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『ゆうこちゃんと星ねこさん 第一巻』 作者:バニラダヌキ / お笑い ファンタジー
全角143353文字
容量286706 bytes
原稿用紙約442.25枚
マイペースでだらだらと果てしなく続く、もはやジャンル不明の『たかちゃんシリーズ』、その外伝です。かつての番外編とは一線を劃し、今回は時系列そのものが、あっちこっち、なんだかよくわからないほどに外伝。そしてお約束の注意書き――精神年齢14歳未満の方は、保護者様ご同伴の上、お読みください。なお、その際は、保護者様の精神年齢も充分にご確認ください。
 
――――――――――――――――――――――――――――――

 ゆうこちゃんと星ねこさん 第一巻(約440枚) 【目次】

   プロローグ 〜はじめましてのお庭で〜 (約70枚)

   第一部 〜太陽がくれた季節〜

     第一章 レモンのエイジ (約50枚)
     第二章 トワイライト・メッセージ (約70枚)
     第三章 お見舞いはお静かに (約60枚)
     第四章 青春しゅわっち (約60枚)
     第五章 星空のにゃーおちゃん (約60枚)
     第六章 明日に向かって走れ (約70枚) ●ここまで第一巻(当ページ)に収録 続きは第二巻(incomp_02)へ

――――――――――――――――――――――――――――――










   プロローグ 〜はじめましてのお庭で〜


     1

 それは遠い遠いむかし、むげんにひろがる大宇宙の、遙かかなた。
 とある銀河系のかたすみに、青と白のだんだらもようで輝いている、ちっぽけな、でもなんだかとってもきれいっぽい惑星がありました――。

    ★          ★

 などと、ことさら仰々しくブチ上げてみても、まあそこはそれ、あくまでこのお話はいつもの『よいこのお話ルーム』、つまり『たかちゃんシリーズ』の外伝ですので、ぶっちゃけ東京都青梅市が舞台なんですけどね。
 むげんにひろがる大宇宙、とある銀河系のとある太陽系第三惑星の中でも特にド田舎育ちのよい子のために、ここでちょっとばかしご説明いたしますと、山形新幹線なり上越新幹線なり東北新幹線なり長野新幹線なり、とにかくとりあえず花の大東京駅に降り立っていただき、大都会のターミナル駅の喧噪の渦中をカッペ丸出しで右往左往しながら中央線快速か特快あたりに乗り換えていただき、「おうおう、さすがは花の大東京、どこまで行ってもビルばっかしだんべ」などと感動していらっしゃる内に、「でもなんだかさすがにそろそろちょっと泥臭くなってきたべ」と首をかしげるあたりの立川駅で青梅線に乗り換えていただき、「まあでもまだまだ住宅街ばっかし果てしなく続いてるからやっぱし東京ってのはちがったもんだなや」などと感心していただいているうちに、ふと気づくとあたりはすっかりあなたの故郷同様のどかなド田舎光景と化しており、「ありゃ、いつのまにかうっかり故郷の山まで戻っちまったべ」などと頭を掻きつつホームに降り立っていただくと、あにはからんや、なぜかそこはまだまだやっぱし東京都だったりします。

    ★          ★

 さて、そんな東京都内とは名ばかりの、平成の世に残された昭和レトロ地帯・青梅のかたすみで――
「わくわく」
「ぎろりん」
「……びくびく」
 そんな様々の表情をたたえたちみっこたちが、まだ朝の香りを残すお寺さんの境内で、満開の桜の下、写真屋さんが三脚にセットしたでっかいカメラを前に、のうてんきにぶいさいんを出しまくったり、必要以上に闘志に燃えたり、きんちょーしてしゃっちょこばったりしておりました。
 総勢二十名ほどの新入園児『ひまわり幼稚園・ひよこ組』――つまり本日は、そのお寺さんが経営している小さな幼稚園の、入園式なのですね。
 ちーちーぱっぱとさえずるちみっこたちのうち、「わくわく」のぶいさいんが誰ちゃんで、「ぎろりん」がどこの武闘派幼女で、「びくびく」のおじょーさまが何ちゃんか、そこんとこの説明は、もーめんどくさいのできれいさっぱり省略させていただきますので、たかちゃんやくにこちゃんやゆうこちゃんをまだ知らない一見さんの方は、怒るなり呆れるなりシカトするなり、お好きに対処してくださいね。
 ちなみにこの時点で、無敵のたかちゃんトリオは、まだ形成されておりません。ですから三人とも、『ひよこ組』のあっちこっちにまぎれ、赤の他ひよことして、各自別個に希望に燃えたり、新世界の覇王をめざしたり、行く末をはかなんだりしております。
 ちょんちょん頭の愛娘がひょうきんに出しまくるぶいさいんを、夢中で最新デジタルビデオカメラに収めているぶよんとしてしまりのない父親は、言わずと知れた、たかちゃんのパパです。ちなみに秋の大運動会では、愛娘がとたぱたと全力疾走する姿を真正面から撮影しようとうっかりコースに紛れ込んでしまうような節操のない馬鹿っパパですが、なんと言っても元はコテコテのコミケ系おたくのこと、隣のナイス・バディーなママも、ご近所の良識的な皆様も、「まあどうせ元おたくのやることだから」と、鷹揚に笑って放置しております。
 それから少し離れて、唇をへの字に結んで寡黙に腕組みしながら、闘志満々の愛娘に無言の励ましを送っているのは、ご想像のとおり、くにこちゃんのお父さんです。お母さんは、生まれたばかりの双子の弟のお世話と、稼業の下駄屋さんをきりもりするのに手一杯で、残念ながら列席しておりません。まあくにこちゃん本人としては、情にもろいお袋に列席されて下手に泣かれたりするよりは、根っから職人肌の親父と「むう」「んむ」といった男同士の視線による会話を交わしているほうが、男の門出にはふさわしいと納得しております。女の子なんですけどね。
 さて、そうなると当然、さらに少し離れて、日本経済界の重鎮夫婦もまた、なぜだかこんな下々の、シケた入園式に紛れこんでいたりします。しかしそこはそれ骨の髄から名家育ちの熟年夫婦、これ見よがしに着飾ったりはせず、あくまで下々の生活に合わせた出で立ちで、病弱な愛娘の社会デビューを、陰ながら祈りをこめて見守っております。小学校に上がるまで育ってくれるか――ギリギリの高齢出産ゆえか、極端な蒲柳の質に生まれついてしまい、これまで何度も生死の境をさまよった愛娘・ゆうこちゃん。そのゆうこちゃんのけなげな望み――ゆーこもね、ゆーこもね、よーちえんにいきたいの。そいでね、そいでね、おともだちをいーっぱいつくって、みんなでなかよく、おゆーぎしたいの――それを実現することは、親にとっても子にとっても、もはや人生上の重大な『賭け』と言えます。近頃ようやく種々の病に小康を得たものの、これまでの短い人生の半分を病院で過ごしたゆうこちゃんは、いざ希望どおりに大勢のちみっこに混ざってしまうと、どーしても希望よりは不安が先に立ちます。そんな娘のはかない視線を、優しい微笑で励ましながら、ご両親の胸臆を満たすのは、やはり喜び以上に『祈り』です。
 そして、生まれつき森羅万象の『祈り』という感情になんかいろいろ縁の深いたかちゃんやくにこちゃんですが、さすがに今のところ、なーんにも深くは考えておりません。それはふたりとも、まだよっつにもならない、うぶなねんねの、ひよっこですものね。
 まあ、世間一般のひよっことは、いささか、いえ、しこたま毛色の変わったひよっこではありますけれど。


     2

「ていっ!」
 楽しいおべんとタイムも終わり、
「とうっ!」
 午後の授業が始まるまでのおやすみ時間、
「でやあっ!」
 お寺の境内の垣根ごし、ひまわり幼稚園の裏庭のさらに奥、雑木林に隠れた小暗い空き地では――
「どおすこいっ!」
 遠巻きに見守るちみっこたちの不安げな視線を集めつつ、年長組のワルガキたちが次々と宙を舞い、くにこちゃんの軍門に下ってゆきます。
 まああくまで幼稚園児レベルですから、そのほとんどは無邪気ないじめっ子ていどなので、生来の闘士・くにこちゃんの敵ではありません。
 しかしのどかな世界の果ての幼稚園とはいえ、そこが現代日本である限り、すでに箍《たが》の外れてしまった末世を象徴するような『悪い種子』もまた、さりげなく紛れこんだりしております。
 たとえば現在くにこちゃんが熾烈に組み合っている倍の背丈の凶悪園児などは、一見いいとこの肥満児坊ちゃま風でありながら、実は組関係の父親と悪質クレーマー組織の代表者である母親に、乳児期から腐った養育を受けてしまい、入園前にも近所の女児に片目を失明するほどのイジメを加えておきながら、姑息な言い訳とクソ両親の狂的恫喝によって二束三文で示談に持ちこんだ、そんな過去があったりします。当然このひまわり幼稚園にも、ガキなりの稚拙な手法にせよ、隠然たる暴力の根を張り巡らせつつあったりするわけです。もっとも配下のすべては、すでにくにこちゃんの豪快な技々にはいぼくしてしまっているので、今はもう虚しく猛り狂う巨大な窮鼠、そんなあんばいです。
「むう……」
 くにこちゃんは、一般的感受性においてはちょっとばかしアヤしいお子さんですが、組み手によって相手の技量のみならず性根まで読む、そんな方向の感受性だけは、とっても豊かなお子さんです。ですから、今回の相手は『すでにイってしまっている』、そう察知して、バトル・モードを『足柄山の金太郎さんモード』から『北斗の拳モード』に切り替えたりします。
「……おまいは、すでに、しんでいる」
 ほあたたたたたたたあ! 
 ひでぶっ!
 ――と行きたいところですが、さすがに経絡秘孔を突いて幼稚園児が破裂し肉塊と化してしまっては、このさくひん自体がさくじょをくらってしまうおそれがあるので、
「ぽかすかぽかすか」
「あだだだだだだだ」
「げしげしげし」
「ひいひいひい」
 まあその程度でも、粗暴で恥知らずなクソ両親に三つ子の魂を歪められただけのひよっこ鬼畜候補にとっては、充分な矯正効果があります。
 よのなかには、あのでかくてどすぐろいパパやママよりも、ぜったいてきなちからがあるのだ。たとえちっこくても、くらくらとめのくらむような――なかば失神しながら、ひまわり幼稚園の諸悪の根源は、きっちり『謙虚』の観念に目覚めていきます。
 しかしながら、人生初の対鬼畜戦に挑むくにこちゃんのバトル・インジケーターは、もはやリミットを振り切ってしまっておりますので、
「おんどりゃあっ!」
 高校柔道以上でないと許されないシメ技まで情け容赦なく繰りだし、
「おやをうらむな」
 ぎりぎり。
「せけんをうらむな」
 ぎりぎりぎり。
「じぶんもうらむな」
 ぎりぎりぎりぎり。
「うらむなら、このおれをうらめえっ!」
 すでに自らカタギの道を踏み外そうとしております。
 ――このままでは、人死にが出てしまうのではないか。
 社会集団デビュー初日にして熾烈な闘争をまのあたりにしてしまい、おびえまくるちみっこたち。あるいは、おどおどとシカトをきめこむ、いまどきのお利口な年長組園児たち。
 しかしそのとき、ただひとり、そのたたかいに介入を決意し、果敢に――いえ、とってものうてんきに、いっぽ踏みだす幼児がおりました。
「はいはい、ちょうっと、おごめん、おごめん」
 とことことこ。
 そう、ご想像のとおり、われらが、たかちゃんです。
 もっともこれもご想像のとおり、別に平和主義やらナンタラで、いっぽ踏みだしたわけではありません。なんだかよくわかんないけども、ここまでおもしろげな事態《イベント》には、ぜひ参加させてもらわねば――うまれつき、そんな性質なのですね。天性のコメディエンヌ体質と言ってもいいでしょう。
 おっきーおにいさんの園児服の襟を、ぎりぎりと締め上げているくにこちゃんに近より、
「ぶれいく、ぶれいく」
 おっきーおにいさんは、すでにしろめをむいて、ぶくぶくとアワを吹いております。
「どくたーすとっぷ」
 たかちゃんは、おもおもしく、くにこちゃんを制します。
「……?」
 くにこちゃんはウツロなまなざしながら、いちおうぶれいくしてくれましたが、
「はーはー……ぴくぴく……ぷるぷる」
 その荒い息づかいと、赤黒いこめかみに浮かぶ血管の痙攣《けいれん》からはんだんするかぎり、いまだ極度のこーふん状態を呈しているようです。
 これはもー、いっこくもはやく勝者に祭りあげて、この狂戦士《パーサーカー》を沈静させねば――そうはんだんしたたかちゃんは、まず半死半生のおっきーおにいさんのお手々をとって、ぎぶあっぷさせてあげます。
「ぷらぷら、ぺんぺん」
 おっきいおにいさんが、三途の川から帰還します。
 しかし、くにこちゃんにマジジメされた首から上は、まだまだ酸欠状態です。
 ……ああ、よかった。じごくじゃない。てんごくだ。ちょんちょんあたまの、てんしがいる。ああ、かみさま……。
 さきほどくにこちゃんによって目覚めた『謙虚』の概念に、『感謝』の概念が追加されます。また、ぼやける視界に浮かぶその天使の無邪気な微笑みに、かつて自分がイジメた幼児たちの面影も重なり、
「ごめ……ん……」
 おにいさんは、『贖罪』の念も学習します。
「こくこく」
 たかちゃんは、すべてがじぶんのあいのちからであるかのように、もっともらしく、うなずきます。
 そして、もう片方のお手々で、真の勝利者の腕を、高々と宙に掲げようとしたとき――
「てやあああっ!」
 ぶわっ!
 たかちゃんは、おっきーおにいさんといっしょになって、それはそれは豪快に、宙に舞います。
「ありゃ」
 そう、くにこちゃんのまだちっちゃい脳味噌は、もはや己に触れるものすべてを敵とみなし滅ぼさずにはおれないほど、アドレナリンでパンパンになってしまっていたのですね。
 ひゅるるるる――おっきーおにいさんは、はるか青空に消えます。「ごめん」ですべてが済むのなら、警察も刑務所もいりません。
 しかしたかちゃんは、そうかんたんに千の風になってしまうような、なまやさしいタマではありません。
「くるくるくる」
 りょうてりょうあしを四方につっぱらかって、たくみに空宙を回転しつつ、手頃な着地点を探します。
「くるくるくるくる」
 当人としてはお星さまになったつもりなのですが、あいにく『ひまわり幼稚園』の園児服は淡いブルー系なので、客観的には、巨大化したモミジガイといったありさまです。
 ちなみにモミジガイという海のいきものは、貝のお仲間ではなく、りっぱな海星《ヒトデ》さんです。ですから、まあ、お星さまっぽいといえないこともありませんね。
 ――おのれ妖物!
 くにこちゃんは闘争本能に導かれるまま、
「わしっ!」
 着地寸前のたかちゃんをとらえ、ぶんぶんとぶんまわし、ふたたび宙に放り上げます。
「うおうりゃあっ!」
「ほいっ」
 もいっぺん!
「とや!」
「くるりんぱ」
 これでもか!
「でええっ!」
「きゃははははははは」
 こーなると、さしものくにこちゃんも、焦りを覚えます。
 おれのひっさつの投げ技が、ことごとく、のーてんきなくるくるくるに吸われてしまう――。
 そして焦りという感情は、くにこちゃんほどの闘将になると、けしてマイナス方向には働きません。むしろ新たな局面を模索するため、理性を呼び起こします。
 くにこちゃんの精神が、いっしゅん、沈静します。
 冷静さをとりもどした動体視力が、のーてんきなくるくるの正体、つまり「きゃはははは」と笑うちょんちょん娘を特定します。
 こ、このきょうち《境地》は――。
 くにこちゃんは、驚愕します。
 ――こいつは、すでに、むしん《無心》だ。もはや、かちまけのそとにいる。ただものではない。
 まあ、それはあくまで生来の闘将ゆえの偏向評価であって、一般世間では、『なーんもかんがえてない』ともいいますね。
 そんなくにこちゃんの過大評価を知るや知らずや、
「しゅたっ」
 たかちゃんは、たくみに地面に着地――するつもりだったのですが、さすがに世の中、そう甘くはありません。なんといってもまわり中、せかいのはて青梅の、無節操な雑木林ですものね。
 げし。
「あうっ」
 未剪定の木の枝にあんよを引っかけてしまい、
「あうあう」
 がんめんから地面をちょくげきする寸前、
「どおすこいっ!」
 くにこちゃんの雄々しい腕が、からくもたかちゃんを抱きとめます。
「……きゅう」
「はあ、はあ、はあ……」
 くるくるおめめで失神したたかちゃんと、熾烈な戦いを終えて荒い息を整えるくにこちゃんに、
「ぱちぱち! ぱちぱち!」
 なんだかちっともわかんないけども、よーちえんとゆーとこは、とってもスゴいとこだ――そんな、ちみっこたちのおしみないはくしゅが、いつまでもふりそそぐのでした。

     ★          ★

 ちなみに、青梅の空に消えたのち、奥多摩の渓流に着水して一命をとりとめたおっきーおにいさんは、そのご改心してりっぱなレディーボーイに育ち、成人後はエイズ撲滅運動に人生を捧げ、やがては『新宿二丁目の聖母』と謳われた、とゆーことです。


     3

 さて、その同じころ――。
 ひまわり幼稚園の中庭では、ひとりぼっちのゆうこちゃんが、食後のおさんぽをしておりました。
 なんでひとりぼっちになってしまったのか、ちょっぴりふしぎなのですが、むかしから病院のベッドでひとりぼっちが多かったゆうこちゃんにとっては、なんとなく、ほっとしたかんじもします。
 あさからずうっと、いままでみたこともないほどたくさんの子供や大人にまじって、ちまちまちまちまと右往左往していたので、ちょっぴり気疲れしていたのですね。
 三角屋根のかわいい園舎に戻れば、やさしそうなせんせいたちがいっしょに遊んでくれるのでしょうし、なにやらそうぞうしい気配がながれてくる裏庭のほうをのぞけば、あたらしいおともだちが、いっぱい遊んでいるのかもしれません。よーちえんに入れてもらった、そもそものもくてき――いっぱいおともだち、なかよくおゆうぎ――そーしたねがいを実現するためには、おもいきって、そっちにいったほうが、いいのかもしれません。
 それでもゆうこちゃんは、だあれもいない中庭のきれいな花だんとか、まんなかにまっ白いかんのんさまが立っている泉水とか、幼稚園にしてはちょっとシブすぎデザインの数寄屋風あずまやとか、そーいった静謐の世界にひとり遊んでいるのが、きらいではありません。
「なでなで」
 花だんに咲いているちゅーりっぷさんや水仙さんやパンジーさんやアネモネさんと、ひととおり、ごあいさつします。
「ちゃぷちゃぷ」
 泉水のふちにかがみこんで、かんのんさまのもすそからきらきらと広がってくるさざなみを、お手々でちゃぷちゃぷします。
「……にゃーおちゃん」
 あずまやの屋根でお昼寝している、まっしろいおもちのような猫さんとごあいさつしたくて、
「うんしょ、うんしょ」
 おじょーさまにはちょっとはしたなく、あずまやの横の庭石に、ぱんつまるだしでよじのぼり、
「にゃおにゃお」
 さすがに屋根までお手々はとどきませんが、そんなだいたんなロッククライミングをひとりで実現できたこと自体、とてもほこらしかったりします。
「んふ」
 ちっぽけな庭石の上でも、今のちっこいゆうこちゃんからみれば、そこは中庭を睥睨する神々の山頂です。
 ――もしか、よわむしのじぶんでも、ごごになれば、いっぱいおともだち、できるかもしんない。
 そんなふうに、きぼうをあらたにするゆうこちゃんでしたが――かっくん。
「きゃう」
 なれない登山でひざこぞうが笑ってしまい、ゆうこちゃんは、すってんころりんと庭石からころがりおちてしまいます。
「……ぐす」
 ないてはいけない。
 もー、よーちえんのおねいさんになったのだから、ころんだくらいで、ないてはいけない。
 うるうるしてくる目頭や、お鼻の奥のぐずぐずを、けなげにこらえるゆうこちゃん。
 そんなゆうこちゃんのお耳に、ざわざわと、ひとのけはいが、つたわってきます。
 そう、裏庭でおひるやすみのめーんいべんとを無事にこなし、じょうきげんのくにこちゃんとたかちゃんが、かえってきたのです。
 さらに、そのたおおぜいのちみっこたちも、このコンビはまだまだ未知の芸を秘めているかもしんない、そんなきたいのしせんで、わくわくとついてきております。
 ゆうこちゃんは、とっさに、庭石のかげにかくれます。
「……こそこそ」
 ほんとうは、みんなにまざりたくてしかたないのですが、なんといっても深窓のお嬢様、それにいまのじぶんは、うるうるおめめでぐずぐずお鼻、そんな、きわめてふほんいなじょーたいですものね。
 それでもとっても気になって、こっそりそっちをのぞいてみますと、
「いんやー、さっきのわざは、みごとなものだ」
 くにこちゃんが、たかちゃんの肩をたたきながら、その健闘をたたえております。
 たかちゃんは、えっへんとむねをはります。
「いがにんぽー」
 もちろん、くちからでまかせです。
「ほう」
「にんぽー『かざぐるま』。にーんにんっ」
「ずいぶん、しゅぎょーが、いっただろう」
「こくこく」
 そんなたかちゃんのむせきにんな笑顔に、ゆうこちゃんのちっちゃいむねが、ちょっぴりうずきます。
 ごぜん中、ひよこ組の顔合わせで初めて会ったとき、あちらから「やっほー!」と元気にあいさつしてくれたのがすごくうれしくて、でもその子は、ゆうこちゃんいがいの子にも無差別に節操なく「やっほー」しまくっており、なんだかちょっと寂しい気もした――たしか、かたぎりたかこさん。
 そして、そのとなりでふむふむとうなずいているくにこちゃんに、ゆうこちゃんの繊細なこころは、かなりおびえます。
 やっぱし初めて会ったとき、いきなり「ぎろりん」とにらみつけられたのがすごくおっかなくて、でもその子は、ゆうこちゃんいがいの子にもまんべんなく「ぎろりん」とガンつけしまくっており、なんだかちょっとほっとした――たしか、ながおかくにこさん。
 ――でも、すごいなあ。たかこさんとくにこさんは、初めて会ったばっかしなのに、もう、あんなにおともだちなんだ。
 ゆうこちゃんが、庭石の前を通りすぎてゆくふたりを、ついついまじまじとみつめておりますと、
「おう、でっかい」
 まずたかちゃんが、あずまやのお屋根の猫さんに気づき、
「ねこの、おーもり」
 いっぽうくにこちゃんは、
「む」
 野生動物の本能で、庭石のかげに、他の個体の存在を察知します。
「……そこにいるのは、だれだ?」
 ぎろりん。
「なぜ、かくれている」
 ぎんぎろりん。
 くにこちゃんほんにんとしては、けして、最終的な『ぎんぎろりん』のつもりではありません。あくまで、みかくにんのそんざいに対する、初期的な威嚇です。
 それでもゆうこちゃんは、せいめいのききを、感じてしまいます。なにしろ、初めて会ったときにもじゅーぶんおっかなかった、うえたおーかみさんのような凶眼が、今はじぶんひとりに、集中してしまっているのです。
「ぷるぷるぷるぷる」
 おもわず庭石のかげにちぢこまり、ぷるぷるしておりますと、
「……でてこないなら、こちらから、いくぞ」
 ぬずぼ!
 庭石――地中部分を含めると直径およそ五尺、重量にして無慮五百貫を越すかと思われる緑泥片岩が、軽々と宙に浮きます。
「なんだ、おまいか」
 石のうしろにしゃがみこんでいた、そのひときわちっこいおんなのこなら、くにこちゃんも、よくおぼえています。初めて会ったとき、とりあえずにらみつけてはみたものの、敵としてはあんまりちっこいし、そのくるくるまきげが、なんだかおんなどもがかわいがっていそうな西洋人形のようにも見えたので、おとこらしいおれにはとりあえず無関係、そんな判断を下した同輩です。
 くにこちゃんは、ひょうしぬけして、庭石を横にほうりだします。
 ずずうううん!
「……かくれんぼか?」
 ごくさりげなく訊いたつもりなのですが、ゆうこちゃんはもはやぷるぷるする余裕もなく、ウツロなお目々で、こちんこちんにかたまってしまっております。
 それはそうですね。ふつう、よーちえんのおともだちは、巨大な庭石をもちあげません。ふつーのにんげんも、たぶん持ち上げません。うえたおーかみさんでも、めったに持ち上げないでしょう。おさないゆうこちゃんの知るかぎり、これはもー、きんぐこんぐとか、あるいはふらんけんしゅたいんのじんぞーにんげんとか、そんなレベルです。
「なぜ、だまっている」
 くにこちゃんは、あくまでただの好奇心から、つめよります。
 しかし、末期《まつご》を予感してしまったゆうこちゃんの脳裏には、物心ついてからこれまでの楽しい思い出だけが、走馬灯のように去来します。
 いつもはひとりさびしいびょーいんのこしつで、パパやママやおにいちゃまや、おせわがかりのけいこさんや、かんごふさんやおいしゃさんが、おいしいけーきでおいわいしてくれた、たのしいおたんじょーびのよる。そのよるから、ずうっとおともだちで、いまもおうちでおるすばんしてくれているはずの、おっきいくまのパディントン。そして、ちょっとだけげんきになれたきょねんのなつ、パパのおくるまでみんなででかけた、きれいなきれいな、にしいずのべっそう。そのべっそうのべらんだで、ちょっぴりしめっぽいけどでもふしぎにいいにおいでいいきもちのしおかぜにふかれながら、うまれてはじめてみた、うみはひろいなおおきいな――。
 ちなみに、今、このお話をきいてくださっているよい子の方々は、みなさん、お約束によれば精神年齢十四歳以上のはずですので、人生なんていつまでもそんな甘いもんじゃねーよ、そんなかわいくねー感慨を抱いた方も、多数いらっしゃることと思われます。でも、そんなかわいくねーあなたであるがゆえにとーぜん世間様からちっともかわいがられず、ついにある日人生リタイアを決意し、またそんなかわいくねーあなたであるがゆえに世間様への迷惑も顧みず、近視眼的にご近所のマンションの屋上や駅のホームから身を躍らせて無様でこぎたないハタ迷惑な肉塊と変じる寸前、あるいはあてつけがましくガッコの物置や教室で首を吊り排泄物を垂れ流しながら縊れ死ぬ寸前には、人生なんて辛くてつまんねーとばかり思いこんでいた悪いアタマの中から、不思議と山のような美しい思い出が、芋蔓式に蘇ってきたりします。これがかの有名な、走馬灯現象です。まあどっちみち、かわいくねーあなたの場合、すでに手遅れなんですけどね。
 閑話休題《あだしごとはさておき》――あなたとは百八十度ベクトルの異なった汚れなき幼女・ゆうこちゃんの脳裏には、あなたの悪い頭の底深く泥にまみれて沈んでしまっている人生の真実の一部、そんな美しい部分だけが、次々とよみがえります。
 パパ、ママ、おにいちゃま、けいこさん、んでもってぱでぃんとん、さようなら――まあ、まだよっつにもならないお子さんのこと、そんな具体的な『死』の概念は希薄ですから、「もーにどとおうちにかえれないかもしんない」、そんなかんじの、哀しい諦念なのでしょう。
 いっぽうくにこちゃんは、きょくたんに気の短いお子さんです。なにしろご両親は、今でこそせかいのはて青梅で貧しい下駄屋夫婦をやっておりますが、若い頃には花のお江戸のど真ん中、神楽坂あたりで修行を積んだ和履物職人と芸者さんです。そしてくにこちゃんはとことん父親似、心根は人情と侠気にあふれ、しかし言動はキツくてせっかちそのもの、つまり他国者から見ればとことん口が悪く喧嘩っ早く、
「なんだ? なんか、もんくでも、あるのか?」
 ゆうこちゃんがいつまでも黙ってしゃっちょこばっているので、ついつい、語気を荒げてしまいます。
「だまってないで、なんか、ゆえ!」
 その顔面筋肉の自律的な歪みなども、険悪この上ありません。
「…………ふぇ」
 ゆうこちゃんのせいしんが、はたんします。もはや、諦念している余裕もなくなってしまったのですね。
「……びぇ」
 おめめとお鼻のあいだが、みるみるしわしわになって――
「びぇぇぇぇぇぇ!!」
 可憐かつとんでもねー音量の泣き声が、ひまわり幼稚園の中庭に、響き渡ります。
「あ」
 たかちゃんは、はんしゃてきに、くにこちゃんをいじります。
「なかした」
 くにこちゃんは、ろーばいします。
「な、なんだ。おれは、なんにも、してないぞ」
「びぇ! びぇぇぇぇ!」
「お、おい、おまい……」
 根っから男伊達のくにこちゃんのこと、おんなのなみだには、まったく耐性がありません。
 おろおろとゆうこちゃんをなだめようとしますが、なんだかおっかなくて手を触れるのもためらわれ、お手々をわたわたしながら、すくいをもとめてあたりを見回しますと、さっきまでそんけーのまなざしをたたえていたほかのちみっこたちは、なんだかアヤしげなまなざしへと、変貌しつつあったりします。
 ――なかした?
 ――なかした。
 ――いぢめた?
 所詮この新しい英雄も、真の姿は、ただの粗暴なマッスル野郎に過ぎなかったのだろうか――。
 まあ、泣いているのがゆうこちゃんではなく、たとえばたかちゃんだったら、世間の風聞もなにげに二極化したのでしょうが、なんといってもチワワのくーちゃんか子猫のように儚い純天使風ビジュアルのゆうこちゃん、ちみっこたちの多くが、いっしょになってうるうるしはじめたり、中には胸の奥がきゅううううんと疼いてしまって、思わず牡《オス》の本能にめざめてしまったマセガキなども、多数存在しているげなありさまです。
「びぇ! びぇぇぇぇ!」
 くにこちゃんは、とほーにくれます。
 うああ、こまってしまってわんわんわわん――などと、頭の中で歌っている場合ではありません。
 え、えーと、ないているおんなを、なぐさめるには――そ、そーだ!
 いつかみたてれびの洋画劇場で、おふらんす系の気色悪い色男が、泣き虫のおねいさんに花束を贈っていたのを思いだし、
「ちょ、ちょっと、まってろ!」
 そう言い残し、どどどどどと花壇中をかけまわったのち、
「おらよ」
 両腕一杯に摘んできたお花――もとい、一網打尽に引きちぎりまくったエモノを、ぬい、と、ゆうこちゃんにさしだします。
「これを、やる。やるから、なきやめ」
 そんな、いかにもふしぜんな猫なで声に、
「……ひっく」
 ゆうこちゃんが、しばし「びぇぇぇぇ」を控え、「ひっく、ひっく」とお顔を上げますと、
「どーだ。きれーだろー。みーんな、おまいに、やる」
 そこには、さっきまんべんなくごあいさつしたかわいいちゅーりっぷさんや水仙さんやパンジーさんやアネモネさんが、ヨレヨレのズタボロになり、ひとかかえに圧縮されております。
 ゆうこちゃんは、ぼーぜんと、花壇のほうをみわたします。
 すると、ついさっきまで天国のお花畑のようだった中庭は、グレた農夫たちが徒党を組んでトラクターで暴走しまくったかのように、無惨な地獄絵図と化しているではありませんか。
「…………びぇぇぇぇぇぇ!!」
 な、なぜだ――困惑しまくるくにこちゃんに、たかちゃんは、すかさずツッコみます。
「しょーじょの、てき」
 さすがにその言葉の正確な意味は、解っておりません。
 もちろん、くにこちゃんのほうも解っておりません。
 ち、ちがう。おれはぜったい、かよわいむすめをいじめたりはしない――くにこちゃんは焦燥に流されそうになる理性を必死に繋ぎ止め、じぶんよりはまだほんのすこしおんなっぽいのではないかと思われるたかちゃんに、わたわたと、お手々や視線ですがります。
 お、おれはいったい、どーすれば――。
 たかちゃんは、んむ、と、もっともらしくうなずいて、
「げい」
 芸?
「これはもー、げいで、かばーするしか」
 そ、そーか!
 くにこちゃんの脳裏に、やっぱし昔てれびで見た、おふらんす系の不幸な少女と大道芸人少年の、こころあたたまる交情などが、よみがえります。
「よ、よし、まってろ!」
 いまだびえびえと泣きまくるゆうこちゃんに言い残し、中庭のまんなかの泉水に、どどどどど、ざばばばばと突進します。
 そして必死の形相で、大人サイズのかんのんさまに対峙すると、
「みてろよ! いいな、みてろよ?」
 せっぱつまった懇願の声に、ゆうこちゃんがふたたび「ひっく、ひっく」とお顔を上げますと、
「あちょー!!」
 れっぱくのきあいとともに――なんにも、おきません。
 くにこちゃんは、ちょっととびあがりながら、お手々をびゅんびゅんと振りまわしただけです。
 それからまた、ざばばばどどどとゆうこちゃんの前にもどり、
「これからが、おもしろいのだ」
 じしんありげに、うなずきます。
 やがて――びし!
 なんじゃやら、にぶく不穏な響きが、泉水を震わせます。
 びし、びしびし、びしびしびしびし!
 まっしろな大理石のかんのんさまの慈顔に、葉脈のような網状のひびが走り、またたくまに全身に広がっていきます。
 そして――ごば!!
 つぎのしゅんかん、かんのんさまは、こっぱみじんにふきとびます。
「どーだ、すげーだろー!」
 くにこちゃんは、白く波立つ泉水と漂う粉塵をほこらしげに指さしながら、ゆうこちゃんの肩をたたきます。
「ちょっと、まのあくとこが、わざなのだ!」
 ゆうこちゃんは――もう、ごせつめいには及びませんよね。
「びぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
 もはや超音波に近い音域に、たかちゃんは両みみをふさぎながら、
「どろぬま」
 しつこく、くにこちゃんをいじります。
 な、なぜウケないのだ――ついに進退きわまったくにこちゃんは、ゆうこちゃんの前に土下座し、地べたに頭をこすりつけ、半泣きになってゆるしをこいます。
「お、おねがいだ。おまいのゆーことは、なんでも、する。んだから、なかないでくれい」
 ちなみに、おとことおんなのかんけいにおいて、こーいった構図は、昔から『哀しい男の性《さが》』と呼ばれている現象の、代表的な例と言えます。まあ、中には泣きじゃくる女性を平然と蹂躙する男性も多数存在するわけで、また、そーいった態度を『雄々しい』などと勘違いする人々が、男性のみならず女性の中にまで少なからずいらっしゃるようですが、それらは単に『無神経』『寸足らず』『加虐性淫乱症』『前頭葉の形質異常』『きちピー』等、いわゆるこころのビョーキですので、生物学的な雌雄とは、なんの関連性もありません。まあ、くにこちゃんはあくまでおんなですので、このご説明じたい、お話にはなんの関連性もないんですけどね。
「おまいのほしーものは、なんでも、やる。んだから、なきやんでくれい」
 獰猛な野獣が這いつくばって懇願するその姿に、こころやさしいゆうこちゃんは、ちょっぴりほだされます。
「……ひっく」
 くすんくすんとしゃくりあげながら、ふと、横のあずまやの屋根に、目をやったりします。
「……ちろちろ」
「……?」
「ちろ」
「?」
 地べたから見上げているので、お屋根の上が見えないくにこちゃんに代わり、たかちゃんがおたずねします。
「おやねの、ねこ? ねこの、おーもり?」
「……ぽ」
「なんだ、そーか! ねこが、ほしーのか?」
 くにこちゃんは、これ幸いと跳ね起きて、
「おうし、まってろ。すぐに、もってきてやる!」
 かさかさとごきぶりのようにあずまやの壁や柱をはいあがり、
「ふんぎゃー!!」
 またたくまに、でっかい白ねこさんをはがいじめにして、着地します。
「ほうら、ねこだ。えんりょするな」
 ぷらりん。
 たしかにそれは、さっきまでお屋根でまあるくなって寝ていた、巨大なぼたもちのような白ねこさんにちがいないのですが――すでに、しろめをむいて、アワを吹いております。
「…………」
「…………」
「…………」
 しばしのちんもくののち、たかちゃんが、つぶやきます。
「かわいい、ねこ」
 こーちょくしてしまったくにこちゃんの両手から、だらーりとぶらさがったねこを引き継ぎ、
「の、しかばね」
 そう、その体長から推測し齢《よわい》十年あるいは二十年、すでに隠居状態だったのらねこさんは、必要以上にはりきってかかえこんだくにこちゃんの怪力によって、あっさり窒息死してしまっていたのです。そのだらーりっぷりから推測すると、アバラあたりも二三本、イっているのかもしれません。ちなみに猫とゆー生きものは、おうちで大事に育てれば二十年も生きたりすることがありますが、のらねこさんのばあい、平均寿命は四年程度です。
「……ふ」
 小さく一息もらし、くたくたとその場にくずおれるゆうこちゃんを、くにこちゃんははんしゃてきにだきとめます。
「あ」
 たかちゃんが、つぶやきます。
「そっちも、しかばね」
「うああ、いやだあっ!!」
 くにこちゃんは、そーはくのがんめんを赤やら黄色やら深緑やら信号機のようにてんめつさせつつ、ゆうこちゃんをゆさぶります。
「……う」
 さいわい、気をうしなっただけのようです。
 いっしゅん安堵するくにこちゃんでしたが、その横でたかちゃんが「ぶうらぶら」などともてあそんでいるねこさんのほうは、これはもー、やっぱしどこからみても、しかばねです。
 くにこちゃんはゆうこちゃんをだいたまんま、がっくしと地面にひざをつき、わなわなとわななきます。
「……なんとゆーことだ」
 たかちゃんは、そんなくにこちゃんをびしっとゆびさし――もとい、ねこのおててざし、
「ねこごろし」
「うあ」
「おとこのくず」
「うああ」
「ひとでなし」
「うあああああああ」
 おもうさま、いじりたおします。
 ――ああ、おれはもー、にんげんとして、だめになってしまった。ねこをしめころして、おんなにおくりつけてしまったのだ――。
 良心の呵責に悶え苦しむくにこちゃんをながめつつ、さすがにこれ以上いじるとあくしつなイジメになりかねない、そう思ったかどうかは定かではありませんが、
「んでも、だいじょーぶ!」
 たかちゃんはねこさんをバンザイさせながら、朗らかに言いきります。
 くにこちゃんは、ハテナ顔でふりかえり、
「んでも……しんでるぞ?」
 たかちゃんは、ひまわりのようにのーてんきに笑いながら、
「まかせなさい」


     4

 そんな、たのしいとゆーか、かなりそーぞーしい幼稚園デビューを終えて、たかちゃんは、送迎バスでご近所の角まで送ってもらいます。
 ちょっとおうちのはなれたくにこちゃんやゆうこちゃんも、「たかちゃんちに、およばれ」などとせんせいをたぶらかして、いっしょにバスをおります。
 そうして、ぶじにおうちのご門に戻ってきたたかちゃんは、なぜだかまっすぐ玄関には向かわず、
「ぬきあし、さしあし、しのびあし――」
 セコいツー・バイ・フォーのおうちの横を、こそこそと迂回します。
「……なあ、たかこ」
 後続するくにこちゃんが、小声でおたずねします。
「ここは、おまいんちだな?」
「こくこく」
「なんで、じぶんちに、こそこそ、しのびこむんだ?」
「ひみつ」
 たかちゃんはそう答えて、さらにこそこそと、裏口にむかいます。
「かたぎりけの、なぞ」
 そうか、謎なのか――くにこちゃんは、なっとくします。
 謎ならば、しかたがありません。
 今じぶんが背中にしょっているでっけー猫――すでに死後硬直が始まった猫の死骸を、ほんとうになんとかしてくれるとゆーのなら、それはきっと、そーぞーをぜっするきょだいでおぞましー秘密が、この片桐家には隠されているにちがいありません。
 くにこちゃんのうしろから、ゆうこちゃんもくっついてきております。
「……どきどき」
 くにこちゃんの背中にくくりつけられ、しゃっちょこばってしろめをむいているねこさんを心配そうに見守りつつ、でも、あのたかちゃんの圧倒的な笑顔なら、きっとなんとかなるにちがいない、そんなこんきょのない希望にすがっております。
 ちなみにゆうこちゃんとくにこちゃんは、お昼休み後のなんかいろいろを通して、もうすっかり、なかよしさんです。
 幼稚園の裏庭で息をふきかえしたのち、たかちゃんのだいじょーぶ宣言に慰められ、でも幼稚園が終わるまで、ねこさんをほっとくわけにもいかず途方にくれたとき、くにこちゃんはみずからねこさん番を買って出て、せんせいたちの疑惑の視線を「これは、しんだねこの、ぬいぐるみなのだ」と気迫で押し切ったり、「んでも、ちょっとなまっぽいぬいぐるみだから、いたんでしまうといけない」と、食堂の冷蔵庫に入れてくれたり、なんかいろいろ、とことんがんばってくれました。
 はじめはとってもこわかった人が、実はとってもやさしい人だった――そんなドンデンなケースだと、かえって信頼感は倍増しますよね。
 やがて、裏のお勝手口がみえてくると、
「ここで、たいきせよ」
「らじゃー」
「こく」
 くにこちゃんとゆうこちゃんをお外にのこし、たかちゃんは、謎とひみつの片桐家に、潜入を開始します。
 このじかんなら、ママは、げんかんわきのおーせつ間で、まちかまえているはず――。
 そう、四流出版社に勤めるパパは、入園式のあとで会社に出てしまったはずです。そしてママは、たかちゃんとはうまれていらいのながいおつきあいですので、どっちみちあの子ならいかなる人生の新局面からも「ぶいぶい」と勝利宣言しながら凱旋するにちがいない、そんなニュアンスで、ふじやのいちごみるふぃーゆとともに、にこにこと待っていてくれるはずなのです。
 たかちゃんほんにんとしても、朝からとーぜんそんないちごみるふぃーゆ中心のスケジュールを組んでいたわけですが、こんかいばかりは、ひとしれず奥の居間に潜入し、あるアイテムを入手せねばなりません。
「こそこそこそ」
 縁側に面した和室の居間には、昭和レトロっぽい茶箪笥なんかがあって、たかちゃんの貴重な個人資産を守っているぶたさん貯金箱とか、パパごじまんのおたく仕様のデジカメとか、いじりがいのあるものが、たくさん置いてあります。
「どっこいしょ」
 たかちゃんは、うんしょうんしょとせのびをして、ぶたさん貯金箱の横から、白いビニールの箱を、かかえおろします。
「――『とやまのおきぐすり』」
 かつてこの国の津々浦々、大都会から深山幽谷の村々までくまなく行商しまくっていたとゆー、『越中富山の薬売り』。
 ただの飛び込みの売りっぱなしではなく、決まった家々に常備薬の詰め合わせを預け、定期的に訪れては使用されたぶんだけの代金を回収し、減った薬品や期限切迫品を補充交換してゆく――薬九層倍と言われるほど高粗利だからこそ成り立つ業態であり、マツキヨ等の薄利多売系ドラッグストアに押されて、都会でこそ珍しくなってしまいましたが、実は平成日本においても未だ根強く販路を保つ、江戸時代以来のスロー・ビジネスです。
「ごそごそごそ」
 しかし、片桐家におけるそれは、いささか販路の規模が違っていたりします。
 その箱のデザインや商標は、あくまでこの星のこの国における類似の業種を模倣した、つまりカモフラージュであって、たとえば箱に収まっている昭和レトロデザインの『ノーラン』などという解熱鎮痛剤は、一見『ノーシン』の亜流製品のようでありながら、ママの頭痛やたかちゃんのお熱には良く効いても、パパにはまったく効かなかったりします。いえ、効かないだけならまだいいのですが、パパがうっかり口中で噛み砕き、M78星雲系生物専用消化皮膜を無効化したりすると、必要以上に頭痛が消えてついでにパパの知能も消えたり、熱が下がりすぎてパパが凍死したりします。そうした事故を避けるため、いちおう商品名のすぐ横に、『M78星雲系以外の方は、服用前に自星の医師にご相談ください』と、小さく印刷してあるんですけどね。
 まあ、そのような、ちょっと相手を選ぶご家庭の常備薬が、年に四度くらい謎の円盤UFOに乗った行商人によって補充交換されるわけですが、
「みっけ」
 こんかい、たかちゃんが引っぱり出した、なにやら江戸レトロデザインの紙袋は――『越中富山の反魂丹』。
 たかちゃんは袋の中から、一回分の頓服をつまみだし、ぽっけに入れようとしますが――
「こら」
 いきなし上から手がのびて、頓服をつまみとります。
「ぎく」
 たかちゃんは、びっくりしたときの猫さんみたいにちっちゃいからだをすくめ、それから、おそるおそるふりかえります。
 いつのまにか、ママが、うしろに立っていたのですね。
「おくすりは、ぜったい、自分でさわっちゃだめ。なんべんも、言ってるでしょ?」
 やさしいママにしては、なかなかインパクトのある低音です。
 実は、その頓服は、たかちゃんが思っている超強力賦活剤的薬効とは別状、かつて元祖うるとらまんの最終回で、ぞふぃーさんがはやたさんにあげたものと、同じ性質の『命《いのち》』だったりします。そのときはたった二個しか持ってきていませんでしたが、その後のうるとら関係の超インフレは、よいこのみなさんもご存知のとおりです。続々登場する怪獣や侵略宇宙人と、毎週毎週とっかえひっかえ何十年も戦い続けるわけですから、ついつい正義の味方のほうでも、うっかり地球人をふみつぶしたりけりころしたりしてしまう機会が、激増してまいります。十や二十の命では、とてもおっつきません。ですから今では、季節に一度の行商人に、補充交換してもらっているのですね。
 ――あうあう、おしりぺんぺん?
 おびえまくるたかちゃんの前に、ママは「やれやれ」といったお顔でしゃがみこみ、
「……だれか、死んじゃったの?」
 やさしく、おつむをなでてくれます。
「……こくこく」
 ママはたかちゃんのお目々をみつめ、一語一句、噛んで含めるように、
「あのね、たかちゃん、いきものというものは、かならず、いつかは、死んでしまうものなの」
「……こくこく」
「悲しいけれど、そういうものなのね」
「……こく」
「死んでしまう前なら、どんなお薬でも、あげていいと思うわ。――でも、このお薬は、ほんとうはお薬じゃないの」
「?」
「生命《いのち》、そのものなの」
「……いのち?」
「そう。だから、どうしても『死んではおかしい』人にしか、あげちゃいけないのよ」
「ねこ」
「?」
「……ひとじゃなくて、ねこ」
 ママの厳粛なお顔から、なんだか急に、気が抜けます。
「……ねこ?」
「こくこく。のらねこさん」
「なあんだ――猫さん?」
 ママはおあごに指をあてて、ちょっぴり考えこんだあと、
「はい」
 たかちゃんのお手々に、あの頓服を、のっけてくれます。
 もちろん、本来その投与は厳密なマニュアルに沿って行われるべきなのですが、それはあくまで知的生物、つまり人間とかお猿さんとか鯨さんとかイルカさんとか、一定以上の知的生物に対してであって、それ以下の生物は規定外です。
 それに、むかしからナイス・バディーで人目を惹いたためか、セクハラやらストーカー被害やら同性パワハラやらを受けがちだったママにしてみれば、ハンパにうざったい人類よりも物言わぬ猫さんのほうが、よほどかわいげがありますものね。
「元気になったら、連れてらっしゃい、猫ちゃん」
 にこにこ、なでなで。
「ありがとー!」
 すりすりすり。


