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『舞米高校風紀委員会〜護れ!我らが主さま!〜』 作者:水城時計 / リアル・現代 ファンタジー
全角92053文字
容量184106 bytes
原稿用紙約307.15枚
行橋つかさ、この春から高校一年生。右目が蒼い色をしている以外は、普通の男の子。武家屋敷のような叔父の家へと居候を言い渡され、単身本州へ。そして、叔父の薦めで風紀委員会に所属。しかし、そこは普通の委員会ではなかった。「お待ちしておりました、ご主人さま!」風紀委員会の面々は、そう言ってつかさを出迎えた。そして、そこから命を狙われる日常が始まった。「ねぇ、どうして僕の瞳は右目だけ蒼いの?」その謎と、つかさの正体、そして、歴史の裏に葬られた戦争が明かされる。
導入話/そして僕を護る者
一話/怪盗○○仮面?!
二話/隠された真実
三話/この俺と××しろ!
四話/大切なものは何ですか?


導入話   そして僕を護る者



 僕の右目は蒼い宝石となっている。



 中学までは四国で育った。
 けれど、お父さんの仕事の都合で、卒業と同時に九州へと旅立つことになった。
 旅立つことになるはずだった。
「僕だけ日本に残るの?」
 自分も一緒にお父さんの転勤に着いていくものだとばかり思っていた。
 だから、つかさは拍子抜けしたように瞳を真ん丸く見開いた。
「誠の家がお前を預かってくれるよ。高校三年間はそこでお世話になりなさい。」
「でも、僕…。」
「大丈夫よ。つかさなら、すぐにお友達を作れるわ。」
「いや、そういう心配をしているわけじゃなくて…。」
 その心配も無いと言えば嘘になるけれど。
「ともかく、決まったことだからな。それがお前のためなんだ。」
「僕のため?」
 いつもはひょうきん者のお父さんが、真剣な顔をして言っている。
 この時はまだ何も知らなかった。
 お父さんの言葉の意味も、そして、右目だけがどうして蒼色をしているのかも…。



 本州に渡ったのは、中学校の修学旅行以来だった。
「つかさくん、よく来たね。」
「お世話になります、誠叔父さん。」
 つかさは礼儀正しく頭を下げた。
 つかさの父親は長男のくせに婿養子で、つかさの母親の家に婿入りした。
 旧姓は仙道(せんどう)。今は行橋(ゆくはし)。
 誠は父親の弟で、つかさの父親とは二十以上も歳が離れていた。
 若い妾との間に出来た子供だった。
 それなのに、父親の実家である仙道家の本家の方で暮らしている。
 本家の人々に疎まれている様子もない。
 むしろ大切な家族の一員だと歓迎されていた。
「自分の家だと思ってゆっくりしてね。」
 にこり、と誠が朗らかに笑う。
 しかし、ここを自分の家と思えるかどうか…。
 なんたって、広い!広過ぎる!
 つかさが住んでいたマンションなど比べ物にならないほどの敷地が、そこには広がっていた。
 家は城壁のような高い壁により防御されており、梯子を使わない限りは泥棒も忍び込めない。
 門をくぐってまず先に入ってきたのは、図鑑に載っているような日本庭園で、おまけに鯉が泳いでいる池まである。
 五分くらい歩くと、ようやく玄関まで辿り着けた。
 そして、玄関の扉を開くと、これまた武家屋敷のような廊下が縦横に足を伸ばしていた。
 迷子にならないかな…。
 自分の家の十倍、いや二十倍、いやいやそれ以上ありそうなココを、どうして我が家と思えよう。
 純和風な造りのこの家は、時代劇のセットに登場していてもおかしくないようなお屋敷だった。
 お父さんって、こんな良いところのお坊ちゃんだったんだ…。
 父親の実家に来たのは、今日が初めてだった。
 いつもは、祖父母、父の兄弟の方から、つかさたちの住む四国へと遊びに来てくれていた。
「ここが、つかさくんの部屋だよ。」
 通された部屋はこちらも立派なもので、マンションで使っていた部屋の三倍はあった。
 張り替えたばかりなのだろうか、畳がまだ日に焼けていなかった。
「高校は舞米高校だろう?」
「はい。」
「じゃあ、時間が合う時は一緒に通えるね。」
「え?」
 あれ、と誠が目を開いて首を傾げた。
「言わなかったっけ?舞米高校は僕の職場だよ。」
「ってことは…。叔父さん、学校の先生なんですか?」
 初耳だった。
「僕なんて、まだまだヒヨッコだけどね。」
 二十六歳でヒヨッコならば、十五歳になりたての自分なんて、まだ卵にもなっていないだろう。
 早生まれのつかさは、つい先日、誕生日を迎えたばかりだった。
 生まれるのがあと数日遅れていれば、今年の春から高校一年生ではなくて中学三年生だった。
「入学式は明後日だけど、荷物整理とか大丈夫?」
「はい、一人でできます。」
 そんなに多くの荷物は持ってきていなかった。
 もともと、部屋は簡素で無機質な方だ。
 前の部屋だって、本棚に机に布団、それくらいしか物という物はなかった。
 夕飯の時間になるまで、つかさは自分の身の回りの整理をした。
 宅配便で送ってきた荷物も、手持ちで持って来た荷物も、夕飯の時間が始まる前に片付いてしまった。
 明日は丸一日暇になりそうだ。
参考書でも読んで時間を潰そうかな。
 それが、蒼い右目の正体を知る三日前のこと。



 入学式の席で担任の先生を発表されて驚いた。
「まさか、誠叔父さんが担任だったなんて。教えてくれれば良かったのに。」
「ふふ、つかさくんを驚かそうと思ってね。」
 小さな悪戯を成功させてはしゃぐ無邪気な子供のように、誠が笑った。
「つかさくんは他県から来たから、同じ中学の友達がこの学校にはいないだろうけど…。」
「構いませんよ。」
 つかさは弱々しく笑った。
 小学校、中学校と友達なんていなかった。
 友達といえば、参考書や教科書くらいか。
 人と接するのが苦手、言葉を交わすのが苦手。
 国語の成績は悪くないのに、人を前にすると言葉のボギャブラリーが一気に減る。
 いつも机でノートにカリカリ計算式や漢字ばかり書いていたものだから、ついたあだ名は「ガリ勉眼鏡」。
 ガリ勉は当たっている。
 けれど、眼鏡は別に目が悪いからかけているというわけではない。
 人と向き合って話すのが苦手なのだ。
 だからレンズ一枚で壁を隔てて、そこから相手の目を覗くようにしていた。
 影でコソコソと変なあだ名で名前を呼ばれ、昼休みには校庭で一緒に遊ぶような仲間もいない。
そんなわけで、地元の高校に進もうが、地元のクラスメイトたちがいない遠く離れた高校に進もうが、友達関係に問題はなかった。
 知った顔が居ようが居まいが、誰も自分なんかに話しかけてくれる人なんていない。
 友達なんかいなくても、別に死ぬわけじゃないんだし。
 けれど、少しだけ寂しい…かな?
「つかさくんは、もう何の部活に入るか決めたの?」
「はい、帰宅部に入ろうかと。」
 要するに、何も部活に入らない。
「残念。それはできないんだよ。うちの学校、部活か委員会に所属するのが原則だから。」
「そうなんですか?」
 生徒手帳に書かれてある校則なんてイチイチ読まないし、はじめてのHRの時だって、冊子になったプリントを配られただけで、担任からは何も聞いていない。
 もしかすると、渡された冊子には事細かにこの学校の規則などが書かれてあるのかもしれないが。
「入る部活を決めてないんだったらさ、風紀委員会に入らない?」
「風紀委員会?」
 というと、校則違反者たちを取り締まったりする委員会か。
「僕が顧問をしているんだ。」
「誠叔父さんが?」
 だったら、入ってみてもいいかもしれない。
 誠がいるのであれば、間違いはないだろう。
「きっと今頃ミーティングをやってるよ。行ってみたらどうかな?」
「え、今からですか…?」
 急に言われても、心の準備ができていない。
「僕も一緒に行くからさ。というよりも、行かなきゃいけないし。」
「誠叔父さんが一緒なら…。」
 知らない場所に一人で行くのは怖いが、その場所をよく知っている人と行くのであれば、多少は恐怖心も緩和される。
 誠の斜め後ろを歩きながら、つかさは特別教室棟へと向かった。
 風紀委員会の使用教室はその校舎にあるようだ。
「ここだよ。」
 着いた先は「歴史資料室B」。
「この部屋の管理者は僕なんだ。少し埃っぽいけど日当たりはいいし、理科の先生からビーカーとアルコールランプセットをもらったからコーヒーとか沸かせちゃうよ。飲む?」
「いえ、今は喉も渇いてないので…。」
 ガラリ、と誠が扉を開ける。
 部屋の中から、何かが勢いよく飛び出してきた。
 それが何なのかを判断する前に、飛び出してきたものは瞬く間に煙となって消えてしまう。
それと同時に「あーーーーーーっ!」と喚く、耳に痛い叫び声も飛び出してきた。
「誠!テメェ、なんで突然扉を開ける!逃げちまったじゃねぇか!」
「ごめーん、駿くん。もしかして、最中だった?」
「最中どころか、あれで終わりだったんだ!くそっ!またはじめっからやり直しじゃねぇか!」
 がっ、と壁を拳で殴りつけたのは、猫のように目のつりあがった少年だった。
 学ランの袖の部分に、赤色のラインがある。
 ということは、つかさと同じ一年生だ。
 それなのに、この少年は今日が入学式で初対面のはずの先生を、思いっきり呼び捨てにして叫んだ。
 しかも、口と態度も悪い。
 制服は学生手帳通りに襟元までキッチリとしめて正しく着ているが、風貌はどこからどう見ても不良少年だった。
 きつくつり上がった目に、ピンと跳ねたクセッ毛。
「どーしてくれんだ!今日の活動予定は三丁目で行われる空き缶拾い運動に参加することだったのに!もう一回最初っから始めたら、完全に遅刻じゃねーか!」
「大丈夫だよ。六時三十分までやるつもりらしいから。少しくらい遅れてもいいじゃない。」
「俺ははじめから参加したいんだ!」
 男子生徒は誠に詰め寄ると、誠の胸倉を掴みあげた。
 身長の高い誠から見れば子猫が睨み上げているようにしか見えないかもしれないが、つかさから見れば大きなボス猫が上から威嚇しているように見えた。
 それくらい迫力がある。
「それよりも、新しい風紀委員を連れて来たよ。」
 ボス猫男子生徒の前に、誠がつかさを差し出す。
「ふぅん。こいつが、ねぇ…。」
 上から下、下から上へと男子生徒がつかさを検分する。
「弱そう。」
 ボス猫男子生徒の言葉に、つかさは心の中で頷いた。
 うん、僕は弱いんです。
 だから、食べたり引っ掻いたりしないで下さい。
「もうミーティングが始まった頃だと思ったんだけど…。他の風紀委員会の子たちは?」
「まだ来てねぇ。」
 ガラガラ、とグラウンド側の窓が開いた。
「遅れちゃって、ごみ〜んに〜!もう皆、揃っちゃってる?」
 入って来たのは女子生徒だった。
 それに続いて男子生徒も入ってくる。
 くるくるとした愛らしい瞳に、天使の笑顔が似合う女子生徒と、知的で秀才肌を思わせる眼鏡の男子生徒。
 この二人、今、窓から入ってきた?
 つかさは二人の入ってきた窓に駆け寄り、下を見下ろした。
 こちらはベランダ側ではない。
 上には屋上。下に広がるは固そうなアスファルト。
 そして、ここは四階。
 この二人、どうやってここに?!
 驚きで目を開いていると、さらに異様な光景が足音を立ててやって来た。
 ガラリ、と開いた教室の扉から入ってきたのは、熊を肩に担いだ背の高い男子生徒だった。
「おい、駿。これでいいのか?」
 身長が百九十センチ以上ありそうな強面でクールな男子生徒が、静かに言った。
「悪かったな、わざわざ運ばせて。」
「別に。お前じゃなくてご主人のためだし…。」
 照れて染まる頬を隠し、無理に仏頂面を作って顔を背けると、長身の男子生徒は熊を床に降ろした。
 どうやら本物ではなく剥製のようだったが、その重量はかなりのもののようだった。
 だって、床がズシンって…。
 一人で運ぶことが出来るくらいだから、重量といっても見た目ほどないのかも、と思い熊の剥製に手をかけてみると、一ミリも床から浮かせることが出来なかった。
 重たいなんてものじゃない。
 まるで岩だ。
 地面に根を張った岩を持ち上げようとしているみたいだった。
 これ、人間が一人で運べるような重さじゃないよね?
 熊の剥製と、それを運んできたクールなようでその実、照れ屋かもしれない男子生徒に気を取られていると、大名行列のような足音がこちらに向かって歩いてきているのが聞こえた。
「あいつのお出ましか。」
 ボス猫男子生徒が腕を組んで言った。
「お待たせして申し訳ありませんわ。」
 扉が開いた瞬間、女神がこの世に降臨した、と瞬間的に思った。
 美しいという言葉では足りない。
 まるで、最高の芸術家たちが総力をかけて造りあげた最高の芸術品。
 それは神に献上するために造られた魂の込められた人形。
 長い漆黒の髪が、窓から流れてくる風に吹かれて麗しく踊った。
「それでは皆様、これから委員会のミーティングがありますので、これで失礼いたしますわ。」
 女神が歩いてきた廊下から、ざわっと声が上がった。
「菖蒲咲さん、委員会頑張って下さい!」
 何重にも重なった男子生徒たちの声。
 そろり、と女神の後ろにある扉から廊下を覗いてみると、まるで大群のゴキブリが夏の暑さで湧き出したかのように、何十人もの男子生徒たちが波を打って廊下を埋め尽くしていた。
 男子生徒たちに、お別れの笑顔に加えて手を振ってやると、女神はピシャリと扉を閉めた。
「ほんっと、お前って中学の頃から全然変わらねぇな。金魚のフンみたいに信者を引き連れやがって。」
「あら、私(わたくし)が悪いのではありませんわ。あの方たちが勝手についてくるんですもの。私としては、ご遠慮して頂きたいところですわ。」
 はぁ、と女神が頬に手を当て、困ったように目を瞑り溜息を漏らした。
「そういう駿さんだって、中学の頃からあまりお変わりなくてよ。身長、伸びまして?」
「黙れ。」
 ふん、とボス猫男子生徒は鼻を鳴らした。
「じゃあ、風紀委員会のメンバーも全員揃ったことだし…。」
「え、これで全員ですか?」
 一、二、三、四、五…顧問の誠を入れて六。
「うん、これで全員だよ。」
 ケロリとした表情で誠が答えた。
 全校生徒数二千人強もいるこの学校で、風紀委員会の役員がたったの五人?
 自分と顧問を合わせても、たったの七人?
 驚き呆けているつかさをよそに、自己紹介が始まった。
「あたしは二年五組の猿飛彦芽(さるとびひこめ)だよ!よろしくねっ!」
 窓から入ってきた天使の笑顔の少女が、元気よく握手を求めてきた。
 恐る恐る手を伸ばすと、強風に煽られた振り子の勢いで上下にブンブンと振り回された。
「二年二組、坂本虎次郎(さかもとこじろう)。」
 クールで照れ屋な長身の男子生徒が、仏頂面を貼り付けたままボソリと言う。
「三年一組、猿飛彦地(さるとびひこじ)。よろしくお願いします。」
 知的な感じの眼鏡が光る男子生徒が、慇懃に頭を下げた。
「あたしのお兄ちゃんなんだよ!」
 彦芽が彦地の腕に抱きついた。
「私、三年六組の菖蒲咲紅葉(あやめざきくれは)と申しますの。一応、風紀委員会の副委員長をしておりますわ。」
 盲信的な信者を多数引き連れた女神が、慈愛の笑みで笑った。
 風紀委員長はこの人でもないのか。
 とすると、あと一人残ったのは…。
 つかさはボス猫男子生徒の方をチラリと見た。
 が、すぐに明後日の方向へと逸らす。
「おい、何で目を逸らす?」
「あ、いえ…、別に…。」
 猫に追い詰められた鼠の気分だ。
 もしかして、もしかしなくとも、残ったのはこの人しかいない。
 がしり、と右肩を力強く掴まれた。
 強制的にボス猫男子生徒と視線をガチ合わされる。
 ニタリ、とボス猫が笑った。
「一年一組、二階堂駿(にかいどうしゅん)。風紀委員長様だ。」
 光を反射した歯がやけに白く映った。
「お前の入会を歓迎するぞ。」
 ボス猫は支配者的な笑みを浮かべ、天使と女神は可愛らしい笑みを浮かべ、秀才眼鏡とクールな照れ屋は表情を崩さずに、つかさの来園を歓迎した。
「ようこそ、舞米高校風紀委員会へ。お待ちしておりました、『ご主人様』。」



 最初の仕事は地区の空き缶拾いだった。
「主(あるじ)!」
 しゅんが大声で誰かを呼んでいる。
「おい、主!」
 空き缶拾いのボランティアのリーダーさんかな?
 そんなことを思いながらビニール袋の中に空き缶を投げ入れていると、後ろから背中を蹴られた。
「さっきから呼んでんのに、シカトかよ!」
「主って、僕のことなの?」
「他に誰がいる?」
 馬鹿なことを言うんじゃねぇ、とでも言いたげに、駿が腕を組む。
「お前は彦芽と組んで向こうを手伝ってこい。」
「ちょっと待って。」
「何だ?」
「何で僕が『主』なの?」
 教室で歓迎された時の言葉もおかしかった。
(お待ちしておりました、ご主人様。)
 その言葉の意味を聞く前に「ボランティア活動の時間に遅れる!」と言って駿に引っ張ってこられたから、聞き出す暇がなかった。
 しかし、今なら時間もある。
「俺たちの『主』だから『主』だ。」
「よく、分からないんだけど…。」
 ビッ、と駿がつかさの右目を指した。
「蒼瞳(そうがん)。」
「え?」
「お前さ、ガキの頃とか変なアダ名付けられなかった?」
「…ガリ勉眼鏡とか?」
「いいや、『化け物』とか?」
 ギクリ、とつかさは肩を震わせた。
 あまり耳に入れないようにしていたが、確かにあった。
 誰も面と向かって言ってくる者はいなかったが、影でそう呼ばれていることは知っていた。
(どうしてあの子は、右目だけ蒼いのかしら?気持ち悪いよね。)
「俺も言われた。」
 何でもないことのように駿が言った。
「ヒトってな、自分とは違う人種を嫌うんだ。より強い権力を持った者。異端の力を持った者。人間ではないもの。挙げたらキリがない。」
 駿の視線は雲の彼方を向いている。
「それに加えて欲深い生き物だ。人によって欲となる対象の価値は変わるけど、それでも探究心や好奇心が尽きることはない。何度過ちを繰り返したって、それが間違ったことだと分かっていたって、自分たちの心を満たすためにそれを行う。」
 駿の言っている意味がよく分からない。
 彼は、何が言いたいんだ?
「いいから、とっとと彦芽と一緒に行ってこい!」
「え、でも、まだ何で僕が主なのかの答えを聞いて…。」
「だから、主だから主だって言ってんだろうが!クソ主!」
 また背中を蹴られてしまった。
 主ということは主人ということで、駿からしてみればつかさの方が上の位置に当たると取ってよいわけだ。
 それなのに、この扱い。
 どっちが上司でどっちが部下か分からない。
 それにあの人、かなり傲慢だ。
 話す言葉は命令口調だし、先生のことも先輩のことも呼び捨てにするし、顎で使うし。
 痛む背中をさすりながら、つかさは彦芽のもとへと向かった。
「ご主人さま〜。あたしが缶を拾うから、ご主人さまはゴミ袋を広げててね!」
 ほら、まただ。
「あの、先輩。どうして僕のことを『ご主人さま』って呼ぶんですか?」
 駿だけではない。
 風紀委員会の全員が、自分のことを「主」と呼ぶ。
「あたしたちのご主人さまだからだよ?」
 ニッコリと笑う彦芽の笑顔は、純心な天使そのものだ。
 けれど、天使も答えはくれなかった。
 どうして自分が「主」なのか。
 これが、全ての謎が解ける一日前。



 風紀委員会というところの主な仕事は、学校の風紀を守ることに加えて、景観を守ることにもあった。
「今日の活動は植林の手入れだ。」
 駿が指揮を執る。
 分からないことがあった。
 何故、今年の春に入学してきたばかりの駿が、自分と同じ一年生でありながらも、既に風紀委員会の委員長をしているのか。
 しかも、他の風紀委員会のメンバーたちとも面識があるようだった。
「あの、紅葉先輩。」
「何ですの、主様(あるじさま)?」
 一番優しくて、一番聞きやすそうな紅葉に聞いてみた。
「どうして駿くんが風紀委員長なんですか?」
 この言葉だけで、紅葉はつかさの聞きたかったことを理解してくれた。
「ここにいる風紀委員会のメンバーは、小学校からの知り合いですの。中学に上がってから風紀委員会を選びまして、ここはその延長線上ですわ。駿さんが中学一年生の時は私が風紀委員長をしていたのですが、私が卒業してからは駿さんが務めるようになりましたの。そして、皆で進学校を同じにしようと決めていましたから、そこで風紀委員会に入った際には、委員長は駿さんにしようと話し合いまして。」
 話し合いの結果が、これらしい。
「進学先を同じにするくらい、皆仲が良かったんですね。」
「仲が良いというよりも、これは決められた運命ですわ。」
 くすり、と紅葉が意味深に笑った。
「それにしても、風紀委員会のメンバーって少なくありませんか?この学校、二千人くらいの生徒がいるのに。」
「委員会よりも部活動に所属する生徒たちの数が多いということもありますが、もともと風紀委員会は代々人気がありませんの。酷い時は二人しかメンバーがいらっしゃらない年もあったと聞きましたわ。」
「それは…酷いですね。」
 二人だけで学校の風紀を取り締まれたのだろうか。
「主、紅葉!裏庭の方に行くぞ!」
 グラウンドにある植林の手入れがほとんど終わったので、駿が号令をかけた。
 裏庭に向かうと、グラウンドよりも立派な植林が軒を並べていた。
 ここは生徒たちの憩いの場でもあるようだ。
 ベンチや春の花壇が座っており、昼食をここで食べてもいいように、テーブルまであった。
 ちょっとしたオープンカフェだ。
「おい、駿。」
 虎次郎が駿の肩を叩いた。
「嫌な気配がする。」
 駿も頷いた。
「そうだな、かなり近い。来るぞ。」
 ガシリ、と駿から腕を強く掴まれた。
「主、俺の傍から絶対離れるなよ!」
 駿が叫んだと同時に、上空からドォン!と爆音が響いた。
 炎の矢が、流れ星よりも早くつかさ目がけて襲ってきた。
「阻め!オン、ウルタ!」
 背につかさを隠し、駿が札のようなものを出す。
 呪術のような言葉を唱えると、札に書いてあった文字が青く浮かび上がり、青い炎を上げて燃え上がったかと思うと、水の壁を作って炎の矢を打ち消した。
「情報早ぇな。もう主がこっちに来てることを嗅ぎ付けたのか。」
 水が炎を相殺させた湯気の向こうに、二人の女性の姿があった。
 しかし、人間ではなかった。
 一人は炎のように燃え上がった真紅の体を持ったグラマーな女性。
 一人は海のように深い青をした水の体を持ったスレンダーな女性。
 二人とも、炎と水が集結して形を持ったような姿をしていた。
額に「真」の印字が入っている。
「その字が入ってるってことは、真備家の式神だな。目当ては蒼瞳か?」
 駿の問いかけに答えることもせず、炎の女性が体から再び炎の矢を放ち、攻撃を仕掛けてきた。
「攻撃が単調だな。」
 さっきと同じ技で、駿が札で水の壁を作る。
 しかし、今度はさきほどと同じようにいかなかった。
 炎の矢が水の壁に届くより早く、水の女性が水の矢で、駿の作った壁を打ち消した。
「何?!」
 防御するものが何もない。
 僕、死んじゃうの?
 スパンッ!と鋭いものを小気味よく切るような音が響いた。
「何をやっているんですの、駿さん。」
 音源は紅葉だった。
 彼女の手には、彼女の身長よりも背が高い弓矢が構えられている。
 光の矢が、水の矢を打ち抜いていた。
「駿、主様を連れて逃げろ。」
「ここは、あたしたちに任せて!」
 彦地と彦芽が炎の女性と水の女性の前に立ちはだかる。
 彼らの手には、手裏剣や苦無が握られていた。
「こんな雑魚、お前なんかいなくても倒せるんだよ!」
 虎次郎が咆哮を上げた。
 叫び尽くすと彼の頭から角が生え、口からは牙も生えてきた。
 近くにあった一番背の高い植林に手をかけると、それを一気に引き抜いて軽くて細い棒きれでも振り回すかのように、植林を振るった。
「お前ら、負けたら承知しねぇからな。」
 つかさの手を引くと、駿は裏庭からつかさを連れ出した。



 今のあれは何なんだ?!
 いきなり変な化け物に襲われた。
 弓を構えた紅葉、忍びのような武器を取り出した猿飛兄妹、人間らしからぬ鬼のような牙と角を生やした虎次郎。
 そして、札のようなもので魔法使いみたいな幻術を起した駿。
 襲ってきた化け物は何だ?
 そして、自分を主だと呼ぶこの人たちは一体何者なのだ?
「ねぇ、さっきのって何なの?!」
 駿に手を引かれて走りながら、つかさは聞いた。
「真備家の式神だ。お前を狙っている。」
「何で僕が狙われなくちゃいけないの?!」
「お前が仙道家の人間で、蒼瞳の持ち主だからだよ。」
 突然、駿が足を止めた。
 つんのめって、つかさは転びそうになる。
「やっぱ十五、十六ってーと、まだまだガキだな。」
 どう見ても学校関係者ではない男が、目の前に立っていた。
 無精髭を生やし、髪の毛はだらしなく肩まで伸ばしている。三十代前半といったところか。
 身なりもTシャツにジーパンで、どこかみずぼらしいところがあった。
清潔感がカケラもない。
 まるで野良犬のような男だった。
「おっと、初めて会う人間にはまずは自己紹介からだな。オレは真備豊草(まきびとよくさ)。陰陽師だ。」
 ポケットから数珠を取り出し、手を合わせる。
「お前らのことは知ってるから、紹介はいらない。じゃ、さっそく蒼瞳をいただくとしましょうかねぇ!」
 男が呪文のような言葉を早口で唱えると、何本もの凍てつく氷柱がつかさを標的に襲ってきた。
「開け!オン・ザラタ!」
 駿が札を投げつけると、札は無数の炎の矢に変わり、氷柱を相殺した。
「ひゅう、やるねぇ。さすが二階堂家の坊主だ。なら、これはどうだ?」
 男が呪文を唱え終わる前に、駿が攻撃した。
 足元に飛んできた風の剣を、「おわっ!」と情けない声を出して男は避けた。
「お前、それ反則だろ!人の詠唱中に攻撃仕掛けてくるなんて!戦隊ものの敵さんだって、ヒーローの必殺技中はちゃんと待ってるだろうが!それマナー!最低限のマナーだから!」
「けけけ。そんなマナーなんぞ知らねぇなぁ!」
 どっちが敵だか分からない。
「主に指一本触れさせるかよ!これで決着つけてやるぜ!二重補助!」
 駿が札を投げ上げた。
「喰らえ!オン・ライタ!喰らえ!オン・クェンタ!」
 二枚の札が、一枚は茶色に、一枚は黄色に光を上げる。
 札は燃え上がり、二色の色を重ねて駿を包み込んだ。
「補助系の符術を二枚同時に使えるとは、末恐ろしい坊主だな。まぁ、そうこなくちゃ面白くないんだけど。」
 男がブツクサと呪文を唱える。
 すると、数珠が剣に姿を変えた。
「陰陽師だってな、術だけじゃねぇんだよ!」
 男と駿の接近戦が始まる。
 剣で斬る男の攻撃を、駿は素手で跳ね返す。
 まるで手が鉱石でできているかのようだった。傷ひとつ負わない。
「ちょこまかとすばしっこいな!」
 ブン、と男がいくら高速で剣を振りかざそうとも、駿は風と踊るように優雅にかわした。
 風で流れ落ちる木の葉を捕らえようとしても、男の手には捕らえられない。
「大地の補助系符術は剛腕と鉱石の体、雷の補助系符術はチーターのような身体能力、だったか?」
「詳しいな。」
「オレも符術師に憧れてた時期があってね。でも、お家違いでなれなかった。」
 男の剣が、また空を空振る。
「さて、そろそろオシマイにしようか。お兄さん、疲れてきちゃったし。」
「お兄さん?鏡を見てからものを言え。あつかましいぞ。」
「そんなこと言ってると、罰が当たるぜ。来い、豊鳥(とよとり)!」
 駿の後ろから風の威圧が舞い上がった。
 背中から翼を生やした緑色の体をした女性が、鋭く尖った爪を振り上げ、駿を切り裂こうとした。
「危ないっ!」
 駿くんが死んじゃうっ!
 つかさは咄嗟に駿の背後へと割り込み、全身で爪から駿を守ろうとした。
 体が切り裂かれる激痛を覚悟した。
 しかし、何の衝動も襲いかかってこなかった。
「……そこに残ったものは何も無かった……、…の名の下に契約を命じる。召喚、ディオニュソス!」
 パアアアァと地面から透き通るほどの眩しい光が立ち上がる。
 固い大地に魔法陣のようなものが浮かび上がった。
 魔法陣から放たれた光に掻き消されるように、つかさを爪で引き裂こうとした翼の生えた女性は姿を消した。
「無の魔法陣?全ての術を無効化するという…。この召喚術は、まさか!」
「トップバッターが真備家の人間だなんてね。峠の方が先に来ると踏んでたんだけど。」
 男の背後には誠が立っていた。
「…お前、仙道誠か?」
「だったら、どうする?」
 ニコリ、とこの場にはそぐわない笑顔を誠は向けた。
 手には黄金色の懐中時計を持っていて、見せ付けるように豊草の視界にチラつかせた。
「学校だから坊主どもばかりだと踏んで、テキトーな用意だけで来たんだが、こりゃちゃんと準備して出直さなきゃならねぇな。」
 男の口許がニタリと歪んだ。
「オン!」
 男が白い球を地面へと叩きつける。
 目を開けていられないほど強い光が、爆音とともに閃光を上げた。
「今日のところはこれで引き上げる。じゃあな、坊主ども。蒼瞳はまた今度いただくとするぜ。」
 眼球を刺激する光の残像にようやく慣れてきた頃には、男の姿はもう消え去った後だった。
「つかさくん、大丈夫かい?」
 誠がつかさに駆け寄ってくる。
 へたり、とつかさは腰が抜けたようにその場に座り込んだ。
「主!大丈夫か!どこも怪我はしてねぇか!」
 剣幕を見開いて、駿がつかさの肩を揺さぶる。
「どうして俺を庇おうとした!」
「だって、君が死んじゃうって思ったから…。」
 考えるよりも先に体が動いていた。
「それより、今のは何なの…?どうして、僕が狙われてるの?陰陽師って何?符術師って何?召喚術って何のこと?」
 突然のことがいっぺんに起こりすぎて、理解する力が追いついてこなかった。
「つかさくん。もしかして兄さんから、君のお父さんから何も聞いてないのかい?」
「何もって…、何が?」
 あちゃあ、と誠は額を押さえた。
「おい、誠!テメェ、主に何も教えてなかったのか?!」
「僕はてっきり兄さんが全部教えているものだと…。」
 裏庭の方から紅葉たちが駆けてきた。
「駿さん、敵の方たちがお帰りになったようですけど…。」
「ああ。とりあえずは、安心していい。」
 ふいっ、と駿がつかさに目をやった。
「委員会室に行くぞ。そこで全部教えてやる。」
 駿がつかさに手を差し出した。
 彼の手を受け取ると、つかさは立ち上がった。
 思っていたよりも、駿の手は温かかった。



