪い様子で眼を瞑(つむ)る毎に譫言(うわごと)が増え、最後は声を上げて飛び起きた。
 彼は家が嫌いだ。だが今も昔も同じ家に住んでいる。家が無くては困る。胸の内では誰にも聞かせた事の無い声音で願望が囁いていた。己の物が欲しい、と。
 彼は夢の中では曖昧に覚醒すると、ベッドの中から母が出掛けて行くのを察知した。彼は母が配給の列へ並びに行くのだと思い再び眠りについたが、母は二度と家へは戻らない覚悟だった。現実は其処で終わる。しかし夢の中の彼は母の後を追うべく、ベッドから起き上がると玄関から路上へ飛び出て、母の背中に大声で呼びかけた。
「母さん」
 母が振り返る事は無かった。何故なら、彼が目覚める事は無かったのだから……何も知らず、彼は眠りながら母の帰りを待っていたのだから。彼が母を呼び止めた証拠は夢の中の白い吐息だけ、他には何も無い。
「母さん」
「お前じゃ無いんだ!!」
 ギョッとして後ろを振り返ると、空き放たれた玄関の暗がりに、朝ぼらけの日差しによって二本の脚が浮かび上がっていた。其の足首にはズボンの裾が荒縄で縛られている。……荒縄……荒縄だ……。
 イナークは目を開いた。
「漸く夢が現実に追いついたな」とつえが無感動に言った。
「なら」と応えると鼻を鳴らし「状況は悪化したらしいな」とイナークが言った。
 蒼白な相貌に反して、彼の声には張りが有り、確かにつえの仕事は完了している様だった。イナークが声を発した次の瞬間、爆ぜた薪が跳ね、焚き火を遠く離れ、粉々に成りながらつえの周囲に散蒔(ばらま)かれた。イナークの喉にズキリと痛みが走り、消えた。此れが彼に治療の一環として付加された魔法だった。
「本気では無い」つえは続けて言った。「お前の怒りを言葉にのせると良い。きっと相手はお前に従うだろう」
 イナークの意識がはっきりとした後もつえの表情は読み難く、一文字に閉じられた唇から漏れる言葉から感情を推測し様とも無感動の声からは何も思い至らず、イナークの警戒心を一層煽った。
「どういう意味だ?」
「お前の怒りの根元は過去の物だが其の感情は現在では暴力同然だと言う事だ。お前が犬と対峙した時に感じた物は何だ? 私は援けを請われ希を叶えた。お前達の傷は深く、一部は魔術で補わなければならなかった。夫々には夫々に相応しい術を与えたつもりだ。次こそは無事に殺せます様に」
「初めの質問に答えろよ。本気では無いだと?」
 再び薪が砕け、イナークは喉に痛みを感じた。彼は二度とも痛みを顔には表さなかった。彼の表情はいつも非常に厳しく、年相応よりも上に見えたが其の顔を真正面から捉えると幼さが残っている事が解るのだった。
「そうだ。お前が、だ。イナーク」
 つえが振りかけた一握りの土によって火が消え、僅かの間つえの手の平が空間に浮かび上がり、辺りは闇に包まれた。
(腹の立つ事を言いやがる)
 父親が死んだのは賃金労働者として大通りに面した家の樋を直していた時だった。足場に入った罅(ひび)を踏み抜いて頭から落下し、頭蓋が割れて脊髄が飛び出したのが致命傷である。イナークとスフスが現場に到着した時には、既に黒山の人集りが出来、父親の遺骸は、人々の足の隙間から見える、遺骸に被せられた薄汚い布からはみ出した足と作業の為にズボンの裾に結ばれた荒縄だけであった。血は水で洗い流され、地面は水でじめじめしていた。
「いや。安全面での心配はまったくなかった。事前にきちんと確かめたのだから」云々。
 現場監督らしい男の弁解が何度も労働者や群集に説明された。しかし、もうイナークには関係がなかった。父が死んだのだ。母が数年待った末に、一つのベッドで寝起きする様になってからは一年と保たなかった収容所帰りの男が死んだのだ。外出する時の父は常に誰かに見張られているという脅迫観念に苛まれ、話しかけられると「其れは俺の事か?」と聞き返すのが癖に成っていた。外と内とで相反する様に、家庭内では些細な事で暴力を振るう矮小な男だった。イナークは父が死んでも悲しくはなかった。が、衝撃を受けなかった訳では無い。最早、二度と父に反撃できなくなってしまった哀愁が彼を襲った。
 母が居なくなってしまってからの或る日の明るい晩、一人寝するイナークの脇に父が寄ってきた。潤んだ様な赤い目をしながら、掛け布団の上から優しく優しくイナークを撫でた。イナークがハッと目を覚ますと父は「……シ……シ……大丈夫だ」と此れ又優しい声音で囁いた。不思議と、酒臭さを余り感じない様な気がした。そして、父は語り始めた。「俺には置いて忘れて来た子が居る」と。「収容所の中で作った子供だ。俺はあの子に、俺があそこを出る時には外に連れ出してやると約束したんだ。でも……、此処にはお前の母が俺の女房が夫への仕送りの為に貧しい身形をして俺を待っていた……。俺は置いて来たよ……あそこでの俺の生甲斐を……」
 そこまで語ると、父はイナークの肩を思い切り掴んで引き起こした。
「解らねぇか!!」
 矢張り、父は酔っていた、でなければ気が狂っていた。潤んだ目を血走らせながら、鼻汁が混ざった様な声で大喝した。そして、イナークの頬を張った。まるっきり無防備だったイナークは、堪らずベッドの外に転げ落ちた。
「お前じゃないんだ! お前じゃないんだ! 此処に、此処に寝ているべきはあの子なんだ!」
 父はベッドに伏して泣き崩れた。其れを嫌悪感に胸を締め付けられながら、イナークは唇を噛み締めて立ち上がって見ていた……。
 其の日からイナークは考え始めた。俺は此の男の最後の葛藤を粉砕してやろう、と。イナークは、俺もお前の子だと解らせてから消えてやろうと言う結論に至った。其の矢先に父が死んだ。母に捨てられた家を見張る理由は依然として在ったが、父を否定し己を肯定する為に去るべき理由が消え失せてしまった。だが、と彼は思う。此の家に住んでいる限り俺は、父親曰く、あの子という兄弟の紛い物に終止するのではないか? 只、家を捨てるだけでは誰にも自分にも自己を証明する事は出来ないのではないか? 其処に呑気な痩せっぽっちが、人集りの中で声を掛けてきた。
「こりゃあ、良いや。俺達の家にしちまおうぜ」
 イナークは何も理解していないスフスが哀れでもあり、愛おしくもなった。(俺達、ね)
「そうだな。そうしよう」
 スフスは屈託なく笑った。イナークには此の決定が何であるか解っていた。逃げ、だ。 

   出来ない筈だ

   友情のかたちはさまざまであり、その内容は多様であるが、友情は一つの確固たる基盤がある――それは友人が裏切ることはないという確信である。それは友人に対する真の心である。
   ワシーリー・グロースマン『人生と運命』


   まるでそれは絶えざる永遠のなかに存在するかのように。
   アンドレイ・プラトーノフ『土台穴』

   一

 暗闇の中で手が二度三度打ち鳴らされたのを聞いた。
「さあ、燃やしてしまえ。貴様の乾いた情念を燃やすが良(い)い」
 真っ黒に塗り潰された空間でつえの髪と顔、着物から出ている手足のみがくっきりと白く浮かび上がっている。其の手が、指と掌を擦って叩く様な軽い音をたてると火打石を打ったかの様に白い肌の上に火花が散った。「こうだ。貴様の魔法と物質を摩擦させると考えれば良い」長い指で焚き火の跡を指差した。
「ぬかせ。俺は帰る」
「どうしてだ。さあ、焔を熾せ」
「俺達の家だ。スフスは其処に帰るだろう」
「解らないな。さあ、焔を熾せ」再び手を打ち鳴らす軽い音がし、火花が散った。
「お前が解らないのが何だ。お前、何がしたい」
「貴様に力を」其れはとてつもない誘惑だった。力。なんと単純な自己の証明か。つえは憮然と、だが満足気に「貴様は最早、人間ではない」と言った「魔法使いが眷属の一員だ。今の世の中、魔法使いは生きにくい。彼等が世間で何と呼ばれているか知っているか? 弾薬(タマ)だ。或る魔法使いが言っていたよ。我等は魔弾の射手となる、とね。解るな。魔法使いの社会も只では暮らせないと言う事だ。孤児(みなしご)よ」
 孤児という言葉がイナークの琴線に触れた。
「お前はさっき、希を叶えたと言ったが、俺は叶えられていない……」
 焚き火が焚かれていた場所に先程よりも大きな橙色の焔が天を突く勢いで燃え上がる。空気が圧力を加える様に周囲に広がって、あっという間に元の小ささに戻った。二人は立ち上がった。
「なるほど。厳密には、な。では、お前の希は? イナーク。我が名によって、希を唱えるが良い。私の名は、つえ」
今や彼等の貌は焔によって活き活きと輝いている。つえも無表情だが興奮しており、イナークは乾いた血と泥を掌で拭い去る。瞳をぎらぎらとさせて、舌舐めずりさえしたそうに口を開いた。
「イナーク! イナーク! 起きろ、イナーク!」
 其処へ、スフスの罵詈雑言が降ってきた。イナークは正気付いたかのように目を丸くして、顔を上げた。「何やってやがんだ、糞馬鹿野郎! 俺が呼んでんのはお前なんだぜ!! 逃げると思ったんだろ! 此処に居るなんて思ってねぇんだろ。そうだろ? お前の思う通りなんかなりゃしねぇよ! お前なんか其の程度じゃねぇか!! 偉ぶってんなよ! 俺は何も出来ねぇのかよ? 俺はお前の為に出来る事がねえってのかよ? 馬鹿なんじゃねぇか!?」
 其の儘、スフス自身が地響きと共に降り立った。興奮の為に自分がした事に気が付いていない様だった。焦る余り飛び降りてしまったという程度にしか考えていないらしいが、通常の人間であれば骨折以上の事態に陥っている事だろう。スフスは息切らせてイナークに走りよった。
「うるせぇ!」とスフス。
「未だ何も言ってねぇよ。薄ら惚け!」と返すイナーク。
「喋んなって事だよ! 阿保んだら!」
「人に見えない所で好き勝手言いやがって、くたばりやがれ!」
「良いから、良いか!? 俺はな! こいつと」「つえ」とつえ。「つえと! さやに援けてくれって頼んだんだぜ? 怪我を治してくれとか家に帰りてぇとか、そういうんじゃなくて、イナークがどうしたいか解らないからさ……」ここにきて、スフスは急に元気を失くし、イナークを気遣ってか、自分の言葉に責任感を持たせる為に声を落として静かに話し始めた。
「イナーク、あの家嫌いだろ? 俺は俺達の家なら何でも良いんだけど。イナークは嫌いだろ? だからさ、だから、イナークの好きにして良いんだよ。な? 俺に言ってみろって。つえとさやに頼んだの、俺なんだからさ。どうにでも言ってやるぜ。な? どうしようか」
 イナークは此の相棒を引っ叩きたくなった。瞳が羞恥に歪み、気恥ずかしい気持ちになる。彼は哀願してくれと哀願されたのは初めてであった。顔が熱いのは焔だけが理由ではない。だが彼はいつまでも赤面してはいなかった。いつもの攻撃的な彼に戻ってスフスの目を真っ直ぐに見詰めると、鋭い瞳でつえを睨み付けた。
「落とし前を付けさせてやる」
「だってよ! つえ! さやも! 解ったよな!?」
 すると、突然左右から馬の嘶きが空間に響き渡った。駆けながら段々と焔によって彩られる月毛の馬に跨ったさやがスフスを、益々黒毛を輝かせる馬につえが跨りながらをイナークを攫った。
「よろしうございます。大声で泣き叫びながら援けをお呼びなさいまし。きっと援けて差し上げます。でも、私の名を呼ぶのを忘れてはいやよ」
「宜しい。大声で泣き叫びながら援け呼ぶと良い。きっと援けてやる。だが、私の名を呼ぶのを忘れてはくれるな」
 二頭は一気呵成に螺旋階段を昇りきり、其の儘天窓に向って跳躍した。そして、星空を草原に街を目指してひたすらに奔り出した。

