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読ませて頂きました。お久しぶりでございます。 初めに、投稿失敗してたらごめんなさい。へんなとこで切れちゃってたり、文字化けしてたりしたらすみません……。ケータイからなので、投稿できるのかちょっとわからないんですけど。どーーしても感想書きたかったので。 時代を掴むまでには少し苦労してしまいました。「おれおれ詐欺」が20年も昔にあったのかしら……とか、この時代にはもうケンタッキーは地方進出してた筈だよねとか、テレカも緑の公衆電話も80年代から普及して無かったっけ、とか。混乱して、なんども読み直したんですけど、邦夫くんのいた世界は昭和64年、主な舞台は「へいせい」元年であってるんですよね。はじめ、「ええと、昭和44年から64年にタイムスリップした訳じゃないよね」って確認しながら読みました。 ちょっと前提が違い過ぎていて、頭の弱い子には(わたしとか)難しい設定かも……。今もまだ、読み間違ってるんじゃないかって、自信ないですもの。 でも、すごーくすごーく面白かったです……。パラレルワールドとか、違う結末の未来とか、そういう話が大好きなのもありますけれど。あとついでに、登場人物の名前が嬉しい。たかちゃんファンっていうのももちろんありますけれど、設定が難しいだけに、人物の名前がいっぺんで理解できるっていうのは非常に助かりました。 記述トリックってあんまり好きじゃ無かったんですけど、こういう風に使うと鳥肌が立つんですね。ほんとに。たぶん一個一個もれなく見事に騙されました。普通に未来にタイムスリップしたんだと思ったし、カレンダーの「平誠」に震えました。最後の最後も。 気になるのはやっぱりパラレルワールドの分岐点と、それぞれの世界があまりに違うこと。分岐点が邦夫くんの究極の選択だったとしたら、あまりに違いが大きすぎるように思うのです。 そりゃ、多少の違いはあるだろうけど……最初の邦夫くんがいた世界は、あまりに時代が動かなさすぎる気が、……やっぱり多佳子さんの言う通り夢の中からきたのかな。なら仕方ないのか。むしろ当たり前か。そっか。最後の世界を考えると、そっか。……一人で言うだけ言って納得してすみません。 とすると、邦夫くんが迷い込んだ世界は……ぞくぞくしますね。すみません切れちゃうので、分けます。 | |||
夢幻花 彩 | |||
失礼致しました。やっぱりケータイだとパソコンと同じようにはいきませんね。続きです。 こうかなって思うのはありますけど、確かめようってもう一度頭から読み直すと、前書きの「現し世も夜の夢も、みな誠――」ではっとさせられたりして。こういう世界で魅せられてしまうと、もう素直にすごいなぁさすがだなぁとしか言えません。 読み終えて時間が立つほど気になることがいっぱいでてきて、短いながらも邦夫くんの悠子さんへの愛がしっかり伝わってきて、とっても読み応えのある作品でした。さすがにバニラダヌキさんの作品は濃度が違うなぁ。ものすごい。 (それにしても、ゆうこちゃんはもう宿命的に眠り姫の運命なのですね……!) あとはほんとにもう毎度毎度しつこいですけど、紙で、縦書きで読めて、本屋さんで出会えれば言うことなしで……。素敵な作品を本当に本当にありがとうございました。いつも頭の弱い感想ですみません。 優子ちゃんのハッピーエンドも(そっちの感想もまだなんですよね。あっちは難しすぎて、さすがにケータイじゃ無理です)、二年くらい前?実は気になってる伝記物も、こっそり続きを楽しみにしながらお待ちしております。 | |||
夢幻花 彩 | |||
やっほ。おひさしぶりの、たかちゃんだよ〜。……違う。 ともあれ、お久しぶりの今晩はです。彩様もお元気なようで、なによりです。 相も変わらぬ狸の腹鼓、お気に召していただけたようで、ほっと一安心しております。お礼に、ネタバレを少々。 いちおう、あの遠足の夜から分岐した三つの世界、つまりあくまで懐かしき昭和レトロを保っている『もうひとつの昭和64年』、そしてちょっぴり技術革新が加速ぎみの『平誠元年』、さらにリアルタイムの『平成元年』、それらの世界が、それぞれの世界における悠子の夢に感応してあっちこっちとっちらかる、そんな趣向になっております。それぞれの時代設定は、一応詳細に組み立てたのですが、この幻想物語だと、理屈っぽい部分は最小限にして、むしろなんだかよくわからない曖昧さを残したほうがベターと判断し、こんな形になりました。確かに昭和64年1月=平成元年1月を、大人として明瞭に記憶している方でないと、解りにくいかもしれませんね。ちょうどあの年あたりで、どでかくてバカ高かった携帯電話が、まだちょっと高いけどいきなりちっこくなったんだよなあ――なんてことが昨日のことのように思い出される年老いた狸なもんで、なにとぞご容赦を。 ところで、2年前くらいのアレは……アレですよね、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。頭の中ではほとんど組み上がってるんですが、クライマックスの大ボラを成立させるには、昭和30年代の房総の漁師さんとか太平洋捕鯨船団とか、綿密にリサーチしないと不可能なことが明らかになりまして――ああ、誰か、狸を飼ってくれる人はいないでしょうか。ああ、遊んで暮らしたいよう暮らしたいよう。 ……失礼しました。ともあれ身分相応に、なんかポコポコ打っていくしかないビンボな狸です。とにかく優子ちゃんやにゃーおちゃんには、早めに大宇宙を滅亡から救――ごにょごにょごにょ。 | |||
