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『アナザー パートナー』 作者:暴走翻訳機 / ミステリ 未分類
全角42866.5文字
容量85733 bytes
原稿用紙約128.15枚
台風が訪れた九月寸前のある日、県警の面々は面白おかしく怪談話を始めてしまう。そこで、イェーチェが語ったとある怪談話の真相とは。『ラスト パートナー』の作者、暴走翻訳機が送る真夏のホラーサスペンス。貴方はこの謎を解けるだろうか。
Another Partner/狗神の祟り/

旅立ちの章



 彼女は、その話が友人から聞いたものだと前置きをすると、しばらくの間黙り込む。
 轟々と荒れ狂う風が静寂に重なり、その建築物は暗い静寂に包まれていた。雨が戸を叩く音、風が木々を揺らす音、地響きのような轟音。
 いつまで経っても、風雨が止む気配は見られない。
「それはね、こんな台風の日の夜だったわ」
 暗闇の中で、切り揃えたボブカットで顔を隠しながら、彼女は蝋燭を顔の前に掲げてゆっくりと口を開く。
 ここらでは珍しく、夏過ぎの台風が猛威をふるったとある日の某県警刑事部。下手な家屋ならば吹き飛ばしてしまいかねない突風で、近くの電線が切れたことで停電に見舞われてしまったため、数人の男女が円を作りながらヒソヒソと話をしていた。
 しばらくすれば予備電源がつくはずなのだが、何も出来ない室内で彼らは一つの提案を打ち出した。
「友人は隣県の商社でOLをしている普通の女性なの。いつもは真面目で、遅刻や欠勤なんてしないタイプだった。けれど、その日は珍しく寝坊をしてしまい、先日から予報されていた台風が訪れても昼ごろまで寝入ってしまったらしいの」
 そう、彼女が必要以上にゆっくりと話している、怪談話と言う奴を決行してしまったのだ。もちろん、言い出しっぺは一番手の彼女である。
 正直言って、ここに子供だましの怪談話を信じるような小心者はいないし、特に彼女の正面に座っている少女には面白いと呼べる談話でもない。かと言って、この嵐の中で何もせずにいるのはずいぶんと退屈だった。
「時計が昼の十二時ぐらいを指したぐらいに目を覚ました彼女は、慌てて出勤する準備をしたんだけど、携帯のメールに上司から欠勤の許可が来ていたのでゆっくりと休むことにしたの」
 退屈を嫌う少女だからこそ、僅かでも楽しそうな談話に首を突っ込んでしまったのだが。どうも自分は、こうした話に対して当然のリアクションを取れないらしい。そもそも神様や仏様と言った、非科学的な要素を根から否定するある種の現実主義者には、信じ難い滑稽なものとしか映らない。
 故に、神や仏なんぞという人間の作り出した偶像を崇めたりはしない。幽霊もまた然り、お化け、妖怪もまた同様。
「ただ、友人には引っかかるものがあったの。そのメールをくれた上司って言うのが、社内でも性質の悪いセクハラ上司で、友人にも色目を使っていたとか。そんな上司が台風の一つや二つで、欠勤させてくれるのがおかしかったんでしょうね、羽を伸ばせるはずの休日でも落ち着けなかったみたい」
 果たして、意味のなさそうな人間関係を説明して意味があるのだろうか。
 などと、少女は話のオチを予測するという方向へ逃避していた。話よりも、蝋燭の明かりで歪む彼女の顔の方が怖く思える。
「しばらくの間はソワソワとしていた彼女も、時間が過ぎる毎にメールの内容を良心的なものだと解釈したらしくて、いつものように休日を堪能していました。そんな時、チャイムが鳴り響きます。誰しもが思うでしょう。こんな日に、誰が訪問してくるだろうか? と。
 特定の男性もいないし、田舎の両親から離れた都会だから、見当も付かなかった。友人は怪訝に思いながらも、インターフォンに近づいて聞いてみたの」
 ――どなたですか?
 返事はない。返ってくるのは沈黙と、吹き荒れる風雨の音だけだ。覗き穴から確認してみるが、そこには丸く歪んだ廊下しかない。
 誰かの悪戯かと思ったが、そんな台風の日にワザワザ悪戯をするような人間がどこにいるだろうか。友人は不気味に思い、ドアに鍵をかけて部屋に戻る。
 しかし、一分ほどしてからまたチャイムが鳴る。
 友人はもう一度玄関へ向かい、今度はインターフォンを使わずに覗き穴から外を確認した。けれど、やはり誰の姿もない。
 きっと玄関の影に隠れて、自分が出てくるのを待っているのではないか、と友人は意を決して扉を開けた。
 ――誰かいるの? 変な悪戯はしないで、出てきなさい!
 友人は怒鳴り散らす。でも、人が隠れられそうな物陰はどこにもなく、人の気配なんてどこにもなかった。
 友人はますます怪訝に思い、部屋に戻ると布団に包まって身を縮める。それからも、しばらくする度にチャイムの音が響く。
 ――ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
 気味の悪さに震える中、チャイムの音はずっと響き続ける。途中で、フッと友人は気付いた。
 ――ピンポーン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピン、ピンピンピンピンピンピンピンピンピンピン。
 チャイムの音が、徐々に早くなっていくことに。休む間もないほどに、チャイムが室内を響き渡る。しかし、しばらくして、誰も出てこないことに痺れを切らしたのか、悪戯に飽きたのか、突如として音が止む。
 友人は安堵する。でも安心してばかりいられず、念のために近くの交番に電話をしようとする。が、何故か電話が繋がらない。
 台風の所為で電線が切れたらしく、混線もしているためか携帯も家の電話も繋がらず、部屋は静寂と闇に包まれる。しばらくすれば直る、と友人は考えて部屋に戻ろうとした。その時、どこからか雨漏りのするような音が聞こえてくる。
 ――ピチョッ、ピチョ、ピチョッ、ピチョ。
 と、リズムを刻みながら音が響く。まさか建てたばかりのマンションだから、雨漏りのするような欠陥建築だったのか、友人は周りを見渡すがどこから聞こえてくるのか分からない。
 水道の水が滴っているのかも知れないと台所へ行っても、水は一滴もこぼれていない。そして、その音は次第に友人へと近づいてくる。
 そう、それは後ろで、
 ――ピチョ、ピチョ、ピチョ。
 怖かった。振り向くのが。
 確か、二度目に玄関を開けた時に、鍵を閉めるのを忘れていた。まさか、チャイムが鳴らなくなったのは、鍵が開いていることに気付いて誰かが中に入ってきたからだろうか。
 ――誰なの……? 悪戯なら止めてよね……。
 友人は震える声で訴えるが、背後にいる人物は答えない。
 直ぐ後ろに、振り向けば息が掛かるような距離に、その気配はあった。
 振り向けば襲われるかもしれない。けれど、振り向かなかったら侵入者の顔み見れない。
 友人は葛藤する。襲われる恐怖と、まんまと侵入者を逃す悔しさとで。だから友人は、意を決して振り向いた。
 ――?
 振り向いた先には、誰の姿もなかった。確かに気配は直ぐ後ろにあったのに、人どころかネズミの一匹さえ見当たらない。友人は怪訝に思って小首をかしげる。
 全て、気のせいだったのだろう。友人はそう思って安堵すると、前を振り向きなおした。
 そして、そこに、
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
 いた。
 誰も怖がらないと思っていた子供だましの怪談話に、絹を引き裂くような悲鳴を上げる女性が。黒いロングヘアーを握り締め、足をバタつかせながら勢い良く後退る女性。
 滔々と涙を流し、檻の隅で震える小動物のような姿に、怖がったことをからかうどころか話を聞かせたことさえ申し訳なく思えてしまう。
「そ、そんなに怖がらなくても……」
 話をしていたボブカットの女性が、やや困ったようにロングヘアーの女性を宥める。
「そ、それで、どうなったんですか……? 何が、いたんですか……?」
 目に見て分かるほど怖がっているのに、女性が続きを聞く。
「あぁ〜、うん。友達は、失神するまでの僅かで見ただけなんだけど、振り向いたところにほとんど原型を留めてない上司の姿があったんだって。気付いた時にはそんなものも、床が濡れていた形跡さえなかったらしいの。
 けど、次の日に会社の人から聞かされた話だと、上司はその日に交通事故で亡くなっていたのよ。それも、メールが送られてくるよりも前にね」
「…………」
 シャリシャリと話し終えたところで、ロングヘアーの女性はどこから取り出したのか、布団に包まって芋虫のように部屋の隅へ移動する。
 ちなみに、その話の真相は、こうだ。
 台風の日に、そのセクハラ上司からしつこく関係を迫られていた別のOLが、通勤途中で上司を交通事故に見せかけて轢き殺したのだ。一旦は同じ境遇にあった友人に罪を擦り付けようと友人宅を訪れたものの、チャイムを鳴らしたところで友人の在宅が分かり諦めた。
 ただし、部屋に居ては困る殺人者が欠勤を許可するメールなんぞを送るわけがなく、最後の一件だけは殺人者の嘘か本物なのかは闇の中で揺れている。もちろん本物というのは、友人宅に現れた上司の幻やメールの送信が非現実的な存在であったのかどうか、という点である。
「真相を聞いても、やっぱり怖い話なんですね……」
 ロングヘアーの女性が嘆く。
「にゃははははは。もしかしたら、そっちのお堅い上司さんも家に来ちゃうかもね」
 と、ボブカットの女性がチラリと横目で見ながら揶揄する。
 ムッと視線を返すのは、一人黙々と蝋燭の明かりだけでデスクワークを続ける五十台ぐらいの男性だ。周囲のノラリクラリとした態度に日々ストレスを感じているのか、短髪の所々に禿のようなものが見える。
「さて、次は誰かな?」
 流石に上司からの――部署が違う彼女には大して関係のないことだが――恨みは買いたくないのか、ボブカットの女性が視線を外して怪談話の順番を回す。
 二番手からはクジを引いて、アタリが出た者が話す。まんまとそのアタリクジを引かされたのが、ボブカットの女性の正面に座っていた少女だった。
 閑話になるが、少女は警察関係者というわけではない。
 男三人、女三人で、男、女、男、と互い違いに座っている六人。ちょうど少女とロングヘアーの女性の間に座る、一番長身の男に何故か懐いているため、時折この県警に姿を現して署内を荒らしてゆく。
 今日も台風が訪れたため、住処としているボロアパートでは心許無くて男についてきたのだ。四、五ヶ月ぐらい前に男が先に住んでいたアパートの隣室に引っ越してきてから、男を扱き使うことが多くなったのは諦めてもらいたい。
 閑話休題として、少女はジーッとアタリクジを睨みつける。
 他意はないのであろう。五本の割り箸をランダムで引き、偶然に当たってしまっただけだ。イカサマやらすり替えたりする暇はなかっただろう。
「あまり、そうした話には詳しくないんだが……」
「いいのよ、誰かから聞いた話じゃなくても、自分の体験談とか、創作でも、思いつかなければちょっと背筋が寒くなりそうなものでも、気楽に話してよ」
 ボブカットの女性に促され、仕方なく少女は話すことにした。
「こんな時だから話すが、私の今でも信じられない体験を話そう。もしどこかに資料なんかが残っているなら、見せてもらえると嬉しいが、荒唐無稽な夢か何かだと思って聞いて欲しい」
 たぶん、全てを話すまで皆には分からないであろうその話を、切り出す。
「あれは、お盆を前にした夏の日だ。覚えているだろ、私が小旅行に行ったことを? あの時の、不思議な体験だ――」