     5

 そして同じ日の、おひるとゆーがたのまんなかくらい、多摩川ぞいの桜並木の下で――。
「ほう、それが、たかこんちの、なぞの大ひみつか」
「こくこく」
 さっきのたかちゃんち、あるいはそのお庭あたりで、なんかいろいろ済ませてしまっても良かったのでしょうが、さすがにいつ人目につくかわからないところで、死者復活の儀式を執り行うのは気がひけます。
 それに、くにこちゃんの背中のねこさんも、あいかわらずしろめをむいている上に、時を経るにしたがってますますしゃっちょこばってくるものですから、どうもほのぼの系ビジュアルどころか、スラップスティック系も通りこし、すでに猟奇系とか電波系にシフトしている気もします。
 そんなわけで、とりあえずくにこちゃんちに寄ってこっそりねこさんをリュックに詰め、なにくわぬ顔でゆうこちゃんちの大邸宅を訪問し、気弱な娘がさっそく幼稚園でみつけたお友達として大歓待を受け、それから広大なお庭の一部、多摩川沿いの遊歩道に腰をすえたのでした。
 ここなら、だあれも通る人はおりません。それに、とってもきれいです。奥多摩の峰々から悠然と蛇行してくる渓流に、風に乗った桜の花びらが、ちらちらと雪のように舞っております。
「じゃじゃーん」
 たかちゃんは、もったいぶって、れいの頓服の包みをひらきます。
 折りたたまれた紙包みの中から、正露丸ひとつぶほどの、桜色の玉があらわれます。
「ほう、これが、いのちか」
 くにこちゃんはしげしげとのぞきこんで、
「さくらもちみたいな、においがする。とても、んまそーだ」
 たかちゃんとゆうこちゃんは、あわてて包みをかくします。
 くにこちゃんの常軌を逸した食欲にかんしては、幼稚園でお昼ごはんをごいっしょしたときの超巨大おむすびや、いましがた超豪華応接間で超高級大型ケーキをまるのみしたときのありさまから、すでに周知の事実となっております。
「……じょーだんだ」
 さすがにこの状況だと、つまみぐいの心配は、なさそうですね。
「んじゃ、ほんばん、かいしー」
 たかちゃんの宣告に、
「んむ」
 くにこちゃんはリュックをあけて、こちこちのねこさんをとりだします。
 ゆうこちゃんは、すでに清水の表情で、たかちゃんの笑顔にすべてを委ねております。
「ほーい」
 たかちゃんは桜色の玉をつまみ、ねこさんの口元に近づけます。
「つんつん」
 しかし、なんのはんのうもありません。あたりまえですね。
「…………」
 たかちゃんは、しげしげとその口元をみつめ、
「…………」
 それからお空を見上げ、ちょっと考えこんで、
「…………」
 左のくにこちゃんに目をやりますが、なんら助けになりそーもなく、
「…………」
 右のゆうこちゃんも、どーやら無策のようです。
「…………しんでいる」
 死んだ猫に丸薬を飲ませるには、いったいどーすればいいのでしょう。
「くちを、もっと、あければいーのだ」
 くにこちゃんが、ねこさんのおあごに、指をかけます。
「ふんぬっ!」
 しかし、死後硬直のなかばにある生物の顎とゆーものは、生半可な力では開きません。
「ぐぬぬぬぬう」
 ――ごき。
 なんだか、とてもいやあな音が、ねこさんの頭骨に響きます。
「あ」
 たかちゃんは、けしていじりではなく、実感としてつぶやきます。
「あご、はずれた」
 くらりとよろめくゆうこちゃんの肩を、くにこちゃんは必死にゆすりながら、
「だ、だいじょぶだ! いたくない!」
 ねこさんにも顔を寄せ、
「な! な! いたくないな?」
 とうぜん、ごへんじはありません。まあ痛くないことだけは、まちがいなさそうです。
 くにこちゃんは、はあはあと息をととのえ、己を鼓舞するように、
「とにかく、これで、くちがひらいた」
「こくこく」
 たかちゃんは、ふたたび桜色の玉をつまみ、だらんと開いたねこさんのお口に、入れてあげようとしますが――
 ぐにぐに、ぐにぐに。
「……なんか、つまってる」
 指先にくっついたねばねばに、うにい、とお顔をしかめます。
「かせ!」
 くにこちゃんは玉をうばいとり、たび重なる失点をカバーするべく、ねこさんのお口の奥をのぞきこみますが――
「……あう」
 ちからなくつぶやくと、ねこさんと玉をたかちゃんにおかえしして、それから大地に両手をつき、がっくしとうなだれます。
「……おれの、しわざだ」
 たかちゃんも、おそるおそる、ねこさんのお口の奥を、のぞきこみます。
「う゛」
 くるしげによじれてかたまった舌、その舌や牙や口蓋にまとわっている、生乾きの唾液の泡、そして喉の奥にわだかまる、赤黒い血膿のような、なんだかよくわからない粘液――さすがののーてんきたかちゃんも、二の句が継げず、ぜっくします。
 ……さて、ここまできますと、なんだかジャンルふめいのお話とはいえ、かわゆいちみっこたちのコメディー系作品で、なんでここまで露悪的な猫の死体描写が展開されなければならないのか――そんな疑問を抱かれるよいこのみなさんも、多数いらっしゃることと思われます。
 しかし、よっくと考えてみてくださいね。
 たとえば、雪国で除雪車に巻きこまれ、全身をミキサーにかけられてしまったような状態の少女。あるいは工場作業中、両脚を機械に引きちぎられてしまった労働者。それとも、そんな例外的な事故ではなく、連日この国の各所に確実に存在している、ひしゃげちぎれた車輌となかば一体化してしまった、ひしゃげちぎれたドライバーや同乗者――それらいずれの肉塊に対しても、レスキューや医師の方々は、釈迦力で生命の名残を求めます。そして、突き出た骨や漏れ出る体液にもし生命の可能性を見出せれば、それがたとえほんの僅かな生の名残りであっても、この世に留めようと尽力します。しかしその崇高な精神の現場は、客観的にみれば、とんでもねーグロな肉塊の回収修復作業現場であり、即物性の極北と言っても過言ではありません。つまり、生と死の狭間というもの、いえ、生そのもの、あるいは死そのもの、それらのいずれもが、美しく崇高な精神と同じ次元で、やはり醜く嫌悪を催すような、即物的肉塊の世界でもあるのです。
 そーした構図を『寓話』として扱う場合、たとえば『古事記』におけるイザナギ・イザナミの神話――黄泉の国で腐爛してしまった妻イザナミを不浄の者として恐れ、逃げまどう夫イザナギを普遍的な者として容認する視線と、たとえば英国の伝説的コント番組『空飛ぶモンティ・パイソン』――死者や弱者をとんでもねーギャグで笑い飛ばしながら、返す刀で生者強者をも完膚無きまでに嘲笑しつくす視線と、果たしてどちらの視線が、レスキューや医師の崇高さに近いのでしょう。
 まあ、そこんとこは、よいこのみなさん各自のお好みに任せるほかないのかもしれませんが、あくまでたかちゃんたちは、退嬰的神話内の住人でもなければ、音声加工やモザイクに糊塗されたフヌケ民放番組や、ハリウッド超大作スカスカ砂糖菓子世界に住んでいるのでもありません。
 閑話休題《あだしごとはさておき》――。
「……おれは、やっぱし、もー、だめだ」
 くにこちゃんが、うるうる声で、弱音をはきます。
「……いなかの、ばーさんが、ゆってた。ねこは、いじめると、たたるのだ。きっと、うちんかえると、よなかかなんかに、おふくろが、あんどんかなんかの、あぶらかなんか、なめだすのだ。んで、みみが、とんがってるのだ。んでもって……みたなあ〜〜〜とかゆって、おれののどぶえを、かみちぎるのだ……」
 たかちゃんは、なんぼなんでもそれは古すぎだろーと、こころのなかでツッコみます。しかし、あえて口に出してツッコむ気力が、どーしても湧いてきません。
 そのとき――。
 たかちゃんが抱いているねこさんのりょうわきに、しろくてちっちゃなお手々がふたつ、ふと、そえられます。
 いままで、ふたりのどたばたをじっと見つめているだけだった、ゆうこちゃんのお手々です。
「……にゃーおちゃん」
 たかちゃんのお手々から、そっと、ねこさんを抱きとり――
 ぶちゅう。
 たかちゃんとくにこちゃんは、ぼーぜんと、こーちょくします。
「おう……」
「お、おまい……」
 桜の花びらの舞う中で、ちっちゃなゆうこちゃんは、『不浄』『穢れ』といった概念から己を解き放ち、ただ粛然と、ねこさんのいのちをいのりつづけます。
 ぶちゅううう。
 たかちゃんも、くにこちゃんも、ただぼーぜんと、その光景をみつめ続けております。
 やがて、ゆうこちゃんのおくちにたまった死の凝りが、桜散る遊歩道の、土を染めます。
 ――ぺ。
 そして、ゆうこちゃんがさしのべたてのひらに、たかちゃんは「んむ」と深くうなずきながら、あのちっこい桜色の玉を、のせてあげます。
 ゆうこちゃんは、ちんまりとした唇に、それをふくんで――。

    ★          ★

「…………ふああああ」
 かんどうのご対面にしては、あまりにきんちょーかんのない、ねこさんの大あくびでした。


     6

  ―― 花の顔に 晴れうてしてや 朧月 ――  〈芭蕉〉

 俳句などという繊細で奥深い日本文化や、たおやかな古語にはちっとも縁がなく、ガサツで浅薄で、ハヤリ言葉にしか興味のないよいこのかたがたのためにねんのためご説明いたしますと、『満開の桜さんのお顔があんましきれいなんで、きおくれしたお月さまは、じぶんのお顔にソフト・フォーカスをかけて、ごまかしてるみたいだなあ』、そんないみの俳句ですね。
 まあ、それはそれとして――。
 まんまるおぼろのお月さまが、奥多摩の峰々や、多摩川の渓流沿いにひろがる広大な庭園や、とんでもねーりっぱな洋風のお屋敷を、もやのような蒼い光につつんでおります。
 そのお屋敷の、てっぺんに近い子供部屋――。
 やわらかな白いベッドの上で、なぜだかゆうこちゃんは、まよなかに、お目々をさましてしまいました。
 けしてねぐるしくはなく、そよそよと夜風もやさしい春の宵なのに、んでもって、ずいぶんたのしい夢をみていたよーな気もするのに、なんで、お目々がさめちゃったのかな――ゆうこちゃんは、ぽしょぽしょと、月影にうかぶ蒼白いお部屋を、みまわします。
 そのとき――ごん。
 ゆうこちゃんのおつむを、なにかが、ちょくげきします。
「くかー、くかー」
 あしもとから、くにこちゃんの健やかな寝息がきこえてきます。
 おつむをちょくげきしたのは、くにこちゃんの、つまさきだったのですね。なれないベッドで、いつのまにか、さかさまになってしまったみたいです。
 ゆうこちゃんがおもわずみじろぎしたからか、くにこちゃんは、ゆうこちゃんのかたあしを、がっしりと捕獲してしまいます。
「……がしがし……くかー」
 でも、いたいほどではありません。
「むにゃむにゃ」
 おなかのあたりから、たかちゃんの寝言もきこえます。
 ゆうこちゃんの白いふりふりぱじゃまを、いつのまにかまくりあげてしまい、ぽんぽんのあたりをふにふにとわしづかみながら、
「……らしゅかる」
 ゆうこちゃんのぽんぽんを、いったいなんだと思っているのでしょう。
 ――んふ。
 ゆうこちゃんは、ふたりをおこしてしまわないよう、そおっとあたまをひねって、ベッドの横のお窓から、お屋根の上をのぞいてみます。
 ゆらゆらとそよぐレースのカーテンのむこうで、あの白くておっきいおもちのようなのらねこさんが、お月さまといっしょに、まあるくなって眠っております。
 なぜだか、くまのパディントンも、ねこさんをまくらに、ちょこんと並んでいたりします。
 ねこさんのおなかが、のんびりふくらんだり、またそおっと縮んだりするたびに、くまさんのぬいぐるみもいっしょになって、すやすやと、寝息をたてているみたいです。
 ゆうこちゃんは、こころのなかで、そっとつぶやきます。

 ――おともだち。








  第一部 〜太陽がくれた季節〜



   第一章 レモンのエイジ


     1

 それは遠い遠い昔、無限に広がる大宇宙の、遙か彼方。
 とある銀河系の片隅に、青と白のだんだら模様で輝いている、ちっぽけな、でもなんだかとっても綺麗っぽい惑星がありました――。

    ★          ★

 あれ、ちょっと漢字が増えただけで、プロローグとまるっきりおんなしツカミじゃん。いよいよ台本書きのおっさんはマジ若年性アルツか――などと首をかしげていらっしゃる良い子のみなさん、はいはいはい、そんな心配はご無用ですよ。
 なんとなれば今回の時代設定は、前回からおおむね干支で一回り弱、つまり十一年程度しか経過しておりません。まあそれだけ間があれば、ひよこ組のちみっこたちもおおむね中学三年生になっていたりするわけですが、それはあくまで地球人類という、きわめて微視的な存在の変化にすぎません。悠久の大宇宙から見れば、無きに等しい変化です。ですから、お話の出だしが一語一句同じであるくらい、まったくノー・プロブレムです。
 また、初回からたかちゃんたちにおつきあいいただいている、ごく微量の無きに等しい良い子のみなさんの場合には、「考えてみりゃあ、このシリーズもいつのまにやら十作目なんだし、原稿用紙換算だと千三百枚越えてるし、出だしが一語一句同じくらいは勘弁してやらんとなあ」――そんな優しく生暖かい態度で接していただくのも、すばらしい事ですね。
 さらに、これから始まる物語が過去のアイデアやプロットを多少いじくっただけの使い回しであったり、極端な話、まるっきり同じ会話やストーリー展開などが見られた場合でも、「考えてみりゃあ、落語家なんか百年も前に他人の作った同じ話を、よってたかって毎日やってんだもんなあ」――そんな冷静な分析を下すのが、正しい観客《どくしゃ》の姿勢とゆーものです。

    ★          ★

 んでもって、あれから、なんかいろいろあったのち――。
 やっぱり満開の桜並木が、多摩川上流の両岸を、ふわふわちらちらと縁取っております。
 そして、それを見下ろす高台の上には、古色蒼然とした、でも一応鉄筋の校舎――青梅市立××中学校が、「激動の昭和史を懸命に乗り越えてまいりました」「でも平成の今は棺桶に片脚つっこんだ耄碌爺いです」、そんな風情で佇んでおります。
 入学式も昨日無事に終わり、本日午後の部『新入生歓迎会』を控え、その準備に余念のない先生やら生徒会やら、期待と不安に胸を膨らませている新入生たちやら、すでにシラけてフケようとしているかわいくねーガキどもやら、お昼休みの校舎は、いつもよりなんかいろいろ浮き足だっております。
 さて、そんな微妙な喧噪が階上階下から流れてくる、階段の踊り場で――。
「……やっぱり、やめようよう」
 窓の木漏れ日が揺れる中、ほの白い瓜実顔の小柄な少女が、仲間二人の袖を引いております。
「歓迎会で、クラブ紹介もあるんだし……」
 雅やかに波打つ栗色の髪、そして清楚なジャンスカも折り目正しく、いかにも『制服の処女』といった古典的表現がぴったりの、正統派美少女です。一見そっけない白いヘアバンドは、良く見ればとんでもねー複雑華麗な刺繍を施された、超高級舶来品だったりもします。
「そんな悠長なことでは、らちがあかない」
 身長一七〇を超すかと思われる柔道着姿の屈強な女子が、美少女を無視して、階下の一年棟を窺います。
「こーゆーのは、最初のインパクトが物を言うのだ。歓迎会なんて、校長や生徒会の見てるとこじゃ、なんにもできない。ぼやぼやしてたら、サッカーだのテニスだの、見てくれ系に人材を取られてしまう」
 その隣の、チアリーダー衣装にツインテールといういかにも萌え線狙いの少女も、引かれる袖を無視して、階下を窺います。
「そーそー。落研とか、YOSIMOTO愛好会とか」
 今のところ中肉中背ながら、そこそこのナイス・バディーを予感させるのは、母方の遺伝でしょうか。でも顔面造作は、微妙に昭和レトロ系だったりします。しかし、チアリーダー衣装と落語や漫才の、いったいどこが競合するというのでしょう。少女が手にしているアイテムが、ボンボンやバトンではなく、なぜか和傘と一升枡――そのあたりに秘密があるのでしょうか。
「でも、でも……事前勧誘、禁止だし」
 なお逡巡する美少女に、柔道着とツインテールが反論します。
「おまいの朗読愛好会だって、楽じゃないだろう。近頃は、字を読まない奴らばっかしだ。ろくにお経も読めやしない」
 普通、中学生はお経を読めなくとも、無問題ですけどね。
「こくこく。漫研とかアニ研とかばっかし、大入り」
 それに関しては、他人をどうこう言える彼女でもないんですけどね。
「……よし、先生が消えた。今だ!」
「むーむーむーむー!」
「あうあうあうあう」
 ずりずりずりずり。


     2

「やっほー! いっちばーん! チアリーディングクラブ部長、三年B組、片桐さんちの貴ちゃん! おめでとーございます! みんなの入学を祝って、×中名物太神楽《だいかぐら》! よっ! はっ! ほっ! はいはい、おめでとーございまーす!」
 制服姿も初々しい新入生たちは、ただ呆然と、硬直します。
 それはそうですね。
 中学校とゆー所は小学校に比べてずいぶん大人の世界だとは聞いておりましたが、いきなしチアリーダーが教室に乱入し、あまつさえ海老一染之助さんばりの伝統演芸――あの和傘の上で枡や土瓶を転がす太神楽を繰り広げはじめようとは、想像だにしておりません。
「よっ! はっ! ほっ! いつもより余計に回しておりまーす!」
 氷のような沈黙が、あたりを支配します。
「……ありゃ」
 は、はずしてしまった――。
 しかし、足かけ十五年に渡りひたすらボケの道に生きてきた貴ちゃんは、その程度のハズシではめげません。
「……ほい」
「んむ」
 お隣で待機していた邦子ちゃんに、和傘と一升枡を預けると、
「すちゃ」
 隠し持っていた予備アイテム――なんじゃやら一尺ほどの、竹でできた簾《すだれ》のようなものを取り出し、
「♪ あ、さて、あ、さて、さてさてさてさて、さては南京玉簾っ! ちょいと伸ばせば、ちょいと伸ばせば、浦島太郎さんの、魚釣竿にさも似たりっ!」
 びよよよよ〜ん――特殊なズレ構造を備えた簾が、伸縮自在に変形します。
「♪ ちょいとひねれば、ちょいと、ひねれば、日米国旗に早変わり。日米国旗が、日米国旗が、お目に止まれば、枝垂れ柳と早変わりっ!」
 びよよん、びよよん、びよよよん――。
 F級冷蔵倉庫のごときマイナス二十度以下の寒気が、教室を満たします。
「…………」
「…………」
 こ、ここまでハズしてしまうと、もはや、早急にオチをキメるしかない――貴ちゃんは、覚悟を決めます。
「…………およびでない?」
 あ、このセリフは――新入生たちの目に、やや活気が戻り、マイナス二十度以下の寒気にも微妙な対流が生じます。
「……およびで、ない」
 さすがに、昭和のお笑い界を席巻したこのフレーズとなると、種々の追想番組や、各種メディアでの再評価により、当節の新入生でもリアクション可能なのですね。
「――こりゃまった失礼いたしましたぁ!」
 新入生たちは、やけくそになってコケます。
 はらほろひれはれはらほろひれはれ――。
 そう、芸という世界は、芸人そのものの技量だけでなく、その場の空気という共通認識に、多く依存するものなのですね。
 よ、ようやくきまった……。ああ、天国の植木等先生。この御恩は、不肖・片桐貴子、一生忘れません――。
 すでに当所の目的を忘れ感涙に咽ぶ貴ちゃんの肩を、邦子ちゃんがぽんぽんと叩きます。
 優子ちゃんも、うるうると背中にすがります。
 零下の教室からふたたび常温の教室に戻れた新入生たちも、はらほろひれはれの体勢から復帰し、なんだかよくわからないけどもとにかくよかったよかったと、謎のおねいさんの健闘に、拍手を送ります。
 ――これこのように、いくつになっても天然ボケの域を出ない貴ちゃんではありますが、念のため。仮にも××中学チアリーディングクラブの部長を張るくらいですから、けして無能ではありません。
 これ以降の年間活動を通じて、新入生たちにもおいおい解ってくることなのですが、たとえば一昨年、万年予選落ち専門だった××中学野球部が奇跡的に関東大会出場を果たしたのは、貴ちゃんの芸人魂、もといボケ力に染まったチアリーダー全員が、揃って太神楽による応援合戦を繰り広げたからでもあります。また昨年、万年最下位のジンクスに泣いていたサッカー部が地区大会で優勝できたのは、他ならぬ南京玉簾歌劇団による助力あってのことなのです。
 何故そのような快挙が可能であったか――皆さん、よっくと、想像してみてくださいね。
 一般に、実力のある学校のレギュラー野球部員やサッカー部員は、とっても女子にもてます。バレンタインデーにはチョコの嵐が吹き荒れますし、また、ナイス・バディーなチアリーダーたちが先を争ってアンダースコートを見せまくるような環境にも慣れきっております。つまり、女子という存在を、どーしても己の好みに従属するものとして捉えがちです。
 しかし、そうしたステロタイプな声援環境に慣れきっていればこそ、対戦校の応援席で、ずらりと並んだ女子たちがボンボンならぬ番傘振りかざして一升枡や土瓶をくるくるといつもより余計に回す、あるいはバトンならぬ南京玉簾を一糸乱れず浦島太郎さんの魚釣竿だの大分名物関サバ関アジだのナポレオンはポナパルトの帽子だの阿弥陀如来か釈迦牟尼かだのに巧みに変形させる――そんな超シュールな光景を見せられて、精神的に動揺しない少年が、この世にどれだけ存在するでしょう。まあ極端な動揺までには至らないにしても、摂氏0度程度には脱力するのが、人情というものではないでしょうか。
 一方、××中学の非力でもてない部員たちは、当然ながら、女子というものに過大な期待や固定観念を抱いておりません。むしろボケたらツッコむもの、あるいはハズシ芸に脱力しながら頬笑んでやるもの、そんな『貴ちゃん的環境』に慣れきっております。ですから現在、貴ちゃんが密かに企画中の『チアリーダー全員で繰り広げる美空ひばり先生の不死鳥コンサート再現』によって、水を得た魚のように全国大会まで勝ち進む、そんな可能性すら、けして夢ではないのです。
 まあ、そうした貴ちゃんの偉大さが、ようやくはらほろひれはれ段階にステップアップしただけの新入生たちにどこまで伝わったかは少々疑問なので、
「おまいら、この貴子は一見馬鹿のよーだが、けして、只者ではない」
 邦子ちゃんが、本来の目的のために、情報補填してあげます。
「とうっ!!」
 だしぬけに貴ちゃんの襟を取り、渾身の力をこめて、必殺技を仕掛けます。
 伝説の『山嵐』――対戦相手の首を折る危険があるため、柔道界の禁じ手として大正八年に封印された殺人技――貴ちゃんは一瞬にして宙に逆さ吊り状態となり、そのまま顔面から床を直撃しそうになりますが、
「くるりんぱ!」
 瞬時、巧みに宙で反転し、
「たしっ!」
 あたかもセーラームーンのごとく流麗に、しかしチアリーダー姿の女子中学生としては極限まではしたないスパイダーマン状のポージングで、見事に着地します。
 ――おう!
 ……ほう。
 満場の新入生たちから、感嘆や吐息が漏れます。
「これこのよーに、貴子の傘下に入ると、なんだかよくわからないが、とてもすごい」
「ぶいぶい!」
 最終的には、なんとか一部の物好きな女子たちの心をつかめたようです。
「んでもって、男の子は、応援団もよろしく! いつもいっしょに練習してるよ!」
 すこーんと抜けた貴ちゃんの笑顔に、一部の物好きな男子たちも、かなり心を動かされたようです。
 応援団に入れば、このハジけたおねいさんの身も蓋もない大開脚や、パンツのお尻のラスカルが、毎日のよーに拝めるかもしんない――。

    ★          ★

「うっす! 二番、柔道部主将、同じく三年B組、長岡だあ!」
 凛々しいショートカットの下に輝く澄んだ瞳、白光を発さんばかりの健康な歯並び――邦子ちゃんの開口一番、新入生の間から、「ほう」やら「はあ」やら、様々なニュアンスの感嘆と吐息が漏れます。
 このおねいさんが、あの長岡邦子さん――伝説の、柔《YAWARA》にあらず、『鉄の女』。
 すでにその名は、青梅一帯のみならず、全国レベルで広まりつつあるのですね。
 邦子ちゃんは、や、や、や、と手を振って、とりあえずその場を静め、
「――このガッコには、おととしまで、男子柔道部しかなかった。しかたがないんで、俺は、こっそり男子を投げて修行した。んでも、それだと、他校試合や中体連に出れない。しかたがないんで、俺が女子柔道部を作った。んで去年、全国大会で団体ベスト8、んでもって個人優勝、ま、そんなとこだ」
 そのあたりの経緯も、すでに周知の事実となっておりますので、教室中が拍手喝采に満たされます。
「そんなわけで、今は男子部のほうも、俺が束ねている。今年中に、そっちも地区優勝まで鍛え上げるのが、俺の夢なのだ。んだから、おまいらが入部すると、男でも、俺が毎日直接稽古をつけてやる」
 新入生の男子たちに、微妙なざわめきが広がります。
 この男役タカラジェンヌのごとき凛々しく美しいおねいさんと、毎日思うさまくんずほぐれつできる――しかしそれは、嬉しいのだろーか、それとも怖いのだろーか。
「だいじょぶだ。初めはちょっと痛いかもしんないが、慣れれば、とても気持ちいい」
 邦子ちゃんとしては、あくまで受け身の上達や投げる側に回ったときの快感、そんな感じでフォローしたつもりなのですが、実際は主にM系男子新入生たちの心が、かなり動きます。
「んで、女が入ってくれた場合、これは特典がてんこもりだ。まず、一年で黒帯は固い。どんな弱っちい女でも、まじめにやる気さえあれば、俺が責任をもって、そこまで指導する」
 もともとその気のある新入生女子は、覚悟を決めます。
「あと、これは、ここだけの話だが――バスや電車の中で痴漢に遭ったとき、ついうっかり、相手の手首をへし折る技を教える」
 どーしよーかな、と迷っていた一部の女子も、心を動かします。
「あと、これは、絶対ないしょだが――夜道とか、車ん中に連れ込まれて押し倒されそうになったとき、ついうっかり正当防衛で、五人まではカ●ワにする技なんか、もしか、あるかもしんない」
 そこまで来るとフカシなのではないか――新入生女子たちの顔に、そんな猜疑心が浮かびます。「でもでも」「ナイフなんか持ってたら」などと、さえずる声も聞こえます。
 邦子ちゃんは慌てず騒がず、
「大丈夫だ。ナイフもスタンガンも、受け方とゆーものがあるのだ。もちろん、こっちも、ちょっとは血を流す。腕に縫い傷や火傷が残るくらいは仕方がない。んでも、心に見えない傷を負うよりは百万倍ましだ。んでもって――そのあとは、もー誰が何を言おうと、正当防衛だからな」
 にんまし、と邪悪な微笑みを浮かべ、
「……皆●しにする技が、あるかもしんない」

    ★          ★

 思いがけないスペシャル・イベントに、めいっぱい盛り上がってしまった新入生たちは、邦子ちゃんがのっしのっしと脇に退いた後も、わくわくと教壇を見つめ続けております。
 ――さっきから一番端っこでもじもじとうつむいている、あの一見普通っぽいおねいさんは、一体どんな芸を秘めているのだろう。
 三人で登場し、あえてトリを務めるくらいですから、これはもー大真打ちクラスに違いありません。
 わくわく、わくわく。
 もじもじ、もじもじ。
「ほれ、優子、おまいの番だ」
「…………こく」
 おずおずと教卓の前に進み、しばしうつむいたまんま、胸の前で組んだ指をもじもじともじもじしたのち、ちら、などと上目遣いにちょっとだけ顔を上げて、
「…………ぽ」
 またあわてて顔を伏せるその仕草に、早くも教室のあちこちから、異様な『疼き』の気配が立ち昇ります。音に例えれば、『ぎゅうぅぅぅぅぅん』といったところでしょうか。主に、姉萌え系思春期を迎えた新入男子たちの、胸の疼きです。
 ああ、この儚げな年上の女性《ひと》は、ボクが若い命を賭して守ってあげなければ――。
「ええい、じれったい。きちんと、みんなの目を見て話すのだ」
 痺れをきらした邦子ちゃんが、ぱん、と優子ちゃんの背中を叩きます。
 覚悟を決めた優子ちゃんは、ようやく顔を上げます。
「あの、あの、朗読愛好会『ことのは』の、三浦優子です。あの、あの、やっぱり三年B組で……」
 波打つ栗色の髪に映える、抜けるような白い肌。そして『可憐』と『華麗』をないまぜにしたような神秘的面立ち――あたかもルノアールの名画『小さなイレーヌ』が、その無垢を保ったまま十四歳の春を迎えたがごときその佇まいに、ある種の新入女子たちの顔が、精神的発光現象を生じます。音に例えれば、『ぱあぁぁぁぁぁぁ』といったところでしょうか。
 ああ、このお姉様こそ、ワタシがお仕えするべき聖母様――。
「……小さな愛好会なので、あの、貴ちゃんや邦子ちゃん、ごめんなさい、片桐さんや長岡さんみたいな、大きな事はしていません。お話――童話や小説が好きな人で、『読み聞かせ』が好きな人で、そんなお友達が集まって、放課後毎日、練習してます。それで、あの、えと、土曜日や日曜とかに、児童会館で朗読会とか紙芝居とか、それから養護施設とか、老人ホームとか、あと、あの、その、聞いてくれる人には、目の不自由な人たちも多いので、去年、点字器を買って、点字訳も始めてて……」
 横で聞いていた邦子ちゃんと貴ちゃんは、それだとあんまし話が地味だと思ったのか、
「そればっかしじゃないぞ。こいつん家で練習すると、んまい舶来の菓子が、腹一杯食えるのだ」
「そーそー。んでもって、夏の林間学校なんか、もー百物語とか、ホントにあった怖い話の王者! もー稲川先生級!」
 まあ、そんな余録を付けなくとも、すでに充分な勧誘効果はあったんですけどね。
 それどころか、現在の状況で優子ちゃんが発した言霊でさえあれば、「会員はすべてイエス様のお教えに従い、函館のトラピスチヌ修道院に駆けこんで尼になります」とか、あるいは「会員からはお小遣いの全額を徴収し毎日夜間バイトに強制派遣しその給料も全額徴収し、歳末に一円残らず救世軍の社会鍋に投入します」とか、ちょっと方向を変えて「会員は日夜泥水を啜り土を食みながらご町内のドブさらいをしたり虚飾に溺れた非国民どもを制裁したりして、ガダルカナルに散った英霊たちの辛苦を偲びます!」などと街宣車で触れ回るとか、さらにキレて「昨夜、天草四郎様の御言葉が降りたので、会員はすべて夏休みになったら島原に向けて旅立ちますが、その前にちょっと、みんなで魔界転生しておかなければなりません!!」とか絶叫したとしても、入会希望者の二人や三人、確実に集まったでしょうけれど。


     3

 さて、昼休みいっぱいをそんな大騒ぎに費やし、でも午後からの公式歓迎会ではちゃっかりトーンを落として、校長先生や生徒会に睨まれて部費を削られないよう気を遣ったり、それなりの精神的成長を遂げた貴ちゃんたちは、あいかわらずのどかな世界の果て青梅の旧街道を、きゃぴきゃぴと家路に就きます。
「いやー、しかし、早い早い。いつのまにやら、もう三年だもんなあ」
「こくこく」
「この分だと、来週あたり、夏休みだな。もう先輩もいないし、いよいよ俺たちの夏だぞ」
「そーそー。天下の夏休み。んでもって、来月あたり冬休み」
 優子ちゃんも、くすくす笑いながらうなずきます。
 おいおい、中間や期末はどーすんねん、だいたい来年は受験だろう、おい――そんなツッコミを入れるほど、優子ちゃんも野暮ではありません。
 ちなみに邦子ちゃんの場合、家の経済状態だけ見れば選択肢は公立オンリーですが、あちこちの名門私立高校――ほとんど柔道限定の名門――から優待生の口がかかっております。成績だってけして悪くはありません。昔からお経や仏教書おたくなので、特に文系は自信アリです。
 一方貴ちゃんは、そのなんかいろいろ変わった出自によるものか、文系のように微妙で繊細でアバウトな分野はちょっとパスですが、本質的に直観が物を言う理系っぽい分野では、そこそこの力量を発揮します。また、将来はYOSIMOTOっぽいうるとら関係――史上初のお笑い系巨大ヒロインを夢見ておりますので、高校は荒れてなきゃどこでもOK、そんな感じです。
 そして優子ちゃんは、ご想像のとおり、根っからのコツコツ型――何事も几帳面に考え感じ知り想い尽くすタイプですので、成績も人望も、常にトップ・クラスです。これで体力さえそこそこあれば、間違いなくいいんちょタイプでしょう。
 でも、何かと心配性な優子ちゃんですから、そうした学力や進路とは別の意味で、邦子ちゃんの言う『俺たちの夏』の果てに待っているものを想い、ふと、お顔を曇らせます。
 ……卒業。
 そう、幼稚園の頃からずっといっしょだった三人組にも、やがては岐路が訪れます。
 三浦財閥の子弟は、本来、幼稚園から学習院に通うのが、いわゆる家系の伝統です。それが優子ちゃんに限り、地元の幼稚園や公立小中学校に通うのを許されたのは、生来の虚弱体質が実家や主治医を離れた生活に耐えられるかどうか、そして、うっかりすると引きこもりかねないほど気弱な性格を支えてくれているのが、肉親と同程度、いやそれ以上に、片桐さんちの娘さんや長岡さんちの娘さんなのではないか――そんな判断を、ご両親も、事実上の乳母の恵子さんも、そして主治医さんも下していたからです。
 そうして小中となんかいろいろ騒々しく過ごすうち、優子ちゃんは体育の時間でも半分は授業に参加できるほどに育ちましたし、また中学校での愛好会活動を通して、精神的にも、責任者が務まるほどに成長できました。
 ならば、義務教育の終了を機に、本来の三浦家コースへ――誰の悪意でも無理強いでもなく、貴ちゃんや邦子ちゃんも、そうなるんだろうなあ、と、一抹の寂しさと共に予感しておりますし、何より優子ちゃん自身が、そうあるべきだと悟っております。
 でも、しかし――。
 ――私は、ほんとうは何がしたいのだろう。ほんとうは、誰と、どこに行きたいのだろう。
 いつもに輪をかけて言葉少ない優子ちゃんに、
「なんだ、優子、元気がないな」
 邦子ちゃんが訊ねます。
「今日はいちんち忙しかったからなあ。疲れたか? おぶってやるか?」
 もちろんそれは冗談で、小学校の高学年になってからは、一度もおぶってもらったことはありません。
 でも優子ちゃんは、気分が気分だっただけにとても嬉しくて、
「ううん、平気。ちょっと息切れしただけ」
 百合の蕾のように笑います。
「疲れたときは、甘い物が一番だ。なんか、食ってこう」
 貴ちゃんが、はいはいはいはい、と手を上げまくります。
「うちに行こ! 苺ミルフィーユ! おととい作ったの、まだいっぱい残ってる」
 嗜好が昂じて、近頃は自作しているのですね。
 優子ちゃんが、花開く百合のように頬笑んだ、そのとき――
 どくん!
 優子ちゃんの胸の中で、突然、何かが膨れあがります。
「……?」
 優子ちゃんは自分の制服の胸を、不思議そうに見下ろします。
 そしてまた――どくん!!
 胸の中で脹らみきった何か、いえ、心臓そのものが、まるでそれが最後のあがきとでも言うように、抑制を失って――
「……どした、優子? また貧血か? 久しぶりだな」
 しかし、立ちすくんだ優子ちゃんの白い顔は、みるみる赤黒く鬱血していきます。たまにある貧血の色とはまったく違った、逆の色に――。
 くたくたとくずおれる優子ちゃんを抱きとめ、
「どした! おい、どうした、優子!」
 がくがくと揺する邦子ちゃんの腕の中で、赤く染まった優子ちゃんの顔が、また、潮が引くように色を失います。
 白から――蒼へ。
「優子ちゃん!! 優子ちゃん!!」
 叫びながらすがりつき、ふと、その胸に頬を当てた貴ちゃんは、
「…………ど、どーしよ、邦子ちゃん」
 おろおろと、邦子ちゃんを見上げます。
「……息、してないよ、優子ちゃん」
 異様なほど大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら、
「心臓……止まっちゃってるよう!」
 邦子ちゃんは巌《いわお》のように眉根を引き締め、瞬時、周囲に目を走らせます。
 鄙びた街道筋には、買い物に向かうらしい小母さんやお婆さんの姿がありますが、あらあらあの子たちどうしたのかしら、そんな視線で戸惑っているばかりです。車もけっこう通り過ぎますが、土地鑑のないトラックなど停めても仕方がありません。小さい頃には常に物陰に潜んで優子ちゃんを警護していたSPさんたちなども、さすがに近頃は非常勤です。
 使えそうな大人なし、医院の看板なし、緊急車両に使えそうな車影なし――邦子ちゃんはそれらのことを一瞬に把握すると、
「貴子、携帯! 救急車! 119番!!」
 それだけ叫びながら、優子ちゃんを舗道に横たえ、躊躇なく救命活動――気道確保に移ります。さすがに幼稚園児の頃とは違い、なんかいろいろ修行を積んだ邦子ちゃんは、過酷な武道の主将として、また武闘派仏教徒として、『シメ方』と共に『蘇生法』も熟知しております。
 片手の人差し指と中指で、優子ちゃんのつんとした下顎を支え、もう片手で子猫のようなおでこを押し下げる――結果的に上顎が上がり、優子ちゃんのお口と気道が開きます。幸い、舌は喉に落ち込んでおらず、吐瀉物や粘液も見当たりません。
 即座に口を合わせ、人工呼吸を始める邦子ちゃん――。
 ――落ち着け、俺! だいじょぶだ、優子! 息なんぞ止まっても、二分以内にきっちり心肺蘇生できれば、九割がた助かるのだ! 俺のお師匠さんがそー言ってたんだから、きっと助かるのだ!
 いったい何が起こってしまったのか――そんな困惑に拘泥することは、戦場でもないこの平和な路上において、二の次三の次です。反射的にどう行動するべきか、それが勝負なのです。
 一方貴ちゃんも、あいかわらずぽろぽろと涙を垂れ流しながらではありますが、「えーとえーと三丁目の神社の角のポストんとこだよう!」とか「急にしんぞー止まっちゃったの優子ちゃんのしんぞーなの息してないの止まっちゃったの」とか「えーとえーとえーとぜろきゅーぜろにーななさんよんの×△○□だよう早く早く早くすぐ来て今来て早く来てえ!」などと、必要事項だけはなんとか伝えております。
 何度か人工呼吸を繰り返し、しかしそれでも脈が戻らないと悟った邦子ちゃんは、
「くぬやろおぉ!!」
 誰にともなく絶叫します。
 ――三分で七割五分!
 生存率は秒単位で減少します。一刻の猶予もありません。
「優子、悪《わり》ぃ!」
 べりべりべりと、胸の制服もインナーもいっきに引き裂いて、心臓マッサージに移ります。
 胸骨圧迫による心臓マッサージ――百戦錬磨の邦子ちゃんにとっても、それは初めての『実践』です。
 お年頃にしてはまだつつましすぎるほど薄い優子ちゃんの白い胸を前に、邦子ちゃんは一瞬躊躇しますが――すぐさま覚悟を決め、圧迫部位を探り当て、がしがしと圧迫を開始します。
 通常の大人が施すのであれば、たとえ優子ちゃんの肋骨が折れてでも、心機能再開優先です。しかしさすがに邦子ちゃんの怪力はハンパではないので、それでは幼稚園のときの、あの悪夢の再現になってしまいます。微妙に手加減しなければなりません。 
 がしがしとリズミカルに力をこめながら、邦子ちゃんは、いきなし『アンパンマンのマーチ』を歌い出します。
「♪ そっおっだ〜! うれしいんだ〜 生〜きるっよっろっこっび〜 たっとっえ〜 胸の傷がい〜たんでも〜! ♪」
 これは、けして錯乱したわけではありません。心臓マッサージに適した、一分に八十〜百回というペースの胸骨圧迫を繰り返すには、ちょうどいいリズムなのですね。
「♪ なんのためっにっう〜まれて〜 な〜にをし〜て〜 生きるのか〜 こたえられっなっい〜なんて〜 そ〜んなのっは〜 いっやっだ〜! ♪」
 ちなみに邦子ちゃんのお師匠さんであるあの老僧が、遙か昔に僧兵の修行をした頃は、「♪ むーらっの 鎮守っの か〜みさっまの〜 ♪」「♪ どんどんひゃらら〜 どんひゃらら〜 ♪」だったとのことです。文部省唱歌『村祭り』のリズムですね。
 力業を三十回ほど繰り返し、すばやく人工呼吸を二回、さらに休む間もなく力業の再開――数秒の中断も許されない果てしない作業に、邦子ちゃんの額から、玉のような汗がぽたぽたと優子ちゃんの胸に滴り落ちます。
 貴ちゃんも懸命に涙をこらえ、邦子ちゃんによりそってその汗をハンカチで拭ってあげながら、いっしょにアンパンマンのマーチを歌います。
「♪ 今をっ 生きるっ こっとっで〜! 熱いっ こころっ 燃っえっる〜! だからっ 君はっ いっくっんっだっ ほっほっえんで〜!」
 ――四分で五分五分! 
 永遠と思われるような四分が過ぎ、しかし救急車のサイレンはまだ気配もなく、ただ満身の力と心で祈り続ける二人の少女を、小母さんやお婆さんたちがはらはらと見守るばかりで、
 ――五分で……二割五分。
「こなくそおっ!!」
 さすがに邦子ちゃんの顔には、焦燥が浮かびます。それに本気の心臓マッサージというものは、一度皆さんもやってみれば解りますが、どんな屈強な人間にとってもハンパな肉体労働ではありません。
 貴ちゃんは代わってあげられない己の非力さを噛みしめながら、息が切れてきた邦子ちゃんの歌声だけでもリズムに乗せてあげようと、釈迦力で歌い続けます。

  ♪――なにが君の しあわせ なにをして よろこぶ
     わからないまま おわる そんなのは いやだ
     忘れないで 夢を こぼさないで 涙
     だから 君は とぶんだ どこまでも――♪

