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『蒼い髪8』 作者:土塔 美和 / ファンタジー 未分類
全角41808.5文字
容量83617 bytes
原稿用紙約131枚
「着いたぜ」と、カロルはルカを揺すり起こした。
 ルカは眠い目をこすりこすり起き出したが、暫し状況判断ができない。
「早く、降りろ」
 ニルス夫妻は既に降りていた。車のドアのところで、ルカが転ばないように手を差し延べる。
 ルカはその手につかまり車から降りた。
 見渡せば、景色が違う。
「ここは?」
「俺の館だ。お前が二度と来ないと言った」
 ルカは周囲を見回す。三人の兄弟も寝起きでルカと同じようにきょろきょろしている。さすがに一番上のダニエルは状況を把握したようだ。
 ルカはどうして。とカロルに眠そうな顔で訴えた。
「お前があまり気持ちよさそうに寝ていたから、拉致した」
「そんな、僕は君を信用して」
「俺に寄りかかって寝ていたのか」
 えっ。そんな、記憶にない。
「あんまり人を信用するのも善し悪しだぜ。さあ、誘拐されたんだからおとなしくついて来い」
 ルカは車の中に笛を取りに戻ると、仕方なくカロルの後に従った。母へのプレゼントはすっかり車の中に忘れている。
 ホテルのロビーを思わせるようなエントランスホール。カロルはルカの手を引きながら先に立って歩く。幾つかの広間を抜け階段を上がり回廊を曲がる。途中使用人に会うたびに、お帰りなさい。と言う声が掛けられる。カロルはそれに軽く返事をするだけで奥へとどんどん進む。
「着いたぜ、ここが俺の部屋だ」
 重々しい扉を開けると広々としたリビングがあり、その奥にも幾つもの部屋があった。その部屋自体がバス、トイレ付きの一軒家ぐらいの広さがある。
「僕の部屋より広いですね」
「当然だ。お前の館が狭すぎるんだよ。もっと建て増ししたらどうだ」
「どうしてですか、あれでも広すぎるのに」
「あのな」と言いかけて、カロルは止めた。
 どうせ言ったところで、こいつには理解できない。他の館は皇帝から頂いた段階で建て増ししたり新築したりしているのに、ルカの館は貰った時のまま、ほとんど手が加えられていない。
 三人の子供たちは、部屋一杯に飾られている宇宙戦艦のレプリカや装甲車のレプリカに目が釘付けだ。眠い頭がいっきに冴え渡る。
「遠慮せずに、適当なところに座ってくれ」
 執事と侍女がやって来た。
「お帰りなさいませ、お客様ですか」
「風呂と着替え。俺の服で間に合うと思う、適当なものを用意してくれ」
「畏まりました」
 侍女が退出しようとした時、
「それと飲み物。夕飯は済ませてきたから軽いものでいいよ」
 彼女たちが去ったら、兄弟たちはソファに腰掛けていられずにうずうずし始める。
「いいかな、見せてもらって」
 ダニエルが訊く。
「ああ、どうぞ」
 三人は飛び上がるようにソファから立ち出すと、レプリカの方へ駆け寄る。
「すっ、すげぇーな、第七艦隊の旗艦があるぜ」
「第十艦隊のも」
「こっちにはこの間スクリーンで見た最新の装甲車だぜ」
 兄弟たちはレプリカの前で興奮が止まらない。
「いいな、俺、こういうリアクションを期待してたんだよな」と、カロルは両手を頭の後ろに組むとソファに踏ん反り返る。
 遊園地の時とは違う歓声。
 ニルス夫妻は恥ずかしそうに下を向いた。
「気にするなよ」と、カロルは夫妻に言う。
「子供はああじゃなくちゃ。なのに、こいつときたら」と、カロルはわざとらしくルカを指差す。
 ルカはカロルの前に座っている。やはりレプリカには興味がなさそうだ。
「こいつは、俺の宝をガラクタだと言いやがった」と、カロルは夫妻に愚痴る。
「最初に僕の宝をけなしたのはあなたです」
「何が宝だ、あんな本。本屋に行けばいくらでもある」
「ならこのレプリカだって同じではありませんか。玩具屋に行けば」
 ルカも負けてはいない。
 二人の間が険悪になりつつあるのに気づき、ニルスは割って入った。
 そこへいいタイミングで風呂が出来たという合図と、果物や菓子が運ばれて来た。
 ほっとニルスは胸を撫で下ろす。
 仲がよいのだが喧嘩も絶えない。
「どういう順番で入る?」
「私たちは後でいいですよ」と、夫妻は遠慮して。
「俺たちも、もう少しこれを見てから」
「じゃ、俺とルカで先に入るぜ。テーブルの上のもの、適当に摘んでてくれ。それとお前ら、気に入ったのがあれば一つずつやるから」
「えっ! ほんと?」
「ああ、俺が風呂から出て来るまでに選んでおけよ」
 その言葉に兄弟たちの目が輝く。
 ただ眺めるだけではない、貰えるのだ。その目は真剣みをおびだ。
「ほっ、本当にくれるんですよね」
「俺の言葉に二言はない」
 子供たちは飛び上がった。
 カロルはそれを楽しげに見詰めてから、
「ほらルカ、行くぞ」
 仲が良いのか悪いのか。
「まるで兄弟みたいね」

 風呂から上がると二人はれっきとした貴族の服装をしていた。やはりこちらの方が板に付いている。
「お前らも、入って来いよ。幾つか服があるから適当に選べ」

「風呂、広れぇー」と言う声と共に、兄弟たちが戻って来た。
 服がいまいち合わない。
「これ、とろとろしていて」
 綿のシャツに比べシルクのシャツはそんな感じがするようだ。
 ルカとカロルはゆったりとソファに寛いでいた。
 二人のこんな姿を見ると、やはり俺たちとは別世界の人種だと兄弟たちは思った。仕種の全てがこの豪華な雰囲気に溶け込んでいる。
 カロルはテーブルの上の果物を摘みながら、
「決まったか」と訊く。
 上の二人の兄が遠慮してもじもじしているのに対し、ウイリーははっきりしていた。
「俺、これがいい」と、一つのレプリカを指差す。
 こういう時は、やはり小さい子の方が得だ。
 カロルはその指先に視線を移し、
「ああ、いいぜ。持って来いよ」
 背が小さくて届かない弟のために、兄が取ってやる。
「本当に、くれるのか」
「ああ、もってげ。友達になった証だ」
 友達になったといわれても身分が違いすぎる。
「お前らは?」
「じゃ、俺たちも遠慮なく」と、二人も気に入ったのを持って来た。
 それからカロルはルカに視線を移す。
 こいつは欲しがらないだろうと思いながらも、
「お前は、どうする?」
 案の定、いらないと言われた。
「おれはな、こういう反応を期待していたんだぞ」と、カロルは兄弟たちを指し示した。
「普通男なら、こういう反応をするだろう。それなのにお前は」
 カロルは兄弟たちの方に顔を近づけると、
「聞いてくれよ、こいつは俺のこのコレクションを、言うに事欠いてガラクタと言いやがったんだ」
 兄弟たちは驚く。彼らにとってもこれらのコレクションは宝の山だ。
「あなただって、僕の部屋のものをやると言えば、いらないと答えるでしょう」
「あのな、あんな書物、誰が欲しがる」
「でも僕には宝だ」
 殿下は本が好きだということは、親父から聞いて兄弟たちは知っていた。
 話しになんねぇー。とカロルは呆れた顔をする。
 また話がぶり返しているのを感じ、ニルスが二人の間に割って入った。
「まあ、お互い趣味が違うということで」
 こちらもいまいち服が似合わない。だが夫人はそれなりに着こなしていた。胸のペンラントがさり気なく光る。
「あっ、身に着けてくれたのですね」
 ルカは嬉しそう。
「似合うかしら」
「ええ、とっても素敵です。何処から見ても令夫人のようだ」
「まあ、殿下は口がお上手ですこと」
 それでルカは母へのプレゼントを思い出した。慌ててそこら辺を見回すが見当たらない。
「それなら預かっているぜ、帰るとき渡すよ。どうせここで渡してもまた忘れるだろう、笛の方が大事か?」
 別にそういう訳でもないがと、ルカは照れくさそうに笑いながら、
「もうこの笛は条件反射になっているんだ。無いと落ち着かない」
 常日頃ナオミが笛、笛と言うもので、いつも身につけるようになっていた。
 皆が揃ったところで、カロルは切り出す。
「今日はここへ皆で泊まっていけよ。明日、海へ行く。海の近くに別館があるんだ」
「海?」
「ああ、そうだよ。行ったことないだろう」
 確かにとルカは頷いたが、
「僕は行かない」
「どうして?」
「第一は、僕とあまり付き合わないほうがいい。今日は王子の護衛と言うことで親衛隊の統括者であるクリンベルク家が動いてもおかしくありませんが、明日はプライベートなことになります。ましてあなたの別館では」
「俺の出世の妨げになるということか」
「そうです。私的な付き合いをするなら、権門の王子の方がいい」
「あのな」と、カロルは言いかけ、
「第一ということは、第二もあるということか」
「はい。第二は、僕が動くと皆が迷惑するということを悟りました」
「はぁっ?」
 カロルは一瞬何のことかわからず、ほうける。
「僕が館でじっとしていれば、あんな事は起きなかったということです。今回は誰も巻き添えがでなかったからよかったですが」
「あのな、そんなこと言っていたら、何も出来なくなるぞ。命を狙われているのは何もお前だけではない。上流貴族なら誰しもだ。だから見ろ、誰も騒ぎ立てなかったじゃないか」
 あの静けさは異様なほどだった。誰しもが一度や二度、経験があるといいたげな。
「とにかく僕は決めたのです。よほどの用がない限り外出はしないと」
 ルカはこれ以上、このことに関しては話を割かないという感じだ。
「あのな、お前を誘ったのは俺じゃない、姉貴だ。断るなら姉貴に直接断ってくれ。俺は姉貴が苦手なんだ。お前が海に行かないと言い出したのは、俺の言い方が悪かったからだなんて言われたんじゃ、たまったもんじゃないからな」
「シモン嬢様が」
「そうだ。俺も護衛の仲間に入りたいって言ったら、お前をここへ連れてくるなら口添えしてやってもいいって、姉貴に言われて」
 ルカは暫し考え込んでいたが、
「随分と、心配をかけてしまいましたか」
「そうだな、お前が病気で寝込んだと聞いた時は、あの姉貴でも、飯が喉を通らなかったからな」
 病気などでないことは知っていた。だからこそ食事も取れなかったのだ。ただニルスの子供たちの手前、カロルはそう言った。
「そうでしたか」
「とにかく、断るなら姉貴に直接言ってくれ」
「わかりました、僕からきちんと断ります」
 カロルはその言葉を聞いてほっとする。どうやら本当にお姉さんが苦手なようだ。
 ルカは一通りカロルの部屋のレプリカを見ると、おもな戦艦の名前を言い当て、その船の性能まで言い当てた。
「お前な、ガラクタと言うわりには詳しいな」
「自分の星を守る道具の性能ぐらい知らないと、いざという時、困りますからね」
「おいおい、道具かよ」と、カロルは呆れて溜め息をつく。
「その、かっこいいとか感じない?」
「人殺しの道具ですからね」
 どうもいまいち感覚がずれる。
「これ、ジェラルドお兄様の旗艦ですよね」
「へぇー、気になるのか。でもあいつに旗艦はいらないな、どうせ指揮など執れないんだから。それよりお前も軍旗は既に貰っているのだから、十五になれば船も直ぐに貰えるはずだ」
 ネルガルでは、十五が初陣だ。
「なっ、その時は参謀に俺を使わないか。どうせお前ら王子は後ろで待機していればいいんだ。俺がお前に初の勝利をやるよ」
 初陣とは言え、王子や門閥貴族の子は戦闘を代理の総大将にまかせ、自分たちは遥か後方で見物していればいい。勝てば勝利は王子たちのものになり、負ければ代理の責任になる。王子たちの艦隊は危険が迫れば火の粉がかかる前に、その戦場を離脱すればよい。
 ルカはカロルの方へ振り向くと、
「それって、僕の代わりに君が作戦をたて戦うってことだよね」
「そうだ」と、カロルは胸を張って答える。
「じゃ、断る」と、ルカは即答した。
「何で?」
「だって、シュミレーションゲームは僕の方が強いのですよ。君の作戦で命を落としたくない」
 子供たちは一瞬唖然としていたが、次の瞬間、爆笑した。
 カロルは言葉に詰まった。
 夫妻はルカのあまりにも直接的な表現に笑うべきか迷った。
「あのなお前、ゲームと実践は違う」
「そう言うけど、君もまだ実践は経験したことないだろう」
「ない。だが俺とお前は七つ違うんだ。お前が初陣する頃には、俺は立派な艦隊司令官になっている」
「親の七光りでなければよいのですが」
 極め付けだった。
「てってめぇー、殺す」
 ルカは笑いながら逃げる。
 カロルはその後を、これも笑いながら追いかける。
 だが命令だけは忘れていない。
「お前ら、奴を捕まえろ。何のためにレプリカをくれてやったと思っているんだ」
 ルカは振り返ると、
「だから人に弱みを握られるようなことはしない方がいいのです。特に威張り散らすような人には。あなたの父の主は僕なのですよ」
 ルカはその言葉で兄弟たちの動きを封じ込めた。
 だが七つの歳差は大きい。一歩が違う。ましてカロルはここの所、真面目に武術の鍛錬をしている。今までとは動きが違った。
「捕まえたぞ、この野郎」
 二人は笑いながら床の上に倒れた。
 カロルはルカの上に馬乗りになって首を絞める体勢に入る。
 そこへ、
「何をしているの!」と、女性の声。
 カロルが振り返ると、いつの間にかそこに両手を腰にあて姉が仁王立ちしている。
「姉貴!」
 シモンはじっと二人を見詰めていた。
「何で、人の部屋へ勝手に入ってくんだよ」
 カロルはルカにまたがったまま言う。
「あら、何度ノックしても返事がなかったのですもの」
 これだけ騒いでいては聞こえない。
「あの、重いのですけど」
 カロルが退くと、ルカは服の塵をはらいながら立ち上がる。
「何をしているの?」
「こいつが俺を馬鹿にするんだ」とカロルは言いつつも、その顔は笑っている。
「冗談です」
「冗談とは思えなかったな」
「何が?」
 シモンには二人の会話の意味が解らない。ただ、楽しそうだということだけは解る。
「こいつが初陣した時のことを話していたんだ」
「それはまず、あなたが先ではなくて?」
「それはそうだけど、こいつが初陣したら」
「幕僚は、カロルさんに頼みたいなって」
「そんなこと一言もいってないじゃないか」と、カロルは怒鳴る。
「でも、作戦は僕が立てます。例えそれで敗戦が色濃くなっても僕は戦場を離脱するようなことはしない。最後まで責任を取る。だって僕が立てた作戦なのだから」
「そう」と、シモンは一言。
「俺の作戦じゃ、頼りにならないって」
「そうかもね」と、シモンまでがあっさり納得する。
「姉貴!」と、カロルは抗議の声をあげた。
「でも、君を幕僚に出来るかどうかは陛下しだいだよ、僕にその権限はないから」
 それもそうだとカロルは思った。
「そんなこんなで、床の上を転げまわっていたの?」
 シモンは呆れたという顔をする。
 それから改めてシモンはルカを見ると、
「もう、すっかりよろしいのかしら」
「はい、お陰様で。ご心配をおかけしました」と、ルカは丁寧に頭を下げる。
 腰の低い王子だ。
「ホールで兄たちが待ちかねております。行かれませんか」
「将軍もご一緒ですか」
「いいえ、父はいないわ。ここの所、忙しくて」
 それでルカは何となく安心する。
 ネルガルは王子の首や王女が出戻って来て以来、二つの星と戦闘中だった。そのため宇宙艦隊を指揮するクリンベルク将軍はずっと軍部へ詰めていた。
「一番上の兄も、やっと暇がもらえて戻って来たところなのです」
「そうでしたか」
「それで私、皆で海の別邸へ行こうということにしたのですが、殿下もいかがでしょう。とても景色のよいところなのですよ」
 ほら来た。とカロルはルカを見る。
「そのお話でしたら、先程カロルさんから伺いましたが、申し訳ありませんが、明日は母の誕生日でして、身内だけでささやかなパーティーを開くことにしておりましたもので」と、ルカは丁寧に断る。
 カロルの時とはまるで別人のような態度。
 だがカロルはそれが嘘であることは直ぐに見抜いた。確か奥方様の誕生日は。
 王室の妃の経歴。門閥出の妃はきちんと経歴が記載されているのに対し、平民上がりのナオミにはその記載がなかった。記載されているのは皇帝から賜わった爵位と本人の名前だけ。これを利用しない手はない。
「そうですか」と、シモンは残念そう。
 一瞬、気落ちしたような顔をしたシモンだが、
「殿下は、父のこと嫌いですか?」
 いきなりのシモンの質問に、ルカは驚いたように彼女の顔を見上げた。
「先程いないと言ったら、ほっとしたようなお顔をなされたもので」
 ルカは返答に困った。
「嫌いなわけではありません。ただ、怖いのです。何か、こう、見透かされているようで」
「何か、隠し事でも?」
「いいえ、そんなものはありません。でも怖いのです」
 カロルは笑った。
「親父も、お前のことを怖がっていたな」
「僕を?」と、ルカは不思議そうに。
「ああ、お前は貴族と平民の血を引くから」
「それって、ここでは不利なことです」
「そうだな、今は。だが将来はわからない」
「将来?」
「お前のことだから、もう気づいているだろう。ネルガルの、否、ギルバ帝国の土台が腐りかけていることを」
「坊ちゃま」と、ニルスは二人の会話を遮った。
 カロルはそのニルスを制して、
「ニルスは遊園地へ行くのに、スラム街を避けるようにして行った。お前に見せたくなかったからだ。だがお前は知っている。あの診療所は、スラムの人たちのためにお前のお袋さんが建てた物だからな。だがあそこはましな方だ。否、奥方様のお陰でましになったと言うべきかな。他の区画はもっと酷い。彼らは好きであそこにたむろしている訳ではない。皆、戦争孤児さ、戦争で町を焼け出された。王都へ行けばどうにかしてもらえると思い。来たところで同じなのに。でもここの所戦争がまた始まったから、彼らも兵隊に志願し始めた。その方があそこで餓死するよりましだから。兵士になれば死ぬまでは、暖かい寝床と美味い食べ物にはありつけるからな」
 悪循環、愚かだ! ルカは心の中で叫んだ。
 父からそういう話を聞いたカロルは、時々館を抜け出してはそういう所をうろつくようになった。どういう人物が、お前の指揮下に入るのかよく見ておくとよい。と言われ。
 ルカは黙ってカロルの話を聞いていた。ルカにはカロルの話は、まるで誰かからの受け売りのように響いた。おそらくこれは、クリンベルク将軍のお考え。
「戦争に勝っているうちはいい。だが負けたら。いや、負けなくとも、この宇宙を支配つくし敵がいなくなったら、ギルバ帝国も終わりだ。ギルバ帝国は敵がいないと存続できないんだ」
「どうして?」
「ネルガル人は臆病だから、常備戦っていないと安心できないんだよ」
 ルカもそれは感じていた。平穏な生活を願っているのに、平穏だと誰かが攻めてくるような気がして不安に駆られる。それは今まで自分たちがそうして来たから、相手もそうするものだと疑わない。愚かなことだ。
「それと僕をクリンベルク将軍が怖がるのと、どういう関係があるのですか」
「お前は違うからだよ」
「僕が?」
「親父が行っていた。他の王子が皇帝の座に着くには貴族の力が必要だが、お前が皇帝の座を狙うときは、貴族の力を必要としないと」
「僕は、玉座などいりません」
「今はな」
「将来もです」
「言い切れるか」
「言い切れます。母は僕に皇帝の補佐をするようにと。村でもそうだったそうです。僕もそのつもりです」
 カロルは黙ってしまった。もし将来こいつが玉座を狙った時、俺はどっちの味方になるのだろう。
「まあいいさ、将来の事はわからないからな」
「信じてくれないのですか」
「信じる信じないという問題じゃないよ」
 そう、これはお前の意思とは関係ないところで動き出すんだ。お前が望まなくとも担ぐ者がいれば、その力が大きければ、もうそれは自分のことでありながら自分でもどうすることも出来なくなる。それは歴史が物語っている。その気の無い王子たちが側近に担がれ、謀反の元に処罰されている。
「ただ、どんなことがあっても、俺はお前の味方でありたいと思っている」
 例えお前に銃口を向けるようなことになっても。
 お前は頭がよすぎるんだ。既に噂は立ち始めている、王子の中では一番頭がよいのではないかと。だから命を狙われる。
「ホールに行きませんか、兄たちが待ちくたびれております。笛を聞かせてもらえませんか」と、シモンは話の腰を折る。
 これ以上、この話題について話してはいけない。
 ルカは頷く。
「皆さんもご一緒に。ここでの話は聞かなかったことにいたしましょう。将来の事など誰にもわからないのですから」


