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『アナザー パートナー 2』 作者:暴走翻訳機 / アクション 未分類
全角38241.5文字
容量76483 bytes
原稿用紙約114.25枚
残暑が厳しい九月、『新月の狐』の異名を持つ殺し屋の女性は小さなレストランを見つける。突然の再会、そして訪れる変化の兆し。いったい何が変わって、何が残るのか。幼き殺し屋の誕生と、彼女の恋愛観念を綴った恋物語。
Another Partner/狐の恋愛事情/



 後頭部を襲う激しい衝撃。
 暗闇に包まれた世界に稲妻が駆け巡る。
 束の間に起こった謎の現象に対し、悩むことも考えることも許されない。僅かばかり時間が抜け落ちたかと思えば、冷たい大理石のタイルの上に仰向けで寝転んでいた。
 ただ、上体を起こそうとしても何かが圧し掛かっているため、腹筋だけの力ではどうしようも無い。
 人だ。彼女の胸板に顔を埋めるようにして覆いかぶさっているので、顔までは分からない。
 体躯や服装からみて、二十歳前後の若い女だろう。
 見覚えが無いと言ってしまえば嘘になるが、彼女の記憶には思い当たる人物が記入されていなかった。果たして、自分に圧し掛かっている女性、もしくは少女は何者なのか。
 今は目の前の人物よりも、体を起こすのが先決だ。なぜか本能に響き渡る危機感の警鐘に、彼女は直ぐにでもここを離れなくてはならないと感じた。
 幸い、その人物は胸から足元にかけて重心を乗せているため、両腕は顔の前まで持ってこれるぐらいの自由がある。片方の腕で体の上の人物を押しのけながら、もう片腕で上体を起こそうとする。
 自分もそれほど力持ちではないと思っていたが、体の上の痩躯はそれほど力も要らずに除けることが出来た。暗くてはっきりと分からないものの、二十歳前の少女だろうか。
「ぅッ!」
 体を起こすと同時に、衝撃を受けた後頭部にだるさの残る鈍痛が走る。まだ目も霞が掛かっている感じで、薄暗闇の中では上手く視覚が働かなかった。僅かに分かるのは、ブラインドが下りた窓から差し込む黄昏時の薄明かりと、うつ伏せや仰向けで倒れる幾つかの人影だけだ。
 処理の遅くなった頭で考えたところ、自分のいる場所が果たしてどこなのかも分からない。分かることと言えば、床に散らばった幾つかの半紙に書かれた文字が、自分の知っている文字ではないということぐらいか。
 漢字と漢字の間に見覚えのない文字があることから、ここが日本という島国であることは知識に残っている。
 日本にやってきて、現状に至るまでの経緯は覚えていないが、導き出される結論は数少ない。
 一つは、旅行中に立ち寄ったどこかの建造物内で、体の上に倒れこんでいた少女とぶつかって気絶した。
 二つ目は、生まれ故郷がさほど治安の良い国ではなかったことを鑑みて、ここまで誘拐されてきた。
 希望的観測は前者だが、他の倒れている人々を見る限り、後者の可能性が色濃い。ただ、手足が拘束されていないところを見ると、確実にそうと言い切れない。
 観光中に地震が起こり、横で寝転がっている少女が自分を庇おうとした。にしても、十数人もの人が気絶しているものか。それに、幾らかの半紙は散らばっていても、周囲に置かれた棚から荷物が落ちた形跡は見当たらない。
「…………」
 考えうる全ての可能性が、明白な結論を導き出せないほどに曖昧だった。
 誰かを起こして状況を聞きだすか、ここを抜け出してみるべきか。彼女は迷う。
 その時、背後にある扉の向こうからパタパタと足音が聞こえてくる。二人か三人で、廊下を駆ける足音だ。
 もし誘拐されたのなら、誘拐犯達が被害者の様子を見に来た可能性がある。地震が起こったのであれば、救助か誰かの足音だろう。
 彼女は、とりあえず可能性の色濃い前者を選択して、手近な机の影に隠れた。どこかのオフィスみたいな部屋なので、扉から影になる机やソファーには困らない。
「ッ!」
 不運にも、隠れようとした瞬間に堅い『L』字の何かを蹴ってしまう。彼女は慌てて机の影に潜り込み、口を押さえて息を潜める。
 フッと漂う、鉄錆のような香り。どこかで、錆びた鉄柵でも触ったのだろうか。
 いや、今はそんなことを考えている暇は無い。ただ、さっきの音が扉の前で立ち止まった誘拐犯にばれなかったかが心配だ。
 誘拐犯達がドアノブを回す。なぜか、鍵が内側から掛かっているらしい。ドアノブを回す音に続いて、ドアのノックする音が不気味なほど大きく聞こえ、鼓膜を震えさせる。
 思うに、外にいるのは誘拐犯ではなく、災害の救出に来た消防かレスキューの誰かなのではないか。
 彼女は、脳裏に過ぎった予感を信じる。
 誘拐犯ならば、捕まって酷い目に合わされるかも知れない。けれど、殺されはしないのではないか。誰かを誘拐するとき、目的としては身代金を要求するか、臓器を取り出して裏のマーケットに売るか、もしくは愛玩具としてどこかの金持ちに売られるか。
 攫われてから直ぐに殺されていないのなら、臓器を取り出すという目的ではないらしい。これだけ大勢が誘拐されているのなら、身代金目的というわけでもないだろう。残るは、金持ちに売るための商品として攫われてきた、可能性。
 賢い誘拐犯なら、無闇に商品を傷つけるような真似はしないと思う。
 彼女は祈る。それがイエス=キリストなのか、それとも釈迦様なのか、もしくはアッラーの神か。何にせよ、無事に生き残れる可能性を望んだ。
 鍵を開けようと机の影を出て、四つん這いになりながら扉に近づく。
 すると、向こうは埒が明かないと思ったのか、三人ぐらいで扉をこじ開けようと体当たりを始める。
 急いで鍵を開けようとするが、途中で水のようなものに手をついて滑ってしまう。
「キャッ!」
 彼女が悲鳴を上げるのが先か、それとも彼らが扉をぶち破るのが先か。
 蝶番や鍵穴の金具が弾け飛び、彼らはもたれかかったまま扉と一緒に倒れてくる。二人の少年と一人の少女、そして彼女が同じ高さで視線を交える。
「無事だったかッ? 一人で突っ走りやがって、無茶するんじゃない!」
 少女が、唐突に怒鳴る。
 ただ、そこには安堵の表情があった。
 少年達も、自分を見つめて重い溜息を吐く。
彼女の心配をした直ぐに、倒れている少女の側に駆け寄る少年達。
 どうやら彼らは、自分も含め体の上に倒れていた少女の知り合いらしい。しかし、彼女自身は彼らのことを何にも覚えていないのだ。
「あ、あの……」
 彼女も自分が助かったことを理解して、安堵しながらも状況を聞きだそうとする。
 が、どうも少女の方が心配で彼女の声を聞いていない。
 状況を聞くことも出来ず、彼女は入り口の直ぐ側に見える明かりのスイッチに目をやる。季節は秋に差し掛かった頃、既に外は暗闇に包まれていた。
 そして、電気をつける。
 そして、言葉を失う。
 目の前に広がる光景に、ただただ目を見開いて立ち尽くすのみ。
 倒れていた人影は、眠っていたり気絶していたりしたわけではない。赤い水溜りに倒れる亡骸、死屍累々、阿鼻叫喚とはこのことか。一言で表すなら、そこは地獄の一丁目だった。
「…………」
 信じられない光景に、言葉を発せず固唾を呑むだけの彼女。
「……?」
 目の前に見えているものが見えていないのか、明かりに照らされた金髪の少女が怪訝そうに振り向く。少年達も、気絶した少女の安否を確認してから顔を向けてくる。二人の少年は目前の地獄に吐き気を堪えるような顔をしている。
 ただ、三人とも、それが予想されていたかのように自分を見つめてくるのだ。
 今更だが、気付いたことがある。
 先刻、手を滑らせて倒れたときに、血溜りに突っ込んだのは覚えている。しかし、それ以外の時にも着いたと思われる血痕が衣類や髪にこびりついていた。
 白いはずだったポロシャツは赤く染まり、黒のロングパンツは赤黒く変色している。艶やかな黒髪のロングヘアーも。
 これは全て、自分がやったことなのだ。



 どこにでもあるような商店街を、彼女は闊歩していた。夏が過ぎても、まだ執拗に纏わり付く残暑で寝苦しい季節。白い肌に汗一つ浮かべず、平然と歩く二十歳過ぎの女性。
 まるで周囲が彼女を避けるかのようにして難なく歩く姿は闊歩というに相応しく、万人が足を止め過ぎ去る彼女を羨望と情欲の眼差しで見つめていた。ただし、彼女は周囲の視線など気にせず、虫けらを見るかのように横目で流しながら黒いロングヘアーをなびかせる。
 日本人とは異なりながら、アジア系の美貌と長躯を包み込むのは、野暮にも思えそうなポロシャツとロングパンツ。だが、どこの女優さえ、ハリウッドスターさえ敵わないと思わせられる美貌が彼女にはあった。その堂々とした姿に、誰もが言葉を失って固唾を呑む。
 そんな彼女の名は、『新月の狐』。
 裏の世界で名を轟かせる凄腕の殺し屋。本名も実名もない、ただその異名で呼ばれる正体不明の仕事人だ。本来なら、こんな日の当るところに出てきて良い人間ではない。
 そんな彼女は、普段なら黒一色のアンダースーツとショートパンツでところ構わず移動しているのだが、今日ばかりは少し事情が違っていた。
 今現在歩いている商店街からさほど離れていないボロアパートに、彼女は住んでいる。どんな女優さえ敵わぬような美貌を持ち合わせながら、隙間風が吹き込んで来るような不釣合いなボロアパートに。
 仕事上お金には困っていないものの、一箇所に長期逗留することのない彼女には雨風を凌げる場所さえあればいいのだ。しかし、彼女がこの極東の地を踏んだのは今から五ヶ月ほど前、春も真っ盛りの二シーズンも以前の話である。彼女にしてみれば、普通とは言えない長期滞在だった。
 その理由は、春先に知り合った不動産会社社長の娘にある。そして、彼女が仕事着ではない理由も、社長令嬢が部屋に遊びに来たところで言い出した提案であった。滞在の理由については半分でしかないが。
『せっかく美人なんですから、もっと着飾ってみればどうですか?』
 と、安易にも社長令嬢は自分のお気に入りの服を持ってきて、彼女を着せ替え人形にしたのである。
 無論、最初の頃は彼女も断った。
 別に着飾るのが嫌いというわけではないのだが、着慣れないものを着て歩き回るということに抵抗を感じただけの話。仕事の都合上、流石にカジュアルな服装で仕事“殺し”をするわけにはいかない。血痕のついた純白のワンピースで出歩けば、即座に職務質問をかけられるのがオチだろう。敵も多く、どこで報復を仕掛けてくるかも分からない状況で、着慣れない服で逃げ回るのは少々骨が折れる。
 けれど、半時ほどの説得で彼女は折れた。普通の説得、意地の張り合い、泣き落とし、と掻い潜ってきた彼女も、
『仕事着で迫られるのはちょっと……』
 娘の上目遣いに困ったような視線を向けられては、多少なりとも心が揺らいでしまう。
 ちなみに、察しは付くと思うが、娘と彼女の関係はある意味恋人というものである。彼女の数少ない嗜好を言えば、女性愛主義“レズビアン”と加虐趣味“サディズム”的嗜好。
 まあ、そうしたやり取りの後、こうして彼女は外で娘と落ち合う約束をしたのである。今の服装も、動き安い物を、と粘った上で勝ち取った彼女の妥協点なわけだ。
 着せ替え人形の件を含め、アパートで事を終えても良かったではあるが、アパートの住民の苦情があったため最近では外の方が多い。大家さんにおいては黙認、娘の通う塾の講師にして隣人兼墓泥棒娘からは「五月蝿い」と、そのまた隣の警察官と同居人からは「嬌声が迷惑」と、他の住民からも似たり寄ったりの苦情があった。
 それはさて置き、落ち合う場所は商店街にある小さな喫茶店『Ebis“エビス”』だ。歩いても十数分で到着する距離。夕方の買い物客に阻まれても、二十分ぐらいであろう。