 やがてようやく、サイレンの音が遠く響いてきた頃、
「うおっしゃあ!!」
 邦子ちゃんが、声と表情だけでガッツ・ポーズを作ります。
「貴子、脈を診てくれ!」
 自発的な心拍を微妙に感じ取れたとしても、まだまだ予断は許されません。
「…………生きてる! 動いてるよう!」
 今までとは別の涙を散らしながら、思わず邦子ちゃんにしがみつく貴ちゃんを、邦子ちゃんは全身の律動を保ったまま、頭を振って制します。
「まだだ。生きかえったんだか無理矢理動かしてんだか、まだわからん」
 そう言いながらも、声が弾んでおります。
「とにかく脳味噌に血が回った」
 脳死さえ免れれば――あくまで二割程度の生存確率を残しただけとは知りつつ、愛する者の生命をこの世に繋ぎ止めた喜びに昂揚しながら、救急救命士による二次救命処置が始まるまで、ひたすら頑張り続ける邦子ちゃんでした。
 そして、
「♪ 時は はやく すっぎっる〜 光る星は 消っえっる〜 だから 君は いっくっんっだっ ほほえんで〜 ♪」
 ありゃ、ちょっと縁起が悪いかなあと思いつつ、元気に歌い続ける貴ちゃんでした。


     4

 三浦家御用達の総合病院は、青梅市街よりもやや多摩川を下った、高台の上にそびえております。立地だけなら上流の××中学と似かよっておりますが、事実上三浦財閥傘下の医療法人ですから、外観や中身は、長岡履物店と三浦邸ほどの開きがあります。
 すでに春の陽も落ちた待合室――。
 外来診療も終わり、お見舞い関係などわずかな人々を残すばかりの待合室に、貴ちゃんと邦子ちゃんは、押し黙って座り、ただ粛然と吉報を願っております。
 ふだんならかしましすぎるほどの二人ですが、待つ身に募る不安を紛らわすための会話などは、とうに出尽くしてしまったのですね。
 やがて、優子ちゃんの主治医さんが、救急救命室のほうから現れます。
 貴ちゃんたちが初めて会った頃は、優しさと情熱をバランス良く備えた青年小児科医、そんな感じだった主治医さんも、今は白髪交じりで恰幅の良い、熟練壮年医師になっております。
 顔見知りの女子中学生コンビ、いえ、トリオの残りを見つけ、や、と手を上げたその表情は――笑顔でした。
 貴ちゃんと邦子ちゃんは、たちまち顔を輝かせ、無言のままがしっと腕を組みます。
 主治医さんは、消耗の果ての充実感に満ちた微笑を浮かべながら、
「本当に君たちが、あの子の一次救命をしてくれたのかね?」
 貴ちゃんはふるふると頭を振って、邦子ちゃんの手を高々と差し上げます。
「こっちこっち。あたしは応援してただけ」
 邦子ちゃんは照れまくりながら、
「いやあ、その応援が効いたのだ。あーゆーのは、なんと言っても気合いの問題だからな」
 主治医さんは、あながちお世辞でもない口調で、
「君たちは将来、医者か救命士になる気はないかな?」
 邦子ちゃんは、大真面目に辞退します。
「俺は、だめだ。そーゆーのは、数学とか理科がいるだろう? あれはだめだ。脳味噌が目を回す。俺は将来、金メダル二・三個集めたら、あとは出家するのだ。貴子のほうが向いてるんじゃないか?」
「あたしも、だめ。YOSIMOTOに行くの」
 主治医さんはことことと頬笑みながら、
「あそこは、修業時代はずいぶん貧乏するらしいよ」
「だから、科特隊でバイトするの」
 主治医さんは、なあるほど、とうなずきます。本当に旧知の仲なのですね。
「で、優子はもう起きたのか?」
「お見舞い、お見舞い!」
 主治医さんは真顔に戻り、
「残念ながら、まだちょっと。……呼吸器も当分は外せないだろうなあ。これから精密検査に入るし……すまん、当分は面会謝絶だ」
「むー」
 貴ちゃんは、フグになります。まあお年頃の乙女ですから、さすがに昔のような完璧提灯フグにはなりませんが、それでもかなりふくれます。
 主治医さんは、優しくその肩を叩きながら、
「本当なら永遠に会えなくなるところを、君たちが助けてあげたんだ。少しくらい待ってあげても、永遠に比べれば、ほんの一時《ひととき》さ」
「……こくこく」
 うなずきながらも、貴ちゃんはまだご機嫌斜めのようですが、邦子ちゃんは納得の表情です。
 そのとき正面玄関の方から、
「松井先生!」
 うっかり大声を出しかけ、慌てて周囲に頭を下げながら足早にやって来た礼服姿は、優子ちゃんのお父さんでした。慇懃な態度でも、どこか周囲を威圧するような風格は、さすがに三浦財閥次期当主と噂される器です。その隣には、お上品を絵に描いたような和服姿のお母さんもいっしょです。今日は夫婦そろって都内の某政党関係のセレモニーに出席していたため、到着が遅れてしまったのですね。
「ちょっと御免」
 そう言い残して、主治医さんはそちらに合流します。
 残された貴ちゃんたちを手で示したりしながら、三人でしばらく会話を交わすと、ご両親はすぐにこちらに飛んできて、貴ちゃんと邦子ちゃんを代わる代わる抱きしめながら、涙ながらに感謝の言葉を繰り返します。
 自分たちの両親よりもずいぶん年嵩で、お父さんに至っては初老と言ってもいい年配なのに、心底腰の低い感謝っぷりなものですから、貴ちゃんたちとしては、嬉しいよりもなんだかくすぐったくていたたまれないような気分になったりします。財界の巨頭もまた人の親――そんな感じでしょうか。
 やがて主治医さんとご両親は、揃って奥に向かいます。
 私たちもいっしょに行っちゃいけないのかなあ――ちょっと残念な気分で見送っておりますと、お父さんがまたぱたぱたと戻って来て、
「優子の目が覚めたら、すぐに知らせるよ。その時は、どうかすぐに来てやっておくれ」
 力いっぱいうなずく二人に、涙目でぺこぺこと頭を下げながら、またぱたぱたと去って行きます。
 残された二人は、無言のままでしばらく佇んだのち、
「……じゃ、行くか」
「……うん」
 病院前のロータリーを抜けて、多摩川に下り、夜桜の遊歩道を家路に就きます。
「あ、そーだ。――ぽちぽち、しとこ」
 ぽちぽちとママに帰宅メールを打つ貴ちゃんの横で、邦子ちゃんがつぶやきます。
「……あの親父さんは、よっぽど可愛いんだなあ、優子のこと」
 ちなみに邦子ちゃんは、携帯を持っておりません。それは必ずしも経済的な理由ばかりでなく、馬鹿としゃべったりクソなメールが来たりしてムカついても、相手をすぐにぶん殴れないからです。ですから邦子ちゃんは、いまだに普通電話も苦手です。
「ぽちぽち――ぽち、と。――うん。もう、べたべただね」
「もしか、倒れたのが俺らだったら、俺らの親父、あすこまで泣くかなあ」
 ママのほうは当然さめざめと泣いてくれるとして――貴ちゃんは、パパのぶよんとしてしまりのない顔を思い浮かべ、
「もっと、べっしょべしょに、泣きそう」
「……いいなあ、貴子んちは。俺んちの親父なんか、きっと、口をへの字にして、むっつり腕組んだまんまだぞ。昔、婆さんがぶっ倒れた時も、そんな顔だったからなあ。ナイターで巨人がヘボな時と、あんまし変わらんのだ」
「でもきっと、ひとりんときに、こっそり滝涙。おトイレの中とか。邦子ちゃんのパパは、そーゆータイプだもん」
「だといいんだが――倒れるほうは、それじゃつまらんわなあ。なんだか、張り合いがなくて」
 ふたり並んでほとほとと、桜ごしの朧月といっしょに歩きながら、こんどは貴ちゃんがつぶやきます。
「……会いたかったね、優子ちゃんに。まだ寝ててもいいから」
「んむ。――でもまあ、俺たちは親でも姉妹《きょうだい》でもないんだから、しかたがない。んでも、俺もおまいも、気持ちでは負けてないからな」
「……朝には目が覚めるかなあ、優子ちゃん」
 邦子ちゃんの歩調が、なにげに乱れます。
「すぐ覚める――と言いたいところだが――貴子、俺はガッコや世間では嘘つきまくっても、身内やおまいらには、嘘をつかない主義だ」
「?」
「俺のお師匠さんが若い頃、高野山で修行をしていたときの話だ。お師匠さんは今は表でも偉くなってるが、昔は裏で修行した。表の学問坊主や商売坊主と違って、モノホンの如来や明王には、理屈だけじゃ通じない。もともとあっち側の奴らだからな。んだから、修行もハンパなキツさじゃなかった。飯もろくに食わないで、真冬に滝に打たれてて、とうとうある日、心臓が止まったそうだ」
「……こく」
「仲間の坊さんが介抱してくれたんで――俺が今日やったみたくな――ほんの五・六分で、脈だけは戻った」
「こくこく」
「んでも、麓の病院で目を覚ましたときには、もう夏になってたそーだ」
「……そーなの?」
「そーなのだ」
「…………やだ」
 優子ちゃんが眠り姫状態に――あいかわらず想像力だけは豊かな貴ちゃんですので、早くもうるうるしてしまいます。
 邦子ちゃんは、ちょと待て、と貴ちゃんを制し、
「泣くのは早いぞ。こんな話もある。お師匠さんのお師匠さんが、若い頃の話だ。やっぱし高野山で修行してて、山行《やまぎょう》――山ん中を夜も昼もぶっ続けで駆け回る修行だな――その山行から、帰ってこなくなった。仲間が探しに出てみたら、山道にぶっ倒れて、烏につつかれてた。誰がどう見ても死んでる。麓の医者に診せても、やっぱし死んでる。んで、しょうがないから葬式出して、墓に埋めようとしたら――いきなし、むっくり起き出した。それまで、つごう三日間は確かに死んでたんだそうだ。んで、三日間死んでた奴が生き返ったんで、何をするかと思ったら――」
「……ごっくし」
「『腹へった』とかゆって、飯を三合食ったそうだ」
 ホラ話で元気づけようとしてくれているのか、それともマジなのか――幼時から邦子ちゃんのもっともらしい事実誤認に翻弄され続けてきた貴ちゃんとしては、ちょっと反応に窮します。
「つまり、人間とゆーものは、本当に人様々なのだ。起きてるときも寝てるときも、生きてるときも……死ぬときもな」
 真実か事実誤認かは別として、マジであることは確かなようですね。
「優子だって、いつ起き出すか、誰にもわかんない。明日の朝起きて、朝飯に飯を五合食うかもしんないし、あんましくたびれたんで、来年の正月あたりまで、ゆっくり寝ていたいかもしんない」
 言わんとしていることは解るのですが、
「でも、あんまし寝てると、夏休みも冬休みも、終わっちゃうよう」
 貴ちゃんにとって、それはあまりにもつまんなく、寂しいことです。
「……夏んなっても起きなかったら」
 邦子ちゃんは、多摩川の対岸に黒々と放置されたままの、廃墟ホテルを見やります。
「また、あすこの屋上から、花火でも上げてみるか。またモノホンの尺玉だ。あんときのド迫力なら、どんな寝ぼすけでも目を覚ますぞ」
「こくこく!」
「今度は、うっかり飛行機を墜とさないように――いや、墜としたほうがいいのかな?」
 まあ、それは搭乗者があの時のようなテロリストであるか、一般市民であるか、飛行機の中身しだいですね。





   第二章 トワイライト・メッセージ


     1 

 さて、ここでいきなしディレクターさんからの指示が入り、ナレーションのトーンががらりと硬派のドキュメント・タッチに変わります――と言っても予算の関係上、シブい男性ナレーターさんなど雇うオゼゼは一文もないので、やっぱしわたくしが演《や》るしかないんですけどね。
 こほん――。
 あーあーあー、本日は晴天なり本日は晴天なり、てすてす、てすてす――リチャード・キンブル、職業医師。正しかるべき正義も、時として盲ることがある。彼は身に覚えのない妻殺しの罪で死刑を宣告され、豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃、琵琶湖の南に金目教という怪しい宗教が、沈着冷静なストレイカー最高司令官の下、日夜謎の円盤UFOに乗り込んで、科学時代の悪Qから現代社会を防衛する私の名はゴア、地球の征服者だ。マグマ大使〜、ぴろりろり〜ぴろりろり〜ぴろりろり〜。
 ――はい、失礼いたしました。イキオイ余って、子役声やSEまでテストしてしまいました。あくまでギャラは一人分しか出ないというのに、わたくしという人間は、どこまで業が深いのでしょう。
 こほん。
 それでは本番、いきまーす。

    ★          ★

 岐阜県飛騨市神岡町――。
 標高一三六〇メートルの『池ノ山』、その稜線から約一〇〇〇メートルの地下には、巨大な人工の空間が存在する。
 旧・神岡鉱山の地中深く建設された、高さ四一.四メートル、直径三九.三メートルに及ぶ、巨大な円筒形タンク――スーパーカミオカンデ。
 五万トンの超純水に満たされた、そのステンレス鋼板の内面には、一一二〇〇本の光電子増倍管が配置され、素粒子物理学における『大統一理論』――物質の最小単位から全宇宙の構造までを物理学的に整合させ得る究極の理論――を実験的に検証するため、日夜チェレンコフ光の観測が行われている。
 その前身である、やや小型のカミオカンデ建設当初から目的とされていた、『陽子崩壊』――大統一理論の前提となる『陽子崩壊』は未だ観測されず、そのこと自体が大統一理論に修正を迫ることになったが、『天体ニュートリノ・大気ニュートリノ観測』及び『K2K実験(人工ニュートリノ観測)』においては着実な成果を上げており、二〇〇二年度に小柴昌俊東大名誉教授が受賞したノーベル物理学賞は、主に、旧カミオカンデが一九八七年二月二三日、大マゼラン星雲でおきた超新星爆発によって生じたニュートリノを世界で初めて検出することに成功した功績によるものである――。

    ★          ★

 ――はい、理系的才能とはきれいさっぱり縁のない、白痴のようにホケーッと口を開きっぱなしにしていらっしゃる良い子のみなさんには、とーぜん何が何だかさっぱり解りませんね。
 でも、ちっとも心配はございませんよ。
 なんとなれば、拓○大学教育学部首席卒業、陸上自衛隊四年在籍、そしてロス近郊の傭兵学校に二年留学したほど知性と行動力を兼ね備えたわたくしでさえも、スーパーカミオカンデとやらの場所やサイズ以外は、きれいさっぱり、まるっきし理解できないからです。ましてお話作りのぶよんとしてしまりのない人などは、神岡町が日本のどこにあるかさえ、まともに把握しておりません。
 しかしながら、そのとんでもねー小難しい、一個作るのに一〇〇億円以上もかかってしまうような馬鹿でっけーシロモノは、あくまで創作ではなく、今現在もきちんと飛騨の地中に存在します。とゆーことは、それらのとんでもねー理屈を理解し、人類、いえ、大宇宙の実存レベルでの研究意義を確信していらっしゃる天才的な方々が、世の中には確実に存在するとゆーことですね。
 さて、ここで再びナレーションのトーンが変わり、なぜだかお若い頃の石坂浩二さん風の、軽シリアス・モードへと移行します。

    ★          ★

 ――今、我々を取り巻く自然界の一部が、不思議な身動きを始めようとしています。これから三〇分、あなたの眼はあなたの体を離れ、この不思議な時間の中に入っていくのです。
 ♪ べんべんべんべん べんべんべんべん べんべんべんべん べんべんべんべん べんべ〜〜ん べんべ〜〜ん ♪ べんべんべんべん べんべんべんべん べんべんべんべん べんべんべんべん べんべ〜〜ん べんべ〜〜ん ♪

    ★          ★

 ……えと、念のため。
 これから始まるシークエンスにおいて、自然界のバランスは確かにかなりあっちこっちとっちらかっておりますが、残念ながら、ゴメスもペギラもバルンガも出てきません。元祖ウルトラQにおける、『悪魔ッ子』や『あけてくれ!』といった風合いでしょうか。これらのネタが理解できる、すでに推定半世紀も生きてしまった良い子たちのために、念のため。


     2

 西暦二〇一×年七月二〇日、午前一一時五四分。
 緑豊かな『池ノ山』の中腹、神岡宇宙素粒子研究施設。
 周囲の緑も霞みがちな梅雨空の下、その一見田舎の弱小企業ビルと見紛うような白い建物内では、東大宇宙線研究所のメンバーたちが、地下カミオカンデから絶え間なく送られてくる膨大なデータを、数十台のコンピュータを駆使して、ひたすら解析し続けております。
 陽子崩壊こそ未だ観測されていなくとも、一一二〇〇本の光センサーは、日々膨大なチェレンコフ光と目される現象を観測します。ただしその大半は、実際にニュートリノが衝突した電子から放出された光ではなく、現在の観測技術上避けられないノイズであり、むしろそれを分析し正しいニュートリノ検出と仕分けする作業のほうに、多く労力が割かれます。
 白亜の研究室で作業する白衣の男たち――皆さんはそんな現場を想像されるかも知れませんが、スパコン室やカミオカンデ本体はいざ知らず、研究室自体は弱小企業のオフィスとさほど変わりません。働いている教授も助教授も研究員も、地味系のポロシャツやYシャツに、地味系のズボンやチノパン姿です。これで、味気ない安手の事務デスクに異様な台数のコンピュータ端末や特殊なオプションが並んでいなかったら、実用品メーカーの中規模工場の管理棟、そんな風情でしょうか。
 まあ、それが日本という資本主義国家兼官僚主義国家の、現状なのですね。大企業や親方日の丸関係の最先端でこそ、バリバリに見てくれを繕いますが、お金も生まず税金や票にも繋がらない学術関係組織などは、最先端の現場でも、こんなものなのです。ただし、そこで働く方々の脳味噌や視線には、どこぞでふんぞり返っているお偉い方々とは違い、立派な知性が横溢しております。
 しかしなぜか、本日この時――その現場は、淀んだような重い空気に沈んでおります。
「ノイズ……じゃあ、ないですよね」
 若い研究員がつぶやいた言葉に、各自のモニターを見入っていた他の職員たちも、一様にうなずきます。
「解析システムのバグ――はないよねえ、今さら」
 老主任教授の言葉に、解析用アプリケーション担当の助教授が、自信を持ってうなずきます。
「去年の書き換え分は、年度末以来、完全に安定してます。やはり下の光電子菅に、物理的な何かが起こったとしか――」
 他の若い研究員が、頭を振ります。
「先週の指示どおり、下の吉岡さんに設備のフル・チェックをお願いしました。今朝届いた報告では、完璧に正常値と」
 主任教授はモニターを凝視したまま、
「じゃあ、やはり、この発光現象は、こう表現するしかないわけだ。――『これはいったい何なんだ?』」
 白い蓬髪をかきむしり、
「先週初めて見た時には、ついに『陽子崩壊』観測成功、私は小柴先生に続いてノーベル賞、君たちは特別賞与に特別休暇――とか、小躍りしてたんだがなあ」
 他の職員は、困惑顔のままで苦笑します。
 ずらりと並んだそれぞれのモニターには、まったく同一の観測データ――先週以来断続的に観測されている、特殊なチェレンコフ光のイベント・データが表示されております。膨大なデータを分担処理する現場では、全員が同じデータを解析するなど、まずありえない光景です。
「――とにかく、過去に記録されたありとあらゆるノイズには、当てはまらん。進路の方向性がまったく観測されない以上、ニュートリノでもない。さらに陽電子・パイ中間子・光子のパターンから見て、誠に残念ながら、陽子崩壊でもない。と、なると――」
 主任教授はぐるりと他のメンバーを見渡し、末席で当惑している最年少の研究員に、
「……君は確か、本郷ではSF研にいたとか言ってたねえ」
「は、はあ」
「カラオケでは、なんじゃやらヤマトとかガンダムとかマクロスとか、いつも嬉しそうに歌ってるねえ」
「すみません」
「謝るこたあない。じゃあ、そっち方向でもなんでもいいから、何か思いついたことを言ってみたまえ」
「しかし、あれは、あくまで夢物語の世界で……」
「遠慮はいらん。ただの頭の体操だよ。見なさい。わたしも君も他の連中も、先週から、心身共にコチコチだ。これじゃデク人形の集まりだよ。頭の凝りがほぐせりゃ、なんでもいい」
 若い研究員は少し表情を緩めて、
「本当に、なんでもありでいいんですね。じゃあ――『ついにタキオン検出に成功!』、とか」
 他のメンバーも、一斉に頬を緩ませます。
「なるほどなあ」
「そりゃすごい」
「いいねえ」
「いやいや、確かにそれなら、いっさいの方向性なしでチェレンコフ光を残しても、理論的に問題ないぞ」
「これでお前も、ノーベル物理学賞最年少だなあ」
「これからお前を、タッキーと呼ぼう」
「『お』の付くほうのな」
「よう、おたっきー」
「やめてくださいよう」
 いきなり座が和んで、それまで手付かずだった麦茶やお茶菓子に口をつける職員まで出はじめたのは、『タキオン』という名の超光速粒子が、あくまで理論上の存在、つまりこの場では冗談扱いだからですね。
 確かに『タキオン』と言えば、空想科学系の創作物では、大宇宙での艦載砲から超光速通信手段まで、様々な未来技術の原理としてメジャーな存在です。また実社会でも、一部の馬鹿が一部の阿呆相手に『タキオン含有健康グッズ』などというシロモノを売りさばき、泡銭を稼いだりもしております。つまり今のところ、あくまで並外れた知性に基づく豊かな想像力、あるいは腐った脳味噌の中でしか、存在が確認されておりません。特殊相対性理論によれば、実在する可能性は確かにあるのですが、理論上、静止質量が虚数になってしまう粒子なので、物理的な意味合いはきわめて曖昧《いいかげん》です。ましてブレスレッドやペンダントに練りこめる健康器具業者があるとすれば、それは静止質量が虚数の業者さんでしょう。
 主任教授も、いっしょになって麦茶を啜りながら、
「その可能性は、けしてゼロじゃあないが……とりあえず、様子見しかないか。ある程度データが蓄積されれば、分析の糸口も――」
 そう言いかけた時、メンバーの一人が、
「また来ました!」
 他の全員も、表示をオンラインイベントディスプレイに切り替え、個々のモニターを凝視します。
「なんじゃあ、こりゃあ……」
 いつもは冷静な助教授が、呆けたようにつぶやきます。
「……ありえない」
 そこには、たった今地下から送られてきた、例の発光イベントのデータが表示されています。
 一般人から見れば、黒地の左上に数列のアルファベットが並び、あとの図形は、茶筒の平面図が青から赤のグラデーションで斑に光っている、そんな案配ですが、所員たちの頭の中では、当然きっちり3D画像が再現されております。
「例の光が――連続してる?」
「おいおい、消えねーぞこれ」
「違います! 明滅してます!」
「コンマ五秒間隔で――ほぼ正確に」
「……まるでアラートだな」
「しかも座標が固定してます!」
「数珠繋ぎで来てるな」
「放射段階で制御されてる?」
「……消えた」
「消えた?」
「いや、また始まった!」
 驚嘆や怒号のような声が入り交じるうちに、
「二十一分経過!」
「すげえ。百発百中、狙い撃ちか」
「つくばの加速器からじゃないか?」
「でも進路の方向性は――観測不能」
「だからニュートリノじゃないって!」
「――消えました」
 狂乱状態から、呆然の沈黙へ――そんな研究室の末席で、あの若い研究員が、陶然とつぶやきます。
「……まさか……本当に……タキオン通信」
 それを聞きつけたかどうかは定かではありませんが、主任教授は何か覚悟を決めたように、机上の電話を取ります。
「――篠沢だ。ああ、すまん。防衛省回線で、科特隊《SSPS》極東支部に繋いでくれ」
 隣の助教授が、不審げに見返ります。
「……防衛省回線ですか?」
「ああ。まさか、実際に繋ぐ日が来るとは思わなかった。しかしまあ、カミオカンデ設立当初からの、お約束だからな。『コード五六七、あるいはそれに類似する現象を観測した際は、即刻、SSPS極東支部に連絡する』――」
「……先生は、本当に、これがタキオ……コード五六七に相当すると、お考えですか?」
 主任教授は首をかしげ、やがて匙を投げるように、
「解りゃせんよ。解らんから助っ人を呼ぶのさ」

    ★          ★

 同日午後一二時五〇分、八ヶ岳上空――。
 科特隊のジェットビートルが、蒼空を西南西に向けて飛行中です。
 基本デザインは昔と変わっておりませんが、往事のいかにもペンキっぽい光沢塗装ではなく渋めのマット塗装なので、まるで木製のミニチュアが最新の精密プラスチックミニチュアとCG併用映像に変わったような、重量感と質感があります。
 眼下に広がる白い雲の海を、自機の影がよぎります。しかし厚い雲の下は、暗い梅雨空なのでしょう。
「このまま、下りたくないわねえ」
 カタギリ隊員――ご存知、貴ちゃんのママ・片桐芳恵さん――が、三十路なかばを過ぎてもまだ張りのあるナイス・バディーをオレンジ色の隊服に包み、副操縦席でつぶやきます。
「ぱーっとエーゲ海あたりまで飛びたいわ。♪ Wind is blowing from the Aegean〜〜 ♪」
 ジュディ・オングさんの歌を華麗に口ずさみながら、しかしぐりぐりと肩凝りをほぐす様は、残念ながら、少々歳月の流れを感じさせます。
 操縦席のフジ隊員は、
「やめてよ、オバンくさい」
 ハヤタ隊員と所帯を持って、出産後はや十年。少々目尻に小皺は増えたものの、あいかわらず日本人離れしたチャーミングさを保っております。
「おっしゃいますわねえ、同い年のオバハンが」
「半年も若いんですもの」
「……憎い」
「なんてね。ほら、私は週一で整体に通ってるから」
「あれって、そんなに効く?」
「効く効く。受けた日だけは地獄だけどね。翌朝はもう、生まれ変わった気分」
「でもねえ……家は旦那が安月給だから。今日だって、朝から別口のアレだもの」
 カタギリ隊員は、空中をブラインド・タッチしてみせます。
 フジ隊員は同情するように、
「大変ねえ。帰りに上高地あたりで下りちゃわない? どうせ二人とも、明日は非番なんだし。あのあたりなら、雨でも案外きれいよ。大正池なんか、とっても神秘的で」
 もはや熟女同士の『いい旅夢気分』状態ですが、けしていつもこんなふうに弛んでいるわけではありません。あくまで今回のフライトが、緊急を要さない調査的出動だからです。むしろ普段の勤務時は、古参隊員として、近頃の緊張感の薄い若い男性隊員を引き締めてやるくらいの、いわば万能キリキリ小姑的立場なのです。
 ちなみに非常勤契約のカタギリ隊員は、本来、今日も非番のはずでした。先刻まで青梅駅前のスーパーで経理のパートをやっていたのですが、コード五六七関係は彼女が専門だったため、急遽駆り出されてしまったのですね。たまたま科特隊極東支部から神岡町までのほぼ直線上に青梅駅があったので、フジ隊員がビートルでスーパーの屋上に乗り付けてカタギリ隊員を拾った、そんな事情です。
「――四五日前から、実家との繋がりが悪くなってたのよ」
「あら、そうなの? ご実家って、確か、三〇〇万光年先の――」
「そう。だから当然、タキオン通信」
「そちらの回線が混信したのかしら」
「でも、この星《くに》の機器で公式星間タキオン波を検出するには、技術的にまだ五世紀はかかるはずよ。ただ、何か全宇宙規模の特殊な非常信号――いえ、それならとっくに実家にも届いてるはずだわねえ。それとも万が一の確率で、始原タキオン流――まあどっちみち、地球の民間とは無関係。データと計器を確認したら、現場で箝口令を徹底するだけだわ」
「下りるわよ」
「あら、もう着いちゃうの?」
「目と鼻の先だもの」
「じゃあ、今のうちに、メールしときましょ」
「貴ちゃん?」
「そう。晩ご飯ごめんねメール。パパのぶんも作ってもらわなきゃ」
「へえ、できるんだ」
「そりゃもう中三だもの」
「いいなあ。家なんか男の子だし、まだ小学生だし」
「男の子のほうがいいわよ。女の子なんて、いずれ家を出ちゃったら、どこに飛んでっちゃうんだか。老後のあてにもなりゃしない――ぽちぽち、と」
 からりと緊張感の薄い二人を乗せて、ビートルは蒼空から雲海に突入し、陰鬱な雨に煙る池ノ山の稜線へと、下降していきます。

    ★          ★

 同日午後一時四〇分、神岡宇宙素粒子研究施設。
 そぼ降る雨を窓に聞きながら、あの老主任教授が、知性とルックスを兼ね備えた熟女二人の来訪にやや緊張しつつ、カミオカンデの来歴や、先週からの特異なチェレンコフ光や、午前中からの怪現象に関して、ひと通りの解説を終えます。
 フジ隊員はタキオンこそ理論上の存在としてしか理解しておりませんが、スーパーカミオカンデで行われている観測作業については、ほぼ理解しております。
 一方カタギリ隊員は、公式星間タキオン波によるタキオン通信については熟知しておりますが、この施設での観測技術に関しては、事前の知識がありません。
 たとえて言えば、生まれた頃からチェーンソーしか知らない樵夫が、斧の使い方を教わるようなもので、
「――つまり基本的に、直でニュートリノを観測しているわけではなくて、あくまで高速で移動するニュートリノによって散乱された水中の荷電粒子が発するチェレンコフ光の、円錐状リングを解析しているわけね」
 フジ隊員に、念のための確認を求めます。
「そう。そのリングイベントの角度、形状、光量分布、時間分布――そこから粒子の種類や発生点、方向や運動量を解析して、ニュートリノそのものの実態を再構成するの」
「なんとまあ、ご苦労様な……」
「仕方がないわよ。ここはM7――おっと、あなたのお国じゃありませんもの」
「ところが先週から観測されたデータの多数が、そもそも円錐を形成していない、と」
 主任教授が、補足を入れます。
「はい、円錐ではなく、ほぼ球状のリングイベントですな」
「当初はノイズあるいは陽子崩壊の可能性も考えられたが、本日正午あたりから約二十二分、ほぼ同一座標で、正確に時を刻んで発光した、と」
 助教授も、補足を入れます。
「一秒に二回の割合で三秒、三秒の間を置いて、また一秒二回で三秒――その反復が数回続いた後に、やや乱れが生じましたが、基本的にはコンマ五秒単位で明らかなパターンが見られます」
 主任教授もその部下たちも、カタギリ隊員の素性など知るべくもなく、本当にこの女性たちが科特隊お抱えのタキオン研究者なのだろうか、そんな表情で、それでもこの地には滅多に訪れない容貌や体型に、やや複雑な視線を移ろわせております。
「麦茶はいかがですか」
 雑用係らしい老人が、かいがいしくお盆を運んで来たりもします。
「お茶菓子もありますよ。貰い物ですが、なかなか旨い羊羹で」
「お言葉に甘えて、いただきたいところなのですが――」
 カタギリ隊員の表情が、なぜかきりりと引き締まり、
「これはあくまで仮説であり、現在の我々がそもそも介入するべきものであるか、いえ、介入可能であるかどうかすら不明ですが、いずれにせよ――現在このスーパーカミオカンデは、全宇宙でも未曾有の現象を、観測してしまった可能性があります」


     3

 そして同じ日の、午後一時五〇分――。
 青梅の高台に建つ三浦記念総合病院、その最上階に位置するSPCU(特殊個別治療室)で、車椅子の優子ちゃんが、ベッドのすぐ横の白い机に向かっております。
 それに寄り添う恵子さんは、ICU(集中治療室)の見舞客同様、事前に殺菌処理を受け、予防衣や帽子やマスクを着け、そして手にした文庫本――もちろんこれも殺菌されております――を、一字一字、ゆっくりとゆっくりと、読み上げております。
 童話作家・神沢利子さんのエッセイ集、『雪の絵本』のようです。
 片手用点字タイプライターを、慣れない左手で懸命に打つ優子ちゃんは、まだ右半身が動きません。
 右目の視覚も右耳の聴覚も、戻っておりません。
 いわゆる半身不随――それだけではなく、こうして机に向かっている間にも、優子ちゃんの体のあちこちからは多数の輸液用チューブや各種のケーブルが延び、彼女がただ『生きている』だけのために、部屋の四割を占める各種の延命用医療機器や、外部のモニター室にある計器類に繋がっております。
 したがって、今の優子ちゃんは、個体としては生きておりません。いわば、この窓一つないカプセル状の白い部屋――SPCUという胎内に封じられた、胎児のような状態です。豊かだった栗色の髪は、倒れて間もなく受けた開頭手術の際に剃られてしまったため、今は邦子ちゃんよりも短いショートカットになっております。
「そろそろ、ベッドに戻りましょ」
「……もう少し」
 唇も舌も全体が動かないので、かつての小鳥のような声もまた、かなりくぐもっております。
「だーめ。お昼寝前に一時間だけ。約束でしょ」
 優子ちゃんは、力なくうなずきます。自分でも、それが今の自分の限界であることは、すでに体で悟っているのですね。
 そして付き添いの恵子さんにとっても、この一時間、優子ちゃんの衰えた心肺機能に合わせて一時的に高圧高濃度酸素状態にされた密室ですごすことは、なかなかの負担なのです。けしてベッカム・カプセルのような、生半可な状態ではありません。
 各部可動の車椅子からやはり可動式のベッドに移るのは、恵子さんや看護婦さんの介助があれば、さほど辛くはありません。
 それに、お年頃の優子ちゃんとしては、ひと月前までの意識混濁期間――一日を丸々横臥してすごしていた頃、常にある種の器具が股間に装着されていたのを思えば、介助と車椅子で多少なりとも移動できる今は、かなり快適です。
「……冬までに、訳し終わるかなあ」
 優子ちゃんが、つぶやきます。
 優子ちゃんがまだ元気だった、春先のことです。ある盲学校で朗読会を開き、そこに通う中学一年の少女と、仲良くなりました。二人とも、小さい頃、神沢利子さんの絵本『くまの子ウーフ』が大好きだった、そんな話がきっかけでした。
 視覚障害者用の音訳テープや点字図書というものは、大部数で発行されるのはほんの一部です。むしろボランティア等による少部数、あるいは一部だけの手作りが多いのですが、それでも全国の公立図書館はネットワーク化されておりますから、希望すればかなりの読書が可能です。
 しかし神沢利子さんの『雪の絵本』は、地味な随筆集だからでしょうか、まだどこでも訳されておりません。そのことを、その少女がとても残念がっていたので、それなら自分で訳してあげると、約束してしまったのですね。もちろん、読んであげたり録音してあげてもいいのですが、今の優子ちゃんには、ちょっと、その自信がありません。
「クリスマスには、届けてあげたいの」
 恵子さんは、優子ちゃんの薄い髪を、そっと撫でさすります。
「だいじょぶよ、きっと」
「……うん」
「じゃあ、お昼寝の後に、また来るね。――CD、かけとく?」
「うん」
 部屋を出かけた恵子さんは、ふと振り向いて、
「――まだ、お見舞いに呼ばないの? 貴ちゃんや、邦子ちゃん」
 しばらくの沈黙のあと、
「……うん」
 力ない声が返ります。
「……もう少し、元気になってから」
 白い扉を出て行く恵子さんの肩は、ちょっと震えているようでした。
 まもなく、横になった優子ちゃんを優しく包むように、神秘的なフルートの音色が流れはじめます。
 ドビュッシー作曲、『牧神の午後への前奏曲』――優子ちゃんの、近頃のお気に入りです。
 ――これを聴いていると、何もかも忘れて眠れるから。

    ★          ★

 一日の大半をベッドで過ごす優子ちゃんにとって、そしていつまでここにいなければならないのか解らない優子ちゃんにとって――いえ、いつまでこの世界にいられるのかもおぼつかない優子ちゃんにとって、忘れたいことは、あまりにも多くあります。
 初めの頃は、そうでもありませんでした。
 今よりもずっと辛い状態だった、文字通り半死半生の時期は、懸命にその辛さに耐えながら、いつも楽しいことを考えようとしていました。
 面会の許可が出たら――ICUでは、患者の状態や他の患者への影響を考慮して、家族以外の面会は許可されません――真っ先にお見舞いに来てくれるはずの、貴ちゃんや邦子ちゃん。それから、他の同級生や、クラブの仲間たち。そして、元気になって退院できたら、またみんなで通える朝の通学路や、放課後のクラブ活動。
 元気なうちはむしろ嫌いだった、こまごまとした学校の雑事などまでが、思い出すだけで楽しいことに変わる――そんな時期もありました。
 しかし、何ヶ月も外の風を知らずに過ごし、SPCUで籠の鳥になったまま、自由に回らない口や、日々衰えて行く脚や、爪の伸びまでが左手よりも遅い右手の指などに、心と体の双方を削られておりますと――優子ちゃんにとって、すでに『思い出』は、あまり楽しいものではありません。いえ、楽しいはずなのに、なぜか左目は涙を流します。
 そんなある晩、夢の中で――。
 優子ちゃんは、人魚になっていました。いつか貴ちゃんや邦子ちゃんを別荘に招待したときの、西伊豆の海です。そのときは、泳げない優子ちゃんも二人といっしょに渚で遊び、背の立つところで波に顔を沈めたりもしましたから、きっとそのときと、同じ海なのでしょう。
 人魚になって自由自在に沖を泳ぐのは、すばらしい体験でした。でも、蒼い海の中でいっしょに泳いでいるのは、大小の魚ばかりです。寂しくなった優子ちゃんは、浜辺のほうを目ざしました。そして、渚近くで泳ぎ回っている、貴ちゃんと邦子ちゃんを見つけました。いっしょに泳ごうと近寄りますが、普通の人には人魚が見えないのでしょうか、いくら周りを巡っても、二人とも気づいてくれません。そのうち泳ぎに飽いたのか、砂浜に去ってしまいます。
 波間から顔を出し、夏の海辺を元気に駆け回る貴ちゃんと邦子ちゃんを見つめながら、優子ちゃんは、思いました。
 こんど二人が泳ぎに来たら、いっしょに海の底に連れて行こう。そしていつまでも、三人で仲良くいっしょに泳ごう――。
 やがて貴ちゃんと邦子ちゃんが、また泳ぎに戻って来ます。
 優子ちゃんの目の前で、ぱしゃぱしゃと水を掻く二人の足首が、元気に踊ります。
 優子ちゃんは、こっそり手を伸ばしました。
 さあ、みんないっしょに、海の底へ――。
 そのとき優子ちゃんは、自分がアリエルのような人魚ではなく、まったく別の物になっているのを悟りました。伸ばした自分の手が、ぬらぬらとした黒い鱗に覆われていたからです。それはたぶん、いつか図書館の民俗コーナーで見た、古い妖怪図譜の絵姿――礒女、あるいは、濡れ女。
 その晩、目覚めた優子ちゃんの左目からは、夜明けまで涙が流れ続けました。
 そうして優子ちゃんは、いつしか『思い出』を無意識の内に厭うようになり、さらに『未来』の夢の中からも、徐々に自分を消していったのです。
 しかし――たとえ『今』だけを見つめようとしても、けして安らぎは訪れません。
 今、自分が生きていることは、本当に意味のあることなのだろうか。
 膨大な費用のかかる最先端医療機器を、家の財力を頼りに独占し、死んで当然の体を維持していることは、正しいことなのだろうか。
 パパやママやお兄様が悲しまないように――そんなのは、ただの独善にすぎないのではないか。世の中には、今この瞬間にも、わずかな薬さえ買えずに息絶えてしまう貧しい人たちが、沢山いるのだ――。
 それは優子ちゃんが、けして自分が思っているような礒女や濡れ女ではなく、今もきちんと本来の優子ちゃんであるがゆえに、逃れられない感情です。

    ★          ★

 やがて、穏やかなフルートの音色に、ひそやかなハープの響きが重なりはじめます。
 ――明日は、どこまで点字タイプを打てるかな。
 それ以外のすべてを忘れて、優子ちゃんは、けだるい『牧神の午後』に溶けていきます。


     4

 ほぼ同時刻――同じ三浦記念総合病院の最上階、特別応接室。
 あの松井先生が、優子ちゃんのお父さんとテーブルを挟んでいます。
 主にVIP患者や関係者用の応接室らしく、出ているお茶のカップなども一目で高級品と判り、並のティーバックなどではない馥郁たる紅茶の香りが漂っておりますが、松井先生も優子ちゃんのお父さんも、口をつけた様子はありません。
 広い窓、というよりガラスの壁の向こうには、晴れていれば奥多摩山塊や丹沢山塊が見渡せ、運が良ければ日本アルプスから富士山まで遠望できるのですが、今日はただ薄墨色の雲が、しのつく雨に霞んでいるだけです。
 松井先生は、手元に置いた膨大なカルテを示し、
「確かに優子さんの過去の病歴や症状は、以前にもお話しした通り、終わった問題だったのです。出産直後に確認された左心低形成症候群は、幸い二歳までの三段階の手術で完治しました。その直後に発症した急性糸球体腎炎も、幼稚園入園の時点では完治しておりました。ですから現在の症状は、この春に新たに発症した拡張型心筋症、およびそれによる脳の血行障害がもたらしたもの、とすれば手術とリハビリテーションによって回復の可能性は充分ある、と、当初は考えられたのですが――」
 そのあたりは、お父さんもすでに春の内に聞いており、希望を抱いていた内容です。
「先週の検査でも、残念ですが、春の心臓発作の原因は、特定されておりません。と言うより、器質的に特定の異常が見いだせない。心筋自体の劣化、としか言いようのない状態です。現在、症状的には洞不全症候群とほぼ一致しますので、ペースメーカーが有効に働いておりますが――たとえば一度焼けたモーターは、いくら電力を供給しても、いつか止まります」
「……移植。心臓は、移植できる。それに……以前、『日経』で」
 お父さんが、なかば独り言のようにつぶやきます。
「確か、『ネイチャー』でも。……あれだ、人工心臓!」
 どんなに高価でも、私なら買ってやれる――つい興奮してしまったお父さんを、松井先生が寂しげに制します。
 気持ちは解る、そんな表情で、
「人工心臓の継続使用による延命効果は、また別の話として――本題は、ここからなのです」
「……申し訳ありません」
「あの長岡さん――邦子ちゃんの処置がよほど適切だったのか、脳障害は奇跡的と言ってもいいほど軽微――その話も以前しましたね」
「はい」
「前例に照らす限り、一度の手術でほぼ回復に向かう――誤診だった可能性はありますが、少なくとも脳外科の梶村主任は、そう予測しておりました」
「はい」
「残念ながら、今現在もはかばかしい回復は見られません」
「……はい」
「しかし、問題の根幹は、別の部分にあるのです」
「……と、おっしゃいますと?」
「今までは申し上げませんでしたが、心臓にしても頭部にしても、術後の傷そのものの治癒が、異常に遅いのですよ。優子さんの年代としては」
 お父さんには、その言葉の意味が解りません。
「抜糸までにかかった期間は、同年代の患者の三倍以上です。体質的なハンデを考慮しても――七十代の老人レベルでしょう」
 お父さんは、ふと、何かを思い出したように目を見開きます。
 それから、かたかたと震えながら、あわててその記憶を振り払うように、紅茶のカップを飲み干します。
 松井先生はゆっくりとうなずいて、
「ずいぶん古い話ですが、思い出していただけましたか?」
「……しかし、あれは……先生の誤診だったのでは」
「私も、若気の至り――恥ずかしい誤診のままでいて欲しかったのですが――春の入院後に発現してしまった種々の代謝異常、免疫力の低下、筋力の衰え、あらゆる臓器の機能低下――。先頃、奥様のいらっしゃる席では、一時的な心停止による脳の後遺症、そして治療のために投与している各種薬剤による副作用、そう申し上げたのですが、けして言い逃れのために申し上げたわけではありません。奥様の感受性からお見受けして、告知はまだ性急かと判断しました。それにDNA解析の結果が、まだ出ておりませんでしたから。現在は十二年前とは違い、あの病気は原因遺伝子が同定されております。今日お父様をお呼びだてしたのは、その鑑定結果が、今朝方届きまして――」
 先生は、意を決したように、
「優子さんは、早老症を発症しております」