「召喚戦争?」
 どこか違う世界の話のようだった。
「歴史から抹消された戦争だ。時代は…そうだな、戦国時代くらいか。」
 武将たちが競って権力を争った時代。
「仙道家は召喚師の一族だった。」
「召喚師って、そんな…。だって、ここはゲームや映画の中の世界じゃないんだよ?」
 召喚術なんて存在するはずがない。
「召喚術も魔術も確かに存在する。陰陽術だってな。まぁ、俺は符術師だけど。」
 真備豊草が使役していた人間ではない女性たち。駿の札から放たれた光。
 どれもタネがある手品じゃない。
 水は水、炎は炎、どれもタネも仕掛けもない「ホンモノ」だった。
 駿が言っている通り、異界の術は存在する。
「仙道家はな、強大な力を持った家系なんだ。魔術もそうだが、召喚術も普通は一つの一族に一つの属性の術しか使えない。でも、仙道家は全ての属性の召喚術が使えた。」
「今まで黙ってたけど、僕も召喚師なんだ。」
「じゃあ、僕のお父さんも?」
「いや、君のお父さんは残念だけどその力が欠片もなかった。だから、家を継ぐ権限もなかったんだ。」
「誠、話を続けていいか?」
 駿が口を開く。
「召喚師や魔術師たちは仙道家を恐れた。そこで戦争が起こった。陰陽師や祈祷師、他の一族も交えて連合軍を組み、仙道家を潰そうとしたんだ。」
 それが召喚戦争。
「一つの一族対、幾多の一族。けど、それくらい束にならねぇと、仙道家には敵わなかったんだ。仙道家には、『蒼瞳』があったからな。」
 蒼瞳(そうがん)。
 真備豊草も言っていた。
「蒼瞳は仙道家に伝わる特殊な遺伝子だ。その瞳には絶大な魔力が秘められている。暴発すりゃあ、日本なんて木端微塵だろうな。」
 ピリシ、と駿がつかさの瞳を指す。
「その蒼瞳の持ち主がお前。」
 信じられなかった。
 自分の右目が、そんな物騒なものだったなんて。
「蒼瞳は術を使えば使うほど強くなる。その分、所有者の意思がしっかりしていないと、暴発する恐れもあるが。そして、十五、十六、十七歳の間が一番力の強まる時期となり、十八歳になると今まで蓄えた力を失う。だから蒼瞳を持って生まれた者は、十八になるまでに存分に力を使って、十八になる誕生日の前日にその瞳を取り出した。そうすれば、蒼瞳は魔力を秘めた石となり、とんでもない媒介になるからな。」
「力の強まる三年間でないと、瞳は取り出せないようになってますの。ですので、ギリギリの時期まで力をためて、それから瞳を抉り取りましたわ。」
「じゃあ、僕は十八歳になる前に瞳を抉り取られるの?」
「安心して、つかさくん。それは昔の話だよ。」
 つかさの心を落ち着かせようと、笑顔を作って誠はつかさの肩に手を置いた。
「召喚戦争の時、蒼瞳の持ち主は仙道家に二人いた。そして、二人とも十六歳だったんだ。つまり、一番力が強い時期だな。」
「本来なら、その二人が十八歳になって力を失うのを待ってから戦争を起した方が良かったのでしょうけど、それを待っている時間はなかった。だから、時期尚早と分かっていつつも同盟を組んだ連合軍は戦争を仕掛け、仙道家の殲滅を図ったのですわ。戦争の規模は大きくなり、たくさんの死人が出ましたの。」
 それでも、仙道家は生き残った。
戦争を仕掛けてきた連合軍も生き残った。
 両者に多大な傷跡を残して、相打ちという形で戦争は幕を閉じた。
「召喚戦争なんてロクなもんじゃねぇ。歴史の闇に葬られてれば良かったんだ。けど、人間ってのは欲深い種族だからな。仙道家の力を恐れたくせに、今度はその力を乗っ取ろうとしてきやがった。」
 仙道家の人間が必ずしも蒼瞳を持って生まれるというわけではない。
 仙道家の間でも、そんな力を持って生まれてくる者は極稀だった。
「お前の中にある蒼瞳、宝石が瞳となって埋め込まれてると思っていい。今、その宝石が敵対していた奴らに狙われてるんだ。」
 真備豊草と名乗った男。
 あいつも、真備家から放たれた刺客だった。
「理由は様々だ。家の繁栄のため、研究のため、権力のため。瞳から蒼瞳だけを抜き取る術を持っているのは仙道家の者たちだけ。それ以外は、蒼瞳を持つ者を殺さないとそいつを手にすることはできねぇ。敵はお前を殺しにやって来るだろう。」
「江戸時代以降、はじめて蒼瞳の持ち主が生まれてきたんですもの。まさか、仙道家の力を持たない者から生まれてくるなんて、誰も想像しなかったでしょうけど。」
 つかさの右目を敵は狙っている。
 蒼瞳を手に入れるためなら、つかさの命なんて雑草を抜き取るように奪ってくるだろう。
「僕、殺されちゃうの?」
「バーカ。誰がそんなことさせるかよ。」
 コツン、と駿がつかさの頭を軽く小突いた。
「そのために俺たちがいるんじゃねぇか。」
「彼らはつかさくんを護る『五大守護一族』だよ。」
 ごだい…しゅごいちぞく?
「符術師・二階堂駿。」
「弓道師・菖蒲咲紅葉。」
「甲賀流忍・猿飛彦地。」
「同じく、猿飛彦芽!」
「鬼一族・坂本虎次郎。」
 五人の瞳がつかさに集まる。
「仙道家にもね、味方をしてくれた一族がいるんだよ。彼ら一族の使命は、蒼瞳を持つ者を護ること。」
 召喚戦争の際にも、二人の蒼瞳者を護っていた。
「まさか、あたしたちの代で蒼瞳を持った人が生まれるなんて思いもしなかったけどね〜。」
「これも運命ですわ。」
 彦芽も紅葉も明るく笑っているが、つかさは全然笑えない。
 だって、そんな話、生まれてから一度も父親から聞かされたことはなかった。
 自分の右目は仙道家の遺伝子らしいが、母方の姓である行橋を名乗っているつかさには、自分が仙道家の人間だという感覚はいまいちピンと沸かなかった。
 それに…。
「皆に護られるだけの価値は、僕にはないよ。」
 友達だっていない。
 人から言われたことを、ただ機械的に「はい」と言ってこなすだけ。
 そんな面白味のない人間だ。
 価値と言えば、今しがた話を聞かされた蒼瞳くらいか。
「僕の右目を取り出して粉々に砕いてしまえば、問題は解決するんじゃない?」
 つかさは提案した。
 しかし、提案は駿のビンタで破られた。
「テメェ、何でそんなこと言うんだよ!」
 怒りの瞳がつかさを睨みつけている。
「俺たちはテメェを護るために技を磨いてきたんだ!」
「それは…、今までの努力を泡に返して悪いと思う。でも、こんな物騒な瞳があるから…。」
「蒼瞳なんてどうでもいい!お前だから護るんだ!」
 駿の叫びが教室を切り裂いた。
「そうですわ。主様だからこそ、私たちはお護りするんですの。」
 紅葉の言葉に、周りは頷く。
「俺が…俺たちが…、どういう思いでお前を待っていたか、知ってるか?」
(なぁ、じいちゃん。俺が護る蒼瞳を持った仙道家の奴って、どんな奴なんだ?)
(とっても優しい子じゃよ。ちょっと気の弱いところがあるがな。)
(ふぅん。)
(きっと駿のことも護ってくれるじゃろ。)
(それじゃ矛盾するじゃねぇか。俺がそいつを護るんだろ。)
(駿は、その子のことを好きになれそうか?)
(分からねぇ。けど、じいちゃんの話を聞く限りじゃ、俺の命をかけてでもそいつを敵から護ってやるよ。)
 駿の瞳が、ゆらゆらと揺れている。
「……だから、自分は護られる価値のない人間だとか、そんなこと言うんじゃねぇよ。」
 ゴン、と胸のあたりに軽く拳を突き付けられた。
「お前には指一本触れさせねぇ。お前のことは、俺が護ってやる。」
 駿の瞳が真っ直ぐすぎて眩しかった。
「駿ちゃん、ずる〜い!あたしだってご主人さまをお護りするんだから〜!」
「私だって、お役に立ちますわ。」
「ぼくも、主様のためなら…。」
「オレは…、オレがしたいようにするだけだからなっ!」
 つかさを取り囲む空気は、とても温かいものだった。
 涙がこぼれそうだった。
 初めて知った真実は受け入れがたいものだった。
 けれど、それを共有してくれる人たちがいた。
 自分を護ってくれると言った。
 護られるのが嬉しいんじゃない。
(お前だから護るんだ!)
 誰かに認められたことなんてなかった。
(あいつは化け物だ。)
(青い瞳なんて、気味が悪いわ。)
 ここには、化け物を避ける人は一人もいない。
「俺がきっちり護ってやるよ。安心しな、主。」
 ニカッ、と駿が笑ってみせた。
 彼の笑顔は、太陽よりも力強く見えた。



一話  怪盗○○仮面?



 風紀委員会の活動は毎日ある。
「ねぇ。」
「何だ、主?」
「この熊の剥製、どうするつもりなの?」
 はじめてつかさが風紀委員会の使用教室に訪れた時に、虎次郎が持ってきたものだ。
 駿の命令で持って来たらしいが、これが何かに使用されているところを見たことはなかった。
 教室の中に彩りが欲しくて持ってきただけなのだろうか。
 でも、こんな大きなもの、そんなに広くないこの教室では邪魔になるだけだし。
「お前の護衛役にしようと思ってな。」
「護衛?」
「お前がはじめてここに来たとき、扉から獣霊が飛び出して来ただろ?」
 あの時、扉を開けた瞬間、何かが飛び出してきたのは分かった。
 でも、すぐに煙となって消えてしまったので、それが何だったのかは分からなかった。
「降霊術は得意じゃねぇんだけどな。三回目でやっと成功して札の中に閉じ込めようとしたのに、誠の奴が扉開けやがったから、逃げちまった。」
「それで…どうして降霊術なんて…?」
「剥製に憑依させて、お前の護衛役にするため。そうだな、今からもう一回やってみるか。」
「い、いや、いいよ!そんなことしなくても!」
「熊は嫌いなのか?」
「いや、嫌いじゃないけど…。」
 嫌いとかそういう問題じゃない。
 護衛ということは、常に隣に付き従っているということだろう?
 剥製といえども熊に隣を歩かれては、生きた心地がしない。
 それ以前に、周りの視線が…。
「それに、僕のことは駿くんが護ってくれるんでしょ?」
「…それもそうだな。」
 ふふっ、と駿が嬉しそうに笑った。
 その笑い方がいつもの皮肉なものと違って、やわらかく優しいものだったので、少し拍子抜けした。
「お前、はじめてだな。」
「な、何が?」
「はじめて俺の名前呼んだ。」
「そうだっけ…?」
「いつも遠慮がちに物を言うだろ。特に俺に対して。」
 ギクリ、とつかさは肩を震わせた。
 駿みたいにハッキリと自分の意見を言える人には憧れる。
 しかし、こういった人とどう接していいのか分からない。
 どうしても身構えてしまって、怒らせないようにしよう、嫌われないようにしよう、と思う制御装置が働いてしまう。
 口に出して話す言葉も、一度心の中で吟味してから出していた。
「お前は俺たちの主人なんだ。もっと堂々としてろ。」
「けど…。じゃ、じゃあ、僕がもっと堂々としたら、主っていう呼び方は、止めてくれるの?」
 その呼び方は慣れなかったし、距離を感じた。
 向こうとしては、親しみを込めて呼んでいるあだ名のようなものなのだろうけれど。
「駄目だ。テメェは俺らの主だから、主なんだよ。呼び方なんてどうでもいいだろうが。」
 どうでもいいと言うのなら、「主」と呼ばなくても良いのでは?
 つかさの方が主人のはずなのに、どちらが上か分からない言い草だった。
 符術師・二階堂駿。
 歯に衣着せぬ物言いで、自分の意見を最後まで押し通す、少し(かなり?)強引な風紀委員長は、符術師の家系を辿っていた。
 符術師というのは、札を使って炎や水、大気の力を操る術師のことらしい。
 攻撃・防御・補助、札は様々な効果を持っており、一つの属性しか使えない魔術や召喚術と違い、どの属性の力も使えるそうだ。
 真備が襲ってきた時に使った補助系の符術。
 駿は二つの札を同時に使ったが、普通の符術師は複数の札を同時に使うことはできない。
 こう見えて、駿はかなり優秀な符術師なのだ。
「護衛役がいらねぇってんなら、この剥製はもう必要ねぇな。虎次郎、これ校長室に返してきてくれ。」
「何で、オレが。……別にいいけど。」
 鬼一族・坂本虎次郎。
 高身長を持つ一見するとクールガイでその実照れ屋な青年は、鬼の血を引いていた。
 その怪力は鬼の特質。
 力を解放する時は、半分鬼の姿になる。
 口から覗く牙は骨さえも噛み砕き、頭に生えた角はいかにも鬼の血色を連想させた。
 黄色く変色したギラギラと光る瞳も、異形の姿をした者だった。
「彦地さんに彦芽さん、遅いですわね。」
 弓道師・菖蒲咲紅葉。
 女神の再臨を思わせる麗しの美女の家系は弓道師。
 体の中に弓と矢を飼っており、自分の意思で具現化することができる。
 彼女の放つ矢は彼女自身が持つ魔力。
 彼女の意思次第で光にすることも闇にすることもできる。
「ただいま帰りました。」
「たっだいま〜!」
 窓から入ってきた暗と明のように対照的な二人の生徒。
 甲賀流忍・猿飛彦地。同じく、猿飛彦芽。
 学年主席の成績を持つ知的な眼鏡の彼が兄で、天真爛漫な天使の笑顔を持つ彼女が妹。
 今は根絶してしまったと思われている忍の一族が彼らだ。
 身のこなしは俊敏、かつ華麗。
 けれど、毎回窓から入ってくるのは止めてほしい。
 ここは四階だ。
 彼らに限って失敗はないと思うが、やはり心臓に良くない。
「駿ちゃん、聞いて聞いて〜!面白いニュースだよ〜!」
「何だ?」
「『怪盗ノーパン仮面』って知ってる?」
 はじめて聞く名前だった。
 それにしても、何てネーミングセンスだ。
「最近、この街を荒らしている怪盗だよ。狙うのは宝石ばかり、犯行の前日には必ず予告状。もう三件の家が被害に遭ってるらしいんだよ。」
「それは一大事だな。」
 駿の目がギラギラと光り出す。
「警察もお手上げ状態なんだって。これは、あたしたちの出番よねっ!」
「ああ!」
 がしり、と駿と彦芽が手を交わした。
「「怪盗ノーパン仮面を捕まえよう!」」
 二人の声が綺麗にハモった。
「捕まえるって…。そういうのは警察の仕事だから…。」
「何を言う!これは俺たちの仕事でもあるぞ!」
「そうよ!舞米の平和を守るのが我ら舞米高校風紀委員会の務め!」
「俺たちは五大守護一族であると同時に、風紀委員会でもあるのだ!」
「悪の芽は、取り払わなきゃ!」
 熱心に語る駿と彦芽には、何を言っても聞こえそうにない。
 他のメンバーを見てみると、紅葉も彦芽も異論はないようだった。
 この分だと剥製の返却から帰ってきた虎次郎も、なんだかんだ言いつつ判を押すことだろう。
 つかさは諦めた。
 きっと、これからこういったことがたくさん続くんだろうなぁ…。
「でね、今日の夜に、掘久保二丁目の木村さんちに怪盗ノーパン仮面が来るらしいんだけど…。」
「なら、さっそく行動開始だな。」
 駿と彦芽は意気揚々と、今夜のことを話し合った。



 巷を騒がせている怪盗の逮捕に、随分な数の警官が出動していた。
 ターゲットにされた家の周りを、武装した警官たちが、蟻の通る隙間もないほどぐるりと取り囲んでいた。
「ちょっと、君たち!ここは関係者以外立ち入り禁止だよ!」
 風紀委員会の面々が警官の包囲網の中を進もうとした時、当然、警官に止められた。
「その子たちはいいんだよ。通してあげて。」
 通せんぼうをして立ちはだかる警官の後ろから、中学生?いや、小学生くらいの男の子が顔を覗かせた。
 なんでこんなところに子供が?
 つかさが男の子の方を見ていると、その子と目が合った。
 にこり、と男の子は笑う。
 そして、警官に視線を戻した。
「もうすぐ犯行時間だ。全員、きちんと配置についたか確認を取ってきて。」
 男の子が命令をすると警官は敬礼をして、その場から立ち去っていった。
 警官が去った後、男の子は駿の前まで近づいてきた。
「二階堂くん、今日は君たちだけ?」
「誠は仕事だ。」
「誠兄ちゃんも大変だね。」
「警察のお前も大変だと思うけどな。」
「そうかな?」
 男の子は笑いながら首を傾げた。
 駿の肩をつついて、つかさは聞く。
「駿くん、この人は…?」
 警察を顎で使うこの男の子は何者だろう?
 駿が口を開く前に、男の子の方から自己紹介をしてくれた。
「俺は高元日好(たかもとひよき)。よろしくね。」
 胸ポケットから警察手帳を取り出すと、開いて見せてくれた。
 小学生の男の子が事件現場に迷い込んでしまったのかと思った。
「君が行橋つかさくん?」
「はい、そうですけど…?」
「ふわぁ〜。可愛い子だね。」
 わしゃわしゃと頭を撫でられた。
「誠兄ちゃんのお家にいるんでしょ?」
「はい。…えっと、高元さんは誠叔父さんとはどういったご関係で?」
「幼馴染みなんだ。誠兄ちゃんとは一歳違い。俺の方が年下。」
 誠よりも年下、いやいや、つかさよりも年下に見える。
 春に最上級生に上がったばかりの六年生。
「でも、高元さん。僕たちみたいな子供が、こんな場所に入っていいんですか?」
「二階堂くんたち風紀委員会にはいつもお世話になってるからね。それに、彼らが解決してくれた事件もたくさんあるし。」
 高元はいわゆるキャリア組で、若くして警部だった。
 この現場の最高司令官で、全体の指揮を執っている。
 その権力のおかげで、つかさたちはすんなりと現場に入ることができた。
「それにね、紅葉ちゃんのお父さんは俺の上司なんだ。」
「ってことは、紅葉先輩のお父さんって、警察官なんですか?」
「ええ、そうですわ。」
 口許で笑って紅葉は答えた。
 高元の権力だけではなく、紅葉の父親の権力も手伝って現場に入ることができたというわけか。
「日好、敵はどんな奴だ?」
 腕を組んで駿が聞く。
「とにかくすばしっこい奴でね。こっちも麻酔銃で狙撃してるんだけど、全部避けられちゃうんだ。サーカスの軽業師みたい。」
 時計がカチカチと進んでいる。
 犯行予定時刻は午後八時。
「それにしても、大きな家だね。」
 つかさは標的となった家を仰いだ。
 武家屋敷のような誠の家と比べれば取るに足らない大きさだが、それでも金持ちの家だということは分かる。
 白い塀はがっちりと家をガードしており、さながら城壁。
 泥棒なんて、入る隙がない。
 それなのに、怪盗ノーパン仮面といういかにも怪しい怪盗は、城壁を破ろうと企てている。
 カチリ、カチリ。
 時計があと数秒で定時を告げる。
 五、四、三、二…一。
「出たぞ!」
 塀の上に、黒い影が躍った。
 怪盗だ!
 ノーパン仮面なんていうからどんな奇抜な奴かと思ったが、想像していたよりも普通だった。
 暗闇で顔はよく見えなかったが、お面のようなものを被っている。
 服は闇と同じ色をしていた。
「狙撃用意!発射!」
 殺傷能力はないが敵の動きを封じるにはちょうどいい銃が、一斉に業炎を噴いた。
 塀の上の怪盗を、ババババババン!と撃ち取ろうとする。
 しかし、足の速い怪盗は塀の上を風のように駆け抜けて、全ての銃弾をかわしてしまった。
 銃声が止み終わったと同時に、怪盗の姿が塀の中へと消える。
「ホシ、A地点より侵入!A班、ホシを包囲しろ!」
 高元が無線で叫んだ。
「駿くん、僕らは…?」
「とりあえずは、ここに待機だな。中は彦地と彦芽に任せておけ。あいつらが怪盗を捕らえられなかった場合、外に出て来た奴を俺らで捕まえる。」
 彦地と彦芽はあらかじめ家の中に待機していた。
 つかさと駿はこの場に残り、虎次郎は西側に、紅葉は東側に回った。
「怪盗は何でこの家を狙ったんだろう?」
「宝石目当てだな。予告状には『今夜、瑠璃色の石を戴く。』と書かれてあったらしい。」
 怪盗と言えば綺麗な響きだが、要は宝石泥棒。
 盗んだ宝石は闇ルートに流して売りさばくのだろう。
「人の物を盗むなんて、とんでもない奴だな。」
 ふん、と駿は鼻を鳴らした。
 塀の向こう側では喧騒が続いている。
 警官たちが怪盗を捕らえようと必死に走り回っていた。



 心の狭い人間ほど、人を絶対に信用しない。
「だからぁ、おじちゃん。自分で持ってるより警察の人に持っててもらった方が絶対安全だって。」
「警察なんて信用できるか!これは俺のもんだ!」
 中年太りでいかにも欲深そうな男は、胸に小さな宝石箱を抱いていた。
 瑠璃色の石。
 その宝石にどれだけの価値があるのかは知らないが、男の様子から、かなり値の張るものだということが窺えた。
 彦地としては、そんなことどうでもよかった。
 安全第一、治安第一。
 街を騒がせている怪盗を捕まえられればそれでいい。
 風紀委員会の仕事を全うすることさえできれば、満足だった。
「お前らガキが、本当にこの宝石を守れるのか?!」
「任せて!それに、部屋の外には警察の人もいるし。」
 部屋にたてこもっている男は、絶対に警察を自分の部屋には入れなかった。
 彦地や彦芽の入室も拒み、部屋の鍵を閉めて締め出したが、忍者に鍵など通用するはずもなく、あっさりと扉は破られ、強引に中に押し入られた。
「外が騒がしいな。来たか。」
 彦地が窓の方に目をやる。
 その時、パリンと窓が打ち破られた。
 怪盗が窓を割って、部屋の中へと入ってきたのだ。
 黒い装束に身を包み、顔は狸の面で隠している。
 こいつが怪盗か。
「ど、どうやってここまで来た!」
 うろたえた男が扉の方に後ずさりしながら、唾を飛ばした。
「どうやって…って。普通に。」
「ここは三階だぞ!」
「うん、知ってる。」
 怪盗はケロリと答えた。
 体つき、声の調子からすると、まだ歳の若い少年のようだった。
「瑠璃色の石、返してもらおうか。」
「かっ、返すも何も、これは俺のもんだ!」
「ホント、どいつもこいつも業突く張りばっかで嫌になんな。返す気ねぇん奪ってくけど、別にいいよな。悪ィのはあんたなんやし。」
 怪盗が懐から短刀を取り出した。
 あれは脅しのブツじゃない。
 月に反射するきらめきは本物だ。
「おじちゃん、下がってて!」
 彦芽と彦地が背中に男を庇う。
「お前らっ…?!」
 彦芽と彦地の存在を知って、一瞬、怪盗の声が怯んだ。
 その隙に彦芽は苦無を放つ。
 しかし、全て急所を狙った苦無も、見事に全弾短刀で打ち落とされた。
 怪盗が苦無に気を取られているうちに、いつの間にか怪盗の背後に回っていた彦地が、敵の首に刀の峰で峰打ちを喰らわせようとした。
 ガキィィィン!
 鉄と鉄がぶつかり合う音が室内にこだまする。
 苦無を打ち落とした手とは逆の手にも怪盗は短刀を握っていて、背後から襲った彦地の刀を受け止めていた。
 こいつ、ただ者じゃない。
 彦地も彦芽も、反射的に怪盗から退いた。
「お前らも忍やったんや…。」
 怪盗がポツリと漏らした。
 次の瞬間、怪盗が目の前から消えたかと思うと、彦芽の眼前まで迫ってきていた。
「悪ィけど、瑠璃色の石はもらってくけんな。ちょっと痛いけど、ごめんな。」
 彦芽の腹に、拳を一発入れる。
 的確に急所に入った拳は、離れると同時に彦芽の体を地面に崩れさせた。
「彦芽!」
 彦地が彦芽に目をやった一瞬の隙をついて、怪盗は宝石を守る男の体へと手を伸ばした。
「こっ、これは俺のっ…!」
「それはお前なんかのもんじゃねぇっ!」
 ガッ、と男の顎を蹴り上げる。
 男の体が飛ぶと同時に、抱きしめていた宝石箱も空に飛んだ。
 パシリ、と怪盗の手がそれを捕まえる。
「瑠璃色の石は返してもらったけんな。」
 怪盗が窓から立ち去ろうとする。
 その時、後ろから飛んできた苦無が、怪盗の右耳を掠った。
「逃がさない。」
 怪盗を睨み付けた彦地が、刀を手に怪盗に襲いかかる。
 狭い室内での戦線は思うように戦えず、二人とも窓から屋根の上に飛び出した。
 彦地が怪盗に刃を振りかざす。
 怪盗は避けながら、短刀で彦地の首を狙う。
 彦地からも怪盗からも殺気は感じられないが、両者とも、捕まえてやる、捕まるもんかと接戦を繰り広げていた。
「猿飛で忍っちゅったら甲賀やろ?甲賀の忍は武器を使った戦いは苦手っち聞いちょったけど、けっこうやるんやな。」
 本気で襲いかかる彦地をよそに、怪盗にはまだ余裕があるみたいだった。
「でも、残念。鍛え方が違うんよ。」
 びゅっ、と彦地の腕に何かが絡まる。
 綱の先に苦無を取り付けた、縄標と呼ばれる武器だった。
 ぐいっ、と怪盗が綱を引くと、彦地の体が宙を舞った。
 そのまま地上へと落とされる。
 しかし、忍である彦地はくるりと体をひるがえし、怪我を負うことなく地面に着地した。
 屋根の上を見上げる。
 怪盗の姿は、もうどこにもなかった。



 結局、怪盗は予告通りに盗みを働いて消えてしまった。
「みんなぁ〜、ごめんね〜!」
 う、う、と喉を詰まらせながら泣きじゃくる彦芽と、普段から感情のない表情をさらになくした彦地が帰ってきた。
 怪盗は警察に捕まることもなく、風紀委員会にも捕まることもなく、颯爽と夜闇に紛れてしまった。
「彦地、お前でも無理だったのか?」
 駿が彦地を向いて聞く。
「甲賀は伊賀に比べると、体術や武器を使った戦闘では引けを取る。」
「何…?」
 ぴくり、と駿の眉が動いた。
「相手は伊賀だ。」
 彦地が静かに言った。
「あの、彦地先輩。それってどういう…?」
 よく状況が飲み込めていないつかさに、彦地は説明してくれた。
「忍術には様々な流派があるが、ぼくや彦芽は甲賀流なんだ。甲賀流の忍は武器の扱いよりも薬の扱いに長けている。昔行われていた暗殺も、薬を使ったものが殆どだった。」
 毒薬、良薬、そして爆薬。
「それとは反対に、伊賀流の忍は実践に強かった。武器の扱いに長けた、戦闘のスペシャリスト。それ故、修行も厳しかった。」
 甲賀と伊賀。
 対照的な二つの忍。
「あの怪盗の正体は伊賀流の忍者だよ。」
 痛む腹を押さえながら彦芽が言った。
「あたしは苦無とかを使うよりも、薬や爆薬を使った戦い方の方が得意なの。だから、今回は全然役に立てなくて…。」
「ぼくは刀や苦無を使った伊賀寄りの戦い方の方が得意だったけど、本家の伊賀流には敵わなかった。」
 顔はいつもと同じ無表情のままだが、彦地の声は明らかに沈んでいた。
「敵の正体が分かっただけでもよしとするぞ。作戦を練り直すんだ!」
 ばん、と駿が彦地の背中を叩いた。
「負けたと思うんなら、次に勝てばいい。」
 他の誰にも聞こえないように、彦地の耳元でぼそりと呟く。
 一瞬彦地は瞬いた後に、少しだけ目元を緩めた。
「それと、もう一つ。」
 駿の耳元に顔を寄せて、彦地は何かを伝えた。
 瞬間的に駿の瞳が見開き、またもとの大きさに戻った。
「今日はもう帰るぞ。明日の放課後、作戦会議だからな!」
 月は燦燦と輝いていて、時計は八時半を回っていた。