 喫茶店で軽く食事をした後、某建造物に向かう予定であった。のだが、フッと彼女は夕暮れの商店街に漂う香りに足を止めてしまう。
 目的の喫茶店が目の前まで迫っていたところで、新しく出来たのであろう小さなイタリアンレストランに視線が泳ぐ。懐かしいような、どこか心誘われる香草の香りを漂わせるこじんまりとしたレストランだった。
「…………」
 レストランと、喫茶店の窓ガラスからこちらに手を振る娘を見比べ、珍しく誘惑を吹っ切りながら前に進み出た。
 仕事にしか興味のない彼女に、そうした心境の変化が訪れた要因はそれだけで十分だった。



 所と時間は変わって、そんな狐の散歩から二週間ぐらいが経った工学専門塾。不動産会社の社長令嬢こと、白姫林檎が通う塾である。
 塾生は五十人前後、面積は某進学塾の半分程度の二階建てになった建造物。その二階にある教室で、講義後の雑談に花を咲かせる塾生達。その中に、林檎と塾の講師、二人の男友達も含まれていた。
 見たところ二組の男女が談笑しているようにしか見えないが、一際目立つ金髪の少女が例の如く講師なのだ。
 ウナジを挟むようにして二つに分けた金髪は、塾の講師になってから林檎に纏めて貰うようになり不揃いだったのが直った。大人びた表情に残る子供のような輝きを放つ碧眼と、小悪魔を思わせるかのような顔立ちの少女は、様々な経緯を経て塾の講師として雇われている。一見、外国人留学生とも取れる少女は、中退であるものの十四にしてMIT入学、十六でソフトウェア理論と考古学の博士号を取得した天才なのだ。
 その天才少女イェーチェにソフトウェア理論を習う林檎は、不動産会社社長と経営コンサルティングのキャリアウーマン女性の両親を持つ。ボブカットの黒髪をした、着物でも着せれば大和撫子とも呼べそうな美少女である。四人の中ではお姫様的存在。
 そして、林檎の男友達にして幼馴染の二人の男子。教壇に立つイェーチェの正面に林檎が立ち、両側で男子二人が雑談に混ざっている立ち位置だ。
 イェーチェから見て左、林檎から見て右に立つ、眼鏡をかけたインテリ風の佇まいをしている少年は、水無月誠司。己の家庭事情などは黙して語らず、林檎が見る限りでは普通の一般家庭らしい。勉強と雑学――主に既存の視覚文化――においては林檎を凌ぎ、常に冷静沈着、ある意味で行動力がある。そうした性格を現すなら、参謀役と言ったところだろう。
 そしてイェーチェから見て右、林檎から見て左に立って爆笑する不良染みた容姿の少年が、王城高屋と言う。金髪に染め上げた無造作ヘアー、ネコ科の大型肉食獣の名を冠したブランドのジャージ姿は、間違いなくヤンキーその物。林檎や誠司のように、簡単に高屋の家庭事情を説明することは出来ない。実際のところ父親は外務省高官だが、母親は妾――いわゆる愛人――で、父親とは離縁状態にあるため母子家庭だ。そんな不遇を背負っているようには見えない表情筋の豊かさと動物的な直感、本能的な行動力は四人を守る騎士、と言うよりも戦士だろうか。
 いつものようにいつもの如く、四人が仲良く談笑している時のこと。なんでもなく、イェーチェが住むアパートの隣室を借りる、知り合いの警察官と同居している姉兼娘――イェーチェがとある事情で作った最新型のアンドロイド――が行き着けにしている喫茶店『Ebis』のケーキの話になり、フッと林檎があの日のことを思い出す。
「そう言えば、カクカクジカジカでして」
 林檎が事細かにその日のことを話す。
「あの」
「狐に」
「男ッ?」
 誠司、イェーチェ、高屋が、見事に言葉を重ねて声を荒げる。
 驚くのも無理はない。狐こと『新月の狐』の男嫌い――決して男性恐怖症ではない――は筋金入りで、まず男と関わりを持つのは仕事だけの話だろう。そんな狐が、プライベートで男性と会っているとなれば、彼女を知る人間には興味深いものがあった。
 本名のない『新月の狐』を『狐』の愛称で呼ぶのは、狐自身が何も言ってこないので愛称となりかけている。閑話休題。
「えぇ、そのレストランなんですけど。次の日から、数日ぐらい空けて、部屋を留守にするんです。合鍵で部屋に入っても、机の上に置手紙があって、出かけちゃってるみたいなんです。最初は仕事かと思っていたんですけど、私が上げた服がなくなっているみたいで。それに、暇を持て余して『Ebis』にケーキを食べに行ったときです。偶然、狐さんがそのレストランで食事をしているのを見ちゃいました……」
 もちろん、狐がどこで食事をしようと勝手だ。自炊は出来るらしい(林檎談)。
 話はそれだけに留まらず、
「それは、狐さんがレストランに行くのがおかしいわけじゃありませんよ。服だって、もしかしたら気分転換のつもりという可能性もあります。けど……」
 林檎が言いよどむ。
 備考ではあるが、そのレストランの名前は『森のレストラン』という。店長兼店員兼コックの森道幸(もり みちゆき)が一人で経営するイタリアンレストランで、最近になってオープンしたらしい。ちなみに、誠司が調べました。
「その、あの狐さんが、料理を食べながら笑ってるんです! それはまるで、私と話をしているみたいに優しい笑顔でした! 料理を褒めている可能性も疑いましたが、料理がない時でも森さんと向かい合って座りながら笑って話しているんです!」
 林檎が、悲しそうに可愛い顔を歪めてイェーチェに詰め寄る。
「……近すぎるって。お前、本当に狐の奴に手篭めにされてるんだな。しかし、人殺しやお前と寝る以外の楽しみを見つけても良いんじゃないか?」
 林檎の顔を教壇の向こうに押し遣り、呆れながらも意見を口にするイェーチェ。
「しかし、あの狐がねぇ〜。俺としては、信じられない話だが。それより、あんた声が大きいぞ。危険な台詞が回りに聞こえる」
 今度は高屋が笑うのを止めて意見を言う。誠司においては、妙な笑みを浮かべて眼鏡のブリッジを中指で押し上げていた。
 狐が男と出来ていてるというのは、にわかに信じ難い。
 まあ、好奇心旺盛な彼らにしてみれば、今回の件は一時の娯楽にしかならなかったのかも知れない。
「じゃあ、自分達で確かめれば良いじゃないですか」
 唐突に、誠司がそれを提案する。
 何故その時、誰も反対しなかったのだろう。イェーチェは遊び気分で、林檎は嫉妬に狂い、高屋は興味本位で、誠司は良く分からない理由で、安易な探偵ごっこに手を出してしまったのである。



 近々訪れた休日のとある日、彼らの姿はそこにあった。
 イェーチェの部屋に、林檎達が集まっている。ガラクタの詰まったダンボールでほとんど足の置き場もない部屋に、四人が密集するのは流石に暑苦しい。冷房がない上に、残暑が厳しいこの頃なので尚更だ。
「それで、これからどうするんだ?」
 探偵ごっこの本拠地にされた、部屋の主が呆れ声で問う。
「誠司君の調べによると、狐さんはここ最近、森さんのレストランに行っていないらしいです。なので、近日中に狐さんは森さんのレストランに行くはず、と踏んでいます」
 果たして、いつの間に狐の動向を探ったのか。誠司の妙な能力に、感心すべきか呆れるべきか分からなくなる。
 隣の部屋で寝泊りするイェーチェでさえ、狐がどこに出かけているかなど気にしたこともないのに。それに、今日出かけるとしても、狐を尾行するなどという僥倖が可能なのだろうか。
 それより、なぜ林檎は壁にコップと耳を当てているのか。
「ばれることは重々承知です。その時は、正面から話を聞きましょう」
 最初からそうすれば良いものを、林檎が間違った方向で頑張ってしまっている。奮起する林檎に呆れながら、フッと視線を横に流す。
 イェーチェと同じくして、どこか乗り気ではなさそうな顔の高屋。
「どうした? このことで一番、興味津々だったお前が神妙な顔して」
「あ、あぁ……ちょっと、な」
 イェーチェの問いに、高屋がお茶を濁すように生返事を返してくる。
 最初は誤魔化そうとしていたのだろうが、高屋の性格では無理だったようだ。物事をキッパリと言い切る高屋が、しぶしぶと口を開いた。
「知り合いの伝で、ちょっとした嫌な噂話を聞いてさ。その、森って奴……」
「動き出したようです!」
 高屋が説明しようとした言葉を遮り、壁にコップと耳を当てていた林檎が声を上げる。壁に耳あり障子に目あり、とはよく言ったものだが、やることが容姿と裏腹な林檎。
「彼女は、怒らせたら僕らの中でも一番恐ろしいですよ。先生も気をつけてください」
 初耳にも、誠司がイェーチェに耳打ちしてくる。普段から大人しい人間ほど、起こらせると怖いということらしい。教訓、嫉妬に狂った女というのは恐ろしいものだ。
 こうして、部屋を出た狐の追跡が始まる。
 狐に気取られぬよう数メートルの距離を置き、無意味とも思えるようなサングラスとマスクを装着して、各々が持ってきた帽子を目深に被る。ただ、高屋が野球帽だとか、誠司がアポロキャップというのは分かる。しかし、なぜ林檎はテンガロンハットなんてものを被っているのだろう。イェーチェでさえ、リン――県警に勤める資料係の婦警――に借りてきたハンチング帽だというのに。
 それに、四人の少年少女がこんな格好をして歩いていては、十分に周囲の視線を集めてしまう。幸い、狐は殺気や殺意といったものにしか反応を示さないのでこちらを振り返ったりすることはなかった。
 追跡を続けること十数分、やはり狐は例のレストランへ向かって歩いていた。入り口の上に『森のレストラン』と看板が掲げられた、古風とも近代風とも言えぬモダン風な建物。
 狐が周囲を確認することもせず、自分に敵が多いことさえ忘れているかのように、警戒もせずドアノブを回す。彼女にしてみれば、信じられないほど無防備な行動だ。
「相当、あのレストランを気に入っているみたいだな」
 イェーチェが言うのも、仕方がない。
 部屋を出る前に髪の毛を扉の間に挟んだり、戻ってきてもドアノブの確認や爆弾の探査を怠らないような狐が、尾行の確認さえせずに扉を開けることがおかしいほどだ。
 それだけ、信頼という言葉を知らぬ狐が、森道幸を信頼しているということなのだろう。もしかしたら、出入りの多い店ゆえにトラップがドアに仕掛けられていないと考えたのか。
 どちらにしても、林檎の嫉妬が加速しないわけがない。
「もうこんなチマチマしたことはやってられません! 直接聞いてきます!」
 装着していた変装道具を外して、林檎が早足でレストランの入り口に向かう。
 ただ、こちらにも誤算があったらしい。
 林檎が勢い良く扉を開けた瞬間、なぜか前につんのめって床に接吻する。ちゃんと見てみれば、狐が扉の影に隠れてこちらを伺っていた。
「あ、ばれてたのね……」
 高屋が肩をすくめて呟く。
 林檎が狐に助け起こされたところで、仕方なくイェーチェ達もレストランに向かった。
「何を気にしているのか知らないけど、彼とはそんな関係じゃないわよ」
 狐が呆れ顔で、隣にいた料理人姿の男性に視線を向けて弁解する。
 年は狐と変わらないぐらいで、清潔感漂う白いエプロンにコック帽の青年。彼が森道幸であろう。
 道幸は苦笑染みた笑みでイェーチェを見渡した後、狐を含めて五人をテーブルに促す。
「インの友人のようですね。どうぞ、軽くお食事でも」
「イン……?」
 狐のことらしいが、聞き覚えのない呼び名にイェーチェが反応する。
「その名前で呼ばないでよ……。それと、この娘を除けば友達じゃなくて、ただの知り合いだから」
 狐が道幸を睨みつけ、少し不貞腐れたようにテーブルへ向かう。
 どうやら二人は昔馴染みらしいが、どういった関係かまでは分からない。それに、食事にお呼ばれされてもお金なんて一銭も持ってきていなかった。
