- 『蛍とケロ太と天然パーマ。』 作者:神夜 / リアル・現代 ホラー
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全角17321文字
容量34642 bytes
原稿用紙約49.7枚
祖母が他界した。
しかし別にそれ自体は不思議なことではない。年齢も正確には憶えていないけど結構な高齢だったし、「お婆ちゃんが亡くなった」と母から聞かされた時も「あー……そっか……」と、特に取り乱すこともなかった。ただ、祖母が嫌いだったとか言う訳でなく、新幹線で三時間も掛かる離れた場所で暮らしていた祖母が「亡くなった」と言われても実感が持てなかっただけである。
祖母に対する記憶は、小学生くらいの時が一番多い気がする。子供の頃はよく祖母の家に泊まりに行っていたりしたが、中学生になり、そして高校生にもなればそうそう祖母の家に遊びに行ったりはしなくなっていたし、祖母に会うのなんて一年を通してお盆と正月くらいだった。
子供の頃の記憶を思い返すと、祖母は少し変わった人だったように思う。
どう変わっていたのか――、そう問われると返答に少しだけ困るが、それでもただの一言で言い表せる。
祖母は所謂、「幽霊が視える人」だった。
いや、正確には「幽霊が視えて、幽霊と喋れて、幽霊と触れ合える人」だった。
が、そんなことを真に受ける人間なんてほとんどいないだろうし、実際、親戚連中は軒並みそんな祖母のことを気味悪がったり呆けているのだと思ったりしていた。祖母と幽霊の関係について普通に信じ込み、特に違和感もなく接していたのなんて親戚連中を見回してもウチくらいのものである。
しかしそれにはちゃんとした理由があって、他界した祖母は父方の母であるのだが、その父は幼い頃、祖母の言う幽霊に命を助けてもらったことがあるらしい。それ以来、父は幽霊に対して素直に感謝するような純粋な人間であり、その詳細については詳しく教えて貰ってはいないが、事ある毎に父は「だっておれあの時、視てはないけど幽霊に触っちゃったしなぁ」と頭をぽりぽり掻きながら言うのだ。そんな父も父だが、母も母で素直でありどこか抜けている母で、「お父さんとお婆ちゃんがそう言うならいると思うわよ。それにだってほら、テレビでも幽霊いるって言ってるじゃない」と笑顔で言う。
そんな父と母の下で育てば自然と「あ、幽霊っているのか」と思うのは子供ながらに当然のことで、なおかつ祖母の家に行く度、祖母はいつも両親には内緒で密かに手品のような不思議な現象を幾つも見せてくれた。例えば祖母が手を叩けばどこからともなく足音がするし、祖母が手を叩けば椅子が宙に浮くし、祖母が手を叩けば割箸が綺麗に割れるし、祖母が手を叩けばドアや窓が開閉するし、祖母が手を叩けば独りでにお茶や味噌汁が出来上がるし、祖母が手を叩けば野良猫のトラ介の尻尾が天然パーマになったりする。
子供の頃はそんな出来事に対して一喜一憂し、目を輝かせて拍手して「ばあちゃんおれにも! おれにもやらせて!」と一人で大いに盛り上がり、ばっちんばっちんと手を叩いてみたものの何の変化も現れず、それに対して「ばあちゃんだけズルイ!」と勝手に切れて大泣きして、終いには押入れを不法占拠して立て篭もった挙句、しかし尿意の我慢の限界を迎えてトイレに行く途中で祖母に「お菓子あるけど食べるかい?」と言われ、それまでのことなど一瞬で忘れて煎餅を一緒に食べていた。
今にしてよくよく思えばそれらの現象は物理的に有り得ないことが多々あったのだが、子供の時分ではそんな分別もつかなかったし、それにもともと「幽霊はいる」と信じ込んでいた手前、何の違和感もなかった。
祖母はずっと田舎の一軒家に独りで住んでいた。
顔を知らない祖父はもうずっと前に他界していた。
何度か祖母に対して父が「一緒に住まないか?」と持ち掛けていたはずだが、祖母は笑顔で「ここで暮らすよ。この子たちがいるから寂しくないからねえ」とやんわりと拒否し、そう言われればこちらとしても「まぁそうか」と言うより他に無く、最後まで同居することはしなかった。
祖母の死因は老衰だった。苦しんだ様子もなく、安らかな寝顔のまま逝ったのだと聞かされた。
ただ、葬式の時には変な噂が流れていた。
祖母は一軒家に独り暮らしで、近所付き合いもあるにはあるが、毎日という訳ではもちろんない。だからもし誰にも知られず老衰で逝ってしまったとするのであれば、その遺体が発見されるまでには時間を必要とする。しかし、祖母は亡くなったその日に、正確には亡くなった約一時間後に、近所の囲碁仲間である吉岡さん六十八歳によって発見された。
吉岡さんの話によれば、その日の朝方、玄関を小さくノックする音で目が覚めたらしい。時刻は早朝の五時半。寝室から玄関へ行ってドアを開けると、そこには赤い着物を着た小さな女の子が一人。見たことがない子供だった。田舎であれば子供の顔なんてほとんど見知っているはずだが、その子は見たことがなかったという。玄関で対面した吉岡さんは最初、その子は迷子か何かだと思った。それ故にそのことを尋ねようとすると、女の子は吉岡さんの寝巻きの裾を掴み、どこかへ引っ張って行く。不思議に思いながらも吉岡さんは付いて行き、そして辿り着いたのが祖母の家だった。どうしてここへ連れて来たのか、吉岡さんがそう尋ねようとした時にはすでに、その女の子はどこにもいなかった。後に吉岡さんは、「あの子は人ではないけれど、悪いモノではなかった」と語った。その話を聞いた周りの人間の反応は様々で、感動する者もいれば気味悪がる者もいた。が、しかしやはりそこはウチである。その話を聞き、「ああ、やっぱり婆ちゃんは独りじゃなかったんだ。看取られて逝けて良かった」と心底思った。
そんなことがあったにせよ、葬式は滞りなく終わり、最後に祖母の遺影が飾られた仏壇に家族揃って手を合わせた。
その時、ウチの家族全員が、祖母の声を聞いた。
全員が同じ言葉を聞いていた。
……すまないねえ……。この子たちのこと、頼めないかい……?
