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『ネコ耳と執行者(仮・F AdminisTEr)』 作者:佐紀 / 未分類 未分類
全角55119文字
容量110238 bytes
原稿用紙約165.65枚
(プロット)背景描写抜き。一章と二章。区切れ目です。 三島木テラは百万人に一人といわれる『共感覚』の持ち主だった。小学校の頃のIQは200越え。だが対人関係が著しく欠如していた。そんな彼は、とある仮定により、日常生活が狂っていってしまう。
【事実】1690年、哲学者のジョン・ロックは「緋色とはどんなものか分かった! トランペットの音のようだ!」と語っている盲人を見た。
 共感覚が初めて医学文献に登場したのは1710年で、イギリスの眼科医のトマス・ウルハウスによるものだった。音に色を感じるという盲人の症例だった。
 過去の共感覚者ではレオナルド・ダ・ヴィンチが有名だ。彼は天才だった。誰もが認める。天才とはなんだ? 簡単だ。IQが高い奴だ。だがそれには反論がある。運動能力は? 人格は? 実績は? 努力する意気込みは?
 要するに、天才は定義されない。
 ラプラスという数学者は「全てを知っていれば、全ての未来を予測できる。神は引き金を引いただけで、後はニュートンの慣性系でこのような世界となった」これを俗称で『ラプラスの魔』と呼ばれ、決定論とも言う。全てを知っていれば全ての未来を予測できるという、興味深いものだ。だがこれはハイゼンベルクの『不確定性理論』によって否定され、今ではこれが学者では常識となっている。量子力学による。

【仮定】果たして、神は存在するのだろうか? ここはラプラスの確率論で考えよう。
 地球に隕石が落ちて地球が滅亡する確率。統計学者によると、一年では百万分の一の確率。歴史では類人猿は七百万年前から地球上を闊歩している。単純計算でも七回は人類は滅亡していることとなる。難しい計算では、人類の生き残る確率を計算しよう。一年で百万分の一ならば、生き残る確率は一年では百万分の999999である。これから得られる計算式は百万分の999999の七百万乗。これが人類の生き残る確率だ。計算してみた。頭が痛くなったのでやめる。とにかく、
 人類は滅亡している存在なのだ。核戦争しかり、反物質しかり。未だに人類が滅んでいないことこそ、奇跡に近いのだ。
 では、誰かが操作した? それが、神だ。ノストラダムスは知っているだろうか? 大予言は外れてしまった。だが敢えて言おう、「あの予言は当たるものではなかった。私に言わせてみれば、不可能事象だね」となる。そのほかの予言は当たってしまった。私に言わせてみれば、「本の力だろう? あれは神が仕事をサボりたくなったからしたんだよ」となる。
 神がいるならば、使者もいる。その下に『執行者』がいて、人類を守っている。

 第一章 完全予想

 一二月一六日、日曜日、午後二時四八分。
年齢一六歳の高校生の名前は、三島木・寺という。通称“テラ”と呼ばれている。彼はいつものように、ぶかぶかなGパンに、黒のセーターという奇妙な組み合わせだった。何より奇妙なのは、その右目につけた眼帯だ。彼は二年前に右目を失明した。原因不明だ。ただそれから、真っ黒な眼帯を頭から斜めにかけるようになった。背は普通。体格も普通。髪は長い、後ろ髪が肩につきそうだった。
 テラは週末の過ぎ終えた日曜日となると、いつも図書館にいる。決して読書とは思っていないが、知識欲だけはあると自負していた。
 彼は灯油の入ったペットボトルを持っていた。可燃性の液体だ。開封したら鼻をつくような匂いがしそうだ。いや、今もしている。手にべっとりついた灯油は嫌なほどこびり付き、ぬめぬめして、冬の風にさらされて冷たくなっている。
 図書館の帰りで、家に帰ろうとしていた。だが彼は気付かない。
 なぜ自分が灯油などもっているのかと。リュックの中には空になった灯油の容器がある。図書館で一通り本を読み終えた後、トイレでペットボトルに灯油を入れたのだった。
 図書館の帰りの道。その道の向こう側には陸上競技場がある。現在テラが通っている道は陸上競技場と図書館が挟んでいる。
 テラは陸上競技場に向かった。着くと、人の背の二倍くらいの高さのフェンスが行く手を阻んでいる。だがこれでいい。
 テラは、ペットボトルの蓋を取った。ティッシュを飲み口につっこみ、灯油をにじませた。一、二歩フェンスから遠ざかった。
 ペットボトルを槍投げの要領で弾丸のように、陸上競技場に投げ入れた。
 この一週間、絶対に雨はふらない。そして六日間は誰もこの競技場を使わない。
 あれ? 俺は何をしてるんだ?

   *

同日。午後三時三〇分ジャスト。
のらにゃんはテラを尾行していた。テラが今から家に帰ることは分かっている……、他にすることなどないはずだ。いや、あるかもしれない。陸上競技場に灯油の入ったペットボトルを投げ込んだくらいだ、他のことをするかもしれない。
 少女の名はのらにゃんというが、偽名だ。彼女は使者であり、今はテラの監視に当たっている。
 もう少し、あと少し証拠があれば確保ができるのに……、とのらにゃんは思った。
 少女の身長はやたら低い。テラが標準だと考えても、頭二つから三つ分は低い。服装は体格に似合わない長い地方の高校の女子用制服だ。スカートが膝よりも下回り、胸はスカスカ、手の裾は随分と自由を持て余している。ただ、随分変わっているのはベレー帽のような潰れたものにツバがついた帽子だった。深くかぶっているが、横から生きているような、アンテナみたいな何かがぴょこぴょこ動いている。それに気付くと少女は慌てて帽子を被りなおした。
「二分後に大型トラックが信号を無視する。彼はその信号を無視してわたる。もし彼が本当にそれならば……」
 確定する。彼は初めて執行者になる権利が与えられる。

   *

 同刻。信号前。コンビニが横にある交差点。テラは平凡に歩いていた。だが左目がいつものように物を追っている。
——あのゴミ箱は不法投棄されたものが入っている。三日前と7時間半前、俺は登校していて、そこに中年の男性が壊れたらしいラジコンを入れていた。独身男性のようだ。
翌日、彼は何かを捨てようとする。俺はそれを見ていないが、ゴミ箱の中身が空になっていることで分かる。彼は何かを捨てようとした時、他の誰かに止められ、ラジコンさえも問い詰められ、捨てるどころかラジコンも回収してしまう。彼の職業は運搬業者関係だ、じゃなければいい年こいてラジコンなどで遊ばない。いや、運搬業者関係でなくともラジコンで遊ぶが、俺にはわかるのだ。
 二日と7時間後、現在だ。彼は夜通しでトラックを運転していた。今はその帰りで、日曜とあってぐっすり眠ろうとしている。明日も朝早くから出勤で、それを思うとやるせない気持ちがわきあがるようだった。あぁ、どこかに札束でも落ちてないかなぁ。どこかに夢でも落ちてないかな。
 彼はウトウトする。ふと、横にある発泡酒を見る。飲酒運転だ。つかまったら免停くらうし、職場復帰も危うくなる。
 だが彼は睡魔に抗え切れなくなり——
 テラは気付く。その運転手は、いま右前方に見える、大型トラックの運転手だ。
 この信号は止まった方がいい。
 テラは視線を横断歩道に戻す。
 そこには子供がいて、母親がいる。子供は母親に「信号は青になったらわたるのよ」といわれ、青になりはしゃいで横断歩道を渡る。母親の目から離れていた。
 子供は横断歩道を渡る。大型トラックが猛然と突き進む、信号が赤だと運転手は気付かない。
 母親は大型トラックが減速しないのに気付き、大声で叫ぶ「止まって!」
——子供は大型トラックに轢かれる。運転手はそれに気付くが遅い、ひき逃げをする。三日後、大量の血がついた車が発見されるが男は失踪、その翌日に男は逮捕。刑事裁判にかけられるが、裁判は長引く。男は理解不能の言い訳をする「そこにお金が落ちてた。子供がそれに見えたんだ」と。幻覚作用があったらしい供述をするが認められず、3年後に男は無期懲役を言い渡される。
刑務所の中で元運転手は囚人服を縄の代わりに使い、首吊り自殺。
一方、子供を轢かれた家族は悲しむ。母親は夫に責められ、その母親は半年後自殺。残された夫は死ぬまで再婚はかなわず、一人で孤独死。老衰だった——
目の前が明るく照らし出された。まただ。また見てしまった。だが本当だとしたら、俺は助けなければならない。だが助けていいのか? あの子供を。そうしたら……、
テラは夢のような幻覚を見ていたようだ。彼は少し迷うが、急いで駆け出す。
「きゃぁあ!」
 子供の母親が叫び、目を手で覆う。
 テラは子供に向かい、全力で走る。一歩、一歩と。
 大型トラックは近付く。速度が上がった。くそ、間に合わない。テラは思った。
 だが間に合う。テラの勘がそう叫ぶ。勘ではない、予言だ。
 手を伸ばす、自分だけ轢かれる。抱きかかえる、一緒に轢かれる。何かを投げる、子供は気付かない。
 蹴る。
——テラは子供にとび蹴りをする。子供は何が起こったか分からないまま、大型トラックの軌道から外れる。子供は蹴られた衝撃で腕を骨折するが命に別状はなし。
 テラは子供を蹴った反動で、大型トラックの軌道から外れる。
 大型トラックはしばらく進んだ後にガードレールに接触、徐々に速度を落とす。運転手は擦れる音に目を覚まし、運転を再開する——。
 決まった。テラは勢いをつけて、地面を蹴る。足をたたみ、自分への反動を増やそうとしする。子供を両足で蹴る。
子供は声にならないうめき声を上げて、横断歩道を転がった。
 テラは反動で後ろに下がった。大型トラックは、ダブダブのGパンの裾に微かに触れただけだった。そのままコンクリートの地面に落下した。だが自らの手で受身をとり、痛みはそれほどなかった。
 微かに痛覚を刺激する腰をさすり、テラは横断歩道をわたる。
 子供は涙ぐみながらわめいた。痛い、痛いよママ、死んじゃうよ! と。母親は慌てるが、大丈夫だということは分かっていた。
 テラは携帯電話を取り出し、救急車を呼ぶ。横断歩道を渡りながら。
 救急車を呼んだときには横断歩道を渡り終え、母親が心配げな表情を浮かべた。
「何をしたんですか?」
「助けを呼んだだけですよ」
「本当にありがとうございます。よかったら名前を教えてくれませんか?」
「三島木・テラです。それでは」
「あ、ちょっと!」
 子供の母親をすり抜け、テラは家路を辿る。
 ときどき、こういうことがあるのだ。別に変わったことじゃない。