「お金は気にすることないわ。私の奢りだし、元からツケで食べてるしね」
 狐があっけらかんと言って、指先だけで来い来いと手招きする。
 すると、背後で妙な気配を感じる。振り向けば、嫉妬の炎を燃やす林檎が道幸を睨みつけていた。
 そんな視線を向けられているとは知らず、道幸は平然とした笑顔を浮かべて厨房へ向かってしまう。
「落ち着け。まずは、疑っていた関係じゃないことが分かって一安心ってところだろ」
 林檎を宥めようとするが、それに逆らうかのように嫉妬の炎は火勢を高めてゆく。今にもレストランの天井を焼かんと燃え上がる炎に、イェーチェ達は手がつけられなくなる。
 そんな様子を一人、優雅にハーブティーなんぞを啜りながら見物しているのが狐。元凶が何をやっているのか、と言うべく睨み付けてやると、大丈夫と言わんばかりに手を振り返してきた。
「温めただけですけど、まず前菜です。本来なら食前酒を用意するところですが、未成年のようなのでジュースを」
 テーブルについて落ち着くと、しばらくして道幸がトレイにグラスと皿、飲み物を載せて戻ってくる。
 スープ用の深皿が、五人の前に並べられた。
 中には、簡素にもコンソメの香りを漂わせる、心ばかしバジルを振りかけただけのスープが入っていた。
 決して、ちゃんとしたレストランほどの料理を期待していたわけではない。それでも、コンソメスープだけというのは簡単すぎではなかろうか。
「一口」
 表情に出ていたのだろうか、疑っていると狐が一言だけ口にする。
 仕方なく、言われるままに一口をスプーンで掬って啜ってみた。
『…………』
 四人が、一様に黙る。
 美味しくはない。
 いや、これを美味しいの一言で片付けてしまうのは勿体ない。これが、本当の料理というものなのだろう。
 しつこくなく、かと言ってアッサリ過ぎるわけでもない。口に含んだ瞬間、口内に広がるコンソメの旨味。塩の味はするども嫌な刺激はなく、清流の如く喉を流れ落ちる素直な喉越しに、唐突として鼻腔へ広がるバジルの香りが良い塩梅を醸し出している。
 たった一口で、残暑の鬱陶しささえ忘れてしまいそうになる温もりと清涼感が体の芯から溢れてくるのだ。
『…………』
 四人が、何も言えず閉口する。
 適切な褒め言葉も出てこないほど、言語や常識では計り知れないものだ。
「懐かしいわね、この味。うん、ご両親に負けないぐらい良く出来てるわ」
「褒められたものではありませんよ。両親の味を再現するのが精一杯で、これ以上は何もできないのですから……」
 果たして、道幸の両親が何者なのかは知らない。しかし、これだけの味を再現できることさえイェーチェ達には驚くべきことだった。
 そして、そんな道幸の謙遜が嫌味に聞こえないぐらいに、彼の言葉には誠実さがある。これほどの物で、まだ道幸が追い求める味ではないと考えると、目インディッシュが楽しみだ。
 と、期待を膨らませたところで、
「さて、これを飲み終わったら出かけましょうか、林檎ちゃん」
 狐がそそくさとスープを飲み干し、不敵な笑みを林檎に向ける。
「はっ? コースじゃないのか……?」
「何を言ってるの、私はコースを奢るなんて言ってないわよ。いつも、これを飲みにきてるだけ。もしコースを制覇したいなら、自分でお金を持ってきなさい」
 痛烈な返答に、期待を裏切られたことと自分の今現在の貧乏さに嘆息してしまう。まあ、フルコースを諦めても十分にお釣が返ってくるほど美味しいスープだ。
 一同はスープを飲み干し、割合仲が良さそうに言動を合わせる。
『ご馳走様』
「どういたしまして」
 一同の謝辞に返答する道幸。
 軽い目の昼食を終えた狐が、立ち上がって口元を綻ばせる。
「さて、腹ごなしに運動でもしましょうか。怒って真っ赤になったリンゴちゃんも可愛いけど、妬かれたままって言うのも性に合わないから」
「え、えっ、あのぉ〜ッ!」
 林檎の返事を待つことなく、狐が彼女を引っ張って店を飛び出していった。もう何も言わず、静かに二人の背中を見送るイェーチェ達。
 下手に道を踏み外さぬことだけを祈り、あえて講師は大切な教え子の恋愛事情を見守るつもりだった。
 すると、誠司がイェーチェよりも早く気になっていたことを問い質そうとする。
「ところで森さん。貴方は、狐女史とどういうご関係で?」
 こうしたストレートなところは、高屋にも負けず賞賛に値するところだ。
 道幸は、本人の許可も得ずに身の上話をするのをはばかられるのか、しばらく困ったような苦笑を浮かべて頬を掻いていた。
 道幸を見ていると、こんな誠実な人間を困らせるのが申し訳なく思えてしまう。それでも、彼はイェーチェ達の人柄を読み取ったらしく、遠くの景色を見つめるかのような目付きで窓から正面の喫茶店を眺めて口を開く。
「彼女と出会ったのは、まだ私が四歳ぐらいの時です。ここと同じイタリアンレストランを経営してた両親と一緒に、上海の市場で食材の調達に行った時でした。あれは――」



 逆算すれば、二十年ほど前の話だ。
 イェーチェは生まれていない、もちろんのこと半年は遅い林檎達も生を受けていない時のこと。
 当時、四歳の道幸は両親と共に上海の小さな市場を訪れた。両親が、中国の食材が中華料理にしか使えないという概念を取り除こうと、新たなる試作料理を考案しようとして、世界中の食材を調達するつもりだったからだ。
 小さいとは言え、海辺に隣接する獲りたての新鮮な魚介類が豊富に入手できる市場。子供心にも、その市場に溢れる活気を覚えている。
「おばちゃん、そっちの蟹と貝を見せてくれ」
 まだ使い慣れぬ中国語で、市場の店先で食材を値踏みする道幸の父。
「あいよっ。今朝、夫が獲ってきた蟹だからね、刺身で食べても美味しいよ。この、腹に傷の多い奴の方が肉厚で美味しいんだよ」
 元気良く、異国の料理人を欺くことのない真っ直ぐな人柄。
 行き交う雑踏、値段の交渉に熱を上げる地元の料亭の店員、地元から買い付けにきた主婦達。これまでにも訪れた国々で見られる光景だったが、こうした活気溢れる情景というのは何度見ても飽きないものだ。
 果てしなく広がる青い海をこよなく愛し、共の生きていこうとする人々の躍動感。嵐にも、荒波にも負けず船を漕ぎ出す漁師達と並び、食材を吟味する父の背中がこれまでよりも大きく見えた。
 その時、道幸は誓ったのだ。
 父の味を継ごう。そして、父が目指した本当の料理を作ろう、と。
 今になってその夢が叶ったのかは定かではないものの、その一歩を踏み出していることを疑う余地などない。
「よし、この蟹を三ハイと、貝の方を二キロばかり下さい」
「おっしゃ、良い買いっぷりだ。この干しアワビはオマケだよ。こんなに買って、バーベキューでもするつもりかい?」
 食材を選び終えた父が、毎度のことながら店員との世間話を始めてしまう。
 こうしたことはいつものことなので慣れてはいたが、その時ばかりは少しだけ事情が違っていた。
 市場の向こう、出口とも入り口とも言えない、ただ人混みの彼方から人々のざわめきが伝わってくる。動揺とも取れる、どこか悲しみに満ちた人々の囁く声。
 世間話に花を咲かせていた父も、海を眺めて黄昏ていた母も、道幸も雑踏の向こうを見やる。
「ふざけたことぬかしてんじゃねぇーよッ! 誰が俺らのシマで勝手に店を広げて良いって言ったんだッ?」
 活気に溢れていた市場は静寂に包まれ、代わりに男の怒号が響き渡る。
 強面の男が数人、一組の一家を取り囲んで怒鳴り散らしていた。
「何度でも言ってやる。ここはお前らの私有地でもなんでもない。私達が商売をしようと、口を出される云われなど一つもない」
 一人でも竦み上がってしまいそうな強面の男を数人も前にして、一家の長であろう男が果敢にも言葉を紡ぐ。男達に比べれば非力に見えてしまう、痩躯の男だった。
「貴方達こそ、ここにいる皆さんの生活を脅かす権利がどこにありましょうか? 貴方達だって彼らが獲ってくる食材によって生活しているのですから、この市場を支配することは死活問題であることは重々理解してらっしゃるでしょ」
 長と比べても引けを取らぬ女性さえ、前に進み出て男達を説得しようとする。
 ただ一人、両者の娘であろう少女が両親の背中に隠れていることを除けば、市場の皆が男達を反感の目で睨みつけていた。
『そうだ、そうだ!』
 怒涛のような人々のブーイングの嵐に、男達がたじろぐ。
 しかし、いつまでも気圧されている男達ではなく、言葉では敵わぬと分かれば愚直にも暴力で訴えようとしてくる。流石に銃火器では拙いと分かっているらしく、急所にでも当らなければ殺傷力の低い小刀を抜き放つ。
 しかし、例え小刀と言えど、防ぐ手立てを持たぬ常人には十分な凶器と成りえる。それを言えば、男達と退治する夫婦もそれに当てはまる。
 はずだった。
 そう、彼らを知らぬ道幸や、彼の両親にしてみれば小刀を持った集団に立ち向かおうとすることの方が愚かな行動だろう。だが、夫婦は怖気付いた様子もなく静かに男達を見据え、背中に隠れていた娘を手近な人達に預ける。
 そして、夫婦が空手か何かの武術らしき構えを取って、男の方が口を開く。
「周囲への気遣い、感謝する」
 嘲るでもなく、挑発するでもない、率直な謝意を口にしたのである。
 そこに、夫婦の本当の騎士道、もしくは武士道というものを見た道幸。
 それでも、喧嘩など犬の糞よりも避けて通るような道幸の父でさえ、やはり両者のぶつかり合いを止めたかったのだろう。
「御仁、心遣いは感謝する。しかし、無用な怪我人は出したくない。下がっていてくだされ」
 父が間に入ろうとしたところで、男は背中に目がついているかのように制止をかけてくる。
 男の制止に、父は有無を言わずに立ち止まる。まるで、見えない壁が父の前に立ちはだかったかのような、素人目には分からない威圧感があった。
「ちっ。ゴチャゴチャぬかしてんじゃねぇよ! こないなら、こっちから行くぜッ!」
 男と父のやり取りに痺れを切らせた強面の一人が、怒鳴りながら突っ込んでくる。ある程度武術や戦いというものをかじった人間になら、強面の愚直さが分かったであろう。
 刃渡り二十センチほどにも満たない小刀を利き手で握り、柄の尻に手を添え、添えた手の甲を腹部に押し当てながら飛び込んでくる。普通の特攻に見えて、それは特攻ではない。ただの、自殺だ。
 普通の人間なら刃物を持って突撃すれば竦み上がってしまうのだろうが、男ほどの実力になれば定規を構えて駆け込んでくる学生にしか見えない。それに、そのままでもリーチが短い小刀を引いては、更にリーチが短くなるだけ。
 男は突撃してくる強面を、冷静に見据えて佇む。避けるつもりはないらしく、利き手と利き足を前に踏み出して腰を屈めた態勢は崩さない。
 強面が、男の懐に踏み込む。
 遠目に見れば、確実に小刀が男の腹に突き立ったタイミング。しかし、強面が反転しながら男の後方へ吹き飛んで行く。
 道幸には、いったい何が起こったのか理解できなかった。
 単純に説明すると、強面の突っ込んでくる勢いを後方に受け流しながら、上空に跳ね上げただけである。小刀を受け流しつつ、真っ直ぐに伸ばした五指で腹部を突き上げるだけで、強面は自分の助走で後ろに吹っ飛んだというだけの話だ。
 そして、もし突き上げた五指が指ではなく、ナイフならば強面はどうなっていただろうか。正当防衛を成立させるために素手で向かいあってくれたことを、強面は男に感謝するべきだ。
 次に、強面達は男に敵わないと思ったのか、もっと弱そうな女性の方へと敵意を向ける。
 今度は一人での特攻ではなく、集団で取り囲んで四方八方から切りかかる。周囲の人間は強面達の攻撃を卑怯と取るだろうが、女性には多勢も無勢も関係はなかった。
