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『マゼンタの遺言』 作者:ウヅキ / 未分類 未分類
全角39125文字
容量78250 bytes
原稿用紙約113.55枚
舞台はヴィクトリア朝時代のイギリス(らしきところ)。貴族に引き取られた下町娘が、育ての母の遺言を伝える相手を探すうちに、見えてくる偽りと真実。途中、ボーイズラブっぽい部分がありますが、ノーマル小説です、多分……。
  ━━ part1 プロローグ 堕ちた女

 古ぼけた石畳の道。うっすらと霧の漂う夜。白く霞む瓦斯灯の明かり。
 診療を終え軽く一杯引っ掛けた町医者のアンバーは、外套の襟を立て白髪頭を左右に振りながら、よたよたと千鳥足で歩いていた。下町の古ぼけたアパルトマンの前を通る。煉瓦造りのそのアパートの三階の一室の鎧戸が突然開けられ、女のわめき声がした。住人のマゼンタだ。また酔っ払っているのか、多少呂律の回らない口調で叫んでいる。一人娘のバイオレットを寄宿学校に入れてから酒量が増えたようだ。そのうちきちんと注意してやらねばなるまい。マゼンタはふらふらと窓枠に足をかけて叫んだ。
「ああ、もういいよ、どうだって! どうせ前から死のうと思ってたんだから!」
「あぶないっ!」
 アンバーが叫ぶ。ほぼ同時に女の身体がぐらりと揺れて、あっという間もなく女は三階の窓から転落した。ひらひらと赤いガウンが広がり、まるで燃える松明が落ちるように女の身体は落下して石畳の路上に叩きつけられた。
「マゼンタ!」
 アンバーが駆け寄る。飛び散った血だまりの中で女はまだ微かに息があった。彼の顔を見ると苦しげに呟く。
「先生……。だからってこんな死に方したらあの子を傷つけてしまうよね、馬鹿だよあたしって……最期まで行き当たりばったりでさ……」
「しっかりしろ!」励ましながらもアンバーは手の施しようがないことを見て取り、唇を噛む。女は微かな息の下で彼に言った。
「先生……息子に会ったら伝えて……一緒にいてあげられなくてごめんねって。……あんたを捨てたわけじゃないの……」
「息子……?あんたの子は娘じゃないのか。バイオレットの他にも子供がいたのか?」アンバーは不思議そうに聞いた。
「バイオレット……」女は悲しげな顔をして呟いた。
「バイオレット……あたしを許して……」
 女は事切れた。
「マゼンタ……」
 アンバーは悲痛な顔で女の亡骸を見つめる。あまりにもあっけない死に言葉もなかった。あんな生活を続けていては碌な死に方は出来ないと思っていたが、彼女が酔っ払って死んでやると叫ぶのもよくあることだったが、まさか本当に自殺してしまうなんて。多分酔った勢いだったのだろう。死に際にこんな死に方をしたらバイオレットを傷つけてしまうと悔いていたから。しかしさっき彼女は部屋の中に向かって叫んでいたようにも見えたが? 気のせいか? もしかして誰かがいたのだろうかと、アンバーはアパートを見上げた。灯りの漏れているマゼンタの部屋の窓はしんとしていたが、アンバーは、彼女の部屋の隣の部屋の暗い窓の奥で人影が動くのが見えたような気がした。

 ━━ part2 訪問者

 少女達の小鳥のさえずりのような声が風の中に響く。ここは全寮制の寄宿学校コバルト女学院。
「バイオレット、戻ってきたの、大変だったね、元気出してね」
「ありがとう、もう大丈夫……」
 バイオレットは門をくぐり、自分を迎えた級友達の慰めの言葉にかすかに微笑みながら答えた。長い黒髪に菫色の瞳の少女バイオレットは、先日たった一人の肉親である母を亡くしたばかりだった。
 母の死からまだ一週間しかたっていない。大丈夫なんて嘘。どうして母が自殺したのか、私が家を出てそれほど淋しかったのか、母の心の中をわかってやれなかった後悔が心をさいなんでいた。
「あら、あの子、戻ってきたのね、てっきりもう退学されると思いましたわ」
「お母様の仕送りでやっていたのでしょう、他に身内もないというし、孤児になったのにどうするつもりなのかしら、学費が払えるのかねえ、心配ですわ」
 聞こえよがしに無情な言葉。ここは貴族の子女が通うような上流校ではないが、それでも女の子に高い教育をつけようと通わせるのは裕福な家庭が多い。
 無血革命の後、民主主義の考え方が広まり、身分制度の垣根は低くなっていたがそれは理想で、階級意識は急になくなるものではない。親の職業まで知られていないようだが、持ち物や服などからバイオレットは貧しい階級の娘と見下げられていた。もちろんそんな子ばかりでなく、バイオレットの友達は彼女らを睨み、気にするなと慰めるが。
 学費のことは葬儀の時に校長先生から、卒業まで面倒をみてくれると言われていた。彼は母の幼馴染だったそうで、今まにでもいろいろと気にかけてくれている。母はそうと見越して死んだのだろうか。バイオレットはけれど、いくら幼馴染でもそこまでお世話になれないと思っていた。しかし、ではどうするかというと難しい問題だった。学校はやめたくなかった。やめてしまったらそれこそ通っていたことに何の意味もなくなるし、母の死が無駄になる。そして彼女には医師になるという夢があった。小さい頃に重い病気に罹った時に、アンバー先生のお蔭で命をとりとめた。母は先生に感謝して、それまで逃げるようにあちこち移り住んでいたのに、ずっとあの町に住む様になったほどだ。
 アンバー医師は下町の名医と呼ばれ、お金がなくともある時でかまわないと診てくれた。そんな経験から彼女も、アンバー先生のような貧しいものの味方になりたいと思ったのだ。
 校長先生に寮の仕事を手伝いながら学ばせてもらええるようお願いしてみよう。それならそれほど心苦しくない。14で天涯孤独の身になったとはいえ甘えてはいけない。
 いや天涯孤独じゃないかもしれない。バイオレットは思い直した。
 母が言い残した言葉からすると、兄がいるかもしれないのだ。
 母の息子のことを、葬儀に来てくれた校長先生に尋ねてみたが知らないと言った。私がこの学校に入学して十数年ぶりに母と再会したので、その間のことは知らないのだそうだ。母の息子というのは私の弟なのか兄なのか。いつ彼を手放したのか。バイオレットはぼんやりと考えていた
 バイオレットの周りで女の子達がざわっとどよめいた。
 バイオレットが顔を上げると校門に一台の馬車が止まり、人が降りてくるところだった。
 15,6の金髪の少年と20くらいの鳶色の髪の青年の二人連れ。誰を訪ねて来たのだろう。見たことのない訪問者だ。服装からして身分が高そうに見える。貴族かもしれない。背の高い青年の方は少年に付き従うようにしている。おそらく使用人だろう。
 校舎に向かう通路は、洒落た蔓薔薇のアーチになっている。背の高い青年は少年に続いて薔薇のアーチをくぐろうとして、茨に髪の毛を引っ掛けた。外そうとして振り返り、見つめていた少女達を目が合い、あれ? 見られた? 困ったなぁみたいな苦笑を浮かべる。それがどこか人懐こいような感じのいい表情だったので、かわいいと少女達がくすくす笑い、前を行く少年が不審気に振り向いた。
「シアン、何をしている。早く来い」
 断言的な命令口調。まるで大きな番犬のように青年は大人しくそれに従い、二人は校舎内に消えた。やっぱり貴族なのよ、あのえらそうな態度、でも凄く綺麗な顔立ちしてたわねあの少年、などと噂する少女達。
 同じように釣られて笑ったバイオレットは、青年の笑顔に何か癒される想いを感じながら、彼女達の囁きを聞いていた。
 それから数刻後。
 バイオレットは校長室に呼ばれた。
 何事だろうと訝りながら軽くノックして入室すると、さっきの少年が来客用の椅子に腰掛けていた。側には青年が控えている。輝くブロンドの髪と緑の目の少年は、食い入るような眼差しで、部屋に入ってきたバイオレットを見つめた。校長がバイオレットに向かって言った。
「君を迎えに来たアッシュグレイ家の方だ。幼い頃さらわれた君をずっと探していたそうで……」
 彼の話が終わらないうちに、少年は立ち上がりバイオレットに近づくと
「ウィスタリア、会いたかった。僕の妹……」
 涙目でしっかりとバイオレットを抱きしめた。

 ━━ part3 アッシュグレイ家の悲劇

「私がアッシュグレイ家の娘のウィスタリア?」
 バイオレットはいきなり少年と青年からそう告げられ、すぐに身の回りのものをまとめるよう言われ、級友達への挨拶もそこそこに学校を離れ、半ば連れ去られるように、ついさっきこの屋敷に引き取られてきた。そして今こちらの屋敷で、校長室で会った兄と名乗る少年から、再び詳しい話を聞かせてもらったところだった。
 アッシュグレイ家の当主はこの少年。三年前に当主の座を継いだ、16歳のカーマインという少年だった。そしてバイオレットの兄である。
 バイオレットは彼から、自分が十年前に子守女に攫われて、ずっと行方不明になっていたアッシュグレイ家の娘、ウィスタリアなのだと知らされたのである。
 いきなりの運命の変遷にバイオレット、いやウィスタリアは事実を受け入れるのがやっとだった。
 何よりのショックだったのは今まで母と信じていたマゼンタは実の母ではなく、自分を攫った誘拐犯だったのだということだった。呑んだくれでだらしないが、自分を愛して可愛がってくれた母だったのに。
「ふん。あの女はずうずうしくもおまえの母だと言っていたのか。たかが小間使いだったくせに」
 吐き捨てるような兄カーマインのセリフ。貴族ってみんなこんなに偉そうなのかとウィスタリアは思う。でも私にとっては優しい母でも、兄にとっては妹を奪った憎い人攫いなのだ。仕方のないことかもしれない。ウィスタリアは兄に聞いてみた。
「マゼンタには……彼女には息子がいたのですか?」
「息子? あの女、おまえだけじゃなく僕のことも自分の子供のように言っていたのか? 薄汚い下賎の女の癖に!」
 むっとしたように答える兄。そういう意味じゃなくて……と訂正しようとしたウィスタリアだが、その前に、影のように傍らに控えた青年が少年をたしなめた。
「カーマイン様、彼女はウィスタリア様をきちんと育てて下さいました……」
 長身だが目立たない控えめな物腰の青年だ。鳶色の髪と澄んだ灰色の目をしている。この人は自分の気持ちに気を配ってくれたのだとウィスタリアは嬉しく思った。
「そうだな。酒場女をやっていたにしては上出来だが」
 兄はシアンの言葉をしぶしぶ認めながらも、独り言のように憎々しげに呟いた。
「あの女のせいで母は死んだ」
 はっと息を呑み、それはどういう意味なのかと尋ねようとしたウィスタリアだが、兄はベルを鳴らしメイドを呼ぶと、今日は疲れただろう、部屋へ行って休むといいと、一方的に話を打ち切るようにウィスタリアに言い渡した。

 ドアを閉め、部屋を辞したバイオレットは、メイドに自分の部屋へと案内されながら途方に暮れたような溜息をつく。長い廊下。絵画や彫刻など贅沢な調度品。とても大きく立派な屋敷だ。
 あなたはアッシュグレイ家の娘だなんて言われても、急にお嬢様になれるわけもない。こんな不釣合いなところへきてしまって自分はちゃんとやっていけるのだろうかと、心に不安が広がる。
 結局マゼンタの息子のことは聞きそびれてしまった。でもあの様子だと二人は何も知らないようだ。
 マゼンタを覚えていそうな年配のメイドにでも聞いてみようと思いながら、ウィスタリアはメイドについて広い屋敷の廊下を歩いていった。

「覚えていないんだな何にも……」
 ウィスタリアが出て行ったドアを見送りながら、カーマインが軽い溜息をつきながらシアンを振り返る。
「兄様、兄様って僕の後をいつも付いてきてたのに。……淋しいな。まあその方が好都合かもしれないけど」
「わずが4つだったのですからね。幼少の頃の事など余り覚えていないのが普通ですよ」
「僕はよく覚えてるよ。母と僕と妹と三人で森でピクニックしたこととか……。母は明るく無邪気な人だった。だけど……あの女のせいで母は自殺したんだ」
 カーマインは頬杖をつき、遠くを見るようなまなざしで言った。
 シアンはそんなカーマインの横顔を痛々しげな目で見つめた。