バニラダヌキ | |||
バニラダヌキさんの新作短編をこちらで読んだのは、実は「浮遊少女」以来ではないか、などと思いながら、楽しみに読ませていただきました。 何と言っても、僕は廃線やら廃駅やらが元々大好きで、廃線跡を舞台に現代と過去が交錯して、という小説というのも、若い頃に書いたことがあるほど(出来はアレなので、到底ここには発表できませんが)、しかもレトロ風味も大好きなわけですから、見事に好みにはまる小説でした。おなじみの、夢と現が同等のレベルで展開する作品世界も、心地よかったです。たかちゃんシリーズのキャストで展開するジャスミンハイツ、と言った感もありますね。 ただ、それらの前提を取っ払って、独立した短編として読ませていただいた場合、まだ良くなる余地があるようにも思えました。どうも最近、読解力も書くほうの力も不調なので、うまく書けないかもしれませんが…。 惜しいと思ったのが、いきなり冒頭部で「廃線となった森林鉄道の、朽ちかけた木造駅舎…」ということが文章で説明されてしまっている点で、まずはもう少し描写から入って行って、やがてそこが廃駅舎であることが分かる、という流れのほうが個人的に好みかなあと思いました。 あと、ここは作品のあり方自体に関わる部分なので難しいのですが、邦夫が病院から消失する部分から以降の展開。そこまで邦夫の世界=昭和の続く世界=作品における現実、的な視点だったのが、ここでいきなり多佳子の世界=平誠=作品における現実、という視点に切り替わる、ここがあまりにも鮮やかで見事な分、そこから後の部分が、少々余計なようにも思えてしまいました。短編としての構成を考えると、叙述トリックは諦めてでも、「あれはゆうこちゃんの夢の中から現れた邦夫だったのだ」という落とし方で終わらせたほうが美しいようにも思えました。昭和のままで止まった世界、というのも、納得が行きます。 もっとも、これでは多元世界小説という要素が薄まってしまいますし(「ゴルディアスの結び目」のような、精神内世界が現実につながるという小説、という色彩が濃くなりますね)、実はバニラダヌキさんが一番お書きになりたかったのは、ゆうこちゃんが幸せに暮らす「平成」の世界ではないか、とも僕は推測していまして、この終わらせ方では、作品の目指したものと違うということになってしまうのかも、とも思うのですが…。 無茶を言うようですが、いっそこれは長編にしてしまったほうが、と思いました。この長さでは、テーマが壮大すぎて生かしきれないような、そんな気もします。「夢の木坂分岐点」のような長編になりそうな、そんな期待が残る作品でした。 | |||
天野橋立 | |||
おうおう、さすがに天野様、狸自身の惑いや疑問を適確に次々と……。 打鍵開始時には60枚程度にまとめようと思っていたので、冒頭はストンストンと勧めてしまいました。ここを好きなだけ描写してしまうと、必然的に長編になってしまいそうな気がしまして……。 邦夫が実は夢の中の存在、というのも、打鍵前には当然のように、候補にあった趣向だったりしまして……。 「叙述トリックは諦めてでも」という御意見も、実はけっこうグサリとくるものがありまして、あの趣向は、実は着想時には使おうと思っていなかった趣向なのですね。 つまり発想当初は、多佳子と紘一の主観世界も『第一の平成』であり、そこに『悠子の夢の昭和』から現れた邦夫が干渉し、『第二の望ましい平成』に変えてしまう、そんな原型でした。しかし、そうしてしまうと、哀愁の多佳子や幼くして死んだ友を讃える紘一が、『なかったこと』になってしまう。それを避けたくて『現実の平誠』を設定すると、必然的に『悠子の夢見る延長線上の昭和』も夢ではなく実態としてあらねばならず、そのふたつが干渉して新たに『平成』を誕生させる――そんな、今回の構図を採用したわけなのでした。 ですから、天野様の最後のご指摘「この終わらせ方では、作品の目指したものと違う」だけは、的を外しているとも言えるのですが……つまりその『的』を表し切れていないのが、この作品の現状なのでしょう。 いっそマルチ・エンディングのゲームにしてしまうとか――あ、そうか。つまり現状この作品は、まさにマルチ・エンディング・ゲームの不完全なノベライズ、そんな感じなのかも。 などとなんかいろいろ自省しつつ、あらためて読み返してみると――ううむ、でも、なんか、やっぱりかわいい。どの世界のどのキャラも、やっぱり愛しい。こまったもんだ。 これはもう、お説の通り長編化して、情報量で叩き臥せるしかないか、みたいな……ぶつぶつぶつ……とりあえず、冒頭はちょっと直しておこうか……ぶつぶつぶつぶつ。 | |||
バニラダヌキ | |||
あ、すみません、寝不足で勘違いしてました天野様。「この終わらせ方では、作品の目指したものと違う」というお言葉は、まさに狸の願望を汲んでいただいたからこそのお言葉だったのですね。一時間もたってから気づきやがったのかこのボケ、そんなお叱りが聞こえてきそうですが、その間、ちょっと冒頭をいじくったりしておりましたので、どうか誠意だけは認めてやってください。五体倒地五体倒地。 | |||