その言葉が何を意味するのかは、何となく判った。
家族揃って目を見合わせた後、遺影の中で笑う祖母に向かって頷いた。
――そして、それから約半年後の現在。
祖母の家は当時のままに残してある。
祖母の遺言のようなあの言葉に従い、ウチでは定期的に誰かが祖母の家に訪れ、掃除等をするようになった。
そうした日々が過ぎる中で、判ったことがある。
どうやらこの祖母の家には、少なくとも、
一人と一匹の、――幽霊が、いる。
「蛍とケロ太と天然パーマ。」
色褪せた蛇口を捻る。冷たく澄んだ水をアルミ製のバケツに貯め、家から持って来た雑巾三枚を中へ投げ込む。ある程度水が溜まったら蛇口を閉め、それなりの重さになったバケツをせっせと運ぶ。縁側まで辿り着いたところでバケツを下ろし、中から雑巾を一枚だけ取り出して絞る。大体長さ六メートルほどの縁側の端で姿勢を低くして位置を整え、一気に発進する。キアイを入れるために「うぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉ」と叫び声を上げてバタバタと四つん這いで走って行き、突き当たりまで辿り着いたらターンをし、今度は「とりゃあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁ」と叫び声を上げて突き進んで行くが、こんな姿を高校の知り合いに見られたらケツから火が出るほど恥ずかしいと思う。
四度目のターンをしてさらに突き進もうとしたその瞬間、ケツにいきなりずぶ濡れの雑巾が叩きつけられた。「どっせえいぃいぃいぃいぃいぃい」というキアイの叫びが途中で「ぃいぃぅひゃぁあんっ」とオカマにチンコを揉みしだかれた中学生みたいな悲鳴になった。突然のことであったがすぐに状況を理解して憤怒の形相で振り返るが、そこには当然のように誰もおらず、ケツの下にはびちゃびちゃの雑巾が無残にも転がっているだけである。
大きなため息を吐き出しながら雑巾をバケツの中に戻し、再び体勢を整えぃひゃんっ
ズボンどころかパンツまでもはやびちゃびちゃだった。堪らずに叫びを上げる、
「てめえこらケロ太ッ!! いい加減にすぶびゃっ」
今度は顔に雑巾がぶつけられた。顔面に雑巾を貼りつけたままぷるぷると震え、やがてその雑巾が剥がれ落ちた時になってついに堪忍袋の緒が切れた。縁側から座敷に入って行き、仏壇の下にある引き出しからお香を取り出す。傍にあったマッチで火を点け、手に持ったまま再び縁側に戻る。
「今ならまだ許してやる。だが謝罪をしないならこっちにも考えがある。婆ちゃんの頼みでも限界があるんだ。成仏したくなけりゃ早く跪いておれに許しを」
ジッ、と音を立ててお香の火が消えた。
消えたと思った瞬間、いつの間にか宙に浮いていたバケツが頭上にあって、それがそのまま引っ繰り返った。
悲鳴を上げる間も無かった。
◎
家族で祖母の遺品を整理している中で、居間の箪笥の奥から何十冊もの日記帳を見つけた。どうやらその日記は父が生まれた時からつけられ始めたものであるらしく、相当な量であった。さすがに今もまだ全部を読むには至っていないのだが、ある程度流し読みをした中で判ったことがあった。
この家にはどうやら、人間の幽霊と、犬の幽霊がいるらしいということ。
祖母の日記から読み解くに、人間の方が「蛍」、犬の方が「ケロ太」という名前だそうだ。
祖母の死後、すでに半年以上経っているのだが、未だにその蛍とケロ太の姿は見たことがない。「幽霊の存在」については信じているのだが、どうやら父や母を含め、自分達には所謂「霊感」と呼ばれるものが皆無であるらしく、その姿を見ることは未だに出来なかった。しかし、蛍とケロ太がこの家にいるのだと本当の意味で確信するのに、そう時間は掛からなかった。
簡単に言うと、どこからともなく足音が聞こえたり、独りでにモノが動くといった事態が多発したからだ。
端から見れば失禁するレベルの現象であるのだが、そこはウチである。誰一人特に動揺するでもなく、「ああ、本当にいるんだ」と実に素直に思った。無論、この蛍とケロ太が何かしらの悪影響を及ぼす、つまりは「悪霊」と呼ばれるモノの類であれば冗談事ではないのだが、そんなことは一切無く、今もなお家族は平穏無事である。
が、どうにもこの蛍とケロ太は、悪影響は無いが、悪戯好きであるようだった。
しかもその対象にされるのが、決まって自分だった。自分だけだった。
それどころか、父が祖母の家に掃除に行くと、最初に手を付けた所が終わって「さて次だ」と移動しようとすると、すでに家中の掃除が終わっていたりする。母に至っては家に入って掃除の用意をしている段階ですでに掃除が済まされ、居間のちゃぶ台の上には茶柱の立ったお茶が置かれている始末である。
にも関わらず、自分が掃除に行く時だけ、そんなことは全く無い。それどころか逆に雑巾を投げつけられたりバケツの水をぶっかけられたり急に髪の毛の一箇所だけが天然パーマになったりと邪魔ばかりされる。父と母に相談したこともあるのだが、二人は口を揃えて「いやいや。蛍とケロ太は優しいぞ」と信じてくれない。自分ひとりだけが、なぜか幽霊の蛍とケロ太に馬鹿にされているらしい。
そのせいで、今日も今日とて、ずぶ濡れになりながらも、何とか掃除を終わらせるのであった。
