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『余計な奴ら』 作者:うらはら / リアル・現代 ミステリ
全角20459.5文字
容量40919 bytes
原稿用紙約64.05枚
現実と回想の部分の切り替えがうまくいったかどうか不安ですが。

 喧騒と熱気は退社時間とともに薄れ、人の居なくなったオフィスは不気味な静寂を保っている。武田は思考を止めた。と同時に大音響となって神経を苛立たせるものがある。壁にかけられた時計の針が存在感を誇示している。
首を捻ると武田は視線を合わせた。
そろそろ時間か、パソコンを閉じると机の引き出しを開ける。ビニール袋の中にウイスキーの小瓶と薬、取り出すと机の上に乗せた。その先に真っ赤な造花のバラが一輪、白いガラスの花瓶に飾られている。何故だか入社一年目の利恵が気を利かせてくれる。色んな花を作るのが好きだと話していた。
 武田はビニール袋を見つめた。やるしかない、何度も悩み決めたことだ。
一時間ほど前の電話が耳に残っている。
「分かっているな、今日が最後だ」
「ああ、分かっている。心配しなくていい、言われたとおり用意している」
「もう逃がさんからな」
「その気はない」
 約束の時間は八時だった。
 場所は近い、オフィスから歩いて十分も掛からない距離に木下の待つホテルはある。
「とりあえず二百万円寄越せ」それが彼からの要求だ。それで終わることはない、甘い汁を吸ったダニがおいそれと獲物を手放すはずがなかった。ゆすりの常道、骨の髄までしゃぶりつくす。
 袋の中のウイスキーと薬、つかむと内ポケットに突っ込む。
 何でこうなった。今まで十年の間、じっと目立たず、余計なことをせず何事もなく過ごした。あいつが現れなければ……一週間前を思い出す。
「武田さん、お客さんです」
 三時のお茶でくつろいでいるときだった。
仕事は電子部品の在庫と出荷の管理、めったに人と会うこともない。人付き合いが苦手というわけではないが、他人と会うのは避けている。
「木下さんとおっしゃる方です。第一応接室にお通ししておきました」
 入社一年目の江上利恵、笑うと片方の頬にえくぼが出来、どこかのテレビ局のアナウンサーに似ていると独身の男性に評判だった。
 余計なことをと武田は舌打ちをした。
 木下という名前に覚えはない。
 仕事の関係だろうか、五、六人の男の顔が浮かぶ。半年前、部長から業務用のソフトを作る作業で、ソフト開発会社との打ち合わせを任された。だが自分の役目は終わったと思っている。
「江上さん、すみませんけどお茶をお願いします」
応接室のドアを叩いた。
武田を見た男の顔が満面の笑みを浮かべる。
「やあ武田、久しぶりだ、元気か。懐かしいな」
「懐かしい」の言葉に男の顔を凝視するが、武田の記憶に重なる顔はなかった。
前頭部の髪の毛は薄くやや後退している。ぎょろりとした瞳は荒れて、何かに飢えた目だ。背は高くない、百六十五センチくらいだろう。らっきょうを思わせるような顔立ち、似たような年代だと思える。
「あのう、木下さんでしたね?」
「ああ、木下満だよ、覚えているだろう?」
「すみません、どちらの木下さんでしょう?」
「ええ、俺のこと覚えていないの?」
「申し訳ありません……仕事の関係でしょうか?」
「何言っているんだよ、岐阜一高で一緒だった木下だよ」
「高校で?」
 憶えているのは、数人に限られる。成績優秀でいつもトップだった杉崎、仲の良かった市原と小久保、ひょうきんだった富岡、あとは学校一の悪だった小野田と彼のちょうちん持ちだった久米。それともう一人……。
 記憶を追い払うように武田は目の前の男を見つめた。
 荒んだ目は落ち着きのない動きをし、剣呑な色も混じっている。記憶の断片すらもない名前のクラスメイト。そんな男が十年経って突然現れ、同級生だと懐かしそうな顔を見せる。武田の中で用心するものが芽を出す。
武田の勤め先を知っているのはごく少数の友人と両親。
目の前の男、手垢と汚れ、脂のせいでてかっている紺のスーツ。白のワイシャツにノーネクタイ、普通のサラリーマンだとしたらあまりにも崩れている。横に置かれたグレイのトレンチコートも袖口の汚れが目だった。
「ごめん、思い出さなくて」
「無理もないよな、親友とまでは行かなかったからな」
「失礼します」
 利恵がお茶を持って現れた。木下の遠慮のない目が利恵の身体を舐めまわす。「止めろ」と声がでかかる。
「それで、今日は?」
「うん、実は困ったことが起きてね、それで助けてもらおうと思って寄ったんだけど」
 木下はお茶を一口すすると、
「昨夜こっちへ仕事できたんだが、今朝方電車の中でスリにあってね、財布を掏られてしまったんだ。お陰で田舎に帰る電車賃もままならず、どうしようかと困っていた。ところが急に君の事を思い出してね、図々しいかも知れないが、ここはひとつ君に頼るしかないかと思って、やってきた次第だ」と言った。
「スリですか。それはひどい」
「都会は怖いね、油断も隙もあったものじゃない。何も俺みたいな貧乏人から盗まなくてもいいだろうと思うのだが……いや、それなりに注意はしていたんだ。だが相手がひとつ上だったのかやられちゃったよ。それで厚かましいと分かっているんだが、同級生のよしみで助けて欲しいのだけど、帰りの電車賃とホテル代を貸してもらえないだろうか。いや、帰ったらすぐに借りた金は返すから」
 予想通りの答えが返ってくる。
「いくらぐらいあれば?」
「すまん。二万、いや三万あれば助かる」
 出せない金ではなかった。飲んで歩くこともなければ、女に金を掛けることもない。特別趣味があるわけでもなかった。給料の殆どが貯金に廻っている。三年くらいは仕事がなくても食っていけるだけの金が溜まっていた。
「あいにく無理です」と断る気持ちがあったが、早く終わらしたいという思いが強かった。
 武田は札入れから一万円札を三枚抜き取ると、木下に手渡した。
金が戻ることは期待していない。こんな男にと思うと腹立たしい気もするが、恵まれない奴に寄付したと思えばいい、そんな気持ちだった。
「ありがとう、助かった。いま借用証書を書くから」
「いいよ、そんなこと」
「いや、俺の気が済まないから」
 木下はポケットから名刺を取り出す、一緒に光るものがこぼれテーブルに落ちた。見ると医者に処方された薬、木下は頭痛薬だと胸にしまった。
名刺の裏に金額を書き「これでいいかな」と木下が寄こす。
意外な思いで武田は受け取ると、数字に目を通し温くなった湯呑茶碗を握った。見かけより律儀な性格かもしれない、一瞬の気の緩みを見透かしたように、
「ところで武田、おまえとんでもないことをしたな」と木下が切り出した。
「え?」と自分でも顔色が変わるのが分かった。不意を食らい武田の心が大きく揺らぐ。
「何のことだろう?」
「分かっているだろう、言わなくても昔のことだよ」
「……」
「なんだ、誰も知らないと思っていたのか。甘いなあ、天網恢恢だ。あいにくと俺が知っていた」
「一体なんのことを……」
 声に不安が混じるのを隠せない。
「何のことだって? まあ、そんなに心配しなくていい、いまさら騒ぎ立てたところでどうなるものじゃない。それに実は、なんてなればお前が困ることになる。俺が黙っていれば誰も知らないことだからさ」
 木下は湯呑茶碗を掴むと美味そうに飲みほした。
 武田を見る木下の視線がまともに突き刺さる。心の中を見透かしたような不気味な笑い。武田は身体から汗が噴き出すのが分かった。
「しかしお前も大胆だよな。いやあ、あんときは驚いたよ」
 言いながら木下は足を組んだ。背をソファにもたらせゆったりと身体を倒す。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
「いや何でもない。ちょっと風邪気味だったから」
「そりゃいけないな。医者に診せたほうがいいんじゃないか? いまインフルエンザが流行っているらしいから」
「いや、薬は飲んでいる、大丈夫だ」
「そうか体は大事にしたほうがいい……じゃあ、そろそろお暇するか。これ以上いて仕事の邪魔をしちゃ悪いからな。本当は一杯一緒にやりたいところだが」
 頂くものを頂いたと木下は立ち上がった。
「また連絡する」
そう言うと不敵な笑いを残して部屋を去った。
 武田は立ち上がれなかった。十分か十五分の会話なのに、どっぷりと疲労感を覚えている。
 木下の言葉が頭から離れない。
「お前とんでもないことをしたな」
「黙っててやるよ」
 と木下の顔が武田を追い詰めてくる。
 現場にいたような木下の言葉に、武田はけんめいに記憶をまさぐるが思い当たるものはみつからない。
 木下が残した名刺を見つめた。東和興業、代表取締役木下満と書かれている。
まともとも思えない会社の代表取締役、身なりからすれば名前だけの代表取締役だろう。仕事に行き詰まり、困窮した生活が想像される。そんな男がやってきた。
 理由は?
「武田さん、武田さん」
 利恵の声にはっと我に返った。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですけど」
「あ、うん、大丈夫」
「でも、なんだか苦しそうです」
 心配そうに利恵が覗き込む。
「それより、何?」
 工場から電話だと言った。武田は受話器を取り上げた。ぬるっとした感覚に手にびっしりと汗をかいているのに気付いた。