    ★          ★

 その数分後――。
「失礼します」
 いったん優子ちゃんの部屋を辞した恵子さんは、看護師からの伝言に従って、特別応接室を訪れます。
「あら、奥様もご一緒じゃなかったんですか?」
 最新の精密検査の結果が今日出ると聞いていたので、その件ならばいつもご夫婦揃っていらっしゃるはず、そう思って訊ねますと、
「お父様だけに、お伝えするつもりだったのですが――」
 言い淀む松井先生の言葉を補足するように、
「……私がお願いしたんだ。すまないが、恵子さんだけには、知っていてほしい」
 お父さんが沈痛な面持ちで続けます。
 恵子さんの顔から、すっと、血の気が引きます。
 以前、こんな状況に立ち会ったことがある――そんな既視感に、囚われてしまったのですね。
 それは恵子さんの兄嫁――義理のお姉さんが、数年前に肺癌で入院した時の記憶です。患者当人への告知は、お義姉さんの気弱な性格を考えれば、到底できませんでした。それだけでなく、お義姉さんの実家のご両親も、すでに微弱ながら老人性痴呆の兆候が出ていたため、万一患者の前で何か口に出してしまっては大変と、結局、夫であるお兄さんだけが、その告知を受けました。ちなみに恵子さんの両親はかなり以前に他界しており、兄ひとり妹ひとりだけの親族です。お兄さんにとって、自分だけでその状況に耐えるには、精神的にあまりに負担が大きかったのでしょう。すでに結婚し独立していた恵子さんも、まもなく、その病名や進行程度を知らされ――半年後、お義姉さんは自分の正しい病名を知らぬまま、夭折しました。
「……教えてください」
 恵子さんは、つい先ほどSPCUを出るときにこぼした涙を、胸の底に押し込みます。
 ――確かに奥様は、お人柄も家柄も立派に世間に立てる方だけれど、子供たちに対しては、まるで生の感情を隠せない方だ。
「何を伺っても、私なら大丈夫です」
 その毅然とした表情を受けて、松井先生が先のような説明を繰り返しますと、
「――腑に落ちません」
 優子ちゃんのお父さんより頭一つ背が低く、松井先生の胸ほどまでしかない小さな恵子さんですが、その童顔から発せられる声は、あくまで三十八年の人生に裏打ちされております。
「十二年前に先生のお話を伺ったとき、私も、私なりに勉強させていただきました。あのとき先生は、ハッチンソン・ギルフォード症候群の疑いがある、そうおっしゃいました。いずれ急激な老化現象が現れ――思春期を迎えずに、老衰死してしまう心配があると。でも優子ちゃんは、少なくともこの春までは、それは少し病弱ではありましたけれど、きちんと育ってくれました。でしたら同じ早老症でも、十代以降に発症するという、ウェルナー症候群なのでしょうか」
 松井先生もお父さんも、それぞれ別の表情ながら、感嘆の眼差しで恵子さんを見つめます。
「もしウェルナー症候群でしたら、少なくとも私が覚えている限りでは、同じ早老症でも、進行はもっと穏やかなはずです。中年まで生きられる方が多いとも、聞いております。たとえ手術の負担が大きかったにしても――今の優子ちゃんの衰弱が、その病気のためとは思えません」
 お父さんも、昔聞いた当時は様々な書物も調べたわけですが、恵子さんほどの記憶は残っていなかったのでしょう、恵子さんよりも心細げな視線で、先生の返答を待ちます。
「……優子さんのDNA解析によりますと、ラミンA遺伝子上の変異――二〇〇三年に同定された病因ですね――それが確認されましたので、ほぼ確実に、ハッチンソン・ギルフォード症候群かと」
「それなら、なぜ今まで――」
 恵子さんは、食い下がります。信じたくない、それが本音なのでしょう。
「恐縮ながら、不明、としか言いようがありません。なぜ二歳の頃すでに見られた兆候が、三歳時、あの入園の頃から綺麗に消えてしまったのか。そしてなぜ、今になって堰を切ったように進行しているのか――。しかし、症状のいかんに関わらず、その病である限り――残念ながら、現時点で治療法は発見されておりません」
 長い沈黙が流れます。
「……遺伝子病は、まだまだ解明されていない部分が多いのです。言わば、神の領域に踏みこむようなものですから」
 やがて口を開いた松井先生は、
「現に優子さんのケースでは、臓器、筋肉などの老化こそ急速ですが、容貌――お顔や皮膚には、本来見られてしかるべき老化の兆候が、ほとんど見られません。ウェルナー症候群ならば、その逆の例が多くありますから、逆の逆もまたあり得るわけですが、ハッチンソン・ギルフォード症候群では、希有な症例です。また、半身麻痺はあっても、記憶障害は皆無です」
 それがせめてもの救い、そう言いたげに、
「そのことや、この春までの幸せな年月こそが――神からの贈り物だったのかも知れません。しかし神は、御意にかなう清らかな者を、往々にして、早くその御座《みくら》に召されようとする」
 ふと頭を振って、
「すみません。医者の言うべき言葉ではないですね。どうも私は、物心つく前に洗礼を受けてしまったものですから」
「三浦家も、カトリックには縁が深いが――この際、神の御意など、どうでもいい」
 お父さんが、うつむいたまま、絞り出すようにつぶやきます。
「娘は……優子は……いつまで生きられるのですか」
「――『生きている』ことの定義によります。優子さんの恵まれた環境なら、数年でも数十年でも、心臓死は避けられるでしょう」
「それは――いわゆる植物人間、ということでしょうか?」
 お父さんは顔を上げ、
「それなら……まだ希望はある。いずれは治療法も、きっと見つかる」
 恵子さんが、ゆるゆると頭を振ります。
「心臓の代わりになるものがあっても……体の機能のほとんどに、代替があっても……脳には、ありません」
 松井先生も、心苦しげにうなずきます。
 恵子さんは一心に先生を見つめ、
「優子ちゃんが、優子ちゃんでいられるのは――たとえ、静かに夢を見ているだけでもいい。あの子があの子として生きられるのは……」
 松井先生は、悄然と告知します。
「長くとも、この夏いっぱいではないか、と」


     5

 同日午後二時三〇分、神岡宇宙素粒子研究施設。
 フジ隊員が、研究員たちに言い含めております。
「――と、言うわけで、皆さんには、今回の件に関しての一切を、外部で漏らすことは許されません。国家公務員法第一〇〇条『職員は、職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後といえども同様とする』。それに違反した場合、第一〇九条によって――」
 一年以下の懲役又は三万円以下の罰金に処する――スパイ天国と呼ばれるこの国らしい腑抜けた条文ですし、元来生真面目な物理学者さんばかりなので、誰ひとり気にしているメンバーはおらず、今は研究室の机のひとつで角突き合わせ、モニターとプリントアウトを元に、謎の発光現象の解析データを検討しております。
 その中心を務めているのは、すでに篠沢主任教授ではなく、カタギリ隊員です。
「あなたのおっしゃる『公式星間タキオン通信波』の干渉ということは、ありえないわけですな」
 篠沢教授の問いに、
「はい。そもそも通信用タキオン波自体、すべてが専用加速器による人工タキオンであり、発生時点でコースも受信座標も完全に制御されておりますから」
「確率的には限りなくゼロに近いでしょうが、仮にそのコースの途上に、この池ノ山が位置していたとすれば?」
 助教授の問いに、
「けして、この星《くに》を悪く言うつもりはありませんが」
「はい」
「そもそも、この程度の光電子増倍管で観測できるような性質ではありませんから」
 すでにカタギリ隊員の正体は明かしてありますので、悪く思われる心配はないでしょう。地球を愚かな下等生物の星と見なしているならば、体を張ってその平和を守ろうとするわけがありませんし、またあくまで高位の立場から、下等だからこそ慈しみ、その下等生物と結婚までしてしまったのだとしても、それはそれで立派な『愛』です。
「仮に観測できたとしても、三次元上を移動している限り、ニュートリノ同様、円錐状のリングパターンが生じるはずですわ」
 他の研究員たちも、論議に加わります。
「初めからそこにあった粒子の崩壊でもなく、発生点・方向・運動量、いずれも解析不能となると――やはり、限りなくゼロに近いある瞬間にだけそこに存在し、その瞬間以外にはまったく存在しない――そう解釈するしかない」
「はい、そして、そんなデータを残しうるのは――」
 このあたりは、すでにこれまでレクチャーした内容の復習です。
「私どもの星《くに》で、『始原タキオン流』と仮称されている粒子群――四次元空間を超光速で移動している、いえ、そうと推定される、いわば時間軸状の遡行流です」
「我々の常識ですと、そもそも『四次元空間』そのものが、理論上の存在にすぎないのですが」
「その点に関しましては、実は私どもの星《くに》、いえ、私が知りうる限りの全宇宙においても、まだ仮説にすぎません。現に本質的な意味でのタイムワープを実現した例は皆無ですし、星間ワープ航法なども、あくまでこの星《くに》で言う宇宙物理学や天体力学、相対性理論内での技術ですから」
 研究員たちは、なるほど我々の知的レベルもなかなかの物なのだと、あらためて自信を取り戻します。知識はあるが実践はまだまだ、そんな段階ですね。
「ただ、それらの現実・理論を越える物として、『始原タキオン流』が存在するのも、やはり事実なのです。もともとタキオン通信が実用化できたのは、偶発的に観測されてしまった超光速粒子群――これがのちに『始原タキオン流』と命名されたのですが――そのデータの蓄積を元にして、いわばその類似品である人工タキオンが作り上げられたから、なのですね」
 研究員のひとりは、まだ懐疑的な表情で、
「で、今回のこの現象は、本当に、その『始原タキオン』なのでしょうか」
「はい。十中八九」
 カタギリ隊員は、きっぱりとうなずきます。
「不安定なそれだからこそ、この程度の原始的――ごめんなさい、光電子増倍管で観測できるような反応を示したのでしょう。ただ、それだけならば、何も皆さんに箝口令を敷く必要はないのです。この星《くに》で偶発的に観測されたものならば、この星《くに》なりに存分に研究してくださればいい。独自のタキオン通信技術を開発し、来るべき星間交流に備えていただいてもいい。しかし問題は、この、明らかに有意の発光パターンです。少なくとも過去観測された始原タキオン流に、このようなパターンが生じたことは一度もない、と、なると――」
 主任教授がうなずいて、
「なるほど。と、なると――」
「はい。先ほども申し上げましたように、時間軸状を、未来から過去に向けて意図的に発信された、いわば『始原タキオン通信』なのではないかと」
 一度受けたレクチャーながら、やはり一度で納得できる内容ではなかったのでしょう、研究員たちの意識は、ようやくその発光パターン自体に集中します。
 自分たちが、全宇宙初の『未来からのメッセージの受信者』になれるかも知れない――これは当然、気合いが入ります。
 もっとも気合いが入ったからと言って、いくら天才級の頭脳が集っていても、前例のない現象はいきなり解析できません。
「案外単純なパターンなんですよねえ」
 そんな若い研究員の言葉に、カタギリ隊員が応じます。
「原理的な部分は不明ですが、もともと不確定的な粒子を使用するとしたら、可能な限り単純なパターンにするのでは」
 研究員同士の、論議が始まります。
「最初の三十六秒間は、一秒に二回の割合で三秒、三秒の間を置いて、また一秒二回で三秒、つごう六回」
「その後は、ちょっと不規則ですね。コンマ五秒の空白や、三秒の空白もあちこちに」
「おい誰か、ちょっと書き出してくれ。黒丸白丸でいいから」
「はいな」
「クロクロクロクロクロクロ、シロシロシロシロシロシロ、クロクロクロクロ――」
 碁石がびっしり並んだようなレポート用紙を囲み、
「……六回ひと組、これで一文字。まあ文字かどうかもわからんが、規則性はそれでいいだろう」
 篠沢教授の解釈に、
「なるほど。つまり最初の六拍六回の繰り返しは、『六』でワンセット、その表明らしいですね」
 助教授が、阿吽の呼吸で応じます。
「おい、六個ごとに赤ペン入れろ」
「はいな」
 そうして、かなり規則的な碁石と赤線が並んだわけですが、
「ひの、ふの、みの、よの――」
「四百三十、四百四十――四百四十七文字か」
「……考えてみりゃ、そもそも、これ、何語かも解らんのよなあ」
 さっきから比較的ノリのいい物言いをしていた研究員が、つぶやきます。
「たった四百何十個の点配列から、何の参考データもなく言語解析するってのは、どう考えても不可能なんとちゃいますか、普通」
 その通りなのですね。
「……本部に持ち帰って、解析するしかないんじゃないかしら」
 フジ隊員が、妥当な意見を述べます。
「そうね、本部ならこの星だけじゃなく、宇宙言語のデータも一通りあるし」
 カタギリ隊員も、うなずきます。
 そこに、あの雑用係の老人が、またお盆を抱えて現れました。
「みなさん、そう根を詰めてばかりいないで、そろそろお茶の時間ですよ」
 今度は紅茶セットを乗せています。
「どうぞ、一服。お茶菓子もありますよ。貰い物ですが、鎌倉名物鳩サブレ。これがなかなか、素朴で旨い」
 研究室の窓からは、いつのまにか、明るい午後の光が差し込んでおります。
「……おお、雨が上がってる」
 窓の彼方で、雨上がりの森が、瑞々しく輝いています。
「久しぶりですねえ」
「梅雨の晴れ間か」
「もう一生雨かと思った」
「二三日もってくれりゃなあ」
 フジ隊員は目を細めながら、
「やっぱり上高地に寄りましょうか」
「そうしましょ」
「……冗談よね」
「うん、冗談」
 一同、緊張を解いて、三時の小休止を始めます。
 その様子を、微笑しながら眺めていた老人は、
「おや?」
 机の上で、斑な木漏れ日を浴びているレポート用紙に目を止め、
「素粒子とやらの研究って奴には、何か、点字の勉強もいるんですか?」
 一同の顔色が変わります。
「……点字、とおっしゃいましたか?」
 カタギリ隊員が、やや強張って訊ねますと、
「はい。いや、私ゃ定年までは、麓の盲学校で働いてましてね」
「……それ、点字として、成立してます?」
 老人はレポート用紙に目を凝らし、
「このままじゃあアレですけどね、点字って奴は、並べ方が、こう……」
 すかさず他の研究員が差し出した新しい用紙に、老人は、右から左に向かって、なにやら麻雀牌の筒子《ピンズ》のようなパターンを書きはじめます。
「縦二列に横三列、これで一文字。濁点やちっこい字は、こう、二組で一文字……おやおや、やっぱり勘違いですかな。最初のほうは全部埋まってるから、これだと『め め め め』――『め』ばかりになってしまう」
 カタギリ隊員が、助言します。
「そのあたりは、パターンの原則を伝えているだけかもしれません。この、空白の増えるあたりから、お願いします」
「はいはい。……おうおう、これはやっぱり、点字訳をされるお方の草稿ですかな。点字器って奴は、点字用紙の裏から、こう、点筆って奴で、点々を突っついてくわけですな。筆と言っても、尖った金物の。そうすると、紙の表は、こう出っ張るわけで。そのひっくり返したほうの出っ張りを、生徒さんが指でなぞって読んでく、と。まあ近頃は、専用のタイプライターやパソコンでも――」
 老人は、昔取った杵柄で学者先生方の注目を浴びるのが嬉しいのでしょう、せっせと筒子《ピンズ》もどきを並べ続け、
「――はい、できました。やっぱり、正確な点字ですな」
 一同の緊張した視線が交差します。
「……読んでいただけますか?」
 カタギリ隊員のこわばった声に、
「はいはい。お易い御用で」
 老人は気軽にうなずいて、
「えーと、読みますよ。――『ワガハイワ ネコデアル。ナマエワ マダナイ。』――おや、漱石かな」
 一瞬、呆然と固まる他の一同を尻目に、老人はあくまでのほほんと、
「いや、やっぱり違うな。えーと、『マダナイ。ト イイタイトコロダガ、イチドダケ、ナマエヲ ツケラレタ コトガアル。』――」


     6

 そして同日、午後五時五〇分、三浦記念総合病院前庭横の、駐車スペース。
 あまり見栄えのしない中古のミニバンの横で、かばうまさんが携帯灰皿を手に煙草を吹かしながら、妻の帰りを待っております。
 結婚後の恵子さんの食餌的フォローも虚しく、あいかわらず肥え太ったぶよんとしてしまりのない体ですが、そのぶん容貌的な変化は、メイン・キャラの中では最も目立ちません。デブはあくまでただのデブなのですね。
 青梅では、ようやく雨が上がったばかりで、まだ雲は切れていません。駐車場から見下ろせる多摩川の渓流も、今は水墨画のように霞んでおります。
 その濡れた前庭を、とぼとぼと歩いてくる恵子さんを見つけ、かばうまさんは、や、と手を上げて煙草を消し、運転席に戻ります。
 恋女房が手を振り返してくれなかったのは、やや寂しいのですが、恵子さんはこのところ連日この病院に通って疲れておりますので、仕方がありません。共働きでなかなか休日も合わない弱小プリントショップの甲斐性なし亭主としては、せいぜい非番の日に迎えに来てやるくらいが、せめてもの女房孝行です。
 力なく助手席に乗りこんできた恵子さんに、
「保育園で拡恵を拾ったら、『鮒忠』でも行く? たまにはママも、上げ膳下げ膳でさ」
 拡恵というのは、今年五歳になる、ふたりの一粒種です。ちなみに読み方は拡恵《こうけい》君であって、拡恵《ひろえ》ちゃんではありません。先天性ろりおた親爺のかばうまさんとしては、当然女の子が欲しかったのですが、まあ男の子は男の子でまた別のいじりがいがありますし、末は立派なおたくに育てる夢も抱けますので、現在は溺愛状態です。
 しかし恵子さんは、心ここにあらず、そんな表情で黙りこくっております。
 ――『鮒忠』じゃ、酒飲みの俺に合わせすぎか?
 かばうまさんは、ちょっと思いやりが足りなかったかと反省し、
「……それとも、ロイヤルホスト?」
 だしぬけに、恵子さんは、かばうまさんにすがりつきます。けして大声などは出しません。しかし、恵子さんの背中を反射的にしっかりと抱いたかばうまさんの手には、恵子さんのとめどない激情が、刻々と伝わってきます。そしてかばうまさんのTシャツの胸は、ほどなく熱い涙に濡れそぼります。
 あの告知のあとも、午睡から覚めた優子ちゃんの話し相手を何食わぬ顔で続け、また、あの告知を聞いて娘から一刻も離れたくなくなり、といって自然な態度など到底保てないお父さんが、なんとか落ち着くまでフォローし続ける――そんな静かな修羅場に耐えてきた、健気な恵子さんなのです。
 かばうまさんは、何も言いません。
 優子ちゃんに関わる何かが起こった、そうとしか考えられず、自分自身それを知るのが怖い、それもありますが、泣いている女性には、とりあえず泣きたいだけ泣かせてあげなければいけない、その程度の心得はある中年親爺です。また、かばうまさんはとても惰弱な男ですので、人生上、恵子さんよりもずっと泣きたくなるような局面も多かったわけですが、なるべく人前では泣かず、後でこっそりトイレで大泣きするタイプです。
 そうして、とりあえずの涙をことごとく流し終えた恵子さんは、かばうまさんが手渡してくれたタオルで顔を拭いながら、やはり無理に旦那を痩せさせるよりは、ぶよんとしてしまりのないままのほうが抱き枕として使いでがあるかなあ、などと、しみじみ実感したりします。
 かばうまさんは、ようやく雲の間に覗きはじめた、夕暮れ間近の空を見上げながら、
「……昔から、降りっぱなしだった雨はないよ」
 恵子さんの髪を撫でさすります。
「だからきっと、これからも……」
 それにこくりとうなずくほどの余裕は、恵子さんには、まだありません。でも、ただ静かにぶよんとしてしまりのない胸に頬を寄せる、そんな余裕は蘇っております。
 そのとき――。
「ありゃ?」
 かばうまさんが、空を見上げたまんま、つぶやきます。
 雲の切れ間から渓流に注ぐ光の帯をたどるように、なにか見覚えのある機影が下りて来ます。
 どどどどどどどと、聞き慣れた垂直下降の噴射音も近づいてきます。
 やがて、駐車場の空きスペースに降り立ったジェットビートルから、科特隊ルックのまま、貴ちゃんのママが駆け下りてきます。
 かばうまさんが「なんだなんだ」と思いつつ手を振りますと、貴ちゃんのママは助手席の恵子さんのほうに目を止め、一目散に駆け寄ってきて、
「ちょうど良かった! 恵子さん、はい、お手紙!」
「……な、なんですか? これ」
「とにかくまず読んでちょうだい!」
 レポート用紙に清書された、その文面は――。

【ワガハイワ ネコデアル。  ナマエワ マダナイ。  ト イイタイ トコロダガ、 イチドダケ、 ナマエヲ ツケラレタ コトガアル。  ソレワ ソレトシテ、 ソチラガ 201×ネン 7ガツデ アレバ、 シキュウ、 イカノ デンゴンヲ ツタエルベシ。  イカ、 アテサキ。 トーキョート オーメシ ミウラキネンソーゴービョーイン ナイ、 マツイ ヤスシ、 オヨビ、 ミウラ ゴーゾー、 オヨビ、 オキノツカサ ケイコ。  イカ、 ヨーケン。  「ユーコニ、 ホントーノ ビョーキノ コトヲ、 イマスグ オシエテ ヤッテクレ。  ユーコワ、 オマエタチガ オモウホド、 ヨワイ ニンゲンデワ ナイ。  スベテワ シンジツカラ ハジマルノダ。  ソシテ、 シンジツニ、 オワリワ ナイ。  」 ヨーケン、 トリアエズ、 イジョー。  ナオ、 ワガハイノ ナワ、 フホンイナガラ、 ニャーオチャン。】

 本来そう清書されているのですが、『ソチラガ 201×ネン 7ガツデ アレバ、』の部分は、なんかいろいろの事情で、塗りつぶしてあったりもします。
 片仮名ばかりでまだピンとこない恵子さんのために、貴ちゃんのママが用件の部分を読み上げます。
「――『優子に、本当の病気のことを、今すぐ教えてやってくれ。優子は、お前たちが思うほど、弱い人間ではない。総ては真実から始まるのだ。そして、真実に終わりはない。』――何がどうなってるのかは解らないけれど、とにかくこれは、最優先事項らしいわ。恵子さん、『にゃーおちゃん』って、心当たりはある?」
 鳩が豆鉄砲をくらったような顔の恵子さんを、貴ちゃんのママは車から引きずり降ろし、
「とにかく詳しいことは、これから説明する。松井康志って、あの松井先生でしょ?」
 小児科の先生なので、貴ちゃんも昔お世話になっているのですね。
「え、ええ」
「三浦さんちのご主人も呼ばなくちゃ」
「まだ中にいらっしゃいますけど……」
「そりゃ好都合だわ」
 恵子さんの肩を抱いて、そそくさと病院のエントランスに向かいます。
 あれからすぐに飛んで来たかったのですが、本来なら極秘扱いである異常事態の大元を、宛先どおり配達する――そんな越権行為を可能にするために、あっちこっち連絡するやら説得するやら折衝するやら、うるとらな立場を笠に着て凄むやら、けっこうな時間を費やしてしまったのですね。
 さて、あとに残されたかばうまさんは、
「……おーい」
 もう誰も相手にしてくれる人がおりません。
 ビートルのコクピットのフジ隊員と目が合って、
「あ、どうも、その節は色々と」
 聞こえるはずもないのに声に出して挨拶したりしますが、あーら太めの即席ジャミラさんどもども、そんな感じで軽く頭を下げ返されただけです。
「……ま、いいか」
 とりあえず、拡恵を迎えに行こう。なにか晩飯作ってやって、奴の保育園話でも肴に酒を飲もう――ぶよんとしてしまりのない背中にいささかの哀愁を湛え、すごすごと発進する、かばうまさんでした。





   第三章 お見舞いはお静かに


     1

 優子ちゃんの面会許可が出た――待ちに待った知らせが届いたのは、もう梅雨も明けた、夏休み前日の土曜の夜でした。
 わくわくと眠れない夜をすごし、明けて日曜、夏休み初日の朝、
「行ってきまーす!!」
 めいっぱい張りきって家を飛びだした貴ちゃんは、とたんに照りつける夏の日差しなどものともせず、飛び散る汗の跡を旧街道の舗道にぱたぱたと残しながら、まず邦子ちゃん家をめざします。
 戦前の木造店舗から、数年前ようやく平成の個人商店に格上げされた長岡履物店は、しかしやはり一家の経済的事情により、また、商店街の方針によって屋根の上に飾り付けられたままの、古い映画の絵看板――『名もなく貧しく美しく』のためもあり、かなり三丁目の夕日っぽく佇んでおります。
 店先で待っていた邦子ちゃんは、
「…………」
 駆けてくる貴ちゃんの服装に、思わず絶句します。
 紅白の縦縞ワンピース、それもかなり幅広の縞々で、襟なしの首周りは、ひときわ鮮やかな真紅の縁取り――まるで女子中学生サイズの神前結婚式、あるいは新装開店セールが、街道を疾走してきたかのようです。
「やっほー!!」
「……すげー柄だな」
「気持ち!」
「……んむ。確かに、気持ちは大事だ」
 ちなみに邦子ちゃんは、いつもの通学用夏服姿です。制服という衣類は、ビンボな家の少女にとって、実に便利な汎用正装なのですね。
 その場でたったかたったかと足踏みし続けている貴ちゃんに、
「まあ、落ち着け。まず、一服しろ」
 邦子ちゃんは、手にしていた愛用の黒いスポーツボトルを差し出します。どうせめいっぱい走ってくると思って、麦茶を用意して待っていたのですね。
「ありがとー!」
 ぐびぐび、ぷはあ、と一息つく貴ちゃんに、
「おれにも、くれ」
 邦子ちゃん方向ではなく、やや地面方向から、声がかかります。
「ほい」
 貴ちゃんがボトルを下げ渡しますと、
「んむ」
 おっく、おっく、おっく、おっく――。一.五リットルのボトルの残りほとんどを、みるみるうちに一気飲みする、とんでもねーちみっこが、ひとり。
「ぷはあ」
 あたかも数年前の邦子ちゃんをまんまコピーしたような、そのショートカットのちみっこは、
「んじゃ、いくぞ」
 病院方向を、びしっと指差します。
「いくぞ、じゃない」
 ちみっこの頭を、邦子ちゃんが、ぽん、と叩きます。
「友子は呼ばれてないから、今日はだめだ」
「いやだ。ともこも、いくぞ」
 毅然として言い放つ口調もまた、かつての邦子ちゃんに生き写しだったりします。着ているシャツやショートパンツも邦子ちゃんのお下がりばかりですから、これはもう漫画だったら確実に過去の原稿のコピーの切り貼り――つまり、作者の手抜きに違いありません。
「ゆーこねーちゃんには、むかしから、ずいぶん、せわになった」
「だったら、おまいは向こうが落ち着いてから、見舞えばいい」
「それでは、ぎりがたたない。にんじょーも、たたない」
 がしがしと貴ちゃんの背中によじ登り、
「おとこが、たたない」
 あえて貴ちゃんの背中を選んだのは、実の姉が相手だと、どーふんばっても跳ね飛ばされてしまう、そう悟っているからでしょうか。
「おい、たかこねーちゃん、おれもつれてけ」
 相手が貴ちゃんなら、まだ七歳の友子ちゃんでも、姉譲りの腕力で楽にふんばれます。
「いっしょに行こうよ。友子ちゃんなら、優子ちゃんも会いたがってるよ」
 貴ちゃんも、加勢してあげます。
 友子ちゃんは、んむ、と力強くうなずいて、
「さすがは、たかこねーちゃんだ」
 それから邦子ちゃんを、ぎろりんと不敵に睨みつけ、
「おとこは、つよくなければ、いきていけない。んでも、やさしくなければ、いきているしかくがないのだ」
 そう言いながら、貴ちゃんのツインテールを、撫で撫でします。
 つまり、強く生きて行けるのは邦子ちゃんかもしれないが、生きる資格は優しい貴ちゃんのほうが上――そんなニュアンスのようです。まあ三人とも、女の子なんですけどね。
 邦子ちゃんは、匙を投げます。
「ま、いっか」
 自分がそう育ててしまったのですから、仕方がありません。
「んでも友子、あっちに行ったら、なんでもかんでも食いまくるんじゃないぞ」
「んむ」
 貴ちゃんは、感慨をこめてつぶやきます。
「……まんまだねえ」
 邦子ちゃんは嬉しいような困ったような顔で、
「んじゃ、おまいら、店番よろしくな」
 店の奥にいた双子の弟に、声をかけます。
 俊平君は、民芸調のミニチュアぽっくりを鉋《かんな》で削りだしながら、
「おっけー」
 俊和君は、近頃ようやく導入した電子レジスターのマニュアルから顔を上げ、
「優子姉ちゃんに、よろしくね」
 今年小学六年に上がった弟たちは、あいかわらずおんなしお顔でひ弱な体格ながら、片や手先の器用な職人向き少年に、片や算盤勘定に長けた商売人向き少年に、つまり二人揃えば立派な長岡履物店の後継者に育ちつつあります。さすがにここまで育ってくれると、男子キャラにはとことん薄情なお話作りのろりおた野郎も、きちんと名前を設定せざるをえません。
 友子ちゃんは、貴ちゃんの背中から飛び下りて、
「んじゃ、いくぞ!」
 先陣を切り、のっしのっしと病院方向へ進軍を開始します。
「……ほんっとに、まんまだねえ」


     2

 さて、そうして、ご近所の八百屋さんでお見舞いのフルーツバスケットなど誂えたのち、多摩川沿いの遊歩道に下り、みんみんじいじいと愛を求めて必死に悶えまくる蝉時雨の中、いそいそと歩いておりますと、
「あ、かじむのやつだ」
 友子ちゃんが、目ざとく河原方向を指差します。
「げ」
 貴ちゃんは、思わず腰を引きます。
 向日葵の群生の中で、ちっこいプーさんのリュックを背負い、同じくプーさんの水筒を下げ、なにやら小型ゲーム機のようなものを一所懸命いじくっている、友子ちゃんと同じくらいのちっこい男の子――しかしてその正体は、貴ちゃんが小学校高学年の頃にお隣に引っ越してきて、なぜかとことん貴ちゃんに懐いてしまい、のみならずなんでもかんでも「はんぶんこ」と主張して、貴ちゃんのお小遣いやおやつを常に半分がた搾取してしまう恐るべき児童――梶村舵武君です。まあ、あっちのお小遣いやおやつも律儀に「はんぶんこ」してくれるわけですが、その年齢差から生じる不平等は、ハンパではありません。
「おーい、かじむ!」
 友子ちゃんは、その一目置いている同級生に、とことこと駆け寄ります。
「なにやってんだ?」
「なつやすみの、しゅくだい」
「おお、さすがは、てんさいハカセだなあ」
 夏休みの初日から宿題に勤しんでいる小学二年生など、このあたりでは珍獣に等しい存在です。手元の液晶モニターは、ゲームではなく、パームトップ・コンピュータだったのですね。
「ひまわりを、かんさつするのか?」
「こくこく」
 舵武君は、日本人離れした彫りの深い褐色の顔に、天真爛漫な笑顔を浮かべ、
「青梅における向日葵の細菌性斑點病の現状および対策試論」
 マジに天才なのですね。
 たとえば舵武君が去年の夏休みに宿題で出した、『お星さまのかんさつとけんきゅう・うちゅうはやっぱりちぢむみたいです』は、宇宙論おたくの理科の先生が大感動して、『振動宇宙論再検証』と題して英訳したところ、アメリカの権威ある学術雑誌『サイエンス』に採用されてしまったほどです。あくまで息抜きのコラム的扱いでしたが、前代未聞の快挙には違いありません。
 ちなみに舵武君のパパは、NPO法人・MSF(国境なき医師団)に所属する形成外科医さんで、ママはイラクで知り合った現地の看護婦さんです。だから舵武君のお名前も、けして語呂合わせではなく、あちらふうの発音に合わせたわけですね。現在は両親ともヨルダンのアンマンに、イラク紛争がらみのお仕事で出かけているため、舵武君は、青梅でお祖父ちゃんやお婆ちゃんといっしょに暮らしております。お祖父ちゃんは三浦総合病院の現役脳外科医さん、お婆ちゃんはさすがにもう引退しておりますが、元看護学校の校長先生――そんな、知性と実践力に溢れた一家なのです。
「おれは、あさがおのかんさつだ。んでも……おれも、ひまわりにしようかな」
 ――こういっておけば、あとで、まるうつしさしてくれるかもしんない。
 こんな時のために、友子ちゃんは舵武君との友情を、日頃からとても大切にしています。生活感情方面においては、あくまで子供なりの同レベルですし、お勉強方面で理解しかねる言動が多々あるにしても、丸写しするだけなら無問題です。
「うん。ひまわり、きれいだよ。いちんち見てると、もっとおもしろいよ」
 舵武君は嬉しそうにうなずいて、ふと、遊歩道の上に目を止め、
「あ、たかこねーちゃん!」
 とことこと河原の斜面を駆け上がって、貴ちゃんにひっつきます。
「すりすりすり」
「……はいはい、貴子姉ちゃんだねえ」
 貴ちゃんは、この純朴な可愛らしさが総ての元凶なのだ、と心中で嘆息します。
 舵武君は背中のリュックを下ろして、ごそごそと中を探ったのち、
「はい、はんぶんこ」
 お祖母ちゃんに握ってもらったお握りを、一個分けてくれます。
「あ、ありがと」
 確かに梶村家のお握りは、とても美味しいのだが――貴ちゃんは、フルーツバスケットに注がれる舵武君のわくわく視線に往生しながら、
「ごめん。これは、半分こ禁止。全部、優子ちゃんのお見舞い」
「ゆーこねーちゃん、元気になった!?」
 舵武君は、優子ちゃんとも大の仲良しです。元気色の顔をさらに輝かせ、わくわく倍増の眼差しで、貴ちゃんを見つめます。
 きらきらきらきら。
 わくわくわくわく。
 隣の邦子ちゃんは、無敵の貴子も子供にだけは弱いんだよなあ、と苦笑しながら、舵武君の頭をぽんぽんします。
「おい、俺にも握り飯をくれたら、連れてってやるぞ」
 舵武君は、すなおにうなずいて、リュックをごそごそしはじめます。
 邦子ちゃんはけらけらと笑って、
「冗談だ。なんぼ俺でも、子供の弁当はパクらない」
 大人や仲間のお弁当なら、時々パクるのですね。
 貴ちゃんも、舵武君の笑顔に敗北します。
「……いっしょに、行く?」
 精神的な『はんぶんこ』、そんなところでしょうか。
 まあどっちみち、一度貴ちゃんにひっついてしまった舵武君を引き離すのは、昔から不可能なのですね。


     3

 さて、そんなこんなで、きゃぴきゃぴと病院に向かった貴ちゃん御一行様が、見舞客受付で教えられたのは、なぜかSPCUではなく、最上階のVIP用個室でした。昔の花火騒動の時にも優子ちゃんが入院していた、あの、多摩川を見下ろせる、広くて明るい部屋です。
 ほとんど病院臭くない最上階の廊下を、そのドアに向かって歩きながら、
「わくわく、わくわく」
 貴ちゃんは、オマケの幼児ふたりよりもわくわく顔です。
「おい、貴子」
 邦子ちゃんが、生真面目顔で説教を垂れます。
「おまいも、あんまし騒ぐんじゃないぞ。優子は、病み上がりなんだからな」
「えー、騒がないよう。子供じゃあるまいし」
 邦子ちゃんは、疑わしげに貴ちゃんを睨みます。
「去年、高柳先生を殺しかけたのは、どこのどいつだ」
 高柳先生というのは、貴ちゃんたちが小学校の二年までお世話になっていた、あの優しくて一等賞な女先生です。
 その高柳先生が、去年盲腸の手術で入院したとき、貴ちゃんトリオは揃ってお見舞いに行きました。三年生以降はもう担任ではなかったのですが、三人組にとって、特に貴ちゃんにとっては、なんかいろいろ思い出深い恩師です。ですので貴ちゃんとしては、その恩人の手術成功を必要以上に喜んでしまい、とっておきの新ネタ『コロッケが物真似する島倉千代子さんがおっ母さんをお見舞いするところの物真似』を、思わず病室で披露してしまったのですね。その結果、高柳先生のくっついたばかりの傷口は、大爆笑による腹圧でばっくりと開き大出血、あまつさえ腸そのものもあっちこっちアレしてしまったため、先生は腹膜炎を併発し、三日三晩生死の境をさまよいました。
「……けして悪気はなかったのですが」
 貴ちゃんは、なぜか丁寧語でつぶやき、頭を垂れます。
「おまいの善意は、しばしば危険なのだ」
「……こくこく」
「まあ、今日は小ボケだけにしとけ。面会は三十分だけなんだからな」
「こくこく」
 貴ちゃんとしても、異存はありません。高柳先生のときだって、最初はおとなしくしているつもりだったのです。それがなぜ、あんな惨事を招いてしまったのか。それが自分の、生まれついての『業《ごう》』なのだろうか――。
 今日は小ネタも封印しとこう。やっと目を覚ましてくれたんだもん。三か月ぶりだもん。優子ちゃんの元気な顔を見られれば、オールOK――そう決心して、神妙にかしこまり、ドアをノックします。
「……どうぞ」
 やったあ。ちょっと変な声だけど、優子ちゃん優子ちゃん。優子ちゃん、ちゃんと起きてる――。
 喜び勇んで、真っ先に病室に踏みこんだ貴ちゃんは、
「……ありゃ」
 なぜか、入口で立ちすくみます。
 優子ちゃんは、ベッドの上で枕に背をもたれ、もじもじどきどきと頬を染めております。
「…………ぽ」
 まだ髪の毛は短いままで、体のあちこちに繋がったチューブやケーブル類もSPCUにいた時と変わらず、この部屋に移設された膨大な延命用機器類や、外部のモニター機器に繋がっております。それでもずいぶん明るい表情なのは、無理を承知でこの部屋に移してもらって以来、大きな窓の向こうに懐かしい空がいつでも広がっておりますし、その空や山々を眺めるうち、ついに、貴ちゃんや邦子ちゃんと再会する決心がついたからなのでしょう。
 そんな優子ちゃんを、貴ちゃんは、なにやら微妙な表情で見つめます。
「…………」
 明らかに、疑惑の視線です。
 優子ちゃんは、思わず不安に囚われてしまいます。
 やっぱり今の私は、そんなに不愉快な姿なのだろうか――。
 でも念のため、貴ちゃんという女の子は、竹馬の友が多少変貌したからといって、そう簡単に動じるような生やさしい人間ではありません。むしろ多少変てこりんな方が好ましいほど、根っからの物好きです。もし優子ちゃんが、あの夢の中の人魚や濡れ女と化していたとしても、嬉々としていっしょに泳ぎ回るでしょう。しかしまた、それほどアレであるがゆえに、その想像力には時として常識が通用しません。
 ――なんか、アヤしい。
 つまり今、貴ちゃんは、優子ちゃんの声や髪型のアヤしい変化、さらに外部オプションと思われる最新スーパーメカ類を見て、これはもしかして本物の優子ちゃんではないのではないか――そんなふうに、疑ってしまったのですね。もし、優子ちゃんの悲劇に錯乱したお父さんが、莫大な私費を投じて造りあげた優子ちゃん型ロボ、あるいはアンドロイドの試作品だとしたら――。
 この三か月、何度も優子ちゃんが死んでしまう夢を見て、眠れぬ朝を迎えたりしていた心のしこりが、まだ残っていたのかもしれません。
 貴ちゃんは、しばしの沈黙ののち、後に続こうとする邦子ちゃんたちを、ちょと待て、と後ろ手で制します。
 そして、やや警戒の眼差しで、
「……どぱよー」
 おずおずと優子ちゃんにご挨拶します。
 どぱよー、どんぱぱぱ、どんぱんぱ。それらの挨拶は、三人組が幼児期に交わしていた、特殊言語の一部です。
 ――ロボならば、どどんぱ語は知らないかも。
 さて優子ちゃんは、不安を募らせつつも、反射的にどどんぱ語で挨拶を返します。
「どんぱぱぱ」
 もうお昼も近いのだから、「どぱよー」=「お早うございます」だと、ちょっとおかしいのですね。お昼だったら「今日は」=「どんぱぱぱ」です。
 あ、通じた――貴ちゃんは、一瞬、ぱあっと顔を輝かせます。
 しかし直後、いやいやいや早まってはいけない、と言うようにあわてて首を振り、
「……次の問題に、お答えください」
 じわじわと優子ちゃんに迫りつつ、
「貴ちゃんが一番好きなお菓子は、どこの何でしょう」
 優子ちゃんは、ようやく気づきます。
 あ、これは、今の私を嫌がってるとゆーよーな、ありがちな展開じゃないんだ。なんか貴ちゃん特有の、天然ボケが始まってるだけなんだ――。
 ほんとうならすぐに気づくべきだったのですが、しばらく会っていなかったため、優子ちゃんの貴ちゃんに対する順応力も、いささか鈍ってしまっていたのですね。
 優子ちゃんは、その懐かしい感覚に思わずときめきながら、
「不二家の苺ミルフィーユ」
 ――おう、正解。
 貴ちゃんは、これはやっぱし本物かも――いやまだ早急、そんな表情で、
「……バニラダヌキさんのお家は?」
「蔵王の、えーと、雁戸山」
「脚がなくとも歩いてくる木は?」
「桜さん」
「あるかぽね」
「ないちんげーる」
 今すぐ抱きつきたいのだが――いやいや、念には念を入れて――貴ちゃんは、なにやら厳粛な面持ちで、最後の審判に臨みます。
「……貴ちゃんのお尻のでっかいホクロは、お尻の穴の右? 左?」
 優子ちゃんは、すでにときめくどころではなく、懸命に爆笑をこらえております。今の優子ちゃんにとって、不用意な大爆笑は、文字通り生命に関わりかねません。
 貴ちゃんのホクロ。
 それは、まだ幼稚園に入って間もない頃――ウンチの後でお尻がきれいに拭けているか、お互い確認し合っていた頃の、ふたりだけの秘密です。邦子ちゃんさえ知りません。当時の邦子ちゃんは、ウンチの後のお尻など、男らしく気にも止めなかったからです。
「……え……えと、えと……右」
「ぎく!」
 すざざ、と後ずさる貴ちゃんに、
「あ、ごめんね。お尻の方から見ると、左」
 ついに貴ちゃんは、納得します。
「……本物だあ!」
 ひし、と優子ちゃんに抱きつき、
「……本物だ……本物の優子ちゃんだあ……」
 優子ちゃんの胸に頬をすりすりしながら、ぽろぽろと涙をこぼす貴ちゃんを、優子ちゃんは腕の輸液チューブに注意しながら、そっと左手で抱きしめます。
 その胸中では、ときめきも爆笑もすでに影を潜め、ただ、暖かい微笑だけが左の頬にことことと浮かび、まだ動かないはずの右頬までが、微かに緩んだりもします。
 嗚呼、麗しきかな汚れなき乙女たちの友情――しかしその時、さめざめと泣き濡れる貴ちゃんの後ろ頭を、すこんすこんとスポーツボトルが直撃します。
 それまで、一部始終を生暖かく見守っていた邦子ちゃんは、つくづく呆れ果てた顔で、
「こら貴子、大ボケはやめろと言っただろう。ハズしたからいいようなものの、また優子の心臓が止まったら、どーするつもりだ」
「……だって……ひっく……だって……鉄腕アトムとか……究極超人あーるとか……ひっく」
 まあ、R・田中一郎君の場合は、モデルの息子さんも生きていたんですけどね。
 そうして、ようやくロボ疑惑の解けた優子ちゃんに、おまけのちみっこたちもご挨拶します。
「うっす、ゆーこねーちゃん、しんぱいしたぞ」
「ごめんね、友子ちゃん」
 久々に頭を撫でてもらい、友子ちゃんはちょっと恥ずかしいのをごまかすように、唇をきりりとへの字に結びます。
「んむ。あやまるな。にんげん、いきていれば、それでいー」
 ほんとは内心うるうるしているのですが、泣くのは貴ちゃんに先を越されてしまったのですね。
「ひっく、ひっく」
「こらこら、たかこねーちゃん、めでたいせきで、ぴーぴーなくんじゃあない。うぶなねんねじゃ、あるまいし」
 もっともらしく、貴ちゃんの頭をぽんぽんします。
 優子ちゃんは、思わずつぶやきます。
「……まんまだねえ」
 舵武君が、おずおずとお手々をさしだします。
「……ゆーこねーちゃん」
 めいっぱいはにかんでしまい、名前を呼ぶのが精一杯のようです。
 優子ちゃんはこくりと頬笑んで、ちっこいお手々を、優しく握ってあげます。
「はい、舵武君も、こんにちは」
「……にぎにぎ」
「はい、にぎにぎにぎ」
 舵武君の元気顔が、なんだか御成婚直前の美智子妃様に握手してもらった地方議員親爺のごとく、しまりなくトロけます。
「……えへへー」
 どんな天才児童でも、聖処女の前では、やはり無条件降伏するしかないのでしょう。
 そんなみんなの交情を、男らしく無言で見守りながら、んむ、と力強くうなずく邦子ちゃんでした。


