- 『この鐘が鳴り終わったら』 作者:長崎 灯 / リアル・現代 ファンタジー
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原稿用紙約9.7枚
世界最後の日。二人の少女は話す。話す。話す。ウィスキーを片手に、誰もいない教室で。
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鐘が鳴っていた。夕方の礼拝の時間なのだ。後輩たちはみな、聖堂に集まっているだろう。
主曰く、神は人を愛してお造りになった。
けれど一部の者は、神に離反した。それ故、神は彼らに火を与えた――。
扉の影から顔を出したのは、猫みたいに大きな目を輝かせた晄子だった。
「ねえ、六〇年もののウィスキー!」
「うわぁ。どこにあったのそれ。校長室? 理事長室? まさか牧師様のお部屋?」
「うふふ。それがね、理科室」
「うそ」
わたしは、受け取ろうとしていた琥珀の瓶から手を離した。サイコパスな研究者たちが、美酒を美酒のまま置いておくわけがない。ライ麦と麦芽の酵素、そして蒸留された純度の高いアルコール。それがウィスキーの主原料のはずだけれど、目の前にあるものは、きっと違う。アルコール少々と、有象無象の原子たち。場合によっては有機毒物かもしれない。
「晄子だけでどうぞ。わたし、いらないわ」
「ばかね。ほら、ここ。ちゃんとしまっているでしょ。それも消費期限は来年の三月。これだけ取っておいたのでしょうね。先生たちも変な期待をするわ」
「あなたね。蓋を接着しなおすくらい二〇〇年も前に開発された技術でしょ。今さらだわ」
「あんたこそ今更よ。なかに入っているのが何でも、もう関係ないのに」
晄子は心底呆れたという顔をする。まぁ、確かに関係はない。サイコパスの作ったアルコールもどきで死ぬか、ほかの方法で死ぬかの違いなのだから。
晄子は人気のない教室にあぐらをかく。お嬢様風のスカートが惨めに開き、その上でキュッキュと蓋が回った。瞬間、熟成された酒特有の濃厚な甘い香りが漂う。
「うーん。いいね。これ」
「いいわね。いい匂いだわ」
「ほほう。飲む気になった?」
「まさか。わたし、乾杯ならするけれど、献杯はしない主義なの」
横を向くと、晄子がのどの奥で笑った。晄子は学生鞄の中から水筒を取り出す。あの日、晄子が持ってきた鞄には、あの日、晄子が親から、あの日の以前と同じように普段通りに持たされた水筒が入っていた。
晄子は水筒の蓋にウィスキーをなみなみと注ぐ。ぷはぁと、晄子が息を吐いた。
「情緒がないわね」
「もう見合い相手もいないしね。猫をかぶる必要もないってものよ」
「だからといってあんまりだわ。ここはこの国最後のプロテスタント系の学校なのに。パンツ、見えているわよ」
「サービスよ。ついでに言っておくわ。あたし、咲子はもうこの教室には来ないと思う」
「……うん」
うん。と言ってから、わたしは、わたしがまだそのことを認めていないことに気付いた。
うん。そうね。わたし、晄子が死んだこと、認めらなきゃいけないのね。でもそれを信じたら、ほんとうにほかの信じたくないことすべて、信じなきゃいけない。
「ねえ、晄子。世界はほんとうに終るのかな」
晄子はしばらくしてから、
「終わるだろうね」
とぽつりと答えた。
あの日、わたしは補習の為に朝早くに学校に来た。
聖書、幾何学、古典、科学B、地理B。
つまり、第二外国語を除いた四教科と、この学校の教義についてシスターたちに教えを乞いに来る予定だったのだ。咲子は、どうやったらこんなにひどい点が取れるのよ、とわたしの答案用紙をみて言った。その顔は絶望的と言っても良かった。わたしたちは、二人、学校を抜け出して市内に遊びに行く約束をしていたのだ。『五時限目に、こっそり聖堂から入りましょう、牧師様にお願いして』 咲子は優等生の顔をして、そうささやいた。
わたしは、よほど、申し訳なさそうな顔でうなだれていたのだろう。咲子は慌ててまた今度一緒に行きましょう、といった。その今度は、もう来ない。
バレーボール部のエースで誰よりも早く朝練に来た晄子。劣等生のわたし。朝の遅い受験生の中で、あの閃光から生き残ったのは、わたしたち二人と、あとは数人だけだった。わたしと晄子以外の上級生は、みな、聖堂に集まっている。