 体育の時間はいつも憂鬱だ。
 今日の種目は野球で、運動のできないつかさは遊撃手のポジションについていた。
 早く終わらないかな、と校舎の高い位置にある掛け時計をぼんやり眺めていると、ホームランボールが飛んできた。
 ボールはグラウンド端の林に飛んでゆき、大木の中に紛れ込んでいった。
「僕、ボール拾ってくるから、皆は続けてて。」
 これ幸いとばかりに口実をもうけて、つかさはボールの飛んでいった林へと走っていった。
 さて、ボールを探しているふりでもして、時間潰しでもするか。
 皆だって、運動音痴の自分がいない方が、楽しくプレーができるだろうし。
 つかさはさほど広くもない林の中を、ゆっくりと歩いた。
 その時、頭上からガサガサと葉の揺れる音が聞こえた。
 今は風は吹いていない。
 不自然な音に、つかさは顔を上げた。
 すると、目の前にザンッ、と黒いものが落下してきた。
「うわあああっ!」
 驚いたつかさは、思わずしりもちをついてしまった。
「あー、ごめん、ごめん。驚かしちゃった?」
 落ちてきた黒い物体は、人間だった。
 学ランの袖のラインが黄色だったので、二年生だということが分かった。
 どうして木の上から降ってきたのだろう。
「なぁ、このボール、お前らのやね?」
 男子生徒の手からボールが放り投げられた。
 つかさは落としそうになりながらも、ボールを受け取った。
「木の上で昼寝しちょったらな、飛んできたんよ。」
「え、あそこで昼寝してたんですか?」
 頭上を見上げると、木の枝は遥か上にある。
 校舎でいうと二階くらいの高さだ。
 よくそんなところから飛び降りることができたな…。
「今、体育の時間なん?」
「はい。あの、先輩、授業は?」
「さ・ぼ・り!」
 男子生徒はニカッと笑った。
「オレ、音楽っちどーしてん苦手なんよな。今日は合唱なんやけど、オレっち、そーとー音痴やけん、音楽室から逃げてきたに。」
 音楽は選択科目で、美術、技術家庭科の三つの中から選ぶことができるのだが、他に選択の余地があるのに、どうして他のものを選ばなかったのだろう。
「お前もさ、本当はサボリなんやろ?」
「え?」
「ここまで飛んできたボールを拾いに来たっちゅーんは口実で、ここで時間潰そうっち思っちょったんやろ?」
 ニィィ、と歯を見せて笑われて、心の中まで見透かされて、つかさは決まり悪く俯いた。
「別に怒ったりせんっちゃ!オレもサボリやし。なぁ、暇やけん、お話でもせぇへん?」
 男子生徒は木の幹を背もたれに、腰を降ろした。
 つかさも隣に腰を降ろす。
「お前、面白い目の色しちょんのやな。そういうの『オッドアイ』っち言うんやろ。珍しいなぁ。」
「先輩は僕のこと、気持ち悪いとか思わないんですか?」
「何で?」
「だって、日本人のくせに、こんな目の色だし。」
 しかも片方だけだ。
 幼い頃から、影で「化け物」だのなんだの言われてきた。
 つかさの臆病風などよそに、男子生徒は人好きするような顔で笑った。
「オレは別に何とも思わんよ?むしろ、そーいうのカッコ良くね?いいやん、自分のチャームポイントやと思えば。」
 こんなことを言ってくれる人には出会ったことがなかった。
 初対面だというのに、この男子生徒の前では心の緊張が解けている。
「先輩も、面白い喋り方するんですね。」
「ああ、これ?オレ、小さい頃、九州の方におったんよ。やけん、そこの訛りっちゅーか方言っちゅーか。実家はこっちの方にあるんやけど、戻って来たんは高一ん時やしな。兄弟たくさんおるんやけど、九州ん方に出されたんはオレだけやし、家族ん中でこんな喋り方するんはオレだけやな。やけん、たまに家族からも「もう一回、標準語で喋れ。」っち言われることがある。」
 男子生徒の話を聞いていても、よく耳を傾けていなければ、つかさも内容を見失いそうになった。
「オレの言葉が分からん時は言ってな。ちゃんと標準語に直して喋るけん。」
「はい。」
 それから体育の時間が終わるまでの間、つかさは男子生徒とお喋りを楽しんでいた。
「っと、そろそろ五時間目も終わりの時間やな。お前、着替えとかあるんやろ?そろそろ帰った方がいいんやね?」
 グラウンドからは、後片付けをする生徒たちの声が響いていた。
 けっこう長い間、お喋りに夢中になっていたらしい。
 誰かとこんなに会話を続けられたのははじめてかもしれない。
「あれ、先輩。右の耳、どうしたんですか?」
「ん?」
 髪の間から覗いている右耳の頭に、刃物で切られたような赤い線がくっきりとついている。
「そんなの付いちょん?」
 本人は気づいていなかったようだ。
「ほらほら、それよりも時間が危ねぇよ。そろそろ行かな。」
「そうですね。」
 男子生徒に頭を下げてグラウンドに戻ろうとした時、彼に呼び止められた。
「お前、名前は何ち言うん?」
「行橋つかさです。」
「オレは凛蔵(りんぞう)。よろしくな。」
 凛蔵先輩。
 とても無邪気で人が良い先輩だった。
 グラウンドに戻ると、野球の道具は全て片付けられていて、つかさが拾ってきたボールが最後だった。
 誰も、つかさの不在に何も言わなかった。
「遅かったな。」と声をかけてくれる人さえいなかった。
 時計を見ると、あと五分で五時間目が終わる。
 着替えるために、つかさは急いで教室へと戻った。



 放課後に委員会室に行くと、つかさよりも先に駿と彦地が集まっていた。
 駿も彦地も一言も喋らないので、重たい空気が部屋の中で鎮座している。
 二人とも、気まずくないのかな…。
「おっよよ〜!」
 ガラリ、とグラウンド側の窓が開いた。
 彦芽の登場だ。
「あれれ、どったの二人とも?お兄ちゃんもおもしろそうな顔して。何かいいことでもあった?」
 彦地のあの顔は、いいことがあった時の表情らしい。
 無表情だから、分からなかった。
「彦地先輩、何かあったんですか?」
「これからあるんだよ。」
 答えたのは駿だった。
 廊下の方から足音が聞こえてきた。
 この教室に向かってきているようだ。
 コンコン、と軽いノック音が聞こえた後、中の返事も待たずに扉が開いた。
「駿ー、俺に用事っち何なんー?」
 入ってきたのは凛蔵だった。
「あれ、つかさやん。お前、もしかして風紀委員会やったん?」
 つかさに近づこうとした凛蔵の肩を、彦地が押さえて止めた。
「凛蔵、お前この人と知り合いなのか?」
「つかさのこと?まぁな。」
 彦地の瞳が、少しだけ険しくなる。
「この人には近づくな。」
「何で…って、痛ってぇーーーーー!」
 突然、駿が凛蔵の右耳を引っ張った。
「駿、何するん?!痛いやんか!」
「別に。」
 凛蔵の耳を検分すると、駿はすぐに凛蔵の耳を離した。
「駿ちゃん。いきなり人のお耳を引っ張ったら駄目だよ!凛ちゃん、涙目になってるでしょ!」
「彦芽は優しいな。うん、それでこそオレの惚れた女っちゃ!」
 嘘か本当か分からない軽いノリで、凛蔵は言った。
「凛蔵、もう帰っていいぞ。」
「え、何なん?オレに用事があったけん呼んだんやねん?」
「用なら済んだ。」
 駿は凛蔵に何も用件などは伝えていない。
「それから、二度とこの人に近づくな。」
 瞳だけでつかさを指して、駿は凛蔵に釘を刺した。
「何でなん?」
「それは、お前が一番よく知っているだろ?」
 険悪なムードが一気に広がる。
「……わけ分からんし。」
 凛蔵の表情も不機嫌なものになる。
「用が無いっちいうんなら、オレはもう帰るけんな。部活もあるし、じゃあな。」
 バタン、と凛蔵は扉を強く閉めて教室から出て行った。
「駿くん、今の言い方はないんじゃ…。それに、凛蔵先輩はいい人だよ?どうして仲良くしちゃいけないの?」
「敵と手を繋ぐ奴がどこの世界にいる?」
 嫌な空気が教室の中を満たしていく。
「さて、次にノーパン仮面が現れた時にどうやって捕まえるか、作戦会議だ!」
 駿の声だけが、明るく教室の中に響いた。



 さして日にちも経たないうちに、ノーパン仮面から次の予告状がやってきた。
「次こそ捕まえてやる!」
 気合が入っているのは駿と彦芽だ。
 特に彦芽の方は前回手も足も出なかったので、気合の入りようが半端ではなかった。
 顔には出していないが、彦地からも並々ならぬ気迫を感じる。
 今回もターゲットにされたのは金持ちの家で、海色の石が怪盗の目にかなった品だった。
「怪盗ノーパン仮面だなんてフザけた輩、さっさと捕まえてちょうだい!」
 ペルシャ猫を腕に抱えた厚化粧のオバさんが、この家の主人で宝石の持ち主のようだ。
 悪趣味なのは厚化粧だけではなくて、家の中の美術品も、奇天烈なものばかりだった。
 どういった美的センスがあれば、こんな装飾を置くことができるのだろうか。
 警察も前回より警備を厚くして、怪盗捕獲に燃えていた。
「四手に分かれるぞ。」
 数日前から立てていた計画に沿って、つかさたちは東西南北に分かれた。
 怪盗は手ごわい。
 だから、先に宝石を盗ませてやることにした。
 捕まえるのはそれからだ。
 怪盗が家から出てきた時が勝負の決め手。
 盗みを終えて気が緩まったところを狙うのだ。
「主、行くぞ。」
「う、うん。」
 駿の後ろにつかさは付いて行く。
 裏口にあたる北を駿とつかさが、玄関に当たる南を紅葉が、東に虎次郎、そして西に彦地と彦芽が当たった。
「駿くん、このトランプみたいなカードは何?」
 配置につく前に、駿から皆にカードが配られていた。
「不動符だ。これで怪盗を捕まえる。」
「不動符って?」
「敵の動きを封じるために作られた符だ。これを対象物の体に貼り付ければ、そいつの動きを封じることができる。安心しろ、素人でも使えるように加工してある。」
「けど、怪盗ってすばしっこいから、貼り付けるのは無理なんじゃ…。」
「素直に貼り付ける奴がどこにいる?」
 ニタァ、と何かよからぬことを考えている顔で駿は笑った。
 怪盗が現れるのは決まって八時。
 あと一分で、犯行予定時刻だ。
 カチリ、と時計の針が十二をさした瞬間、窓ガラスの割れる音が聞こえた。
「出たぞ!」
 警察が動く。
 学習能力がないわけではないが、他に手段が思い浮かばないので、前回と同様、麻酔銃で相手の動きを封じようと銃を向ける。
 しかし、そんなもので風のように走り抜ける怪盗を捕らえられるはずもなく、あっさりと家の中への侵入を許してしまった。
 家の中にも張り込んでいた警察たちが怪盗を捕まえようと躍起になるが、次々と怪盗の手に落ちていき、あっさりと宝石は盗まれる。
「そろそろだな。」
 怪盗が盗みを終えて、二階の窓から姿を現した。
 夜の月をバックに、裏口の方へと飛び降りてくる。
 つかさたちの目の前に、怪盗が着地した。
 今夜ははっきりと怪盗の姿が見えた。
 黒い装束に、顔には狸のお面。
「怪盗ノーパン仮面!今日こそは逮捕してやるっ!」
 外で張っていた警察たちが怪盗を取り押さえようと襲いかかるが、返り討ちにあって、誰一人として怪盗の腕を掴める者さえいなかった。
「……っ!」
 怪盗の頬を一陣の風が切る。
 駿の投げた不動符が、怪盗の頬をかすっていた。
 怪盗の胸を直接狙ったのだが、見事にかわされた。
「さすがだな。普通の奴なら、これで一発なのに。」
「甘く見んな。不動符なんかに捕まってたまるか。」
「悪いけど、逃がさないぜ?」
「悪いけど、逃げさせてもらう。」
 駿が札を構えた。
「駿くん、符術なんて使ったら…!」
 相手はこの前襲ってきた豊草みたいな刺客じゃない。
 怪盗といえども、ただの人だ。
「イン・バル・ガル!」
 駿の持っていた札が鋼のような硬度を持って、怪盗めがけて飛んでいった。
 怪盗の首筋をかする。
 攻撃は外れた。
「じゃあな!」
 駿が次の攻撃を放つ前に、怪盗は逃げていった。
「逃げられちゃったね。」
「いや、これでいいんだよ。」
 ニタリ、と駿が笑う。
「駿ちゃん、ノーパン仮面、そっちに行った?」
「おう、ちゃんとこっちに来たぞ。紅葉の読み通りだ。」
「どういたしましてですわ。」
 怪盗がこちらの方向に逃げて来ることを、紅葉は見破っていた。
「けど、紅葉先輩。どうして怪盗がこちらに逃げてくると分かったんですか?」
「窓ですわ。宝石を守っている部屋の窓は、北側にあるでしょう?ですから、盗み終えた後はそのまま直進して外に逃げると考えただけですの。」
 そういえば、この前の夜も盗みを働かせた窓側の方角から逃げていた。
「さて、怪盗をひっ捕まえに行くか。」
 夜だというのに、駿の指先には漆黒の蝶が止まっていた。



 盗みなんて簡単だ。
 警察なんて敵じゃない。
 けれど、怪盗の仕事も今日でおしまい。
 今日で全て終わりだ。
「でも、びっくりしたっちゃ。まさか、あの話が本当やったなんて。」
 あれは昔の話だから、時効もいいところだと思っていた。
 祖父母も両親も兄たちも、「真面目に聞け!」と耳にタコが出来るくらい何度も何度も聞かせてきたが、どうせ迷信だろうと思っていた。
 でも確かに、その話は存在した。
 前回の犯行、林での遭遇、釘を刺されたあの言葉。
 それが全てを確証付けていた。
「まぁ、いっか。オレには関係ないことやし。さっさと着替えて家帰ろ。」
 荷物は全て公園のトイレに隠してある。
 鞄も服も、そこに置いてあった。
 今日も仕事を終えて、帰途につくだけ。
 しかし、今夜はいつも通りにはいかなかった。
「イン・バル・ガル!」
 少年の張りのある声が聞こえた。
 聞こえた時には遅かった。
 金縛りにあったかのように、体が固まって動けなくなっていた。
「この俺から逃げようなんざ、百年早ぇんだよ。」
 背中に漆黒の蝶が止まっている。
 その蝶は不動符を持っていて、自分の背中にそれを貼り付けていた。
「さぁ、観念して正体を暴かせてもらおうか。」
 ニタリ、と子悪魔のような牙を見せて、風紀委員長が笑った。



 駿の指先でちらついている蝶と怪盗の背中に張り付いている蝶は、意思が繋がっているらしい。
 トランシーバーのような働きもあるという。
 遠隔操作も自由なようだ。
 符術には攻撃や防御、憑依以外にも、札を動物に具現化して使役する使い方もあった。
 警察ですらお手上げ状態だった怪盗が、今、自分たちの目の前で逃げられない状態に立たされている。
「では、さっそく。」
 ガシリ、と虎次郎が怪盗の腕を羽交い絞めにする。
 駿と彦芽が怪盗の装束のズボンに手をかけた。
「駿くん、彦芽先輩!何してるんですか!?」
「ノーパン仮面っていうくらいだから、」
「本当にパンツはいてないのかなぁって。」
 駿は悪意の塊で、彦芽は純粋な疑問を解決するために装束を下ろそうとした。
 普通、ここまで追い詰めたら、素顔を隠している面を外す方が先じゃないのかな?
 駿がズボンの紐を解いていくのに身の危険を感じた怪盗が、声を張り上げて叫んだ。
「お前ら、間違っちょんやろ!パンツくらいはいちょんわ!てか、オレや、オレ!まずは面を取れっちゃ!」
 この声、この喋り方、どこかで…。
 怪盗の叫びを受け止めて、紅葉が狸の面を取った。
「凛蔵先輩!」
 現れた正体は、知り合いの顔だった。
「何で凛蔵先輩が怪盗なんて…?」
 驚いたのはつかさだけではなくて、彦芽と虎次郎も驚いていた。
 駿と彦地と紅葉は、さほど驚いてはいないようだった。
「お前だとは分かっていたけどな。」
「何でなん?」
「右耳。」
 トントン、と駿は自分の右耳を指で突いた。
「この前の晩、彦地の苦無がお前の右耳をかすっただろ。」
 駿が放課後に凛蔵を呼び出した理由はそれだった。
 右耳についた傷跡を確認するため。
「で、何で怪盗なんてしてたんだ?」
「話せば長くなるんやけど…。ちゅーか、いい加減、不動符外してくれん?逃げたりせんけんさ。」
 虎次郎が凛蔵の腕を解放し、駿が背中から蝶ごと不動符を剥がした。
「オレが宝石泥棒なんかしよったのは、お世話になった老夫婦のもとにそれを返したかったからなんよ。」
 凛蔵と家族の間には確執があって、しょっちゅう喧嘩をしては家出を繰り返していた。
 ある雨の日、どこにも行くあてがなくて橋の下で雨宿りをしていたところ、一人の老人が傘を差し出してくれた。
(お前さん、こんな所で何をしとるんかね?)
(家に帰りたくないけん、ここで野宿。)
 凛蔵の冷たくなった手を取って、家に招いて温かい味噌汁を作ってくれた。
(困った時はいつでもおいで。)
 その言葉に甘えて、何かあるたびに、優しい老夫婦の家に行くようになっていた。
「そこの爺ちゃんと婆ちゃんの家には五個の宝石があってな、それは息子のお嫁さんからもらった物なんやけど、爺ちゃんも婆ちゃんもその価値がどれくらいあるものか知らんかったんや。けど、お嫁さんがくれたっちいうことが嬉しくて、価値があろうがなかろうが、その宝石を大切にしちょった。」
 しかし、宝石は石屑ではなくてダイヤモンドの価値だった。
「それに目をつけた裏業者がな、爺ちゃんと婆ちゃん騙して、宝石を奪い取ったんや。それも汚いやり方で。それが許せんかった。やけん、爺ちゃんと婆ちゃんに返すために、盗んだんや。五つ全部揃ったら、返しに行くつもりやった。」
 今夜の宝石で、ちょうど五つ。
「オレを警察に突き出すのは構わんけん、宝石だけは爺ちゃんと婆ちゃんに返させてくれ。」
 凛蔵の懐には、盗んだばかりの最後の宝石が入っていた。
「却下だな。盗んだ宝石は返してもらう。お前のやっていることはただの窃盗だ。その宝石は裏業者から買い取った今の持ち主の物だ。」
「何でそんなこと言うん?!お前は、爺ちゃんと婆ちゃんが可哀想とか思わんの?!」
「俺はお前が、その老夫婦のためにこんなことをしていることの方が可哀想だと思う。」
 駿の瞳が凛蔵を射抜く。
「その老夫婦、よほど人がいいんだろ?見ず知らずのお前の面倒を見てやってるくらいだからな。裏業者に宝石を騙し取られたことも、騙されたってこと自体に気づいてないんじゃねぇのか?」
「……ああ。」
「だったら、老夫婦は宝石が戻ってきた途端、こう思うはずだ。「どうして、他人に渡ったはずの宝石がここに?」。それから宝石を警察に持って行って、いらぬ容疑をかけられる。老夫婦に関係のある者の誰かが宝石泥棒を働いて、老夫婦のもとに宝石を横流ししたのではないのか?そして、お前が犯人だということが暴かれる。そうなった時、老夫婦はどう思うだろうな。どうだ、これがシアワセな結末か?」
 世の中には、知らぬが仏という言葉がある。
 知らない方が、幸せに暮らしていけたこと。
「お前のやったことは恩返しでも何でもない。ただの泥棒だ。」
 凛蔵の理由には同情を誘われる。
 駿の言っていることは厳し過ぎると思った。
 でも、凛蔵が宝石泥棒の犯人だと知った時の老夫婦の悲しみを思えば、騙し取られた宝石は、騙されたまま他人の手に渡っている方が良いと思った。
「ごめん。」
 凛蔵が頭を下げた。
「そうやな。爺ちゃんも婆ちゃんも、オレが手を汚して宝石を奪い返したなんち知ったら、悲しむよな。」
「分かればいい。」
 凛蔵が踵を返してトイレに置いてある鞄へと向かう。
 その中に、今までに盗んだ宝石は全て隠してあった。
「待て、本題はここからだ。」
 ぐいっ、と駿が後ろから凛蔵の腕を引っ張った。
 怪盗を捕まえることが今回の仕事ではなかったのか?
 駿が凛蔵を自分の前へと持ってくる。
「そのために、わざわざ警察から離れたところで捕まえたんだからな。」
 彦地と紅葉が自分たちの背につかさを隠すようにして、つかさの前に立ちはだかった。
「どうして主に近づいた?」
「主っち、つかさのこと?」
「ああ。」
 駿の声が怖いくらい落ち着いている。
 否、落ち着きを装っている。
「授業サボって樹の上で昼寝しちょったら、偶然会っただけやん。それで、サボリついでにお喋りしよっただけっちゃ。別に他意はない。」
「そんな話、信じるわけねぇだろ。『服部凛蔵(はっとりりんぞう)』。」
 服部?
 その苗字はまるで、猿飛のように…。
「凛蔵先輩も忍者なんですか?」
 つかさが目を丸くして凛蔵を見ていると、彦地が呟いた。
「だから、捕まえる前から怪盗の正体は忍だって言っていただろう?」
 彦地と駿が、じとっと凛蔵を睨みつけるが、当の凛蔵は飄々とした様子で軽く言った。
「うん、オレん家は由緒正しき忍者の家系。」
「忍者で服部っていったら…、凛ちゃんはあたしたちの敵なの?」
 彦芽の瞳が悲しそうに歪む。
「ねぇ、駿くん。どういうこと?凛蔵先輩が敵って…。まさか…!」
「服部家は蒼瞳を狙う家の一つだ。」
 蒼瞳を狙うということは、つかさの命も狙っている。
 つかさの目が信じられないものを見るような色で凛蔵に向けられると、凛蔵は手を振って慌てて否定した。
「確かにオレは服部家の人間やけど、別に蒼瞳なんか狙っちょらん。その話だって、マユツバもんやと思っちょったし。最近まで、彦芽が忍者やっちいうことすら知らんかったんで?この前の盗みん時、彦芽の正体知って、それからつかさに会って、彦地先輩や駿の態度見て、それで家のもんが耳にタコができるくらい言よった話が本当やったんやって信じたくらいや。」
「どーだか。」
「虎次郎!お前は何でいっつも意地悪なん!」
 虎次郎は疑いの眼差しを向けている。
「だいたい、オレがつかさの蒼瞳狙っちょんのやったら、もっと早く動いちょったと思わん?目の前にうまそうなシマウマが居るに、仕留めにかからんライオンはおらんやろ?」
「言われてみれば…。」
 凛蔵はつかさに対して敵意を放っていない。
「それに、オレは家が嫌いなんや。家のもんが蒼瞳狙っちょんっちいうんなら、逆に奴らに蒼瞳を渡さんように、つかさに味方するわ。」
 それでもまだ信用ならない?と凛蔵は聞いてきて、懐から短刀を取り出した。
 柄の部分には、家紋が入っている。
「服部家の忍として認められた者だけが持つことの許される短刀。つかさにやるわ。これはオレの命の代わり。この短刀はな、自分が主君と仰ぐ者に渡すことが代々決まりになっちょんのや。」
 つまり、自分の命をつかさに預けるということ。
「こんなことがバレたら、オレは抜け忍として殺されるやろうなぁ。」
「そんな大事なもの、僕なんかが…!」
「オレ、どう考えてもオカシイことっち嫌いなんよ。蒼瞳なんて、昔の話やろ?その力がどれくらいのもんか知らんけど、人の命より重たいわけないやん。それやのに、皆はつかさの命よりも蒼瞳の方が大切みたいなことを言う。それっち絶対オカシイやん?やけん、オレはつかさに味方する。」
 それ以前に、オレら友達やろ?
 夜の闇に生まれた太陽のように笑う凛蔵の笑顔が、言葉とともに温かかった。
「オレはつかさを護るために味方になる。で、お前らはどうなん?何でつかさを護っちょんの?つかさのため?それとも、蒼瞳のため?」
 蒼瞳が敵の手に渡れば、何が起こるか分からない。
 更なる争いの火種となるかもしれない。
 権力を揺るがす恐慌が起こるかもしれない。
 倫理に反する研究が行われるかもしれない。
「蒼瞳を守るためだ。」
 駿が言った。
 そこに自分の名前ではなくて蒼瞳の名前が使われたことにショックを受ける自分がいた。
 そう、だよね…。僕なんかよりも、僕の瞳に宿った力の方が大事だよね…。
「蒼瞳を守ることが、主を守ることに繋がる。」
 駿がこちらを振り返った。
「俺は『行橋つかさ』という一人の人間の命を守るために、ここにいる。まぁ、それだけじゃねぇけど。」
 皆の瞳が、つかさを映す。
「『友達』だろ?友達を助けたいと思って何が悪い。」
 ふっ、と駿が笑った。
「お前だって、俺のことを助けてくれたじゃねぇか。」
 豊草の式神が駿の背後を切り裂こうとした時、つかさは自分の体を盾にして駿を庇おうとした。
 理屈があったわけじゃない。
 ただ、彼に傷ついて欲しくないと思ったから、体が勝手に動いていた。
「あー、でも、あたしたちが『友達』なんて軽々しく言っちゃっていいのかな?だって、ご主人さまはご主人さまなわけだし。」
「『友達』で…っ、僕のこと、『友達』って、そう呼んでくれるなら…。」
 そう、呼んで欲しい。
「じゃあ『友達』で。」
 皆の笑顔がとても優しい。
 誰かにこんな笑顔を向けられたことは、なかった。



 凛蔵は全ての宝石を、匿名を使って警察に返した。
 駿の方も、凛蔵を警察に突き出すようなことはしなかった。
「でも、凛ちゃんは何で「怪盗ノーパン仮面」なんていう名前を使ったの?別にノーパンじゃないんだよね?」
 狸の面をつけていたのだから、「狸仮面」とかの方がしっくりくるような気がするけど。
「あれはオレが付けたんじゃねぇんよ。最初に入った家でさぁ……。」
 宝石を盗んでトンズラをしようと屋根から飛び降りた時に、外に干してあった洗濯物の下着を腕にひっかけてしまい、外すのも面倒だったのでそのまま持っていってしまった。
 それを見たその家の子供が「あの泥棒さん、パンツはいてないから僕のお父さんのパンツ盗んでいったのかな?」と言ったのが原因らしい。
 そこでついた通り名が「怪盗ノーパン仮面」。
「こんなことなら、予告状に名前を書いちょけば良かった…!」
 がくっ、と凛蔵の肩がうな垂れた。
「凛蔵、お前部活はいいのか?」
 駿の厳しい声がかかる。
「今日はお休み。」
「じゃあ、さっさと家に帰れ。」
「いいやんか、ここに居っても。それに、オレはお前じゃなくて彦芽に会いに来たんや。」
 軽口を叩いてばかりで本気も冗談に聞こえてしまう凛蔵だが、彦芽のことが好きだという気持ちは本物らしい。
「凛ちゃんは、本当にあたしのこと好きなの?」
「うん、好き。やけん、将来は結婚しよ!」
「あたしも凛ちゃんのこと、好きー!」
 どうやら、両思いのようだ。
「彦芽。残念だが、凛蔵とは結婚できないぞ。」
「何で?お兄ちゃん?」
「伊賀と甲賀だから無理だ。」
「あ、そっか。」
 伊賀と甲賀は犬猿の仲。
それ以前に、凛蔵自身はこちらの味方だが、凛蔵の家はこちらの敵だ。
「そんな障害、どげんことねぇっちゃ!それに愛に障害はつきものやんか!なっ、彦芽!」
「そうだね、凛ちゃん!」
 このカップルには、障害も運動会の障害物走くらいにしか感じられていないようだった。
「彦地さん、面白くなさそうな顔をしていらっしゃいますわね。」
「……。」
 彦地は顔を背けて、読みかけの本に視線を戻した。
 案外、妹のことを可愛く思い過ぎているのかもしれない。
「おい、凛蔵。ここにいるんなら、お前も風紀委員会の仕事を手伝ってもらうぞ。」
「おっけー。」
 新しい味方をつけて、今日も風紀委員会はボランティア活動にいそしんだ。