◎
「ただいまー……」
へとへとになりながら辿り着いた自宅の玄関を開け、もそもそとスニーカーを脱ぎ捨てて家に上がる。台所から漂って来る匂いから察するに、どうやら今夜はカレーであるらしい。
廊下を抜けてリビングに辿り着くと、最近買ったばかりの大きな液晶テレビからはニュースが流れており、脇には母がどこかから貰ってきたクマのぬいぐるみが鎮座している。対面のテーブルの端に座り込んだ父が新聞を読んでいて、そのさらに奥のキッチンでは母が鍋へと向かっておたまを回していた。息子が帰宅したことに気づいた二人がほとんど同じタイミングで「おかえり」と言った後、しかしすぐに髪の毛の一部が天然パーマになっている無様なその姿に気づいて苦笑する。
「なんだ恭介。またやられたのか」
父の言葉に肩をくすめることで返答とし、持って返って来た雑巾等が入った鞄を近場にあった棚の上に置く。
台所にいる母がおたまを回しつつ、
「蛍ちゃんとケロちゃん、元気にしてた?」
元気にしていたか。そんなのこの天然パーマになってしまった髪の毛を見れば判ると思う。
「……元気だったよ」
その覇気の無い声をどう捉えたのか、母は随分と上機嫌におたまを掻き回しながら「そう、よかった」と笑うのであった。
この両親に対して、蛍とケロ太がいかに凶悪であるかを説明するのはとうの昔に諦めた。もはや蛍とケロ太は二人の間ではまるで「孫」のような扱いになっているし、おまけに両親と一緒に祖母の家へ訪れた時は、一人と一匹は絶対に悪さをせず、物凄く大人しい。向こうも向こうで悪知恵が働くらしく、自分が一人の時にのみ、悪戯を決行する。本当に手に負えないと思う。
父の向かいの椅子に腰掛けてぐったりとしていると、母が台所からカレーを持って来てくれた。「ありがとう」と一言だけ添えてもそもそとカレーを食べる。美味しい。美味しいのだが、今日は本当に疲れたせいか、いつものように素直にご飯を楽しめないのが心寂しい。
そんな折、垂れ流しにされていたテレビが、こんなことを言った。
『本日未明、都筑市の住宅地にて空き巣がありました。警察の調べでは手口が同一であることから、連日の窃盗団の犯行ではないかと見て捜査を続ける方針です。また、まるで台風のように北上して犯行に及んでいることから、次に被害が予想されるのは隣接の県であり、近隣の住宅には戸締りや防犯対策の放送や回覧が流れており、犯罪を未然に防ぐ運動が――』
新聞を見ながらそのニュースを聞いていた父がふと、「ふむ」と言葉を漏らし、
「――これって、下手すると婆ちゃん家の近くにならんか」
カレーをもそもそと食べながらニュースを見続けていると、母が台所から顔を出して、
「蛍ちゃんとケロちゃん、大丈夫かしら」
いや大丈夫でしょ、と思ったが口には出さなかった。
祖母の家なんて田舎の一軒家で、おまけに人は住んでいない。そんな金目の匂いがしないところに窃盗団が入るとは考え難い。仮にもし入ったとしても蛍とケロ太は幽霊であるからして、捕まったりすることはないだろうし、それどころが逆に窃盗団の方が腰を抜かして逃げ出す可能性の方が遥かに高い。しかしもしその延長線上で窃盗団が捕まったりしたら、警察から賞状とか送られるのだろうか。でも幽霊に対して賞状って発行されるのかなぁ、とかのん気にカレーをもぐもぐしていると、唐突に父が「うむ」とつぶやきながら新聞をテーブルの上に置いてこっちを見た。
「恭介」
「やだ」
「おいまだ何も言ってないだろ」
「やだ。大丈夫だって。心配ないって」
「もしもがあるだろ、もしもが」
あったとしても大丈夫で心配ない、それどころか父の思惑を実行してもし万が一にでも窃盗団に遭遇した場合、そっちの方が危険極まりない。おまけについさっき、往復六時間も掛けて祖母の家から帰って来たばかりなのである、もう一回行って来いと言われてもそんな気力なんてすでに尽きていた。
もしもが、やだ、をひたすらに繰り返していると、台所の母がようやく意図を汲み取ったのか、
「じゃあ恭介。お小遣いあげるから行って来てくれない?」
心が僅かに揺らぐがその程度で釣られて、
「交通費込みで五万円。どう?」
心が劇的に揺らぐ、交通費を差し引いても一万円も余ってくる。一万円である。ちょうど欲しいゲームソフトがある。小遣いの日までまだ半月ある。しかし一万円あればそのソフトが買える。どうする。どうするべきか。行くか、行った方がいいのか、でも、
その時、リビングの電話機が唐突に「ピンポーン」と場違いな機械音を発した。来客の知らせであった。
はいはーい、とお玉をふりふりしながら母が玄関へ向かって歩いて行く。その後姿を見ながら、「行くべきか、行かないべきか」といつまでも悩んでいると、向かいに座っていた父が再びに「うむ」と大きく一息着いた後、
「恭介。判った。おれのへそくりからもう五千円出すから行って来い。母さんには内緒だぞ」
その台詞に心が決まったまさにその瞬間、
母が出て行った玄関方面から、いきなり突風が吹いた。
突然の出来事過ぎて、カレーの付いたスプーンを手に思考がフリーズする。開けっ放しにされていた玄関へと続くリビングのドアを見つめながら呆然とするが、それ以降、風が吹くなんてことはなかった。視線を移動させて対面に座り込む父を見ると、父もこちらとまったく同じような反応をしていた。