 ホールからはピアノの音が聞こえてきた。美しい音色。数名の美姫がグラスを片手にピアノの前に集まっている。そこに居たのはカロルの二人の兄だけではなかった。
 どうして彼が? クリンベルク将軍は彼を警戒しているはずなのに。
「紹介するわ」
 二人の兄は前回来た時に紹介済みだった。今回正式に紹介されたのは、
「もうご存知でしょうが、こちらがロンブランド公爵のご子息のアルシオ・ハルメンス様。放蕩息子で有名な方よ」
 さすがに女たらしとは言わなかった。
「失礼な紹介の仕方ですな」と、ハルメンスはむっとした顔を作っては見せたものの、内心は何とも思っていないようだ。
「こちらは彼のご友人のクロード・ローラン男爵」
 男爵、あの時、平民と紹介されたが。
「と、ご友人と紹介すればよろしいのかしら、それとも奥様方と紹介すればよろしいのかしら」
 さすがは噂にたがわず、いつものように数名の美姫を従えて来ていた。
 どの女性もそれなりに魅力的で気品がある。だが貴族ではない。しかし貴族より気高く見える。これが噂の高級娼婦、爵付きの者しか相手にしない。
「失礼な、あなたのお兄様が寂しがっておられるのではないかと思い、せめて地上に足が着いている時だけでもと、私の知人にお越し願ったというのに」
 まあ、呆れた。と言う感じにシモンは肩をすぼめて見せる。
 いつも彼はこういう調子で、こういう女性と一緒なのだ。
 だがルカの館に来たときは違っていた。もっとも見舞いだったから。
「先日はお邪魔いたしました。あれからお体の具合はいかがですか」
「お陰様で」
 ハメルンスはルカのために一曲演奏した。
「お上手ですね」
「貴族の嗜みです。殿下も習われておられるでしょう」
「ええ、ナンシーがせっかく一流の芸術家を講師に招いてくださっているのですが、どうやら僕が不器用なもので」
 現にルカは、頭はよいが手先は器用な方ではなかった。
「ご謙遜を」
「もう一曲、何か弾いてはもらえませんか」
「それでは」と、ハルメンスが弾いた曲は。
 竜の子守唄。それもうまくアレンジされている。
 ルカは驚いた。
「これは私の特技というのでしょうか、一度聞いた曲は覚えてしまうのです。特に旋律の美しい曲は」
「僕はこの曲が吹けるようになるまで随分かかりました。最後は母に溜め息をつかれるほどでした」
 母は僕が不器用なことを知っていた、僕が生まれる前から。おそらくレーゼも不器用だったのだろう。だから母は多くを望まなかった。この曲だけでよいから、吹けるようにしなさいと。
「音楽は苦手ですか」
「そうみたいです。聞くのは好きなのですが」
 ハルメンスは軽く笑うと、本題に入った。
「実は、奴隷を一匹購入しましてね。その奴隷が私のピアノが好きで」
 それだけ言えば、ルカには意味が通じると思った。
 今ネルガルの奴隷市場ではイシュタル人の奴隷がもてはやされている。なにしろ姿形がネルガル人にそっくりだ。他の星人と違い使っていても違和感をかんじない。
 ルカもそのことは知っていて、一人買いたいと思っていた。イシュタル人と話がしてみたい。しかし奴隷市場のことを母に知られるのがいやで我慢していた。
 その奴隷は、おそらくハルメンスのピアノのよりあの曲に興味を示したのだろう。
「どうですか、今度私の館で二重奏を、いや、クロードはバイオリンが得意なのです。三人で」
 ハルメンスはクリンベルク兄弟の前で、堂々とルカを自分の館へ招待した。
 罠だ。これはクリンベルク将軍が僕を餌にあなたを。
 だがハルメンス公爵ほどの人物。これが罠だということは既に承知のはず。罠だと知っていて僕を誘うのか。勝算はあるのか。それともこの罠を逆手に。彼ならやりかねない。
「どうなさいました」
 クロードのその言葉でルカは我に返った。
 クロードはにっこりすると、
「子供は子供らしく、手土産などお考えにならず気楽に遊びに来てください。主は楽しみにしているのですから」
 手土産か。何の心配もいらないと言うところか。やはり彼らは知っていて罠に飛び込んだのだ。
「何がよろしいでしょうか」
 手土産は。ルカも彼らに合わせた。
 クロードはハルメンスを見る。
「それでは矢車草を」
「もう花は終わってしまいましたが」
「それでは種を。庭に撒きたいと思いまして。その奴隷にでも育てさせましょう」
「種でよければ幾らでも」
 これは行くことを承諾したも同じ。
 これで話はついた。
「どうですか、今度はあなたの笛を、彼女たちに聞かせてやってください」
 ルカは暫し躊躇した。
 あの曲は吹けない。なぜならば。
「どうなさいました」
「あまり上手なピアノの後では吹きづらいです」と言いながらも、ルカは笛を袱紗から取り出すと、
「では、お耳汚しになりますが、お言葉に甘えて一曲」
 ハルメンスは当然あの曲だと思っていた。だがルカが吹いた曲は、旋律こそ美しいが平凡なクラシックだった。
 皆がうっとりと聞き惚れる。ハルメンスはゆっくりとピアノで伴奏を入れ始めた。曲が山場にかかった時、ルカは急に笛を吹くのを止めると、いきなり走り出した。
「殿下!」
 慌ててニルスが後を追う。
 後から誰かがついて来るのに気づき、ニルスは振り向くと、
「心配にはおよびません。いつものことなのです」と、後から追ってきた者たちを制する。
「いつものこと?」
「幻覚を見るのです」
「幻覚? まさか薬が」
「いえ、あれとは関係ありません。以前からなのです。一時その幻覚が酷いときがありまして、大佐が笛を取り上げようとしたのですが、奥方様が、神との対話にはどうしてもあの笛が必要なのだと仰せになられまして」
 そう言うとニルスは皆をホールに残して、ルカの後を追った。途中、すれ違った侍従にルカの行き先を訊くと、トイレを尋ねられたとの答え。
 ニルスはトイレに駆け込む。
 トイレの一つにロックが掛けられている。
「殿下」と、ニルスはそのトイレの中に声をかける。
「殿下、開けて下さい」
 ロックがはずれる音がし扉が静かに開く。
 中でルカが立ったまま泣いていた。
 ニルスはナオミがやるように大きく両手を広げた。
 ルカはその腕の中に飛び込むとしゃくるように泣き始めた。
「曲を変えたのに、それなのに」
 ニルスは何も言わずに、ナオミがするように静かに抱きしめた。
 一通り興奮が収まれば、後は元に戻る。
 どのぐらいたったのだろうか、ルカが静かにニルスの腕の中から離れる。
「大丈夫ですか」
 ルカは頷く。
 カロルが心配になって様子を見に来た。
「どうしたんだ」と、ニルスの背後から声をかける。
「白昼夢を見るのです。ずっと以前から、笛を吹くと」
 それはカロルには初耳だった。
「すみません、取り乱して。もう大丈夫ですから」
「殿下」と、ニルスはポケットからハンカチを取り出し、ルカに差し出す。
「顔、洗う」と、ルカは洗面所へ行くと顔を洗い出した。
 カロルの差し出すタオルで顔を拭く。だが、まだ目が赤い。
 ルカはじっとカロルを見ると、
「女の子が現れるのです」
 青い髪というのは故意に避けた。
「その子がとても寂しそうな顔で僕を見るのです。それでつい」
「お前も一緒に泣いてしまうのか」
「おかしいですか」
 カロルは返答に困った。沈黙しているカロルに、
「おかしいですよね。だって、僕が一番おかしいと思うのだから。でも彼女のことを思うと涙が止まらなくなる」
 そう言いながらもルカはまた涙を流し始めた。
 タオルで拭き取る。だが収まらない。
 ルカはタオルを顔に当てたまま、
「おかしいでしょ」と、笑いたいのだが涙は止まらない。
 ニルスはまたそっと抱きしめてやる。
 すると少し落ち着く。
 暫しルカはニルスの腕にしがみ付いていた。
「皆さんには、疲れたから先に休ませてもらいます。と伝えてもらえませんか」
 どの道この顔では人前には出られない。
「わかった」
 カロルは侍女を呼ぶと、ルカを自分の部屋まで案内させた。

