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『壁面世界』 作者:三上 / 未分類 未分類
全角9462.5文字
容量18925 bytes
原稿用紙約29.7枚
文字を用紙に刻むこと、色を壁に塗りつけること。それらは似て非なるものであり、異なるものでありながらも繋がりを絶つことはできない。そこに存在する、思いのように。

  1.

 仕方がないので高村は、天野の前で実際にそれをやって見せた。先ほどから何度言っても理解しないのだ、目の前で実行するほか無い。腰に手を当てて、ぐっと空を仰ぐように背中を反らす。頭にベランダの手すりがぶつかった。
「だから、こう、逆さまの空を見上げたら、空が海に見える」やって見せながら、高村は天野に再び言う。見ていた天野はその姿勢を頭の中のスケッチブックに描きとめるように眺めて、そして何度も繰り返された問答に再び返事を返した。
「何で」
「やって見れば分かる」
 腰をさすりながら姿勢を戻す高村。天野はやってみせはしなかったけれど、肩をすくめて空を見上げた。水色よりも少し深く、青と言うにはほど遠い秋の空だ。
 不満げに高村は天野を見る。
「アマ、ノリが悪い。フジはすぐにやってくれた」
「藤井と俺を同じにするな。というか、俺はまだ作業が残ってるんだから帰れよ」
 へぇ、作業。少しだけ冷めた目で天野を見つめる高村だった。どちらかというと非難するような眼差しだ。
 天野の言う作業とは、絵を描くことである。自分が文章に自らの思いを乗せるように、天野はパレットで考えを練って、キャンバスに思いをなすり付ける。それを高村が非難がましく見たのは、別に友人より絵を描くほうが大切なのかと言いたかったわけではなくて、それを言われると自らは帰らざるを得ないからだった。
 高村だって、文章を書きたいときに友人が居ると、書けない。そのもどかしさを知っているため、他人にそれを強要することはできなかった。そのため他人にその事柄を持ち出されると、高村は反論できなくなるのだ。
「アマ、ずるい」
「ずるくて結構、そろそろ帰れ。土産ぐらい持たせてやるから」
「いいよ」
 やんわりと断る。やや苦笑するように天野が言った。
「というか、持って帰ってくれ。親父が会社でなんかあったらしくて山ほどクッキーもらってきたんだけどさ、二人じゃあんなに消化できないっつうの」
 言葉を受けて、暫く高村はじっと天野を見る。そうか、それじゃあしょうがないなと、できる限り偉そうに振る舞った。
「あ、そうそう」
 ベランダから室内に入り込みながら、わざとらしく話題を持ち出す。
「展覧会、おめでとう」
 それを受けて、明らかに嫌そうに天野は振り返った。暫く高村を睨んでいたが、やがて溜息をつく。
「お前に何か隠そうと思って、隠せた覚えがない」
「みんなが何か隠したときに限って、おれの知人は情報を持ってくる」
 いけしゃあしゃあと言う。嘆息をついた天野に、続けて尋ねた。
「で、今回は何を書いたの」
「……壁」
「壁?」
「に、空を」
「空」
 壁に空を描く。普段地面と平行しているように感じているので、大地と垂直に佇んでいる青空は何だか想像できなかった。
 そして現在は天野宅の玄関前。見送るようにばたんと玄関が閉まるのに、「ごちそうさま」と小さく呟いた。
 ちなみに右手にぶら下がっているこれが、天野の父が持って帰ってきた物ではなく、やってきた人にお土産にする為わざわざ天野が仕入れているのを、高村は知っている。