   *

 その瞬間を、のらにゃんはテラを見つめていた。
(決まりだ! 彼は執行者になれる!)
 手が震える衝動を何とか抑えていた。計算をする。
 あの時、大型トラックが信号無視をすることに気付く確率は半分。さらに助けようとする確率は半分。助ける時、行動選択で子供を蹴る事を選ぶ確率、一割。
 ——決まりだ。彼は時間を越える存在だ。『執行者』となれる。
 のらにゃんはすかさず、後を追った。五分くらい時間を置いた。先ほどの母親の事もあったからだ。時間が過ぎ、テラに声をかける。
「すいません、少し時間をいただけないでしょうか?」
「無理だね」
「へ?」のらにゃんは素っ頓狂な間抜けで可愛らしい表情を浮かべた。「……別にいいじゃないですかぁ」
 甘えるような声で頼む。
「時間の無駄じゃないか。これから俺はネコを見に行くんだ。ちょうどこないんだ俺の家の近くにのらねこが住みついてな。黒ネコなんだ。耳がチャームポイントなんだ。うん、触ると動くところがそれはもう可愛くてな。思わず抱きしめてしまうんだ」
 それから、テラは初対面にも関わらず、語る。
「ちょうど今日、手元にニボシがないんで、今から家にとりに行くところなんだ。早く行かないとその黒ネコは餓死してしまう。そして俺が欲求を堪えきれなくなり発狂、精神的な死を遂げる」一息つき、念を押すようにいった。「だから無理だ」
「そんな! とっても面白い事なのに!」
 別に面白い事ではなかったが、どうしても、のらにゃんはテラを執行者としたかった。
 しばらく粘っているうちに、テラの家についた。ここまではのらにゃんの予想通りだ。ジャスト、五分五五秒。テラの歩行速度は絶対に変わらないのだ。何かがない限り。どうやら、私はその何かには含まれないらしい。テラは私のことを毛ほどにも思っていないらしい。
「お願いです!」のらにゃんはいう。「本当に!」焦っていた、フリをする。
「無理だ。俺の黒ネコちゃんが死んでしまう」テラはそういうが、ネコはそう簡単に餓死するものではない。そもそも、こんなに心配するのなら毎日餌をやっているだろう、飢えて死ぬ事はまず有り得ない。
「……無理だ。ネコの欲求には勝てない」
「だとしたら! 私がネコの代わりになります!」
「いいだろう」
「はい?」テラは繰り返し言う。「いいだろう」
 苦肉の策だったが……なぜか成功してしまった。だが「その代わり、ネコになりきろよ〜」と念を押すものだから、妙なプレッシャーが私を押しつぶした。
「なぁ、質問があるんだが」
「え?」テラが、のらにゃんの制服を指差した。
「そういえば、その制服は俺の高校のだけど、お前みたいなやつはいなかった」
 いなかった。それはどういうことだろうか。クラス? いや、そんなことはない。そもそも、私は高校自体に『通っていないのだから』
「学校にお前みたいなやつはいない。となれば、お前はその制服を誰かから拝借したか、盗んだ事になる。違うか?」
 当たっていた。のらにゃんは言葉につまり、ぐっと押し黙った。
「でも、俺は面倒なことは嫌いだからそんなことは詮索しない。変態とはそういうものだ」
 変態? のらにゃんは不思議と思う顔をした。表情が曇る。
 テラが、家のドアをひいた。気がつけばもう家の前だ。重厚なドアを開き、中からはホコリ一つない玄関と、妙に高そうなつぼが一つ、靴を入れる棚の上に置かれていた。花が添えてある。
 のらにゃんは、改めて家を見る。まるで、アメリカのホワイトハウスみたいに白く、広大であった。庭もあり、ホワイトハウスみたいな家をいっそう際立たせている。
「お邪魔します……」どきどきして、テラに続いて家に上がった。だが何か失礼な感じがした。テラは靴を脱いで玄関から家にあがった。のらにゃんは素足だった。
「すいません。素足でした……」
「こんなところに、丁度いいことにタオルがある。使うといい」
「私用のですか?」
「そんなところだが、今日は何かに使おうと思っていたんだが、間抜けなことに玄関で忘れたんだ。まったく、俺らしくないことだ」
「へぇ……」
 のらにゃんは、どことなく遠い何かを、遠い尊敬の念を抱いた。
 テラは、見ず知らずの女が来たというのに、恐ろしいほど冷静に対応していた。所詮、私は猫として、としか認識されていないのだろうか。違う、もしそうだったら今頃、抱きつかれて窒息死しているぐらいだ。
 テラは階段を上がり、二階に上がった。この家は三階建てで、二階にテラの部屋があるらしかった。
 だが不思議な事に、人の気配が全くといってない。
「今日はメイドさんが買い出しにいってるんだ。それで、目の保養がなくてネコを見に行こうとしてたんだ」
 まるで人の心理が読めるように、タイミングよく話しかけてきた。
「ところがビックリ。なんと俺好みの女の子がいるではないか」
 のらにゃんは目をぱちくりさせた。
「いや、冗談だ。聞いていないことにしてくれ」
 どこか、頭に残るような言葉だった。
 ガチャ、と二階のテラの部屋のドアノブをひねると、のらにゃんはテラに続いた。
「で、話というのは——」
「はい、まずはこの本を見てほしいです」
 すると、のらにゃんは不意に自らのスカートに手を突っ込み始めた。ごそごそと。もう少しで中の布が覗けそうであったため、テラは思わずブフォ、と噴いてしまった。
 取り出した本、それは重量にして一キログラムはあろうかという、分厚いハードカバーの本だった。表紙はブラック。
「これは——?」
 名前などわからない。異国の文字であろう、ミミズのような模様がブラックのカバーを白く彩っていた。
「『執行書』です」のらにゃんはいった。「あなたには、執行者になってもらいます。執行者とは神の代行者。つまり、人類を守ってほしい、というお願いです」
 空白が、二人にできた。
「なって……くれませんか?」
 するとテラは間髪いれずに、返した。
「ならない。面倒なことはしたくないからだ。第一、本当がどうかわからない。そんなありきたり神話じみたこと、誰が信じる?」
「願い事が、一つかなうとしても? そう、あなたの——、失われた右目の光を取り戻すとか」
「あぁ、ならない」
 のらにゃんは驚いた。これほどまでに強情で面倒くさがりで、自由奔放な人間、いままで見たことがなかったからだ。ましてや、かけがえの無いものを取り戻そうとする精神さえないとは、右目が不自由のままでもいいのだろうか、と思った。
「俺はこのままでいい。生活に不自由することはない。困った事もないしな。それより興味あるのは——」
 テラは、執行書を指差した。「それが何であるかだ」
 のらにゃんは少し考え込んだ。果たして、執行者になると決まったわけではない相手にも、執行書についてのことは教えてもいいのだろうか、と。
「分かりました。じゃあ——」
 のらにゃんは頷き、ポケットから十円玉を取り出した。そして、ボールペンを取り出した。
「私は今から、この十円玉で、表を十回出します。それが、この本の能力ととって構いません」
 テラは頷いた。どことなく、私は理解している、テラという者は、他言は言わない奴だ。こいつには何を話しても、外部に漏れる事はないだろう——、と。
「前もって言いますが、これは物事を思い通りに運ばせる『予言書』でもあるのです。書き込んだことは全ての環境によって、実行される。なので、『執行書』という名がつけられたんです」
「じゃあとりあえず、お前がいったことが事実、成功したら信用する事にする」
「わかりました」
 とりあえず、十円玉で十回、表が出たら執行者になってくれるらしい。もし出たらの話だが、それは、
「確率は二分の一の十乗だから一〇二四分の一、パーセンテージにして〇.〇97%」
 ということになる。恐ろしく低い。
 だが——、のらにゃんは、執行書を広げ、真っ白な空白に横の罫線というシンプルなページに、何かを書いた。何かとは、理解できない文字だった。異国の文字だろう、本の表紙と似たようなものだった。
 書き終わると、のらにゃんは三十秒だけ、時計を見た。細かな時間を気にするように。ジャスト三〇秒だった。
 十円玉を、のらにゃんは弾いた。頭上のはるか上を舞い、くるくると回り、重力に引かれ落下する。
 のらにゃんは手の甲を十円玉の落下地点の上にだし、受け止めた。
「表、です」
 十円玉の、絵柄がそこにあった。テラは、表情を変えない。
 それから、夢のような時間が流れた。十円玉を弾く、表。弾く、表。弾く……表。それが八回続き、残りが一回となった。
「どうですか? 信じますか? あと一回ですが」
「まだ、まだ後一回あるが——」
 のらにゃんは、怪訝な顔を浮かべた。
「ラストは俺が弾く、十円玉を貸してくれ」
 のらにゃんの顔が歪んだ。驚きの顔に変わる。そして畏怖へ。まずい、こいつはまずい。テラが十円玉を弾けば——。
「ん? どうした?」
「な、なんでもないです」
 十円玉を渡した。
 テラは、天才だ。それも半端ないぐらいの。おそらく、細部の未来が予測できるぐらいの。だとすれば、十円玉の裏を出すためにどうすればいいか、それぐらいの計算など——。
 十円玉は弾かれた。フッ、とテラは薄ら笑いをした。
 だめだ。これは。執行書の内容とは違う未来ができてしまう——、そうのらにゃんは思った。
 十円玉が一回転、二回転して宙を舞う。重力にひかれる。空中で静止したように、十円玉の裏——十の文字——が見えた。そのまま、回転を再開したように、時間が回り始める。だが遅い、スローモーションのようだ。
 テラの手元は、微調整をするように、上に上がった。まずい、本当に裏を出すつもりだ。
 やがて、テラの手の甲の真上、目と鼻の先にまで近付いた。あと半回転したら、テラの手の甲に着地する。
 その時、時間が止まったような感じがした。のらにゃんの目が、いっそう大きく、見開かれた。
 だめだ、裏が出てしまう。
 そして——、
『ピーンポーン』
 チャイムがなり、テラは驚いた。のではなかった、歓喜に表情を変え、立ち上がったのだった。十円玉はテラの手の甲ではなく、床に落下した。
 のらにゃんはまじまじと、落下した十円玉を見る。
 そこには、表——絵柄——があった。
 既に、テラは姿を消していた。一階に降りていたようだった。
 のらにゃんは胸を撫で下ろした。まさか、とは思っていた。執行書は、絶対順守の力だ。そう簡単に凌駕されるような力ではない。
 だがあのチャイム音がなければ——
 身の毛がよだつ思いがした。
「マリさんお帰り〜」
 気がつけば、テラは無邪気な声を上げて、チャイムの主を迎えていた。思い出した。おそらく、テラが言っていた、この家の『メイドさん』なのだろう。名前はマリと言う。
「ごめん。遅れた。で、どうなった?」
 打って変わったようなテンションで、テラが戻ってきた。
「表でした。では約束通り、執行者に——」
「やだね」
 のらにゃんは、素っ頓狂な声を上げた。「え? え?」と。
「いっただろう? 面倒な事は嫌いなんだ。俺にはメイドさんとネコちゃんがあればそれでいいんだ。じゃ」
 そういって、部屋を出て行こうとした。だがテラは何か思い出したように立ち止まり、のらにゃんに向かった。
「そういえば——」
 まだ何かあるのか、とのらにゃんは思った。
「無粋じゃないか? 家の中で帽子を被るとは」
 間髪いれず、のらにゃんの帽子のツバを掴むと、ヒョイと持ち上げた。
 絶句。
 のらにゃんの、水色のショートヘアからは、まるで生きているような耳——実際に生きている——が、ぴょこぴょこと動いていた。普通の人間の位置ではないところに耳がある。頭の上の方だ。しかも、大きい。人の何倍だろうか、やたら目立つ。しかも、毛が少し生えており、音の回収には役に立っているらしかった。
「これは——」
 テラは、絶句して動きが止まった。やがて、手が震えだし、顔が震えだした。そして——、
「ネコ耳だ!」
 そういって、のらにゃんを熱く抱きしめた。そのまま興奮し、一緒に倒れこむ。
「ちょ……と! なんなんですか!」
 その声でテラは自重した。目が覚めたように我に返り、急いで冷静さをかもした。
「すまん、発作だ。今のはなかったことに」
「できませんよ。それで、『執行者』になるんですか? ならないのならもう私は消えますけど」
「なります」
「えっ?」のらにゃんは拍子抜けした。
「ネコ耳のお願いなんだから聞くしかないな」
「私はネコ耳ですか……」
 のらにゃんはうな垂れた。なんだろう、上手く言いくるめたのにこの敗北感は。みょうな感情だ、と思った。
「ところで……願い事というのがあります。執行者になった場合、周りに害を及ぼさない範囲——それと無理なもの、例えば天才になるとか、そういったこと以外の願いはなんでも叶えますが、どうでしょう?」付け加えた。「例えば、失った右目の光とか——」
 さっきもいった言葉だ。
 テラは考え込み、ようやく結論を出したのか、口をゆっくり開き——、
「語尾に『にゃ』をつけてもらおうか『にゃ?』」
「ヴぇ?」
 声がひっくり返り、のらにゃんは恥ずかしさのあまりに伏せた。
「そ、そんなのでいいのですか? 使者って普通は執行者に従うものでそれぐらいの願いは——」
 その途端、のらにゃんはおでこにデコピンされた。
「あいたっ」
「いまからだろう?」
「は、はいですにゃ……」
「よし、ところでだが、なんだ、その——、よくあるじゃないか。契約とか。魔法陣とか。そういう不思議なものはないのか?」
「うーん……」
 困った。のらにゃんは恥ずかしさのあまり頬を赤くして俯いた。あれをやるの? 実際、使者になるのは初めてなのだから、執行者と契約することも初めてだ。
 契約は、恥ずかしいものだった。
「え、えぇと。それはですね。その、なんていうか。うん。できれば避けたいというか」
「ゴメン。興味には逆らえないんだ。それがないとその『執行者』とやらになりたくないというか……、それと、語尾は『にゃ』ね」
 ギク、とのらにゃんは頭に何かが刺さったように、どじを踏んだ、と思った。汗が頬を伝う。
「えぇと、それはですにゃ。この『執行書』にあなたの名前を書いてですにゃ、それからそれから——」
 恥ずかしくない事はそれだけだった。あと一つ、できればしたくないことがあった。できれば避けたい。だが執行者にするには避けて通れない道。やるしかなかった。
 のらにゃんは、テラの名前を執行書に書き込んだ。三島木・テラ、と。あらかじめ調べておいたから、よく覚えている。
 だが、実に心苦しい。
 なんだって『契約は執行者と成りうる者の名前を書き込んだ後、使者が執行者と成りうる者に接吻すること』
 接吻て……。キス……。のらにゃんは胸が高鳴るのを感じた。
「なぁなぁ。何があるんだ?」
 その時、どうにでもなれと、振り向いた。
 そこにはテラがいた。彼は近付いていた。
 ちょうど、唇と唇が触れ合う距離に。
 ちゅ、という短く高い音がした。
 下に五芒星が浮かんだ。愛の象徴。光りだして、二人を包んだ。
 それも刹那の時間。すぐに唇は離れ、光も止んだ。
 のらにゃんは急に恥ずかしくなり、顔を赤らめ、そっぽを向いた。
「なにするんですかにゃ!」
「い、いや、そっちがぁ……」
「だいっ嫌いですにゃ!」
「え? え?」
 テラは、自分のやったことの重大さに気付かず、のほほんとしていた。
「女の子を泣かせたやつは馬鹿やろうなのです!」
「語尾に『にゃ』をね」
「やっぱりだいっ嫌いですにゃア!」
 のらにゃんは目じりに涙を浮かべ、ドアに遁走した。
「ちょっとタイム」
 テラはのらにゃんの、どうにも見慣れたテラの高校の女子の制服のスカートの端をガッ、と掴んだ。
「ぶにゃ!」
 両手を広げ、のらにゃんは転んで床に顔をモロにぶつけた。「い、いたいですにゃ……」鼻を擦りながら文句をたれた。
 そこに、テラは疑問をぶつけた。
「なぁ、その制服はどうしたんだ?」
 その瞬間、のらにゃんの血の気がひいた。
「これは……そのぅ。仕様ですにゃ。気にしないで欲しいですにゃ。理由は今度話すのにゃ……」
「ふーん。まぁいいけど。詮索しても意味ないし」
「じゃあ、私はそろそろ退出させていただきますにゃ」
 その時だった。スカートを引っ張った拍子に、何かふさふさとしたものが、ゆらゆらと揺れていた。スカートの下で。
「こ、これは……」
「じゃ、じゃあ私はこれにて……」
 踵を返し、再びテラに背を向けると、またのらにゃんは転んだ。顔面から床に激突。
「ぶにゃあ!」
 しっぽを掴まれたからだった。
「しっぽは俺のターゲット♪」
「やっぱり失敗したのです……」
「語尾は『にゃ』ね」
「あ、そうそう」急にテラがまじめな顔つきになった。
「にゃ?」
「その、執行書について、話せるだけの全てを話してくれ。興味をもった」
 のらにゃんは悟った。こいつは、真の天才だと。

 美空・天音は小坂井高校の女生徒である。彼女は家の中にいた。
 テラとのらにゃんが無茶苦茶な会話をしている時、彼女は自分のクローゼットを見つめていた。自室で。
「あれ? あれー?」
 言葉を失っていた。天音はテラよりも背は低いが、平均を少し上回っていたぐらいだ。
 天音は、簡単に言えば容姿端麗で片付けれる。髪は長く、今にも光りだしそうで、目は澄み、体のラインはプロポーションのとれた見事な体つきだった。スレンダーだ。
 で——、彼女はクローゼットを見つめていた。
「制服がないじゃない! どうしてなのよ!」
 口をへの字にし、目は細くなり、険しい顔つきになった。
「む〜……」
 眉間にシワをよせ、低い声で呻る。風呂上りの色気が台無しだ。バスタオルで体を隠し、きわどいラインが見えそうで見えないのだが……、怒りくるう姿からは全てが無と同然だ。
 呆然とクローゼットの中を見つめていた。信じられない、といった目つきで。
 それもそのはずだ。泥棒だ! と天音は仮定したがすぐにその考えは打ち消された。空き巣などの泥棒だとしたら、金品を盗むに違いない。
 だが泥棒としか思えない。自室の掃除は自分でやるため、母はこの部屋に入らない。父はもってのほかだ。プライバシーが何とかで。
 だとすれば、いったい誰が、学校の女子の制服だけを盗むのだろうか。いくつもの推測が浮かんだ。確か、私の学校の制服はセーラー服だった。
 セーラー服マニア?
 セーラー服を売るとお金がもらえる?
 実は父が変態で、私の制服を盗んだ?
 友達が私の制服を家に侵入し拝借?
 ずら、と考えたがどれも事実であることは言いがたかった。下着泥棒なら聞いたことあるが、実際に家に忍び込んで盗むのはあまり例がない。庭に干してある場合なら考えうることだが、クローゼットにあるため理解できない。セーラー服を売るとお金がもらえる、というのは論外だ。第一、それなら金品を盗めばいい。友達が私の制服を拝借するために侵入、というのはおそらくない。あったとしても、まず了解を取るだろうし、住居侵入罪を犯してまですることではない。あまり考えたくはなかったが、父は身内であり、天音の部屋に入る事は容易だ。つまり、父の変態説が有力、ということになる。
 本当にそうだろうか?

 同日(一二月一六日、日曜日)、午後四時。冬至に近付いているだけあって、この時間でも薄暗かった。
 火口・達也は早く自宅の、アパートに帰って眠りにつきたかった。さすがに、三日連続の徹夜勤務は肉体的に辛かった。自動車は好きだったが、最近は自動車を見る度に嫌気が差してきた。
「ラジコンはぶっ壊れるし、徹夜続きで大型トラックやっとったらレールで傷つきやがるしよぉ……ほんと、世の中不公平だぜ」
 薄暗い空を見上げ火口は愚痴をもらした。達也は今年、二六歳になる。ところが今になってもアパート暮らし。出会いも糞もあったもんじゃねぇ、ということは出勤時には思っていることだ、いつもいつも。
 ガサ、と足が何かに触れた。眠気が頭を埋め尽くしていて蹴り飛ばそうかとしたが、目が捉えた。
 下をみると、分厚い本、しかも血のように真赤なそれが、無造作に一冊だけ置かれていた。表紙には異国のような文字があり、高級感をかもしていた。
「ん?」
 金欲にまみれた二つの目が。本に釘付けとなった。
 だがそれが金ではないと分かると、ため息を漏らした。はぁ、これが金だったらいいのに。
 だが火口は拾った。どことなく高そうに見えたからだ。売れば多少なりとも、お金が入るだろう。
 とりあえず広い、さび付いたアパートの階段を登った。
 
 自分の住処、部屋に入るとそこはジャングルのようなところだった。カップ麺の空、発泡酒、趣味でかったラジコンのガラクタ。全てが凄惨というか、汚らしいというか、その二つの言葉を組み合わせたような現場だった。
「寝るかな」
 最近、不眠症になりがちな火口は、テレビをつけながら寝ることにした。無理に寝ようとすると、余計に寝付けにくいからだ。
 テレビをつけると、政治についての話がやっていた。ニュースだ。裏金がどうのこうのだとか言っている。
 金、という言葉が目につき、目が覚めた。
「そうとう、金が欲しいらしいな、俺も」
 不意に、さっき拾った本を取り出した。急に、何が書いてあるか気になったからだ。
 パラ、と表紙をめくり、ページを開くと頭が真っ白になった。唖然、口を思わずぽっかりと開けてしまった。
 ページは、真っ白だった。文字など一つもない。罫線もなかった。全て白紙。
「まったく! なんなんだよ。拾い損じゃねぇかよ。からかってんのか?」
 火口は本を投げた。虚しく壁に当たり、落ちた。その時、テレビの音に耳が吸い寄せられた。
「日記を書くといいですよね。お金持ちで、毎日日記をかいて、過去の自分と見つめあう人もいるくらいですから」
 またしても金という単語に反応した。日記か……、毎日三分だけ書く時間でも用意しようかな。別に、手間取るわけじゃない。試してみようってことだ。
 別に、それぐらいはいいだろう。
 金という誘いの手に騙され、投げつけた本を手にした。四本の脚のついたちゃぶ台に載せると、ボールペンを取り出し、さっそく一行目をかいた。
『散々な一日だった。やはり徹夜はするべきじゃない。こんな日は、発泡酒をのんで寝るに限る。不眠症は厄介だ。早く睡眠を取らないと。明日も早朝から勤務だ。いやだな……、明日は晴れてほしくない。雨がいい。こんな気分の悪い日は。その翌日には雨がいい。
 雨が降る』
 雨が降る。大型トラックなので雨でスピンすることはないだろう。霧になることもないだろう。だが気分が沈んだときは、周りもそうであって欲しい。
 火口は本を置いた。寝ることにする。テレビを見ているとどうにも寝れそうにないので、冷蔵庫から発泡酒を取り出し、一気に飲み干した。全身の疲れを吐き出すように息をつくと、フトンをしき、掛けブトンもなしに倒れこんだ。
 翌日、雨が降ることになる。
 本に書いたように。