 ルカは部屋に着くころには落ち着いた。
「大丈夫ですか」
「ありがとう」
 暫くすると子供たちが戻ってきた。部屋はいっきに賑やかになる。
 ホールではあまり口を利かなかった兄弟たちが、ここぞとばかりに喋りだす。
「お前ら、静かにしろ」と、ルカのことを気遣ってニルスが注意する。
 部屋が静かになると、ニルスは改まって、
「殿下、俺たちは今から帰ろうと思います。先程妻とも話をしたのですが、自分の家のほうがよく休めるということで」
 まだ時間的にはそんなに遅くない。遊園地に最後までいた人たちの帰りの時間は今頃になるだろう。
「殿下はどうします?」
「では、僕も」と、ルカが言い出した所にカロルが戻って来た。
「帰るのか?」
「申し訳ありませんが」と、ニルス。
「お前は泊まっていけよ。明日、送ってやるから」
「でも」と、ルカは言いよどむ。
「もう少しだけ一緒にいたいんだ、いいだろう。お前、遊びに来てくれないし、俺は月に二回しかお前の所へ行けないし。なっ、いいだろう」
 ルカは仕方なしに頷く。
「それでは」と、ニルスたちは自分の服に着替えて立ちだす。
「レプリカ、忘れるなよ」
 兄弟たちの顔がぱっと明るくなる。
 帰り際、ルカはニルスに耳打ちした。
「明日、悪いのですけど迎えに来てください。海へでも連れて行かれたら大変ですから」
「畏まりました」
「何、こそこそ話をしているんだ」
「お土産は、明日僕が持っていくと」
「あっ、そうだったな、土産は俺の車の中にあるんだっけな」

 車が動き出すと直ぐに、子供たちは寝てしまった。だがレプリカはしっかり腕の中。遊園地より館に居た方が疲れたようだ。
「それ、似合うよ」
「そう」と、カリンはペンラントを見詰める。
「ドレスアップしたお前も綺麗だった」
「あなたもよ、見違えた」
 二人は笑う。

 そしてホールでは、
「明日、海へ行かないのでは我々も帰るか」と、ハルメンスは女性たちを連れて引き上げて行った。
 クリンベルク家の兄弟二人が残る。
 二人はグラスを傾けながら椅子に座り、
「親父に言われたとおりに餌はあたえた」
「後は、どう飛びついてくるかだ」
 マーヒルは大きな溜め息をつく。
「出来ることなら、あの子はただ利用されたという形をとりたいものだが、そうもいくまい。せめてカロルの顔を見るのが辛くなる様なことだけはしたくないな」
「兄貴は優しいな。だがそれが命取りになる。そんなことでは宇宙艦隊の総司令官は務まらないよ」
 ギルバ帝国の土台を支える彼らにとって異分子の存在は危険だ。その存在に気づいたら早めに処理するしかない。だがそれには列記とした証拠が必要だ。相手は平民どころか、現皇帝の姉君のご子息。そして父親は現皇帝のいとこにあたる。下手をすればこちらがやられる。


「アルシオ様、聞いて下さいよ」と、泣き付いてきたのはこの館を取り仕切っている侍女頭。
 ここはハルメンス家の別館。王都からかなり離れた山の中腹にある。山を越せばそのまま平民の町へ入ることができる。王都へ行くより平民の町へ行く方が近いという位置関係は、ルカの館と共通するところがある。アルシオン・ハルメンスの両親はいとこ同士。ハルメンス家では皇帝からの縁を遠ざけないために、皇帝の姉妹や娘を妃に迎えることが多い。そのためかなり血が濃くなっているせいか、時折奇形や病弱な子が生まれる。アルシオも七、八歳までは病弱な子だった。それで王都からかなり離れたこの別館で静養していたのだ。今ではすっかりその影はなくなったが、それでも時折季節の変わり目(王都に季節があればの話だが)には、持病の喘息が出ることがある。その静養中に父がアルシオの遊び相手にと下町で買ってきたのがクロード・ローラン。健康で利発なのが父の目に留まったようだ。その時以来クロードは影のようにアルシオに従っている。そしてこの別館はそのまま、今ではアルシオの館になっていた。
「なんだ、そうぞうしい」と、クロード。
 今は初夏。ハルメンスは冷房も入れずに、裏山の湧き水から渡ってくる風で涼を取りながら読書をしていた。
 侍女頭は前かがみになり呼吸を整えると、一気にまくし立てた。
「つまり何だ、例のイシュタル人が昼寝ばかりしていて、一向に仕事をしないと言う事か」
 イシュタル人。彼と出会ったのはつい先日のことだった。時折下町の様子をクロードと見て歩くようになったハルメンスは、そこで鞭打たれている奴隷に出会った。訊けばイシュタル人だと言う。殴られているのは仕事をさぼってばかりいるから。ハルメンスはその奴隷を買うことにした。値段は安かった。だが親爺の言うことには、働かないからと言って、後で金を返せとは言わないでくれとのことだ。
 下僕用の部屋を与え、傷が癒えるまで二、三日静養させてやった。そしていざ使おうと思ったら、午前中は働くのだが午後になると一向に動こうとはしない。
 なるほど、これであの親爺、頭にきて。と使用人たちの大概の行為は許すクロードですら、今回は親爺の行為に納得するようだった。
 いっその事、午前中は働くのだから仕事を午前中に集中させたらどうだ。
 そう提案したのはクロードなのだが、
「それが、こんなに出来るかと言いまして。まずはお前がやってみろ。お前が出来るようなら俺もやる。とこう言う有様なのです」
 呆れてものが言えないと言う感じに侍女頭は憤慨する。
 ハルメンスは書物から視線を侍女頭の方へ向けると、
「それで、どんなことを命令したのだ」
「まずはホールの床磨き、近々お客様がお見えになるとのことでしたから、それが終わったら靴磨き。時々やっておきませんと色が変色してしまいますから。それが終わったら庭石の手入れ」
 お客のために石も拭いておこうということらしい。
「靴磨きだけでも、一人であれだけやるとなると半日はかかるだろう」
「どうせ機械がやるのです。監視していればよいだけです」
 時折機械でできない細かいところを人の手でやるだけ。
「それに終わらなければ、午後もやればよいのです」
「それで、今彼は?」
「私がスケジュールを見直すまで、休憩だそうです」
 クロードは呆れた顔をする。
 だがハルメンスは笑った。
「なるほど、確かにそのスケジュールでは午前中には終わらないな。彼の言い分も正しい」
「しかし、他の者は午後も働いているのですよ」
「イシュタル人は午前中だけ働くそうだな」
 これはルカの母親、ナオミの村と同じ習慣だ。
 ハルメンスは本を閉じると、
「悪いが、その仕事は別の者にやらせてくれ。そして彼をここへ連れて来てくれないか」
 侍女頭は、アルシオ様があの怠け者に忠告してくれることを期待して、その場を去った。
「イシュタル星ですか。一時は青い髪の悪魔の住む星と恐れられていましたが」
 ここ二百年あまりでその評価はがらりと変わった。今では無能な人間の住む星。今までなんでこんな星に怯えていたのか。
 ネルガルがイシュタルを植民化し始めたのは今から二百年前。それまでは悪魔の住む星として誰も近づこうとはしなかった。現にその星へ行こうとする宇宙船はその星系に近づく前に全て宇宙の藻屑となった。ところが今から二百年前に一艘の宇宙船が遭難し、その星へ降り立ったのが侵略の開始だった。恩を仇で返すとはこのことだ。イシュタル人によって助けられた乗組員たちは、その星の美しさに目が眩み、次には艦隊を引き連れてイシュタルに乗り込んだのだ。
 イシュタルはネルガルの過去を思わせるような緑豊かな星だ。そこに住んでいるイシュタル人はのどかで争いごとを知らない。文明同士の衝突というものがなかったのか、古い文明がそのまま残っているような星だ。文明の進歩もあるのだろうが、その進歩はゆっくりしたもので確実なものだった。イシュタルはネルガルが正義の名の下に無くした多種多様な民族文明をそのまま持っていた。それがネルガル人には羨ましかったのだろう。だがネルガル人が入って来てからイシュタルは変わった。

