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『鏡の向こうには届かないけれど』 作者:うぃ / リアル・現代 異世界
全角31003文字
容量62006 bytes
原稿用紙約92.25枚
 一目で恋に落ちた。
 後ろ姿しか見えていないのに、運命の人がいるとすれば間違いなく彼女だと断言出来るほど、僕は名前も知らない目の前の女性に心を奪われてしまった。
 体中から汗が噴き出て、校内マラソンを終わらせた後だってココまではならなかったという程顔が真っ赤に染まっていくのだが、それなのに苦しさは露ほども感じられないのが不思議でならない。
 アスファルトの焦げた匂いも、蝉の鳴き声も、肌を焼く日差しの強さも感じるのに、不思議と不快感だけが伴わない。前に進もうとしても上手く足を踏み出せなくて、そこまで至ってようやくこれが夢なのだと理解した。
 夢だという事は、彼女もまた、まやかしなのだろうか。
 当然といえば当然だ。彼女の様な人知を超えた美しさをもつ人間が、この世界に存在する方がおかしい。神様が僕に一度だけ見る事を許した天使か何かだとでも言った方が、まだ納得がいくというものだ。
 いつ覚めるとも知れぬ夢である。ならば時間が許す限り彼女の事を眺めるのが、僕に出来る最良の行動であろう。目を覚ました後にも彼女の事を覚えているようにと願いながら凝視していると、
「綿貫遼、今見ている?」
 ハイトーンのよく通る声だった。
 辺りの色を全て飲み込んだような真っ黒なショートカットの髪の毛をなびかせて、彼女はこちらへと振り返った。
 真紅の着物が風も吹いていないのにヒラヒラとはためいて、下駄に付けられた鈴の音がカラカラと鳴いた。コンパスで描いたみたいな綺麗な丸い輪郭の上にある意志の強そうな僅かに吊り上った瞼は、極めて精巧にできた日本人形のようにも見える。
 意味も判らずに奪われた心に、確信が乗せられる。僕は生涯彼女を超える美しさを持つ人間を見つける事は叶わず、例え誰かと恋に落ちても、それは挫折と妥協の末にある醜い物になるだろう。
「あぁ、返事は別に良い。
 どうせアンタが何を言っても僕には聞こえないし、別に聞きたくもないし」
 蔑むような言葉さえ、今はその音が愛おしい。彼女の口にする罵倒の言葉は、神の祝言にすら匹敵する至福の音だ。
 彼女は何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回して、探偵がするみたいに顎に手を添えてしばし考え込んだ。声を聞きたくて彼女に触れようとするのだが、どう頑張っても二、三メートル程度しかないこの距離を埋める事が僕には出来なかった。
 そんな僕の事なんて見えていないかの様に、彼女は何かを思いついたように手を一度叩き、うんうんと頷いて、
「取り敢えず、もしもこれが見えてたら明日の十時には眠りなさい。
 今はちょっとばかり時間が足りないから、理由はその時にでも教えてあげるよ」
 彼女はそう言ったきり僕に背を向けて歩いて行ってしまう。
 遠のいていく彼女の姿が揺らいでいく。三秒も過ぎた後にはまるで元から無かった陽炎みたいに彼女の姿は消え去って、ここに残るのは僕だけになってしまった。
 視界いっぱいに広がる緑道の木々が、照りつける太陽をはじき返して爛々と光り輝いている。中央だけ綺麗に整備された道路の右脇には、底が見えるほど綺麗な水の流れる川がある。しかし不思議な事に、そこには遊んでいる子供の一人もいなかった。
 何処かで、見覚えのある風景だ。
 間違いなく知っているのに、どうしても思い出せない。或いは、何かが薄く違っているのだろうか。例えるのなら、そう、ほぼ完成に至ったジグソーパズルの最後のワンピースが、誰かの悪戯で全く違う別物に変えられてしまったかのような。
 頭の中で不快な靄が渦巻いている。どれだけ悩んでも答えは出ず、臨界点まで至った苛々から僕の両足が地団駄を踏もうとして、
 右足が上がる。
 左足もだ。
 視界と意識が急速にクリアになっていき、足も腕も実体を持ち始める。そうしてきっと僕は今から目を覚ますのだと確信して、そこでやっと気がついた。
「……あ」
 そう言えば、ここは僕の家の前にある緑道じゃないか。


     ◆


 突き刺す様な寒さで、目覚ましが鳴るよりも早く目が覚めた。窓を開けて外を覗き見ると、ちらほらと粉雪が舞っている程だった。
 夢の中とはまるで正反対の外気に顔をしかめる。もしも今日が小春日和だったとすれば、あの幸せな夢をもう幾許か見る事を許されたのだろうか。
「……十時、か」
 何をバカな事を、と我が事ながら思う。もしも僕が他人の体験談としてこんな話を聞いたとすれば一笑で切り捨てる所であるが、どうにも今回は話が違う。
 あの夢は、あまりに現実味を帯びていた。
 そして、僕には以前にも何度か近い感覚を伴った夢を見た事がある。
 憶測だけで動くのは愚かしい事だ。しかし今回は大したリスクがある訳でもなく、そして何より僕は何処までも彼女に心を奪われてしまった。
 仮面でも貼り付けた様な無表情と友人に言われた僕の顔が、だらしなく緩んでいくのを感じる。透き通る様なうなじを、絹糸のような指先を、高名な音楽家の歌声にも劣らぬ声を、僕の理想をそのまま映し出した様な彼女の姿形を、思い返すだけで下品な笑いが零れてくるのを止められない。
「……十時、か!」
 跳ね上がる心が、そのまま言葉に表れる。歌う様に楽しげな声を吐き出して、僕は着替えを手に取り浴室へと向かった。
 シャワーの熱が心地よい。十二月を中頃まで過ぎた最近では、毛布と布団を被っても肌寒さを感じる。こんな季節にでもミニスカートを履く一般の女子高生は、普段はあんなにおちゃらけているというのに、どうしてこんな事に関しては我慢強いのだろうか。
 浴室から出て、鏡を除きながら髪の毛を解かしていた。いつもながらよく出来た端整な顔立ちだと思う。彼女と比べれば勿論劣るが、それでも素直に美しいと言っても良いレベルである自信がある。
 下着を付け、少しきつめのジーンズを履き、分厚い紫のダウンジャケットを見に包んでニットの帽子をかぶった。まだ少しばかり肌寒さが残るが、身形を崩さない内ではこの程度の厚着が限界である。
 居間に向かうと、既に父が朝食の用意を済ましていた。普段ならば僕が用意するまで部屋に籠って見た事も無い程複雑な機械を弄くりまわしている父が、一体どんな風の吹き回しであろうか。
「どうしたんだい、父さん? 随分と珍しい事もあるじゃないか」
 手に持った焼鮭をテーブルの上に置き、父は不衛生に伸び切った髪を振り撒けて僕の方へと向き直って笑顔を浮かべた。恐らく一年は目にしていなかったであろうその表情のあまりの違和感に、背筋に悪寒が走る。
「今日は機嫌が良いんだ。
 なにせ、長年の悲願が成就したんでな」
「悲願って、あの父さんの部屋にあるよく判らない機械の山の事かい?」
「そうだ。
 思い返せば長い道のりだった。アレに手を出したのは、そうだな、お前が生まれてすぐの頃だっただろうか」
「前々から気になってはいたんだが、あれはいったい何に使う物なんだ?
 生憎と僕は貴方から生まれたとは思えない程、機械にはてんで疎いものでね。皆目見当がつかないんだが」
 父は少しの間閉口し、
「……強いて言えば、ノアの方舟の様な物だ」
 良く判らない言葉を口にした。
 こちらの頭に疑問符が浮かんでいる事など気にも留めず、父は耐えきれなくなった様に言葉を続ける。まるで、自慢話でもする子供のようだった。
「私には、長年再開を待ち望んでいた大切な人がいてな。アレはその人と会う為に必要な物なのだよ」
「よく判らないけど、つまりアレはレーダー装置の様なものという事かな?」
「そんな稚拙な物では無いが、まぁ良いさ。
 それよりも、早く朝食を済ませてしまおう。どうせなら食事は暖かい内に済ませてしまった方が良いだろう?」
 テーブルに座りこみ、父は先程の笑顔をしまい込んで速やかに食事を取り始めた。
 奥歯に何かが引っ掛かった様な父の言い草に疑念を抱きながらも、促されるままに食事を始めた。筋金入りの頑固者の父を僕が問い詰めた所で、結果は推して知るべきだろう。
 準備の時間が浮いたので、今日は普段よりも余裕を持って食事を取る事が出来た。食事が終わって歯を磨き終えた時点での時刻が七時五十分。通学に掛かる時間はほんの十分程で、今から家を出ても早く着き過ぎてやる事が無い。
 どうすれば浮いた時間を有効に活用できるかと考えて、僕は携帯を手に取った。アドレス帳を開いて、カーソルをハ行の所にある『橋本孝介』の名前に合わせ、通話のボタンを押した。
 数秒の間の後、
「もしもし、こんな早い時間にどうした?」
 電話のコールの音も待たず、目的の人物の声が聞こえてきた。
「なに、今日はいつもよりも少しばかり早く登校の準備が出来てしまってね。
 一人で布団に籠ったり誰もいない教室で待機していても、つまらないだろう? だから」
「だから、俺に声を掛けたって訳か?