 鍵穴にキーを差し込んで、捻る。空き巣に狙われればどうしようもないようなセキュリティのアパートだったが、狙われるほどの価値もない。
 高村は一人暮らしのため、電気が光り明るく迎え入れてくれる陽気な廊下はない。後ろ手に扉を閉めて、真っ暗な室内の明かりを付けた。居住空間というよりは物置といいたくなるような空間が晒される。
 リビングにある低いテーブルの上に鞄を投げて、その上に天野からもらった袋入りのクッキーを置く。
 夕飯の準備をしていなかったことに気付いて、「まあ良いか」と台所に向かった。冷蔵庫から牛乳を取り出し、陶器のカップへ注いで電子レンジへ。その間にもう一度リビングに戻り、鞄の中から一枚のチラシを引っ張り出した。『秋期高校生展覧会』と書いてある。
 自分の絵を見られるのを嫌がり、展覧会のことを隠そうとしていた天野だったが、高村に言わせてみればお見通しだった。もう一人の友人にもチラシを配り、クラスにも大々的に宣伝している。
 高村は無価値な物にそんなことをする意味は見出していなかったし、天野の絵を無価値だと思ったこともなかった。
 天野の絵との出会いは、高村の文章を劇的に変えた。ただ数十秒眺めたものがここまで自分に影響を及ぼすとは思っていなかったほどだ。
 天野の絵は、斬新だった。どの絵を見ても、思わず手を伸ばしたくなるような現実味と、心の隙間を満たせてくれる瑞々しさに満ちている。どれもが真に迫るような迫力を持っていたし、どれもが思わず立ち止まって見入りたくなるような光彩を放っている。
 その絵を見た瞬間、かちりと音を立てて高村の中の駒が一つ進んだ。ようやく電池を入れ替えられた、オンボロ時計のような気分だった。たかが高校生、と高をくくっていた高村の甘さを、完全にうち砕いたのだ、天野の絵は。その『たかが』を失ってから、高村は真剣に文章を書くようになった。以前のような、お遊びではなく。
 そしてその感動を誰かに分かってもらいたくて、誰かに感じて欲しくて、高村は天野が隠そうとする絵を必死で誰かに教えるのだ。
 考えている内に、台所で電子レンジがなった。立ち上がり、ホットミルクを片手に戻ってくる。テーブルにカップを置きながらそのチラシを広げ、広げた横でクッキーの封を切る。一つ囓って、慣れた甘みをホットミルクで濁す。
 再びチラシを見た。展覧会は明日だ。


  2.

 目覚まし時計が鳴る。ああどうしてせっかくの休日なのに。
 アラームを止めてから、そして今日展覧会があり、友人と待ち合わせしていたことを思い出す。
 ベッドの中で少しだけ考えてから、まあいいかと再び布団を被り直した。

「高村、起きろ」
 どんどんどんどん。地響きのように伝わってくる迷惑なノックの音。ついでにその音の方から自分を呼ぶ声も聞こえてくる。時計を見ると、先ほどから一時間程経っていた。丁度待ち合わせしていた時間だ。
 のそりと起きあがって、冷たい廊下を裸足で歩き、寝間着用のトレーナーのまま玄関の鍵を開ける。
 先ほどから不親切なノックによって軋む音を立てていた扉は、鍵を開けられたのを待っていたかのように勢いよく開く。開いた向こうの空間には、昨日とは違う友人の顔があった。
「おはよう、フジ」
 何事も無いかのように、目をこすりながら挨拶をする。藤井はずかずかと土間に入り込むと、肩を怒らせて言った。
「阿呆、何がおはようだ。待ち合わせの時間にお前が来るはず無いよなと思ったら、当たり前のように来なかった」
「まあまあ」
 自分が原因であるが、宥めるように藤井の被っているニット帽を撫でる。振り払われる手をさっと避けて、まあ上がりなよ、と声をかけた。藤井は唸るようにして、そしてやはり溜息をつく。天野に連絡をするためか、携帯電話を取り出すのがリビングに向かう高村に見えた。