     4

 そうして、感動と喜びとハズシのご対面を終えた貴ちゃんたちは、ベッドを囲んで正調お見舞いモードに移ります。
「いやー、しかし、今度は長かったなあ」
 お土産の梨をしゃくしゃくと囓りながら、邦子ちゃんがぼやきます。
「あんまし起きて来ないんで、俺はもう、あっちこっち調べてたんだぞ。どこでモノホンの花火をかっぱらおうかな」
 マジに尺玉を上げるつもりだったようです。
 ちなみに邦子ちゃんは、貴ちゃんの前でこそ悟ったような物言いをしていたものの、この三か月で男子柔道部員数名をシメ落とし、中体連の地区大会ではあまりの殺気に対戦者の棄権が続出、学外では無慮十数名の不埒者を再起不能にしております。優子ちゃんの目が覚めたらしいことだけは知っていたものの、面会できない不安や焦燥で、歯止めが効かなくなっていたのですね。
 貴ちゃんもまた、邦子ちゃん同様に情緒不安定状態だったわけですが、たまたまその間の公的活動が『チアリーダー全員で繰り広げる美空ひばり先生の不死鳥コンサート再現』に集約されていたため、応援の現場では、「大腿骨骨頭壊死による気の遠くなるような激痛をおくびにも出さず華麗に歌い舞う昭和最大の歌姫のラスト・ステージを、その内面の苦悩まで完璧に表現した」と、主に大会関係者の親爺連中に絶大な感銘を与えました。でも対戦相手の未熟な厨房たちは、異様にケバいおばはんが集団でイきながら歌っているとしか把握できず、ものの見事に脱力してくれたため、××中学のサッカー部や野球部は、無事に地区優勝を果たしました。
「ねえねえ、優子ちゃん」
 貴ちゃんは桃の皮をつるつると剥きながら、優子ちゃんの体や、それに繋がる延命用機器を、ちらちらと目視検分しております。まだロボ疑惑が晴れないのでしょうか。
「――やっぱし、どっか、改造されちゃった?」
 どうやら、想像力がサイボーグ方向にシフトしただけのようです。
 優子ちゃんはちょっと面食らいますが、今度の貴ちゃんは明らかにわくわく視線なので、なんとなく嬉しい気もしたりして、
「……うん。ペースメーカーっていう機械が入ってる」
 胸のあたりを指し示し、サービスしてあげます。
「ここんとこ」
「いいなあ、機械の体」
 貴ちゃんは心から羨ましそうに、優子ちゃんの胸に耳を寄せます。
「あたしも、どっか改造したいなあ」
 うるとら関係の身でありながら、らいだー関係にも強く憧れている貴ちゃんです。
「やめとけ。おまいの場合、脳味噌を取っ替えないかぎり、どのみち大して変わらん」
「ぺぺぺのぺー」
「くすくすくす」
 貴ちゃんは、桃の一番柔らかいあたりを、フォークで優子ちゃんの口に運んであげます。
「はい、優子ちゃん」
「ありがと」
「……んまいか?」
「うん、とっても」
 いつのまにか、優子ちゃんの右の頬も、ずいぶん緩んできたみたいです。
 そんな三人の背後では、友子ちゃんが、残りの果物をひたすら食べまくっております。
「しゃぷしゃぷしゃぷ。うん、めろん、んまいんまい。ほっぺたが、おちそうだ」
 優子ちゃん本人の許可がおりたので、もうなんの遠慮もいりません。
 舵武君はリュックから学習ノートを引っぱり出し、各種医療機器のプレートをメモしたり、それが優子ちゃんのどこに繋がっているかを確かめたり、研究活動に余念がありません。時々「しーえーぴーでぃーじゃなくて、だいあらいざー」とか「高濃度さんそは、ていし中」とかつぶやいているのは、きちんと理解できているからでしょうか。本当は愛用のコンピュータを使いたいのでしょうが、この病室内では使用禁止です。
「でも優子、おまいも偉いなあ。こんなとこで、ひとりっきりでベッドに縛りつけられて、おとなしく寝てるんだもんなあ」
 邦子ちゃんが、感心します。
「俺だったら、とても寝てらんない」
「でも……いろいろ、繋がってるもん」
「俺だったら、全部引きずっても逃げるぞ」
「でも、あれなんか、床や壁と繋がってるよ」
 貴ちゃんの指摘に、舵武君もこくこくとうなずきます。
「むずかしいもにたーや、せいぎょは、たぶん、べつんとこ」
 まあ貴ちゃんとしては、病院を丸ごと引きずって学校に出てくる邦子ちゃんの姿なども、充分想像できたりするわけですが。
「そーか。じゃあ、逃げらんないか。んじゃ、優子は、もっと偉いな。俺なんか、いっぺん寝込んだだけで――」
 言いかけて、邦子ちゃんは、おっと、と口をつぐみます。
 いかんいかん。男らしい俺の女々しい過去を、自ら曝こうとしてしまった――。
「……あったねえ」
 貴ちゃんが、ジト目でツッコみます。
 あ、そういえば――。
 優子ちゃんも、忘れていた昔の事を、思い出します。
 それは確か、小学校高学年の秋でした。
 生まれてからそれまで一度も病気になったことのない邦子ちゃんが、楽しみにしていた運動会の直前、水疱瘡に罹ってしまったのです。いわゆる鬼の霍乱と言う奴ですね。
 貴ちゃんや優子ちゃんのように、すなおに幼稚園で済ませておけば、大した症状は出なかったはずなのですが、あの病気は成長すればするほど、悲惨な症状を呈しがちです。体がでかくなればなるほど、水疱の生じる体表面積も粘膜部分も、加速度的に増えますからね。
 生まれて初めて発熱し、奇妙にウツロな頭で病床に就き、頭髪の内側から口の中から足の先までまんべんなく出まくった水泡にビビり、女の子の大事な部分さえ避けてくれない猛烈な痒みに日夜悶え続け、全身塗り薬にまみれ、それでも邦子ちゃんの場合食欲だけは落ちないので、大量のご飯や味噌汁を飲み下すたびに喉の奥に激痛が走り「ぐぬぬぬぬう」と脂汗を流す――それでも男らしい邦子ちゃんは、必死に理性を保とうと、お経を唱えながら頑張りました。
 しかし、そこで頑張りすぎたのがいけなかったのでしょう。やがて水疱がかさぶたになった頃、ふと気が抜けて、なんじゃやら一時的に、イってしまったのですね。
 もう外にウィルスを運ぶ心配はないだろうと言うことで、ある日曜日に貴ちゃんと優子ちゃんがお見舞いに行きますと、かさぶただらけの邦子ちゃんは蒲団の中で奇妙にウツロな微笑みを浮かべながら、
「……運動会、楽しかったか?」
 とか、
「……給食は、んまいか?」
 とか、
「……みんな、幸せか?」
 とか、弱々しくつぶやきます。
 貴ちゃんと優子ちゃんは、ああ、これはかつてないほど悲惨な思いをしたのだなあ、と同情しつつ、いたわりの会話を紡いでおりますと、
「……おれは、まだ、とーぶん、外に出られない」
 邦子ちゃんは不意に涙ぐみ、
「……なんで、おれだけが、こんな目に」
 それから突如跳ね起きて、
「おれをひとりにしないでくれえ!」
 蒲団の中に隠し持っていた玩具の手錠を振りかざし、きゃあきゃあと逃げまどう貴ちゃんと優子ちゃんを捕獲すると、ふたつの手錠で、自分の両手に繋いでしまいました。
 ずるずるとふたりを引きずって蒲団に戻り、
「……友達って、いいな」
 などと満足げにつぶやいて眠りに落ちた邦子ちゃんの安らかな寝顔を、貴ちゃんと優子ちゃんは、ただ呆然と両側から見守るしかありませんでした。
 ちなみにその日の長岡履物店は定休日で、邦子ちゃん以外の家族はみんな出かけてしまっていたため、貴ちゃんと優子ちゃんは、夕方になってようやく拉致状態から解放されたのです。
「――あんときは、ほんとにまいったんだからね。だって邦子ちゃん、ちっとも起きないんだもん。おトイレん時なんか、優子ちゃんとふたりで、縁側をずうっと引きずってったんだからね、お布団に乗っけたまんま」
「わはははは。気にするな。若気の至りだ」
「死ぬまで気にするよう」
「貴子は、どうも執念深くていけない。優子なんか、きちんと忘れて――」
 言いかけながら優子ちゃんを見ますと、優子ちゃんは嬉しそうに笑いながら、うっすらと涙を浮かべています。
「どした、優子?」
「ううん……なんでもない」
 ――悩むことなんて、なんにも無かったんだ。私が弱かっただけなんだ。貴ちゃんや邦子ちゃんは、いつだって、ずっとお友達だったんだ。そして、これからも……。
 そのこれからが、たとえ、あとわずかだとしても、このひとときを過ごせただけで、優子ちゃんは自分の『生』を全肯定しながら旅立てる気がします。
「おっと、そろそろ、時間だな」
 邦子ちゃんの言葉に、貴ちゃんもすなおにうなずきます。
「んじゃ明日も、また来るね」
 優子ちゃんがずいぶん疲れてきた様子なのを見逃すほど、鈍感なふたりではありません。
 優子ちゃんも、そろそろ酸素濃度を上げないといけない時間なので、無理に引き留めるつもりはありません。
 いったん分かれる残念さよりも、このひとときの幸せの余韻に浸りながら、優子ちゃんはつぶやきます。
「……ねえ、ふたりとも、覚えてる? にゃーおちゃん」
 おや、ずいぶん昔の話を――ふたりはちょっとハテナ顔で、
「おう。もちろん覚えてるぞ。あれも、水臭い奴だったなあ」
「せっかく優子ちゃんが、猫ハウスまで作ってあげたのにねえ」
 あの『にゃーおちゃん』――片桐家秘伝の丸薬(?)で無事に蘇生した猫さんは、しばらく優子ちゃん家の屋根で暮らしておりましたが、ある日、パディントンのぬいぐるみといっしょに、姿を消してしまいました。三人でずいぶん探し回ったのですが、奥多摩の山中に隠棲してしまったらしく、今も行方不明のままです。
「まあ、もとが野良だから、やっぱしな」
「でもきっと、今もパディントンといっしょだよ」
「……うん」
 優子ちゃんは、カミオカンデでの詳しい出来事などは、知らされておりません。恵子さんや松井先生や優子ちゃんのお父さんさえ、肝腎の『始原タキオン流』に関しては、何も知らされておりません。あくまで科特隊や防衛省、そしてうるとら関係の極秘事項です。
 貴ちゃんのママやその上層部は、『にゃーおちゃん』を、あの野良猫さんが本来人間用の『生命《いのち》』の副作用によってなんらかの進化を遂げ、未来からメッセージを送信しているのではないか、そんなふうに推測しております。そして優子ちゃんや恵子さんたちは、その『未来から』や具体的手段を、曖昧化して伝えられております。
『優子に、本当の病気のことを、今すぐ教えてやってくれ。優子は、お前たちが思うほど、弱い人間ではない。総ては真実から始まるのだ。そして、真実に終わりはない。』
 懊悩の末に、本来の自分を取り戻した優子ちゃんですが、にゃーおちゃんの言葉の真の意味は、大人たち同様、ちっとも解りません。ただ、あのにゃーおちゃんが今もどこかで自分を見守ってくれている、それだけで、なんだかとっても力が湧いてきます。
 また優子ちゃんは、自分が余命いくばくもないという事実を、あえて貴ちゃんや邦子ちゃんに告げようとは思っておりません。それはふたりを苦しめるだけ――そんな、むしろ幸せな想いに、ついさっきも瞼を潤ませたばかりです。だから、にゃーおちゃんからのメッセージのことを、ふたりに教えるつもりもありません。
 ただ今日は、高濃度酸素ではない状態でいつもより長く起きていたためか、頭がぼんやりしてしまい、楽しかった昔の思い出を、すなおに口にしてしまったのですね。
 会いたいなあ――そんな優子ちゃんの儚い表情を、じっと見つめていた貴ちゃんは、
「……んじゃ、次のお見舞いは、にゃーおちゃん?」
 邦子ちゃんがツッコみます。
「おいおい、なんぼなんでも、次は無理だろう。次って、明日だぞ」
「ありゃ」
「んでも、夏休み中なら、なんとかなるかもな」
 優子ちゃんは、ちょっとあわてて、ひらひらと左手を振ります。
「で、でもでも、もう、あれからずいぶんたってるし……」
「まあ、安請け合いは、できないが――」
 窓越しの夏の光に、邦子ちゃんの白い歯が光ります。
「んでも、あいつが今も山ん中で生きてることだけは、確かなはずだ」
 貴ちゃんも、こくこくとうなずきます。
「そーそー。なんてったって、『越中富山の反魂丹』!」
 そんな脳天気なふたりを、優子ちゃんは眩しそうにながめながら、
「……うん!」
 こっくりと、うなずきます。
 以前の優子ちゃんなら、わたわたと遠慮してふたりを止めたところでしょうが、今の優子ちゃんは、どんな楽しい夢でも、すなおに見られる気持ちなのですね。
 いなくなったにゃーおちゃんを探して、三人いっしょに夏の山々を駆けまわる――そんな夢です。


     5

 んじゃ、また明日――にこにこと、そんな約束を交わしたあとで、足取りも軽く河原の遊歩道を引き返しながら、
「いやあ、面白くなってきたぞ」
 邦子ちゃんはギンギンに張りきって、緑の奥多摩山塊を見晴るかします。
「あいつを最後に見かけたのは、確か、日原渓谷あたりだったよなあ」
「こくこく。子供会のキャンプんとき」
 その小学二年の夏のキャンプには、優子ちゃんは例によって夏バテで寝込んでいたため、参加できませんでした。
 貴ちゃんと邦子ちゃんが二人で夜中におトイレに行ったとき、崖の上にあのぼたもちのような白猫さんがいるのを、まず貴ちゃんが見つけました。
 ただの白猫さんなら珍しくもありませんが、ぬいぐるみをしょって散歩している白猫さんというのは、ふつう、いません。
「ねえねえ、あれ、にゃーおちゃん!」
 と邦子ちゃんの袖を引きますと、
「おうし、ゆうこへの、みやげだ!」
 幼時から奥多摩一帯を武者修行のテリトリーとしていた邦子ちゃんは、そう叫ぶやいなや、白猫を追って夜通しどどどどどと山中を駆けめぐり、でも結局逃げられてしまった――そんな経緯があります。
「猫って奴は、縄張りにこだわるからな。きっと、あのあたりでうろついてる」
「でも、にゃーおちゃん、見かけによらず、すばしっこいよ」
「だいじょぶだ。しょせん猫だ。マタタビかなんか持ってけば、イチコロだ」
 盛り上がっているおねいさんたちに、
「おい、はぶんちょ、するな」
 友子ちゃんがブーイングします。
「なんだかよくわかんないが、おれも、まぜろ」
「あ、忘れてた」
「……たかこねーちゃんは、おれが、きらいなのだな」
「ごめーん。なでなでなで」
「んむ、それで、いい。こんどから、わすれるな。くにねーちゃんもだ」
「心配するな。おまいはちっこいが、山なら役に立つ。行くときは、荷物を半分持たせてやる」
「んむ」
 友子ちゃんは、えっへんと胸を張ります。邦子ちゃん譲りの怪力が、自慢なのですね。
 はぶんちょと言えば――貴ちゃんは、さっきから無言の舵武君が気になって、ちゃんとついてきているか振り返ってみると、
「ぽちぽち、くるくる」
 舵武君は、夢中でパームトップ・コンピュータをいじくっています。病院にいる間は禁止だったので、欲求不満が高じたのでしょうか。
「また、ひまわりか?」
 友子ちゃんが覗きこみますと、
「ふるふる。ゆーこねーちゃん」
 貴ちゃんたちも、驚いて覗きこみます。
「え? それでお話しできるの?」
「ふるふる」
 液晶画面には、なんじゃやら日本語やら英語やら、なんだかよくわからない語が入り交じって、なにがなんだかよくわかりません。
「まついせんせいの、かるて」
「へえ、すごいねえ、舵武君」
 貴ちゃんが脳天気に感心すると、舵武君はえっへんと胸を張ります。
 邦子ちゃんは、さすがに貴ちゃんよりも世事に長けておりますので、血相を変えます。
「お、おい、そんなの覗いて、だいじょぶなのか? それって、えーと、ハックなんとかだろう」
「はっきんぐ」
「おう、すごいすごい」
「さすがは、てんさいハカセだなあ」
「えっへん」
「おい貴子友子、おまいらはしゃべるな。おい舵武、やばいぞそれは。この前、パソ部の奴らが、どっかのデータに悪さしたとかで、補導されたばっかしだ」
「だいじょぶ。ぷろきし、いっぱい入れてるから。ろしあのとか、ぶらじるのとか」
「……風呂敷? ロシアとブラジル?」
 こうなると、邦子ちゃんでは手に負えません。
 でも舵武君の自信たっぷりの笑顔を見るうち、これは要するにバレてもロシアやブラジルの風呂敷が悪いことになるんだろう、そう解釈し、
「……いつごろ退院できるか、わかるか? 優子の奴」
 結局、己の欲望に流されます。
 舵武君はジョグダイアルをくるくるしたのち、
「うーんと――まだ、わかんない」
「なんだ、かじむ、だらしがないぞ」
「ごめん。でも、まついせんせいがわかんないと、やっぱし、わかんない」
「新学期、間に合わないかなあ」
「うーむ。やっぱり、まだ辛そうだったからなあ」
 ぴーちくとさえずる外野をよそに、くるくるとスクロールを繰り返す舵武君の手が、ある位置で、ぴたりと止まります。
 しばしぽかんと口を開きっぱなしにしたあと、
「……うそ」
 こんどは、うるうると涙目になって、
「うそ、かいてある」
「なになに?」
 貴ちゃんたちも覗きこみますと、『HGPS』というアルファベットが目に止まります。
「……これの、何が嘘なんだ?」
 舵武君は、ひっくひっくとしゃくりあげながら、それでも健気にがんばって、文字列を検索にコピペしてあげます。
「――えーと、何々、『ハッチンソン・ギルフォード早老症候群』……なんじゃ、こりゃ」
 首をひねる邦子ちゃんの横で、貴ちゃんは素早く文字列を目で追います。パソコン画面に関しては、邦子ちゃんよりもベテランなのですね。
「……うそ」
 舵武君とそっくりのリアクションで、
「うそ、書いてある」
 うるうるうる。
 ようやくその情報に追いついた邦子ちゃんも、呆然とつぶやきます。
「……『平均寿命』……『十三歳』」
 多摩川の渓流に、邦子ちゃんの絶叫が響き渡ります。
「なんじゃあ、そりゃあ!?」

    ★          ★

 その頃、優子ちゃんの病室では――。
「私としては、やはり、今すぐにでもSPCUに戻っていただきたいところなのですが」
 酸素吸入を終えて眠りに就いた優子ちゃんの枕元で、松井先生が、介助の恵子さんに提案します。現在の個室は、できる限りSPCU環境に近づけてあるものの、やはり気密的には不十分です。
 恵子さんは慈母の表情で、
「この子が自分で選んだことですから」
 優子ちゃんの安らかな寝顔を見つめながら、
「この春から、一度でも、この子がこんなふうに笑ってくれたことがありますか?」
「……確かに、それは」
「哀しみながら生きるひと月と、笑いながら生きる一日と、そのどちらが生き物として正しいのか――私にも、わかりません」
 恵子さんは、一度引いた窓のカーテンを少しだけ開いて、眼下の渓流を見下ろします。
 岸沿いの遊歩道を戻ってゆく子供たちが、遠く、小さく、睦み合っております。
「でも、やっぱりこの子は、あの子たちに笑顔を残したかったんです」
「SPCUでも、部外者の特別面会は可能です。殺菌シャワーと着替えさえ、徹底してもらえれば」
「あの子たちは、それでも笑ってくれるでしょう。本当に気のいい子たちですから。でも、やっぱりこの子は、自分の本当の笑顔を、あの子たちに残したかったんですわ。友達同士ですから」
 松井先生は、うなずく代わりに、ただ微笑します。それが医師として、精一杯の反応なのでしょう。
「あら?」
 恵子さんの声が、なんだか急に裏返ります。
「あらあらあらあら」
 何事かと松井先生も窓から見下ろしますと、なにやら超高速の物体が大小ふたつ、もうもうと土埃を巻き上げながら、遊歩道から病院坂へと駆け上がって来ます。今にもどどどどどと轟音が響いて来そうなイキオイです。
 恵子さんは、慌てて松井先生に訴えます。
「早く受付に連絡を! ドアを開放してください! このままでは入口が壊れます!」
「そ、そんな馬鹿な」
「先生は、邦子ちゃんや友子ちゃんの本当の恐ろしさを知らない――ええもう、私が行きます!」
 小走りに外に向かう恵子さんを、松井先生もあわてて追いかけます。優子ちゃんの容態は、常に外部のモニターで把握されておりますから、席をはずしても問題はありません。
 ひとりベッドに残された優子ちゃんは、眠ったままで、なぜか「んふ」などと微笑みます。もちろん恵子さんたちの会話が聞こえたわけではなく、きっと、何か昔の、とっても楽しい夢でも見ているのでしょうね。

    ★          ★

 さて、恵子さんのとっさの機転によりエントランスの強化ガラス激突破壊は回避され、こめかみに血管を浮かした大小の超強化ろりと、ちょっと遅れて到着した、うるうる顔のしょたを背負ったうるうる顔のポニーテールは、なんとかなだめすかされて、最上階の応接室に落ち着きます。
 こうなっては、すべてを明かさないわけにはまいりません。ただ、やはり幼児には難しすぎる話なので、友子ちゃんと舵武君は看護婦さんに預けられ、地下の喫茶室でお菓子の接待に移ります。
 優子ちゃんの真の病名、その不可思議な発症状況、謎のメッセージ――松井先生と恵子さんから、噛んで含めるように伝えられている間、貴ちゃんと邦子ちゃんは、ただすべてを知ろうとうなずき続けるだけでした。ガラスの壁の彼方に広がる風景や、テーブルに出されているダージリンの香りなど、味わうどころではありません。
 説明が終わり、長い沈黙ののち、
「……あの猫か」
 邦子ちゃんが、つぶやきます。
 貴ちゃんも、こくこくします。
 大人たちがまだ知らない真実――それは、あの時、あの桜散る遊歩道にいた貴ちゃんたちにしか解りません。張本人の優子ちゃんも、過去の病歴や矛盾点などまでは詳しく説明されていないので、まだ気づいていないのでしょう。
「あいつにあの丸薬を飲ませるとき、優子は、口移しで飲ませたのだ。きっとそんとき、その薬が溶けて――」
「こくこく。きっと優子ちゃんも、『生命《いのち》』を、ほんのちょっぴり――」
 松井先生が、深くうなずきます。
「なるほど。それで一旦は、HGPSの初期症状が消えたわけか」
 恵子さんが、うなだれます。
「……それが、この春、効力を失ったんですね」
 貴ちゃんが、勢いよく立ち上がります。
「ママに頼んで、もう一個もらう!」
 松井先生が、ちょと待て、と制します。
「いくら君の頼みでも、それは無理だろう。そもそも、その『生命《いのち》』は、君のママたちの活躍を通じて、とうに知られている存在だ。考えてもみたまえ。過去にそれを望まなかった人間が、いると思うかい? 私も医者をやって長い。医療現場のみならず、科特隊にさえ、何度も裏からのオファーがあったと聞いている。富豪による万金を積んだ依頼、権力者の恫喝、あるいは本当に涙を誘うような愛による懇願――でも、文化文明レベルでの他星不介入、それが君のお母さんたちの、絶対的な規範だ。その規範を失ったら――全宇宙に、正義という大義名分の植民地支配が蔓延してしまう。君のお母さんたちがやってくれていることは、あくまでガイアに対する、身一つのボランティアなんだ」
「でも、でも……」
 絶句する貴ちゃんの裾を、邦子ちゃんが引きます。
「やめろ、貴子」
 邦子ちゃんのマジ顔に、貴ちゃんも腰を落とします。
「……優子は、知ってたんだな。自分がいつ死んでもおかしくないと……そいでも、さっきは、あんなににこにこして……」
「……うん。笑ってた」
 邦子ちゃんの手の中で、がしゃり、とティーカップが砕けます。
「なんて奴だ!」
 あわてふためく恵子さんや松井先生、おろおろと横からその手を開こうとする貴ちゃんをよそに、邦子ちゃんは、テーブルにダージリンと鮮血を滴らせながら、なおじゃりじゃりと拳を握り続けます。
「……なんて奴なんだ!」
 その仁王のような憤怒相は、いったい何に向けられているのか――それは、邦子ちゃん自身にも解りません。

    ★          ★

 ふたりで応接室を出て、エレベーターに乗り、友子ちゃんたちがいるはずの喫茶室に向かっていると、
「……なあ、貴子」
 掌に巻かれた包帯をぼんやりと眺めながら、邦子ちゃんがつぶやきます。
「……うん」
 貴ちゃんも、力なく相槌を打ちます。
「俺は、ただ運命を待ってるなんてのは、大嫌いだ」
「こく」
「もっともらしく高見の見物を決め込むのも、大嫌いだ」
「こくこく」
「明日、優子を見舞ってやったら、俺はすぐに、友子を連れてあの猫を探しに山に入る。優子は、あいつに会いたがってた。会わせてやりたい。俺も、色々訊きたいことがある。ふんづかまえて連れて来るのが、一番てっとり早い」
「あたしも行く!」
「馬鹿。おまいまで行っちまったら、あさってから、誰が優子を見舞ってやるのだ。大体、おまいに崖をよじ登ったり、沢を飛び越したり、熊をシメたりできるか。足手まといになるだけだ。それに、俺のいない間に――いや、なんでもない」
 俺のいない間に、もし優子に何かあったら、おまいだけでも――そんな邦子ちゃんの言外の気持ちが、貴ちゃんにはありありと伝わってきます。
「…………」
「……悪《わり》い。むくれるな」
 貴ちゃんは、おもむろに、深々とうなずきます。
「……こく」
 きわめて貴ちゃんらしからぬ、その毅然とした表情は――。
 実は貴ちゃんの胸奥にも、まだ口にできないある決意が、熱いマグマのように、ごごごごごと噴出しつつあったりするのでした。
 あの幼稚園の春以来、ママがどこかに隠してしまった、『越中富山の反魂丹』。
 たとえ、あの優しいママと決別することになっても――うるとら関係の夢をすべて捨てることになっても――わたくし貴ちゃんには、やらなければいけないことがある。





   第四章 青春しゅわっち


     1

 夏の星空の下、草木も眠る丑三つ時――。
 西洋風の小洒落た三角屋根が、夜の静寂に包まれております。
 十一年前のセコい建売住宅から、たび重なる崩壊と保険の水増し請求の連鎖を経て、瀟洒な軽井沢ペンション風にまで進化を遂げた、片桐家――。
 その裏庭に面した暗い廊下を、なんだかアヤしげな光が、薄ぼんやりと移ろっております。
「抜き足、差し足、忍び足……」
 大見得を切った割には、結局やるこた同じの貴ちゃんです。スリーサイズこそ一応年相応に育ったものの、やっぱり脳味噌の中は、ほとんど成長していないのでしょうか。夏用の半袖パジャマも、あいかわらずお散歩ラスカル柄のまんまだったりします。それでも懐中電灯のスルドい光をレースのハンカチで和らげる、そんな小知恵を働かせているのを見ると、まあ、それなりに精神的成長も遂げているのでしょう。
「……こそこそこそ」
 ゴキブリのごとく敏捷かつ姑息な動作で、台所に這いこみます。
 目指すはシンク横の床に設けられた隠し蓋――床下の貯蔵スペースです。
 昼間の内に屋根裏の納戸から両親の寝室までくまなく探索し、残すはお野菜や保存用食料が備蓄してある台所床下のみ――そこまで絞ったところで、ママがパートから帰って来てしまったのですね。
 用心深くそろそろと、半畳ほどの隠し蓋を上げますと、現代っ子である貴ちゃんにはちょっとパスっぽい、自家製の田舎味噌や糠味噌床や梅干し壷の匂いが漂ってきます。
「むー」
 貴ちゃんのパパは、大学時代にコミケでママの森雪コスプレ姿に一目惚れして求婚したほどですから、一応都会にも順応しているわけですが、元は山奥の農家育ちなので、年々歳々嗜好が先祖返りして行きます。そしてママも、超文明バリバリの光の国から地球などという宇宙の果てのド田舎に移住してきたくらいですから、無農薬野菜の栽培や自家製自然食品などには、とことんマメなたちです。
「うー」
 味噌樽や梅干し壷ならば、それへの関与もやぶさかではない貴ちゃんですが、糠味噌の樽だけは、未だかつて自分で手を触れたことがありません。生来好奇心の権化のごとき貴ちゃんにとって、この家における不可触領域は、時々新島から届いて冷蔵庫のタッパーに詰まっているクサヤの干物を除けば、あとはその樽しかありません。
 上半身を床下に伸ばし、樽の蓋をどけて――むにゅにゅにゅにゅう。
「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
 おりしも夏野菜の季節、むにゅむにゅの中で固く手に触れるのは推定お茄子か胡瓜さん、あるいは人参さんかキャベツかも、小鉢に盛られて食べるときはあんなに美味しいのに、何が悲しゅうてここまで臭くてキショク悪いむにゅむにゅ育ち――貴ちゃんは片手で鼻をつまみつつ、これも優子ちゃんの未来のためと、健気に糠味噌をかき回します。
「おう、みっけ」
 明らかにビニールとおぼしき感触を樽の底近くに得て、ずるずると引き出し、にゅるにゅると糠を落としますと、
「――『越中富山の反魂丹』」
 ジッパー付きのビニール袋に収められているのは、あの懐かしい江戸レトロデザインの薬袋に他なりません。
「こそこそ」
 ビニールをのける暇も惜しく、体が糠臭くなるのもなんのその、落っことさないようにインナーと乙女の胸の間にしっかり押しこんだ、そのとき――
「こら」
 こっつんこ。
「あいた」
 恐る恐る振り向いた頭上には、案の定、ママの苦い顔が迫っております。床に置いた懐中電灯の光を下から受けているので、リアルなシャム猫柄のパジャマ共々、なかなかに鬼気迫るものがあったりもします。
「……これはこれはお代官様」
 ビビればビビるほど、ボケずにはおれない貴ちゃんです。
「貧しい百姓でごぜえますだ。まんずお目こぼしくだせえやし」
 意表を突かれて、ぶ、と吹き出しかけるママの隙を突き、
「えいっ!」
 粘着性目つぶし攻撃!
「うひゃあ!」
 顔面に糠を浴びて一瞬パニクるママを押し退け、脱兎のごとくお勝手口を目ざします。
 もー、こーなったからには、このまんま夜の河原を全力疾走して有無を言わさず病院に突入し、優子ちゃんのお口に一服放りこむのが先決――。
 しかし、さすがに現役科特隊員を務めるママのこと、敏捷さにおいては、けして若い貴ちゃんに負けません。子鹿のように跳び去ろうとする貴ちゃんの足首をがしっと捕獲し、
「あんたまたなんてことを!」
 敏捷さでは劣らないものの、お肌の張りや艶ではさすがに十四歳の処女に対抗できず、就寝前に小一時間かけて乳液やらなんじゃやら入念なお手入れを施した熟女の顔面をあろうことかあるまいことか糠漬けにされてしまったママの叫びは、親子の愛とはまた別の次元で、本能的な殺気を帯びております。
「くぬ、くぬ!」
 貴ちゃんの顔面を、キャベツの切れ端が混じったにゅるにゅるが襲います。
「うぶぶぶぶ」
 反撃にも使用できる武器をまんま投げつけてしまった――己の短慮を悔やみつつ、貴ちゃんもまた年季の入った糠床にまみれていきます。
 嗚呼、凄惨なるかな顔面をめぐる女系血族の葛藤。
「……お前たち、何やってんだ?」
 深夜のお台所にただならぬ喧噪を聞きつけ、起き出して電灯を点けたパパは、足元で繰り広げられている異様な光景に、思わず立ちすくみます。
「はあ、はあ、はあ」
「はあ、はあ、はあ」
 まあ糠というものは、ビタミンABCEをはじめ何かと滋養豊富な食材ですから、お顔にまんべなく塗りこんでも、案外美容に良さげな気がしますけどね。
「――とりあえず、顔、洗ってくれば?」
 ぶよんとしてしまりのない顔で、のほほんとつぶやくパパの丸い声に、
「………こくり」
「……こくこく」
 瞬時に緊張感を失い、とぼとぼと洗面所を目ざす女たちでした。


     2

 三十分後、深夜のダイニングでは、一家三人揃ってテーブルを囲み、なぜかさらさらとお茶漬けを啜っております。
「さらさら」
「さらさら」
「さらさら」
 そういえばちょっと小腹が空いたなあ――そんなパパのつぶやきがきっかけとなって、お夜食タイムにシフトしたのですね。
「うーん、やっぱりママの糠漬けは人間国宝級だなあ」
「こくこく」
「この茄子の古漬けの酸味がなんとも」
 その点に関しては、貴ちゃんも一〇〇パーセントうなずけます。
 家事やパートの合間を縫って、日々丹誠をこめてかき回し続けている糠床を褒められ、ママのお鼻がちょっととんがります。
「ちょっと、かくやにしとこうかしら。朝ご飯用に」
「あ、そりゃいいねえ」
 今ならママのご機嫌は上々――貴ちゃんはお茶漬けさらさらしながら、全身全霊をもって、上目遣いに媚びを売ります。
「……ねえ、ママぁ」
 着替えたママの、白熊柄パジャマの胸の奥には、奪還されてしまった例の物件が収まっているはずです。
 ちなみに貴ちゃんの着替えは、お散歩ラスカルがおねんねラスカルに変わっただけです。
「だめよ」
「一個だけ」
「だめ」
「……半分」
「だめだってば」
「半分の半分」
「だめな物はだめなの」
 人がいいだけが取り柄のパパは、おおむね事情を知っているだけにどちらの味方をするわけにもいかず、ただおどおどとお茶漬けを啜っております。
「……ちょっとだけ」
「ちょっとでもだめ」
「んじゃ、わずか」
「同じだ同じ」
「……ひとかじり」
「しつこいわねえ」
「…………なめるだけ」
 きりがない――ママは匙を投げ、シカト・モードに入ります。
「さらさらさら」
「……ねえ」
「あなた、お代わりは?」
「うん。じゃあ、軽くもらおうかな」
「はい」
「むー」
 貴ちゃんは、ジト目になります。
 可能な限り穏便に済ませたかったのだが――事ここに至っては、多少の荒事もやむを得ない。
「するり」
 貴ちゃんは、隠し持っていた切り札を、ナイトキャップから取り出します。
 ちなみに貴ちゃんの昼間のポニーテールは、就寝時、くるくる巻きとなってナイトキャップに収納されているので、ちっこい物件なら中に隠し持てるのです。
「――んじゃ、これと交換」
「そ、それは……」
 ママのみならず、パパも絶句します。
 貴ちゃんの手に握られた、なんじゃやら太めのペンシルライトのような物件は、うるとら関係御用達、変身用ベータカプセルに他なりません。
「い、いつのまに!」
 ママは、あたふたと自分のナイトキャップを確認します。
 日本ではロングヘアーの女性でもナイトキャップ派は案外少ないようですが、片桐家ではロングウエーブのママともども、母娘そろってフリフリの薄手のナイトキャップを愛用しております。ふたりとも、寝癖のつきにくい髪質なのですね。
「ふっふっふ。油断大敵火がぼーぼー」
 貴ちゃんは、不敵に頬笑みます。
「あなたの子供を、いつまでも天使だと思ってはいけない」
 そう、先ほど洗面所でごたついている間に、ママが常時肌身離さず携帯しているうるとら物件を、こっそりパクっておいたのですね。
 貴ちゃんはベータカプセルをみしみしと折り曲げつつ、
「ほれほれ、ほれほれ」
 しかしママは、困惑するかと思いきや、
「ふっふっふ」
 やはり不敵に笑いながら、なぜかテーブルの上の焼き海苔缶を手に取ると、
「甘いぞ、雛《ひよ》っこ」
 缶の蓋を開け、するり、と別のベータカプセルを取り出します。
「う。……こ、こっちは、ダミー?」
「ダミーじゃないわ。もともと、誰が盗んでも使いようのないアイテムだもの。予備があっちこっちに置いてあるだけよ」
 まさか山本山の焼き海苔缶に、うるとら関係の予備が潜んでいようとは――。
 貴ちゃんは、たじたじと腰を引きます。
 ――か、片桐家の謎が、深化している。
 貴ちゃんは、がっくしと肩を落とします。
 うつむいた肩がふるふると震え――やがて、お茶漬けのお椀に、ぽたぽたと雫が滴りはじめます。
 さすがに胸を打たれたママは、貴ちゃんの肩にそっと手をさしのべ、
「……ごめんね」
 ママの瞳も、うるうると潤んでおります。
 胸の薬袋を押さえながら、
「でも、やっぱり、私情でこれを使うのは、絶対許されないの」
 パパも、しんみりとうなずきます。
「……お隣の舵武君のパパが、いつか、こんなことを言ってたよ」
 あらたまって、煙草に火をつけながら、
「自分たちのやっていることが本当に正しいことなのか、時々解らなくなるってね。――たとえば難民キャンプで、餓死寸前の赤ん坊や、文明国ならありふれた薬がないばかりに瀕死の病人や怪我人が、沢山いるとするだろう。そんなニュースが先進国で流れれば、いっとき、沢山の救援物資が届く。そのいっときは、確かに多くの命が救われる。でもその救われた命の多くが、数年の内に、結局、同じ原因で失われてしまう。それどころか、救ったはずの命がより多くの命を奪ってしまうことさえ、珍しくない。社会自体に、それらの命を維持できる仕組みがないからだ。仕組みがない限り、結局砂漠に如雨露で水を撒くのと同じことだ。だから舵武君のパパたちは、現地でも維持できる最低限の仕組みを構築しようと、頑張ってはいるんだが――時々、やっぱり解らなくなるってね。生き物が生き物を『救う』ということは、本当は、その個々の命を最後の最後まで責任を持って見守って行く、そんな覚悟でなければ、許されないことなんじゃないか――そんな話だった」
 貴ちゃんにも、ママやパパの言わんとする意味は解ります。
 でも、『理解』と『納得』は、まったく別次元の問題です。
 それに、貴ちゃんなりにつらつらと状況を鑑みれば、こと優子ちゃんの命なら、最後の最後まで責任を持って見守って行く覚悟くらい、とっくにできているわけですものね。
 ――もはや、我が道を行くしかないのかもしんない。
 貴ちゃんは、決断します。
 うつむいたまんまで、
「……父上様、母上様、朝ご飯のとろろ、美味しゅうございました」
 だしぬけにぶつぶつとつぶやきはじめます。
「……晩ご飯のモンゴいか、美味しゅうございました」
 なんじゃそりゃ――ママとパパはきょとんとして、貴ちゃんを見つめます。
「……お夜食のお茄子とお茶漬け、美味しゅうございました。また、いつも洗濯ありがとうございました」
 おや、このセリフは――パパの脳裏に、昭和史に残る悲運のマラソンランナー・円谷幸吉選手の遺書などが蘇ります。そう、わたくし、せんせいにとっても大先輩にあたる、陸上自衛隊三等陸尉、栄光と悲劇の円谷選手――。
 パパは元おたくで、三流私大出の四流出版社営業部課長補佐にすぎませんが、そこはそれ昭和育ちの男の子、東京オリンピックで活躍した円谷選手の勇姿は、幼な心にありありと焼き付いております。そして、かの三島由紀夫に「傷つきやすい、雄雄しい、美しい自尊心による自殺……この崇高な死をノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きている人間の思い上がりの醜さは許しがたい」とまで言わせしめた円谷選手の死と、

【父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しゆうございました。克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南ばん漬け美味しゆうございました。喜久蔵兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゆうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。モンゴいか美味しゆうございました。正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敦久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正祠君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。】

 そんな、かの文豪・川端康成をして「繰り返される『おいしゅうございました』といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる」「美しくて、まことで、かなしいひびき」「千万言も尽くせぬ哀切」と評せしめた遺書の内容は、しっかりと心の奥に染み着いております。
「……ご心配をおかけいたし、申しわけありません。貴子は父母上様のそばで暮らしとうございました」
 思いつめた表情で、訥々と語り終える貴ちゃんに、
「いかん、貴ちゃん! 早まっちゃいかん!」
 とっさに飛びつくパパを振り払い、
「そりゃ!」
 突如テーブル越しに身を躍らせた貴ちゃんは、
「もーらいっ!」
「きゃあ!」
 ママの豊満なバストをぷるるんと震わせつつ、その懐から薬袋を奪取すると、
「ていっ!」
 開け放していた台所の窓から、裏庭へと跳躍します。
 跳躍しつつ高々と掲げたベータカプセルの先端が、しゅぱ、とまばゆいフラッシュビームを発し――
「しゅわっち!!」
 今ここで一皮剥けずして、わたくし貴ちゃんに未来はない――そんな満身の気合いが、ママ方の遺伝子記憶に呼応して、フラッシュビームの渦を、その全身に吸収していきます。
 びよよよよよよよ――多摩川を見下ろす住宅街が、断続的な閃光に激しく明滅します。
 そして――ずずうううん!
 POPでキュートなウルトラ娘が、夜の多摩川渓流に降り立ちます。
「でゅあっ!!」
 清らかなシルバーホワイトの梨地ボディーに、黄色いサクランボを思わせる若々しいグラデーションの胸模様――。
 ♪ わっかいむすめは、ウッフン お色気ありそうで ウッフン なさそで ウッフン ありそで ウフッン ほらほ〜ら 黄色いサクランボ〜〜〜 ♪
 ――失礼いたしました。まあ、思わず錯乱してそんな懐メロを歌いたくなってしまいそうな、勇姿だったのですね。
 ちなみにスリーサイズは不明ですが、身長は推定十数メートルほどでしょうか。発展途上のプロポーションもういういしく、いかにもお話作りのぶよんとしてしまりのないろりおた野郎や、かばうまさんが垂涎しそうなレモンエイジ――今風に言えばU15的なキャラデザです。
 しかし貴ちゃん当人としては、そんな初変身の感動に、浸っているバヤイではありません。
 ついにうるとら一族への扉が開かれた、まさにその晩が、同時にうるとら一族を裏切る夜になろうとは――。
 万感の思いを胸に秘め、ウルトラ娘は、一瞬、懐かしい三角屋根を見下ろします。
 そして病院に向かうため、夜空に飛び立とうとした刹那、
「じゅわっ!」
 三角屋根の横庭から、もうひとりの光の戦士が白閃膨張し、ベテランらしく余裕に満ちた跳躍で、ルーキーの足首をつかまえます。
 ちょうど飛び上がったところで足首をつかまれてしまったのですから、ウルトラ娘の直後の運命は、皆さん、もう予想できますね。
「あうあうあう」
 しばし星空をかきむしったのち、多摩川の対岸、釜の淵公園の遊歩道あたりに、顔面から激突します。
 ばこ。
「あだだだだだだだ」
 ウルトラ娘は、鼻の頭をさすりつつ、いっしょになって川に横倒しになったウルトラママを振り返り、強く抗議します。
「でゅわぉえしゅわじゅわ!」
 年頃の娘の鼻が曲がったらどーするつもりだ――まあ、たぶんそんな大意のうるとら語ですね。
 なお、以降のふたりの会話もすべてうるとら語でおこなわれているわけですが、平仮名表記が不可能な発音なども多数混じりますので、あらかじめ地球語に訳して、お話しさせていただきますね。
 立ち上がったウルトラママは、
「……そんなに思いつめていたのねえ」
 怒りよりも、むしろ慈しみの視線で、まだひんひんと悶絶しているウルトラ娘の横に、片膝をつきます。
「フラッシュビームを使えるようになるには、まだ五年はかかると思ってたのに」
 ウルトラ娘は、ぷい、と横を向き、
「もう、子供じゃない」
 ぐしゅぐしゅ声で、つぶやきます。
「でも、大人になんて、なりたくない」
 ウルトラママのさしのべた手を、ぺん、と払いのけ、
「……優子ちゃんは、もう、大人にもなれなくて……私だけ大人になって……そんなのが大人の規則なら、もう、なんにもなりたくない」
 すねまくるウルトラ娘を、ウルトラママは、優しく、しかし逃れがたい力で、その腕に包みこみます。
「……大人だとか子供だとか、関係ないの。それが優子ちゃんでも、他の誰かでも、命の重さは、みんないっしょだから」
「…………」
「ママだって、地球《ここ》に越してきてから、いろんなお友達ができたわ。同じ年頃の子も、お年寄りも、もっと小さい子も。そして、その中には、先に旅立ってしまった人も、たくさんいる。仲良しだった中学の同級生――交通事故で死んじゃったわ。もっと小さい頃、アフリカでいっしょに遊んだ、マサイ族の可愛い男の子――初めての狩りに出て、ライオンさんに食べられちゃった。科特隊に入ってからだって、毎年のように仲間が殉職する」
「…………」
「おととし亡くなった、パパのお母さんだって――優しい人だったから、私たちの前では最期まで笑ってたけど、抗癌剤の副作用も、末期癌の激痛も、本当なら笑っていられるような状態じゃない。パパは末っ子で、ほんとにお母さんっ子だったから、見てる私だってほんとに辛かったわ。パパも貴子の前じゃ、おくびにも出さなかったけどね」
「…………」
 ウルトラ娘の沈黙が、少しずつ硬さを失っていきます。
「でも、やっぱり、その『生命《いのち》』は、あげられないの。――ママが悲しくないと思う? 優子ちゃんを可愛くないと思う? そりゃあ、貴ちゃんほどには可愛くないかもしれない。でも、邦子ちゃんと同じくらい可愛いわ。ママだって、優子ちゃんには、いつまでも生きてもらいたい。でもね――」
 ママは、娘の頬に手をあてて、そっとその瞳を自分の瞳に向けます。
「人の命には、もともと『いつまで』なんて、関係ない。死んでいない限り、きちんと生きているの。生きている限り、死んではいないの」
 まだ小さくしゃくりあげている娘の頬を、優しく胸に寄せて、
「優子ちゃんだって、きっと今、その命を、誰よりも強く生きているわ。――ねえ、貴ちゃん?」