 第二章 完全加速

 一二月一七日月曜日。朝六時半。雨。
 テラは自室で目を覚ました。むくりと起きると部屋を見渡した。昨年の三月二一日に買ったテレビ、一昨年の二月二一日に買ってもらったノートパソコン、目覚まし。一年に一度くらいしか、勉強では使わない勉強机。本を読むためにこしらえた背もたれ付きのイス。
 全ての、手に入った日時、製造社名、買ってもらった人、なぜ手にはいったか、その日の天気、それに関連する事。それらが恐ろしい加速、まるでニトロを積んだ自動車が核燃料とともに加速するような、そんな速さで頭の中に過ぎった。
 これが、幼い時からずっと続いていた。友達に聞くと、そんなことあるわけがない、といった。
 これが、天才の兆候だ。天才とはすなわち論理的思考、空間把握能力。様々なことを、一度に、瞬間的に頭に入れれば、それは養われる。
 テラはそれを、子供の頃からなっていた。習慣的に、癖で。テラは悪癖だと思っていた。だがこれは違った。宝だ。才能。
 一般に、頭がよいとされている人、天才はみな、記憶力がいい。だがそれは真の意味で頭がよいとはいいがたい、天才でもない。なぜなら、今まで見たこともない問題に遭遇した場合、その人はこれ以上ないというぐらい、もろく、呆気なく、その天才像が崩れるからだ。記憶を辿っても、その問題を解く事はできない、それは真の意味で、天才ではなかった。
 だがそんなことどうでもよかった。テラの成績は悪い方だった。理系のほうはまま良かったが。記憶力もあるのだが、どうにも関心が向かないことには意欲もない。やっているだけで地獄を味わうみたいだった。
 だが関心のないことには極端に記憶力がないテラは、横に居るのらにゃんが誰か、既に忘れていた。
 だが頭についているアレ。つまりネコ耳を見ると、全てを思い出す。
 昨日のこと。晩御飯はいつも家政婦もといメイドさんの佐木・真理さんと一緒に食べるのだが、どうものらにゃんは紹介し辛く、のらにゃんの晩飯は後でもっていった。『夜食が食べたいんです』といって。できればサンマとか、魚系が欲しいと。
「私の名前はのらにゃんというにゃ。これからもよろしくにゃん」
「自称はにゃーにしてくれないか?」
 そんな会話だったが、のらにゃんはサンマにがっついた。女らしくない音を立てて、礼儀を知らず、机の上のサンマをひどく食い散らかした。なぜか三尾あったが、のらにゃんはそれを全て食べきった。
「げふ。まともな飯を食べたのはこれが初めてかもしれないにゃ」
「……げふ、はないだろ。さすがに」
 こうして、のらにゃんの奇妙な居候生活が始まった。
 それを思い出し、テラは少なからず、危険な感情が浮かんだが、それをどうにか抑え込んだ。だめだ、相手は少女なんだぞ? ネコじゃないだ、俺よ、少し自重しろ、と。
 その時だった。テラが悶えていると、のらにゃんが眠そうに目を擦り、ノビをし始めた。のらにゃんは床に寝ていて、目から眠そうな涙を浮かべ、上半身を床につけたまま、膝を床についたままだった。
 ネコのようなしぐさでノビをしていた。
 その瞬間、テラの理性はダイナマイトに巻かれた手榴弾のように、激しい爆発をして壊れた。
 いきなり抱きつき始めた。眠い目を擦っていたのらにゃんは突然の出来事に慌て、それでも眠そうにボケッとしていたのだが抵抗し、ポカポカとテラの頭を叩いた。
「やめるにゃ〜。やぁ〜め〜る〜にゃ〜」
 眠くて、やる気が起きなかった。せめてもの抵抗だった。
『ごはんができましたよ。テラくん』
 透き通るような声。マリだ。マリは朝早くいつも起きる、住み込みのメイドでもあった。
 はっ、と理性を取り戻すと、テラの興味の対象は別に移っていた。
 その日の朝ごはんは、やはりサンマだった。季節はずれだが旨いものは旨いものだ。
 昨日のように、朝食を自室に持ってきた。のらにゃんはその日、やけに行儀がよかった。空腹がさほどではなかったのだろう。

  *

 同日、午前七時五〇分。まだ雨がしとしと降っている。もうじき止みそうである。
 朝食を食べ終わった後、どうするべきか悩んだ。のらにゃんはテラの高校の制服を着ているが、明らかに高校の生徒ではなさそうだ。
「使者として、ついていくことが使者と執行者の決まりなのにゃ。使者と執行者は一心同体の存在なのにゃん」
「……」
 少し、呆れていた。というか拙い。拙すぎる。高校に、その高校の生徒でもないやつが侵入したら騒ぎになるうえに、こいつはネコ耳という、破壊兵器らしいものを持っている。リスクが大きすぎた。
「なぁ、だったら俺の教室が見える場所なら、いいだろう?」
 すると、のらにゃんは少し考え込んだ。
「う〜ん。分かったにゃ。今日のところはそうしておくにゃ」
 どことなく、耳に残りそうなセリフだった。さては何か企んでいるな。
 だが、それを詮索する事自体面倒だったので、引き下がる事にした。
「いいか? 俺は場所を指定する。そこからなら見晴らしはいいし、バレることもない。それに、俺の姿も見える」
 そう言い切って、部屋を出た。のらにゃんもその後に続く。帽子を深くかぶり、耳を隠して。
「今日は銀行に金を下ろしにいきますので、帰りにスーパーに寄っていきます。なので帰りがいつもより遅れますので」
 最後にマリさんがそういって、送り出してくれた。

 テラの通っている高校は田畑に囲まれている。最寄りのコンビニでも歩いて二〇分かかるくらいだから、かなり田舎といってもいい。校舎は生徒棟と職員棟の二つに分かれ、テラの教室は一の一なので、三階の一番端である。無論、生徒棟の。職員棟と生徒棟は真向かいであり、それを結ぶように廊下が走っている。
 八時二五分にテラは学校へ到着した。自転車を停めると、足早に校舎へ入った。毎度のこと思うのだが、やはり早く登校したほうがいい。生徒が遅刻ギリギリに登校するのが多いからだ。下駄箱のあたりも人がうじゃうじゃいるし、たまにぶつかっても無言で立ち去る輩も後を絶たないほどだ。
 ガララ、と教室のドアをあけると、生暖かい空気が頬に当たった。そうか、最近はストーブを使うようになったんだな。
 テラの席は窓側の一番後ろ、いわゆる特等席だった。授業に飽きた場合などはいつも空を眺めているし、ここからなら見晴らしが最高だった。
 だが、テラは席に座る前に大変な、それこそパニックを起こしそうなものを見た。クラスの中は生徒で溢れていたが、その中で異様に目を引く人物がいた。
 美空・天音だ。彼女は中学校からの友達、いや、友達とは言いたくなかったが親しい仲ではあった。悪い意味でも。
 彼女は今日、学校指定の制服を着ていなかった。セーラー服を着るはずが、なぜか体操服になっている。しかも、
「なんで学校じゃセーラー服着ないといけないわけ? 馬鹿じゃないのっ!」
 担任の教師に怒鳴り返していた。いわゆる逆切れだ。
「だから社保庁が無能だとか呼ばれんのよ馬鹿! 物分りが悪いクズ! そろそろ地獄に落ちて三途の川を滝登りするがいいわ!」
 無茶なたわ言を。
 ここでテラの頭の中に妙な仮説が浮かんだ。教師は朝、天音がセーラー服ではなく体操服を聞いていたことに疑問を持ち、恐る恐る聞く。だが天音は素直な性格ではないので、「今日は体操服で学校に通います」と一蹴。その言葉で教師は激怒、叱責をしようとするのだが、「はっ? アンタにそんな権限あるというわけ?」無視なら殺せるほどの殺気を込めた睨みを利かせた。
 それで、今の状況と。
 仕方なく、テラは執行書を机の上に広げた。分厚い、黒魔法の術書らしき本だったが、あまり気にはされない。テラはねっから、クラスでは変人呼ばわりされているからだ。何をしてもおかしくない。右目に真っ黒な眼帯をしているぐらいだ、何を持ってきてもおかしくない、と思われているのだろう。
 そもそも、執行書みたいな、黒魔法の術書らしき怪しい本を持ってきていいのかというと、「執行者は肌身離さず持っている事が基本ですにゃ」といわれたからだ。
【法則その一・執行書は、執行者でないものなら、認識があれば操れる。対象の人物の名前を書き、事象を記せばその通りになる。ただし、不可能な事象は除く。認識の範囲は、執行書は意思に由来されるため、人格、容姿を把握していれば偽名でも可能】
 偽名でも可能か……。テラは執行書に、書き込んだ。
『教師 何を叱っていたか忘れる』
 カ、とボールペンを弾くと、携帯電話のディスプレイを広げ、アナログ表示の時計を見た。
 一秒、二秒、三秒……、三十秒。ジャスト。
『おい! だからぁ……あ?』
 時刻はちょうど、八時三五分。
「あ、あぁ。そろそろ朝礼じゃないか。みんな、席に着けー」
 天音はフン、と鼻を鳴らし、当然だと言わんばかりの大きな態度をとった。
 三〇秒。これはのらにゃんからも知らされていない数値だった。
 
 のらにゃんは双眼鏡で、一の一、テラの教室を覗いていた。なるほどその場所は監視にはかっこうの場所だった。
 その場所は、職員棟の屋上だった。テラの教室は三階。のらにゃんのいる職員棟の屋上は四階の上なため、上から見下ろす形となっている。テラの場所は窓際のため、かなり監視しやすかった。
 いや、正確には見守っている、という方が正しいのだが。
 その時、テラが執行書を広げ、何かを書き込み始めた。だが、流石に生徒棟と職員棟では遠すぎるため、いくら双眼鏡でも何が書かれているかは見ることはできなかった。
 まったく! 無駄な時には使うにゃってあれほどいったのに!
 その言葉でのらにゃんは少し赤面した。やばいにゃ……もう洗脳されかかってるにゃ。
 言葉にする以外でも、語尾に『にゃ』が付いていた。
 だがいや、そろそろ何かが起こるはずにゃ。今はそれを待つしかないにゃ。

  *

 同日、十二時一五分。昼休み。
 今日は授業時間が短縮なので、二〇分早く昼休みとなった。
 授業が終わり、目が覚めたテラは、不意にある人物を見てしまった。
 ——朝野・昌利。彼とは小学校からの同級生だ。朝野は真面目で、容姿もいい。にも関わらず成績は普通、平均となんら変わりはない。それは彼の家が貧しいからで父は事故死。母子家族であり、兄妹が二人いる。それを支えているのは母であり、朝野・昌利、彼だった。毎朝バイトとして新聞配達をしている。その所為で朝は眠くなり、一時間目と二時間目は毎日寝ているというわけだ。
 この学校はバイト禁止なはずなのに——
 はっと目が覚めた。起きていたはずだが。眠っていた時の擬似的なものを感じた。くそ、またか、と心の内で蹴り飛ばした。
 さて、昼食にしよう。テラは目を閉ざした。もうあんなもの見たくない。目を使っているだけで様々なものを連想、疑似体験してしまう。とてもいい能力ではなかった。
「時間いいですか?」
 真っ暗な視界の中、声がした。男子より少し高い声、女子だ。だが女子というには声は冷たすぎるし、どこか機械的な何かを感じさせた。
「いまは無理。俺は昼ごはんを食べたいんだ。だから無理」
「……『執行者』に関する件でも?」
 テラの眉が少し動いた。目を開けて、声の主を見る。
「加美北という。放課後、職員棟の四階で待ってる」
 そんな言葉を言い残して、立ち去った。どうやら他クラスの生徒らしい。
あーくそ。最近はどうでもいいことがおきやがる、そう思った。

 同日、午後三時四五分。
 放課後。職員棟の四階。職員等は恐ろしく古く、どことなく貫禄さえ感じさせるような、思わず驚くような場所だった。夜だけ。幽霊でも出そうな雰囲気だった。
 テラは軽いエナメル鞄を肩に下げてそこに現れた。
既に、加美北はそこにいた。髪は普通の女子と同じくらいのショート。無機質な目。そこから透き通るかのような、平凡とは言いがたい鋭い顔つき。背はテラよりも低く、スラリとした体格。だがそこから漂うのは生易しいものではない。例えるなら、ブラックホールだ。巨大な質量を持つ恒星が最期に行き着くなりの果て。巨大な畏怖を覚えさせるような威圧感を、太陽を半径一キロメートル以下に圧縮させるぐらいの密度でもっているようだ。ブラックホール密度が高く、水の百万兆倍(百京倍)だ。ゆえに光を放射できないばかりか太陽の百万倍もの質量を持つブラックホールも存在する。この加美北という少女は、まさにブラックホールのような存在だった。脅威を覚えさせる威圧感を誰よりももち、だがそれを決して表には出さない。静かな核爆弾みたいだ。
「で、ようは何? 早く帰ってネコと戯れたいんだけど」テラはそれを気にしない口調だった。早く帰りたい、その考えだけだ。
「これ」加美北は小型テレビを取り出した。デジタル式ので、おそらく二万円はくだらないだろう。
「私は『使者』です」
 その言葉が空間を切り裂いた。あまりにも、唐突過ぎた。
「証拠は?」疑問に思い、返した。
 ただ、言っている言葉と思っていることは正反対だった。のらにゃんは執行書について色々と語ってくれたが、まだ信じる気などさらさら無かった。
 加美北の差し出した小型テレビを見るまでは。
『今日午前一〇時ごろ、銃を所持した犯人が銀行強盗をし、立てこもっています。犯人は逃走用の車と金『一億円』を要求しています』
 テラの頭の中が真っ白になった。銀行? マリさんが今日、いくと言っていた……。
『なお、人質の数はいまだ不明で、中の様子は一切不明です』
「執行者の役目、しってる?」
 恐ろしく冷静な口調で加美北は尋ねる。
 昨日、のらにゃんに言われたことを思い出した。
『執行者の役目というのは、簡単に言えば人類を守ることにゃ。いま人類が滅んでいないのは執行者のおかげであり、いなかったら既に滅んでいるにゃ』
「あ、あぁ、覚えてる。人類の滅亡を予防することだったっけ……」
「違う、それは目的の一つだけ」
「え? じゃあ……」
 テラは焦っていた。いつも冷静なはずが、ここまで狂わされるなんて。おかしい、何かがおかしい。だがこいつが『使者』だとすれば、まだのらにゃんから『使者』の全てを知らされていないテラには——
 こいつは脅威となる。テラの手が震えた。なぜこいつの存在に今まで気付かなかったのか、おかしすぎる。
「執行者の目的は二つある。一つは人類を滅亡を未然に防ぐこと、そう、例えば第三次世界大戦や、核戦争を起こさないとか、隕石の落下を防ぐこととか」
 テラは自分の頭を冷やそうとした。冷静になるんだ。冷静になって、今の状況を把握して、正しい答えを導くんだ。手が震え、骨がゼリーのようだった。足が震え、頭痛がする。
『信じて。執行者という事実を』加美北が念を押すように言った。だめだ、心情を読まれている。『執行者というのは現実に存在する』
『例えば、隕石について話す。今の人類が存在するのはほぼ奇跡に近い。隕石は100万年に一度の確率で地球に落ち、生命を滅ぼすという。これは統計的なデータから。そして、人類の祖となる類人猿は四00万年も前から地球上を闊歩する。簡単に計算しても、人類は四度も死んでいることになる。だが人類は死んでいない。これがなぜかわかる?』
 テラは震えて言葉にできなかった。う、う、とただ唸るだけだった。
『執行者がとめたから。執行者には大体、天才が選ばれる。それは、執行書を正しく使うには、かなりの知能がいるから。そしてあなたが選ばれた』
 加美北は続けた。
「執行者の二つ目の目的、それは——」死刑宣告のように、告げた。テラは既にうずくまっていたが、極力耳に口を近づけていた。
「悪質な執行者の削除。そしてあなたには、マリというメイドを守る義務がある」
 テラは矛盾に気付いた。
「なぜだ! なぜお前がマリを知ってる!」
 加美北は冷静だった。「使者だから」
「……くそ。どこまでも謎なんだな」
 歯軋りをした。心にはまだ霧がかかっていた。
「それを解明するのも、執行者の役目と考えて」加美北の言葉が、悪魔のように聞こえた。
 だが、テラは冷静になり、どうにか持ち直した。
「それで、俺は何を?」
「そんな単純なことに気付かないんですか?」テラにはその言葉が理解できない。
「え?」
「私は使者。で、いま銀行で強盗していることをあなたにしらせた。これの意味はわかる?」
 そうか。いやな閃きだった。
「要するに、お前がドジしたってわけか」
「そう。私は使者であり、執行者を探していた。だが私は、自らもっていた執行書を落とした。よって、今の銀行強盗がそれを拾ったことになる。そしてその男は誰か分からない。銀行強盗だということは確定済み」
 淡々と加美北は言葉を作る。テラはそれを、コンピュータのようなイメージで整理した。
「いま、私の執行書を持っているのは、私欲にまみれた愚民と考えてもいいです。それくらい、愚かな存在なのですから。殺したとしても大して世の中は変わりません」
 殺す、という発想が出ただけで次元が違う話に聞こえた。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ。初対面の一般人に、そんなにすぐに人を殺せって、頭が狂ってんじゃ——」
『あなたはもう一般人ではない』
 くそ、どこまでもこいつは。頭痛がするようだった。だがこの頃には冷静になっていて、今焦っても仕方がないことは分かっていた。
「いま混乱しても仕方が無い。分かった。俺の役目も。どうすればいい?」
「それは簡単。今の銀行強盗を殺せばいい。たったそれだけ。もう一度いう。私欲にまみれた執行者はゴミクズ同然。死んで当たり前」
 どこまでも残酷な言葉だった。
「あとは、あなたの後ろにいる執行者に聞けばいい」
 テラは振り向いた。そこには、帽子を被っていない——ネコ耳をそのままにした、使者がいた。
「そろそろ話しますにゃ……」使者は言った。