 朝ご飯はどうするの、行き道で買えばいいだろ、とやりとりをかわして、部屋を出る。とんとんと慣らすようにスニーカーのつま先で床を蹴ると、そのまま部屋の鍵を閉めた。
 それを見て藤井は、「早く行くぞ」と相変わらず不機嫌に言う。
 天野とは高校に入学して出会ったが、藤井と高村は中学時代からの関係だった。友情と言うべきか、引率者とその児童なのか、周りは表現に困っている。
 いつもニット帽を被り込んでいる藤井の帽子の下がどうなっているのか、高村は知っていた。もちろん天野は知らない。そして藤井も、高村が何故一人暮らしをしているのか知っている。しかしこちらは近日天野も知った。
 意外と大層なことなので、知られた瞬間から天野の態度が変わってもおかしくはなかったのだが、天野はというと「あ、そう」と興味なさそうに言った。実際興味無かったのかも知れない。追求しない、されない程度の友情は、高村の好むものだった。藤井もだ。
 三人の出会いにも一つのきっかけがあるのだが、そのきっかけについて天野の前で言うことは禁忌だった。
 とにかく、それによって三人が出会い、今日、天野の絵が飾られている展覧会に行くことは間違いがない。
 更に間違いようが無いのは、すでに待ち合わせの時間から二十分経っているという事だ。
「本当に、お前の寝坊癖には脱帽する」
 アパートの階段を下りながら、吐き捨てるように藤井は言う。
「え、フジ帽子脱いでくれるの」高村は返した。
「阿呆、そういう意味じゃない。物書きならこれくらい知ってろ」
 心底機嫌が悪いのか、藤井の言葉の端々は一々尖っている。
 もう一度だけ肩をすくめてから、高村はジャケットの内ポケットにしまったチラシを取り出す。
「フジ、聞いた?」
「何を」
「今回アマが何描いたか」
「いや、別に。何描いたって?」
「壁」
「壁?」
「に、空を」
「空」
 空、壁、空なあ。ぶつぶつと暫く藤井は繰り返していた。やがて、少しだけ高村を振り返って言う。
「なんか、いつも平行に思ってるから、垂直な空って想像できないもんだな」
 誰かが持った感想に似ていて、思わず高村は笑った。


「おはよう、アマ」
「おす」
 メールにて先に館内を回っていると返事を寄越した天野に遭遇したのは、立体部門の作品が飾られている間だった。大理石で作られた施設は、一々神経質に足音を反響させる。
 黒いGパンと更に黒いタートルネックセーターを身につけている天野は、立っているだけで様になった。絵描きが放つ空気というのか、天野が立っているその空間を切り取るだけで、立派な絵が生まれるような気がする。天野に歩み寄るたび感じるその空気が、高村は好きだった。
 ゆっくりとその空間に歩み寄り、天野が眺めていた粘土細工を見る。藤井は少し離れたところの作品に心引かれたのか、その粘土細工を見ているのは天野と高村だけだった。
 タイトルは、『めいそう』。
「なんでひらがななんだろ」
 唐突に言った高村に暫く反応できずに、やっと天野は「ああ」と言う。
「いろんな意味があるんじゃないか」
「例えば?」
「迷って走る、とか」
 迷走。確かに、巨大な石の端々を捻って象られたようなそれは、何処に向かえば良いのか分からずに、とにかく手を伸ばしているようにも見えた。全体に銀色のスプレーがかけてあって、綺麗に陰影が活かされている。
「上手いね」素直に高村はそう言った。今回天野の絵にしか興味はなかったが、こういうのも悪くないな、と思う。
 何だか、素直な作品だった。
「高村、天野」
 離れた場所にいた藤井が声をかけてきた。絵画の展示はあっちらしい、と壁の向こうの空間を指さす。明らかに天野の顔が歪んだ。
 まあ少々いいじゃないか、初めてじゃないんだから。そんなフォローにならないようなフォローの声を天野にかけながら、三人は絵画部門の方へ向かう。
 ああそういえば、絵を描くときや文章を綴るときに考えるのも、瞑想と言うんじゃなかっただろうか。なんとなく高村は思いだした。
 それを思い出すと、ああ、なるほどと先ほどの作品を振り返る。銀色の物体は思考される世界のように見えた。