 小刀を振り上げることで隙の出来た喉仏、腹部に素早い貫手を打ち込む。大の男を一撃で吹き飛ばせる刺突を貫手と呼ぶのかは定かではないが、ヘヴィー級のボクサーが繰り出すストレートほどの威力はあろうか。正面の敵を倒すと、身を翻して左右から切りかかってきた小刀を避け、軸足を残したまま間合いに踏み込んできた強面の顎を蹴り上げる。最後に、振り下ろす踵を左から襲い掛かってきた敵の脳髄に叩き込み、膝蹴りで右の一人を昏倒させる。
 貫手で正面の三人、流れるような足技で左右と後ろの三人を迎撃した。残りの二人は、いつの間にか背後に回りこんでいた男が手刀で気絶させている。
 その一連の動きを、道幸には目にも止まらぬと言うに相応しい早業でやってのける夫婦。
 最初に吹き飛ばされた強面が、ヨロヨロと立ち上がる。目の前の光景に、一瞬だけ理解を超えていると言いたげな顔をしてから、すぐさま自分達が夫婦に敵わぬと悟ったらしく仲間を助け起こそうともせず逃げ去ってしまう。他の八人も一時の暗幕から目を覚まし、蜘蛛の子を散らすように逃げって行った。
 次の瞬間、強面達がいなくなった海辺の市場に、拍手と喝采が響き渡る。
「イヤッホォーッ!」
「やっぱり凄いぜ、竹雷(ソウラオ)さん達は」
「よっ、憎いぞ我らが救世主!」
 市場の皆が口々に賞賛を投げかける。
 ソウラオと呼ばれた夫婦は、夫は気恥ずかしそうに手を振りながら応え、妻は己のはしたなさに顔を覆い隠す。
「す、凄い……」
「見事なものです。私が手を出さなくても、確かに問題はありませんでしたね」
「夫よりもカッコ良かったですよ」
 道幸や両親も、ソウラオ夫婦に賞賛の言葉を投げかけた。
 誰もが、ソウラオ夫婦を敬う。ただ一人、自分の両親を静かに見つめる娘を除けば。
 道幸と変わらぬ年頃の、伸ばし始めたばかりの黒いロングヘアーと、新月の夜を思わせるかのような双眸を持つ少女。今は名も無き殺し屋『新月の狐』となる少女の名は、竹雷 蛍(ラン)。
 そして、道幸が彼女と出会ったのは、最初で最後のランとしての姿であった。



 そこまで話をして、口を噤んだ。
 訊かれたから、仕方なく話したのは彼女自身だった。今更、こんなことを思い返したところで、何にも意味はない。
 ただ、何も話さないままでは林檎が納得しないと思ったから、道幸との出会いを語っただけだ。
 話の中に出てきた強面達は、上海の経済市場を手中に収めようと企む中国マフィアの一団。その一戦の後、竹雷一家は森一家が作る予定の新作料理を堪能し、しばらくの交流を深めたのである。
 ここまでなら、上海の小さな市場で活躍する一家と、料理人一家の心温まる出会いのワンシーンだろう。純白のシーツに包み込まれた白い裸体をオレンジ色の照明に晒し、ベッドに座り込む彼女が語ったのは今のところそこまで。
 この先の話は、林檎にするべきではない。
 ベッドに倒れこみ、本当の絶頂に達したものだけが得られる余韻に浸り、目を蕩けさせている少女を、悲劇に引き込むわけにはいかなかった。一人の少女が、なぜ『新月の狐』の異名を持つ殺し屋となったのか、という深み。
「今日は、やけに激しいストロークだったわね。二回もイっちゃったわ」
 ことに及ぶ前に、シャワーを浴びたにも関わらず汗ばんだ林檎の髪を撫で、ちょっと悪戯っぽく笑いかける。
 彼女が達した回数など、林檎が絶頂を迎えた回数に比べれば火を見るより明らかに少ない。まあ、こういうことは経験が物を言うということなのだ。
 林檎は何も応えず、多くの血に塗れた掌で撫でられていることさえ忘れ、目を閉じてその心地よさに浸る。
 果たして、性感帯を擦り合わせながら語った話を、林檎がどこまで聞いていたのかは分からない。最初から最後まで聞いていなかったのかも知れないし、最後までちゃんと聞いていたかも知れない。
 まあ、どちらにせよこうした場で語るべき身の上話ではなかった。
「蛍さ……いえ、狐さん」
 狐が額を撫でてやっていると、林檎がポツリと漏らす。
「なに? まだやり足りない?」
 撫でるのを止めて、林檎の耳元で悪戯に囁いてみる。林檎は返事をすることもなく、ジーッと狐の顔を見つめる。
 狐を睨んでいるような、哀れんでいるかのようにも見えて困っているようにも見えてしまう。まだ、道幸に狐が盗られてしまうとでも思っているのか。
 けれど、林檎の顔に映るのは憤怒でも悲憤でもなく、己に対する叱責のそれだった。
「私、道幸さんに妬いてたんです」
「分かってる」
「狐さんが、誰か一人を愛し続けられない人だと分かってます」
「その通りよ…」
「例え説教されたところで、自分の行いを悔いない人だってことも」
「後悔も、懺悔もしない」
 目の前の林檎という少女は、言葉にしなくても人の考えを察することが出来る。高屋という少年ほど行動力が無くとも、誠司という少年よりも冷静にはいられないけれど、他人の考えることの一足先を読める。
 だから、林檎達は道幸と初めて顔を合わせたが、彼が狐に好意を抱いていることも分かっていたのだろう。例え狐にその気が無くとも、ああして何度もレストランに通っていれば、野暮用があるからと言っても林檎が心配になるのも分かる。
 けれど、林檎が言うように、狐には誰か一人を愛し続ける甲斐性など持ち合わせていないのだ。今にどれほど熱狂的な愛を囁いたところで、それは一夜で終わるキャンプファイヤーと同じ。ならばこそ、自分のことなど綺麗に切り捨て、林檎自身が本当に愛する誰かと常夏の温室で過ごすことが望ましい。
 さて、自分はどうするべきか。
 一夜の炎となるべきか、開き直って真っ赤な果実を手放すのが善処だろうか。
「貴女は、もっと素敵な……」
 男と付き合うべきだ。そう言おうとしたところで、林檎が再び口を開く。
「恥ずかしいですよね。私は、ただ怖くて二人を引き離そうとしてたんです。このまま放っておいたら、狐さんが狐さんじゃなくなってしまうような気がして、怖かったんです」
 最初に聞いたばかりの時、林檎の言っている台詞の意味が理解できなかった。
 自分が自分ではなくなる。
 憶測としては、気高き人食い狐が人に飼い慣らされ、大人しいペットとなってしまうということか。道幸と出会ったことによって、殺し屋としての道を引き返すのではないか、そう心配しているのかもしれない。
 だが、
「私は私。『新月の狐』であって、それ以上の何者でもないわ」
 狐は林檎に微笑みかける。いつものような、まったく気だるげな微笑。
「……そうですよね。ごめんなさい、私ってば要らない心配ばかりして」
「別にいいのよ。それだけ、私のことを想ってくれているってことだから。さあ、汗を掻いたままじゃ眠れないでしょ、シャワーでも浴びてきなさい」
 林檎が安心したところで、一夜の夢を洗い流すことを促す。
 ベッドから出た林檎が風呂場に消えた後、狐は脱ぎ捨ててあった衣服の中から携帯電話を取り出す。
 携帯電話に入っている電話帳機能を使わず、ボタンをプッシュしてどこかに電話をかけた。小さく鳴り響く呼び出し音。深夜に近い時間にも関わらず、電話先への配慮など微塵も感じられない。
 狐が考えることは一つ。
 自分が自分であるために、必要なのは殺すこと。殺し続けることによって、『新月の狐』は闇夜の世界で生きていけるのだ。殺すことが出来なくなれば、それが終焉であるから。
『はい。お待たせしました』
 寝ていたわけではないらしい、ハキハキとした口調の人物に電話が繋がる。
「例の件、引き受けることにしたわ。明日にでも手っ取り早く片付けるから、報酬の準備はしておいてね」
 狐は、簡潔にそれだけを伝え、電話を切る。
 全ては夜明けの静けさと共に変わり始める。



 それはほんの僅かなもの。起ころうが起こるまいが、普遍的なこと。小さな箱庭にいる者達だけが、戸惑い驚くだけの変化。
 ただ、彼らはそれが変わり始めていることを知らない。
 何も知らず、三人はいつもの日常を享受する。窓から差し込む陽光も、知る顔や知らぬ顔の喧騒も、全てが彼らにとって変わることの無い日常だった。
 教壇に肘をついて頬杖をつくイェーチェ、机に足を上げて頭の後ろで腕を組む高屋、何度も読み直したであろう教科書に目を通す誠司。
 普通の、満ち足りた日常。欠けているものと言えば、いつもなら三人と一緒にいるはずの少女の姿が無い、ということだけ。
 しかし、昨日の行動を考えれば納得がゆく。これまでは塾を休むことも稀だった林檎は、狐と付き合い出してから変わった。絶対に出席しなければいけないわけではないが、狐と出かけた翌日は大抵の場合塾に顔を出さない。
 普段はちゃんと顔を出すし、両親を心配させない程度には成績も取っているので、講師陣からは何とも口を出すことは無かった。高屋も誠司も、逐一仲間のことにまで干渉しない。
「今日は、やっぱり来ないのかねぇ」
 椅子を揺椅子のように傾けながら、高屋が呟く。
 小休止を挟み、そろそろ次の講義が始まろうとしていた頃のこと。林檎の姿が無い教室を見渡して、何気なく口にした高屋の台詞だった。
「昨日はお楽しみだったのでしょ。明日になれば、また学校の方にも顔を出すよ」
 高屋の言葉に、誠司が教科書から目を離して応える。
 どうやら、学校にも来ていなかったらしい。それを非行と呼ぶのかは甚だ妥協点が不明だが、人生の道を踏み外さなければ良いと諦観を決めるイェーチェ。イェーチェがこの塾に勤め始め、高屋がちゃんと講義に出るようになり、狐と付き合い出してからむしろ林檎の成績は良くなっているのだ。
「欲求不満っていう奴かな?」
『…………』
 人目をはばからない講師の危険発言に、高屋と誠司が周囲を見渡す。
 次の講義は稲城 誓子――この塾の塾長――なので、ほとんどの塾生は教室を移動していた。
「それにしても、あの狐に普通の幼少時代があったとはね……」
 ほとんど人がいないとは言え、これ以上危険発言を続けさせるわけにも行かず高屋が話を切り替える。
「私も狐のことを知っているわけじゃないが、物心がついたときから殺しをやってるわけじゃないだろうよ。道幸も、どうして狐が殺し屋になったかは知らないみたいだからな」
「あのサングラスの男性は、何も知らないんですか? 割と、そういう話には詳しそうですけど」
 誠司が言うサングラスの男性というのは、庵明 響のことだろう。イェーチェが住んでいるアパートの県警に勤めている隣人の、先輩に当る気ままな不良警官だ。何年か前にイェーチェが関わった裏社会の何でも屋で、極東の田舎県警に腰を落ち着かせた今でも裏社会に精通している。
 まあ、流石に狐の過去まで調べるとは思えないが。
「調べてたら調べてたらで、妄執的な何かを感じられるよ」
 イェーチェは無駄に馬鹿笑いをしてみる。
 高屋達は呆れるしかない。と、そこで高屋が何かを思い出したように神妙な表情を作る。
 周囲に人がいないことを確認してから、指で顔を貸せと合図してくる。
「どうした?」
「どうしたもこうしたも、これ以上は道幸に関わっている狐に林檎を関わらせるのはまずいぞ」
 イェーチェの短い問いに高屋が自分の失態を悔やむ。
 誠司は、何かを納得したらしく元から細い目を更に細めて高屋を睨んだ。
「あの噂は本当だったのか。堅気の仕事をしているから風評だと思っていたが……」
「仕方ないだろ、あんな屈託のない笑顔を見たら誰もヤクザと繋がってるなんて思えないぜ。俺の不良仲間から聞いた話だから、道幸の叔父がこの街で悪どい稼業に手を出してるってのもどうだか」
 教壇の上で顔を突き合わせ、誠司と高屋がヒソヒソと話す。
 それを聞いて、イェーチェが呆然とする。
「それは、本当か……? まさか、狐が道幸のところに通ってるのも、その関係で……?」