「――それで?」
 いつもならウナジで二つに分けている金髪を後頭部で団子にし、不機嫌そうに問い返す少女。笑えば愛らしいとも思える碧眼は吊り上り、どこかの狐のような三白眼で周囲を威圧する。
 到底日本人とは思えない異国の少女は、イェーチェと名乗る一介の塾講師だ。
 安物の回転椅子に胡坐を掻いて、机の上に置かれたA4用紙の山に向かい合う。数日から今日にかけて行われたイェーチェの勤める――複雑な事情から十八歳で――塾の模擬テストで、赤ペンと模範解答を両手に、熱気の広がる狭い室内で額から小粒の汗を流して丸とペケを書き込む。
「ですから……」
 イェーチェに威圧され、言葉を飲み込んでしまったのは隣に佇む少女。年はイェーチェと変わらないぐらいで、肩に掛かるぐらいの長さで髪を切りそろえたお淑やかそうな少女である。服装がジーパンとTシャツという簡素なものでなく、花の模様が散りばめられた着物なんかなら大和撫子と謳われていたかもしれない。
 そんな少女が、つけんどんに「それで?」と返されたので、次の言葉を言い出せずに居る。
 話は五分ぐらい前に遡る。
 模試が終わり、イェーチェが講師用の控え室に戻ったところで少女――白姫林檎が顔を出してきた。
 模試の結果を一足先に見に来たのかと思えば、林檎はしばし口を閉ざしたまま逡巡していた。
 そして、口を開けばこう言う。
「明日からのお盆休みに、高屋君のお爺ちゃん達が住む田舎に行くつもりなんです」
 五分も手を止めさせておいて、余暇の予定を伝えに来たのである。
 普段なら白いハンカチでも振って送り出してやりたいところだが、クーラーをかけても熱気に汗が吹き出る小さな室内で、面倒な模試の採点をしていたのではそんな余裕もない。
 思わず苛立って、出てきたのが先刻のつけんどんな返答だった。
「準備とかもあって、出発は明後日になるんですが……」
 イェーチェの不機嫌を察し、ボソボソと話を続ける林檎。
 模試の採点も三分の一を過ぎた辺りで、記述問題を除き記号問題においては模範解答を見なくても採点できるようになってくる。もともと、自分で考えた模試なのだから、割と片手間で採点していける。
 面倒なことには変わりはないが、片手間に林檎の話を聞くことぐらいはできた。
 そんなところへ、暑苦しい中に新たなる訪問者がやってくる。
「りんごぉ〜、オッケーは貰ったか?」
 二人やってきた訪問者の内、一人が林檎に問う。
 人工の染色剤で金髪の染め、猫科の猛獣の名を冠したブランド物のジャージに身を包む、ヤンキーとしか言いようのない容姿をした少年。林檎が言う田舎に祖父母を持つ高屋と言うのが、このヤンキー少年こと王城高屋である。
「ごめん、今からなんだけど。先生、ちょっと不機嫌みたいで……」
 林檎が困ったように答える。
「この暑さだ、敬虔な僧でもなければ苛立ちもしよう。有名な格言にも、心頭滅却すれば火もまた涼し、とあるわけだが」
 高屋に続き、手刀で拝みつつ姿を現したのは、眼鏡をかけた優等生ぶった少年。
 織田信長だったか、千利休だったか、日本の歴史には疎いので思い出せないが、少年の言う格言を直訳すれば『死ね』ということではないのか。と、訳の分からないこじつけを考えながら、模試を半分ほど採点したところで力尽きる。
「そんなに急いでやらなくても、明日までに終われば大丈夫なんですから……。もしかして、休日にどこかへ出かける予定でも?」
 林檎が余暇のスケジュールを確認してくるが、残念ながらそのような予定はない。皆無と言っていいほど、小さなボロアパートで日がな退屈な一日を送るだけしか出来ない。
 隣室の知り合いに頼めば、どこかには連れて行って貰えるかもしれない。
「いや、無理か。宗ちゃんの性格だし、人が休むときこそ警察に休みはない、からな……」
 考え直して、無駄なことだと悟る。
「予定がないのなら、我々が埋めて差し上げようかと朗報を持ってきたのだが、下手に刺激すれば両親に合わせる寸前で破局しかねないな」
 いつものことではあるが、眼鏡の少年、水無月誠司が言う。
「朗報?」
 イェーチェが首をかしげる。
「先ほどから林檎が言おうとしてるんだろうけど、全く聞いちゃいなかったみたいだな。毎年恒例の小旅行なんだけどよ……林檎、よろしく」
 呆れたと思えば、今度は林檎にバトンタッチして控え室を出て行ってしまう高屋。言うべきことは直球で言うし、時折素直ではない奴だが、これまた今回のように良く分からない言動をする。
「説明はしたんですが、ちゃんと理解して貰えなかったみたいで。高屋君のお爺ちゃんの家に旅行へ行くんですけど、今年はイェーチェせ――ちゃんも誘おうかな、って」
 思わぬ朗報に、イェーチェは言葉を失う。
 きっと、鏡を見れば間抜けな自分の顔が映るのだろうな、と考えながらも表情を変えられない。出発は明後日らしいので、明日中に模試の採点を終えればいけないわけではない。
 喜ばしい誘いに、イェーチェは思わず感激して林檎に抱きついてしまう。
「う、うぉぉぉぉぉぉ! 心の友よぉ〜!」
「暑苦しいですよ。そんなことしたら、本当に目覚めちゃいますよッ。それに、お礼なら高屋君に言ってください……」
 林檎の狼狽に、イェーチェがターゲットを変える。
 しかし、高屋は顔を赤らめてそそくさと逃げ去ってしまった。
 一部始終を控え室で眺めていた二人の講師仲間は、タバコの紫煙を窓の外に吐き出しながら呟いていた。
「青春だねぇ〜」
 まったりとくつろぐ女性講師に、男性講師が苦笑を浮かべて返す。
「青春ですね」
 高屋を追って塾を飛び出していったイェーチェが、模試を取りに戻ってきたのは、高屋達の姿が見えなくなってからの話。
 とりあえず、イェーチェを含む四人は、一時の余暇を楽しむべく旅立ったのである。まさか、あんな恐怖を味わうとも知らず。



戒めの章



 その日は、生憎の雨だった。
 まあ、電車を乗り継いで行き、向こうの駅で祖父母に迎えを寄越して貰うので問題はない。齢七十を超えた老人だが、割とハイカラな趣味をしているためステップワゴンなんてものを持っているらしいので、軽トラックの荷台に箱乗りなんてことはないだろう。
 それより問題は、目の前の二人にどう怒りを納めて貰うかである。楽しい旅行の前ということもあり、怒りよりも呆れの方が割り増しだが。
「高屋君の間抜け!」
 清純可憐を絵に描いたような林檎の口から、そんな罵倒が飛び出てくるとは思いもよらなかった。
 それでも、怒ったところで仕方あるまい。一度過ぎてしまった刻を戻せるのは、創造の世界だけだ。
 駅前で雨に濡れる時計台はもう直ぐ十二時を指そうとしているなか、怒鳴られている高屋の腕時計は十一時五十五分前を指している。要するに、高屋の腕時計が五分ほど遅れていたため、電車を一つ乗り逃してしまったのである。
 確かに旅行の前に時間を確認しなかったのは高屋の間抜けだし、家の時計が全て五分遅れていたなんてことはあるまい。
「古い時計みたいだからな、許してやれ。駄目なら、昼飯ぐらい奢って貰って手打ちにしよう」
 夏休みとは言えサラリーマン諸々が通り過ぎる駅前で喧嘩など見苦しいので、イェーチェが妥協案を引っ張り出す。その場はイェーチェの提案で収まり、昼食は駅の売店でサンドイッチなどの軽いものを食べた。
「今年はイェーチェちゃんもいるから、電車にしようって言い出したのはどこの誰だったのかな……?」
 サンドイッチを食べながら、未だに苛立ち気味の林檎が愚痴る。
 今年は、と言うことはいつもは何で行っていたのか。
「林檎嬢の父君に、車で送って貰っていたのですがね。今年はどうも都合が悪いらしく、どうせだから四人で楽しくということになりました」
 サンドイッチを頬張る林檎の代わりに、一足先にオニギリを食べ終えた誠司が答える。
 ちなみに、林檎の両親は不動産業の社長とコンサルティングの社長というボンボンである。林檎にしろ、高屋にしろ、この三人は一般人と呼べないご令嬢ご子息だったりする。高屋に関しては複雑な家庭の事情があるので、大した援助などなく母親と暮らしている。
 でも、三人を見ていると羨ましいぐらいだ。
「良い仲間に恵まれたな、お前達は」
「でも、こうしていられるのも、イェーチェちゃんのおかげです」
「そう言えば、そのちゃん付けは何なんだ? 塾で誘われたときもそうだが……」
 今更どうでもいいような疑問だ。
 彼らがいたから今の自分があって、自分と出会ったから彼らもこうして笑っていられる。ギブ・アンド・テイクと言ってしまえばそれだけだが、そんな損得勘定だけでは収まらないのが今の四人だった。
「それはですねぇ〜。お爺ちゃん達には、イェーチェ先生のことを友達として紹介してあるからです。塾の講師とは言え、イェーチェ先生の年で先生なんて言ったら説明に困るので」
「なるほどね」
 だから、先生と呼ばないために予行練習をしているというのだ。
 普段から「あんた」や「お前」と呼んでいる高屋と、呼び方が逐一変わる誠司なら気にすることもない。
「どうやら、次の電車がくるみたいですよ」
 昼食を食べ終えた頃、ホームに鈍行列車が到着する。誠司の声がなければまた乗り過ごしていたかもしれない。
「……?」
 電車に乗り込んだところで、フッと違和感がイェーチェの本能を刺激する。
 いや、別段、内装がおかしかったりするわけでもなく、ただ本能的な何かがイェーチェに伝えようとしている。殺気や危機感などでもないし、これまでに一度も味わったことのない感覚。
 まるで、群れを作る生物が発するフェロモンに誘われるような、当然のようで当然ではない、とでも言うのか。
「イェーチェちゃんも感じました?」
 どうやら他の三人も同じらしく、皆で一般的な車内を見渡していた。
 見回し続けて、やっとその違和感の正体が分かった。
 運転席に乗る車掌の背中に伸びる、長く黒い髪。ロン毛の男性かと思ったが、肩幅からして女性の物だ。
「そうか、女性の車掌なんて初めてみたから、なんとなく引っかかっていたのか」
「確かに、珍しいですね」
 たったそれだけだったのに、皆があっさりと納得する。
「うぅ〜ん。この感じ、前にもどっかで感じたことがある気がするんだが……思い出せねぇ」
 高屋がしばらく頭を悩ませていたものの、物珍しい女性車掌にどこかですれ違ったことがあるのかもしれない。そんな曖昧な答えで、悩みを引っ込めてしまう。
 微かな疑問を抱いている内に、電車はホームを出発する。鈍行とは言え、出だしを終えれば車よりも速く走る。加速した電車から眺める景色が、高速で動くスライドショーのように過ぎ去ってゆく。
 幾つかの駅を継いで進み行く電車は、いつしか夕暮れ――雨雲があるため夕日は見れないが――の線路を駆ける。
 しばらくは目的地の説明や遊びの予定で湧き上がっていた四人も、時間が経つにつれて退屈な電車の旅に僅かな睡魔を感じていた。ウトウトと、イェーチェの首も上下する。
 ほとんど朦朧とした意識の中で、微かに電車が止まる感触と誰かの声が睡魔を払う。誰かが肩を軽く叩き、煩わしい声をかけてくる。女性の物だ。
「お客様、お客様? 申し訳ありませんが、当電車はここまでになります」
「あぁ、うぅ……」
 どうにか意識を覚醒したイェーチェが、まだ寝起きの呻きを上げる。
「雨のため、土砂崩れが先の線路を塞いでしまい、ここから先に進めなくなってしまいました。誠に申し訳ありませんが、こちらで下車をお願いします」
 しばし車掌の言葉の意味が理解できなかったが、目が覚めてくると脳が回転を始める。
 車窓から外を覗けば、駅名が消えかかった看板の掲げられた無人の駅がある。何故か、途轍もなく不気味な雰囲気がする。
「おい、お前ら。何だかトラブル発生みたいだぞ……」
「ここは……?」
 イェーチェの声に目を覚ました林檎が、車掌に問う。
「狗の浦です。明後日には土砂の撤去も終わるらしいので、また明後日の昼にお乗りください。それまでの間、最寄の旅館に部屋を取ってありますので、そちらでお休みください」
 林檎は聞き覚えのない駅なのか、電車を降りてから周囲を見渡す。
 電車が逆方向へ走り去ってゆく。
「あの時間の電車なら、到着は八時ごろになるはずですから、まだ目的の駅は通り過ぎてないと思います。けど……この駅は」
 路線図を開きながら、林檎が難しい顔をする。
 電車で田舎に向かうのは初めてなのだ、途中にある駅の名前など全て覚えては居ないだろう。路線図を覗き込んでも、ちゃんと『狗の浦』と記名されているし、目的の駅より手前にある。
「仕方ない。宿を取って貰った以上、文句を言っても、な。自然災害が相手じゃ、電車も形無しってわけさ」
 今回の不運は諦め、とりあえずは予約の入れてある旅館とやらにいこう。
 不幸中の幸いと雨も止んでいるので、四人は荷物を担いで駅のホームを出た。が、コンクリートの階段を下りると同時に目を丸くする。
 駅からしばらくは杉や樫の並木道が続くのだが、そこから先は道と呼べるようなものがなく、獣道のような人が分け入ったという感じの草むらが続く。
「道に迷ったら、生きて戻れるのか?」
「熊とか、出ないよね……?」
「熊はどうか分からんが、一応は人の通った形跡が残っている」
 三人が口々に言いながら、立ち止まっていても展開がないので恐る恐る先を進む。
 進めば進むほど細くなってゆく道。いつしかは自分達で道を開かなくてはいけなくなるほど、草木が周囲を取り囲み始める。
「……ここはどこ? 私は誰?」
 歩き疲れた林檎が、意味不明な台詞を吐きながらへたり込む。
「駄目だ。全然道が分からねぇ。こんなとこで迷わないのは、地元の猟師か獣どもぐら……」
 高屋が全てを言い切る早く、何かが茂みの奥で動く。
 ――カサカサ、ザッ、ザッ。
 四人が気付いていないとでも思っているのか、ゆっくりと草を掻き分けてこちらへ近づいてくる音。
 まさか、本当に熊か猪でも居るのか。四人が、じりじりと後ろに下がる。ちなみに余談だが、野生の獣と出会ったときは後ろを振り向いて逃げてはいけない。獣は、逃げる動物に襲い掛かる習性があるからだ。相手の目を見つめながら、ゆっくり距離をとってから振り向いて逃げる。
「熊……? 違う、人間だ!」
 何を根拠にそう思ったのか、一番前に居た高屋が動く茂みに向かって飛び掛る。どうやら茂みに潜んでいた何者かと取っ組み合いになったのか、高屋の背中と誰かの背中が入れ替わりながら草木を押し倒してゆく。
「お前……なッ、おい、待てよ!」
 不意に高屋の抵抗が止まり、潜んでいた何者かが彼の腕を振りほどいて森の奥へと逃げ去ってしまう。
「追うぞ。人が居るってことは、この先に民家か何かがある!」
 高屋が逃げ去る影を追いかける。取っ組み合っている内にどこかを怪我したのか、お腹を押さえている高屋。
「どうして人だと分かった?」
「匂いだよ……。獣や動物特有の匂いじゃなくて、シャンプーみたいな洗剤の香りがしたからだ」
 イェーチェの問いに、やや苦しそうに答える。そう言われてもイェーチェには分からないが、一番前に居た高屋だからその香りに気付けたのか。動物的に鼻の利く奴だ。
 そうして、逃げる影を追って走っていると、途中で見失ったものの森の切れ目に人工の明かりが見えた。
「民家だ!」
 これで命だけは保障されたと実感した四人が、森を飛び出して民家へと駆け寄る。
 森を出たところにあったのは、森を切開いて作った広場に心ばかしの掘っ立て小屋を建てただけの、村とも呼べない集落だった。まさか、日本にもこんな集落がまだ残っていたとは、イェーチェも少しだけ驚く。
「ちょっと待ってよぉ〜! ハグッ……」
 遅れてやってきた林檎が、茂みに足を引っ掛けて盛大に転倒する。
「大丈夫か? どうにか人のいるところに出られたし、この辺りで予約の旅館を探そう」
 林檎を助け起こしてから、近くを通りかかった老人を捉まえて道を尋ねる。
 どうやらこの集落の平均年齢は高い目らしく、ほとんどが四十、五十を過ぎた老齢の住人だ。
「余所者か。あまりここには立ち入らん方が良い。事情が事情だからな、この先の海辺へ降りる道を行けば、泊まれる場所が一つある」
「ありがとうございます。えっと、つかぬ事をお聞きしますが、立ち入らぬというのは……?」
 お礼と一緒に、ちょっと引っかかった疑問を解決しようとする。
 そして、次に老人の口から出た言葉に四人一同が硬直する。
「祟りが起こる」
 聞き間違えか、それとも冗談か、それだけ言うと老人は四人の前から居なくなった。
「た、祟りって、あの不幸な事故が起こったり、人が死んじゃうアレ、ですか?」
 どうやら、林檎はそうしたオカルトに弱いらしく、顔を青ざめさせる。
 一番回復が早いのは、非科学的なものを嫌うイェーチェだ。
「こんな小さな集落だと、他所様を嫌う習慣が強いんだよ。特に、こうした脅しをかけて早く出てってもらいたいのさ」
 一応は考古学の博士号を持っているので、古い習慣が世界共通であることはわかっている。アメリカ大陸に上陸したイギリス人が、インディアンから土地や財産を奪い取ったりなど、略奪の歴史は幾らもある。
 いつまでも怯えているわけにもいかず、怯える林檎を引っ張って海辺へと向かう。小さな雑木林に囲まれた坂を下りて行くと、確かにどこか旅館ぽい雰囲気の建物はあった。雑木林と海に囲まれた、秘密の避暑地といった感じだ。
 天気の良い日ならば、青い海と白い砂浜が出迎えてくれたのだろうが、生憎の天気では灰色の砂と濁った海が時化ているだけだ。風も荒れ始めているらしく、髪の毛が煩わしいほどになびく。
「中に入ろう」
 三人を促し、イェーチェが旅館へと入っていく。
 旅館とは言っても、先ほどの集落よりもちゃんとした建築方法をしているだけで、木の板を張り合わせて作った壁はヒビだらけで今にも捲り上がらんばかりだった。
「お邪魔します」
 所々傷んだ扉を開けて声をかける。
 嫌に静かな空気だけが返ってきて、誰一人として姿を見せない。留守にしているのだろうか。
「イェーチェちゃん、これは何だと思いますか?」
 家主が出てこないのをジッと待っていると、林檎が外から尋ねてくる。
「どうした? 何か見つけたのか?」
 外に出て、林檎が居る場所を見つける。一目見て、林檎が何について尋ねているのか分かった。
 旅館の建物から少し離れたところで海辺に背中を向けながら、林檎の正面に佇む台座に乗ったお稲荷さんのような石像。狐のようにも見えるが、少し注意してみれば鼻の高さや体格からその石像が犬であることは分かる。しかも、台座にちゃんと『狗神様』と彫り込んである。
「あの神社なんかに二つある、狛犬みたいなものですか?」
 林檎の問いに答えてやる。
「たぶん、この土地特有の風土信仰だろ。うん? 何か、裏にも書いてあるぞ……?」
 周囲を探索していると、裏側――海辺側にも数行の文字が彫り刻まれていた。残念ながら古い行書体の上、長い間風雨に晒されて読めなくなっている。
「えっと……一つ、子(ね)の刻を……分からん!」
 読むのを諦めようとしていたその時、声はどこからともなく聞こえてくる。もちろん、心に中に、なんてファンタジックなことはなく、ここへ来るまでに下ってきた坂のところに六つの人影がある。
「一つ、子の刻を過ぎて外界に出るなかれ。と書いてあるんです」
 直訳すれば、十二時を過ぎて外に出るな、と言うことだ。
 声の主は、三十路を過ぎたぐらいのまだ若い女性だった。
 後ろには若い男女が数人いて、厚い化粧やら髪型を見る限り、お世辞にも柄がいいとは思えない。明らかに一番前の女性と、後ろの五人は別次元の人間だろう。
「この村に伝わる戒めです。その戒めを破ると、祟りがあるとか言われてます」
 女性が、静かな口調でサラリと怖いことを言ってくれる。
「他の数行は?」
 でも、祟りなんて信じないイェーチェは恐れることなく問う。
「二つ、狗神様を貶めるなかれ。三つ、狗神の地を犯すなかれ……でしょうね。死んだ母から聞いた話なので、本当なのかは知りませんけど」
「なるほど、戒めですか。それで、貴女は?」
「私は狗神恵美と申します。不束ながら、この旅館の女将を勤めさせていただいております。あなた方は、こちらでお泊りのおつもりで?」
 車掌の伝言を聞いていないのか、恵美という女将はイェーチェ達を別の客だと思っているらしい。フッと思い返してみるが、後ろの五人は同じ電車に乗り合わせただろうか。眠っていたので気付かなかっただけで、自分達より早く降りて森の中で追い抜かしてしまったのかもしれない。
「カクカクジカジカ……でして、明後日の昼までこちらに泊めてもらうことになっていると思うんですが?」
 一応、その辺りの主旨を伝えておく。
「あら? そうでしたか。それでは、部屋の方に案内させていただきます」
 やや納得していないような顔で、恵美が旅館へと促してくる。
 恵美の後をついて旅館に入ろうとしたところで、何故か何気なく後ろを振り向いてしまう。イェーチェの後ろにいた高屋達も、つられて振り向く。
「ッ!」
 いつの間にいたのか、十四、五ぐらいの少女が一斉に振り向いた四人に驚く。
「紅葉、帰っていたの。こんなに汚して、また森に入ったのね……。お客様がいるから、綺麗にしてきなさい」
 どうやら恵美の娘らしく、紅葉と呼ばれた少女はイェーチェ達を避けるように旅館へと消えてしまう。
「ごめんなさいね、人見知りが激しい子で、知らない人が来るといつもあんな風にしてるのよ」
「あいつ、森で俺達を驚かせた奴じゃねぇか」
 高屋が思い出したように言う。こちらも驚いたが、高屋の方が紅葉を驚かせていると思う。
「さっきから狗神の祟りだとか、訳の分からないこと言ってないでさ、早く案内してくれよ。こっちは長旅で疲れてんだ」
「そうよ、あたいらは疲れてるんだから、早く休ませてよね」
 まあ、細かいことを言っていても仕方がないので、若者組に急かされた恵美を追って部屋へと向かう。ちなみに、イェーチェ達は十畳ほどの部屋を一つ取り、若者組は隣とその隣の十畳部屋を二部屋借りた。小さな机が一つと、布団を仕舞うための押入れがあるだけの簡素な部屋。
「夕食は六時半になっていますので、時間にお呼びいたします。それでは、このような部屋ですがお寛ぎください」
 それだけ言うと、恵美は一礼して部屋を出て行く。
 さて、夕食まで何をしようか。
「トランプゥ〜!」
 暇を持て余していると、林檎が鞄の中からカードを取り出してくる。旅の必需品とでも言わんばかりに、林檎を含む三人の鞄には様々なガラクタが詰め込まれていた。イェーチェなんぞ、パジャマと着替え以外は洗面用具ぐらいしか持って来ていないというのに。
 しかし、文句を言っても暇が嫌いなイェーチェだ、トランプの十回や二十回ぐらい付き合ってやる。
「最初は軽くババ抜きでしょ」
 と、しばらくの間はトランプゲームをやって時間を過ごす。
 体感的に見て、三十分ぐらいババ抜きをしていたぐらいだろうか、こちらの部屋の騒がしさを聞きつけた隣の若者達がドアのノックする。
「はい? 五月蝿かったですか?」
「いやいや、楽しそうだったから僕らも混ぜて貰おうかと思ってね。旅は道連れって言うからね、しばらくの間だけど仲良くしたいと思う」
 比較的まともそうな男が、不安げな林檎の問いに答える。
 容姿などは割愛させていただくが、男の名前は猫野木と言う。他の皆よりも良識的なため、羽目を外し過ぎた仲間のノリについていけずこちらへ避難してきたという。
「あまりお酒とかが強くなくてね、酔って騒ぐってことが出来ないんだよ。それで、空気が読めないって良くけなされる……。皆は僕に祟りが起これば、なんて笑ってからかってきますよ。祟りなんてのはないでしょうし、皆も冗談のつもりだと思いますが」
 苦笑を浮かべる猫野木。
 まあ、最近の若者と言うのはそんな奴らが多い。空気だの、ノリだの、人には得手不得手があるというのに、自分達の世界を強要するのだ。そいつらに比べれば、まだ高屋達の方が気楽な付き合いが出来るだろう。
 まあ、そうした話をしているうちに、打ち解けた猫野木と一緒にトランプで遊んでいたわけだ。