 黒い物体を抱えて、空が立っていた。
 その絵が視界に入ったとたん、高村の首筋は鳥肌を立てた。そこには空が立っていたのだ。
 大きな作品だった。大人二人が両手を広げて並んでも、端から端へと手が届かないほどの大きさだ。その空間に空がある。
 さっと風を撫でるような気軽な雲があり、その奥には息を潜めて空が佇んでいる。青一色と思っていたが、違った。画面右に行くほど、空は赤みをまして行く。夕焼けだ。
 そして空と雲の前に、逆光なのか黒い物体があった。まるで施設のその一部分だけを描いたようだ。いや、実際そう描いたのだろう。画面やや左よりのところに四角く黒く塗りつぶされ、下の方で斜めに床が描かれている。何重にも丁寧に様々な色が塗り重ねられていて、本当の影よりもよっぽど色が深い。
 目の前に空が立っている。
「タイトルは?」藤井が尋ねた。
 天野は少し躊躇って、言う。
「壁面世界」
 壁面世界。息を吸った瞬間、その感動が肺一杯に満ちた。
 違う、これは、絵なんかじゃない。高揚する高村の頭の中で、何かが告げる。
 これは絵なんかじゃない。あの日の世界だ。
 自然に握られた拳が震える。全身が汗ばんでいるのを感じる。
 これは、絵なんかじゃない。
 キャンバスを飛び出したその向こうに存在する、世界。


  3.

「すごかった、な」まだあの絵を眺めてる気分だ、藤井が言う。それを聞いて少しだけ天野が苦笑した。
 美術館を出て最寄りのファーストフード店にて昼食を購入、現在は駅前広場の階段を陣取ってのランチの真っ最中だ。せわしなく新幹線の駆け抜けていく音が響く。
 藤井は、数段低い位置に座っている高村へガムシロップを投げた。掴み損ねた高村は、面倒くさそうに立ち上がる。鳩の群がっているところまで転がっていったシロップを追って、階段を下りていく。
 それを見送りながら、藤井はやや上段に腰掛けている天野を振り仰いだ。カップに入った烏龍茶を渡して、反対の手にストローを押しつける。
「サンキュー」
「別に」
 自分のコーラに手を付けながら、改めて天野に話しかけた。
「さっきの絵」
「あ?」
「なんか、モデルになった場所とかあんの?」
 何故、と天野は目で問うた。高村は目的を忘れたかのように、広場で鳩と戯れている。
「だってさ、なんか見たことあった」
「あの絵を?」
「いや、そうじゃなくて。あの構図」
 言いながら藤井は空を見上げた。蒼天、今見ている空は、先ほどの絵よりよほど浅く見える。
 同じようにそれを見上げていた天野が、呟くように言った。
「さっきの絵」
「あ?」藤井が天野を見る。
「展覧会が終わったら、返してもらおうと思うんだ」
「そりゃ、そうだろ。でもお前の家、あんなにでかいの飾れるのか?」
 少しだけ天野は目を伏せた。
「焼く」
 その言葉に、酷く藤井が表情を歪ませる。それを見て、天野は何度目かの苦笑を漏らした。なんでだよ、と焦るように藤井が言う。高村は鳩が蹴飛ばしたガムシロップを未だ探している。
「何か、気に入らないところでもあったのか?」
「別に。それどころか、今まで描いた中で一番良い絵だと思う」
「だったら何で」
 勿体ない。ぼやいた藤井に、苦笑とは違う笑みを天野は見せた。烏龍茶を一口含み、少しだけ落ち着くように息を吐いてから、言った。
「約束なんだ。あいつとの」
 あいつ、と繰り返した藤井の顔が、今度は少しだけ切なそうになる。藤井はいつも怒鳴りっぱなしで、初対面の相手にはよく「怖い人」と言われるけれど、それが誤解なのを天野も高村も知っている。だが、藤井は知らないかも知れない。
 藤井は、ただただ素直なのだ。自分の思いを隠すことができない。素直に笑い、素直に怒り、素直に落ち込む。
「あの構図、学校の屋上そのままだよ。あいつと居た頃の。放課後ずっと屋上にキャンバス持ち込んで、ずっと描いてたんだ」
 でももちろん夕陽になったりするから、色の度合いが変わったりして。しかもそれに気付けなくてどんどん塗っていって、あ、失敗した、って思うんだけど、なんかそっちの方がいい味が出てたりして。
 何も言えなくなった藤井を慰めるように、天野は続ける。
 高村がようやく階段を上ってくるのが見えた。右手でぼろぼろになったガムシロップを摘んでいる。
 天野は笑った。
「あれ、志水との最後の約束なんだ」
 志水、繰り返した言葉が何だか懐かしくて、いつの間にか藤井も笑っている。