 ドアがノックされ、男が後ろ手に縛られて入ってきた。
「アルシオ様がお呼びだとお聞ききしまして」
 連れてきたのは侍女頭ではなかった。護衛の一人。彼に比べればイシュタル人はかなり小さく見えた。
 相対的にイシュタル人はネルガル人より小柄だとは聞いているが、護衛の体格が良すぎるのか。貧弱な子供のようだ。
「放してやれ」
「しかし」
「何もしないだろう」
 護衛はハルメンスに言われたとおりに男の枷をはずした。
 男は手首をこすりこすり護衛を見上げる。
「また、無駄に育ったな」
「なっ、何!」
 護衛が手を振りかざした時、
「やろめ。ご苦労だった」
 下がってもよいと言う事だ。
「しかし」
 護衛は迷った。このままこの男を主の元へ置いていってよいものか。私が居たほうが。
「心配はいらない、クロードがいるからな」
 護衛はクロードの腕を知っている。彼の方へ一瞬視線を移してから、一礼するとその場を辞した。
 ハルメンスは暫しネルガルの服を着たその男を眺める。
 髪はこげ茶に瞳は黒。身長は一メーター六十五ぐらいの中肉中背。男は平均的なイュタル人の姿をしていた。小柄なせいか年齢は実年齢より若く見える。二十前後、もしかするともう少しいっているのかも知れない。しかしネルガル人にそっくりだ。最も祖先は同じ。遥か数億年前にこの星を発った。それがイシュタル人だと言う者もいる。その名残は言葉にあると。イシュタル語は古代ネルガル語に近い。
「怪我は?」
「お陰でよくなった」
 その口の利き方にクロードがむっときて前に出たが、ハルメンスはそれを制して、まあ、座れ。と自分の前の椅子を勧める。
 ハルメンスは男とテーブルを挟み向かい合うと、
「まだ、名前を聞いていなかったな」
「俺たちイシュタル人に名前はない」
「ではお互いを呼び合う時、どうするのだ」
「力のある者は、用のあるやつにだけ話しかける(テレパシー)。力のない者は、あだ名で呼ぶ」
「ネルガルでは名前で呼ぶ。私がお前の名前を付けてもよいか」
「どうぞ、ご自由に。それが俺のあだ名になるのだから」
 つまりここだけで通用する名前。
「レーゼはどうだ」
 その名前を聞いて男は驚いた顔をする。
「本当にその名前を俺に付けるきか。意味を知っているのか」
「いや。ただ響きがいいと思って」
 男は呆れたという仕種をすると、
「ネルガル的に言えば支配者。イシュタル的に言えば導いてくれるもの。まあ、俺にその名前を付けると俺はお前より上になる」
 レーゼにそんな意味があったとは知らなかった。ルカの前世の名前だと聞いただけだ。このこと、ナオミ夫人はご存知なのだろうか。
「なるほど、私より上になってもらっては困るな」
「そうだろうな、俺はあんたの奴隷なんだから。なんだったら奴隷でもいいぜ」
 ハルメンスは困った顔し、
「あと一人奴隷を買ったらどうする」
「では怠け者でいい。この館で俺はそう呼ばれている」
「午前中しか仕事をしないそうだな」
「当然だろう。午後まで働かなければ食っていけないような社会なら、それは政治が悪い」
 男ははっきりネルガルの政治を批判した。
「なるほど、イシュタルでは午前中だけ働けば、食っていけたのか」
「今までは、だがお前らが来てから変わった。力のある者達は今のイシュタルに嫌気が差して星を離れて行ったよ」
「力のある者達?」
 先程からこの男が何度か口にしている言葉だ。
「そうだ、彼等は次々とイシュタルを離れて行った。もうイシュタルには力のある者はあまりいない。後は俺のような雑魚ばかりさ、ネルガル人にでも簡単に捕らえる事ができる」
 ハルメンスとクロードは顔を見合わせた。
「お前は何故、彼等と一緒に行かなかったのだ」と、今度はクロードが訊いてきた。
「決まっているだろー。力がないからだ。付いていっても足手まといになるだけ。彼等の船は既に数光年先の星系にある。陰影だけをイシュタルの成層圏外に停止させているんだ。そこまでテレポートできない奴は、連れて行ってもらえない。結局、船が移動するたびにそういう奴等がお荷物になるからな」
 イシュタル人の移動手段、テレポート。聞いてはいたが。
「お前は、出来ないのか」
「出来れば彼等と一緒に行った。出来ないからお前らに捕まったんじゃないか」
「そうだな」と、ハルメンスは笑う。
 テレポートが出来れば、縛り上げられる前にその場から消えているか。
「彼等は、何処へ行った? お前たち力の無い者を置いて」
「つまりそれは、強いものが弱いものを置き去りにして逃げたということだろう」と、クロードは軽蔑の眼差しで男を見る。
 イシュタル人とは酷い人種だ。悪魔と呼ばれるのも無理はない。それだけの力を持ちつつ弱者を救おうとせず、保身になるとは。
 クロードは正義感の強い青年だ。特に強いものが弱いものをないがしろにすることを嫌う。
「それは違う。彼等は紫竜様を探しに発たれたのだ。おそらく今のイシュタルでは危険なので、眷族の方が紫竜様の身を案じてイシュタルをお離れになられたのでしょ」
 男の言葉は急に丁寧になった。
「それと白竜様が指揮をとられるための艦隊と基地の設営だ」
 ハルメンスとクロードは唖然とした。戦闘準備ということか。だがそれは心の中に隠して、もう少しイシュタルのことについてこの男から聞きだそうとした。否、イシュタル星とあの村の関係だ。あまりにも風習が似ている。そう感じているのはハルメンスだけではない、ルカ王子も。だから彼はイシュタルの書物を欲しがる。
「紫竜?」
 あの物語だ。
「ネルガルのお前は知らないだろうが、もうじき白竜様が降臨なされる。白竜様とお話するには、どうしても白竜様の欠片である紫竜様が必要。白竜様のお力を借りることが出来ればネルガル人など」と言って、男は言葉を切った。
 目の前に入るのはネルガル人。
「白竜か、青い髪に黒い瞳の少女。そして紫竜は紫の髪に黒い瞳の少女」
「知っているのか?」と、男は怪訝な顔をしてハルメンスを見る。
「紅い髪ということはありえるのか?」
「どちらがだ?」
「どちらでもよい」
「そんなことはあり得ない。今まで聞いたことがない。白竜様なら青。紫竜様なら紫と決まっている。ただ、少女とは限らないが」
「つまり、男の場合もありうるのか」
「それはおふた方が降臨された肉体による」
 なるほど、神には性はないということか。
「紫竜なら紫はわかる。だがどうして青なのに白竜なのだ」と、クロードが訊く。
 髪の色でそう呼んでいるなら、青い髪は青竜にならなければおかしい。
「それは、力のある者が白竜様を見ると、その魂の輝きがまるで真夏の太陽のように白く輝き、まぶしくて見ていられないくらいだそうだ。だから白い、白竜様とお呼びする」
 残念ながら俺にはその力がない。白竜様にお会いしても、ただの髪の青い少女としてしか見て取れないだろう。残念なことだ。せめて向こうから声をかけてくだされば、だがこちらが見えないぐらいだ、白竜様では例え俺が目の前に立ったところで、俺の存在すらお気づきにはなられないだろう。
 なるほど、と二人は納得しながらも、
「そういうことを敵である我々にそうべらべらと喋って、後で支障がないのか」
 男はせせら笑うと、
「お前らは、聞いたところでどうすることも出来ない。彼等の船が何処にあるのか探すことすら出来ない。ただ彼等がお前たちにその姿を見せたいと思った時だけ、お前たちは彼等の船を見ることができる」
 男は暫し黙り込むと、
「一つだけいい事を教えてやろう。彼らが俺たちと接触する時、周辺の温度が一、二度下がる。それは彼らがあの世からこの世に現れる時、エネルギーを凝縮し固体化するのに周辺からエネルギーを奪うからだ。寒くも無いのに急にひんやりした時は気をつけたほうがいい、彼らの船がお前らの横を通過している時かも知れないから、よく見れば薄っすらとその陰影が見えるかも知れない」
 ハルメンスとクロードは顔を見合わせた。そして口を利いたのはハルメンスのほうだった。
「では単刀直入に訊こう。彼等の船は今、何処にあるのだ?」
「この銀河のどこかにはあるだろう、それも数万隻だ。まだまだ増える、建造中だからな」
 それが事実ならハルメンスもクロードも驚くべきことなのだが、このことを誰に話せば。だが誰も本気にはしないだろう、今のイシュタルを見ては。彼らは銃の使い方すら知らないのに、まして宇宙船など建造できるはずがない。それに我々もこの男の話を本気にしているわけではない。妄想家の戯言。ただルカ王子の正体が知りたいだけだ。
「この世で物質化していなければヨウの様に霧散してしまうからな」
 物質はエネルギーの塊だ。どのぐらいの強さで凝縮するかによってその固体度が違ってくる。凝縮が弱ければヨウカのような存在になる。
「だがそのエネルギーのテリトリーは既にこのネルガルをも覆い尽しているのかも知れない。覆い尽くしている範囲なら、こちらの意思で何処にでも現れる。俺はここ。お前はそこ。と思えばどちらにも同時にその姿を現す。しかしその実体は別なところにある。だが力のある者はその船のテリトリーから瞬時にその船の実体があるところへ行ける。これがイシュタルの宇宙船だ。お前らの船のように時間と空間を費やして飛行するのとは訳が違う。同じにしないでくれ」
「どういうことだ」と、クロード。
「まるで、幽霊のようだな」
「ああ、だから以前お前らは、俺たちの船をゴーストシップと言って恐れた」
 過去にネルガルとイシュタルは矛を交えたことがある。圧倒的な強さでイシュタルが勝ったのだが、それは既に数万年も昔、まだイシュタル人がネルガルに居た頃の。そしてその記録は。
 ネルガルでは度重なる民族紛争で古いものは破壊されていった。特に宗教戦争は酷い。相手の文化、その文化が生み出した優れた絵画や彫刻、建造物を破壊尽すまでは終わらないから。気づいたときにはそこは草も生えない状態になっていた。何もかも失くしてしまってから、祖父母たちの記憶をたよりに粘土質の板に刻み込まれたものが、今は遺跡となって残っている。だがそれすら自然の風化はほってはおかなかった。そして、イシュタル人に対する記録も無くなっていった。残ったのは思いだけ。青髪に対する恐怖。
「そんな話は知らないな」
「あまりの敗北に、史実から消したのだろう」
「何!」
 クロードが飛び掛ろうとするのを、ハルメンスは止める。
「それで、また今回も、戦になれば勝つと」
「当然だろう。彼らは俺に言ったんだ。イシュタルで待てと。必ず紫竜様を見つけ出し昔のイシュタルに戻すと。それまで辛いが後のことを頼むと。俺は彼らのいなくなった村をまかされた。だが村はお前らの手によって滅ぼされた」
 男は最後まで村に留まり抗戦した。女子供が逃げ切るまで。
「今生では無理かもしれない。だが次回生まれ変わった時はきっと昔のイシュタルになっている。彼らが約束してくれたのだから」
「生まれ変わった時?」と、クロードは笑った。
 今が幸せでなければ、来世などあるはずがない。これはネルガルの考え方。
 死ねば天国が地獄。だがクロードはそれも信じていなかった。死後のことは考えない。考えたところで知るすべがないから考えるだけ無駄。考えるのは今のこと、今のこのネルガルを。死んでから幸せになったってどうにもならない。
 だが男は真剣だった。
「彼らは嘘はつかない。必ず紫竜様を探して来てくださる」
「戦いに勝つことと紫竜とはどういう関係なのだ?」
「戦うか戦わないかは白竜様しだいだから。戦えば白竜様に敵うものはいない。だがあのお方は気まぐれだから。そのために紫竜様が必要なのだ、白竜様を説得してもらうために」
「白竜が降臨すると言ったな、何時だ?」
「それがわかるようなら、俺もあの船に乗れた」
 ハルメンスとクロードは黙り込む。
 既にその噂は情報部にも入っていた。彼等は手をこまねいてはいなかった。極秘にイシュタルで青髪狩を始めている。
「おそらく、生まれたら直ぐに殺されるだろうな、可哀想だが」
 男は笑う。
「白竜様は殺せない。あの方が死ぬのは自分の意思でのみ。宿ってしまえば、もう誰にもどうすることも出来ない。だから白竜様に護衛は付かない。付けるとすれば紫竜様の方。こちらは我々と同じ肉体を持つから、首をしめれば殺すこともできる。だから白竜様もそれを心配されて、ご自身が降臨なさるまでは紫竜様を眷族に守らせる。ご自身が降臨なされば、以後は白竜様自ら彼の護衛に付く。だからイシュタル人は昔から言う。紫竜様を大事にしろと。さもないと白竜様に酷い目にあわされると。俺のような力の無い者は紫竜様を見分けられませんから、とりあえず紫の髪の人は男女問わず大切にする」
「本当に、紅い髪の紫竜はいないのか?」
「くどいな、いない」
 ハルメンスはゆっくりと立ち上がるとピアノの前に行き、おもむろに腰掛ける。そして例の曲を弾き出した。全容はわからない。だが一部印象に残ったフレーズをアレンジして。
 男は暫しハルメンスのピアノの美しさに聞き惚れていたようだが、不思議な顔をして問う。
「その曲を、どこで」
「竜の子守唄と言うそうだ。ある少年がよく笛で吹いている」
「笛で?」
 思ったとおり、イシュタル人は反応して来た。あの物語でも、紫色の髪をした少女が吹く笛に白竜が導かれて行く。
「して、その少年の髪の色は?」
「紅だ。瞳は翡翠のような緑」
 ネルガル人の高貴な血を引くものに多い容姿。
 男はがっかりしたように首を振ると、
「では、違う。その曲は、イシュタル人なら誰でも知っているからな、おそらくどこかのイシュタル人に教わったのだろう」
 ここのところ奴隷として、かなりの数のイシュタル人が運ばれて来ているはずだから。中にはここの主のような物好きがいて、イシュタル人から音楽を習った者もいるのかも知れない。
 ハルメンスは曲を弾くのをやめると、男の方へ向き直り、
「お前に会わせたい人物がいる」
「その笛を吹く少年か?」
「彼の母はある村の出身で、そこでは竜を神として祀っている。そして彼は竜の生まれ変わりだそうだ。この話、どう思う」
「イシュタルにもそういう話は多々ある。だが実際に、彼らが竜だったことはあまり無い。いや、実際は竜なのかも知れない。だが竜は、その力を必要としない限り目覚めないで一生を終わることもある。普通の人として」
 ナオミ夫人も同じようなことを言っていた。目覚めない方がよいとすら。
「髪の色以外に、見分ける方法があるのか?」
 男は暫し考える。
「力のある者なら、会った瞬間にわかるそうだが、俺は。現に俺は今まで竜と呼ばれる人々にお会いしたこともないし。いや会っていても気づかない、まして伏竜では」
「では、会って見ないか」
 男はまた考える。
「白竜様でしたら。白竜様は紫竜様がおられないと現世を見ることも感じることも出来ないと聞いた事があります。よって我々の目には話しかけても何の反応もなさいませんから白痴のように見えると」
 白痴か。とハルメンスはルカのことを思い出す。どう見てもあれは白痴どころか。
「頭が切れすぎますね」とクロード。
 彼も同じことを思っていたようだ。
「痣はどうだ、胸にこの位の」と、クロードは自分の胸の前に両手の指で丸を作って見せた。
「痣ですか。それなら絶対に違う。竜には髪の毛一本の傷もない。なぜなら、白竜様の地肌に触れることは出来ませから、白竜様に傷を付けることは出来ない。紫竜様は、怪我をすれば直ぐに白竜様が治しておしまいですから、痣になどなり様が無い」
「生まれつきの痣だ」
「生まれつきの?」
「そうだ」
 男はまた暫し考えると、
「それは、前世で酷い殺され方をしたか、そうとう心に残る何かがあったかのどちらかです。人は思いを残して死ぬと、生まれ変わった時、その思いの強かった箇所に異変を来たして生まれて来るといいます。だから死を迎える時は心安らかにと。もしその方に痣があるのでしたら、お可哀想に。でもその痣も幾度かの転生を繰り返しているうちにいつかは癒える。過去の記憶が薄らぐように、時間がゆっくり解決して行く」
 酷い殺され方? あの村でそのようなことがあったのか?
 ハルメンスはナオミの村に行ったことがない。一度行きたいと思い、部下のものに村人の後を付けさせたのだがいつもまかれてしまう。プロの調査員だというのに、何故素人の村人の尾行ができないのか。
「輪廻転生か」
 ハルメンスはまた男の前に座りなおすと、
「お前たちの死の概念を訊きたいな」
「天国とか地獄とか?」と、男はとぼけて見せる。
「それは、我々の概念だ」
 この馬鹿野郎とクロードは付け足したいところをぐっと堪えた。どうもこの男は、アルシオ様と親しく話をするせいか生理的に気に入らない。
 男はハルメンスの質問を素直に受け取り、どう説明すれば彼らに一番よく解ってもらえるのかと暫し黙り込む。それから周りを見回し、
「あの水槽と金魚、お借りしてもいいですか」
 ハルメンスは水槽の方に視線をやると、
「何のために?」
「生と死を、具体的に説明するために」
 ハルメンスは頷くと、
「こっちへ持って来させようか」
「いえ、重たいですからいいです。その代わり我々があっちに。それに、小さな金魚鉢を一つと金魚をすくう網を一つ」
 ハルメンスはクロードの方へ視線を送った。
 クロードは使用人へ連絡を取る。
 暫くすると侍女たちが金魚鉢と網を持って来た。ついでにお茶のセットも。
 侍女はテーブルの上にお茶を用意するとその場を辞した。
 男は侍女の一人から金魚鉢と網を受け取ると水槽の横に立つ。
 金魚鉢で水槽の水を汲み取るとそれを水槽の横に置き、
「今から我々の死の概念を説明します」と、改まって言う。
 ハルメンスとクロードも水槽の傍によって来た。
 水槽の中には数匹の金魚が優雅に泳いでいる。
 男はその中から目立つ赤い金魚と黒い金魚を指差し、
「自分に例えた方が物事は理解しやすい。この赤い方をあなたとしましょう」と、男はハルメンスを指し示した。
「そしてこの黒い方をあなた」と、今度はクロードを指す。
「どちらを殺しますか」と言われた時、とっさにクロードは、
「俺にしてくれ」と言った。
 例え金魚でも、一時でも主に例えられたものを殺すわけにはいかない。
「いや、私の方でやってくれ」と、ハルメンスがゆっくり答える。
「わかりました、では赤い金魚で」
 クロードの舌打ちするような顔が目に入る。しかし男はそれを無視して水槽の中に網を入れて赤い金魚をすくい、先程の金魚鉢へと移す。
「これが我々の、つまりイシュタルの死です」
「何?」
 二人は怪訝な顔をした。意味がわからない。
「黒い金魚からすれば、赤い金魚は永遠に目の前からいなくなったのです」
「それはそうだ、別の水槽に移されたのだからな」
「そうです、死とはそういうことです。黒い金魚たち、つまりこの水槽には他にも金魚は沢山いますから。その金魚たちからすれば、赤い金魚は現世(この水槽)からいなくなったのだから、死んだということになります。しかし」と、男は赤い金魚の入った金魚鉢を持ち上げ、
「赤い金魚からしたらどうでしょう」
 男は金魚鉢の赤い金魚を眺めながら、
「おそらく皆がいなくなったと思っていることでしょう」
 男はそう言うと二人の顔を眺めた。理解したかどうか確認しているようだ。
 男は金魚鉢を水槽の横に戻すと、
「肉体があるからややこしくなるのです。肉体はあくまでも魂を現世(三次元)に留めておくための道具に過ぎません」
 そう言って男は赤い金魚をすくうと水槽に戻してやる。
「これで、生まれ変わったことになります。実際は別の肉体に宿ることになるのですが。お解かりいただけましたか」
「つまり、死ぬと一時、別の水槽の中に入るということか」
「別の水槽というのでしょうかね。実際はこの水槽とこの金魚鉢は同じ大きさで重なっているのです、このように」と、男は金魚鉢を水槽の中に入れた。
「金魚鉢と水槽の間にはガラスがあってお互いの世界を隔離しています」
 男は金魚鉢を水槽から取り出すと、用意されていたタオルで綺麗に水を拭き取り、また水槽の横に置いた。
 ハルメンスたちの方へ向き直ると、
「俺たちの周りにもガラスではないが何か、ここでは膜とでもしましょうか。膜があってあの世とこの世を隔離しています。竜と呼ばれる人たち、もしくは力のある者たちはその膜を自由に出入りできるのです。しかも肉体を持ったまま。それがテレポートです」
 ハルメンスとクロードはわかるようなわからないような顔をしている。
 男はもといた場所に戻ると二人が腰掛けるのを待ち、テーブルの上に左腕を出した。
 右腕で左腕を押しながら、
「ここに俺の腕があるのはわかるでしょう?」
「ああ」と、二人は頷く。
「この腕から生体エネルギーが出ていることも知っていますよね」
 それはネルガルの医学でも実証されている。腕を失くしても暫くの間はそのエネルギーが腕の形を作っていると。
「このエネルギーはあの世とつながっています。この腕を中心にその膜を通り抜けこの部屋を覆い宇宙まで」
 二人はそんな馬鹿な。という顔をした。
「ただ個人差がある。ちょうどお前らが背の高いのと低いのがいるのと同じで、その力の強い者と弱い者がいる。竜は強すぎてそのエネルギーで皮膚の上に新たに膜が出来るぐらいだ。だから竜を直には触れられないというのです。実際腕をにぎっても、その膜の上から握っているだけだ。これは竜にあったことのある人の話だが」
 男はそこでいったん息を切ると、
「お前らも自分の肉体を中心にエネルギーを出している。その先端の方はあの世に入り込み、この部屋を覆い尽している。いや、個人差はあるがこの館をあるいは庭まで。だから例えば自分の身に危険がある場合など、前もって予感として知ることが出来る。それはそのエネルギーの先端が何かに接触して危険を知らせているから」
 ハルメンスとクロードは黙ってしまった。
 男は二人の顔を交互に見ながら、さめたお茶をカップにそそぎ二人の前へ出してやった。
「実際この世は三つの世界からなっている。この世とあの世それに自分の意思の世界だ。この世は誰とでも共有できる。あの世は一部の者と共有できる。そして意思の世界は自分だけのもの、誰とも共有できない。だが竜だけはその世界に他人を入れることができる。それが竜宮だと言われている。そこに招かれるということは名誉なことなのだ」