 ━━ part4 新しい環境

 バイオレットがウィスタリアとしてアッシュグレイ家に来て早や三日。彼女は新しい環境にまだ慣れれずにいた。
 お城のように大きな屋敷(実際、アッシュグレイ家はサマーグリーンの地に城を持っているそうだ)に暮らすこと、食事から着替えまでお付きのメイドたちに甲斐甲斐しくお世話されること、そしてカーマイン少年をお兄様と呼ぶこと、下町で育ったウィスタリアには戸惑うことばかりだった。アッシュグレイ家は爵位は低いものの、先代が事業に長けていたので財産はかなりのものだという。
 ウィスタリアは年配のメイドに、自分を攫ったマゼンタのことについて聞いてみた。しかし彼女は、マゼンタはこの屋敷で働いていた女じゃないのでよく知らないと言った。事件は一家がサマーグリーンにある城に滞在中に起こったのだ。あの時は、お嬢様は攫われるは坊ちゃまは大怪我をされるわ、奥様が心痛の余りご病気になってお亡くなりになられるなど、それはもう大変な年でございましたという。
「本当にカメリア奥様はお可哀想なことで、旦那様の落ち込みようは見ていてお気の毒でした」
 カメリアは持参金もない没落した名門貴族の娘だったので、アッシュグレイは妻の実家の肩書きが目当てなのだと陰口を叩くものもいたが、旦那様は奥様をとても愛して、いろいろ尽くしてらっしゃったとメイドは言った。ウィスタリアは育ての母が実の母を追い詰めたという事実を知って、辛い気持ちになった。兄にマゼンタの息子を探してくれるよう頼もうかと思ったのだが、とてもそんなことは頼めそうにない。でも出来れば最期の言葉を伝えてやりたいので、自分だけでもそれとなく探してみようと思った。
 表に馬車が止まり、カーマインが帰ってきた。貴族といっても遊び暮らしているわけでなく、事業のことで人と会ったりいろいろと忙しい毎日のようだ。カーマインは帰宅早々、慌しくウィスタリアのところにやってきて言った。
「ウィスタリア! ブラウン伯爵から招待があった。明日の夜会におまえも行くんだ」
「まあそれなら急いでドレスの準備をしないと!」とメイドたちが騒ぎ出す。ウィスタリアは慌てた。
「夜会って、無理だわ! 私そんなの今まで行ったことない……」
「僕も出来ればおまえをまだ人前には出したくなかったが、伯爵の頼みじゃ断れない」
 早くも妹が見つかったことを聞きつけた伯爵が、ぜひにと望んだのだ。野に育った田舎娘を笑いものにしてやろうという意図も見え隠れしていた。時代の変化に乗り遅れ没落していく貴族が多い中、いろいろ事業を手がけて成功しているアッシュグレイ家に対しては、妬みや嫉妬を持つ貴族も多々あるようだった。
「いいか、明日はちゃんとアッシュグレイ家の令嬢に相応しい振舞をしろよ」
 作法やダンスの家庭教師を手配してあるので、夜会までにきっちり覚えておけと釘を刺す。そして戸口で振り返り
「あ、それからお前は攫われてすぐ修道院に預けられてコバルト女学院の校長に引き取られたことになっているからな」
「え……?」
「校長も了解済みだ」
 カーマインはそういって出て行った。
 アッシュグレイ家の令嬢が酒場女の娘だったというのは外聞が悪いからか。ウィスタリアは今までの人生を否定されたようで悲しくなる。校長先生も貧乏は恥じることではないと仰っていたのに、どうして? ううん、きっとあたしのためだと思ってのことなんだ、とウィスタリアは自分に言い聞かせた。とにかく兄を失望させないように頑張らないと。あれこれ思い悩んでウィスタリアはその夜もよく眠れなかった。
 翌朝。ウィスタリアは少し遅れて起きてきた。兄はもう食事を済ませて出かけるところだ。いつも一緒に食事をとっているので、遅いと少し咎める目をして出て行った。使用人のシアンがウィスタリアに声をかける。
「お元気がないようですね」
「ちょっと……よく眠れなかったの」
 実は昨日も一昨日もだ。こちらに来てから環境の変化のせいもあって、殆ど寝ていなかった。
「それではウサギのぬいぐるみでも買って来ましょうか? 抱いて眠ると安眠できますよ」
 冗談か本気かわからないことを言って微笑みながら、シアンはカーマインの後を追って出ていった。
 今日のウィスタリアは忙しかった。ダンスやマナーの速習をして、そのあと昨日採寸してサイズ直ししたドレスの試着をしてみる。ドレスは既に何着も作られていて、メイド達はこれがいい、いやこちらの方が似合うと楽しげに言い合う。先日引き取られたばかりなのにどうしてこんなに? と訝るウィスタリアに彼女らは
「カーマイン様は、後を継いだ三年前から、妹がいつ帰ってきてもいいようにとご用意なさってたのですわ」と言った。クローゼットにはもう着られないような小さな服も何着もある。父はもうとうに諦めてしまっていたが、カーマインは必ず見つかると信じて、再び熱心に探し回っていたのだと言う。そして十日ほど前にシアンと二人でどこかへ出かけたのだが、きっとその時にあなたのことを見つけ出したのだろうと言う。
 十日ほど前……? ちょうどマゼンタが死んだ頃だ。兄が私を見つけたのはマゼンタが死ぬ前なのか死んだ後なのか? ふとウィスタリアは、兄はマゼンタにあったのだろうかと疑問に思った。その他、夜会についての細々したことも聞きたいのに、カーマインは中々帰ってこなかった。仕事が長引いてるのだろう。もうそろそろ出発しないとという頃に、ようやくカーマインとシアンが帰宅したとの知らせを聞く。
 ウィスタリアは急いで兄の部屋へ行き
「兄様…」とドアを開けた。兄はちょうど着替えているところだった。視界に飛び込む裸の背中。
「ごめんなさい!」慌ててドアを閉めて、ばたばたと去って行く。
「ノックも出来ないのか。どういう躾を受けてきたんだか……」
 シャツに袖を通しながら呆れ顔で呟くカーマイン。
「きっと何か急ぎの用でもあったのでしょう」
 ボタンを嵌めてやりながらシアン。
「おまえは妹に甘いな」
 カーマインはシアンを見ながら笑った。そして囁くように言った。
「で、見たと思う?」
「多分」
「思い出すかな?」
「それはわかりません」
「とにかく説明しておいた方がいいだろうな」
 カーマインは少し考え込みながら呟いた。
 ――何……今の? ――
 ウィスタリアはさっきドアを開けて見たものに驚いていた。兄の色白で華奢な背中には、その一面に爪で引っかいたような鞭で打たれたような無残な赤い傷痕があったのだ。

 ━━ part5 夜会

 夜会に向かう馬車の中で、ウィスタリアは兄に細かな注意ごとを尋ねた。カーマインは丁寧に答え、不安を訴えるウィスタリアを安心させるように、優しく手を握ってやる。ウィスタリアはそれだけで懐かしいような安心感を覚え、きっとうまくやれると信じられた。それからふとさっきの傷が気になって、もの問いたげについ兄を見つめると、察した兄が答えた。
「背中の怪我は子供の時に狼に咬まれた傷だ」
 獣に咬まれたにしては……鞭の跡のようにも見えたがと思いつつ、メイドたちの『坊ちゃまも大怪我して』の言葉を思い出して
「エバーグリーンで?」と尋ねる。
「思い出したのか?」
 カーマインがちょっと嬉しそうな表情をしたが、メイド達から聞いたのだというと失望に変わった。ウィスタリアは少しすまなく思う。それからついでにもう一つ気になっていることを聞いた。
「兄様が私を見つけたのは、マゼンタが亡くなる前なの? 後なの?」
 カーマインは突然の質問に驚いたのか、一瞬ためらった後、あとだと答えた。
「文句のひとつも言ってやりたかったんだけどね」と付け加える。
「私をとても大事にしてくれたわ……」
「それはよかったな」
 そう言いながらもカーマインは、彼女の話などしたくないというように横を向く。
 私はマゼンタに愛されて育ったけど、兄は母をなくしてきっと淋しい想いをしたのだろう。ウィスタリアはもう兄の前でマゼンタの話をするまいと思った。馬車はブラウン伯爵邸に着いた。
 煌々と輝くシャンデリアの下で笑いさざめく人々。女達の華やかなドレスは水中花、男達はその周りを泳ぎ回る魚のようだ。ウィスタリアは人々に紹介され、生い立ちから多少好奇の目で見られたが、失敗もなく、悪意ある人々に多少の失望を与えつつ、無難に社交界に受け入れられた。あいつらの顔を見てみろよ、揚げ足とれずに残念そうだぜ、と兄がウィスタリアに小気味よさそうに囁く。兄に認められ、ウィスタリアはほっと肩の荷をおろした。そしてカーマインの友人達にも紹介され、親しげに話しかけられる。
「君がウィスタリアなのだね、なんて美しく育って!」
「僕を覚えてるかい?ほら、小さい頃よく遊んだだろう?」
「ごめんなさい……。私何も覚えていなくて……」
「妹は幼い頃の記憶がないんだ。それにおまえとは遊んだ覚えはないぞ、口説くならもっと気の利いたセリフにしろ」
 カーマインがかばうように口出しする。
 彼らはすっかり兄気取りだなと冷やかしながら
「それではお嬢さん、一曲お相手して頂けませんか」
 と友人のひとりがダンスに誘った。
 ウィスタリアはワルツを踊った。ダンスは学校でも習っていたので不安はなかった。休暇で家に戻った時、借りてきた蓄音機で練習していると、マゼンタがそのステップはこうだと教えてくれたこともあった。ウィスタリアは雰囲気に慣れ、かなり落ち着いてきた。
 二、三曲踊ってテーブルに戻る。カーマインはもう心配ないと思ったのか、妹の側を離れ、御婦人達の相手を始めた。
 ウィスタリアやシアンといる時は、年より子供ぽく見える彼だが、ここではうんと大人びて見えた。
 私よりまだ若い年齢で後を継ぎ、大人の間で様々な苦労をしてきたのかもしれないと、ウィスタリアは思った。
 飲み物を配りながら、メイドが溜息をつくように兄に見とれている。綺麗な金髪で整った顔立ちの兄は、意外と女の子に人気があるようだ。マゼンタもこうやって給仕しながら貴族に憧れ、ダンスのステップを覚えたのだろうか。
 兄は次々相手を変え、今は着飾った年配の婦人の相手をしていた。
「どんな美人もよりどりなのにあいつはマダムが好きだよな」などと友人達が囁きあっている。
 夜が更けても夜会はなかなか終わりそうになかった。少し疲れてきたウィスタリアは息抜きに中庭に出た。喧騒を離れ一息つきながら綺麗な星空を眺めていると後ろから人の気配がする。若い男がついてきていた。丁寧な言葉でウィスタリアに話しかけるが、目の中に獰猛な光を見つけてウィスタリアは微かな恐怖を覚える。肩に触れようとした男の手を、思わず邪険に払ってしまった。男の袖が弾みで茂みにひっかかり、破れた。嫌がるようなウィスタリアのそぶりに、腹を立てた男が逆上して、彼女を打とうと手を振り上げる。その手を後ろから伸びた手がつかんだ。
「紳士らしからぬ振舞はおやめ下さい」
 穏やかな静かな声。シアンだ。
「ふん、アッシュグレイ家の使用人か。どうせこの娘も、お前とカーマインが政略結婚に使うために見繕ってきた、どこの馬の骨ともわからない女だろう。父上がアッシュグレイ家とお近づきになっておけば損はないと言うから、機嫌取りしてやろうと思ったが、こんな田舎娘など相手に出来るか」
 男は捨て台詞を残して去って言った。私は政略結婚のために見繕われた駒? 男の言葉にウィスタリアはショックを受ける。気にすることはありませんとシアン。そこへどうかしたのか? とカーマインが来た。剣呑な様子の男とすれ違ったので、何かあったのかと二人に尋ねる。ウィスタリアは不安を口にした。
「兄様……私、本当にあなたの妹なの?」
「当たり前だろう」
 カーマインは少し怒ったような傷ついたような顔で答えた。
「昔の面影がはっきり残ってるからすぐに判った。おまえは間違いなく僕の妹だ」
 そっと頬に触れ、愛しげに見つめる。
 そういえば……とウィスタリアは思い出す。初めて会った時も目に涙を浮かべていた。兄は初めて会った時から、私を幼い頃の記憶ごと愛してくれていたのだ。
 私は何も覚えていない。私も何か小さい頃のことが思い出せればいいのに、とウィスタリアは兄に申し訳なく思った。
「ウィスタリア、夜会は退屈だろう。先に帰るといい。シアン送ってやってくれ」
 カーマインが命じる。
「カーマイン様は?」
「僕はもう少し残ってる。御夫人方は旦那の秘密をあけすけに喋ってくれるからな。いろいろと実のある話も聞ける」
 彼にとってここは事業の情報収集の場らしい。
「そんな理由のためにご婦人と付き合われるのは失礼ですよ」
 ネクタイを直してやりながら、シアンがたしなめる。
「勝手に向こうから寄ってくるんだ。それにちゃんとご機嫌もとってやってるさ」
 罪悪感のカケラもない口調で、カーマインが答えた。兄に親しみを覚えていたウィスタリアだが、この態度に関してはシアンに激しく同意した。
 帰りの馬車の中で、ウィスタリアは疲労感に襲われ、座席にもたれて目をつむる。兄の割り切った様子を見ていると、表の顔と裏の顔を使い分けるのが貴族だろうかと思う。それなら私にはとても出来そうにないとウィスタリアは思った。
 マゼンタは何を考えながら貴族の屋敷で働いていたのだろう。華やかな彼らの暮らしと、自分との違いに憤りを感じて、愛着を覚えていた子供を攫って、屋敷を飛び出したのだろうか?
「シアン……シアンは貴族をどう思っているの? 兄が羨ましくないの?」
 答えは聞けなかった。ウィスタリアがそのままシアンにもたれて眠ってしまったので。