「そう考えるのが妥当だろうな。恋愛話でもなく、再会を喜ぶでもなければ、何か仕事を頼まれているって思った方が悩まなくて済む」
 二人の情報力に驚きつつも、イェーチェの憶測が脳内で悪い方向へと進んでゆく。
 しかし、根拠もなく思うことがある。
 狐ならば、仕事を引き受けたところで林檎を巻き込むような失敗はしないはずだ。血生臭い光景を林檎には見せられないし、足手まといになる以上は仕事の話を林檎の前でするとは思えない。
「とりあえず、このことは林檎には黙っておけ。狐の奴がどうするにしても、林檎が聞いたら黙ってるとは思えないからな」
 とりあえず、イェーチェの意見に二人も賛成のようだ。
 が、その場凌ぎの緘口令も虚しく、三人の会話は筒抜けだった。今日は来ないと思っていたはずの人物が、こちらの意図を介することなく来てしまっている。
「……今の話、本当なの?」
『…………』
 教室の入り口から聞こえてくる聞きなれたソプラノボイスに、三人は硬直して何も言えない。肯定せずとも、既に信じきってしまった安穏さの欠けた神妙な口振り。
 振り向けば、案の定、林檎の姿がそこにあった。
 どこからどこまで聞いていたかは知らないが、道幸の裏の顔と狐の関係については全て聞かれていただろう。今更上辺だけ繕ったところで、林檎の行動を止めることは出来ない。
「今は狐に関わるな――ッ」
「――ごめんなさい!」
 ストレートに制止を掛けようとしたが、それも虚しく謝ると同時に林檎が駆け出す。
「クッ! どうしてこんな時だけ、あいつはじゃじゃ馬になるんだッ?」
 イェーチェが悪態を吐きながら後を追うが、意外にも林檎の足は速く、塾の外に出る頃には背中を見失っていた。
「お〜い、もう講義始まっちゃうよぉ〜」
 二階の窓から、無造作に跳ねた髪を掻き乱しながら女性が顔を出す。今の時間に講義をする塾長の誓子だ。イェーチェは声に振り向き、無言のまま手を頭の上で合掌する。
 謝罪と、外せない用件だということが伝わったのか、誓子は小さく溜息を吐いてから「言って来い」と手を振る。次に人差し指と親指で円を作り、今度は握り拳のまま人差し指を立てる。最後に、蛸口やら手首を捻るジェスチャーをするが、イェーチェには訳の分からない
「たこ焼一パックで許す。ヒョットコ屋の奴ね。と言っています」
 誠司が的確に通訳してくれる。
 どうやら、指での仕草はたこ焼の一パックのことで、最後のジェスチャーはお店の指名だったらしい。こんなときにまで、たこ焼にこだわる誓子のオタク振りに呆れるしかなかった。
 が、四の五の言ってもいられず、握り拳のまま親指を立てて見せて林檎が走り去ったであろう方向へ向かう。
 向かう先は、たぶん、森のレストランだ。がむしゃらに探したところで狐の居場所など分からないだろうから、仕事を依頼した道幸がその辺りは一番分かっている、はず。
 当っていなかったところで街中を虱潰しに探すつもりだったが、予想通りと言いたくなるぐらいに林檎の姿を見つける。
「どこッ? 狐さんは、どこに行ったのッ! 教えなさいッ!」
 夕方前の商店街を駆け抜け、人混みを掻き分けてレストランに辿り着いた時には、既に林檎が道幸を問い質していた。
 今まで見たこともない鬼気迫る表情で、道幸の襟首を握り締めて声を荒げる林檎。扉を開けて呼び鈴が鳴ったにも関わらず、まだ数人の客がいる前で林檎は道幸に唸り掛ける。
「あ、あいつらの事務所に……。商店街の外れにある、二階建ての廃ビルみたいなところです」
 道幸から狐の居場所を聞き出して、林檎が握り締めていた襟から手を放して踵を返す。
 振り返った林檎の顔には、天使を思わせる愛らしいさなど消え失せて鬼か悪魔の如き形相が浮かんでいる。一瞬でさえ、三人が気おされて言葉を失うほどだ。
「……林檎、そこまでだ。お前が行ったところで、狐の邪魔になるだけだぞ。それに、街のゴロツキ如きに怪我をするほどヤワな奴じゃない。なんたって――」
 裏社会で名を轟かせる殺し屋『新月の狐』なのだから。そう言おうとしたところで、不意に呼び鈴が鳴る。
「ちわ〜、お取り込み中悪いんだけどさ、あの話はどうなったのかな? そろそろ返事を聞かせてもらえると嬉しいんだけど」
 店に入ってくるなり、スーツ姿の男が間延びした口調で言う。
『……?』
「叔父のところの取り巻き達です」
 イェーチェ達の、誰だ、と言いたげな表情に道幸が答えてくれる。
 スーツの色こそ違えど、似たような格好の男が数人ほど店に足を踏み入れる。普通に立っているだけなら少し強面の商社マンぐらいにしか思えないが、懐の膨らみが堅気ではないことを教えてくれていた。
「そこを退いてください。よろしければ、貴方達の事務所まで案内してくれると助かります」
 男達が懐に何を隠し持っているのか分かっていないのか、林檎が怖気付いた様子も見せずに突っ掛かってゆく。
 誠司ばりの慇懃無礼な態度に、男達が眉を寄せる。
「所長に用事か? 悪いけど、俺達はこちらのセガレさんに用事があるんだわ。また今度にしてくれや」
「何度言えば分かるんですかッ? 僕はこの店を手放す気はありません。叔父さんの援助が無くとも、立派に店を切り盛りしてゆくつもりです。そう、貴方達の所長さんにお伝えください」
 男達の軽い口調に、道幸が鋭い返答を返す。
「あぁ〜。所長が、身寄りの無いセガレを引き取ってくれるって言ってるのによ、それはねぇんじゃないかね?」
 男達が、懐に手を突っ込んで口元を吊り上げる。
 言葉で説得できないと見るや、直ぐに暴力で訴えようとする。義理仁情のある奴らではなく、本当に街のゴロツキらしい。
 客達はこれから起こるであろう騒ぎを察し、誰に言われるでもなくソソクサと店を出てゆく。
 どうやら、これ以上の係わり合いは危険らしい。まあ、それよりも先に我を忘れた林檎をいさめなければならない。だが、イェーチェが動くか否かのうちに、林檎が静かにアクションを起こした。
「そこを……」
 低くくぐもった声。
 握り締められた拳が、残像を残して動く。
「退けって言ってるだろうがッ!」
 見事なまでの裏拳が、最初に入ってきた男の顎を弾く。
『……ッ』
 しまったと、高屋と誠司が額を抑えて顔を伏せた。
 お姫様から一皮剥けて狂戦士“バーサーク”と化した林檎の行動に、イェーチェは二の句が告げない。
「どうやら」
「やるしかないみたいだな」
 高屋と誠司が顔を見合わせ、呆れ口調のまま声を重ねる。
 かくして、ここに一介のヤクザとただの高校生による乱闘が始まるのだった。



 平穏で、一般的な市民が集う商店街に、パトカーのサイレンと赤いランプの光が煌いたのは、本日で二度目となった。
 一度目も、確か今と同じ秋の頃合だったか。道幸のレストランに足を踏み入れた、近所に在住する刑事が万引き及び強盗犯を捕まえた時も、パトカーが近隣の住民達を不安に駆り立てたものだ。
「また、派手にやったな……」
 引っ繰り返ったテーブルや、床に散らばった料理の残骸を一瞥して、溜息混じりに若い刑事が口を開く。
 散らかっているのは、何も料理や食器の破片だけではない。乱闘があったことを明らかに示すため、幾らかの鮮血が白いタイルを汚している。血液の量からして、死者や重傷者が出ていないのは一目見当がつくだろう。
「それで、乱闘の結果がこの体たらくか? ただの乱闘で収めておけばいいものを、どうして誘拐なんて真似を……」
 殺人事件に発展しなかっただけが唯一の救いだが、それよりも拙い状況になっていた。若い刑事――桂木宗谷が言うように、人が一人攫われたのだ。前半の言葉は、犠牲者を出した馬鹿者どもへの言葉。後半は、一時の喧嘩でことを納めなかった馬鹿者どもへの台詞。
 乱闘の前にレストランから避難した客に、犠牲者はいない。レストランに居座るのは、家主の道幸と、乱闘を一人だけで回避していた金髪の少女、床に倒れている生傷だらけの青年が二人。
「どうしてお前がついていながら、教え子を攫われるようなことになった。乱闘だけでも十分な障害事件だが、誘拐となれば立派な重犯罪だぞ」
「すまん……まさか、狐との取引に使われるとは思わなかった」
 金髪の少女、青年と誘拐された少女の講師であるイェーチェが心底真面目に謝罪する。
 宗谷に謝ったところで意味はないのだろうが、予想できる乱闘の状況でイェーチェが何かできるとは思えない。愛用のヒョウは普段持ち歩かないので、持ち前の身軽さで打撃を回避することしかできなかった。
「まあ、チャカを持ち出されちゃ」
「最後には、黙るしか、無いでしょ」
 倒れこんでいる二人の青年が、イェーチェを弁護するように息絶え絶えに言う。
「あの女狐が関わってるとなると、これ以上に血生臭いことが起こりそうだな……」
「宗ちゃんは、ここの処理を頼む。林檎は、私達が助けに行く」
 無謀にも、ヤクザの抗争よりも酷い泥沼に、足を踏み入れることをイェーチェが宣言する。
 それは、イェーチェとしての責任。義務や使命といったものを放り出した、償い。
「……分かった。非番の俺がここで口出ししてどうにかなるとは思えないが、ここでお前らを傷害罪及び器物破損罪で立件するのは保留にしておくよ」
 イェーチェの覚悟を覆すことなど出来ないと知って、宗谷が独断でパトカーを引き上げさせる。
「ガキ共の喧嘩みたいだし、店の持ち主も許してるみたいだから、帰ってもいいぞ。供述書の方は、俺が出しておく」
 非番とは言え、県警の警部補に言われては他の刑事達も口出しできないのか、すんなりとその場を引き払ってしまう。まさか、後の口添えでとある人物の手引きによって全てが丸く収まったなど、宗谷には知り得ないことであろう。
 響には、感謝せねばなるまい。
「さて、立てるか、お前ら。いつまでも寝てると、林檎が傷物にされちまうぞ。あぁ、もう狐に傷物にされてるか」
 相変わらず自重しない危険発言に、高屋と誠司が呆れながらも立ち上がる。
 林檎が攫われて半時ほど。ヤクザどもは車で行き来しているらしいので、既に自分達の巣窟に戻っているだろう。
『あの殺し屋が、そっちに?』
 乱闘の途中で掛かってきた電話の内容を聞くに、狐もヤクザの巣窟に足を踏み入れている。つまらない田舎のヤクザがどこで『新月の狐』の名を知ったのかは分からないが、イェーチェ達が愛称として呼ぶ『狐』の名前だけで仲間だと勘繰られてしまった。そして、イェーチェ達の中でも一番人質にし易かった林檎が、攫われたというわけだ。
「すみません、僕の勝手な都合に巻き込んでしまって……。簡単なものですが、奴らがオフィスにしている廃ビルの場所です。どうか、ランとあの娘さんを助けてください」
 道幸が簡単な地図を手渡しながら頭を下げてくる。
 謝られても、イェーチェには何とも言えない。半分はこっちが勝手に首を突っ込んだのであって、半分は半端強制的に巻き込まれただけのこと。
「それに、助けるのは林檎だけだ。どんな状況でも、私達が助力することを狐は喜ばないよ」
 レストランを出て行こうとするイェーチェが、背中越しに苦笑を漏らす。
 例え狐が死に掛けていたとしても、手を差し伸べようと掴み返してはこない。逆に、命を縮めてもナマス切りにしてくるのがオチだ。助けに行って殺されるなど、冗談でも勘弁願いたい。
 高屋と誠司も同意見らしく、目先にあるのは林檎救出という任務だけだ。
 まさか、三人がたどり着いたときに、あんなことが起こっているとは知らず、彼らは無意味な作戦を決行するのであった。



 時間は少し遡り、レストランでの乱闘が始まる数分ほど前。
 依頼主の説明通りに道を進み、この辺りに住み着いてから一度も訪れたことの無い地域へと足を踏み入れる。
 この極東に来てから、正式に受ける依頼としては二度目となる。本当のところ、『新月の狐』なる異名で呼ばれる殺し屋は、今回の依頼を受けることに気乗りしなかった。