   二

 ツ・チィ――――ン・ドヅン・ガガアと音を立てて、高層集合住宅のエレベーターが到着を知らせ、止まり、扉が開いた。繋ぎの作業着に着替え、身なりを綺麗にしたイナークとスフスがエレベーターから其の階へと降り立った。ぽつんぽつんと常夜灯が一つの部屋の前へ導く様に点いている。二人は顔を見合わせて薄く笑った。つえとさやからの餞別だろう。意気揚々と部屋の前まで来ると兵隊の様にきびきびと右九十度回転し、扉の正面に立った。頭上の常夜灯が……ジ……ジジ……と小さい音を立てている。今は夜の闇、常夜灯の鈍い光以外は藍色の背景と化し、二人は一枚の絵に描かれた中心人物と成った。普段日中は多数の人間が行き来し生活をし、今も各扉の向側に人間が存在する場所とあっては、無人の鉄筋コンクリートが見えない存在を感じさせ、胸がざわつく様な落ち着かなさ、そして好奇心がそそられた。二人は酷く愉快だった。こんな愉快な事があろうか。仕返しをしに来たのだ。若い力を見せ付ける為に来たのだ。イナークとスフス、マンホールの餓鬼共に犬を嗾(けしか)けた警官に、復讐とは如何に呵責ないかを訓える為に、血を見せる思いでやって来たのだ。
 あの日、二人が縄張り争いをしていた孤児達とやりあっていた時、手に持った長いリールを地面に垂らし、犬を連れて巡回していた警官が孤児達を遠目に認めた。警官は暫くの間、孤児達に気付いていないかの様に懐から煙草を取り出し、火を点け様と冬外套を探った儘、犬のリールを落とし、歯の隙間から鋭く息を吐いた。其れを合図に警察犬が孤児の一群に猛然と突進を開始した。吠えずに至近距離まで来ると、次から次へと孤児達に噛み付こうと牙を剥き出しにし、唸り声を上げながら涎を垂らして暴れまわった。マンホールの住人が一斉に逃げ出すのと反対にイナークだけは足を踏ん張り、犬を正面から睨み据えた。混乱の中、他の孤児と一緒に逃げ出そうとしていたスフスは其れに気が付いて足を止めた。其の瞬間、犬に襲われ、イナークのお陰で難を逃れた時には足の指を噛み千切られていた。彼が地べたに蹲って足を抑える中、イナークは犬の足と首を鷲掴みにして押さえつけ様と格闘していた。が、其れも虚しく咽を食い破られてしまった。ゆったりと近付いて来ていた警官が、二人が意外と出血が少ない事を目視しながら、壁で煙草を揉み消すと犬のリールを拾い、去って行った。其の時、ちらりと二人を見ると口の中の息と煙草の煙を寒気に晒す様な形で吐き出した。二人共、あの仕草を一生忘れないだろう。
「ノック、ノック」と二人は意地悪く笑って、スフスが足で玄関を数回小突き、何回目かで扉を打ち抜いた。奥の部屋から洩れる微かな明かりを目指して薄暗い廊下を進もうとした時、暗がりから犬が無言で飛び掛かってきた。『例の犬』に相違ない。イナークは口角を小さく持ち上げると口の隙間から愉快気に低く笑い声を漏らした。其れが警察犬の一巻の終わり。臓物を飛び散らかして散華した。怖いもの無しになった二人は奥まで行く間に、敢えて手足を使って物を破壊しながら歩いた。花瓶や額縁を投げ飛ばし、数少ない部屋のドアを開けて手近の家具や書棚などを引き倒しながら前進する。薄明かりの為に白く浮かび上がった二人の手が激しく動く様が何か踊りのマイムの様に見えた。二人とも笑いながら奥の部屋へと這入った。其処に彼が居た。
 テーブルに横を向けた椅子に浅く腰掛け、何かを取ろうとしたかの様に右手をテーブルの上に置いていた。誰かを待ち受けていた様子で、夜が深けていくにも関わらず、警察官の正装をし、外套とマフラーに手袋までも着用している。右手の向こうに制帽しかないのを認識すると、あの仕草で溜め息をつき、眉間を揉み解した。明らかに長時間、それも緊張を孕んで自宅で災難を待ち構えていた男にとって、二人は場違いな災難だった。覚悟と諦観との横溢した半透明の空気が開け放されたドアから逃げていく。彼は口を開いた。
「相方を殺されるのは、二度目だ」
 其の言葉に二人は立ち止まった。眼球の後ろに血が逆流した様に感じたのがイナークで、心持ち哀しそうに肩を竦めたのがスフスである。
「忙しそうな処何だが」とイナークが抑揚を抑えて言った。「此れを見ろ」
 イナークは数歩前に出、自分の首の白い傷痕を指差した。「こいつも見ろ」と言って、後ろに腕を引いてスフスを指差した。
「此れで思い出さないなら後はもうどうでも良い。俺達の魔法が物を言う」
 男は二人が何者か気が付いた様だった。
「元気そうだ」嫌味ではなく、本心からそう言った。
 其の言葉に今度はイナークとスフスの二人共が頭に血が上(のぼ)り、足早に此の唐変木の独活(うど)の大木に近付いた、正に其の時、玄関から見知らぬ男達がどやどやと這入って来た。イナークとスフスが後ろを振り向くと、男が立ち上がって二人を部屋の端に突き飛ばした。
 男達を先頭に、夜色の制服に同じ色のマントを胸の前に金鎖で留めた面長で目尻の切れた男が部屋に這入って来た。他の者は手馴れた様子で家捜しを始めた。イナークとスフスとが行った破壊行動に似た手荒な捜査には二人の高揚した気持ちを冷めさせる野蛮性があった。彼等は実に山賊の様であり、獣(けだもの)であった。自分達が絶対的に有利であると思い、遊び気分で他人の家を台無しにしてきた行為とは何なのか? 此の時点で二人の復讐への感情が揺らぎかけていた。勿論、二人に犬を嗾(けしか)けた此の警官だって獣だ。だが、獣の所業を模倣、いやそれ以上に、厳格に自らの手で血を流そうとする己は何なのか? 其れに手を貸す隣の友人は? イナークとスフスとの頭に一瞬の空白が生じた間に、警察官と夜色の男とが薄暗がりの部屋の中で対峙していた。後者が制帽を外して人差し指で一回転させると改めて両手に持ち替え、「長かったね?」と笑みを含んだ声で言った。その(かん)にも家捜しは継続され、けたたましい音を立てて生活が破壊されていく。家具を引き倒し壁紙を引き剥がし、長椅子などの柔らかい物を片っ端からナイフで切り裂き、棚に有る全ての物を引っ掻き回し投げ捨てる。警官は此れを予期していた。解っていながら待っていた。此の男を。二人の男は顔見知りの様だった。
「そうか」半ば疑問を含んだ返答に夜色の男がムッとして眉を顰めた。彼の部下の一人が駆け寄ると何事かを耳打ちした。「さて」再び笑みを含んだ声で彼が言った。「行くぞ。ヴァレーツ」
 ヴァレーツが立ち上がり制帽を目深に被った。チラリとイナーク達に視線を走らせる。
「冗談じゃねぇ」
 イナークは萎えかけた感情を爆発させ、激昂すると夜色の男とヴァレーツとの間の空間に激しい焔が熾った。一方は廊下の壁の裏へ身を潜め、もう一方はテーブルを横倒しにし、盾とした。
「あの野郎、弾薬(タマ)なんか拾っていやがった」廊下に身を潜めた方、夜色の男が罵った。「それとも」と直ぐに平常に戻ると「密告か? 良いぞ。魔法使いは良いぞ。差し出せば、『減刑』されるかもな!」焔が舞い、瓦礫が飛び散る中、ヴァレーツに大声で笑いかけた。余りに突然の変化に彼の部下達は動けずにいる。次の瞬間、スフスが勢い良く駆け出す。蹴りの一撃で廊下の壁を粉々に打ち砕き、其の足で着地した。もう片方の足で相手の内臓を破裂させるべく行動に移ろうとした僅かの間(ま)に、夜色の男が冷静に拳銃の引き金を引いた。スフスは衝撃でテーブルの端まで吹っ飛んで、血反吐を吐いた。イナークの怒声で焔が益々激しくなる。するとヴァレーツがテーブルの裏から躍り出てイナークを抱えて、窓から飛び降りた。男も続けて窓際まで走り寄ると、『夜空に向って』全弾を撃ち尽くした。最早、獲物が手の届かない場所に飛んで行ってしまった事を確認すると、舌打ちをして、大声で現場を収拾する為に部下へ指示を飛ばし始めた。


 イナークは両手でスフスの片手を握り締めていた。夜空を燕の様に鋭く飛行しながら、元警官は「暴れるな」と怒鳴った。だが、二人はヴァレーツなどお構い無しに必死に手を繋ごうともがいていた。
「悪ぃな…」とスフスが息も切れ切れイナークに言った。
「手ぇ放すなよ! 解ってんのか!? 落ちたら死ぬぞ!」まるで、落ちなければ死なないかの様にイナークが大声を出した。しかし、血で濡れた双方の手は徐々に滑り始めていく。
「上手くいかなくて……でも……ま、褒めてくれよ」
 スフスははにかんだ。彼にしては上出来なのだと訴えていた。イナークが何も言う間(ま)も無く、スフスは夜空より深く暗い地面に消えていった。
「馬鹿が!」
 イナークは大粒の涙を流した。いつまでもイナークを抱えたまま、ヴァレーツは飛び続けた。イナークには血糊の様にぬめぬめした血だけが残された。
 やがてヴァレーツがこれ以上の逃亡の必要性を認めなくなった時、空中で身体を休めると、イナークは彼にしがみ付いて大声で泣いた。今迄の辛く貧しく暴力に溢れた生活で溜めていた全ての悲しみを吐き出すかの様に激しく泣いた。やがて大粒の涙を流しながらヴァレーツの顔を見上げた。
「これで良かったんだ! こうなって良かったんだ! でなきゃ、何の為にスフスは死んだんだ……?」流れる涙を抑え様としたが上手くいかなかった。「俺があいつの死を肯定してやらないと……でないと…………………スフスが可哀想だ」これが彼の全てに対する責任の取り方であった。何もかもひっくるめて肯定する。不器用で一途な愛の様に。
 ヴァレーツはイナークの頭を慈しんで撫でている。
 「あいつは聞いたんだ。どうしたいって。他にも道は在ったんだ……なのに、俺は、変わろうとしなかった……変ろうとしなかったんだ!!」突然、ヴァレーツの腕の中で暴れ始めた。其れを彼は只受け入れる様に抱き締めている。「つえ! さや! 俺の家をくれ!! 誰にも脅かされず、もう後ろ指を指される事も無く! 只、一人(いちにん)の為の家をくれ!!」イナークは上半身を捻りながらつえとさやに希んだ。空気が振動した。


第二部
   料理人達


   そして、そこでおしまい!……たとえどんなに恐ろしい体験だろうと、そのときには一切が平凡で馬鹿げた結果になっていくのだ。
   ワシーリー・ブイコフ『狼の群れ』


 つえとさやが彼女を連れて編集室へやって来た時、彼女は長椅子に座らずに入り口の処に立ち尽くし、事務机の上で両手組んでいる彼を……ヂ……と見詰めていた。彼は可愛い顔付きをしていたが、何処となく蜥蜴を思い起こさせる風貌だった。つえとさやとは事務机の両脇から腰を屈(かが)めて彼に彼女の事を説いていた。
「魔法使いの脳髄と心の臓腑だけで育て上げたのだ」
「もとが人間だとて心配することはないのよ」
 彼女の記憶の始まりは疾走、只其れだけであった。追った為に逃げる事となったのか、逃げる為に逆に追われる事となったのか、追いながら逃げている様な、その逆の様な奇妙な気持ちを抱いて、何故か四つん這いで駆けている。彼女には疾走した其の先に、彼が居た様な気持ちがしてならない。彼は杖に寄りかかって左側に体重を掛けて立ち、片方の眉を吊り上げて驚嘆と不安との表情で私を見ている……だが勿論、彼とは今日が初対面なのであった。今の彼は頑なに無表情を崩さない。
「今は既にあなたがたのお仲間。魔法使いのお一人ですよ。お力になれましてよ」
 自然界の美しさを体現した様な二人の姿に対して、彼女は貧農そのままに、薄汚れて色彩の無い恰好をしていた。だが、背中から胸に垂らした三つ編みだけは豊かで美しかった。彼は汚れの目立たない濃い色の背広を着ている。彼女は、彼にはもっと薄い色の方が似合うと思った。
「さあ、さっさとカーテンなど開けてしまって明るい中で見てみるが良い。きっと気に入るだろう」
 一陣の風と共にカーテンが大きく棚引き、強い陽光が彼女を指し示した。其の後(あと)には彼と彼女だけが残された。一瞬大きく、そして後は断続的に彼女と彼との顔を朝の日差しが白く照らし出した。爽やかな風に吹かれながら、二人は暫く双方の瞳の輝きを見詰め合っていた……。
 今、あれから何年も経って、同じ事務机に薄い色の背広を着た彼が机の上で手を組んで審判する様な目付きをし、事務机の前の長椅子に座っている、正装にマフラーの警官と泣きはらした顔を憮然とさせ、腕を血で汚した繋ぎを着た少年とを確かめていた。
「名前はヴァレーツ・ゴルヴィドルとイナーク・カーメレイル……。つえとさやとに大体の事情は伺いました。僕はアング・ツァング。彼女は」と机の横に立つ彼女の方へ顎をしゃくると「ベロー」と言った。「さて」アングは目を閉じて肩を竦めると「今、僕等はとても忙しいのです。僕等が何をしているか、二人から聞きましたか?」ヴァレーツが目で「知らん」と応えた。やれやれと溜め息を付くと彼は聴衆を前にしている弁士であるかの様に立ち上がり、説明を始めようとした。が、口を半分と開ける前に、彼女に遮られた。「そんな時じゃないわ」彼は楽しみを奪われた子供の様な表情で再び腰を下ろした。「取敢えず、魔法使いの数は増やしたい処なんです。歓迎しますよ、お二方」
 イナークは腹を立てていた。此れが、此の胡散臭いアングとか言う奴の家が俺の為の家だと? 馬鹿言え。
編集室は複数の書棚と其処から溢れた大量の書物が立錐の余地無く堆(うずたか)く積まれ、実際にはそれなりに広い部屋をかなり圧迫感のある部屋に変えてしまっている。俺が欲しかったのは、もっと釈然とした物だ。  
「そんな時ってどんな時だ? 俺にとっては今が其の時なんだ。帰る」
「解りました。そちらは? ヴァレーツ君」
「匿うなら」
「君を?」
「俺とイナークを」
「ちょっと待て。此処に残る気か?」とイナークは嗜めた。うっすらと埃臭い上に、信用が置けるかどうか解からない人物が二人も付いた此の家よりも、隠れ家ならばもっと良い物件が在る様に思われた。「しっかりしろよ」
「お前も残るんだよ」と今度はヴァレーツが嗜めた。「あの生まれた筈のない生き物の噂は聞いている。其れが正しいならば、二人の行動には何らかの正当性がある筈だ」
 ベローには二人の関係がひどく不思議なものと見えた。歳の差を考えれば当然、ヴァレーツはイナークの保護者である。だが、ヴァレーツは彼を皹(ひび)が這入り、中心の抜けてしまった硝子細工を扱う様に甘やかしているのが感ぜられた。しかし、其処には慈しみの中にも畏れが有る様な……。イナークはイナークで彼を支えているつもりなのか、はっきりと言ってしまえば頭の足りない大男とでも言いた気な物腰なのだが、何処か達観している様な……。しかし何れにせよ、二人の間の其れは、大変暖かい気持ちに溢れている。彼女には其れが少々にくらしい。
「だから、帰るって。帰る所なんてないけど」イナークは困って言った。が、殆ど本気で困っている訳ではなかった。段々、アングは不機嫌になってきた。椅子に踏ん反り返って腹の上で手を組んでいる。夜更けの訪問客が言い争いをしている事よりも、自分が軽んじられている事の方が気に入らないのだ。
「取り敢えず、今夜はお泊りになったら?」
 ベローが男達三人に助け舟を出した。
「いや、今決めよう。時間が無い」と言ったのはアングだった。「明朝だ」
「何がだ」
「我等が偉大なる魔導師を助け出す!」
 彼は感激に浸りながら、拳を振り上げて立ち上がった。
 一般的に魔導師とは、魔法使いの総本山である魔法委員会の最高幹部に授けられる称号である。魔導師には魔法使いを導く使命があるとされ、魔法使い達の行動に干渉する公の権利がある。人間で言う処の公的機関である。
「あんな腐った連中、死ぬのに任せて置けば良いだろうに」とヴァレーツが低く言った。現在の魔法使い達の社会的地位の低さ、世間からの断絶と差別意識は委員会の怠惰にあると言うのが委員に席を持たない大多数の魔法使い達に共有された見識だ。だが、今回の話は少々違う様である。
「彼とあんな老害悪玉菌とを一緒にしないで貰いたい。彼こそ真の魔導師ですよ。其の証拠に、彼が無実の罪で投獄されているのに怠慢なる委員会は自分達の地位を脅かす私達を警戒して、指一本動かさないのですからね」
「一体、お前等は何をやっているんだ」
「新聞を書いています」アングは指を一本立てた。「民衆の心をね。其の為に民衆が自分達の心に気が付いて、委員会への憤懣が高まっていくのが委員会には気に食わないのです、そして奴等も」
「夜帽か」
「其の通り! 奴等こそ委員会と人間政府との腐敗の証左ですよ。奴等は、あの腐った犯罪人共は魔法使いの権利と其れに理解を示す人間達を投獄して廻っているのですからね。君達も其の口だろう」
 夜帽とはその夜色の制服を揶揄した隠語である。ヴァレーツを投獄しに来た連中を指す。
「其れと此れとは話が違う! お前に手を貸す義理は……」ヴァレーツが身を乗り出して反論し様とすると「ちょっと」とベローが長椅子を指差した。
 其処にイナークが身体を丸めて眠り込んでいた。