 ━━ part6 医療救護院

 次の日の朝。久々にぐっすり眠ったウィスタリアは、晴れやかな気分で朝食の席に着いた。一方、カーマインは昨夜遅かったのか、いつもより遅れて起きてきて、メイドにお茶だけでいいと言いながら、ウィスタリアの向かいに座った。眠そうにしながら、昨晩の夜会の感想などをウィスタリアに尋ねる。眠ければわざわざ起きてこなくてもよさそうなものだが、何かとよく外出する彼なので、朝食の時ぐらい妹と過ごしたいと思ってるのかも知れない。シアンが紅茶を持ってきて二人の前に置いた。
「昨夜はありがとう。私、眠ってしまって……」
 ウィスタリアが幾分顔を赤らめながらシアンに礼を言う。昨夜はあのまま眠り込んでしまい、多分シアンに抱きかかえられて馬車から降ろされたのも覚えていなかった。
「よくお休みになられたようですね」とシアンは微笑み
「うさぎのぬいぐるみはいりませんでしたね」と付け加えた。
「何だ? シアン、おまえ妹にもぬいぐるみをやったのか?」とカーマイン。
「え? も、って兄様、うさぎのぬいぐるみを抱いて寝てらしたの?」
 ウィスタリアの質問に、思わず言葉に詰まるカーマイン。追い討ちをかけるように
「ぼろぼろになるまで大事になさってましたね」とシアンが微笑んだ。
「つまらないことをいつまでも覚えてるんじゃない」
 おまえ、僕をからかって楽しんでるだろ、という顔をしながらカーマインが答えた。シアンの前では兄がまるで子供に見えると、ウィスタリアは思った。

 午後。作法やピアノのレッスンをやり終えて、時間の出来たウィスタリアは、メイドたちとお喋りをしながら、庭の花に水遣りをしていた。シアンが一人で薔薇を切っている。あら? 今日は兄様のお供をしなかったの? とウィスタリアが尋ねると、今日の午後は休暇を頂いてます、それに確かに私はカーマイン様付きの使用人ですが、そんなにいつもいつもお側にべったりついてるわけじゃありませんよ、と答えた。それは確かにそうかもしれないけど、とウィスタリアは思う。でも兄とシアンの関係は主人と使用人というより、兄弟とでもいうようなもっと親密な感じがするのだ。
「シアンは兄様とそれ程年が離れてないのに、子供の頃の兄様のこともよく知ってるみたいだけど……一体いつから勤めてるの?」
「かれこれ十年でしょうか。私が10、カーマイン様が6歳の時に、話し相手としてお仕え始めました」
 年配のメイドがシアンの言葉に感慨深げに答える。
「本当にシアンもすっかり大きくなって。昔はそれはもうまるで兄のように親身に、カーマイン様の面倒を見てあげてたものですよ、ウィスタリア様。カーマイン様も、幼い頃はそれはもう、天使のようにお可愛らしいお子様でしたし……」
「三年前だってまだまだお可愛いらしかったですわよ」と薔薇の茂みの向こうから弾んだ声で若いメイドが言った。
「そうそう。三年前、お父上のあとを継がれた頃も、まだまだ幼くて、まるで女の子のようにお綺麗でしたねぇ」
「叔父のダーク様も、今は外国に行ってしまわれたのですが、当時はカーマイン様を随分心配なさって後見人になられて、いろいろと世話を焼いてらっしゃいました」とメイド達が話す。シアンの鋏の音がぱちんと大きく響く。
「シアン、どうかしたの?」ウィスタリアがシアンを見て不審気に言った。
「え?どうもしませんが?」とシアンがいつもと同じ穏やかな表情で答える。
 今のは見間違いだったのだろうか、とウィスタリアは思った。さっきシアンがらしくもない、険しい顔をしていたように見えたのだ。
 若いメイド達はまだカーマインの話を続けている。ここのメイド達にとっても、美貌の当主は魅力的な存在であるらしい。ウィスタリアは兄の顔を思い浮かべる。ふとマゼンタに少し似ているような気がした。マゼンタもかなりの美人だった。綺麗な顔立ちというのは似るものなのだろうか。ウィスタリアがぼんやりとそんなことを考えていると、シアンが
「じゃあちょっと出かけてきます」
 とメイドたちに言い残し、摘んだ薔薇の花束を持って出て行った。
「ああ、いつものところだね、いってらっしゃい」
 メイド達が快く送り出す。
 花を持っていつものところ…? ウィスタリアは驚き、少し胸の内にもやもやしたものを抱いてメイド達に尋ねた。
「シアン、もしかしてデートに行ったの?」
 メイド達が笑い崩れる。
「違いますよ、お嬢様。シアンは病院へ奉仕活動に出かけたのです」
 メイド達は、シアンは将来医者になるつもりなので、勉強の為に病院へ手伝いに行っているのだと言った。シアンがアッシュグレイ家に雇われた時の条件が、医者の勉強をさせて貰えるというもので、夜学にも通わせて貰っているということである。
 シアンが医者の卵だったなんて……。
 ウィスタリアはそっとシアンを追いかけた。
 どちらへ? と門番が問うのに、ちょっとその辺を散歩だと言いつくろいながら門を出る。シアンは屋敷の長い塀の先の角を曲がるところだった。ウィスタリアはその背の高い後姿を急いで追いかけて行った。

 ごみごみした街角にある医療救護院の建物。
「シアン……!」
 入口のドアを開けたシアンに、ウィスタリアが追いつき、後ろから声をかける。
「ウィスタリア様!」
 シアンが驚いて振り返る。どうしてこんな所に? と問う声にウィスタリアは、私も手伝いに来たのだと答える。
「いけません! こんなところへおいでになっては! お帰りなさい!」
「シアンを追って来たから、帰り道がわからないわ」
「辻馬車を呼び止めます」
 けれどウィスタリアは、馬車を拾おうとしたシアンの横をすり抜けて、ドアをくぐり
「貴族の貴婦人は慈善活動をするものでしょう。私も手伝うわ。大丈夫、慣れてるから」と建物の中へ入っていった。
 最初は渋っていたシアンだが、ウィスタリアの確かに手馴れた看護の手つき、治療を嫌がる患者や恐れる患者をなだめ励ます優しい言葉掛け、そしてそこの医師の手放しのありがたがりよう、人手の足りなさもあって、なし崩し的に結局ウィスタリアの手伝いを認めることになってしまった。
 ウィスタリアと一緒に看護にあたる医師が、感心したように言った。
「貴族のお嬢さんがこういう奉仕活動をされるのは珍しいのう。しかも中々手際もよい。うむ、看護慣れしておる」
 ウィスタリアは、今まで下町に住んでいて町医者で手伝いをしていた、アンバー先生の医院だと言うと医師は、おお、彼なら友人だ、と答えた。
「卒業して大病院から誘いがきていたのに、断って下町で開業した偉い男だ。今でも時々会合で会っておる。そうか、そうか、彼と知り合いなのか」
 と嬉しそうに頷いた。ウィスタリアはこの偶然に驚き、医師に、急なことで別れも言えずに来たので、心配してるかもしれない、もし会うことがあれば元気でやっていると伝えてほしいと言った。今度あったら話しておこうと、医師は快く答えた。
 シアンの持ってきた薔薇が、雑然とした広い病棟の中で美しく咲き香っている。古びているが清潔に保たれた病棟は、ここに勤める者の高潔で愛に満ちた心根と同じに感じられる。
 貴族に引き取られたからといって関係ないわ。私は私なんだから。
 ウィスタリアはここに来て自分が忘れていたこと、何をしたかったかということを改めて思い出していた。

「どうしてあんな所に妹を連れて行ったんだ!」
 夜。帰ってきたカーマインが、思いっきりシアンを殴りつけた。ウィスタリアが救護院に入っていくのを見た者がカーマインに告げたのだ。
「病気でもうつったらどうする! おまえのせいだぞ!」激しくシアンをなじる。シアンは一言の弁解もなく、申し訳ありませんとうな垂れて謝った。
「兄様、私が頼んだの! シアンは悪くないわ、私がやりたいから行ったのよ」
 ウィスタリアが慌てて説明する。そしてカーマインに、私も医者の勉強がしたい、私も将来医者になりたいのだと言った。
「駄目だ」カーマインの返事はにべもない。
「おまえにはそんな必要はない。貴婦人としての教養を身につけ、幸せな結婚をすればいい」
 ウィスタリアはむっとする。
「政略結婚はさせないといったくせに!」
「おまえが幸せになれる相手を探すということだ」
「兄様は女は望まれて嫁げば、相手に愛されさえすれば幸せになれると思ってるの? 私は、結婚相手くらい自分で探すわ」
 ウィスタリアの堂々とした言葉に、カーマインは少し驚いて聞いた。
「もしかして好きな奴でもいるのか?」
「い、いないわよ、まだ」
 少し赤くなりながらウィスタリアが答える。
「私、兄様から言われた勉強もちゃんとやってるわ。それに加えて、将来お医者さんになるための知識も身に付けたいの」
 もう一度説得に当たるウィスタリア。だからそんな必要はないと言ってるだろうと言うカーマインと、再び堂々巡りの押し問答。とうとうカーマインは根負けして
「勝手にしろ」と言い残して出て行った。
 ウィスタリアはごめんなさいと、シアンの血の滲んだ顔を拭う。
「兄様ったら酷いわ。いきなりシアンを殴るなんて……」
「私がいけないのです。やっと見つけた妹様を心配してらっしゃる、カーマイン様のお気持ちを考えるべきでした」
 救護院で聖母のごとく立ち働くウィスタリアを見ていて、ついカーマインのことより、彼女の望みを優先してしまっていた。カーマインに言われたとおり、私はこの少女に甘いのだろうかとシアンは考えた。
「しかしカーマイン様と張り合えるなんて、流石にカーマイン様の妹ですね」
「どういう意味?」
「あ、すみません。それにしてもウィスタリア様が医者志望だとは知りませんでした」
「これでも小さい頃からの夢なのよ」ウィスタリアはにっこりと微笑む。