 自分で選んだ仕事とは言え、内容を選ぶ権利は与えられている。渋っていた理由は、恐怖や善意といった私情ではない。
 これがもし、別の極道一家からの依頼ならば、二つ返事で引き受けていただろう。しかし、依頼主はなんでもない一般市民。標的“ターゲット”の身内というだけで、平穏な商店街でイタリアンレストランを営むだけの平々凡々とした男なのだ。
 依頼料が事細かに決まっているわけではないし、依頼主が出した金額は一般人の出せる料金を遥かに上回っていた。気乗りしないことを理由に嫌味のつもりで出した百万円という大金を、細々と営んでいる小さなイタリアンレストランが開店早々に出せるとは思えないが、ちゃんと指定の講座に振り込まれていたのだから今更断るわけにも行くまい。
 それほどまでに、両親が残した遺産が莫大だったということか。
 そして、依頼を引き受けることを渋った理由は、依頼主の立場だけに留まらない。
「余所者の私が手を出すのって、ご法度なのよねぇ」
 吹き抜ける乾いた風になびく髪を押さえ、小さく呟く狐。
 この街のある一地域を中心として、ある程度の範囲から街の空気が一変する。今、狐が佇むそこは、一般市民が行き交う長閑な雰囲気から、黒く澱んだ世界が広がる地区“ブロック”へと変貌していた。
 どこからどうみても堅気とは思えない容姿の男女が、パブやら覗き屋といった風俗店を構える。
 まさに普通の商店街と歌舞伎町が隣接するような状況が、人知れず存在する。一般人は本能的に、もしくはあらかじめ得た情報を頼りに足を踏み入れたりしないのだろうが、そこは小さな背徳の街としてアウトサイダーを形成しているのだ。こうした現状はどこにでもあるとは言え、全く無関係な人間が手を出して良いものではない。俗に『シマ』と呼ばれる縄張りを作り、そこを界隈として裏の事業を行う住人達にとって、狐のような余所者は異端以外の何者でもなかろう。そして、新参の参入組が現れることがあっても、個人の事情でその均衡を崩すことは裏社会にしてみればご法度。決して触れてはならない無法地帯のルールとして、暗黙の内に決められている。
 それが、表社会と隣接している裏社会の末端とは言え。
「ここ、ね。廃ビルとは聞いていたけど、割と綺麗じゃない」
 都会の高層ビル郡ほどではないにしても、小さなヤクザ者達のオフィスが並ぶ中、目的の建物を見つけて狐が独白する。所々、外壁が剥がれ落ちたりしているものの、人が住める程度には体裁を整えてある。
 そこを自分達の『シマ』だと主張するように、入り口に数人の見張りが屯していた。
「なんだ、そこのアマ。俺らになんか用でも?」
 見張りの一人が、自分達の巣窟を見上げる狐に声を掛けてくる。
 まあ、余所者の狐にしてみても、これから行う営業に礼儀正しい挨拶やら手引きなど無用。ただ、必要のない見積もりを出さぬために忠告だけはしておく。
「ここのボスに会いたいの。アポは取ってないけど、飛び入りだから許して。営業の邪魔は、しないのが身のため」
 いつも通り、普段と変わらない気だるげな口調。服装は、いつもの仕事着。
 さすがに黒装束の女を目の前に、見張り達も営業マンとは思ってくれまい。怪訝そうな顔で狐を睨みつけ、お互いに顔を見合わせる。
「ボスに用事だと? 残念だが、ボスはお忙しいのでね。また、ちゃんとアポを取ってからにしてくださいな」
 ここは通さない、という意図が読み取れる明確な返答。
 その決定打に、狐は動く。
「カッ……」
 ベストから名刺代わりに取り出した一閃が、断末魔を、しばしの沈黙の後に絶叫を、呼ぶ。
 一瞬、見張りは何が起こったのか理解できなかっただろう。まさか、名刺代わりの銀閃に喉仏を掻っ切られたなど、思いもしない。
 見張りの返答に返すのは、明確な殺意だけ。
 たったコンマ一秒の間に人殺しが行われたことに気付いた周囲の呼び込み嬢達が、目を見開いて悲鳴を上げる。
 続いて一振り、二振り。直ぐに、入り口の前に数個の屍が積み重なった。顔に掛かる鮮血など意図せず、狐は生存者がいないことを確かめてオフィスに入ってゆく。
 呼び込み嬢の悲鳴で外の様子に気付いた仲間が、廊下の途中にある扉から顔を覗かせる。そして、血塗れになって廊下を歩む狐を見て、声もなく固まるのだ。
 人外の狂気と絶世の美貌を兼ね揃えた女性に、彼らは何を思っただろう。恐怖、あるいは理不尽。外国のスプラッタ映画ばりの光景に、誰がそれを現実だと認められるか。
「と、止まッ……」
 呼び止めようとした勇敢――否、無謀な愚か者の喉元を容赦なく切り裂く。魅せしめるような真似をしなくとも、それだけで沈黙が訪れる。
 こうして誰かを殺す度に、狐は思う。あぁ、これが本来の私、なのだ、と。
 そして、一つの仕事が終わった頃に実感する。
『私は、私であるために、殺し続ける。それが、私の生きる意味だから』
 幾らかある部屋の中から、目標のいる部屋を見つけるのはさほど難しくはなかった。人の気配がするにも関わらず、誰も顔を出さない扉があれば、訝しく思うのは当然のこと。案の定、扉を開いたところに一等立派な部屋があった。
「驚いた。噂には聞いていたが、私のような末端の社会人を、君のような殺し屋が殺しにやってきてくれるとは」
 部屋に入るなり、少し髪の毛の薄い痩躯の男が値の張りそうな机に鎮座して苦笑を漏らす。これから殺されることを知りながら、なかなか肝の据わった男だ。どこか中間管理職といった風貌に思えるのは、やや否めないが。
 周りには、扇状に広がって身構える取り巻きが数人。どいつもこいつも、馬鹿の一つ覚えみたいに中国製のトカレフを構えている。安い代わりに動作不良“ジャミング”が多く、一般人を脅すぐらいにしか使えないモデルガンと大して変わらぬ不良品。
 さて、どうしたものだろうか。幾ら不良品が多い銃火器でも、一発や二発は銃弾を吐き出してくる。二十数発の弾丸を叩き落せるほど、狐は出鱈目な人間ではないつもりだ。
 これからの動きを予測しているところで、唐突に機械的な呼び出し音が鳴り響く。
「おっと、商談の前に営業主任から電話のようだ」
 ヤクザのボスが懐から携帯電話を取り出した。
「何だ? 今、あの『新月の狐』が私を殺しに来ている。道幸の差し金だろう。あぁ、そいつはなかなかの功労賞だ。直ぐに連れて来い」
 何の話をしているかは知らないが、会話の端々から読み取れる不穏な気配。
 ボスが、電話を切らずに狐に向き直る。
「商談の前に、少々こちらが有利になるよう準備をさせてもらったよ。この声に聞き覚えはあるかね? 何か話させろ」
 狐に言った後、電話越しに指示を出してそれを放り投げてくる。宙を舞う電話を受け取り、気を逸らせることもなく受話器に耳を当てる。
『こらッ! 離しなさい! そこにいるんでしょ、あんたらの頭がッ? 狐さんに手を出したら、タダじゃ置かないんだから!』
 受話器から聞こえてくる鼓膜を破らんばかりの声に、二つの意味で驚く。一つは、声が大きすぎること。二つは、その声に聞き覚えがありすぎたこと。
「……どうして、林檎が? まさか、人質にするつもり?」
 受話器から耳を離して、ボスに問いかける。
 返答は簡単に、首肯を一つ。
 狐が唖然とする。
「悩むことはない、君だって仲間を殺されるのは本望ではないはずだ。どうだ、私につかないか? 道幸の出した報酬“ギャラ”の二倍……いや、三倍は出そう」
 ボスが、ここに来て商談を持ちかけてくる。
 しかし、狐が自失呆然としたのは、林檎を人質に取られた驚きからではなかった。心底、目の前の奴らが単純だったことに呆れたからだ。
 やることの構図が単調で、考える全てが在り来たりな馬鹿ども。これには狐とて、二の句が告げなくなっても仕方がない。ならば、返すべき答えは決まっていた。
「良いわ、この商談は無料“ロハ”で引き受けましょう」
「ほう、裏の世界に名立たる殺し屋にしては、太っ腹ではないか」
 狐の返答に、ボスが諸手を挙げて喜ぶ。取り巻き達も、凄腕の殺し屋が味方についたことでトカレフの銃口を下に下ろす。
 狐はゆっくりとボスの座る机に近づき、仏頂面を破顔させる。そして告げた。
「何を勘違いしているの? 無料って言ったのは――」
 狐の宣告に、再び男達が訝しげに顔を歪める。
「――あんた達を殺す仕事が、よッ!」
 台詞と同時に、夕暮れの陽光が差し込む室内の虚空に銀閃が走る。
『ッ!』
 取り巻きが気付くよりも早く、ボスの喉仏から血飛沫が舞う。続いて、銃口がこちらに向けられて引き金が引かれる一秒足らずの間に、投擲用ナイフが二人の取り巻きの喉を貫く。
「グッ!」
「ガッ!」
 不良品が銃弾を吐き出す頃には机に片手をついて飛び越え、断末魔を聞きながら三本目の投擲用ナイフを振り向くことなく背後の一人に。銃口で追ってくる前の二人には、ボスの亡骸を乗せたキャスター付の椅子を弁慶の泣き所へお見舞いして、怯んだところへ肉迫するとコンバットナイフを引き抜いて米神から脳髄に突き立てる。もう一人には、振り向き様の足と腰の回転モーメントを後ろ回し蹴りの直線ベクトルへと変換しながら、分厚い靴底のコンバットブーツによる一撃を鼻頭に叩き込んでやる。
 残るは二人。
 一人は先刻の投擲用ナイフを不良品に突き刺した奴と、目前の展開について来れず慌てている奴。
 肉迫してくる狐に驚いた前者が、トカレフにナイフが刺さっていることを忘れて引き金を引く。当たり前のように動作不良を起こして暴発する銃の破片を、クラウチングスタートほどの低い姿勢で躱しながら懐に飛び込み、その勢いを余すことなく振り上げるナイフのエネルギーに切り替える。
 腹部から胸元に掛けて切り裂かれ、内臓を曝け出しながら倒れこむ男。慌てふためく最後の一人は、完全に怖気付いて命乞いをする。
「わ、悪かったッ! 人質は無事に返すから、命だけは助けてくれ!」
 トカレフを床に放り投げ、両手を挙げながら赦しを乞う。
 大の大人が、涙声で失禁までしながら懇願する。それがどれほど滑稽で、馬鹿らしい姿か想像もつくまい。それが、今まで人を殺そうとしていたのなら、尚更ではないか。
 狐は口元を吊り上げながら、目を細めて柔和に微笑む。
 男は懇願が届いたのだと思い、何度もこけそうになりながら出口へと走り去ろうとする。
 だが、狐の笑みにあったのは女神の微笑みではなかった。本人も気付いていたのかは知らないが、これまでの殺しを楽しむつもりで笑っていたのではない。
「ギャッ! ……?」
 逃げようとした男が悲鳴を上げて、もう少しで出口に差し掛かろうというところで倒れこむ。足に刺さった投擲用ナイフと、ゆっくり歩み寄ってくる狐を交互に見つめる。
 狂気とも、狂喜ともつかぬ笑み。そこにあるのは、『新月の狐』として初めて露にした怒り。
 振り下ろしたコンバットナイフで男の肩と床を縫い止め、切り裂くことに特化した三日月刀“シミター”型のナイフで両腕を、両足を、そして腹部を切開く。医学の知識など皆無な術式。殺す、という明確な意思のみを全面に押し出した猟奇的な行為。
 これまでに、これほど血が滾ったことなどあっただろうか。いや、ない。
 どんな時でも、冷静に氷の彫像の如く仕事をこなしてきた殺し屋が、二度も三度も相手を切ることなどなかったはずだ。
 もう、目の前の男に息はない。
 折角手に入れた玩具が壊れたことを知ると、つまらなさそうに立ち上がって踵を返す。男が落として逝ったトカレフを拾い上げ、鼻を圧し折られただけでまだ生きている男に目を向ける。
 次の玩具が自分だと気付いた男が、言葉にならない懇願をする。
「ひゃっ、ひゃへてふれッ! ほ、ほろひゃ……」
 男の意識がシャットダウンするのに、一秒と掛からなかった。