 その後は夕食の時間になって、食後の休憩を挟んでからお風呂へと向かった。流石にお風呂だけは別々だ。猫野木は、酔い潰れてしまった仲間を見てくると部屋に戻ったので、先に頂くことにした。
 部屋から出て、出口とは反対に向かった突き当たりを曲がったところに、男女で分かれた風呂場を見つける。風呂の暖簾と一緒に、あの紅葉という少女がビショビショに濡れた格好で佇んでいるのを見つけた。
 その瞬間、何ともなかった心臓が高鳴る。まだ発育途中の小さな二つの山が透けて見え、思わず高屋は目を逸らせた。なぜ、こんな年半端も行かぬ少女に気持ちを高ぶらせる。
「お風呂洗いご苦労さん」
「ッ!」
 イェーチェがかけた労いの言葉に、今さっき気付いたのであろう紅葉が肩を震えさせる。とことん重症な人見知りだ。慌てすぎて、逃げ道のない風呂場、しかも男性用の方へと逃げ込んでしまう。
「どうして、あんなに怯えるのでしょうか……?」
 久しく、今までダンマリとしていた誠司が疑問を口にする。
「とりあえず、追い出さなきゃ風呂に入れないだろ……」
 高屋は誠司の疑問に答えるつもりもなく、暖簾を潜って風呂場へ入る。
 透かし硝子の向こうで震える小さな影。まるで狼に追い詰められた子羊だ。
 何か、今日はおかしい。そう、高屋が僅かに残った理性で思う。冷静さを保てず、今にでも目の前の子羊に食らいつきたい気分だった。どうやら、隣にいる誠司も普段の冷静さを保てずにいるらしい。
「お前は腕を押さえろ……俺が、足を押さえる」
「分かった。独り占めはなしだぞ」
 いったい、自分達は何を言っているんだ。性犯罪者のような台詞を、何の恐れもせず口にしている。
 良く分からないが、この娘を見ていると理性のうちにあるタガがはじけ飛んでしまうらしい。駅の近くで取り押さえようとした時も、僅かの間であったが情欲を抑えられなくなりそうになった。
 ジリジリと紅葉に近づく二人。紅葉は恐れをなして、叫ぶどころかその場から動くこともできなくなっている。ただ、僅かな抵抗に、なぜそんなものを持っているのか分からないが小さな球体を投げつけてくる。
 鉄球なら直径五センチもあれば十分に怯ませただろうが、駄菓子屋にでも売っているゴムで出来たスーパーボールでは無意味にも近い。
 風呂場のタイルを跳ねるスーパーボールを横目に、二人が同時に襲い掛かる。が、パコォ〜ンという気持ちいい桶の底を叩く音が後頭部に響き、二人が勢い余って風呂へとダイブする。
「何厭らしいことをしているんだ、お前ら? 気持ちは分からんでもないが、少し頭を冷やせ」
「ごめんね、二人が変なことしようとして。イェーチェちゃん、こんな熱いお湯じゃ頭は冷やせないよ」
 自分のおかしさに気付いてくれたのか、止め方は少し荒っぽかったもののイェーチェと林檎が男風呂に入ってきていた。
 紅葉が逃げ去った足音を聞いてから、息の続く限り風呂に顔をつけた後、顔を上げる。確かに、この熱さでは頭を冷やすどころではない。
「プハッ。はぁ、はぁ、はぁ……。何だ、あの娘は? 見ていると、不思議と変な気分に……」
「高屋、言い訳は無用のようだ。俺達は、既に女性の敵として認識されたらしい」
 言葉を途中で止め、誠司の声に振り向けばイェーチェと林檎が鬼のような形相で自分達を睨みつけていた。
「あんな小さい子に何をしようとしていたのかな? ちょっと、部屋に戻ってお話しようか」
「先生は悲しいぞ。お前らが、犯罪に走るなんて」
 その瞬間、二人は五体満足で家に帰れないことを悟った。
 部屋に戻った後、イェーチェの仮説を聞くに、あの紅葉という少女はそういう体質らしい。
 そういう、と言うのは、人を魅了するというのか、はたまた無意識に他人を欲情させるというのか、所謂フェロモンと言う奴を発するのだそうだ。
「確かにいるよな、無意識に人をムカつかせる奴とか、近くにいると癒される体質だとか」
 体中に絆創膏を貼り付けて、高屋が納得する。
「だから、出来る限りあの子には近づかない方が良い。止める者がいなけりゃ、本当にレイプしかねなかったぞ……」
『面目ない……』
 イェーチェの説教に、素直に謝る高屋と誠司。
 たぶん、紅葉の異常な人見知りも、その体質が生んだトラウマなのだろう。不特定多数の客がくる旅館なのだから、危うく客に襲われそうになったこともあるはずだ。
 自分ではどうしようもない体質。ほぼ永遠に付き纏う怨嗟の鎖に縛られ、紅葉は悲惨な運命を辿る。
「しみったれた話はこれまで! とりあえず、これからは絶対に男だけで行動するな。以上、今回は女将さんも何も言ってこないから不問とする」
『はい……以後気をつけます』
 二時間ほどの私刑と説教と説明を終えて、二人は地獄から解放された。
 気がつけば時計の針は八時過ぎを回り、昼過ぎから荒れ始めた風は台風ほどの強さになりかけていた。あらかじめ雨戸を閉めていたのでガタガタと喧しいだけだったが、下手をすれば飛んできた木材か何かで窓が割れていたかも知れない。
「さて、風呂に入ってくるか。もう猫野木さん達は入り終えたみたいだからな」
「それにしても、私達って大変な目に合ってますね。途中で足止めを食らうわ、泊まる場所がこんな不気味なところで、その上厄介な体質の女の子がいる旅館だなんて……これ以上、何も起こらなければいいんですけど」
 イェーチェが気持ちを切り替えようとしたところで、林檎が気落ちしたように愚痴る。あまり深く考えすぎると、それこそ転落の道を辿るぞ。
 しかし、そのまさかな予感が当たろうとは、林檎自身も思わなかっただろう。事件――否、これを祟りというのか――は、その日の翌日に起こった。直ぐにでもどんな事件だったのか話したいところだが、それまでにも不気味なことが幾つか起こっているし、幾らか話しておかなければならない。
 それは、四人が風呂に入り終えて、部屋で夕涼みをして過ごしていた時のこと、時刻は十一時五十分を過ぎていた。
 明日は天気が回復すると聞いたので、遊びに備えて早い目に寝ようとしていたイェーチェ達。しかし、パジャマに着替えたところで重要なことを思い出す。
「あぁっ!」
 林檎が唐突に声を上げたため、他の三人が驚く。
「どうした……? もう夜中だぞ。女将さんも、寝ているぐらいだろ」
「どうしたもこうしたも、お爺ちゃん達に今日のことを連絡していないんですよ! きっと、到着が遅くて心配してます……!」
 言われてみれば、ここに到着してから足止めされていることを伝えていない。携帯電話を持っていないイェーチェは然り、高屋と誠司も首を横に振る。しかも、最悪なことに林檎以外は携帯電話を持ってきておらず、
「うぅ〜。ここへ来た時に転んで、落としちゃったみたいです……」
 なんて展開になる始末。自分のドジさ加減に、呆れて言い訳も出来ない。
「十二時まで、後十分ぐらいしかないぞ。どうする、明日にするか?」
「駄目だよ、お爺ちゃん達が心配しちゃう。落とした場所は大体分かるから、直ぐに取ってくる」
 高屋が心配するが、なんでもないのに警察やレスキューなんかを呼ばれてはこっちが困る。それでも、やっぱりあの狗神様の祟りが怖く、時間が過ぎないように高屋から腕時計を借りて旅館を出る。
 最も不幸な展開だけは避けられたらしく、携帯電話は茂みに引っかかって風には飛ばされていなかった。もちろん、見つけて旅館に戻るまで五分ぐらいしか経っていない。
「セーフ……。祟りなんて起こりませんように」
 旅館の玄関までたどり着き、腕時計で十二時を過ぎていないことを確認する。一応、狗神像に手を合わせて拝んでおく。
 拝んでいると、フッと何かに気付く。ここへ到着した時とは何かが違う。記憶の景色と、真っ暗になった景色を間違え探しのように比べてみる。
 その違いは明らかだった。実際、比べるまでもなく明白な違いがあったのだ。
「あ、あれ……? 石像が、ない……?」
 そこに置かれていたはずの石像が、忽然と消え去っている。石像だけなら二、三十キロぐらいの物で、誰かが持ち去ることは出来るだろう。
 持ち去って、どうするという。中身が純金だったりするなら盗む理由になろうが、それでは今まで置かれていた理由がない。ならば石像が独りでに移動したと言うのだろうか。
 林檎は周りを確かめることもせず、急いで旅館に入る。
「……はぁ、はぁ、はぁ」
 肩で息をしながら、腕時計を確認する。ギリギリ、十一時五十九分だ。
 間に合ったことに安堵し、安心すると急に体の力が抜けてしまう。
「どうしたんだ、そんなところでへたり込んで?」
 心配になって見に来てくれたのか、イェーチェ達が玄関に尻餅をつく林檎を怪訝そうに見る。
「そ、そんなことより……石像が、狗神様の石像が……!」
「石像がどうしたよ? まさか、独りでに動いた、なんて言い出すんじゃないだろうな」
 その通りだと言いたいが、今日はもう外に出れない。
「ちょっと覗くぐらいなら大丈夫だろ。ほら、こうしてちょっとだけ――」
 流石は非現実的なものを信じないイェーチェ。恐れることなく、戒めを恐れるふりをしながら外を覗く。
「――あるじゃないか」
「えっ? そんな!」
 イェーチェの平然とした言葉に、外を覗いて林檎は自分の目を疑う。
 暗闇の所為でシルエットしか見えないが、確かに石像は台座の上に置かれていた。信じられない、さっきは本当に石像がなかったはずだ。
「夏だからって、怖がらせようとしたんだろぉ〜。ほら、そんなことしてる暇があるなら電話しようぜ。電話帳に入ってたよな……」
 高屋が揶揄して、携帯電話を持っていく。ところが、操作している内に苦虫を噛み潰したような顔をする。
「圏外だわ。ちっ、流石田舎だな。仕方ない、明日になったら女将さんに電話を借りよう」
 しばしアンテナを動かしてみたが、やはり全く電波が来ないらしく高屋が諦める。林檎は、自分の見た全てが信じられず未だに放心していた。
 そこへ、五人の内の女性客が一人やってくる。
「ねぇ、あたいの彼氏見なかった、猫ちゃんも知らない? 少し前に海で一泳ぎしてくるって出て行ったきり、戻ってないのよ。携帯も圏外で繋がらないしさぁ〜、波に呑まれてなきゃいいけどぉ〜」
 今は女性の彼氏など知ったことではない。猫ちゃんと言うのは、たぶん猫野木のことだろう。そう呼ばれていると話していたのは覚えている。
部屋に戻って、早く休みたい。
 林檎が考えていたのは、ただそれだけだった。
「知らないね。さて、もう遅いから寝ますよ」
 イェーチェが軽くあしらってくれたおかげで、女性――猫野木から聞いた話で予測する限り、鳥音という人物――は部屋へ戻っていく。
 林檎も、イェーチェにしがみつくようにして部屋へ戻り、すぐさま布団へ包まってしまう。
 相当疲れていたのか、風が建物を鳴らす音も気にならず直ぐに睡魔は訪れた。次の日、本当の恐怖を見るなんて知らず、四人は安らかな眠りにつく。