バニラダヌキ | |||
すみません、言葉足らずになってしまったようなのですが、「僕の言うように平成エンドなしにしてしまっては、作品の本来目指していたものと違ってしまうかも」と言う意味でした。 冒頭部、前のバージョンがどうだったか全く思い出せないくらい、自然に修正されていると感じました。お見事です。 | |||
天野橋立 | |||
はじめまして、感想を含めてようやく理解したのですが >『もうひとつの昭和64年』、そしてちょっぴり技術革新が加速ぎみの『平誠元年』、さらにリアルタイムの『平成元年』 つまり邦夫は「もうひとつの昭和六十四年→技術革新が加速気味のもうひとつの平成元年」から移動し、「もうひとつの平成元年」とは分岐の要となった「昭和四十四年」で「もうひとつの昭和六十四年」とは違う選択をした世界で、すでに邦夫は死亡しているという事になるのですよね。それで最後は「もうひとつの昭和六十四年」でもなく「もうひとつの平成元年」でもない、まったく別の時間軸の「平成元年」が舞台となっている。それで最後の場面は「リアルタイムの平成元年」というのが、何らかの力(?)で悠子の望む形になった「真の平成元年」につながっていると、そう解釈するということなのでしょうか。 そうであれば昭和天皇の崩御がなく、夏目漱石の紙幣が存在しない(伊藤1000円札に対応した自販機は、紙幣の大きさや偽造防止の対応が異なる夏目1000円札の登場で一年ほどで駆逐されているので)「昭和六十四年」というのは、主人公にとってもヒロインにとっても間違いであったということでしょうか。 そうだとすれば、理由としては「沖坂と片桐」が仲睦まじくならないからなのでしょうが、最後の場面からも「昭和四十四年」における邦夫の決断との因果関係が見いだせず、それとはまったく関係のない出来事だったとしか読み取れませんでした。 どの時間軸であれ、あくまで「昭和四十四年」というのターニングポイントだと私は思うのですが、それなら具体的に周辺人物の当時の関係性がなされていないのは理解できませんでした。 読解力が不足しているのかもしれませんが、私が邦夫なら「もうひとつの昭和六十四年」と「悲惨な結果になっている平成元年」を延々とループする羽目になると思います。すくなくとも、最初にあった二択では「悲惨な結果になっている平成元年」はともかくとしても「真の平成元年」「もうひとつの昭和六十四年」は何が違ったのか分からないので、いずれかは「その二択のどちらでもない」選択をしていないと整合性がとれないと思います。 ヒロインの夢の力が勝っていたなど、まったく「昭和四十四年の決断」とは違う因子が絡んでいるのであれば仕方がないとは思うんですが、何度読み返しても分からなかったので、なぜこのような構成になっているのかぜひ知りたいです。 | |||
AoA | |||
バニラダヌキ様、こんにちは。お久しぶりです。 ああ、1989年といえば、僕はまだ大人ではなく、十代でありました。教師が教室で「みんなもう知ってるかもしれんけど、天皇陛下が亡くならはった」と言ったのは、あれは始業式の日じゃなかったかしらん。すると僕も昭和六十四年に一日だけ学校へ行ったことになります。 元来、論理的思考能力が薄いうえに、近頃とみに頭がぼんやりしておりますもので、なんていうか、感情だけで前に読み進めさせれられてしまい、時間軸のつながりなどの整合性に関するあれこれや、表現技法的なものに関するあれこれについては、僕には何も言うべきことがありません。このような無内容な感想がこの掲示板においては意味を持たないことは承知しつつ、ただ読みましたということだけでもお知らせいたしたく、筆を執りました次第です。では失礼いたします。 あー、最後にひとつだけ(と、急にピーター・フォークになる)、「昭和レトロ」という一言だけがなんだか引っかかりました。たとえそれがどんな「平セイ」であったとしても、さすがに平セイ元年に「昭和レトロ」という言葉も概念もまだ無かったような気がします。(たしかに「レトロブーム」というのはあった気がするけど)すると誰から見て「昭和レトロ」なのかというと、それは作者や読者にとって「昭和レトロ」ということになってしまい、元号をめぐるもやもやした混濁が美しいこの夢に一滴の冷水を浴びせてしまうのではないかと思ったのですが…。どんなもんでしょうか。(僕の思い違いで、昭和末期にはもう「昭和レトロ」という言葉があったのかもしれませんが) | |||
中村ケイタロウ | |||