二話  隠された真実



 最近、女の子の間では占いが流行っているらしい。
 かくいう彦芽も、年頃の女の子が好みそうなポップな雑誌を片手に、虎次郎の運勢を占っていた。
「こーちゃんは、何月何日生まれだっけ?」
「十二月二十四日。」
「クリスマス・イブなんだー。ロマンチックー。で、血液型は?」
「A型。」
「ふむふむ。」
 該当する項目を見つけたようだ。
「えーっとねぇ、こーちゃんの今週の運勢は「吉」だって。思わぬところで思わぬ出会いが!って書いてるよ。もしかして、運命の相手と出会えちゃったりして。」
「んなわけあるかよ。」
 口では悪態をつきながらも、あちらの方向を向いた横顔はわずかに照れている。
「ご主人さまも占ってあげる〜。」
「僕はいいですよ。」
 占いなんて信じているわけではないけれど、もしも悪い未来を言われてしまったら、不安と落ち込みが同時にやってきてしまいそうで怖い。
「いいから、いいから!」
 しかし、この強引な先輩は離してはくれず、虎次郎が座っていたところに今度はつかさを座らせた。
「ご主人さまの誕生日っていつなの?」
「三月三十日です。」
「うわっ。もうちょっと遅かったら、中学三年生だったんだ。で、血液型は?」
「O型です。」
「あ〜、なんかそんな感じするね!え〜っと、ご主人さまの運勢は…。」
 パラパラパラとページを捲る。
「あった、あった。ご主人さまの今週の運勢は…「大凶」だって。」
「だ、大凶…?!」
「特に公園では最大のピンチが待っていますので、近寄らないことをオススメします。って書いてるよ。じゃあ、公園にさえ行かなければいいんだね。」
 なんだ、簡単なことじゃないか。
 ……って、え?
「僕、学校の通学路で公園使ってるんですけど…。」
 つかさの家(居候中であるから正確には誠の家)への途中には、池や遊歩道や野原の広がる大きな公園がたっている。
 そこをぐるりと迂回して家に帰るのはかなり遠回りになるので、つかさはいつも公園の中を突き抜けて帰っていた。
「主様、心配することはございませんわ。占いなんて、所詮は占いなんですもの。」
「そ、そうですよね。」
「呪術をかけられたわけではありませんから、良くないことが絶対に起こるという確証はありませんわ。」
 ニコリ、と笑う紅葉の笑顔が、なんだかドス黒いオーラを放っていて、つかさは一歩後ろへとさがってしまった。
「それに、主様には駿さんがいらっしゃるでしょう?でしたら、案ずることはございませんわ。」
「は、はぁ…。」
 風紀委員会に所属して以来、駿とは登下校をともにしている。
 駿の家はつかさの家よりも学校に近い位置にあるのだが、いくら帰りが遅くなろうともつかさを家まで送り届けてくれるし、朝は定時に迎えに来てくれた。
 蒼瞳を持つ者を護るためにしていることだとは分かっている。
 大事なのは蒼瞳。
 分かってはいるが、不謹慎にも少し嬉しいと思ってしまう。
 今まで、誰かと一緒に帰ったことなんてなかったから。
 登下校中、会話が弾むということはないけれど…。
「駿ちゃんも占ってあげようか?」
「俺はいい。彦地でも占え。」
「お兄ちゃんはもう占ったもん。紅葉ちゃんも占っちゃったし。あ、凛ちゃんを占ってこよう!」
 彦芽が教室から出て行こうとすると、彦地が止めた。
「駄目。」
「なんで?」
「凛蔵は部活中だ。邪魔をしたら悪い。」
「あ、そっか。」
 彦芽はそれで納得したようだったが、彦地の本心としては凛蔵に迷惑をかけたくないからというわけではなく、可愛い妹をボーイフレンドのもとへ行かせるのが嫌なだけのようだった。
 彦芽自身は気にしていないが、前回の怪盗事件で、凛蔵が彦芽の腹を殴って気を失わせたことをまだ根に持っているらしい。
 凛蔵が彦芽の気を失わせたのは、彦芽に余計な怪我をさせたくなかったからだ。
 彦地もそれはちゃんと分かっているのだが、感情面ではやはり許せないようだった。
「もうすぐ時間だな。」
 今日は近所の商店街の手伝いをすることになっている。
 内容は五時から始まる福引の受け付け、客引き、客整備。
「行くぞ!」
 駿の号令で、風紀委員会は商店街へと向かった。



 夕方の商店街は、夕飯の買い物をする主婦たちで賑わっていた。
「福引とかのイベントは、日曜日とかにやった方がお客さんが集まると思うけど…。」
「今日は感謝祭の前夜だからな。それに先駆けて、日頃お世話になっている客たちにささやかなプレゼントってところだ。だから、景品もそんなに値の張るものじゃねぇ。ってか、全部店からの寄付だな。」
「あ、本当だ。」
 福引の一等賞は、酒屋からの焼酎が五瓶だった。
 持って帰るのが重たそうだ。
 二等賞はお米。こちらも重たそうだ。
三等賞はケーキで、四等は箱入りの缶ジュース。
五等賞は水。
残念賞は飴玉一つだった。
「本番は明日と明後日だからな。」
 明日の土曜日と日曜日は、商店街の催しで感謝祭が開催されることになっていた。
 商店街のアーケード内には出店が並び、公園でもイベントが行われる。
 つかさたち舞米高校の風紀委員会もボランティアで参加することになっていた。
「お〜い、手伝いにきた坊主ども。スタッフのハッピ持ってきてやったから、これ着ろ〜…って!?」
 商店街のロゴが背中に入った赤いハッピを着た男、どこかで聞いたことがある声だなと思ったら、数日前に遭遇したばかりの無精髭男だった。
「真備豊草〜?!」
 つかさが驚きの声を上げている間に、駿たちは豊草を取り囲んだ。
 各々、自分の武器を持って豊草に突きつける。
「おい、テメェ。何でこんなところにいるんだ?」
 無精髭を生やした生活不順そうな男は、敵意はないとばかりにホールドアップをした。
「オレぁ、バイトでここに居んだよ。今日は蒼瞳を狙っちゃいねぇから、安心しな。」
 安心しろと言われても、命を狙っている奴が隣にいて安心して寝ることができるだろうか。
「お〜い、真備〜!こっちを頼む〜!」
「はーい!」
 駿に六人分のハッピを押し付けると、豊草は企画長のもとに駆けて行った。
「豊草さん、本当に今回は僕のこと狙ってないみたいだよ?」
 アルバイターとして、せっせと奔走しているみたいだし。
「んなのハッタリに決まってんだろ!」
 バシン、と駿に頭を叩かれた。
「いいか、主。絶っ対に俺から離れるなよ!」
 駿に顔を突きつけられて、脅迫される。
「もしも怪しい動きを見せようものなら、矢で首を刎ねて差し上げますわ。」
 紅葉は笑顔で殺る気満々である。
 虎次郎も拳をパキパキと鳴らしていた。
 豊草は去り、福引会場には風紀委員会と一人のスタッフだけが残される。
「風紀委員会の皆、今日はありがとうね。」
 活きのいい笑顔で迎えてくれたのは、商店街で魚屋を営んでいるお姉さん、林無琴(はやしなこと)だ。
 母親が他界してからは、父親と二人だけで店を経営している。
 その父親も足を悪くしているから、実質、琴が店の全てを取り仕切っていた。
 実は彼女、舞米高校の卒業生でもある。
 背が高く、すっきりとした顔立ちの、いわゆる美形。
街を歩けば頻繁にモデルのスカウトに遭うようだ。
 商店街のアイドルで、彼女目当てに魚を買いに来る常連さんが男女を問わずあとを絶たない。
「客引きは紅葉ちゃんと虎次郎くんに頼むわね。このチラシを商店街を歩いているお客さんに配ってきて。福引してますよ、って宣伝してね。福引に来たお客さんの列を整理する係は彦地くんと彦芽ちゃん、お願いね。駿くんとつかさくんは受け付けと接客。お客さんに景品を渡すのは私がするから。」
「はい!」
 福引は五時からスタートだ。
 スタート前だというのに、客はすでに列を作っていた。
 福引の券は商店街にある店で三百円の買い物をするごとに一枚もらえる。
 最初の客はふっくらとした大柄なおばさんだった。
「あらぁ、駿ちゃん。そういえば高校生になったのね、早いわぁ。」
 息子の成長を見守る母親のような眼差しで、おばさんは駿を見る。
 駿はこの商店街でも有名人のようだった。
 二人目、三人目と客が流れるたびに「高校でも風紀委員なの?」だの「男の子らしくなったわねぇ。」だの声をかけられる。
 駿に限らず、列の整理をしている彦地や彦芽にも声はかかっていた。
「駿くんたちって、有名人なんですね。」
「駿くんたちの風紀委員会は学校内だけじゃなくて、街のボランティア活動にもよく参加してくれるから。商店街のお祭りなんかの時も、毎回手伝いに来てくれるんだよ。」
 ハズレくじを引いた客に飴玉を渡しながら、琴が答えた。
 その時、三つ先の店の前から黄色い声が聞こえた。
 いや、この場合「黄色」と表現するのはおかしいかもしれない。
 声の全ては「男」の「野太い」ものだったから。
「菖蒲咲さん、こんなところで何をなさっているのですか?!」
 中・高問わず、学校問わず、紅葉の周りに男子生徒たちが集まっていた。
「感謝祭の前夜祭で、福引を行っておりますの。皆さんも、ぜひ参加されて下さいね。」
 にっこりと微笑む女神の光臨は、男子生徒たちのハートを陥落させた。
「俺、菖蒲咲さんのためなら何回だって引きます!」
「あら、それは嬉しいですわ。けれど皆様、大切なお小遣いを私なんかのために使われては…。私、申し訳ないですわ。」
 くすり、と紅葉が瞳に涙を堪える。
「福引を一回引くには、この商店街で三百円のお買い物をしなければ券がもらえませんの。福引券五枚でも、千五百円のお買い物が必要になりますわ…。」
 ちらり、と涙を湛えたまま、上目遣いに男子生徒たちを見上げた。
「私などのために、皆様に迷惑はかけたくございませんの。」
 最終兵器、乙女の涙。
 これで勝負は決まった。
「千五百円くらいなんですか!俺だったら十回分は引きます!」
「俺はあなたのためなら一万円を福引券に換えてもいいっ!」
「今月の小遣いは、全てあなたのものです!」
 紅葉の周りを取り囲んでいた男子生徒たちは、我先にと商店街の店の中へ駆け込んでいった。
「ちょろいものですわ。」
 ぼそり、と口の中で呟く紅葉の言葉を聞いたが、つかさは聞こえなかったふりをした。
 紅葉先輩って、こんな人だったっけ?
 そことは逆に、反対側からも黄色い声が聞こえた。
 今度は正真正銘「黄色い」声だ。
 声の出所を見てみると、群がっている女の子たちの中心に虎次郎がいた。
「きゃー、坂本くんじゃない!何してるのー?」
「商店街の福引?」
 女の子たちに押され気味の虎次郎はたじたじと同じ場所で足を踏むだけで、言葉が一向に出てこない。
 騒がれるのは得意ではないようだ。
「三百円の買い物で一回?」
「じゃあ買い物したら、坂本くんデートしてくれる?」
 引き気味の虎次郎をよそに、女の子たちはどんどんと攻め寄ってくる。
 遂に虎次郎は仕事を放棄して逃げ出した。
「あっ、坂本く〜ん!」
 女の子たちは残念そうに、逃げてしまった虎次郎の後姿を見送った。
 虎次郎先輩、女の人にモテるんだ。
 ちょっとぶっきらぼうなところはあるけど、意外と優しいところもあるし、容姿だって男らしくてカッコイイもんね。
 三十分も客の相手をしていると、当たり番号を引いた第一号の客が現れた。
「おめでとうございま〜す!三等賞大当たり〜!」
 カランカラン、と琴がベルを鳴らす。
 大物を引き当てた客は嬉しそうに、三等賞のケーキを持って帰って行った。
 それから更に一時間が経過したが、次に大物を釣り上げた客は出てこなかった。
「けっこう引いてもらってるのに、なかなか当たりが出ないわねぇ。」
 カウントするのも面倒臭くなるくらい大勢の客に引いてもらった後に、琴が溜息を漏らしながら言った。
「皆、クジ運がねぇんだよ。」
 はんっ、と駿が鼻で笑う。
 菖蒲咲信者の男子たちが大勢で大量の引換券を持って参列してきたが、どいつもこいつも飴玉を大量にもらって帰っただけだった。
 虎次郎効果でやって来た女の子たちも右に同じ。
 時間が経つにつれて客足もまばらになり、七時を過ぎたところで切り止めることにした。
 終了ギリギリの時間になって、ようやく運の良い客が現れ、二等賞と五等賞がもらわれていった。
 今日は前夜祭だ。本番は明日。
「お疲れ様。」
 琴が全員にジュースを奢ってくれた。
「せっかくだからさ、あなたたちも一回ずつ引いてみたら?もし当たったら持って帰っていいよ。」
 一等賞と四等賞がまだ残っている。
「はいは〜い!あたし引く〜!」
 一番手に名乗りをあげたのは彦芽だった。
 ガラガラに手を伸ばすと、「当たりますように!」と目を瞑って、取っ手を回す。
 玉が箱の中を回る音とともに出てきたのは、ハズレ色である白だった。
「あ〜あ、残念。」
 飴玉の入ってあるカゴの中から、ストロベリー味の飴を選んだ。
 紅葉、彦地、虎次郎、駿の順で引いていったが、皆ことごとく外れていった。
「主、さっさと引け。」
「う、うん。」
 福引なんて初めてだ。
 ワクワクとドキドキで緊張する。
 そっと取っ手に手をかけると、ゆっくりと回した。
 ガラガラガラ、カラン、コロン。
 回りに回って出てきた色は「赤」だった。
 赤って、何かもらえたっけ?
「つかさくん、凄いじゃん!一等だよ、一等!」
 高揚した琴が、ベルを鳴らした。
「はい、一等の景品。持って帰っていいよ。」
「持って帰っていいと言われましても…。」
 目の前に置かれたのは、五瓶も詰まった焼酎の箱。
 かなり重量がありそうだ。
「僕一人じゃどうしようも…。」
「俺がいるじゃねぇか。一緒に箱を持って帰ればいいだろ。」
 さっさとしろ、と駿が箱に手をかける。
「じゃあ、皆。明日もお願いね。」
 琴が笑顔で見送ってくれた。
 駿と二人で箱を持って、家路につく。
「ごめんね、駿くん。」
「何がだ?」
「こんな重たいもの一緒に持ってもらって。それに、いつも帰りは送ってくれるし、朝は迎えに来てくれるし。」
「別にどうってことない。俺が好きでやってるんだから、お前は気にするな。」
「でも…。」
「またそれだ。お前、少しは自分に自信持てよ。どうせ「自分にはそんなことをしてもらう価値なんて無い」とか、また思ってるんだろ。」
 駿に胸を突かれて言葉が出てこなかった。
「価値があるとか無いとかの問題じゃねぇんだ。それに、お前の送迎に理由が必要ってんなら「友達と一緒に登校したい」ってのは、理由にならねぇか?」
 はぁ、と駿が呆れたように溜息をついた。
「もう少し友達を信用しろよ。今の言葉だって嘘じゃねぇ。嘘をつくのは大嫌いなんだ。おべっかを取るのも得意じゃねぇ。俺がお前の傍にいるの、ただ蒼瞳者を護らないといけないからってだけじゃねぇよ。お前のこと友達だって思うから一緒にいるんだ。それくらい、分かるだろ?」
 駿とは出会ってから日は浅いが、彼のことは少しずつ解りかけていた。
 人間に裏と表がない。
 思ったことは口に出す。表情にだって出してくれる。自分の心に真っ直ぐで素直だ。
 飾るものが何ひとつない。
「やっぱ五瓶もあると重たいな…。ちょっと休憩。」
 いつも行き帰りに通り抜ける公園に入り、焼酎の入った箱を地面に置いて、並んでベンチに腰を掛けた。
 人の姿はなかったが、明日ここで感謝祭が開かれるということがあり、公園の中は屋台のテントやイベントの機材で埋まっていた。
「どうしてそんなに距離を開ける?」
「いえ、別に…。」
 とんとん、ともっとこちらへ来いとベンチを叩かれたので、つかさは少しだけ距離を詰めた。
「主はアレだな、自己評価が低すぎる。」
「そ、そうかな…?」
「もっと威張ったっていいんだぜ?お前、運動は駄目みたいだけど、勉強にかけてはピカ一だし。少しは鼻にかけろよ。」
「いや、鼻にかけるほどでも…。それに、駿くんだって勉強はできるでしょ?入学してからの実力テストだって二番だったし。」
「一番はお前だったじゃん。」
「う…。」
 これでは嫌味を言ったみたいに聞こえたかもしれない。
「ご、ごめんね。そんなつもりで言ったんじゃ…。」
「だからっ!そう簡単に謝んなっ!あー、もうっ!なんでそうテメェはナヨナヨなんだっ!」
 駿が頭を掻き毟りながら声を荒げる。
「あら、仲間割れかしら?」
 誰もいないはずの公園の中から、幼い少女の声が聞こえた。
 街灯に照らされて、少女の姿が暗闇にぼんやりと浮かび上がる。
 どこかの私立小学校の制服に、校章の入った白い帽子。
背中には黒いランドセルを背負っている。
 こんな時間に出歩いているなんて、塾の帰りだろうか?
 肩にはインコのようなスズメのような、見たことのない赤い小鳥が止まっていた。
「ちっ。こんな時に…!」
 駿がベンチから立ち上がる。
 袖の下から札を滑らせ、手に構えた。
「あなた、符術師ね。ってことは、二階堂家ということかしら。」
「そういうテメェは岬家の魔術師か?」
 魔術師?この少女が?
 少女は大きな瞳を細めて笑った。
「よく分かったわね。岬峠(みさきとうげ)、炎の魔術師よ。」
「岬が苗字で名前が峠?親のネーミングセンスを疑うな。」
「う、うるさいわねっ!」
 峠がランドセルから物差(ものさし)を引き抜いた。
「蒼瞳は我ら連合軍のもの!悪用を阻止するために、アタシたちがいただくわ!」
 威勢の良い言葉とともに、魔の呪文が流れ出す。
「業炎の鎖が離れし時、炎山の怒りは燃え盛らん!フレイム!」
 物差の先端が光を上げたと思ったら、炎の弾丸がつかさ目がけて襲ってきた。
「阻め!オン・ウルタ!」
 駿の符術が水の壁を作り、攻撃を打ち消す。
「ちょっとはできるみたいね、二階堂。」
「テメェみたいなピヨッ子、俺の相手にもならねぇよ。下級符術で十分だ。」
「ピ、ピヨッ子ですってぇ〜!」
 峠の顔が暗目にも分かるほど赤く噴火した。
「アタシだって岬家の人間なんだから!お姉ちゃんたちにだって、負けないんだから!」
 フレイム!と呪文を唱えるたびに、炎の弾丸が飛びかかってくる。
 その度に、駿は符術で燃え盛る炎を消火した。
「おい、ガキ。分が悪いことくらい考えろ。魔術にも相性がある。お前んちの家系である炎の魔術は、夜の闇に弱い。炎の力を存分に発揮したいんであれば昼を狙え。」
「それくらい知ってるわよ!」
「じゃあ何でわざわざこんな時間に襲ってきた?」
「さっき擦れ違った時に、そいつが蒼瞳者だって分かったから。せっかくの機会だから仕留めてやろうと思ったのよ!」
 キッ、と峠は駿を睨みあげる。
「あんたこそ、五大守護一族か何だか知らないけど、どうしてそんな奴を護るの?仙道家の人間は悪者よ!蒼瞳者は全てのものの敵よ!蒼瞳なんて、この世にあっちゃいけない!だからアタシは蒼瞳と一緒に、こいつの命もいただく!」
 物差の先端がつかさへと向けられた。
「フレイム!」
 炎のつぶてが容赦なく襲いかかる。
 しかし、駿の前では赤子の抵抗ほどにもならなかった。
 水の属性を秘めた流の符術が、炎を全て鎮めさせる。
「峠ちゃん、って言ったっけ?仙道家が悪者って、どういうこと?」
「あなた、蒼瞳者のくせに何も知らないの?」
 峠の攻撃の手がピタリと止まった。
 蒼瞳については駿たちに教えてもらった。
 仙道家に伝わる強大な魔力を秘めた、特殊な遺伝子である瞳のこと。
「召喚戦争くらいは知ってるでしょ?」
 戦国時代に裏舞台で行われていた戦争。
 仙道家の力を恐れた者たちが、連合軍を組んで仙道家を滅ぼしにかかった。
 そう、聞いていたはずだ。
 ならば、悪者は連合軍の方ではないのか?
 仙道家は力を持っていただけで、悪いことは何もしていない。
「もしかして、仙道家の力を恐れたためだけに、召喚師や魔術師たちが連合を組んで仙道家に戦いを挑んだと思ってる?」
 何かおかしなことでもあるのか、峠は下を向いたままクツクツと笑った。
「何も知らないんだったら、教えてあげる!」
「よせっ!」
 駿が叫んだが、遅かった。
「仙道家はね、人間兵器を作ろうとしたのよ!」
 公園の外を走る車の音だけが、峠の言葉の後に余韻として残った。
「憑依召喚術の使い方はね、人間の体にその世界の召喚獣を憑依させて、その子が持つ能力を貸してもらうことが正しい使い方なの。それなのに、仙道家の人間は何をしたと思う?」
 峠の声が言葉を追うごとに険しくなり、嵐に曝される海のように荒れていく。
「召喚獣を魔力でねじ伏せ、禁式の呪術で人間の理性を奪い、召喚獣と人間を合成させて人間を機械兵器に造り変えていったのよ!使いようのある失敗作は裏で政府に売って、そのお金でさらなる研究と実験を繰り返した。生きた人間だけじゃない。時には死んだ人間までも冥府の底から呼び起こしてその手にかけた。自分たちの手で命を奪うこともあった。」
 みるみるうちに、峠の瞳に涙が溜まっていく。
「何の為にそんな実験をしたのか、あなたには分かる?」
 峠の声には、憎しみがこもっていた。
「好奇心よ!たったそれだけの為に、人間と召喚獣の命を奪っていったの!」
 叫ぶ峠の瞳から飛び散ったのは、涙の飛沫。
「その中核にいたのが仙道家の蒼瞳者。蒼瞳の力を持って、命を弄んだ。そんな人間が悪者じゃないっていうなら、何を悪者だって言うの?」
 言葉が出なかった。
 頭の中がチカチカと白い光で点滅した。
 仙道家ガ、人間ヲ兵器ニ…?
 倫理ヲ踏ミニジッテ、好奇心ヲ満タシニ…?
「仙道家を止める為に連合軍は戦った!蒼瞳は災いの元凶!蒼瞳ごと、あなたを倒す!」
 昂った感情は、魔力までも増幅させた。
「フレイム!」
 さきほどの弾丸とは比べ物にならない大きさの炎が、つかさを襲った。
「阻め!オン・ウルタ!」
 炎の塊と流水の盾が激突する。
 常識では、炎に水をかければ火は鎮火できた。
 しかし、この時は違った。
 常識が覆された。
「なにっ?!」
 ピシリ、と水の防壁にヒビが入る。
 このままでは、突き破られる。
「予定変更だ、攻撃に転じる!開け!オン・ウルタ!」
 二枚の札が無数の矢に姿を転じる。
 空高く発射されると、勢いをつけて地上へと落下してきた。
 水の壁を威圧する炎を、攻撃の矢で消滅させた。
「くっ…!夜じゃなかったら、もっと強いんだから!覚えてなさい!」
 最大の力を込めた攻撃さえ返されて、分が悪いと踏んだ峠は、反撃が飛んでこないうちに公園から逃げ出した。
「岬家の末っ子か。まだガキじゃねぇか。」
 駿が手に残っていた札を袖の中にしまった。
「主、大丈夫か?」
 つかさの顔を覗きこみ、怪我はないかと聞いてくる。
「主?」
 何も反応を示さないつかさに、駿は眉根を寄せた。
「おい、どこか怪我でもしたのか?」
「…んて……。」
「え?」
「仙道が、人間兵器を作っていたなんて…。」
 そんなの知らなかった。
 悪いのは自分の命と蒼瞳を狙ってくる奴らで、被害者はこちらだとばかり思っていた。
「駿くん。さっきの子が言ってたことは本当なの?」
 いつもは絶対に視線を逸らさない駿が視線を逸らす。
 それだけで、峠の言っていたことが本当だということが立証された。
「どうして、本当のことを教えてくれなかったの?」
「教える必要がないと思ったからだ。」
「嘘つくのは嫌いだって言ってたよね?」
「嘘はついてない。言ってなかっただけだ。」
「本当のことを教えてくれなかったのは、嘘をついているのと一緒だよ!」
「主!」
 駿の顔も見ずに、つかさは背中を向けて走り出した。



 どうして本当のことを教えてくれなかったの?
 都合が悪いことだから、隠し通そうと思ったの?
「つかさくん、どうしたの?!」
 いつもはつかさよりも帰りの遅い誠が、既に家へと帰宅していた。
 玄関を開けて廊下を駆け抜けて、自分の部屋へと直行している途中で擦れ違った。
 擦れ違いざまに腕を掴まれる。
「何で泣いてるの?」
 さっきから視界が悪いと思ったら、自分は泣いていたのか。
「一人にして下さい…。」
 誠の手を振り払うと、つかさは自分の部屋へ入り、扉を閉めた。
 何も知らなかった自分が恥ずかしいし、恨めしい。
 こちらは何もしていないのにどうして命を狙われなくちゃいけないの?
こんなの理不尽だ。と思っていたのに、理不尽なことには理由があった。
 それも、どう見ても正しい意見を述べているのは向こう側。
 峠は蒼瞳が悪用されないために、蒼瞳を奪いに来た。
 人間兵器を生み出すために使われた蒼瞳の力。
 魔力をもってして召喚獣を屈服させ、禁断の術まで使い人間を支配した。
 やってきたことは非倫理的であり、極めて非道。
 蒼瞳さえなければ、こんなことにはならなかった?
 蒼瞳の魔力さえなければ、仙道家も人間兵器を作ろうなんて思わなかった?
 蒼瞳という魅惑の魔力さえなければ…。
「つかさくん?」
 一人で涙を流していると、扉の外から誠の声が聞こえた。
「部屋には入らないから、聞くだけ聞いてくれないかな。」
 誠が扉に背中をつけて座ったのが分かった。
「さっき、駿くんが来てくれたんだけどね、彼から聞いたよ。本当のことを黙っててごめんね。」
 言葉の後には、静かな空気だけが糸を引く。
「でも、それは君に嘘をつこうとか、都合の悪いことは隠そうとか、そういった気持ちで真実を告げなかったわけじゃないんだ。」
 だったら、何で?
「君が優しい子だっていうことを駿くんたちは知ってる。だから、必要以上に君に傷ついてほしくなかったんだ。真実を知ったら、君はきっと自分を責める。悪いのは自分じゃないのに、自分が悪いんだと決め付けて、きっと苦しむ。でも、結果は変わらなかったね。」
 こちらがいくら隠しても、真実を知る者から耳打ちされれば、瞬く間に広がってしまう。
「隠していたことが、余計に君を傷つけてしまった。ごめんね。」
 誠の顔を見なくても、彼が苦しい顔をして謝っていることくらい想像がついた。
 つかさのことを優しい子だと言うのなら、その叔父である誠だって優しい人。
「けど、これだけは知ってほしい。確かに仙道家は過去にとんでもない過ちを犯してしまった。しかし、だからといってその子孫である蒼瞳者が殺されなければいけないという考えは間違ってる。罪を犯したのは祖であり、つかさくん自身じゃないんだから。祖が過去に起こした過ちを忘れちゃいけないけど、罪まで引きずることはないんだよ。」
 そっと、誠の言葉がつかさを撫でる。
「それに、君が犯罪者というのなら、僕らだって同じだ。同じ仙道家の血を引く者なんだから。」
 蒼瞳を持つ者だけが、悪いわけじゃないんだよ。
「三年間蒼瞳を護りきれば、蒼瞳は魔力を失う。そうすれば、もう力は使えない。それに今の仙道家には、力を使って非道なことをしようなんて考える輩もいない。蒼瞳さえ力を失ってしまえば、それでおさまるんだ。昔は仙道家が悪者だった。でも現代では、君を襲ってきた峠ちゃんって子のように、正義の心だけで蒼瞳を手に入れようとする者たちだけじゃないんだ。蒼瞳の力を手に入れて、自分たちの好きなように使おうと思っている奴らだって多いんだ。」
 正義と悪。二つの思惑が交錯する。
「どちらが善で、どちらが悪かなんて、今の時代じゃ分からない。僕たちは自分が正しいと思ったことを信じて進むしかないんだ。」
 自分の心に問いかけてみる。
 峠の口から隠蔽されていた真実を教えられた時、自分はどう思った?
 真実を隠して汚いと思った。
 先祖が起こした過ちを、それを持って生まれてきた自分を殺してやりたくなった。
 けど、死ぬのは嫌だった。
 自分は何も悪いことをしちゃいない。
 どうして自分が殺されなくちゃならない?
 こんなの理不尽だ。
 こんなの間違ってる。
 自分を正当化する言葉ばかり浮かんできた。
 それでも…。
「それでもいいの?」
 自分を正当化してもいいの?
 昔に起こしてしまった罪を背負って生きていかなくてもいいの?
「つかさくんの人生はつかさくんのものだよ。誰も口出しすることなんてできない。先祖が起こした大罪も、忘れてはいけないけれど、背負う必要はないんだ。」
 扉越しに誠が立ち上がった。
「仙道家の真実を、駿くんたちも皆知っている。それでも彼らは自分の信じた道を進んでいるから、君を護るんだ。義理や使命だけで動いてるわけじゃないんだよ。それをしたいと思ったから、動いてるんだ。」
 誠の背中が扉から離れた。
「つかさくんは、もっと自分と仲間を信じていいんだよ。真実から目を逸らさない限り、周りを信じていいんだよ。」
 最後の言葉を告げた後、誠の足音が廊下の端へと消えていった。