 次の日、兄は約束どおりウィスタリアが望む勉強を教える新しい家庭教師を呼んでくれたが、ウィスタリアの将来の夢については理解してくれたのかどうかはわからない。もうカーマインはそのことに触れようとしなかったから。まだまだ先のことだから気が変わると思ってるのかもしれない。
 マゼンタは私が医者になりたいというのに賛成してくれたんだけどな、とウィスタリアは思う。
 女もこれからは手に職をつけなきゃ、男になんか頼ってちゃいけない、一人で生きていけるようになれなきゃねと言って、無理をして私を寄宿学校に入れてくれた。きっと私が医者になったら喜んでくれただろう。でももう彼女はいない。ウィスタリアは改めて悲しくなる。人攫いだと兄は言うけどやっぱり私にとっては母同然。ウィスタリアはマゼンタの遺言、アンバーから聞いた最期の言葉を彼女の息子に伝えてやりたいと思った。
 ウィスタリアが屋敷のメイド達から聞いた話によると、マゼンタはサマーグリーンで雇われた女だということだ。母カメリアは結婚した頃は、細くて弱々しく、よくサマーグリーンの城へ療養に行っていたそうだ。
「あれで子供がお産みになれるのかと心配してたのですが、サマーグリーンに滞在中に無事カーマイン様をお産みになりました。ウィスタリア様はこちらでわたくしが取り上げたのですがね」
 と年配のメイドは懐かしそうに眼を細める。
「でもカーマイン様もウィスタリア様も、殆どサマーグリーンで過ごしてらっしゃいましたねぇ」
 幼い頃を過ごしたというサマーグリーン。行ってみたい。もしかしたらそこに行けば、私も幼い頃の兄との思い出を取り戻せるかもしれないとウィスタリアは思った。

 ━━ part7 サマーグリーン

 仕事が一段落ついたのでどこかに小旅行にでも行かないかと、カーマインが提案したのは、それから数日後だった。
「ウィスタリアは何処に行きたい?」と有名な観光地や避暑地の名を挙げる。ウィスタリアはためらいながらも、思い切っていった。
「私、サマーグリーンのお城に行ってみたいんだけど……」
 そこにいけば、もしかしたら幼い頃のことを思い出すかもしれないからと付け加えた。マゼンタの息子のことを調べるのが目的だったが、そちらの方も本当のことだった。
「サマーグリーンか……」ちょっと考えながら、いいね、随分行ってないな、懐かしいなとカーマインは答えた。

 サマーグリーンは汽車で一日がかりのところにあった。
「わぁ、綺麗な所ね!」
 ウィスタリアが歓声を上げる。
 風の色も空の色も光の色も、街とはまるで違っていた。
 城の周りには緑萌える草原と、広大な森と澄んだ湖、そして少し離れた所に小さな村があった。城には管理をしている老執事とその妻、数人の使用人がいるだけで、短期の滞在の予定なので、街の屋敷から連れてきたのもシアンだけだったが、連絡を受けて村から手伝いの者たちが来てくれていた。村での仕事もあるだろうにすまないなとカーマインは礼を言い、村人達は彼の妹が見つかったことを我がことのように喜んでくれた。領主との関係はかなりいいようだ。
 夜、二人でバルコニーから星空を眺める。シアンがお茶を運んでくる。カーマインはシアンにおまえも懐かしいだろう、明日は両親の墓参りにいってくればいいと言った。しかし……大丈夫ですか? と聞くシアンにおまえがいないと僕は何も出来ないような言い方だなとむっとしながら、ウィスタリアに、シアンはここの村の出身なのだと言った。
 シアンは、カーマインが怪我をした時に診てもらった村の、診療所の息子だった。診療所に入院したカーマインを、父と共に看病し、色々な出来事に不安定になっていた幼いカーマインに懐かれ、そのまま請われてアッシュグレイ家に仕えることになったのだ。
 そうか、ここでシアンが生まれ育ったのかと思うと、ウィスタリアは何故だか更に嬉しい想いがした。
 翌日。
 カーマインはウィスタリアを誘って野原や森へ散策に行く。
 楽しそうに歩くウィスタリアを見るだけで、カーマインは満足そうだった。
 ウィスタリアは森を抜け湖畔を歩く。綺麗な水を湛えた湖。岸辺に小さな小屋があった。
「あら、こんなところにボート小屋があるのね」
 ドアを開けてそっと覗いてみる。
「お兄様……」と振り返ると、カーマインは息を呑んだように立っていた。
 カーマインの心に幼い頃の記憶がフラッシュバックする。ボート小屋の戸を開ける自分。頭に響く母の冷たい声。『まあ、こんなところへ来るなんて! 何を見ているの! あっちへ行って! あれと同じ目をして! 嫌な子!』
 そしてそれにもう一つの、つい最近の記憶が重なる。こちらを振り向いた女の目。バランスを崩し、止める間もなく落ちていく身体……。
「どうしたの兄様? 真っ青よ」
「ああ、ちょっと気分が……」
 ウィスタリアの声にカーマインは現実に戻される。ウィスタリアが心配そうに兄を見ている。
「兄様、もしかしてサマーグリーンには余り来たくなかったんじゃないの? だって大怪我をしたり、お母様が亡くなったり、私が攫われたりした土地だから……」ウィスタリアはすまなそうに言った。
「ごめんね。こんなところへ来たいなんて言い出して……」
「そんなこと気にするな。悪い想い出だけじゃない。ここはおまえと過ごした楽しい想い出もたくさん残ってる」
 カーマインは妹を安心させるように笑った。
 二人はボートに乗った。ゆっくりと漕ぎながらカーマインは想い出を語った。
 野原で花を摘んだこと。森で木苺を摘んで食べたこと。兎を飼ったこと。小川で水遊びをしたこと。ボートに乗せてもらったこと。
「それに、こうしてまたここで昔のように、おまえと過ごせるなんて思わなかった」
 これほど嬉しいことはないとカーマインが言う。
 ゆったりと流れていく岸辺の景色。小鳥のさえずり。水面に零れ落ちる花びら。ゆったりと流れていく時間。
「おまえが何も覚えてなくてもかまわない。想い出なんて、これからいくらでも作れるんだから」
 カーマインは優しい眼差しでウィスタリアを見つめて言った。

 さてそんな感じにのんびりと過ごすサマーグリーンだったが、もちろんウィスタリアは情報収集を諦めてはいなかった。しかし、城の通いの使用人や畑仕事や山仕事に行く村人を呼び止めて、マゼンタのことを尋ねてみるのだが、誰もが彼女についてはよく知らないと話したがらなかった。お嬢さんに話すことではないと思っているのだろうか。せめて村に彼女の家族が残っているのなら会ってみたいのだが。
 ウィスタリアは、今日は城に雑用に来てくれている、年の近い16、7のお喋りな少女に尋ねてみた。
「その頃あたし小さかったけどなあ。でもお城の坊ちゃんとお嬢ちゃんが、凄い美人のメイドさんと一緒に、森や湖に遊びに行ってたのは覚えてるよ。やっぱり街から来たメイドさんは垢抜けてるよねって、皆で言ってたんだ」
「街から来たって? マゼンタはこの村の出身じゃないの?」
 少女は違うと答えた。あんな美人は村にいないと答えた。それから彼女は、マゼンタのことはそれ以上知らなかったが、知っていることを色々教えてくれた。ウィスタリアの母カメリアが死んだのは、表向きは病死だが、実は子供を攫われて錯乱して、執事の妻の目の前で湖に身を投げたのだとか、カーマインが狼に咬まれたのは人食い狼をきちんと仕留め損ねた自分の責任だと、猟師の親子が自殺したことなど。もちろん当時小さかった彼女が、親達から聞いたことだが。
 それにしてもマゼンタがこの村の出身じゃなかったなんて。村人達がよく知らないと言ったのは隠してるんじゃなくて本当に知らなかったからなのか……。それならマゼンタは一体どこに住んでいたの?
 帰りの汽車で急に無口になってしまったウィスタリアを、カーマインやシアンが疲れたのかと気遣う。兄はマゼンタのことを嫌っていた。ウィスタリアは何度も兄に聞いてみようと思いながらも、なかなか言い出せなかった。

 ━━ part8 隠された事実

 しかしそのきっかけはすぐにやってきた。街に帰って数日。ウィスタリアは兄の書斎に呼ばれた。
「サマーグリーンの村で、マゼンタのことを聞いて回ってたって?」
 机の上に手紙がある。老執事から連絡があったのだと言う。アッシュグレイ家に忠実そうな夫婦だった。村人かあのお喋り少女から聞いたのだろう。全てきちんと報告しているのだろう。一体何の為にそんなことをしたのだとカーマインが尋ねる。ウィスタリアは、マゼンタが死ぬ前に息子に伝えてと遺言を残したので、息子を探し出したかったのだと言った。
「遺言? 何だそれは?」
「それは……本人に言います」
 ウィスタリアはマゼンタを憎んでいる兄には、何となく言いたくなかった。また何か嘲笑われるような気がしたのだ。
「それで、兄様……」
 とウィスタリアは兄を正面から見て問い質す。
「マゼンタって一体どこの人なの? この屋敷で働いていたメイドでもないし、サマーグリーンの村で雇ったメイドでもないなんて?」
「……」
 カーマインは少し眉をしかめながら不愉快そうに言った。
「マゼンタはサマーグリーンに行く直前に、父がどこからか連れてきた女だ。どうして今さらあの女を連れてきたのか、もう縁を切ったのではなかったのかと、母が父に文句を言っていた。それからおまえが攫われた後で、みんなあなたのせいだと父を責めていた。どういう意味か勝手に推測してくれればいい。もういいだろう。これ以上あんな女の話などしたくない」
 ウィスタリアは驚いて黙り込んだ。それは……マゼンタは父の愛人だったということ? ものも言わずただ兄の顔を見つめているウィスタリアに、カーマインはふっと瞳を和らげる。
「悪かった。おまえには親同然だったな。大事にしてもらったんだよな」
 ウィスタリアの肩にそっと手を置き、彼女の息子のことは僕の方で調べてやろうと言った。

「やれやれ死んでも厄介な女だよ」
 ウィスタリアを下がらせてカーマインが呟く。
「カーマイン様……」シアンが咎める眼差しを向ける。それからふっと後ろめたそうに眼を伏せていった。
「しかし……よろしかったのですか? あんな話をして」
「ああでも言わなきゃ納得しないだろ。いいさ、男の浮気なら甲斐性だ」


 ウィスタリアが暮らしていた街の、場末の酒場。夜の帳が下りた時が、この店の一日の始まり。下町の酒場は今日も、仕事を終えた男たちや陽気な女達で賑わっていた。アンバー医師に酒を注ぎながら女が言った。
「それじゃ、バイオレットってば貴族のおうちに引き取られたんだ」
「ああ、わしの聞いたところによると元気で暮らしてるらしい」
「知らないうちにアパートが引き払われてたから心配してたんだ。じゃあバイオレットは今貴族のお嬢さんって言うわけ? マゼンタの娘じゃなかったの? マゼンタもあんな死に方するなんてねえ、可哀想に……。ああそうだ、あの日ドサクサに紛れて、隣のスカーレットのうちに泥棒が入ったらしいよ」
「泥棒?」
 アンバーが聞き返す。隣に人影を見た気がしたが、あれなのか。
「おう、ちょっとあんた達よぉ」側で聞いていたやくざっぽい男が二人に尋ねる。
「マゼンタっていうのは、あの、アパートから落ちて死んだ女のことか? それでその娘はどこの貴族に引き取られたんだ?」
 アンバーが知らないと答えると、男はちっと肩をすくめて出て行った。今のは誰だいとアンバーが女に聞く。
「手癖の悪いインディゴさ。しばらくくらい込んでたと聞いてたけど、いつ出てきたんだろうね」
 薄汚れた路地を歩きながら、インディゴは考えていた。あの日、泥棒に入った部屋の隣から聞こえた会話。あたしからあの子を取り上げようっていうのかい! 女の怒鳴り声。あれはきっと、娘を引き取りに来たと言う奴らと話していたに違いない。だとしたら、あの女の言ったことはスキャンダルだぞ。やつらを探し出して威しつければ、金を巻き上げてやれるかもしれない。インディゴは一人ほくそ笑んだ。


 青い月の光が開いた窓から差し込んでいる。窓際のベッドで眠る少年は悪夢に捉まっていた。
 女が開き直ったように叫んでいる。
『ああ、確かにあたしはろくでなしさ。だけどあんたもあたしの血を引いた息子だと』
 …………黙れ!…………
『ああ、もういいよ、どうだって! どうせ前から死のうと思ってたんだから!』
 …………やめろ!…………
 少年は弾かれたように飛び起きた。何かを捉まえようとするように差し出した手が空を掻き、少年はそのままシーツにくるまって膝を抱く。押し潰されそうな想いに胸を詰まらせて唇を噛んだ。