「ベロー、彼をベッドに連れて行って」アングは小さな優しい声で言った。今、アングは落ち着いて椅子に腰掛け、再び机の上で手を組んでいる。彼女はイナークを抱えると部屋から出て行った。廊下に出る瞬間、アングがヴァレーツを説得する声が聞こえた。「彼とは飛び地[外地の意]に拠点を構える予定なんです……良いですか。だから君達も僕達と一緒に付いて来れば、彼等から逃げられるんです……」
 ベローはヴァレーツがアングの要求を呑むだろうと思われた。編集室の前にある下り階段を周って、向こう側の部屋にイナークを連れて行くと、そっとベッドに横たえた。カーテンに隠れた窓の向こう側にある全世界を意識させる様な狭い部屋に人間の感情の残滓が汲み取れる様な薄暗がりの中、物思いに耽りながら彼女もベッドに腰掛けた。
彼女は彼と初めて会った日、彼とあの長椅子で身を寄せ合った事を思い出していた。心地よい朝の空気を感じながら、手を握って彼は彼女の肩に顔を埋(うず)めていた。書物の森の中、新鮮な風に吹かれ、二人は二三の言葉交わした。「生まれた筈の無い生き物達は私を使役するには名前が必要だと言ったわ」すると、彼は急に立ち上がり、彼女の手を空中で放して部屋を出て行こうとした。
「いつお帰りになりますか」
 其れが彼女の言葉の始まりだった。彼は彼女の声音に驚き、振り向いた。彼女の声音には媚態も希望も忠節の陶酔すらも無く、あるが儘を受け入れた献身だけに満ちている。彼は気の抜けた様な顔で彼女を見ると口を開いた。
「君の名前を教えて欲しい。契約をしよう」
彼女は考えた。「ベロモルカナル」
「ベロモルカナル……白骨を基に造られた運河、か! 良い名だ。僕達にはお誂え向きだ。そう思わないか?」
 彼は大変魅力的に破顔した。瞳が綺羅綺羅して、無垢な子供の様だった。
イナークが寝返りを打って、くぐもった声で何か言った。「なに?」「あんた、あの男が相棒?」「そう……そうね」「あんな胡散臭いのが?」彼女は其れが事実なのが可笑しかった。本当に。「そうね。私の事はどう?」「さあね」「少しでも寝ていなさい。あなたが本当に魔法使いなら、つえとさやとが連れて来たのだからには間違いなくそうなのでしょうけど、アングはあなたを遣うわ。イナーク。私には其れを止められない」「怖いのか」「いいえ。私もあなた達と同じだからよ」


 翌朝、未だ日も昇りきらない時刻に編集室に繋がる小部屋で早い朝食を摂った。此処にも二三の書棚があった。既にアングが丸テーブルに着き、お茶を飲んでいた。椅子の脇にT字の杖が立て掛けられている。其処で初めて、二人はアングの片足が萎えている事に気が付いたのだった。二人が各々椅子に腰掛けると、折り良くベローが朝食を運んで来た。ただし、大変な粗食だった。
「我々の家は、此処」食後にアングが地図を広げてイナークとヴァレーツに説明し始めた。「監獄に張ってある結界の範囲は此の線です」地図に円形の線を引いた。「しかし護送車が出て来る時間は解っている。ヴァレーツ君とイナーク君は護送車を上空から追跡して下さい」
「護送車にも結界が張ってあるだろう」とヴァレーツ。
「魔法に対してだけですよ。魔法を弾(はじ)く類(たぐい)の結界です。魔法使いが近付くには何の問題もありません」
「俺達に突撃させるのか? お前は血の海に悠々とびっこを引き引きやって来るつもりか」
 彼は身体的特徴を揶揄されるのには飽き飽きしているとでも言いた気に顎を上げる。「馬鹿を言わないで下さい」
「君達は弾くだけで良いんです。其れで護送車が結界から出たと知らせて下さい。後はベローがやります」
「弾かせるのが俺の仕事?」とイナーク。
「そうですよ。イナーク君。君は焔を熾せるそうですね」アングが微笑みながらイナークに彼の魔法の事を尋ね始めた。其の横でベローが彼等に聞こえない様に小声でヴァレーツに囁いた。
「信じられないでしょうけど、アングは子供には優しいのよ」
 ヴァレーツが怒りも露にテーブルを叩いた。
「女子供にやらせる様な仕事ではない! 山羊足めが」
 昨夜の話し合いでアングに対して抱いていた不信感が一層強まった様だ。
「『魔法使いがやる』事に意味があるのだ。ヴァレーツ君」アングは断固としていった。「其の上女子供まで此の襲撃に参加したとあっては」アングは片目を歪めた。「尚更」
 ヴァレーツの顔が怒気で赤くなったが、直ぐに表面上は冷静さを取り戻した。イナークが彼の袖を引いたからである。イナークは彼の耳に手を当てて囁いた。
「良いじゃないか。あいつ等がやると言うんだから。俺達は安全な空の上だぜ。其の儘飛んで、何処かに行こう」
 イナークは早く本物の家を見つけに行きたかった。其の為には表向きは協力する姿勢をとっておいた方がすんなり行くだろうと踏んだのだ。ヴァレーツが低く、だがはっきりと聞こえる様に唸った。自分達は其れで良いとして、彼女には何をやらせると言うのだ? ヴァレーツは紳士的な気持ちから此の仕事は引き受けなければならないと考えた。イナークには危険が及ばない範囲で、だが。
「では、もう行かせて貰う。地図は借りるぞ」
「それより、ベローに案内させよう。ベロー? 食器なんてうっちゃっておけ。もう戻らないんだから」
「私、嫌だわ」
「何を言い出すんだ!」
 アングが杖を掴んだ。返答の含意を読み取り、頭に来たのだ。
「おい。其れで彼女をどうしようってんだ?」
「黙れ。此れは僕達の問題だ」
 アングは立ち上がると左に体重を掛けて歩き、意外と素早い動作で部屋を出て行った。彼女は慣れきった様子で食器を手に取ると部屋を出、直ぐに戻ってくると二人に言った。
「行くわよ」


 三人は夫々の物思いに耽りながら、足早に歩を進めた。イナークとベローが並び、ヴァレーツは二人から数歩離れた後ろから付いて来ている。
「ベロー、何が嫌なんだ」と石畳を歩きながらイナークが訊く。「案内が?」
「そんな事でアングは怒らないわ。実はね、イナーク。私、何もかも嫌になっちゃったの」悪戯っぽく笑った。少女の様な笑いだった。嘘偽りの無い本当の気持ちを、茶化して言ったのだ。
「じゃ、自分の家を持(も)つんだ。誰にも後ろ指を指されない、安心な家を」
 イナークは自信満々に言った。
「……彼と同じ事を言ってる」
「アング?」
「いえ、私達の魔導師が仰る事に似ているわ。イナーク、あなたは彼と会った方が良いのかもしれないわね」
 薄暗がりの中、朝がやって来る前の何かが始まりそうな予感が軽い高揚を覚えさせ、殻の中から目覚めつつある雛を成鳥にさせる様な勢いを三人に与えてくれた。やがて三人は住宅街を離れると、見晴らしは良いが、手入れを怠った為に腰の高さまで雑草が覆い茂る小高い丘に登った。ベローが街の中心部から逸れた場所の囲いを指差した。
「あの塀が、そう」風に吹かれる髪を押さえた。「私は此処で待つわ。あなた達は監視塔の真上に居ると良いと思うわ。けど、寒いからギリギリまで此処で一緒にお喋りしてましょうよ」
 ヴァレーツは懐から煙草を取り出し、早速、吹かし始めた。
「分かれた方が良いぞ。あんな男」苦々しく言った。
「そう思う?」
 彼女が不安そうに顔を曇らせた。
「ああ、潮時じゃないかな? あいつ幾つなんだ。まるで餓鬼じゃないか。他人を見下して、自分が一等上等だと思っていやがる」
「其の上、他人を言い負かすのが上手いんだから」
「だろう? 危ない橋は男だけに渡らせとけ。ベローは城門で待て。迎えに行ってやる」
「こいつは飛ぶしか能は無いが俺が居る。奴等を慌てさせてやるよ」イナークは半分本気、半分彼女を気遣って強気に言った。「そうしたら、三人で家を探そう」
「お前には呪文が必要だな」
「いらねぇ」
 イナークは魔法を使うには呪文が必要だと言われたのだと思い、否定した。イナークの考えを理解したヴァレーツが説明した。
「そう言う意味じゃない。緊張をほぐして、集中力を上げる為だ。無心の方が魔法は強い」
「呪文って、何が良いんだろう……」
「焔に関することかしら?」
「そうかもしれない」
 イナークとヴァレーツとの二人は良い加減な文句を唱え始めた。ベローは襲撃の前だと言うのに呑気に喋っている事が愉快になってきた。アングの拝する魔導師が投獄されてから向こう、無かった事だ。アングは塞ぎ込みがちになり、仕事に没頭して不安な気持ちを紛らわせていた。其処に彼女を気遣う気持ちは無かった。
「もうこれで良いだろ」イナークがうんざりして言った。「今日、あの部屋で拾った」ポケットから何か書き込まれた紙片を取り出した。
「何だ、此れは。目が滑る」
「だから良いんだろ。無心」
「では、そろそろ行くか」
「じゃあな」ヴァレーツはイナークを抱えて飛び去っていった。
(あれはアングの詩だわ)ベローは彼等を見上げながら思った。
 アングには文学趣味があって、良く書いていたが、残念ながら文才は全く無かった。(喜ぶかしら。イナークが呪文に使ってくれて。そういえば)彼女は叢にしゃがみ込んだ。草が彼女の手足と顔を擽(くすぐ)った。草いきれに息を詰まらせて、膝に顔を埋めた。(私の為に詩を詠んでくれた事もあったわね)
「浅ましい女だ」或る日、アングは言った。「女。ベロモルカナル。僕の知らない女」そして私の顔を両手で優しく包み込んで撫でてくれたのよ。其れに私がなんと答えたか覚えていて? 「胸に冷たいものがトロリと流れ込んだような気持ち。あなたの残酷さの中に優しさが視えたわ」きっと、覚えてはいないでせうね。私は覚えている。ずっと昔に憧れたものを、今も夢見ている。
 彼女は城門で待つとは言わなかった。


 空は明るくなり、雲が薄い濃淡で描(えが)かれていく。もう直ぐ、日が昇る。
「寒くないか? イナーク」
 ヴァレーツが身体を丸めてイナークを寒気から庇いながら飛んだ。
「つえとさやに運ばれた時は余り感じなかったがな、風、意外と強いな」
 大分、時間が経ったが二人は未だ監獄には到着しておらず、寒風に逆らって飛翔していた。其の為、然程でもない温度が肌寒く感ぜられたのだ。
「俺の魔法は本当に飛ぶ事だけなんだ」
「俺は焔が熾せるだけじゃない」
「では暖めてくれ」
「そういう意味じゃなくて、使い方が色々ある筈なんだ。焔を熾す意外に。俺は未だ、自分の力を摩擦させる事しか知らない」
 イナークが自分から弱みを見せたのは、スフスと共に過ごした時も含めて、初めての事だった。イナークは少し変った。幼い頃に誰しもが持っている柔軟性を取り戻しつつあった。
「俺より重宝されるな」
「そうだろ」イナークは急にヴァレーツの首を引っ張った。「何か出てきた」
 大体監獄の近くまで来ると、護送車が門から発進するのが目に入ってきた。
「肉、か? 描いてあるのは」
「肉屋のトラック? あんな肉屋見た事ない」
「ああ、如何にも物々しい」トラックの左右後ろに付く護送兵が肩から自動小銃を提げているのが見える。「数は多くないが」
「のろいな」
「まあ、歩きと一緒だからな……」
「いつやる?」
 二人は遥か上空から見下ろしながら後を、厳密には上から、護送車を付けた。護送車は狭い道を避けながら街を走る。
「もう少し離れないと監獄の結界で近付けないな」
「其れは何処だよ」
「俺には感覚で解かる」
 自分よりも秀でている事がヴァレーツにある事が嫌そうにイナークは鼻で笑った。重宝だってか。
 ヴァレーツは自分たちだけでやるつもりだったが、アングに楽をさせてやるつもりもなかった。(奴にも働いて貰う。魔法使いがやる事に意味があるそうだからな。躄(いざり)だろうと)
「トラックを見失うと手間だな」とヴァレーツ。
「アングはどうする気なんだ?」とイナーク。
「まかせよう。俺達に出来る事は奴等を見失わない事とアングに場所を知らせる事だけだ。後は成功しようが失敗しようが飛び地に逃げるしかないさ」
「場当たり的」
「其れ位の義理しかない」
「確かに」
(つえとさやは何を考えて俺をこんな所に送り込んだんだ? 俺は俺の為の家を希んだけだ……。それとも、これから助けだす魔導師が、そうなのか?)(会った方が良いのかもしれないわね)(会えば、解るか。でも、其れで良いのだろうか……もっと積極的な、何か斯う、俺が行動を起こす、と言うか……)イナークはつえとさやとに希を適えて貰おうとした時の気持ちを否定し始めていた。違和感が増大していく。が、今は現状に任せるしかない。事は既に動き始めている。
「取り敢えず、やるからには真面目にやろう」
「其れは当たり前だ」
 ヴァレーツは職業的に片付けるつもりでいた。まずはアングの計画通り、イナークの魔法で護送車の位置を知らせ、後は混乱に乗じてイナークとベローを安全な場所まで連れて行く。頃合いを見計らって逃亡だ。此の場はアングに任せれば良い。
 護送車が広場を横切ろうとした。(今だ)
「イナーク」護送車から目を離さずに告げた。
 イナークは三文文士の呪文を読み上げた。
「謳え、謳え、まつろう民よ。主(あるじ)の帰還を知らしめよ。其の名を忘れた御敵に、全てを思い出させるが良い。刻が来た。大鐘を鳴らす時が。嘶きよ、彼(か)の地に集え。轟よ、彼の地に在れ。勇み行くは盤石の槍。民よ」ここで大きく息を吸い込むと詠う様に言葉が紡がれた。「大声を上げて夜を呼びながら泣いている子供を見よ! 暁も知らぬ子守女の手に有る短い蝋燭の影を追え!」
 突如熾った激しい焔が護送車の結界によって更に勢いを増し、半円形の花火の様な形で燃え上がった。ヴァレーツは必死で態勢を整えた。(まるで砲弾を爆発させた様だ)護送車の結界は魔法が発動した衝撃を全て防ぐ訳では無い様子で、周囲に付いていた護送兵達が地面に叩き付けられた。
 日は未だ遠い。焔が周囲を照らし出したのは僅かの間に過ぎず、直ぐに元の薄暗闇に戻った。だが、一瞬の間、焔で彩られた物と者との明暗が極端な陰影を生み出し、凄まじく美しかった。ヴァレーツが己の魔法の制御に苦心している最中(さなか)、イナークは其の一瞬間が一秒にも二秒にも引き伸ばされて瞳に焼き付けられた。初めて彼は自分の持つ力の威力を身に染みて感じたのだ。
 そして、遥か遠くの丘から、ベロモルカナルが跳躍した。