 同日、同刻三時四五分。銀行にて。
 火口の手は震えていた。執行書を片手に持っていた。フルフェイスを頭に被せ、真っ黒なコート、真っ黒なズボン、まさしく強盗のような服装であった。
 やった。とうとう俺は勝利者になれる。
 片手には散弾銃を持っていた。これは盗んだものだった。というのも、執行書に書き込み、持ち主の了承を得た上でのことだが。
 そして、俺は今日こそ復讐ができる!
 心の中で滾る感情が理性を抑えようとしていたが、どうにもフルフェイスの中は恍惚の表情を浮かべていた。
 火口は世の中そのものに憤りを感じていた。いくら働いても低賃金の世の中。学歴格差から始まる収入の格差。その所為でいくら働いても低収入の低所得者。
 ちくしょう。世の中差別とか言っておいて、まだ捨てきれていねぇじゃねぇかよ。
 火口は改めて、人質の人数を数えた。
 一人、二人、三人……二三人だ。そのうちの一〇人は職員。残りの一三人は客ということだ。自分を含めると二四人いることになる。
 これだけ人質がいれば当面は大丈夫、だと感じていたが苛立ちが募っていた。
「うぉい! 金はまだか! 早くだせ! じゃねぇと人質を若い順に一人ずつぶっ殺すからなぁあ!」
 フルフェイスを少しあけて叫んだ。そこまで言うと、散弾銃を天井に向けた。ガフォンっという散弾銃の数十発もの鉛弾が弾け、蛍光灯に辺り、爆竹を思わせる火花を散らせる。
「きゃあ!」一人の女性が、特段大きな声で悲鳴をあげた。その女性はいまどき珍しい、メイド服を着ている。
 それを見つけると、火口は歩み寄った。
「はっこのご時世に給仕を雇うなんて裕福な仮定もあったもんだな!」フルフェイスを少し開けた。「俺のものになんねぇか? もうすぐ億万長者になるんだぜ?」
 悪魔のようにどす黒い笑みを浮かべると「ひゃはははははァ!」と気味の悪い叫び声を上げた。
「そうだ。そうだなぁ。もっと騒ぎを大きくしないとなぁ」
 傍にいた、五〇歳ぐらいの中年男性に歩み寄った。
「な、何かようですか?」
「あぁ、お前に頼みごとがあってな」フルフェイスを閉じて、顔を判別されないようにして、近づけた。「お前は外にいけ。そして騒ぎを大きくしろ」
 その途端、中年男性の目が狂喜に変わった。そばにいた、中年の女性が「あ、あんた! 何を……」といい、心配げな表情をした。
「は! 人は強欲だなぁ! 自分だけが助かると思った途端、こうやって! 狂うように悦び! 自分だけを守ろうとする!」火口はまた、中年男性に顔を近づけた。「そんなやつにはお仕置きが必要だよなぁ……?」
「な、何を……」言葉を最後まで口にできなかった。その声は苦悶の表情とともに、叫び声に変わることになった。
 銃声が響いた。散弾銃が、もくもくと煙を噴いていた。ビグシャア! と銃声と肉がもろともに削げ、吹き飛ばされる音が、銀行内に響いた。
 男性の脚が、ただの肉片と化していた。白い棒のような骨が見え、血管のようなものから血が溢れていた。
「おら! 早く行け!」
 血と肉が、綻びかけた床を赤く染めた。その場にいた人々、火口にとっては人質が、哀れな人をみる視線を送っている。誰もが眉をひそめ、心苦しい顔をしていた。
「さて……あとは」
 手に持っていた執行書を見つめた。
「おらぁ! 早く金をだせ!」金をひたすら奪えばいいだけだ。
 だが誰もが思っている。この男は愚かな奴だと。いままでも、銀行強盗など、成功すること事態が稀なものと思われている。事実、そうである。
 だがいま、火口の手には執行書が握られている。
 朝は信じられなかった。執行書の効果を。
 だが、今日の朝、確かに雨は降っていた。赤い呪術書のようなものは、死神のように確実に、かかれた事を事実とする。執行するんだ。初めは信じなかった。だが何回も試すうちに、段々に考えが変わり、疑いから確かなものとなった。
 その時、電話が甲高い音を立てた。職員が震えた顔つきで電話の受話器を取り、「もしもし」と恐怖に怯えた声で応答した。
「貸せ」火口がいった。「どうせ警察だろう」
 職員の女性は震える表情で、ガクガクと頷いた。
「車一台だ。黒のワゴン車! 一時間以内だ。用意できなかったら……分かってるな?」
 ガチャン! と乱暴な音を立てて火口は電話を切った。
(執行書は絶対順守の力だ。これがあれば俺はなんだってできる! 金を手に入れることも、女を手に入れることも)
 世界をぶっ壊す事も。
 
 同日、四時ジャスト。晴れ。歩道にて。既に雨は晴れていた。
テラは歯軋りをしていた。横にはのらにゃんもいた。のらにゃんは話すといっていたが、それほど大きな事実ではなかった事だ。それで気づいた事はのらにゃんは使者としてはかなり未熟で、昨日聞いた事はほんの一部に過ぎないらしい。
「いま、テラが有利なのはあなたが執行者だということです。いまの強盗犯は紛れもなく、執行書を持っています。ですが執行者ではありません。執行者には互いの干渉を防ぐため、執行書の効果に制約があるのです」
 その言葉に「語尾は『にゃ』ね。それと、俺のことはご主人様と呼ぶようにね」と返した。
 のらにゃんは執行書の制約を話した。
【法則その二・執行者は執行書に記された事象について、直接の干渉を一切うけつけない】
 これが、強盗犯と、テラの間にある優劣だ。テラは執行者であるから、執行者ではない強盗犯に直接の干渉は受け付けない。要するに、執行者は操られないということだ。強盗犯は執行書をもっているが、契約はしていないのだから。
「例えば、いまの強盗犯が俺の存在を知っていたとして、そいつが俺の名前と共に、執行書に俺への命令を出したとしても、俺はその通りにはならないんだな?」
「にゃ。そうですにゃ」
 テラは思った。だとしたら簡単だ。
「よし、ちょっと公衆電話にいってくる」
 のらにゃんは「にゃ?」と怪訝な表情を浮かべたが、テラが自転車に乗ると荷台にちょこんと腰を下ろした。

 おそらく、警察も動いているだろう。強盗犯は執行書をもっている。だとしたら逃走経路も準備してあるはずだ。だが執行書をもっているということは、強盗などしなくてもお金を手に入れる手段があるということ。
「もしもし、あ、切らないでくれ。一つだけ伝言を。
 神の力はいかがかな? と」

 同日、同刻四時。銀行内。
 火口はリラックスしていた。大丈夫、絶対に犯行は成功する。火口はあらかじめボストンバックを持ってきていた。
 また電話が鳴った。女性職員が取る。
「おい。切れ」
「いえ。それが……」
「いいから切るんだ!」
「それが、『神の力はいかがかな?』という伝言を言えと……」
 火口の目が白くなった。ついで脳裏にさわやかな電気信号が奔った。
 神! 力を与えてくれた神!
 火口は神など信じない性質だったが、執行書という神の御業らしい力を手にした時、この存在を信じてしまった。
「おい! 貸すんだ!」
 乱暴に職員から受話器を掴んだ。動揺している以上に期待が膨らんだ。その時、若い男性が少し腰を浮かせたため、散弾銃を向けて警戒している意思表示をした。
「もしもし」火口はいった。「あなたが神ですか」

 テラはにやついた。馬鹿だこいつ。俺が本当に神だと信じるとは。
 テラの作戦は二つだった。一つは神だと信じさせ、コンタクトを取り、殺すというものだった。
 そして二つ目。これは一つ目が失敗した場合のものだ。失敗したら自分が執行者だという事を明かし、威圧感を与え、動揺させる。
 二つ目はいらなそうだ。
「そうだ。私が神だ」
 声をワントーン低くさせ、重みのある声で諭すようにいった。だが、受話器の前の表情は悪魔のようなそれだった。のらにゃんが期待しているような顔つきで見ている。
『では何か。私に命令でもあるのですか?』
 “紫色”の声がテラの鼓膜を叩いた。
「違う。私は助言するだけだ」
『ありがたい限りです』
「お前は、金を手にする事ができない。現時点ではな」
『へ? それはどういうことですか?』
 テラは思った。強盗犯が敬語になっている。無様なものだ。完全にあいつは俺の掌中にある。
「現在の銀行はほとんどが電子手続きになっている。ということは銀行は昔以上に、銀行自体に金を保管する必要がなくなった。それはわかるな」
『はい』強盗犯は落ち着いた声だった。
「つまりお前は銀行から金を奪う事はできない。奪えたとしてもはした金だ。わかるな?
 身代金として要求するんだ」
『おぉ! そうですか!』
 テラは思った。フフフ、かかった。
 思ったよりも早く終わりそうだ。

 四時一五分。
 火口は焦っていた。お金が手に入らない? だが車を用意させる時間はあと三〇分。間に合うだろうか。警察に電話をすることは面倒だ。第一信じてもらえるかどうかすら怪しい。
 外を覗いた。既に武装警官が何十人といた。
「おい! 誰か一人出してやる! 言う事を聞くんだ!」
 火口はメイド服を着た女性のところまで歩いた。先ほど、甲高い叫び声を上げた女性だ。
「おいお前。名前はなんだ?」
 フルフェイスを近づけた。女性は震える声でいった。「マリです」
「お前は外にいけ。そして警察に伝えるんだ。『一億円を用意しろ。四時四五分。車と一緒にな』じゃなきゃ人質を一人づつぶっ殺す」更に顔を、フルフェイスを近づけ、脅すようにいった。「お前は伝言したあとこっちに戻るんだ。まだ使い道があるからな」

 テラは待っていた。展開がどう転がるか。公衆電話のなかで、寝るような格好で思案していた。
 のらにゃんが公衆電話の外で震えていた。冬の風は厳しいらしく、細い足に容赦なく風が吹きあたっていた。だがテラはそしらぬ顔で、考え込んでいた。
 ふと思い、受話器に手をかけた。人質を確認する必要がある。リリリ、と呼び鈴がなる音がしたのち、テラは間髪いれずにいった。
「神と強盗犯に言えばいい」
 数秒の後に、声がした。
『神ですか!』
「言うとおりにしたか?」
『はい! 仰せのままに!』狂喜と化した声があった。
『はい! 要求にはメイド服を着た女性を行かせました!』
 メイド服を着た女性? 間違いない、マリさんだ! そう思ったが、そいつだけ逃がせ、とはいえない。怪しまれるだけだ。一人だけ特別扱いしては神を演じている事に疑問をもたれてしまう。
「では、その女性はどうする?」
『まだ使えそうなので、戻ってこさせるようにいいました』
 くそ。テラは歯軋りをした。
「他に、何を要求した?」
『黒の、逃走用のワゴン車です』
 テラは推理した。おそらく、こいつが執行書に書いた内容は『車で逃走する途中、誰も邪魔はしない』とかだろう。車を要求した時点でそうに決まっている。それが妥当の考えだ。
 だとすれば——執行者はその事象の干渉は受けないから、その瞬間に俺が強盗犯とコンタクトすればいい。そして——執行書で殺す。
認識とはつまりコンタクトを取れば済む。それが誰か分かれば俺の勝ちだ。
 この勝負、俺の勝ちだ。
「何時に要求した?」
『四時四五分です。それと、すいません。一ついいですか?』
「なんだ?」
『神というのは、電話で連絡するのでしょうか』
 ガチャン。
 だめだ。疑いがかけられている。下手に言い訳をすればますます怪しまれる。だとすればすぐに切るしかなかった。
 だがそろそろ心配になってきた。一つ目の作戦は、成功するのだろうか?

 四時三〇分
 火口はそろそろ作戦を始めようとしていた。
 さぁ、そろそろ復讐の時だ。ボストンバックを開けた。そこには、真っ黒な箱と、デジタルのカウントがあった。
 真っ黒な箱——これは爆弾。時限爆弾だ。デジタルの時計は、残り一五分。ちょうど四五分に爆発するようにしてある。
 入手経路は、またしても執行書によるものだった。最近の若者は過激だ。使う予定のない爆弾を作るとは。興味というものはすさまじいものだ。
 そう。俺の目的は復讐だ——金は二の次。後からでも手に入る。

 四時四〇分。
 テラはじっと、待っていた。のらにゃんが寒そうに震えていたが、口を開いた。
「あ、あのー。一ついいですかにゃ?」
「なんだ。うるさいな」
「執行書があるなら、好きなだけ金は盗めると思うにゃ。だとすればわざわざ銀行強盗することに意味があると思うにゃ」
 意味? 銀行強盗に? その時、頭が閃いた。俺が強盗犯だったら——なぜ強盗するのか——
 復讐。車で逃亡しようとすれば、当然警官が襲ってくる。そしてそこに、爆弾や、危険物を積んでいれば——
 まずい!
 テラは公衆電話を出た。早く行かないと。じゃないとマリさんが危険だ。死ぬかもしれない。
「にゃ? 急に走ると危ないにゃ!」
 テラは推理していた。車の要求をマリさんにさせた場合、四五分にマリさんと車が銀行前に置かれる。強盗犯はマリさんに銃など、凶器を突きつけながら車に乗り込ませようとする。そして爆弾を積み、自爆。おそらくはそれが目的だろう。考えにくいが、それが正論だ。でなければ、強盗などしない。
 銀行は近い。急いで走らせれば5分でつく。爆弾が爆発する時刻に。

四時四二分。
 火口は疑っていた。神の存在を。あれきり
電話がないからだ。
 もしかしたら、神というのはデマだろうか? 誰かが俺を騙すために?
だが、復讐をしなければ。
 キキ、と外で車の音がした。メイド服の女性が運転していたらしく、中からマリが出てきた。予定より三分早い。だが時限爆弾の時刻は残り、三分だ。
 時間がない。早く行動せねば。
「助かりたいやつ! 手をあげろ!」
誰も手を上げない。もはや自分だけ助かろうとするやつなどいないのだろうか。
 だが火口は見逃さなかった。若い男性が、ついと表情が動いた事に。僅かに、言葉に反応した。
「よし。お前いけ。すぐにだ。このボストンバックをもってあの車にのれ。それと——」
 男はフルフェイスを取った。そしてそれをその男性にかぶせた。
「これを被っていけ」
 周りが動揺した。銀行強盗が、顔をさらしたのだ。これでコイツは確実につかまる。そんな様子が見て取れた。さぞかし似顔絵もよくかかれるだろう。指名手配もされるだろう。
だが火口はそれを気にしていなかった。