 居間で待っていると、誠が帰ってきた。
「どうだった?」
「返事は聞いてないけど、多分大丈夫だと思うよ。あの子、ああ見えて芯は強い子だから。」
 座布団に腰を落ち着けながら、誠は笑った。
「結局、つかさくんに本当のところを知られちゃったね。」
「ああ。」
「駿くんとしては、つかさくんを傷つけたくなかったんだよね。だから、つかさくんが召喚戦争について何も知らないって分かった時に、裏歴史に隠された表の方だけを話した。紅葉さんたちも、気持ちは同じみたいだったね。」
「ああ。」
 駿は短く返事を返した。
 召喚戦争は歴史の裏に葬り去られた闇の戦争。
 当然、歴史の教科書にも文献にも真実は残されちゃいない。
 これらは全て口伝だ。親が子へ、その子がまた自分の子へと語り継いでいく。
 駿がはじめにつかさに教えた内容は、間違いではなかった。
 連合軍の中には、ただ単に仙道家の力を脅威と感じて殲滅に参加した一族もあった。
 その証拠に、真備の人間は岬の人間が言ったような、召喚戦争の裏に隠された真実を知らない。
「つかさくんの身を狙った奴らが増えてくる。これからますます厳しくなるね。『彼』の力が必要かもしれない。」
「『神縫』か?」
 誠が頷いたのを見て、駿はテーブルをダン!と叩いた。
「そんなのいらねぇ!そんなのつけたら、主の奴はもっと傷つくだろ!」
 誰かが自分のために犠牲になるなんて、それを知ったら主はどんな顔をする?
「いいか、あいつだけは絶対に寄こすな!主の身は俺たちで護る。主の体には傷一つ付けねぇよ!」
 立ち上がり、駿は居間を出て行こうとした。
「駿くん!」
 誠が呼び止める。
「何だ?」
「お酒、一人で運んでくれてありがとう。重たかっただろ?」
「別に。一人で持てねぇほどヤワな体じゃねぇよ。テメェの方こそ、酒に弱いんだから潰れるなよ。」
「はいはい。」
 くすくす、と笑いながら誠が手を振る。
 襖に手をかけると、駿は居間から出て行った。
 後ろで誠が何か呟いていたが、駿の耳には届かなかった。
「残念だけど、ちょっと遅かったね。『彼』、うちの学校に転校してきちゃったみたいだから。」



 次の日の朝も、駿はいつも通りにつかさを迎えに来てくれた。
「あの、駿くん…。昨日は、ごめんね。あんなこと言って…。」
 ごめんなさい!と顔を合わせてから一発目に謝った。
「顔を上げろ。俺だって悪かったんだ。最初から本当のことを言っていれば、主を嫌な気持ちにはさせなかった。どこかでお前のことを見くびってたんだろうな。真実を受け止められないかもしれねぇって。」
「ううん、そんなこと…。」
 駿がまた目を逸らしている。
「見くびってた」なんて思っちゃいない。
「傷つけたくなかったから」隠していたんだ。
 この人は、嘘を隠すのが上手いんだが下手なんだか。
 逸らした目から分かるのは、嘘が下手なんだということ。
「それで、お前は…、もう大丈夫なのか?」
「何が?」
「本当のことを知ったから…。」
「大丈夫だよ。」
 都合の悪いことを隠して汚いと思った。
 けれどそれは駿たちなりの優しさだった。
 罪の重さを知った。
 二度と過去の過ちを繰り返してはいけないと思った。
 過去の過ちを背負うことはないが、再び起こすことのないように犯した罪は忘れない。
 大切なのは罪の意識に苛まれることや、真実から目を背けることではなくて、正面から受け止めることなのだ。
 受け止めたなら、あとは自分の信じた道を進めばいい。
 生きていたいと思うなら、そう思っても悪いことじゃない。
「だから、もう大丈夫。」
 しっかりとしたつかさの声を聞くと、「そうか。」と駿もつかさの心を受け取った。
「今日は晴れて良かったな。絶好の祭り日和だ。」
 仰いだ空は透き通った清流の流れのように澄んでいた。
 風紀委員会は商店街で出される屋台と、公園の特設ステージで開かれるイベントの二つを、二手に分かれて手伝うことになっていた。
 誰がどちらを手伝うかはまだ決めていない。
 集合してからジャンケンで決めるようだった。
 集合場所の公園には五分前に着いたが、既に全員揃っていた。
「彦芽先輩。先輩が昨日持ってた雑誌の占いって、当たりますね。」
「およ。もしかして、もう悪いことが起こっちゃった?」
「はい。」
「何、何〜?何があったの〜?」
「それは秘密です。」
 魔術師に襲われました、なんて素直に言おうものなら、その魔術師を燻り出しに行きかねない。
 無用な心配もかけたくなかった。
「ジャンケンするぞ。皆集まれ。」
 駿を中心に集まって、ジャンケンポンの掛け声とともに利き手を出す。
 大凶と当てられてしまった不運な占いは、昨日で終わりだと思っていた。
 しかし、昨日起こった出来事は、今日へと繋がる前奏曲でしかなかった。



 公園の中央広場に設けられた特設ステージでは、カラオケ大会やダンスコンテスト、有志による出し物が行われる。
 その他にも、商店街と同じように屋台がたくさん並んでいた。
「主、こっちを頼む。」
「はーい。」
 つかさは公園のイベント係に決まり、ステージ上で行われる出し物の準備や後片付けを任された。
 いわゆる裏方仕事だ。
 他には駿と虎次郎も一緒だった。
「鬼の坊主、力持ちだな。って、鬼一族なんだから当たり前か。」
 かかかっ、と笑っているのは豊草だ。
 どういうわけか、この人も同じ裏方だった。
 今日と明日の二日間行われる感謝祭のアルバイトにフルタイムで入っているらしい。
「おい、豊草。主に変な真似しようとしたら、タダじゃおかねぇからな。」
 駿が凄みをきかせて豊草を睨む。
「オレはバイトでここに居るんだ。今日はお家の仕事は一切ナシ。それに、騒ぎなんか起こしたらバイト代がもらえねぇだろうが。」
 彼にとっては目の前の敵を倒すことよりも、バイト代の方が大切なようだった。
 身なりもどこかみずぼらしさが漂っているし、もしかしたら生活もカツカツのものかもしれない。
 さっきヤキソバ屋の屋台のおばさんから、朝食にヤキソバを恵んでもらっていたしなぁ。
 その食べ方は、昨日から何も食べていない野良犬のようだった。
 祭りの開幕は十時からにも関わらず、九時半を過ぎたところで、かなりの人が公園に集まっていた。
 十時を境にステージの上でイベントがスタートし、昼になる頃にはステージ前に用意したテーブルやベンチは、溢れるほどの観客で賑わっていた。
「皆、楽しそうですね。」
「ご主人も祭りに参加したいのか?」
「いえ、見てるだけでも楽しいので。それに裏方の仕事も大変だけど面白いし、満足してます。」
 虎次郎に腕を掴まれたかと思うと、いきなりスタッフ用の商店街のハッピを脱がされた。
「祭り、楽しんでこいよ。今の時間ならオレ一人で何とかなる。」
「でも…。」
「駿!」
 虎次郎が駿を呼んだ。
「ご主人連れて休憩してこい。一時間だけだからな。一時間経ったら、オレと休憩交替だ。」
 そういう交換条件なら、休憩にも入りやすい。
 一時間の休憩をもらって、つかさと駿はステージの裏から公園の広場へと出て行った。
 公園のいたるところでは出店が軒を並べており、食べ物屋、わたがし屋、林檎飴、射的、輪投げ、金魚すくい、子供が喜びそうな遊びもたくさんあった。
 こんなに大きなお祭りに出たのは初めてだ。
「夏の花火大会の時にある縁日なんか、ここよりもっと凄いんだぜ。」
「へぇ、そうなの。」
「夏になったら連れて行ってやる。楽しみにしとけ。」
「うん。」
 駿に連れられて、様々な店を渡り歩く。
 ちょうど昼時だし、腹ごしらえをしようと立ち寄ったお好み焼き屋の前で、誠と高元に遭遇した。
「つかさくんに駿くん。今、休憩時間?」
「はい。誠叔父さんと高元さんは?」
「僕は一応風紀委員会の顧問だから生徒の引率ってところかな?」
 その割には、朝から一度もつかさたちの前に顔を見せていなかった。
「俺は非番だから誠兄ちゃんについて来たんだ。」
 高元の手には林檎飴とソフトクリームが握られていた。
「行橋くんと二階堂くんも今からお昼?だったら、俺たちと一緒に食べようよ。お昼くらい、誠兄ちゃんが奢ってくれるから。」
「え?僕が奢るの?ヒヨの方がお金たくさん持ってるでしょ。僕より給料いいんだから。」
「こういうのは、年上が奢るものでしょ?」
 高元の無邪気な笑顔に押し切られて、誠は全員分のお好み焼きを奢った。
「高元さん、それ全部食べるんですか?」
 彼の手には積み上げられた三個のお好み焼きの他に、紐を指に引っ掛けた林檎飴とソフトクリームが握られている。
「お昼ご飯の前のおやつだよ。これ食べたら、お昼ご飯買いに行くの。」
「ヒヨは…大食いなんだ。」
 困ったように誠が笑った。
 それだけたくさん食べるのに、どうして成長しないんだろう。
 ステージの前のテーブルやベンチは人でごった返していたので、祭りの喧騒とは少し離れた入り口近くの花壇に腰を降ろして、昼食を食べた。
「そういえば、他の風紀委員会の子たちは?」
 頬に木の実をつめたリスのようにモゴモゴと口を動かしながら、高元が聞く。
「猿飛兄妹と紅葉は商店街の手伝い、こっちの手伝いは俺と主と虎次郎だ。」
「主って誰?」
 高元の問いに、駿は箸でつかさを指した。
「何で行橋くんが主なの?」
「主だからだ。」
 それで納得できたのか、高元はそれ以上聞いてこなかった。
 一番最後にお好み焼きを食べ終わったつかさが箸を置くと、花壇から腰を上げて祭りの中に戻っていく。
「じゃあ、僕たちはステージに戻りますね。虎次郎先輩と交替しないといけないし。」
 誠たちと別れた後、つかさはそのままステージの裏には戻らずに、屋台に立ち寄った。
 ジュース屋の前で立ち止まる。
「何か買うのか、主?」
「虎次郎先輩と豊草さんに、差し入れでもって思って。」
「豊草にもか?!あんな奴に買う必要はねぇ!」
「けど、皆頑張ってくれてるし…。」
 それに、豊草は見た目ほど悪い人ではなかった。
 大変な仕事は自分の方が引き受けて、つかさたちには比較的楽な仕事を回してくれた。
 一人で片付けるには重たかったボードだって、「貸してみろ。」と荷物を取り上げ、代わりに運んでくれたりした。
 二人分のジュースを買うと、屋台を離れる。
 事件が起こったのはその時だった。
「見つけた。」
 ドォン!と激しい爆発音とともに、突風が吹き荒れた。
「今日こそ蒼瞳はいただくわ!」
 突然の襲撃に混乱して逃げ惑う人々。
 そんな中、地面に足を付けたまま動かない少女が一人。
 昨日出会った、岬家の刺客だった。
 肩にはインコのようなスズメのような、生態不明の赤い小鳥。
「テメッ!こんな大勢の人がいる中で!」
「悪事を働く前にアタシが殺してあげる!死になさい!」
 峠が物差を構えると、先端から光が上がり、「フレイム!」の呪文とともに炎が飛び散った。
 炎はターゲットであるつかさの他に、屋台のテントの屋根まで焼き、途端に辺りに灰色の煙を立ち込めさせた。
「主、俺の傍から離れるんじゃ…!」
「駿くん!」
 自分を背中に庇おうとする駿の腕を掴むと、つかさは彼を自分の方に向けさせた。
「僕、攻撃が当たらないようにうまく逃げるから。だから、他の人たちが炎の巻き添えを食らわないように、店に引火した炎を消して!」
 あの子の狙いは僕だ。
「主!」
「主君の命令は絶対でしょ!」
 駿の腕を突き離すと、人と屋台の少ない公園の入り口の方へ、つかさは駆けていった。
「逃がさない!」
 目論見通り、峠はつかさを追いかけてやってくる。
 背中から炎の玉が飛んでくる気配を感じた。
 振り切って、逃げ切って、振り切って…。
 死に物狂いで、前へ前へと走り抜ける。
 遊歩道を抜けて、ボートの浮かぶ池も抜けて、人がいないところをわざと通って公園の入り口まで疾走する。
「あっ…!」
 前ばかり見ていて、足元を見ていなかった。
 地面に頭を出した石に足を取られて、転倒してしまう。
「これでおしまいっ!フレイム!」
 最後の呪文がつかさを襲った。
 焼け焦げる我が身を想像して、覚悟を決めた。
 しかし、身を八つ裂きにするような灼熱の地獄は襲いかかってこなかった。
「オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ!」
 パァン!と鼓膜が弾けるような音とともに、眼前に光が散った。
 つかさを焼き尽くそうとしていた炎が、水鉄砲に打ち消されたように飛散して散っていく。
「あなたっ、真備家の陰陽師!」
 地面に倒れたつかさの前に立っていたのは、豊草だった。
 隣には、水でできた青色の体を持つスレンダーな女性も、寄り添うようにして立っている。
 豊草の式神だ。
「あなた、連合軍のくせに、どうして蒼瞳者の味方をするの!」
「別に味方をしてるわけじゃねぇ。こんなところで殺人事件なんか起きて、お前のせいでバイト代がパァになるのが嫌だからここに居るだけだ。」
 プッ、と豊草が地面に唾を吐いた。
「お嬢ちゃん、蒼瞳者を狙うのはいいが時と場所を考えろ。ここだと他の人間にまでとばっちりがいくだろうが。」
「でも、目の前に蒼瞳者がいるのよ!今倒さなきゃ、いつ悪いことをしでかすか分からないじゃない!」
「ったく。これだから短絡的なガキは嫌いなんだ。」
 豊草が手を上げると、隣にいた水の女性が体をくねらせた。
「行け、豊悪(とよあ)!」
 主人の命令とともに、水の女性が峠へと襲いかかる。
「フレイム!フレイム!フレイム!」
 敵の脅威へと向けて峠は炎を放つ。
 しかし、放たれた炎は水の女性に当たると、霧が立ち上るようにして消えてしまった。
「そんな下級魔術じゃ、オレは倒せないぜ?もっとも、媒介にしている物が弱いから、上級魔術なんて使えねぇか。お前の力もまだまだ弱いしな。」
「うるさい!黙れ!」
 ギリリ、と壊れんばかりの力で峠は物差を握りしめる。
 なんとなくだけれど、彼女の魔力が増幅していくのが分かった。
 これは、怒りの感情?
「あなたごと蒼瞳者を燃やしてあげる!」
「そんなに死にたいんなら仕方がねぇなぁ。カモン、ベイビーガール!」
 このままではマズイ。
 豊草と峠の力が激突すれば、被害は公園全土に及ぶ。
 下手をすれば、他の人間も巻き添えを食らってしまう。
 どうすれば、どうすればいい?
 蒼瞳の力は使えないの?
 蒼瞳の力で、この二人を止めることはできないの?
「……受け継がれた命はやがて彼の夢を見る。雨の季節だけは、私に夢を見させてくれることを願わん。」
 知っている声が流れてきた。
 耳に入ってくる呪文は召喚術。
「仙道誠の名の下に命じる。召喚、ダナエ!」
 空は晴天の青空が続いているにも関わらず、雨が滴り落ちてきた。
 その雨にかき消されるようにして、全ての魔術が力を失ったかのように沈静されていく。
 峠が握っている物差から光は消え、水でできた式神も溶けるようにして消えていった。
「この雨が降っている間は、魔術も陰陽術も使えないよ。」
 雨の滴が誠の髪を濡らす。
 手に持った黄金色の懐中時計からも滴が落ちた。
 やれやれ、と豊草はお手上げのように両手を上げて、溜息をついた。
 しかし、自分の力が雨によって奪われてしまったというのに、峠は顔に笑みを浮かべている。
「この雨は魔力を奪い取るだけなんでしょ?だったら、この子には効かないわ。」
 峠の肩から小鳥が飛び上がった。
「行け、あっちゃん!術者を仕留めるのよ!」
 術を使っている張本人さえ叩けば、術は効力を失う。
 飛び上がった鳥は小鳥から巨鳥へと急変し、猛る不死鳥のような翼を持ち、火の鳥へと姿を変えて誠に飛びかかった。
「あっちゃんは妖鳥なの!そんな召喚術なんて効かないわ!」
「だったら、妖怪も同じだな。」
 ガシン!と鋼鉄が激突する音が響いた。
 誠を貫こうとしていた火の鳥の嘴を、鬼の角を生やした虎次郎が止めていた。
「力比べじゃ負けない。」
 火の鳥の体を掴むと、虎次郎は鳥を地面に叩きつけた。
 ギュイイィィン!と悲痛な悲鳴が空をつんざく。
「あっちゃん!」
 峠が火の鳥を抱え起こす。
「くっ!雨さえなかったら、あっちゃんはもっと凄いんだから!」
 火の鳥の羽根をさすると、巨鳥は小鳥へと姿を戻した。
「今日のところはこれくらいで引き上げてあげる!けど、次はないんだからね!」
 腕の中で火の鳥を守ると、峠は公園から逃げていった。
 峠の気配が完全に公園から遠ざかったのを見て、誠は召喚獣を元の世界へと戻した。
「ご主人、怪我はないか?」
「僕は大丈夫。それより、誠叔父さんを守ってくれてありがとうございました。」
「別に、これくらい…!」
 ふい、と虎次郎は顔を赤くして横に向ける。
「ったく、これだからガキってのは嫌になるぜ。これで祭りが潰れてオレのバイト代が入らなくなったら、どうしてくれたんだ。家賃の支払い、先月から溜まってるっつーのによ。」
 ぶつくさと文句を言いながら、豊草は自分の仕事場へ戻っていこうとした。
「あの、豊草さんっ!」
「何だ?」
「助けてくれて、ありがとうございました。」
「別にお前のためじゃねーよ。バイト代入らなくなるのと、岬の人間に蒼瞳を持って行かれるのが嫌だっただけだ。」
 言い捨てると、豊草は背中を向けてステージへと戻って行った。
「主、大丈夫か!?」
 騒ぎの発端となった場所へ戻ると、形相を変えた駿が飛びかかってきた。
「怪我とかしてねぇか?ズボン、擦れてるじゃねぇか!」
「これは自分で転んだだけだから…。」
 駿が符術で消火活動に当たってくれたおかげで、出店の火は小火程度の被害で済んだ。
 警察官の高元が居合わせたこともあり、祭り客の避難も誰一人として怪我を負うことなくスムーズに運んだ。
 少しの動揺の後に、祭りは再開された。
「高元さん、非番なのに仕事が入っちゃったね。」
「そりゃ、小火騒ぎがあったんだからな。現場にいた警官としちゃ、仕事に戻らねぇといけないだろ。」
 公園の中を見回りする警察官の姿が増えた。
 それでも祭りが中止にならなかっただけ良かった。
「主。やっぱりお前は俺たちの主だな。」
「え、何?いきなり…。」
 急にそんなことを言われて、つかさは思わず声が上ずってしまった。
「別に。俺はやっぱりお前の従者であり友達で良かったってこと。」
 次のステージの準備に取りかかるために、駿は一人でテーブルを運ぶ虎次郎の傍に行った。
 どうして駿がいきなりそんなことを言ってきたのかは知らないが、なんとなく、心の中が温かくなった。



 主人の命令は絶対だ。
 それを遂行するのが従者の美徳でもある。
 たいていの主人は自分に利益のある命令を下す。
 それなのに、あいつときたら…。
(他の人たちが炎の巻き添えを食らわないように…!)
 初めて下した命令がこれか。
 自分の命が狙われているというのに、どこまでお人よしなんだか。
 でも、そんなお人よしが嫌いじゃない。
「駿、何かいいことでもあったのか?」
「別に。」
 駿は向こうでせっせと仕事をこなしているつかさを眺めた。



三話  この俺と××しろ!



 月曜日の朝って、どうしてこんなに気だるいのだろう。
「おはよう、主。眠たそうだな。」
「おはよう。駿くんは眠たくないの?」
「それなりに眠たいけど、根性で起きてる。」
 つかさが思わず欠伸を伸ばすと、駿もつられて欠伸をもらした。
「主が欠伸するから、俺にもうつったじゃねぇか!」
「ええ?!僕のせい?!」
 バシリ、と駿に頭を叩かれる。
 駿が先に歩き出したので、「待ってよ。」とその後を追いかけて、つかさは走った。
 学校へは徒歩で三十分程度だ。
 途中、自転車で通学する生徒に背中を追い越された。
 校門の近くまで来ると、いつもと違った空気につかさは気づいた。
 生徒たちは歩く速さを落として校門を進み、なにやら友達同士で顔を近づけてヒソヒソと話している。
 女子も男子も、心なしか足元が浮いているような顔をしていた。
「校門のところで何かあんのか?」
 近くまで寄ってみると、その原因が分かった。
 門の石柱に背を預けて佇んでいる、麗人がいたのだ。
 漆黒の髪を高い位置で結わえて、その容姿はまるでお姫様。
 初雪よりも白い肌に、切れ長の澄んだ瞳。
 キュッ、と引き結ばれた口元からは、ストイックな潔癖感を感じた。
(綺麗な女の人だな…。)
 つかさも心を奪われて、気づかないうちにボケーっとその人を見つめていた。
 ベルトの左右についているホルダーに入れてあるものは何だろう?
 刀みたいに細長いものだけど、刀ほど長くない。
 麗人と目が合った。
「おい。」
 あれ?
 その時、つかさは気づいた。
 この麗人、女の人にしては声が低くないか?
 それに着ているものが、女子のセーラー服ではなくて、男子の学ランだ。
 麗人はつかさを見つけるといきなりこちらに歩みより、つかさの腕を掴んだ。
「お前、行橋つかさだな?」
「は、はい…。そうですけど…。」
 ギロリ、と鋭い瞳で睨まれて、つかさは蛇に睨まれた蛙のように縮こまった。
 そして、意味の分からない言葉を告げられる。
「俺と契約をしろ。」



 あの人は一体何者だったのだろうか?
 生徒たちの視線が集まる中、駿がつかさの腕を奪い返して、人の目にさらされている校門の前から逃げ去った。
「何だったんだろうね?」と駿に聞いてみると、「あいつとは絶対に関わるな。」と言われた。
 駿は、どうやらさっきの彼の正体を知っているみたいだった。
 昼休みが始まると、一緒にランチを食べようと、いつも駿が教室まで迎えに来てくれる。
 しかし、今日は駿よりも先にお客さんが来た。
「行橋くん、お客さんだよ。」
 クラスメイトの女子に呼ばれて扉の前まで来ると、今朝出会ったお姫様のような彼が待っていた。
「お前に用がある。ちょっと来い。」
 強引に腕を引かれて、教室から連れ出された。
 学ランの袖口に黄色いラインが引かれてあるから、この人は二年生の先輩だ。
 上靴のまま裏庭に出て、人気のない倉庫のところでやっと腕を離してもらえた。
「あ、あの…僕に用って一体何ですか?」
 まさか、恐喝とかカツアゲとか…?
 ビクビクと視線をさ迷わせていると、校門の前で言われたことと同じことを再び言われた。
「俺と契約をしろ。」
「契約って…?」
「契約は契約だ。」
 そして、彼は至極真面目な顔で、とんでもないことを聞いてきた。
「お前、童貞か?」
「え?」
 どうしていきなりそんな話題を振られるのか?!
「童貞かって聞いてんだよ!」
「はい、童貞ですっ!」
 顔とのギャップがありすぎる低い声に、つかさは叩かれたように背筋を伸ばして答えた。
「なら、完璧に儀式は行えるな。」
 彼が瞳を細めて笑う。
 その笑みが妖艶で、妖しい艶めきを含んでいた。
「あ、あの…。」
 彼がにじり寄ってくる。
 恐怖を感じて後ずさりをしていると、倉庫の壁にぶちあたった。
 退路は塞がれ、彼の顔が近づいてくる。
 顔の横の壁に手をつかれ、鼻と鼻がぶつかる至近距離まで間を縮められた。
「な、何するんですか…?」
「何って、契約の儀式だ。」
 彼が口元を微かにつり上げて笑った。
「大丈夫だ。この日のためにしっかり勉強はしてきた。悪いようにはしねぇよ。」
 白い手が、そっと頬に当てられる。
 唇が吐息のかかる距離まで近づいた。
「テメェ、主に手を出すんじゃねーーーーーーー!」
 がっ、と彼の頭の上に、強烈な踵落としが制裁された。
「駿くん!」
 彼は頭を押さえながら、その場にうずくまった。
「痛ってぇ!何しやがる!」
「それはこっちの台詞だ!学校で盛ってんじゃねぇよ、発情期野郎!」
 駿の怒声の後に、近くの茂みからガサゴソと音が聞こえた。
 茂みの中から三つの物体が飛び出してくる。
「ちょっとあんた、姫に向かって発情期野郎とは何よ!」
「その言い草は聞き捨てなりませんね。」
「姫様は純粋なお人だもん…。」
 ナイスバディな銀髪のOL風のお姉さんに、甘いマスクと金色の髪を靡かせた外人の青年、日本人形のように愛らしい銀色の髪の女の子。
 茂みの中から現れたのは、年齢もバラバラな三人の部外者だった。
「お前ら、俺のあとついて来てたのか?!」
「姫の転校初日が心配だったもので。」
 温厚そうな青年が答える。
「姫、校門の前で一人で突っ立ってちゃ駄目よ。目立ちすぎるわ。少しは自分の容姿を自覚してもらわなきゃ。」
「女の人だけじゃなくて、男の人も姫様のこと見とれてたよ?」
「ってか、姫って呼ぶんじゃねーーーーーー!」
 姫と呼ばれていた彼がキレて叫んだ。
「ともかく、契約だ、契約!」
 がしり、と彼に肩を掴まれる。
「だからここは学校だって言ってんだろうが!」
 駿が彼からつかさを奪い返した。
「あ、あの。状況がよく分からないんですけど…。」
 契約をしろと迫る彼に、学校に不法侵入してきた明らかなる部外者三人。
 彼がつかさを睨むように見つめて言った。
「神縫繭梨(かみぬいまゆり)。お前の『身代わり』だ。」



 放課後、風紀委員会の教室に繭梨と三人の部外者は呼ばれた。
「紹介が遅れましたが、僕は稲荷雷狐(いなりらいこ)と申します。」
 金髪をした外人の青年は、朗らかな笑みとともに腰を折った。
「私は暮柳猫里(くれやなぎみょうり)。よろしくね!」
 愛想の良い大人のお姉さんは、男なら一発でノックアウトされるウインクを飛ばす。
「暮柳猫亜(くれやなぎみょうあ)です。隣の猫里お姉ちゃんの妹です。その…、よ、よろしくお願いします。」
 少しオドオドとした少女は、お姉さんの服の裾を掴んだまま微かにはにかんで笑った。
「僕らは姫の護衛です。」
「だから俺はそんなもんいらねぇって言ってんだろうが。」
「いえ、受けたご恩はきちんと返さなくては。」
 にっこりと雷狐が笑った。
「それで、えっと…。繭梨先輩は何者なんですか?」
「『身代わり師』だ。」
 駿が答えた。
「蒼瞳を持った者の身代わりとなる者ですわ。」
「そうだ。俺はお前と契約を交わすためにここに来た。さぁ、俺と契約を交わせ!」
 つかさに詰め寄ろうとした繭梨を、駿が足を引っ掛けて転ばせた。
「だからどこでもここでも盛るんじゃねぇって言ってんだろうが!」
「あの、契約って具体的には何をするんですか?」
 契約書にサインか判子を押して完了なのだろうか。
「契りですわ。」
 ニコリ、と満面の笑みを浮かべて紅葉が答える。
「契りって…?」
「要するに、エッチをするという意味ですわ。」
 途端につかさの顔が真っ赤に染まり上がった。
 つかさだけではなく、彦芽と虎次郎の顔も赤く染まっている。
 彦地は目を逸らして、苦いものでも噛み潰したかのように眉間に皺を寄せた。
「『体液を交らわせて、愛を持ってその身を護らんとする。』それが身代わり師の契約の内容だ。儀式は当然、そういう行為になる。」
 教科書に書かれてあることを淡々と読み上げるように繭梨は言った。
「おい、君主(くんしゅ)。」
 繭梨がこちらを見る。
 どうやら、つかさのことのようだった。
「お前、誰かとキスしたことあるか?」
「な、ないですけど…。」
「ご主人さまは女の子と手を繋いだこともなさそうだよねっ!」
 無邪気な彦芽の言葉が痛い。
 女の子と手を繋いだことなんて、幼稚園の時の遠足と、運動会の時のフォークダンスくらいしかないよ。
「だったら、儀式はより完璧に行える。俺もお前も童貞でキスすらしたことがない。まっさらだから、インクの文字も滲みやすい。」
 繭梨が腰に手を当てる。
「蒼瞳を狙う者は多い。最悪、命を落とすことだってある。だから、できるだけ早く俺と契約を交わすんだ。」
「契約を交わすと、どうなるんですか?」
「君主が受けた傷が俺にいく。」
 それはつまり…。
「僕が殺されたら…。」
「お前じゃなくて俺が死ぬ。」
「そんなこと、できませんっ!」
 つかさは声を張り上げた。
「僕が怪我をしたら、それが先輩にいくなんて…っ!」
「それが身代わり師の務めだ。さぁ、俺と契約を交わせ。」
「嫌です!僕は…僕はっ…!」
 つかさは教室から飛び出した。
 自分のせいで、繭梨が痛い目に遭うなんて。
 もしも自分が殺されたら、犠牲になるのは彼だなんて。
 そんなの耐えられなかった。
 廊下を走り抜け、行くアテもなく、ただひたすら前を行く。
 自分でもどこに来たのか分からないところまで来て、ようやく足を止めた。
 油絵の具の匂いがするから、美術部の教室かもしれない。
 ガラリ、と扉を開いて入ったそこには、キャンバスに描かれた大きな絵や、彫りかけの彫刻などが並べられていた。
 画板もあるし、水彩道具だってある。
 美術部の備品置き場だった。
 教室の隅に陣取り、膝を抱えて座る。
 ここに来てから皆に迷惑をかけっ放しだ。
 駿は忠実なまでに自分を護ろうとするし、他の先輩たちだって自分を護るために身を呈してくれている。
 それなのに、自分はいつも護られるだけで、皆に何一つとして返せるものを持っていない。
 自分は災厄の種だ。
 そして、繭梨までもが自分の犠牲に立とうとしている。
「失礼しますよ。」
 カラリ、と静かに扉が開いたかと思うと、雷狐が教室に入ってきた。
「どうして僕がここに居るって分かったんですか?」
「僕は狐ですからね。勘がいいんだよ。」
 人を安心させるような温かい笑みを向けて、雷狐がつかさの傍に来た。
 つかさの隣に腰を降ろす。
「突然で驚いてしまったでしょう?姫は少しせっかちな所があるからね。」
「あの…、どうして繭梨先輩のことを姫って呼んでるんですか?」
「あの人、お姫様みたいに可愛いでしょう?だからだよ。」
 女の人よりも綺麗で美人で可愛いけれど、男に「姫」ってどうなんだろう。
「身代わり師は、代々仙道家に仕えている家柄で、蒼瞳を持って生まれてきた者の身代わりを担ってきました。」
 昔から、蒼瞳者を護ってきた。
「契約の儀式は、蒼瞳者と歳の近い異性の神縫家の者が結ぶのが常なのですが、生憎、姫は一人っ子なもので。」
 蒼瞳者と契約を結べる者は、繭梨しかいなかった。
「姫と体を交えるのは嫌ですか?」
「え?」
 言われて初めて思い出した。
 そうだ、契約の儀式は、つまり、男と女のそういう行為をすることだった。
「僕は、繭梨先輩が僕の身代わりになるのが嫌で…。」
 そのことだけで頭がいっぱいで、儀式の内容は頭の中から吹っ飛んでいた。
「僕が怪我をしたらそれが全部先輩にいくなんて、嫌なんです。」
 もしも自分が殺されてしまったら、死ぬのは自分ではなく繭梨だ。
 他人の犠牲の上に自分が立つ。
 屍の上に自分が立つ。
 自分の苦しみを誰かに押し付けることなんて出来なかった。
「それに、繭梨先輩には自分の体のことをもっと大切にしてほしい。」
 契約をしろ、と迫る繭梨の瞳には、迷いがなかった。
 けれど、それはすごく悲しい。
 だって、大切なことをないがしろにしているような気がしたから。
「とにかく、僕は繭梨先輩と契約なんてしません。」
「でも、姫はしつこくあなたを追ってくると思いますよ?」
「だったら、先輩が諦めてくれるまで逃げます。」
「そうですか。」
 ふっ、と微かに笑って雷狐が立ち上がった。
「面白い解答が聞けて楽しかったです。僕たちは姫のことが好きですから、あなたの味方になりますよ。」
「???」
「姫を、どうか諦めさせて下さいね。」
 では、とあいさつを下げると、雷狐は教室から出て行った。
「雷狐さん?」
 つかさはすぐさま雷狐の後姿を追って扉を開いたが、数秒と経っていないのに、雷狐の姿は廊下から消え去っていた。