 つえとさやとが彼女を創り上げた時、魔法使いの脳髄と心の臓腑とを喰わせ続けせたのには訳があった。アングの希に応えるべく、魔力を増強させ、魔法に関する知恵を補強させたのだ。其の上、どの様な状況に利用されるか不明の為、あらゆる場面に対応出来る様に創り上げる必要があった。その結論として採用されたのが、最も単純な魔法、身体強化であった。
 ベローは街に向って跳躍し、疾走する。音もなく屋根を伝い、風が彼女の涙を切る。其れが生理的条件反射による物なのか、自分の気持ちによる物なのか判別する間もなく、彼女はその場に到着した。脚力を増大させ、石畳を砕いた。
「其の日!」
 地響きと彼女の力強い言葉に反応して、地面で呻いていた護送兵達が立ち上がり、全員が護送車の背後に向けて自動小銃を構えた。瞬間、彼女は両手を大きく広げて突撃した。銃弾よりも早く、手近の兵士の首筋に左右の腕を打ち当てる。骨を折られた首が半ば腕に巻き付いた。彼女は突撃の勢いを殺さずに、動き続けた。左腕の兵士を射撃姿勢に入った別の兵士に向って投げ付け、右腕の兵士は地面が砕ける程に叩き付けた。手放された自動小銃を軽く蹴り上げて両手に受け取ると、無造作に澱み無く引き金を引き続け、護送兵を皆殺しにした。その間(かん)、僅かに数分。ベロモルカナルは使命を遂行した。
「主(あるじ)が全てを裁かれる」
 彼女は囁いた。
 彼がやって来る。彼女は素早く護送車の側面に廻り、運転席へ銃弾を打ち込むと、自動小銃を手放し、案山子の様に立ち尽くした。彼がやってくる。石畳に杖の音を響かせながら肩に大きな鞄を下げて、前方から彼がやって来る。びっこにしては素早く、歩いてやって来る。其の動きに彼が健常者と並んで歩く為にどれだけ苦心してきたかが伝わってきた。
「私は役立たずじゃないわ」あの日、彼女は微笑みながら彼を抱き上げた。「足萎えの聖者様」彼は彼女の胴体に腕を回すと笑顔で答えた。「役立たずさんじゃなけりゃ、おばかさんだ」「私、愛するわ。あなたの欠点をこそ愛するわ。それでこそ、私が此の世に有る意味があるのよ」「浅ましい女だ……」彼は彼女の胸に顔を押し付けた。だが、其の声に嘲弄は含まれていなかった、寧ろ喜びに溢れていた。彼は涙したのかもしれなかった。
 私、愛しているのよ。あなたの無垢な瞳が好き。あなたの強張った唇が好き。あなたの愚かな自尊心が好き。あなたの萎えた足が好き。あなたの顔がとても可愛いわ。ねぇ、あなた。私、あなたを愛しているのよ。アングはベロモルカナルに笑いかけた。其の瞳を綺羅綺羅させながら成功を喜んでいる。ねぇ、本当は何もかも覚えているんでしょ。甘えていただけなんでしょ。彼女はからかう様に微笑んだ。二人は目を閉じて……そ……と口付けをした。
 日が昇る。


「術者は消えたか。結界は無くなった様だな。で、アングは何を持って来たんだ?」
 上空からヴァレーツとイナークが降り立った。一瞬の惨劇に成す術無く、上空で見守っていたのだ。
「ベロー」イナークが日に照らされた死体と血溜まりに注意しながら近寄った。「俺達と同じ?」イナークはベローが別に怖くないのが不思議だった。出会ったばかりだと言うのに不思議と親近感が持てる。
「そう、同じ。力よ」彼女は頷いて優しく答えた。彼女はイナークが自分同様に人間から魔法使いへと変貌させられた事を知っていた。
 アングはヴァレーツの質問には答えぬ儘、肩に下げた鞄のせいでいつもよりも遅い足取りで、護送車に駆け寄った。金属の砕ける音がして、護送車の扉が独りでに開いた。アングが護送車のステップに苦労するのを見越して、ベローが素早く護送車の中から、目隠しに猿轡を嵌められ、両腕両足を縛られた一人の男を連れ出した。
「マスター……」
 アングが腕を伸ばして、男を受け取ろうとした。彼女が其れに手を貸してやる。二人は石畳に膝を付き、男が安定する様に座らせた。イナークは其の光景に目が離せなかった。ヴァレーツは斯う成ったからには最早、昨夜アングと計画した通りにするしかあるまいと反抗心を捨てた。
「今、自由にして差しあげますよ」アングが男を支えたままの姿勢で鎖や猿轡、目隠しが一人でに解(ほど)けた。
(あれが奴の魔法か)とヴァレーツは考えた。
 男は憔悴した態(てい)だったが、しっかりとした足取りで立ち上がった。髪はぼさぼさに伸び、汚れた囚人服を着せられていたが、瞳は爛々とし、意志の強さを感じさせた。
「諸君!」突然、彼は叫び呼びかけた。しかし、其れはイナークとヴァレーツに呼び掛けたのでも、アングとベローに呼びかけたのでも無かった。「我々を家の中から伺っている諸君! この救出劇に驚いて家の中で身を顰めている諸君! 魔法使い、人間の諸君!」声は朗々と響いた。「私同様、諸君等には何の罪咎も無い! 裁かれるべきは奴等、奴等だ。諸君等を圧迫し統制しようと努力し続ける諸勢力である! 奴等は未だ知らないのだ。我々には力がある事を。私は其れを証明しようと思う! 私はいつの日か必ず帰ってくる! 嵐を伴って! 嵐と成って! このシュトラーダル・マンが!! 我らは魔弾の射手である!」
 彼は棒立ちのまま硬直し、天を限りとばかりに声を張り上げた。太鼓の様に腹の底まで響き、体中を周り巡る血潮の様に沸き立つ、不思議な声音であった。此れが彼の魔法ではないかと思われる程だ。アングはしゃがんだまま、崇拝者らしく感動の面もちで浮浪者然とした男を見上げている。ヴァレーツは唖然としていた。今や、日差しは冷ややかに強く、世界の陰影を失くしてしまった。だが、其れは旅立ちに相応しい。
 シュトラーダルが兵隊の様なきびきびとした動作で護送車の運転席に収まり、アングがヴァレーツを押しのけて助手席に乗り込もうとした。仕方がないのでヴァレーツはアングがトラックに上(のぼ)る手助けをし、イナークとベローと共に後ろに乗り込んだ。其の時、ベローが両扉を毟り取り、中からの眺めと空気の流れとを良くした。
 車が発進する時、アングが車体から身を乗り出して、鞄の中に積めてきた大量のビラを空中高くばらまいた。朝日が煌き、白い紙が宙を舞う。ビラは舞い落ちながら弾かれて、家々の壁に張り付けられた。護送車は城門を目指さず、その場で大きく方向転換すると城壁を目掛けて突撃した。そして、事も無げに城壁をぶち破り、無傷で街を抜け出した。
「滅茶苦茶だ」とイナークを庇いながらヴァレーツが言った。
「失礼な」と覗き窓から横顔を見せてアングが言った。「彼が彼という席に座っている限り、何人(なんぴと)も彼を排除する事は出来ないのです」シュトラーダルの魔法の結果らしい。アングはヴァレーツを小馬鹿にした様に目を細めると覗き窓から消えた。
 先程の演説以来シュトラーダルは沈黙している。イナークは考え続けている。
(解るな)つえの言葉が甦る。(魔法使いの社会も只では暮らせないと言う事だ)
 獲得しなければならない。だが、求めてはならない。自己の内に獲得しなければならない。此の男達は魔法使いの社会を獲得しようとしている。何故なら、既に自己の内に魔法使いの社会を見出したからだ。探さなく良い。自己の内にこそ確証が在るのだ。彼が自分の為だけに家が欲しいと強烈に希んだ時、既に其れは得られたのだ。最早、何処に行こうと、彼には其処を自身の家とする覚悟がある。其の覚悟に気が付く事が出来なければ、其れは永遠に手に入らない。遂に彼は本当の家を得たのだ。
 五人は土地から土地へ、無舗装の道を疾走する。