 恐れていたことが現実となった。
 冷えた部屋に帰ると、コタツに足を突っ込みコンビニの弁当を済ます。ネットを立ち上げる。検索欄に女子高生の文字をうちこんだときだった。携帯電話が振動を起こす。表示された番号に覚えはない。無視しようか、躊躇いながら通話ボタンを押した。
「よう、武田。俺だ、元気か?」
 木下の声が耳に飛び込む。
「何でしょう?」
「借りた金まだ返してなくてすまんな。もう少し待ってくれ」
「ああ、いつでも構わない」
「それで、ついでといっちゃなんだが、もう少し金を都合してもらえないだろうか。いやなに、今月に入るはずだった売掛金が一ヶ月延ばされちゃってさ、資金繰りが詰まって困っているんだ。百万ほどでいいんだ、なんとかならないか?」
 やはりという思いが立つ。
「そんな金は……」
「百万が無理だったら、五十万でもいい。な、頼むよ」
「しかし僕には……」
「同級生を助けると思ってさ。恩に着るから」
「……もうこれ以上は。誰か、他の人に当たってくれないだろうか?」
 不安が武田の口を躊躇わせていた。
「これだけ頼んでもだめか?」
「申し訳ないけど」
「……」
 木下の返事が返ってこない。
 長い沈黙に武田は電話を耳から外しバッテリーと受信表示を確認をする。電話は繋がっていると耳に当てたときだった。
「おい、武田。おまえ分かっているのか」
 荒々しく威圧的な声に変わった。ならず者を思わせるような言葉遣い。息を飲み込み、本性を表した木下に武田は身を硬くした。
「俺が、お前の知られたくない秘密を握っているのを忘れんな。俺が一言喋れば、お前の今の地位などたちまち吹っ飛ぶことを、分かっているんだろうな?」
「……」
「お前、まさか忘れたとは言わないよな。あんなひどいことをしたんだ。忘れるわけがない」
「何か勘違いをしているのでは」
「勘違い? 勘違いだと、ふざけるな、俺はこの目で見たんだ、しっかりとな」
「それは」
「あいつ、名前はなんだった、ほらあの女だよ」
「……」
「俺は覚えているぜ、お前にやられたときのあいつの悔しそうな顔を。苦しみで歪んでいた」
 知っている、この男は知っている。
 武田は自分の身体が震えているのを感じていた。
 やはり見られていた、誰かに見られてもおかしくない場所だった。周りにはいくつもの木立や植え込みがあっても誰もがやってこられる場所。叫び声もだした。あの一つから木下は息を潜め、闇に隠れてじっと一部始終を見ていたのか。
「君はいったい何を……」
「だからさあ、言っているだろう。金を用立ててくれって。自分の身と引き換えだ、安いものだろう。いやなら出るところへ出るだけだ」
「五十万円でいいのか?」
 弱気が言葉を吐かせる。
「……いや、気が変わった。そうだなあ、とりあえず百万、いや二百万都合つけてもらおうか」
「そんなに」
「なんだその言い方はよー。まだ分かってねえな」
弱みを握った木下は強気だった。
甘いと分かると、とことん吸い尽くす。一度渡せば、二度、三度と続くのはあきらかだ。金がなくなるまで離そうとはしないダニのようなやつ。
こいつはダニだ。ダニは駆除をしないと世間に迷惑を掛ける。いなくなっても誰も困るやつはいない。いや何よりも自分を守らないと、武田の中で強い殺意が芽生えた。
「分かった。二百万なんとかする」
「最初からそう言えば良いんだよ。俺だって何もお前を脅したくはない。なんてったってもと同級生だからな。同級生は困ったときにはお互い助け合わなくてはな、お前もそう思うだろう」
 木下は満足そうに笑った。
「それで、いつ払える?」
「来週の月曜日になると思う」
「駄目だ、そんなに待てない。明日振り込め、振込先はメイルする」
「待ってくれ」と叫ぶ武田の声を無視して木下は一方的に電話を切った。