 繭梨のしつこさと根性には平伏してしまう。
「君主!俺と契約しろ!」
 朝は校門のところで待ち伏せていて、見つけ次第追いかけてくる。
 駿がつかさの手を引いて逃げて、登校時間ギリギリまで鬼ごっこ。
 昼休みは昼休みで、駿が先か、繭梨が先か、どちらが先につかさの教室に辿り着くかでデッドヒート。
 駿は繭梨を追い払いたい。
 繭梨はお家の使命を全うするために、つかさと契約を交わしたい。
「しつこいんだよ、テメーは!」
「そっちこそ、いい加減君主を渡しやがれ!」
 昼休み、今日は誠から用事があると言われ、つかさは職員室に出向いている。
 つかさの教室の前で、駿と繭梨は睨み合っていた。
 しかし、ここでずっと火花を散らしていては、他の生徒に迷惑だ。
 つかさがいないのなら、この教室に用はない。
 駿と繭梨は風紀委員会が普段使っている教室に場所を移した。
「おい、お前。何だってそんなに契約を交わしたいんだ?もしかして、お前、ソッチ系の人間か?」
「んなわけあるか!」
 目を見開いて、繭梨は否定する。
「仙道家の人間は、神縫家の恩人なんだ。」
「恩人?」
 繭梨は昔話を始めた。
「神縫の人間は、その特殊な体質から悪意のある召喚師や魔術師に捕まり、研究の材料にされた。政府からはモノのように買われ、モノのように扱われた。俺たちだって、生きた人間なのにな。血が出れば、痛いという感覚もある。毎日が地獄だった。そんな地獄から救ってくれたのが仙道家なんだ。だから、俺たちの一族は仙道家に尽くすことにした。俺たちの一族が持つ特異体質と、契約の力で身を結び、蒼瞳者を護ると誓った。」
 ぎゅう、と握られた繭梨の拳には、爪が食い込んでいる。
「俺は君主を護るために、この身を捧げるつもりだ。死んだって構わない。」
「馬鹿かお前?」
 駿が殺すような目つきで繭梨を睨む。
「主を護りたいっていうんなら、まずは主の心から護れ。」
「こころ…?」
「お前が死んだら、主はどう思う?」
「別に何とも思わないだろう?」
「……っ!」
 駿は握り拳で繭梨の顔面を殴り飛ばした。
「悲しむに決まってんだろ!テメェが死んだら、主は泣くんだよ!それも、自分のせいで死んだとあっちゃ、心に一生傷を負って生きていかなきゃならなくなる!」
「けど、俺は身代わり師で…っ!」
「テメェの体が特異体質であってもな、テメェの体に傷が入るところなんて、主は見たくねぇんだ!自分のせいで誰かが痛い思いをしたり、傷ついたりするところを、主は見たくねぇんだよ!」
 誰かが困っていたら、自分のことなど二の次に回してその人に手を差し伸べる。
 子猫が川で溺れていたら、カナヅチのくせに川に入って子猫を助ける。
 そういう奴なんだ。
「主を護りたいっていうんなら、もっと別の方法で護れ。体に負った傷なんてな、日が経てば消えちまう。けど、心に負った傷はいくら時間が経っても消えねぇんだよ。」
 言いたいことを言ってしまうと、駿は繭梨に背中を向けた。
「だいたい、テメェが身代わりなんかしなくても、主に怪我なんかさせねぇよ。」
 拳付きで言いたいことは言ってやったが、どこかしっくりといかなかった。
 駿は繭梨に背中を向けたまま、教室を出て行った。



(あなたは神縫家に生まれた者。蒼瞳者を護るのですよ。)
 幼い頃からそう教えられてきた。
 体は純潔であれ。護るべき人のために全てを取っておけ。
 言いつけは全て頑なに守ってきた。
「身代わりなんだから…。」
 身代わり師なのだから、誰かの犠牲となるのが当然の仕事なのだ。
 遠い昔だって、戦争のたびに身代わりを務めてきた。
 それは拷問に近い身代わりだったけれども、仙道の家がそこから救い出してくれた。
 仙道家は、決して身代わりを強要することはなかった。
 けれど、こちらとしても受けた恩を返さずにはいられないわけで、蒼瞳を持って生まれてきた者だけを身代わり師として護るということで、全ては決まった。
 自分は、まだ見ぬ蒼瞳者を護ることだけを目的として生きてきた。
 身代わりになるだけではなく、蒼瞳者を護るために、技だって磨いてきた。
 繭梨はそっと腰のホルダーに手を添える。
 蒼瞳者を護ることだけが、自分の生きる道だった。
 それなのに…。
(テメェが死んだら、主は泣くんだ!)
 そんなこと、考えたこともなかった。
 身代わり師の仕事は常に危険と隣り合わせ。
 契約を交わした者が殺されれば、彼の代わりに自分が死ぬ。
 契約を交わした者が重症を負ってしまえば、その傷は全て自分に来る。
 主君の体は綺麗なまま、自分の体は血で染まる。
 それに何の疑問も抱いていなかった。
 当たり前のことだったから。
(心に負った傷はいくら時間が経っても消えねぇんだよ。)
 駿に言われた言葉が、胸に突き刺さって剥がれなかった。
「姫。ぼーっと歩いてたら、柱にぶつかっちゃうわよ。」
「え?あ、うわっ!」
 正面を確認した時には既に遅く、繭梨はおでこを柱にぶつけた。
「姫様、どこか具合でも悪いの?」
「家に帰ってきてから、ずっと元気がないようですが。」
 雷狐も猫里も猫亜も、心配そうな顔をして聞いてくる。
「心に負った傷ってのは、治らないものなのか?」
 繭梨の言葉に、三人とも一瞬だけ目を見開いた。
 しかし、すぐにいつもの穏やかな顔に戻る。
「そうですね、癒えることはありますが、治るということはありません。やはり、心の奥底に根付いてしまったものですから。」
 雷狐がぎゅっと胸を押さえる。
「心に負った傷ってさ、忘れたくても忘れられないのよね。でも…。」
 ぽんぽん、と猫里の手が繭梨の頭を撫でた。
「私たちは、姫のおかげで心の傷とも向き合うことができたわ。」
「わたしたちを救ってくれたのは姫様です。だから、わたしたちは姫様が大好きです。」
 目を細めて猫亜が微笑む。
「俺が怪我をしたり、死んだりしたら、お前たちは泣くか?」
「姫様、死んじゃうの?」
 繭梨の言葉を聞いて、猫亜の瞳にじわりと涙が溜まりだした。
「いや、例えばの話だからな!俺が死んだりしたら、お前らの心に傷を作ることになるのかなーって…。」
 今にも泣き出しそうな猫亜を、必死でなだめる。
「姫が寿命で亡くなられたのであれば、僕たちもそれなりに諦めがつきますが、僕たちの手で救うことができたのに助けられなかった時は、一生心に傷が残るでしょうね。」
「そうか…。」
 繭梨はもう一つ、雷狐たちに聞いてみた。
「お前らは、自分の命を犠牲にしてでも、俺のことを助けたいと思うか?」
 三人から返ってきた答えは同じだった。
「当然じゃないか!」
「当然よ!」
「当然です!」
 その時、駿が言っていた言葉をようやく理解できた。
「そんなの、駄目だ!俺が許さない!」
 雷狐も猫里も猫亜も大切な仲間だ。
 いや、家族だと思っている。
 自分のために彼らの命が犠牲になるなんて、そんな…。
 そこまできて、ようやくつかさの心を理解した。
 自分は今まで、彼をどれくらい追い詰めていたのだろう。
 君主の身代わりになることと、家の言いつけを守ることばかりを厳守して、肝心の君主の気持ちなんて考えてもみなかった。
 護るということは、体を護るということだけではない。
 心だって、護るものの対象だ。
 人間には心がある。
 人間だけじゃない、生きているもの全てに。
「俺、間違ってた…。」
 ようやく自分の間違いに気づいた。
「姫?」
 俯いた繭梨を、心配そうに雷狐が覗く。
「よっし、雷狐!憂さ晴らしに手合わせだ!」
「はいはい。でも、手加減して下さいね。」
「んなもんするワケねーだろ。」
 喉に引っかかってきた気持ちの悪い物体が、ようやく通り過ぎてくれた。
 雷狐を誘って道場へと向かう。
「姫、雷狐との勝負が終わったら、次は私とね。」
「わたしにもお稽古つけて下さい。」
 三人を後ろに連れると、足取りも軽く繭梨は廊下を駆けて行った。



 今日の朝も、校門のところで繭梨が待ち構えていた。
「主、一気に駆け抜けるぞ。」
「う、うん。」
 スタートダッシュを決め込もうとした時、繭梨に声をかけられた。
「おい…って、待てよ!」
 つかさたちが走り出すと、いつものように繭梨も追いかけてきた。
「待てっつってんだろ!」
「待てと言われて待つ奴がどこにいる!」
「契約の話はもうしねぇっ!」
 繭梨の声に、つかさは足を止めた。
「主っ、何してんだ!」
「だって、今日は何だか違うみたいだし…。」
 つかさは肩で息をつきながら、繭梨に歩み寄った。
「今日は、違うんだ。君主に話があって…。」
「僕に話?」
「契約のことじゃない。」
 ちらり、と繭梨は駿を見た。
「ちょっとの間だけ、君主を貸してくれないか?」
「無理矢理契約をする気じゃねぇだろうな?」
 ギロリ、と駿が睨みつける。
「んなことするか!個人的に話があるだけだ!」
 駿の目は、まだ繭梨のことを疑っている。
「駿くん、大丈夫だよ。何もしないって繭梨先輩言ってるし。」
「敵の言うことを信用するんじゃねぇ!」
「俺は仙道側の人間だ!敵じゃねぇよ!」
 駿と繭梨との間に決闘が起こりそうな勢いだったので、つかさは二人の間に入って距離を作った。
「僕、繭梨先輩とお話してくるよ。駿くんは先に教室に行ってて。絶対に大丈夫だから。」
「……主がそう言うんなら、分かった。けど、何かされたら大声で叫べよ。すぐに八つ裂きにしに行くから。」
「う、うん…。」
 据わりきった駿の目は、言葉を確実に実行する響きを持っていた。
 駿と別れて繭梨と二人、裏庭を抜けて倉庫に向かった。
 ここなら誰も話を立ち聞きする人はいない。
「繭梨先輩、お話って何ですか?」
 今まで契約契約と迫ってきてきた人間と二人きりというのは正直少し怖かったが、繭梨の言葉が嘘とも思えなかったので、つかさは繭梨と二人になることを決めた。
 繭梨の口がゆっくりと開く。
「俺は、今まで自分の使命のことを一番に考えてきた。」
 蒼瞳者の身代わりになって、彼の身を護るということ。
「君主のために死ねればそれでいいと、疑いもなく思っていた。それが君主のためでもあると、本気でそう思っていた。けど、それは違ったんだ。」
 繭梨の言葉にだんだんと力がこもっていく。
「身代わりになって死ねば、君主の体は護られる。けど、心までは護れない。」
 逆に、心を殺してしまう。
 体の傷はいつか癒えても、心の傷は時間が経っても消えることはない。
「体の身代わりはできても、心の身代わりまではできないんだ。」
 じっと地面を見つめたまま独白していた繭梨が、顔を上げてつかさを認めた。
「君主の気持ちも考えないで、勝手なことばっかして悪かった。」
 繭梨が頭を下げる。
「ま、繭梨先輩っ!あ、頭なんか下げないで下さいっ!」
 つかさは慌てて両手を横に振る。
「それに、僕の方こそ繭梨先輩の気持ちも考えないで、逃げ回ってばっかりで…。」
「俺の、気持ち…?」
「だって先輩は自分の信念があったから、それを貫こうとしてたんですよね?」
 駿だって他の皆だって、仙道家が犯してきた過去の過ちを知っている。
 それでも、自分の信じている道と信念があったから、つかさのことを護ると決めた。
 それは繭梨も同じこと。
 自分の信念があったから、それを貫こうとしたまでだ。
「でも、僕は先輩にその信念を貫いてほしくないです。だって、先輩が痛い思いをするのは嫌だから。」
 これはつかさの自分勝手なわがままかもしれない。
 けれど、繭梨には自己犠牲になる道を選んでほしくなかった。
 それに…。
「契約の儀式は…、その…。や、やっぱり、好きになった人とするべきだと思うんです…。」
「契約の儀式…。ああ、セック…。」
「あわわわわ!全部は言わないで下さい〜!」
 つかさは顔を真っ赤にさせて、繭梨の言葉を塞いだ。
「繭梨先輩だって、僕とそんなことするの嫌でしょ?それに、僕は男の子だし…。」
 繭梨は口をつぐんで黙り込んだ。
 一時考えに耽った後、そっと口を開く。
「考えたことなかったな。」
「へ?」
「いや、君主の身代わりになることだけを考えて生きてきたから、契約の儀式となる行為も全部君主を想定して勉強してきたし、君主以外の人間とそういったことをするなんて考えてもみなかったから…。」
「お、男同士で抵抗とかなかったんですか?」
「あんまりなかったな。だって、やることは変わらないだろ?相手が女から男に代わっただけだ。」
 繭梨のこの言い方では、女役はどうやらつかさの方らしい。
 自分の方がよっぽどお姫様のような顔をしているくせに。
 そして、愛を持って男と女が体を交わらせる行為を、本当にただの「儀式」としか思っていないようだった。
「君主は、いい奴なんだな。五大守護一族がお前を護りたいって思う気持ち、分かった気がする。」
 ふわり、と繭梨が笑う。
 男の人だと分かっているのに、その笑みは散ってゆく桜の花びらよりも綺麗で、思わず胸をドキリとさせてしまった。
「俺も君主のこと、「行橋つかさ」として護りたいと思った。けど、今度は自分の身を全て犠牲にしたりはしない。」
 ぐいっ、と繭梨に腕を引かれた。
 そのまま肩を掴まれ、もう片方の手は頬に添えられた。
 そして…。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
 唇と唇が重なる。
 苦しくなって空気を求め、微かに口を開くと、そのまま舌を差し込まれた。
 数秒の間吐息が交わり、唾液も交わり、いよいよ息が続かなくなってきたところで唇は離れた。
「な…っ…!」
 キスされた。
 それも、深い方の…。
「これくらいで勘弁してやる。痛み分けってやつだな。俺はこれしか護り方を知らない。」
 そう言うと、繭梨はつかさを解放した。
「身代わり師の有効期間は蒼瞳が力を失うまで。だけど、俺はもうお前のために全部を犠牲にしたりはしない。だから、お前が蒼瞳者である間だけ許してくれ。」
 慈悲を乞う乞食のように繭梨は言うと、つかさに背を向けた。
「俺はお前を護ってやる。けど、お前も俺を護ってくれよ?」
 ゆっくりと歩みを進めると、そのまま校舎の方へと消えていった。



 教室に着くと、扉の前で駿が待っていた。
「主!」
 つかさの姿を見つけると、急いで駆け寄り肩を掴む。
「何もされなかったか?」
「…うん。特には。」
 キスはされてしまったけれど、契約をしろとか強要されたわけじゃないし、本当に話をしただけだし、キス以外は本当に何もなかった。
「だったらいいけど。」
 安心したのか、駿は溜めていた息を大きく吐いた。
「あ、今日の委員会、猿飛兄妹と虎次郎は欠席だからな。」
「そうなの?」
「三人とも用事があるらしい。」
「ってことは、駿くんと紅葉先輩と僕の三人だけで桜並木の掃除するの?!」
 満開の桜は盛りを過ぎて枝から花びらを落とし、今度は地面をピンク色に染め上げていた。
 これがけっこう厄介で、風が花びらを掃除してくれることはなかった。
 学校を綺麗にするのも、ボランティア精神旺盛な風紀委員会の仕事である。
 普通は美化委員会とかがしそうなんだけど…。
 放課後になると、一度風紀委員会の教室に集まった。
「で、何でテメェが居るんだよ?」
「風紀委員会に入ったからに決まってんだろうが。」
 教室には繭梨も来ていた。
「俺は許可した覚えはねぇっ!」
「先生からは許可もらってんだよ!」
「誠め、勝手なことを…!」
 ギリ、と駿が奥歯を噛み締める。
 今すぐにでも文句を言いに行きたいが、誠は昼から出張に出ていて学校にいない。
「駿さん、よろしいじゃございませんの。味方は多いにこしたことはございませんし。」
 紅葉は繭梨の入会に賛成のようだった。
「主様も、異論はございませんわよね?」
「うん。僕もいいと思うよ。」
 ニ対一で駿の負けだ。
 朝の出来事がまるでなかったかのように、繭梨の態度はいつも通りだった。
 別に無理をして平静を装っている風でもなく、本当に気にしていないようだった。
 繭梨本人が気にしていないのなら、自分も深く考えるのはよそう。
 つかさも今朝の出来事は忘れることにした。
 新入役員を連れて、四人で桜並木へと向かう。
 桜並木は二箇所あった。
 一つは人が大勢通る校門沿いから玄関にかけて。
もう一つは昼休みなどに生徒たちがランチを楽しむ憩いの場。
 分担はジャンケンで決めた。
 出揃った手はグーとパー。
「おい、繭梨!俺と代われ!」
「ジャンケンで決まったことだろうが!」
 繭梨の手はパーを出し、駿の手はグーを出した。
 つかさの手はパーで開き、紅葉の手はグーで石を作っていた。
「テメェと主を二人っきりになんかさせられるか!何するか分かったもんじゃねぇ!」
「んだと、コラ!それじゃ俺が変質者みてーじゃねぇか!」
「実際そうだろ!」
 駿が札を構える。
 繭梨が腰のホルダーに手を添えた。
「二人とも、喧嘩はいけませんわ。それよりもお掃除の方を早く終わらせてしまいましょう?」
 紅葉が止めるが、二人は完全に無視をする。
 ピキリ、と何かに亀裂が入るような音が聞こえた。
 ゆらり、と紅葉の体が揺れる。
 弓を構える姿勢をとると、紅葉の手から弓が現れ、指先には二本の矢が挟まれた。
 二本同時に矢を放つと、駿と繭梨の頬をかする。
 二人の頬に、切れ長の赤い線が一本引かれた。
「お掃除、しましょうね?」
「「はい…。」」
 満面の笑みを作って笑う紅葉の顔が、般若の面を被っているように見えた。
 駿たちとは別れ、繭梨と一緒に休憩場へと向かう。
 校門の掃除は駿たちに任せた。
「意外と大変ですね。」
 数日前に雨が降っていたので、桜の花びらが地面にこびりついていた。
 力強く、擦るようにして取らないと剥がれない。
 それに加えて、竹でできた箒は教室の床を掃く箒とは違い、重さが倍近くあった。
 ずっと手を動かしていると、腕が重たくなってくる。
 つかさは既に疲れを見せ始めていたが、繭梨はまだまだ余裕のようだった。
「繭梨先輩は、凄いですね。箒、重たくないんですか?」
「別に。竹刀振り回す方が重たいし。」
「竹刀?」
「俺んち、剣道の道場なんだ。だから俺もガキの頃からやってんの。あと、居合いとかも教えてる。」
 その細い腕で竹刀を振れるのかと思ったが、それを口に出して聞いたら怒られそうなので止めた。
「そういえば、どうしていきなり風紀委員会に入ろうと思ったんですか?」
「んー、なんとなく?俺さぁ、誰かとツルんだことってないんだよな。クラスメイトとかに話しかけても、いつもよそよそしい態度取られるし、絶対視線合わせて喋ってくれないし。」
 それは繭梨の容姿があまりにも可憐すぎて、高嶺の花と遠ざけられているからではないだろうか。
 触れてはいけない、儚き硝子。
「その点、駿は年下のくせに容赦なくつっかかってくるだろ?かなりムカつくけど。彦芽だって、俺で遊んだりするし。たまに迷惑だけど。対等に接してくれる奴っていなかったから、面白くってさ。風紀委員会の奴らって、皆そんな感じで俺のこと見てくれるじゃん。」
 嬉しそうに繭梨は言う。
 そんなことはおくびにも出さないのに、繭梨の中にも「寂しい」という感情の風は吹いていた。
 その時、生暖かい風が一陣吹いた。
 なんだか、嫌な感触だった。
「よう、坊ちゃん。」
 背中から聞こえてきた声に振り向くと、無精髭を生やした男が立っていた。
「豊草さん…?」
 隣には炎の体をユラユラと揺らした女性が控えている。
 バッ、と瞬時に繭梨はつかさを背中に隠した。
「真の印が刻まれた式神…。貴様、真備家の陰陽師だな?」
「女かと思ったら、お前、男だったのか?そういや、学ラン着てるな。」
「俺のどこが女だってんだ!」
 繭梨が吠えた。
「まぁいいや。符術師の坊主もいねぇし、他の守護者もいねぇ。蒼瞳、いただいていくぜ。」
 豊草が合図を出すと、炎の女性が的を射る矢のスピードでつかさを襲ってきた。
 繭梨が突き飛ばしてくれたおかげで、つかさは女性の炎に焼かれずに済んだ。
「豊草さん…。そんな…。」
「おおっと。今日のオレは真備家の人間だから、容赦はしねぇよ?」
 祭りでアルバイトをしていた時と同じ豊草が、今度は刺客としてつかさの前に立っていた。
「行け、豊苦(とよく)!」
 豊苦と呼ばれた炎の女性は、主人の命令を忠実に受けて鼠を殺しにかかる。
「君主に火傷なんかさせるかよ!」
 繭梨が腰のホルダーに手をかけた。
 そこから取り出したのは、二本の脇差。
 武士の魂である刀が、豊苦の攻撃を受け止める。
 豊苦の腕を払いのけると、続けざまに息つく暇も与えず、迎撃を繰り返した。
 風を切るかまいたちのような瞬速の攻撃が、炎でできた豊苦を斬る。
 しかし、気体でできた彼女の腕を完全に斬り落とすことはできず、何度体をバラバラに斬り落としても、豊苦の体は元通りに繋がっていった。
「豊苦の体を、何の魔力も持たない普通の刀なんかで斬り落とした奴、初めて見たぜ。オレもやられっぱなしはいけねぇな。そろそろ反撃させてもらおうか!」
 豊草が呪いの言葉を繋げると、豊苦の体が一層深く燃え上がった。
「オン・マリシエイ・ソワカ!」
 業炎の矢が豊苦の体から無数に霧散し、繭梨を射って焼き尽くそうと襲いかかった。
 蟻が逃げる隙間もないほどの矢の群れが、一斉に降り注いでくる。
「繭梨先輩っ!」
 繭梨の体を炎の矢が貫く。
 肩を貫通し、腹をかすり、顔に傷を残す。
 鮮血も一緒に波を噴いた。
 つかさが駆け寄ろうとすると、「来るな!」と怒鳴るような声で繭梨は止めた。
「こんな傷、どうってことない。」
「え…?」
 炎の矢は、つかさの目の前で繭梨の体を貫通した。
繭梨の体を傷つけた。
 血だってたくさん噴き出した。
 それなのに、繭梨の体はつかさが目の前にした衝撃ほど傷を負っていなかった。
 いや、傷が「治って」いた。
「その特異体質、坊主は神縫家の者か。」
 面白いものを見るような目つきで豊草が笑う。
「完全治癒能力。どんな怪我でも通常の人の何倍もの速さで治っちまう。」
「ああそうだ。だから俺らは身代わり師なんだよ。」
 契約を交わした者からどんなに傷をもらおうとも、たちどころに治ってしまう。
 その能力を持ってしての身代わり師だった。
 豊草がくつくつと笑っている間に、繭梨の傷はみるみる塞がっていく。
 学ランに血痕を残しただけで、繭梨の体は綺麗な体に戻った。
「身代わり師がいるってことは、もうすでに契約を結んじゃってる?」
「残念だが、俺は君主とちゃんと契約は結んでいない。」
「契約は結んでねぇんだ?ってことは…。」
 血に飢えた獣のような瞳を見開いて、豊草が吠え猛った。
「蒼瞳者だけ殺せばいいんだな!」
 ドオオオォォォン!と地面が破裂するような音が響いた。
 その音とともに背中を走った衝撃。
「あ…!」
 豊草の式神である翼を生やした緑色の女性が、隠れていた地面から姿を現し、つかさの背中を鋭利な爪で引き裂いた。
 右肩から腰にかけて、斜めの線が肉を抉る。
 爪は心臓まで届くほど深く、つかさの背中に食い込んでいた。
 死んだ、と思った。
 切り裂かれた時は意識を持っていかれそうになるくらい痛かった。
 背中から血が流れているのを感じる。
 傷口がパッカリと口を開けているのも感じる。
 しかし、最初に感じた衝撃ほど傷は大きく感じられなかった。
「う…。」
 どさり、と目の前で繭梨が倒れた。
「繭梨先輩っ!」
 繭梨の背中には、鋭利なもので切り裂かれたような傷ができていた。
「何で…?」
 つかさは自分の背中に手をやった。
 右肩から腰にかけて伸びた傷。
 繭梨の傷も、自分と全く同じ位置にあった。
 つかさの受けた傷が、繭梨の体に移っていた。
「何で…?!どうして…?!」
 契約の儀式は交わしていない。
 それなのに、どうして繭梨がつかさの身代わりになっているのか。
(体液を交らわせて、愛を持ってその身を護らんとする。)
 ……体液!
 倉庫の前で交わしたキス。
 あの時に繭梨の唾を飲み込んだ。
 繭梨の方も、つかさの唾を飲み込んだ。
 あのキスは戯れや酔狂でやったわけじゃなかったんだ。
「坊主、蒼瞳の坊ちゃんとは契約してないんじゃなかったのか?」
「『完全』には契約の儀式を交わしていない。だから、痛み分けで君主が大きな傷を負った場合に限り七割が俺の体に移る。その代わり、俺が大きな傷を負った場合、その傷の一割が君主に行くけどな。」
 痛み分けだと言うわりには、身代わり師の方が痛みを多く背負っていた。
「けどまぁ、これで身代わり師の坊主は動けなくなったわけだ。自分が受けた傷はすぐに治るが、他人から引き受けた傷は治る速度が落ちるからなぁ。」
 豊草が喋っている間にも繭梨の傷は修復されていったが、先ほどよりも若干スピードが落ちていた。
「それじゃ、蒼瞳はもらって行くぜ。オン・マリシエイ・ソワカ!」
 バァッ、と豊草の掌から光線が飛び散った。
 槍のような鋭さを持って、つかさと繭梨を貫こうとする。
 倒れてしまった繭梨を庇うようにして、つかさは彼の体の上に覆いかぶさった。
「光々に明々に、守り賜え護り賜え。光射し明かり射し、六角を持ってして守り護り賜え。」
 三つに折り重なった声が聞こえた。
 途端に空気が柔らかくなり、温かい風が辺りを包み、つかさたちも包みこむ。
 つかさたちを中心にして、地面に六角形の守護陣が浮かび上がっていた。
 六角形の結界が、つかさたちを豊草の攻撃から守っている。
「間に合ったみたいですね。」
 虎ほどの体格を持った狐が、つかさたちの前に立っていた。
 尾が三本に割れていて、人間の言葉を喋っている。
「心配して来てみれば、こんなことになってるんだから。」
「姫様、背中怪我してる…。」
 人の言葉を喋る猫までいた。
 大きさは普通の猫だが、二匹とも銀色の毛並みを持っており、瞳は深緑色に輝いている。
 一匹は尾が三本に分かれ、もう一匹は二本に分かれていた。
「あなたたちは……?」
「雷狐です。」
 雷のような体毛をした狐が答えた。
「言っただろう?僕は狐だって。」
 雷狐が一歩前へ踏み出し、豊草と対峙した。
「君主、姫を連れてお逃げ下さい。あなたの傷のほとんどは姫がもらい受けたのですから、あなたは動けるでしょう?ここは僕と猫里と猫亜に任せて下さい。」
 三本尾の銀猫は猫里で、二本尾の銀猫は猫亜だった。
「さぁ、早く!」
 弾かれたように立ち上がると、つかさは繭梨に肩を貸して、この場所から逃げ出した。
 蒼瞳者がいなくなってしまったステージで、豊草は犬を馬鹿にするように目を細めた。
「妖怪三匹程度の分際で、陰陽師に敵うとでも思ってんのか?」
「そうだな。俺ら三匹が力を合わせたくらいじゃ、優秀なテメェには敵わねぇだろうな。」
 しかし、口で言っていることとは裏腹に、雷狐の目は絶望の色には染まっていなかった。
 突き出す口調は強気で、不敵な笑みさえ浮かべている。
「でも、僕らはテメェに勝つ必要はねぇっ!」
 雷狐が飛び出した。
 体中に雷を巻きつけて、豊草を感電させようと体当たりで突出する。
 雷狐の攻撃を、炎の豊苦が体で受け止めた。
「にゃあああああっ!」
 猫里と猫亜が爪と牙を剥き出して、豊草に襲いかかる。
「豊鳥(とよとり)!」
 翼を生やした緑色の女性が、両翼で猫里と猫亜を弾き返した。
「お前ら純血の妖怪だろ?純血の妖怪は人間の臓物を食らって力を高める。オレを殺したいと思わないのか?妖怪としての衝動は起こらないのか?」
 挑発するように嘲笑う豊草の言葉に、雷狐は穏やかに返した。
「妖怪だから衝動はあるさ。でも、それよりも強い衝動が俺たちにはある。」
「猫も狐もね、助けてもらった恩は忘れないのよ!」
 猫里の爪が豊鳥の羽根の一部を切り落とした。
「姫様はわたしたちの恩人です。わたしたちの心を動かすのは、姫様だけなんです!」
 猫亜が豊苦の腹を引っ掻いた。
 まだ繭梨が幼かった頃の話。
 傷だらけの体を抱えて妖怪密猟者の手から逃げてきた自分たちを拾い、介抱してくれたのが繭梨だった。
 誰も信じることができなくなってしまった自分たちに、もう一度誰かを信じる心を取り戻させてくれたのが繭梨だった。
 彼のおかげで、自分たちの世界は閉塞することなく、扉を開けて外に出ることができるようになった。
「俺たちは姫のためにも、理性を失った完全なる妖怪には絶対ならねぇ。」
「だからオレを殺しにかからない、と?」
「ああ。それに…。」
 光の矢が豊草の首をかすった。
「俺たちは姫を護るだけであって、テメェを倒すのはあいつらの役目だからな。」
 身長よりも高い弓を構えた紅葉が、二射目の矢をセットして豊草の首を狙っていた。
 その隣では駿が札を構えている。
「どなたかと思いましたら、豊草さんではありませんか。部外者の学校への立ち入りは禁止のはずですが?」
「部外者ってんなら、そこの狐と猫だってそうだろうが。」
「動物は不法侵入者にはカウントされませんの。」
 殺伐とした場にはそぐわない優しい声で紅葉が諭す。
「で、今日の相手は符術師の坊主と弓道師の嬢ちゃんの二人だけかい?悪いが、こっちはオレと豊苦と豊鳥を入れて三人だ。分が悪いんじゃね?」
「数なんか関係ねぇよ!」
 オン!と駿が符術を放った。
 水の矢が豊草とその僕たちを襲う。
 紅葉の矢も絶え間なく、敵の急所を襲った。
「効かねぇなぁ、効かねぇよ!じゃあ、そろそろこっちも反撃に…!」
 その時、チャッチャラッチャ〜ラランラ〜、と気の抜けるような着信音が鳴った。
 日曜日の早朝に放送されている戦隊もののテーマソングだ。
 〜動物〜戦隊〜ア・ニ・マ・ル〜ダ〜♪〜
 ピタリ、と豊草の攻撃の手が止まる。
「あ、やべ。時間だ。」
 くるり、と豊草は駿たちに背中を向けた。
「おい、テメェ…っ!何のつもりだ!」
「今からバイトなんだよ!遅刻したら減給されちまうだろうが!」
「は?…って、バイトと蒼瞳、どっちが大事なんだ!」
「バイトに決まってんだろうが!」
 躊躇いもなく豊草は言い切った。
「家の仕事はバイト代が出ないから嫌なんだ。じゃあな、坊主ども!」
 式神を消すと、豊草は校門に向かい走って行った。
「何なんだ、あいつ…?」
 拍子抜けした駿は目をパチクリとさせながら、豊草の消えて行った校門の方を眺めた。
「ああーっ!オレのチャリが無いっ!」
 姿は見えなくなったが、豊草の叫ぶ声は聞こえてきた。
「あら、あの自転車は豊草さんのでしたの?邪魔なところに置かれていたものだから、処分してしまいましたわ。」
 あらあら、と喉をコロコロと鳴らしながら紅葉が笑った。
「ちっくしょー!神憑・豊鳥。急急如律令!豊鳥、オレをバイト先まで運べぇ!」
 交通手段をなくした豊草は式神を呼び出して、彼女を自転車の代わりにしたようだった。
 嵐は通り過ぎてくれたが、地面にこびりついた桜の花びらは、嵐と一緒に吹き飛ばされてはくれなかった。



