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『PALA:DICE(完)』 作者:河野つかさ / アクション ファンタジー
全角106189文字
容量212378 bytes
原稿用紙約336.8枚
 喜びも悲しみも、憎しみも愛も、すべてはダイスの中に…… 涙からダイスを産み、人の欲望を具現化する力を持つ、北城銀河。伝説のパラ・ダイスを求め、自分の運命に立ち向かっていく。
序章 sonata

 響き合う音の調べ。
 月の光に輝く、草の露。
 星が宿る、花弁の先。
 大地に漂う、数々の詩(うた)。
 空を駆ける、限りない、涙。
 始まりはいつもラルゴで。
 フォルテから流れ下るデクレッシェンド。
 安らぎをはらむピアニッシモ。
 鼓動を止めるブレス。
 連音はタイで結ばれて。
 フェルマータの余韻に消える。

第一章 グランド・ゾーン

一 また、新たなダイス

 スポットライトの光の輪の中。
 それが、深夜の俺の居場所だ。蒼白い光の中に俺が現れると、途端に店内の雰囲気が一変する。酒に溺れ、死んだような目をしていた失恋女までが、途端に瞳を爛々と輝かせて俺を見つめる。
 快感? いや、もう、慣れた。
 夜ごとに繰り返される、女たちの嘆息と、男たちの羨望および嫉妬の眼差し過多。薄暗い店内で、俺の周りだけがいつも別世界だ。
 もし貴女が俺をその気にさせるだけの美女だと自負するのなら、是非、御来店願いたい。謙遜する女は嫌いだ。
 店内が俺を待って、シンと静まる。そうそう、今夜も皆イイコだね。静かにさえしていてくれるなら、お兄さん、そんなに手荒な真似はしなくて済むのさ。
 スポットライトの光の輪の中。
 毎夜、俺を待っている可愛いやつ。俺は磨き上げられた白いグランドピアノの前に座ると、そっと鍵盤に触れた。指先のひやりと重たい感触に、思わず吐息が漏れる。
 さぁ、今夜は何を聴かせてやろうか。
 エルディコの幻想曲か。フロイゲンのレクイエムか。
 …………そうだな。
 オペラ『破天』の組曲がいい。今夜の客には普段より、死にそうな顔の女が多いようだからな。彼女たちが共感できるトコとしては、妥当な線だろう。
 ラルゴで始まる今宵の演奏。
 さぁ、傷ついた乙女たちよ。ピアノの調べと共に涙するがいい。もっとも俺好みに泣けた女が、今夜の俺の仮初めの愛を受けることができるぞ。
 ナイトクラブで奏でる一曲には、いつもそんな意味がある。
 鍵盤で踊る指に、弦の奏でる甘美な音色に、そして何より美の総合芸術とも言うべき俺の容姿に、皆、眼も耳も心も奪われて呆然と聞き惚れる。
 アレグロで続くメロディ。『破天』の中でも、失恋した女が恋敵の顔を炎で焼くシーンだ。オペラの筋書きは下世話で俺好みじゃないが、使われている曲はどれも名匠ヒュレック・イトノフの作曲だけあって、耳に残る独特の旋律を持っている。
 思わず全身に震えが走るほどの迫力を持った楽章が終わり、ふたたび穏やかなラルゴの響き。店内から、すすり泣きが聞こえる。取りあえず、上々の演奏だったようだ。
 ラストの小節を終え、音の余韻が消え去っても、客たちは静まり返ったままだ。放心状態なのだろう。
 俺は無言のまま立ち上がると、音を立てずにステージを降りた。ライトの届かない暗闇まで歩いてから、両手の甲に一度ずつ、接吻る。いつの頃からか身に付いた、演奏後の癖だった。
 この店との契約は、毎晩一演奏だ。もともと、俺は正規のピアニストではない。ただ、この店のオーナーが俺を(十中八九、俺の容姿を)気に入り、客寄せのために雇っているにすぎない。俺としても、手軽に金の稼げるオイシイ仕事、程度にしか思っていない。
 演奏の後は、気の向くままに店内をうろつき、気に入った女がいればそれとなく口説く。どちらかと言えば、ピアノより後者の方が得意だ。
 ホスト兼ピアニスト。
 なかなか悪くない。
 さて、今夜の女は誰にしようか……
 クールを装いながら、抜け目なく店内に視線を走らせる。女の品定め、ひとりにかける時間は二秒以内と決めている。
 あれは化粧が濃すぎ。
 あれはグラスを持つ仕草が老けてる。
 あれは肌にシミが目立つ。
 あれは顔が気に入らない。
 あれは脚が太い。
 あれは脚が細い。
 あれは服装のセンスがない。
 あれは年齢を相当誤魔化している。
 あれは生娘……
 誤解を与えないように先に言っておくが、俺は生娘に興味はない。ああいう人種は俺から言えば世間を知らなすぎて、後々面倒なことになりがちなのだ。この仕事の駆け出しの頃に痛い目に会って以来、絶対に手は出さないようにしている。
 と、よりによって、俺が一番避けて通りたい、生娘嬢が、思い詰めた顔で俺を見つめている。
 まずい。あれは俺に惚れた眼だ。
 俺は何気ない素振りで楽屋に戻ろうときびすを返した。どうせ、今夜はロクな女がいない。あの厄介そうな娘に声をかけられないうちに、さっさと帰って寝てしまおう。
 酒の匂い、煙草の匂い、化粧の匂い。俺の自慢の黒髪にまとわりつくさまざまな匂いを振りきるように、俺は足を早めた。
 楽屋への扉に手をかけようとしたその時、
「あの……」
 ……来た!