狢喰らいの章



 昔々、一人の旅人が小さな集落を訪れた。冬も深まり、深々と雪が降り頻る日のことである。夜の帳が降りるにつれて、雪は吹雪に変わり旅人を襲う。
 命からがらたどり着いたのは、僅か二十人足らずの住人が暮らす、森と海に囲まれた隠れ里のような集落。
 旅人は長旅の疲れを癒そうと、村の人間に宿を願った。しかし排他的な彼らは残酷にも旅人の願いを断り、極寒の世界に締め出す。
「あぁ、何とも無情な……」
 旅人は嘆く。
 肌は凍え、流す涙はすぐさま凍りつく。ここで己の旅も終わりかと、旅人は諦めを悟った。
 その時だ、海に続く道の先に小さな明かりを見つけたのは。まだ訪ねていない民家が残っていたらしく、旅人は残った力を振り絞って明かりへ駆ける。
「すまぬ、旅の者だが、一晩の宿を願いたい! お願いだ、このままでは凍え死んでしまう!」
 旅人は戸を叩き、仕切りなく懇願する。
 すると、願いが通じたのか一人の女性が姿を現す。まだ二十歳にもならぬ、白い肌と妖艶な笑みを浮かべる生娘であった。
「どうぞ、お上がりください。ただし、この時以外に私とはお会いにならないでください」
「良く分からぬが、分かった」
 辛くも、旅人は命を繋ぎ止める。
 湯を張ってあるというので、旅人は凍えた体を温めようと風呂場へ向かう。風呂場へ向かうまでの僅かな間ではあったが、どうやら娘以外に誰もいないらしい。
 あの年で一人暮らしとは、両親などはどうしたというのだ。早くに他界し、寂しく暮らしておるのではあるまいな。
 旅人は温情の念を見せるが、他人のことに深く首を突っ込むことは止した。
「良い湯じゃ。体が温まる」
 体を温めていると、戸の向こうで娘の声がする。
「粗末なものですが、お夜食をご用意してありますので、居間にご足労ください。着替えの方は、こちらに置かせていただきます」
 それだけ聞こえると、娘の足音が遠ざかってゆく。
 やはりおかしい。長い一人暮らしで人見知りするようになったのか、夜食を食らっている間も娘は姿を現さなかった。布団もいつの間にか敷かれており、戸を叩いた時だけで娘の顔は見ることはなかった。
 翌日、雪も止んだ白銀の世界を眺め、旅人は再び旅立つことになる。
「一宿一飯の恩義、痛み入る。僅かではあるが、これを置いてゆく」
 少ないが大切な路銀を土間に置き、姿を見せぬ娘に礼を述べて家を出た。
 誠に不思議な娘であった。それでも、一目で忘れられなくなる美しい娘でもある。
 そして、またおかしなことがある。集落を出るまでの道行きで、擦れ違う村人皆が旅人を見てヒソヒソと囁きあう。まるで腫れ物を触るような村人達に、痺れを切らせた旅人が問う。
「何ゆえ、我を見て陰口を叩くか。言いたいことがあるならば、はっきりと物申せ!」
『…………』
 村人達が一斉に口を噤む。
 その中で、曲がった腰で杖をつく老齢の男が答える。
「決して陰口などではござらんよ。しかし、お主は鬼の住む宿に泊まったのじゃ」
「鬼と、な? あの娘が、鬼と申すのか? 馬鹿を申す出ないぞ」
 どんな謂れがあるのかは知らぬが、恩人を中傷されて黙っているわけには行かなかった。旅人が怒鳴りつけても、村人達は娘を鬼と信じて止まなかった。
「これまでにも幾人かの旅人が訪れたが、皆生きては戻ってこんかった。鬼に食われたのかも分からぬ。もしお主が戻ってこなければ、我々で鬼を退治しようと考えておったのじゃ。誠に申し訳ない……」
 老人が謝る。
 許せるようなことではなかったが、こうして無事ならば娘は鬼などではないのだろう。それでも、今までに訪れた旅人が帰らなかったのは嘘や冗談ではなさそうだ。
「必ずや、皆が戻らぬ訳があるはずだ。我が確かめに行こう」
 旅人は、娘の潔白を晴らそうと来た道を戻ろうとする。そこで、老人が旅人を呼び止める。
「どうしても行くというなら、こやつを連れてゆけ」
 そうって、一匹の犬を寄越す。どれほど役に立つかは分からないが、一人で行くよりは心強い。いや、娘が鬼でないほうが嬉しいのだが。
 道を戻ると、娘はまだ寝ているのか家の中からは人の動く気配がない。
「昨夜、こちらに泊めていただいた者だ。済まぬが、上がらせてもらうぞ」
 土間に置いてきた路銀も、まだ置きっぱなしになっている。
 返事がないので、旅人は中に入って部屋を確かめていく。ほとんどの部屋を調べ、最後の部屋に入ろうとしたところで、連れてきた犬が先に駆けて行ってしまう。
「おい、どこへ行く。娘が寝ていたら、迷惑ではないか」
 畜生に話しても仕方ないのだろうが、やはり犬は言うことを聞かずに入ってしまった。
 旅人が後を追うと、そこは娘の寝室らしいこじんまりとした居間がある。ただ、中央の畳が除けられていて、人一人が入れるぐらいの穴があって階段が奥へと続く。
 犬が、穴へ向かって唸り声を上げている。
 旅人は固唾を呑む。まさか、この奥に鬼に化けた娘がいるのか。一度は怖気付いたが、もしかしたら誰かが生きているのではないかと覚悟を決める。
 ゆっくりと、階段を軋ませないように下りてゆく。暗闇の中を下りきったところで、奥に灯の明かりが見えた。
 誰かが動く気配がする。奥へ進もうとしたが、フッと鼻を突く生臭さに顔を顰める。
「…………」
 微かだが、娘のものらしい声が聞こえる。はっきりと喋らない、呻き声のような音。まさか、本当に娘は鬼で、攫った旅人を喰らっているのか。
 確かめなければならない。娘の潔白を証明するためにも、ここで引き返すわけには行かなかった。だから旅人は進む。
 そして、進んだ先で信じられない光景を見た。
「まさか……そんな馬鹿な!」
 思わず叫んでしまう旅人。
 しかし、そこにいた娘は気付かないのか、ただ膝をついて嘆いていた。冷たい石畳に横たわる男達の身体。たぶん、戻ってこなかった旅人達だろう。ただ、娘が喰らったというような感じはなく、ただ血溜りに身体を横たえているだけだ。
 死臭が漂う中、娘が振り向く。涙に濡れる白い頬、そこにあるのは屍達を弔う本心からの涙だった。
「どういうことだ? これは、お主が殺したのか?」
「見てしまったのですね……。確かに、私が殺しました。分かって貰わずとも構いません、こうせねばならなかったのです……」
「訳は聞かぬ。恩人が鬼でなくて良かった」
 旅人は全てを聞かずとも分かった。
 自分もこの旅人達と同じだからこそ、なぜ娘が彼らを殺さなければならなかったのかが、分かる。この屍の山の中でなければ、今にでも娘を襲っていただろう。
 なぜ娘が昨夜から一度きりしか会わなかったのかも、合点がいく。
 しかし、娘の体質よりも目の前の屍が問題だ。
「お主の母も、このように男を誘わす体質だったのか?」
「はい。けれど、その体質も娘の私に移るのか、私を産んでからはなくなりました」
 それだけ聞いて、旅人の頭に名案が浮かぶ。
「我がどうにかしよう」
 娘は旅人の考えが分からないのか、首をかしげながらもうなずく。
 旅人はある準備を整え、階段を上り地下を出て行ってしまう。家を出て、老人達の待つ集落へと向かう。
「おぉ! 無事であったか。良かった、良かった。それで、鬼はどうなさいました?」
 旅人が無事に戻ってきたのを喜び、村人達が歓喜する。思ったよりもあっさりと信じたので、旅人は今こそと犬を前に連れ出す。
 鼻先に、地下の死体の血を塗りつけた犬だ。
「鬼は、お借りした犬が噛み殺しました。ただ、このままでは鬼が再び蘇ります」
「蘇る……。どうすれば、鬼を葬れるのじゃ?」
「犬の像を作り、崇めなさい。狗神様がこの地を守る限り、鬼は蘇らぬ。そして、我が鬼の屍をここに住み着いて弔う」
 旅人の案は功を奏したのか、村人は一人として疑うことなく狗神様を村の守り神として崇めた。
 旅人は村に住み着き、娘を隠して生涯を共にしたのである。