「武田さん、またあの人が来ているんですが」
 利恵の表情は硬かった。その顔から、木下がやってきたのが分かった。無視するわけにはいかない、下手に騒がれればまずいことになる。
 約束の金は振り込んでいない。木下は逆上してやってきたのだろう。武田は利恵に何かを囁くと、木下の待つ会議室へと向かった。
「随分と早いんですね」
「てめえ、何で送金しなかった。ばらして欲しいのか」
「だから、電話で言ったように、今日払うつもりでした」
「間違いな、こんど騙しやがたら、そのときは警察に駆け込むだけだ。覚悟しておきな。「とんでもないです。お昼に外に出たときにで銀行に一緒に行きましょう」
「そうさせてもらう」
 会議室のソファに座り木下は見下したように笑っている。
「しかしわざわざご足労かけなくても、間違いなく振り込みましたのに」
「なあに、ちょいと東京にも用があったから、ついでよ」
 木下は足を組み、タバコをふかしている。
 ドアがノックされ利恵が入ってきた。
「あのう、武田さん、課長が大至急来るようにと仰っていました」
「あ、そう。何だろう。ちょっと失礼します」
 暫くして戻ると、
「申し訳ない、急用でこれから課長と出かけなくてはならないんだ。あとで電話しますから」と呆然としている木下を残して部屋を出た。
「上手く行きましたね」
利恵が嬉しそうだ。
「ああ、ありがとう、助かったよ」
「あの人、武田さんを困らしているんでしょう。あんまりひどいようだったら警察に届けたらどうですか」
「いや、いいんだ」
「私、あの人嫌いです」
 利恵の激しい声が嫌悪感の強さを教えている。木下の舐めるような視線に虫唾が走ると訴えた。
「あの人、サンロイヤルホテルに泊まっているんでしょう。もし構わなかったら何があったか話してくれませんか。わたし武田さんが苦しんでいるのを見ているのが辛いんです」
「大丈夫だよ、なんでもない」
「でもいつまでも……」
「本当にいいんだ」
 武田の表情から何かを読み取ったのか、利恵はそれ以上なにも言わなかった。
 そして夕方の木下からの最後通牒「分かっているな、これが最後だ」。心は決まった。


 コートの襟を立て、ハットを深めに被ると武田は社屋を出た、夜の風の冷たさに春はまだ遠いと思わせる。それでもカレンダーは一週間もすれば三月へと日付が変わる。
 同じ轍を踏むな、武田は人目を避けながらサンロイヤルホテルへと向かう。あいつに見られたばかりに強請られる羽目になった。急ぐ足にポケットの中の小瓶が当たる。武田はコートの上から小瓶に触れた。
 サンロイヤルホテルのロビーは待ち合わせの人で溢れている。人は多いほうが身を隠すには都合がいい、フロントの従業員に気付かれないようにと時間を八時に決めた。
 エレベーターホールへ視線を向ける。足を踏み出そうとしたときだ、
「あ、どうして」
 武田は一瞬身体が竦んだ。顔見知りの男がいる。毛利輝久、武田より三年先輩の同じ課の社員だった。誰かと待ち合わせなのか、視線を四方に這わせうろつきまわっている。相性が悪いのか、入社のときから武田に絡んできた。未だに武田を見る目には敵意が剥き出しになっている。
「おい、むっつりスケベー、やることはやっているな」
 三週間前、会社に着くなり毛利が切り出した。
「何でしょうか?」
「しらばっくれやがって」
「そんな気は」
「知ってんだぞ何もかも、夕べのこと誰も見ていなかったと思うのか。お前先輩面して新人に手を出しただろうが」
 夕べ?
 やはり会社の誰かに見られた。だが、他人に非難されるようなことはしていない。もっとも目の前の男にとっては我慢出来ないことだろう。毛利が利恵に対して好意以上の感情を持っているのを知っている。
 あの日定時になると武田はオフィスを出た。暖冬だといいながらも、夜になると気温はぐっと下がる。それでもまだマイナスを記録することはなかった。コートの襟を立てながら武田は地下鉄の駅へと歩いていた。
 肩を並べるように利恵がいる。一緒に帰ろうとくっついてきた。
「もうすぐバレンタインデーですね」
「ああ、そうだね」
「武田さん、チョコレート一杯貰うんでしょうね」
「僕なんかにくれる物好きはいないよ」
 会社の女子社員とは仕事以外の言葉を交わすことはない。一日中コンピューターを睨み、数字を確認して、終わればまっすぐに家に帰る。
飲み会に誘われても酒も飲まず話もしない。声をかけられてもただ頷くか頭を振るだけ。黙々とただ食べるだけの武田に面白みを感じるやつはいない。
「本当ですか、じゃあ私があげていいですか?」
「僕なんかより、他の人にあげたほうがいいと思うよ」
「迷惑ですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、わたし武田さんに上げます」
 嬉しそうに武田を見上げる。
「ねえ、武田さん、急いで帰らないと駄目ですか?」
「いや、別に急いでいない」
「じゃあ、一緒に食事をしません? 私中華の美味しい店を見つけたんです」
 あまり気乗りはしない。人の目に晒される場所は好きじゃなかった。それに毛利が利恵に特別な好意を抱いているのを知っていた。二人で食事したのが分かると、また嫌がらせをしてくるだろう。だが利恵の有無を言わせない言葉に、何となく頷いていた。
「春華楼」飲茶の専門店。スモークガラスのドアを開けると、若い女性たちが順番待ちで椅子に座ってざわめいている。
 案内された二階の席から通りを眺める。欲望と同じ色をした街のネオンが夜空を明るくしている。青と赤、欲と欲がぶつかり合い、弾けあってこの街は形成されていた。
 昼間と見間違うほどの光の渦を行きかう大勢の人。あの中に一人でも二人でも、俺と同じ苦しみを持っている奴がいるだろうか。ため息を隠しながら視線を外すと武田は目の前の利恵を見た。
「嬉しい、わたしずっと夢見ていたんです。武田さんと一緒に食事するの」
 ジャスミン茶の入ったティーポットと湯飲みが置かれた。すかさず利恵はティーポットを取ると、お茶を入れてくれた。若い女性なのに細かいところに気がつく。頼みもしないのに利恵が趣味でやっている造花を武田の机に飾ってくれる。
 口に含むと広がる軽やかなジャスミンの香り。
「私、ここの海老シュウマイが好きなの。海老がぷりぷりしておいしいんですよ」
利恵がワゴンを引いた店員に注文した、小龍包だ。武田もそれに倣った。
「どうですか?」
「おいしいよ」
「良かった。不味いって言われたらどうしようと思ってたの」
 片方の頬にえくぼが浮かんだ。
「武田さんの血液型ってなんですか?」
「A型だけど」
「ウワー、やっぱり想像してた通りです。A型の人って真面目な方が多いんですよね。私もそうなんです。でも友達は嘘だ、B型だって言うんです。私が平気で無茶なことをするからかしら」
 いたずらっぽい笑いを見せた。会社でも上司に対し、理が通らないと平気で噛み付く。
「武田さん、彼女いないって本当ですか?」
「え?」
「ごめんなさい変なことを聞いちゃって。でも先輩たちがそんな風に話していましたから、本当かなって思って。でもそんなはずないですよね、武田さんって格好いいもの」
 変わったやつだと噂されているのは知っている。変人、奇人、それに「一反もめん」と言う渾名がついている。意味するところは、ゲゲゲに出てくる幽霊に似ていると言うことらしい。
「いや、当たっているよ」
「えー、本当ですか、でも信じられない、じゃあ土曜とか日曜とかどうされているんですか。退屈ですよね」
「そうだね」
「じゃあわたし、今度遊びに行ってもいいですか?」
「それは……」
「だめですか、私が行ったら?」
「いや、そんなことはないけど。でも僕の家に来ても何もないし、それに男の一人住まいだから汚いし、ものは散らかっているし、面白いことはなにもないよ」
「私平気です」
 黒い瞳を正面からぶつけてくる。よく分からない娘だった。
 やはり避けるべきだった。余計なことでこじれるのは好きじゃない。それに武田のねちっこさは社員の間でも有名だった。
 毛利の目を避けるように人ごみに紛れエレベーターに近づいた。二台やり過ごし、空っぽのエレベーターに乗り込む。五階のボタンを押した。
 これからの手順をもう一度頭でなぞる。
 木下は金を出せと要求するだろう。二百万の金を出してみせる。そのあと満足したあいつに酒を出す。酒好きのあいつは断るはずがない。隙を見て薬を使う、眠りについたら裸にし、バスタブにお湯を張り、その中に沈める。
 不審死と解剖されても、あいつは「デパス」を常用していたと医者が証言するだろう。最初に俺を訪ねたときに、あいつのポケットからこぼれ落ちて光った薬、すぐに「デパス」だと分かった。眠れないと武田も同じ精神安定剤を医者に処方されたことがある。結果事故死で処理される。
 全てはこれで片付く。欲をかかなければ死ぬこともなかったのに。いや、欲だけじゃない、秘密を知っている以上放っては置けない男でもある。
 だが、彼の脅しもすぐに終わる。五階を示す光が点滅しエレベーターの扉が開く。用心深く武田は廊下の人の気配を調べる。静まり返ったグレイのカーペットが抑え気味の灯りの中を伸びている。武田は足音を消し五〇八号室へと向かった。
 ドアを叩く、返事が無い。武田はハンカチをドアノブにかけ、廻した。
「武田だけど、居るのか?」
 ドアの隙間から声が漏れてくる。誰か先客が居るのか? すぐにテレビからの音声だと分かる。部屋に入ると、窓際の椅子に木下が座り背中を見せている。
 テレビに夢中になって気付かないのか、武田はもう一度声をかけた。
「俺だ、金を持って来た」
 何の反応も見せない。テーブルの上にはグラスとウイスキーの小瓶が載っている。
 酒に酔って眠った?
 チャンスだ、余計な手間が省けた。木下の背後に近付き手を伸ばそうとした、その手が途中で止まった。首に巻かれた茶色の線が見える。その線は首の後ろで二、三回捻られている。
「まさか!」
 武田はゆっくりと前に回ると木下の顔を見た。
「わあ」と声が漏れそうになるのを右手で抑えた。
 あの赤いらっきょう顔は青黒く変色していた。
 頭の芯が痺れ、思考が空回りし、身体が硬直している。そのとき部屋の電話が鳴った。激しく心臓が跳ね上がった、それに追われるように部屋を飛び出した。
 途中の時間は記憶が飛んでいる。気が付いたときには電車のつり革にぶら下がり、窓の向こうの闇を見つめていた。
「一体、誰が?」
 誰でもいい、あいつを処分してくれた相手に感謝したかった。これで、秘密を知る人間はいなくなった。窓に映った自分の顔に安堵の笑みが浮かんでいる。だが、降りる駅に近づく頃、血の気が引くのが分かった。
「指紋!」
 五〇八号室の扉、部屋を飛び出すときに俺はハンカチを使っただろうか?
 全く覚えがない。恐らく自分の指紋が残っている。木下の死に我を忘れてしまって無防備でつかんでいるはずだ。だがもう引き返せない。武田は自分の駅で降りるのを忘れていた。