『憂える大地は彼の下』


   人間は誰にも悪しかれとは望まなかった。しかし、人間は生涯、悪い事をした。
   ヴァシーリイ・グロースマン『万物は流転する‥』


   まず、初めに

 びっこのアングが健常者と変らない速さで部屋の中を歩き回っていた。小さなアパートの一室には台所と一体に成った居間と別室の寝室との二部屋しかなく、手洗いは共同だった。台所の傍に置いてあるテーブルと部屋の入り口との狭い空間をアングは苦々しそうに唇の端を噛み、瞳に苛立ちを宿らせて、杖に体重を掛けながら器用に歩いた。
「貧乏! 貧乏! 貧乏!」
 彼は独りごちた。
「こんな有様で会合に参加しなければならないとは!」
「大丈夫。色々、考えたじゃない」
 ベローが席に座ったまま、彼を宥めた。
「それに、シュトラーダルの部屋の方が広いわ。カーテンを閉めて、部屋の照明を蝋燭だけにして」
「ヴァレーツを扉の前に立たせる。それだけだ」
「良いアイディアじゃないの。秘密の雰囲気」
 彼女は立ち上がって、アングの前に立った。二人の目線はほぼ同じ高さである。見詰め合う双方の内、苛立たし気な瞳に穏やかな瞳が勝った。アングは溜め息を付くと微笑むベローと腕を組んで部屋を出て行った。確かに二人の住まいは貧しかったが、置かれている調度品には一工夫が施されており、質素な美しさを備えている。シュトラーダル達はアパートの三室を貸し切り、一階(ひとかい)を占領していた。三室の住み分けは、階段の正面にシュトラーダル、其の右手にイナークとヴァレーツ、そして左手にアングとベローである。シュトラーダルの部屋の向かいには、通りに面した窓框の付いた窓が在った。三室の内、シュトラーダルの住まいは他の住まいより一部屋多く、其れが皆の仕事部屋となっている。今夕の仕事は人数の関係からシュトラーダルの居間で行われるが、晩餐も雑談も抜きで要件だけが話し合われる予定である。彼等が集合する事自体が危険なのだ。
 ヴァレーツは会合にイナークが同席する事に反対した。勿論、イナークはヴァレーツに反抗した。其れ以来、二人は口を聞いていないらしい。アングの言い分では、イナークは苦楽を共にした仲間であるから都合の悪い時だけ仲間外れにするのは失礼であると言う物で、シュトラーダルの思惑としては、イナークを子供扱いせずに早く一人前にしたいという狙いがあった。
 建物内は暗く、埃が漂って身体の凹凸や掌に吸い付く様な気がする。薄墨の様な暗がりの中をアングとベローはまずイナーク達の部屋に立ち寄ってドアをノックし、誰も居ない事を確かめた。いつも、ヴァレーツは最終的にはイナークの要求を受け入れるのだ。ベローが視線をアングの顔に向けると彼は満足気に小さく頷いた。彼等がシュトラーダルの処に入室すると、他のメンバー達は全員集まっていた。
「遅いぞ」入り口でヴァレーツがアングの背丈に屈んで呟いた。
「わざと、さ」アングは意地悪く笑い返した。
 二人の部屋よりも広い居間にどっしりとした巨大なテーブルがあり、暗闇の中で威圧感を与えている。此処での空気は張り詰め、人々を糸で雁字搦目(がんじがらめ)にして頭上から吊るすかの様な緊張感が在った。室内には腫れぼったく肉感的な空気が沈滞している。其の空気はアングとベローの足取りに場を譲る事無く、二人に絡み付いたが、持続性も無く、暗闇に溶けていった。アングは上座のシュトラーダルの隣に腰掛け、ベローは其の向かいに座を占めた。イナーク少年は机の片隅の殆ど意識されない位置に座り、ヴァレーツは入り口付近に届く微かな光に瞳を照らされて光らせながら衛兵の如く仁王立ちに立ち、テーブルに座る一同を見下している。テーブルの上にある三本の蝋燭を刺した燭台は、さり気無くテーブルの真ん中よりもシュトラーダル達に近く置かれ、暗に上下関係を主張していた。先程ベローが言った通り、シュトラーダルの背後と右手の窓にはカーテンが掛けられ、宵の色を仄かに伝えている以外、自然の明かりと成る物は一切無い。此の多少滑稽にも思える演出は、会合に参加した者同士を連帯意識で繋ぐ役割を担っていた。闇と焔とが人々を世界から断絶させ、隔絶された世界の中で人々は無意識に興奮し、生理の虜(とりこ)と成る。其れは儀式である。斯うして、会合は始められた。重厚な調度品と、時間を待たせられた事に因る沈滞した重苦しい雰囲気の中只一人、シュトラーダルだけが空間を制圧しながらも浮き上がらずに溶け込んでいる。
「酷い物です。同志シュトラーダル」
 本国から脱出してきた家族達の家長を代表して、落ち着き無く目を泳がせている小太りの紳士が口火を切った。
「初めは只の人事異動に見えました。職務怠慢者と無能者が多く含まれて居たからです」
「失礼ですが、お仕事は何を?」
 シュトラーダルが極自然に尋ねた。
「工場の管理職です。人事異動リストの中に幾人かの善良な人々が含まれているのが目に止まりましたが、深くは考えませんでした。其の後、徐々に人事異動が行われ、代わりの人員が遣って来ました。新しい労働者を見て、私は驚きました。其れは移動になった職務怠慢者や無能者よりももっと積極的に酷い者達ばかりで、善良な者などは誰一人として居なかったのです!」
「と、言うと具体的には」
「殆どごろつき同然の乱暴者ばかりです。全く手に負えません。でも其の中に潜んでいた者こそ、本当の恐怖だったのです……」
 其処で彼は言葉を切ると、泳がせていた視線を密かにシュトラーダル達に集中させ、自分の手を見い見い、彼等の顔色を窺った。
「安心して下さい。此処には私達以外の者は絶対に誰も居ません」
 男は唾を呑み込み呑み込み、頷いた。動揺が伝わりかけていた他の男達も落ち着いた様子になった。
「密告者です。政府への不満、社会への反抗的態度、仕事場に対する愚痴、一瞬の逡巡、何でもかんでも残らず奴等は密告しました。そして、逮捕が始まったのです。殆ど労働者が居なくなると、仕事に必要な機械や部品を詰め込んだトラックが数台、送られて来ました。管理職の私はほっとしました。此れで何とかノルマを達成できる! しかし、其処に詰め込まれて居たのは機械類ではありませんでした。囚人達だったのです。其れを見て、私は愕然としました。『魔法使い狩りだ!』」
 家長達は一様に固唾を呑んだ。
「彼等はまるで魔法の道具の様に扱われていました。そして、彼等を顎で使っている者こそ、人事異動で遣って来たごろつき共の人間で、魔法使いの監視員を自任していました。工場の管理職にある者達は誰が言わずとも解っていました。次は私達の番だ、と。普段、私達は誰が魔法使いであるかなど気にも留めていません。それが今、運命を左右しているのです……」
「ストライキは? 誰も試みなかったのですか?」
 幾分、批判の意も込めてアングが尋ねた。顔が長く、頬の扱(こ)けた男が悲鳴の様に甲高い声を上げた。
「彼等を責めないで下さい! 家を奪われ、身分を奪われ、毎日殴られ、食事も満足に与えられず、生命の尊厳までをも奪われた彼等を責めないで下さい!」
 難を逃れてやって来た男達は、此の問いに自分達の責任が含まれていると言う事を意識的に破棄していた。
「其れに彼等が居ます……」第三の男が呟いた。『彼等』という言葉遣いに権力者に阿(おもね)る卑賤さが感じられる。
「夜帽ですね?」とシュトラーダルが皆の軽蔑を男達に感じさせる間(ま)を与えずに応えた。
「そうです! 彼等の制服に魔法を無効化する呪物を縫いこまれているのは知っていました。しかし、そうでは無いのです! そうでは無いのです!」 小太りの男がぶるっと身を震わせた。
「彼等は魔法を禁止する事が出来たのです。物理的にでは無く、本当に魔法使いが人間の様にされてしまうのです。勿論、仕事中は魔法を使えます。しかし、其れ以外に魔法を使おうとすると、彼等が禁止するのです。彼等はいつも腰に儀礼用の短剣を身に付けていました。彼等が其の柄(つか)に手を掛けるだけで、もう誰も魔法を発動する事は出来ません。鞘から其の刃(やいば)が抜き払われたらどうなるかなど恐ろしくて想像する事も出来ません……。人間的な力だけで、どうして反抗など出来るでしょうか?」
 此れは、魔法使い達の立場を考えれば想像して余りある。魔法使い達は自分達の一切を否定され、虐げられ、自尊心を奪われたのだ。一日間を生きる事に必死な者に死を強制する事は出来ない。又、難を逃れに此処へやって来た男達が面倒にも関わらず、家族連れで逃亡して来た事からも或る事が想像出来る。
「もし、反抗したとして、其の成否に因らず、囚人の家族はどうなったでしょうか?」
 男達は黙りこくって俯いた。
「有難う御座います、皆さん。良く話してくれました」
 シュトラーダルが愛想良く労わり、テーブル越しに一人ずつ握手を求めた。此の行為は場を和ませもしたが、庇護者としてシュトラーダルの支配を強めた感があった。
「もう安心して暮らせますよ。我々は準備を調えて待っていました。此処までは本国の手も中々伸びてきません。しかし……」
 彼は誠実に言った。
「いつまでも、と言う訳にはいきません。直ぐにではありませんが」
 男達は目を丸くして顔を見合わせた。(何だって? そんな話は聞いていないぞ)
「なので、お願いがあるのです。皆さんは知識人ですね?」
「そんな……只の中産階級ですよ……」
「でも、教育は受けていらっしゃる。其れを我々の若き同志達に授けて欲しいのです」
「私達が?」又もや目を丸くした。
「基礎的な技術で良いのです。魔法に関して」
「魔法の技術を? 此の世の中で? 大っぴらに使うべきでは無い物を?」
「同志諸君、諸君等は自分の生きてきた時間を抹消しようと言うのか?」
 シュトラーダルが大きな声ではないが、他者の身体をびりりと奮わせる声音で語り始めた。
「奴等は我等を恐れているのだ。其れが為に魔法使いを迫害する。同志諸君、魔法使いに生まれた誇りを忘れてはならない」うらぶれた男達は顔を上げ、自然と背筋を伸ばした。「其の誇りを未だ若く貧しい魔法使い達に教えてやって欲しい。勿論、安全は保証します。貴方達には小さいですが一つの工場を差し上げます。其処で共に働きながら彼等に魔法を身に付けさせて下さい」
 此の言葉は仕事も家も失った家長達には効いた。彼等は「失礼」と言って、部屋の隅へ、蝋燭の灯が届かない暗がりに寄って小声で相談し始めた。打算から自ら暗がりに転がり込もうとする獲物を、捕獲者が真剣な無表情で蝋燭と暗闇が鬩(せめ)ぎ合う粗い灯の中から……ヂ……と顔を向けている。其の視線に男達は気付く事無く自らの席に戻ると直ぐ様「解かりました」と了承した。
「若者達に魔法の技術を授けましょう」
「有難う。同志」
 シュトラーダルは立ち上がって席を離れると、再び一人一人と握手を交わした。暗闇の中の其れは、儀式の締め括りだった。
「ふう」
 客人が立ち去ると、シュトラーダル、アング、ベロー、 ヴァレーツ、イナーク等は身を寄せ合った。重厚で濃密な空気は煤けて日常的な極ありきたりの空気へと変貌した。仄かな灯の輪の描く処、古い大きな机は傷だらけであり、燭台もメッキが剥げていた。身を寄せ合う彼等も衣服に繕いの痕が見え、一介の貧乏な魔法使いに戻った。儀式の衣は剥がされた。今度は世俗的で現実的な対応が協議されるのだ。
「戦力になるのか?」とヴァレーツ。
「なりません」とアング。
「捨て駒ですか?」とベロー。
「いいや。捨て駒では終らせない」とシュトラーダル。
「じゃ、どうする?」とイナーク。
「イナーク君ならどうしますか? 実際に考えてみて下さい」とアングが訊ねた。
「下っ端、かな?」
「それは無理ですね。彼等を指導的立場にしないといけません」
「指揮官があれでは闘う前から負けると決まっている」
「彼等に言える事は、敵と戦う段になったら必ず逃げ出すと言う事だ」シュトラーダルが傲岸に言い放った。「其れで良い。若者達に自信を付けさせてやるのだ」
「自分達の教師を自分達の手で処分させる、と言うのか」ヴァレーツには信じられなかった。警官になる前の兵士の時分、戦場に於いて戦友愛は常に尊(たっと)ぶべきものの一つだったからだ。彼は政治とは無縁に生きてきた。其の結果、無防備にも一同と共に本国から逃亡する羽目に成った訳だが……。
「そうです」アングが自信満々に言った。「誇りと団結は力です」
「哀れだ。一生、共犯意識に苛まれて生きろと言うのか」
「苛まれるなどと言う事は、無い」シュトラーダルが断言した。「彼等は寧ろ、精鋭としての誇りを抱く事だろう」
 未だ、子供のイナークには何が何だか良く解からなかった。兎に角、あの愚図っ垂れ共と其の善良なる家族達を見捨てる事は出来ない。が、かと言ってこちらも慈善でやると言う具合にはいかない。シュトラーダルとアングには理想がある。其れに協力して貰うと言うのが結局、一番需要と供給に適っているのではないか? しかし、彼等は先刻の通りの小心者揃いだ。ならば、どうする? 自分達が彼等も教育せねばならないのか? そこまで面倒を見てやらねばならないのか?
 ヴァレーツには有効的に反証する事が何一つ出来無かった。駆け引きとは無縁に生きて来た元警官にして元兵士は、事物の裏表を白黒はっきりさせる事しか知らなかったのだ。そして、白黒つける為には何もかも未知数であった。只一つ言える事は、シュトラーダルとアングとの二人はイナークの心に好ましくない影響を与える怖れがある、と言う事だけだった。紙の端に火を付ける様に、彼等の間の空気へ荒んだ物が侵食し始める。
「さ、もうお話は此れ迄に致しましょう」とベローが議論の泥沼に男達が嵌まり込む前に救いの手を差し伸べた。「晩餐は何に致しましょうか?」

  
   そして、次に

 敵には顔が必要だ。工場の生産ラインが軌道に乗ってきたのでシュトラーダルとアングとは再び新聞を発行する事が出来る様に成った。新聞・料理人は広告に自分達の腸詰工場を使いながら、存在しない本社からの宣伝を隠れ蓑に本国の事情を暴露する記事を掲載していた。標語は「真夜中のノック」、実際に逮捕の手が伸び、其れから逃れたヴァレーツの体験談から頂いた言葉である。初めは労働者向けに配布され、其れが浸透した頃に街頭で読売を始めた。明白なる官憲への挑発である。しかし、本国の事情に疎い飛び地の官憲は内容の過激さからゴシップとして『料理人』発行者を侮り、見逃していた。事実、記事の内容は匿った家族達の体験談を継(つ)ぎ接(は)ぎにし、誇張して恐怖を煽ったものが多かった。しかし、本国から直の情報を謳った新聞は其れなりに発行部数を伸ばし、諸読者へ、それに地元の官憲にも、充分に夜帽の暴虐性を脳髄に刷り込んだ。其の成果として社の内外の同志を結びつけたシュトラーダルとアングは、次の段階として具体的な敵が必要となった。
「ねぇ、同志ヴァレーツ」と、アングがヴァレーツを自分の部屋に招待して、杯を傾けながら言った。
「お前が同志と言う時は碌な事がない。何だ」と、ヴァレーツもベローの酌で酒を煽りながら応えた。
 酒気に空間が蕩(とろ)ける様な空気である。ヴァレーツは我知らずに気持ちが軽くなっていった。いつもアングはヴァレーツを小馬鹿にしていたが、ヴァレーツの方は其れを子供のやっかみ程度と受け流す術を身に付けたので先方さえ気安くなれば、幾らでも柔和な雰囲気で話し合う事が可能だった。丁度今、気難しい猫が自分から寄って来た風である。
「そろそろ、教えて下さいよ」
 だが、餌が無ければ動物は寄って来ない者だ。それに彼の顔立ちは猫と言うよりは蜥蜴に似ている。
「此れで何度目だか解らんが、今度も断る、と言わせて貰おう。同志アング」
「有る事無い事、書き散らしますよ?」
「どうせ、嘘八百を混ぜこぜにした記事ばかりだろう」
「腸詰の宣伝は本当ですよ」
「まあ、あれは美味いな。宣伝文句に偽り無く」と首肯してから「お前の書いた記事じゃ無いじゃないか」と呟いた。「社員のだ」
「取り敢えず、お話を要約するだけで構いません。夜帽の事を直に知っているのはヴァレーツ君だけだ」
「だから、断ると……」
「ニヤーグ・ポーファ・ポフフ」
 ヴァレーツが鼻梁に皺を寄せた。
「イナーク君に教えて貰いました。心の解るもの同士は上手く話しが出来るものです」
 アングは素敵に破顔した。
「で、其のイナークは何処だ」
「怒らないであげて下さいね」とベローがまた酒を注ぎながら言った。
 ヴァレーツは息を空気に晒す様な形で、溜め息を付いた。ベローは男達に一言断ると、腰まで伸びる豊かな三つ編みを後ろに流しながら、部屋を出て行った。
「美しい女だ。献身的で気も細やかだ」
「酔ったんですか。人の女を目の前で褒めないで戴きたい」
 アングは不満気に目を細めて、酒をちびりとやった。
 酔っていなくとも、ヴァレーツにとっては此の部屋ですら華やいで見えるのだ。其れは窓際に置かれた一輪の野の花であったり、壁に掛けられた絵画であったり、片付けられた食器の僅かな置き方の差異であったりした。どうしようも無く、女の気配がする。其の女はいつも心細気に見えて、彼には気掛だった。特にアングと共に居る時程、其れは強く感ぜられた。此の男は気付いているのだろうか? 気付いていずとも、其れは其れで妙に餓鬼くさい処のある彼と彼女には似合っている様にも見えて、困ったものだった。とどのつまり、ヴァレーツはベローに横恋慕している訳でも、アングに嫉妬している訳でも無く、只単純なるお人よしに過ぎないのであった。
「彼女は、いつも、その、何だな。独り切りで居るみたいだな」
「意味不明です。何が何です?」
「勘弁しろよ。俺はお前みたいに弁が立つ訳じゃないんだ。つまり、だ。ベローをもっと大事にしろと言いたい」
「喧嘩、売ってんですか」
 アングは哂い出して、健康な方の足で床を叩いた。どうやら、酔いが回ってきたのはあちらが先らしい。
「冗談。解かってますよ。ベローは僕やシュトラーダルと違って、何を何の為に行うのかが解っていない。だから迷って、いつも、不安なんだ。でも、それは僕にどうしようもない。彼女には彼女の使命があって魔法使いとして創り変えられたのだから、彼女が自分で気が付かなくては」
「その言い草だと本当は、お前には彼女の使命が解っているみたいだな」
 アングは愉悦を込めて鼻で笑うと、ヴァレーツに聞かせる為か其の気がないのか「僕に役立つ為」と幽かな声で囁いた。アングの声音は子供よりも大人らしく、誇らし気でもあり、艶っぽくも在った。其れは酒気に頬が緩められる空間にあって、より一層の甘さを感じさせる声だった。誰彼構わずに発散される甘さにヴァレーツは眉を顰めた。其れは毒だ。彼女への。掴まり立ちから脱しようとする子供の袖を下に引っ張って、大地に釘付けにしようとする悪戯っぽさに隠された残酷が潜んでいる。だが、アングは其の残酷に気が付いている。気が付きながら鼻歌交じりに眼を閉じて、抱き締めている。アングには何の罪悪も無い。同じ子供だから出来る芸当だ。(彼女は、どうなのだろうか)ヴァレーツは甘い酒気を振り払う様に伸ばした人差し指と親指で眉を押さえて残りの指で顔を覆った。(幸せなのだろうか)
「山羊足め。悪魔め。彼女をどうしようと言うのだ」
「何も。ええ、何も。ベローが僕の足並みに合わせて歩くだけです。行く先が何処で在れ」
「お前も行く先など知らないのだろう。本当は?」
 アングは誤魔化す様に、或いは認める様に薄く空気を吐き出しながら笑った。
「御心配無く」