 四時四四分。
 テラは銀行についた。黒いワゴン車が見えた。武装警官が囲んでいた所為でよく見えなかったが、確かにそこにあった。あと一分、あと一分であの車は爆発する。
 あれだ! あの中にマリさんがいる! あと少しでマリさんが死んでしまう! だが、警官が邪魔をしそうだ。だとすれば——
 突っ切るしかない。全速力でかけた。残り五〇秒、四〇秒……、
「おい降りろ!」
 のらにゃんを突き飛ばした執行書を持たせて。ついでに荷物をあらかた捨てた。ニャア! と甲高い叫び声を上げると、帽子を押さえながら、身体全体で受身を取った。「ひ、ひどいにゃあ……」
 あと三〇秒。その時、最寄りの警官が声をかけた。「お、おい! あの中には強盗がいるんだ——」
 その声は最後まで聞こえなかった。警官が最後の言葉を言う前に、既にテラは突っ込んでいたからだ。武装警官を一人ひいた。
 突然の乱入者に、何十人もの警官が驚き、思わず退いた。轢かれた武装警官の一人は、何もない無防備な背中を直に轢かれてピクピクと痙攣しながら倒れていた。
「お、おい君! 危険だぞ!」
 周りの警官が「共犯者か!」と怒声を露わにしたが、テラが学生服を着ているのをみてすぐに押し黙った。
 あと20秒。押さえつけようとする警官を振り切り、バランスを崩しながら車に向かった。
「みんな離れるんだぁ!」
 テラは叫びながら、車に向かった。本気の声に思わず後退したが中にはそれでも追ってくる警官がいた。
「おい君! 危ないというのが分からないのか!」
「わからないね。俺は死なない。死なないから怖くないんだ!」
 あと10秒。車のドアに手が触れた。急いで開けようとしたが手が震えていた。中を見ようとしたが、無理だった。くそ、スモークガラスか。ますます怪しいじゃないか。
 あと9秒。やっとのことで、取っ手に手が触れた。だが開かない。ガチャガチャと無理矢理にあけようとするが、無理だった。だめだ、鍵がかかっている。
「お、おいよすんだ!」
「まだ分からないのか! 犯人がいれば今の時点で俺は死んでいる! これはダミーなんだ!」
 警官は一瞬、困惑した表情をしたが、すぐに納得した。
 あと8秒。テラはガラスを割って中から鍵を外して入ろうと試みた。力任せにガラスに肘打ちをしたが、どうにも力が足りない。車の強化ガラスは、人が殴ったり蹴ったりするぐらいではびくともしない作りなのだ。
 あと7秒。くそう。間に合わない。いっそ逃げるか? どうせ中には爆弾が積まれている。逃げれば自分くらいは助かるだろう。だがその感情はすぐに捨てられた。マリさんを助けられないまま、逃げられるものか。歯軋りをした。諦めるしかないのか? 俺は。誰も助けられないまま。
 あと6秒。後ろの警官の姿が目に入った。警棒が、腰にささっていた。
 これだ!
「お、おい——」警官はタイムリミットがあるとは知らずにぼーっと突っ立っていた。
 あと5秒。警官から警棒を奪うと、渾身の力を振り絞り、強化ガラスに打ち付けた。だが割れない。
「くそ! くそ!」
 その時だった。
「貸すんだ!」
 先ほどの警官が、警棒を取り上げた。「とるなよ! 中には人が……」
 だが警官は違った。
 残り二秒。警官は悲鳴とも区別がつかない声を上げて、警棒を振り下ろした。窓がガシャンと、ダイヤの粒のように細かい光を見せながら、砂のようにくずれた。
「早く!」
 テラは頷いた。中をみず、手探りで中のロックを外し——ということはしなかった。もう時間がない。
 中の人を掴むと、力づくで引っ張り出した。やや重い。だが、そんなことはなかった。アドレナリンが全身を駆け巡り、力のリミッターが外れていたからだ。
「うぉおおおお!」男らしい叫び声をあげ、眉間にシワがよった。ぐっと力を込め、歯には何百キロという負荷がかかり、歯茎から血がしみた。血の味がする。
 残り0.5秒。
 中の人物を引っ張り出した。わき目も振らず、叫んだ。
「伏せろぉおおおおおおおおっ!」
 飢えた狼のような雄たけびをあげ、車をドンっとけり、後ろにとんだ。
 0秒。
 テラと、一人の警官が車から飛んで、地面にぶつかる瞬間だった。
 車が一瞬だけ赤い光を出した。耳をツンザクような音が鼓膜を叩いた。赤い音だ。ガシャアン! 蒼い音と共に、強化ガラスが散弾銃の鉛玉のように細かく飛び散り、テラたちを傷つけた。ズシャア、と肉が削がれる音がした。
 くそ、死ぬのか?
 ドアが赤い爆音と共にテラの上に、折り重なるようにぶつかった。グ、と紫色の呻き声を上げると、痛みを堪えるように、体の全部に力を入れた。頭から赤い血がツーっと滴った。
 破片が襲い掛かった。爆弾の中には、手榴弾のような破片があった。ドアの上から容赦なく襲い掛かる。
だが車からはがれたドアの断片が、盾の役割を果たした。
 傍にいた警官は、武装警官の一人だったため、持っていた盾でしのいでいた。
 爆音がやんだ。テラは、襲い掛かった車のドアで命拾いした。
 未だに生きている事が信じられず、はぁと息をした。まだ息をしている。まだ生きているのか。本当に、信じられなかった。
 ドアを押しのける力はなかったが、先ほどの武装警官が持ち上げてくれた。
「私の名前は牧原という。警官の一人だが、まさか高校生が人を救うとはな。若い男性のようだが、病院に連れて行くべきだろう。君も、その男性も」
 へ? テラの目が、恐怖に歪んだ。ドアが覗かれたお陰で、楽に立ち上がることができた。そして下にいる人物を見ると——
 マリではなかった。
「マリさんが……」
 既に使い物にならない足に力を込めて、立ち上がった。
「お、おい——」警官が止めようとした。
 よたよたとおぼつかぬ足取りで、銀行の自動ドアが開いた。
 はぁはぁと生きている証を引きずりながら、銀行内に踏み入れた。
 人数を数えるとともに、マリがいるか確かめた。
 二〇人——。その中に、マリはいなかった。
 力なくテラは倒れた。近くには病院があるため、誰かが連絡したらしい。救急車の音が鳴っていて鼓膜を叩いた。だが気力のなさがそのまま素通りする。
 誘拐された——マリを。強盗犯に。おそらく、あいつはもう逃げたに違いない。
 テラははめられた。騙されたのだ。
 生まれて初めてだ! こんな屈辱は!
 絶対復讐してやる! 絶対――
 殺してやる!

第三章秘密の交差

 一二月一八日火曜日午前六時。
 テラは病床で目を覚ました。見回すと周りはほぼ白一色で統一された純白の空間だった。起きようとすると、どうにも右足が悲鳴をあげた。張り裂けるような感覚。少しでも歩いたら血管が破裂しそうだ。
 だが起きなければならなかった。テラは、人を救わなければならない。マリを、自分の家のメイドのマリを救わないといけない。
 その時、頭に血が上った。俺はまんまと騙された。そんな記憶が、頭の隅で怒りの咆哮をあげて、体を動かした。
 俺は初めて! 人に騙された! ふざけるな! そんなことがあってたまるか! こうなったら……。そう思い、執行書を思い出した。いまはのらにゃんがもっている。だがたとえ、自分が持っていたとしても、テラが強盗犯に報復を喰らわすことはできないことを、のらにゃんの言葉で思い出した。
 のらにゃんにと初めてあった日の夜だった。
「執行書は、簡単に言えば神が人類を見守る事が面倒で作ったものですにゃ。分かるとおり、本当の神というのは忙しくて、たかが一人じゃ人類全ての面倒は……見れるけど、すんごい面倒らしいにゃ。ですから、人間が使えるように、様々なルールが追加されてますにゃ」と。まだ語尾に『にゃ』を付けるのが下手なぐらいだった。とても初々しいことだけは覚えている。
「その中で、もっとも重要視されていることが、執行書の効果、効果というのを事象といいますが、それで大原則がありますにゃ。それは『執行書は、絶対に、直接人を殺す事ができない』というものですにゃ」とも言っていた。これが【法則その三・執行書の事象は、直接人を殺す事は不可能】であった。
 くそ。これじゃあどちみち、あの強盗犯を殺す事ができないじゃないか! そう思い、拳でベッドの上を叩いた。眉間にシワがより、今までにないくらい、手に力が入った。
 だめだ、冷静になるんだ。そう自分自身に言い聞かせ、アドレナリンを鎮めた。
 ではどうする? のらにゃんと合流さえすれば、執行書が使える。執行書に書けば、大体の事が実現する。だが、何を書き込めばいいのだろうか。
 誘拐されているのがマリだ。そうなのだから、マリが強盗犯から逃げればいい? またしても、のらにゃんの言葉を思い出す。「ですが、たとえ執行書でもできないことがありますにゃ。例えば、物理的に不可能なもの、例えば絶対に人が死んでしまうものですにゃ。これを『不可能事象』といいます」さらに続けた。「例に出すならば……地球に直径四百キロメートルの隕石が衝突すると書き込み、もしそれが地球に衝突すれば人は死にますにゃ。そういうものや、あるものの質量が二倍となる、というように理論的に証明されたものは実現不可能となり、不可能事象に含まれますにゃ」つまり【法則その四・不可能事象とは、必ず人が死んでしまうものの事象や、物理的、化学的法則によって証明された理論に反するものが含まれる。不可能事象とは、執行書に書いても執行されないものをいう】というものだ。それに気付くと、なおイラついた。くそ、どちみち八方塞がりじゃないか。マリさんは絶対に、拘束されている。その中で逃走など、できるわけがない。これは不可能事象に含まれるのか。テラがそう思うと、まさにいま、悪魔でも睨むような目つきで真っ白な壁を見つめた。相当、頭にきているようだった。
 だが、その後で奇妙なことが起きた。テラは急に、自分の頭を掴むと、奇妙な笑い声を小さく呟いた。「フ……フフフ……」と。その笑い声は大きくなる。次第に、奇声とも喜びの声とも区別がつかない声となった。
「フフフ……あはははは! あははははァ! これはいい! 傑作だ!」
 既に、奇人と化していた。「ありがたいことだ! もし神がいたとしたならば、俺は本気で感謝していただろう! これはいい!」
 奇怪な独り言を、大声で張り上げた。
「将棋で言うならば王が詰みをするということだ。完全勝利だ。神がいたのならば、彼は俺に完全勝利の道しるべを与えてくれた!」眼球が飛び出さんばかりに、瞼が開ききる。「なにも怒ることはなかった。これも運命、フェイトだ。これが戯曲だとするならば今は『転』だ。カタルシスだ。俺は代償行為によって、更に悦びを手に入れる!」
 宣言するように、口にする。
「不利でさえ、戯曲に入れてみせる」
 さぁ出発だ。体が叫んだ。物語は既に始まっている。
 シーツをどけ、傷の具合を確かめた。左足は悪くない。だが右足は、改めてみると思ったより、というほどではなかった。包帯を何十にも巻かれていて確かめる事すら困難だった。ふと、身体の下に違和感を持った。
 ごそごそと、手探ってみると、なぜか縄があった。縄梯子にも使われるような、古いものであるが丈夫なものだ。そのとき、さっきまでの意気込みが、風を前にした塵のように、どこかに吹き飛ばされた。
「……これで何をしろと?」
 もう少し漁ってみる。するとどうだろうか、金属の金具が見つかった。何かに引っ掛けれるように、ツメがある。
「これで何をしろと?」繰り返すようにつぶやいた。なんだかいぶかしむ顔ににごりが生じた。最近の病院は患者を縄で縛り付ける趣味でもあるのだろうか?
 何でもいいや、とテラは言い捨て、ベッドの下に揃えられたスリッパ、ではなくベッドの真下に隠されたような自分の靴を履いた。コツコツと深く履こうとしたが、右足だけは痛かったので手で調整した。さぁ病室から出るぞ、と思ったときリアルな視界が頭に浮かんだ。
 ——病室を出る。朝とあってほぼ薄暗く、テラはまだ静かな廊下を歩く。ロビーにつくと誰もいなく、自動ドアを開けようとしたとき、病院の職員に見つかる。すると有無をいえず、病室に返され、テラは今日一日を病室で過ごすこととなる——
 またか。テラは思った。これはテラ特有の感覚で、衝動的に、受動的に、リアルに頭に浮かぶものだ。しかも大概があたる。テラが天才だというのも、これが原因だ。全ての情報を瞬時に理解し、論理的に繋げ、ビジュアルによって映像化する。多くの情報が頭を交差する。
「う……」目眩がした。ついで頭痛。よろよろと立ち上がり、窓の方へ向かった。
 右足が悲鳴を上げているが、気にしない。外を見ると、まだ薄暗い空と——
 地面。ちょうど、地面との距離は三メートルぐらいだった。
 ここは二階だった。ハっと額から汗が噴き出るのを感じながら、ベッドまで足早に歩いた。足が上げる悲鳴は関係なかった。
 ロープの長さを測った。ちょうど、三メートル。肉眼で分かるぐらいだ。
 全てを理解した。金具は、ロープを窓の桟に引っ掛けるためのものだ。
 気付くともう、早かった。テラは急いで金具にロープを縛りつけ、固く結ぶと、窓の端に掛け、何回か打ち付けた。
 窓を開け、左足から窓に足をかけ、腰を浮かせた。「よっ」右足に負荷をかけないように、器用に身体を上げた。
その時だった。右足に急に激痛が奔り、バランスを崩したのは。体勢を直そうと身体を無理にひねり、手を伸ばしたところは空だった。やはり、右足を庇ったのはいけなかった。
ぐっと地面が近付くのがわかる。このままだと地面に勢いを緩和できず、そのままでぶつかる。テラはロープ掴んだ。
 ぐっと拳に力を込める。一割速度を落ちた。振り子の原理で病院の壁に身体をぶつけそうになる。体をひねり、左足だけでブレーキを掛ける。三割速度減。
 よし、これなら大丈夫。テラは頷いた。
 テラは五点接地を使った。脚から地面にぶつかり、膝を軽く曲げ、転がるように受身を取った。衝撃を見事に五等分する。無傷で立ち上がった。右足はやや痛んだが、完全に衝撃を五等分した。
「すごい運動神経だね」横から、赤い声がした。「君ほど模範的な学生はいないよ」
「違うね」テラは吐き捨てるようにいった。
「なぜ?」
「俺は大切な人を助けたいだけだ」
「大切な人?」
「マリさんだ。彼女は、昨日の強盗犯にさらわれた」
「そうか……」声の主が、憐れむような声でいった。
「牧原っていったっけ?」テラは、相手を見ずにたずねた。「ロープを置いたのも」
「そうだね。それと、教わらなかったのかい? 目上の人には敬語を、あと『さん』付けするようにって」牧原はいった。牧原は、昨日テラが強盗犯の爆弾の件について、一緒だった武装警官だ。最後に自己紹介されたことが、まだ心の隅に残っていた。
「生憎と、マトモな精神は持ち合わせていないんで」テラは足早に、歩き始めた。右足が痛むが、相手に悟られないようにした。
「おいおい。その足で、かい?」牧原は心配するようにいった。
 すれ違うとき、牧原がテラの右手に押し付けた。目を向けると、松葉杖が握られていた。
「また会う日がくるかもな」
「俺は願わないけどな」テラは相変わらず、誰に対しても同じような態度だった。
「今日は休暇をとったんだ」
 テラは松葉杖をついた。
「さて、学校にでもいくかな」

  *

 同日、午前六時半。
 火口はホテルにいた。余るほど金はあったが、そのホテルにはスイートルームというもの事態が存在しなく、決して宿金は高いものではなかった。だが火口は満足している。今までの暮らしといえば、飯も満足なものはなく、それこそ、ネコや犬以下の生活と同じだった。
 そして——火口は恍惚の笑みを漏らした。
メイド服の女性は口にガムテープを貼られ、手は後ろで縛られ、ほとんど拘束された状態だった。
「なぁ? マリよ」火口はメイド服の女性——マリに顔を近づけた。マリは顔を強張らせ嫌だ、という意思表示をした。涙を浮かべ、頬をフルフルと震えた。
「お前はどこにも逃げられない。そうだよな?」
 ツー、と火口はマリの顎を持ち上げた。「お前は、俺の『下僕』なんだよ」

 同刻。今日は晴れていた。風は冷たく、容赦なくテラの頬を殴った。すでに学生服を着ていた。起きた時にこれだからで、外傷は右足のみなので、必要がなかったようだ。松葉杖を付き、眼帯を右目に深くかけ、いかにもけが人という感じだった。
「あ、弁当忘れた」
 だが本人は実に楽観的だった。テラは今日、学校に行く予定だった。というのも、のらにゃんの姿も見えないし、第一、強盗犯の手がかりなどないのだった。

 学校に着き、教室に入った時には七時を回り、一五分になっていた。本来なら、誰もいない時間帯だ。
 だが一人だけいる——美空・天音だ。彼女は大概のこと、テラの行く先々にいる神出鬼没の女だ。
「おはよう」天音はやや頬を染めて返した。「お、おはよう」少し声が震えている。テラは不思議に思ったが、席についた。
 天音は制服を新調していた。真新しいものだ。
 その後、何ともいえない微妙な時間が流れた。五分くらい、沈黙が続いた。だがそれに耐え切れず、天音がテラに声をかける。
「ちょっとは話題ふりなさいよ! つまらないじゃないの!」ずい、と天音がテラに近付く。バンっと席に手を付き、眉を寄せてイライラしていた。
「え? え?」テラは不思議な顔をしたが、天音は毅然としていた。
「ま、まぁいいわ。別に他人同士だし」
「幼馴染だけどな」
「関係ないわ。あ、そうだ。昨日何してた? 爆発騒動があったようだけど。どうせあんた、寝てたりインテリ本読んでたでしょ」
「人命救ってた」
「嘘」
「嘘じゃない」天音が、ワナワナと震えた。
「話しなさいよ。ちょうどいいわ。時間つぶしに丁度いいから」
「はい?」テラは怪訝な顔をして、背もたれに体重を多くかけた。「面倒だな」
「いいじゃない。協力してあげるから。あんたなんでも塞ぎ込む性格でしょ? あたしが協力したげるから、話しなさいよ」天音は鋭い目線でテラを見つめた。「借りは返す。それがアタシの流儀よ」
「いつの借りだよ……」