 なんでぃ、お前はやっぱり頭が良いけどバカだなぁ。もしも俺がまだ準備が出来て無かったらどうするつもりだったんだ?」
 言葉を被せられて、少しばかり心がささくれ立つ。
「君の準備が出来ていようがいまいが知った事では無いさ。
 僕が来いと言ったら、君に拒否権があるわけない。今更そんな当然の事を、わざわざ確認させないでくれたまえ」
 電話の向こうからは、呆れた様な鼻で笑う声が聞こえてくる。
「お前って奴は本当に自分勝手な奴だなぁ。そんなんじゃいつまでたっても友達が少ないままだぜ?」
「別に、無理矢理外面を取り繕ってまで友人を増やそうとは思わないさ。
 僕には君という友人がいる。それ以上を望むのは、ナンセンスだと思わないかい?」
 孝介の息を飲む音が聞こえる。通話料が勿体ないなと感じ始める程の長い沈黙の後、
「……俺さ、たまにお前が怖くなるよ。
 まさか朝から酒かっくらってる訳でもないだろうに、どうしてそんな背筋が寒くなる様な事を言えるのかねぇ」
「僕は別段変な事を言ったつもりは無いのだがね。
 それより、君はいつになったら外出が出来るようになるんだい? あまり時間がかかる様だと、電話をした意味が無くなってくるのだが」
「ん、俺は別に今からでも出られるぞ」
「了解した。じゃぁ今からマンションの下で待ち合わせという事で良いかな?」
「おっけー、んじゃまた後で会おうか!」
 別れの言葉を口にする間もなく、孝介は急く様に電話を切った。この様子だと、いつも通りの無駄に元気の良い小走りで下へと駆けているのだろう。
 鞄を手に取って、僕も早足に玄関へと向かう。ドアを開けると、もう既に雪は止んでしまっていた。
「おーい、遼! そっちから誘っといてちょっと遅いんじゃねぇの!?」
 雄叫びの様な騒々しい声が聞こえる。
 通路の向こうの階段に、知った顔を見つける。真っ白な無地のTシャツの上に黒と赤を基調としたジャージを羽織った、小柄で童顔な孝介の姿がそこにはあった。
 僕と同じマンションの一つ上の階に住んでいる孝介は、満面の笑みを浮かべて階段を滑り降りていった。比喩表現ではなく、事実手すりの所にしがみ付いて滑り落ちていったのだった。
 いつもの事ながら、孝介は実に頭が悪い。時折目が覚めるような言葉を口にする彼ではあるが、普段の行いは目を覆いたくなる程感情的で幼稚だ。この様な行為も別段珍しい事では無く、今更言及するだけ無駄であろう事は判っている。
 判ってはいるが、溜息くらいは吐いても罰は当たらない筈である。
「おっせー! おせぇおせぇおせぇおせぇ!
 本当にお前はすっとろいなぁ! 全く、自分から人の事を誘っといて何考えてんだか!」
「時間にしてみれば十秒程の違いしかない様に思うがね。
 それなのにここまで薄汚い言葉を吐き出すとは、相変わらず君の器の狭小さは変わっていないようだね。ちょっと安心したよ」
「おぅ、お前を罵倒できるチャンスなんてそうそう無いからな。言える時に言っとかないと鬱憤が溜まって仕方ねぇんだわ!」
 孝介は唾を巻き散らしながら豪快に笑い、学校の方へと歩き始めた。僕よりも頭一つ分大きな体躯に、Tシャツの上からでも判るほどの強靭な筋肉を纏った彼が肩で風をきって進んでいく姿は、先程の言動とは裏腹に、如何にも最近の柄の悪い若者という様な風貌だった。
 僕も彼の後に続いて歩を進めていく。彼は何をするでもなく嬉しそうに笑うばかりであった。
「そう言えば孝介、僕は今日不思議な夢を見たよ」
「どうして他人の夢の話ってあんなに面白くないんだろうなぁ?」
 口にしたのはほぼ同時で、いくら孝介と言えど狙ってこのタイミングを打ち抜くのは不可能であろう為、恐らくは偶々組み合わせの悪い言葉が被ってしまったのだろう。眉をひそめてジト目で彼の事を睨みつけると、孝介は慌てて乾いた笑いを浮かべて、
「あ、あはは! いや、うん、そうかそうか、遼は今日変な夢を見たのか!
 へぇへぇ! それはどんな夢だったんだ!? 俺、マジ気になって仕方ねぇんですけど!」
「……いや、まぁ別に良いんだがね」
 フォローをする気があるのかが、迷いどころである。
「君には以前言った事があった気がするが、僕の見た夢は時々現実に起こる事があってね。
 俗に言う予知夢という物だ。それは夢なのにまるで現実みたいにリアルな感覚を得られて、目が覚めても決して忘れる事がない物なんだが」
「覚えてねぇな。それ俺に言ったのいつの話だよ?」
「たしか、僕が小学生の頃だったかな。
 給食当番の君がカレーの鍋をひっくり返す所を見てね、それを君に言ったのだが信じてくれなかったのだ」
「そんな昔の事覚えてるわけねぇだろ!
 ……でもまぁ、なんだ、全く覚えてないけどカレーを零した事に関しては素直に謝っておこうか」
 遠慮も悪気も無い言葉は、しかし僕の望んだ通りの間柄故に出てくる物だ。
 欺瞞に満ちた関係は要らない。突き刺す様な辛辣な言葉でも、それを隠し持つよりも一思いに穿ってくれた方がずっと良い。
「今後説明するのは面倒だから覚えておいてくれたまえ。
 とにかく、今日はその予知夢に非常に近い感覚を持つ夢を見てね、そこで僕は自分の目を疑う様な衝撃の人物を目の当たりにしたんだ」
「なんだ、もしかして生き別れになった弟の姿でも見えたのか? それとも、ずっと昔に死に別れた親族が現れたとか!」
 大きな音を立てて手を叩き、僕の方へと指をさしてくる孝介に侮蔑の視線を送りながら、
「どちらも不正解だ。そもそも、僕に生き別れの弟は存在しない」
 ふ−ん、と詰まらなそうに呟いて、孝介は眠たげに瞼をこすり、豪快に首をボキボキと鳴らしながら、
「そうか、それじゃぁちょっと俺の想像力じゃ思い浮かばないな。
 まぁそもそも当てされる気は無かったんだろうけど、いったいお前は誰と出会ったって言うんだ?」
「なに、僕自身見た事の無い、着物を纏った美しい女性さ。
 彼女はちょうどこの緑道を歩いていてね、僕は彼女に心を奪われてしまったんだ」
 しばしの沈黙の後、何も言わない孝介の事を不思議に思いながらも、お互い言葉を交わす事無く歩き続ける。暫くして流石に沈黙が長すぎると思い、隣にいる筈の彼を除き見ようとして、しかしそこには誰もいなかった。
 先程まで歩いていた道を振り返ると、口と目をを大きく開いた清々しいまでの間抜け面を晒したまま、彼は固まっていた。
「何をしているんだい、孝介?」
「……この十年の間お前の事を変な奴だと思い続けてきたが、流石に今のは言葉を失ったぞ」
 孝介は訝しげに目を細めながら小首を傾げて、僕の方へと駆け寄ってくる。
「人の初恋に対して随分と失礼な事を言うんだね、君は」
 拗ねた様に口にしても、孝介は腕を前に出して大袈裟にぶんぶんと振りまわし、
「いやいや、はっきり言ってこれは俺は悪くないだろ!
 だって、初恋の相手がそんな夢に出てきた、しかもそんな、女だなんて絶対おかしいだろ!」
「恋に障害は付き物で、またそれは大きければ大きい程燃える物さ。
 それに、彼女は僕に話しかけてくれた。次に彼女と会いたければ今日の夜十時までに眠れ、とね」
 孝介は福笑いみたいに顔を崩して、しかし何か喉に引っ掻けた様にうんうんと唸りながら髪の毛を掻き毟るばかりであった。
「なにか、不満でも?」
「いや、別にお前が良いって言うなら俺から言う事は何もないけど……」
 腕を胸の前辺りで組み、困ったように眉を顰めながら、孝介はぶつぶつと何かを呟きながら早足で歩いていく。隣を歩く僕の事など知らない風だった。
「こら、そんなに急いでどうするつもりなんだ君は」
「いや、あんまり変人の近くにいると変なのがうつりそうだから」
 軽口を叩きながらも、依然表情は困惑したままだった。
「……そこまでバカにされると、僕としても些か腹が立つね。
 孝介は僕の恋慕をここまでバカにした。では、きっと君が今まで行ってきた恋愛は、さぞ素晴らしい物なのだろうね」
 そう言うと孝介はピクリと体を震わせて、まるで凍った様に固まってしまった。
「孝介?」
 呼び声に反応して、孝介はまるでロボットみたいなぎこちない動きでコチラに振り返った。伏し目がちに笑いながら鼻っ面を掻いている姿は、焦っている様にも見える。
「……もしかして、君はまだ恋をした事がないのかな?」
 イメージするのは悪戯っ子である。出来る限り人の悪い笑みを浮かべて孝介の方へと振り返ると、
「違うわ! 俺だって人を好きになった事位あるっての!
 ただまぁ、その相手に対して脈を感じられないというか、負け戦の気配が濃厚というか」
「おや、珍しいじゃないか。挑戦する前からそんな尻込むだなんて、普段の君からは考えられない事だね。
 ……あ、もしかして君は同性愛者なのかな? たしかに、同性愛者だと言うのならそっちの趣向の無い男性を相手にしたら勝ち目は無いに等しいが」
 孝介は顔を真っ青にして、ぶんぶんと首を横に振り、
「俺は、女の子にしか興味の無い正常な高校生男子だ!」
 恥ずかしげもなくそんな事を叫ぶと、僕達の横をすり抜けていく見知らぬ女子生徒がこちらを汚物でも見るかの様な目で見てきた。少し恥ずかしかった。
 孝介もそれに気付いたらしく、顔を赤くして俯き押し黙ってしまった。頭の悪い彼の行動にやれやれと肩を竦めながら、
「では、僕にその相手を教えてくれても良いんじゃないかな?