>AoA様、解りにくい話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 狸の算段としては、この話は以下のような構図になっております。 まず前提として、昭和四十四年五月までは全ルート共通の世界。 あと、その後に登場するすべての並行世界において、『夢』は別世界との窓口であり、かつ見ている個人の願望や不安等の状況によって、他の世界の『同じ夢』にも干渉しうる、そんな設定になっております。ただし念のため、それらの世界はどれもが確固たる現実、無数に分岐してゆく無数の世界がすべて『現実』なので、世界の数だけ邦夫や悠子や多佳子や紘一が存在することになります。 そして遠足の夜の二択は、けして社会的分岐のための二択ではありません。あくまで小学生の邦夫にとっての二択です。ですから一択めの『邦夫単独下山』だけからでも、『昭和六十四年五月』に続く世界と『平誠元年五月』に続く世界に分岐してしまいます。それは登場人物の意思や行動とは関わりなく、事前に測候所の配置を決める段階で、社会的にあった岐路です。昭和天皇のご病状も、あくまで社会的な相違です。物語中では触れておりませんが(書くのもヤなので)、『悠子を背負って下山』を選んでふたりとも子供のうちに死んでしまう、そんな世界も、どこかにありうるわけです。 そして二十年後、物語の初めの時点で、邦夫は『昭和六十四年五月』(昭和四十四年五月に邦夫がひとりで下山し、尚かつ悠子も救われた世界)から、『平誠元年五月』(昭和四十四年五月に邦夫がひとりで下山し途中で死亡、悠子は昏睡状態の世界)に紛れこみます。原因は明示されておりませんが、『昭和六十四年五月』に悠子が廃駅で見ている夢(二十年前に置き去りにされる夢ですね)と『平誠元年五月』に昏睡状態ある悠子の夢が干渉してしまい、無意識の内に呼び寄せてしまった、そう推定されます。つまり『平誠元年五月』の悠子は、夢を通して『昭和六十四年五月』(昭和四十四年五月に邦夫がひとりで下山し、尚かつ悠子も無事に救われた世界)を仮想体験しているわけですね。その夢の中で、さらに夢を見ている。また『昭和六十四年五月』の邦夫自身が、同じ過去の夢を見て不安定な精神状態にあった、そんなことも、ふたつの世界が混じりあった原因のひとつでしょう。 で、あれこれあった末に、『昭和六十四年五月』から来た邦夫が、『平誠元年五月』で昏睡状態ある悠子に発した叫びは、『平誠元年五月』の悠子の夢を通して『昭和六十四年五月』に悠子が廃駅で見ている夢に反映され、邦夫は『昭和六十四年五月』へと無事に帰還します。その帰還には、『平誠元年五月』の邦夫(お骨)が発見されたことも、影響しているのかもしれません。作中ではただ『平誠元年五月から消えた』ように表現されておりますが、『平誠元年五月の悠子の夢の中』、『現実の昭和六十四年五月』、その両方に帰還したわけです。 そして、作中では最後に登場する、『平成元年五月』の世界。ここでの駅舎は、登場人物の意思とは無関係に、たとえば測候所の位置と同じような社会的要因によって、観光用森林鉄道として再生されております。ただし、そこで眠っている邦夫と悠子は、ともに『昭和四十四年五月』の夢、つまり『平誠元年五月』や『昭和六十四年五月』といった並行世界が、かつて共通の一本道だった頃の、まったく同じ状況の夢を見ております。その悠子の夢にも、『平誠元年五月』と『昭和六十四年五月』の干渉によって引き起こされた邦夫の絶叫が、推定当社比二倍で干渉します。そしてその絶叫は当社比三倍となり、『二十年後の駅の同じ長椅子で寝ている』という状況ごと、『昭和四十四年五月』の遠足の夜の悠子の夢を直撃します。そこで子供の悠子にも「あなた……」というつぶやきが生じ、『昭和四十四年五月』の子供の邦夫は、二択めの『いっしょに下山』を選択することになります。 とどのつまり、この話は並行世界のみならず、同一世界の『原因』と『結果』も、夢を媒介にループしてます。時間テーマSFとしては邪道、というか、あくまで『広義のSF』に含まれるであろうところの『広義のファンタジー』ですね。狸の愛するジャック・フィニィの諸作、ロバート・ネイサンの『ジェニーの肖像』あるいはリチャード・マシスンの『ある日どこかで』のような、理屈より情のトンデモ・ラブ世界、そうお考えいただければ幸甚です。 なお、狸としては、初稿の中途半端な理屈と、それに相反する過剰な情動が読者の皆様の混乱を招いていると判断し、いっそ説明を廃した情動オンリー曖昧模糊バージョン(『ジェニーの肖像』みたいな)を作りたいと思ったりもしているのですが――いよいよわけがわかんなくなりそうですね。 >中村ケイタロウ様 お久しぶりです、でもって五体投地五体投地……。 着想や設定がのほほんであれ几帳面(あくまで狸レベル)であれ、いいかげんであれ緻密(あくまで狸程度)であれ、本文そのものは『感情だけで前に読み進めさせれられるように書く』のが狸の化け芸の本懐、それに化かされていただければ、あとはもう何もいりません。ああ、これが愛なのかしら。顔面血まみれで死ぬまで五体投地。 冗談はさておき(いや、冗談なのは『ああ、』の後だけですが)――『昭和レトロ』! うわあ、恥ずかしいわあ。なんで気づかんかったんやろ。平成1年にも平誠1年にも、そないな言葉、あらへんのどすえ。……錯乱して擬似関西化する狸。 そう、狸の記憶でも、『昭和レトロ』は確か平成も数年たってから広まった表現です。あわてて消しゴムかけてから五体投地。 | |||
バニラダヌキ | |||