 テラは覚えていなかったが、天音には重要なものだった。
——それは中学三年生の頃。天音は成績がダントツでクラス一番だった。髪も長く、柔らかく何もかも吸い込みそうな黒は、誰でもとりこにできそうだった。目鼻立ちも理想というぐらい整い、お洒落もその頃はしていた。まさに美人、芸能界にいくの? といわれそうな体格、容姿だった。何よりも、成績には目を張るものがあった。クラス一どころか学年一位。
 一一月の末ごろ、それは起きた。その日は期末テスト前とあり、天音はピリピリしていた。
 故に、終礼前の小テストなど、知るよしも無かった。問題は唯一苦手な科目、数学であり、教科書に無い問題が最後にあったのだった。教師が用意した、やれるものならやってみろ的な問題だ。平面から立体となった問題で、体積を求めるものだった。角度を求め平面の面積を求めてから体積を求めるものだった。
 どうしても分からない。頬に汗が滴った。
 その時だった。人生で初めての、出来心が働いたのは。ちょうど、隣の席の人物の名前は三島木・テラという男子で、いつも変な行動ばっかしてる馬鹿なやつだった。成績も悪いし、どこか人とは違うような存在だ。こいつの答案には絶対に答えが書いてないな、と思いつつ、見ても別に悪い事はない、とつい思ってしまった。人間の好奇心とは恐ろしいもので、一度はやってみたいという衝動はかなり大きいものだ。
 震えるような瞳で、顔を少し横に向け、目をテラの答案に合わせた。
 天音の目が、大きく見開かれた。そこに紛れもない、答えが書き込まれていた。途中式は全て書かれていなく、それこそ怪しいと思ったが不審に思うことはなかった。
 まるで当選した宝くじの番号を見たかのように、すっと自分の答案用紙に向き直った。ガガガ、と殴り書きするとその瞬間に先生が「やめ」と終了を告げた。
 最初に、その問題を睨んだ。一瞬見て、目が点になった。何度も見比べ、答案と解答が同一であることを確かめる。
 その後、カスみたいな問題は全てあっていたが、天音の脳裏にはその問題と、その解の導きを描いているだけだった。答案も回収されやがて終礼が終わった。
「ちょっとあんた」
 終わった時、しばらくあの問題の考え事をしていた時、声がかかった。クラスの女子の級長だ。
「イカサマしたでしょ」
 イカサマ。ペテン。カンニング。様々な言葉が天音を襲った。どうやらこの女級長は、天音に嫉妬していたらしい。眼鏡をかけ、いかにも成績のよい彼女は一年前までは間違いなくクラスでは一番の成績だった。だが今年、そうではなくなった。天音が現れたからだ。それと同じように、このクラスには天音を妬む女子は沢山いた。だが、歯にかけることすらせず、風が吹きぬけるように無視していった。それもそのはず、天音には欠点などなかったからだ。
「イカサマなんて、してない」
 天音は、完璧すぎる故に、認めたくないと思ってしまった。
「なになに? なに話してるの?」
 そこに、クラスの女子がアリが群がるように集まりだした。女子の級長が、笑顔で話し始めた。それも自分のいいように。天音は震えだした。人生ではじめての汚点かもしれない。女子の向こうでは、テラが眠気を抑えるように欠伸をしていた。
 騒ぎは大きくなり、やがてクラスの半分の女子が集まりだした。その中には、頭が悪く、容姿も悪い奴や、単に天音を嫌っているやつもいた。もはや、とってつけた理由なら何でもいい、とりあえず苛める理由を見つけた、という歓喜に溢れた表情を皆していた。笑顔だったのだ。笑顔で彼女達は天音を罵る。天音はガタガタと震え、頭を抱えた。机に突っ伏せていたが、机ごと引き抜かれ、天音は哀れに地面に転がった。冷え切った木の床が頬に触れ、頭は衝撃に打たれ、心は訳のわからない電波信号を延々と飛ばしていた。
 もう、何がなんだか分からない。
 ちょうどその時だ。クラスの女子の一人が、天音を蹴り飛ばした。
「ちょっと。お前自分が何やったかわかったんの?」
 不良の声がした。彼女は成績が悪く、小テストで居残りをするために余裕で人の答案を盗み見するような奴だった。決して人のことをいうべきではない奴であったが、もはや関係なかった。
 要するに、いじめる口実ができれば何でもいいのだ。
 学校の教師も集まってたが、事態に歯止めをかけるのではなく、拍車をかけていた。「やめろ!」と叫ぶが負けず嫌いな奴もいるようで、加熱するばかりだった。歪めばその歪みはますますひどくなる。騒ぎが拡大していった。ついに、殴り合いの喧嘩に発展していった。
 天音一人対、クラスの女子半分と、他クラスの野次馬(合計二〇人)の殴り合いだった。天音は既に優等生とか、そんなものではなく戦国の世を駆ける勇将の如きオーラを持っていた。既に乗り気で、彼女こそこの、大騒動の発端なのだが既にどうでもよかった。ひょっとしたら彼女自体、この大喧嘩している連中のなかでダントツ、血の気が多いのだろう。
 まさに、獅子奮迅だった。
 だがそれも、血の気に駆られた、彼氏に振られたばかりでしかもその原因が天音にある最近になってよく騒ぐ女子が武器を持ち出してコロっと変わった。武器とはカッターとかハサミとか、鉛筆などだが、殺傷能力のあるものばかりであった。
 そのうち、血を見ることになった。天音のかすり傷と、相手の鼻を殴った時に出た鼻血などだ。ガヤガヤと人が入り乱れ、中には叫び声を上げるものもいたが別の叫び声に呑まれた。中和されるように消えるのであった。
 そのうち敵か味方か分からず、単に女同士の喧嘩に発展していった。
 そのとき、天音が初めて恐怖という感情を覚えた。長く刃を出したカッターが、すぐ目の前に現れたからだ。
 それは目に近付いてきた。カッターを持った主は例によって、彼氏を失った嫉妬深い女子なのであった。顔面に傷を負えば、もう妬む必要もなくなるだろう、と思ったからだ。
 交わそうと足を運ぶと、すぐにその足が払われた。一瞬だけ身動きができない状態ができた。ふわりと宙に体が浮いた。
 眼前にカッターの刃が迫ってきた。顔をずらそうとしたが、どうにも強張り、固まってしまった。
 目が大きく見開かれる。嫌なほど光を受け煌く刃を捉えた。予想以上に鋭そうだ。びっくりするほどの速さで近付く。既に、人差し指ほどの距離しかない。
 失明を覚悟した。
 だが、それは杞憂に終わった。ぬっとテラが天音の代わりに割ってはいったからだった。
 その刹那、天音はおびただしい量の血を見ることになった。テラは突然入り込む形となったので、顔からはいったのだった。
 テラは天音の身代わりとなった。カッターは、テラの額から、右頬の端まで、右目の眼球、それも瞳の真ん中を通るように鮮やかに切り裂いた。綺麗な切れ味で、すっと頬をまでカッターの刃が通ったときに血がどっとあふれ出した。時間差だった。グロテスクな光景が、切った本人に映った。まっすぐに自分を見る瞳から血があふれる。鮮やかに溢れる血は嫌なほど赤く、傷口は吹き上げる血以上に鮮明に移り、眼球の内部が見えそうだった。
 その瞬間に、騒動が清々しいほどあっというまに、納まった。さきほどの叫び声や怒声が嘘みたいだ。
 ツー、と血がテラの頬を伝い、地面に落ちた。既にテラの視界は遠近感をなくしていて、右目には赤い液体すら映らなくなっていた。
全員が、テラを注目し、かすかに嗚咽を漏らした。もやもやとした憐憫の情がバラバラに、クラスを埋め尽くした。
 テラは平然としていて、やがて自分のカバンを持つと痛みを感じさせない素振りで教室のドアに近付いた。その場所には、野次馬の女子や男子がゴロゴロいたが、
「う、うああ!」
 テラを見るなり、すぐに表情に恐怖が射した。慌ててどき、壁にぶつかった。重なるように何人も、押し合うようにしていた。真っ青となり、怪物を見るようなそれだった。
 テラは無機質すぎるほど平然と、毅然として廊下を歩き出した。
「ちょ、ちょっと!」
 天音は、人混みを掻き分けてテラを追いかけた。血が、廊下を滴り点々と、一定の間隔で赤く染めていた。どうやら、歩く速度は変わらないらしい。
「どうした?」
「どうしたって。あんた。目が……」
「目?」
 テラは頬を触り、傷を確かめた。
「あ、あぁ。ちょうどいいことだ。気にしなくていい」
「気にしなくていいって。あんた今からどこいくのよ! まさかそのまま家に帰るとか言うんじゃないの! まず保健室で……」
「病院じゃないの?」
「なに悠長なこと言ってんのよ!」
 天音は気が抜けて、テラに対し思った。こいつは楽観的過ぎる。なんでこんな傷を負ってもこんな平然としていられる? 頭が狂ってるんじゃないのか、と。
「ありがとう。身代わりになってくれて。それと、ごめん」
「いや、別にいい。これが運命だとすればいい」
「は?」『運命』という臭い言葉に、天音は目を大きく開き、口を大きく開いた。
「お前は生きている。そうだ。だが俺も死んでいない。俺が助けなければ、両方が死んでいたハズだ」
「は? なにをいって……」
「運命は必ず起きるというものではない。ある出来事が起きるはずで、それを邪魔すれば、他の出来事が起きるはずだ。運命とは、何かが選ばれる。何も起きない運命は存在しない」テラは、冷静だが、吐き捨てるように強調した。「未来は運命ではない。過去が運命なんだ」
 天音は理解できなかった。
「運命?」当然、運命なんて信じない天音だった。
「わかる日がくるさ」
 次の日から、テラは右目に眼帯をするようになった。天音は少しだけ、テラを理解できるようになった。

「テラってさぁ……なんであんなことも忘れてるわけ?」
「あんなことってどんなこと?」
「からかってんの?」
 わざわざ引き合いに出すことも馬鹿馬鹿しいので天音は口を閉ざした。
「で、なんで俺に付きまとうように、いつも近くにいんの?」
 天音は頬を染めた。天音はばれないように後をいつもついていたのに。変装だってしていたのに。最善の注意は払っていたのだ。
「え? それはさぁ。気のせいじゃないかなぁー」天音の声色が急に変わった。なるほど、演技力はないに等しい。天音にはポーカーフェイスという能力は無いらしい。
「じゃ。借りは返すから放課後のこりなさいよ!」
 そういい残して、教室を抜けた。まだ、朝礼は一時間以上先だった。
 また教室に入るのが悔しく、天音は一時間ずっと、寒い廊下で過ごすこととなった。

 同日。八時四〇分。高校にて。
 ちょうど、朝礼の時間で、テラはずっと、眠り込んでいた。ストーブのきいた部屋で、やたら心地よく、一酸化炭素中毒で死んでいるようなぐらい、安らかな顔つきだった。
 周りには既にクラス全員が教室に居、人口密度がハンパではないことを思い知った。そのさなか、テラは自分のとなりの机が一つ開いている事に気付いた。その席に座るはずの生徒はなぜか、別の席——廊下側に新しく設けられた席——に座って友達と雑談に華を咲かせていた。
 ガララ、と教師が入り、生徒全員が足早に席についた。
 その代わり、テラが今までにないくらいの俊敏な動きで、慌てて立ち上がった。
「今日は珍しく転校生がくる」教師が平気な顔でいった。
 そのとき、生徒の視線が二分していた。一つはテラに、そしてもう一つは——
 のらにゃんに。
 転校生とは、実にのらにゃんだった。テラは思った。あの馬鹿やろう。いったいなんで……しかも、国籍すら持っていないやつが高校に入れるわけ——ないのに。だがその思案はのらにゃんの手元を見るなり真逆へと変わり果てた。
 のらにゃんは、執行書をもっていたのだ。いつか見たようなしわくちゃの帽子を深々と被り、ネコ耳を隠していた。
ははぁ、そういうことか、と諦め、席にどすっと腰を下ろした。あれっきり見ない理由は、こういうことだったのか。テラは全身から汗が噴き出ていたが、何とか心の底から叫ぶのを堪えた。
「親が転勤だそうで、地方のほうからきたそうだ。少々変わっているが仲良くするように」教師がいった。更に、黒板の真ん中に、紳士気取りで案内し、手のひらで注目するように生徒に促した。
「自己紹介をしてくれるかい?」
「は、はいです『にゃ』」
 テラは自分の机に、スナイパーライフから押し出された弾丸の如きスピードよろしく頭をぶつけた。ガツン、と一瞬だけ真っ二つに割れたのではないかという音が教室に響いた。教師を含め、そのクラスにいる全員が、テラを深海の気持ち悪い生物でも見たかのような目で見つめた。
「静かに。で、名前は?」
「はいです『にゃ』。『にゃー』の名前は『三島木・ノラ』といいます『にゃ』」
 クラスの男子の一人が、「三島木?」という名字に気付いた。三島木というのは、テラの名字だ。クラスにざわめきが生じた。
 テラは今までにないくらい焦った。頭が痛みを叫んでいるが、どうにか理性で抑え込んだ。同時に吐き気を催した。予想外の事態がここまで自分を苦しめるのか、と初めてテラは実感した。眼球を切りつけられるよりも精神を損なうとさえ思えた。
「二人は知り合いかね? その、向こうの、窓際の隅の三島木・テラくんとだ。名字が一緒なのだから何かつながりでもあると思うのだが」
 黙れ。黙るんだ。頼むから何も言わず、黙っていてくれ。そう神頼みするかのように、テラは祈った、心の底から。
「あ、すまんな。地方から来たんだ。そんなことない——」そう教師が言いかけた直後だった。のらにゃんの口が静かに動いた。その口から、敢えて狙い済ましたかのように、テラの願いを裏切るようなピンク色の声の弾丸が飛んだ。弾丸のように、その声がテラの脳の側頭葉をつきぬけ、言葉を繰り返す。
「一緒に住んでます『にゃ』」と。
 いいやがった。テラはクラス中の誰にでも聞こえそうなくらい大きな歯軋りを掻き立てた。ギシギシと。隣の席、の向こうから何か怯えるような、灰色の声が聞こえた。少なくとも、テラの半径1mにいる生徒は、テラの初めてとも言えるこの異様な仕草に畏怖を覚えているだろう。それ以上に、クラス中の生徒は驚きを隠せなかった。
 もともと変な行動ばかりする奴だが、ここまで動揺している仕草をするとは天地がひっくり返るのか? と思っているようだった。
「えっとそれはつまり、どういうことかな?」
 教師が動揺しながら、眼鏡のずれを直しながら聞いた。だがその口はすぐに閉口することとなった。
「そろそろ自己紹介も終わりにしません?」
 敬語とはなったものの、高校生にしては重すぎる声で、体中から不気味なオーラを出し続けるテラがいった。
「すいませんにゃ。一言だけいわせてくださいにゃ」のらにゃんだった。「いいですかにゃ?」
「あぁ、構わん」教師はやすやすとオーケーを出した。
 いうな、言わないでくれ。そうテラは心の内で願った。それもそのはず、のらにゃんはロクなことを言わない、そうテラは予測できたからだ。今までの幼稚な言動。初歩的なミス。執行者の目的が二つあることを忘れているという、天然ボケ。そして——執行書に書き込んだにも関わらず、コインが裏になるか表になるかというとき、執行書に記述した事象を信じなかったこと。そんな爪の甘さ、ドジな面が嫌でも、何か拙い事をいう虫の知らせをテラにしていた。
 だがその願いも虚しく、のらにゃんは決定的な一言を口にしてしまった。
「私の名字は三島木ですが、決してそこの、テラという人とは血縁はないです『にゃ』。全くの赤の他人です『にゃ』」
 『にゃ』という語尾が発せられる度にテラは顔をしかめた。テラはぐるりと、周りの生徒の顔を眺めた。といっても、最後尾の列なのですから、横列の生徒の顔しか見えなかった。だがテラは既に後悔し、頭を抱えた。悲しいかな、横の列の男子達は全員顔がにやけ、際どい笑みを浮かべていたからだ。おそらく、クラスの全員の男子が同じような笑みを浮かべているだろう。
「え? もしかして将来を誓い合った仲?」
 クラスの男子の一人が、茶々を入れた。クラスのテラとのらにゃん以外の生徒が、大笑いした。教師も、目の端にシワができている。微笑を浮かべていた。その時。静かだが、空間を静かにするには十分すぎるぐらいの、重みを秘めた声が教室に響いた。

「うるせぇ」

 その言葉の主は、なんと天音だった。生徒と一緒に笑っていたやつが、急に無表情となったらすぐにこれだった。何とも気変わりな奴だな、とテラは思う。だが、
 今日は救われたな、と実感した。ただ、その後気づいた事は、のらにゃんが授業中、ずっと困惑した顔をしていたことだった。使者は勉強ができないらしい。