    ★          ★

 渓流の星空の下に抱き合う巨大な母子像を、寝ぼけ眼の市民たちが、あちこちの家の窓や庭から、不安そうな顔や、呆れ果てた表情や、あるいは長いつきあいの果ての生暖かい視線で、しげしげと見守っております。
 ああ、とりあえずは良かった良かった。今夜はどうやら家屋倒壊の心配はなさそうだ――そんな気配のご近所さんたちに、パパは垣根越しにぺこぺこと頭を下げながら、それでもしぶとくビデオカメラを回し続けております。
 おうおう、最愛の妻のみならず可愛い娘まで、あんな立派なうるとら関係に育ってくれて、俺という男はどこまで果報者なのだ――そんなおたく冥利に尽きる光景に、はらはらと感涙にむせんだりもしております。
 そして、お隣の二階の子供部屋では、窓から身を乗り出した舵武君が、愛用のパームトップコンピュータの内蔵カメラで大好きなたかこねーちゃんの変身姿を全世界に配信しながら、わくわくと未来への希望に燃えていたりするのでした。
 ぼくもいっしょーけんめー勉強して、しょーらいははーばーど大学か、おくすふぉーど大学か、まさちゅーせっつ工科大か、東大に上がるんだ。んでもって、NASAか科特隊《SSPS》にしゅうしょくして、きっと、たかこねーちゃんのルーツ・M78星雲に、いちばんのりするんだ――。


     3

 翌日のお昼前、貴ちゃんと邦子ちゃんがまたお見舞いに訪れますと、優子ちゃんの病室には、もう先客がたくさん集っていました。
「……じゃあ、宮小路さん、クラブのことは、よろしくお願いしますね。皆さんも、きちんと手伝ってさしあげてくださいね」
 優子ちゃんがおしとやかに、事実上の会長引退宣言をおこないますと、引っつめ三つ編みの清楚な眼鏡っ娘が、さらにおしとやかに会釈します。
「お任せくださいませ、優子様」
 聖母様のご存命が確認でき、あまつさえそのご神託によって第一使徒と認められてしまった宮小路さんは、もはやぷるぷると震えております。
 他の数人も、負けじとしこたまおしとやかに、
「ご心配なさらないで、お姉様」
 きらきらきらきら。
「ごゆっくりご静養くださいませね、優子お姉様」
 なよなよなよなよ。
「……お姉様……わたくしが、代わりに病んでさしあげたい……」
 うるうるうるうる――。
 なんじゃやら戦前の清く正しい乙女の花園から迷いこんできたような、やや百合族っぽい乙女の群れは、言わずと知れた朗読愛好会『ことのは』の面々です。
 病室中に、昨日とはかなり異質な、しかし『濃さ』おいてはけして負けない情愛の香りが、むんむんと漂っていたりします。
 そんな、和やかというか、一部アレなムードに戸惑いつつも、すでに優子ちゃんの真の容態を知ってしまった貴ちゃんと邦子ちゃんは、自分たちのぎこちなさをその場の『濃さ』が紛らわせてくれるので、かなりありがたかったりもします。
「……これなら、俺がしばらく顔を出さなくとも、どうってことないな」
 邦子ちゃんが、安心したように、貴ちゃんにそっと耳打ちします。今日は制服姿ではなく、昼からの行動を考え、着慣れたアウトドア・ルックです。
「おまいも、後をよろしく頼むぞ」
「――こくこく」
 今日は紅白幕姿ではなく、猫かぶり気味の白い姫ワンピ姿の貴ちゃんも、しっかりうなずきます。
 昨夜まで囚われていた想い――優子ちゃんの命は自分ひとりにかかっている――そんな一種の思い上がりが、優子ちゃん親衛隊たちの醸し出すくすぐったい空気の中で、ゆるゆると溶けていくような気持ちになっております。
 昨夜のうるとらな騒動の後、ベッドに戻った貴ちゃんの枕元で、ママはこんなこともつぶやいたのでした。
 ――何かを失うたびに、優しくなれる人もいる。何かを失うたびに、冷たくなってしまう人もいる。自分が何を失ったかばかり気にかける人は、どうしても、心を閉じてしまうのね。自分が何かを失うことばかり、恐れてしまうから。でも、ほんとうは、『自分が何を失ったか』なんて、大した問題じゃない。それは自分ひとりだけの問題。ほんとうに大事なのは、『失われたそのものが、どうであったか』なのよ――。

    ★          ★

 お見舞いタイムが終わり、みんなで河原の遊歩道をたどっておりますと、上流の学校方向から、えっほ、えっほ、えっほ、と、長袖長パンの少女たちがランニングして来ます。
「押忍《うっす》、主将!」
 先頭の少女が、邦子ちゃんを見つけ、汗まみれの顔で元気に挨拶します。邦子ちゃんほど大きくはありませんが、YAWARAちゃんタイプの、なかなか安定が良さそうな副将です。夏だというのに長袖なのは、日焼けしてしまうと柔道に差し支えるからなのですね。
「押忍《うっす》、田村。――悪《わり》いな、みんな、相手してやれなくて。合宿につきあえるかどうかも、ちょっと怪しくなっちまった」
「仕方ないっす。なんか、優子先輩のためなんでしょう?」
「おう」
 邦子ちゃんの歯が、夏空の積乱雲よりも白く光ります。
「世の中には、勝ち負けよりも大事なものがあるのだ」
 それは『友情』――部員たちの瞳は、なんじゃやら昭和中期の青春ドラマのごとく、背中が痒くなるほどに澄みきっております。
「その手は、どうされたんですか?」
「んむ、ちょっと気合いを入れすぎただけだ」
「自分たちにも、何かできることがあれば」
「んむ。そのときは、よろしくお願いする」
「押忍《うっす》」
「ところで、男子はどうした?」
「朝練でみんなクタバりました」
「……今年の夏は、暑そうだ。まあ、マジ死にしない程度に、鍛えとけ」
「押忍《うっす》!」
 そんな会話を聞きつけて、あの宮小路さんが、貴ちゃんに訊ねます。
「あのう、片桐先輩」
「ほーい」
 優子ちゃんに負けず劣らず深窓育ちの乙女にとって、武闘派で名高い邦子ちゃんに直接訊ねるのは、ちょっと怖すぎなのですね。
「あの方々のおっしゃる、優子様のため、とは?」
「うん。にゃんこ探し」
「にゃんこ?」
 詳細を教えてあげるわけにはいかないので、貴ちゃんは、とりあえず簡略に教えてあげます。
 昔、優子ちゃんが可愛がってた猫が、野良になってるの。んで、優子ちゃん、とっても会いたがってるの。んだから、探しだして、会わせてあげるの――そんな感じです。
「わたくしにも、お手伝いさせてください!」
 宮小路さんの言葉に、お嬢様一同、こくこくとうなずきます。考えることは、うるとら娘でもお嬢様方でも、この際みんないっしょなのですね。
「気持ちだけは、しっかり受け取っとく。んでも、おまいたちじゃあ、ちょっとアレなのだ」
 昨日と同じような邦子ちゃんの説明を受けて、しゅんとしてしまうお嬢様方に、心から同情する貴ちゃんでした。
 そうして、お昼の休憩に入る柔道部の面々もいっしょになって、みんなで旧青梅街道を駅方向に歩いて行きますと、長岡履物店の前に、なぜだか見慣れたビンボなミニバンが停まっております。
「よう」
 運転席から声をかけてきたかばうまさんに、
「あ、やっほー!」
 貴ちゃんがたかたかと駆け寄りますと、そのセカンドシートには、ちっこい男の子がふたり並んで、ちょこなんと座っております。舵武君と拡恵君のようです。
「おう、ふたりとも。どんぱぱぱー!」
「どんぱ」
「どんぱ」
 歳はふたつばかり違うのですが、同じ幼稚園に通った男の子同士なので、ふだんから家族ぐるみの仲良しさんなのですね。
 ちなみに拡恵君は、舵武君と違ってかなり色白の、女の子っぽい顔立ちです。母親の恵子さんに似たのですね。父親に似なかったのは、実に天の恵みと言うべきでしょう。
「なんだ、かばうま。下駄の鼻緒でも切れたか?」
 邦子ちゃんが訊ねますと、かばうまさんは、あいかわらずぶよんとしてしまりのない笑顔で、
「うちの奴に頼まれちまってな」
 サードシートを省いた広めの後部スペースには、米袋やら野菜やら、テントやらクーラーボックスやらアウトドア調理器具などが、ぎっしり詰まっております。
「どうせお前のことだから、何かおっぱじめるつもりなんだろう?」
 長年のつきあいで、三人組の行動パターンは、恵子さん以上に、いえ、当人たちよりも把握しているかばうまさんです。
「あの猫探して日原渓谷に出張るんなら、交通《あし》や飯がいるだろうってな」
 邦子ちゃんの瞳が、輝きます。
「かっちけない。電車賃も馬鹿にならんし、俺と友子だけじゃ、やっぱし限度があるからな」
 貴ちゃんも、かばうまさんの背中をぽんぽんしてあげます。
「お休み少ないのに、ごくろーさん」
 かばうまさんの職場が、人件費削減による万年人手不足でなかなか連休がとれないのは、かつてその休みを三人がかりで食いつぶしていただけに、貴ちゃんもよく知っています。
「おう。だから、夏休みも兼ねた。悪いが俺たちは、適当な河床にテント張って、遊ばせてもらう」
 拡恵君と舵武君も、揃ってこくこくします。
 舵武君は、両親は海外在住ですし、お祖父さんはまだ現役医師ですし、山遊びに連れて行ってくれそうな元気な大人が家にいないので、ちゃっかりお友達のキャンプに便乗したのですね。
「その代わり、そこで三日ばかり飯を作っててやる。腹が減ったら、いつでも下りてこい」
「んむ。ありがたい。ずいぶん手間が省ける」
 邦子ちゃんは、バンの荷台を検めながら、
「まだ積めるか? 罠とか、餌のマタタビも、けっこうあるぞ」
「そんなもん、よく買えたなあ。けっこう高かっただろう」
「この先のホームセンターのオーナーと、角の漢方屋の親爺が、お袋に惚《ほ》の字なのだ。きのう頼んどいたら、あっちこっちの在庫、しこたま掻き集めてくれた。みいんな、ツケでだいじょぶなのだ」
 邦子ちゃんのお母さんは、年増になればなるほど婀娜っぽくなる、爺い殺しタイプなのですね。
「おう、くにねーちゃん、かえったか」
 店の中から、巨大な背負子をかついだ友子ちゃんが、のっしのっしと現れます。
「ようい、できたぞ」
 身長の二倍はあると思われる背負子には、パックに収納しきれなかったらしいトラバサミ――物騒なバネ仕掛けの金属製の罠が、いくつもぶら下がっております。
「……それって、狩猟法違反じゃなかったか?」
 かばうまさんが、ビビってつぶやきます。
「確か平成十九年に、禁止されただろう」
 貴ちゃんや、遠巻きに様子を見守っていた百合族の群れや、屈強なYAWARAの群れさえも、そろってたらありとこめかみに冷や汗を流します。
「だいじょぶだ。自分ちの庭の中なら、使ってもいいのだ」
 邦子ちゃんが、言いきります。
「奥多摩は、全部俺の庭みたいなもんだ」
 友子ちゃんも、こくこくとうなずきます。
「おれたちの、にわだ」
 貴ちゃんは、おっかなびっくりトラバサミをつっつきながら、
「……んでも、にゃーおちゃんの足、もげない?」
「俺もそこまで馬鹿じゃない。足のもげた猫を、優子に贈ってどーする。夜通しかかって、バネは緩めて、ゴム貼ってある」
 昔と違って、邦子ちゃんも多少は穏健に育っているようです。
「できれば籠型か、括《くく》り罠にしたかったんだが、作ってる暇も、仕掛ける暇もないからな」
 広大な山塊をふたりでカバーしようと言うのですから、多少の荒事はやむを得ないのでしょう。


     4

 さて、貴ちゃんたちの万歳三唱に送られたビンボなバンは、旧青梅街道から、国道四一一号に乗って多摩川沿いに西進します。毎年真冬の最寒期に開催される、あのご苦労様な青梅マラソンで、有名なコースですね。ちなみに昭和四十二年の第一回目は三月に開催され、かの円谷幸吉先輩も参加しておられたそうです。
 青梅マラソンの場合は、三〇キロレースでも御岳山のあたりで折り返すわけですが、今回かばうまさんが目ざしているのは、さらに西進した青梅線終着駅・奥多摩駅あたりで北西に分岐する、多摩川の支流・日原川の渓谷です。
「どのくらいで着く?」
 助手席の邦子ちゃんが、地図を広げながら訊ねます。
「昔キャンプやったあたりなら、一時間くらいかな」
「そうか。んじゃ、夜までは間があるな」
 奥多摩駅までは国道ですし、分かれた日原川沿いにも、上流の日原鍾乳洞など観光スポットに向けて県道が整備されておりますから、車さえあれば気軽に往来できるのですね。
 もっとも、ちょっと遡ると車のすれ違いにも苦労するような崖道があるので、若葉マークの方にはお勧めできません。今日のような平日は、あくまでただの山間の細道ですが、休日だと大渋滞になったりします。夏の行楽シーズンや紅葉狩りの時期には、交通整理のお巡りさんが出て、対面通行を促したりもします。
「明るい内に、本仁田山あたりは探し回れるか」
 邦子ちゃんが、地図を見ながら独りごちますと、
「そのことなんだが――うちの息子が、面白いもんを見つけてな」
 かばうまさんが、セカンドシートのちみっこたちに声をかけます。
「おい、拡恵」
 友子ちゃんに寝技でシメられていた拡恵君は、「ぎぶ、ぎぶ」とつぶやきながら、背もたれ越しにちっこい本をさしだします。まあ友子ちゃんも拡恵君も、ジャッジを務める舵武君も、みんな笑っておりますから、あくまでじゃれ合いです。
「えーと、『ジュニア探検シリーズ 本当にあった日本怪奇地帯』――なんじゃこりゃ」
 邦子ちゃんは、そのお子様向けのケバいミニ図鑑を、ぱらぱらと検分します。
「うちの息子、近頃、怪奇ネタにハマってるんだ。俺には見えないママの背後霊とも、時々いっしょに遊んでるしな」
 かばうまさんは、親馬鹿丸出しの笑顔で、
「将来は、中岡俊哉先生か佐藤有文先生を目ざすそうだ」
 拡恵君も、嬉しそうにこくこくします。
 やはりおたく系や心霊系の血は、遺伝してしまうのでしょうか。まだ小学校にも上がっていないのに、高学年向けの各種幽霊・怪物・妖怪図鑑なども、多数所蔵している拡恵君です。
「……俺に言わせてもらえば、この手の話は、九割九分九厘ヨタだぞ」
 硬派の仏教徒だけに、興味本位の怪奇ネタには、案外手厳しい邦子ちゃんです。
「まあ、そう言わんで、目次を見てみろ。まん中あたりだ」
 疑わしげに活字を追った邦子ちゃんは、
「――『戦慄! 奥多摩の秘境に踊る、化け猫の群れ』?」
 目を丸くして、あわててページをめくり、そのケバい挿絵と幼稚な文章に目を通します。内容は、奥多摩のハイキングで道に迷い、山奥に分け入ってしまったアベックが、夜中の谷地で踊っている怪猫の群れに出会い、「見たなあ」と追いかけられて、命からがら逃げ帰る――そんな、ありがちな話です。
「……なるほど。それっぽいな。んでも、場所も絵も、えらくキショク悪くていいかげんだぞ」
「そりゃあ、その手の本だから仕方がない。で、舵武に頼んで、ちょこちょこっとネット界隈を探ってもらったりしたらな」
 今度は舵武君が、こくこくと嬉しそうに、パームトップコンピュータをさしだします。
「この図鑑シリーズを請け負ってる、編集プロダクションの内部データだ。この化け猫話は、読者からの投稿をもとにでっちあげたらしい。それだけじゃないぞ。検索してみたら、その手の怪奇スポット系掲示板でも、何度か話題になってる。まあ、半分冗談扱いだがな。心霊系と違って、妖怪系は本気にされにくい。俺に言わしてもらえば、どっちも同じ『気』の『凝《こご》り』なんだがな」
「……なるほど。『猫又』か」
 邦子ちゃんがつぶやくと、かばうまさんも、意味ありげにうなずきます。
「あの猫は、俺が青梅に引っ越してきた時から、もう神社あたりでうろついてた。お前たちが生まれる前の話だ。その頃もいいかげんでかくて、十歳は越えてる感じだったな。ま、長生きした猫の尻尾が、ほんとに二又に裂けるかどうかはわからんが、ウルトラ関係のシロモノまで飲んじまったんなら、ちょっとぐらい化けても不思議じゃない」
「……やっぱし、あいつだ」
 邦子ちゃんが、うなずきます。
「あいつが、優子ん家《ち》からいなくなるちょっと前――実は、俺は、見てしまったのだ」
「……ほう?」
「んでも、夜目遠目って奴だ。俺は、夜の山で修行した帰り、近道して、あの屋敷の庭を勝手に通らせてもらった。んだから疲れてたんで、てっきり寝惚けたか、目の迷いか、帰ってから見た夢じゃないかと思って、それっきり忘れてたんだが――」
 かばうまさんもちみっこたちも、聞き耳を立てます。
「あいつは優子ん家の屋根で、くるくる踊ってたのだ。ぬいぐるみを抱えてな。月明かりだけだったんで、見えたのもほとんど影だけだが――今、思い出してみると、あれは確かに、なんとかダンスだったような気がする」
「なんとかダンス?」
「おう。あれだ。燕尾服の親爺とドレスのおばはんなんかが、くるくる回る奴」
「社交ダンスか。……頭に手拭いかぶって、こっそり『猫じゃ猫じゃ』を踊るってのは、読んだことがあるな。江戸時代あたりの巷談集で」
「『猫じゃ猫じゃ』ってのは、その『しゃこーダンス』に似てるのか?」
「ちっとも似とらんが――もしかしたら、それを誰かに見られたと気づいて、姿をくらましたのかもな。見た奴を食い殺すなんて話もあるが、俺の読んだ話では、それっきり家出しちまったことになってる」
「……なーる」
「とにかく、見つかった情報は今年の春先の話で、迷った場所は、鷹ノ巣山から六ッ石山への間あたりだ。そこいらを中心に探せば、話が早いんじゃないか?」
「んむ」
 やっぱしこのぶよんとしてしまりのない親爺は、なかなか使いでがある――幼時からの認識を、改めて強くする邦子ちゃんでした。
「にしても、お山は広いわなあ。お前たちだけでくまなく探すとなると、けっこう骨だぞ。不動様あたりに、手伝ってもらうわけにはいかんのか?」
「あいつは、猫が苦手だから無理だ。まあ、あいつも孔雀も愛染も、あいかわらずテロやら紛争やら環境汚染やらの始末で、手一杯だしな。ここ何年も、声しか聞けねえ」
「ままならんもんだな。あいかわらずってより、ますます根っこが深くなる」
「きのうの夜は、徹夜で薬師如来を拝んでみた。優子の件で、ちょっとでも、なんとかならんかと思ってな」
「ほう」
「んでも、やっぱし如来となると、イマイチ反応が遠回りで、はっきりしないのだ。貴子ん家《ち》でも、なんか夜中にどたばたやってたみたいだが、結局、進展なしだったみたいだし」
 かばうまさんも、昨夜の河原での大騒ぎを思い起こし、種々の憶測を巡らせます。数年前、あのクリスマス騒動の時、老僧が言っていた『薬師如来』――昔から三人娘に深く関わってきた大人としては、なんかいろいろ、思うところがあったりするのですね。
 邦子ちゃんは、掌の包帯に目を落とし、
「……優子は、俺なんかより、ほんとはずっと強いのかもしんない。今日だって、マジにこれの心配されちまって、かえって往生した。大したことないってなだめても、なかなか放さんのだ。もし俺が『お前は近々死ぬ』なんて言われたら、他人の怪我の心配なんて、とてもしてらんない。他人どころか、身内の怪我だってシカトするだろうな」
 国道の行く手に近づいてくる奥多摩山塊を、邦子ちゃんはきりりと見上げ、
「猫又だろうがなんだろうが――きっとつかまえて、会わせてやる」


     5

 その頃、見送り後の貴ちゃんたちは、旧青梅街道の『昭和レトロ商品博物館』あたりを、駅方向にだらだらと歩いておりました。
 派手にお見送りしてあげたものの、やっぱし優子ちゃんの病状や邦子ちゃんの挙動を、ただ見守っているしかない身としては、いささか気勢が上がりません。
 そんな、花の女子中学生集団としては一様に消沈気味の、でも外見的にはめいっぱいバラエティーに富んだ一群の行く手に、なんじゃやら輪をかけてバラエティーに富んだ同年代の一群が、きゃぴきゃぴとわだかまっております。
「ありゃ。やっほー!」
 貴ちゃんが手を振りますと、でっかいのからちっこいのまで、それぞれ個性的な私服姿の群れも、気がついて手を振り返します。
「あ、部長、どんぱ!」
「やっほー、貴ちゃん!」
「どんぱんぱー、部長!」
「ちがうって。どんぱぱぱ――だったよね?」
「わーい、部長、かわゆい白雪姫ワンピ。別の人みたい」
「これこれ、指さしちゃいかん。あれはきっと、変装中だ。知らんぷり知らんぷり」
「そっか。つーん。知らない人」
 部長を部長とも思わないファンキーなノリは、紛う方なき、××中学チアリーダーの面々です。
「……すげー連中ヒッパって、どした、貴乃花」
 ひときわ無遠慮なタメ口の主は、同学年の副部長さんです。
「そっちこそ、みんなでどしたの? 琴欧洲」
 本名が琴子さんで、ハーフっぽい顔立ちなのですね。
「いや、なんか駅前がエラいことになってるって聞いて、練習やめて寄ってみた」
 チアリーダーの面々は、それぞれ狸柄の紙カップを抱え、ちゅるるると何かをすすっております。
 あ、あのカップは、もしかして――。
 貴ちゃんが、いそいそと一群越しに前を覗きますと、
「なーお」
 体長二メートルほどの三毛猫さんが、嬉しそうに首を伸ばします。
 その猫が引いているカラフルな屋台の前で、丸々とした縞模様の尻尾をぽふぽふと振っている、小さい狸のような、子犬のような猫のような、洗熊ともレッサーパンダとも似ている、茶色の毛皮でおなかが白く、目の周りだけ黒い、なんだかよくわからない小動物は――案の定、ここ数年見かけなかった、あのバニラダヌキさんです。
 貴ちゃんは、いきなり人生が一〇〇ルクスほど明るくなったような気がして、仲間たちをかきわけ、バニラダヌキさんを抱え上げます。
「わーい、おっひさー!」
「おひさしぶりです、貴ちゃん」
 くりくりと円らなお目々は、あいかわらず澄みきりすぎて、何を考えているんだかよく判りません。でもまあ尻尾の振り具合からして、たぶんめいっぱい喜んでくれているのでしょう。
「……すごい、部長。こーゆーのと、お知り合いなんだ」
 貴ちゃんの歩んできた数奇な人生を知らない下級生が、尊敬の眼差しで感嘆します。
 ハーフ顔の琴欧洲さんは、
「うちの部長を甘く見てはいけない」
 のけのけ、と、西側の仲間を散らします。
「あれも全部、きっと仲間に違いない」
「はてな?」
 その指さす方向を、貴ちゃんが目で追いますと――
「どわ!」
 駅に向かう旧青梅街道の舗道いっぱいに、記憶にある限りの蔵王山中バニラ村一族が、ずらりと屋台を並べているではありませんか。
 懐かしのミントダヌキさんやピーチダヌキさん、その他大勢の各種新メニューダヌキさん、そして当然、同じ頭数のベンガル虎大の三毛やブチや黒や白や縞猫さん――ざっと見積もっても、二十や三十ではききません。そしてそれぞれの屋台は、世界の果ての住人らしくおおらかで物に動じない青梅市民たちで、なかなか繁盛しているようです。
「…………」
 さすがの貴ちゃんも、バンザイのままフリーズします。
 当然、抱きかかえられていたバニラダヌキさんは、ぽて、と舗道に落下しますが、生まれつき弾力性や重力を無視した浮力に富んでいるので、ちっともこたえません。
 柔道部の面々も、絶句しています。
 百合族の面々は、その情景が純真なファンタジーとして乙女心に許容可能なものか、あるいは非常識な掟破りとして排他すべきものか計りかね、こめかみにたらありと脂汗を流しております。
 チアリーダーの面々だけは、さすがに日頃から貴ちゃんと同調できるだけあって、早くも状況に適応し、るんるんとシェイクをすすっております。
「……みんなで、青梅に引っ越してきたの?」
 バニラダヌキさんは、ふるふると頭を振り、
「偶然です」
 きっぱりと、言いきります。
「ふだんは全国ランダムに行商しているのですが、なんでだか、今日はみんな青梅に集まってしまいました」
 ぷすん、ちゅるるるとシェイクを用意して、
「はい、どうぞ。大恩人の貴ちゃんと、そのお友達ならば、何杯でも無料でけっこうです」
 おう、ラッキー、さすが貴乃花、などとさえずりながら、チアリーダーの面々は次々にお代わりを要求します。食べ盛りの柔道部の面々も、無料で食べ放題ならば遠巻きに硬直しているバヤイではないので、いきなし状況に適応し、屋台に群がります。とことんお嬢様な百合族の面々さえも、こと『甘味』に関しては『乙女心』と不可分の物件ですので、しばしお互いに目線でちろちろと談合したのち、わたわたと行列に参加します。
 なぜかただひとり行列から外れて、にこにことながめている貴ちゃんに、
「どうされたのですか、貴ちゃん」
 バニラダヌキさんは、手際よく次々とシェイクを注ぎながら、
「元気がありませんね。何かお悩みですか?」
「……うん。あのね、実はね」
「はい」
「――かくかくしかじか」
「ほう。それはご心配でしょうね」
 バニラダヌキさんは、手を止めて一瞬だけ考えこんだのち、
「それでは、こうされてはいかがでしょう」
「うん」
「――これこれこうこう」
 貴ちゃんの顔が、いきなし、ぱあっと一万ルクスほど発光します。
 行列のみんなに向かって、
「ねえねえ! 優子ちゃんを喜ばせてあげたい人!」
 だしぬけになんでしょうかしらと戸惑いつつも、百合族の面々が、つつましく手を上げます。
「んじゃ、邦子ちゃんのお手伝いしたい人!」
 押忍《うっす》、と唱和しながら、柔道部の面々が挙手します。
「あと、あと、えーと……なんでもいいから面白いことしたい人!」
 異議なし――チアリーダーの面々が、シェイクをすすりながらこくこくします。
 そうして各種のお仲間たちは、なし崩しになんだかよくわからない事態に突入するらしい己の運命を、様々に案じたり誇ったり面白がったりしながら、しかし全員もれなく、ある共通の疑問を抱いてもおります。
 あの二人、いや、一人と一匹は、いったいどーゆー仕組みで、意思疎通しているのだろう。『かくかくしかじか』と『これこれこうこう』、それだけの会話ですべてが解り合えるとは――いったい、どれほど深い仲なのだろう。

    ★          ★

 そして、御岳駅を過ぎて丹縄のトンネルあたり。
 多摩川の蛇行に沿って大きくうねる国道を走行しながら、ふとバックミラーを覗いたかばうまさんは、
「げ」
 さっき通過したうねりの陰から、なんじゃやら異様な一群が、まばらな車輌を縫って疾走してくるのを認め、思わずハンドル操作をしくじりそうになります。
 きききききき――渓谷側のガードレールをこすりそうになり、あわてて体勢を立て直すかばうまさんを、
「おい、気をつけろ」
 邦子ちゃんが、たしなめます。
「俺や友子はいいが、おまいや拡恵や舵武は、落ちると死ぬぞ」
 かばうまさんは冷や汗を流しながら、
「……やっぱりな」
 くいくい、と顎でバックミラーを示します。
「おとなしく待ってるタマじゃないと思ったんだ、あれは」
「?」
 邦子ちゃんも後ろのちみっこたちも、なんだなんだとミラーを覗き、
「げ」
 邦子ちゃんがうめきます。
「わ」
 拡恵君が驚愕します。
「わーい」
 舵武君が嬉しがります。
「おう、たかこねーちゃん」
 友子ちゃんが感服します。
 邦子ちゃんは横ウインドーを下ろして首を突き出し、後方から接近してくる異様な一群をあらためて確認したのち、呆然とつぶやきます。
「……あいつら、なにやってんだ」
 やがて、
「きゃっほー!」
 バニラダヌキさんといっしょに、あの巨大三毛猫にまたがった貴ちゃんが、白のカマトト姫ワンピなど後方にたなびく腰巻き同然、ラスカルのパンツをちらちら披露しながら、どどどどどとバンの横を通過します。
「先に行ってるねー!」
 続いて、各種ダヌキさんといっしょに各種巨大猫にまたがった各種女子中学生の群れも、
「ひいひいひい」
「押忍《うっす》!」
「きゃはははははは」
 もはやヤケクソで通過して行きます。
 邦子ちゃんは、呆れているんだか笑っているんだか泣いているんだか、そんな顔で、
「……しかしまあ、いい歳こいて、よくやるよなあ」
 他人《ひと》のことを言えた義理でもないんですけどね。

     ★          ★

 ちなみに、その頃、青梅駅近辺の舗道では、『セルフサービス・ご自由にお召し上がりください』と札の下がったシェイクの屋台の列に、世界の果ての住人らしくおおらかで物に動じない青梅市民たちが、わらわらと群がっていたそうです。
 その場に放置された半数ほどの巨大猫さんたちは、勝手にうろつき回ったりじゃれあったり、路傍や駅舎の屋根で丸くなって寝たり、懐いてくる子供を抱えこんだり、猫好きの大人を下敷きにしたりしておりましたが、幸い負傷者は出なかった模様です。
 また、その夜、青梅市内のおよそ二十軒ほどの家庭では、「私の娘に時々尻尾が生えているような気がするのはなぜか」「俺の娘の目の周りが時々妙に黒ずんで見えるのは、娘の体調が悪いのか、それとも俺が働き過ぎなのか」、そんな疑念に悩む親御さんたちが、眠れぬ夜を過ごしたということです。
 そして翌日、優子ちゃんが、貴ちゃんや愛好会仲間のお見舞いを受けたとき、「いよいよ私の目は末期の老眼になってしまった」と悩んでしまうかどうか――それは今のところ、邦子ちゃんや友子ちゃんや、モノホンの貴ちゃんたちの、今後の活躍しだいですね。





   第五章 星空のにゃーおちゃん


     1

 山間の渓流の夕方は、とても早く暮れなずみます。
 見上げる稜線の上の空はまだ蜜柑色で、麓なら夕食の買い物をしているような時刻でも、河床に張られた青系ツートンカラーのドーム型テントあたりには、すでに闇の気配が迫っております。
「おい、拡恵、そっちの具合はどうだ?」
 バーベキューセットの用意をしながら、かばうまさんが訊ねますと、
「うん。なかぱっぱ」
 なかぱっぱ、なかぱっぱ、と唱えながら、拡恵君は大鍋のかかった焚き火に、せっせと薪をくべます。
「よし、赤子泣いても蓋とるな」
「あかご?」
「赤ちゃんのことだ」
 拡恵君は大真面目にあたりを確認し、
「いない」
「岩魚が跳ねても、蓋とるな」
「らじゃー」
 予定の五倍以上に人数が増えてしまったので、まだまだ何度もご飯を炊かなければなりません。山に入る前のコンビニやスーパーで、米やおかずはずいぶん補充しましたが、捜索が長引くとすれば、明日にも買い出しが必要になるでしょう。
「舵武、そっちは?」
 拡恵君の隣の焚き火で、別の大鍋を受け持っていた舵武君は、ぐつぐつと煮えてきた中身をおたまでちょっとすくい、神妙に味見します。
「……カルダモン、たんない」
 何事も深く探求するたちの舵武君としては、市販のカレー・ルウだと、どうしても物足りないのですね。
「贅沢な奴だな。俺が子供の頃なんかはなあ――こんなんだぞ」
 かばうまさんは、器用にピーマンを切り分けながら、いきなし歌いだします。
「♪ 肉〜をお鍋で炒〜め〜 塩〜で味を付〜け〜て〜 湯をだんだん増して炊けば〜 よぅ グラ〜グラッと煮〜える〜 ジャガイモ玉葱入れ グラグラグララララ う〜どん粉溶〜き〜 カレー粉混ぜりゃ〜 あっ ラ〜イ〜ス〜カ〜レ〜 ♪」
 そのきわめてアバウトなレシピが、贅沢な現代っ子たちにどこまで納得してもらえるかはアヤしいものですが、なんだかとっても楽しい歌なので、拡恵君も舵武君もにこにこです。
「『キャンプ料理』という、由緒正しいボーイスカウトの歌だ。今のは、ほんの一例だ。全部で十番目まである。全部覚えれば、味噌汁からシチューまで、山の焚き火でなんでも作れる。『十種野営料理の歌』とも言うな」
「こくこく」
「こくこく」
 まあ確かに、食材を適当に変えて、煮たり焼いたり炒めたりの順序を変えれば、なんだって出来てしまうわけです。あとは、それが過去に体験したどんな料理に近いかを分析し、勝手に命名すればいいわけですね。
 幸い昨今のカレー・ルウは、お湯に放りこんだだけでなかなか侮れない味と食感を呈します。
 山間に漂いはじめたその香ばしい匂いを慕うように、上流の大滝方向から、北西方面大猫部隊――鷹ノ巣山方面捜索隊の面々が帰還します。
「あー、おなか空いたあ」
「おう、帰ったか」
「おかえりなさーい」
「おかえりなさーい」
「はいはい、ただいまー」
 言い出しっぺということで、一応貴ちゃんが隊長を務めておりますが、現場ではお仲間ごとの三班に別れて、各自マタタビ袋を抱え、分担捜索しておりました。
 移動自体は山慣れた各種タヌキさんや大猫さんの脚任せですから、さほど辛くはありません。それでも林道や登山道を外れて、雑木や藪の生い茂る急勾配の獣道を、きゃぴきゃぴ押忍押忍ひいひいと駈けめぐったのですから、チア部の私服はオモライさん状態ですし、柔道部のジャージはホームレス状態ですし、百合族の制服は、関東大震災で焼け出されたミッション系女学生、そんなありさまです。ちなみに邦子ちゃんと友子ちゃんは、それぞれタル沢とカラ沢方面――東の尾根を越えた二つの支流に出かけているので、まだ帰っておりません。
 貴ちゃんと剽軽なお仲間たちは、猫に乗っての猫探しなどという非常識《おもしろげ》なイベントなら、なんぼ疲れ汚れても平気ですが、他の面々は、さすがにコタえた様子です。屈強な黒帯少女の群れでさえ、根性顔にいささかの疲労を隠しきれないほどですから、百合族のお嬢様方に至ってはもはやヨレヨレ、「ああ、か弱い子羊のようなわたくしたちに、エス様が与えられたこの艱難辛苦――。でも、耐えなければ。すべては優子お姉様のためなのだわ」と、手綱を取るタヌキさんにしがみついて、猫にまたがっているのがやっとの状態です。ただし、あの引っつめ三つ編みの宮小路さんクラスになりますと、さすがに聖母様から第一使徒を任されるだけあって、戦場に馬を駆る凛々しきジャンヌ・ダルクのごとく、こめかみに血管を浮かしたりしておりますが。
「それじゃあ、みんな、大休止! 今後の作戦に備え、充分に英気を養うべし!」
 貴ちゃんは、指揮官として重々しく命じたのち、
「カレーもあるでよ〜〜」
 すかさず往年のコメディアン・南利明さんの、オリエンタルカレーCM物真似を、りちぎにつけ加えたりもします。
「肉や野菜がいっぴゃ〜入っとるでよ〜」
 ほんとうは「ハヤシもあるでよ〜」なんですけどね。まあパパ方のお祖父ちゃんから受け継いだ遺伝子記憶ですから、平成生まれの貴ちゃんだと、再現性に限界があるのでしょう。
 貴ちゃんは、苦労をねぎらうようにバニラダヌキさんのおなかをぽんぽんと叩き、器用に三毛猫さんから降り立って、後ろに積んでいた布袋を抱え下ろします。
「どっこいしょ」
 その大きな布袋は、なんじゃやらもこもこと、内側から蠢いております。なーなー、などという鳴き声も聞こえるようです。
「きゅうくつでごめんねー」
 布袋の中身を河原にぶちまけますと、
「な〜お」
「な〜お」
「ごろな〜お」
 マタタビに酔っぱらった大量の野良猫さんたちが、へべれけでのたくります。
「ねえ、貴乃花」
 琴欧洲さんも布袋を抱え下ろしながら、
「探してるのは、でっかい白猫だったよね?」
「ほーい」
「なんで片っ端から、野良猫集めてくるわけ? いや、かわいいから別にいいんだけどさ」
 琴欧洲さんは、開ける前の布袋を、ふにふにと爪先で押してみます。
「にゃ〜」
「ぽんと蹴りゃ、にゃーと鳴く。……山寺の和尚さんに、配給して回るとか?」
 ――言われてみれば、確かに意味ないかも。
 貴ちゃんは、ごろごろとのたくる野良猫さんたちの前にしゃがみこんで、しばし悩乱します。
「こちょこちょ」
 なんとなく顎の下を掻いてあげたり、
「つんつん」
 入念にお腹を突っついたりしたのち、きわめて厳粛な顔で琴欧洲さんを見上げ、
「……とても、やわらかい」
「……やわらかきゃいいってもんでもないでしょ」
 そんな会話を聞いていたかばうまさんは、器用にタマネギを輪切りにしながら、フォローしてあげます。
「まあ邦子の言ったことだから、考えがあるんだろう。ザコも一カ所に集めとけば、今後の捜索んとき紛らわしくない、とか」
 こくこくとうなずくチアリーダーたち越しに、ふと、後続のメンバーを見やったかばうまさんは、
「げ」
 包丁を握ったまま絶句します。
 柔道部副将の田村さんが、相方のミントダヌキさんといっしょになって、巨大虎猫の背中から下ろそうとしている獲物――それは他の大猫に積まれているような猫袋ではなく、どう見ても山着姿の巨漢です。
「……死んでないよな?」
 巨大猫が誤って狩ってしまったのではないか、そう不安になったのですね。
「押忍。気絶しただけっす」
 田村さんは、若い頃のミヤコ蝶々さんのような笑顔で頭を掻きながら、
「カスミ網で野鳥を密猟してたもんで、ちょっとシメてやろうとしたら、これが超重量級の上に、なかなか技のある奴で……」
 口ごもる田村さんを、ミントダヌキさんがフォローします。
「執拗な寝技に持ちこまれ、やや形勢不利と思われましたので、このタイガースターが猫パンチをお見舞いしました」
 巨大虎猫さんが、にゃおおおん、と得意げに鳴きます。
 かばうまさんは、白目をむいて頬を腫らしている密猟者の息を確かめ、
「……まあ、命があるだけ、ラッキーだわなあ」
 たかが猫パンチとはいえ、熊の手ほどもあるわけですからね。もし爪を立てられていたら、顔面半分、確実に持ってかれるところでしょう。
「あ、あのう……」
 さらに後ろのほうから可憐な声がかかり、かばうまさんが首を伸ばしますと、
「で、できれば、こちらの方も……」
 優子ちゃんを孫ダビングしたような、でも世間の相場から見れば充分清純派美少女の後輩さんが、レモンダヌキさんや宮小路さんたちといっしょに、釣り師姿のオヤジを抱えて往生しております。
「あの、あの、わたくし、喉が渇いたので水辺に下りましたら、あの、この方が、足を滑らせて沢に落ちて、そのまま流されて……」
 そりゃ深山で孤独な渓流釣りに耽っているとこに、いきなり白虎にまたがった制服の美ろりが出現したら、動転もするわなあ――。
 事前の注意が甘かった、と、つくづく嘆息するかばうまさんでした。
 そのとき、背後の斜面の藪をざざざざどどどと揺らしながら、猿《ましら》のごとく邦子ちゃんが駆け下ってきます。
「あー、腹へった」
 出発時、背負子いっぱいに積んでいたお握りや、マタタビ袋やトラバサミは、綺麗に空になっております。
「あ、お帰りー!」
「おかえりなさーい」
「押忍!」
「お帰りなさいま……」
 いっしょに挨拶しかけた百合族の面々は、思わず息をのみます。
 綿シャツやパンツのあちこちにできた派手なカギザギ、そこかしこに滲む痛々しい血痕――右手の包帯も解けかけ、もはや満身創痍といったありさまです。
「……おい、大丈夫か?」
 かばうまさんが心配そうに訊ねますと、
「なんの、かすり傷だ」
 邦子ちゃんは、お気に入りだった山着を、ちょっともったいなさそうに検分しながら、
「いやー、このあたりは、何年もご無沙汰だったからなあ。俺の顔を知らない熊がいてな、出会い頭に鉢合わせしちまった」
 ケロリと言い放ちます。
「ふだんなら、そんなマヌケは絶対やらんのだが――ま、無事に話がついたから、大丈夫だ。山着の換えもあるしな」
 どんな話を、どうやってつけたのか――宮小路さんたちは、なにか恐ろしいものを見るようなお顔で、邦子ちゃんを見つめます。その他の面々は、ありそうな話なのでさほど動じません。
 かばうまさんは、あらためて大猫部隊を見返り、
「そっちは出なくて良かったな、熊」
「いたよ、熊さん」
 貴ちゃんが、のほほんと答えます。
「……いたの?」
 かばうまさんのこめかみに、たらありと冷や汗が流れます。
「んでも、みんな逃げた」
「このあたりの熊は、みんな月の輪熊ですから。うちの猫たちより、小さくて弱いのです」
 バニラダヌキさんは、愛馬、いえ、愛三毛猫の顎の下を優しく掻いてやり――いえ、掻こうとしても手が届かないので、猫のほうから顎をすりつけてきます。
「ごろごろごろ」
「よしよしよし。――まあ、巨大なヒグマやグリズリーでも、うちの猫たちの敵ではありません。ブッシュさんの調教を受けておりますので」
「あのおっさん、まだ蔵王にいたのか?」
「はい。一度は故郷に帰られましたが、その後、なにか巨大猫の軍事利用計画に巻きこまれたとやらで、数年前、亡命してまいりました」
 かばうまさんは、首を傾げます。
「でも、猫を使って世界制覇するんなら、米軍に入ったほうが良さげじゃないか?」
「いえ、あの方が目ざしているのは、あくまで『パックス・キティーナ』――猫族を頂点とする平和世界ですから」
「そうだっけ」
「はい。おかげさまで、その後の行商に、とても重宝しております。弱点だったマタタビ依存症も、体質改善によって克服されました」
 なあるほど、それで野良猫さんたちが阿片窟ごろごろ状態でも、巨大猫さんたちは平気なのですね。
「だったら友子も、大猫に乗せて出せば良かったなあ」
 かばうまさんが、心配そうに尾根の彼方を振り返りながら、そうつぶやいたとき、
「おれが、どうかしたか?」
 崖の上からいきなし声がかかり、友子ちゃんが帰還します。
 急斜面の藪をざざざざどどどと揺らしながら、
「あー、はらへった」
「あ、おかえ――」
 迎える一同は、藪から現れた友子ちゃんを見るなり、思わず『すざざ』と後ずさります。
 友子ちゃんは、いかにも獰猛そうな月の輪熊にまたがり、
「はいし、どーどー、はいどーどー」
 マサカリこそ担いでおりませんが、完璧に足柄山の金太郎状態です。
 邦子ちゃんは頼もしげにうなずいて、
「おう、友子。あんがい早かったな」
「おう、くにねーちゃん。こいつが、てつだってくれたのだ」
「がうがう」
 友子ちゃんは、月の輪熊さんを得意げに見せびらかし、
「くまごろー、とゆう。ともだちになったんで、おれが、なまえをつけてやった」
 ひょいと飛び下りて、そのどでかい頭を撫でてやります。
「よしよし、ごくろーだった」
「ぐるるるる」
 熊五郎さんは嬉しそうに喉を鳴らしながら、ふと邦子ちゃんに目を止めて、
「……がう?」
 しばし記憶をたどるように小首をかしげたのち、
「がう!」
 いきなり仁王立ちになり、邦子ちゃんにのしかかります。
「がうがう! がうがう!」
 すわ、邦子ちゃんの旧敵か――ぎくりと緊張する一同をよそに、
「なんだ、おまいか!」
 邦子ちゃんは、頭ふたつでかい熊を軽やかに受け止め、ぱんぱんと背中を叩いてやります。
「くにねーちゃんも、しりあいなのか?」
「おう。昔、相撲をとった仲だ」
「がう、がう」
 月の輪熊の平均寿命は二十年を越えますから、こんな再会もあり得るのですね。