「なるほどね」
 話を聞き終え、イェーチェが納得する。納得というのもおかしいが、この集落で祀る狗神様の由縁を理解した。
 そんな昔話を恵美が話しに来たのは、七時過ぎの朝食を前にした僅かの間だった。
 最初は、昨日の紅葉のことについて話に来たのだろうが、イェーチェが狗神様の由縁を聞いたことから昔話は始まる。狗神家に伝わる一種の伝承らしいく、あの三つの戒めもこの伝承からついたのだとか。
「それでは、そろそろ朝食にしましょう。隣の皆さんも呼んできますので、先に食堂に行ってください」
 そう言われて、四人は揃って食堂に向かう。
 夕食を食べた、十人ぐらい入れる食堂で、四人がけの机が三箇所ぐらい置かれている。浜辺が良く見えて、海を一望しながらの食事と言うのも優雅なものだ。
 聞いた伝承の時代ぐらいから続く旅館らしいので、作りは古く所々を修理した後が残っている。一緒になった厨房からは、味噌汁や煮物の香りが漂ってきた。今時、釜でご飯を炊いたりするのは珍しいので、現代機器に慣れきった四人には新鮮な風景だ。
「昨日もそうだけど、美味しいよなここの飯。母子家庭みたいだけど、恵美さんも頑張るなぁ〜」
 高屋が食堂を見渡して言う。確かに、母一人、子一人で頑張って経営している。こんな、全く人のこなさそうな旅館なのに。
 もちろん悪気があっての感想ではないが、自分達がタダで泊めてもらっているのが申し訳なく思う。
「鉄道会社から貰ってるんだろ? それはそうと、早く電話を借りて爺ちゃんに連絡入れないと、な」
 今朝から忘れていたことを高屋は覚えていたらしく、どこかに電話がないか探している。しかし、食堂には電話を置いていないらしい。
 恵美が来るのを待とうかと机についたところで、なにやら外が騒がしいことに気付く。どうやら浜辺に村の老人達が集まってざわめいているようだが、食堂の位置からは何をしているのか分からなかった。
 村の会合か何かだろうか、顔を見合わせるイェーチェ達。残念ながら、若い好奇心が押さえられず、四人は外へ向かってしまう。
 外に出たところで、老人達がある場所に集まっているのを見て、背中を悪寒が駆け上る。
「好奇心猫をも殺す、と言いますが。いい予感がしませんね」
 誠司が顔を強張らせて呟く。
 食堂の大きな窓から出て駆けつけてみると、恵美やあの鳥音という客が顔を青ざめさせて佇んでいた。
 イェーチェは三人をその場に残し、一番人混みの厚い老人の壁を掻き分け進んだ先にあった、それに悪感を隠せなかった。
「狗神様の祟りじゃ……。この男は、狗神様を怒らせて祟りにあったのじゃ」
 昨日道を聞いた老人が、手を合わせて拝みながらブツブツという。
 たぶん、浜辺に倒れて息絶えた猫野木にではなく、この村のご神体である狗神様の石像にだろう。
 なぜ、この男はこんなところで倒れている。誰が見ても、酔い潰れて寝ているようには見えず、青白くなった顔から分かるように死んでいるのは明らかだ。夜の海で溺れたのか、最悪の場合誰かに溺れさせられたのか、どちらにしろ溺死と見て間違いはない。
「お前らは来るな。えっと、警察の方ですか?」
 近づいてこようとする三人を制止させ、制服を着たおじいさんに訪ねる。
「この村の駐在じゃ。恵美さんとこのお客さんじゃな。お若いもんは見んほうが良い」
 駐在が青いシートを死体にかける。
 恵美と鳥音は旅館の中に戻ろうとしていた。イェーチェ達も、これ以上は死体など見ていたくないので旅館に戻る。
 今朝のことを纏めると次のようになる。
 イェーチェ達を起こし昔話を話した後、恵美は五人の客を起こしに行ったが、昨夜から羊田と猫野木が戻っていないことが心配になって外に出た。鳥音が言うのは昨日の夜に海へ一泳ぎしに行ったらしいので、溺れているのではないかと思ったらしいのだ。まあ、案の定、そうだったわけだが
 そして、外に出たら村の老人達が集まって何かをしていたので、覗いてみたらあの通りだった、とのこと。第一発見者は村の老人。駐在を呼びに行ったところで、騒ぎに気付いた他の村人達が集まってあの騒ぎになったのである。
 警察を呼びたいが、昨日の突風で数少ない電線が切れて連絡が取れないらしい。近くの大きな街までは車でも半日ほど掛かるらしく、明日のこの時間までは他殺なのか事故なのか、分からない。
「祟りなのかな……? 十二時を過ぎて外に出たし、昨日は祟りのことを信じてなかったし、余所者だし……祟りなんて嘘ですよね?」
「馬鹿も休み休みに言え。そもそも戒めってのは、人を縛るじゃなくて守るためにあるんだ。戒めを破ったから祟りが起こるんじゃなくて、祟りがあるから戒めがあるんだよ」
 不安に駆られる林檎には、イェーチェの言葉は届かない。
「どちらでも同じじゃねぇーか。卵が先か、鶏が先か、の違いだろ。俺だって祟りなんて信じたくねぇけどよ、悪いことしたんなら罰が当たるのは当然だぜ」
 高屋が他人事のように言い捨てる。せっかくの休日に、大変なことに巻き込まれて憤っているらしい。
 その気持ちは分からなくもないが、人が一人死んだ今、イェーチェ達は指を咥えて警察が来るのを待っているしかない。
「どうせ明日には電車に乗っておさらばだ。もし気になるってんなら、宗谷さんに聞けばある程度のことは分かるだろ?」
「高屋君の意見に賛成です。ここから先は電車が進まないかも知れないけど、もしかしたらここまで来て引き返す電車があるかも知れない。私は、もう一分一秒もここにいたくはありません」
 そう言うと、林檎は立ち上がって部屋を出て行ってしまう。まさか、一人で駅に向かうつもりなのか、旅館を出て集落の方向へ歩き去る。
 引き止めるべきだったのかもしれないが、林檎はなんでもない普通の高校生なのだ。直接ではないにしろ人の死体を見て、冷静な判断が出来るわけもない。
「僕が様子を見ておきます。もし祟りがあるなら、次は彼女かも知れませんからね」
 どんなときでも、誠司だけは冷静沈着だ。
「それと、これは渡しておきます」
 部屋を出る際に、誠司がメモ帳をイェーチェに手渡してきた。いったい何が書かれているのかを聞くよりも早く誠司が出て行ってしまったため、呆れながらメモ帳を捲ってみる。
 最初の数ページは買い物のメモだったり、日常のスケジュールが掻かれている。そして、途中から驚くべきものが書かれていた。
「なんだそりゃ? あいつは時々おかしなことする奴だからな。今日も、あれの後しばらく姿を見せなかったりしたし……」
 高屋が覗き込んでくると、イェーチェは溜息を付いてメモ帳を見せてやる。
「昨夜からの、五人や恵美さんのアリバイだよ。他にも、趣味や性格といった色々な情報が書かれている。あいつ、警察にでもなるつもりか?」
「さぁね。将来のことなんて語り合うほど、つまらない人生は送ってないつもりだぜ。林檎は、両親の後を継ぎたいみたいだけど、さ」
 これから何が起こるかわからない人生について話しても仕方ないので、メモ帳を読んでアリバイ云々を確認する。
 まず、死体で発見された猫野木について書かれている。
『猫野木。五人とも中学からの同級生なので年齢は割愛する。男、事件の被害者。他の皆とは仕事場が違い、故郷に戻ったついでに同窓会へ参加。仲間達のノリについていけず困っていたが、彼の性格上、恨みを買うようなことはないと思う。
 昨夜は部屋に戻って酔い潰れた仲間を起こして、お風呂の後は部屋で休んでいた。羊田に誘われて出て行ったのは風呂に入ってから二時間ぐらい後と、仲間達は記憶している。それから今朝の事件まで、姿は見られていない』
 確かに、あの性格だと誰かから恨まれるようなこともなかろう。夜という状況、風が強かったということから考えて、事故という可能性の方が大きい。
『鳥音。二十四歳、女性。被害者の彼女で、やや人間関係に無関心。しかし、羊田を溺愛していた。被害者と羊田が夜の海に出かけたのでそのまま就寝。今朝、女将さんに起こされた時も、二人が帰ってきていないようだったので外へ探しに行く。そして死体を女将さんと一緒に発見する。
 被害者とは特別な関係もなく、ただの遊び仲間だったとのこと。性格上からかいやすいので、玩具にしていたのは確かだ。ちなみに、未だに行方不明の羊田とは三年来の恋仲で、ここへ来た理由は趣味の遠泳と同窓会を兼ねての旅行が目的。羊田が仲間内の誰かと恋人が浮気をしていたらしいが、彼氏を溺愛するが故の疑心暗鬼か』
 恋仲の縺れかとは醜いものだ。しかし、猫野木を殺すような動機は見当たらない。強いて言うなら、海でからかっている内に何らかの拍子で溺れさせてしまったぐらいか。
『牛尾。以下年齢割愛、男。余談だが、自分の失神癖を恥ずかしそうに話す。昨夜は部屋で酔い潰れていたので記憶になく、今朝の騒ぎの後に目を覚ます。仲間との折り合いは良い方で、特に次の猿枝とは色々な秘密を共有するほど仲が良い。やはり、鳥音と同じくして被害者とは深い関係ではなかった』
 こちらも殺す動機らしいものは見当たらない。酔い潰れて寝ていたという言葉の真偽が気になるが、夕食の時も相当酔っているにも関わらずビールを幾つか飲み干していた。一番羊田に近い人物であることは確かだ。
『猿枝。男。被害者の死を祟りと恐れてか、部屋に閉じこもったまま出てこない。五人のうちでもリーダー的存在だが、割と小心者らしい。被害者についてはほとんど黙して語らず、祟りが起こったのは自分の所為だと呪詛のように呟いていた。羊田との関係だが、悪友と言ってしまえばそうだが、それほど仲が良かったわけではないらしい。喧嘩をすることもしばしあったとか』
 呪詛云々のところは気になるが、人を殺して冷静さを失ったか。確か、猿枝は、昨日の昼頃に祟りを馬鹿にしていた男だ。
『羊田。男。未だに行方不明。もしかしたら、命の危機に晒されているかも知れない』
 いや、もしかしたら羊田が犯人と言う可能性もある。何らかの理由で猫野木を殺してしまい、捕まることを恐れて逃げ出したのかもしれない。
 まあ、逃げたところで、一日や二日徒歩で移動できる距離など高が知れている。警察が来れば、直ぐにでも捕まるだろう。もちろん、羊田が犯人ならば、という仮定の話だ。
 続いて恵美。五人とは全く無関係みたいだが、もしかしたら過去に何かがあったのかも知れない。
『狗神恵美。三十六歳、女性。この旅館の女将を勤め、人柄は良く気の回る性格。昨夜は夕食の後、朝食の下拵えをしてから自室で寛ぐ。風呂場での一件で怯える娘を宥めたりなど、部屋からは出ていないらしい。今朝は、朝食の準備をして僕達を起こしに行く。後は鳥音と同様。
 被害者とはまったく関わりがなく、昨日が初めての客らしい。被害者と話したのも昨日の駅に出迎えた時だけで、二言、三言話した程度。まず、被害者を殺す動機は無いと思われる』
 予想通りのことばかりだ。
 しかしこれを読む限りでは、全員が全くの白とは言い切れない。鳥音とは昨日の十二時前に顔を合わせたが、死亡時刻が分からない今は顔を合わせた後でも可能だ。酔い潰れていた牛尾を除けば――これも真偽は不明だが――、誰にでも殺すチャンスはあったということになる
 フッと、メモ帳の記述も終わりかと思ったところで、まだ続きがあることに気付く。
「何々、村人が……?」
 歯切れの悪いイェーチェの独り言。
『一つ引っかかることがある。それは村人の態度だ。人が一人死にながら、それを祟りとして片付けてしまうのはどうかと思う。まさか毎年このようなことが起こっているわけも無かろう。もしかしたら、村人はこの事件を祟りとして片付けてしまえる何かを知っているのではないだろうか』
 何なのだろう、これは。
 ただの誠司の勝手な憶測とも取れるが、言われてみれば不可解なことは幾つかある。
 もし誰かが猫野木を殺したなら、どうして彼が三つの戒めを破ったと分かる。村人は祟りを恐れて十二時以降は外に出ず、昨日の祟りを信じなかった猫野木の言動を知るのはイェーチェを含む四人だけだ。もし一つでも破ったなら、と言うなら余所者であるイェーチェ達も祟りの対照になるはず。二つ以上と仮定するなら猫野木と羊田も含まれるが、村人も恵美も彼らの言動を把握しているとは思えない。
 祟り云々に関係なく五人の誰かが犯人だとすれば、何らかのトラブルによる突発的な犯行だろう。どこかに移動させて隠すより、この村の風習を利用して祟りに見せかけた方が得策か――否、そんなもの警察がこれば直ぐに分かってしまうことをワザワザする理由もない。溺死に見せかけた方が、まだ逃れる術は多いと考えたか。
「誰も、犯人になりえる……」
 もしこれが祟りと言うなら、昨夜の林檎のおかしな言動も合点が行く。が、それだけは全力で否定したい。
「コンピュータの天才も、人死には弱いか。確かに祟りなんて非現実的な話だけどよ、村人の皆が皆、祟りを信じてるのかね? 女将さんなんて、子供だましに驚かせようとしているみたいで、心身から信仰してるって風には見えないわけよ」
 何度も言うが、高屋は馬鹿だ。今回の模試でも、赤点ギリギリのところで合格するぐらい、物事を深く考えない。しかし、たまに要らないところで鋭い勘を発揮してくれる。
 今朝、浜辺に集まった村人を見ていても、敬虔な信者とどうでも良さそうな表情の二つに分かれていた。
「どうして、そんなに解決を急ぐんだ? 警察が来れば直ぐに犯人も捕まるのに、あんたが首を突っ込むようなことでもないだろ」
「いや、どうしてか分からんが、早く犯人を見つけないといけないような気がするんだ。直感と言うか、とても不安になるんだよ」
 高屋の疑問に答えてみて、自分が焦っていることを自覚する。
 何の理由があって、自分がこの事件を解決せねばならない。どうしてここまで脳みそを熱くして犯人を捜すのか。
 自分でも明確な答えを出せず悩んでいると、高屋が荷物を枕にしながら独り言のように言う。
「確か、老婆心って言うんだったか、こういう余計な物言いは? 俺はあんたを信じている。たぶん、十年以上付き合ってるあいつらより、あんたのことを信じてるよ。俺達が力を貸さなくても、俺達なんかより何でも出来ちまう天才だって思ってる。だけどさ、あんたが年相応の女だってこともよーく分かってる」
 そこで、高屋が言葉を区切る。
 言われずとも分かっているようなことを抜け抜けと。以前の事件でも、一人で突っ走って皆を心配させた。イェーチェ自身も、彼らを良き仲間だと思っている。それなりに、信じ頼れる仲間だと認めているつもりだ。
 これ以上は皆に心配をかけたくなくても、自分に降りかかった火の粉を払い落とせるのは自分だけだと思ってしまう、馬鹿な性格は治せないようだ。
 だから言い訳はせず、
「あぁ……すまない」
 素直に謝った。
 それでも高屋は許してくれないのか、静かな怒りを顔に浮かべて立ち上がる。
「今ここに、俺の行動を止められる奴はいないよな。これ、どういう意味か分かるか?」
 高屋のおかしな質問に、イェーチェは答えあぐねる。
 目の前の少年は、何を言っているのか。ジッとイェーチェを見下ろして、何をするでもなく佇んでいるだけではないか。
「言わなくても気付くだろうけど、これが俺の老婆心だ」
 高屋が半歩歩み寄ったため、イェーチェは思わず座ったまま身を引く。しかし、立った状態と座った状態ではリーチが違う。
 目の前まで歩み寄る高屋に、何故か言い知れぬ恐怖を感じる。自分の信じている生徒に、仲間に対してこんな感情を持つのは初めてだった。
「何をするつもグッ……!」
「静かにしてくれ。昨日みたいに、風の音は無いんだ。お隣に聞こえちまうだろ」
 怒鳴ろうとしたところを高屋に口を塞がれて、押し倒され馬乗りに押さえつけられる。イェーチェを見つめる高屋の顔は、彼女が知っている彼の顔ではない。捕らえた獲物を捕食する寸前の、飢えた猛獣の獰猛な笑い。
 正気なのか。冗談のつもりなら、涙の一つでも見せればどいてくれるか。まさか、紅葉のような特異体質になって、高屋を誘わしているのではなかろうか。
 そこまで考えたところで、ドタドタと廊下を走る音が近づいてくる。
「なんちゃってぇ〜。驚いたか? 驚いただろぉ〜。冗談だよ、じょ、う、だ、ん」
 足音に気付いた高屋が離れ、いつものふざけた笑みを浮かべる。
「じょ、冗談にしては性質が悪すぎるぞ!」
 本当に、思い悩むイェーチェを驚かせようとしただけなのかもしれない。もし誠司と林檎が戻ってきて、それを伝えなければこの場で腕の一本ぐらい圧し折ってやりたかった。
「遊んでる暇はありませんよッ。また、一人死にました……」
「村の広場で……今度は、猿枝さんが!」
 息せき切って、二人が口々に言う。
 祟りは、まだ続いていた。