 四日ほど浅い眠りが続いている。邪推だけが頭の中を駆ける。
 木下の部屋に入るときに誰かに見られたかもしれない。木下との関係知っている奴は、利恵の顔が浮かんだ。
 七時のニュースで事件を報じていた。
 目立った進展もないのか、すぐに他のニュースに切り替わった。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
 利恵の態度はいつもと変わらない、それだけ不気味に思える。
 午後一番に利恵が来客を伝えた。
「誰?」
「杉田さんっておっしゃって。何でもお知り合いの方だとか」
「知り合い?」
 杉田という名前に覚えはない。まさか、と言う思いがする。木下と同じ穴の狢。いやそう何度も同じことがあるはずはない、だが武田の顔は不安に満ちている。
「あのう、留守ですって言いましょうか?」
「え?」と利恵を見る。
「私武田さんが席にいるかどうか分かりませんと言っておきました」
 利恵の顔に緊張が宿っている。武田の顔に不安の色が浮き出たのを見つけ助け舟を出そうとしたのだろう。
「いや大丈夫だ、会ってみよう」
 武田は意をけっしたように立ち上がった。
 男が二人、一人は登山帽を被り、細身の身体をやすっぽい黒のコートで包んでいた。年齢は五十を超えているだろう、日に焼けた顔にシミが見えている。もう一人は若い。二人とも背丈は百七十五センチくらいか。どちらも普通のサラリーマンには見えない。
「私に御用でしょうか?」
「武田博之さんですね?」
 男は帽子を脱ぐと、軽い会釈をした。言葉の端々に関西訛がある。
「そうですが、どんな御用でしょうか?」
「お忙しいところを申し訳ありません、ちょっとお話を聞かせて頂きたいと思いまして。お時間宜しいでしょうか?」
 年老いた男はポケットから黒に金色のバッジを取り出すと、警察の身分証を見せ柿崎だと名乗る。若い男は杉田と言った。
 驚きはしなかった。いずれやってくるだろうと覚悟はしていた。それでも動悸が胸を圧迫する。木下の携帯電話、それからホテルからの電話。調べれば武田に連絡を寄こしたことが分かる。
「じゃあこちらの方に」
 武田は指先の震えを懸命に抑えた。
「それでお話というのはどんなことでしょう?」
「木下満という男はご存知ですか?」と柿崎は写真を差し出した。武田は手に取りチラッと見て
「木下満ですか、ええ知っています」と返した。
「では事件のことも」
 武田は頷いた。この一週間ずっと頭の中で考えていた。下手な隠しだてはしないほうがいい。ただ一点、それを隠し通せれば。
「じゃあ話は早いですね。木下さんとの関係を教えてもらえますか?」
「高校時代の級友です」
「最近お会いになったことは?」
 柿崎は矢継ぎ早に尋ねる。
「成程、お金を借りに来られた。それも三万円ですか。しかしどうしてあのホテルに泊まられていたのかご存知ないと」
「そこまでは聞きませんでした」
「しかし、ずいぶんと頻繁にあなたの会社に電話されている。他になにかあったのじゃないですか?」
「同窓会を開きたいから手伝って欲しいと。でもどうして、そんな事を?」
「いやあ、彼の持ち物から手帳が見つかりましてね、その中に十名近い名前が書かれていたんですよ。そこには武田さんの名前もありました。書かれた人は皆高校の同級生、調べるとその人たちを訪ねているのが分かりました」
 と柿崎は武田の顔を覗き込んだ。
「木下という男はずる賢い男だったようですな」 
 柿崎はポケットからタバコを取り出すと、「宜しいですか」と尋ねた。
 武田が頷くとタバコを口に咥えライターで火をつける。うまそうに目を細めると狭い部屋に煙と一緒にタバコの匂いが広がった。
「すみませんね、どうもこいつがないと落ち着かないもので」
 柿崎は言葉を続けた。
「彼は昔のクラスメイトを訪ね、あらぬ作り話をし、それで金をせびり取っていたようです」
「え、どういうことです?」
 柿崎の言う意味が分からなかった。
「うまく考えたものですな。適当な作り話をして、もし相手が顔色を変えたり、あわてたりしたら、それを口実に、これ幸いにと強請っていたようです。まあ誰でもひとつやふたつ、人には知られたくない秘密って物がありますから。中にはかなりお金を取られた方もいたようですね」
 武田は胸の中で歯噛みをした。
 あいつは何も知らなかった。口からでまかせの言葉を吐いて俺を試していた。そして俺は見事あいつの術中にはまって、うろたえた姿を見せた。俺が顔色を変えるのを見て、してやったりと思ったのだろう。
 考えてみれば、木下は一度も具体的な話はしてはいない。
「もっともそれで命を落とす羽目になったのかも知れませんが」
「すると、彼を殺したのは同級生だと?」
「いやまだ分かりません。その可能性があるというだけです」
 柿崎は短くなったタバコを灰皿に押し付けると、テーブルの上に乗った木下の写真をビニール袋にしまった。
「最後にひとつ、二月十日の七時から九時の間ですが、どこで何をされていたのか教えていただけますか?」
「アリバイですか」
「お気を悪くなさらないでください。手帳に名前が書かれていた方皆さんにお聞きしていますので」
 武田は七時過ぎまで会社に居て、そのあと街をぶらぶらして家へ帰ったと告げた。
「会社を出られた正確な時間は分かりますか?」
「タイムカードを見れば。ちょっと待ってください」
 受話器を取ると総務課に連絡した。
「七時四十五分ですね」
 柿崎は手帳に写し
「それで家に戻られたのは?」と訊ねた。
「八時四十分を過ぎたころだと思います。ひとつ駅を乗り過ごしましてね。降りたときに時計を見たら八時三十分を回ったところでしたから」
 他に二三の質問を済ますと、二人は「ありがとうございました」と会議室を出た。