 郊外に在る、大小様々の石が敷き詰められた河原でイナークは魔法の鍛錬に取り組んでいた。山林に囲まれた河は御簾の内側に居る様に昼間でも薄暗く、其処に居る者は静謐な空気に全身を包まれた。空間の要請で命の息吹が身体を駆け巡り、頭が澄んで清らかな気持ちが芽吹き始める。イナークは肩幅まで足を広げて両手を後手に組み、大きな流線型の直線が下流まで伸びる大きな河に向って立った。其の斜め後ろでシュトラーダルが監督している。
「イナーク、君は大規模な焔を熾す技術は既に体得している様だね。だから、次の段階に進もう。私が考え得るに、其れは狙撃と言う形で会得するのが一番良いと思う。出来るだけ小さい焔を遠くに熾してみようか」
 と言う訳で、まずイナークは熾す焔の距離を自在に操る練習から始めた。そして、魔法の強弱は声量の大小に関係なく発揮出来る事が段々と解かってきた。だが、小さな的に当てる様に火を熾すのはひどく難しい。シュトラーダルは真っ直ぐに切り揃えられた髪を微風に晒しながら、長時間一歩も動かずにイナークを指導している。其れはイナークにとって煩わしい事では無かった。
「距離、五」
 元々何をしていたのかは知らないが、彼には目視で距離を精確に把握する事が出来た。イナークに距離の長短を指示し、誤差を判断してくれる。其れが何処まで信頼出来る物かは解からないが、一つの指針には成ってくれる。彼は良い指導者だった。今は未だ熾す焔の大小は不統一だが、お陰様で距離の方は段々と掴める様になってきた。距離に対する感覚が目覚めてきているのだ。だが、其れだけだ。精神的滋養は皆無に等しい。点呼や号令に似て、発する言葉と発せられる言葉が双方の固まった関係に浸透する力は弱い。今は未だ、イナークとシュトラーダルの間には殆ど何も無いのかもしれない。しかし、シュトラーダルは(魔法使いは素晴らしい)と無邪気に喜んでいた。(魔法使い達が一致団結し、命令一下で行動したとしたら、どんな素晴らしい事が起こるだろう?)其れを想像するだけで胸が躍る。
「距離、三」
 表面には其の感情を億尾(おくび)にも出さず、彼は指示を続ける。
 大小様々の焔が水面に熾り、消え、まるで暗い水面に星が吸い込まれている様にも見えた。
 と、其処へベローが迎えに来た。
「シュトラーダル! イナーク!」
 彼女は手を上げた。シュトラーダルも手を上げて応える。
「そろそろ最後にしよう。イナーク、魔法の強弱は気にせず、今出来る限り最長の距離に焔を熾すんだ」
 イナークは呪文の詠唱を開始した。ベローがシュトラーダルの横に並んだ。
「ベローさん。どうしましたか?」
 彼はひどく優しい声音で呼びかけた。
「ヴァレーツがイナークを呼んでいます。シュトラーダル」
 其れに対し、彼女は父親に報告する子供の様に暖かく応えた。過去にどの様な交流があってか、シュトラーダルとベローとの間には信頼が貫かれている。大方、昔アングが我侭をやった時、彼が彼女を庇ったのであろう。其れ以来、シュトラーダルとベロモルカナルとの関係は何の進展もせずに固定されている。だからと言って、彼等が不仲と言う訳では絶対に無い。只、人間関係において、シュトラーダルは初めに築かれたお互いの立場を堅持する方向性がある。シュトラーダルの心の奥底の片隅で、人に対する臆病心が燻っている……。
 彼等の目の前で対岸の水が蒸発し、小さな水蒸気を上空へと昇らせた。水蒸気は上へ昇る程、はっきりとした形を無くし、不定形と成って姿を消していった。だが、其の遥か先への道筋を示す様に彼等の頭上には太陽が燦と輝いていた。此の太陽がシュトラーダルには良く似合っていた。孤高でもあり、時には其の干渉が厚かましくもある……。そして、遠い。彼は親しみやすさを持っていたが、何処か決定的な処で一歩距離を置いていた。アングなどは其の彼の余所余所しさをも含めてシュトラーダルを尊敬している。しかし、彼の態度に彼への哀しさを覚える人は誰しも一生彼に近付けないと感じるだろう。シュトラーダルの全てを受け入れる人よりも一層彼に近付いたが故に永遠に埋まらぬ一歩を実感するのだった。其れでも尚、彼の傍に佇む人が居るだろうか? 其れは愛だろうか? 彼に愛はあるか? 永遠に彼(か)の人を受け入れぬのに? 寂寞にどれ程人は耐えられるのだろうか……。


「初めての突撃の時、ポーファの首根っこを掴んで、塹壕から飛び出した。其れだけだ」
 他者にはばれない様に魔法で極僅かに飛翔したと言う意味だろう、とアングは推察した。
「其れが彼の誇りを疵付けたと?」
「いや、そんな事は無い。其れ以来、俺達は本当の意味での戦友になったのだから」
 ヴァレーツは過去を懐かしむでもなく、壊れてしまった関係を悼むでもなく、淡々と語っている。無理をしている訳では無い。彼にとって戦友ポーファは未だに戦友ポーファなのだった。
「では、斯う言う事は言えませんか。彼は夜帽に成ってから変わってしまったのだと」
 アングの頭の中では一つの物語が形成されつつあった。
「そうかもしれん。もう何年も昔の事だ」
 ヴァレーツは手酌で酒を飲み干した。とっくにアングは酒を飲む手を止めている。
(良い事を思い付いた!)
 アングはシュトラーダルに新しい記事を知らせるのが楽しみになってきた。きっと、彼も喜んでくれるに違いない。
 既に夜帽の敵性を大衆の頭に叩き込む事は充分過ぎる程に行ってきた。だが、同志と言う同志が夜帽と言う職業に従事する人員全員に対して、情け容赦無く攻撃を加えられるとは思わない。そこで、夜帽を一枚岩的な集団として纏め上げ、一つの観念を叩き込む。其の為には具体的な対象を用いるのが効果的だ。一人の夜帽を出汁(だし)に全体の獣性を証明するのだ。其の目的とは即ち、排撃への罪悪感を排除する事にある。
「彼は、良い人間でしたか?」
 変貌の振り幅は大きければ大きい程良い。
「さあな。俺の出来ない事を出来る人間だった。冷静で完璧主義者、知性を重んじる兵士だ。俺が無謀な行動に出ようした時、度々止めてくれた。だから今、俺は生きている」
「貴方も彼に同じ様にして来たのだろうね。其の行動性で彼の生命を何度も救ってきた」
「そうだな。お互い、持ちつ持たれつだった。戦友だからな」
「其れが何処で袂を別ったのです」
「復員後、俺は警察の職に就き、奴は新しい組織から声が掛かった。其れ以来、出会っていなかったから、其れかな。どうだかな」
 段々、ヴァレーツの頭に酒が廻って来た。
「仕事が見つかるまでは暫くはつるんでいたがな……あいつときたら、俺に何も言わずに色々模索していた様だったからなあ」
「其れは貴方も同じ事では、ヴァレーツ君。彼の知らない処で色々行動していた筈です」
 アングには、出会った事も無いニヤーグ・ポーファの事が解るような気がした。考えるのが先か行動するのが先か、そんな事は問題では無い。『お互いの出来る事と出来ない事、其れに敬慕』 だから、ニヤーグ・ポーファはヴァレーツを逮捕しようと心に決めたのだ。ヴァレーツに出来る事は彼には絶対に出来ない。しようとも思わないからだ。だが其の影響力は歴然と存在する。そして、単純な力の行使の方が目に見えてはっきりしている、と言う事がある。『見せ付けられる』 其の感覚はにくくもあろう。
 ヴァレーツは杯を握ったまま、テーブルに突っ伏して眠ってしまった。部屋中、彼等の吐き出される酒の息吹が充満している。酒の色までもが霞となって目に見える様だ。アングは彼の心臓の音を背中から聞いた。「きらいです。あなたの事がきらいです。どうしようもない事です。貴方は此処に居るのに、私は此処に居るのですから」アングも少し酔っていた。目を瞑る。頬が僅かずつ下に落ちていく。「哀しい事とは思わない。例え、真実がそうであろうとも」
 不自由な足では身体を支えられずにアングがヴァレーツの襟首を掴み、二人して床に倒れ伏した。
「痛い。痛い」
 そう、ヴァレーツは目を瞑った儘言うのだった。だから、勘弁しろと言うかの様に。まるで人を幼子扱いしている。アングは仰向けに倒れたヴァレーツの腹を枕にすると忌々しそうに頭を左右に振って押し付けた。そして、二人して眠りの淵を彷徨った。
「床の上で寝ない方が良いと思うな」シュトラーダルが父親の様に叱りつけた。「椅子をぶった押すのもね」
「あれはヴァレーツです」アングは雨に濡れた小動物の様にうなだれ、彼の前に座っている。アングにしては珍しく、心底から恐縮していた。
「其れは重要な事かな」
「いえ……でも、その、収穫はありました……」
 シュトラーダルは鼻から息を吐き出して、「聞こう」と言った。
「はい!」それだけで彼は立ち直った様だった。
 同じ時、ベローとイナークとの二人はどうにかヴァレーツを彼の部屋に引きずり込み、ベッドの下段に寝転がしていた。
「あなた達が二段ベッドで寝ているとは知らなかったわ」
「何か最初からあった」
 仲間同士が打ち解けて杯を傾けていたアングの部屋は一変、陰謀の巣と成った。誰にも見つからないという安心感からなのか、水に沈むと気泡の出る石の様な何処か粗雑で荒々しい空気である。
「フム」「此れで行きましょう。シュトラーダル。これしかありません! 既に脚本は出来ています。組織に属する人間は組織の属性を身に付ける! 行動基準、思考回路、人間性、生活様式、其の全てが組織で働く事によって育まれるのです。そして、夜帽が身に付ける人格は獣性です。残虐無慈悲で加虐嗜好の持ち主と言うのが基本です。逮捕時に、投獄時に、尋問時に、迫害暴虐の仕事の全ての瞬間に趣味を楽しむかの様に虐待する人間が住まう組織です。今迄の僕達の仕事が物を言います。夜帽の暴虐は充分過ぎる程に証明してきました。同志或いは未来の同志もむべなるかな、と頷きます!」「良し! 此れで行こう。アング。あらゆる詭弁を労するんだ。誹謗中傷、名誉毀損、毀誉褒貶、人格否定、賄賂横領、捏造隠蔽、色恋沙汰、あらゆる側面から貶めてしまえ。読者に全てを読ませるんだ。脳髄に刷り込め!」「随意に、マスター!」「情報源はヴァレーツだ。彼は何でも知っているのだ」二人して頷きあう。「実名を出しましょう。其れだけで真実味が増すと言う物です」「夜帽を呼び寄せよう。名指しで記事にすれば、ニヤーグが指揮官として派遣される。夜帽の体面を保つ為に、そして恐怖を与える為に。我々や国民が二度と立ち上る事が出来ない様に投獄を開始するだろう。しかし、其の為に奴等は警察権を奪取しなければならない」「警官達を此方に引き込む」「いや、第三勢力として立ち上げよう」「そして此方の指揮は貴方自身が執られるのですね!」「勿論だとも! 勿論だとも! 皆(みな)、其れを期待している」「貴方が貴方という席に座っている限り、誰も貴方を排除する事は出来ない。其れは空間に穴を空ける位、横暴な事なのだから。シュトラーダルの絶対防御を敗れる魔法使いは居ない。安全面は万全です」「此の機会に保守主義の臆病者共を粛清する」「シュトラーダルだけが魔道師です」「ニヤーグはヴァレーツを捜索するだろう」「其の為に力を割かせるだけでも意味があります。警官達がやり易い様に泳がせましょう。夜帽は何処へ来させますか」「真正面へ。我々の仕事を否定させる為に。衛兵が交代する様に堂々と行進させろ。徹底的に虚仮下ろせ」