二人揃って首を傾げ、同時に口を開き掛けた時、玄関方向から母がおたまをふりふりしながら戻って来る。
「変ねー。誰もいなかったんだけど、さっきチャイム鳴ったわよね?」
鳴った。それは間違いない。そしてその後の、あの突風も間違いな
――違和感。
見慣れたリビング、感じ慣れた空気。ここにいるのは自分と、父と、母と、そして母が何処かから貰って来ていつ間にかテレビ台の上が定位置となったクマのぬいぐるみだけである。だけであるはずだった。なのに。
なんだ、これ。
たぶん、その場に居た全員が、同じことを思っていたはずだ。
家族三人が揃って目を見合わせ、首を傾げようとしたその瞬間、テレビ台の上に鎮座していたクマのぬいぐるみが急に立ち上がった。立ち上がったのも束の間、ゆっくりと一歩を踏み出したと思った次の一秒後には、いきなりそれが重力を無視して突進して来た。見たままであった。クマがこっちに向かって一直線に飛んで来ていた。たまったものではなかった。
悲鳴を上げる間も無くクマは突っ込んで来て、顔面にぶつかった際にバランスが木っ端微塵に破壊されて椅子から転げ落ちる。盛大な音を立てて床に転がっていると、顔の上に乗っていたクマが今度は暴れ出した。ふにふにのクマの手が振り上げられたと思った時にはすでに、目にも止まらぬワンツーが繰り出され、それが目に直撃した。ふにふにでも目に直撃したら痛かった。本当に、たまったものではなかった。
悲鳴を上げるこちらを無視して、クマはパンチを止めない。ワンツーの次はアッパーにフック、ボディにハートブレイクショットと見事なコンビネーションを魅せ、その様子を見ていた父と母が揃って「凄い」と唸り、
「いっ、いやっ、ちょっ、ちょっ、待っ、待ってっ、そんっ、そんなっ、そんなんいいからっ、たすっ、助けっ」
その言葉にようやっと父が我に返り、顔の上に乗っていたクマを抱き上げた。その途端にクマは大人しくなり、ピクリとも動かなくなってしまった。
静寂が空間を支配し始めた頃になって、ぬいぐるみのクマに散々殴り倒されたことに対するショックが湧き上がる。何でぬいぐるみにボコボコにされたのかがさっぱり判らない。マジで、としか思えなかった。人間や動物ならいざ知らず、生きてもいない布の塊であるぬいぐるみにボコボコにされるなんて夢にも思っていなかった。これならまだ幽霊の存在を信じる方が遥かに想定内の出来事で、
物事が一気に集約する。
ぬいぐるみが勝手に動くなんて、これは単純な心霊現象だ。
そしてその心霊現象について、心当たりなんて死ぬほどある。
違和感の正体が判明する。
ここにどうしてか、蛍かケロ太、あるいはその両方がいる。
そのことに気づいた瞬間、再びに部屋の中心から突風が吹いた。うわっ、と思った時にはもう突風は治まっていて、さっきまで感じていた違和感すらも消え失せていた。
部屋が先と同様の沈黙に支配され、床に座り込んだまま呆然としていると、父に抱き抱えられていたクマがそっと片手を上げた。それにビクッと反応すると、突然にクマが喋り出した。
「大変だ! すぐに婆ちゃん家に行ってくれ!」
腹話術にもなっていない父の裏声だった。
◎
半ば追い出される形で家を出て、三時間かけて再び祖母の家に辿り着く。さすがに一日のほとんどが移動だったためにもうクタクタで、おまけに祖母の家に到着する頃には夜の十一時を回っていた。もう何かをするだけの元気も湧き上がらず、客間の押入れから布団を引っ張り出したところでついに力尽き、風呂も入らず眠りに落ちてしまった。
眠りの泥の中ではぬいぐるみのクマにカツアゲされる夢を見た。
何度かそのショックで目が醒め、そして再び眠りに落ちるとカツアゲされる。そんなことを数回繰り返す内に時刻は夜を過ぎ、深夜に差し掛かろうとしていた。幾度目かのカツアゲ現場から意識が浮上する切っ掛けとなったのは、車のエンジン音であった。
まどろみの中からぼんやりとその音を辿る。
それが夢なのか現なのかの区別がごちゃ混ぜとなる。
そのせいで、車のエンジン音がなぜかクマの作動音に思えた。クマのぬいぐるみじゃなくて、全自動式のメカクマである。三千万馬力を誇るハイテクエンジンを搭載し、マッハ48の速度を叩き出して、空陸深海宇宙での進行が可能で、燃料はハチミツを好み、背中のファスナーを開ければ半径五十キロメールを巻き込んで自爆する、そんなメカクマである。メカクマはエンジン音を響かせながらゆっくりと近づいて来て、そして祖母の家の前で停止する。やがてファスナーを徐々に下げていき、ついには周りを巻き込んでの自爆を
リリリリリリリリ、と古臭い機械音が鳴った。
爆発したと本気で思って飛び起きた。
慌てて辺りを見回す。闇に慣れた目が部屋の中をぐるりと見回して、壁に掛けてあった鳩時計で停止する。
時刻は午前二時四十八分だった。
再び、リリリリリリリリ、と機械音が鳴った。
それが果たして何であるのかをすぐには思い出せず、なんだっけ、なんだったっけ、と必死に考えてようやく、祖母の家の玄関に設置されている古い呼び鈴であることに気づいた。来客の知らせだった。夢の世界から完全に醒めた意識を整え、来客の対応に玄関へ向かおうと腰を上げて、
ようやっと、その異変に気づいた。
――来客? こんな時間に?