 僕は君の事を親友だと思っている。だから僕に手伝えることがあるのなら言ってほしいし」
「そんな事より、単純に人の恋慕に横槍いれるのが楽しいだけだろ?」
「なんだ、バレていたか」
 僕の言葉が癪に障ったのか、彼はそれっきり何も口にしようとしなかった。
 僕から掛ける言葉も無かったので無言で歩き続けていると、ついには学校が見えてきた。会話をしながらの歩みは随分と時間のかかる物になってしまったらしく、周りには僕達と同様に学校へ向かう生徒達で溢れかえっており、朝のホームルームの開始十分前を知らせる鐘の音も鳴り響いてきた。
 僕は、登下校の時間が好きだった。彼と二人でいる時にだけ、僕は無表情の仮面を脱ぎ棄てる事が出来る。じきに息が詰まる様な面白みの無い学業が始まってしまうというのに、楽しい登校の時間がこんな幕切れを迎えてしまうのはあまり好ましい所では無いのだが、
「……俺とお前は親友だ。だから絶対に嘘を吐く事は無いけど、それでも言えない事の一つや二つはあるさ」
 沈黙を破ったのは、呟く様な孝介の言葉だった。
 緩慢な動きで顔を上げた彼の表情は、子供がする様な締まりの無い純粋な、いつも通りの彼の笑みだった。
「だけど、いつかお前に言うよ。
 他の誰にも言う気はないけれどきっとお前にだけは言うからさ、その時は、バカにしないでしっかりと相談に乗ってくれよ?」
 自然と笑みが零れてくる。彼女の事を想う時に零れる厭らし物ではない、例えるのならば、まるで台風一過の青空の様な爽やかな物が。
「もちろん、その時は僕に任せてくれ。
 僕はあらん限りの力を振り絞って、君の恋の成就に協力しようじゃないか」
 跳ね上がった心を足に乗せ、スキップしそうな程浮かれながら僕は教室へと向かっていった。後ろで俯き気味にノロノロと歩いている孝介の事なんて気にも留めなかった。
 教室に入り、窓際の一番後ろの机の上に荷物を置いて座り込んだ。孝介もその前の席に鞄を置くのだが、その後すぐにそそくさと教室から立ち去っていってしまった。
 時計に視線を移すと、時刻は八時二十五分を少し回った頃だった。こんな時間に教室から出ては不当な遅刻扱いを受けても文句を言えないものだが、
「ちょっと良いかな?」
 孝介が出ていった扉を眺めていると、隣の席から不意に声をかけられた。
 振り返ると、制服着用を強制しないこの学校の中では珍しく、白のYシャツに黒みの強い藍色のスカートという、いかにもな学校既定の制服を履いた女子生徒がにこやかな笑みをこちらに向けて手を振っていた。
 僕がこの世で一番嫌いな、悪意を薄い布で隠した、胡散臭い愛と平和の象徴の様な顔であった。
「たしか、綿貫麻衣さんだったかな?」
「あ、覚えててくれたんだ! 
 良かったぁ。私、忘れられてたらどうしようかと思ってたんだぁ」
 胸元で手を合わせ、麻衣は嬉しそうに笑いながら首を二、三度縦に振った。その度に後ろで二つに分けられた薄明るい茶色の髪の毛が可愛らしくピコピコと揺れるのだが、僕はそれを目障りだとしか感じられなかった。
「たしかに僕は君とあまり交流を持たないが、珍しい事に名字が同じで出席番号が僕の一つ後ろだからね。名前と顔くらいは嫌でも覚えるというものさ」
 本当のことを言えば、僕が麻衣のことを知っている理由はそれだけではない。
 彼女は我が校の生徒会長を務めており、その職務態度は熱心の一言に尽きる。誰に対しても柔らかな物腰とクラス内で僕に次ぐ端麗な容姿をもつ彼女は、何時でも人に囲まれおり教師からの信頼も厚い。彼女の悪い噂は一度だって聞いた事が無く、裏で噂の種を持った人間を一人残らず封殺しているのではないかと勘ぐってしまう程だ。
 単純に彼女は有名人なのだ。教室の片隅で本を読み、休み時間にも話す相手が孝介しかいない様なその他大勢未満の僕とは違い、彼女の名前は校内中に響き渡っている。
「嫌でも、なんて酷いなぁ。私は前々からあなたに興味が有ったから、こうやってお話する機会が出来て嬉しいのに」
「すまないが、僕は嘘が苦手でね。
 それで、何か用事があって僕に話しかけてきたのだろう? 不要な心労を溜めるのは余り好ましく無いのでね、出来る事ならば早く済ませてほしいのだが」
 隠す気の無い悪意と敵意に触れ、刺す様な視線を向けられながらも、彼女は依然としてむかっ腹のたつ薄ら笑いを浮かべるばかりだった。
 女というのはこれだから油断ならない。犬畜生にも劣る様なバカでさえ、まるで魔女の様に人の事を誑かそうとするのだ。
「あはは、あなたは随分と遠慮の無い人なんだね!
 じゃぁ私も単刀直入に聞くけど」
 わざとらしく一度言葉を区切って、
「あなた、橋本君と随分仲が良いよね」
 目をそむけたくなるような笑顔で、麻衣は艶めかしく足を組みながらそう言った。
「おや、君に僕の友好関係に口を出される様な覚えはないんだがね。
 たしかに僕と孝介は親友だが、それで何か君にとって不都合な事でもあるのかな?」
 麻衣は先ほどまで浮かべていた笑みを更に深い物にして、
「私、嫉妬深い女なんだ」
 初めて笑顔の奥の本性が垣間見えた気がした。
 久しぶりに感じる粘り気のある悪意に、肌が粟立つのを感じる。なるべく無表情を装って、それでも絶対に視線だけは逸らさずにいると、
「あ、一応言っておくけど、別に私は橋本君とそういう関係にある訳じゃないから。
 ただ遠からずそういう関係になる予定だから、彼に付き纏う邪魔者に一つ忠告をしただけ」
 出所の判らない自信を鼻にかけ、麻衣は僕を蔑むように笑う。孝介は誰か意中の人がいると言っていたが、間違ってもこんな性根の腐った様な女に心を奪われてはいないだろう。
 しかし、確かに恋人以上に仲の良い友人がいればその分だけ恋人と過ごす時間が減りはするだろうが、どう考えてもただの友人にここまでの敵意を示すとは変な話だ。
 彼女は、僕に対して何か私怨を持っているのではないだろうか。
 目を瞑って思考に没頭するが、答えは出てこない。そもそも麻衣とまともに会話をしたのは今日が初めてで、隣の席に座っているのが彼女だという事にも今気がついたのだ。名前と顔こそ知ってはいたが僕にとっての彼女という存在はテレビ越しに姿を見る芸能人の様なもので、興味も無ければ好意も無かったし、たった今生まれたがそれまでは敵意も悪意も無かった。
 彼女にここまでの敵意を向けられる理由が、僕には無い。
「なぁ麻衣さん、どうして君はそんなにも僕の事を目の敵に」
 そこまで言い掛けて、勢いよく開けられる教室の扉の音に遮られた。
 扉の方へと向き直ると、担任の宮越教諭に頭を小突かれながらも、笑顔で教室に入っていく孝介の姿があった。
「……まぁとにかく、そう言う事だから」
 一瞬だけ氷の様な冷たい視線で僕の事を睨みつけ、それからすぐに麻衣は先ほどまでの様な作り笑いを貼り付ける。こちらに歩み寄ってくる孝介に何事も無かったかのように和やかに手を振っている姿は、背筋に悪寒が走るのを感じる程だった。
「教室に着くなり悪かったな。ちょっとトイレに行ってたんだわ」
 顔と前髪を少し水で濡らしながら、孝介はいつもよりも少しだけ控えめな笑みを浮かべて席に着いた。隣からのチクチクと痛みを感じる様な視線は、間違いなく気のせい何かじゃない。
 ――それからの時間は苦行と言っても良い物だった。
 授業中に孝介が僕から消しゴムを借りる度、ルーズリーフを貰う度、退屈な授業の時間潰しに世間話をする度、麻衣は僕の事を親の敵を見るかの様な憎しみに満ちた視線で睨みつけてきた。昼食の時などは想像を絶するもので、孝介が何も知らない普段通りのにやけ面で机を突き合わせた時には、麻衣の手に持たれた箸を刃物の類に見間違える程の殺意を感じさせられたものだった。
 遠慮や恐怖を感じたりはしないが、こちらの一挙手一投足に一々と目くじらを立てられてしまってはいい加減腹が立って仕方がない。帰りのホームルームが終わりを迎える頃には、僕の堪忍袋は緒が切れるどころか粉々に砕け散る一歩手前にまで至っていた。
「早く帰るぞ、孝介」
「おぅ、ちょっと待って、ろ!?」
 これ以上麻衣と同じ空間にいては、僕の精神衛生上よろしくない。孝介が鞄に荷物を詰め終えるの確認して、僕は彼の手を取って教室の外へと向かって廊下へと足を運び、
「あ、ちょっと待ってくれないかな?」
 そこで、出来れば二度と聞きたくなかった声が耳元を掠めていった。聞こえないふりをしてそのまま走り去ってしまおうかと思ったが、残念な事に孝介が足を止めて振り返ってしまったので、内心でまたかと頭を抱えながら、僕も嫌々声の方へと体を向けた。多分振り返る先に腐乱死体があったとしても、ここまでの抵抗は感じないだろう。
 振り返った先には腐乱死体なんかは比べるのもおこがましい、美しく、にこやかな、嘘偽りに満ちた笑みを浮かべた麻衣の姿があった。
「なんだい麻衣さん、僕は一刻も早く家に帰りたいんだが」
「あ、丁度良かった! 私も今から帰る所だから、一緒に帰らない?」
 よく判らない音が聞こえた。
「……何を言ってるんだい、君は」
「だから、私と、橋本君と、あなたの三人で一緒に帰ろうって言ったの!
 ほら、どうせ帰るなら人数が多い方が楽しいでしょ? 今日は私も生徒会の仕事も無くってさ、誰か一緒に帰ってくれる人がほしいなぁって思ってね」
 孝介は何事かとチラチラと僕の事を除き見ており、麻衣はそんな彼に向かって歯の浮く様な淡い笑みを浮かべて、そして僕は彼女に向かって舌打ちを一つ吐いて睨みつけていた。
 息が積もる様な沈黙とは、こういう事をいうのだろう。僕か彼女がここでもし身動ぎ一つでもすれば、きっとこの空間はガラスが割れる様な音と共に粉々に砕け散るに違いないと本気で思う。
 これは僕と麻衣の勝負である。
 残念な事に、僕は彼女と比べて特別弁がたつわけではない。もしも僕が何か彼女に切っ掛けを与えてしまえば、彼女はそれを言葉巧みに利用して三人での下校を孝介に了承させてしまうだろう。そうなれば、きっと彼女は下校中に、孝介に対して見ていて甚だ苛立つ色目を使い、二人だけの会話に入れない僕に残念そうな顔で「どうしたの遼さん、もしかして、私何か悪い事したかなぁ?」なんていけしゃあしゃあとのたまわるに決まっているのだ。それに怒り狂った僕が彼女の顔に一発グーパンチをお見舞いしようとして孝介に羽交い絞めされて止められる事も、既定事項といえるだろう。
 許せない。
 僕の登下校を邪魔する奴は、たとえ如何なる者であろうと排除しなくてはならないのだ。
 向かい合う事数分程、お互いの頬に一筋の汗が滴る頃になって、遂に一人が耐えきれなくなり、
「あ、あのさ、遼は人見知りする奴だから、突然そういう事言われても困ると思うんだ!