   やはり、又

 友は一緒に連れ立った。山林に囲まれた石だらけの河原で、今日も魔法の練習をするイナークの直ぐ横にヴァレーツが突っ立っている。彼は何にもせずに傍で見守っているだけで、何の役にも立っていない。だが、イナークとヴァレーツとの間には確かな繋がりがある。お互い、過去に壊し壊されてしまった者で繋がっている。其れ故に父子の様な兄弟の様な、血縁に拠らない肉親の繋がりが形成されている。何もせずに横に立っているだけで、只其れだけでも互いの心が慰められる。其れは後悔かもしれない。悲哀かもしれない。だが、馴れ合いではない。持ちつ持たれつで互いを補い合っている。
 山の陰に入っている水面(みなも)の外(ほか)、河原には強烈な日差しが遮る物とて無く燦燦と降り注いでいる。何もかも曝気出(さらけだ)しながら、同時に目をも眩ませる陽光の中、先程からイナークは焔を一点に集中して熾し続ける事が出来るか否かを確認していた。暗い河の流れに沿って、水蒸気が火を消された蝋燭の煙の様に下流に流されていく。
「ニヤーグ・ポーファが来る」
「知ってる」
「工場長達が粛清される」
「知ってる」
「お前は知らなくて良い事を知っているよなあ。もっと、もっともっと、知っていた方が良い事があるのになあ」
 会話の最中も河の上に焔が熾る。しかし、やはり集中力が途切れるらしく、水面上の遠近(おちこち)に現われては沈んでいく。薄暗い山中に灯る狐火を思わせる幽玄さだ。強烈な日差しと澄んだ寒気の中心でイナークがヴァレーツに顔を向けた。
「ヴァレーツ。俺はアングの事もベローの事も嫌いじゃない。シュトラーダルは良く解らないけど、良く解らないからって嫌いたくはない。解からない儘も嫌だ」
「そうだな。解かるよ」
 急にせせらぎの音が大きくなり、鳥達が騒々しく囀り始める。本当は以前と変わらずに起こっていた出来事が、今初めて起こり始めたかの様に鮮明となる。何もかもが今、始まるかの様に。
「良い奴か悪い奴か知らないけど、一緒にいる奴が闘っているんなら闘ってやらないと。見ぬ振りが一番卑怯だ」
 ヴァレーツは眩しくてイナークの顔を見てもいられない。白く、余りにも白く、光が輝いている。口を開ければ、勝手に息が洩れていく。
「脳足りんって言わないか。それ」
 五月蝿ぇと言って、イナークが蹴りを呉れた。
 どちらがどちらの手助けをすると言う訳でも無く、イナークとヴァレーツは共闘してニヤーグ・ポーファを打ち倒す事と成った。官憲筋の話しに因ると若干名の警官を残して、夜帽が警察庁庁舎を丸ごと接収する事と成ったと言う。引渡しの日、此の地域へ転属させられて来た夜帽達は真正面から乗り込んでくる。シュトラーダルの狙った通り、彼等の威光を大衆に見せ付ける為に。其処を狙う。イナークが狙撃で攪乱し、ヴァレーツが上空からニヤーグ・ポーファを攫う。上空からの強襲が未然に防がれ、ヴァレーツが地に墜ちたとしたら、最悪でもニヤーグ・ポーファだけでも道連れにする算段だ。率直に、ヴァレーツは自分の計画をイナークに話した。イナークは何も言わなかった。只理解できないまでも、元戦友同士の決着の付け方とは何なのかを考え続けた。
 一方、ベロモルカナルは心細かった。イナーク達の襲撃に乗じて、シュトラーダルと其の同志達は疎外された警官達と共に警察庁庁舎を強襲する手筈となっている。其処へアングも共に行くのだと言う。
「事後処理の為に全てが終った後から行く」
 と、アングは言うがベロモルカナルは何かどうしようもない虚無感に襲われていた。アングの魔法は結界を応用した物であり、地に在る事物は地から切り離し、空(くう)を行く事物は反射で他所へ誘導すると言う物である。意識的に発動させなければならない魔法として、シュトラーダルの魔法とは趣を異にする。其処に焦燥感を煽られるのだろうか? 自らの身体(しんたい)で以って彼を守るに闘争の跡は不足だろうか? あの不自由な足が彼女を不安に陥れるのだろうか?
「いっそ攫ってしまいたい」
 彼女は天を仰いで呟いた。長い前髪が額の上に垂れ下がり、彼女は目を閉じた。何がいけない事があろう。そうだ。彼女の考えている事はいけない事だ。彼の為に魔法使いとして生まれ変わって遣わされた自分ではないか。それとも、此れは、おそれ?
「急に立ち止まるな」
 かなり前方からヴァレーツが人混みを掻き分け掻き分けベローの下に戻って来た。「何か買う物があったのか」大きな包みを幾つも抱えた大男が彼女の顔を覗き込んだ。今、彼女達は二人で近所の市場に買出しに出かけている処である。祝祭日の人混みが商店を賑わせ、普段の商品よりも華やかな品々が軒先を飾っている。群集の中を連れ立って行(ゆ)く者も一人で行く者も、皆(みな)穏やかでゆったりとした印象を残して、彼女の傍らを過ぎて行(い)く。群集の皆が笑っている。(何故かしら)彼女は両手の塞がるヴァレーツの頬に冷えた手で触れた。手首を捻って、形だけの平手を打つ。頬に触れられても何でも無い顔をしていた彼が頭を横に向けられた時点で(おや?)と言う顔付きになった。
 今の彼女は市場の果物や天幕の一切れ、包み紙の新聞紙の一枚と同じ、他人にとっては其処に在るだけの存在。全ての雑踏に喧騒が彼女を表面から撫で擦って、何の関係も持たない。其れは孤独だ。今の彼女には幸せな者しか目に入らない。孤独を意識しまいとすればするだけ、群集の笑顔は眼下に展開する。
 彼女は青褪め、其の顔は硬直している。面差しだけが悲愴に美しい。
「アングに近寄らないで」彼女の震える声が喧騒を縫って彼の耳朶を打つ。「遠のいて。危険を連れ去って」
 ヴァレーツは彼女の全ての行為に腹を立てなかった。寧ろ、非常な哀れみを覚えた。後天的に魔法使いと成った者達は、と彼は考え始めた。力を振るう為の選択肢が一つしか無い。其の為に魔法使いとさせられたからだ。彼女の人生は何処に在るだろう。もしかしたら其れは他者の中にしか無いのかもしれない。今が試練の時なのだ。かつて、イナークが乗り越え、此の世の全てを己の住処とする覚悟を決めた様に、彼女も又自己の内を切り拓き、願望を覚悟に高めなければならない。でも、誰も彼女を救ってはくれない。イナークにとってのつえとさやとは彼女には居ない。ヴァレーツは内心、舌打ちした。アングは何をやっているんだ。ヴァレーツよりも彼女と共に在っただろうに。
「何故、何故なの」彼女は呆然と一粒の涙を零した。「此れは闘争の始まりなのに。アング達は此の土地を国から切り離すつもりなのに、何故、あなたはイナークを連れて逃げないの?」
 ヴァレーツの立場は其の儘、彼女の立場であった。大切な存在を庇護する立場に居りながら最善を尽くさないヴァレーツに苛立つのと同時に、彼女は自身の不甲斐無さを噛み締めていた。
「解かっているだろう。彼が其れを希まないからだ」
 彼は石像の様に固まった表情の中に穏やかさを秘めて、彼女を見詰めた。
「ごめんなさい。そうよ。解かっているのに」彼女が声を絞り出した。「諦めきれない」悩める者の美しい瞳が涙に濡れて、彼を通り越して何かを見詰めていた。やがて、薄っすらと微笑むと「解かっているわ」と落ち着き払って、応えた。
「真っ青ね」


 アングは自分とベローの寝室で、普段愛用しているT字の杖に仕込んである短剣を点検していた。短剣は杖の短い方に仕込んであり、一回(ひとまわ)しで抜ける様に成っていた。アングは両刃の磨き具合を確かめると一言「此れで良し」と言って、仕舞い直した。誰にも教えていなかったが、此の短剣は抗う為の物では無く、自害する為の物であった。彼は自分の貧弱さを誰よりも知っており、其れを楽観視しなかった。では、何故敢えて危険な場所に身を晒すのか。彼は身体の貧弱さが精神にも影響を及ぼしていると考えられる事を殊更に嫌った。だからいつも過激な方へ過激な方へと奔る傾向に有ったのだ。其の故に今、シュトラーダルに傾倒し、行動を共にしているのだとも言えた。シュトラーダルは現場にアングが来る事に反対した。しかし、事前の情報を知らせない程に彼は非情では無かった。ベロー達に伝えている情報を最も古くからの仲間であり首脳陣の一人である彼に教えず、彼を蚊帳の外に置くなどと言う非道な行いは出来なかったのだ。其処からアングはシュトラーダルを説得し、襲撃の終った後に推参する事を取り付けたのだ。アングは満足していた。古くからの仲間として、又ベロモルカナルの良人として、己だけ安全圏に居るなど真っ平御免だった。命の危機に晒された方がましと言う物だ。
 其処へ玄関をノックする音が扉越しに聞こえてきた。かなり急(せ)いた調子でノックは続けられる。彼は相手を待たせる様に悠長な足取りで玄関まで辿り着くと、扉を開けた。
「……どうも」
 彼は若干唇の端を引き攣らせて挨拶をした。其処に立って居たのは此の地区の魔術委員会代表だった。
「シュトラーダルを呼びますか?」
 一瞬は相手に先手を取られた感の彼であったが、今は余裕たっぷりに相手へ椅子を進め、会話の主導権を握ろうと内心構えていた。
「いや、彼とはもう会ったよ」
 アングは彼が自分を呼んでくれなかった事に少し傷付いた。髪の禿げ上がった魔術委員は弱り果てて喋り始めた。
「まるで話にならん。彼を止める事は我々には不可能だ」
「それで?」
「君に事態を収拾して貰いたい。君達が何を起こそうとしているかは解かっている」
「今更、止(や)めて何の得があるんです。彼等は遣って来ます」
「魔法使いを援ける事は出来る」
「生命だけは?」
 彼は冷笑(せせらわら)った。
 魔術委員の男は額の汗を拭った。
「君達を魔術委員会に迎え入れたい。其れで地位も財産も守られる」
「誰をですって? 同志魔法使い全員分の席が用意されているのですか?」
「君までそんな強情を張るのか!」彼は拳を膝に打ちつけた。「話にならん。またもや、だ。君はもっと理知的な人物だと聞いていたが……」
「理知的ですとも。魔術委員殿。事は既に起こっている、違いますか?」
 アングは魔法で相手と地面との接触を断ち、椅子ごと後ろに引っ繰り返らせた。更に落ち着く筈の地面に悉く結界を張り続け、相手に魔法を使わせる間を与えず滅多打ちにする。何とか立ち上がろうとする男の顔面に血液がどろどろと流れた。日中のからっとした空気の中、湿った物の臭気が徐々に強くなっていく。血潮は擦(かす)れて広がらぬ儘、男の挙動によって撒き散らされる。男が血塗れた手を床に付けようとすれば其れは弾かれ手形も残せない。擦れた血痕がさっさと乾く。
「此れは時間稼ぎだ。夜帽共は警察庁に乗り込むべく行動を開始している。解かりますよ、解かりますよ」
 今上の残滓は血溜りも残せぬ儘、終った。
 アングは体重の半分を杖に預けながらも素早く歩いて部屋を出ると、向いのヴァレーツ達の部屋へ向った。シュトラーダルなら既に工場の同志達と共に行動を開始しているだろう。
「イナーク君。狼煙を」
 長椅子にうつ伏せになり、膝から下を空中に揺らして寝転がっていたイナークが、アングの声に反応して兎が耳を動かす時の様な機敏な動作で首を部屋の入り口に向けた。顔面を緊張に強張らせて頷くと、アングの横を脱兎の如く駆け抜けた。其の勢いにアングは一瞬、瞳を閉じた。
 イナークは部屋から出ると廊下を走って路上に面した窓から身を乗り出し、窓框に右足の太腿だけを乗せ、事前の指示通りに上空高くに激しい焔を燃え上がらせた。同志警官への行進開始の合図だ。其の儘無言で階段を駆け降りると、最後に一度だけ振り返った。無邪気に慌てて、無垢に心配そうな顔で少年は叫んだ。
「アング! アング! 安全な場所に居ろよ!」
 アングは階段の上から微笑んで、少年に片手を上げて応えた。少年の後姿が見えなくなると、踵(きびす)を返してシュトラーダルの部屋へ這入った。あの日シュトラーダルが座っていた上座に腰を落ち着け、悠々と煙草を燻らせ始めた。


 通行人は呑気に足を止めて、昼間の花火を見上げている。遠くで歓声が上がった。空に濛々と不定形に渦を巻く火焔に向って、少年は挑む様に走った。両手(もろて)は空(から)、強く握り締めて駆け抜ける。心の傍らにヴァレーツが居る。奴の戦友は来た。自らの身の証を立てる為に、元戦友の息の根を止める為に、本国から遠く離れた飛び地まで遣って来た。させるものか、とイナークは誓う。かつて、自分と友とを殺しかけ、又命を救った男に対して、どうして其処まで尽くすのか? 自分が救われた其の場所で死んだ友の身代わりか。少年には他に誰も居ないからか。其れとも男がお人好しだからか。では何故、昔孤児の群れへ無造作に犬を嗾けた男が現在無類のお人よしで在れるのか? 男は変わった。あの時、友が死んだ事実を全肯定する事で責任を取ろうとする不器用な純粋を慰める事も出来ずに抱き締めた時、彼は人を見出したのだ。其れは尊敬に足る、儚い者だった。そして、ヴァレーツの変化をイナークは赦した。させるものか今度こそ、とイナークは友に誓う。行(ゆ)き交う人々は燃え盛る空へ直(ひた)走る少年に気を留める事も無く通り過ぎて行(ゆ)く……。
 彼は警察庁庁舎を一望出来る高層住宅のエレベーターに飛び乗ると小さな声で呪文を詠唱し、古ぼけた電灯の下、気持ちを落ち着けた。「謳え、謳え、まつろう民よ……」最上階へ着くと屋上へ通じる階段まで早足に辿り着いた。一気に登り詰め、錠を焼き切って扉を蹴り飛ばした。突風が彼を攫おうと全身を覆い、吹き抜ける。彼は構わず、屋上の端までやって来て、以前から定めておいた狙撃位置に身を横たえた。
 警察庁庁舎広場前には黒塗りの車が幾台も停車している。庁舎の入り口に通ずる大きな階段を十数名の幹部に囲まれたニヤーグ・ポーファらしき人物が軽快な足取りで歩を進めている。談笑でもしているのだろうか。
「主(あるじ)の帰還を知らしめよ。其の名を忘れた御敵に、全てを思い出させるが良い……」
 彼は再び呪文を詠唱し、無心に相手との距離を見極めていた。
「……民よ。大声を上げて夜を呼びながら泣いている子供を見よ! 暁も知らぬ子守女の手に有る短い蝋燭の影を追え!」
 彼は有らん限りの息を吐き出した。
 上空で待機していたヴァレーツは幹部の中心人物を一目でポーファと認めると、コートのポケットに手を突っ込んでイナークの援護を待っていた。裏切る方と裏切りに報いる方とではどちらの憎悪が勝るだろうか? 勿論、後者だ。裏切る方と裏切りに報いる方とではどちらが責任を負うべきだろうか? 勿論、両者だ。『責任』 彼の愛する少年は全てを積極的に肯定する事で責任を果たそうとした。それで、自分は? ポーファに裏切られて良かった、と。ポーファに仇す事が出来て良かった、と。あの裏切りとこの報いに対して存在する全ての犠牲に、お前は犠牲になって良かった、と言えるだろうか? 当然、責任の取り方は一様ではない。しかし、其れだけの覚悟が必要である事は事実だ。
(感傷は、無用)
 風が強く吹いている。コートの裾と襟の一方がはためく。闘志が寒さを和らげる。胸が、熱い。其の時、眼下に焔の飛礫(つぶて)が煌めいた。 
 ヴァレーツは両腕を広げ、降下を開始した。彼は眦を怒らせ、食い縛った歯の隙間から息を吐き出しながらぐんぐん近付く大地から決して眼を離さず、ポーファの頭上辺りに位置を定めると魔法で更に加速を加え、地上から幼児一人程の背丈を残してポーファの背後に飛翔した。振り向こうとするポーファの頭を左手で押さえ、右手を首に巻きつけた。成功に瞳をぎらぎらさせながら、彼は大きく息を吐き出した。ポーファが息を楽にしようとヴァレーツの腕を叩き、手首を掻き毟る。
 シュトラーダル達を乗せた数台のトラックが広場に躍り出た。暗褐色の作業着を着た労働者達を引き従えて、ど真ん中に陣取る彼が片手を上げ、制止させる。機を見て庁舎に潜んでいた警官隊が飛び出し、シュトラーダル達と挟撃する形を取った。ニヤーグの部下は正方形のコンクリートを敷き詰めた地面に未だちろちろと燃える炎を見、既に破壊された地面から身を擡(もた)げた。
「動くな。例の短剣を寄越せ。誤魔化せると思うな。俺の足元に投げろ」とヴァレーツが腕に力を込めながら恫喝した。
 将官が儀礼用の短剣を投げ、十数本が集まった。どうやら下士官には支給されない物と見える。其れをシュトラーダルが工場長達に拾わせる。短剣を拾うと、彼等は何を言われずとも労働者達の背後にそそくさと隠れた。
「やれ」傲岸な面持ちのシュトラーダルと精悍な顔付きの警官隊隊長、瞳に憎悪を燃やすニヤーグが同時に命令を発した。労働者達と警官隊が夜帽達を全力で踏み拉(しだ)くべく、互いに突撃した。
 ヴァレーツはばね仕掛けの様に勢い良く上空に飛翔した。
 ガンッ、と分厚い鋼鉄に鉛玉が当った様な音を立てて、打ち込まれた弾丸が弾かれた。シュトラーダルに発砲した夜帽は呆然とした面持ちで絶対防御の魔法使いを見詰めた。シュトラーダルは全身から闘争心を剥き出しにして愉快そうに笑って、不遜に天を仰いだ。
「我が名はシュトラーダル! 魔弾の射手にして其の首領なり!!」
 誰も無視する事など出来ない大音声が闘争の最中に暴徒達の耳朶を強烈に打ち、表皮を痺れさせた。誰もがシュトラーダルに顔を向けた。シュトラーダルは全く躊躇せずに暴力の只中に力強く大地を踏み拉いた。
 まず、シュトラーダルに弾丸を撃ち込んだ男が行動に出、拳銃をシュトラーダルの頭に叩き付けようと大きく振りかぶった。シュトラーダルが無造作に手刀を振り上げると、其のがら空きの腹部が斜めに切り裂かれ、男の背後が丸見えに成った。其の切り傷は誰の眼にも明らかな程はっきりとした一本の線だった。益々訳が解らないと言う表情で夜帽は口から血を垂らしながら闘争者の中に斃れた。今、彼は世界から其の席を譲る事を強制されたのだ。空間に事物が存在する時、空間は事物の形に切り取られている。其れが世界に用意された席である。人一倍自尊心の強いシュトラーダルは其れを強烈に自覚している。其の自意識が彼の魔法の攻守である。誰にも彼の席を脅かす事は出来ない。労働者達がシュトラーダルを賛美すると共に彼等の闘争心を燃え上がらせるべく、凄まじい雄叫び声を上げた。其れに呼応するかの様に、暴力が再開された。其の光景に焦りと怒りを持って諦観しているのは、階段上の警官隊隊長ただ一人だった。