 志水という男子高校生が居た。過去形なのは近年亡くなったばかりだからである。
 成績は順位を下から数えた方が早いほどではあったが、クラスのムードメーカーだった。彼が笑うと皆笑う。志水が悔しがれば誰もが悔し泣いた。
 そんな志水が、死んだ。その葬式には高村も参列した。
 当時、藤井と高村は、不良というには少し単純すぎて、ただの頭の悪い生徒とレッテルを貼るには複雑すぎるような、そんな立場だった。ただ、喧嘩が学校の中で誰よりも強く、更にいえばいつも二人で行動していたために、悪名が知れ渡る程度には有名な不良だった。それでも志水はそんな二人に気さくに声をかけ、心の底から笑って見せた。交友関係が築けたのは、言うまでもない。
 その当時の学校にもう一人、彼らのような不良が居た。天野だ。ただ、こちらの方がややタチが悪かったと言われている。確かに、藤井と高村はアルコールは好まなかったし、高校生でありながらの喫煙家でもなかった。
 その三人には全くつながりなど無いと思われていた。だが、その意外な共通因子は意外なところで発見されたのだ。
 藤井と高村が志水の葬式に参列したとき、天野も菊の花を握って式場へやってきていた。見たことも無いほどきっちりと制服を着込んで、窮屈そうなローファーに足をつっこんで。誰よりも浮いている存在に見えて、誰よりもそのくらい空気にとけ込んでいるように見えた。逆に、何だかそれが見ていて寂しかった。
 周りは誰もがざわめいた。当たり前だ、学校でもっとも有名と思われる不良が、クラスメイトの葬式などに参列したのだから。
 ただ、驚いている一同と藤井を置いて、高村は天野に声をかけた。
 あの時の顔はいまでも忘れられない。
「花、握ってたら萎れる」
 あの時の間抜けな顔は、いまでも忘れられない。

 志水は、“友人”というのに丁度いい距離感を知っている人間だった。踏み込まず、引きもせず、手を伸ばせば触れられるくらいの距離を、いつも歩いていた。ただそのせいか、“親友”とは何となく言い難くて、結局彼が死ぬまで高村は愚か、藤井も“友人”止まりだった。
 ただ、そんな志水が一度だけ笑って言ったことがある。
「まさやん、まさやん」志水は藤井の名前から、そう呼ぶことが多かった。
「何だよ?」
「オレさ、近頃ちょっと面白い人見つけたんだよ!」
「へぇ。誰」
「あの、屋上にいる人」
「屋上?」一瞬意味が分からなかった藤井だが、一瞬だけの事だった。「屋上の鬼か!」
 今となれば、奇妙な異名だった。誰が言いだしたのかも分からないネーミングセンスの無さには、なんとなく愛嬌さえ感じられた。
 その頃天野は授業をさぼるのが当たり前という、生徒内でも奇妙な常識があり、そしてその常識に従って天野はいつも屋上にいた。屋上で何をしているのか、それは鬼のみぞ知るという話だった。
 その、屋上の鬼に、学年きってのムードメーカーが興味を持っているという。
 なぜだか冗談だと笑い飛ばせない自分が、藤井は怖くなった。
「……あんまり近づいてたら、危ないぞ」
「へ、何で」
 藤井は溜息をついた。先日、屋上に入り込んできた他人を返り討ちにした鬼が丁寧に救急車まで呼んでやったというのは、すでに伝説である。
「お前、なんか鈍そうだから。殴られても笑ってそう」
「オレそこまで変態じゃないよ。弱くもないし。少林寺拳法なめんな」
「……どうでも良いけどさ」本当にどうでも良くなって投げ出すように息を吐く。
「とりあえず、俺に迷惑かからなきゃどうでも良いから」
「うーん、難しいと思う。だってまさやん呼んでも無いのに自分から首突っ込んでくるし」
「お前達があまりにも危なっかしいんだよ」
 ここで複数形なのは、もちろん高村も含まれているからだ。志水は笑った。
「うん、まさやんが友達で良かった」
「……まあ、仲良くなりたいなら頑張れや」
「うん。……なんかね、あまのじゃくくんなら」
「天の邪鬼?」
 聞き返す。耳慣れない言葉のような気がした。なのに口からさらりとその単語は出てくる。ああ、と志水は手を叩く。
「あのね、屋上に居る人のあだ名」
「あだ名? もしかしてそうやって呼んでるのか」
「うん」
 危ない。危なすぎるこいつ。
 何もかも諦めたくなったのに諦めきれないのが、藤井の難点だった。知り合いが絡むと、どうにも自分は根性が良くなるらしい。
 ただただ、志水は笑う。
「あまのじゃくくんなら、“親友”って呼んでも許してくれるような気がするんだ」
 藤井は驚いた。