何度も書き込んで申し訳ないのですが、仰っているとおりに理解していると思います。しかし私が理解できないのは、時間テーマSFの邪道を進むにはとても複雑すぎる構成であるという点です。 ミスリーディングを誘うのが目的ではなく、SFやファンタジーの境目をもたせようとしない作品づくりの努力は素晴らしいと思うのですが、トンデモ・ラブの世界であっても周辺人物の葛藤、主人公とヒロインの駆け引きといった部分がきちんとなされていれば、この作品の矛盾点なんか気にするほどのものでもないとは思うんです。 ただ、登場する人物の関係は分かっても関係性については作中の描写に乏しく、とくに昏睡状態のヒロインが別世界の主人公を呼び寄せた理由を読み取るのは、まず難しい。それではSF的ギミックの部分に着目してみると、タイムスリップした邦夫が「ほぼ確実に自分が死んでいる」「ヒロインは助かったものの植物状態」というトラウマレベルの体験をしただけで戻ったのだとすれば、ファンタジーを通り過ぎてホラーの域だと思うのです。話そのものはハッピーエンドにみえますが、まったく救いの無い結果に終わった世界が存在している、という事実が垣間見えるのはバッドエンドに近いといえるでしょう。 長々と書きましたが、ようは色んな要素が不完全燃焼でくすぶっている状態である、というのが私の偽らざるところの感想です。パラレルワールドにしても、もっとオーソドックスな展開の方がそれぞれのキャラの個性も引き立つのではないでしょうか。たとえば『昭和64年5月の邦夫』が別世界での最悪の事実を知り、それを回避できるための機会を与えられるとか、実は『昭和64年5月』というのが昏睡しているヒロインの夢の産物であって、現実として存在していない世界を並行世界として体験するなどです(昭和64年5月というのは、それこそ特別な理由がないかぎり設定としては当時を生きた人間ですら掴みにくく、余計に物語の全容の把握を難しくしていると思うので)。 「ジェニーの肖像」も「ある日どこかで」は映画もみていますが、どちらも奇をてらったから成功した作品ではないと思います。根底に流れる筋は分かりやすいものであり、結果はどうあれ、それぞれの作品の主人公と読者には救いが与えられていたのは違いありません。本作品はどちらかというと漫画のマインドゲームに近い感触のある内容だと、そう私は思いました。 | |||
AoA | |||
以前、この方の相手をしてしまって後悔したことがあります。一読してお分かりのとおり、支離滅裂な主張を、何を言われても絶対に曲げない方です。あまりお相手になさらないほうが…。 | |||
天野橋立 | |||
論理パズルのように構成された小説もあれば、そうでない小説もあります。必ずしも、隅々まで整合性を持って論理的に納得できる必要はないように思います。時に、意味の分からない部分や、小さな矛盾や齟齬は、いわば永久機関となって無限にエネルギーを発し続け、作品に生きた温もりを与える熱源にもなると思うのですが…。 | |||
中村ケイタロウ | |||
>>中村ケイタロウさん 小説は知的創造物ではあっても、必ずしも論理的構築物ではありませんが、中にはまるで論文か、法律を読むようにしか小説を読めない人もいて、そういう人とは永遠に平行線の議論にしかならないんですよね。分かりやすいレベルで言えば「空気を読む」とか、その類いの能力と関連があるのでしょう。 | |||
天野橋立 | |||
んー、以前のやりとりは知りませんが、少なくともこの場でのAoAさんのコメントは支離滅裂とは個人的には感じませんでした。むしろ私が思ったことと一部分共通しております。 作品の受け止め方には色々あるでしょうから、他の感想を論破したり否定したりする必要はないと考えます。あとは書き手さんが取捨選択するでしょう。意見交換くらいは大いに結構だと思いますが。もちろん明らかに礼儀を欠いていたり非常識であったりした場合は別問題ですけれど。 さて、作品の感想ですが、皆さんが書かれている以外の点で私が思ったことを二、三。 悠子が皆から大切に思われていることや成長するに従い眩しくなってきたということが、登場人物の説明だけで語られているので、もう少しエピソードが加わるといいと思いました。個人的には、遠足の日の朝と午後との流れが飛び過ぎている気がするので、たとえばこの間に入れるなど。 執筆意図とは違うようですが、私は昭和64年5月も、平誠も、どちらも悠子の夢なのかな、と思いました。夢であれば時空を超えることも(現実世界よりは)簡単な気がするので。また平誠の状況が昭和64年5月とかなり隔たっているのは、昭和64年5月との反作用だから、というふうに納得しやすい。いえ、あくまで私の納得の仕方ですけど。パラレルワールドというのはフィクションではよくありますが、やはりなかなか特殊なことには違いないので。 あるいは、昭和44年5月の悠子の「あなた」という呟きによって、邦夫が第三の選択をした、というふうであると、すっと平成に(読み手の心理的に)移行しやすいかな、と思いました。いえ、分かりやすいばかりがいいことではないでしょうが、たとえ論理的矛盾があっても心理的納得感があれば物語として成立すると思うのです。 雨が上がってくる様の「光の球」という表現が素敵でした。改訂前は、初めのシーンにもこの表現があったように思うのですが、私は、初めと最後のシーンに同じ描写がありつつ、両者に微妙な時間的描写の差を設けることで、それが二つの世界が違うものであることを表していると考えていたのです。でも校正で削られてしまったとしたら、きっと私の読み込み不足ですね。そして、そもそも私の記憶違いでしたらすみません。 ところで空蝉や驟雨という言葉は初夏というより盛夏から晩夏のイメージが私にはあるのですが……これは蛇足ですね。 色々勝手なことを書きましたが、全体としては完成度が高く面白かったです。とんちんかんな部分はお許しください。 ちなみに、このHNは活動休止中のものです。分かる方には明らかに分かるとは思いますが……。 | |||