 ドアがノックされた。
「アルシオ様、昼食のご用意が」と、侍女。
「もう、そんな時間か」
「俺は?」と、男。
「仕事もしないで、飯を食うつもりか」と、護衛。
「食わせてやれ、今日は充分に働いてもらった。それと今日からこの男は、午後は自由にしてやれ」
「アルシオ様!」と侍女と護衛が同時に声を張り上げた。
「それでは、他の者の手前」
「そうです、規律が乱れます」と、侍女は脹れた顔になる。
 てっきりアルシオ様に小言を言われ男が真面目になるかと思えば、逆にアルシオ様が丸め込まれてしまった。
 クロードが一歩前に出ると、
「私も彼らに同意いたします。例外を一人つくると、彼らの上に立つ者は苦労します」
 何故、奴はさぼれるのに俺たちは働かなければならないのかと、苦情が出る。
「そうか、では午後は私の身の回りの世話をさせよう」
「それは危険です」と、真っ先に反対したのは護衛だった。
「心配いらない、こいつはむやみやたらに人に噛み付く犬ではないようだ」
「アルシオ様」と、護衛は心配そうに言う。
 仕方ないという顔をしてクロードが護衛の言葉をさえぎった。
「食事後、またここへ連れてきてくれ」
 護衛は突き飛ばすように男を廊下に出すと、
「貴様、アルシオ様に何を言ったんだ」
 今にも殴りつけてくるような勢い。
 それから男は、午前中は真面目に仕事をし、午後はアルシオのもとで昼寝をするようになった。名前は怠け者。そう呼ぶと平気で返事をする。
「まったくお前にはプライドというものがないのか」
 クロードが呆れたように言う。
「まあ、事実だからな。一日中仕事をしている奴から見れば、俺は怠け者に見える」
「解っているなら、お前も午後何か仕事をしたらどうだ」
「断る。そんなに働く必要はない。これが俺のプライドだ」
 そう言うと男は床の上にごろりと寝そべると、すやすやと寝息を立て始めた。
「きっ貴様」
 いつも穏やかなクロードにしては、どうもこの男には調子を狂わされるらしくイラつく。
 主であるアルシオ様が執務室に詰めて仕事をしているときも、その傍らで居眠りをしている。
「まったく気に障る奴だ。いっそのこと首でも絞めてやろうかと思います」
「クロード、君にしては怖いことを言うな」と、ハルメンスは書類からクロードへ視線を移した。
「何処ででも寝られる奴だと感心しているだけです。どうせならこのまま永久に」
 ハルメンスは笑う。
 だがその笑い声の中に、
「いいですよ、このまま永久に寝かせてくれても」
 クロードはむっとして男を睨んだ。
「何だ、起きていたのか」
「どうせ一度は捨てた命だ、いまさら欲しくはない」
 女子供が逃げ切ったのを知り投降した。投降すれば命だけは助けてくれるだろうと言う男の判断だった。徹底抗戦を貫こうとする村人を説得しての投降だった。俺は指導者、俺の命は助けてはもらえないだろうが他の仲間は。だが彼らの取った行為は。
 女たちが逃げるのに年寄りは足手まといになると言って彼らは村に残った。その老人を彼らは、老人は売り物にならないと言って、男の目の前で撃ち殺していった。こんな事なら。
「俺はテレポートが出来ないんだ。殺してくれれば邪魔な肉体がなくなるから、イシュタルへ戻れる。魂は自分の好きなところへ転生できる。暫くあの世に留まってから転生すれば、その間に白竜様が昔のイシュタルを再現してくださいますから」

 今日も男はハルメンスの執務室で昼寝をしている。ハルメンスは相変わらず机に向かい事務処理をしている。時折、男は起きてハルメンスを見ていることもあるが、ハルメンスの方でも男を空気のような存在として無視していた。
「よく働くな」
 珍しく男の方から声を掛けてきた。午後は一切お互いに干渉しないのに。
「仕事が趣味か?」
 そんなはず、ないだろう。とハルメンスは内心思いながらも男を無視した。今まで男の方も午後になると何を話しかけても一切無視してきたのだから、これでおあいこだ。
「俺の村にも変わった奴がいてよ、一日中動き回っていた。じっとしているより心が休まるって言うんだ。まあ好きでやっているんだからと、俺たちは無視していた」
 ハルメンスは書類から顔を上げると男を見る。
「明日、客人が来る」
「例の王子か」
 ここのところ男に、執事としての作法を仕込んでいた。
 ハルメンスは椅子の背もたれに寄りかかると指を組み合わせ、じっと男を睨める。
 男はその眼差しに居心地を悪くしたのか、
「会っても、俺にはわからない」
 ハルメンスは何も言わずに男をじっと見ている。
 何も言わないということは、かえって相手に白状させるものだ。
「竜のはずないだろー、既に髪の色が違う」
 男は苛立たしげに答える。
 だがルカは本来、紫の髪に黒い瞳で生まれるはずだった。
 これは村人から聞いたこと。ルカの容姿に一番驚いているのは村人の方。あんなお姿の水神様は初めてだと。
「お前が感じたことを教えてくれればいい」
「何も感じなかったら?」
「それはそれでいい」
 男は下を向いて黙り込む。
「どうして、そんなに気にする」
「彼のことをか? どうしてかな、理由はない」
 男はまた黙り込んだ。
 そこへクロードがお茶のセットを持って入って来た。
 最初は男とハルメンスを二人だけにするのは危険だと言っていた彼も、男のぐうたらさに一緒にいると苛立しさがつのるだけなので部屋を空けるようになった。その代わりお茶を用意したり客人を案内したりするようになった。たがこれはあくまで、あの男がさぼっているところを、他の使用人に見せないためだと自分に言い聞かせてやっている。
「まったく、貴様のせいで俺の仕事が増えた」
「よく言うよ、喜んでやっているように見えるが」
「何、こいつ」
 実際クロードはハルメンスの世話をするのは好きだった。彼が小さい頃は体も弱く、大半のことは自分の手を必要としていた。だが大きくなるにつれ、使用人の数も増えるにつれ、クロードの仕事は減っていった。友達として傍にはいても、今では彼の世話をすることはなかった。
 昔は、服だって着せて差し上げたのに。
 痛いところをつかれたような気がして、一瞬むっとしたが平成を装い、
「明日、客人がみえるのだ。粗相の無いように、もう一度練習したらどうだ」
 この男が動くはずが無いと思いつつも、お茶のセットを差し出した。
 すると奇跡は起こった。
 男はすーと立ちだすと、クロードが差し出したお茶盆を受け取り、ハルメンスの前にセットし始めた。
 卒の無い動き、一度教えたことは難なくこなす。頭は悪い方ではないようだ。
 まったくやろうと思えばやれるくせに。
 クロードはこういう怠け者が一番嫌いだった。
 どうぞ。と差し出されたお茶の味は、下手をするとクロードが入れるより美味しい。
「人に仕えたことがあるのか?」
「別に、俺たちイシュタル人にはそういう関係はない」
 仕えるだの仕えさせるだの。
「ただ、尊敬する奴はいた。そういう奴には自ら従う」
 人を喰っているようなこの男にも、尊敬するような人物がいたのか。
 おそらくその者は力のある者。そしてこの男に後を託し、船へ。
 彼こそが後にネルガルを心肝させる人物の一人、アヅマだ。