 昼休み。
「おいノラ。ちょっとこい」
 テラはのらにゃんを呼んだ。いちおう、学校では名前が『ノラ』となっているため、そう呼んでいる。
 のらにゃんはビックリしたような顔を浮かべたが、まぁ当たり前だろう、と思ったらしく、おとなしくついてきた。
 案内したのは、書道室だった。松葉杖を使いながらであったため、余計な時間がかかった。そこは職員棟の四階で、人気がないことで認識されている。決して有名ではないことは確かだ。
「なぁおい。今日はなんだって、あんな迷惑なことしてくれたんだ」
 テラは心の底から湧き出る怒りを抑えるように、いった。するとのらにゃんは、困ったような顔をした後で、口を開いた。
「ごめんなさいにゃ……。病院にいっても他人だからといって断られて、合流する事しか考えていなかったにゃから、こんな事しかできなかったにゃ……」
「はぁ?」テラは怒鳴った。「別に、合流だけなら、病院にいるときに執行書に書けばいいじゃないか!」
「それはできないにゃ。執行書の事象は、執行者に使うことはできないにゃ……」
【法則その二・執行者は執行書に記された事象について、直接の干渉を一切うけつけない】か……。テラは頭をかいた。
「だが、他にも方法はあったはずだ。少なくとも、病院で待っていればそのうち会えるとか、そう思わなかったのか?」
「違うにゃ……。使者は、執行者といつも傍にいなければならないにゃ……」
「だが何も、この学校に、執行書まで使って入ることないじゃないか! あれで少なくとも、行動に支障が出る事になる! どうしてくれたんだ!」
 言い返すかと思いきや、のらにゃんは黙ってしまった。
「初めっからそうだった! 執行者の目的について話忘れていたり、ドジを踏んだり、何を考えているんだよ!」
 テラは怒りに駆られ、のらにゃんの胸倉を掴んだ。
辺りを静寂が支配した。のらにゃんの前髪は俯いたままで、瞳が見えなかった。それでも、のらにゃんの小さな口から、小さすぎる言葉が聞こえた。

「出来損ないだからにゃ……」

「え?」と、テラは目を丸くし、意表を突かれた。テラは松葉杖を掴むのを忘れ、カランと渇いた音が響いた。
「テラくんは、にゃーが本当に使者で、こんな耳をしていると思っているのかにゃ」
 気付くと、のらにゃんの胸倉を掴んでいた拳には、涙が落ちていた。のらにゃんの頬を伝い、落ちたものだった。
「本当は、使者は、完全な人間であるべきなんです。実際、ほとんどが完璧な人間なんです。私を除いて」
 その時、のらにゃんはテラの言いつけた、語尾に『にゃ』をつけることを忘れていた。
「使者は、執行者を探すときには一定期間だけ、この世界になれるために、動物となるんです。私はそれが猫だった。いろいろとなれて、ようやくテラくんにも会えた」
 静か過ぎる声。消え入りそうな白い声。可愛さを秘めたピンク色の声。
「でも、執行者になるべき人を見つけたら、使者は人間に姿を変えるんです。ですが私は、できなかった。できたんですけど、こんな不十分な姿で、しかも未熟だった……」
 グスン、とのらにゃんの泣く喘ぎ声が聞こえた。テラは呆然としていた。
 のらにゃんが、完全な使者ではない?
 信じられなかったが、よく考えれば筋が通る話だった。使者というのは、のらにゃんがテラに教えた話によると少ないらしいが、それでもテラは加美北という使者と会っている。だが加美北は、完全な人間となり、テラにさえその存在を気付かせなかった。それぐらい、違和感なく同化していたのだろう。
 だが、いま目の前にいる少女は、テラにとって紛れもない、使者だった。
 こんなときどうしたらいいかと、テラは迷っていたが、答は一つに限られた。
 胸倉を掴んでいた手に、力が入った。腕を引き、のらにゃんを体に寄せた。テラは腕を離し、代わりにのらにゃんの体に回した。
 抱擁だ。のらにゃんはいきなり起きた出来事に戸惑っていた。
「にゃ? にゃ?」慌てたような声で、もごもご呻っていた。
「すまない。不完全なことを理解できなかった俺を許してくれ」
 のらにゃんは不思議な顔つきとなり、やがてその目がトロンと溶け始めた。
「ノラが不完全なら、俺はそれの埋め合わせをする。使者が執行者を助けるならば、執行者は使者を助けなければならない」
 少し、テラはのらにゃんを離し、顔をまじまじと見た。
「だから、秘密はなしにしてくれ」
 のらにゃんは気付いた。別に、使者が不完全で悪い事はない。使者はあくまで、執行者のカバーをしたり、助言したりすることが主だ。
 優秀でなければいけないわけではない。
 そして今日、優秀であること以上に大切な、執行者と使者との絆を、二人は得た。

 同刻。昼休み。
 天音はいらついていた。あの時「うるせぇ」といったのは紛れもなく、テラのためにいったわけで、昼休みに挨拶でもいれようとしていたからだ。なのに、いなかった。弁当持参で、昼は一緒に過ごそうかと思ったのに。
 まったく鈍感なやつ! 私が高校入試でも、もう三つぐらいランク上の高校に入れたというのに! 誰のために、親の説得と教師の説得を振り切って、家から二駅も挟む田舎の高校に通っているんだか! そんな淡い想いをしながら、テラの机を蹴り飛ばした。実に、頬が赤く染まっている。
 それに、あの『ノラ』というチビっこが天音は気に食わなかった。そんな予感がしたからだ。しかも、いやにサイズが違う、ぶかぶかな制服きてたし。何あいつ。狂ってんのかしら、と心の奥底で文句をつけていた。
「はぁー。どうするかなー」どうやって、テラと会うかを考えていた。
 結果、仕方がないから弁当をヤケ食いすることとなった。弁当箱はいつも二人分、しかも手作りだった。太らないのだろうか。

 五時限目。数学。
 五時限目が始まった時、テラはいつも寝ているはずの授業を、珍しく起きて過ごしていた。なんといっても、隣の席が空きだったのは、のらにゃんの目論みであったためだったからだ。のらにゃんがテラの隣にいた。
 気まずい顔をしていたテラだったが、教師の言葉で目が覚めた。
「授業前に、教育委員会から連絡がありました。知っている人は知っていると思いますが、昨日、地元の銀行で強盗があり、爆発騒動がありました。同じような件がまた起きる危険性もあるので、一人での下校は避けるようにだそうだ」
 へぇ……、そろそろだな。そう思い、顔に微笑が浮かんだ。
生徒たちは、俺は関係ない、といった風貌で聞いていた。というより、眠気がさしていた。当たり前だ。昼休みの後なのだから。陽光が差し込む教室内では、教師も欠伸をするほどだった。
 教師はその話が終わると、難しい数式を黒板に殴り書きしていった。
 本当のことをいうと、テラは数学の授業だけは、半分だけ起きている。教科書の問題は、授業の半分もあれば半年で終わるからだ。既に今やっている単元の二つぐらい先の問題をやっていた。
その時、生徒呼び出しのチャイムがなった。ピーンポーンパーンポーン、と気の抜けたチャイム音が、チョークがかき鳴らす音だけの空間に響いた。
『授業中に申し訳ありませんが、生徒の呼び出しを申し上げます。えー、三島木・テラ。三島木・テラ。至急、職員室まで』
 ついにきた、とテラは悪魔のような微笑を浮かべた。黙って立つと、廊下のドアに向かって歩き出した。
「おう、テラ。お前なんかやらかしたのか?」教師が、気にするようにいった。
「さぁ。やりのこしたことがあるだけですよ」
「本当にお前は、変わった奴だ」
 ふ、と笑い、教室を後にした。松葉杖で危なげに歩いていた。

 その直後のこと。のらにゃんは授業中に手をあげた。
「すいません。お腹がいたいので保健室にいってきてもいいですか?」
 一応、テラに『学校では語尾をにゃ、にはしないこと』と言われたので普通の敬語となっていた。
「あ、あぁ。転入初日だからな。いってきなさい」
 次に、のらにゃんは天音が手を挙げるのを見た。
「すいませーん。私もいっていいですかー?」
 教師に対してもため口とは、悪癖でテラに似ているようにも思えた。教師は不満そうな顔をしたが、天音は何を言っても分からないような強情者だということは既に分かっていたため、文句を言う事はためらわれた。
「あ、あぁ」
「サンキュー」明るく、ピースのサインを送ると、意気揚々と教室を後にした。のらにゃんについていくため、姉妹のようにも見えた。
「って、全然元気じゃないかっ」
 教師は天音の、そんな行動をみて文句をぶつぶつという事となった。
 のらにゃんと天音は、当然のように保健室にはいかなかった。

  *

 五時限目途中。一時三〇分頃。
 テラは職員室に向かっていた。松葉杖をついて。足取りが重いが、顔は至って明るかった。
 やっと、狙い通りにことが運ぶ。事態は好転している。そう思うと、顔に浮かぶ微笑を払う事ができなかった。
 ガラ、と職員室のドアを開けると、授業で出払っているのかほとんどの先生がいなかった。
 おそらく、テラがいく場所はかなり向こう。昼は教師達が談話をしながらくつろぐ、ソファの位置だ。
 冬にも関わらず暖房の聞いた部屋で、松葉杖による深い運動がいやでも体に湿気をもたらした。ドッと汗が体中から湧き出る。だがそんなことは毛ほどにも思わず、いつもと同じ速さで足を運んだ。
「やぁ。また会ったね」
「あぁ。会いたくなかったがな」
 そこにいた人は、
「改めて自己紹介しよう。警察機動隊に配属されている、牧原マコトだ」
 予想外だった。計算外。テラはまさか、今朝あったばかりの、先日の爆発の件でも世話になった彼に会うとは思いもしなかった。
 なぜ予想外だったか。それはテラが、先ほどの五時限目の教師の話を聞いていたからだ。もう、爆発の件が学校に流れたのならば、そろそろ、話す相手がくるだろうと思ったからだ。
「俺はテレビ局の人がくると思ったけどな。それに、なんでこんなところ割り出せたんだ? 個人情報保護法のもと、文句ふっかけるぞ」
 テラは、どことなく彼に親近感を持った。おそらく、こんな馴れ合いでも関係がくずれるはずがないと思ったからだろう。随分と大胆な態度だった。
「あぁ、それだがな。私は警官であるから、君を見守る事は容易だった。テラ君も分かるだろう? 今日、病院から……あっと、これは言ってはいけない話だったね。テラ君も、私の忘れ物に気付いたんじゃないかな?」
 忘れ物——、あぁ、ロープと金具か。ということは、一応、彼がテラを、家族の代わりに見守っていたということか。
「それでだね。テラ君がいった、テレビ局がくるという話だが、あながち間違いではない。なぜなら私が——伝言役だからね」
 牧村は話を続けた。
「テレビ局がわざわざインタビューにくると、学校側にも迷惑がくるだろう? それに、テラ君についてもあまり公には知られていない。私は公務員であるから、その旨を知られたら、この通りさ」
 牧村は、モテる男のようなため息をついた。
「まったく、警察ってのも楽じゃないさ」
「それはいいけどさぁ……」
「ん? まだ何か?」
「なんで、わざわざ学校なんだ?」
「それは簡単な質問だ」牧村は、当然のようにいった。「私がテラ君に似ているからさ」
「まだ一つだけ質問があるんだ」テラは、既に分かっているようなことをきいた。「なぜ、授業を止めてまで、そんなことをする必要があるんだ?」
「それもまとめて話そう。そろそろ本題に入るけどいいかい?」
「あぁ。といっても、内容は分かっているけど」
「それは話が早い。さきほどもいったとおり、私は伝言役だ。それからも察する通り……」牧村は強調した。「テラ君は、ニュースでヒーローとなる」
 テラは、やはり自分は天才だと自覚した。やはりそうだ。
「テレビ局で、昨日のことが漏れたんだ。今は取材が多く来ているがその多くが、テラ君のことについてまだあまり知っていない。それで、今日のニュースに間に合わせるようにと、私が呼ばれた。それで、授業をほうってまで私が呼び出したのは、時間がないのと——」強調した。「君のためだ」
 ますます、テラは表情がほころんだ。ここまで正確に、未来を予想できるやつなんか、いるわけがない。そう確信してふっと鼻で笑った。
「で、ヒーローってことは、ニュースで読まれる原稿について、ある程度指図していいのか?」
「あ、あぁ。自信過剰なものとかは無理だが。まぁテラ君のことだ。おそらくはその通りになるだろう」
「オーケー。分かった。じゃあ……」
 テラは、あまりに緻密過ぎる計画を、牧村に話した。
 そしてそれは、マリを助ける布石となる。
「あぁ、そうそう」テラが付け加える。「缶ジュース買ってきて」
 牧村は目を丸くした。「え?」
「ほら、足」そういうと牧村は納得した。テラは千円札を牧村に渡す。
「おつりは渡してくれよ」

 教室を抜け出した天音は、のらにゃんと一緒にいた。
 向かう先は同じくして、職員室。のらにゃんの後を追うように、天音は歩いていった。
 目的は、のらにゃんだった。
 なんなのよ、あの子。突然転校したかと思いきや、テラの席の隣に座る。しかもテラが校内放送で呼び出されたかと思えば、慌てたようについていく。
 バレバレじゃないの。他人とか、本人はぬかしてたけどあれ、絶対に嘘だわ。
 怒り半分、嫉妬半分に思案していると、のらにゃんの制服の丈が合っていないことに気付いた。
 じーっと、突き刺さるような視線がのらにゃんにあたる。
 視線が突き刺さった。「な、なんですか?」
「その制服……」
 のらにゃんはギク、と背筋を伸ばした。どうやら何かがあるようだ。
「丈……あってないんじゃない? 間違って買った……? そんなわけないよね」
 のらにゃんはほっと胸を撫で下ろした。
「んなわけないでしょ! この制服あたしのじゃない!」
 天音は前々から感じていた。このノラというチビっ子……どこかおかしい。制服が無理にぶかぶかで大きかったり、語尾がおかしかったり。
「ひ、ひう。違いますよぅ……。これは正真正銘『にゃー』のものですよう」
 自称が『にゃー』というのは直らないらしい。
「うっるさい! このネコ女! だったらあたしが確かめてあげるわよ!」
 そういうと、のらにゃんにいきなり抱きつき、スカートの中に手を突っ込んだ。一縷の躊躇すら覚えないようだった。周りから見れば、強姦のようにも思える。
「ほら! このスカートの裏にはあたしが作ったポケットがあって!」
 ずる。
「その中にはかつてあたしが隠し撮りした」
 ずるり。
「写真があるのよぉ!」
 スカートをごそごそとまさぐっていた手は、裁判で勝訴したかのように、目的の写真を掲げた。はたまた、「異議あり!」といいながら確固たる証拠を突きつけるように。
 だが、その写真については何もいえなかった。
「ほら。証拠が出てきた。これでもあんたがその制服を盗んでいないと言い切れる?」
「あ、あのう……」言葉につまった。
「なによ。まだ文句あんの?」
 すると、予想だにしない一言が、天音を襲った。

「ひょっとして。テラ君のことが好きなんですか?」

 顔を赤らめながら、怯えた瞳をしながら、のらにゃんがいった。どうやら、写真に映っていた人を見てしまったらしい。
 思いもよらぬ一言だった。だが、その一言は思い。
「そ、そんなはずないじゃない! そんなことより、これがあたしの制服か証明してやろうじゃない!」
 天音は、誤魔化すように怒鳴り返した。頬が赤い。嘘が下手なようだった。手がかすかに震えている。
「あたしはね! スカートの裏にね! 名前を書いてあるのよ!」
 スカートは真っ黒で、どちみち名前なんてかけないのだが、既に天音はヤケを起こしていた。
 いきなり、スカートめくりをした。「にゃあ!」とのらにゃんが悲鳴をあげる。職員棟の廊下にいやらしい悲鳴が響いた。
 その時だった。
 天音は、信じられないものを見てしまった。スカートめくりをしたものの、呆気に取られ、身じろぎ一つできなかった。
「えっと……その……」
 天音は記憶の奥底から拾い上げるように、タンスの中を想像した。
 そういえば、下着が一枚だけ消えていたような……。そんな朧げな記憶があった。
「まさか……」
 そのまさかだった。
「その下着というか、うん。それ。それそれ。もしかして」顎が外れそうなくらい、震えながらいった。「あたしの?」
 二人の秘密が交差した。のらにゃんの制服の窃盗と、天音の片思い。