狐ママン | |||
うわあ、盛り上がっているなあ……って、他人事じゃないだろう俺。失礼しました。 >AoA様 『色んな要素が不完全燃焼でくすぶっている状態である』というのは、一面、実は狸の意図するところをきちんと感じていただいているような気がします。前回のご感想へのお返しで長々と述べた内容は、あくまで設定段階の構図であって、作品中では最低限の『匂わせ』しかしておりませんし。それがAoA様の期待されるような小説とは違っていたがゆえのご不満に関しては、 作者としてどうにも対処のしようがないので、すなおに「申し訳ありません」と頭を下げるしかないのですが……。また『まったく救いの無い結果に終わった世界が存在している』という点も、「そうなんです。哀しい世界もあるんです」としか言いようがなく……。 つまるところ、おそらくは『ジェニーの肖像』や『ある日どこかで』もまた、AoA様と狸では違った読み方をしているのかも知れず、本当にこの世界は、たった一つの世界でも、人によって全然別の世界として見ているのかもしれないなあ、などと、改めて思ってしまったり。 >天野橋立様 ♪見〜上〜げて〜ごらん〜〜 夜の〜星を〜〜〜♪ ……落ち着きました? ……失礼しました。沈静の腹鼓でした。まだ落ち着かれないようでしたら、続いて『人生いろいろ』を腹鼓で……やめとけ。 >中村ケイタロウ様 突然ですが、結婚してください。ヤな場合、新作を発表してください。シスコン話歓迎。 >狐ママン様 ああママン、ママンの胸で泣かせて泣かせて……だからやめとけ狸。 『遠足の日の朝と午後との流れが飛び過ぎている』というお言葉……つらいよママン。自覚はあってもどう直したらいいかわからない欠点をモロに突かれてしまったよ。もっと考えてみます。すみませんすみません。 『昭和64年5月も、平誠も、どちらも悠子の夢なのかな』――そうです。そうなのかもしれません。実はそうではないのですが、そうかもしれない、そんな感じに書いたつもりでした。 ただ『昭和44年5月の悠子の「あなた」という呟きによって、邦夫が第三の選択をした、というふうであると』というお言葉、狸自身は『昭和44年5月の悠子の「あなた」という呟きによって、邦夫が新しい選択をしたから平成に繋がった』ように書かせていただいたのですが、それとはもっと違う選択肢を出したほうが良かった、ということでしょうか。いや、そのあたりの心理的納得感は、おさえておいたつもりでしたので。 あと『光の珠』は、最初に悠子が消える部分に残っております。意図もほぼご推察のとおりです。 ところで『空蝉』と『驟雨』、狸は『現し身』とか『通り雨』とかのイメージで単純に使ったのですが、確かに夏の季節感を感じますね。季節を晩夏に変えてみようかしら。 | |||
バニラダヌキ | |||
記憶にあったのは有り難いことですが、まさか感想とまったく関係のないことを作者でない方に持ち出されるとは思いませんでした。私は理論整然していないからだとか、矛盾が多すぎるだとか、擬音や抽象的表現があるから、などといったくだらない理由で批判したり嫌悪したりすることは無いと思っています。あるのかもしれませんが、この作品に対する私の感想の論点は違います。 分かりやすくいえば、作者がどの部分に着目してもらいたいと思って書いたのか、というのが私には伝わっていないということです。作品に含まれるテーマやメッセージといったものは何なのか、それを掴む為には登場人物や話筋、文体に私は着目しているのですが、どうやらこの作品にかぎっては「この文章のここが」「この台詞が」「この仕草が」と、いちいち指摘してもらわないことには理解できていないようです。それを作者との考え方の相違や、物事の捉え方の違いだといわれれば、まあ確かにそうだといえるでしょう。 しかし一番はやはり、ここまで私がグダグダと書き連ねたのは文章自体に魅力を覚えなかったからだと思います。僭越ながら、冒頭にかぎっても文量や用いられている表現、真意を大きく変更することなく、私なりに改良が可能だと感じてしまうのです。もちろん、それがただ自意識過剰のたわ言の類いのものである可能性は否めませんし、修正するというのが本気で書いている作者にとっての最大の侮辱行為だというのは、今の私も痛感しているところです。モリゾ夫人とその娘ポンティヨン夫人、はその悪しき一例といえるでしょう。 作者本人が望んでいないのに掲載したり書き込んだりはしませんが、なぜそのような文にしたのかは説明することは可能です。いくらかは自分の考えというのも理解はしてもらえるものとは思います。 以上の文は不特定の誰かではなく、この作品の製作者に宛てて書いたものです。このコメントを読んで不快になられた方もおられるでしょうが、感想を述べる場として荒れてしまうのは私の本意とするところではありません。良識のある方はこの感想になんら感情的な言葉を述べるのではなく、狂言として受け流してもらえれば幸いです。 | |||