 ルカの館に見慣れない車が入って来たのは、あの日から数日のことだった。
 降り立ったのは貴公子然とした執事。
「お迎えに参りました」
 車の前でなびいている旗はオジロワシ。ハルメンス公爵の軍旗だ。
「おい、ルカ。これはどう言う事だ」
 朝から騒々しいハルガンの声が響く。
 ルカがそれなりに盛装した姿でエントランスホールに現れると、ハルガンは詰め寄りその胸倉を持ち上げた。
「お前は、俺の言うことが聞けないのか、あいつとは付き合うなと言っただろう」
「でも、お誘いを受けて断るのも」
「あんな奴の誘いなど蹴飛ばせ。いいか、言っても解らないようなら、この細い首、へし折るぞ」
 ハルガンはルカの首にかけた手に、心持力を入れる。
「これは罠だ、クリンベルク将軍がしかけた。閣下も閣下だ。よりによって」
「知っております、公爵もご存知のはず」
「なら、どうして」
 ネギがカモ背負って行くようなものじゃないか、まて、反対か?
「そんなに心配なら、一緒に行きますか」
 ハルガンがハルメンスを苦手としていることを知っての誘いだ。
 うん。とは言うまい。
 案の定、ハルガンは苦虫をつぶしたような顔をして、
「奴の館へ行くぐらいなら、地獄に行って鬼女でも相手にしていた方がよっぽどましだ」と、断ってきた。
 しめたと思ったのも束の間、代わりにクリスを従えるように言ってきた。
 一人で行こうと思っていたのに、予定が狂った。
「お前、一人でこの館を出られると思っていたのか」
「相手はハルメンス公爵です。無事に帰してくださいますよ」
 確かに、利用しようとするカモを粗末には扱うまい。だがカルガモ農法と同じ、草を取らせるだけ取らせた後は鴨鍋だ。

 ハルメンスとの約束は午前中、昼食を一緒にとのこと。
 何でも、午前中でないとイシュタル人は言うことをきかないらしい。
 どうして? と言う疑問を抱きつつも、ハルガンの相手を何時までもしていられないので、クリスを従えてルカは車に乗った。

 ハルメンスの別館は、門閥貴族の館が立ち並ぶ区画の一番奥まった所、山の中腹とも言えるような所にひっそりと立っていた。眼下に門閥貴族の館を眺めることができる。おそらくここもルカの館と同じように、昔は狩猟を楽しむための休息所として建てられたのだろう。今ではペット以外の動物は、動物園でしかお目にかかれなくなってしまったが。だがその広さはルカの館の比ではなかった。
「さすがに、ハルメンス公爵様のお屋敷ですね」と、クリスが感嘆する。
 ハルメンス家と言えば、初代皇帝の弟君が祖。
 執事の案内で通された部屋は、リビングとテラスがワンフロアーになったような感じの部屋だ。今は夏。テラスの近くに植えられた広葉樹が程よい影をおとしている。
 リビングの方にはピアノと書棚、ミニバーのコーナーがあり、テラスの方には藤で編んだような椅子とテーブルが用意されていた。そこにハルメンス公爵とクロード。
 二人はルカの姿を見ると、心からの笑顔を作り歩み寄って来た。
「お待ちしておりました。迎えに伺っても、空で帰されるかと案じておりました」
 ええ、お察しの通り出かけに少しいざこざがありました。と言う感じにルカは笑って見せた。
 ハルメンスもそれを察したのか、背後に従っているクリスを見ると、
「彼は一緒ではないのですか」
 てっきり付いてくるとハルメンスは読んでいたようだ。
「彼は、ここへ来るぐらいなら、地獄で鬼女を相手した方がましだそうです」
 彼らしいと、ハルメンスは笑った。
「まあ、お掛け下さい」と、クリスにも椅子を勧める。
 自分はと、クリスは後ろに立っていることを主張したが、ルカに「あなたが立っていると、僕もゆっくりできませんから」と言われ、隣に座ることにした。
 だが何と言う居心地の悪さ。方や王子、方や公爵。どうして私のような一介の平民が同じテーブルに座れるのだ。
「どうなさいました」
「いえ、できれば、別なテーブルを」
 緊張しまくっているクリス。
 真面目なだけが取り柄だ。と調査票には載っていた。ハルメンスはルカの館の人物を大体調べ上げている。
「そうですね、テーブルを一つ別に用意いたしましょう。ついでに話の上手な女性も」
「いいえ、女性は」と、クリスは顔を赤くして断りながらも、そういえば今日は娼婦の姿が見当たらない。いつも高級娼婦を十人以上は侍らせているという噂だが。
 だがクリスはハルメンスが娼婦を侍らしている姿を見たことが無い。初めてルカの館へきた時も、あの時は確かに貴婦人は沢山いたが、彼女たちは全て奥方様のサロンに見えられた方々でハルメンス公爵の娼婦は一人もいなかった。殿下のお見舞いに見えられた時も、そして今ここでも。もっともクリスがルカを介さないでハルメンスと会うことは無い。クリスとハルメンスでは身分が違いすぎるから。
 クリスはその場へ立つと、敬礼をするような勢いで、
「自分は殿下の護衛で来たまでであって、そのようなふしだらな」
 ハルガンに釘をさされていた。奴の館へ行けば高級娼婦がより取り見取りだ。娼婦に気を取られて肝心な任務を忘れるなよと。
「何を、想像しているのですか」と、ルカは立ち上がったクリスを下から見上げるようにして訊く。
「なっ、何をと申されますと?」
 クリスはまた一段と顔を赤くした。
「じっ、自分は別に」
「クリス、まあ座りなさい。別に一客用意してもらうのではお手数をかけます。ここで我慢してください」
 我慢だなんて、そんな。ただ自分は、このような場所に自分のようなものが肩を並べていてもよいのか? と思っただけなのに。
 クリスが返答に困っているのを見てハルメンスは言う。
「クロードも平民なのだ」
「かれこれ十五年ぐらいになりますか、スラムで大旦那様に拾われたのがアルシオ様との出会いでした」
「スラム。男爵と伺っておりますが」
「それは私が伯父(皇帝)に強引に頼み込んでいただいた爵位です」
「また、どうしてですか」と、訊くルカに、
「公の場に連れて行くのに爵位がないと不自由ですから。その内あなたにも、この気持ちが理解できますよ」
 心休まる友が出来れば。
 ネルガルは、特に貴族社会は足の引っ張り合いだ。だからこそ、気の置ける友が必要となる。
「しかし、ここは涼しいですね」
 ルカの館も王宮がある中心街に比べれば涼しい方だ。最も王宮は敷地全体がドームで覆われ一年中一定の温度に保たれている。もしあの設備がなければ都会の出す熱に覆われ熱帯のような暑さになる。
 それに比べてここは、山を少し登ったせいかとも思ったがそれにしても涼しい。これでは冷房がいらない。
「裏山に清水が湧き出るところがありまして、夏はそこを通った風がこのテラスに吹き付けるのです」
 そよそよと葉を揺らす微風。そう言われれば水の香りがする。
「湧き水があるのですか」
 目の色を変えるルカ。
「殿下」と、クリスは急いでルカを制した。
 殿下に湧き水など見せたら、裸になって飛び込みかねない。
「わかっております」と、ルカは自分の腕を握っているクリスの手を解いた。
 あの事件以来、護衛たちは水に敏感になっている。
 そこへお茶が運ばれて来た。数人の侍女と例の男。男はイシュタルの服を着ている。
 侍女たちはそれぞれに果物や菓子やケーキをテーブルの上に置いて行く。その間男はお茶をセットし人数分のカップに注ぎ始めた。慣れた手つき、ここ二、三日で仕込んだとは思えないほど。
「変わった衣装ですね、どこの国ですか」
 クリスは何も話を聞いていなかった。と言うよりルカは、ハルメンスの館へ何のために行くかは誰にも話していなかった。よってこれがイシュタルの衣装だということをクリスは知らない。
「イシュタル人です」
 クリスはそれを聞いて驚く。
 イシュタルと言えば、青い髪の悪魔の住む星。
 これが未だ一般的なネルガル人のイシュタルに対する知識。
 クリスはいっきに警戒心を高めた。
「殿下」と言って、ルカを男から遠ざけようとする。
「心配いりませんよ、彼は何もしません」
「でも、イシュタル人です。イシュタル人は悪魔だ」
 いつの間にかクリスの心の中では、イシュタル人イコール、悪魔だと言うことになっているらしい。
「殿下」と、ルカの手を引こうとするクリスの手をルカは軽くはらい、
「僕は、彼に会いに来たのです」
 そしてクリスは初めて知った、ルカがこの館へ来たがっていた目的を。
 男はお茶を注ぎ終わり、ルカにカップを差し出そうとして顔を上げる。そこで初めてルカと目が合った。
 始めましてとルカが言おうとする前に、男は震えだしていた。始めは小さく、だが震えは次第に大きくなりついにカップを落としてしまった。タオルで拭こうとするのだが震えは落ち着くどころか酷くなるばかり。男は諦めたように床の上に両膝を付くと、力なく両腕を垂らし、頭も垂らした。
 それが何を意味するのかルカは、いやルカの無意識は知っていた。
 私は罪を犯しました。あなたのお気の済むように。イシュタル人の謝罪の態度。それもかなり罪深いことをしてしまった時の。
「そっ、そんな、僕はただ」
 ルカは慌てて男のところへ駆け寄ると、立ってくれるように頼む。

 だが逆に男は、恐れ入ったように床に両手をつくと額を床に擦り付けるほど深々と頭を下げ、
「お許しください。二度とこのような醜い姿であなた様の御前を汚すようなことはいたしません。お許しください」と、何度も謝ると逃げるようにその場を駆け出す。
 ルカが声を掛けようとしたその瞬間、男は消えた。
 ルカとクリスが不思議な顔をしている。それは近くに居た侍女たちも同様だった。
「テレポートです」
「テレポート、あれが?」
「しかし彼は、テレポートは使えないと言っていたが」と、クロードも不思議そうな顔をしながら答えていた。
「男の居場所をあたってくれ」
 クロードは侍女にテーブルの上をきれいにするように指示してから部屋の片隅に行き、誰かと連絡を取り始めた。
 暫くすると連絡が入る。
「何時もの所にいるそうです」
 それだけで二人の間では会話が成り立つようだ。
「わかった」と、ハルメンスは答える。
「行って見ましょう」と、ルカが言うと、
「いや、皆で押しかけるより、クロードに行ってもらった方がよいでしょう」
 ハルメンスはそう言うと、クロードを目で促す。
「わかりました」
 クロードの姿が見えなくなると、ハルメンスは改まってルカの方へ向き直り、
「失礼いたしました、代わりに私がお立ていたしましょう」と、ハルメンス自らお茶を注いでくれた。
「何か、僕はまずいことでもしたのでしょうか」
「さあ、私にもよくわかりません。何しろイシュタル人は何を考えているのかよく解らない人種ですから」
「彼の名前は?」
「それが、ないのですよ」
「それでは、何と呼ばれているのですか」
「怠け者。本人がそれでいいと言うものですから」
 ルカとクリスはまたまた不思議そうな顔をした。

 クロードは裏庭の大木の下で膝を抱えて座り込んでいる男に歩み寄る。
「どうしたのだ、いったい」
 男はほうけたようにじっと一点を眺めている。
 お茶をこぼしたことがショクだ。などと言うことはこの男に限ってないと思うが、クロードは心配になり男の前にしゃがみ込んだ。
 男は顔を合わせないようにクロードから視線をずらすと、
「ネルガルにも大した人物がおられるのですね。あれだけの魂を見せ付けられては、俺なんか、みすぼらしくて、穴があれば入りたいぐらいだった」
「それで、逃げ出したのか」
「そうだ」
「もう一度、お茶を入れてくれないか」
「断る」
「彼は、お前に会いたがっている」
「無理だ、こんなチンケな魂では御前に出るのすら憚られる」
 クロードはじっと男を見る。どうでもいいような投げやりな態度は今の男にはない。
 何が、この男には見えたのだ?
「もう二度とあの方の前には出ない。俺が自分で自分の魂に納得するまで」

「どういう意味だ?」
「お前たちネルガル人には何ぼ言ったところでわからないことさ。だがあの方が皇帝になれば、きっとネルガルも変わる。今よりよい星になるだろう」
 結局クロードがどんなに説得しても、男は二度とルカに会おうとはしなかった。