 ウィスタリアはカーテンを開けて夜空を見上げている。昼間聞いた話が頭から離れず、なかなか眠れなかった。
 マゼンタは父の愛人だった。そんな女に子供を奪われたら、母が気がおかしくなって自殺したのも当然だろう。どうしてマゼンタはそんなことをしたのだろうか。
 ウィスタリアはマゼンタのことを思い出す。マゼンタはああいう仕事をしていながら、特定の男の人と仲良くなることはなかった。むしろ男嫌いな感じにも見えた。未だに愛人だった父のことを忘れられなかったのだろうか? それとも憎んでいたのだろうか?
 兄は幼い頃、マゼンタに懐いていたのかもしれない。だから裏切られたと一層憎しみが募るのかもしれない。おまえは大事にしてもらったんだよなと言った兄の眼は、少し悲しげで淋しげだった。私にはマゼンタが母だった。けれど兄は母を亡くして、ぬいぐるみを抱いてひとりぼっちで眠っていたのかもしれない。
 だけど兄の側には父がいた。私は4歳の時以来、母だけでなく父にも二度と会うことが出来なくなってしまったのだ。攫われてしまったばかりに。ウィスタリアの中に、大好きだったマゼンタを憎む気持ちが生まれ、どうしていいか判らなくなる。
 夜の中に花の匂いが香っている。あれこれ思い悩んで眠れないウィスタリアは庭に出た。離れのシアンの部屋にはまだ灯りが灯っていた。夜学から帰ってきて勉強しているのだろう。シアンに会いたいと思った。けれど部屋に行くには遅すぎる時間。そっと窓に近づきかけて、ウィスタリアははっと立ち止まる。向こうの茂みに白い影が見えたのだ。幽霊かと一瞬思ったが、それは薄手のガウンを羽織ってふらふらと歩いてきた兄の姿だった。まるで羽根を失くした妖精のように頼りなくみえる。いつもの兄と雰囲気が違うのはうつろな瞳のせい?
 カーマインはシアンの部屋のドアをノックする。そして現われたシアンに倒れこむようにその胸に顔を埋め、すすり泣くように囁いた。
「僕が殺した……」
「……あなたのせいじゃありません」
 何の話か承知のように静かに答えるシアン。
 カーマインは顔を上げ、シアンを見つめると、切なく掠れた声ですがるように言った。
「シアン……僕を抱け……」
 二人が部屋の中に消え、忍びやかに灯りが消された。ウィスタリアは暗い窓を見つめて呆然と立ち竦んでいた。

 ━━ part9 告白

 カーテンを引き忘れた窓から、差し込む朝日に、ウィスタリアは目を覚ました。驚きの余り、どうやって部屋に戻って眠ったのかさえ覚えていなかった。どんな顔をして兄に会えばいいのか、兄はどんな顔をして現われるのか、そんなことを考えながら食堂に向かう。そこにはいつもと変わらない兄の姿があった。ナイフとフォークを取り、言葉をかわしながら兄の顔を見る。
 あれは夢だったのだろうか?
 それともあれは兄にとっていつものことなので、普段と様子が変わらないのか?
 え、ちょっと……いつものこと……って……!
 そんな自分の考えに動揺して、ウィスタリアはグラスをひっくり返した。
「大丈夫ですか?」
 シアンがすかさずテーブルを拭き、おしぼりを差し出す。ウィスタリアはさらにうろたえて、思わずそれを振り払った。唖然としているシアン。ウィスタリアは慌てて
「あ、ごめんなさい。え……と私、着替えてきます」と言い繕い、食堂を飛び出した。
 一連のウィスタリアの行動に、カーマインとシアンは不審気に顔を見合わせる。
「昨日あんな話をするんじゃなかったかな」
 カーマインは、昨日ウィスタリアに、マゼンタが父の愛人だったとほのめかしたことが原因だと思った。
「シアン、おまえ今日は休みをやる。ウィスタリアの様子を見てやってくれ」

 ウィスタリアは自室の窓からぼんやりと庭を見下ろしていた。
 ドアが軽くノックされ、シアンがお茶を運んできた。珍しい銘柄のお茶を頂いたので、とテーブルに並べる。アッシュグレイ家は貿易の事業もしているので、変わったものもよく手に入るそうだ。今朝、余りお召し上がりにならなかったようなのでと、クッキーも用意していた。ウィスタリアはありがとうと頂きながら、もの問いたげにシアンを見る。
「今日もお休み?」
「臨時休暇を頂きました。ウィスタリア様の様子を見てやってくれと言われて。カーマイン様は気に病んでおいででした。あんな話を聞かせるのではなかったと」
「えっ! 兄様はわざと私に聞かせたの?『シアン、僕を抱け』って」
「え?」一瞬何を言われたのかとシアンは目をぱちくりさせた。
「マゼンタさまが父の愛人だったということで、悩んでおられたのでは……」
 シアンの言葉に、ウィスタリアは自分が勘違いしていたことに気づいた。しかし放ってしまった言葉はもう取り消せない。ウィスタリアは思い切って切り出す。
「昨日、夜中に見たの。兄様がシアンの部屋に入っていくところを……」
 ウィスタリアは緊張しながら答えを待つ。
「弱りましたね。見られてらっしゃんたんですか」
 シアンはまいったなぁという感じに、額を押さえながら答えた。
「ええ、そうなんですよ。抱っこ抱っこって、いつまでも小さい子供の頃の習慣が抜けないんです」
 思わずじまじとシアンの顔を見つめるウィスタリアに、シアンは説明した。
「大怪我を負って、更に妹を攫われたり、母が自殺したりして、私がアッシュグレイ家で仕え始めた頃のカーマイン様は、かなり精神的に不安定でした……」
 怖い夢を見て怯えるカーマインを安心させるために、シアンは母親のように抱きしめてやりながら添い寝した。カーマインにとってシアンは、精神安定剤のようなものだった。少し大きくなりウサギのぬいぐるみで代用できるようになったが、未だに悪夢を見た時などは母親の腕を求めるように、シアンを頼ってくるのだという。
「しかし本当にそろそろ卒業して貰わないと困りますね。ウィスタリア様にも妙な誤解をされてしまったみたいで」苦笑しながらシアンがため息をつく。
「あ、あたしは別に!」
 下町娘だから下世話な想像をしたとシアンに思われたんじゃないかと、ウィスタリアはあせって否定する。しかし確かにウィスタリアは、兄とシアンが恋人同士じゃないかと疑っていた。でもシアンの説明によるとそういう関係ではないらしい。子供のようにシアンに甘える兄というのも、それはそれでかなり衝撃の事実だが、自分のとんでもない想像よりはましだ。ウィスタリアはシアンの言葉に安心した。
 でも、でも兄が最初にシアンに言ったあの言葉は……!?
「それで兄様は誰かを殺したの?」
「誰も殺してません」
 シアンはきっぱりとウィスタリアに言う。
「でも私は確かに聞いたわ……」
 僕が殺したと言った兄の辛そうな声を覚えている。
「シアン、ねえ本当のことを話して」
 ウィスタリアの真剣な追求にシアンは眼を伏せ、ためらいながらぽつりと呟いた。
「カーマイン様は……叔父上に虐待されていました」

 その始まりは父の遺言状。アッシュグレイ家の前当主は、遺産のすべてをカーマインに遺し、叔父のダークにはびた一文も与えなかった。しかもダークが遺産目的にカーマインを殺すのを警戒して、ご丁寧にもカーマインが死んだら遺産は慈善団体に寄付するようにとの項目も付けていた。
 そこで叔父ダークは、カーマインの後見人になることを申し出た。けれどカーマインも彼には余りいい感情を持っていなかったので断った。すると叔父は報復に出たのだ。
 ダークはならず者達と繋がりを持っていた。そしてカーマインを「断ればおまえの周りに居る者たちを殺すぞ」と言って脅したのだ。最初は信じなかったカーマインだが、しかし、使用人や友人達が次々と怪我をした。それは叔父の仕業と知らなければ、事故とも思えるような巧妙なもので、カーマインはとうとう叔父を後見人にすることを承知した。
 けれど図に乗った叔父は、逆らえないのをいいことにカーマインを虐待し始めたのだ。カーマインが、昔裏切られた女に似ているから、というのが最大の要因だった。
「うかつにも私はそのことにしばらく気づきませんでした。少し他人行儀になったと思いましたが、当主として自立しつつあるのだと思っていました」
 それがある日、ふとしたきっかけで彼の傷に気がついて問い詰めたのだ。
 ――カーマイン様、一体どうしてこんなことに……
 ――僕のせいで友人や屋敷のものたちを危険な目にあわせるわけにいかないから。
 ――だからといって……一言打ち明けて下されば……
 ――余計な心配もさせたくはなかったんだ。
 ―― シアン大丈夫だよ僕は。
 ―― 僕だってこのままあいつの思い通りにさせておかないさ。
 カーマインは策を練り、罠を張り、叔父とならず者を仲違いさせることに成功した。ならず者に、ダークに裏切られたと誤解させて、彼を狙わせたのだ。そしてダークは……。
「正確に言うと彼の生死は不明です。外国に逃げおおせたのか、ならず者に殺されたのか。殺されてしまえばいいと思っていた相手でも、流石に身内のことなので心が痛むのでしょう。時々夢に見てうなされるようです。自分が叔父を殺させるように仕向けたことを悔やんでおられるのかもしれません。
 今でさえ屋敷の者達はカーマイン様の受けた暴力も、ダーク様の本性も知りません。成り上がり者と揶揄されるアッシュグレイ家に、スキャンダルはないに越したことはないと、叔父の行状を公にしませんでしたから」
 ウィスタリアは思う。
 だからメイド達はカーマインと叔父は仲がいいと思っていたのか。そして……
『僕が殺した』
『あなたのせいではありません』
「……あの言葉はそういうことだったのね」
 いつか見た背中の傷も、狼のものだけではなくて、叔父につけられたものもあったのだろう。貴族として何不自由なく生活していると思っていた兄にも、そんな過去があったのだ。そしてそのことは今も、カーマインの心に傷を残しているのだ。ウィスタリアは兄を痛ましく思った。
 素直に納得しているウィスタリアに、シアンは多少のうしろめたさを感じた。
 本当は昨日のカーマイン様の夢はおそらくマゼンタ様のこと。
 あの日、あの日私達はあの古いアパートで……。

「シアンは医者になるのよね」
 ウィスタリアの言葉に、シアンははっと現実に引き戻された。
「はい。私の使用人としての契約はカーマイン様が二十歳になるまでですから。その後は父のように田舎に行って開業するつもりです」
「もし兄様がずっとシアンにここにいろと言ったら?」
「それならずっとカーマイン様お一人の主治医です」
「シアン、兄様の言いなりになることはないのよ。階級制度なんて気にすることないんだから」
「もちろんです。これは私の意思です」
「だって……それでいいの? ずっと兄様の使用人のままでいいの? ねえ、シアンは貴族をどう思ってるの? 生まれながらの特権階級だなんて、不公平だとは思わないの?」
「貴族には貴族の責務があります。カーマイン様もそのための義務を果たそうと、あれこれ苦労もなさってます。私はそれをお助けするため、カーマイン様が望まれるならいつまでもお側にいるつもりです。でもカーマイン様もいつまでも子供じゃありません。二十歳になる前に私をお払い箱にするかもしれませんよ」シアンは穏やかに笑いながら
「あなたという人も現われましたしね。あなたを迎えてからカーマイン様はとても楽しそうです」と言った。
「私も兄様のこと大好きよ。ちょっと傲慢なところもあるけど」
 その言葉にシアンは苦笑する。シアンの貴族についての見解は、ウィスタリアを完全に納得させるものではなかったけど、シアンがとても兄を大事に思っていることはわかった。
 それから二人はしばらく談笑していたが、あ、もうこんな時間、大変これから語学のレッスンがあったんだ、とウィスタリアは慌てて本やペンを抱えるとシアンに断り、部屋を飛び出していった。シアンは想いに耽りながら部屋を片付ける。
 叔父のことを勝手に話してしまってよかったのだろうか。カーマイン様はどう思われるだろう。それにあんな話をして、更にウィスタリア様の悩みを増やしてしまったのではないのだろうか。
 私は自分の心を軽くしたかったのかもしれないとシアンは思った。叔父はメイド達が思ってるようないい人じゃなかったと、ウィスタリア様にだけでも知らせておきたかったのだと。
 ティーセットを持ってドアを閉めたところに、ウィスタリアが戻ってきた。
「忘れ物ですか?」
「ええ、ちょっと言い忘れたことが。あのね、シアンが医者になって田舎に行く時、私もついて行きたいの。いいでしょう?私、シアンの側にいたいから」
 笑顔でそれだけ言うと、ウィスタリアはまた駆けていった。ちょっと勝手なことを言ってしまったかな? とウィスタリアは思う。でも私はシアンを助けたい、シアンの力になりたい、と思うからと、自分に言い訳する。その淡い想いを、まだ恋と自覚していなかったからこそ、言えた言葉なのかもしれない。
 シアンはちょっと面食らった顔でウィスタリアを見送った。今の言葉の意味はどう捉えればいいのか。けれどすぐに温かな気持ちが沸きあがってきた。
 ウィスタリアがこの家に戻ってくれて嬉しいのは、カーマインだけじゃないのだと思った。