 コツコツとドアを叩く音がした。こんな時間に誰がと武田は布団を抜け出る。
「誰?」
「あのう、私です」
 控えめな声が返ってきた。利恵? 声の主は利恵に間違いなかった。だが、どうして利恵が自分を訪ねてきた。武田は慌ててパジャマの上にジャンパーを羽織ると、ドアを開けた。
「ごめんなさい、急に訪ねたりして。心配だったから」
 熱があるから休ませて欲しいと、会社に連絡していた。それを利恵は心配して訪ねてきたようだ。
「ごめんね、ちょっと待ってて」
 武田は利恵を玄関口に待たせ、慌てて布団を片付けた。
「汚いところだけど、どうぞ」
 ファンヒーターのスイッチを押し、コタツの電源を入れる。
「コタツに入って、すぐに暖かくなると思うから」
「すみません、お邪魔します」
 利恵はコタツの前に正座すると物珍しそうに部屋の中を見回している。暗い部屋もそれだけで明るくなった気がする。若い女性の放つ独特のオーラなのだろう。湿っぽい臭いのなかに春のような香りがたった。
 武田はキッチンに立つと手早く熱いお茶を入れた。
「少しは温まるよ」
「もう身体は大丈夫なんですか?」
「ああ、一日寝ていたからね、もう熱も下がったし」
 利恵は湯飲みを抱きかかえるようにして、口に当てた。青白かった利恵の顔に少し赤みが戻ったようだった。
「そうだ、武田さんお食事は?」
「まだしていない」
 食事を取るのを忘れていた。いや空腹を覚えていなかった。
「よかった。わたしお料理作ってきたの」そう言って持っていた紙袋の中からタッパウエアーを三つ取り出した。
「冷えちゃっているけど……電子レンジあります?」
「ああ、それだったらキッチンに」と立ち上がりそうになる武田を「休んでてください」と押しとどめると、利恵はコタツから出た。四畳半のキッチンにある電子レンジにタッパウエアーをいれる。チンという音を待って取り出した。
 温まった料理は、酢豚、海老のチリソース、温野菜、それにおにぎりがついていた。
「美味しいかどうか自信ないけど、食べてみてください」
 これだけの料理いつ作ったのだろうか。昼間は会社だったろうに、その疑問をぶつけた。
「私も昼からお休みもらったんです」
 と、いたずらっぽく笑った。
「君も食事はまだなんだろう、一緒に食べよう」
「じゃあ、私も頂きます」
 利恵が嬉しそうに微笑む。
 食欲はなかったが、利恵への感謝の気持ちを表すために武田は箸をつけた。
 奇妙な甘さが転がっている。この部屋で若い女性と二人で食事をしている。そんなことが起きるとは考えたこともなかった。初めてのことであった。勿論この部屋に女性を誘うことなど今までになかった。
 利恵の料理の腕は想像を超えるものであった。美人で仕事が出来、料理が上手、男にとっては理想の妻だなと、武田は利恵を眺めた。
 ふっと目があった。利恵が恥ずかしそうに微笑む。
「すごく美味しいよ」
「本当? 嬉しい。武田さんに喜んでもらって作った甲斐があったわ」
 その顔を見て可愛いと武田の胸が鳴る、そんな感情は抱くのは何年ぶりだろうか。ずっと昔のような気がする。
 だが今度も駄目だろう。肝心なときになれば、あいつが邪魔をする。あのときのあの瞳が女性の顔と重なってしまう。
 由梨絵、ずっと頭に住みつき苦しめる女だ。
 見られていると感じた。通学の電車の中のことだ。
 視線の先を辿っていくと、由梨絵の顔があった。つり革にぶら下がり立っている乗客の間から由梨絵が見える。
 セーラー服のミニスカートから、すらりと伸びた脚の素肌がまぶしい。
 ボブカットの髪に、鉛筆でなぞったような二重まぶた。定規で引いたような鼻筋は、アイドルタレント顔負けの美人。おまけに学内模試ではいつも上位クラスを占めている。武田の通う高校は県内でも有数の進学学校であった。頭が良くて美人、由梨絵に憧れる男子生徒は多かった。
 そんな由梨絵に武田は心を奪われた。勿論自分の気持ちを打ち明けることなど出来ない。あまりにも頭の出来が違う。遠くから眺めているだけで精一杯だ。そんな高値の花が自分を盗み見ている。視線が合ったときに由梨絵が笑った。いやそんな気がした。武田の心は一気に舞い上がった。もしかしたら、彼女も俺のことを。若い欲望は都合のいいように物事を解釈させる。
 ある日由梨絵が話しかけてきた。他愛ない話だったが、武田には愛の告白に思えた。やはり彼女も俺のことを好きなのだ。それを機に毎朝挨拶を交わすようになった。
 武田の頭の中は由梨絵で一杯だった。夢の中にも現れた。由梨絵は優しく微笑みかけた。
 武田は思い切って心の中を打ち明けた。由梨絵、君が好きだ。君が欲しい。由梨絵が答えた、私も愛している。堪らず由梨絵を引き寄せると、口づけを交わした。柔らかで熱い唇は本能を刺激した。いつの間にか由梨絵は全裸になって、身体を開いていた。目が覚めると下着が汚れていた。
 バレンタインデー、夢が打ち砕かれた日だった。
「お前何個貰った?」
「俺か、一個だよ」
 友人たちが貰ったチョコレートの数を披露し合っている。
「お前も一個か、俺もだ。もうちっと貰えると思ったんだけどなあ」
「杉崎のやつ五個か六個もらってたろう」
 学年でいつもトップか二番目の学力を誇っていた。おまけにスポーツが出来、男が見ても惚れ惚れするような顔をしている。
「それに桑野から貰ったらしいぞ」
「ああ、知っている。メッセージ付きの手作りのチョコレートだってさ。まあ桑野と杉崎じゃ似合いだもんな」
 その言葉は武田を打ちのめした。
 由梨絵の気持ちを聞かなければ。何故俺ではなく杉崎なのだ。いや百歩譲って杉崎にあげるのを許そう。しかしこの俺にないとは解せない。携帯を取り出すと、由梨絵の携帯にメイルを入れた。
「五時過ぎに森林公園で会いたい、君にとって重要な話がある」
 駅へ向かう途中にある公園、この寒い時期に森林公園にやってくるような物好きはいない。それに午後五時以降は全員が下校しなくてはならない規則になっていた。
「なに、重要な話って?」
 最初から由梨絵は機嫌が悪かった。
「ごめんなさい」
「寒いんだから、話があるなら早く言って」
「……じつは……」
 顔を見るまでは強く問い詰めてやろうと思っていたが、由梨絵を目の前にするとうまく言葉がでてこない。
「じれったいわね。何なの? 用がないんなら私帰る」
「君、……杉崎にチョコレートをあげたんだって?」
「なにそれ。いいじゃない、私が誰にチョコレートを上げようと。あなたにどうこう言われる筋合いはないわ。そんな事を聞くために私をよびだしたの?」
 武田は言葉に詰まった。由梨絵の言っていることは正しい。正しいが俺の気持ちはどうしてくれる。相思相愛の仲じゃないか。俺はお前から貰えるものと思って期待していたのだぞ。女の子が好きな男にチョコを上げる日だろう。どうして俺にくれない。武田は泣きそうな表情を見せた。
 由梨絵は俺の表情から感じ取ったようだ。
「え、なに。嫌だあ、あんたまさか私から貰えると思っていたの? 嘘お、信じられない。やめてよね、そんな気持ち、これっぽっちもないんだから。私帰る」
「待ってくれ」
「なに」っと身体をねじる。
「由梨絵、君は毎日僕と話してたじゃないか。あれはなんだったんだ?」
 やっとの思いで出した言葉だった。
「何言ってんの、あんたと話などしないわよ」
「だって、毎朝電車で……」
「電車……? あああれ、馬鹿みたい、あれたんなる朝の挨拶じゃない。おはようって、どこが会話なの。それにあんたがあたしに気があるようだったから、からかってみただけ。あんた少し頭おかしいんじゃない。病院で一度診てもらったら。ああ気持ち悪い」
 由梨絵は身体をぶるっと震わせると、無視したように背中を向けた。
 許せん。俺の気持ちを弄びやがって。怒りが身体を染め上げた。ずたずたにされたプライドはかろうじて保っていた理性を崩し去った。
 由梨絵の肩を掴むと、ぐいと引いた。身体がくるりと向きを変える。
驚いたような由梨絵の顔に武田の右こぶしが突き刺さった。
「あ」っと叫んでコンクリートの上にひっくり返る。青白い外灯の光にミニスカートがめくれ白い脚と、小さな青色の下着が目に入った。
 かっと頭に血が上る。由梨絵は気を失って下半身を晒している。夢の中で何度も犯していた白い肉体が転がっている。
「畜生」
 武田は青色の下着に手をかけた。淫らな叢の色が目に入ったときに、身体の中心が熱く膨れ上がった。停めることなど出来ない。本能のままに由梨絵の下半身を割ると体を沈めた。同時に身体の中を電流が走り、由利恵の中で弾けていた。
「いやあだあー」
 突然由梨絵が大きな声を出した。慌てて左手で口を押える。逃れようと由梨絵は必死の抵抗をしている。由梨絵の爪が武田の顔を引っ掻いた。
「誰かあー」
 そのあとは覚えていない。白い首に持っていたギターの絃が絡んでいた。
 それ以来女を抱けない。
 ベッドの上で女性に挑もうとする武田の目に、女性の顔が醜く歪んで由梨絵の苦悶の顔と重なっていく。欲望は恐怖に変わり、女を跳ね飛ばしている。
「だいぶ遅くなったね。途中まで送っていくよ」
 時計は十一時を指そうとしていた。
 利恵は意外という顔を見せた。何か言いたそうにしている利恵を無視して武田は立ち上がった。女性が一人住まいの男の部屋を訪ねる、それがどんな意味を持っているか、分からない武田ではなかった。利恵も意を決してやってきていたのだろう、だが今はそんな気になれない。
 利恵も立ち上がるしかなかった。