「どうしました、彼は」
「それが」
 クロードも答えに窮する。
「あの男にしては珍しいな、そんなに粗相をしたことが」
「それが、違うのです」
 男はそのことで会いたがらないのではない。
 ルカは話を聞かなくとも男の様子を察していたのか、ハルメンスからもらったスカーフを肩からはずすと、
「あなたから頂いたものですが、これを彼に差し上げてもよろしいでしょうか」と、ハルメンスに訊いてきた。
「ええ、かまいませんよ、あなたに差し上げたものですから」
 既にその所有権はあなたにある。
 ルカはクロードにペンを借りると、そのペンでスカーフの上に文字を書いた。その単語は五つ、それも古代ネルガル語、つまりイシュタル語だ。
 書き終わる瞬間、何で切ったのか、ルカの指先から血が一滴、スカーフのそれも文字の上に落ちた。
 その瞬間、文字の上を淡い光が走ったのだが、それを見て取れるだけの力のある者はここには居なかった。
 しまった。とルカは思ったが、文字の上なので血のシミは目立たない。
 ルカはスカーフを丁寧に折りたたむと、
「これを先程の方へ」
「何と、お書きになられたのですか」
「またお会いできることを楽しみにしていますと」

 クロードはそのスカーフを男の所へ届けた。
 男は相変わらず先程の場所でぼーとしている。
「王子様からだ」
 そう言って、そのスカーフを広げて男に差し出す。
 男は暫くそのスカーフをじっと眺めていたが、震えるように両手を差し出しそのスカーフを頂くと、胸に抱え込み大声で泣き出してしまった。今まで我慢していた感情が、堰を切ったように流れ出してくる。まるで泣き止むことを忘れてしまったかのように男はそのスカーフを握り締めたまま地面にくっぷして泣き続けた。男は友人が殺され、縛られたままの体勢で村人が殺されていくのを見ていた時ですら、泣くことはなかった。無論その中には男の年老いた両親も含まれていた。だが今、その思いがいっきに込みあがってきていた。父さん、母さん、男が叫んでいる言葉はクロードにはわからない。

 ルカはカップを取り落としてしまった。
 ルカには男の叫びがはっきり聞こえていた。
 クリスが慌ててこぼしたお茶を拭き取っていたが、ルカはそれを見ている様子ではない。
 視線は遥か彼方。
「何も恥らうことはない、恥ずるべきは僕の方だ。許して欲しい」
 ルカはぽつりと呟く。
 僕がだらしないために皆に迷惑をかける。
「どうなさいました」
 ハルメンスの声に我に返った。
 気づくと頬に一筋の涙。ルカは慌ててハンカチで目元を拭うと、
「何でもありません、目にごみが入ったようなので」
 ルカ自身、何故涙が流れたのかわからない。知っているのはエルシアだけ。

 クロードは男が落ち着くのを待った。
 泣くだけ泣くと男は気が済んだのか体を起こした。顔は涙でぐしゃぐしゃだ。スカーフで拭くわけにもいかない。男は袖口で顔を拭き始めた。
 クロードはハンカチを差し出す。
 男は暫しそのハンカチを眺めていたが受け取ると、それで顔を拭き始めた。
 クロードは男が落ち着くのを待って、訊ねた。
「何て書いてあるのだ」
 たかだか五文字。だがこの男をここまでにさせるとは。
 男はスカーフを両手で広げじっと見詰める。
 また涙が流れ出すのをどうにか堪えながら、男はその文字を直訳した。
  耐えて欲しい
  約束、古きイシュタル
  期待、再会
「どういう意味だ?」
「まるで竜の誓約書のようだ。昔、祖父から聞いたことがある。竜は誓約を自分の血で単語を羅列して描くと。それを受け取るべき者だけが文章にできると」
 受け取るべき者だけがその単語に秘められた竜の本当の思いを知ることが出来る。
「この再会は今生での再会を意味している訳ではない。俺の魂がそれなりのレベルに達するまで、数百年でも数千年でも待っているという意味だ」
「そんな馬鹿な!」
 クロードはあまりの気の長さに驚き呆れ果てる。だが、
「彼はネルガル人だ」
 ネルガル人に輪廻転生の思想はない。
「俺もそう思う」
 だがこの思いは確かにそれを意味している。それても俺の勘違いか?
 男は不意に立ちだすと、
「体を清めてくる」と、山の方へ歩き出した。
「どこへ行く?」

 昼食はハルメンスとルカ、それにクロードとクリスの四人で取ることになった。本当はここにあの男も加わるはずだったのだが。
「もう少し、彼からイュシタルのことを聞きたかったのですが」と、ハルメンスは申し訳なさそうに言う。
 クリスはクリスで給仕されるような食事は生まれて初めて、心が落ち着かず、せっかくの料理も何を食べているのかわからない始末だった。
 しかしどんな時でもハルメンスの会話は流暢だ。イシュタルの話が出来なければ、話題はネルガルの事へとさっさと移した。
 時期早々だと思いながらも、これも丁度よい機会、もう少しお互いの気心が知れてから切り出そうと思っていたことを、切り出してみた。
「いかかですか、午後、町でも散策してみませんか」
 王宮を出るには宮内部の許可が必要。申請してから早くとも二、三日はかかる。
「私が頼めば直ぐに下ります。本当のネルガルをご案内いたしましょう」
 クリスは嫌な予感がしてハルメンスを睨み付けたが、ハルメンスは一向にその視線を気にもせずにルカだけを見ている。
 行ってみたいとルカは思った。しかし、
「案ずることはありません。あなたの身は私の命に代えても」
 そんなことではない。とルカは言いたかったのだが、クリンベルク将軍のことを何も知らないクリスの手前、
 ハルメンスもそれを察したのか、クリンベルク将軍の罠ならご心配ご無用と。
 結局、ハルメンスに誘われるまま午後は町へ出た。
 最初は華やかだった。店が立ち並び、遊園地のショッピングモールを彷彿させる。だが貴族たちの館が遠ざかるに連れ町は活気を失い、一時間も走ると町は閑散としてきた。ある角を曲がったところで車は止まる。
「ここからは路地が狭くなるため、大型車は入れません」
 四人は車から降りることになった。だがクリスは、この先がどういうところかは軍人仲間から聞いて知っている。この区画からの志願兵は多い。
「公爵、失礼ですが、このような所へ殿下を」
 ハルメンスは軽く首を横に振ると、
「後々ネルガルのトップに立たれるお方です。だからこそ、今のうちにお見せしたいのです」
 ハルメンスのいつもにない真摯な態度にクリスは黙ってしまった。
 ハルメンスはルカの方を見ると、「これを」と子供用のベストを差し出す。
 防御服。
「これはあくまで念のためです。ここへ来る前にも申しましたが、あなた様のお命は、この私とクロードの命に代えてもお守りいたします」
 ハルメンスの態度から、ここがいかに危険な区画か察しはついた。だがその危険を冒してでも、彼は僕にこの場所を見せたいらしい。
 ルカがそんなことを思っていると。
「この区画が、私の生まれ故郷なのです」
 そう言ったのはクロードだった。
 彼はここでアルシオの父、つまり大旦那に買われたのだ。犬のように。
 人身売買。
 ルカは驚いたようにクロードを見た。奴隷は他の星の人々たちだけではなかった。ネルガル人がネルガル人を。
「私も奴隷だった。ただ、私は買われた館がよかっただけ」
 この人は、貴族よりも貴公子然と振舞いながらも、そこに何ら価値を認めてはいない。これがクロードの本心。
 ルカはハルメンスからベストを受け取り着用した。
 この星は、いったいどうなっているのだ。
 一見、普通のベストだがその性能は確かなものだ。
「参りましょうか」
 もうクリスには止めることが出来ない。クリスもさり気なくプラスターを上着の下のベルトに差し込む。

 ハルメンスが下町に初めて足を踏み入れたのは十五の時。今のルカよりはるかに大きくなってからだ。
 友人に誘われて、目的は少女狩り。だがあの頃のハルメンスはそんなゲームがあることすら知らなかった。
 初めての奴には、いきなりやらせてしまえば病み付きになるものだ。
 これが彼らがハルメンスを仲間に入れようとした方法。彼のような高貴な血を引くものが仲間にいれば、ゲームを過激に出来る。治安局の目など気にしなくともすむから。
 好きなだけ好きなことをして最後にコインを一枚投げてやる。少女は泣きながらもそのコインを拾って去って行く。それは年端のいかない少年のこともあった。
 そんな時いつもクロードはハルメンスの腕を掴んで動かない。そうやって主人が仲間に入るのを禁じた。だが彼らを止めることはしなかった。下手な正義感を振りかざし、アルシオ様が彼らから嫌がらせを受けないために。屑のような人間だが、彼らの両親は貴族社会では地位のある者ばかり。後々アルシオ様の身に何が振りかかるか知れたものではない。ここは遠巻きに見ているしかなかった。
 薄暗い部屋、ぼろぼろにされながら床の上を這いつくばる少女たち。
「彼女たちも人間なのです」
 クロードはハルメンスの耳元で囁く。
 貴族だけが人間ではない。
 ハルメンスは口実を付けて、次第に彼らの誘いを遠ざけるようになった。代わりにクロードが参加している地下組織の集会に顔を出すようになっていった。平民が中心の組織。だがその中には下級貴族の顔もあった。

「こちらです」と、ハルメンスはルカに寄り添うようにしてスラム街を歩く。
 汚らしいバラックの家が延々と続く。異臭が漂い、家の前には痩せこけた人々が座り込んでいる。中には苦しそうに咳き込む人もいる。貧困と病気はつきもの、そして暴力も。老人も子供も、服とは言えないぼろぼろの布を一枚まとっているだけ。今は夏だからよいものの、冬はどうするのだろう。
 一人の子供がふらふらと物乞いにやって来た。
 ルカは何かあるものをと思い、ポケットの中を探る。
「やってはいけません」
 ハルメンスが強い口調でルカの行為を止める。
 一人の者にめぐめば、次から次へと群がって来る。最後には暴力沙汰にまでなり、この町を出られなくなる。
「無視して、まっすぐ歩くのです」
 ルカは子供から視線を逸らした。だがその子の視線が頭から消えない。
「あの子はもうじき楽になります。もう長いことはないでしょう」
「えっ?」
「栄養失調です」
 骨と皮だけの四肢なのに腹だけがぷっくりと脹れ、皮膚はどす黒く乾燥している。意識が遠のくのも時間の問題だ。
 ルカはハルメンスの腕をぐっと握り締めた。
 ルカは顔を覆い早足になった。出来ることならこのまま駆け出したい。
 そんな折、ある一画に人盛りが出来ている。不思議とそこだけが活気付いている。
「何でしょうか」
 ルカは顔を上げその人盛りを見た。
「志願兵を募っているのです」
「志願兵?」
 ルカには理解できない。何も好き好んで人殺しに参加しなくとも。
「後一押で、片方の星は落ちますから。後残るは、貴族たちの分け前争いですか」
 功労に応じてその星の権益が与えられる。だが彼らは、戦闘中は後方に非難していた者ばかりだ。戦ったのは平民たち。そして戦争終結と同時に、此の時とばかりにしゃしゃり出てくる。一番功労があったのは前線で戦っていた兵士だというのに、誰も彼らに権益を与えるものはいない。僅かばかりの功労金で終わりだ。
「まあ、後は醜い争いだ、いつものことだが」と、クロードは投げやりに言う。
「あんな奴らのために、彼らは自分の命を投げ出そうとしている。愚かなことだ。だがここに居ても餓死するだけ。なら少しでも生きられる方を取るのが人間さ。戦って生き抜けば、それなりの保障はしてもらえるし、少なくとも戦争が始まるまでは、ここより遥かに人間らしい生活ができる」
 だがどうせなら、他人のために自分の命を投げ出すのではなく、自分のために自分の命を投げ出したい。これが、クロードが地下組織に加わった理由。