 ━━ part10 芝居

 ウィスタリアの気持ちを引き立たせようと思ったからか、カーマインは翌日、彼女を芝居に誘った。二人で馬車に乗り、劇場に出かける。劇場は賑やかな大通りにあった。たくさんの店が軒を並べている。花屋、帽子屋、本屋、百貨店、レストラン、オープンカフェや数々の屋台。行きかう馬車。さんざめく人々。馬車から降りたウィスタリアは華やかな少女達の集団に呼び止められた。
「バイオレットじゃない! きゃあっ、久しぶり!」
「いきなり学校やめちゃうから、びっくりしちゃったわよ」
「ねえねえ、あなた貴族のお兄さんに引き取られたって本当?!」
 コバルト女学院時代の友人達である。休暇でこの街に遊びに来たのだという。ええ、そうなの、今日はカーマイン兄様とお芝居を見に来たのとウィスタリアが答えて、そこで初めて少女達は側にいる少年に気がついた。何故か顔を赤らめる少女達にカーマインは優雅に微笑みながら、つもる話もあるだろうと気を使い、
「まだ開演まで半時間あるから、その辺でお茶でも飲んでくればいい。僕は先に行ってるから」とウィスタリアに言い、席は聞いているね、二階の隅のボックス席だと自分の懐中時計を渡した。
「ありがとう」
 兄にうっとり見とれる級友達を横目に、本当に兄は表では人当たりがいいんだからとウィスタリアは思った。
 ひとしきり彼女達とお喋りして、ウィスタリアは劇場に戻った。所定のボックス席へと向かう。区切りのカーテンを開け入ろうとすると、音もなく後をつけてきていた男が続いて潜り込んだ。ウィスタリアが驚いて小さな悲鳴を上げる。身なりのみすぼらしい男である。
「誰だ?! どうやって潜り込んだ? 人を呼ぶぞ」カーマインが睨みつけると男は
「ふ、職業柄忍び込むのはお手の物でね。さっき表で話してるのを聞いたが、あんた、最近小娘を引き取ったっていう貴族なんだろう。あんたに話があるんだ」ずるそうに声を潜めながら言った。
「窓から落ちて死んだ女のことで、俺はあんたの秘密を握ってるんだぜ。どうだ、お互いの利益になるようにゆっくり話し合いをしないか? 後でローズガーデンに来なよ、いいな、待ってるぜ」
 いやな笑いを浮かべながら一方的にそういうと、男は素早く立ち去って行った。
「兄様、今の人、何を言っていたの?」ウィスタリアが不安そうにカーマインに尋ねる。
「知るもんか。何か勘違いでもしてるんだろ。放っておけばいい」
 カーマインはあっさりと切り捨てると、もうそのことは忘れたように、芝居についての解説などを話し始める。お芝居は喜劇だった。少女が羊番に男装して、少女に恋する男が本人と知らず羊番相手に告白の稽古をするという話だ。死んだ母がこの芝居が好きだったらしいなどと言った。ウィスタリアはさっきの男のことが気になって、カーマインの話も芝居の内容も殆ど頭に入らなかった。
 やがて芝居は終わり劇場を出ると、カーマインはウィスタリアを馬車に乗り込ませる。そして馭者にちゃんと屋敷まで送り届けるように念を押した。
「兄様は?」
「僕は伯爵から夜会に招待されてる」とカーマイン。
 本当はさっき男が言っていた公園にいくのじゃないのかとの疑問を、ウィスタリアが口にする間もなく、馬車は走り出した。どうしても気になったウィスタリアは、馭者にローズガーデンに向かうように頼んだ。真っ直ぐ帰るよう言われているという馭者に、先ほどのクラスメートともう一度ローズガーデンで会う約束をしてしまったのだと言い訳して、馬車を引き返してもらった。ローズガーデンは、劇場からそれほど離れていない場所にある大きな公園だった。
 もう夕刻だから、なるべく早く戻って下さいよとの、馭者の言葉に頷き、公園に入る。ローズガーデンには噴水や人工の滝が園内に造られ、色とりどりの花の咲き乱れる花壇や温室、木立に囲まれた散歩道などがあった。夕闇迫る小道をパラソルを差した婦人達、仲のよい親子連れ、ステッキを持った紳士達が散策している。
 ウィスタリアは広い園内を探し回り、ひと気のない一角で、ベンチに寝そべっている例の男を見つけた。一人のようだ。そっと近づき、話しかけようか躊躇しているうちに、カーマインが現われた。人を探している様子だった。やっぱり兄は男に会いに来たのだ。ウィスタリアはとっさに、背後にある、花鉢を乗せた大きな雛壇になった飾り段の中に飛び込んだ。段全体が蔦に覆われていたので、広がったスカートを押さえながら、蔦を掻き分けてその中に潜り込む。彼女のモスグリーンの衣装は薄暗がりの中に静かに溶けた。
 男が近づいてくるカーマインに気づき、起き上がると薄く笑う。
「やっぱり来たな。俺が何を知ってるのか心配か?」
「心当たりがないから来たんだ。僕の何を知ってるって?」
「ふん、とぼけやがって。俺は女が落ちた時に隣の部屋で、お前と女が話してるのを聞いたんだぜ。男の声は黙れとやめろしか聞き取れなかったが、女の怒鳴り声はよく聞こえたぜ。『あんたも父親と同じ様にあたしから大事なものを取り上げるんだね!』『確かにあたしはろくでなしさ。だけどあんたもあたしの血を引いた息子だ』ってな。貴族の坊ちゃんが酒場女の息子だなんて、世間に知られたらとんでもないスキャンダルだよな。まあ、事と次第によっちゃ、黙っててやってもいいんだけどよ、で、幾ら出す?」男は下卑た笑いを見せて手を差し出した。
「何を言い出すかと思ったら馬鹿馬鹿しい」
 カーマインは呆れた風に肩をすくめた。
 その女が話してた相手は僕じゃない。僕はそんな所に行ったことはないし、第一その頃の僕はサマーグリーンにいたからね、と男の言葉を一蹴する。男は確信に満ちた眼でわめいた。
「嘘だ!顔は見なかったがあれはおまえの声だ! それに引き取りに来た相手なら、おまえに決まってるじゃねえか!」
「貴族の僕がそんな薄汚い下町に行くとでも? それに僕達兄妹はそんな女とは無関係だ。僕の妹は中産階級の家の養女になっていたのだから。根も葉もない噂を思い込みで広めないで貰いたいね。まあ、おまえのような奴の話など誰も信じないと思うけどな」
「スキャンダルになってもいいのか?」
「事実無根の話など、スキャンダルにすらなるものか。お前一人の空回りさ」
 自信たっぷりに平然と言い切る。
 男は悔しそうに睨みつけると
「覚えてろよ、今に後悔させてやる」
 捨て台詞を残すと足音高く立ち去った。
 男を見送りカーマインは疲れたようにベンチに腰掛けた。
 あっさり引き下がったところを見ると、自分の記憶以上の確実な証拠を男は持っていないようだ。何をどこまで知っているのか心配だったので、先に手の内を明かすような奴で助かったと思った。
 ……それにしても、まさかあの時、隣の部屋に人がいたなんて。
 ……あの日、マゼンタは……。
 カーマインは片手で顔を覆う。
 手を伸ばす間もなく落ちていった女。
 カーマインの口から小さな呟きが漏れる。
「畜生……」
 彼の脳裏に忌まわしい男の嘲笑が響く。
 ――うぶな娘っこから、うんと年上のマダムまで手玉かよ。たいしたものだな、その歳で。見事なお手並みだ。お前は確かにあの女の息子だよ。誰にでも腰を振るあの淫らな女と同じだ。
「違う……」
 ――あんたもあたしの血を引いた息子だと……
「違う……!」
 僕の母はあんな女じゃない。父ばかりか、叔父ともサマーグリーンの猟師の息子とも関係を持ったあんな女じゃない。
 僕の母は湖に飛び込んで自殺した弱くて儚い女だ。
「母なものか!あんな女……!」
 カーマインの口から苦しげな呟きが漏れる。
 ウィスタリアは凍りついたように背後の暗闇にいた。

「よう、どうした?」
 いきなり声をかけられて、物思いに沈んでいたカーマインは驚いて顔を上げた。彼の友人が立っていた。
「なんだ、冴えない顔してるじゃないか。女にでも振られたのか? おまえがまさかな。何かあったのか?」
 心配そうに聞いてくる。別にと答え、立ち上がるカーマインに、友人は肩を叩いて言った。
「なあ、おい、久しぶりに呑みにいこうぜ」
「いや、これから伯爵の夜会に……」そう言いながら懐を探るカーマイン。懐中時計がない。そうだ、まだウィスタリアに渡したままだった。どうした? 時計か? 心配すんな、俺が持ってる、まだ時間に余裕はあるんだろと友人。
「そうだな……」
 こんな気分のまま嫌味な伯爵になど会いたくなかった。
 軽く一杯だけなら大丈夫だろうと、カーマインは友人に誘われるまま歩き出した。

 馬車に戻ってきたウィスタリアに馭者が声をかける。
「お友達にお会いできましたか?」
「ええ……」
 心ここにあらずなウィスタリアに馭者は少し首を傾げながら、馬車はアッシュグレイ家に戻った。
 その夜、ウィスタリアはカーマインを待ち続けたが、兄はとうとう戻ってこなかった。

 ━━ part11 懐中時計

 翌朝、ウィスタリアはシアンから、カーマインが友人のうちに泊まったと聞いた。
「伯爵の夜会に行きそびれてしまったので、謝りに寄ってくるとの電話がありました。約束を破るなんていうことは普段は余りなさらない方なんですが……何かあったんでしょうかねえ?」と少し心配そうにしながら、カーマインの代わりに二、三の仕事を片付けに出かけていった。
 ウィスタリアはサンルームでぼんやりと庭を眺める。昨日、思わず盗み聞いてしまった兄と怪しげな男とのやりとりについて考えていた。兄は否定していたが、その後の兄の様子から見て、男の言ったことは本当のように思えた。サマーグリーンにいたというのは嘘だ。兄は随分サマーグリーンに来ていないと話していたから。あの忠実な老執事なら、ためらいなく虚偽の証言をすると読んでのとっさの嘘だ。
 兄はあの日マゼンタに会いに行っていた。そしてそこで何が起きたのかわからないが、マゼンタが窓から飛び降りたのだ。ふっと兄の『僕が殺した』の言葉が蘇る。
 ……まさか、ううん、まさかそんなはずない。
 ともかく、
 ウィスタリアは思う。
 あの時、男が聞いた言葉が真実なら、
 兄がマゼンタの息子だったのだ。
 母カメリアはサマーグリーンで兄を産んだという。もしかするとそれは死産で、ちょうど同じ頃生まれた愛人のマゼンタの子が身代わりに連れてこられたのかもしれない。身体の弱いカメリアがこの先子供を産めないかもしれないと危ぶんで。
 マゼンタは子供を奪われたことを密かに恨んで機会を窺っていた。そして復讐のために私を攫った。マゼンタは自分の息子も連れ出すつもりだったはずが、失敗したのかもしれない。だから最期にあんな遺言を残したのだ。
『一緒にいてあげられなくてごめんね。あんたを捨てたわけじゃないの』
 ウィスタリアはこの言葉を兄に伝えなくてはと思っていた。多分兄は自分が息子だと認めないだろうけど、息子が見つかったら伝えてという伝言の形でもいい。兄がその言葉を聞いてどう思うかわからないが、とにかくマゼンタは息子のことを捨てたくて捨てたんじゃないということは伝えておきたかった。
 ウィスタリアは兄の時計を柔らかい布で磨きながら、そんなことを考えていた。うっかり借りたままのこの時計を返す時にでも話そうと思っていた。きちんと綺麗にして返さなきゃと、内蓋に嵌った鏡も磨く。力を込めると鏡の部分が滑るように動いた。
「え?」
 どうやら鏡は外せるようになっているらしい。ネジを回すようにして取り出すと、その下に写真が挟み込んであった。美しい若い女の写真。これは……
「おや、カメリア奥様じゃありませんか」
 お茶を運んできた年配のメイドが驚く。
「え? カメリア? この人がカメリア?」
「ええ、そうですよ。奥様が亡くなった時に、旦那様が写真も肖像画も全部処分なさってしまったのに、坊ちゃまはどこで手に入れなさったのでしょうね」
 きっとどこかで見つけて大事にしまってらっしゃったのですねと、ひとり頷いた。
「うそ……だって、そんな! これは……」
 ウィスタリアは混乱した。彼女がカメリアなら、兄は、私は……。
 兄様に聞かないと。嘘や誤魔化しでない本当のことを聞かないと……。ウィスタリアは強く思った。でも兄はちゃんと説明してくれるのだろうか。マゼンタに会っていたのを黙っていたことも含めて、今までの兄の言動は嘘だらけだ。そしてシアンも。
 唐突にウィスタリアは思いついた。
 校長先生!
 校長先生ならマゼンタの幼馴染だったのだから、何かを知っているかもしれない。
 ウィスタリアは勢いよく立ち上がると、出かけてくるとメイドに言い残して屋敷を飛び出した。辻馬車と汽車を乗り継いで、ウィスタリアは校長のいるコバルト女学院へと向かった。