もう一度時刻を確認せずにはいられなかった。午前二時五十分。こんな時間に、祖母の家に来客があるだろうか。おまけに祖母は半年前に他界している。仮に祖母のことを知っている人物であれば、祖母がもうこの家にいないことを知っているだろうから呼び鈴を鳴らすなんてことはしないだろう。
可能性を考える。今にこの家の呼び鈴を鳴らす目的で言えば、二つ考えられる。
ひとつは、この家にいるであろう誰かに気づいて欲しいため。そこから考察するに、この家に現在自分がいることを把握しているのは父と母くらいであろう。もしあの後すぐに父と母が車でここまで駆けつけてくれたのだとすれば、時間の計算は大体合うと思う。だから呼び鈴を鳴らして着いたことを知らせてくれている、というのは考えられる。考えられるが、そんなことをするくらいなら携帯電話に電話を掛けてくるであろう。そう思って携帯電話を確認してみるものの、着信履歴等は一切無かった。そうであれば、父と母という線は低い。
もうひとつの可能性を考察する。それは、この家に、誰かいないのかを確認するため。その可能性の方が高いような気がする。しかし、なんでそんなことをする必要があるのだろう。家に誰かいるかどうかなんて確認することに、果たしてどんなメリットが、
そこに至ってやっと、どうして今日にもう一度祖母の家に来なければならなくなったのかの理由を思い出した。
まさか――、と思いつつも、いやまさかそんな、と苦笑いして、
玄関の方から、小さく話し声が聞こえた。小さくて詳細までは聞き取れなかったが、少なくとも、日本語ではなかった。英語でもないと思う。たぶん、中国語とか韓国語とか、そういう類の発音だった。
一気に血の気が引いた。布団から飛び起きて壁にへばりつく。
何も考えられない。心臓だけがやけに高い鼓動を叩き出して、
玄関口から漂っていた人の気配が分散する。雨戸を通して僅かに聞こえる足音が複数移動している。それは玄関口から家の周りをぐるっと周るように移動した後、雨戸であったり窓であったりを小さくノックし始めた。客間の雨戸をノックされた瞬間に心臓が止まりそうになって、叫び声を上げたい衝動を死ぬ気で抑え、口から飛び出しそうなほど鼓動を打つ心臓を必死に落ち着かせる。
どうしようどうしようどうしようどうし
また話し声が聞こえた。やっぱり日本語じゃなかった。
客間の雨戸から足音が遠ざかって行く反面、まったくの反対方向の台所の辺りで小さく何かが割れる音がした。
本当の意味で血の気が引いた。
――ニュースでやっていた窃盗団。そのことにようやっと脳味噌が辿り着き、泣き出しそうな意識を何とか抑えて必死に考える。その時、ポケットの中に入っている携帯電話の重みを思い出した。慌てて携帯電話をポケットから引っ張り出して電話を掛けようとするが、果たして警察が何番であったのかがついに思い出せず、極度の混乱状態のせいで携帯電話を床に取り落とした瞬間、
台所から窓の開く音がした。
脳の本能的な部分が行動を決断する。
携帯電話をその場に残したまま、客間の押入れに飛び込んだ。音を立てずに押入れを閉めて息を潜めた時、どうして携帯電話を持って来なかったのかと思い至り、回収しようと思った時にはすでに手遅れだった。
家の中に人の気配が入って来た。思考回路が停止する。近づいて来る足音を感じたまま、もはやどうすることも出来ないことを知った。足音がやはり複数聞こえる。二人くらいじゃないと思う。たぶん三人から五人。どうすることもできなかった。助けを呼ぶ手段すらない。奇声を上げて飛び掛ったら退散してくれないだろうかと半ば本気で思い、しかし刃物や銃で応戦されたら失禁すると思う。
心臓の音が大きい。心臓の音が外にまで響いているような気がして不安になる。
足音がすぐそこまで来た。そこで足音は止まり、
「――! ――、――――――」
何を言っているのか判らない言葉がはっきりと聞こえる。
呼吸をするのさえ忘れてすべてを停止させる。
「――――。――。―――――――」
なんだ、何を言って、
そう考えた時、
客間に置き忘れた携帯電話と、そして着替えの入った鞄の存在を思い出す。おまけに、ここは押入れだ。本来そこに入っていたはずの布団は床に転がっている。どう考えても、「さっきまでそこに人がいて、急遽そこに隠れた」と言わんばかりの光景だったはずだ。
まずい、どうしよう、などと思う間も無かった。
突如として開かれた押入れの隙間から大きな手が伸びて来て、叫び声を上げることすらさせて貰えなかった。本当にあっと言う間の出来事過ぎて、脳味噌が事態にまったく追いつかなかった。
何発か殴られたような記憶だけがおぼろげに残っていて、気づいた時には両手両足を縄で縛られた挙句、口にガムテープを貼られて畳の上に放り出されていた。
暗闇に馴染んだ視界の中で、急に眩いばかりの光が目を直撃する。懐中電灯かペンライトか判らないが、たぶんそれに類する何かだと思う。その灯りに目が潰されて、周りに果たして何人の人間がいるのかさえ把握出来なかった。それでも怒号に似た声だけは認識することが出来て、そしてやはり、その声が何と言っているのかは理解出来ない。
光を目に近づけられたまま、髪の毛を引っ張られた。
五十センチくらい先にフルフェイスのヘルメットを被った人間がいた。人種どころか、性別すら判断出来ない。
「――――! ―――っ! ―――――――!!」
早口にも似た感じで一気に巻くし立てられる。