     2

 やがてとっぷりと日の暮れた、日原渓谷――。
 峰々の形に切り抜かれたような星空の下、いつもならただ闇と水音だけに沈む上流の河床に、ちらちらと暖色の光が揺れております。
 間近に見ればけっこう派手な焚き火でも、夜の大自然の中では、砂浜になかば埋もれた真珠貝の欠片のように儚く、このガイアにおける人間のなりわいが、ほんのささやかな存在でしかないことを、あらためて感じさせるだけだったりしま――する場合が多いのですが、まあ今回はメンバーがメンバーだけに、大自然をかなり浸食してしまいそうなイキオイだったりもします。
「バーベキュー、おいしいねー」
「んむ。この、いかにもぎちぎちと歯応えのあるたくましい外国牛の風味が、噛めば噛むほど、なんとも」
「ヘーイ、ボイさん、シシカバブもういっちょ!」
「誰がボーイやねん」
 などと、いつものように盛り上がる貴ちゃん邦子ちゃんかばうまさんサイドのみならず、
「ねえねえ、このカレー、ほんとに君が作ったの?」
「こくこく」
「すごーい。いいお嫁さんになれるねえ」
「……ぽ」
「そこで頬染めてどーすんねん、男の子」
「このお鍋で炊いたご飯のカニ穴、もう三つ星!」
「えっへん」
 チア部の面々は、舵武君や拡恵君をいじりりつつ、陽気に食い散らかしております。
 柔道部の面々も、
「がふがふがふ」
「おい、そっちの肉、焦げてんじゃないか?」
「むしゃむしゃむしゃ」
「おまいら肉ばっかし食っとらんで、野菜も食わんと内臓壊すぞ」
「がつがつがつがつ」
 圧倒的迫力で食いまくっております。
 あの『ことのは』のお嬢様方は、こうした野外活動は初体験なのか、
「……星空に、吸いこまれそう」
「このせせらぎの、さざなみも……」
「夜風にさざめく木の葉の、ひとひらひとひらも……」
「荒々しい焚き火から舞い上がる火の粉の、ひとつひとつも……」
「ああ――」
「――なんて、美しいことでしょう」
 ふだんの窮屈な深窓環境から、心身ともに解き放たれております。
「……なんだか、地面が揺れておりませんこと?」
「あら、揺れているのは、あなたのおつむですわ」
「ふらふら、あらあら」
 まあ優子ちゃんのお仲間ですから、夏とはいえ夜は冷えこむ深山の風と行軍の疲労に、負けてしまいそうな蒲柳の質のお嬢様もいらっしゃるわけですが、丸くなった大猫さんのおなかのあたりに潜りこんで星空を見上げれば、ほどよく暖かい上に、気分はすっかりファンタジーです。
「この、ゴム草履のように堅くて臭くて得体の知れないビンボなお肉さえ、不思議なほどおいしくて……」
「巴里のアランデュカスよりも、美味ですわねえ」
「まるで、すべてに神が宿っていらっしゃるかのよう……」
「……もしかして」
「この星空の下、生きとし生けるものすべてが――」
「いえ、森羅万象のすべてが……」
「――神なのかも、しれませんわねえ」
 狭隘な一神教を越えた、原始宗教的恍惚に目覚めていたりもします。
 ちなみに密猟者さんや釣り師さんたちは、すでにリリースされ、姿を消しております。
「ねえねえ、バニラダヌキさん、カレーもあるでよ?」
 水辺に集った各種タヌキさんの挙動が気になって、貴ちゃんが声をかけますと、
「いいえ、おかまいなく」
 バニラダヌキさんたちは、おなかのどこかのポケットから取り出したバニラの実を、せっせと河原の水で洗っては、ぽりぽりと囓っているようです。狸なんだかアライグマなんだか、ますます正体が判りません。
 そして、捕獲されてきた大量の野良猫さんたちは、あいかわらず河原に群れをなして、なーなーごろごろと餌付けされたり、マタタビでトリップしたり、怠惰にのたくっております。
 邦子ちゃんは、そんな野良猫さんたちを満足げにながめ、
「よしよし、かなり派手に集まったな」
「でも、そっちは手ぶらだったのか?」
 かばうまさんが怪訝そうに訊ねますと、
「まあ、こっちは尾根と沢ひとつ、ひとりでまるまる走破だからな。猫の好きそうな場所に、罠を仕掛けてきただけだ」
 邦子ちゃんは、にんましと笑います。
「お楽しみは、これからだ」
 なにやら、腹に一物ありそうな笑顔です。
 やっぱり何か企んでるな――かばうまさんは、腹中でうなずきます。
 何を企んでいるかは解りませんが、かばうまさんとしては、この件に関しては全てを仲良しトリオの施為に任せよう、そう達観しております。それは、けして投げやりな諦観ではありません。あくまで、部外者としては誰よりも長く三人組に関わってきた人間、ある意味誰よりも愛してきた人間としての、最終結論です。
 俺はただこいつらを見守りながら、時々適宜、力を貸して生きるしかない。こいつらは、いつだって勝手気ままに生きるべき時を生きてきたのだから。生きることの先に避けられない『死』があるにしても、そしてその宿命が、俺のような親爺より先に、若いこいつらの誰かをこの世から消してしまうにしても、やはり俺は、泣きながらそれを見守るしかないのだ。なぜなら、それこそがこいつらの『生』に他ならないのだから――。
 満天の星を見上げながら、そんな、いささかの感傷に囚われたかばうまさんは、
「どうした、貴子」
 さっきから貴ちゃんの元気声がとだえているのが気になって、声をかけます。
 貴ちゃんは、スプーン片手に、ひと口食べたカレーの皿をじっと見つめながら、
「……優子ちゃんも、いっしょだといいのにね」
 そうつぶやく横顔の瞼のあたりで、焚き火のゆらめく影にきらりと浮かびそうになっているのは、やっぱり涙でしょうか。
 かばうまさんも邦子ちゃんも、黙ってうなずくしかありません。
 やがて貴ちゃんは、なにかを振りきるように、ぶるん、と頭を振り、カレー皿を両手で抱えると、
「ずぞぞぞぞ」
 残りのカレーをいきなし一気にすすりこみます。
 お酒や清涼飲料の一気飲みは珍しくありませんし、スプーンを駆使したカレー一気食いもたまには見かけますが、
「ずぞぞぞぞぞぞぞ」
 さすがに『カレーの一気飲み』には、その場の誰もが絶句します。
「げふ」
 さすがは×中名物チア部の首魁――そんな畏敬の視線を集めつつ、
「ごちそーさまでございました」
 お手々の皺と皺を合わせて、しあわせ、なーむー、したのち、
「んじゃ、夜の部、開始ー!」
 決然と立ち上がる貴ちゃんに、
「おう!」
 チア部の面々は反射的に呼応し、それぞれの猫に向かおうとします。
 しかし、なぜか邦子ちゃんは、
「おいおい、ちょと待て」
 立ち上がった一同を押しとどめ、
「おまいらは、夜目が利かない。今夜は、ひとまず体を休めとけ」
 やる気まんまんの貴ちゃんは、
「んでも――」
 残された時間は、あまりに少ない――そんな言葉を続けるのがためらわれ、ただフグになります。
 こいつのことだから、無理に止めても無駄か――邦子ちゃんは、そう判断し、
「それじゃあ、ちょっと、カラ沢沿いの罠を見てきてくれ。人の行きそうな所にゃ仕掛けてないが、マタタビの匂いで判るだろ」
「らじゃー!」
 熊五郎さんといっしょに焼肉の塊を食いちぎっていた友子ちゃんも、
「おうし、おれが、あんないしてやる」
 張りきって立ち上がります。
「いくぞ、くまごろー!」
「がう!」
 こうして、熊五郎さんにまたがった友子ちゃんを先頭に、各種大猫さんにまたがった各種タヌキさんとチア部の分隊は、東部方面に向けてずざざどどどと夜間行軍を開始します。
「生きて帰れよー」
「ほーい!」
「ご武運をー」
「どんぱ!」
 盛大な見送りの中、田村さんが心配そうに、
「ボケ部の連中だけで、こんな夜中に大丈夫っすか?」
「大丈夫だろう。友子たちもいるし、狸や猫は夜目が利くしな」
 邦子ちゃんは含み笑いしながら、
「ま、貴子のガス抜き、そんなとこだ」


     3

 そして、ほぼ真円の月が渓谷の真上に輝く頃――。
 邦子ちゃんの楽観的な予言どうり、貴ちゃん隊は、何事もなく帰還します。
「むー」
 貴ちゃんは欲求不満げに、
「なんにも、いない」
 またフグになっております。
 友子ちゃんは、なぜか行軍前よりも脹らんでしまったマタタビ袋を掲げ、邦子ちゃんに報告します。
「おかしいぞ。わなが、みーんな、きえている。エサだけ、きれいにのこってた」
 焚き火の前で、愛用のサバイバルナイフを磨いていた邦子ちゃんが、
「……読みが当たったな」
 にんましと笑い、おもむろに腰を上げた、そのとき――
「お前たちは、何をしている」
 対岸の崖の上から、野太い声が響きます。
 同時に、どさどさがちゃがちゃと、大量のトラバサミが河原に降ってきます。
「わあ」
「きゃあ」
「ひい」
「みぎゃ」
 はずみで河原の小石が跳ね上がり、一同は一瞬パニクりますが、人や大猫を狙って放り投げたわけではなさそうです。
「なぜ、山を荒らす」
 再び夜陰に響く重々しい声と、崖の上にずらりと並ぶ小動物の影、そして光る眼の連なり――。
 その中央から、ひときわ大きな白い影が、月の光を浴びながら、のそりと歩み出ます。
 大きいと言っても、下の巨大猫さんたちに比べれば、三分の一程度でしょうか。それでもまっとうな猫さんとしては異常な体長ですし、またかなりでっぷりとハバがあり、おまけにふかふかの尻尾がふたつに別れていたりするので、
「ば、化け猫……」
 そんなささやきがあちこちで聞かれるほど、その存在感は確かにもののけ――猫又に近いものがあります。ただし、よく見ると、なぜか背中にパディントンのぬいぐるみをおんぶしていたりするので、神秘性や緊張感はイマイチ足りません。
「……にゃーおちゃん」
 貴ちゃんが、ふらふらと歩を進めます。
 そのまんま渓流に踏みこもうとするのを、邦子ちゃんはあわてて引き留め、
「落ち着け、貴子」
 かばうまさんがふたりに駆け寄り、邦子ちゃんに耳打ちします。
「もしか、初めからこれを狙ってたのか?」
「おう」
 邦子ちゃんは、してやったりとうなずいて、
「俺と友子のふたりだけなら、虱潰しに根性で探すしかない。んでも、こんだけ仲間が集まったら話は別だ。誰も無視できないくらい派手に動いて、あちらさんから出張ってもらえば、話が早い」
 さすがは百戦錬磨の邦子ちゃん――我に返った貴ちゃんも、感心してこくこくとうなずきます。
「なぜ、答えない」
 崖からの声が、いらだちます。
「釈明がないなら――ひとり残らず、屠《ほふ》らせてもらうぞ」
 声だけ聞けばきわめて物騒なのですが、事の成りゆきを見守る背後の一同の間では、宮小路さんと琴欧洲さんと田村さんが、こんな会話を交わしております。
「……恐い」
「恐い? あたしゃ、あれすっげー撫でまくってみたいんだけど」
「自分は、なんか、すげーうまそうだと思うっす」
「……言われてみれば、つきたてのお餅のよう」
 まあ、その程度のインパクトなのですね。
「おい、お前も水臭い奴だなあ!」
 邦子ちゃんが、崖に向かって叫びます。
「やっほー! にゃーおちゃん!」
 貴ちゃんが、ひらひらと手を振ります。
「…………」
 しばし絶句した白猫さんは、
「……なんと、きさまらか」
 毒気を抜かれたように、うなだれます。
「二度と会うまいと思っていたのだが――。きさまらに関わると、どうも、ろくなことがない。吾輩は、帰る。きさまらも帰れ。山の猫たちは、そこに置いてゆけ」
 踵を返して立ち去ろうとするので、
「ま、そーゆーな。こっちは色々ワケアリなのだ。ちょっと話があるから、下りてこい!」
「そーそー。優子ちゃんも、会いたがってるよ!」
 優子ちゃんの名前が出たからでしょうか、白猫さんは、ふと立ち止まり、
「……話があるなら、そちらから来るのが礼儀というものだ」
 ごもっとも――事態を察した友子ちゃんが、すかさず熊五郎さんを邦子ちゃんに差し出します。バニラダヌキさんも、巨大三毛猫さんを引いてきます。
 邦子ちゃんは対岸右手の藪を指さし、
「あの斜面から一気に登るぞ!」
「らじゃー!」
 それぞれ愛馬を駆って――もとい愛熊と愛猫を駆って、夜の渓流に水しぶきを上げながら、
「はいよー、しるばー!」
「がう!」
「♪ ろーれんろーれんろーれん ♪ ろ〜は〜〜いど ♪」
「なーお!」
 昭和レトロの遺伝子記憶に従い、叫んだり歌ったりします。
 やっぱしこの手の見せ場だと、近頃のヤワな卑し系、いえ、癒し系POPSでは、気合いが入りませんものね。『荒野の七人』の主題曲、あるいはJIGSAWの『スカイ・ハイ』あたりなら、モア・ベターかもしれません。

    ★          ★

 やがて月輪に照り映える崖上、貴ちゃんは三毛猫さんからひらりと飛び下りるなり、
「にゃーおちゃん!」
 いきなし白猫さんに駆け寄って、うむを言わさず抱きしめます。
「ぎゅうううう」
「むぎゅううう」
 配下の野良猫さんたちは、たちまち背中の毛を逆立てます。
「ふんぎゃー!」
 しかし、貴ちゃんの背後には熊五郎さんや巨大三毛猫さんが控えておりますので、下手に間合いは詰められません。
 白猫さんは、ひょうたん型に海老ぞりつつ、うめきます。
「……また殺す気か」
「あ」
 貴ちゃんは、あわてて白猫さんを解放します。
「気にするな」
 邦子ちゃんが、白猫さんに笑いかけます。
「俺と違って、貴子のは愛情表現だ」
 白猫さんは、けほけほと咳き込みながら、
「ふん。きさまにまた殺されても、別にかまわんのだがな。――吾輩は、もう、生きることに飽いた」
 故・天知茂さんばりのニヒルなまなざしを夜空に向けて、
「この無常の世に生きること幾星霜――もはや母親の顔も、乳を分け合った兄弟姉妹の顔も思い出せないほど、長い歳月を生きてしまった」
 巨大なぼたもちのような外見に似合わず、なかなかハード・ボイルドに甲を経ているようです。
「あの日あの庭で、きさまにアバラを折られたときにせよ、むしろありがたく思ったよ。――ああ、これで吾輩も、ようやく冥途とやらに旅立てる、とな」
「ま、そーゆーな。おまいには、これから優子を元気づけてもらわなきゃならんのだ」
「そーそー」
「それに、優子にあんな手紙送っといて、今さらシカトはないだろう」
「こくこく」
 ふたりの畳みかけに、
「なんの話だ?」
 白猫さんはハテナ顔で、
「この国の文字はきさまらよりも良く知っている自信があるが」
 両手のぷくぷくした肉球を見せて、
「人間相手に手紙を書くほど、吾輩も器用ではないぞ」
 邦子ちゃんと貴ちゃんも、ありゃりゃ? と当惑しつつ、
「いや、手紙っつーのは言葉の綾で――えーと、病院に電話?」
「ふるふる。えーと、科特隊に電話?」
「そうだ、それだ!」
 白猫さんは、あくまでニヒルに、
「この山のどこに電話がある?」
 もともと背景事情の根本を知らされていない邦子ちゃんと貴ちゃんは、すっかりとっちらかってしまいます。
「……電話じゃないそうだ」
「んでも、ママが科特隊で受けたって……」
「あれだ! あの、なんかほら、本部とかビートルとか、ヘッドホンみたいな奴で、マイクかなんか、ぱーぱーしゃべってる奴」
「SSPS専用衛星回線!」
「そうだ、それだ!」
 白猫さんは、あくまでクールに、
「そのナントカ回線って奴は、この山から大声で鳴けば、声が届くものなのか?」
 貴ちゃんは、悩乱します。
「……ねえ、にゃーおちゃん」
「おう」
「……あのね」
「ああ」
「……もしか、ね」
「だからなんだ」
「……ママの携帯番号、知ってる?」
「知ってると思うか?」
「……ふるふる。……んじゃあ、ね」
「メルアドも知らんぞ」
「……むー」
 そんなまだるっこしい会話に耐えきれず、邦子ちゃんは、いきなしキレます。
「おいこの野郎! しらばっくれるんじゃあない!」
 白猫さんにのしかかり、大相撲級の鯖折り体勢に持ちこみ、
「さあ吐け! 今吐け! すぐに吐け!」
「ぐええええ」
 パディントンをおぶっていた紐がちぎれ飛ぶほどの、マジな殺気です。
 配下の野良猫さんたちは、いっせいに牙をむいて邦子ちゃんに飛びかかり、邦子ちゃんに加勢して躍りこんだ熊五郎さんも、たちまち野良猫さんにまみれ、引っ掻きの嵐に晒されます。
「ぎええええ」
「がわわわわ」
「うにゃにゃにゃにゃあ」
 飛び交う絶叫、のたうちまわる人獣、宙に舞う猫々――もはや修羅場です。
「あうあう」
 あわてて止めに入った貴ちゃんと巨大三毛猫さんの奮闘により、数分後、なんとかその場は治まりますが、
「はあ、はあ、はあ」
「はあ、はあ、はあ」
「はあ、はあ、はあ」
 みんな揃ってズタボロです。
「……図体ばかり立派に育っても、やはり、きさまらはあいかわらず馬鹿なのだなあ」
 白猫さんが、しみじみ呆れます。
「後先まったく考えないというか……わけも解らずこんな山奥までやって来て、あれだけ大騒ぎしていたとはなあ」
「……こくこく」
「……おまいに直接訊くのが、一番手っ取り早いと思った」
「まあ、いい。とにかく、優子に何かあったのなら、くわしい話を聞かせてくれ」
 その名を口にするときに限り、白猫さんはとても優しげです。
「あの娘なら、もう一度くらいは、撫でられてやってもいい。猫小屋に住まわされるのはごめんだがな」
 土にまみれたパディントンを拾い上げ、ぽんぽんと肉球ではたいてやりながら、
「……こいつをくれたのも、あの娘だ」
 さも大切そうに、つぶやきます。
「昔から、不思議に思ってたんだが」
 邦子ちゃんは、つい訊ねます。
「おまい、なんでいつも、そいつをしょってんだ?」
 貴ちゃんも、その疑問にこくこくと同調します。
 白猫さんは、じっとパディントンを見つめ、それから憂いを帯びた瞳で星空の満月を見上げ、
「…………」
 しばしの沈黙ののち――パディントンをちょこんと前に置いて、おもむろに「奥様、お手をどうぞ」みたいなポーズをとると、優しく抱きかかえ、社交ダンスを踊りはじめます。
 くるくる、くるくる。
 それを遠巻きに眺めていた野良猫さんたちも、
「な〜お」
「な〜お」
「ごろな〜お」
 それぞれカップルを成して、優雅に踊りはじめます。
 くるくる、くるくる。
 月下の崖上に繰り広げられる、猫たちのシャル・ウィ・ダンス――。
 やがて推定一曲踊り終えた白猫さんは、パディントンを抱えたまま、きわめて厳粛な顔でふたりを見返り、
「……とても、やわらかい」
 貴ちゃんも、厳粛な顔でうなずきます。
「こっくし」
 すべて理解できる、そんな表情です。
 邦子ちゃんは、困惑します。――物事、やわらかきゃいいってもんでもないだろう。
 しかし、あえて口には出しません。なんだかよく解らない案件に関しては、貴ちゃんの特異な感受性に任せるのが、一番ですものね。

 
     4

 それから貴ちゃんと邦子ちゃんは、あらためて、背景事情説明を繰り広げます。
 パディントンをおぶい直した白猫さんは、ふたりがかりのかなりとっちらかった説明を、ふむふむと冷静に整理分析したのち、
「その『にゃーおちゃん』が、この吾輩でないことだけは確かだな」
 再度、断言します。
「んでも……」
「どこのどいつが、おまいを名乗る?」
「名乗ると言うより、勝手に名付けられただけで、正直、かんべんしてほしいのだが――優子の両親や、あの女中以外に、その名を知っているのは――智宏《ゆうじん》くらいか」
「……優子ちゃんの、お兄さん?」
 三浦智宏――優子ちゃんの、歳の離れたお兄さんです。
「だとしても、なぜ?」
「いや、別にあいつとは限らない。可能性を言ってみただけだ。吾輩があの家にいた頃、あいつは確か高校生だったが、なかなかしっかりした少年だったぞ。両親が、不憫な末娘をベタベタに甘やかし放題なところを、あの女中と智宏で、しっかり引き締めてやっている――そんな感じだったな。あいつは今も、家にいるのか?」
「ふるふる。アメリカにいるよ」
 智宏さんは、東大法学部から法曹界に入った後、今はニューヨークに渡り、米国三浦グループの法律関係を仕切っております。
「死ぬほど忙しいらしいが、週末は必ず専用ジェットで見舞いに戻るそうだ。確かに智宏さんなら、他の誰よりも、優子の強さを知ってるかもな」
「しかし、言い口が微妙すぎるな。『優子に、本当の病気のことを、今すぐ教えてやってくれ。優子は、お前たちが思うほど、弱い人間ではない。総ては真実から始まるのだ。そして、真実に終わりはない。』――まるで今ではなく、終わりのない時制――未来から物を言っているようだ」
 貴ちゃんと邦子ちゃんも、漠然とそんなニュアンスを感じますが、さすがに真相を悟る手がかりはなく、顔を見合わせて困惑するばかりです。
「ともあれ――」
 白猫さんが、腰を上げます。
「残された時が短いのなら、すぐに見舞ってやらねばなるまい」
「おう!」
「かっちけない!」
 勇んで立ち上がるふたりに、
「この老いぼれにも、ようやく死に花が咲きそうだ」
 白猫さんは、ことさらハードボイルドな声色で、そうつぶやきます。
「事の真実がどうあれ、吾輩は、優子の『真実』を終わらせないために、今まで生かされていたのだろう」
 ふたりが怪訝そうに顔を見合わせますと、
「これを優子に返せば、すべては大団円だ」
 白猫さんは両手を胸に当て、もじゃもじゃの白い毛並みを、ごそごそと掻き分けます。
 毛並みの奥の、さらに皮膚の内側で、とくとくとピンク色に息づいている、ほのかな光――。
「おお……」
「……越中富山の万金丹……」
「違うよう。反魂丹だよ」
「なんでもいいが、なんじゃやら、あの時からずっとこんな具合だ。毛玉といっしょに吐き出そうにも、どうも胃の腑ではなく、アバラの三枚目あたりに引っかかっているようなのだな。これのおかげで、死のうにも死ねん。山犬と闘って腹を食い破られても、熊に頭を囓られても、翌朝になれば無傷に戻ってしまう」
 邦子ちゃんは、ぱあっと瞳を輝かせ、
「やったあ!」
 叫ぶや否や、がば、と白猫さんを抱えこみ、熊五郎さんに飛び乗って、
「やった、やった、やったああ!!」
 そのまんまどどどどどと駆け去ってしまいます。
「あ、あの……」
 貴ちゃんは、残された野良猫さんたちの視線を一身に集めてしまい、
「あうあう」
 幸い、邦子ちゃんのあまりの早業に、野良猫さんたちは呆然自失状態らしいので、
「……お呼びでない?」
 もはや、あの定番に逃げるしかありません。
「……お呼びで、ない」
 幸い、まだ呆然視線が続いております。
「……こりゃまった失礼いたしましたあ!」
 はらほろひれはれとコケる野良猫さんを尻目に、貴ちゃんも巨大三毛猫さんに飛び乗り、泡を食ってダッシュします。
 ざざざざざざと藪を駆け下りながら、ようやく邦子ちゃんに追いつき、
「うらめしー」
「おう、すまん。忘れてた」
「むー」
「わはははは。めでたい時だ。むくれるな」
 邦子ちゃんはちっとも悪びれず、横抱きにした白猫さんをにこにこと眺め、
「駅前の肉屋の親爺が、お袋に惚《ほ》の字なのだ。お袋が食うとか騙くらかせば、猫だって犬だって、すぐにサバいてくれる」
 それが過去の経験か、ただの希望的観測かはちょっとこっちに置いといて、もはや白猫さんの人格、いえ、猫格を、きれいさっぱり無視しております。
 たしかに、もはやそれしかないのかもしんない。んでも――。
 貴ちゃんは、さすがに逡巡します。
 それでも白猫さん本人は、あくまで冷静に、
「できれば吾輩の肉も、優子に食わせてやってくれ。この国では不味いと言われているが、中華にすると旨いそうだ。特に猫の丸煮は、精がつくと言うな」
「うーむ、丸煮はなあ」
 邦子ちゃんは首をひねり、
「いまんとこ、優子は柔らかい物しか食えんぞ」
 おだいどこ大好き娘の貴ちゃんは、あえて逡巡をふりきって、助言します。
「お鉢で擂って、つくねにしたら? んで、オニオンスープに浮かすの。消化にもいいし、きっとおいしいよ。タマネギ、よーく焦がすのがコツなの」
 死にゆく者の願いは、真摯に叶えてあげたい――まあそんな気持ちなのでしょうが、貴ちゃんの発言であるかぎり、どーしても緊張感が足りません。
「よし、料理は貴子にまかせよう」
「こくこく」
 白猫さんは、渡河のしぶきをざばばばばばと浴びつつ、
「皮は三味線にしてくれ。昔から、風流な音で鳴ってみたかった」
「んむ。それは俺が約束する。お袋が、老舗の三味線屋を知ってる」
 邦子ちゃんのお母さんは、もと、神楽坂の芸者さんなのですね。
 まもなく対岸が近づき、かばうまさんや仲間たちが、おーいおーいと手を振ったり、松明を振ったりしているのが見えてきます。
「おう」
「んむ。みんなも、喜んで――ん?」
 しかしよく見れば、みんな、なんだか浮き足だっているようです。焚き火に水をかけ、テントを撤収し、とたぱたと巨大猫にまたがったりしております。
 血相を変えた友子ちゃんが、渓流の岩々を猿《ましら》の如く跳び伝い、ざばざばと駆け寄って来て、
「たいへんだ! ゆーこねーちゃんが!」
 熊五郎の後ろにひらりと飛び乗り、
「なんか、すっげー、きとくなんだそーだ!」
「げ」
 しゃにむに加速し、かばうまさんに駆け寄りますと、
「おい、あわてろ!」
 片手でふたりに巻きを入れながら、片手の携帯に、
「うん、今戻った。すぐに出発する」
 一般の携帯電話も携帯無線も届かない山間ですが、かばうまさんはいかにもおたくらしく、最新型の国際衛星回線携帯など、安月給にも負けず装備しております。
 恵子さんとの通話を切り、
「ついさっき、平坦脳波――脳の活動が止まった。薬やなんかでいったん持ち直したが、意識は混濁してる」
 呆然と立ちすくむふたりに、かばうまさんは沈痛な面持ちで、
「どうも病室の机で、夜中にこっそり、点字タイプを打ってたらしいんだな」
 あの少女との約束の、『雪の絵本』――。
 邦子ちゃんはぎりぎりと歯噛みしながら、右手の包帯をさすります。
 午前中に会ったとき、心配していつまでも放してくれなかった優子ちゃんの、細い指先の感触がありありと蘇り、
「……あ、の、クソバカ女ぁ!!」
 思わず青梅方向の峰に絶叫します。
「他人のことなんざほっといて、おとなしく寝とけぇ!!」
 貴ちゃんの胸が、締めつけられるように疼きます。
 その一途な優しさこそが優子ちゃんの生であり、この痛烈な罵倒に籠められた優しさこそが、邦子ちゃんの生なのですね。
 そして、優しいんだか馬鹿なんだか自分でもちっとも解らない、道化師《ピエロ》の胸に秘められた、このやるせない疼き――それこそが、なんだかよくわからない家に生まれてしまった貴ちゃんの生なのかもしれません。
「とにかく、急ごう」
 かばうまさんは、ふたりの肩にがっしりと手を置いて、
「うわごとで、お前らを呼んでるそうだ」

     ★          ★

 同日同時同分、飛騨山中、スーパーカミオカンデ――。
 池ノ山の地中深く設けられたあの巨大なタンク、五万トンに及ぶ超純水の中で、再び異変が生じます。
 三次元上の座標を、一瞬――三次元上ではあくまでゼロの瞬間だけ通過した四次元上の始原タキオン粒子が、水中の粒子を散乱させ、あの独自のチェレンコフ光を発生させます。もちろん肉眼で確認できる光ではありませんが、タンク内壁に張り巡らされた一一二〇〇本の光センサーはしっかりとその微細な光を観測、一〇〇〇メートル上方、山腹の神岡宇宙素粒子研究施設へとデータを送ります。
 あの弱小企業事務所のような研究室で、単調な夜勤にやや弛緩していたポロシャツ姿の若い研究員が、そのモニター画像を確認、俄然緊張して叫びます。
「また出ました! コード五六七!」
 番茶をすすっていた助教授さんは、硬直し、三十秒ほどモニターを凝視、そのチェレンコフ光の形状および連続性を確認してから、
「発光パターン、点字に書き出しとけ!」
「もうやってます!」
 よし、とうなずくと即座に立ち上がって外線電話に走ります。
 深夜ゆえ長く繰り返される呼び出し音に、いつも冷静な彼には珍しく、いらいらと片手で太腿を小刻みに叩いた後、
「夜分申し訳ございません! 神岡の田所です! 篠沢教授はご在宅ですか!?」
 あの白髪の主任教授さんは、東大で会議や講義に出るため、東京に戻っているのですね。
「――お休みのところ、すみません! 例のコード五六七が、また来ました! 指示をお願いします! ――はい、パターン記録後、防衛省回線で科特隊に送信。えーと、片桐さんは、今後何かあったら直接自宅にもと――はい、よろしくお願いします、先生!」





   第六章 明日に向かって走れ


     1

 青梅に向かって疾走する車中、助手席に収まった邦子ちゃんと貴ちゃんは、白猫さんをバンザイさせて、
「とにかく、これさえ優子に食わせれば、なんとかなる」
「こくこく」
 胸の光を見せながら、かばうまさんに説明しますと、
「あっちに着いても、土壇場まで誰にも言うんじゃないぞ」
 かばうまさんは、マジ顔で忠告します。
 それから、セカンドシートの舵武君や拡恵君や宮小路さんや、荷台に詰まった『ことのは』の面々にも、ナイショよ、と言うように、仕草で指示します。百合族さんたちは、夜間の巨大猫ツーリングに耐えられそうもないので、こちらに詰めこまれたのですね。
「優子の命が助かるんなら、俺はどんな反則でも認める」
 かばうまさんが続けます。
「しかし医療現場の人間や科特隊に気づかれたら、絶対に阻止される。残念ながら、それが社会的なお約束だ。優子の家族やうちの恵子は、事情を話せば味方にできると思うが、もう暇がないしな。一応『にゃーおちゃん』を連れこむ事だけは、さっき伝えといた」
 バンの後ろからは、熊五郎さんにまたがった友子ちゃんやキャンプ用具を積んだ猫さんたち、そして各愛猫にまたがったチア部や柔道部の面々が、各種タヌキさんといっしょに夜風を突いて疾駆しております。そしてすべての面々は、すでに優子ちゃんの末期的病状を悟っております。
「もう、肉屋の親爺に頼んでる暇もない」
 邦子ちゃんは、腰のサバイバルナイフに手をやって、
「その場で、俺がサバいてやるしか」
 貴ちゃんは、うええ、と顔をしかめます。
「大丈夫だ。手早くサバけば、痛くない」
 まあ、つくねにしたりスープにしたりする前に、どうしても必要な食肉加工行程なのですね。
 白猫さんは、あっさりうなずきます。
「初めに頸動脈をバッサリやってくれ。痛がる暇もなく、逝けるそうだ」
「ここんとこか」
「ごろごろごろ」
「んでも、ここはちょっと、派手に血を吹くからなあ。まるで噴水みたく」
 ちみっこたちが、ぷるぷると怯えます。
「それより、いっきに首をひねってやろう。鶏シメる要領だ」
 かばうまさんが、うに、と顔をしかめます。
「……首をあさっての方にぶらぶらさせながら、庭中駆けまわって、それから死んだ鶏を見たことがあるぞ。昔の田舎で」
 百合族の面々も、顔面蒼白になります。
「やっぱし首チョンパか」
「うむ。病院なら、部屋中血の海にしてもかまわんだろう」
 当事者間だけは、冷静な談合が続いております。
 そちらの段取りは当人同士に任せることにして、かばうまさんはダッシュボードの時刻表示と、深夜のまばらな車輌通行量とを秤にかけ、
「つかまれ。飛ばすぞ!」
 思いきりアクセルを踏みこみます。

    ★          ★

 同日同時同分、青梅の貴ちゃん家。
 真夜中だというのに、その応接間では、科特隊制服のままのカタギリ隊員とフジ隊員が、一献傾けております。
「お疲れさまー」
「はいはい、お疲れさまー」
 裏手の崖を下った河原には、なぜだかジェットビートルも、どーんと停まっていたりします。先っぽだけ青いシートをかけてあるのは、盗難予防のおまじないか何かでしょうか。
「ぷしゅー」
「ぐびぐびぐび」
 景気よく缶ビールをあおったのち、
「……ノンアルコールって、やっぱりビールじゃないわね」
 カタギリ隊員――貴ちゃんのママは、んべ、とお顔をしかめます。
「ぷはー」
 フジ隊員は豪快に息を継いで、
「なんのなんの。夏場の仕事中なら、やっぱり甘露だわよ」
 アルコール抜きのビールもどきに関しては、内心同感なのかも知れませんが、ひと様の家での一服にケチをつけるような無粋者ではありません。
 仕事中と言ったのは、つい一時間ほど前に、木曽谷の吾妻湖でむずかっていたエレキングをなだめたばかりで、朝になったらまた本部に戻り、次の出動に備えて待機しなければならないからです。
 小学校が夏休みになりますと、いつものうるとら関係のみならず、ゴジラだのガメラだのが暴れがちですし、ギララだのガッパだのまでこっそり再登場したりするので、科特隊はフル回転になります。ですから本来週三回パート勤務のカタギリ隊員も、特別手当を餌に、請われて連日出勤しております。
 真夜中だというのに、誠三郎さん――貴ちゃんのパパが、ぶよんとしてしまりのないお腹にエプロンを引っかけ、いそいそとお台所からおつまみを運んできます。
「いやー、寄ってくれるって判ってたら、ミモレットかなんか買っといたのに。でもコッドロー焼いてみたんで、つまんでください。なかなかいけますよ、これも」
 ほとんど愛想のいい西洋居酒屋の親爺さんです。
「もうすぐお風呂もわきますから。いやー、きのう掃除しといて大正解。ゆっくり浸かって疲れとって、それから仮眠してくださいね」
 西洋の居酒屋は、安宿を兼ねている所も多いのですね。
「おっと、柳川が噴いてる」
「あの、どうぞ、おかまいな――」
 フジ隊員の遠慮も聞き流し、いそいそと台所に戻って行くのを、
「――いいわねえ、お宅のご主人。こんな夜中に転がりこんでも、嫌な顔ひとつしないで、ほんと羨ましい」
「なにをおっしゃいますやら。あんなダンディーな旦那様をお持ちの方が」
 そう返しつつも、ちょっぴりいい気分のカタギリ隊員です。
「それに、お宅でもちゃんとやってるって聞くわよ。違いの解る男の料理、とか言って」
「やるんだけどね、気が向いたときだけ。でも愛想がないから、なんかひと味、足りないのよ。お掃除なんか、絶対やらないし。無理矢理やらせると、これがまたこーんなポーカーフェイスでね」
 ちょっと表情の乏しい旦那――ハヤタ隊員の顔真似をしてみせるので、カタギリ隊員は、思わず吹きます。
「でもうちの旦那も、あれでけっこう気難しいとこあるのよ。元はおたくだからかしら。やりたくない事は、やっぱりてこでもやらないし」
「へえ。でも、いつもにこにこしてるじゃない」
「それが唯一の取り柄かしらね。とにかく解りやすいんだわ。仕事でも家事でも、少なくともやってることだけは、間違いなく喜んでやってるわけだから」
 そんな微妙な評価を知るや知らずや、今度は柳川鍋の湯気を漂わせながら、しまりのない笑顔が現れます。
「うーん、ちょっと泥鰌が煮えすぎたかも」
 かいがいしく取り分け用の小鉢を並べるパパに、
「貴子、今夜はどうだった?」
 カタギリ隊員が、母親の表情に戻って訊ねます。昨夜の騒動の件が、まだ気にかかっているのですね。
「うん。変と言えば変――かな。話しかけても、妙にすなおに『うん』とか『はい』とか言うだけで、なんつーか、上の空なんだな。おまけに、目つきがおかしいし」
「やっぱり、根に持ってるのかしら」
「いんや、そーゆー目つきじゃなくて、逆に、なーんも考えてないと言うか、純真くりくりお目々と言うか。でも、なんか目に隈ができてたみたいだから、あんまり寝てなかっただけかも」
 母親の表情が、ちょっと陰ります。思春期の子供の精神的ケアもしたいが、パート続きで暇がない――共働き主婦に、よくある悩みです。
「……お願いね」
 やや哀愁を帯びた、上目遣いの妻の眼差しに、パパは思わずときめいたりしながら、
「おう」
 しっかり請け合います。
 時間の不規則な出版社勤務でも、ヤクザな編集ではなく書店回りの営業ですから、一応毎日帰宅できる誠三郎さんです。
 そうして、カタギリ隊員とフジ隊員が、柳川をつつきながらノンアルコール・ビールで気分だけ酔っておりますと、居間のほうから、電話の音が響いてきます。
「あ、俺が出るから」
 お風呂場で湯加減をみていたパパの声がして、またしばらくののち、
「――おい、篠沢さんって人から」
「篠沢さん?」
 すぐには思い出せないカタギリ隊員に、フジ隊員が、
「東大の篠沢教授?」
 あ、と慌てて席を立つカタギリ隊員を、フジ隊員も追って居間に向かいます。
「はい、科特隊の片桐です。そのせつは、どうもお世話に――え? コード五六七が再発? それで、内容は――」
 緊張した会話が始まったとたん、今度はふたりの流星バッジが、同時に鳴り響きます。
 電話中のカタギリ隊員が横目でお願いするより早く、フジ隊員はうなずいてバッジに口を寄せ、
「はい、こちらフジ! ――はい、その件で、カタギリ隊員は篠沢教授と通話中です! ――了解しました! 詳細はビートルのモニターで確認します!」
 フジ隊員はカタギリ隊員にも聞こえるようにそう復唱すると、目顔で伝達確認ののち、先にビートルに走ります。
 それらの緊張した現場を目の当たりにしながら、パパはひたすら胸を躍らせております。おうおう、我が妻たちの科特隊員モードの、なんと機敏で凛々しいことよ――。
 やがて篠沢教授との通話を終え、
「……ごめんなさい」
 一瞬、妻の顔に戻って頭を下げるママに、
「はい、お弁当」
 いつのまに用意してあったやら、すかさずふたつのランチバックを差し出す、気配りパパです。
 タカギリ隊員は、そのまま玄関に向かうかと思いきや、玄関前の階段をとたぱたと駆け上がります。それを追いかけながら、パパはまたもや胸を躍らせます。
 おうおう、こんな慌ただしい晩だからこそ、ひと目だけでも娘の寝顔を見ておきたい――このなにげな母性愛がたまらん。
 そうして、『貴ちゃんの部屋・パパもママもノック厳守・泥棒さんはノックしても入室禁止』などと、かわゆいボードの下がったドアを、規約無視して開いたママは、
「…………げ」
 呆然と立ちすくみます。
 続いて覗きこんだパパも、どひゃあ、と驚愕します。
「……あ、アライグマ……」
 なんと、俺の娘は長くラスカルを愛するあまり、とうとうこんな、あさましい姿に?
 まあ、ベッドの上で丸くなって寝ていると、狸も洗い熊も、ほぼ同じ外見だったりするのですね。


     2

 さて一方、青梅街道では――。
 往路の倍のペースで、順調に走り続けるかばうまさん御一行様。
 しかし市街地に近づくと、法定速度を遙かに超えたバンや大型四足獣の群れはさすがにヤバく、パトカーが絶叫しながら追跡してきたりします。
「そこの八王子ナンバーの貧相な青いミニバン! 八王子ナンバーの薄汚れた古いミニバン! ならびに、えーと、虎……豹……なんだかよくわからないアレな集団! ただちに暴走行為を中止し、左に寄って停まりなさい!」
 かばうまさんは根本的に惰弱なおたくなので、残念ながら官憲と張り合う度胸はありません。
 停止こそしませんが、減速してパトカーと併走しながら、
「わたくし、こーゆー者です!」
 サイド・ウィンドーから手を伸ばし、あっちの助手席の、実直そうな中年お巡りさんに名刺を差し出しますと、
「――おや?」
 お巡りさんの険しかった表情が、急に緩み、
「お久しぶりです、店長さん」
「おう、あなたは!」
 過去の三浦家令嬢誘拐未遂事件や、六本木ヒルズ自爆テロ未遂事件で、顔見知りのお巡りさんだったのですね。
 事が三浦家令嬢がらみの緊急事態であることを説明しますと、
「後ろのアレらも、そちら関係の方々?」
 無線で事実関係確認ののち、
「先導します! ついてきて下さい!」
 親方日の丸の業界でも、事実上、親方より三浦家のほうが上位なのでしょうか。

    ★          ★

 そうしておよそ三十分後、パトカーに先導されたかばうまさん御一行様は、無事に青梅市街に入り、深更の病院坂を、どどどどどと駆け上がります。
 駐車場にバンを停め、熊五郎さんや各種狸さんや巨大猫さんたちはそこに残り、呼ばれていないちみっこたちや各部員の面々は、残念ながら待合室で待機です。
「おい、くにねーちゃん、たかこねーちゃん」
 友子ちゃんが、こわばった顔でつぶやきます。
「……まかせたぞ」
 舵武君も拡恵君も、こくこくと同調します。
「んむ」
 邦子ちゃんは、しっかりと笑顔で請け合います。
 貴ちゃんも笑顔を返しながら、ふと、背後の宮小路さんの、思いつめた視線が気になって、
「……ごめんね」
 チア部や柔道部の面々とは違い、百合族さんたちは、ある意味、誰よりも優子ちゃんと親《ちか》しい存在のような気がします。
 宮小路さんは、ゆっくりと頭を振り、
「――わたくしどもは、報われるために、この世に生きているわけではありませんから」
 他の百合族さんたちも、こくりとうなずきます。
「この世界が『在る』ことに報いるために、人もこの世界に『在る』――優子様が、そう教えてくださいました。いえ、言葉になさったのではなく、優子様ご自身の『在り方』に、そう教わりました」
 揃って深々とお辞儀して、
「優子様を、よろしくお願いいたします」
 神妙に会釈を返す貴ちゃんと邦子ちゃんに、かばうまさんも、しっかりやれよ、と言うように、軽く手を振って見せます。
「ありゃ」
「おまいも、行かないのか?」
「残念ながら、俺も呼ばれてないんでな。恵子はともかく、俺や拡恵は、あくまで部外者だ」
 割り切った口調ですが、
「無理矢理ついてっても、追い出されはせんだろうが――ま、アヤシゲなことは、土壇場まで避けるのが無難だろう」
 いっしょに行けない悔しさは、胸の内に隠しているのでしょう。
「うまくやれよ。まあお前らのやることだから、結果がどうなるかは解ったもんじゃないが、少なくとも、お前らが『やろうとすること』は、昔から、一度も間違っちゃいないよ」
 そうして一同に見送られつつ、貴ちゃんと邦子ちゃんが、気合いを入れて奥に向かいますと、
「すみません、ペットは同伴禁止なのですが」
 夜間受付の老警備員さんが、邦子ちゃんが抱いていた白猫さんに目を止めて、
「こちらでお預かりしましょう」
「これは、ただのぬいぐるみだ。熊のぬいぐるみをしょった、妖怪猫又のぬいぐるみだ」
「でも、今、こっちを睨んでいたような」
「気のせいだ。だいたい、こんなけったいなイキモノが、この世のどこにいる」
 邦子ちゃんは、白猫さんの二又尻尾を、ぶらぶらと示します。
「……でも、また睨んでます」
「こら、睨むな」
「睨んではいない。挨拶しただけだ。深夜労働ご苦労様です」
「……しゃべった」
 ビビりまくる警備員さんに、
「松井先生に訊いてみて! 『にゃーおちゃん』が来たって」
 貴ちゃんが主張しますと、警備員さんは半信半疑で内線を取り、しどろもどろで確認したのち、
「すぐに連れて上がってください、とのことです」
 やっぱし、と安堵する貴ちゃんに、邦子ちゃんも、んむ、とうなずきます。
「ただし、えと、その……そちらの猫又さんは、入室前に殺菌シャワーを」
 白猫さんは、明らかに気を悪くして、
「失敬な。吾輩は毎日朝晩温泉に浸かっているぞ」
 じろりと睨むニヒル目に、警備員さんはますますビビってしまい、
「で、でも、松井先生が、そうおっしゃって――」
 そもそも猫という高貴なイキモノは人間などよりよほど日頃から身だしなみに気を使ってぶつぶつぶつ、などとぼやいている白猫さんをなだめつつ、貴ちゃんたちはエレベーターで最上階に向かいます。
「――いよいよだな」
 邦子ちゃんが、ふたりに、もとい、ひとりと一匹に念を入れます。
「いざとなったら――手はずは解ってるな」
「こっくし」
「おまいも、覚悟はいいか?」
「吾輩は、別に覚悟なんぞしとらん」
 白猫さんは、あくまで天知茂さん級のシブい微笑を浮かべ、
「ただ、あの春の庭に還るだけさ」