 ━━ part12 記憶の欠片

 インディゴは駅の雑踏にいた。簡単に脅し取れると思った相手にはねつけられ、むしゃくしゃしていた。
 ゴシップ紙にこのネタを売りつけにいったが、少年の言うとおり確かな証拠があるわけでもない話なので、相手にしてもらえなかった。どうしたものかと考えていると、彼の視界に件の少年の姿が入った。一体どこへ行くのか。インディゴは彼を追って列車に乗った。
 ふた駅先の大きな街で列車を降りた少年は、辻馬車を拾い、行き先を告げる。コバルト女学院の言葉を聞いたインディゴは、その方角へ向かう乗合馬車に乗った。辻馬車で大っぴらに追跡するのは流石にばれると思ったので。
 乗合馬車を降りて女学院への山道を登る。見晴らしのよい高台に建つコバルト女学院が見える。さっきの馬車がそこに止まっていた。馭者が人待ち顔で木陰で煙草をくゆらせている。何の為に少年がここに来たのかは知らない。しかしインディゴは昨日の腹いせをしてやろうと考えた。こっそりと馬車に近づき車輪に細工をする。そして背後の木立に隠れ、様子を伺った。

 休暇中でひっそりとした女学院。応接室でウィスタリアは校長から話を聞いていた。彼女が校長に懐中時計の写真を見せて問い質した結果、黙っていてすまなかったと全てを打ち明けてくれたのだ。半ば予想していたこととはいえ、ウィスタリアは驚いていた。そこにノックの音。アッシュグレイ家の当主の方がという案内の声も終わらぬうちにカーマインが入ってきた。
「兄様!どうしてここが?」
「おまえが時計の写真を見て飛び出して行ったと聞いて、多分ここだと思った。馭者の話では昨日芝居の後、ローズガーデンにも寄ったと言った……聞いたのか?」
「ええそうよ」ウィスタリアは真っ直ぐに兄を見詰めて言った。
「兄様は本当はあの日、マゼンタに会っていたんでしょう? いいえ、マゼンタじゃない。マゼンタなんて子守女は存在しなかった。それは彼女が名乗っていた偽名。校長先生から聞いたわ。私を連れて逃げたのは母カメリア、校長先生の幼馴染で、アッシュグレイ家に嫁いだ貴族の娘、私と兄様の実の母、カメリアだったのでしょう」
 カーマインは苦い顔をして校長を睨んだ。
「ウィスタリアには言うなと頼んであったはずだ。アッシュグレイ家に知らせるなとあの女から言われた時は、僕が見つけ出すまで黙っていたくせに。あの女の言うことは聞けても、僕の頼みは聞けないんだな」
「君が妹さんを探してるのを知りながら黙っていたのは悪かった。だから君の頼みを聞いてこの子を養女だということにしたし、葬儀の時もこの子に本当のことを教えなかった。しかし、所詮、隠しおおせることではない。……それにやはりこの子には話した方が……実の母親のことなのだから……」
 校長はすまなそうにしながらも真摯な目でカーマインを見つめる。確かにカメリアの写真を見てしまった彼女には、どんな誤魔化しも効かないだろう。カーマインは唇を噛む。ウィスタリアはカーマインを問い質した。
「何故? 何故、兄様も父様も母が死んだなんて言ったの? どうして……!」
「……とにかく帰ろう。後でゆっくり話してやる」
「でも!」
「本当だ。もう嘘はつかない」
 そう言ったカーマインの顔は、疲れたような、それでいて安堵したような色があった。ウィスタリアは大人しく彼の言葉に従う。
 ウィスタリアを連れて出て行こうとしたカーマインを校長が呼び止めた。
「君にひとつだけ言っておかなければならないことがある。カメリアは……」
「あの女の話など今は聞きたくない」
 カーマインは校長の言葉を鋭く遮った。そのままカーマインはウィスタリアを引っ張るようにして出て行った。
 戸口の処に佇み、校長は肩を落とす。
「私が……十八年前私がカメリアを裏切らなければ……」
 苦渋に満ちた声で校長は一人呟いた。

 動き出した馬車の中でウィスタリアは兄に尋ねた。
「あの日、どうして母に会いに行ったの? 母に何を言ったの? 何があったの? 教えて兄様……」
「……」
 話すと言いながらカーマインは硬い顔で黙り込む。ウィスタリアは不安になる。心の底で密かに恐れていた疑問をつい口にする。兄は母を嫌っていた。そして一昨夜の『僕が殺した』のセリフ。
「兄様……まさか兄様が母を突き落とした、なんてこと……」
「違う!」カーマインが弾かれたように否定する。しかし続けて力なく呟いた。
「…違う……いや、でも……僕が、僕が殺したのかも……」
 子供のように泣きそうな声で。
「兄様……?」
 兄に対する不信感を募らせていたウィスタリアだが、あの晩や今の様子を見て、兄が直接突き落としたなんてことはないと思った。だとしても母は兄の目の前で死んだのだ。何があったにしろ、平気でいられるわけがないだろう。私は兄に残酷なことを聞こうとしているのかもしれないと、ウィスタリアは思った。
 突然馬車が激しく揺れた。この道はこんなに悪路だったか? と不審がるカーマイン。ウィスタリアは窓の外を覗く。その時、馬車が更に激しく揺れた。弾みで掛け金が外れ、ドアが開き、傾いた馬車からウィスタリアが転げ落ちた。
「ウィスタリア!」
 慌ててカーマインが身を乗り出す。ウィスタリアを抱きかかえるようにして、そのまま一緒に転がり落ちる。全身で彼女を庇いながら草の斜面を滑り落ち、サンザシの茂みで止まった。仰向けに倒れ、怪我はないかとウィスタリアを見上げたカーマインは、横転した馬車から壊れた車輪や崩れた路肩の石や岩が降ってくるのを見た。咄嗟にウィスタリアの上に覆いかぶさる。カーマインの背中に崩れた岩や壊れた破片が激しく降り注いだ。
「兄様!」
 ウィスタリアを庇って、全身傷だらけのカーマイン。ウィスタリアは思い出した。十年前の出来事を。森の中で手負いの狼に遭遇した恐怖を。そして今のように狼から自分を庇って、血まみれになった6歳の兄の姿を。
「兄様!兄様!!」
 ウィスタリアは気を失った兄に、泣きながら必死で呼びかけた。

 ━━ part13 カーマインの心

 あの日、森の中で私たちは手負いの狼に遭遇した。私を庇って血まみれになった兄がどうなったのかと怯えながら、独りぼっちで部屋にいると母が来て、一緒にここを出よう、父の知らないどこか遠くで暮らそうと言った。兄様は? 兄様はどうなったの? 一緒じゃないの? と問うと、母は悲しそうに、兄は死んだ、狼に咬まれて死んだのだと言った。私のせいだと母は泣き崩れた。私は兄が死んだショックと、母がそのことに触れると悲しむことから、兄のことは心の奥に押し込めた。私は思い出ごと、兄についての記憶を一切、心の奥へと閉じ込めてしまっていたのだ。
 ウィスタリアはベッドに横たわった兄を見る。
 あの後、校長やシアンが駆けつけ、兄は病院へ運ばれた。怪我は酷かったが、幸い命にかかわる程ではないとの事だった。カーマインがうっすらと目を開く。
「兄様……」
 ウィスタリアがほっとしながら呼びかける。今の兄と、思い出の中の兄を重ねて呼びかける。私が医者になろうと思ったことの動機のひとつに、記憶の底に閉じ込めた、傷だらけの兄の姿もあったのかもしれないとウィスタリアは思った。

 カーマインがベッドから身を起こす。頭の包帯が痛々しい。ベッドの周りには校長やシアンも集まっていた。彼らはこれからウィスタリアに全ての真相を話すと言った。
「全ての責は私にあるのかもしれない」まず校長が口火を切った。