今になってやっと、漏らしそうなほどの恐怖が滲み上がってきた。
殺される、と本気で思った。怖過ぎて涙が出て来る。
それから数分間、軽く小突かれながら怒号を浴びせ続けられた。やがて無造作に再び畳の上に放り出され、髪の毛を掴んでいた人物が離れて行く。その様子を半ば放心状態で見つめていると、連中の中の一人が自分の持って来ていた鞄の中を漁っていることに気づく。やがてその手が中に入っていた財布を探り出し、交通費と小遣いである中身を遠慮無く抜き取る。抵抗するだけの気力は、ついに湧き上がって来なかった。
窃盗団はたぶん五人。服装はすべて適当な感じであったが、全員がフルフェイスのヘルメットを着用していた。時折聞こえる声から察するに、おそらく中国人ではないかと思う。畳の上に転がされたまま、連中が好き放題に家の中を物色するのを、黙って見ていることしか出来ない。
極度の恐怖と、状況の変化に脳が半ば機能停止に陥っていた。
ぼんやりとした意識の中で、このままだと自分はどうなるんだろう、と考える。普通ならたぶん、目撃者である自分を生かしておくなんてことはしないだろう。きっと、自分は、このまま、ここで、
嫌だ、と脳が僅かに覚醒する。どうする、どうすればいい、と死ぬ気で考えたその瞬間、唯一の希望を思い出した。そう。ここは祖母の家だ。ここにいるのは、自分と、この窃盗団と、そして、あと、一人と一匹いるはず。そのことを思い出した時、この状況を打破する可能性を見出す。何とか蛍とケロ太の力を借りる。そうすれば、あるいは。
声を出すと怪しまれると考え、後ろ手に縛られた手をばれないようにくねくねと動かす。頼む、気づいてくれ、気づいて、
そう願ったのが届いたのか、突然に、髪の毛の一部が引っ張られるような感覚を感じた。気づいてくれた、と心の中でガッツポーズをする。そう、元々ここへ来た理由は、自宅でのあの出来事だ。おそらく蛍とケロ太は、どうしてか今日にこの連中がここへ来ることが判っていたのだろう。だからこそ、助けを求めに来たのだ。ならば、この状況を快く思っていないはず。いくら普段は馬鹿にされているとは言え、きっとこちらの力を借りたいはずなのだ。ならばこそ、この状況の助けになってくれるはずだった。
手をさらにくねくね動かす。自分としては「縄を解いて、あいつらを少しの間でいいから何とかしてくれ。その隙に警察を呼ぶ」という意思表示のつもりだったのだが、それは実のところ、まったく伝わらなかった。横たわりながら見つめるその先で、箪笥の上に積んであった衣装ケースがぐらりと動き、音を立てずにそっと持ち上がる。
その光景を見た瞬間、これから蛍とケロ太が何をやろうとしているのかを理解し、蒼白になりながら、危険を承知でガムテープを貼られたまま叫んだ。
「んんっ!」
待て、と言ったつもりだったのだが、たぶん、一人と一匹は、行け、と捉えたのだと思う。
突然の声に窃盗団がこちらを振り返り、そしてその振り返ったまさにその瞬間、衣装ケースが恐ろしい速度で飛行し、連中の中の一人に直撃した。ぶつかった衣装ケース諸共廊下まで吹き飛んでいき、盛大な音を立てて壁に激突して沈黙する。
やばい、と思ったが、もはや何もかも遅かった。
連中が突然の出来事に動揺したのは僅かな間だけで、しかし状況を理解するのは早かった。連中から見れば、自分が何かをして衣装ケースが落下して、仲間の一人を潰したと思ったに違いない。涙目になるほどの怒号を発しながら、連中が一気にこっちへ向かって詰め寄って来る。やばいやばいやばいっ、と慌てている中で、一人の腰の辺りから取り出された刃渡り二十センチほどのナイフが目に入ったことにより絶叫する。
殺される、と本気で思って抵抗しようとした時、今度は部屋の隅に置いてあった机が急に宙に浮き上がり、連中に向かって突撃する。一番近場にいた一人を真っ向から飲み込んで、机と壁の間に挟まれた際に呻き声を上げて沈黙する。こちらに向かって来ていた残りの三人が立ち止まり、互いに何かを怒鳴り合いながら辺りをきょろきょろと見渡し始める。
トラップと思っているのか、と恐怖に萎縮していた脳味噌が少しだけ回り出す、
たぶん何とかするなら今しかない。畳に顔を擦りつけ、ガムテープを無理矢理に剥がし始める。無茶な力を入れているせいで頬が擦り剥けて激痛が蝕むが、殺されることを思えばこんなことは屁でもなかった。出鱈目にもがき続けていると、畳の裂け目に上手くガムテープの端がへばり付き、半分以上が一気に剥がれた。
ようやっと自由を取り戻した口から力の限りに息を吸い込み、全力で叫んだ、
「蛍にケロ太!! 好きなようにやれっ!!」
再びに連中がこちらに視線を移し、何かの合図だと思ったのか、再度詰め寄り、
部屋中の至る物が、突然に宙に浮き上がり始めた。連中の足が止まる。辺りを見渡しながら狼狽し、大声で何事かを怒鳴り始める。
その光景を転がったまま見ながら、すげえ――、と思った瞬間、
連中の一人が、予想外の行動に出た。宙に浮かび上がっていた物を掴み取り、違う物へと叩きつけ始めた。ぶつかって来る前に、片っ端から壊そうと思い至ったのである。それに触発された残りの二人も同様の行動を取る。蛍とケロ太が先ほどのように倒すより早く、三人の窃盗団が部屋を滅茶苦茶に破壊する。