     3

 そして、その頃――。
 優子ちゃんは、けして、苦しんではおりませんでした。
 むしろ、次々と命を断ってゆく脳細胞と共に、これまで背負ってきた多くの苦しみや心残りは茫洋とした時の彼方へ流れ去り、今は潮が引いたあとの砂浜のように、小さいけれどとても綺麗な貝殻さんや、ちょこちょこと駆けまわるヤドカリさんのような思い出たちが、夢とも回想ともつかぬ、意識の渚に戯れております。
 ――ここは、はじめてつれてきてもらった、にしいずのうみ?
 別荘の裏庭を兼ねた、プライベート・ビーチ。
 パパやママやお兄さん、それから恵子さんも、ビーチパラソルの下の白いテーブルで、笑いながら手を振っています。
 波打ち際で遊んでいたゆうこちゃんも、笑ってお手々を振りかえします。
 ゆうこちゃんは、まだみっつになったばかりです。幼稚園にも、まだかよっておりません。
 ですから、たかちゃんやくにこちゃんは、いっしょにここに来ているはずはないのですが、
「きゃはははは」
 ちょんちょん頭のたかちゃんが、砂の中から突然お顔を出して、
「よーかい、すなぼうず!」
 砂まみれのまんまゆうこちゃんを押し倒してくるので、
「きゃあきゃあきゃあきゃあ」
 ゆうこちゃんは、ちょっと怯えながらも、うれしく押し倒されます。
 ふとかたわらに目をやりますと、
「くぬくぬ、くぬ!」
 くにこちゃんが、巨大なヤドカリさんと、仲良くすもうをとっております。
 ――あれ? ゆうこ、もう小がっこうに、はいってたかな?
 同じ西伊豆でも、たかちゃんやくにこちゃんをご招待した、あの海なのかもしれません。

『ほう、それが例の白猫君か』

 そんなお声が聞こえたような気がして、
 ――まついせんせいも、いっしょ?
 振り返って見ると、パパやママやお兄さんといっしょに、いつのまにか白衣の松井先生も、看護婦さんといっしょに、ビーチパラソルから手を振っています。
 病室のベッドに横たわる優子ちゃんの、混濁しきった意識の中では、周囲から届く様々な音や気配が、ただ脈絡のない無意識に変換され、なにか子守歌にも似た懐かしい情緒として、今にも途絶えようとする生命の終端を、いたわるように彩っております。
 優子ちゃんが昏睡状態に陥ってから、ずっと見守り続けている家族や恵子さんの声、松井先生や看護婦さんの会話、そして、そこにようやく到着した貴ちゃんや邦子ちゃんの声――それらが優子ちゃんの夢に、微妙に干渉しているのですね。

『んむ。でも、あの手紙のことは、何も知らないそうだ』

 そんなことを言っているみたいな、知らないお姉さんは――くにこちゃんに似ているような気もします。
 でも、いっしょに海にきたくにこちゃんは、ヤドカリにまたがって、
「ほれほれ、よーかいを、くいころせ」
「きゃはははははは」
 砂まみれのたかちゃんをざざざざざと追っかけ回しているので、やっぱし、別の人なのでしょう。
 ちっちゃいたかちゃんたちが、どんどん砂浜のむこうに駆けていってしまうので、ゆうこちゃんは、あわててそのあとを追いかけます。
 とととととと走りつづけても、ちっとも息はきれません。
 あんよもちっとも疲れませんし、お胸も苦しくなりません。
 生まれてからずうっと、おもたくておもたくてしかたがなかった自分の体が、まるで羽がはえたように軽くて、そのまんま、お空に飛んでいけそうな気がします。
 いえ、いつのまにか、ゆうこちゃんの背中に、ほんとにお羽が生えているのですね。
 彼方をかけていくふたりも、いつのまにか背中に羽をはやして、
「きゃはははははは」
「わはははははは」
 ぱたぱたと、お空に飛んでいきます。
 ゆうこちゃんも、天使みたいな羽をぱたぱたとはばたかせ、潮風の中を青いお空に舞い上がった、そのとき――

『優子ちゃん! 優子ちゃん!』

 なんだか泣きべそをかいているような、たかちゃんっぽいお声が、ビーチパラソルのほうから聞こえてきます。

『いっちゃだめ! みんないるよ! ほらほら、にゃーおちゃんもいるよ!』

 ――にゃーおちゃん?
 なんだかとっても気になるお名前なので、空から地上をふりかえりますと――そこはもう海岸ではなく、雑木林に囲まれた神社のお屋根や、お花畑のような中庭、そしてあずまやのお屋根でぼたもちのようにお昼寝している猫さんなどが、小さく小さく見えております。
 その中庭に、雑木林のほうから、ちょこちょこあるいはのっしのっしと、並んで歩いてくるふたりの女の子。
 そう、そこは、あの春のお庭です。
 生まれてはじめて、お友だちがたくさんできた、たのしいたのしいようちえん――。

 あ。

 優子ちゃんの脳裏に、急速なフラッシュバックが生じます。

 ――真の自分の生は、そこから始まったのだ。
 そして今の自分は、それから長い長い日々を、貴ちゃんや邦子ちゃんといっしょに生きて――。

 貴ちゃんと邦子ちゃんが、夏休みに探してきてくれるはずの、いなくなったにゃーおちゃん。
 それを楽しみに待ちながら、こっそり夜中に点字タイプを打っていた、中学生の自分――――

 優子ちゃんの瞼が、微かに震えます。
 息をのむ一同の前で、その瞼がうっすらと開き、
「…………?」
 優子ちゃんは、ようやく病室のベッドに帰還します。
「おう……」
 滝涙の貴ちゃんが、絶句します。
「んむ……」
 般若のごとき形相だった邦子ちゃんが、眉根をゆるめます。
 優子ちゃんの脳幹にまだ残っていた根源的な意思は、走馬灯の慰撫や永遠の眠りの誘《いざな》いを振りきって、あえて苦しい『今』を選んだのですね。
 脳波計を凝視していた松井先生が、看護婦さんと顔を見合わせてから、関係者一同をふりかえり、OK、と言うようにうなずきます。
 その場で見守っていた優子ちゃんのご両親、自家用ジェットで帰国していたお兄さんの智宏さん、そして恵子さんは、あらためて感謝の念や、一種畏敬の念を深くします。やはり、このふたりは只者ではない――。
 まだ朦朧としている優子ちゃんに、
「ほら、約束だ。あいつを連れてきてやったぞ」
 邦子ちゃんは白い歯を輝かせながら、でっかい白猫さんを、ぷらりんとさしだします。
 優子ちゃんの瞳の焦点が、徐々に定まり、
「…………にゃーお……ちゃん」
 ゆらゆらと、左手をさしのべます。
「……にゃーおちゃん」
 白猫さんのおなかに、そろそろと指を当てて、
「……やわらか……い」
 それだけつぶやいて、片頬に微かな微笑を浮かべます。まだ、うまく言葉が紡げないのでしょう。
 貴ちゃんは、すべてを理解しているように、例のきわめて厳粛な顔で、こくこくとうなずきます。
 邦子ちゃんも、なにがなし納得します。――やっぱし物事、とりあえずやわらかきゃ、OKなのかもしんない。
 白猫さんは、ちょっとくすぐったそうに、
「吾輩は、もう、どこにも行かないよ」
 嘘も方便――推定三十歳を越えているだけに、そこいらは、きちんとわきまえたにゃーおちゃんです。
「……ほんと?」
「ああ。吾輩も、もう歳だ。こいつといっしょに、ずっと、お前のそばにいてやろう」
 そう言って背中のパディントンを示しますと、優子ちゃんはくすくす笑って、それからゆっくりと、貴ちゃんや邦子ちゃんに瞳を移し、
「……おともだち」
 白猫さんとパディントンのことを言っているのか、自分とそれらのことを言っているのか、それとも仲良し三人組のことを言っているのか――それはもう、誰にとっても、どれでもいいことです。
「と、ゆーわけで、もう大丈夫だ、優子」
 邦子ちゃんは、柄にもなくうるうるしながら、
「また疲れるといけない。今夜は、ゆっくり眠れ」
 貴ちゃんは、滝涙の跡もべしょべしょと、
「こくこく。明日、また来るよ」
 優子ちゃんは、かすかにうなずいて――そのまま、安らかな眠りに落ちます。
 ご両親たちは、一瞬、不安そうに松井先生を見つめますが、
「脳波は安定しております。とりあえず、山は越えたかと」
 あちこちで安堵の吐息のもれる中、しかし邦子ちゃんは鋭い眼差しで、貴ちゃんと白猫さんに、こっそり耳打ちします。
「……こっちは、これからが本番だぞ」
「こっくし」
「いつでもこい」


     4

 やがて場の落ち着いた頃、看護婦さんが、一部不穏分子の混ざった関係者たちに、
「皆さんも、お疲れでしょう。別室でお休み下さい。容態に変化があったら、すぐにお知らせしますので」
 VIPフロアには、訪問者用の宿泊室なども用意してあるのですね。
「俺たちは、まだ、来たばっかしだ」
 邦子ちゃんが、あわてて松井先生に訊ねます。
「もうちょっと、優子を見てていいか?」
「こくこく。右に同じ」
 松井先生は優しく笑って、
「重ね重ねの恩人だものな。いいだろう、しばらくここにいたまえ」
 しめた、俺ら以外、無人になるかもしんない――。
 しかし、看護婦さんに案内されて他の一同が退出しても、松井先生だけは、医療機器類の前の椅子に腰を据えたままです。
「……先生は、寝ないのか?」
「ああ? ああ、そりゃ医者も寝るさ。でも、もう小一時間はここで様子を診る。それで問題ないようだったら、別室のモニター班に任せて、仮眠させてもらう」
 一時間待ちくらいなら――そう期待したのも束の間、
「その時は、君たちもいっしょに出てもらうよ」
 ああ、やっぱし――重態のVIP患者をこっそりアレしたりできるのは、ドラマや映画の中だけなのかもしんない。
 しかし、コレをサバいたりソレを誰かに飲ませたりするには、どうしたって外野を遠ざけるか、隙を作らなければなりません。
「――陽動作戦、開始」
 邦子ちゃんが、ぽしょぽしょとつぶやきます。
「……こっくし」
 貴ちゃんは、すうっ、と息を吸いこんで、
「ああっ!! 持病の癪《しゃく》がっ!!」
 いきなし絶叫します。
 おいおい貴子、おまいはいったいいつの生まれだ――邦子ちゃんは、呆れ果てます。確かに仮病を使えとは言ったが、なんか、もうちょっとマシな病名は考えつかんか?
 それでも生真面目な松井先生は、すなおに仰天してくれ、お腹をかかえて悶絶している貴ちゃんに駆け寄り、
「おい、大丈夫か? どこが痛い?」
「えと、えと……ここんとこ」
「どこんとこだ? ここか?」
 あ、そこまではまだ考えてなかった――貴ちゃんが迷いながら背後の邦子ちゃんを窺いますと、邦子ちゃんは、まだまだ、もっと煽れ煽れ、どっか遠くに離れろ離れろ、そんな感じで頭や両手を振り回しております。
 貴ちゃんはヤケクソになって、
「うああああ、ここんとこのウルトラ・スペシウム袋がっ!!」
 さしものベテラン小児科医・松井先生も、これにはとっちらかります。片桐家の母子がそっち関係者であることを知っているだけに、これは私の専門外、宇宙的疾病なのかもしれない――そんな怯えが生じ、
「そ、そこが癪を起こすとどうなる?」
「……く、く……口からスペシウム光線」
 うまいぞ、貴子! 
 邦子ちゃんが、久方ぶりに貴ちゃんのアドリブを高評価します。
 こんな所でスペシウム光線を吐かれてしまっては、もはや大惨事――ますますとっちらかった松井先生に、
「あうあう……そ、外の空気を……」
 そうだ、空に吐いてもらえば――松井先生は悶絶する貴ちゃんを抱えるようにして、多摩川に面した窓に向かいます。
 今だ!
 瞬時、邦子ちゃんは隠し持っていたサバイバルナイフを構え、
「覚悟はいいか」
「南無阿弥陀仏」
 ぶしゅううううううう――たちまち白猫さんの噴血に染まる病室――と思いきや、
 ごごごごごごごご。
 松井先生に抱えられて窓から首を出した貴ちゃんの目前、奥多摩の夜空が、まばゆい白炎に染まります。
「わ!」
 松井先生が叫びます。――ほんとに吐いた?
「げ!」
 邦子ちゃんも、振りかざしたナイフを宙にフリーズさせて、――マジに吐いた?
「どわ!」
 誰よりも自分で驚いている貴ちゃんの目前に、
「お待ちなさい!!」
 ジェットビートルの扉を半開して身を乗り出したカタギリ隊員――貴ちゃんのママが、ゆっくりと垂直下降してきます。
 白い炎は、ビートルの噴射炎だったのですね。
 カタギリ隊員は、窓のふたりを突き飛ばすようにして病室内に跳躍し、すちゃ、とスーパーガンを構え、
「邦子ちゃん、だめよ!!」
 くそ、こればっかしは貴子のおふくろさんでも譲れん――反射的にナイフを振り下ろそうとする邦子ちゃんに向けて、スーパーガンが閃光を発します。
「!?」
 呆然とする貴ちゃんの目の前で、邦子ちゃんがくたくたとくずおれます。
 床に投げ出された白猫さんは、パディントンをしょったまま背中の毛を逆立て、
「フー!!」
 めいっぱい威嚇します。
 貴ちゃんは脱兎のごとく邦子ちゃんに飛びつき、
「邦子ちゃん! 邦子ちゃん!」
 半狂乱でがくがくと揺さぶりますと、
「……くかー、くかー」
 邦子ちゃんは、鼻から提灯を出して、絵に描いたように眠りこけております。
 カタギリ隊員は、ふう、と弛緩しながら立ち上がり、
「安心なさい。最弱のトランキライザー・モードよ。五分もすれば、目を覚ますわ」
 貴ちゃんは、哀しいやら悔しいやらで、邦子ちゃんを抱いたまま押し黙ってしまいます。
 ううううう、昨夜の無法行為のみならず、今夜の善良なリサイクル活動さえ、ママに阻止されてしまった――。
「……まったくもう、邦子ちゃんちに電話したら、やっぱり狸が寝てるって言うし」
 カタギリ隊員は、ほんとしょうがない娘《こ》たち、そんな苦笑顔でふたりを見下ろし、
「どうやら、もう、みんな教えてあげるしかなさそうね」
 それから、まだフーフーと背中を逆立てている白猫さんに、
「あなたが、にゃーおちゃんね」
「……赤の他人に、その名で呼ばれたくはないな」
 カタギリ隊員はしゃがみこんで、視線を白猫さんの高さに合わせ、
「ほうら、こちらにいらっしゃい」
 チチチチチ、と口を鳴らしながら、野良猫さんを手なずけるように、掌で差し招きます。
「馬鹿にするな。吾輩は、昨日今日の野良ではない」
 白猫さんはそう反撥しつつも、いかにもたおやかな美女の手招きに、ちょっと気が動いたようにも見えたりします。
「そう言わないで、いらっしゃい。あなたにもメッセージが届いてるわ。未来のあなたから」
 ――『未来』?
 白猫さんと貴ちゃんの気持ちが、同時に揺らぎます。
 カタギリ隊員は、立ち上がってベッドに歩みより、
「この子の未来にも関わることよ」
 優しく優子ちゃんに目を落としますと、優子ちゃんは安らかに眠りながら、それでもさっきからの轟音や窓の炎を微妙に感じとっているのか、
「……はなび」
 そうつぶやいて、んふ、と微笑します。
 七年前の、あの夏宵の音と光を、夢見ているのでしょうか。
 カタギリ隊員は、優子ちゃんのおつむをそっと撫でてやり、それからようやく松井先生の存在を思い出し、
「どうも、こんな夜分に、うちの娘たちがお騒がせしてしまって、ほんとうに申し訳ございません」
 窓際で半分腰を抜かしている先生に、お上品PTA調で頭を下げます。
 母親も娘以上に騒がせたと思うぞ――そんなツッコミを入れる余裕もなく、ぎくしゃくとうなずく松井先生でした。


     5

「これから皆さんにお伝えすることは、あくまで他言無用――と言うより、たとえ口外されても、あらゆるメディアで情報統制する準備が整ったからこそ、防衛省や科特隊の上層部から、皆さんへの漏洩を許可されたものと思ってください」
 三浦記念総合病院の会議室で、しかつめらしく話しはじめるカタギリ隊員に、関係者一同――優子ちゃんの病室に集っていた一同、そして待合室に待機していた一同の視線が、集中します。
 もっとも、さすがにこの真夜中だと、ちみっこたちのうち拡恵君と友子ちゃんは、すでにくーくーと眠りこけております。ただ舵武君は、天才児の宿命か、もともとあまり睡眠を取らない体質ですし、なぜかその場にお祖父ちゃん――脳外科主任の梶村老医師や、舵武君が宇宙専門誌を通して常々尊敬している東大の篠沢教授も顔を出しているので、気合いを入れてきっちり覚醒しております。
「また、人間というものは、それが曖昧な風聞であればあるほど尾ひれを付けて世間に広めたがる、そんな性質がありますので、東大宇宙線研究所の篠沢教授にも、ここに同席していただきました。正直、わたくしにも完全には理解しがたい素粒子関係の理論なども、皆さんに聞いていただくことになりますが、内容の詳細は理解できなくとも、とにかくこの件が全宇宙規模で未知の現象である、よって現時点では軽率な世論に晒すべきではない、そんなニュアンスだけ、しっかり感じ取っていただければ幸いです」
 カタギリ隊員は、ことさら仰々しく続けますが、要は「自分で解らないことは解る人に任せてとりあえず黙っとけ」、そう言っているのですね。
 そうして、まずは篠沢教授とカタギリ隊員の掛け合いにより、あのカミオカンデでの出来事、それが単なる通信ではなく未来からの伝言であることなどが、一同に明かされます。
 邦子ちゃんは、隣の貴ちゃんに、こそこそと耳打ちします。
「……どうも、俺はまだ惚けててな。耳がおかしい。おまい、あれ、何ゆってるか解るか?」
 トランキライザーは、とっくに切れてるんですけどね。
「ふるふるふる」
 まあ理解度に個人差はあれ、どうせ篠沢教授以外の誰にも、完全には理解できないでしょう。もっとも舵武君だけは、深々とうなずいたりしておりますが。
「――【吾輩は猫である。名前はまだない。と言いたいところだが、一度だけ、名前をつけられたことがある。それはそれとして、そちらが二〇一×年七月であれば、至急、以下の伝言を伝えるべし。以下、宛先。東京都青梅市三浦記念総合病院内、松井康志、及び、三浦剛三、及び、沖之司恵子。以下、用件。『優子に、本当の病気のことを、今すぐ教えてやってくれ。優子は、お前たちが思うほど、弱い人間ではない。総ては真実から始まるのだ。そして、真実に終わりはない。』 用件、とりあえず、以上。なお、吾輩の名は、不本意ながら、にゃーおちゃん。】――日本語として多少の乱れはありますが、明らかに未来の知的生命体により点字に変換されて発信された過去へのメッセージ、そう結論されました。先に一部の方へお伝えしたとき、手段と時制関係はまだ極秘段階でしたので、曖昧に表現してしまい、その後の無用な憶測や混乱を引き起こしてしまったことは、あらためてお詫び申し上げます」
 貴ちゃんと邦子ちゃんは、『無用の混乱』あたりで、かなり複雑な心境になります。
「そして――先ほど、そのメッセージの続きと思われる通信が、カミオカンデで観測されました」
 これは大半の列席者が初耳ですので、ざわざわと、一座に驚きの声が広がります。
「もう三十分も情報伝達が遅れていたら、取り返しのつかない事態に陥る可能性もあったのですが、幸い、篠沢先生の迅速なご対応によって、回避されました」
 カタギリ隊員が、やや皮肉っぽい視線を投げてきたりするので、貴ちゃんと邦子ちゃんは、思わず小さくなったりします。もっとも、なぜ『取り返しのつかない事態』なのか、そこんとこには、かなり疑問や不満を残しておりますが。
「それでは、その第二のメッセージを、これからお伝えいたします。――【吾輩は猫である。名前は、省略したいが、にゃーおちゃん。そちらが、まだ二〇一×年七月であれば、至急、以下の伝言を伝えるべし。宛先、前便に準ず。以下、用件。『優子が永遠の眠りに就いても、火葬埋葬を禁ず。その永遠は、真実ではない。優子を、以下の研究組織に委ねるべし。以下、組織詳細。アメリカ合衆国ジョージア州アトランタ市、エモリー大学医学部、ハイパー・クライオニクス研究室』 用件、以上。】――やはり点字の形をとった、日本語に他なりません」
「クライオニクス研究室?」
 松井先生が、首を傾げます。まったく専門外の用語なので、単語自体は記憶にあっても、ピンと来なかったようです。
「はーい」
 舵武君が、お手々を上げます。
「ぼく、しってる」
「はい、舵武君、どうぞ」
 タカギリ隊員が、小学校の女先生のように、にこにこ差してあげますと、
「えーと、くらいおにくすは、人体極低温貯蔵のこと」
 松井先生は、以前に科学雑誌で読んだ記事を思い出し、さらに懐疑的な表情になって、
「しかし、医学的には、あれは山師の戯言じゃありませんか。確か、不凍液処理で冷凍解凍時の細胞破壊は阻止できるなどと明言しているが、人体という物は、そんな単純な肉塊ではない。そもそも、魂――脳内で刻々変化する意識や記憶――いわば生の本質を失った亡骸を、何十年保存して解凍したところで、それはすでに優子さんではない」
 舵武君も、不本意ながら、こくこくとうなずいております。
 それでもカタギリ隊員は、あくまで冷静に、
「このメッセージを受け取った直後、わたくしも他の関係者も、松井先生と同じ疑問を抱きました。そこで、そのエモリー大学研究室の、現在の研究体制をデータベースから検索したところ、今ここに列席をお願いした梶村先生、先生が早稲田大学医学部で教鞭をとられていた頃の教え子が、その研究員のひとりであると判明し、夜間に不調法とは思いつつ、先生に連絡を取らせていただきました」
 紹介を受けて、梶村老医師が前に立ちます。
「おじーちゃん」
 老医師は、かわいい孫の期待の眼差しに、微笑で応えながら、
「松井先生のご意見、私もまったく同感でした」
「はい」
「脳医学教室の教え子とはいえ、もう何十年も前の話ですし、優秀な生徒であったことは覚えていましたが、なぜ今、クライオニクスなどといういかがわしい研究に名を連ねているのか――すぐに国際電話を入れて確認したところ、これが何か、なかなか興味深い研究内容でして」
 日頃から尊敬している老医師の言葉に、松井先生の顔にも、懐疑を越えた好奇心が浮かびます。
「つまり、脳死以前――クライオニクス前の状態で、脳の物理的組成のみならず、リアルタイムの化学的変化やニューロン間の活動電位を含む全状況を、数十台のハイコンを駆使した独自の技術でそっくりスキャンして記録、それを解凍後に脳内復元する――そんな技術を確立したようなのです。細胞破壊に関する問題は、そちら専門の研究者により数年前に解決済み、そんな話でした」
 松井先生は驚愕の眼差しで、
「しかし――そんな画期的な研究内容を、よく漏らしてくれたものですね。それこそ職業的研究者としては、守秘義務対象の塊ではありませんか」
 その疑問に、カタギリ隊員が答えます。
「はい。おっしゃるとおりなのですが――それがまた、『未来』と『現在』の悪戯といいますか――ねえ舵武君、いつものコンちゃん、今、持ってる?」
「うん」
「この会議室では使っていいそうだから、これから教えるサイトに、繋いでくれる?」
「はーい」
 ぽちぽちぽち、くるくるくる――やがて液晶画面に現れた動画のウインドーをながめ、
「かわいい、おさるさん」
 嬉しそうな舵武君につられて、貴ちゃんや邦子ちゃんも「どれどれ」と覗きこみますと、なんじゃやら立派なホールの壇上で、スーツ姿の知的な外人さんたちと、元気なチンパンジーさんが戯れております。
「おう、猿回し」
「おいおい、背広で猿回しはないだろう」
 次々と動画を覗いている一同に、
「ニューヨーク現地時間で、午後一時から――つい一時間前から始まった、全米医学学会のライブ動画です。つまり、梶村先生が概要を確認してくだすった時点で、もう守秘は不要だったわけですね」
 カタギリ隊員が、研究発表の詳細を解説します。
「――数年前、完治不能の各種疾患を抱えていたチンパンジー数頭を検体に選び、先ほど梶村先生がおっしゃった脳内スキャンを経て、脳死後にクライオニクス処理、そして昨秋、新たな治療技術が確立された心臓疾患の検体を、解凍及び脳内状況復元ののち、さらに心臓疾患そのものも完治させる――そんな、非常に多層的かつ困難な実験の成果が、たった今、発表されているのですね」
 錯綜する情報の奔流に、一同の大半が事態を計りかねる中で――
 がたん。
 折り畳みの椅子をはずみで倒しながら、呆然と立ち上がったのは、優子ちゃんのお母さんでした。
 それまで当人のメンタル的な過敏さを考慮して、娘の容態の真相から結果的に遠ざけられ、そして今夜になってすべての情報を与えられ、ただ混乱と激情に惑っているだけだったお母さんの目から、ぽろぽろと大粒の涙があふれ出します。
「……助かるのですね」
 横に立ち上がり、強く肩を抱いてくる夫に、
「……優子は……助かるのね?」
 優子ちゃんのお父さんは厳然とうなずき、
「助けてやる」
 妻のわななく体をしっかりと支えながら、
「何を賭けても、助けてみせる」
 その横に立った智宏さんも、
「アトランタ市ならば、三浦資本の現地企業が、税収の一割を越えます。エモリー大は私立ですが、政治的な働きかけは、確実に」
 理知的な声に激情を秘めて、
「――僕が、確実に」
 貴ちゃんも邦子ちゃんも、その他の一同も、ひとまず一条の光明に包まれます。
 なにがなんだかちょっと頭が追っつかないけれど、とにかく優子ちゃんの前途に、新しい希望の道が開けたらしい――。
 白猫さんは、あからさまな安堵や喜びは顔に出さない質《たち》ですので、ただ苦笑いするように目を細め、
「……やれやれ、また死に花を咲かせそこなったか」
 そのつぶやきを聞きつけたカタギリ隊員は、モナリザのような微笑を浮かべ、
「さて、にゃーおちゃん。さっき、あなたにもメッセージが届いていると言ったでしょ。第二のメッセージには、まだ追伸があるの」
 白猫さんのみならず満場の注視を受けながら、おもむろに、こう続けます。

「――【追伸。吾輩から、二〇一×年七月の吾輩へ。以下、用件。『常に優子と共に在れ。いかなる時も、共に在れ。今、果てしなき流れの果てに、我は尽きる。しかし、娘たちの真実に終わりはない』。用件、以上。】」


     6

 小鳥たちのさえずりを聞きながら、翌朝きちんと目覚めた優子ちゃんは、その夏を、望める限り楽しく過ごしました。
 にゃーおちゃんは、約束どおりどこにも行かず、同じ病室に設けられた特製の猫ハウスに住んでおりました。
 そして一日中――もちろん優子ちゃんに会話が許される時間だけですが――猫としては波瀾万丈の来し方を、やや自画自賛気味に披露したり、病室の机にぽってりと座って、優子ちゃんから点字タイプの使い方を習ったりしておりました。肉球のある手でペンは持てなくとも、タイプならぽこぽこ叩けますからね。
 そんなぎこちない姿を、毎日お見舞いに来る貴ちゃんや邦子ちゃんが、面白がってからかったりしますと、
「すべてを終わりにしよう、などと思ったのは、吾輩の未熟だったよ」
 ぽこぽことキーを打ち続けながら、
「こんな、善意に満ちた文明の利器があることすら、吾輩は寡聞にして知らずにいたのだなあ」
 もともと人間なら二百何十年に相当する歳月を生きておりますから、文字や文章にも強く、優子ちゃんが眠っている間もせっせと『雪の絵本』をタイプしたりして、優子ちゃんの心残りを減らしてあげるとともに、自分自身の未来のために、楽しみながら学んでいたのですね。『ことのは』の面々も毎日一度は顔を出し、『雪の絵本』にも協力を惜しみませんので、あの盲目の少女との約束は、クリスマスどころか、秋を待たずに果たせそうです。
 そしてお彼岸の頃、お父さんや智宏さんの働きかけにより、今後の研究資金を三浦財閥にバックアップされたアトランタの研究者さんたちが専用機で来日、持参したなんじゃやらどでかい機械を病室に据え付け、初の人体実験にやや不謹慎なほど嬉々としながら、優子ちゃんの脳内データをスキャン、太平洋光ケーブルを通して、エモリー大学の研究室に鎮座する数十台のハイパーコンピュータに、せっせと送信します。
 そして、その夏の終わり――。
 優子ちゃんは、みんなに看取られながら、十四歳の命に、安らかな微笑の休止符を記しました。
 平坦脳波の継続を確認後、別室でクライオニクスの事前処理を終え、本格的な処理工程に移るため、夕暮れの成田空港から専用機に乗って、ご両親や主治医の松井先生、研究視察を兼ねた梶村老医師、お目付役の恵子さん、そして立派なケージに入れられたにゃーおちゃんと共に、智宏さんの待つアメリカへ――長い長い旅に、旅立ちます。

    ★          ★

 優子ちゃんの乗ったジャンボ機が、成田上空の茜雲に消える頃――。
 なぜか貴ちゃんは、チア部の仲間を引き連れて、ただひたすら多摩川沿いの遊歩道を駆けておりました。
「えっほ、えっほ、えっほ」
 放課後に駆けはじめたときは、なんとなく青春の海を目ざして東に川を下ったのですが、さすがにどこまで走っても、無慮数十キロも先と思われる東京湾は見えてきません。そのうち反対側が青春っぽく夕焼け空になってきたので、折り返し、今は青梅に戻っております。
「……おい、貴乃花」
 ヨレヨレになった琴欧洲さんが、ぼやきます。
「あたしら、いつまで夕陽に向かって走り続けなきゃならんの?」
 まあ、今日が優子ちゃんの旅立ちの日と知っているので、理由自体はきっちり解っているんですけどね。
 貴ちゃんは、ヤケクソのような明るさで、
「んーと、奥多摩越えてずーっと行って中央アルプス越えて若狭湾あたりで日本海に飛びこんで泳いで渡って韓国でビビンバ食べてそいから黄海泳いで中国でシナソバ食べて崑崙山脈越えて激動の中近東をどどどどどと駆け抜けてちょっとヨルダンに寄って舵武君のパパとママにごあいさつしてんでもって地中海あたりで夕日に追いついたら追い越して大西洋渡ってアメリカ東海岸に上陸してそのまんま横断してグランドキャニオン駆け抜けて西海岸でちょっと遊んで太平洋泳いで渡って朝日といっしょに東京湾から上陸して多摩川さかのぼって、そいから青梅に駆け戻ってきたりするまで!」
 ――この異様なランナーズ・ハイに、いつまでも逃れていたい部長の気持ちは解るが……。
 心底呆れ果てつつも、りちぎに貴ちゃんの後を駆け続ける、なりゆきまかせのチア部です。
 やがて反対側から、柔道着の一団が、えっほ、えっほと駆けてきます。
 あ、あそこにもヤケクソ仲間が――琴欧洲さんが同情しながら見やりますと、それを率いているはずの鋼鉄娘の姿はなく、副将の田村さんが仕切っているようです。
「やっほー!」
「押忍《うっす》! 片桐先輩!」
 貴ちゃんも同じ疑問にかられて、
「ありゃ、邦子ちゃんは?」
「――ちょっとしょんべん、そう言って鮎美橋んとこで別れたんスが」
 田村さんは、なんだか心配そうにそちらを振り返りながら、
「なんか、ちょっと声がアレだったんで……そろそろ迎えに行こうかな、と」
 ハイの極北にあった貴ちゃんの表情が、急激に陰りを帯びます。
「……いい。あたしが行ってくる」
 それから、心に蘇ってしまった底知れぬ寂寥感を、あわてて打ち消すように、
「んじゃ、チア部は、ここで解散! また明日!!」
 ことさら元気にそう叫び、とととととと鮎美橋のほうに駆けて行く貴ちゃんを、琴欧洲さんたちも、やや心配そうに見送ります。

    ★          ★

 貴ちゃんは、そのまんまとととととと鮎美橋を渡り、脇目も振らず、釜の淵公園に近い河原をめざします。
 そこは、貴ちゃんと邦子ちゃんと優子ちゃんの仲良し三人組が、幼稚園の頃から、いつもいっしょに遊んでいた河原です。
 思ったとおり、夕暮れの多摩川の岸に、邦子ちゃんがぽつねんとしゃがみこみ、水の流れを見つめています。
 あの頃と同じように、さらさらと河原の小石を洗うさざなみの音が、ひとり足りなくなったふたりを、やや寂しげに包みこんでおります。
 おずおずと近寄った貴ちゃんが、声をかけるより先に、
「……なあ、貴子」
 邦子ちゃんが、気配を察してつぶやきます。
「……あの、冬に優子と遊んだときの、笹舟を覚えてるか?」
 貴ちゃんの胸が、ちくりと痛みます。
 そのとき、まだ小学一年生だった貴ちゃんと邦子ちゃんは、優子ちゃんとこうして別れる日が来るなどとは、夢にも思っていませんでした。また、人間の生と死そのものを、遊びとしてしか実感できないちみっこでした。ですから、あくまで無邪気な遊び心の赴くまま、『ゆうこちゃんしんじゃったごっこ』などという笹舟流し遊びを、当の優子ちゃんを尻目に展開してしまったのですね。
「……思えば、とんでもねーこと、やったもんだよなあ」
「……こくこく」
 邦子ちゃんは、水際の朱い燦めきに、力なく小石を投げこみながら、
「んでも、あいつ、怒りもしないで……なんだかほんとに困ったみたいな顔で、『生きてるよう〜』、なんて……ほんとに……困ってるだけみたいな、ちっこい声で…………」
 邦子ちゃんの声が、できそこないのお豆腐のように、くしゃくしゃと崩れていきます。
「うわああああああ!!」
 なんの歯止めもない、邦子ちゃんの号泣――竹馬の友の貴ちゃんでも、生まれて初めて耳にする声です。
「うわ、うわ、うわああああああ!」
 そんな、とても見送りになど行けなかった邦子ちゃんの心は、そのまんま、貴ちゃんの心でもあります。
 自分の口や鼻や眼窩からも、今にも吹き出しそうなその思いを、貴ちゃんはむりやり胸奥に押しとどめ、
「……だいじょぶだから」
 号泣し続ける邦子ちゃんを、ぎゅうっと胸に抱きしめます。
「えぐ、えぐ、うああああ!」
 邦子ちゃんの熱い涙や鼻水が、貴ちゃんのチアリーダー衣装の胸に、とめどなく染みこんできます。
「……また、会えるから」
 ついこぼれ落ちてしまうふた筋の涙を、貴ちゃんは、お鼻のあたりでぐしゅぐしゅとすすりこみ、
「にゃーおちゃん、言ってたもん」
 鋼鉄娘に先に泣かれてしまった道化師《ピエロ》は、もう、明日を信じて、ぐしゅぐしゅ頬笑むしかないのです。
「まだ、なんにも、終わってないもん…………」

     ★          ★

「――お元気で、優子様」
 夕陽をよぎり、やがて茜雲に溶けるジャンボを見送りながら、宮小路さんがつぶやきます。
 百合族の皆さんも、両手を組んで、天に祈りを捧げます。
 いつかまた、きっと会える。
 そのいつかは、けしてそう遠くないはず――乙女たちは、ただひたすら、それを祈ります。
 あの大騒動の後で松井先生から聞いた、DNA解析や遺伝子病研究の日進月歩を思えば、ハッチンソン・ギルフォード症候群の治療法が確立される日も、そう遠くない気がします。
 かばうまさんと拡恵君、そして舵武君も、見送りに来ています。
 貴ちゃんのママと並んで、今回の一件を通してすっかり親しくなった宇宙線研究所の篠沢教授も、東大の講義ついでに顔を出し、第一ターミナルの展望デッキにたたずんでおります。
 寂しげな拡恵君の頭を、かばうまさんがぽんぽんと叩き、
「ま、じきに帰ってくるさ」
 拡恵君は、やっぱりまだちょっと心配そうなお顔で、
「ゆうこねえちゃんも、いっしょ?」
 宮小路さんたちは、思わず大人たちの反応を窺います。
 かばうまさんには、とっさに答えるだけの自信がありません。
「えーと、ママは、とりあえずひと月で、いっぺん戻ってくるけど……」
 篠沢教授の、人並み外れた理系頭脳でも、もちろん答えられません。
 貴ちゃんのママだけが、モナリザのような微笑を浮かべ、
「……私には、気休めを言う資格もないし、なんの確信もありません。それこそひと月後かもしれませんし、今年のクリスマスかもしれない。あるいは、何十年も先なのか――」
 茜空を見上げながら、
「ただ、それがどんなに長い長い旅でも――五十六億七千万年後の時点までに、あの子はきっと、この世界に戻っているはずですわ」
 唐突に口にされた途方もない未来の数字に、その場の誰もが、ぽかんと口を開きます。
「五十六億……七千万年?」
 かばうまさんが、ハテナ顔で復唱します。
 一同の口がぽかんと開いたままの中、貴ちゃんのママは篠沢教授を振り返り、
「先生は、覚えていらっしゃいます? 始原タキオン関係の、非常事態コードナンバーを」
 あ、と教授が気づきます。
「五六七……」
「はい。コード五六七ですね」
 貴ちゃんのママは視線を空に戻し、
「――実は、そのナンバーの由来は、過去に全宇宙で観測された始原タキオン流のうち、かろうじて発生年代の手がかりを残してくれた僅かな粒子が、例外なく、地球時間換算でおよそ五十六億七千万年後に端を発したものと、推定されるからなのです」
「ほう……」
「まあ、それはあくまで、私どもの故郷での数学的計算結果であって、単なる理論値ですから、けして『真実』とは限りませんが」
 篠沢教授は、
「……その歳月には、もうひとつ、近似する数字がありますな」
 遠く富士の影も浮かぶ西の地平に目をすぼめ、
「あの美しい夕陽――今はこの星にとって大いなる恵みである太陽も、やがては赤色巨星と化して、膨張した外層に惑星たちを呑みこんでゆく。それが五十数億年先と考えられます。――つまり、この地球の余命ですな」
 貴ちゃんのママも、静かにうなずきます。
 当惑するその他一同の中、
「五十六億七千万年……」
 かばうまさんは、まだもごもごと口の中で繰り返しております。
「……その数字、他にもどこかで、聞いたことがあるような。えーと、確か大昔、大学で。一般教養の授業だったかな」
 宮小路さんが、はっ、と目を見開き、
「弥勒……様?」
 かばうまさんが、ぽん、と手を打ちます。
「そう、それだ! 弥勒菩薩!」
 宮小路さんと顔を見合わせ、
「仏陀入滅の五十六億七千万年後、この世に下生して――」
「衆生をあまねくお救い下さるという……」
 宮小路さんや百合族の面々は、全員、あるインスピレーションに心を奪われ、驚愕と恍惚の表情を交わします。
 もしや、あの優子様というお方こそ――――。
 それは、夢見がちな純粋培養乙女たちの、ファティマ的幻想に過ぎないのかもしれませんが、
「私は、この星の宗教には不束なので、残念ながら、弥勒様のことは良く解りません。知っているのは、数ある仏の中で、唯一の未来仏であることくらいでしょうか。確かに年代的な重複は、なかなか興味深い暗合だと思いますけれど」
 貴ちゃんのママは、曖昧に頬笑んだまま、
「いずれにせよ、あのメッセージのこれまでの信憑性を思えば、時代や環境のいかんに関わらず、優子ちゃんが、また目覚めるときには――」
 様々な表情の、しかし一様に潤み、遠い目をした人々に、
「――そこにはきっと、にゃーおちゃん、そしてそれ以外にも優子ちゃんを見守ってくれる誰かさんたちが、いっしょにいてくれるはずです」
 茜雲の遙か高みの、さらに彼方の時空に想いをはせながら、
「終わらないのは、ただの『真実』ではなく、『娘たちの真実』なのですから」










                       第一部 〜太陽がくれた季節〜 《了》







※ 注 ※

◎【レモンのエイジ】において、やなせたかし氏・作詞『アンパンマンのマーチ』の一部を、引用させていただきました。
◎【トワイライト・メッセージ】において、阿木燿子氏・作詞『魅せられて(エーゲ海のテーマ)』の一部を、引用させていただきました。
◎【トワイライト・メッセージ】に登場する、スーパーカミオカンデやニュートリノ、およびタキオンに関する説明部分は、あくまで資料を元にした創作です(と、不勉強や悪い頭をごまかす)。
◎【トワイライト・メッセージ】に登場する、『SPCU(特殊個別治療室)』は、あくまで作者による造語であり、実際には存在しません。
◎【トワイライト・メッセージ】中の点字に関する描写は、原則的に教本に従っており創作ではありませんが、部分的に一般テキスト読み物の一部として表現されており、必ずしも厳密な点字表現には準拠しておりません。もし、点字を真摯に扱われる方で、なんらかの問題を感じられた方は、お手数ですが作者までご連絡くだされば幸甚です。
◎【青春しゅわっち】において、星野哲郎氏・作詞『黄色いサクランボ』の一部を、引用させていただきました。
◎【青春しゅわっち】後半より舞台となる日原渓谷には、子供会で気軽に泊まれそうな整備されたキャンプ場は、現在営業しておりません。テント設営可能な河床は、かなり奥でも存在しますが。
◎【星空のにゃーおちゃん】において、日本ボーイスカウト・作詞『キャンプ料理』の一部を、引用させていただきました。 
 
2019/01/26(Sat)03:42:37 公開 / バニラダヌキ
■この作品の著作権はバニラダヌキさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
更新履歴。
2007年7月5日、【黎明編】前編アップ。
7月12日、【黎明編】後編アップ。
7月13日、【黎明編】有栖川様のご感想を参考に、前日アップ時カットした段落を、あえて復活修正。
7月14日、【黎明編】明太子様のご感想を参考に、そして有栖川様のご感想を再熟慮し、クライマックスのシークエンスを大幅にトーン補正。
7月28日、【地上編】前編アップ。
8月1日、全体に若干の構成変え、および【地上編】前編に1シーン補填。
8月6日、【地上編】1終了。まだまだ長くなりそうなので、また構成変えさせていただきました。どこまで続くのか、もはや不明。『たかちゃんのわしづかみ』を凌ぐ、大長編になりそうな気もします。
8月14日、【地上編】2をアップ。いよいよ外伝らしく、貴ちゃんも邦子ちゃんも出演しておりません。しかも結構長丁場。分割アップしようかとも思いましたが、やはりひとつの流れにまとめたシークエンスなので、まとめてアップしました。
8月16日、【地上編】2を微修正。主に点字そのもののテコ入れです。
8月19日、【地上編】2を微修正。研究所シーンにモニター画像を挿入。いや、これ以上クダクダとハード描写を入れてもますます浮くだけなので、少しでも直観的な感情移入度が増せないか、そう思いまして。
8月29日、【地上編】3をアップ。
8月31日、脱字修正と部分補填。
9月20日、【地上編】4をアップ。
9月22日、全体微修正。
10月23日、【地上編】5をアップ。
10月30日、【地上編】6をアップ。並びに全体微修正。
10月31日、あっちこっち微修正。
11月2日、誤字脱字修正。……まだあるのか? どなたかよろしくお願いします。
11月3日、情景描写補填。
11月4日、いいかげんにしろ、ヌケ狸。
11月27日、【天空編】1をアップ。
11月29日、微修正。
11月30日、次回への盛り上げを補填。
12月1日、修正補填しつこくこねこね。
2008年1月16日、、【天空編】2をアップ。
1月17日、早くも微修正。
1月19日、こねこね。
2月23日、全体構成リニューアル、および第二章第三話の一回目を追加。
2月25日、クーニの日記をちょこっと修正。
2月27日、『づつ』、その他も少々修正。
3月12日、第二章第三話の更新2回目。
3月13日、うーむ、語り口がぎこちなかったか。
5月6日、第二章第三話終了。および第四話一回目。
5月8日、メイルマン様のご感想を参考に、トモの宇宙講義の部分を大幅に加筆修正いたしました。ナマクラな状態で読んでいただいたメイルマン様には、平伏御礼いたします。
5月10日、修正の遺漏を修正。
5月11日、トモの宇宙講義、さらに修正。
5月26日、大不評だったトモの宇宙講義を、一部を前話の中に移してせんせいに代弁させるやら、かなりの部分をカットしてこれからの進行に紛らす算段をするやら、なんかいろいろ画策しました。
5月28日、紅堂様のご指摘に頭を垂れつつ、分割しました。第二部もどこまで長くなるか見当がつかず、途中で分割することになるのが目に見えておりますので、以降は『第二巻』とし、たぶん『第三巻』あたりで完結になるのではないかと。今回の分割により、こちらにいただいた皆様のご感想の多くが、この『第一巻』ではなく『第二巻』を対象にしたものとなってしまいますが、なにとぞご了承ください。

9月3日、一部修正しました。大筋に変化はありません。
2009年1月18日、全編推敲の上、一部構成を変えました。大筋に変化はありません。
2012年10月23日、細部修正。
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