AoA | |||
どうもお久しぶりです、読ませて頂きました。 実は時間がある時にちょこまかちょこまか「ゆうこちゃん」を読んでいたりするのですれが、あれは実は神夜としては凄く解読に時間がかかったりする作品で、未だにすべてを解読するには至っていない。というわけで、ふと見たらバニラダヌキさんの新しいものがあったからそっちを読んでみたらあら不思議、一気にいってしまった。仕事しろ、自分。 ――しかし。茉莉館ジャスミンハイツ(題名間違ってたら本当にすんません)と似ている空気を漂わせながらも面白い。いや普通に面白いぞなんだこれ。が、深く考えて作品を読んだりすることはあまりない神夜としては、きっとここで先に感想を書いている方々の半分も本質を理解できていないのだと思われる。だからバニラダヌキさんの作品に感想書くのは気が引けるんだ!!ここで神夜が偉そうに高説垂れたらきっとどっかのロリコンさんが――ごめんなんでもないや。 諸々の細かいことは今までのやり取りを読んだら「なるほど」と「な、なるほど、わ……わからん」の半分くらいで納得できたから余計なことは言わない。言わないんだけど一つだけ。深く考えたりしない神夜だからこそなんだろうけど。ちゃんと読めという話なんだろうけど。ジャスミンハイツでもそうだったんだけど、たまに、本当にたまーに、バニラダヌキさんの作品で、場面の切り替わり等についていけない時がある。おまけにそれは、必ず序盤。きっと二回とか読めばすべて解決されるのでしょうが(実際に今回ももう一回目に読んだら素直に解決した)、なんだろう、ふっと置いてけぼりにされて、「ああ違う違う、こっちこっち」と本編に戻ってくる時がある。今回で言うと「2」が始まるところなんだけど――しかし、でも今に読み返すと別に違和感はまったくないし、他の人も特にそんなことを言っていないところを見ると、その時の神夜がただ馬鹿になっていただけかもしれない。うん。ほらみろ、偉そうに突っつこうとしたらこのザマだ畜生。 それはともかくとして、個人的に非常に面白かったです。素晴らしい作品を、ありがとうございました。 | |||
神夜 | |||
>バニラダヌキさま 同性異種間の結婚となると民法上困難かと思われますので、後者の線で検討させていただきます。 >神夜さま あ、それちょっと分かるかもです…(切り替わりの件)。たぶん、先が気になって読む速度が上がりすぎてしまうせいではないかと思います。 | |||
中村ケイタロウ | |||
おお、光の球はありましたね。いやはや大変申し訳ありません。でも私の好きな部分でしたので、あって嬉しいです。 第三の選択というのは、それまであった選択肢以外の可能性を、悠子のつぶやきによって邦夫が思いつくというのはどうかという意味でした。第三番目の世界が第三の選択によって開かれる、という。いや単なる思いつきですのでお気になさらないでください。 ではこれで狐はまた山に帰ります。どうも失礼いたしました。今後も陰ながら応援しておりますね。 | |||
狐ママン | |||
>AoA様 『しかし一番はやはり、ここまで私がグダグダと書き連ねたのは文章自体に魅力を覚えなかったからだと思います。僭越ながら、冒頭にかぎっても文量や用いられている表現、真意を大きく変更することなく、私なりに改良が可能だと感じてしまうのです。』――うわあ、解ります解ります。狸もわがままなせいか、自分の美意識において『魅力を覚える』文章に(自作を含め)なかなか行き当たらず、寂しく思っております。AoA様が魅力を感じるような文章、ぜひ一度、ご披露ください。できれば、あなたの紡ぎたい物語で。 『修正するというのが本気で書いている作者にとっての最大の侮辱行為』――す、すみません。私、過去に他の方の作品への感想で、何度かやっちゃいました。でも激怒された記憶はないので、たぶん、文意や執筆意図にだけは、きっちり同調できていたんだと思います。さすがに、あまり同調できない他の方の作品の文章を、自分の信念をもって修正するほどの度胸は、厚顔を誇る狸にもありません。 >神夜様 ああっ、突っついて突っついて。檻の中で虚しく吼えているロリコン狸を、激しく突っついて。……狸って吼えましたっけ。 でも、『2』の冒頭で引っかかるというのは――時間的にはほぼ直結している文章を、直前の悠子消滅を強調するために、わざわざ章変えしたのが裏目に出たのかもしれません。すみません。ハッタリでケムに巻くタイプの芸風なもんで。 でも……解ってほしいんじゃないの。面白がってほしいの。酔い痴れてほしいの。それが狸の愛。――結婚しましょう、神夜様。同性や異種族や、親子ほどの歳の差なんて、愛の前では些細なことよね。 冗談はさておき、ゆうこちゃん&星猫さんのお話は、もーまったく狸の個人的趣味が9割を占めておりますし、あまり深入りなさらなくとも……でも愛ゆえの好奇心は、とってもすてきよ。 >中村ケイタロウ様 『後者の線』、冗談抜きでお待ちします。