 俺は本心を悟られないように冷静な顔で振り返った。やはり、あの娘だ。あかぬけしない、痩せ型のお下げ髪の少女。
 この類いの連中は、普段はただ遠くから熱い眼差しを送り続けているだけのくせに、時として信じられないほど大胆になる。俺に話しかけたことも、おそらく彼女にとっては一世一代の大決心なのだろうが……
「何か?」
 俺は努めて冷たく答えた。いかにも、おまえなど眼中にないぞ、という口調で。
 だが、娘には俺のそんな意図など、微塵も伝わっていないらしい。自分に向かって俺が答えた、という事実だけで、既に頭に血が上ってしまっている。
「あ、あ、あの……」
 はいはい。
 俺は完全に緊張してガチガチになっている娘の言葉を気長に待った。俺が余計に話しかけては、娘は更に何も言えなくなってしまいそうだったからだ。
 まったく、世話の焼ける……
「あ、あの……」
 娘は涙ぐんだ眼で俺を見上げた。……俺が泣かせたみたいで気分が悪い。
「お、お名前、教えていただけますか……」
 俺は演技なしで驚いた。このガキ、有名な俺の名も知らずに店に来たのか? というより、一体いつから俺に惚れ込んでいたんだか……
 まるで俺の疑問に答えるかのように、彼女は急に多弁になった。
「わ、わたし、アリサ・ルードルフ。あの、友達からこの店のこと聞いて…… 素敵なヒトがいるって…… それで、わたし…… 是非お会いしたくて…… その…… でも、本当に素敵過ぎて…… わたし……」
 そう言って、真っ赤になった顔を下に向ける。
 ほう、意外に素直でイイコじゃないか。もっとも、俺の好みの範疇外であることに変わりないけどね。
「銀河」
「え……」
「北城銀河だ」
 娘は惚けたように頬を赤らめたまま、俺を見つめた。明らかに、何かしらの期待を込めた眼差しだ。このままでは、この娘のドリームに飲み込まれてしまう。どうせ、彼女の頭の中では、これから先の都合のいい展開が渦巻いているのだろう。俺が自分に惚れるとでも。しゃらくさい。
 俺は傷つけない程度に優しく、それでいて期待させない程度に冷たく、彼女を見下ろした。
「失礼だが、貴女はまだ、このような場所に出入りしない方がいい。ここには貴女にとってよくないものが多すぎる」
 俺が深入りを拒もうとしていることが、ようやく娘にも伝わったらしい。娘の頬にポロポロと涙がこぼれた。
 涙は女の最大の武器だ、なんて言われていた時代はとうに終わったんだぞ。俺の前では涙だろうがヨダレだろうが同じだ。とにかく、これ以上関わりあいになりたくない。
「さぁ、お帰りなさい。そして、もう二度とここへは来ないように」
「あ、あの、わたし!」
 娘はまるで神に祈るかのように手を胸の前で組んだ。
「わたし、あ、あなたが…………す……好きです! 初めてお会いして、突然なんですけれど…… これって、絶対運命だと思うんです!」
 おうおう、始まったぜ、お嬢チャン得意の恋の運命ごっこがよ。この手の相手に俺は嫌というほどつきまとわれてきた。もう、本当に、いい加減、御免なんだよ!
 俺は露骨に困った顔をして見せた。それから、できる限り声を低めて、
「出口まで送るよ。だから、帰るんだ。二度と来るんじゃない」
「嫌です!」
 涙を振りまきながら、娘は首を振って駄々をこねる。畜生、何だって俺がこんなことに巻き込まれなきゃなんねぇんだ? いくら俺の容貌が整っているからって、毎晩これじゃ、さすがに嫌気がさしてくるぜ。
「わかった」
 俺はわざとらしく溜め息をついた。
「次の一曲を一緒に躍ろう、お嬢さん。それが済んだら、ちゃんと帰るんだぞ」
 娘の眼が大きく見開かれ、その奥に歓喜と悲哀が渦巻く。こちらの一挙一動にいちいち反応されるというのは疲れるものだ。俺は彼女の手を取ると、ステージの前のダンスホールへ導いた。
 何が哀しくて、こんなガキ相手にチークなんぞ躍らねばならんのだ。第一、ここはれっきとした未成年者立ち入り禁止店だぞ。入口に必ず係が立って、客を選別しているはずだ。係の奴め、どうせ、通りすがりの頭とケツの軽そうな女と無駄話でもしていて、この娘が入るのを見過ごしたんだろう。あとで文句言ってやる。
 店内の古ぼけたレコード盤から流れる曲に乗せて身体を動かしながら、俺は一刻も早くこの悪夢が消えることを願っていた。世の中の女には、男は女であれば誰でもいいと思っている、などという間違った見解を持つ奴がいるようだが、冗談じゃない。どんな男にだって、それなりの好みってものがある。興味ない種類の女に言い寄られても(それなりに嬉しい場合もあるが)、大抵は煩わしい思いをするのだ。
 今の俺のように!