 適当に銃口を向けて、引き金を絞るだけ。タンッという乾いた音の一つで、人の命など直ぐに失われるのだ。なんとつまらない、なんと脆い存在なのか。
「あ〜ぁ、らしくないなぁ……」
 トカレフを床に投げ捨て、頭に血を上らせた自分を嘲笑する。
 それでも後悔はしていない。それが、殺し屋として生きることを選んだ時に決めたことだから。誰かを傷つけると言うことは、傷つけられることを肯定しているのと同じことだ。大切なものを奪う以上、大切なものを奪われる覚悟はしている。
「ねぇ、貴方達もそうでしょ? こうして私は命を奪ったのだから、貴方達にも奪う権利はあるわ」
 狐が誰ともなしに言う。
 視線を出口の扉に向けると、そこには残党に引き連れられた林檎の姿があった。目の前の殺伐とした光景に、誰もが返事を返せずにいる。
 何故、彼らは早く撃たないのか。自分の胸なり頭なり、狙って撃てば良いのに。もしくは、せっかく人質にした林檎の頭に銃口を突き付けて引き金を引くのも良し。距離が遠いのなら、こちらから近づいてやろう。
 何を躊躇う必要がある。
 何に怯えている。
 何故、奪われることを肯定できない。
「危ないッ!」
 狐の中に別の感情が渦巻きかけた時、不意に胸を衝撃が襲う。
 残党の誰かが、やっと引き金を引いた。狐を貫くはずだった銃弾は、空を切って背後の窓ガラスにヒビを入れる。
 その代わりに、狐に抱きつくようにして林檎が押し倒してくる。
「どうして……?」
 私を助けようとするの、と言いかけた。
 殺されるつもりはないが、報復を受ける覚悟はしていた。例え林檎の命を奪われても再び奪い返すつもりでいた女を、少女は身を呈して守ろうとしたのだ。
 林檎の行動理由が見出せぬまま、狐の意識はブラックアウトする。どんな屈強な人間でも、タイルに後頭部を打ち付ければ良くても意識が飛ぶ。林檎も、自分が撃たれたと勘違いして気絶してしまう。



 叫び声は、唐突に上がる。
 嬌声や断末魔とは違うのだが、驚愕には変わりない。
「あの狐が」
「記憶喪失ぅッ?」
 某県県警の警務部刑事課に、人目をはばからない声が響いた。
 声の主は、桂木宗谷とその相棒アンリ。
「期待通りのリアクションをありがとう……。まあ、普通の記憶喪失とは少し違うのだがね」
 耳元で大きな声を上げられ、不快に顔を歪めるイェーチェ。
 乱闘事件があった後の顛末の翌日、県警を訪れたイェーチェは狐に訪れた変化を説明した。
 イェーチェ達が駆けつけた時には、既にヤクザのオフィスは屍に埋め尽くされており、僅か残党が数人逃げ出し、狐と林檎は無事に保護された。
 ただ、問題は狐に訪れた変化である。
「普通の記憶喪失なら、自分のアイデンティティーを一時的、もしくは永久的に失う。けど、狐は違うんだわ。なんと言うのか、狐として人生を歩んでこなかった場合の、If(もし)の人格と入れ替わった状態なんだ」
 その説明に、宗谷とアンリが首をかしげる。
 精神医学に疎い人間でも、そんなことが起こりえるとは思えない。しかし、人の脳とは複雑で現代医学においても未知数のブラックボックスなのだ。
「竹雷蛍という、『新月の狐』ではなく普通の少女としてこれまでの人生を歩んできたのなら、果たして狐はどんな人間になるのだろう。という仮定の人格が、今の狐には入ってるってことだ。もちろん、一時的に自分が殺し屋ということを忘れていたが、これまでに狐として行ってきた行為の記憶は残っている」
 多重人格とは違う、どちらが主人格などという規定のない人格障害。
 今の狐は竹雷蛍であり、狐としての人生を歩んできながらも、別の人生を歩んできたという仮初の記憶を持った人間。
「とりあえず、今は殺し屋じゃないってことだろ?」
 宗谷が、説明やら過程やらを吹っ飛ばして結論を導き出す。
 君はアインシュタインか、と突っ込んでみたくはなったが、細かいことを気にしない宗谷にこれ以上の説明は無意味だろう。
「今のままなら、殺し屋じゃない普通の女性として生きていくことになるな」
「なら良いじゃねぇか。こちらとしては、何の問題もない」
 イェーチェの肯定に、宗谷が嬉々として言う。
 確かに、警察などの国防組織には悪いことなど一つもないだろう。何せ、『新月の狐』という異端を無視することが出来るからだ。
 まず、裏社会に名立たる殺し屋がノウノウと街を闊歩していること自体が間違っている。しかし、狐に手を出して無事では済まない、と結論付けた日本の国防組織が、彼女には手を出さずに監視のみを続ける。と日和見を決め込んだのだから仕方あるまい。ただし、一般市民および日本国家の重役に被害が及ぶ場合、その決定の如何ではない、とされている。
 さらに、ただし、一人の少女は狐の変化を重く見ていた。
「あんな光景を見せられた後じゃ仕方ないが、あんなに覇気のない林檎を見たのは初めてだよ」
 今日の塾にも出てこないで、まるで廃人になったかのような面持ちで自宅のベッドに座る林檎の姿が思い返される。
「それで、狐――いや、蛍って女は何をしてるんだ?」
 宗谷の問いに、イェーチェの口から更なる溜息が漏れる。
 たぶん、現在の狐の動向を気にするだろうと思い、県警に連れてきていたりする。
 学校の転校生よろしく、
「入っていいぞ」
 イェーチェ先生の声に警務部の扉が開く。
 そして、入ってきた転校生に刑事課の面々が硬直する。狐のことを知る人間と、知らぬ人間とは同じ反応でも考えていることは違う。
 知らぬ人間は、その美貌に羨望と情欲を覚え、直視することもはばかれるように目を背けるのだ。
 知る人間は、驚きのあまり口を噤む。今まで、黒一色の装束を身に纏っていた姿に慣れきった者なら、尚更だろう。
 下からコンバットブーツではなくハイヒールのロングブーツに、僅か数センチの高低でショールが覗けてしまいそうな豹柄のミニスカート、プリントシャツにニットのカーデガンを羽織った姿だ。トレンディ丸出しの格好に、引き連れてきた高屋と誠司も頭を抱えていた。
「殺し屋がモデルに転職か……。目指すはパリコレか?」
「俄かに叶いそうなことを言わないでくれ。今の狐さんなら、目指し兼ねない」
 化粧などせずとも万人を魅了する女性は、自分がファッションコンテストにでも出ているかのような足取りで室内を闊歩する。
 宗谷が驚き戸惑って狐を見つめていると、彼女はその視線をどう取ったのか、ジッと目を細めて睨み返す。宗谷は、いつもの狐から感じる殺気に似た気配より、別の気配を感じてたじろぐ。
「……?」
「何見てるのよ。ホントッ、男って厭らしいわ」
 気だるそうな口調もなくなり、近頃の若者といった口調で言い放つ。
 今までの狐がどうだったのかは覚えていないが、性格と口の悪さは例年よりも三割ほど悪化している。
「で、こんなところに連れてきて私をどうしようって言うの? まさか、今更逮捕しようなんて考えてるんじゃないでしょうね。これまでのことは全部、私じゃなくてもう一つの人格がやったことなのよ。私が捕まる言われはないわ」
 ただのお披露目を勘違いしたらしく、一番手近にいた宗谷に詰め寄ってくる狐。
「これで分かっただろ。今の狐は、狐じゃなくて蛍そのものなんだ。まあ、口が悪くても人を殺さないだけマシだと思うが、な」
 イェーチェが呆れたように言う。
 もう一度頭を打てば、嫌でも元に戻るだろうか。医者に見せたところ、脳に異常があるわけでもなく、一時的なものだと言われてしまう。
 人を殺さない普通の女性になったのは警察に嬉しい事実だが、やはりこのままというのは腰の据わりが悪い。林檎の気持ちを考えれば、尚更早く元に戻したいところだ。最悪、再び暴走した林檎が強行手段に及ばぬ可能性も否めない。
「まぁ、しばらく様子を見ようぜ。林檎もこうなっちまったことに責任感じてるみたいだしさ、数日は会おうとも、って……どこ行くつもりだよ、狐さんッ?」
 こちらで話を進めている間に、所轄見学に飽きたのか狐が勝手に外へ出て行こうとする。
 できる限り監視下に置きたい高屋が制止をかけようとしたところで、
「あんた、いつから私の保護者になったの? 私がどこへ行こうと私の勝手でしょ。それに、狐じゃなくて蛍よ!」
 と振り向きながら睨まれて出しかけた手を止める。
「……は、はい。ご、ご自由にどうぞ、蛍さん」
 元から狐に頭の上がらない高屋達だが、人格が入れ替わってもその関係を変えることは出来ないらしい。
 その場の皆が、警務部の部屋を出て行こうとする狐の後姿を見送った。宗谷が、追わなくて良いのか、という意図の視線を送ってきたが。
「ここまで連れてくるのが精一杯だよ。どうやら、私達に付き纏われたくないみたいだ」
 肩を竦めながら応える。
 元の狐の性格に、孤高癖というものはない。しかし、大勢で騒ぐことを好む性格でもなく、どちらかというと静かなところでのんびりと過ごす奴だ。人格が入れ替わったというより、殺し屋としての本能を失った狐、というのが正しい表現なのだろう。
「狩りをしない狐は、ただの飼い犬か……。まあ、あいつが誰かに飼われるなんてことはないだろうけど」
 狐が姿を消した後、イェーチェは外に聞こえない程度の声で嘲る。
 だが、また、殺し屋としての本能を取り戻せば蛍なる女性は再び狐として蘇るということだ。
 果たして、蛍と狐の違いはどこから生まれたのか。
 イェーチェの疑問はその一点に尽きる。
 もし蛍から狐へと変貌する原因が分かれば、その状況を再現することによって『新月の狐』と呼び戻せるかも知れない。いや、何を馬鹿なことを考えているのだろう。
 口が悪く性格が最悪なだけの少女――当時の狐の性格は知らない――が、殺し屋に生まれ変わった原因が綺麗なはずがない。綺麗、汚いなどという形容を通り越した、肥溜めにも捨てることの出来ない土壌汚染即発の廃棄物のような過去、とでも言うのか。
「こいつは厄介だな。ショック療法が駄目ってことは、後ろから殴り倒してみるか?」
「逆に殺されるかも知れないから、止めとけ」
「命が欲しければ、自然に治るのを待つしかありませんね」
 イェーチェの無謀な提案を、高谷と誠司が口々に却下する。
「じゃあ、どうしろって言うんだ。宗ちゃんや響にとっては喜ぶことだが、林檎のことを思えば私達がどうにかしなくちゃいけないんだぞ」
「そりゃ、まあ……そうだけどさ。林檎だって、今の狐さんには会いたく……」
 イェーチェの反論に高谷が言いかけ、何かに思い当たったのか言葉を途切れさせる。
 何が言いたいかぐらいは見当も付く。しかし、唐突に窓へと駆け寄る高谷を見てイェーチェも悟った。
 いったい、狐はどこへ行こうとしているのか。自分達について来られて困り、住処のボロアパートに戻るわけでもなく、狐が向かう場所は一つしかなかった。
「しまったッ! まさか、あいつ……ッ!」
 既に手遅れであることに気付くイェーチェ。
 高谷が慌てて携帯を取り出すが、電話を掛けた先に繋がらないことは顔を見れば分かる。
「クソッ! 宗ちゃん、車回して!」
「お急ぎのようだな。だが断る」
 半分本気、半分冗談で言った言葉を一蹴され、仕方なく自分の足で駆け出す。
 狐がどこへ行ったのかまでは知らないが、今から追いかければまだ遭遇する前に追いつける。林檎が電話に出ないときは、大抵狐とデートをする時なのだ。しかも、県警の位置から徒歩か公共の乗り物を使っていける場所を考えれば、さほど広範囲には及ばない。
 県警を出た時には既に狐の姿はなく、ただ一つの証言として通りがかりのとある人物が道を尋ねられたということ。
 向かうは、清流沿いの自然公園。



 某県県庁所在地付近自然公園。
 気付けば、既に夕日が西の空に見え始めていた。