「私とカメリアは幼馴染だった。落ちぶれた貴族の娘カメリアと中産階級の息子。私達は将来の結婚を約束していた。しかしカメリアの美貌を見初めた資産家の貴族、アッシュグレイ家の当主が彼女に求婚したのだ。おりしもその時、私の父が急死して、私は進学を諦めねばならぬ窮乏に陥った。彼女の両親はもちろん貧乏青年より玉の輿結婚に乗り気で、彼女の意思は無視してその縁談を強引に勧めた。私達は駆け落ちを決意した。しかし私は土壇場で彼女を裏切ったのだ。私はアッシュグレイ氏に進学の学費援助を持ちかけられ、それと引きかえに彼女を諦めることを約束してしまったのだ」
 校長は苦渋に満ちた声で言った。
「駆け落ちしたとしてもその先どうすればいいのか。私にはカメリアを幸せにしてやる自信がなかった。色々と考えた結果、この方が彼女にとって幸せだと考えたのだ。しかし、私の裏切りのせいで彼女があんな風に変わってしまったのだとしたら……。今更言っても仕方のないことだが、私は間違っていたのかもしれない……」
 カーマインが俯き、呟いた。
「間違っていたのなら僕の父もだ。父はやり方を間違えた」
 父は本気で母を愛していた。どうしても手に入れたかったので金にものをいわせ強引に結婚した。父は急ぎすぎてやり方を間違えたのだ。母は金で買われたとの想いからいつまでも心を許さず、父は誠意を尽くしたが、どうしても母の心を手に入れることは出来なかったのだと言う。
 投げやりになった母は夫の弟や家庭教師など色んな男たちと関係した。政略結婚が当たり前だった貴族社会において夫婦の浮気は暗黙の了解ともいえるが、父は母を名門貴族の名を目当てに娶ったわけではなく、愛した上での結婚だったから妻の浮気は許せなかった。父も次第に母から心が離れていった。
 それでも母は子供には一応の愛情を持っていたみたいだった。時々緑の目のことで疎んじられることもあったけど、機嫌のいいときはよく世話をして遊んでくれた。けれど母は気まぐれだった。くるくると気分が変わった。
 母は遊びだと言って、メイドのような質素な服装をして、僕と妹を野に連れ出した。いま思うとそれは男との逢引を見咎められたときのカムフラージュだったのだろう。城に勤めていない村人達は母を子守女だと思っていたらしいから。
 母は時々、僕に妹の子守をさせて、自分は一人でどこかへいってしまう時があった。そしてあの日。
 母のところに行きたいと言った妹を連れて、母を探し回り、湖の側のボート小屋で母を見つけた。母は猟師の息子と抱き合っていた。『こんなところへ来るなんて! 何を見ているの! あっちへ行って! あれと同じ目をして! 嫌な子!』
 母は僕達をよそへ行くよう追いやった。そして妹と二人で森へ分け入っていくうちに、手負いの狼に遭遇したのだ。
「僕が目を覚ましたとき、もう既に母も妹もいなかった。父は妹をメイドにさらわれて母が自殺したと言った。いなくなったメイドは数人いたが、父はどのメイドかはっきりしたことを言わなかった。でも本当はあの時メイドが数人いなくなっていたのは、母の失踪の責任を取らせて首にしたからだった」
「どうして父は、私をさらったのが母だと言わないで、死んだなんて言ったの?」ウィスタリアが尋ねる。
「父は妻に逃げられたという不名誉な事実を秘匿したかったんだ。とんだスキャンダルだからね。貴族の間では浮気は暗黙の了解、裏でどんなに遊んでいようと、表向き仲のよい夫婦を演じていればそれで許されるところがあったとはいえ、表立って妻が家出するのはとんでもないスキャンダルで物笑いの種だ。男の浮気なら甲斐性ともいえなくもないが、妻に裏切られ逃げられたと知れたら世間に侮られる。事業の取引相手からの信用もなくすかもしれない。だから彼は愛児を攫われ、妻に死なれた、悲劇的な夫だということにしておきたかった。世間体を繕うために妻は病死したことにした。
 僕も母は死んだという父の言葉を信じ込んでいた。あの頃の僕は両親がうまくいってないことに気づかなかったし、なぜ父そっくりの目の色を母が嫌ったのかもわかってなかった。ずっと、自分の母は妹を攫われたせいで自殺したのだと思ってた。でも三年前、父が死の間際に僕に告白したんだ。本当は、母は妹を連れて猟師の息子と駆け落ちしたのだと。猟師の息子は罪の意識に堪えかねてほどなく自殺したが、母はそのまま娘を連れて姿をくらませたのだと」
 カーマインは心に呟く。
 父が二人を真剣に探さなかったのはウィスタリアがダークの子かもしれないと疑っていたから。ダークも父も同じ黒髪だったから。僕の目が父そっくりの緑じゃなかったら父は僕のことも疑ってたかもしれない。
 しかしこのことはウィスタリアには言えない秘密だった。
 カーマインは続ける。
「僕は信じられなかった。信じたくなかった。母がそんな女だったなんて。そして僕を捨て、妹一人だけを連れて出て行ったなんて……」
 ウィスタリアと校長が何か口をはさもうとしたが、カーマインは思いつめたように続けた。
「僕は、今までずっと死んだと思ってた母が、そんな女だったなんて信じたくなかった。確かに幼い頃の記憶を辿ってみると少しは思い当たることはあったけど、認めたくはなかった。父と母は愛し合っていたと思いたかった。だけど……」
 カーマインは言葉を切る。口に出来ない悔しい思い。叔父は僕が母に似ていると嘲笑ったのだ。
『おまえはあの女と同じだ。だれにでも媚を売るあの女と同じだ。あいつは俺と関係を持って俺に飽きたら今度は家庭教師や猟師の息子やら手当たり次第に抱かれてやがった』叔父に言われたその言葉があの日、母を追い詰めた。カーマインはそんな想いを押さえ込んで話を続ける。
「僕は父の死後、改めて母と妹を探した。そして母の居所を知った僕は、質素な服を着てこっそりと母に会いに行った」
 カーマインは改めてあの日の会話を思い出した。

『僕がわからないのか?』
『あんたは!………』マゼンタは驚いて息を呑む。
『ふうん、覚えてたんだ。僕のことなんて忘れてしまってると思ったよ』
『あたしは……。それよりどうしてここを? あたし達を連れ戻しに来たのかい?』
『連れて行くのは妹だけだ。おまえに用はない』
『あの子はここにいないよ』
『コバルト女学院だろう。もう調べはついてる。ここにはただ報告に来ただけだ。彼女は連れて行くよ。言っておくけどあんたはうちとは無関係な人間なんだからね。あんたは妹を攫ったただの人攫いだ』
『……ああそうだったね、噂で聞いたよ。あたしは死んでることになってるんだってね。ふふ、あの男ったらあたしに逃げられたくせに世間体をつくろっちゃって。だけどあたしが名乗り出たら……』
『そんなことしても無駄さ。僕は認めないから。まあ妹をちゃんと育ててくれたから、心配せずとも死ぬまで遊んで暮らせるだけの金はやるさ』
『そんなものはいらない! あの子のいない人生なんて死んだ方がましさ』
『ろくでなしのくせに、妹がそんなに可愛いんだ』
『ああ、確かにあたしはろくでなしさ。だけどあんたもあたしの血を引いた息子だと……』
『黙れ! おまえの血を引いてるなんて言われたくない!』
 僕には叔父の嘲り声が聞こえた気がした。
 13で爵位を継いだ時、知識も経験もまだ浅い僕には、天使のようと評された容姿しかなかった。出来るだけ好感を持たれようと相手を魅了するように振舞った。そんな僕に叔父はおまえは母と同じだと言ったのだ。
『たいしたものだなその年で。流石にあの女の息子だよ。誰にでも媚を売るあのあばずれ女の』
 違う。違う! 僕はただ上手く世間を渡り歩こうとしていただけだ。誰かれ構わず男に言い寄っていた節操のない母のような女とは違う! 心の中の叔父の声を打ち消すように僕は母に罵声を浴びせた。
『お前のような男狂いの阿婆擦れに、可愛い妹をまかせて置けるものか!』
『そうかい、あんたも父親と同じ様にあたしから大事なものを取り上げるんだね……ああ、もういいよ、どうだって! どうせ前から死のうと思ってたんだから!』
 捨て鉢な目をして母は窓から身を乗り出した。
『やめろ!』
 落ちていく女。止める間もなかった。呆然と震えている僕をシアンが大急ぎで連れ出した。そのあと集まってきた野次馬達に混じって様子を見たが、既に彼女は事切れているようだった。
「僕が追い詰めた……」
 カーマインが顔を覆う。シアンが気遣うように肩にそっと手を添える。カーマインは掠れた声で呟いた。
「シアンは僕のせいじゃないと言ったけど、僕が言葉で母を追い詰めた。僕があんなことを言わなければ母は自殺などしなかった。
 僕は母が憎かったんだ。妹だけ連れていって僕を捨てた母が。だから……」
「兄様、違うの、母様は兄様を捨てたわけじゃないの」
「そうだ」校長が言った。
「カメリアは君が死んだと思っていたのだ」
 ウィスタリアも頷く。カーマインは驚いた目で二人を見つめた。
 校長が続けた。ウィスタリアの入学でカメリアと再会した時に、何故死んだはずの彼女が生きているのかと驚く自分に、彼女が当時のことを語ったのだと言った。
「アッシュグレイ氏は、カメリアが子供を放って愛人と会っている間に子供が大怪我したことを酷く怒り、おまえのような奴に子供はまかせておけないとなじったそうだ。彼女をサマーグリーンの城で軟禁して、もう子供には会わせないと言ったらしい。カメリアが息子の様子を聞くと、アッシュグレイ氏は、カーマインは死んだ、おまえのせいだ、と言ったそうだ。絶望したカメリアは、娘からも引き離されるのを苦にして娘を連れて逃げた。その時カーマイン君は城におらず村の診療所にいたので、彼女は息子が生きていることに気づかず、つい最近までずっと彼が死んだものと思っていたそうだ」
 ウィスタリアは兄を見つめた。このことを言ったら更に兄の後悔を深くすると思ったが、それでもこの言葉は兄の心に届けたかった。
「兄様、母は死ぬ前に言い残したの。息子に伝えてって。『一緒にいてあげられなくてごめんね。あんたを捨てたわけじゃないの』って。母は密かに兄様のことを気にかけていたのよ」
「母が……!? 本当に……!?」
 あの日、開き直った言葉の裏側でカメリアは、置き去りにしてしまった息子に責められる辛さを感じていたのか。そしてもう決して取り返すことの出来ない十年の距離に絶望して、発作的に身を投げたのだとしたら、そのことはカーマインのカメリアの死に対する罪悪感をさらに深くしたが、それでも、捨てられたわけじゃない、嫌われていたわけじゃないという事実は、彼がずっと求めていたものだった。それは彼の心から頑なな恨みと憎しみを洗い流し、その下にある母への思慕を露にした。
「母様……」
 ウィスタリアは声を殺して泣く兄を包み込むように、そっと両腕をまわす。

 兄がずっとマゼンタを母と認めなかった理由、それは。
 父は妻に娘ともども逃げられたわけではなかったと。
 自分は母に捨てられたわけではなかったと。
 母は愛人と駆け落ちしたのではなく、愛児を攫われた末の自殺、
 両親は愛し合っていたのだと。
 そういうことにしておきたかったからだ、兄は。
 そういう幸せな幻想を見ていたかったのだ。
 自分が捨てられた子供だと思いたくなかったから、
 ずっと信じていた幻想を壊したくなかったのだ。

 ウィスタリアは母親のようにカーマインをしっかりと抱き締めた。
 兄が守りたかったものは両親のちっぽけな社会的名誉と幸せの幻想。

 ━━ part14 エピローグ

 四年後。
 無事医師の資格を手に入れたシアンと新妻ウィスタリアは、これから田舎の赴任地へ出発するところだった。
 式ぐらいちゃんとみんなの前で挙げればいいのに、盛大にやってやるのに、とカーマインがぶつぶつと呟く。
「教会で誓ったわ。それだけで充分よ」ウィスタリアが幸せそうに微笑む。
「まあ、いいけど。僕の結婚式には出てくれよ」
「式って、兄様、プロポーズを断られたのでしょう」
「脈はあるさ。僕はまだ諦めてない」
 むっとしたようにカーマインが言った。
 応援するわ、兄様が初めて本気になった恋だから、とウィスタリアが微笑む。失恋しても泣かないで下さいね、私はもう抱っこしてあげられませんからとシアン。ふざけたこと言ってないでさっさと行っちまえとカーマインが言った。一時は酷く落ち込んでいた彼だったが、今はすっかり立ち直っていた。
「それではカーマイン様お世話になりました」とシアンが言い、二人は馬車で出発した。
 途中、ウィスタリアの住んでいた町に寄った。マゼンタのお墓に行く。カメリアは結局マゼンタとして生を終えたことになっている。これでよかったのかどうかはわからないが、多分カメリアはアッシュグレイ家の墓に入りたくないだろう、ここの方がいいだろうとウィスタリアは思う。
 校長先生が墓参りに来ていた。たびたび来てくれているらしい。今更こんなことをしたところで、カメリアは許してくれないだろうがねと気弱げに微笑む。
 それでも先生のいる学校を私のために選んだのだから、先生のことを憎んではいなかったと思う、とウィスタリアは言った。
 女は望まれて嫁げば、相手に愛されさえすれば、幸せになれるわけじゃないと言っていた母。母は父の愛情に気づきながらも彼では駄目だったのだろう。幼馴染の彼を忘れられなかったのか、それとも男というものすべてに幻滅していたのか。彼女は多分、沢山の男達と遊びながらも誰も愛していなかったのだろう。だからすねた子供のように自分の人生を投げ捨てた。子供のような人だったのだ。
 こんな死に方したらあの子を傷つけてしまうと言った母の死に際の言葉。『あの子』とは、私ではなく兄のことだった。彼女も自分の行き当たりばったりな性格を悔いていたのかもしれない。だから私には堅実な人生を望んだ。女もこれからは手に職をつけなきゃ、男になんか頼ってちゃいけない、一人で生きていけるようになれなきゃねと言っていた母。
 最後まで意地を張って、すねて死んでみせた子供のように心の幼い女。
 それでも私は母が好きだった。

 二人を乗せた馬車は再び出発する。
 シアンが気遣うようにウィスタリアの肩を抱き寄せた。
 ウィスタリアは微笑みながら幸せに満ちた眼でシアンの顔を見つめた。

 (END)
2007/02/26(Mon)23:02:26 公開 / ウヅキ
■この作品の著作権はウヅキさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
読んで下さってありがとうございますv
初めて投稿させて頂きました。
自分ではわからないけど、多分色々ひとりよがりなところがあると思うので、ご指導願います。
それから、この小説はどのジャンルになるのか(歴史なのかミステリーなのかサスペンスなのかボーイズラブにしないとだめなのかなど)教えていただければ嬉しいです。
よろしくお願い致します。

追記
インデントを修正しました。それから描写不足の部分を書き足そうと思ったのですが、どこをどう直せばよいかよくわからなかったので、今回は余り書き足せていません。また時間を置いて読み返してみようと思います。
この作品に対する感想 - 昇順
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