 今度ばかりは、事故ではない。
 林檎は『狗神様』のことを狛犬と例えたが、本当に二つあったのだ。来たばかりのときは気にしなかったが、村の広場にも同じものが置かれていた。
 口を塞いでお座りしている旅館の物とは違い、こっちは口を開いて何かを威嚇しているようにも見える。
 そして、死体は、石像が開いた口の中に頭を突っ込んで息絶えていた。頭を血塗れにして、何かに怯えるような表情だった。
「祟りじゃ、祟りは終わっていなかったのじゃ……」
 村人達が石像に拝む。
「そんな、馬鹿な……。誰が、こんな真昼間から人を殺すッ? まさか、この石像がこいつの頭に喰らい付いたとでもいうのか? これは、明らかに意図的な殺人だ!」
 イェーチェは信じない。祟りなど、起こりうるわけがないのだから。
 フッと、メモ帳に書かれていた内容がイェーチェの脳裏を過ぎる。
 村人が、全てを祟りとして片付けてしまえる理由。まさかとは思うが、村人が余所者である彼らを祟りに見せかけて殺している。
 馬鹿げた想像だ。妄想も良いところ。そんな話は、横溝正史や京極夏彦が書いた物語の中だけでしか起こりえない。
「おいおい、冗談じゃねぇぞ。この中に、連続殺人鬼が居るってのか?」
 仲間の死体を見て、イェーチェの怒鳴り声を聞いて、牛尾であろう男が声を震えさせる。
「やっぱり、羊田も……? ちょっと、悪戯のつもりだったはずよ。それなのに、祟られるなんて」
 鳥音が言うことの可能性は十分に考えられる。死体が未だに出てきていないのは気がかりだが、殺されていなくとも姿を現せない何らかの理由があるのは確かだ。それが祟りにせよ、誰かの意図的な犯行にせよ。
 さて、ここで今回の事件について纏めてみよう。
 まず、電車が来ていないか見に行った林檎と誠司は、駅から旅館に戻る途中で死体を発見する。行く途中に石像はあって、死体などなかったというのは絶対である。
 村人達はそれまで一度も外に出ておらず、林檎の悲鳴を聞いてからこのことに気付いた。村人全員が共犯という可能性は捨てきれないものの、羊田が犯人である可能性もゼロとは言い切れない。
 残った二人も、祟られる理由が多く思い当たるのか、口を硬く閉ざして不安に怯えている。ちなみに、部屋に居たかと思っていた鳥音と牛尾は羊田を探しに森を散策していたらしく、猿枝の動向までは認識していない。
「イェーチェちゃん、ちょっと話があるんだけど……」
 すると林檎が、ボソボソと耳打ちしてくる。
「もしかしたらあの二人かも知れないけど、駅の近くの茂みに誰かがいたんです。紅葉ちゃんが遊んでるんじゃないかって思ったから、その時は気にしませんでしたが」
 林檎の言うことが確かなら、駅の近くに羊田は潜んでいないだろう。昨夜の内に逃げたのなら、車でも使わない限りは追いつけない。
 そう言えば、あの風呂場での一件以来、紅葉の姿を見ていない。林檎が見た駅の人影が鳥音と牛尾だとすれば、自分達を怖がって部屋に閉じ篭ってしまったか。改めて、ちゃんと謝りにいかなければならなさそうだ。
「やっぱり、警察に任せた方が良いんじゃね? 俺達が首を突っ込んだところで、分からないことばかりじゃん」
 高屋が諦めろとばかりに言う。
 イェーチェ自身、名探偵になろうとしているわけではない。ただ気持ちが焦り、直感が急かすのだ。もう、遊びや好奇心程度では済まないところまで首を突っ込んでしまったのだから。
 そして、更なる祟りは彼らの不安を煽る。
 経緯までは事細かに説明しない。村人が、駅の近くで羊田の死体を発見した。まるで祟りを主張するかのように、旅館にあったはずの石像の側で倒れていたのだ。
 凶器は石像。鼻先で頭部を殴られ、頭蓋骨が陥没している。続けざまに起こる三つの祟りに、誰も言葉を発することは出来なくなっていた。
 気が狂いそうだ。信じたくないものを強制的に信じさせようとする、おかしな村の風習に。
 それでも、これで連続殺人鬼は殆ど絞り込めたようなものだろう。
 鳥音か牛尾、最悪でも恵美か村人という形。村人だと厄介なことこの上ないが、皆で監視し合えばもう祟りは起きない。
 旅館に戻ると、イェーチェ達は食堂に閉じ篭りお互いを監視しあう。
 無論、自分の生徒を疑っているわけではなく、村人が祟りを起因しているのであれば彼らも命を狙われる可能性があるからだ。
「済みませんが、紅葉は部屋で休ませてやってください。見知らぬ人が密集したところだと、いつ騒ぎ出すか分かりませんので」
 あの人見知り様では、食堂に引っ張り出すのも酷というもの。
「分かりました。けれど、部屋に鍵を掛けて出来るだけ出て来ないように言ってください」
 紅葉まで命を狙われる可能性は低いが、全くの部外者が潜んで殺しを愉しんでいる可能性を今更ながら考えてしまう。
 誰が犯人だろうと、明日の朝まで持ち堪えれば警察が捜査してくれる。そう、イェーチェは高を括ってしまっていた。
 ことの起こりは、イェーチェと恵美が紅葉について相談し終えたときだ。なぜか牛尾が恵美に突っかかり、しばし言い合いになった後、イェーチェ達が止めに入ったので彼は怪しいほど憤って言い出した。
「部屋に忘れ物を取りに行く! 監視したいってなら誰かが付いてこればいい。けど、部屋には入るなよ。プライバシーぐらいは尊重してもらわなくちゃな。それから、俺に何かがあったら犯人はその女将だ!」
 何に憤っているのかを恵美に聞いたところ、
「紅葉が皆さんに悪戯をしたとかで、紅葉に合わせろと言うんです。気の小さな子なので断ったんですが、あんな風に……」
 どんな内容なのかは知らないが、子供の悪戯ぐらいで怒るとは心の狭い男だ。それに、連続殺人のことで怯えていたとしても今更過ぎる。
 まあ、今はそんなことを責めても仕方ないので、とりあえずは牛尾についてゆく有志を募る。
「じゃあ、僕が付いていきます」
「俺も行く」
「私も行くわ。なんとなく、牛尾の奴が何かを隠してる気がするの」
 と、誠司に高屋、鳥音が名乗り出た。
 高校生二人と女性一人ならば、銃器でも使わない限りは三人を同時に殺すことは出来まい。こちらも女子二人だが、恵美と台所の刃物を見張っておけば怖いものなしだ。
「何かあったら直ぐに戻って来いよ。それから、出来る限り離れずに行動しろ。別々にやられたら、監視しあう意味がないから、な」
 誠司がイェーチェの忠告にうなずき、食堂を出て行く。
 まさか、今後に及んでまで祟りが付き纏うなどとは知らず。