 だからさ、えっと……また今度、一緒に帰ろうって言ってやってくんないかな? 出来れば俺がいない時にでも!」
 一目で無理をしている事が伝わる泣きそうな笑顔を浮かべ、孝介は僕の手を取って逃げる様に走りだした。
「あ、ちょっと橋本君!」
 麻衣の声が教室内に無情に響き渡る。孝介はその言葉に今度は振り替えらず、一目散に廊下へと駆けていった。
 正直なところ、あの状況下において麻衣に対する同情の余地は大いにあると思う。思い人に一緒に帰ろうと声をかけたら、他の友人と帰るからと言われて断られたのだ。ましてやただ単に断られたのでは無く、病人みたいに顔を真っ青にしながら金輪際やめてくれというおまけの言葉付きだ。もしかしたら、今彼女はあの教室で泣き崩れているのかもしれない。それならば今からでも戻って彼女に声を掛けてやりたい。あの不快な笑みをくしゃくしゃの泣き顔で崩した彼女に駆け寄って、ハンカチで涙を拭いてやり、僕は心底悲しそうな顔でこう言ってやるのだ。
 残念だったね、と。
 その一言で、僕は天国にだって昇れそうだ。
 恍惚の表情を浮かべている僕を尻目に、孝介は僕を引き連れ瞬く間に校門まで辿り着いた。後ろを振り返り追手がいない事を確認すると、ようやく座り込んで大きく息をついて、
「……お前、綿貫さんと何かあったのか?」
 怒る親を前にした子供の様な表情だった。
「何かなんて曖昧な言葉では、君がいったい何を指しているのか僕にはちょっと理解出来ないね。
 ただ、仮に君が僕と彼女の関係について言及しているのだとしたら、恐らく君の想像通りだと思うがね」
 彼は目を覆い、これから世界が終るのではないかと思う程陰鬱な溜息を一つ吐き出した。溜息は吐く度不幸が一つ逃げると言うが、これだけの物なら、きっと孝介の幸せを根こそぎ奪っていったことだろう。
「何をそんなに憂いているんだい? 別に、君にだって気に食わないクラスメイトの一人や二人いるだろうに」
 孝介は今度は鬼の様な形相で、
「このバカ! 相手を考えろ、相手を!
 お前が喧嘩売った相手は、我が校で恐らく人気ナンバーワンの生徒会長様だぞ!?」
「別に相手にどんな後ろ盾があろうが関係無いだろう? 味方なんて、本当に信頼できる一人がいれば十分さ。
 ……それとも、もし彼女が僕と敵対した場合、孝介は僕の味方をしてくれないのかな?」
 孝介は再び大きなため息を一つ吐き出して、のそのそと立ち上がったかと思うと、僕の頬を軽くぺチンと叩いて、
「そうじゃないから困ってるんだろうが、このバカ」
 孝介はしょぼくれた背中を見せつけて、視線を落としながら再び歩き始めた。
 僅かな荒廃と、無現に広がる青空が心の中に生まれていく。孝介に対する謝罪の意は決して小さくないが、それにも増して彼が僕の味方になってくれると言ってくれた事が嬉しかった。僕の心の中で僅かにざわついていた疑念の渦が、その一言で綺麗に消えさったようにさえ思えた。
「ありがとう孝介。やっぱり、君は僕の親友だ」
 孝介は振り返らなかった。ただ何か決まりが悪そうに小石を蹴とばして、
「んな当たり前の事を何度も言うな、バカ」
 帰路の先にある緑道が、強い光で照らしあげられている。光に向かって進んでいく孝介は僕を救いあげてくれる天使の様だと思ったが、柄じゃないなと笑いがこぼれた。
 その後の帰り道、孝介は僕が何を言おうと決して振り返らず、顔を背けて子供みたいな悪態を吐くだけだった。しかし、僅かに垣間見える頬がだらしなく緩んだ横顔を見るだに、その言葉がどこまで本気かなんて考えるまでも無かった。

 珍しく父のいない家に帰り、シャワーを浴びて、食事を取り、もう一度シャワーを浴びた。
 時計に視線を向けると、既に八時半を過ぎている。
 散々な一日ではあったが、麻衣のおかげで疲れきっていた体と頭は自然と睡眠を欲していた。ソファーに横たわりながらテレビを眺めるのだが、今にも眠ってしまいそうな頭では内容の半分も理解できない。
 視界の上半分が真黒なカーテンに覆い隠される。それが自分の瞼だと気がついても、今の僕にはそれに抗う術がない。抗うつもりもない。ふかふかのソファーと温かな暖房に包まれたこの空間は、羊水に包まれているようだ。赤子の頃を思い出して自然と背筋が丸くなる。テレビの向こうで聞こえるバカ笑いが、外から聞こえる若者の叫び声が、僕の意識を飛び越えて意味のわからない言葉の羅刹に変わる。
 もう一度、彼女に会えるだろうか。
 眠りに落ちる一歩手前、心に落ちたのは祈りにも似た想いだった。


     ■


 死んだように静かな世界だった。この世の生き物は全て息絶えて、今在るのはここに浮かんだ僕の魂だけになったんじゃないかとさえ思える。
 息が詰まる様な暑さの中で、しかし相変わらず不快さは感じられない。永遠にも思えた一日を経て遂に辿り着いたこの場所に、自然と唇が吊り上っていく。
 やはり、あれはただの夢じゃなったのだ。
 僕は今、六畳程度の狭い部屋にいる。入ってすぐ右側に収納型のクローゼットがあり、その隣には往年の文豪達の文学書と、哲学書や心理学の教本等の小難しい本が並べられていた。窓際に置かれた少し古ぼけた机の上は綺麗に片づけられており、今月の予定表と書かれたプリントが画鋲でコルクボードに張り付けられていた。そのすぐ向かいには丁寧に畳まれた布団が置いてある。僕の予想が正しければ、それは許されるならば思いっきり飛び込んでしまい程に魅力的な物の筈だ。
 好奇心の渦が常識の壁を押しつぶそうとしている。決壊までに掛かる時間は、そう長くはないだろう。
 僕は、彼女の事を何も知らない。
 彼女が何を好み、何を嫌い、何を求めているのかが僕は知りたい。
 僕は彼女が何かを求めれば一つ残らず叶える自信はあるが、如何せん彼女と共に過ごす時間が短すぎる。僕等の交点は眠りに落ちた後の一分にも満たない僅かな間だけだ。それだけの時間で彼女の事を理解するには、受動的に待っているのではいつまでたっても埒が明かない。だからそう、これは決して下劣な趣味では無く、純粋な愛情の末の行動なのだ。彼女を愛すればこそ、僕はここで動かなくてはならないのだ。
 踏み出そうとした足は、しかし地を蹴る感触を得る事は無い。
 当然の事だ。今の僕の体はどろどろに溶けて、意識だけがまるで幽霊の様にこの場に漂っているだけなのだ。
 無念や落胆で死ねるのならば、きっと僕はこの瞬間に命を落としているだろう。極上の獲物を鼻っ面まで押しつけられているのに、僕は決して口を開く事を許されないのだ。もしも仮に悪魔と何か密約を交わせば足が生えるというのなら、如何なる交換材料を求められようと僕はそれに縋るだろう。
 唇を強く噛み締めた。痛みはあるが決して流れない血が、何処か悔しかった。
 不貞腐れて窓の外を眺めると、強い風にカーテンがはためいた。それに応える様に、がちゃりと音をたててゆっくりと扉が開かれる。
 消えかけた心に、再び炎が灯される。万感の想いを胸に扉の方へと振り返ると、
「こんばんわ、綿貫遼」
 体中が燃え尽きてしまいそうな程強く待ち焦がれた彼女が、仏の様に淀みの無い表情でそこに立っていた。
 和服の天使がそこにいるかの様にさえ見えた。
 後光が射しているように見えるのは、きっと僕の目の錯覚では無い。彼女は途方もなく神聖な存在で、僕の体が動かないのは多分戒めなのだろう。マリアは処女故にその身に神を宿した。ならば下賤な僕達が彼女に触れて汚れを得ない様に仕組まれている事も、納得せざるを得ない事だ。
「もしアンタが僕の言いつけ通りに眠ったのなら、僕の姿を見ているんだろうね。
 アンタの心持ちなんて僕の預かり知る事ではないけど、今は君を信じてこの言葉を続ける事にさせてもらうよ」
 彼女は音も無く机に備え付けられた椅子に腰を降ろし、膝元に手をのせる。それ等一つ一つの動作の動作に淀みはなく、まるで流れる水の様に美しい物だった。
「まず、これはただの夢では無い。
 ここはアンタ達のいる世界とはまた異なった……そうだね、言うなれば平行世界とでも呼ぶべきなのかな。非常に似通った世界だけど、こことそっちは鏡の様にほんの僅かな違いがある」
 その言葉には聞き覚えがあった。
 この世界は、そもそも未来など決まっていないのだという考えがある。未来は各々の一瞬毎の行動によって決められて、それは無限に枝別れを繰り返し、また決して交わらない平行線の様に伸びていくという考えだ。
 理論も証拠も無いとんでも話ではあるが、しかしそこにはロマンがある。なにより、そんな小難しい理屈は引っこ抜いて、そもそも彼女が嘘を吐く筈がない。
「アンタはこの世界を除き見ているだけで、別にここに存在している訳じゃないんだ。だからアンタが今どこから私の事を見ているかも判らないし、実際にここにいるか判らない。
 ……正直な話、誰もいない場所でこうやって一人で喋るのは、少し恥ずかしいんだよね」
 先程の愚行を忘れ、何をしても気付かれないという思いつきに劣情が掻きたてられるが、それは彼女の顔を見た瞬間に綺麗に消え去った。
 彼女は顔を僅かに赤く染めながら、照れくさそうに笑ってみせた。
 初めて見た彼女の笑みは、まるで花が咲いたように美しかった。
「えっと、うん、話を進めようか。
 そもそもどうしてアンタがこの世界を眺めていられるかというと、そこには二つの理由がある」
 彼女は緩んだ頬を締め直し、突き抜けるような白さの人指し指と中指を付きたてて、