 
「お呼びして済みませんね」
 柿崎の顔にはどこか余裕が見える。横には杉田が座っていた。将棋の駒のような仏頂面が険しさを増している。
 何も無い部屋だった。四角い部屋に明かり取りの窓が一つ、テーブルがあって、安っぽい椅子。部屋の隅に書記官がいる。テレビで見るのと同じだった。
「武田さん、本当のことを話してくれませんか。あの日あなたは木下さんをホテルに訪ねていますね?」
 いずれはと覚悟していた。誰かにホテルに入るのを見られたに違いない。あの時毛利が居た。隠れたつもりでも、気づかれたのかも知れない。尋問を受けたときの答えは用意している。しらをきる気はない、それでも武田の手のひらは汗が滲み出ていた。
「武田、観念しろ。全部分かってんだ!」
 杉田が怒鳴るのを柿崎が抑える。
「どうして私が彼のホテルを訪ねたと?」
「あなたがあの部屋を訪ねたと分かる証拠が見つかったのですよ、貴方もそれをご存知じゃないのですか?」
 指紋、或は……やはり毛利が。
 防犯カメラからは自分の姿が分からないようにとコートの襟を立て、ハットを目深にかぶり、さらに死角を選んでホテルに入った。だが目の前の柿崎は自信に満ちた顔をしている。
 はったりではないのが分かる。
「申し訳ありません、仰るとおり彼を訪ねました。彼から、どうしても会いたいと言われ、八時少し前に部屋を訪ねたのですが、でも、そのときはもう彼は死んでいました。それでびっくりして部屋を飛び出したのです。嘘ではありません」
 指紋を採取されれば、分かることだ。武田は用意していた言葉を吐いた。
「なぜ、警察に通報されなかったのですか?」
「分かりません、多分気分が動転していたのだと思います。怖くて、逃げなくてはと、それだけがあったような気がします」
「ふざけんな、そんな言い訳が通用すると思っているのか!」
 机を叩き、またもや杉田が横から口を出した。
「本当です。嘘は付いていません」
「ところで武田さんの血液型は何でしょう?」
「A型ですが」
「A型ですか。じゃあ、ちょっとこれで歯茎の裏側をこすってもらえますか」
 柿崎はプラスチックのケースに入った麺棒を取り出し、武田に手渡した。
 武田は言われたとおりめん棒でこすると、戻しためん棒をケースに入れ、杉田がそれを持って部屋を出た。恐らくDNAを調べるのだろう。
「木下さんは、あなたに同窓会の手伝いを頼むのにホテルから電話したとおっしゃいましたね?」
「ええ、そのときはその話でした」
「他には?」
「いえ何も」
「そうですか、じゃあ今日のところはこれでお帰りなって結構です。ただし、旅行はしないでください」
 結果が出るのは一週間ほどだという。
 何度思い返しても自分のだ液や血液を残した覚えは無かった。それとも自分の知らないところで何かを残したのだろうか。武田はもう一度自分の行動を振り返ってみる。
 大丈夫だ、何も無い。DNAの検査も俺とは関係ない。そして木下は死んだ。いや、あいつは初めから何も知らなかった。