 午後四時。
 火口はホテルのロビーのソファに横たわっていた。先日からの疲れが、まだ抜けきっていないらしく、今日は一日中遊んでいるか、体を休ませる事に下からだ。
 マリのほうは、縄でしばり、逃げる事ができないようにしていた。
 昼はルームサービスで済ませた。
 まだ、あの時の記憶が残り、思い出す度に頬が釣り上がる。
「ほら、食えよ」
火口は、自分の食べ残しを全部混ぜ合わせ、まるで野良犬の飯みたいなものを作った。トマト、白い飯、ワイン、キャベツ、肉、オイスターソース、醤油、ミソ、パン、ジャガイモ、タマゴ。実に、気味の悪い色をしていた。
 ゴトっと、それをマリの前においた。その記憶のあたりになると、恍惚とした表情で優越感に浸った。
 マリは一瞬、目を疑ったような表情をしたが、すぐに冷たい表情に戻った。火口は、口につけたガムテープを、ビリっとはがした。その感触に痛みを感じるのが普通だが、マリは無表情を貫いていた。
「ほら、食えよ。犬みたいによ」
 マリの顎をぐっと持ち上げ、目をかっと開いた。
「それとも、俺の彼女にでもなるか? 召使のほうがいいな。毎日奉仕してくれるんなら、まともな飯食わせてもいいぞ?」
 悪魔のような、目元までつりあがりそうな頬。ピエロのようだが、悪い意味の笑顔。目元が不気味なほどに、背後のライトに照らしだされていた。
 恐怖が部屋を埋め尽くした。
「ほら。どっち選ぶ? そりゃ、まともな飯くいてえよなぁ……。こんな、犬同然の飯食うよりは」
 マリは、目をそらした。
「どっちなんだよ! 俺の下僕になんのか! それとも、この小汚い飯を食うのか! どうせ、お前みたいな奴は家で『ご主人様! もっと! もっとお願いします!』だとか言って散々やらしいことしてんだろ!」
 火口は、マリの頬を張った。バシンと鋭い音が聞こえると、マリはバランスを取れず、床に転がった。手が縛られているからだ。
「今さら変わらんっつの。この変態」
 だが、マリはその姿勢から、無理に体をひねるようにして、出された皿の上にのった、犬が食うような、ひょっとしたらもっとひどい飯に、口をつけた。ぶちゅっと、バランスを再び崩して口を深く押し付けてしまった。
 その記憶を思い出すと、まさに俺は勝利者だ、といわんばかりの表情となった。
 だがその、恍惚とした笑顔一転して、暗いものとなった。
 マリはその後、もくもくとその下品な飯を食い続けた。表情は暗い。だが……瞳にはまだ光が残っていた。つやのある肌。男性を刺激するような、きわどいボディライン。いやらしい体つき。だが、瞳には、生気が残っている。
 昔が思い出された。自分が運転手の時、何を食べて過ごしていたか。弁当が買えない時期もあり、コンビニのゴミ箱を漁った事もある。生ゴミの中から、カラスのつついた飯を食べた事もある。
 マリのその姿が、自分に似ていた。
「あ……ぁ……」
 痙攣を起こしそうになるくらい、火口は自分の体が震えるのを感じ取った。いやだ。いやだいやだいやだ。あの頃に戻るのはいやだ。
 自分は、昔の自分じゃないんだ!
 そう言い聞かせたが、遅かった。
 昔の自分は干からびていた。父親は蒸発。母はガンで死亡。妹はトラックに轢かれ、死亡。家族で残ったのは唯一、自分だけ。自分が女だったら、悲劇のヒロインとでもいうのだろうか。その所為で、目の光は消えきっていた。ロウソクの火が消えるぐらい、呆気なく。
 火口はトイレに駆け込んだ。もつれかける足を引きずり、洗面台に近付いた。汗にまみれた顔で、鏡を見た。
 そこに、光はなかった。
「あ……ぁ……」
 記憶を思い出す。マリには、光があった。まだ生きているぞ、といわんばかりに。
 自分には、光がない。マリは過去、自分が食っていたような飯を食い、あんなにけなされても、瞳の光を失わなかった。
 二人の間には、歴然とした差があった。
 お前は死んでいる。マリがそういっているように見えた。
「くそう……仕返してやる。俺は……絶対」
 光を取り戻してやる。そう火口は誓った。

 午後四時一五分。テラは下校をしていた。六時限の授業も難なく終え(睡眠)、空のエナメルカバンを肩にかけていた。いつもの帰路を辿るときの、憂鬱な表情はそこにはない。だがその代わりに……、今まさに、勝利を確信したような笑みがあった。おそらく今の彼を見た人は、少々険しい顔をしたあとでそそくさと退散するだろう。
 さぁ、家で戻ろう。そう思い視線を揚げた時、妙なものが映った。
 のらにゃんと、天音が仲良くしていたからだ。のらにゃんは、身長が極端に低く、天音は標準より少し高めだった。そのため、二人がまるで姉妹に見える。明らかにのらにゃんが妹であることに、相違ない。のらにゃんはライトブルーのショートで、肩にちょんと髪がつくくらいの長さなために妹の印象が強い。同じ色の瞳からは光を反射するくらい、光が映っていた。天音はつやつやした長髪が腰まで伸びていたため、上品なお姫様というような印象だった。スタイルも、バランスが取れている。のらにゃんが横にいると丁度姉のように見える。
「な、なにを……?」
 テラは、さすがに口元が引きつった。目じりにまで届きそうなくらい、引きつっていた。
 声をかけた瞬間、天音が「何よあんたぁ!」と叫び声を上げ、手をさっと後ろに運んだ。どうやら、何かを隠しているらしい。
 天音は、まさにいま、心拍数が異常なくらい上昇していた。そもそも、なぜ仲良くしていたかというと、のらにゃんに写真を見られてしまったからだった。まったく、今年最悪のドジを踏んでしまった、と天音は確信した。
 写真には、テラが写っていたからだ。のらにゃんの制服が自分のものだと証明するには証拠がいる。その証拠を出した時点で天音は敗北者だった。しかも何気に、のらにゃんはとんでもないものを天音から盗んでいた。天音の下着だ。おそらく、上のほうは盗られていないだろう、のらにゃんの胸の厚さを見る限りそう確信するのだった。カラーは水色。縞々。柔らかい素材が好きで、陳腐な模様となっていたのであまり知られたくなかった。
 互いに、秘密があったために協定条約を結ばなければならなかった。それが終わり、二人は互いに仲良くするようになった。天音も、のらにゃんがある意味で敵ではない存在と知り、かなり安心したようだった。
 先ほど、丁度写真についてのらにゃんがからかい始め、「これ、実は怒ってるんじゃないんですか?」と訊かれ、「失礼ね。のらねこに何がわかるっていうのよ、テラはこれが笑顔なの。ほら、あのように……」
 これで回想が終わる。写真を片手にしたまま、天音はテラに指差した。その瞬間、テラは天音たちをみたのだった。
 天音は心臓が飛び出るくらい、鼓動が強くなった。一気に頬が真赤になり、髪の毛が逆立った気がした。体中の筋肉が緊張して体を締め付け、胸が苦しくなり、動悸がした。息苦しくなり、胸を抱えるとはぁはぁと深く呼吸をした。
「どした?」テラは無愛想だった。
「な、なんでもない!」天音はそういった。その横で、使者らしくなくのらにゃんがニヤニヤと微笑を浮かべていた。
「驚いたな。似て似つかぬ二人が初日でくっつくとは。何かあったのか?」
『それが、制服(写真)が』。二人は向き直った。
「なにいってんのよぉ!」
「そっちもじゃないですかぁ!」
 テラは呆れた顔をしてため息を漏らした。こいつらは悠長だな、そう感じたからだ。同時に、こいつらは相当の天然ボケだと思う。これは、マリさん以上かな。
「ね、ねぇ。そういえばあんた、昼に呼び出されていたけど、アレ結局なんだったの? あたしらは、あんたのために……」
 天音は言葉を切った。あんたのために授業をほっぽり出してまであんたを追いかけた、なんていえるはずがなかった。
「まぁ、どうでもいいわ。そんなこと。とにかくッ! 何があったの? 話してみなさい。話してくれたら、協力しないから。できれば何をするか明確に説明してくれると助かるわ」
「何が助かるわけ?」痛いところが突かれた。
「あたしは、知識欲があるのよ。知ったっていいじゃない。減るもんじゃないでしょ?」
「減るね。今日は昼食がなかったんだ。いまも俺の腹はぐうぐう鳴ってる。エネルギーが底を尽きそうなんだっつの。早く家に帰りたいぐらいだ。さて、今日の……」
 今日の晩御飯はなにかな、と言おうとしたとき、マリが家にいないことを思い出した。
「今日は晩飯を作ってくれる人がいないんだった。早く帰って寝るとするかな」テラは頭をボリボリと掻いた。「あー。じゃあエネルギーが底をついて倒れる前に家に帰って寝るとするかな」
 じゃあな、といった直後、それは起きた。天音の長い髪が少し揺れたかと思うと、それがいきなり近付いたからだ。手を掴み取られ、顔が近くによった。
「ねぇ。それならあたしが料理つくってあげるわ。これで貸し借りはなしよ。それに、今日呼び出された理由も詳細に教えてもらうんだからね」
 テラは困ったような顔をした。
「といっても、家に材料はないと思うのだが……」
 のらにゃんが「女の子を家に連れ込むのはハレンチにゃ……」といおうとしたが、あえて口に出すことはしなかった。

 三人はついに、テラの家へついた。テラはいつも通りの帰宅。のらにゃんは我が家に慣れれず、ぎこちなく家へ入る。天音は想い人の部屋に入るとあって、胸の高まりを感じた。
 午後、四時五八分。
 全てはテラの予想した時間。テラはカバンを放ると、リビングへ急いだ。
「ね、ねぇ。あたし少し買い物にいってくるから、ちょっと外にいってくるわね」天音はそう言い残し、カバンを置いてそそくさと退散した。
 テラはリビングのソファに座り、リモコンでテレビをつけ、チャンネルを合わせた。

 火口は長い間怯えていたが、どうにか気持ちを取り戻した。時計をちらりと眺めた。四時五八分。そろそろか……、そう想い、足早にホテルの自室に足を運んだ。
 ロビーからの距離はそう遠くない。1分でついた。鍵でドアを開けると、吸い寄せられるかのように、テレビの前に座った。机の上には真赤な血のような執行書が乗っかっている。傍らには、マリが奴隷の死骸のように、無言のまま汚らわしく横たわっていた。
 そろそろだ。俺は勝利の美酒に酔いしれる。今こそ、勝利を確かめようではないか。そう、今までの恨みを晴らしたいま、自分の光を取り戻すことは、不可能ではないではないか。
 テレビをつけた。CMがやっている。だがそれは6秒ほどで終わり……。

 午後5時00分。ニュースが始まった。

 テラは目を確かに開け、直線上にテレビのディスプレイを見た。
 火口は勝利の美酒を飲み干さんとするように、テレビのディスプレイを眺めた。女性アナウンサーの笑顔が映る。
『えー、昨日四時四五分ごろ……』
 来た! テラは悪魔のような微笑を浮かべた。火口はピエロのような顔をした。ワインをコップにドボドボとついだ。
『愛知県、小坂井市において強盗が発生、その後意図的な爆発事件が起きました』
 火口はこれまでにない笑顔を浮かべた。
——さぁ言うんだ。今まで自分を虐げてきた奴らが、どれだけ被害に巻き込まれてきたか。警察たちがいかに無能で、役立たずで、恨めしい存在であるか、世の中に公表するんだ! これで俺が勝利者となる。過去ともおさらばできる。俺はこれで終止符を打つんだ! 退廃した社会に面食らわせるんだ!
火口はより一層、笑顔がシワを刻んだ、まさに口元が目元にいきそうなくらいの表情をしていた。だが、女性アナウンサーは平然として、淡々と語り、驚愕させた。
『なお、重軽傷者二名以外、死傷者は出ていません。理由は一人の高校生によるものでした』
 火口は愕然とした。
「なんだと! 嘘だ! あの爆発で、人が死なないはずがない! 警察は卑怯なんだ! 卑怯な奴こそが、あの車に近付く。これはありえない!」
 拳をぎゅっと握り締めた。嘘だ嘘だ。そんな言葉が脳内をめぐった。確か、爆薬で一軒家一つ分が破壊される量だったはず。殺傷率を高めるため、窓ガラスを破片上に砕いてまぜたはず。間違いでもあったのだろうか? いや、それでも爆発事故は起こった。ニュースでもそう読まれている。だとしたら、車に積み込まれていたガソリンが? いや、あれはあってもなくても、大して差などないはず。
 だが、死者が一人も出ないなんて、おかしすぎる!
 なぜなら、囮にあの、若い男性を車の中に押し込んだからだ。おそらく、彼は車の中でガタガタと震えていただろう。なにせ「これはセンサー式の爆弾だ。お前が車を降りた瞬間、お前はただの肉片と化す」と脅しを入れておいたからだ。少なくとも、計画では一人は確実に死ぬようになっていたんだ!
 だがおかしい。何かが、狂っている。
 パズルピースがバラバラになったかのように、頭の中で拒絶反応が起こり、収拾がつかなくなっていた。
 あの日を思い出した。そう、確か俺は執行書に書いた。『銀行の裏路地は、誰にも気付かれない』そう書いたのだった。あれで逃げ切ることはできた。警察に要求した一億円は、すんなりと受け取り、バイクの荷台につめて逃げた。これは、正面で警察たちが囮のトラップに引っかかり、大惨事を招くためのものだった。
 俺は実際、こうして生き延びた。じゃあどうして? 死者が出なかったのだ。執行書の効果が切れたから? いや違う。それはない。執行書の効果は逃走する時にも十分に発揮されたし、人を殺すということができないことは既に確認済みだ。
 じゃあ、他にだれが……、確かアナウンサーは『高校生が……』と口にしていたような。
 ニュースは、既にハイライトに入り、細かい詳細を述べていた。
『武装警官が、犯人が乗っていると思われていた乗用車が無防備であったため、確保に移ろうとしていたところ、高校生がいきなり飛び込んだらしいです。なお、その少年は『近付くな! 爆発するぞ!』と叫びながら、乗用車に近寄った、ということです。その後、現職の牧村・マコトさんの協力により、乗用車内から一人の男性が発見されました。発見された直後に爆発が起こった、という情報です』
 高校生がなぜ分かった? あれが囮だと。しかも、彼を助け出した、となると相当な推理力がいる。いったい誰だ?
 火口はすぐに思い当たった。なにも、推理力ではない。情報を得たものだ。確信は空白からは生まれない、たとえ天才と謳われるほどの推理力をもっていたとしても。
 あの『神』と名乗った奴だ。
 ちょうどその時、執行書がなんであるか相当疑っていたため、ワラにもすがるような思いで、つい信じてしまった。だとすればあいつが、この爆発で、俺の願いを止めたことになる。
 あいつを殺さなければならない。火口は唇を固く噛み締めた。血の味がする。

 テラは笑みを浮かべていた。計画通りだ。
『なお、その高校生から次のようなコメントを頂きました。『今回は何か、予知夢的なものを見たんです。何かが爆発すると。なにか、虫の知らせが入ったのでやったまでです。死者がゼロなのはとてもありがたいことですね。『とても』。これ以降、事件が起こることはないでしょう。犯人も『幼稚』なことですし。これだけ世間を騒がせれば気が済むでしょうに』ということです。早く、犯人が捕まるといいですね』
 全て、テラの書いたニュースの原稿だ。全て。最初から最後まで。これで、爆発事件については全ての原稿が終わった。
 テラは考え込んだ。果たしてこれでいいのだろうか。
 強盗犯は、今の時点で分かっていることでは金欲があること。何らかの形で人に恨みがあること。そして、マリを誘拐したこと。
 だが人に恨みがある、それも警察に対しては強烈に。その場合は絶対に、人目につく犯罪を起こそうとする。そして、ニュースの原稿はあえて挑発するような、高校生のコメントを作った。犯人は欲望が激しい男性であることに間違いない。だとすれば、当然ニュースで自分の戦果を知ろうとするだろう。そこを、高校生に馬鹿にされたとあらば、憤激する。
 新たな犯罪を起こそうとする。
 テラはそれを待っている。口元が、恍惚にひたった。いまだけは自惚れても構わないだろう。
 俺は、完全勝利を実現する。マリさんを助け出し、
 あいつを殺す。

 火口はニュースの原稿が読まれるたび、手が痙攣するように震えた。信じられないといった感じだ。
 そして、「殺す……」と呟いた。
 テラは、「殺す……」と呟いた。

『絶対だ!』

  *

 午後五時一五分。ニュースの原稿が読み終えられると、のらにゃんはテラに声をかけた。
「ん、なんだ。ノラ?」
「にゃ、なんていうか、その。訊きたいことがあるにゃ。前、隠し事はやめようっていってくれたから……、話してくれるかにゃ?」
「あ、あぁ構わないよ」
 テラはふっ、と力を抜いて息をついた。どうせ、ノラのことだからしょうもないことを訊くのだろう。そう予測した。だが、その質問は予想の範疇を超越していた。どこか、心臓をえぐるような一言だった。
「なんで、マリというメイドさんには、そんなに必死になるのかにゃ?」無垢な瞳だ。
 テラは、言葉を失った。
 だが話さなければならないと思い、核心から切り出すことにした。
「マリさんは……、俺の母さんなんだ」
2008/01/18(Fri)18:04:36 公開 / 佐紀
■この作品の著作権は佐紀さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ

 お手数かけますが、批評では背景描写に関しては一切抜きにしてください。本書きするときにはバッチリかきますから☆
 読んでくれた方々、どうも拙作にお付き合いいただき、心から感謝します^^批評どぞーwまってまーす♪
 希望としては話の流れで「こうしたほうがいい〜」なんてのが欲しいですwですが希望は希望。吐き捨ててくださいなw

2008/01/17(Thu)01:57:43 公開 一章、二章UP
1月18日午後6時ごろ三章UP
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