「一つは、アンタが持っている中途半端な未来視の能力の為。
 それは本当なら同じ世界の縦の動きしか出来ない筈なんだけど、そこでもう一つの要因が関わってくる」
 未来視というのは、きっとあの予知夢の事だろう。確かに自分の思い通りに律する事が出来ないのだから、中途半端と言われても仕方がないと思う。
 眉を僅かに顰め、彼女の表情は固さを増した。一度だけ瞳を閉じて、大きく息を吸い、彼女は意を決したように彫刻刀の切り跡の様な深く鋭い瞼を開け、
「アンタの父親の部屋の中にある機械。あれは他の世界と自分の世界を繋げる、神の領域にさえ行き着いた奇跡の装置だ。
 元々あの人にそんな力は無かったんだけど……参ったことに、こっちの父親とあんたの父親は非常に相性が良かったみたいでね」
 今朝の父親の言葉が呼び起こされる。
 父は、長年の悲願が達成されたと言っていた。それがいったいどんな物なのかと問うた僕に、彼は言葉を濁して決して直接的な答えを口にしようとしなかった。
 父は、今僕の想像を遥かに超えた場所で息をしているのかもしれない。その腕はもはや人の域を超え、頭は限界を定めたリミッターを悠々と振り切って、悲願の末に生まれたその機械を前にして人知を超えた歓喜か苦悩かも判断がつかない様な不思議な顔をしているのかもしれない。 
 眉間の辺りを手でおさえ、彼女は一つ息を吐いて、
「僕の父とアンタの父親は、同じ存在なんだ。
 彼等は全く同じ目的と同じ頭脳と同じ魂を持って世界の壁を崩してしまおうと画策して、しかしただ一つ、そこに挑むにあたっての手段だけが異なっていた」
 顔の皺はさらに深くなる。彼女は何かに苦しんでいる様な、見ていて気の毒になってくる程の苦悶の表情を浮かべて、
「僕の父は、それを魔術や呪術といった方向から打ち倒そうとした。
 不幸というべきか幸いというべきか、僕は父が欲している力に似通った物を持っていたし、父もそれを知っていた。僕は彼の研究に協力し、そして約十年の年月の末、遂に僕達の研究は一先ずの終結を迎えた」
 見ている事が辛かった。彼女の表情が曇る度、僕の心はそれ以上の速度で暗雲を増していく。それでも、僕はこの話を聞かなくてはならない。音を遮る腕も無ければ、光を遮る瞼も無い。なにより、彼女がそれを求めている。
 彼女の父が選んだ道は魔術や呪術の類と言った。僕の父と彼女の父は同じ存在だと言った。彼女にもそれに準ずる何かの力があると口にした。
 ここに至る風景が、薄い霧を挟んでほんの少しだけ見えてきた。証拠も確証もありはしないが、非現実的な直観が頭の天辺から足の指の先にまで電流が走ったように駆け巡ってくる。
 もしかして、彼女は僕と、
「しかしその力は、他の世界の人間とほんの少しの交流を持つだけに止まってしまった。
 僕とアンタの父の目的はそんなにちっぽけな物ではなくて、勿論父はそんな事じゃ納得できなかった」
 真綿で首を絞められているようだ。答えは既に手を伸ばせば届く様な位置にあるというのに、彼女は決定的な事を決して口にしようとしない。
 彼女の顔が段々と伏せられていく。強く噛み締めた唇から、僅かに赤い物が零れ落ちた様に見えた。
「父は、アンタの父親とコンタクトを取ろうと試みて、それは全てが上手くいった。
 それがほんの一週間前の話で、そうして遂に父達はその悲願を達するに至った」
「……その、悲願とは?」
 零れ出した言葉は、誰にも届く事無く虚空に溶けていく。僕の想いが届いたのか定かではないが、彼女は意を決したように、
「僕達の父親の目的は、世界間の隔たりの撤去。そして、その先にいる、とある人物との接触だ」
 真実の頬を撫でた気がした。ぼやけて見えていた物を、僕は今、確実その姿を捕らえられている。
 きっと、それは僕が最近知る事になった感情と同じなのだろう。
 そこにどんな非があると言うのだろうか。彼等が求めた物は、確かに人が侵して良い領域を超えた場所にある物なのかもしれない。例えそれでも、彼等が求めたの愚直なまでに素直な愛だ。
 彼女の口が開かれていく。嗚咽を吐く様な掠れた声が、
「僕達の母親が生きている世界に、彼等は行きたがっていた」
 それでも僅かにも淀む事無く、確かな口調で言い放たれた。
「しかし、壁を壊してしまえばどんな弊害が起こるとも判らない。
 繋がった世界の向こうが薄汚れた荒廃の世界だったら、侵略者がコチラに攻撃をしかけてくるかもしれない。そうなれば全ての世界は混沌に苛まれ、明日の行方も分からない様な物になるだろうね。
 ……気付くのが遅かったんだ。僕は見知らぬ何処かにある、見た事もない輝きの為に、あと一歩で掛け替えの無い物を失うところだった」 
 沈黙が流れる。彼女はそれきり何も口にしようとせず、僕はそんな彼女を見ている事しかできなかった。
 数秒だっただろうか、数分だっただろうか、もしかしたら、数時間を超えていたかもしれない。時間の感覚が歪んでしまったこの部屋で彼女は顔上げ、瞳を閉じて窓から天を仰ぎ見た。太陽の光に晒された彼女の姿は、まるで空に昇っていく鳥のようにも見えた。
 彼女は深く息を吸い、大きく体を伸ばしてその目を開けた。瞳には強い光が灯っており、そこに先程までの苦悶の色は無い。
「だから、僕はアンタにアンタの父親を止めてもらいたい。
 アンタだって、そこに壊されたら困る物があるでしょ?」
 言葉と共に浮かんだのは一人だけだった。子供みたいに怒って、いじけて、拗ねて、ヘラヘラと笑う彼の姿。
 彼女はおどけた様に笑う。少しだけ視線を落としたその姿は、何かを諦めたようにも、何かを託したようにも見える。
 しかしその表情の真意を掴むよりも早く、彼女の姿は霞んでいき、
「だから頑張ってね、そっちの僕。
 綿貫ハルカ、あんたの行動に僕達の未来が、全てかかっているから」
 その言葉と共に、彼女は煙のように何処かへ消えていってしまった。
 世界が黒に埋め尽くされる。世界中の光を根こそぎ奪い取った様な真っ暗闇の中で、目覚めに近づいた脳髄が次第とその回転速度と冷たさを増していく。
 何ができるかも何をするべきかも判らない。
 目覚めまでの僅かな時間、僕はその場で立ち尽くす事しか出来なかった。

 
     ◆


 僕に何が出来るのだろうか。
 僕は何がしたいのだろうか。
 目覚めは最悪で、体はまるで死んだように冷たく硬かった。なのに体中からはサウナに入ったように汗が噴き出てきて、寝巻が肌にへばり付いて気持ちが悪い。
 僕と彼女は、どうやら同じ存在であるらしい。彼女は僕と比べて尚、美しさに天と地ほどの差がある様にも思えたが、彼女の話を信じるとすればそうなるし、やはり僕は彼女が嘘を吐いているとは決して思えない。
 彼女は父の夢を砕けと言った。そこにある不安要素に、今の現実を壊されないようにと彼女は求めている。目を瞑れば浮かび上がってくる孝介の姿を思えば、確かに僕はそれに反する道理を持っていない。
 しかし、世界が繋がれば、彼女と会う事も出来るのではないだろうか、
 僕はこの世界が嫌いだった。全ての人間に価値を見出す事が出来ず、また関心を抱く事も出来なかった。世界は嘘と嫉妬と悪意で満ちており、濁った景色では隣人の顔さえ見る事も叶わない。意味の無い所でどれだけ意味の無い人間が死に絶えようと、僕は何の感傷を持つ事もできないだろう。
 そんな中で、僕にはたった一つだけ大切な物があった。
 孝介は、何処までも澄んだ心を持っていた。大人の心と子供の心を共有し、そのどちらも彼の本性であり、決して虚偽の仮面を被る事無く生きている彼は、僕にとって太陽の様に輝いていた。僕が心を通じ合わせたいと感じる、ただ一人の親友だった。
 この世界の宝物と、夢の世界の憧れを天秤に掛ける。秤はどちらに傾いてもおかしくはなく、今すぐ答えを出す事は出来そうにない。
 強く吹く風に、木々の擦れる音が鳴り響く。外では早起きな小学生が、自分の半身程もありそうなゴミ袋をひいひい言いながらもゴミ捨て場に投げ捨てた。目覚ましのけたたましい音が掻き鳴らされる。世界は今、白々しい程に普段通りに過ぎている。
 目覚ましを止めて、昨日と同じダウンを着込み、朝食の用意を始める為にキッチンへと足を向けた。
 ヘドロでもへばり付いているみたいに重たい足を引きずる。そしてそれに劣らない程、父と会うという事が僕の心に重石を乗せていた。
 トースターの中に食パンを二切れ突っ込んで、フライパンの上のハムに被せる様に卵を転がした。塩胡椒を適当にまぶして、ちぎったレタスと共に平皿の上に盛り付けた。
 パンが焼きあがったのを確認して、父の部屋に二度ノックをする。朝食の完成を伝えるのだが、返事はない。
 珍しい事だった。
 父は部屋から出てこないだけで、普段から起きるのは僕よりも早い。僕が父に声を掛ければ一分と待たずに彼は部屋から出てきて、無言のまま食事を終えてまた部屋に戻るのが常であった。
 嫌な予感がした。
 背筋を通る汗の冷たさに心がざわつく。早まる呼吸と鼓動が、僕にこの扉を開けろと囁きかける。その先がいったいどんな魔鏡になっていようと、既に僕に選択権は無い。断頭台に首を掛ける様な覚悟と共に父の部屋のドアノブに手を掛けると、
「……あ」
 部屋の真ん中にある布団の中で、猫のように体を丸めて眠りこけている父の姿があった。
 それはいい。いくら珍しい事とはいえ、父にだって寝坊をする日位あってもおかしくない。ましてや昨日の様な歓喜の渦に呑まれていたとすれば、その疲労の程も推するのはそう難しい事ではない。