「柿崎さん、参りましたね、これ検査の間違いってことないですかね?」
「そんなはずは無いだろう」
 言いながらも、柿崎も戸惑いを隠せなかった。武田の血液型がA型だと聞いたとき、決まりだなと思ったが、とんだ早とちりだった。
 木下の首に巻かれた銅線の切れ端に残された血液、犯人が殺害するときに指を引っ掛けたものだろうと推測された。
 犯人は木下が脅した相手の中にいる、十人の当日の行動を確認した。その結果武田を除いてはっきりとしたアリバイがあった。
「しかしあいつ以外に今のところ誰もいないんですよ。これじゃ初めからやり直しですか」
「そういうことだ。木下の手帳に載っている以外に誰か脅した者がいるかもしれん。しかし、犯人は銅線の性質をよく知っている人間だと思う。木下の周りで銅線を扱っている人間がいるか、もう一度当たるしかないな」
「電気関係の人間ですかね?」
「そうとも限らんだろう」
 柿崎は木下の首に巻きついていた銅線を思い出した。直系一ミリほどの細くて柔らかで簡単にひねることが可能だ。だが一度首に巻かれ捻りを加えられたら取り外すのは至難の業。どんな職業の人間が銅線を使う。電気関係、電信電話、盆栽に使うとも聞いている。形を整えるのに便利らしい。だが銅線などどこででも手に入る。
 木下の手帳に載った十人の職業、強いて言えば武田ぐらいか。
「それにしてもガイシャはなぜあのホテルに宿泊していたんでしょう?」
「誰かと会うつもりだったのだろう」
「すると、この三人になりますよね」
 木下が死ぬ前の三日間、五人の人間に何度か電話をしている。そのうちの二人はホテルとは全く違う遠い場所だった。
 武田、小久保、そして水沢。
 小久保と水沢、二人ともはっきりとしたアリバイが存在する。曖昧なのは武田。しかしDNAは合致しない。
「ホテルの防犯カメラにはこの十人は写ってなかったんだな?」
「何度も調べましたが、居ません」
「もう一度調べてくれ。それと念のため二人のDNAを調べてみるか」
「二人とは?」
「小久保と水沢だよ」
 杉田は一瞬、訝しそうな視線を向けたが、すぐに柿崎の意図を理解すると、
「じゃあ柿崎さん、出掛けますか」とコートを握った。
「ああ、そうだな、その前にちょっと調べておくか」
「え、何を?」
「すぐ済むよ」言うと、柿崎はコンピューターを立ち上げた。