 食堂と、高屋達が寝泊りする部屋は結構離れていた。歩いて往復五分以上、ランニング程度で走っても往復二分は掛かる距離だ。
 平屋建てではあるものの、旅館として改装したため造りは思ったよりも複雑になっている。隠れようと思えばどこにでも隠れられるというのが、空恐ろしい。
「ところで、忘れ物ってのは何なんですか?」
 イェーチェといつも話している所為で、年功序列や敬語というのを忘れてしまいそうになりながら、ゆっくりと尋ねる。
「プライバシーぐらいは尊重して欲しいね。大したものじゃないけど、財布や家の鍵ぐらいは確かめておきたいだろ」
 こんな時にそんなものを気にするのはあんたぐらいのものだ、と内心で毒づく。
「この人は割と几帳面な性格なのだよ。どうにか冷静さを保っているが、予想の付かないことが起こると直ぐパニックになる」
 誠司が耳打ちしてくる。
 几帳面で失神癖。何とも矛盾した性格であろうか。
 イェーチェも大人びた考えをしながら、やることなすことは子供だ。それに、まだこの事件の中で気付いていないことがある。
 イェーチェほど自分は頭が良くないので事件の全貌を暴くなんて出来ないが、五人の性格を誠司のメモ帳で確認して分かったことがあった。しかし、まだ直感的なもののため、口にするのは難しい。
 部屋で二人っきりになった時も、その直感を伝えようとしたのだが冗談で誤魔化さざる得なかった。
「高屋、君はどうやらこの事件の真相に近づいたみたいだな。ただ、一つに繋がっているはずなのに、繋がっていないという事実に戸惑っている。もしかしたら、これで犯人を特定できるかも知れないが……」
「買被り過ぎだ。俺にはまだ、これが祟りじゃないってことぐらいしか分かってねぇーよ」
 誠司の言葉を遮り、牛尾の部屋までたどり着いたところで足を止める。
「早く見つけてきてくださいよ。いつまでもこんなところに留まるのは、真っ平ごめんだぜ」
 高屋の慇懃無礼な態度に、牛尾は少しムッとして部屋に入ってゆく。
 さて、犯人はどう動く。外は二人の見張りがいて、鳥音が部屋の中を監視している以上は迂闊に動けまい。鳥音が何もアクションを取らない今、部屋の中に犯人はいないのだろう。いや、一つだけ姿を隠せる場所がある。
 押入れの中。そこなら、牛尾が部屋に入ったことを聞きつけて油断したところを襲いかかれる。
 祟れるものなら祟ってみろ。本当に三人を同時に祟るか、牛尾だけを祟り殺せるなら信じてやろうではないか。その、祟りという奴を。
「まだ? 押入れなんか睨みつけても、布団しか入ってないでしょ?」
 鳥音の言葉に、高屋が息を呑む。まさか、本当に押入れの中なのか。
 牛尾は押入れを開けあぐねているらしく、扉の隙間から見える彼は動こうとしない。それでも鳥音に急かされ、ゆっくりと押入れの取っ手に手を伸ばす。
 勢い良く開く襖。
 そして、牛尾の悲鳴が甲高く上がった。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
 咄嗟に高屋と誠司が部屋に飛び込む。
 鳥音は悲鳴に驚いていただけで、押入れから誰かが飛び出してきたわけではないようだ。
「誠司、お前はあいつらを呼んできてくれ!」
「分かった。絶対に無理はするなよ」
 押入れの中にいるのかも知れない犯人に聞こえるよう声を上げ、こちらに人数の分があることを教える。
 ゆっくりと押入れに近づき、
「出て来い!」
 声を荒げながら覗き込む。
 が、そこにあったものに高屋は間の抜けた声を出すだけだった。
「へぇっ……?」
 どうしてこんなところに、羊田を殺した凶器の石像があるのかは分からない。しかし、それを見て牛尾が驚いたのは確かなはず。少し湿った木の床にちゃんとお座りする、凶器として使われたままの状態で置かれた石像。
「あの、何が怖かったんです……」
 問いかけようとして振り向いたところで、牛尾の異変に気付く。
「牛尾? どうしたのよ、牛尾ッ?」
 鳥音が声をかけるが、仰向けに引っ繰り返った牛尾は体を痙攣させながら口から泡を吹いていた。失神癖が祟ったのか、こんな時にチアノーゼを起こしたのだ。次第に顔は真っ青になり、まともに呼吸も出来ず喘ぎ声を上げる。
 間抜けにも程がある。救急車も呼べないここでは、呼吸器の病気なんかにかかれば命の保障はない。
「退いて。これでもあたいは遠泳してたんだから、人工呼吸ぐらい……」
 どれだけ勉強しているかは知らないが、鳥音が簡単な応急処置なら出来そうだ。
 とりあえず、高屋にはその場を見守ることしか出来なかった。
 まさか、こんな形で祟ってくるとは思わなかった。犯人は、牛尾が石像を見て失神することを予測していたのだろうか。
 鳥音の応急処置を見守りながら、時間が少しずつ過ぎてゆく。まだ、誠司はイェーチェ達を呼びにいけないのか。呼んできたところで、この状況では天才も無力かも知れない。
「……高屋、どうした! はぁ、はぁ」
 二分か三分ほどして、全力で走ってきたのだろう、イェーチェが肩で息をしながら駆け込んでくる。誠司が部屋を出てからこの時間なら、相当の全力を出したのだ。
 犯人が居るとでも思ったのだろうが、今の状況では牛尾が息を吹き返してくれることを祈るしかない。後は、イェーチェに押入れの石像を見てもらうぐらいだ。
 親指を立てて押入れを示すと、警戒しながら覗き込む誠司とイェーチェ。誠司は石像に頭を抱えているだけだが、イェーチェはしばらく押入れを見回してから溜息を吐く。
「助かりそうか?」
 なぜか、牛尾の方を気にし始める。
 しかし、命とは儚く散るものだ。鳥音は人工呼吸する手を止めて、俯いたまま首を横に振る。
「だろうな。最後の最後で、まんまと遣られたよ。いや、まだ終わっちゃいないぞ、この祟りは」
 押入れを見ただけで、牛尾が死ぬことが分かったというのか。それに、まだ終わっていないとはどういうことだ。
「じゃあ、犯人って……」
 皆の視線が、鳥音に向けられる。
 そんなことがあるのか。鳥音は、死に掛けた牛尾を助けようと応急処置していたのだ。殺すはずの人間を生かそうとする殺人鬼が、どこにいる。それに、牛尾が石像に驚いてチアノーゼを起こすことだって僅かな可能性でしかない。
「なぁ、もう茶番は終わりにしよう。これ以上、こんな茶番を続けても満足はしないだろ。いや、最初から満足するための殺しじゃなかったんだろ? それ以前に、お前は殺すつもりなんて全くなかったんだ。皆が死んだのは、ただの結果的なものでしかなかった。そうだよな――」
 イェーチェが口にした人物の名に、その場にいた誰もが驚愕を隠せなかった。
 ついに、連続殺人鬼の正体が暴かれる。



祟り破りの章



 そこまで話し終え、イェーチェが小休止を挟む。
 それまで口を挟まず話を聞いていた面子も、しばし頭を捻って口を開いた。
「どうして、そんな事件のことを今更話すんだ? 帰ってきてからでも、俺達に言ってくれれば調べてやったのに」
 イェーチェにこき使われる男、桂木宗谷がやや不機嫌に言う。
「最後まで聞けば、分かるぞ。私だって信じられないぐらい、荒唐無稽な話だからな」
 イェーチェが、思い出したくもないと言わんばかりに答える。
 一見、話だけを聞いていれば祟りを模した連続殺人事件の話だ。本当に祟りであるなら、それは怪談話として通用したかもしれない。
 事の顛末は、事件の後なのでその話しはおいておこう。
 一番手に話した女性、リンは続きが気になるのか目を輝かせている。本当に、こうした話が好きな女だ。
 ちなみに、ロングヘアーの女性――アンリは布団に包まって机の下で震えている。
「あの、僕には全然分からないんですけど……」
 イェーチェが呆れていると、参加者に一人である眼鏡の男が言う。分からないというのは、この事件の真相についてだろう。他の参加者は、大体の推理を終えて話しの顛末を待っていた。
「推理小説とかは好きですし、こうした話は幾つも読みました。けど、どれのパターンに照らし合わせても犯人が特定できないんです」
 眼鏡の男が頭を抱える。
「まあ、分からんだろうな。普通の推理小説みたいに、固定概念と照らし合わせたところで真相は出てこないぜ。もう少し頭を柔軟にして、子供の謎かけを解くぐらいの気持ちでいなきゃな」
 事件の真相を既に解き明かしたのか、果たしていつから分かっていたのかは知らないが、サングラスをかけた男が言う。この暗闇の中で、サングラスをしながらも難なく手元が分かる男の感覚に驚くが、彼にしてみれば当然としか言いようがないので呆れた口を閉じた。
 サングラスの言うように、これが有名作家の手掛けた推理小説であるなら、その作家は相当性格が悪い。
 一般の概念を持つ者なら、事件の顛末を聞いて怒り出すかも知れない。それほど、一般論を打ち捨てて考えねばならぬのだ。
 それを言ってしまうと、小説好きの眼鏡よりも宗谷たサングラスの方が分かるだろう。
「さて、そろそろ続きを話そうか。終わりまでノンストップだからな、聞き漏らさずに耳の穴かっぽじって聞けよ」
 イェーチェが最後の間を置いて、話し始める。