 問題は、そのすぐ隣にある真っ黒なパソコンのディスプレイの様な物である。
 外部機器が何一つ付いていないその機械の真っ白な画面には、電卓の様な直線で構成された文字で”残一七二八二三”と表示されており、その数字は秒間毎に数値が一ずつ減っている。
 これがいったい何なのか、僕には思い当たる節があった。
 耳の奥から、まるで砂が流れていく様な音が聞こえてくる。目に写る全ての物の明度が跳ね上がり、チカチカとしていて目が痛い。布団の中の父は、初めて見せる子供のような笑みを浮かべていた。
 予感が確信に変わる。確たる証拠は無いが、だからと言って見過ごしてやるほど幸せな頭を持ってはいない。
 目の前の機械は、間違いなく彼女の言っていた物だ。世界を混乱に陥れるまでのカウントダウンは刻一刻と過ぎているが、しかしそれは未だその本領を見せてはいない。
 今なら、難なく破壊できるのではないだろうか。
 ノックの音にも扉を開ける音にも、そして僕が零れ出してしまった呻き声にも反応を示さなかった父が、今更ほんの少しの物音で目を覚ますとは考え辛い。ならば今、僕がこの部屋の窓を開け、下に人がいない事を確認して、するりとこの箱を落としてしまえば、全ては解決するのではないだろうか。
 そうすれば世界は今まで通り回り続け、彼女の願いも達せられる。どれだけの時間が掛かるか分からないが、僕は落ち込む父を諭しつけ、そうして今まで通り孝介と笑い合いながら過ごす日々を送るのだろう。
 しかし、そこには彼女はいない。
 彼女は僕の知らない世界で、僕の知らない誰かに、僕の知らない表情でその喜びを訴えかけるのだろう。
 無意識にディスプレイの前に進められていた足が、途端にその動きを止める。迷いは体中に伝染し、今では呼吸をするのも意識しなければ難しい。カラカラに乾いた喉が、ごくりと大きな音をたてて唾を飲み込んだ。
 何が出来るかは判っている。
 何をすべきかは判っている。
 なのに、僕は何もせずにこの場に立ち尽くす。
 僕は、本当にこの機械を壊したいのだろうか。その先にある未来を手放しで喜べるほど、僕はこの世を好いているのだろうか。
 止まった足が後退を始める。無意識の内に退いた足が、更にそこに意志を乗せて速度を増す。貼り付いた様に動かない視線を真っ黒な箱に留めたまま、僕はとうとう父の部屋から出ていってしまった。
 行く末を決めるには、まだ早いのだ。
 荒くなった呼吸を整え、テーブルについてトーストに噛り付いた。思考は止まる事無く頭の中を駆け巡っていくが、それでも答えは決して出てくれるようには思えない。
 この決断は、僕の進む未来を決めるものだ。
 個人の力には限界があり、しかしそんな時誰かの肩を借りる事が出来るのが、人間の素晴らしい点だ。こんな重要な物を人に頼って決めるは余り気が進まないが、これは彼等のこれからにも繋がる物だ。
 時刻を窺うと、既に登校すべき時間は過ぎていた。
 洗面所で軽く髪を整え、僕は競歩の様な早足で学校へと歩を進めていった。

 僕が教室の扉を開くのと、ホームルーム開始の鐘が鳴り響くのはほぼ同時の事だった。
 勢いよく開いたドアの音に、大半の生徒が驚いたようにこちらを見つめてくる。しかしその中で、孝介は嫌らしくニヤニヤと笑っており、麻衣はピクピクとこめかみを引き攣らせながら唇を歪めていた。
 周囲から向けられる視線を切る様に歩いていく。依然として意地の悪い笑みを浮かべている孝介がコチラにひらひらと手を振ってきて、
「遅刻ギリギリなんて珍しいじゃんか!
 どうしたんだ? もしかして昨日言ってた意中の人が恋しくて、夜も眠れなかったりとかか?」
「まぁ、当たらずとも遠からずと言ったところかな。
 あぁ、その件でちょっと話したい事があってね。孝介は今日、昼休みは空いているかな?」
 孝介はお化けでも見たかのように目を丸くして、
「おぅ、別に空いてるけど。
 ……へぇ、お前が俺に相談なんて珍しいじゃん! 良いねぇ、ようやく遼も俺の頼もしさに気付いた訳だ!」
「恥ずかしながら、君位しか意見を聞くべき相手がいないものでね。
 というか、昨日散々バカにしてた割に、彼女の事についての相談だという事に関しては何も言わないんだね、君は」
 孝介はちっちっちと舌を鳴らし、わざとらしく人差し指を左右に振る。得意気な顔に睨み顔を返すと、孝介はふふんと鼻を鳴らし、
「さすがに二度も同じ事言われりゃ慣れるっての。
 そりゃお前の奇天烈な発言を簡単に受け止める事はできないけど、それでもすぐに順応位は出来なけりゃお前とこんな長い間付き合ってらんねぇって!」
 にひひと大きく口を歪めて、孝介は笑う。
 その言葉に自然と口元が綻んでいく。それでも孝介にそんな弱みを見せるのは癪だったので、彼の視線から逃げるように腕枕の中に顔を押し付けた。
「本当に、君は素直に自分の感情を口にしない男だね。
 良いかい? そういう時はだね、それ位無理をしてでも僕と付き合っていきたいって正直に言うべきなんだよ?」
「へいへい、全く、本当にこのナルシストには困ったもんだな。
 まぁ良い。訂正すんのも面倒だし、取り敢えずはそういう事にしといてやるよ!」
 勝ち誇った顔で、孝介は教室に入室してきた宮越教師の方へと向き直った。鼻で笑う彼に無性に腹が立ったので、何か捨て台詞でも無い物かと考えを巡らせて、
「僕は、孝介の事が好きだけどなぁ」
 口から飛び出したのは、負け犬の遠吠えにもならない下らない言葉だった。
 何故だか、隣の席から突き刺す様な視線を感じる。目の端でちらりと麻衣の姿を除き見ると、普段の作り笑いも忘れて、まるで般若の面でもかぶった様な形相でコチラを睨みつけていた。
 やはり捨て台詞にしたって、もう少しまともな言葉にするべきだった。孝介は何も言わず、振り返りさえしないで、バリバリと後ろ髪を掻き毟るばかりであった。
 頭を切り替えよう。
 先生がする雑談混じりの朝の業務連絡を聞き流し、今日するべき事を考える。
 彼女は僕と同じ力を持っている。
 接触を持ってきたのは彼女からであり、またその行動は藁にも縋るというよりは、むしろ半ば確信にも似た物を持っての行動だった様に思える。そうでなければあんな二日分で順序立てた説明など出来る筈がない。
 恐らく、彼女からも僕の事が見えていたのだろう。
 彼女はこちらとあちらを比べて、鏡の世界の様な物だと口にした。僕が真夜中に夢で彼女の世界を見るとき、あちらは昼間だった。ならば単純に、あちらとこちらとでは約十二時間の時差があると考るのは、少しばかり早計というものだろうか。
「……済まないが孝介、一つ頼まれごとをしてはくれないだろうか」
 ホームルームが終了し、教室はそのざわめきを増す。隣の麻衣も席を外しており、今なら気兼ねなく孝介に話しかける事ができる。
「ん、どうひた?」
 孝介は振り返りもせず、欠伸を一つ噛み殺して眠たそうに言って、
「ちょっと僕にはやらなきゃならない事があってね。
 今日の四時限目の間席をはずそうと思うんだが、その時に適当な言い訳をしといてもらえないだろうか?」
 首をコキコキと鳴らしながら、
「ん、別に良いぞ。保健室に行ったとかお腹が痛くなって帰ったとか海が呼んでるから走っていっただとか、そんなんで良いんだろ?」
「僕の印象が悪くなるような事は極力勘弁してほしいんだがね。
 まぁとにかく任せたよ。その後はまた教室に戻ってくるから、相談事はその時にまたよろしく頼むよ」
 孝介は机に突っ伏して、力無く手を振った。それを了承の合図と受け取り、僕は一限目の授業の用意を済ませ、トイレへと向かった。
 手を洗い、念入りに顔を拭き、食い入るように鏡を眺める。
 改めて考えて、見るからに美しいのは間違いない。その辺のテレビに出てるタレントやアイドルと比べて引けを取る事が無いのは疑いようもないが、それにしたって彼女と比べてはどうあっても分が悪い。
 分が悪い筈ではあるが、何処が違うのかと問われれば咄嗟に出てこないのも、確かに事実ではある。
 彼女は黒のショートヘアーだったが、僕は栗色のロングヘアーだ。染色した訳では無く日光にあたり自然に脱色した物だが、仮にその変色が起きなかったとしてもおかしくはない。
 彼女は着物を好んでいるようだったが、僕は帯の巻き方さえ分からない。ただしそんな趣向は日々の生活の中で育まれる物で、決して生まれ持ったものではない。
 目立ち鼻立ちを眺めても、彼女と遜色ない物ではある。しかし彼我の間には、どうあっても越えられない大きな隔たりがあるように思える。何が違うのかと言われれば雰囲気としか言い様が無いが、それは僕にとって確定的で絶対的な溝となっている。
「知らなかった。
 そんなに鏡を眺めちゃって、貴女、もしかして重度のナルシスト?」
 吐き捨てる様な物騒な声だった。しかし、その声質は聞き覚えのある物だった。
「おや、まさか君がそんな物騒な声色を使うだなんて意外だね」
 驚きで自分の顔が崩れているのが自覚できる。それ程彼女の仮面とその裏にある素顔には大きなギャップがあるのだ。
 振り返った先には、見覚えのある女性が見た事も無い不満そうな顔をしていた。腕を胸の前で組み片目を吊り上げて、猫のように僕を威嚇している麻衣の姿がそこにはあった。
「別に、今ここには遼さんしかいないんだから猫被ってもしょうがないでしょ?