 武田はいつもと違う心の軽さを感じていた。
 すでに十日以上は過ぎている、だが柿崎からは何の連絡もない。警察はDNAの検査の結果シロと判断したのだろう。
心の変化は利恵との間にも起きている。
「今日は新しい料理に挑戦したの、おいしいかどうか自信ないけど」
 利恵が手作りの弁当とバラの造花を持ってやってきた。恥じらいながらも、女としての自信が顔に満ちている。そんな利恵を抱き寄せ唇を合わせると、利恵の舌が待ちわびたように武田の舌に絡みつく。
 呪縛から解放された、そう感じたのは二日前。
 由梨絵の亡霊が現れない、武田の身体の下で喘ぐ利恵の顔はいつまでも彼女そのものであった。利恵から誘われ食事をし、酒を飲んだ。その夜は己の心にブレーキをかけることもなく、かなりの量を喉に流した。酒に酔った利恵は一段と美しかった。
「武田さん、どうして結婚しないんですか?」
「残念だけど相手がいない」
「じゃあ相手がいたら結婚するんですか?」
 目元が潤んでいる。生臭い女の色気が滲んでいた。
「そうだね、江上さんみたいないい人がいたら、その気になるかも知れない」
 あっ、というように利恵の表情が変わった。喜びと恥じらいが重なりあっている。困ったように面を伏せたが、緩々と顔を上げると、
「私みたいな女でいいんですか?」
「僕みたいな男でいいの?」
 利恵は大きく頷いた。
「わたしずっと武田さんのこと好きだったんです」
 賑やかな繁華街の裏通りにある、小さな連れ込みホテルへもつれるように吸い込まれていった。
 裸になった利恵の身体は武田の中心部を大きくうずかせた。お椀をかぶせたような乳房、蜂のようなウエスト、豊かなカーブの腰、大腿部から足首に向かって理想的な脚線美を描いている。締まった足首は特に武田の好みであった。
 武田は細い腰を抱き寄せると、唇を合わせ舌を絡めた。右手と舌先を使って丁寧に愛撫を続ける。胸から腰、更に下腹部へと指先を這わせる。中心部が充分に潤ったのを確認すると、身体を合わせた。
 武田の下で利恵が喘ぐ。利恵は懸命に陶酔の世界に入ろうとしている。顔が歪む、またかと不安がよぎる、だがそれは利恵の顔だった。武田はゆっくりしたリズムで利恵を攻める。
 現れない、あの苦悶に満ちた由梨絵の顔が、瞳が。
 俺は解放された、武田は激しい律動を加えると、利恵の悲鳴とともに思い切り利恵の中に熱いものを放射していた。
「そんなことはないよ。利恵が作ったのは何でもおいしいさ。それにこのバラも見事だし、まるで本物みたいだ」
 武田はバラの花束を指先でくるくると回した。
「どうやって作るの」
「簡単よ。これの芯は銅線なの。その上にグリーンの紙を巻いていくの。ほら簡単に曲がるでしょう、銅線って柔らかでどんな形にでも出来るから便利よ」
「銅線?」
「ええ、急にアイデアが浮かんだときに、形を作ってみるの」
 ほら、と利恵はバッグを開けると、まかれた銅線を取り出した。
「利恵、君は……」と声を掛けようとしたときに、ドアをノックする音が聞こえた。
 ドアの前に立っていたのは、柿崎と二人の男だった。見知らぬ男たちは鋭い目つきと、がっちりとした身体をしている。
「こんな時間に申し訳ありませんね……、あ、貴方もいらした、丁度良かった。ところでこちら岐阜県警の野沢刑事と栢山刑事です」
「武田博之だな、桑野由利恵殺害容疑で逮捕状が出ている」
 野沢は紙をひらひらと目の前で振った。
血が下がるのが分かった。
「どうして」と声を出している。
「いやあ、私の詰まらん好奇心が首をもたげましてね。あなたは木下さんに脅されていないように言われた。しかしなんで木下さんがあのホテルに宿泊されたか不思議でね、それに何度もあなたの会社に電話されている。どうもすっきりしなかった。若しかしたら貴方も脅されていたのではと気になってあなたの高校と大学時代の事件を調べてみたんですよ。すると同じ高校の女子高生が乱暴され殺害された事件がみつかった。まさかとは思ったんですが、それであなたのDNAを照合してみたら、これが大当たりということになりましてね」
 武田の手を握る利恵の手が震えていた。
「木下が殺されたお陰で、とんだおまけがついてきました。喜ぶべきか、それとも悲しむべきか」
「喜ぶべきでしょう、死んだ桑野由利恵はこれで成仏出来ます」
 野沢が強い口調で言った。
「そういうことでしょうね」
 柿崎は野沢に目配せをした。野沢は手錠を取り出すと武田の手首にかけようとした。
「すみません、支度させてください」
「いいだろう」 
 武田は二人から離れると利恵を抱きしめた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい、私武田さんを助けようと思って」
「いいんだよ、お前のせいじゃない」
「でも私が余計なことを……」
 利恵が涙を浮かべながら耳元でつぶやいた。
「どいつもこいつも、余計なことを」ぐっと言葉を飲み込む武田に柿崎の声が聞こえた。
「ところで江上利恵さん、あなたも署まで同行願えますか?」
「どうして」と武田は振り返った。
「いや、ホテルのカメラを調べたら、貴方の会社の毛利さんが写っていましてね。誰かを探しておられるようでした。それでお聞きしたら、なんでも江上さんがあの夜あのホテルに入ったのを見たとおっしゃった」
 柿崎の顔が笑っていた。
 了


2012/05/31(Thu)08:00:48 公開 / うらはら
■この作品の著作権はうらはらさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
作者からのメッセージはありません。
この作品に対する感想 - 昇順
はじめまして、読ませてもらいました。
木下の詐欺のやり方に関しては感嘆したのですが、肝心の話筋や事件のトリックの作り込みが甘いと思います。使用されている表現などは難しくなかったのですが、武田の過去の回想など唐突に進行している時間軸や内容から逸脱する部分があり、冒頭から読みにくさを感じる部分がありました。事件と直接関係のない人名や細部描写も、カットした方がもっとスマートにみえてくるのではないでしょうか。
武田を主体におきすぎてるように感じられたので、もっと他の登場人物に関する行動の描写を取り入れた方が、文としての緩急もつくのではないかと思いました。
話の流れや設定、オチは直接口出しができる類いのものではありませんが、犯人が刑事にも手を出してしまったり、犯人の正体に武田が気付くなどした方が話が広がっていいと私は考えます。あるいは刑事が目星がつかないまま武田を別件で取り調べようとしたのに、誤解して犯人が正体をばらして事件が解決、というのは陳腐すぎるかもしれません。

個人的に気になったこととして、ミステリにおける警察の行動についてはリアリティを追及した方が良いと思います。
まず他の創作作品でもそうですが、警察がいきなり職場に乗り込んできて事情聴取することはほとんどありません。武田さんが完全に犯人だと思われているか社長なら問題はありませんが、ただの社員であれば「警察から事情聴取を受けた」というのが一発で判明しますので、さすがに空気を読んでくれます。緊急性を要さない場合、警察署へ直接赴くことになるかと思いますが、ここは作品における描写の仕方もあるので、演出としては乗り込んでくるのもアリだとは思います。
取り調べ室についても、警察から証拠について言及することはありません。家や鞄から凶器が発見されれば別ですが、指紋やアリバイが一致しただけで「お前がやったんだろう!」は無理があります。しかも指紋採取についても違法な方法で検証されたものなので、証拠能力がありません。もちろん犯人を特定する為の捜査では重要な証拠ですが、「自分がみせた写真についた指紋」と刑事が話す事は絶対にないです。「こいつが犯人だ」と思っていたなら、まずは家宅捜索を行ったでしょう(事情聴取のあとで解放すると、犯人が証拠品を隠滅する可能性があるため)。
DNAと銅線の関連についても、銅線自体はどこでも手に入るものなので「なにか特殊な職業」とは考えないのではないでしょうか。DNAの採取の方法についても前歯の裏というのは初めて聞きました。普通は頬の裏とかだと思うんですが、そういう部位からも採取できるのであればすいません。

細かい点をねちねちと申し訳ありませんが、なにか参考になればと思い書かせてもらいました。
2012/05/30(Wed)21:41:540点AoA
感想有り難うございます。

やはり、現実と回想の部分、読みにくかったようですね。今回、無理して試してみたのですが、
元に戻します。

刑事の出現についても、最初の作品では、知り合いが訪ねてきたとなっていますが、それもはしょりました。また指紋の採取についても、どうするか迷いました。おっしゃるとおり、警察は証拠に
ついてあれこれ言及することはないですよね。

DNA採取の方法で、歯の裏はこれは私の書き間違いで、歯茎の裏です。

色々と指摘していただき、参考になりました。
2012/05/31(Thu)00:22:160点うらはら
合計0点
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