恐ろしいまでの破壊音が響き続ける中、ついに浮かび上がっていたすべてのモノが叩き落されてしまった。その光景を呆然と見つめる先で、窃盗団は次の行動に移す。壊した物の破片を掴み取り、浮かび上がっていなかった部屋の他の物も破壊し始めた。次から次へと破壊されていく祖母の家を、ただ何も出来ずに見ていることだけしか出来なかった。
昔からあった物が、かつて祖母が使っていた物が、見るも無残に、破壊されていく。
それらに対して、自分は特に思い入れがある訳ではない。
ただ。――ただ、それらはきっと、祖母にとって、そして蛍とケロ太にとっては、本当に、本当に大切な物だったのではないか。そう思った時、無意識の内に叫び声を上げそうになり、
連中の中の一人が、部屋の隅にあった、仏壇の前に立った。そこには、祖母の遺影が飾られていた。
その遺影に向かい、破壊した机の一部を、遠慮無く振り上げる。
気づいたら叫んでいた。
「ばっ、馬鹿っ!! やめ――、」
破壊音が、響いた。
粉々になった机の破片と共に、祖母の遺影が宙に投げ出され、
世界が、震撼した。
地震かと思った。地震かと思うくらいの衝撃であった。
嘘だろ、と思った時にはもう、『それ』はそこに居た。
獣。犬。三つ首。
印象は、それだけ。
部屋を覆い尽くすかのように巨大。ここに居た全員が、その光景を認識していた。
巨大な図体と、筋肉質な手足から出ている剥き出しの爪。犬。犬だ。犬だが、しかし犬じゃない。ただの犬では、有り得ない。大きさもそうだ、大型犬の十倍以上の体格がある。そして何よりも、普通の犬には絶対に考えられない部分があった。部屋の中に突如として現れたその犬には、首から上が、三つあった。
犬の怪物。犬の妖怪。――犬? 犬って。犬の幽霊。ケロ太。ケロ太? これが、ケロ太?
その光景を見つめながら、漠然と、思った。
婆ちゃん、マジで。これって、あれじゃん、
ケロ太って名前、まさか、
ッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ!!
世界を震撼させるかの如く咆哮が上がった。
耳を貫くその咆哮に肩を縮めた瞬間、ケロ太が一気に動き出し、
一閃、
振り抜かれた腕が連中の一人を確実に捉え、すべての物理法則を無視した形でその身体を一瞬で吹き飛ばした。雨戸に激突するがその勢いはまるで止まらず、雨戸諸共外へと弾き出され、家を囲っていた塀をも破壊して田んぼの中へと姿を消した。
もはや誰も何も出来なかった。
咆哮と共に突き出される二撃目に、反応すら出来なかった。
先とまったく同じことが起こる。塀を破壊して田んぼの中へ姿を消す。最後の一人がようやっと行動に移そうとするが、しかしそれは何の役にも立たなかった。無造作に振り払われた腕がその身体を吹き飛ばす。が、先ほどより遥かに威力が弱い。庭に転がって呻き声を発するその一人を見つめて、気づいた。
さっき、祖母の遺影を破壊した奴であった。
ケロ太が歩み出す。ゆっくりと、ゆっくりと。牙を剥き出しにしながら。獲物を噛み砕くことだけを考えながら。
まずい、と瞬間的に悟る。
ケロ太は、あいつを殺すつもりだ。さすがにそこまではやり過ぎだ、どうにか、どうにかしなくちゃ。
そう思って足掻こうとするが、手足は依然として縛られたままで、どうすることも出来ず、
――あの子を止めてあげて。
そんな声を聞いた。聞いたと思った瞬間、手足を縛っていた縄が一瞬で緩んだ。
反射的に後ろを振り返った時、そこに一人の女の子を見た。赤い着物を着た、女の子。その子がそっと笑い、ゆっくりと、こちらの背中を押す。
何を思う間もなかった。今はそれよりもやるべきことがある。
跳ねるように飛び起きて走り出し、破壊した雨戸からゆっくりと外へ出て姿勢を一気に低くしたケロ太へと突っ込む。
獲物を殺すために臨戦態勢を整えたケロ太が、その一歩を弾き出そうとしたその瞬間、
「待てケロ太ッ!! 殺すなっ!!」
ギリギリで間に合った。
地面を蹴り上げる瞬間のケロ太に対し、真正面へ割り込んだ。
僅かな差で停止したケロ太が、牙を剥き出しにして唸り声を上げる。
正直な話、死ぬほど怖かった。刃物を見せられた比ではなかった。自分は今、この世のモノじゃないモノと対峙している。幽霊だというのは判っていた。判っていたが、まさかケロ太がこれほどまでの大物だとは思ってもみなかった。犬なんて可愛いものじゃなかった。幽霊なんて表現すら生温い。だけどそれでも。死ぬほど怖かったが、それでも、止めなくちゃならない。殺すのだけは、絶対にダメだ。
婆ちゃんに頼まれたんだ。
ここでケロ太がこの連中を殺すことを、婆ちゃんが望むはずがない。
だから、
「ケロ太。……殺すな」
真っ向から、そう言った。
しばらく、ケロ太と睨み合っていた。
が、やがて何が引き金になったのか、ケロ太の臨戦態勢が唐突に解かれ、その場でゆっくりと方向転換を行った。こちらに尻尾を向けたまま部屋の中へ引き返して行き、見ているその先で、巨体が見る見るうちに小さくなっていく。最終的に普通の中型犬くらいの大きさになったケロ太は、しかし三つ首のままで、最後の最後に本当に不満そうにこちらを振り返り、小さく鼻を鳴らした。
その隣に、いつの間にか、さっきの女の子が居た。
その子がケロ太の頭を撫でながら、再びに笑う。
そして、小さく口を動かして、こう言った。
――ありがとう。
気づいた時には、その子もケロ太も、何処にも居なかった。
◎
それからのことで言えば、窃盗団は無事に全員逮捕された。