 それに、そっちだって私の事嫌ってるわけだし、今更ご機嫌伺ってどうこうなるものでもないじゃない」
 溜息混じりに麻衣はそう言って、僕の横で水を流し手を吹き始める。
 その動作は、僕の知る麻衣の姿とはかけ離れた物だった。
 僕の考えていた麻衣の姿とは、誰にでも偽りの笑みを浮かべ、誰にでも調子良く話を合わせ、誰にも嫌われないように皆の期待の生徒会長を演じている人間という物だった。決して人には弱味を見せず、相手の弱点を知りつくし、ネチネチと裏から兵糧攻めの様に嫌いな人間を攻め立てるのだと思っていた。
 しかし、今目の前にいる彼女はどうだろうか。
 悪意を隠しもせず、敵意を見せびらかすようにさらけ出し、その一言一言は毒が含まれるなんて物ではなく、まるで切りつけるような直接的な悪口雑言の数々だ。
 作り物でない彼女に触れる。その予想外に荒々しい気性は、不思議と心地よさすら感じられた。
「成る程、たしかに君の言う事はもっともだ。
 しかし、君は一つ大きな勘違いをしている。僕としても少々想定外で、実に嬉しい誤算なんだがね」
 彼女は僕の言葉に見向きもしない。まるで僕なんていないかの様に振舞うその態度に、堪え切れなくって笑いが零れる。
「僕は、君のその貼り付けた様な胡散臭い笑みが大嫌いだったんだ。
 実際のところ、君はその本性を僕の前で曝け出す事はなかったからね、正直なところ良い印象が全く無かったんだよ」
「へぇ、それはどうも。
 でもね、遼さん、程度の差こそはあれ、人間っていうのは皆その胡散臭い笑みって奴を嫌々被りながら生きてるの。
 そんな小学生でも分かる様な理屈を突っぱねる様な人間は、社会不適合者って言うんだよ。もしかして、知らなかった?」
「これは手厳しいね。いや、やっぱり君は素晴らしい。
 なぁ麻衣さん、もし君が僕の前でいつでもそんな顔をしてくれるのならば、君と僕とは素晴らしい友人になれる気がするよ」
 言葉は返ってこない。水は変わらずじゃぁじゃぁと音をたてて流れており、その勢いが弱まる様な気配もない。
 ただ彼女の腕は、まるで時間でも止まったかの様に微動だにしていなかった。
「なっ、なっ、なっ」
 壊れたテープレコーダーの様に、途切れ途切れに、
「ん、どうかしたかい?」
「何言ってんの!?
 バカも休み休み言いなさいよ! あ、あのね、そんな嘘で私が動揺すると思ったら、大間違いなんだから!」
 彼女は顔を真っ赤にして、僕に向かって指を差す。言葉は所々で上擦っており、一目でその動揺が見て取れた。
「昨日も言った気がするが僕は嘘が苦手なんでね、思った事を口にしたまでさ。
 しかし、友達になるとは言っても無理に体裁を繕わないでくれたまえ。そんな君を見ていても、僕は不快感しか覚えないのでね」
 口を間誤付かせ、麻衣は何か言いたげな瞳で僕の事を見つめてくる。そんな彼女に向かって努めて綺麗な笑みを浮かべて、
「君が昨日孝介の事を好いていると聞いた時は、怒髪天を衝く様な思いだったんだがね。
 孝介は僕の親友だから彼が悪い女に唆される様で非常に不快だったんだが、それも杞憂だった様だ」
 麻衣は驚いたように目を見開いて、
「しかしその想いを孝介に伝えるのは、今は恐らくやめた方が良い。
 それが誰だか僕も知らないが、彼には今思い人がいるらしくてね、それが君だという可能性も無きしにも非ずだけど、君は今まであまり孝介と交流を持った事がないだろう?」
 麻衣は視線を落として、
「まぁ、確かにそうだけど」
「ならば、もう少し奴と仲を深めてから想いを告げると良い。
 孝介は良い男だ。外面は好みに依るだろうが、僕はあれ程綺麗な心を持った人間を見た事がない」
 麻衣は顔を赤く染めたまま、しかし納得いかないとでも言う様に顔を顰め、
「貴女、それ本気で言ってるの?」
「何を当たり前の事を言っているんだい? 僕は本当に孝介を素晴らしい人間だと思っている。そうじゃなければ、僕は彼を親友だなど言わないさ」
「もう、そっちじゃなくって!」
 麻衣は不明瞭な事を言う。顔の赤みはどんどん増していき、遂にはリンゴの様になってしまった。
 これ以上話を続けても埒が明かないと思い、彼女を置いて僕は廊下へと足を向ける。
 その前に一度だけ振り返り、
「よく分からないが、まぁまた会おうじゃないか麻衣さん。
 出来る事ならば、僕は君と教室でもこのようにして喋りたい物だよ」
 言葉は返ってこない。それもまた返事だろうと思い、浮足立った想いを止める事も無く、僕は広い歩幅で教室へと戻っていった。
 失くしたくない物が、一つ増えた。
 扉を開け、席に戻って窓の外を眺めた。空は今日も深く青い。濁った世界が少しだけ、澄んだ物に見えた様な気がした。
「お、どうしたんだ遼?
 お前がそんな顔してる所なんて、そうそう見る物でもないけど」
 孝介はマジマジとこちらを見詰めてきて、
「なに、予想外の拾い物があってね。
 聞いてくれよ孝介。もしかしたら、僕に友達が増えるかもしれない」
 孝介は、まるでお化けでも見たかのような呆然とした表情で、
「え、マジ?」
 間抜けな声だった。
「マジもマジさ。
 なんだ孝介。もしかして、僕に君以外の友人が出来る事に嫉妬しているのかな? 君は意外と独占欲の強い男なんだね」
「あ、いや、別にそういう訳じゃねぇよ。
 そもそもお前とお近づきになりたい人間なんて掃いて捨てるほどいるし、お前にその気があるんなら確かに友達なんてすぐにできるだろうけど」
 孝介は顎の辺りに手を添え、ふんふんと唸りながら僕の事を頭から足の先まで舐めるように見つめてくる。
 少し、むず痒い。
「なんか、その視線に厭らしい物を感じるんだが、僕の気のせいかな?」
「違うわバカ!
 ただお前が興味を持つ人間なんて、いったいどんな変わり者なんだろうと思ってだな」
 素直に感嘆の息を漏らしている孝介をジト目で睨みつけ、
「……孝介、君はいったい僕の事をどんな風に見てるんだね?」
「俺の知る限りで一番の変人。
 最近は同性愛の気も出てきたみたいだし、その変態振りは今日も磨きがかかる一方である」
 表情を変える事無く、指をピンとたてて事もなさげに孝介はそう漏らす。
「別に僕は同性愛の気がある訳で無くてね、単純に彼女が美し過ぎるのがいけないのだよ。
 仮にアレと同じ性質を持った人間が男でいるとすれば、僕はその人に対して同じ位の恋心を抱いた筈だよ」
 孝介は少し俯いて、そのまま上目遣いで僕の事を見つめてきて、
「じゃぁ、お前が言う様な性質を持つ奴以外には、お前は恋をしないって訳か?」
 随分と恥ずかしい質問だった。
 しかし、改めて問われると判らない事でもある。僕が愛を向ける対象は、本当に彼女の様な人間だけなのだろうか。
 僕が今までの人生で興味を持った人間は、たったの四人しかいない。
 父と、彼女と、麻衣と、孝介だ。
 この中で、僕が持っているカードは二枚だけだ。彼女は元から除くルールだし、麻衣は先ほどその心情の奥に触れただけで、未だにその本質を理解しきれていない。
 父は、よく分からない。初恋の相手が父親だなんていう女性もいるらしいが、正直なところ僕はそんな想いを向ける事が出来るほど、父の事を理解できていない。
 では、孝介はどうだろうか。
 目の前にいる彼の事を、値踏みする様に眺める。
 見栄え自体は決して悪くはない。身長は男にしては些か低いが、最近ではそういう"可愛い男性"を好む女性も少なくないと聞く。そもそも、麻衣ほどの上玉に見初められる程なのだから、外面に関しては文句を言うのも更々おかしい話だろう。
 加えて、彼の心はまるで蒼天の様に澄んでいる。
 僕は彼の性格を好ましく思っていた。十年を超える付き合いの中で傍らにあるのが当然だと思っていたが、しかし彼と今こうやっていれるのは奇跡にも近い事なのかもしれない。
 そんな彼の事を、僕は異性の相手として見る事が出来るのだろうか。
 頭にそんな考えが過ったが、何をバカな事を笑い飛ばす。彼は親友なのだ。無くてはならない存在に、それ以外の言葉を添えるのは有り得ない事だ。
「さぁ、どうだろうね。
 どうなるかは判らないが、それはまぁこれから出会う人たちに期待と言ったところだろうか」
 含み笑いと共に出した言葉に、孝介はほんの少しだけ先程よりも深く顔を俯かせたように見えた。どうしたのだろうと下から除き見る様に孝介の様子を窺うと、
「まっ、お前が好きになる男なんて余程の変人だろうし、そんなホイホイ出る物でもないか!」
 彼は勢いよく顔を上げ、空に向かうかの様な大袈裟な笑い声をあげた。
 汚らしく飛び交う唾に不快感を抱きながらも、内心ほっと無でを撫でおろす。昨日から孝介の様子は少しおかしかったが、やはり孝介は孝介だった。
「本当に君は失礼な男だね。
 嘘をつかれても困るが、もう少し言葉を選ぶという事を知った方が良いよ君は。
 特に、語彙の少なさが致命的に頭が悪そうに見せている。孝介は昨日と今日だけで、いったい何度僕にバカと言ったのか覚えているかい?」
「うっさいバカ。
 俺だってお前によく傷つけられてんだから、これ位荒っぽくて丁度良いんだよ」
「ほら、またバカって言った」
「……むぅ」
 言葉を詰まらせている孝介をバカにしてクスクスと笑っていると、隣から椅子の引かれる音が聞こえてくる。
 麻衣が席に戻ってきたのだ。
 孝介の表情がにわかにその厳しさを増す。腫れ物にでも触るかのようなたどたどしい笑顔を麻衣に向けるが、彼女はコチラに振り向く事さえしなかった。
「麻衣さん、折角挨拶をしているんだから、それに反応を示す位したらどうふぁひ?」
 孝介が慌てて僕の口に手を押し当てる。しかし言葉は少しばかりその音を虚ろな物にしながらも、確かに麻衣の耳に届いてしまう。彼はその眼にうっすらと涙さえ浮かべていた。
 まるでスローモーションの映像の様にゆっくりと、麻衣はコチラに振り返る。
 孝介は僕を抑えつけようと必死で彼女の事を見ていない。しかしもし彼女の今の姿を見ていたとしたら、彼は一体どんな反応を示しただろう。
 吊り上った唇を隠す事無く、むしろ見せつける様に麻衣に向き直る。彼女はそれを見て、うざったいとでも言いたげに半目で睨みつけて、
「ごめんね橋本君。
 ちょっと周りに目がいかなくって気付かなかったんだ。許してもらえないかなぁ?」
 言葉と表情が全く噛み合っていない。まるで幼児にでも話しかける様な猫なで声は、本来その様な苦虫を噛み潰した様な顔から発せられる物ではない。
「おや、得意の笑顔を脱ぎ棄ててしまっても良いのかい?