   だから、終わる

 惨劇の庭を後にしたヴァレーツとニヤーグ・ポーファは雲一つ無い空の只中に在った。冷徹な瞳と苦悶の瞳が同じ空を見る。届けば触れられる様な鮮明さと鋭い寒風の中、立体的な青を見詰めていると、周囲が自分を渦巻くのか自分が周囲に迫るのか解らなくなる。大地から遠く離れ、頭上に太陽を戴いているが、暖かいのは互いの体温だけ。飛翔が頂点に達した一瞬にこれから始められる事件と今迄起こっていた事象が介在した。其処には何もかもが在った。其れは永遠である。しかし、永遠は失われなければ其の存在に気付く事は無い。其の時は只、通り過ぎていった。ヴァレーツは其れ迄ポーファの首を締めていた腕を緩めた。激しく噎せ、目尻に涙を滲ませて涎を垂らしながらポーファが腰に吊るされた短剣に手を伸ばそうとした。
「止めろ。俺と心中したいか」
 ポーファは自嘲気味に嘲笑すると「出来まい」と擦れた声で言った。
「解ってるんだよ! デカブツ野郎! 俺の短剣を奪わなかった理由も今斯うして俺を殺さないでいる動機もな!」彼は均整の取れた輪郭の美しい顔を憤怒で彩った。ポーファが暴れるのでヴァレーツは彼を支え直さなければならなかった。「俺が以前、短剣を使わなかったのは、俺が人間だからだ! 人間としての矜持だよ!」
「では何故今、其の短剣をぶら下げているんだ?」ヴァレーツはポーファの後頭部に話し掛けた。
「お前が魔法使いだったからだ! 他に理由があるか? 戦場でのお前は弾薬(タマ)なんかじゃ無かった」
 敬慕。今では嫌悪。ニヤーグ・ポーファにとって、嘗(かつ)ての戦友は、当時確かに戦友であった事に間違いはない。魔法使いと言う口実が彼の歪んだ憧憬を昇華させ、今の社会的地位の基礎固めをした。彼は自己の精神を守る為にもヴァレーツを殺さなければならない。
「で、魔法使い対人間の戦いが始まるのか」
「そうだ」ポーファは息苦しそうに身を捩らせた。「もう会話は終わりだ。俺から短剣を奪うんだろう?」
「そうはさせないだろう?」
「だから、俺とお前は墜ちるんだよ。ヴァレーツ」
「だが、ポーファなら諦めない。何か計算がある」
「俺にはお前の考え位、解るがな。勝負だ」快晴の空を睨むポーファの顔面に汗が伝った。
「乗った」ヴァレーツは平然と応えた。
 シュトラーダルとの仕事を果たすだけなら、ヴァレーツが勝負に応じる必要は無かった。ポーファが短剣を使おうと対処法は幾らでも考え付く。彼が短剣の柄を掴もうとも、自分から引き離して先に死なせるなどすれば済む話だ。ポーファが勝負と言う言葉を持ち出したのも単なる計算の一つだと言う事は理解している。現在、一方的にポーファが不利だ。だが、ポーファは諦めない。其れがヴァレーツの唯一の作戦だった。勝負に持ち込みたかったのは彼自身であり、其の為に無駄に命を賭けたのである。戦友の為に。かつての彼等の様に利己心など置いてきぼりにして命を賭けた。此れがヴァレーツのポーファとの決着の付け方だ。何もかも無駄尽くしかもしれない。ポーファの思惑とは天地の差だろう。彼が狩る魔法使いはヴァレーツが最後では無い。一方、ヴァレーツが己の命を賭けてまで殺す人間は彼が最後だ。心の彼我の相違が悲しい程ではないか?
 ポーファは柄に手を掛けた。ヴァレーツは自分の中で力が切れてしまうのを感じた。再び飛翔しようと力の切れ端と切れ端とを繋ぎ合わせ様と懸命に頭を働かせ、先程とは打って変わってヴァレーツの胴体に激しくしがみ付いて来たポーファは成すが儘に任せておいた。彼らが助かるにはヴァレーツの魔法しかない。しかし問題は発動のタイミングだ。ヴァレーツは魔法を発動し直すので頭が精一杯だが、ポーファは必死に計算していた。本当の勝負は大地に降り立ってから、短剣が物を言うだろう、と。


「ベロー嬢! ベロー嬢! 私達はこんな事を望んでいた訳ではないんです!」
「トラックの下からお頭(つむ)をお出しなさいますな。流れ弾に当りますわ」
 そう言うと片手で流れ弾を掴んで地面に捨てた。工場長は不様な程、慌てて、トラックの下に頭を戻した。今、其処で工場長達全員が犇(ひし)めき合って、乱闘から身を隠している。ベローはトラックに寄り掛かって腕を組み、彼等を暴徒から守る為に傍で待機していた。勿論、其れは建前上の仕草であり、本当の仕事は工場長達を此の場から逃走させない為の安全弁である。闘争に勝利した暁には粛清が待っている。
(勿論、手を汚すのは私達では無い)
 ベローは魔法が唸り、弾丸の飛び交う戦場を凝視した。乱闘に混乱した意志の固まりが一つの流れの下に動く。其処にちょっとした空間が空いている。
(シュトラーダル……アングのマスター……)シュトラーダルは彼を恐れて及び腰の敵に容赦無く手刀を振るい、敵がドサリドサリと崩れ落ちていく。(お強い方。そして、お偉い方。私達に安楽の家を提供して下さる)アングが彼を慕うのも解る。彼は賢いだけでなく、とても優しい。社会のあぶれ者である下級魔法使いを援けてくれる。其れだけに留まらず、シュトラーダルには野心もある。(殿方には其処も魅力でしょう。私にとっては頼もしくもあり……)其の次の言葉が出て来ない。ベロモルカナルはシュトラーダルに負の感情を持ちたくなかった。彼には有無を言わせぬ魅力がある。穏やかで包み込む様な瞳と柔和な態度、時としての激情。では、彼女は彼に対して何を抱けば良いのか。換言すれば、何を期待すれば良いのか。『魔導師』でも、ベロモルカナルにとって手を携えて歩みたいのはアング・ツァング、只一人だ。アングが居ないととても心細くなる。でも、彼の傍に居ると少し不安になる。彼女が此処に居る意味は「或いは存在する筈の無かった者達」である非人にしかないのだ。(二人が私を連れてきた時、アングは生まれたばかりの私に名前を聞いたわ。決して名付けてはくれなかった)其の現実が彼女をして孤独にさせる。保証が欲しい。受け入れられたのだという保証が。でもそんな物は何処にも無いのだ。(空虚ね。いえ、虚無?)
 彼女は被弾したトラックを見た。自分の直ぐ脇の弾痕には弾丸が貫通せずに縮こまって減り込んでいる。彼女は熱い弾を素手で穿(ほじく)り返して、表情一つ変えなかった。(あなたは私を生かしも殺しもしないわね……アング)
「ベロー嬢! こんな恐ろしい短剣は差し上げますから! だから」
 彼女は心持ち眼を見開いてトラックの下へ首を向けた。
「いいえ」彼等の運命に関心を向けず、其れでいて力強く拒否する。「お持ち頂いて」
 工場長達は現状の恐ろしさにすすり泣き始めた。其れを確認すると彼女も乱闘に加わろうと一歩踏み出した。他に何をすべきだろう? 解らない。解らなくて笑えてくる。アングの為に。
「ベローさん!」
 ハッと眼を凝らすと空間の狭間でシュトラーダルがベロモルカナルに微笑みかけた。
「行きなさい。ツァング夫人。行きなさい」
「マ、ス、ター……」
 尾を引く様な声で彼女は自然と呟いた。そう、彼女が歩を揃えて寄り添うべき場所は他にある。アングを守る。其れは物理的にでもあり、精神的にでもある。命など無関係だ。彼が希むなら。彼の希が彼女の希。彼女の希は彼の希ではない。彼女はアングの命を守りたかったが、アングはベロモルカナルに命を守って欲しいとは思っていない。力に成って欲しいのだ。アングの欠陥を埋める為に。今、其れがはっきりと解かった。魔導師シュトラーダルが道を示してくれた。彼女は深く頷くと大きく跳躍した。
「其の日、主(あるじ)が全てを裁かれる!」
 ベロモルカナルの呪文は、裁きの日の到来を天から告げる音色の様に、透き通った声音で発せられた。其れは彼女の内部から出た物であり、外部から取り入れられた物でもある。発せられた熱が唇の辺りに漂い、震えている。ベロモルカナルはぞっとして息を吸い込んだ。最早、呪文は不要だ。其れ此処に、彼女の内部に既に在る。彼女は其れを誰にも渡す気は無かった。
 アングはシュトラーダルの部屋でもう幾度と無く紫煙を呑み込んでいた。生命を賭した行為にしか意味は無い、と彼は体現していた。しかし、現在の生命の賭け方の無意味さには、彼の本意に関わらず、生命への侮蔑が含まれていた。或る意味に於いて彼は英雄気取りの死にたがりであったが、其の周辺には本物の英雄が居た。突然、背後の窓が破られ、屋外の困惑したガヤガヤと言う喧騒が部屋に入って来た。アングは杖に手を伸ばし、鯉口を切る様に短剣を筒の中で回転させた。
「あなた」
 硝子片を煌めかせて翼の様に纏わせながら、背後から良人をベロモルカナルが抱き締めた。アングは首を捻ってベロモルカナルに接吻した。
「やっぱり、来てくれたね!」
「勿論よ! 何処にでも居るわ。何処へでも連れて行くわ。解かってちょうだい」
 ベロモルカナルはアングを強く強く抱き締めると首筋に額を擦り付けて涙を滲ませた。ベロモルカナルは、彼が死の淵に赴きたいと願うなら死の淵まで連れ立とうと笑顔で心に誓った。
「さあ、行こう」
 手に手を取って幸せそうに走り出す男女二人の後には、粉々に打ち砕かれた硝子が大地にばら撒かれた氷片の様につやめく個体を横たわらせていた。


 ポーファは地面すれすれで短剣を手放した。瞬間、ヴァレーツが急激に飛翔した為にバランスを崩した二人は夫々左右に吹き飛ばされ、まるで車輌と衝突した様に地面に転がった。ニヤーグ・ポーファを助け起こそうとする部下の手を彼は払うと若干、傾(かし)ぎながら立ち上がり、短剣を抜き払った。しかし、其れを用いる間も無く、轟音一発発射された銃声が陰々と響き渡った。
 ヴァレーツ片肘を付いて上体を起こした恰好で拳銃の引き金を引いていた。其れは狙い違わずポーファの心臓を貫いた。ポーファは其の血痕を見、ヴァレーツが口元から一筋の血を流して苦しそうに歪めた顔の視線と眼が合うと全てを悟った。人間対魔法使いの戦いではなく、戦友対戦友同士の戦いだったのだ、と。ポーファは先程言った。「戦場でのお前は弾薬(タマ)では無かった」と。ヴァレーツは人間の武器を用い、魔法使いとしての自負を捨てた。弾薬(タマ)と見下される魔法使いが拳銃の一発で勝負を決める。其の心は戦友への決別と、かつての自分が本当に人間の仲間だったのだと顕していた。
(ヴァレーツが魔法使いである事に拘っていたのは、俺だ)彼はゆっくりと大地に倒れこみながら末期に思った。
「馬鹿め」
 もっと、語り合うべき事があった筈なのだ。胸の内で燻る感情が。何を語っても構わないからもっと多くの言葉を費やすべきだったのに。思惑を計算するよりも早く放たれるべき言葉。上空で闘争の場を離れた時が最期の機会だった。裏切るのと裏切られるのとではどちらが先か? 勿論、其れは永遠の謎だ。
 イナークが広場に到着した時、激しい衝撃音と指揮官の死亡とで夜帽も労働者も警官も闘争を止め、固まっていた。しかし、最後の仇とばかりに夜帽の方が早く、闘争を再開した。未(ま)だ、地面の上で呆然と銃を構えるヴァレーツに敵が殺到する。
「ヴァレ――ツ!!」
 イナークはヴァレーツを中心に火焔を舞わせた。周囲の事物を容赦無く焼き払い、ヴァレーツの下に駆け付けた。ヴァレーツの横に跪くとヴァレーツの頭を掴んでこちらを向かせた。
「イナーク……?」
「そうだよ。怪我してるのか? 何か必要な事は?」
「祈ってくれ。奴の為に祈ってくれ。俺はもうその様な身上(しんじょう)には無いのだ」虚ろな瞳が虚空を見た。
「良いよ。ヴァレーツ」少年は何も尋ねずに、只優しく応える。拳銃をヴァレーツの手から抜き取った。「撃ち方を知らないから教えろよ」ヴァレーツの瞳に再び知性が煌めいた。「今は返せ」ヴァレーツの声音も又優しい。
 拳銃を受け渡した処で、二人はシュトラーダルに気が付いた。彼があの偉大な声で勝利宣言をしようと、謳う様に口を開いた。と、『件の短剣』を持った警官隊隊長が、シュトラーダルの脇腹に短剣を突き刺した。
「悪いな。俺達はお前達ごろつき程、腐ってはいないのだ」
 公権力は処世と手を組むのを善しとしないと言う訳だ。
「……チェ……」シュトラーダルは顔を背けた。「またやり直しか」
2013/11/15(Fri)10:50:04 公開 / べゲモート
■この作品の著作権はべゲモートさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
はじめまして。べゲモートと申します。

よく読み難いと言われる作品では御座いますが、多少でもお読み下さり、ご感想を頂ければ幸いです。

宜しくお願い致します。
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