クオリティーへの期待と執筆速度への期待が、狸の中で葛藤しておりますが……なるべく狸が孤独死する前に、お願いします。 >狐ママン様 光の珠、ありましたでしょう。ごめんねごめんねママン。……なぜ謝る。実は、これから古巣のほうでこっそり放流予定のなんかのほうでは、もう片方の光の珠が、なぜかなくなっちゃったからです。いえ、狸の脳内世界では健在なのですが、文章上ではまるで大人邦夫のようのドロロンパ。おまけに『空蝉』は確かに季が違って見えるので、本編の季節ではなく題名のほうが変わってしまうという……ああ、ぶたないでママン。 『第三の選択』、やっぱりその意味でしたか。確かにそのほうが、ずっと劇的構図になりますね。でも本作にはなかなか入れこみにくく思われ、また似たようなテーマの話を書くときに、ママンに教わったなどとはおくびにも出さず(おい)、ちゃっかり使わせていただきます。……ああ、いたいよいたいよ、ぶたないでママン。甘えさせてママン。 | |||
バニラダヌキ | |||
にゃおん。 ものっそお久しぶりです。遅れて遅れて遅れ倒しましたが、それでもよーやっと読むことがかないましたのでここにご報告いたします。頭のついていけない猫としては、表面だけのあれやこれやしか読解出来ない次第ですが、それでも面白かったと言いましょう。実は最初、夢野久作の「キチガイ地獄」を思い出したのですが、あれよりも清廉で、後味も摩訶不思議で良かったです。個人的には「愛」があるのが一番良いですね!! どこの時空がどうねじ曲がってどうくっついたのかはともかく、邦夫と悠子ちゃんのラブがあって、うふふーと幸せな気持ちに浸れちゃいます。あぁ、良いなぁこんな夫婦愛……。 そんな滅裂感想で申し訳ないのですが、これにて。 | |||
水芭蕉猫 | |||
にゃごにゃご。 けほけほ、けほ。 ……えーと、夢野久作先生の御作は、昔たいがい読んだはずなんじゃが……歳をとると物忘れがひどくなってのう、ぶつぶつぶつ……。 冗談はさておき、もーまったく『お久しぶり』という実感のない、加齢のため時空を超越してしまった(ボケたともいう)狸です。でも『キチガイ地獄』となりますと、さすがにその強烈なタイトルにふさわしい、忘れようとしても思い出せないくらい無茶苦茶な話でしたね。二転三転四転五転、それでも足りずに七転八倒――。 なあるほど、1シーンごとに慌ただしくドンデンしながら、なんだかよくわからないオチになだれこむ――あの構成に、ちょっとノリが近いのかも。でも話の内容自体は別物だったので、一安心しております。いや、この歳になると、過去に読んだ先達の作品をきれいさっぱり失念して無意識に盗作しようとしてしまう、そんなケースが、着想段階でマジに多発しているもので。 でもやっぱり、狸のトレードマークは『愛』です。それもスコーンとヌけるほどの『純愛』です。とゆーことは、愛憎ズブドロの夢野久作作品なら、何を盗作しても別物になってしまうので無問題!! ……そうか? ともあれ、ちょっと展開が強引すぎたかと反省しつつ、面白がっていただけてなによりです。ごろごろごろ。 | |||
バニラダヌキ | |||
拝見しました! 出だしの雰囲気が好きです。恋人や奥さんなどと、思い出の地を訪れられたら幸せだろうなって思いました。小学時代、さくさくとは読めなかったのですが、噛みしめるようには読めたように思います。 回想あけてからの展開に一気に掴まれました。確かに肥満体の老人が、小ぶりのバケツ持ってるよなぁって妙に納得してしまったり。邦夫って30代じゃなくて老人じゃないかなって店員や警官の対応で思ってたのですが、多佳子の登場で一気に分からなくなって、だからこそ先が気になって読んでしまいました。で、1号店での会話で新たに、こいうことなのかな? と出てくるけど分からずに、もう先を読むしかなくなってくるんですよね。 4.の後半からゾクゾクしちゃいました。それと悠子のいる病院の様子、ちゃんとしてるんだなって何だか変な言い方ですが安心します。多佳子と紘一、うまくいくといいなぁ。ダイエット……耳が痛い。 一人で大人を探しにいって亡くなった邦夫の未来が変わったのか、それともまた別の繋がった世界なのか分からないけど、とってもホッとできる優しい終わり方だったと思います。面白かったです! | |||
羽付 | |||
ああっ、すみませんすみません。小学時代の件、もうちょっと流れを整えたバージョンが、どこかにあったりしたのですが……常設してないのよなあ。やっぱりこっちも差し替えたほうがいいかなあ。でも今さら一年前の話をここで更新するのもなあ……ぶつぶつぶつ。 あの時点で邦夫が老人なのではないかという発想は、ちょっと虚を突かれました。あらためて自分で読み返してみると――なあるほど、なぜか浦島太郎的にタイムスリップしてしまい、邦夫に自覚はないが実は老人になっている、そんな読み方もできるのですね。しかしそれは作者の意図していない混乱なので、ちょっと修正してみようと思います。 そしてラスト、なんだかちっともよくわかんないけどもなんとなくよかったよかった、そんなたかちゃん的青天井を感じていただけたなら、作者としてそれに勝る喜びはございません。ありがとうございました! | |||
バニラダヌキ | |||
合計 | 8点 |