 土手を歩く家族連れのシルエット。清流のせせらぎを赤く染める夕日。季節は着々と刻まれている。清流の対岸へ渡る橋の袂から聞こえてくるチャルメラの音色だけが、心地よくも薄暗い雰囲気を台無しにしていた。
 その中で、少女は一人、佇んでいた。
 夜が近づくにつれて人気が少なくなる自然公園で、常緑樹と紅葉の混ざり合った雑木林を見つめる。そうした少女にも、いったい何に黄昏て、何を思うのか、分からないほど複雑な心境であった。
 時折雑木林から目を離して周囲を見渡すが、待ち人は姿を現さない。出かける前に立ち寄る場所がある、と連絡をしてきた。思ったよりも時間が掛かっているのか、道に迷っているのかも知れない。
 ここへ来る人は、どちらの人物なのだろうか。来ることを望みながら、出会うことを恐れる。理解できているのに、理解することを拒み続ける。
 その矛盾した想いが、どれほど浅ましいことなのかぐらい少女にも分かっていた。
 けれど、分かっていながら認められないことに、一番自分に腹が立つ。
「林檎ちゃん」
 唐突に背後から声が掛かり、少し驚きながら振り返る。
 林檎と呼ばれた少女は、気配もなく近づいてきた待ち人を見て安堵する。それと同時に、望んでいた人物ではないことを知って落胆する。
「どうしたの、林檎ちゃん。私よ、き・つ・ね」
 肩を落とす林檎に、その待ち人はまだ演技を続けようとする。
「違います。狐さんじゃありません」
 林檎は、間髪入れず演技を否定した。
 狐と呼ばれた――蛍なる女性は、キョトンとした表情で林檎を見つめた後、破顔して申し訳なさそうに笑い出す。
「ばれちゃうんだ。どうして? 貴女の知る狐は、こんな喋り方しない?」
「違います。なんとなく、分かっちゃうんです」
 蛍の問いに林檎がはっきりとしない返答をする。
 確かに、狐を知る人間にしてみれば喋り方や口調に違和感があるだろう。狐を知る人間でも、それをおどけた風に見れば間違えることもある。しかし、姿形がどれほど似ていようと、口調や喋り方を真似ようと、狐にしか持ちえないものを蛍が持てるはずなどないのだ。
「狐さんは、もっと怖いんです。笑っていても、泣いていても……泣くことなんてあるのか知りませんけど、近くにいるのが怖いと思ってしまいます。まるで抜き身のナイフがそこにあるみたいに、話なれた私でも近くにいて息が詰まりそうになるんですよ」
 そう、狐は常に殺意を周囲にばら撒いている。
 決して誰かを引き寄せるような殺気ではなく、近づいた者を切り伏せるという明確な意図を伝える殺気。それは見知らぬ者にだけではなく、見知った林檎にさえ無意識のうちに出してしまう。
 では、なぜ、
「林檎ちゃんは、どうして狐と一緒にいたいの?」
 という蛍の問いに、返す答えは用意されていた。
 殺すことを己の存在意義として、殺すが故に後悔と躊躇を捨てた狐。けれど、そこにあるのは死を恐れて殺す側に回った『新月の狐』という矛盾の塊なのだ。
「だって、誰かに恨まれても殺し続ける、なんて片意地を張った狐さんが、可愛いじゃないですか」
 満面の笑みを浮かべて、林檎は答えた。
 その答えに、目の前の女性は小さく口を開いて唖然となる。予想通りの表情に、林檎は更に声を出して笑い始める。
 目の前にいる蛍が、狐と同じ感情と意識を持った人間だと気付いていたから。ただ、『新月の狐』と形容された殺しの衝動を失っただけの、狐本人であることに代わりはなかったからだ。
 そして、可愛いと形容された殺しの衝動に対し、牙を失った狐は気付かされた。気付いて、笑い始める。息を途切れ途切れに吐き出すような、含み笑いともつかぬ笑い声。
「くっ、くっ、くっ……。そうか、そうだったのね。私は、まだあの時のままなのか。私が初めて、『新月の狐』としてではなく、竹雷蛍として人を殺した時のまま全然成長してない」
 そう、蛍はやっと気付いたのだ。
 どれほど年を重ねたところで、年齢などというのは人間の生きた年月を数えるためだけの基準に過ぎない。そして、蛍はただその基準を大人という年齢まで積み重ねただけの、子供なのだ。
「外的心理障害“トラウマ”とでも言うのかしら? 初めて殺したのが、あの二人だったから?」
 蛍の言う二人とは誰のことだろうか。けれど、林檎が可愛いと形容したのは、精神年齢的な子供の部分ではない。五歳以上も離れているはずの林檎が、狐を可愛いと思えるほどに精神年齢的な部分で成長しているのである。
 どうして銃弾から身を呈してまで守ろうとしたのか。それは、林檎の持つ母性が己の命よりも狐の命を重んじたからだった。
「母は我が子を守るために身を投げ出す、か。じゃあ、あの墓泥棒娘も同じなのね……」
 そう呟いて、蛍が薄闇の空を見上げる。
 なぜ、出会った瞬間からイェーチェを殺したくなったのか。それは、イェーチェが大人だったからだろう。
 体は子供なのに、心は大人びているイェーチェに、無意識に腹が立った。自分とは全く正反対だから、正反対故に相容れぬ苛立ちが募る。
「イェーチェ先生は、早熟というより少し年寄り臭いですけどね。時々、講義中でも凄いこと言いますし、誰かを罵るときは放送禁止用語が飛び交いますから」
 イェーチェが講義中に口から発した危険発言の数々を思い出し、林檎が苦笑を浮かべる。人をからかうという趣味の中に、最近は説教も入り混じって年寄り臭さが例年の1.5倍ぐらいになってしまっている。
「それは駄目ね。林檎ちゃんに悪い影響が出る前に、あの小娘を消しておかなきゃ」
 蛍が自分のやっていることを棚に上げて、悪戯っぽく微笑みながらあらぬ方向に目をやる。
 すると、土手の坂になった陰から四つの人影が姿を現した。
「殺しの衝動を失っても、狐は狐か……」
 気配を悟られて見つけ出された人影の一人、イェーチェが呆れながら歩み寄ってくる。
「いつからデバカメになったの? 小娘や小僧二人はともかく、道幸までどうしてこんなところに?」
「蛍さんが僕に道を聞いた後、イェーチェさん達が慌てて出てきたので、心配になってついてきちゃいました。すみません、差し出がましいことをして。けれど、僕は全然気にしませんよ。初めて出会った時、竹雷さん一家と別れた後、お父さんとお母さんが殺された、と聞いて、蛍さんが殺したのだと分かっていても……」
 蛍とイェーチェ達が道を尋ねた人物、森道幸が頭を下げる。それは勝手に聞き耳を立てたことにではなく、他人の口から言ってしまった衝撃的な真実について。
「……別に、死んでも構わない人達だったわ。両親という形では好きだったけど、私は二人が嫌いだった。どうして、誰かを守るために自分達の身を危険に晒したのか、あの時の私には分からなかったから」
 道幸から、そして蛍から、無情な言葉を聞いても林檎は驚かなかった。狐から昔話を聞いた時から、蛍という少女が誰かのために身を投げ出す自分と同じ考えを持つ人間ではないと気付いていた。
「蛍さんの両親が殺されたと聞いて、駆けつけた時に貴女の姿が無くて心配しました。この街で出会って、とても嬉しかった。それに、子供心に僕は……」
 対岸に渡された架橋を電車が通り過ぎ、道幸の最後の言葉をかき消してしまう。でも、何を言いたかったのかぐらいその場の誰もが分かっていること。
 イェーチェ達は林檎の心配だけをしていたが、ここにもちゃんと蛍の心配をしてくれる人がいる。
 林檎は思う。こんな母親面した小娘よりも、やはり道幸のような人を見つけるべきなのだと。それが狐の、蛍のためなのだと。
「さあ、私達は帰りましょう。もう、狐さんでも蛍さんでも構いません。私が愛した狐さんは、心の奥でちゃんと生きていますから」
 林檎がそれだけ言うと、踵を返して歩き出す。振り返った顔に、一粒の雫がついていたことを、気付かれなかっただろうか。
 林檎の言う「私達」というのがイェーチェと高谷、誠司のことだと気付き、三人が慌てて後を追う。
「馬鹿だね……」
「馬鹿は言いすぎだけど、変なところで遠慮する林檎は」
「損というものです」
 三人が、林檎の無駄な気遣いに呆れる。
 しかし、その気遣いを無碍にする馬鹿者はいるものだ。
「待ちなさい。勝手に私を殺さないでくれる?」
 林檎を呼び止める蛍。
 道幸は、敵わないとばかりに蛍の後ろで首を横に振っていた。
「貴女の愛した狐は、ここに生きているわ。今までとは違うかも知れないけど、蛍としての私を愛してくれないのなら、私は狐として生きることを選ぶ。それじゃ、駄目?」
「…………」
 振り返った林檎は、円らな目を大きく見開いて蛍を見つめる。いや、再び蘇った『新月の狐』を。
 言葉を返そうとしても、声が出ない。口を必死にパクパクと動かすが、返すべき言葉が出てこない。
 だが、狐は林檎の想いを察し、唇に人差し指を当てて見せる。心が通じ合った二人に、言葉など必要なかった。ただお互いに歩み寄り、宵を落とした二人だけの世界で誓いを交わせば良いのだから。
「なんだかなぁ〜、私達ってただのお邪魔虫じゃん」
「仕方ないだろ。お邪魔虫なんだから」
「それでは、お邪魔虫は早々に退散しましょうか。馬に蹴られる前にね」
 少しばかり間違ったアベックから目を逸らし、三人が口々にぼやく。
「まあ、お邪魔虫はお邪魔虫らしく、こちらで自棄食いでもしましょうよ。貴方達にはお世話になったので、少しばかりお礼もしたいですから。あ、僕の店は仕込みをしていないので無理ですが、あちらの屋台で」
 除け者にされた三人を宥めるように、道幸が微笑を浮かべて言う。
 イタリアンレストランと屋台のラーメンでは開きがあるものの、この際は文句も言っていられない。夜のデートについて話している林檎と狐を差し置き、イェーチェ達は屋台へと向かう。
「あれ、皆どこへ行くの?」
 狐と話し終えた林檎が、歩き去ろうとするイェーチェ達に声を掛ける。
「邪魔をしちゃあ狐に殺され兼ねんのでね」
「あ、狐さん、待ってくださいよッ。そんな、もう狐さんは無闇に命を奪ったりしませんよッ?」
 イェーチェとの差を自覚した今、狐が命を狙うとは思えない。
「いや、あいつは大変なものを奪うよ」
「えっ?」
 イェーチェが肩を竦めながら言った言葉に、林檎は小首を傾げる。
 狐が奪う大変なものとは、何だろうか。そして、次に出てきた台詞に、林檎は何とも言えぬむず痒さを感じる。
「それは、お前の心だよ」
「……はいッ」
 小気味良い返事を返し、林檎は狐の後を追う。
「おーい、早く来ないと全部食っちまうぞ」
「あぁ、直ぐに行くよ。私は白湯“パイタン”ラーメンな」
 そして、走り去る背中に響いてくるイェーチェ達の声。
「白湯って聞くと、どうしても思い浮かべちまうんだよ。パイパッ――」
 本音か冗談か、自重しない危険発言防止のために、秋の夜空の下で河へ突き落とされるイェーチェの断末魔が響いていた。


――Another Partner/狐の恋愛事情/―― 完
2008/10/04(Sat)21:11:56 公開 / 暴走翻訳機
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■作者からのメッセージ
どうも、暴走翻訳機です。
同じ作品があることに怪訝に思われるかも知れませんが、盗作とかじゃありませんよ。ちょっと、長い間来なかったばかりにパスワードを忘れてしまったので、新しく投稿させていただきます。

そして、この機に、ニュー速Vipに私の作品が盗作されていたことについて説明させていただきます。
決して、私が盗作したのではなく、盗作されたのだ、ということをお分かりいただけると嬉しいです。どうか、お間違えのないようによろしくお願いいたします。
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