 僕としてはそちらの方が都合が良いのは勿論だが、そんな顔を浮かべたままじゃ、君が今まで築き上げた物も全て失いかねないんじゃないかな?」
 僕の言葉に、孝介は盗み見る様に薄らと麻衣の方へと視線を向ける。しかし、彼女の顔がまるで作り変えられたかのような素早さでいつもの笑みへと変わったのは、それとほぼ同時の事であった。
 その変化に顔をしかめるが、麻衣はそんな事は意にも介さないとでも言うかのように、今度は孝介の方へと視線を集中させた。僕の事など眼中に無いとでも言うかのような態度は、彼女が提案した妥協案の様にも思える。
「遼さんが何を言ってるのか、私はよく分んないなぁ」
「いや、まぁその転身の早さも君らしさと言えばらしさなのかもしれないね。
 そうだ、孝介、彼女がさっき僕の言った、新しい友達候補だよ」
「……はぁ!?」
 男女の、悲鳴にも似た叫びが同時に響く。自分の物ではない音に孝介が慌てて振り向くが、残念な事に麻衣は表情にだけは糸一本分の亀裂さえ見せていなかった。
 朗らかなニコニコ顔から吠える様に吐き出されたその言葉は、例えようもなくシュールであった。
「今のは中々惜しかったね。
 こうやってもう少しの間僕達が一緒に過ごす事が出来れば、孝介が君の本性を見つけてしまう事も十分にあり得そうだね」
「え、あ、へ、いや、ちょっと待ってくれ遼、お前は何を言ってるんだ?」
 頭痛をおこしたみたいに頭に手を擦りつけ、間抜けに口を半分開き、孝介は狼狽したようにそう言う。
 麻衣は何も口にしない。まるで何事も無かったかのように微笑んでいる彼女だが、しかしその拳からはミシミシと鈍い音が響いている。仮面を剥がすまで、時間はそう長くはいらなそうである。
「なにって、別に言ったとおりの事さ。
 さっき僕がトイレに行った時、偶々麻衣さんと顔を合わせてね。そこで幾つか言葉を交わしたんだが、彼女は思っていた以上に面白い人間だった事に気付かされたんだよ」
「面白い、って言うのは、少し、失礼なんじゃなぁい?」
 言葉は途切れ途切れに発せられる。抑えきれなくなった激情が、普段の自分の壁を壊して氾濫するまで後一歩といったところだろうか。
「いや、気に障ったのなら謝ろうか。
 別に君に対する皮肉でもなんでも無くてね、僕からしたらこれは単なる褒め言葉なのだよ」
 ぷちりと、何かが切れる音が聞こえた気がした。
「……貴女に褒められても、全然嬉しくないわ」
 溜息を一つ吐き出して、麻衣は観念した様に首を振る。疲れきったその横顔は、今までの物とは違う正真正銘生気の見える彼女本来の物だった。
 待ち望んだ結果に、噴き出す様な笑いが零れる。孝介は許容量を超えた驚きにあんぐりと口を開き、つちのこでも見つけたみたいに麻衣の姿を眺めていた。
「なんだ、思ったよりも随分と諦めが良いんだね。
 予想ならば、僕の苛々が臨界点に達するのと君の塗装がはがれるのは、ほぼ同時だと思っていたんだが」
「貴女みたいな変人相手に意地を張るのがバカらしくなっちゃったの。
 それに橋本君とも本当に仲良くなろうと思ったら、いつまでも嘘をついてるって訳にもいかないしね」
 麻衣は鋭い笑みを孝介に向ける。思考停止していた孝介はそれに反応するのに一歩遅れるが、慌てたように、
「あ、うん、ヨロシク」
 日本語を覚えたての外国人みたいな、ぎこちない発音だった。
「あはっ、何それ!
 酷いなぁ橋本君は。女の子の方から仲良くしようって言ってるんだから、もう少し気の利いた言葉位掛けてくれても良いのに」
 孝介は困ったように顔を崩しながら、
「あ、うん、悪ぃな綿貫さん。ちょっと事が突然に進み過ぎて、頭がついていかないんだわ。
 俺が記憶してる限りだと綿貫さんと遼は昨日までは凄い仲が悪かった気がしたから、何かこんなに普通に話してると違和感があるっていうか」
 そう言って、孝介は難しい顔をして俯いてしまった。
 孝介は、先程までの僕の話を聞いていたのだろうか。呆れたように首を振り、嘲笑を浮かべ、
「だから、その件については先程話した通りだろう?
 やれやれ孝介、若年性健忘症を患うにしてもまだ若いというのに、君はちょっと頭が弱すぎるんじゃないかな?」
「いや、あんな犬猿の仲だったのがたった五分かそこら話しただけで仲直りって、どう考えても変だろ!」
「女心と秋の空というやつさ。
 おかしい事も難しい事も何もなく、ただ単に彼女が僕の興味を引くに値する人間だったというだけだよ」
 その言葉に麻衣はむっと眉を潜め、
「私は別に貴女と友達になろうだなんて、これっぽっちも思ってないんで!
 って言うか何その"興味を引くに値する人間"って! 友達って言うくらいなら、まずはその上から目線をどうにかしなさいよね!」
 顔を真っ赤にして、襲いかかる様な獰猛さで畳み掛けてきた。
「……成る程。確かに言われてみればそうかもしれないね。
 ありがとう麻衣さん。僕達の明るい未来の為に、これからも思った事はどんどん口にしていってくれたまえ」
「だから、まずはその話し方をどうにか――――」
 言いかけた言葉が、突如僕と麻衣の間に挟まれた手によって遮られる。
「あの、綿貫さん?」
 孝介はアハハと乾いた笑いを浮かべて麻衣の肩を叩く。僕に向けた勢いをそのままに喰ってかかる様にそちらに振り返った麻衣の動きが、まるで石にでもなったかのようにピタリと止まった。僕は、笑いを堪えるのに必死だった。
 まるで時間が止まってしまったかの様だった。
 他人の迷惑も考えずに教室中を走り回っていた男子生徒達も、雑誌を持ち寄って汚らしい笑い声を上げていた女子高生も、次の授業の予習に勤しんでいた気真面目な生徒も、まるで吸い寄せられるように、普段とはかけ離れた荒々しい生徒会長の姿を見つめている。街中に名の知れたスポーツ選手や芸能人を放り出したとしても、ここまで場を支配する事は難しいだろう。
 木枯らしに揺られて、枯葉がカサカサと音を鳴らす。誰かの唾を飲み込む音がまるでマイクを使ったみたいにはっきりと耳に届く。隣に座る人間の息遣いさえ聞こえる雲の様な分厚い沈黙の中で、
「あ、ははは」
 泣き声の様な笑い。
「あ、はははは、はは、はははははは」
 麻衣の頬は火が着いた様に赤かった。触れればやはり、燃えた様に熱いのだろう。
 脇で何をするべきかとおどおどしている孝介の姿が例えようもなく滑稽だ。水を打った様に静まり返った教室が、徐々にざわめきを増していく。聞こえてくる言葉は様々だが、その中にはもれなく「綿貫さん」という言葉が潜んでいた。
 泣きそうな瞳を拭って、麻衣は精一杯のいつも通りの笑顔で、
「そ、そうだ!
 私、ちょっと今日は家に忘れ物しちゃったんだ! だからね、その、そういう事だから!!」
 脱兎の勢いで教室から逃げていった。その姿に、再び観衆達は言葉を無くす。
 間抜けなチャイムの音が鳴り響く。余所の教室からは、椅子を動かす騒がしい音が聞こえてくる。誰かが教科書を落としてしまい、しかしその音にさえ誰も反応を示さない。皮靴が地面を蹴る音が聞こえる。それが段々と教室に近づいてきて、
「……なんだ、どうしてこんなにこの教室は静かなんだ?」
 扉を開けた先には、次の授業の担当の宮越教諭の渋い顔が。
 生徒達は、何も言えなかった。
 皆の表情が険しくなるほど、今日は寒い冬の日であった。
2012/04/23(Mon)21:25:02 公開 / うぃ
■この作品の著作権はうぃさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
昔原稿用紙で百枚弱分位書いて、自分で纏め切れずに三年位放置していた物を完結させたいと思って投稿させてもらいました。
ラノベっぽくて中二分が非常に多い物をと思って作ったので、嫌いな人は文体から話の作りまで嫌いで仕方ないと思います。ごめんなさい。
この作品に対する感想 - 昇順
なにやら登場人物の言動が奇妙だなあと思いましたが、なるほどこれが中二的ラノベってやつですか。戸惑いはありますが、嫌いというほどでもないです。
孝介君を挟んでの男と女の勝負が心なごみますね〜。
色々伏線もあるようですし、どうなっていくか興味深いです。
2011/08/12(Fri)09:16:400点玉里千尋
初めまして、読んでみたのですが比喩的な表現や台詞の語尾に!マークがやや多いという部分をのぞけば、ラノベ風ではありますが堅実な描写がなされていると思います。文体や台詞にブレがあったり、登場人物の書き分けができていない部分も見受けられますが、校正次第で修正できるものであって気になるほどではないと思います。
個人的な意見としては小説の時代背景は現代ではなく、大正などの戦前といった古い時代にした方が文体を生かせるのではないかと考えますが、これはあくまで私感です。現代が舞台だからといって問題があるとは思っていません。

正直なところ、内容と設定は非常にオーソドックスだと思いますが
・主人公の母親について
・夢の女性が語ることの真実性(なぜ主人公の素性を知り、コンタクトをとれるのかなど)
・父親の作った機械の実態
・並行世界の環境とつながり
・生徒会長は話の根幹に関わってくるのか
などの伏線がうまい具合に結実し、読んでいてハッとなるようなものであれば素晴らしい作品になると思います。さらにオカルトやSFといった要素を盛り込めば、非常に幅広い読者を獲得することができるでしょう。本音ではもう少し控えめな方が良いと思うのですが、魅力的なものを感じる文章だと思っています。ぜひ続きの方を読んでみたいです。
2012/06/06(Wed)18:12:030点AoA
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