晄子の顔には、痛々しく包帯が巻かれていた。けれど咲子や、他の友達たちは、通学途中に制服のまま、家族に看取られることなく死んだのだろう。
あの日、しばらくの間流されていたテレビには、市内の惨々たる様子が映されていた。わたしたちの学校の制服を着て、倒れているものもいた。わたしはそれを、『もの』と呼ぶことしか出来ない。
「ねえ、咲子はまだ生きているかもしれないよ」
唐突に顔をあげて晄子が言った。晄子も、ほかの生徒と同じように、おかしくなったのだろうか。建物自体は残ったこの学校だって、市内側は、町行く人の焼け果てた姿で惨状なのに。
「だって、咲子の死んだ場所、わたしたち、見ていないじゃない」
「ばかよ。今更。あと六分でしょう。飲むなら、早くしちゃいなさい」
「あ。急がなきゃ。……でも、ねえ、咲子はまだ生きているのかもしれないよ」
「ばか」
「だって、咲子がそこにひょっこり顔を出してくれたら、また、あの日の前に戻れそうじゃない。うえ、昔より落ちたとは言え、高いよ、度数。二日酔いになっちゃう」
「ならないし、もうシスターに怒られることはないわ。それはいかもしれないわね。あと五分」
「え、ちょっと、早いよ」
顔を真っ赤にした晄子が、とぽとぽと水筒の蓋に琥珀色の液体をあける。
晄子の母も、わたしも、晄子自身も、そして咲子も、シスターも、泣いている下級生たちも、こんな日が訪れるなんて思いもしなかっただろう。
わたしは、きっと、最後までこれが現実だと分からずに死んでいく。
ああ、なんて恐ろしいことだろう。神様に、今までの行いを尋問されて、わたしたちはこう答えるのだ。「わたしは、なぜここにいるのですか?」七〇億人の人間の困惑した顔をみて、神様は、逃げだすかもしれない。
「何を笑っているのよ、あんた。あと一〇分くらい?」
「現実から逃げないで。あと、四分二八秒」
「もうっ。つまみがほしいわね。さきいかとか」
「するめとか」
「まぐろの缶詰のマヨネーズあえ」
「かにかまでもいいわ」
「趣向をかえて冷奴。しょうがをたくさんのせてねぎを刻むの。醤油は蠣しょうゆで、ちょっともみじおろしも加えるのよ。どう?」
「最高ね。わたし、手羽先のチーズあげ。また食べたかったなぁ」
「最後がウィスキーだとは思わなかったよね」
「ほんとうにね」
晄子もわたしも、いったい何を話しているのかしら。もっと話さなければいけないことはたくさんある。来年の二月に控えていた受験。わたしはアメリカ、咲子はドイツ。晄子は日本の体育大学に、学生兼助手として入学を目指していた。この国も飛び級と秋入試を認めるようになって、随分活躍の場を広げているのだ。
わたしとわたしのお母さんの不和。お姉ちゃんの生まれるはずだった赤ん坊。ブランコ。髪の毛。咲子の脚。手。指。恋。喧嘩。みんなどこへ行ってしまうのだろう。
鐘が鳴っている。鳴り響くのは、下級生たちの泣き声をかき消すためだろうか。それとも、この世の中で最後に、平和を祈りたかったのだろうか。
わたしも晄子も、あの国同士が戦争をしていたことは知っていた。でも、まさかあの兵器を使うと思ってはいなかったし、その威力について無知だった。自分の学校が、家が、同級生が、わたしが、被害にあうとは思わなかった。だって、たくさんのほかの国と海とと、そしてたくさんの見知らぬ人々を、武器はまたいでいた。
まだ生き残っているひとたちも、次の投下で消えるのだろう。こんなにきれいに、素早く、一瞬よりも少し長いだけの時間で終わる。
「ねえ」
猫の目をした晄子が、わたしの呼びかけを聞いて、同じように空中を見つめる。そこには、咲子と晄子と、わたしが歩いた、たくさんの日常が広がっていた。
この鐘が鳴り終わったら、わたしたちの世界は終わる。
(了)
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2013/08/07(Wed)22:03:54 公開 / 長崎 灯
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■作者からのメッセージ
ありがとうございます。
日常が終るのは、一瞬のことでしょう。
彼女たちのように、ウィスキーを飲んだり、友人と語らう時間もないかもしれません。
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