 藤井は驚いた。
「……まさか親友が死ぬなんて、思ってなかったから」
 泣き崩れる前に、天野が呟いた言葉。
 志水の亡骸を前にしながら、ただただ藤井は驚いた。
 ――あまりにも自然な、“親友”だった。 


  4.

 油断していたら、パンが焦げた。
(……やられた)
 オーブントースターの中で燻っているそれを見つめながら、高村は溜息をつく。食パンよりもやわらかいパンは焦げやすいということを、当たり前のように忘れていた。
 処理のためにオーブントースターを開く。ふてくされたパンが不満を漏らすかのように、焦げた香りが鼻に染み込んでくる。
 それにしても珍しい、と高村は自分自身の事ながら思っていた。
 自慢ではないが、食物が関わる失敗は高村はしたことがなかった。それ故周りからは「食い意地の張りすぎだ」などと評価されるが、仕方がない。実際、間違ってはいないからだ。高村は純粋に栄養をとる行為ではなく、食べ物を味わうという行いが好きだった。
 が、失敗した。何故なのかと追求するところまで思考が進んでいったときには、真っ黒になったパンは生ゴミ用の袋に入れられている。

 焦げたパンを恨んでも仕方がないので、高村は通学用鞄から一冊のノートを引っ張り出した。開く。
 俗に言う、小説の綴られたノートだった。一ページ一ページに高村の思いが記してある。毎回一ページ目から読み返して続きを書くのは、高村の習慣だ。今日も、もちろんそうした。
 思いを字として吐き出すことは、キャンバスに絵の具を塗りつけるのととても似ているような気がする。以前天野の作業を見たことのある高村は、心のどこかでそう思っていた。
 考えて、考えたものの半分を表現する効力で、手が動く。全てを表現しきれないもどかしさにやきもきする。時折、破り捨てて、また悩んで、筆を手に取る。そして、その一筆にようやく納得する。
 一ページずつ捲って、続きの欠けたページに突き当たる。ペンを握った。
 ペンを握った。
 暫く高村は、ペンを握りっぱなしの自分に不信感を感じた。そのまま首を捻る。
 その理由に行き当たって、目を見開く。硬直した。表情はあいかわらず変化のないまま、側に放り投げていた携帯電話にかじりつく。他人が見ていれば、何事かと他人の方が大袈裟に驚いただろう。リダイアルという機能すら思い出せずに、必死でその番号を押す。指が震えていた。
 頭の中に、冷たい部屋の中に、コール音が響く。
 コール音がとぎれる前から、無意識に口が動いていた。
「どうしよう」それだけを繰り返す。
『もしもし?』コール音がやんだ。
「フジ、フジ」
『なんだよ、お前からかけてくるなんて』
 明日は槍が降るのか? そう怪訝そうに友人が言う。
「フジ、どうしよう。どうしよう」
「どうした、落ち着けお前」
「どうしようフジ」
 ただただまくし立てた。
「書けなくなった」
 何が? とも誰が? とも聞かずに、友人はただ「待ってろ」と通話をやめる。 
2006/11/11(Sat)21:00:25 公開 / 三上
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ご無沙汰してます。(11月11日更新)
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