 怪我をした人を運ぶところといえば保健室しか思いつかなかったので、つかさは繭梨を保健室に運んだ。
「繭梨先輩、大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫だ。傷口もほとんど塞がった。それより、お前の方が大丈夫かよ?」
 つかさの背中からは、ダラダラと未だに血が流れていた。
「血は流れてるみたいだけど、大丈夫です。そんなに痛くありませんし。」
 痛みと言えば傷が少しヒリヒリする程度。
見た目ほど怪我は大きくないようだ。
 保健室の先生は不在のようで、勝手に電気を点けて薬品棚を漁った。
「先輩、消毒とかした方がいいですよね?ちょっと待ってて下さ…。」
「いい。それより、雷狐が来るのを待とう。」
 十分ほど大人しく待っていると、廊下を駆けてくる足音が聞こえた。
「主、無事か?!」
 バン、と病人が寝ているかもしれない保健室の扉を勢いよく開いて、駿が駆け込んできた。
 後に続いて紅葉や雷狐たちも入ってきた。
「僕は平気。それより、先輩の方が…。」
 駿が繭梨を睨みつける。
「契約したのか?」
「完全には施行していない。俺にだって譲れないものくらいある。これでも譲歩してやったんだぞ。」
 ふてくされたように繭梨が言った。
「それより、雷狐。君主の傷を治してやってくれ。」
「承知しました。」
 雷狐がつかさの背に手を触れる。
 掌から温もりが伝わってきて、やがて背中全てを包み込むように柔らかな感触が広がった。
 血は流れを止めて、傷口も早送りの速さで塞がっていく。
 繭梨のような特異体質があるわけではないのに、つかさの背中にできた傷は瞬く間に塞がってしまった。
「僕は雷の能力の他に、治癒能力にも優れているんです。」
 ぽん、とつかさの背を軽く叩いて、雷狐の治療は終わった。
「なぁ、君主。」
 下から様子を窺うように、繭梨がつかさの顔を覗きこんだ。
「中途半端なものだけど契約の儀式結んだこと、怒ってるか?」
「怒ってはいませんけど…、でも…。」
 繭梨に痛い思いをさせてしまった。
 流さなくても良かった血を流させてしまった。
「もう二度と繭梨先輩が痛い思いをしないように…、僕も頑張ります。」
 繭梨が今まで信じてきた信念を全て折り曲げてしまうのは自分の我がまま。
 つかさの身を命に代えても護りたいと思うのも繭梨の我がまま。
 だったら、ちょうどその中間を取ることにしよう。
 痛いのは、二人で分ければいいんだ。
「繭梨!主とは契約を結ばないって言ったのに、約束破りやがったな!」
「止めて、駿くん!」
 繭梨に殴りかかろうとした駿を、つかさは止めた。
「繭梨先輩、もう僕のために自分の身を犠牲にすることはしないって言ってくれたんだ。だから、ね?」
 つかさに肩を押さえつけられて、駿は勢いを失う。
 つかさの肩越しに、駿は繭梨を睨みつけた。
「中途半端な儀式しかやってないってことは、主が大きな傷を負った時にだけ、お前の体に七割ほどの負担がいくんだろ?」
「ああ。」
「逆に、お前が大きな傷を負えば、一割が主の体にいく。」
「ああ。」
「お前、絶対に怪我なんかするなよ。」
 そう吐き捨てると、駿は繭梨から視線を外した。
「でも、良かったですわ。大きなことになりませんで。学校を荒らされたとあっては、いくら誠先生の召喚術があっても、召喚獣さんたちの力だけで学校の修復をするのは大変でしたもの。」
 豊草の襲ってきた場所が、放課後は人の少ない校舎から少し離れた場所で助かった。
 巻き添えを食らう生徒が出ることもなく、この騒ぎを感知した者は誰もいない。
「制服ボロボロになっちゃった。帰り、どうしよう。」
「体操服を着て帰ればいいだろ?」
「今日は体育の授業がなかったから、体操服なんて持ってきてないよ…。」
「しょうがねぇな。俺の貸してやるから。」
 教室まで体操服を取りに、駿は保健室から出て行った。
「それじゃあ、姫。私たちも帰るとしましょっか?」
 うー、と猫のように猫里が背筋を伸ばす。
「君主。」
 保健室から出て行く寸前に、繭梨は一度足を止めてつかさを振り返った。
「ありがとな。俺の言い分も認めてくれて。」
 少しだけ笑ったあとに、繭梨は雷狐たちと一緒に保健室から出て行った。



 昼休みに駿と一緒に教室で参考書を広げていると、ページを捲った指を、ピリッと紙で切ってしまった。
 思いのほかザックリと切れて、血の玉が浮かび上がり指から垂れ流れてきた。
「駿くん、絆創膏とか持ってる?」
「ないな。保健室行ってもらってくるか。」
 一階の保健室まで降りて、傷を塞ぐテープをもらいに行く。
 駿も一緒について来た。
「失礼します。」
 コンコン、とノックをして扉を開けると、保健室のデスクには白衣を着た外人の先生が座っていた。
「雷狐さん?!」
「おや、君主じゃありませんか。」
 朗らかに笑う雷狐の傍には繭梨もいて、更にはセーラー服を着た猫里と猫亜もいた。
「え、え…?どうして雷狐さんと猫里さんと猫亜さんがここに…?」
「姫のことが心配で、私たちも学校に潜り込んできたの。」
 猫里がデスクに座り、足を組む。
 短いスカートから覗く太腿に思わず目が行ってしまいそうになるが、つかさは顔ごと逸らして猫里から視線を避けた。
「姫と同じ二年四組に転校してきたから、これからもヨロシクね。」
「わたしも姫様とお姉ちゃんと同じ、二年四組です。」
 ふわっ、と猫亜が笑った。
 繭梨は腕を組んで難しい顔をしている。
「猫亜なら分かるけど、猫里はアウトだろ。だってお前、どう見たって雷狐よりオバサ…。」
「姫、何か言った?!」
 肉を喰らう猛虎の瞳をギラつかせて、猫里が繭梨を睨んだ。
「僕はこの学校の保健医として雇ってもらえることになりました。今後ともよろしくね。」
 まだまだ陽射しの温かい春の息吹が残る中、着々と仲間は増えていった。



四話  大切なものは何ですか?



 他の学校に比べて少し時期の遅い身体測定があった。
「やぁ、君主。」
「雷狐さん。」
 つかさのクラスはちょうど保健室で視力を測る順番だった。
 雷狐が棒を持ち、視力表の文字や形を次々に指していく。
「はい、検査終わり。君主は視力がいいのに、どうして眼鏡なんてかけているんだい?」
 検査結果、両目とも視力は良好、一番下の文字まで見えた。
「癖っていうか…、人と関わるのが苦手だから、これで壁を作ってたんです。」
 眼鏡一枚を世界に挟むと、なんとか人の目を見ることができた。
 けれど、今はあまり必要ない。
 駿たちと出会い、風紀委員として活動するようになってからは、人との交わりも視線を合わせて話をすることも、前ほど難しいものではなくなった。
 それでも眼鏡をかけているのは、今さら外すのも何だかなぁ…と思うからだ。
 眼鏡をかけ直すと、クラスメイトたちの視力検査が終わるのを待ち、全員が揃ったところで身長や体重を測りに体育館へと集団移動した。
「つかさー!」
 体育館の入り口のところで、元気の良い声に呼び止められた。
 ぐいっ、と首に腕を回される。
「凛蔵先輩…。と、繭梨先輩。」
 身体測定表をヒラヒラと手で弄びながら、凛蔵が上機嫌に話しかけてきた。
「オレな、去年より五センチも身長が伸びちょったに!」
 嬉しそうに、凛蔵は表を見せる。
「つっても、百七十三センチだろうが。俺が高一の時より小せぇよ。」
「悪かったな。」
 むすっ、と凛蔵の頬が膨れる。
「繭梨先輩は何センチだったんですか?」
「百七十八センチ。」
 顔は女の子よりも綺麗な顔をしているのに、身長は全国男子の平均よりも高い。
「でも姫の奴な、身長はオレより高けぇくせに、体重はオレより軽いんで。」
「うっさい!それから、姫って呼ぶな!」
「猫里や猫亜は姫っち呼びよんやん。てか、クラスの奴ら全員、お前のこと影では姫っち呼びよんで?」
「そうなのか?!」
 凛蔵と繭梨は同じクラスの仲間のようだった。
 二人とも嫌いな相手と一緒に行動を共にするような人じゃないし、仲は悪くないようだ。
「じゃあな、つかさ。」
 ブンブンと大きく手を振ると、凛蔵と繭梨は視力検査をしに保健室へと向かった。
 二年四組コンビと別れた後、クラスの列に戻って身長測定の順番を待つ。
 つかさのクラスの前に測定を行っていたのは一年一組のようで、ちょうど駿の姿が見えたので、つかさは声をかけた。
「駿くん。」
 つかさの姿を見つけると、駿はこちらに歩いてきた。
 心なしか、いつもの強気な元気がないような気がする。
「ど、どうかしたの?」
「別に…。」
 もしかして、少し拗ねてる?
「あ、身長測ってきたんだよね?どうだった?」
「あぁ?」
 ギロリ、と刺し殺すような瞳で睨まれた。
 うわああぁぁ、聞いちゃいけないこと聞いた?!
「百六十センチ…。」
 ボソリ、と駿が呟く。
「去年から一センチしか伸びなかった…。」
「え、あ、でも、凄いじゃない!僕なんて、百六十センチもないよ?」
 ほら、とつかさは自分の頭の上と駿の頭の上を、手で作った身長測定器で往復した。
「そうか、主よりは背が高いか。じゃあ、風紀委員会の男の中で一番低いわけじゃねぇんだな。」
 それで少しは気持ちが晴れやかになったらしい。
 いつもの不敵な笑みが戻ってきた。
「主、身長測ったら、後で何センチか教えろよ!」
 駿くんにもこんな子供っぽいところがあったんだ。
 こんな些細なことで闘争心を燃やすなんて。
「うん。」と笑顔で返した後、つかさは身長測定器の前へと進んだ。
 結果、今年は百五十六センチだった。
 僕も一センチしか伸びてないな…。



 今日の放課後は風紀委員会の教室に集まってすぐに、ミーティングが行われた。
 明日からの土曜日、日曜日に開かれるバザーの手伝いに行くことになり、どこを手伝うのか役割を決めるのだ。
「で、どうしてお前がここにいる?テメェは書道部だろうが。」
「だって部活が休みなんやもん。」
 既に教室の空気に溶け込んでいた凛蔵が、ヘラリと笑った。
「大会前以外は基本的に土日は部活休みやし、オレもボランティアに参加しようと思って来ただけやん。」
「目障りだ、帰れ。」
 犬を追い払うように、駿が手で追い払う。
「駿ちゃん、いいじゃない。凛ちゃんも仲間に入れてあげよーよ。」
 彦芽の優しい言葉に、凛蔵は瞳を潤ませた。
「やっぱ彦芽はやさしーなぁ。誰かさんとは大違いや。」
 チラチラと鬼の駿の方を見る。
「駿さん、よろしいじゃございませんの。それに、『あの仕事』は凛蔵さんに打って付けですわ。」
「アレか…。」
 ニタリ、と駿が笑う。
「よーし、凛蔵の参加を許可しよう!」
「やーん、駿くんダーイスキ!」
 喜びを込めて駿に抱きつこうとした凛蔵だったが、駿に足で顔面を蹴りつけられて叶わなかった。
「当日の俺たちの仕事は万引きのパトロールと、店の手伝いだ。」
 駿の独断と偏見で担当は決まった。
「洋服の崎山さんとこの手伝いは、猫里に猫亜。」
 猫の妖怪である猫娘姉妹(猫又と呼ぶと怒られる)も、繭梨を追って風紀委員会に入ってきた。
「万引きのパトロールは彦地と虎次郎と彦芽、それから俺だ。」
 忍である彦地と彦芽が万引きのパトロールについたら、どんな鼠でも逃げおおせることはできなさそうだ。
「紅葉と繭梨は、ケーキの販売をする逸見堂の手伝い。」
 バザーに出展するのは個人だけではなく、商店街の店の一部も参加していた。
 売るものもリサイクル品以外に、縁日のような屋台も並べられる。
 先日行われた商店街主催の感謝祭と同じようなものだった。
「主は、シルバーアクセショップ・ビークルの手伝いをしてくれ。」
 割り当てた担当を読み上げると、駿は次の話へ進もうとした。
「ちょっと待てっちゃ!オレは?」
 凛蔵の名前だけまだ呼ばれていない。
「お前は特別な仕事だ。当日まで楽しみにしてろ。」
 ニタリ、と目を細めた駿の笑みが小悪魔の笑みに見えたが、ここは見て見ぬフリをする方が賢明な判断だろう。
 バザーでの役割分担も終わり、事前注意事項も学び、六時半をさしかかったところで委員会のミーティングは終了した。
「あれ、もう終わっちゃった?」
 さて解散、という頃になって、顧問である誠が教室に現れた。
「もう終わりだぞ。お前、いっつもタイミング悪いよな。」
「あはは、そうだね。」
 決まり悪そうに誠が笑う。
「戸締りは僕がしておくから、皆はもう帰っていいよ。」
「誠先生はまだ帰らないの?」
「僕は仕事が残ってるから、ここで終わらせてから帰るよ。」
 帰り際の挨拶を交わして、それぞれが帰途についた。
「主、悪いけど今日は一人で帰ってくれ。バザーの主催者側と前日打ち合わせがある。」
「うん、分かったよ。」
 駿は大きな茶封筒を鞄に詰め込むと、急いで教室から出て行こうとした。
 が、扉の所で足を止め、くるりと振り返ると、再びこちらに戻ってきた。
「主。」
「な、何?」
 顔を近づけられ、小声で聞かれる。
「身長、何センチだった?」
「ひゃ、百五十八センチ…。」
「よっしゃ。」と、駿は小声でガッツポーズを決めた。
 中学の頃は風紀委員会の中で一番背が低かったのだろう。
 もしかすると、彦芽よりも背が低い時期があったのかもしれない。
 中学に上がる前までは女の子の方が成長は早いっていうし。
「じゃあな〜、主!」
 自分が一番チビッ子ではなかったことが嬉しかったらしく、帰り際の駿は目に見えるほど上機嫌だった。
 こんなことで他人に喜んでもらえるなんて。
 背が低いのも案外悪いことじゃないのかもしれない。
「誠叔父さん、お仕事早く終わりそう?」
「そうだね、この書類に判を押してしまうだけだから。」
 一クラスの生徒の数ほどの書類が重なり合っていた。
「じゃあ、待ってるね。」
 近くにあった椅子を引っ張ってきて、誠の隣に座る。
「そういえば、誠叔父さん。」
「なに〜?」
 書類に判を押しながら誠が答える。
「その懐中時計、いつも大事そうにしてるけど、とても大切なものなの?」
「ああ、これ?」
 誠が椅子ごとこちらを向いた。
 彼の腰につけられている黄金色をした懐中時計。
 かなり年季の入ったアンティークのようだった。
「これは媒介なんだ。」
「媒介?」
「召喚術や魔術、陰陽術、そういった力を使うときに力の拠り所にするものだよ。」
 腰から懐中時計を外して、つかさの手の中に持たせてくれた。
 胴の匂いがするそれは、見た感じも触った感じも普通の懐中時計のようだった。
「陰陽術は別に媒介がなくても使えるけど、召喚術や魔術は媒介がないと使えないんだ。」
 懐中時計を誠の手の中に返す。
「召喚術と魔術はね、媒介となるものと契約を交わして、はじめて力が使えるようになるんだ。媒介に自分の持つ魔力を通さないと術は使えない。媒介となるものは何でもいい。僕は懐中時計を使ってるけど、姉さんはネックレスを媒介にしてるし。まぁ、物によって力の大小は異なるけど。」
「じゃあ、僕も媒介となるものを持って契約を結べば、召喚術が使えるようになるの?」
「そうだよ。でも、つかさくんは使っちゃ駄目だ。君が召喚術を使えば、蒼瞳の魔力が増してしまう。暴走して暴発する危険性があるから、絶対に使っちゃ駄目だよ。」
「うん…。」
 本当は少し使ってみたかった。
 その力が使えるようになれば、護られるだけではなく、駿たちのことも護れるようになるかもしれないから。
「さて、仕事は終わり。帰ろうか。」
 その時、誠の携帯が鳴った。
 携帯を取ると、誠は二言三言言葉を交わして通話を切る。
「つかさくん、ごめん。急な仕事が入っちゃった。九時過ぎるかもしれないから、一人で帰ってもらっていいかな?」
「うん、分かった。」
「せっかく待っててくれたのに、ごめんね。あと、戸締りしといてくれる?」
 パン、とつかさの前で手を合わせると、誠は書類を持って急いで教室から出て行った。
 誠が出て行ってしまった後、窓に鍵がかかっているかを確認し、カーテンも閉めて、つかさも教室を出る。
 教室の鍵も閉めるとそれを職員室に返して、学校から家へと帰った。
 そういえば、ここに入学して来てから一人で帰るのは初めてかもしれない。
 入学初日に風紀委員会に連れて来られ、そこから駿とは登下校を一緒にするようになった。
 春とはいえ夏にはまだほど遠いこの季節は、夜になるのが早かった。
 昨日は温かかったと思ったら今日は冬が逆戻りしたかのように寒かったり、気温の変化も激しかった。
 少し肉まんが恋しくなる。
 公園の敷地を通り抜けて家へと帰る。
 その途中、ブランコの近くで女の子の姿を見つけた。
 女の子の隣には背の高い女性が立っている。
 女性は女の子の手を引っ張って、無理矢理こちらに連れて来ようとしていた。
(もしかして、誘拐!?)
 女の子が危ない!
 そう思ったつかさは、誘拐犯が刃物で脅してくる可能性も考えずに、誘拐犯に飛びかかった。
「そ、その子を離せーーーーー!」
 体ごと体当たりをかまし、女の子の傍から女性を突き飛ばす。
 勢いあまって女性を道連れにして地面に雪崩れこんだ。
「ちょっと、あなた!あっちゃんに何するのよ!」
「え?」
 自分としては女の子を助けたつもりでいたが、その女の子から頭をポカポカと叩かれた。
「って、あなたは仙道家の蒼瞳者!」
「君は、峠ちゃんだっけ?」
 誘拐犯に拉致されそうになっていたのは、岬家の魔術師、峠だった。
「それより、あっちゃんからどいてよ!」
 つかさの体の下敷きになっている女性を、峠は助け出した。
「あっちゃんって…。え、この人もしかして…。」
「妖鳥のあっちゃんよ。」
 この女性が、あの炎の巨鳥?!
 いつも峠の肩にとまっている、インコのようなスズメのような、赤い羽根を持ったその小鳥の正体がこの女性だった。
「あっちゃんの本当の姿は炎の巨鳥の方だけど、あっちゃんは力の強い妖鳥だから人間の姿になることもできるの。」
 あっちゃんと呼ばれた女性が、つかさに向かって頭を下げる。
「峠様にお仕えしております、阿修羅(あしゅら)と申します。お見知りおきを。」
 凛とした姿勢と凛とした声で、阿修羅はもう一度頭を下げた。
「でも、こんな所で何をしてたの?」
 誘拐犯が女の子を連れ去ろうとしている現場にしか見えなかった。
「もう辺りも暗くなってしまわれたので、峠様を引っ張ってでも家へ連れ帰ろうとしていたのですが…。」
「絶対に見つけるまで帰らないからね!」
 キッ、と峠が阿修羅に牙を見せた。
「何か探してるの?」
「あなたには関係ないわ!」
 つかさにも牙を向ける。
「お家に帰りたいなら、あっちゃん一人で帰ればいいじゃない!物差を見つけるまで、アタシは絶対に帰らないんだから!」
「物差?」
 しまった、と峠は口を押さえたが、もうつかさの耳に流れた後だった。
「君が探しているのって、物差なの?」
「何よ!悪い!魔術媒介がない敵が目の前にいてチャンスだって思うんなら、さっさとアタシを始末すればいいじゃない!」
「その物差が、君の魔術媒介なの?」
 言ってしまった後に再び峠は口を押さえたが、これも既に後の祭り。
「峠様…。自ら墓穴を掘られてどうするのですか…。」
 阿修羅が静かにこめかみを押さえた。
「魔術が使えなくとも、我一人で峠様を護ってみせます。」
 手の中に炎を宿らせた阿修羅が、きつい目つきでつかさを睨みつけた。
「いや、僕は別に峠ちゃんをどうこうしようとか思ってないよ!」
 つかさは慌てて両手を振り、峠に対して敵意はないことを一生懸命アピールする。
「それよりも、一人で探すの大変じゃない?僕も手伝うよ。」
「そんなこと言って、アタシよりも先に見つけて媒介を壊しちゃう気でしょ!」
「そんなことしないよ。」
 どうすれば信じてもらえるだろう。
 自分の大切なものを差し出せば信じてもらえるかな?
 つかさはポケットの中を漁ると、お守りを取り出した。
「何よ、これ?安産のお守り?」
「僕の大切なものだよ。これを君に預けるから、もし僕が君の物差を見つけることができたら、それと交換して。」
「何よ、こんなもの!」
 峠が地面へ向けてお守りを投げつけようとした。
「やめてっ!」
 つかさの大きな声に、峠は身をビクリ縮まらせ、投げつける手を止めた。
「それは僕にとって大切なものなんだ。それのおかげで、僕は無事に生まれることができたから。」
 そのお守りは、幼い頃からの大切なもの。
「僕ね、お母さんのお腹の中で成長しきれなくて、未熟児として生まれたんだ。」
 つかさが生まれる前、母親は主治医から忠告を受けていた。
(赤ん坊を取りますか?自分の命を取りますか?)
 母体の中で成長しきれていなかった赤ん坊は、無事に生まれてくる確率が低かった。
 それに加えて、病に侵されていた母親の体は、出産に耐えられるほどの力を残していなかった。
 出産すれば母親の命が危ない。
 生まれてくる赤ん坊は死んで出てくる可能性が高いのだから、危険な賭けをする必要はなかった。
 自分の命を優先させなさい、と主治医はすすめたが、母親は首を縦に振らなかった。
(この子の命は二度と授かることは出来ないんですもの。)
 母親の決意を受けて、父親はお守りを買って母親に渡した。
 朝は仕事に行く前に必ず病院に立ち寄り、入院している母親からお守りを預かって、神社で願掛けをする。
 帰りに再び病院に立ち寄って、母親の手の中にお守りを返した。
(この子が無事に生まれてきますように。)
 両親の願いのこもったお守りは、二人の願いを叶えてくれた。
(神様がね、つかさの誕生をお祝いしてくれたのよ。)
 そう言って幼い手にプレゼントされたものが、このお守りだった。
「馬鹿みたいって思われるかもしれないけど、僕はそのお守りのおかげで生まれてこれたんだって気がするんだ。その中には、お父さんとお母さんの想いが詰まってる。」
 つかさが話終えると、峠は俯いたままお守りを握る手に力を入れた。
「ごめん…なさい…。」
 小さい声で呟いた。
 その声がよく聞き取れなかったので「え?」ともう一度聞き返してみると、今度は大きな声で怒鳴られた。
「このお守りを人質に取ってあげるって言ったのよ!」
 犬が吠えるようにわめくと、峠は物差探しに戻っていった。
 何も言ってこないということは、一緒に探すのを許してもらえたってことかな?
 つかさは峠のあとについていった。
「本当にここで失くしたの?」
「ここに違いないわ。だって、この公園のベンチに忘れて行ったんだもの。」
「だったら、そのベンチにあるんじゃ…。」
「あなた馬鹿?なかったからこうして探し回ってるんじゃない!」
 入り口の花壇の方を探してきて、と命令されたので、つかさは花壇に向かった。
 阿修羅も峠と手分けをして探している。
 街灯から離れたところは仄暗くて辺りがよく見えなかったので、携帯のディスプレイのライトを頼りに探し回った。
 一時間ほど捜索していただろうか。
 公園の中は蟻の巣まで調べ尽くしたと思うが、峠の物差は見つからなかった。
 時計はすでに八時を回っている。
 ベンチに座り、少し休憩を取った。
「峠ちゃん、もうそろそろ帰った方がいいんじゃない?お家の人が心配するよ。」
「誰もアタシの心配なんかしないわよ。」
 つかさと阿修羅の間に座った峠が、ベンチの座席底に踵をぶつける。
「でも、今日はもうおしまいにしよう?こんなに暗くちゃ、見つけにくいし。明日、もう一回探しなおそう?僕も手伝うから。」
「今日じゃなきゃ駄目なの!」
 俯いたまま峠が叫んだ。
「大切なものなの!今すぐにでも見つけなきゃ駄目なの!」
「峠様、もう諦めましょう。これだけ探しても見つからないのです。それに、あの物差は媒介としては力が弱すぎます。新しい媒介と契約を結び直した方が、より峠様の力を引き出せるかと…。」
「あれじゃなきゃ駄目なのっ!」
 声を荒げて、遂に峠が泣き出した。
「アタシが…、アタシが塾をサボってこんな所でお絵描きしてたから、バチが当たったんだわ!だから、香織ちゃんからもらった大切な物差、失くしちゃったんだぁ〜!」
 気丈な女の子の姿は消え失せ、デパートで母親とはぐれてしまった迷子のように、涙を流して峠は叫んだ。
「峠様…。」
「媒介としての力は弱くても、アタシの媒介はあれしかないのっ!他の媒介なんていらないのっ!」
 うぐっ、うぐっ、と言葉を吐き出してしまった後は、喉をつっかえさせることしかできなかった。
「峠ちゃん…。」
「香織ちゃんにもらった物なの。天国に行った香織ちゃんが、アタシにくれた物なの…っ。」
「香織ちゃんって?」
「アタシの…、一番のお友達…。」
 ぽつり、ぽつりと、峠の口から友達との思い出が語られた。