「――紅葉ちゃん」
 イェーチェの口にした名前に、皆の視線がドアへと向かう。
 柱の影に隠れ、こちらをジッと見つめる小柄な少女。しかし、その顔に怯えや人見知りの影はない。
 それどころか、殺人を犯したという罪悪感さえ浮かんでいないのだ。
 まあ、当たり前だろう。
「彼女は、一人も殺しちゃいないんだからな」
 皆が、訳が分からないといった風に顔を歪める。
 殺人犯なのに、殺人を犯していないというのはこれ如何に。
「世の中、偶然って言うのは恐ろしいものだな。ほんの僅かな綻びを作ってやるだけで、後は済崩し的に崩壊してしまう。常識も、常世の概念さえもな」
 イェーチェの回りくどい説明に、高屋が痺れを切らせる。
「意味の分からないこと言ってないで、早く説明してくれ。犯人がこいつだって分かったけど、誰も殺してないって何だよ?」
「慌てるな。ゆっくり教えてやるから、まずは事件の前に起こった事件について説明してやろう」
 イェーチェがノラリクラリと話を続ける。
 やはり、周りは『事件の前の事件』について分からぬ様子だ。一人だけ、鳥音を除けば。
「高屋、お前も分かってるだろ? 森の中でシャンプーの香りを嗅ぎ分けられる鼻があるなら、嵐の夜に、ドンチャン騒ぎと風の音からそれを聞きだすぐらいの耳は、持ってるはずだ」
 イェーチェが言うと、思い当たるものがあるのか高屋の顔に嫌悪が浮かぶ。
「同じ穴の狢、とは良く言ったものだ。けど、狢は狢らしく猟犬に食われたってことだな、この事件は」
「同じ穴の狢が、他の狢の事は言えないけど。よ。酷い話もあったもんだ。弱い奴の自尊心を傷つけて、のうのうと生きてる奴がいるなんて、許されるわけねえよ。あんただって分かってるんだろ、鳥音さん!」
 高屋の怒鳴り声に、名前を呼ばれた鳥音が体を震わせる。
「なんで、止めたなかったんだ……?」
「ちょっとした、悪戯ぐらいだと思ってたんだよ。それに、お酒も飲んでたから、悪乗りしちゃって……」
 高屋の問いに鳥音が答え、申し訳なさそうに顔を伏せる。
 確かに様々な要因が重なった、不幸な事故としか言いようのない事件だ。それでも、この惨劇を回避する術は幾らでもあったはずなのだ。
「あの……私には、何のことだかさっぱりなんですが?」
 恵美が、周りの会話についていけず聞いてくる。
「母親にも話していなかったのか? 自分の体質のことを考えれば、こんなことをする前に相談したりするのが普通じゃないのかね?」
 恵美にも知らせず、こんな悪戯を決行した紅葉も馬鹿と言えば馬鹿だろう。
 イェーチェの呆れた台詞に、やっと恵美も話の主旨を理解する。
「まさか……そんなッ」
 恵美の驚愕に、紅葉が首を横に振った。
「そのまさかだよ、お母さん。私は、この人達に襲われたの。だから、復讐してやった」
 こんな馬鹿げた悪戯をするぐらいだ。予想は付いていた。
 紅葉は、己の不運を悲観するでもなく、ケシャリ放つと、唇を三日月型に歪ませる。赤い口が、ニヤリと覗いた。
 全ては、紅葉の小さな復讐から始まった惨劇だったのだ。
「たぶん、紅葉が死んだ奴らに犯されたのは夕食の前ぐらいだろ。猫野木が私達の部屋に逃げてきたのは、仲間の悪乗りのついていけなかったから。止められるのは猫野木だけだったんだろうけど、性格上、それは無理だな。そして、紅葉、お前は祟りを利用して奴らに復讐しようとした。最初はちょっとした悪戯だ。奴らの部屋で、死体の真似をする」
 説明しながら、ポケットの中から風呂場で紅葉が落としたスーパーボールを取り出して皆に見せる。
 五センチ程度の物を脇に挟み、息を止めてグッタリと倒れていれば、誰しもが死体と間違える。脇の物を挟むと手首の脈が止まったようになる、簡単なトリックである。
「私達が風呂に行った時、紅葉がビショビショだったのは、息を止める練習と体を濡らすことで不気味さを演出しただけだな。悪戯に及んだのは奴らが風呂に入って戻ってきた時。誰でも、戻ってきて死体が部屋にあったら驚くさ。脈を計っても、脈がなければ死んでると思い込む。医者がいなければ尚更だ。そして、奴らは死体を隠すために押入れを選んだんだ」
 押入れの中が少し湿っていたのは、濡れた紅葉を隠したからである。
 そして、その悪戯がこの惨劇の起爆剤となったのだ。
「自分達の所為で人が一人死んだ。そうなれば、あいつらは良心の呵責で色々と悩むだろ。最初は、猫野木辺りが羊田を説得しようと海に呼び出す。なんでもない、周りに人がいないってだけの理由だ。しかし、事故はここで起こる。羊田は猫野木の説得に応じず逃げ出す。ここで、一人になった猫野木を殺そうと重石の石像まで持ち出して紅葉は海に向かったんじゃないか?」
 イェーチェが目を細め、滑るように紅葉を振り向く。
 やはり、紅葉は言いよどむでもなく軽くうなずいた。最初は殺人を犯そうなどと考えていた人間にしては、堂々としている。
「けど、紅葉が殺すでもなく、猫野木は海で溺れ死んだ。聞いての通り、ただの事故で、な。その後、他の奴らは猫野木の死を祟りだと思う。牛尾は酔い潰れて寝ていて、鳥音は海に出た二人を探して部屋に居らず、猿枝は自分の所為で人が死んだことを悔やんで怯えていた。押入れから抜け出して、別の場所に隠れるのは安易なことだ。押入れに隠した死体がなくなり、仲間が死ねば祟りで片付けてもおかしくはない状況で、今度は猿枝を殺そうとした」
 が、紅葉が手を下すよりも早く、猿枝は殺された。そう、紅葉を犯した共犯であろう羊田が殺した。
 自首を説得している時にか、はたまた責任転嫁の最中に言い争ったか、なんらかの理由で猿枝が死に、それを祟りに見せかけるため広場の石像を利用する。焦っていたのかも知れないが、警察が来れば直ぐにでも分かるような子供だましで誤魔化そうとしたのだ。
「じゃあ、羊田さんは逃げたんじゃなくて、旅館か森の中に隠れてたんですか?」
「たぶん、鳥音が匿ってたんだろ。食べ物を運んだりする人間がいたと思う。隠れ始めた時間は分からんが、猫野木と海へ行った帰りぐらいに、自分が逃げたと思わせるために鳥音に探させるフリをさせたかもしれない」
 林檎の問いに答えるイェーチェ。イェーチェの補足に、鳥音は顔を伏せたまま何も答えなかった。
「そして、猿枝が死んで一番に真相を知りたくなるのは牛尾だ。親友が何者かに殺され、それがレイプ事件の共犯である羊田だと分かれば狂気に走ってもおかしくはない」
 そして、牛尾が死んだのは、事故ではなくて他殺だ。
 気付かなければ事故で処理されてしまうような、本当に小さな殺し方。
「でも、誰が? 鳥音さんは、チアノーゼを起こした牛尾さんを助けようとしたんだぞ?」
 殺しを目の前にして、高屋はまだ気付いていない。応急処置が、割と簡単な人工呼吸だという事実に。
 遠泳をしていた鳥音が、人工呼吸を間違うわけがない。わざと、肺に酸素がいかぬように気道の確保をしなかった。ただそれだけで、助けようとした行為が殺人の行為に変わろうとは、馬鹿な高屋では気付けないか。
「……マジかよ」
「まあ、これもちょっとした偶然に起こった殺人だ。押入れに石像を置いたのは、目をつけられていない紅葉かな? 石像がなくとも、羊田から聞いた場所に紅葉の死体がなければ、驚くのも無理はないだろうけど。それと、牛尾がチアノーゼを起こしたのは偶発的なもので、恋人を殺された鳥音はそこで復讐を考えた。応急処置の失敗で事故死したと見せかけられるよう、高屋の前で応急処置をして見せる」
 イェーチェが鳥音を睨みつけると、見る見る内に顔が青ざめていった。
 これで、全ての事件が繋がる。
 ずっと、一人の殺人鬼が皆を殺して行ったのではなく、一人ひとりが怨嗟の鎖に繋がれたかのように殺しを続けたのだ。
「そうよ、牛尾が羊田を殺したのよ。確かに、羊田が自分の罪を隠すために猿枝を殺したけど、あんな奴は生きている価値なんてないの。あんな野郎のために、何で羊田が殺されなきゃいけないのッ?」
 鳥音が全てを自白する。
 ただ、その問いに含まれるエゴに答える者はいない。
 疑念、友情、情愛、様々なものがあるが、人間の絆なんてものは割と脆いものだ。仲間だ、と言いながらも、こうして小さな亀裂を入れてやるだけで直ぐに崩れ去ってゆく。もしかしたら、イェーチェや三人も僅かな傷でその絆が断ち切れてしまうかもしれない。
 と、不安に駆られたところで高屋が頭に手を載せてくる。
「お前が何を考えてるのか分かるぜ」
 そう言いながら高屋が、
「心配するな」
 と笑いかけてくる。
 とんだ杞憂だ。自分達は、決して脆い絆などというものでは結ばれていない。皆が一様に絆を求め合うが故に、まだ結ばれてもいない絆を求めてここにいる。存在しないものに手を出せないように、結ばれてもいない絆を断ち切ることは出来ないのだ。例え繋がった絆を引き裂かれようと、再び結び合おうとお互いが求め合う。
「高屋、あまり焦るなよ。そういうのはお互いが理解し合わねばならんのだ」
「じれったいと言えばじれったいけど、イェーチェちゃんじゃ仕方ないんだけどね」
 後ろの方で、誠司と林檎がボソボソと呟く。
 何のことかは分からないが、今は泣き崩れる鳥音をどうするか、という問題が残っている。
 人を一人殺したのだから、十分に殺人罪が適用される。例え牛尾の死が事故死とされても、紅葉が犯されていたのを止めようともしなかったことで、幼女暴行の扶助罪が付く。
「あの……紅葉は、娘はどうなるのでしょう?」
 話を聞き終えた恵美が、不安げに問いかけてくる。
 母親が心配するのも無理はない。これだけの連続殺人を起因した紅葉の処罰が、いったいどんなものになるのかなど恐ろしくて聞きたくもないだろう。
 しかし、
「どうもしませんよ。紅葉は、何の罪も犯していませんから」
 イェーチェが言うように、紅葉に罪はない。
「猫野木さんを海で溺れさせた可能性はありますが、後は死んだフリという悪戯をしただけで、全く罪に該当しないものばかりです。彼らが殺しあったのも、彼女が扇動したわけでもありませんからね」
 誠司が補足を入れると、恵美は理解したらしく萎んだ風船のように膝を折る。
 放心した恵美は後で介抱するとして、鳥音をどうするか、だ。たぶん、逃げようなどとはしないはずだし、部屋にでも閉じ込めて警察を待っていればいいだろう。
「ところで、一つ聞いていいか?」
 唐突に、高屋が口を開く。
「祟り云々てのは、何だったんだ?」
 こちらの返事も聞かずに話し始めたかと思えば、そんなことだった。
 イェーチェを除いて、三人は理解していないかのようにこちらを見つめる。
「簡単なことだ。戒めってのは、祟りを避けるために創られるものなんだよ。校則が、お前ら学生を縛るためじゃなくて守るためにあるように、な」
 イェーチェが説明してやるが、三人は理解できないように小首をかしげた。言葉の意味は分かっていても、言葉の本質までは分からないのだ。
「祟りなんてものは、超自然的なものじゃないってことさ。自然的な事故や人為的な他意から、人を守るために創られるんだ。この地域は周りを山と海で囲まれている所為で、朝から昼にかけて吹く陸風を山が防いでくれるが、夕方から深夜に強まってくる海風をまともに食らうんだよ。その風で飛んできた流木なんかで怪我をしないように、一つ目の戒めがある。もしこれを破って祟りがあるなら、五分遅れの高屋の時計を持って外に出た林檎にも祟りがあるはずなんだよ」
「なるほどぉ〜。そう言われてみれば、高屋君が遅れたのも時計の所為でしたよね」
 イェーチェが細かく説明すると、林檎が納得する。
「二つ目は、安易に風土信仰を馬鹿にすると、土地の住民が怒るという注意書きだよ」
「ほほぉ〜」
 今度は高屋が間の抜けた声で納得する。
「三つ目は、少し理解するのに苦しんだが、長年語り継がれてきた戒めだとすれば分かる話。『狗神の地を犯すな』というのは、守り神の狗神様じゃなくて、狗神家のことを指すんだよ。これだけが、『様』付けじゃないからな。そして、『地』は土地の方じゃなくて『血』の間違えで、狗神家の血を犯すな。と言う意味で、昔から狗神家の体質を知る村人達が彼女達を守るために創ったものってこと」
「そういうことだったんですか……。台座に刻まれた文字が読めなくなってから、言葉だけで語り継がれてきた所為か、言葉の意味を履き違えてしまったわけですね」
 誠司が最後に納得する。
 そう、全てが自分達の勝手な勘違いで起こってしまった間違え。きっと、村人達もこの間違えに気付いていないのだろう。気付いている者もいるだろうが、知らない村人が大半だ。
 最後に、イェーチェが全てを理解する。
「ぅん……?」
 理解したところで、脳裏に嫌な何かが過ぎる。
 村人達が戒めの本質を理解していない。村人達には信仰派と非信仰派の二組がある。
 いくつかの条件が簡単な足し算で繋がった。そこからイコールで導かれる解答は、一つ。
「しまった! 私達だけが納得していても仕方がないんだ!」
 イェーチェがいきなり声を荒げ、部屋を飛び出してゆく。三人も数瞬驚いてから、何事かと後を追う。
 旅館から出ると、やはり予想通りのことになっていた。
 村の広場で、二つ目の狗神様像を挟んで睨み合う村人達。両者各々が、草刈鎌からシャベル、鍬や鋤といった農具を手にしていた。
 略奪の歴史。そこには金銀財宝だけではなく、宗教や思想などの要因も含まれてくる。
「何が祟りだ! もうあんた達の考えは古過ぎるんだ。これからは、祟りだのなんだのなんて風習に縛られず生きなきゃいけない!」
 村の若者の代表が声を上げる。
「何を言う、若造が! 現に余所者が死に続け、狗神様がお怒りになっておられる。これを祟りと言わずしてなんと言うのだッ?」
 村長に当るのであろう老人が怒鳴り返す。
 今回の事件で、彼らの中にあった不安と疑念が一気に溢れ出したのだ。ありもしない祟りに怯えてきた老人達と、祟りの真実を知らずに戒めを強制的に信じさせられてきた若者達が、ここで敵対する。
 一触即発の空気の中で、両者に挟まれた佇む狗神様の石像が、血を滴らせながら不敵に微笑んだようにも見えた。
 そして、それがイェーチェ達の見た最後の情景となった。
 唐突に後頭部を襲う衝撃に、四人が同時に意識を失う。たぶん、村人の誰かが四人を殴り倒したのだろう。
(こんなところで、殺されるのか……?)
 墜ち行く意識の中で、イェーチェは歯噛みする。そのまま意識がブラックアウトした。



 話を終えて、イェーチェがパンッとしめの合いの手を打つ。
「こうして、四人の少年少女は殺されてしまいましたとさ」
 冗談染みた、厭らしい笑いを浮かべてイェーチェが言う。
 もちろん、そんな子供だましに驚くのは一人しかいない。
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
 本当に、目の前の少女が既に死んでいるとでも思ったのか、アンリが先刻と同様の悲鳴を上げて布団を引っ張り出してくる。器用に一人で簀巻きになって、頭かくして尻隠さずを机の下でやっている。
「あぁ〜、すまん、すまん。私はちゃんと生きてるよ。訂正として、その後の話なんだが……」
 まだ話が続くことに、リンがすぐさま反応を示す。
「気付いたら、目的地までの電車に揺られながら眠りこけていたんだよ。確かに体感では一日以上経っているはずなのに、出発した日から一日も経っていないし、土砂崩れなんかなくて普通に運行してたのさ」
 ヌケヌケと言ってみるも、自分でさえ良く分からない経験だった。夢落ちなんて一昔前の漫画でもあるまいに。しかし、それだけなら夢で片付けることも出来ただろう。
 だが、電車で寝ていた四人が四人とも同じ夢を見た上、微かながら後頭部に鈍痛を覚えていたのだ。しかも、僅かだが一日の生活をした形跡が荷物から見つかっている。
「どうだ、荒唐無稽にも程がある話だろ?」
『…………』
 イェーチェの言葉に、皆がコクコクとうなずく。
 まあ、それがイェーチェ達のした一夏の体験であった。
 そこまで話が終わると、電源の復旧が終わったのか、パッと県警署内に明かりが戻る。
「あ、電気が点きました。それでは、これで終わりにしましょう」
 平然とした顔でしめようとするアンリだが、ちゃんと膝が笑っていることに皆は気付いている。
 ちゃんと復旧したかと思えば、まだ台風の影響が残っているのか、チカチカと蛍光灯が明暗を繰り返す。どこからか隙間風が吹き込み、消し忘れていた蝋燭の炎を揺らす。暗闇がしばし続く中で、誰かが小さく口を開いた。
「君達の話に水は挟みたくはないが、こんな話がある」
 今までダンマリを続けていた部長殿だ。皆の視線が集中する。
「私がここへ就任する前、山を越えて海沿いの小さな山村で、諍いがあったらしい。確か、風土信仰の真偽で揉めた際、村人達が農具を手に殺しあったとか。その時、死体が見つからなかったのは旅館を経営する女性の娘だけだった。その娘さんの名前が……」
 部長殿が口にした聞き覚えのある名前に、皆の顔が青ざめていく。ウゾゾゾゾとオノマトペでも聞こえそうな悪寒が背中を駆け上がり、アンリの絶叫が県警に響き渡った。
 台風が過ぎ去った頃には、そんな怪談話もどこかに吹き飛んでいったのか、平然と笑顔を浮かべて帰路につく少女達の姿がそこにあったとさ。



――Another Partner/狗神の祟り/――終
2008/08/14(Thu)09:25:04 公開 / 暴走翻訳機
■この作品の著作権は暴走翻訳機さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
どうも、いきなりこんなものを書いてしまって申し訳ありません。
一応は『ラスト パートナー』の番外編であり、本編とは全く関係のないところで起こる事件や宗谷達の日常を描いた物語です。本編を知らない読者にも、単純なミステリとして読めるように構築してありますので、一度謎解きに挑戦していただきたいと思います。
ちなみに、推理に関するご感想は『‘’(引用符【始】【終】』か『“”(引用符二十【始】【終】』で縛ることをお願いしたいと思います。ちなみに、縛られた部分へのご返信は原則としていたしません。最終更新を終えたとき、誰の推理が当たるのかを楽しみにしてください(推理を見て内容を変えるなんてこともいたしません)。伏線は、既にここから始まっています。

7/17 23:57 旅立ちの章 更新
不明 不明 戒めの章 更新&旅立ちの章 修正
7/27 18:02 狢(むじな)喰らいの章更新&修正
8/14 9:25 祟破りの章 更新
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