骨折などの怪我はあるにはあったが、全員がちゃんと生きていた。警察に一体何があったのかと散々に問い詰められたのだが、まさか「幽霊がやりました」なんて言えるはずもなく、「仲間割れを始めてこうなった」と説明して何とか乗り切った。その供述は勿論疑われたが、高々高校生一人にプロの窃盗団五人を相手にどうこう出来るはずもないだろう、と何とか納得してくれた。騒ぎを聞きつけて迎えに来てくれた両親に対しては素直にすべてを話したが、反応は案の定で、父は「そうか。大変だったな」と唸り、母は「蛍ちゃんにケロちゃん、怖くなかったのかしら」とマイペースだった。ちょっとはこっちの心配をしてくれてもいいと思う。
その後のことで言えば、翌々日に再度祖母の家を訪れ、警察の許しを得て、一家総出で家の掃除を始めた。掃除を始めて間も無くして、父と母の分担分はなぜかあっと言う間に終わってしまったらしく、居間で二人揃ってお茶を飲んでいた。自分の分はちっとも終わらなくて、それどころかやっぱり邪魔ばかりされる。しかし、その邪魔をして来るのが「あのケロ太」だということをもう自分は知ってる訳で、前のように強気になれないのが物凄く哀しかった。
そして最後に言えば、あの日がまるで幻だったかのように、それから再びに蛍とケロ太の姿を見ることはなかった。そこにいるのだということは前と同じように判るのだが、その姿を見ることは叶わなかった。あの日、どうして霊感のないはずの自分が蛍とケロ太の姿を見ることが出来たのかは判らない。ただ、あの時に見た女の子は蛍で、そしてあの犬はケロ太に違いなく、それさえ判ればそれでよかった。
祖母が一緒に暮らしていた「家族」を一目見ることが出来たから、今はそれで、良かった。
綺麗に修理した居間の仏壇の前で、祖母の遺影に手を合わす。
滅茶苦茶な一人と一匹だけど。
それでも、
――婆ちゃんの頼みは、ちゃんと守るよ。
再びに、そう、約束した。
◎ ◎ ◎
今日、雄二と静香さんの間に子供が産まれた。
私にとっては初孫だ。名前は恭介。
私にはよくわからないけど、蛍が言うには、私によく似ているとのこと。そのせいか、雄二と静香さんがこの家に恭介を連れて来た時、珍しく、ケロ太が大層喜んでいた。ケロ太は悪戯好きだから、嬉しがって恭介によく悪さをしようとする。それを私と蛍が止める。楽しいひと時だった。
賑やかになった。本当に賑やかになった。恭介が産まれてくれて本当に良かった。
あの人との間に雄二が産まれ、そして静香さんと結婚して、恭介が産まれた。私がここまで生きて来た理由としては、それだけで十分過ぎる。そして蛍とケロ太と過ごせたこの時間も、十分過ぎる程の幸せを私に与えてくれた。
私は幸せ者だ。このように家族で過ごせて、私は幸せだった。
私は後どれくらい生きれるかは判らない。しかし、十分過ぎる幸せと、十分過ぎる時を頂いた。
満足している。悔いは何も無い。でも、心配事がある。
ケロ太の事。あの子は少し短気な所がある。注意はしているけれども、ケロ太の事が心配だ。私が居なくなった後、あの子が怒ったら、きっと蛍だけでは止めることが出来ないだろう。
願わくば。願わくば、蛍が私に似ていると言った恭介。恭介が、いつかケロ太が怒った時、それを止めてくれはしないだろうか。過ぎた願いだというのは判っている。しかし、ケロ太が私以外に唯一懐いた恭介にしか、頼めない事でもである。
いつか恭介が大きくなったら、そう、お願いしてみよう。
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2013/03/07(Thu)16:29:57 公開 / 神夜
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■作者からのメッセージ
初めましての方は初めまして、お久しぶりの方はお久しぶり、社畜モードの神夜です。
ところで凄いですね。紅堂さんのお仕事。あんな検索出来るんだ。びっくりした。そして『セロヴァイト』はまぁまだいいとしても、『春に咲く』とかその他諸々がトップにあるのはいかん。あれはいかん。尻が痒い。ケツからなんか出てきそう。穿られたら死んでしまう。でも律さんとドンペさんの作品は今読んでも面白かった。後者は特に安定してて面白い。あの人どこへ行ったんだろう。生きてるのかな。
そんな訳で、『蛍とケロ太と天然パーマ。』でした。題名思いつかなかったから適当に書いた。意味は特にないです。
今現在、出だしや途中まで書いて放置している作品があと8個ある。この前の『タイトル未定 ―世界は廻る―』もその内のひとつである。どうにかしたかったんだが、どうにもならなかった。その内にどうにかする。読んだりアイデアくれた人、すんませんすんません、いつか、そう、いつかきっと……。
それでまぁ、とりあえず書けそうなモノから潰して行こう、ということで、とりあえずこれだった。途中から「あれ?流れ変わってね?」とか思う箇所があったら、そこからが神夜が「潰し」に走った箇所である。これの前半部分書いたの一年くらい前じゃないかな……。しばらくは「ちゃんと終わってる短編」を「数打ちゃ当たる」作戦でいこうと思う。いつになるか判りませんが、その時はまたよろしくお願い致します。
それでは誰か一人でも楽しんでくれることを願い、神夜でした。
次は何だろう。「耳が聞こえない子の話」か「殴り屋の話」か「薄汚いおっさんの話」のどれかかな。