 病院なんて大嫌い。
 注射なんて大嫌い。
 だって、とっても痛いじゃない。
 だから、学校で予防接種があった日に、親に黙って学校をサボったら、担任の先生から「今日、峠ちゃんはお休みでしたけど、どうかされましたか?」と電話がかかってきて、アッサリとバレてしまった。
「峠!あんた、もう七歳でしょうが!お姉ちゃん恥ずかしいわ!」
「嫌なものは嫌なんだもん!」
 必死の抵抗も虚しく、首輪をつけられた犬が引きずられるようにして病院に連れて行かれた。
 が、大人しく注射を受ける峠ではない。
「峠ー!どこ行ったーーーーー!」
 病院の廊下を叫びながら、姉が逃げ出した兎を探す。
 お姉ちゃんの方こそ病院で大きな声なんかだして。
 そっちの方が恥ずかしいじゃない。
 姉の捜査網をかいくぐり、峠は病院の奥へと逃げ込んだ。
 お姉ちゃんが諦めて家に帰るまで、どこかに身を隠そう。
 二階、三階と上の階へと駆け上り、入院患者の住んでいる病室までやってきた。
 どこかの病室にもぐり込んじゃえ。
 偶然開いた病室の扉が、偶然の出会いの始まりだった。
 その病室は個室で、部屋の中では一人の女の子がベッドの上で体を起こしていた。
「あー、えっと、その…。アタシ、怖いお姉ちゃんから逃げてる途中なんだけど、少しの間だけでいいからかくまってもらえない?」
 すると、女の子は「いいよ。」と言いながら、優しい顔でくすくすと笑った。
「あなた、何してるの?」
 女の子のベッドに近づき、峠は彼女の手元を見た。
 彼女の膝の上には画板があり、その上には白い画用紙が何枚も重なっていた。
「絵を描いてるの?」
「うん。」
 女の子が描いていたのは風景画でも人物画でも動物の絵でもなく、建物の絵だった。
 どの線も、物差で精密に引かれており、歪んだ線は一本もなかった。
「うまいのね。」
「ありがとう。」
 女の子は嬉しそうに笑う。
 彼女のベッドの脇には、たくさんの本や雑誌が積み重なっていた。
 どれもこれも建築物ばかりを集めたものである。
「建物が好きなの?」
「うん。将来は建築家になりたいの。」
 夢を語る女の子の瞳は希望に満ちていて、キラキラと輝いていた。
「あなたには夢はないの?」
「アタシの夢?」
 たくさん勉強をして、いい学校に行って、いい仕事に就きなさい。
 そう言われてきたけれど、そんなつまらない人生はまっぴら御免だった。
「アタシはね、画家になりたい。」
 美術の時間が好きだった。
 絵を描くのが好きだった。
 風景を紙に描いていく瞬間が、一番心を弾ませた。
「あなたもお絵描きが好きなのね。わたしたち、お友達になれるかな?」
 これが森本香織との出会いだった。
 その日から、学校が終わると真っ直ぐ家には帰らずに、毎日香織の病室へと顔を出した。
 峠と同じく香織も七歳で、時間の距離なんかすぐに越えて、二人は昔からの友達のようになっていた。
「見て見て、峠ちゃん。新しいお家が完成したの。」
 香織が広げて見せてくれた画用紙の上には、オランダの田園風景に溶け込んだレンガの家が建っていた。
 峠と出会ってから、香織は風景画も描くようになった。
 峠の方も、いつの間にか建物の絵を描く枚数が増えていた。
 将来は画家じゃなくて建築家になるのもいいかもしれない。
 香織と出会って一ヶ月が経とうとした頃、今まで聞きそびれていたことを峠は聞いた。
「香織ちゃんは何で入院してるの?」
 どこか怪我をしているというわけでもないのに、香織は一ヶ月以上も入院している。
「わたしね、生まれた時から心臓の病気を持ってるの。三ヶ月前に急に倒れちゃって、それからずっとこの病室の中。お外に出るのも禁止なんだって。」
 寂しそうに、香織は窓の外を見つめた。
 初夏に差しかかった陽射しは輝いていて、深緑に反射するととても綺麗な色になった。
「こっそり抜け出しちゃおうとか思わないの?」
「うーんとね、前に抜け出したことがあるんだけど、階段にさしかかったところで発作が起こっちゃって。」
 そのまま集中治療室に運ばれ、体調が回復した後は看護婦さんにこってりと絞られた。
「お母さんが、よくお花屋さんで買ってきてくれたお花を花瓶に生けてくれるんだけど、お外に咲いてるお花が見たいな。」
「なんだ、そんなこと。だったら、アタシが明日持って来てあげる。」
「本当?でも、いいの?」
「ここに来るのがちょっと遅くなっちゃうかもしれないけど、それでいいんなら持ってきてあげるわ。」
「わぁ。ありがとうっ!」
 香織の方が花のような顔をして、満面の笑みで笑った。
 次の日、峠は約束通りに公園の野原で摘んだ花をブーケにして、香織へと持って行った。
 ベッドの上でそれを受け取った香織は、もらった花に負けないくらい可愛らしい笑みで笑った。
「峠ちゃん、ありがとう…。」
 香織の瞳に涙が浮かぶ。
「泣くほどのことじゃないじゃない。」
「だって、嬉しくて…。」
 笑いながら、香織は泣いた。
「わたし、こんな体だから幼稚園の時も小学校に上がってからも休みがちで、お友達なんて一人もいなかったの。だから、峠ちゃんがお友達になってくれて、毎日会いに来てくれて、わたし本当に嬉しかった。わたし、こんなに幸せでいいのかな?」
「何言ってるのよ!幸せなんてね、もっとたくさん転がってるんだから!」
「うん…。」
「香織ちゃんが退院したら、アタシが色んなところに連れて行ってあげる。ここからちょっと遠いところだけどね、海がとっても綺麗に見えるところがあるの。夏だって冬だって、年中無休で綺麗なんだから。お弁当と日傘を持って、地平線を見に行くの。」
「うん。」
「夏に退院できたら花火大会に行きましょう。秋に退院できたら、紅葉狩りに行くの。冬だったら、クリスマスのイルミネーション。」
「うん。」
「楽しみだね。」
「うん!」
 笑顔のまま指先で涙を拭って、香織は返事をした。
「峠ちゃん。」
「何?」
「これ、今日のお礼。」
 香織が差し出したのは、彼女が大切に使っている物差だった。
 これでいつも夢のたくさんつまった家を、紙の上に建てているのだ。
「そんな大切なもの、もらえないわよ。」
「いいの。大切なものだから、峠ちゃんにもらってほしいの。」
 ね?と香織に笑顔で言われて、峠は物差を受け取った。
「ありがとう。じゃあ、アタシは明日も香織ちゃんに花束を摘んでくるわ。」
「本当?嬉しいな。楽しみに待ってるからね。」
 今日も時間が許されるギリギリまで一緒にいて、夕日が傾いて来た頃、「また明日ね。」と手を振ってさよならをした。
「また明日。」という約束が当たり前になっていて、その約束が来ない日が来るなんて考えたこともなかった。
「昨日は黄色いお花を持って行ったから、今日はピンク色のお花にしましょ。」
 摘んだ花でブーケを作り、香織の喜ぶ顔を想像しながら病院へ向かった。
 三階にある病室に辿り着くと、彼女の部屋の前でコンコンとノックをした。
 いつも中の返事を待たないで入るから、今日もいつもと同じように勝手に扉を開けた。
「香織ちゃん?」
 ベッドの上に香織の姿はなかった。
 カーテンも閉められていて、棚に置かれてあった香織の私物もなくなっていた。
 病室の外に出てみると、名前を挟んであるネームプレートのところからも、香織の名前が消えていた。
「峠ちゃん。」
 後ろから声をかけられたので振り返ってみると、白いハンカチを握った香織の母親が立っていた。
「おばさま、香織ちゃんはどこに行ったんですか?もしかして、今日退院…。」
 フルフル、と香織の母親は首を横に振った。
 ツツ、と彼女の瞳から涙が流れる。
「今日の朝、容態が急変してね。緊急手術をしたんだけど、間に合わなくて…。」
 それ以上先は、聞かなくても分かってしまった。
 いや…うそ…、そんな…。
 だって、昨日まで元気だったのよ?
 笑いながらたくさんお喋りをして、退院したらあそこに行こうね、それとも先にあそこに行ってみようか?ってたくさんたくさんお話したのよ。
「また明日。」って、手を振って別れたんだから…。
「峠ちゃんがお友達になってくれてから、香織は毎日を本当に楽しそうに生きていたわ。私にする話なんて、いつも峠ちゃんのことばっかり。楽しそうに嬉しそうに、あなたのことばかり話すのよ。「退院したら、峠ちゃんと海を見に行くの。」って、その日が来るのをすごく楽しみにしていたわ。」
 けれど神様はいじわるで、そんな小さな夢までも摘み取ってしまった。
 大きな幸せを望んでいたわけじゃないのに。
 友達と一緒に太陽の下でお弁当を食べたかっただけなのに。
「辛いかもしれないけど、最後にあの子に会ってくれないかしら。」
 香織の母親と一緒に、地下にある霊安室へと降りていく。
 冷たくて暗い部屋の固いベッドの上に、眠ったように安らかな顔をして香織は横たわっていた。
「香織ちゃん……。」
 本当は、ただ眠っているだけなんじゃないの?
 目覚まし時計がジリリとなったら「おはよう。」って言って起きてくれるんじゃないの?
 昨日みたいに「いらっしゃい、峠ちゃん。」って、笑いながら出迎えてくれるんじゃないの?
 香織の頬にそっと手を伸ばす。
 昨日まで温かかったそこに、今はもう体温は宿っていなかった。
 トクトクと音を立てていた心臓も、シンと静まり返っていた。
「香織ちゃん…なんで…、なんで…っ!なんで香織ちゃんなのよ!」
 世の中には自分から命を絶つ人もいるのに、そんな人の命を、どうして生きたいと願う人にあげることができないの?
 どうして神様は、本当に生きたいと願う人に時間を分けてくれないの?
 脈も体温も心臓の音もなくなった香織の前で、一時間以上泣いた。
 目が真っ赤に腫れ上がるほど泣いて、香織の母親に霊安室の外に連れ出されるまで香織の傍から離れなかった。
「峠ちゃん、香織の友達になってくれて、本当にありがとう…!」
 搾り出すように声を出す香織の母親と一緒に、霊安室の外でも長い間涙を流した。
 香織と別れを告げたのは、その日の霊安室が最後だった。
 彼女は他の県からこの病院に入院してきた患者だったので、体は実家へと送られて、そこで葬儀をあげた。
「香織ちゃん…。」
 香織との思い出は胸の中に残り、形として残ったのは、この物差だけになってしまった。
(将来は建築家になりたいの。)
 あの時の瞳が忘れられない。
 きっと、病気なんか克服して、夢を叶えるつもりだったのだろう。
 その瞳に迷いなんてなかった。
 それなのに、死んでしまった。
(あなたには夢はないの?)
 絵を描くのが好きだったから、将来は画家になりたかった。
 けれど香織と出会ってからは、建物の絵を描くのも好きになった。
 好きなことは、白い画用紙の上で伸び伸びと線を引くこと。
 だったら、画家じゃなくてもいいじゃない。
「アタシ、将来は建築家になるわ。」
 この物差と一緒に、香織ちゃんと夢を叶えるの。
 これは、天国へと行ってしまった親友との、友情の証なの。



「……だから、だから絶対に見つけなきゃ駄目なの!とっても大切なものなの!」
 つかさの胸を拳で叩いて、峠は泣き叫んだ。
 峠にとっては魔術の媒介以前に、とても大切なものなのだ。
 宝物とかそういったものとは少し次元が違う、手放してはいけない大切なものなのだ。
「うん、分かったよ。峠ちゃん、もう一回探そうか?」
「……?」
「一回とは言わずに、見つかるまで探そう。僕もそれまで付き合うよ。」
「でも、あなた。あんまり遅くなるとお家の人に怒られるんじゃ…。」
「う〜ん、その時はその時かな。」
 怒られるくらい、どうってことない。
 峠の大切なものが見つかるのならば、何回怒られたって痛くない。
「だからもう泣かないで。」
 つかさがハンカチを差し出すと、峠はそれを素直に受け取った。
「僕はもう一度公園の周りを一周してみるよ。峠ちゃんは阿修羅さんと一緒に遊具付近を探してみて。」
 猫の目になったつもりで目を凝らして、見落としがないように念入りに探す。
 二週ほど公園の周りを回ってみたが、それらしきものは見つからなかった。
「…見つからない。やっぱり、もう見つけられないのかな…。」
 地面に膝をついて座り込み、峠は再び瞳の中を涙で濡らした。
「大丈夫だよ!きっと見つかるって!」
 その時、樹の上からカサカサと葉の擦れ合う音が聞こえた。
「ビービーッ!」
 野生の鳥が、木の葉の間から飛び出してきた。
「きゃあああっ!」
 その音に驚いて、峠がつかさの胸に抱きつく。
「あ…。」
 鳥が木の葉から飛び出してきた衝撃で、何かが地面に落ちてきた。
 ボタリ、と音のした方に目をやると、血眼になって探していた細長い定規が地面に着地していた。
「アタシの、物差…。」
 つかさを突き飛ばして、峠は地面に落ちた物差を拾い上げた。
「あった。…あった、あった。見つかったよぉ〜!」
 物差を大切そうに胸に抱きしめ、峠は地面に腰をついた。
「良かったですね、峠様。」
 阿修羅も安心したように胸を撫で下ろす。
「大切なもの、見つかって良かったね。」
「うん…。」
 峠は素直に頷いた。
 しかし、それが敵から投げかけられた言葉だと気づくと、すぐさま言葉を訂正した。
「あなたに「良かったね。」なんて言われる筋合いはないわ!」
 いつもの強気な彼女に戻る。
 もう涙が流れることはなさそうだ。
 敵意を剥き出しにして睨みつけられても、彼女が元気になったのならそれで良かった。
「あ、お守り返してもらえ…ないよね。物差、僕が見つけたわけじゃないし。」
 夜の闇に紛れた鳥が、樹の上から勝手に落っことしてきたのだ。
 つかさが物差を見つけたら、それとお守りを交換する。
 それが約束だったから、お守りを返してもらえなくても文句は言えない。
「こんなお守り持ってても邪魔なだけだから、あなたにあげるわ!」
 ずい、と峠がお守りをつかさの手の中に押し付けた。
「アタシにとってはただの袋だけど、あなたにとっては大切なものなんでしょ?」
 街灯しか明かりのない夜の中では分かりづらいが、つかさから顔を逸らす峠の頬はほんのりと赤く染まっていた。
「うわっ、もうこんな時間?!探し物も見つかったことだし、そろそろ帰ろうか?峠ちゃん、一人で大丈夫?」
「一人ではない。峠様には我がついている。」
「そうですね。」
 阿修羅がついていれば、何も心配はない。
 バイバイ、と手を振ってつかさが踵を返したその時、「待って!」と峠に呼び止められた。
「その…今日は…、あ、ありがとう…。けど、あなたに借りを作ったままじゃ嫌だから、この借りは絶対に返してやるんだから!」
「いや、そんなことしなくてもいいよ。貸しとか借りとか、そんなこと思ってないから。」
「アタシが嫌なの!いい?この借りは絶対に返してやるんだから!覚えてなさい!」
 つかさの横を疾風の速さで通り過ぎて、峠は公園から出て行った。
「今日は峠様のためにありがとうございました。しかし、あなたは我らの敵であることには変わりありませんので、あしからず。」
 軽く頭を下げると、走り去った峠を追いかけて、阿修羅も公園から姿を消した。



 何よ!何なのよ、あいつは!
 仙道家の人間は悪者じゃなかったの?!
 蒼瞳者は人間の敵じゃなかったの?!
 それなのに、どうしてあいつは優しいのよ。
 アタシを助けたところで何の利益にもならないのに、どうして手を差し伸べるのよ。
「峠様、どうなされました。お怒りになられたような、嬉しいような、複雑なお顔をなされていますが?」
「何でもない!それより、あっちゃん。明日はお出かけするんだから、今日はもう早く寝ましょう!」
 ばふん、と峠は布団を頭まで被った。
 分からない、分からない。
 仙道家の人間は悪い人。
 蒼瞳者は人間の敵。
 けれど、あいつは悪い人でも敵でもなかった。



 天気予報は見事に当たり、清清しい晴れ間が空には広がっていた。
「おい、駿!こんなの聞いちょらんっちゃ!特別な仕事っち、コレ?!」
「お前にしか出来ない仕事だ。」
「オレ以外でも出来るやろ!むしろ虎次郎とかの方が適役やね?」
「何を言う。忍としてのお前の身体能力を持ってしてこそなせる技だ。」
「お前、本当はそんなこと思っちょらんやろうが…。面倒な役をオレに回しただけやろ。」
 凛蔵に任された大役は、子供向けのヒーローショーに出てくる敵のザコキャラの役だった。
 黒い全身スーツを着て、顔にはヘルメットのようなものを被っている。
「似合ってるぞ。」
「うるせぇっ!」
「凛ちゃん、カッコイイ!」
「そう?」
 駿の声には噛み付いたくせに、彦芽の声には顔を緩ませて答えた。
 ヘルメットを被っているので顔は見えないが、声の調子からして、きっと顔を緩ませている。
「ほら皆さん、そろそろ自分のお仕事について下さいな。」
 凛蔵で遊んでいた駿たちに声をかけて、紅葉が仕事を思い出させてくれた。
 皆それぞれの持ち場に散っていって、つかさも持ち場へと急いだ。
「君が手伝ってくれる学生さんだね。今日と明日はよろしく。」
 つかさに任された手伝い先のシルバーアクセサリーショップは、若くて元気の良いお兄さんがオーナーだった。
 厚手の布の上にシルバーでできたアクセサリーを並べている。
 街中でよく見かける露店と同じ売り方だった。
「ここともう一つ向こうにも店を出してんの。俺はそっちの方で売るから、君にここを任せてもいいかな?一人だけど、大丈夫?」
「た、多分大丈夫だと思います…。」
 自信はなかったが、人から頼まれると「出来ません。」と断れない性格が災いして、言葉を濁しながらも頷いてしまった。
 だ、大丈夫だよね?一人でもできるよね?
 だって、レジ係なだけなんだし…。
「昼になったらウチの店の子が来るから、それまでよろしく頼むよ。」
 つかさがこの店を手伝う時間は、今日も明日も午前中だけだった。
 本当はフルタイムで手伝う予定だったのだが、当日は出られないと言っていた店の人が二日とも昼からなら出られるようになったので、つかさの仕事時間が減ったのだ。
 その代わり、空いた時間を駿たちと一緒の万引き犯パトロールに回された。
 そっちの方が自信がない。
 バザー広場は午前中から多くの人で賑わっていた。
「このシルバーアクセ可愛い〜。いくらなの?」
「八百円になります。」
「これ手作りなんでしょ?」
「はい。」
「それなのに八百円って、安くない?よーし、これ買った!」
 金髪のお姉さんが豪快に財布の紐を開けてくれる。
 お姉さんの声につられて、客がどんどんと集まってきた。
「へぇ〜、すっごく綺麗なピアス。これ頂くわ。」
「兄ちゃん、このブレスレットいくら?」
「こっちのイヤリングと、その指輪ちょうだい。」
 ひっきりなしに注文の声が殺到する。
 とても一人じゃ追いつかない。
「大変そうね。手伝ってあげるわ。」
 つかさの隣に、小鳥を肩にとまらせた少女が座った。
「峠ちゃん。」
「忙しそうなあなたの姿が見えたから、借りを返すちょうどいい機会だと思ったの!」
 つかさとは目を合わせずに、ギッと布の上に広がるシルバーアクセサリーを睨みつけて、峠は言った。
「会計はアタシがしてあげるから、あなたはお客さんの相手をしなさい!」
 峠が手伝ってくれたおかげで、目が回りそうなほど忙しかった仕事も無事に乗り切ることができた。
 昼を回ったところで、交替の人が現れた。
 大学生くらいのお兄さんで「お疲れ様。これ、バイト代。」と言ってジュース代を渡してくれた。
「峠ちゃん、今日はありがとう。とっても助かったよ。」
「別に、借りを返しただけだから、お礼を言われる義理なんてないわ。」
「そう言わないで。手伝ってくれたお礼に、お昼ご飯くらいご馳走させてよ。」
「そんなことされる筋合いもないわ!」
「駄目?」
「……まぁ、どうしてもって言うんなら、奢らせてあげないこともないけど。」
 峠に食べたいものを聞くと「たこ焼き」と答えたので、たこ焼きをご馳走してあげた。
「あなた、それくらいの量で足りるの?小学生のアタシと同じ量じゃない。」
「どっちかっていうと食が細いから、一度に多くの量を食べきれないんだ。」
「貧弱ね。だから男のくせにそんなに細いし小さいのよ。」
「うう…。今度からもっとたくさん食べれるように頑張ります。」
 小学生の女の子に説教されてしまった。
「ねぇ、あなた。」
「何?」
「昨日、あのお守りがあなたにとって大切なものって言ったわよね。」
「うん。」
「それ以外には、何か大切なものはあったりするの?」
 つかさが答える前に、峠が語った。
「アタシにとっては、あっちゃんが大切。」
「阿修羅さん?」
 峠の肩に乗っている阿修羅は、太陽の光で補給を取っているのか、うつらうつらと眠っていた。
「家の中でね、あっちゃんだけなの。アタシのことを認めてくれたのは。」
 肩で眠る阿修羅を、峠はそっと見下ろした。
「大切なものがお守りだけってことはないでしょ?だから、あなたが大切だと思うものは何なのかなぁって…。」
 僕にとって大切なもの?
 ステージの方で子供たちの声が聞こえる。
 白熱したヒーローショーに興奮しているようだ。
 悪役に身を徹した凛蔵が、大げさな素振りを見せてヒーローのパンチに倒れている。
 ブランコの近くでは、万引きを働いた少年に、彦地と彦芽と虎次郎が取り囲んで説教をしていた。
 洋服屋では着こなしのうまい猫里が、猫亜と一緒に客に似合う組み合わせを見立てている。
 ケーキ屋にも長い行列ができていた。
 売り子をしている紅葉と繭梨が目当てなのだろう。
「主!」
 腕に「防犯委員会」と書かれたタスキを巻いた駿が、つかさを見つけて駆け寄ってきた。
「って、隣にいるのは岬家のガキじゃねぇか。」
「ガキじゃないわよ!峠っていう立派な名前があるんだから!」
 駿に向かって峠が吠える。
「蒼瞳を奪いに来たのか?」
「違うわよ!今日はこいつに借りを返しに来ただけ!」
「あっそ。まぁ、お前一人が来たところで、痛くもかゆくもねぇけど。」
「なんですってぇ〜!」
 体から炎を燃やして峠が怒る。
「それはそうと、主。これ渡すの忘れてたから。」
 差し出されたものは、駿が腕に巻いているものと同じタスキだった。
「これ付けて回れってさ。あと、仕事は二時まででいいって。仕事終わったら、一緒にバザー見て回ろうぜ。」
 ニッ、と駿が歯を見せて笑う。
「うん、いいよ。あ、そうだ。岬ちゃんも一緒に回らない?」
「何でアタシが?!」
「はぁ?!こいつと?!」
 二人が二人ともお互いの顔を指さす。
「こいつとは何よ!こいつとは!」
「何で敵と一緒に回らなきゃならねぇんだよ!」
「駄目、かな…?」
 岬家は敵だけれども、峠は敵という感じはしなかった。
 今日だって、律儀に昨日の借りを返して店の手伝いをしてくれたし。
「アタシにだって都合ってものが…!」
「そうだよね、ごめん…。」
 岬にだって、予定がある。
 これから友達と一緒に回るのかもしれない。
「あ、いや…えと…。まぁ、あなたがどうしてもって言うんなら、付き合ってあげてもいいけど…。」
「強制はしないよ?岬ちゃんにも予定はあるんだし…。」
「うるさいわね!付き合ってあげるって言ってんのよ!」
 一緒に回ってくれることを了承してくれたようだが、どうして怒られるのだろう…。
「こいつが一緒かよ。」
 駿が舌を出して明らかに嫌そうな顔をした。
「主はロリコンなのか?」
「え、何で?」
「ロリコンってどういうこと!子供扱いしないでよ!」
「ピーピーうるせぇんだよ!テメェなんかガキで十分だ!」
 バシリ、とつかさの頭を駿が叩いた。
「痛ったぁ…。どうして僕が叩かれるの…?」
「主がロリコンだったなんて知らなかったぜ。」
「僕、別にロリコンじゃ…。」
 小さい子にイタズラしようなんて思ったことないし。
「まぁいいや。時間になったら迎えに来るから、公園の東門の所に集合な!仕事、サボるなよ!」
 踵を返すと、駿は人で賑わうバザー広場の中へと戻っていった。
「何なの、あいつ!失礼しちゃう!」
 プリプリと頬を膨らませながら、峠が眉を吊り上げた。
「あなた、何とも思わないの?!」
「何が?」
「あの男の態度よ!あいつ、五大守護一族で、いわばあなたの家来でしょ?それなのに、あなたに馴れ馴れしい口を聞くわ、頭を叩くわ…!」
 信じられないっ!と峠は唇を尖らせた。
「僕は別に何とも思わないよ。むしろ、嬉しいくらい。」
「どうして?」
「ほら、僕の右目って日本人のくせに蒼いでしょ?気持ち悪がって、誰も僕には近づいてこなかったから。」
 理由はそれだけではなくて、自分の性格に起因するものもあったけど、蒼い瞳も人から疎まれる原因の一つだった。
「でもね、風紀委員会の皆は、僕のことを認めてくれたんだ。」
 はじめて目と目を合わせて話すことのできた友達。
 はじめて前を向き合って語ることができた友達。
「峠ちゃん、さっき僕に聞いたよね?大切なものは何って。」
「ええ。」
「僕の大切なものはね…。」
 今もこの近くにある。
「友達だよ。」
 舞米高校風紀委員会は、今日も平和です。



【余談】
「ねぇ、あなた。明日もバザーのお手伝いなんか、しちゃったりするの?」
「うん。午前中は今日と同じシルバーアクセサリーのお店のお手伝いで、午後からは駿くんたちと一緒に万引きする人がいないかパトロールをするんだ。」
「あ、明日は塾もないし、友達と遊ぶ予定もないし、どうしてもって言うなら手伝いに来てあげてもいいわよ。」
「それは悪いよ。せっかくの休日なんだから、峠ちゃんは自分の時間は好きなように使って。」
「アタシが手伝ってあげるって言ってんのよ!人の厚意くらい黙って受け取りなさい!」
「は、はい…。」
 どうして僕、こんなに怒られてるのかな…?
 この後、仕事を終えた駿と合流し、峠と駿の更なるバトルが繰り広げられた。
 峠の肩から観戦していた阿修羅曰く、
「どちらが蒼瞳者の隣を歩くかで、十分以上も揉めてました…。」
 明日も平和な一日になりそうです。
2009/05/29(Fri)23:38:11 公開 / 水城時計
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■作者からのメッセージ
一応、話にひと段落はつけましたが、まだ続きは頭の中に出来上がっています。
書こうか、書かまいか、迷い中です。
出しきれていないキャラクターもいますし、つかさの正体も、全て書ききったわけでもないですし・・・。
迷い中です。
読んで下さる方がいましたら、続きも書こうと思います!
そして、読んで下さった方、ありがとうございました!
この作品に対する感想 - 昇順
 はじめまして、水城時計様。上野文と申します。
 御作を読みました。
 ……せっかくご主人さまという、人目を引きそうな設定なのに、あと一歩踏み込めていない印象を受けました。主人公の自覚のなさと、ラブコメの割にはっちゃけてないのがインパクトを薄めたのかもしれません。
 世界観設定についてですが、最初は馴染みづらかったのですが、後半になるにつれて、少しずつ巧く書かれてると思いました。
 次回作を楽しみにしています。
2009/05/31(Sun)20:08:070点上野文
>>上野文様
ご感想、ご批評、ありがとうございます!
こうズバズバッと言っていただけると、こちらも「よし、次はこうするように、もっと努力しよう!」と励みになり、嬉しいです^^
また続きを書こうと思いますので、読んでいただけると嬉しいです。
2009/06/05(Fri)01:14:210点水城時計
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