「参りましょう、そろそろ日が暮れます」
 日が暮れれば治安はいっそう悪くなる。

 ルカは夕食のテーブルに付いていた。贅沢な食事。この肉の一切れでもあの子にやれたら。
「箸が進みませんか」
 ルカは軽く首を横に振った。
「行くべきではなかったと」
 それに対しても、ルカは軽く首を横に振っただけだった。
「お疲れになりましたか。今夜は泊まられるとよろしいでしょう。先程、館の方には連絡を入れておきましたので」
「そうさせてもらいます。失礼ですが、先に休ませていただきたいのですが」
 ハルメンスは何も言わずに侍女を呼んだ。
 風呂をもらい横になった。身も心も疲れきっているのに何故か眠れない。あの子の目が脳裏から離れないのだ。何度目かの寝返りをうったとき、ドアがノックされるのを感じ返事をした。
 ハルメンス自らがデザートを持って入ってきた。
「眠れませんか。少し刺激が強すぎましたか」
 ハルメンスはデザートをテーブルの上に並べると、
「いかがですか。あまり夕食をお口になさらなかったので、お腹が空かれたのではないかと思いまして」
 ルカはテーブルのところまで起き出して来ると、デザートのアイスクリームをもらった。
 スラムは知っているつもりだった。あの事件の時、自分を介護してくれたのはスラムの医者だ。
「スラムはスラムでも、場所によって随分違うものなのですね」
「どこも同じです。ただ、先日あなたが行かれた所は、ナオミ夫人の骨折りでよくなってきたのです」
 同じようなバラックに住みながらも、あそこの人々の顔には笑いがあった。夢があった。子供たちも活気付いている。あそこまで栄養失調になっている子もいなかった。だが今日見せられた町は、死んでいた。
「クロードは、ナオミ夫人をとても尊敬しております」
「彼があのようなところの出身だとは思いもよりませんでした」
「私より貴族らしいですからね」と、ハルメンスは笑う。
「戦争は、お嫌いですか」
 彼らは戦争難民だ。彼らは自分たちの住んでいた町が戦場にされ暮らせなくなり、安住の地を求めてこの王都へ集まって来た。もとはそれぞれの町で慎ましい暮らしを送っていた人たちだ。
「以前、志願する人たちを愚かだと僕は言いました。でも今日のあの暮らしぶりを目にしては」
 何も言えなくなってしまった。また戦争をすることによって、また戦争難民が出るのに。そのことは彼らが一番よく知っている。
「利益至上主義には戦争は必要なのです」
 利益至上主義とは消費をしないことには発展しない組織だ。だが人間が生きていくために消費する量は限られている。なんぼ食えと言われても、三膳も食べればもう食えないし。どんなに贅沢をして炬燵に入りながら冷房をかけていても限りがある。そんな微々たる消費では駄目だ。もっと膨大な消費、それが戦争。全てのものを破壊尽す。これによって初めて利益至上主義は発展することが出来る。それには人の犠牲もつきものだが、それはあくまでも付随品。戦争の本来の目的は物質の浪費。
「戦争で人が死ぬのは、付随なのですか」
「そうです」
 ハルメンスははっきり言い切った。
「しかし我が夫や子供を殺されてしまった身内にとっては付随では片付けられないでしょう。それこそ一生の悲しみであり不幸」
「ですから戦争を必要とする者たちは戦争をしません。他人にやらせるのです。人は誰しも、どんな身分や階級に生まれてもそれなりの欲求や不満を抱いているものです。それをうまく利用して儲けるのです、自分の欲求を満たすために」
 些細な言葉で人は疑心暗鬼にかかり憎み合い戦争を起こす。
「そんな」
 ルカは唖然としてしまった。
「あそこの子供たちもその犠牲です、一部の人々の快楽のための。もっともその一部には私たちも含まれておりますが」
 ルカたち貴族の生活を支えるために、彼らの親兄弟は戦場へ行く。
 ハルメンスはゆっくりお茶をすする。
「人の犠牲はたまたま派生したもの、言うなれば付随品。製薬会社が儲かるからよしとするところですか」
「少し待ってください。僕にはあなたの考えが理解できません」
 それは、確かに戦争は一時的に経済を活性させ失業を減少させる。しかし戦争の長期化は物資の不足を招きインフレをもたらす。結局人々の暮らしを追い込むだけだ。今のネルガルがいい例。
 ハルメンスは苦笑すると、
「あなたのその頭脳を持ってすれば簡単なことです。理解できないのではなく理解したくないのではありませんか。現実は現実として見た方がよろしいかと存じます」
 だから戦争は長期化させないのがコツ。短期間でいくつも行う。パイが小さければ自ずと分け前も減る。パイを大きくするためにも戦争はかかせない。特に侵略戦争は。これは最も原始的な考え方だ。縄張りを持つ動物ならどんな動物でも思いつくという意味で。もうじき一つの星がけりが付く。その分パイが大きくなる。そしてもう一つ。次はどの星にするか。そうやって殖民惑星を増やしていけば貴族たちの懐は潤う。玉座も安泰する。
 とどめだった。眠るどころかルカの頭脳はいっそう冴え渡ってしまった。


 昼過ぎ、ハルメンスの館へ車が一台。
 中から降り立ったのはハルガン・キングス・グラント曹長だった。
 ハルガンはクリスを見つけるや食って掛かった。
「何故、止めなかった」
「そんなこと言われましても、あの場にあなたがおられれば止められましたか」
 ルカが強い意志で何かをしようとした時、止められる者はいない。
「あなたにすら出来ないことをどうして私が」
「何をもめているのですか」
 もめ事の張本人がいけしゃあしゃあと現れた。
「あっ、お目覚めですか」
 ルカは夕べ遅かった。そのため先程まで寝ていた。
「申し訳ありません、ゆっくりしてしまいまして」
「いいえ、昨日はお疲れの御様子でしたので、公爵からもゆっくり寝かせて置くように言付かりましたもので、こちらから声はおかけしなかったのです」
 クリスは起こさなかったことを遠回しに詫びた。
 だがハルガンの気持ちはおさまらない。昨日帰って来るのかと待っていれば夕方になって泊まるとの連絡。午前中に帰って来るのかと思えば。
 ハルガンはいてもたってもいられず乗り込んできた。
 何、寝ぼけ顔でうろうろしているんだ。貴様のせいで、とハルガンは怒鳴りたかったのだが、レスターを連れてくるべきではなかった。ハルメンスの野郎が四の五の言うようなら、こいつに奴の頭をぶち抜いてもらおうと連れてきたのだが、
「夕べ、恋人を寝取られましてね、それで俺たちに八つ当たりしている奴がいるのですよ」
 ルカはそれがとっさにハルガンのことだとわかり、
「宇宙は広いですね。ハルガンの彼女にちょっかいを出すような人がいるのですか。でもお気の毒に、その方はよほど世間を知らないか、そうとうの怖いもの知らずの方ですね。青い髪の悪魔を敵にまわすより怖いというのに」
 クリスは噴出してしまった。ルカも一緒に笑う。

 ハルメンスはその様子を少し離れたところから見ていてクロードに言う。
「仲間とは、いいものだ」
 少しショックが強すぎたようだ。ルカはあれから塞ぎ込んでいた。だがハルガンが迎えに来たと言っただけで飛び跳ねるように起き出した。

「楽しそうですね」
 寝取った張本人がやってきて声を掛けた。
「聞いてください公爵。ハルガンが恋人を寝取られたそうです」
 王子の使うような言葉ではない。
「ほー」と、ハルメンスは感心したように言う。
 二人の視線が合い、そこで火花が散った。
 だがルカはそんなことには気づかず、
「ハルガン、その方の名前を教えて下さい」
「知ってどうする?」と、ハルガンは仏頂面で問う。
「テクニックを教わろうと思いまして」
「俺の女を寝取ろうというのか」
「できれば、やってみたいと思います」
「でっ、殿下。お幾つになられます」と、クリスは驚いたように訊く。
「もう少しで七つです」
 この夏が終わるころにはルカは七歳になる。そして今頃ナオミの村は、雪が解け始めているころだろう。
「この、ませガキが」と、ハルガンはルカにヘッドロックをかける。
「十年早い」
 だがそうでもなかった。宮内部ではハルガンたちの知らないところで婚約の話が着実に進んでいた。

「帰るぞ」
「昼食をご用意いたしましたが、よかったらあなたもご一緒に」と、ハルメンスはハルガンたちにも一緒に食事をしていくように勧めた。
 そう言われて初めて、夕べからあまり物を口にしていないことをルカは思い出した。すると急にお腹が空いてくる。
「食事、いただいてから」
「なに、がっついたことを言っているんだ。車の中に握り飯がある。それでも食え」
 ハルガンは直ぐにでも連れ帰るつもりだったので、炊事長に頼んで弁当を作らせておいた。無論車は車庫にも入れず、エントランスの中央にエンジンを掛けたまま待機させてある。
「クリス、連れて行け」
 まるで囚人でも連行するようないいぐさだ。
「ハルガンは?」と、問うルカに、
「俺は、こいつに少し話がある」
 ルカはとっさに嫌な雰囲気をさっしたのか、
「暴力は」
「心配するな、殴るぐらいなら頭をぶち抜いてやる。そのためにこいつを連れてきたのだからな」と、ハルガンはレスターを肩越しに親指でさす。
 レスターは先程から黙ってそこに立っていた。

 ルカが車の方に行くのを見届けてから、ハルガンはハルメンスの方へ向き直った。
「だいたい、誰が泊めていいと言った」
「ナオミ夫人の許可は得ております」
「俺は、許可していない」
「あなたの許可もご入用でしたか」
 ハルメンスはわざと丁寧なことばで切り替えした。
 ハルガンはむっとした顔をすると、
「忠告しておく。首と胴が別居したくなければ、これ以上奴に近づくな」
 ハルメンスは大げさに肩をすくめて見せた。


 イシュタルの男はあれ以来姿を見せなかった。逃げたと思っていたが一ヵ月後、髪はぼうぼう、髭は伸び放題、服はぼろぼろ、痩せこけた姿に異臭を放って館に現れた。
「アルシオ様、あの怠け者が」
 駆け込んできたのは侍女頭。
 ハルメンスもクロードもその姿には言葉をなくした。
 とにかく風呂と食事だと、クロードに指示され、侍女頭は男を清潔にしてから二人の前へ連れて来た。無論、体格のよい護衛つきで。
「久しぶりだな、体を清めてくると言っていたが、どこへ行っていた?」
 どう見てもあれは体を清めるというよりもは、汚してきたとしか言いようがない。
 男はイシュタル式の礼を取ると、
「滝に打たれておりました」
「滝?」
 そういえばこの山の奥に。
 男はこの一ヶ月の間、ずっと滝に打たれ座禅を組んでいたようだ。
 スカーフは大事に持っている。だがあのペンは水性。字はとっくに滲んで消えていた。だが男はそのスカーフを離さない。
「もし彼の髪が紫なら、竜の可能性があるか」
 男はわからないと首を振る。
「ただ、竜を傷つけることは誰にもできない。痣があるのはおかしい」
「それは何百年も前から、いや何千年も前からのようだ。その村ではその痣を神の証としているぐらいだからな」
 現にルカの所持している笛は、五百年以上前のものだと鑑識では推測している。
「そんなに長い間」
 男は黙り込む。そして、お可哀想に。と同情するかのように頭を垂れた。
「可哀想?」
「そうです。そんなに長い間魂に刻み込む悲しみとは、いや苦しみなのだろうか。どちらにしても、どの様なものなのだろうか、こんなに長い間、あの方の魂の輝きを曇らせているものは」
 村人たちはあの痣を神の証だといい、この目の前のイシュタル人の男は悲しみの証だと言った。
「どう思う?」と、ハルメンスはクロードに訊く。
 男はあれ以来真面目に働くようになった。午前中はもとより午後も。下手をすると夜遅くまで。何を頼んでも一つ返事でやるようになった。
 まるで人が変わったようで気味悪い。これが周りの者たちの感想だ。
 今日も執務室で働くハルメンスの元へお茶を運んできたのはこの男だった。
2009/05/19(Tue)22:35:57 公開 / 土塔 美和
■この作品の著作権は土塔 美和さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 今日は、続き書いてみました。今回は少し重たくなってしまいました。次回はもう少し軽く書くつもりです。感想をお待ちしております。
この作品に対する感想 - 昇順
こんにちは! 続きを読ませて頂きました♪
 カロルの家での振る舞いで豪胆さと優しさが見れて良かったです。それと自分の宝物の方が価値があると言い合う所などは子供らしい一面もあるんだなと改めて感じれました。シモン登場後の受け売りだとしても、カロルが大局を見極めた意見をもっていて、最後までルカの味方でいたいと思っている事が分かってよかったです。(名前だけでもジェラルドが出てきて、ちょっと嬉しかったですw)
 ハルメンスとの音楽の話をしながらも、奴隷の事や、異星人を‘匹’と呼ぶ所など、ネルガル人にとっては当たり前の会話だとしても、私には良い意味で違和感を感じました。ルカでさえナオミの存在があるからしていないが、奴隷を買って話がしてみたいと思う事が、怖いなと思います。
 ハルメンスとイシュタル人との会話で、イシュタルの文化や死についての概念や、力ある者達が何をしようとしているのか、そしてイシュタル人にとってのテレポートについても知る事が出来て良かったです。
 ハルメンスの別館でのクリスの真面目ぶりは、少し面白かったです。それとルカとイシュタル人との出会いには、インパクトがありルカは本当にレーゼの生まれ変わりというだけの存在なんだろうか? などと思ってしまいました。
 危険だと言われるような貧しい人々が暮らす区域(貴族の横暴な行為などは知らないとしても)を目にした事で、ルカの中でも色々と変化があったのではないかなと思います。
 ハルガンも影が薄くなりがちですが、それでもハルメンスへの言葉でルカの事を思っている所は伝わってきました。
 今回は、誤字脱字が多少あって、目立っていた気がします。
では続きも期待しています♪
2009/05/08(Fri)16:25:220点羽堕
 羽堕さん、いつもコメント有難う御座います。今回は一気に書けてしまったせいか、読み返しが甘くなってしまいました。以後、気をつけます。気づいた点は修正しましたが、まだおかしなところがありましたらご指導ください。奴隷を一匹としたところは、その違和感こそがこちらの狙いでした。どんな表現をするよりも、この一字でネルガル人の性格を表現できるのではないかと思いまして。最もハルメンスとクロードはそんなネルガル人に一線引いていますが。それでは次回もお付き合い願えれば幸いです。
2009/05/19(Tue)22:46:130点土塔 美和
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