 ようやく、曲が切れる。俺は背中を押すようにして、娘を出口へ連れていった。さっさとドアを開ける。
「さぁ、帰りなさい。もう、二度と来るんじゃないぞ」
 娘は絶望的な眼で俺を見上げ、震えている。唇に血の気はなく、まるで世界の終わりを見るような顔だ。
 だが、俺は負けなかった。ここで情心を起こして失敗した男たちを、今までにゴマンと見てきた。あいつらと同じドジを踏んでたまるか。
「じゃぁな」
「ぎ、銀河さん!」
 娘の叫びには耳を貸さず、俺は無情に扉を閉めると、どっと溜め息をついた。時間と労力の浪費だ。
 さっさと裏から帰ろう、と店の奥へ歩き出した俺は、薄暗がりのテーブルについたひとりの女に気づいて立ち止まった。裾の長い、エロティックなスリットの入ったラメ入りの服に、赤いマニキュア。大きく開いた胸元からは豊満な胸が覗く。
 俺の足は自然とそのテーブルへ向かっていた。
「珍しいな、おまえが非番の日に店で飲むなんて。仕事以外じゃ酒はやらないんじゃなかったのか?」
 女の前のソファにどっかと腰を降ろして、俺は腕組みしながら彼女の顔を眺めた。彼女、博美は俺と同じように、この店で働くホステスのひとりだ。俺好みではなかったが、それなりの美女である。
「ちょうどいいわ。銀河、お酒注いでちょうだいよ」
 彼女は氷だけがカラカラ鳴るウイスキーグラスを突きつけた。俺は黙ってテーブルの上のボトルを取ると、アメ色の液体を注いでやる。
「さっきの演奏、じっくり聴かせてもらったわ」
 博美はグラスを軽く俺に傾けた。
「相変わらず、いい腕ね。店中の女が、あなたに恋してたわよ。そうそう、オトコも何人かね」
 俺は笑い飛ばして、
「それはどうも。こちらとしては、眼にかなう奴はいなかったがね。男女共に」
 博美は自慢の脚線美を見せつけるかのように、長い足を組み直した。
「ねぇ、銀河」
 とろん、とした眼は酒に熱く燃えている。
「今夜、私と寝ない?」
 突然の申し出に、俺は驚かなかった。笑って、
「年下の男に興味はなかったんじゃないのか?」
「趣味が変わったの」
 博美は一気にブランデーをあおると、次を求めるように再びグラスを差し出した。酒を注いでやりながら、
「あいにく、男がいる女に手を出すほど、夜の相手に不自由してはいないんでね」
 俺の注ぎ足したウイスキーを一口舐めて、博美は自嘲気味に笑った。
 フラレたな。
 俺は直感した。こういう女は数知れず見てきた。決まって、こんな眼をする。博美は夜毎の恋を売り物にしている女だ。だが、彼女が本心から惚れた相手はただひとり、佐川という三十路の男だった。俺も二、三度一緒にいる所を見かけた事がある。平凡そうな、そして優しげな男だった。
「婚約、していたんだろ、おまえたち」
 博美の心に突き刺す一言を浴びせる。今、彼女の心には佐川との過去が膿のように溜まっている。そいつを吐き出させない限り、博美は立ち直ることができない。残酷な言葉が、必要なのだ。
 博美は前髪を掻き上げた。
「酷い人。少しは慰めてくれてもいいじゃないの」
「あいにく、俺はそういう甘い考えが大嫌いでね」
 俺は不敵に笑った。失恋で傷ついた女を前に見せるべき笑みではないことくらい、わかっている。だが、こうすることしか、俺にはできない。冷たく当たる以外に、方法を知らない。
「それで、どうしてまた、突然にそんなことになったんだ?」
「随分、容赦のないことを訊くのね」
 恨みがましそうに博美は上目使いに俺を睨みつけたが、俺は依然として涼しい顔を崩さない。
「訊いて欲しいんだろ?」
「……そう、かもしれないわね」
 博美はグラスを持ったまま、俺の隣に座り直すと、甘えるように身体をもたせかけてきた。
「幼なじみがね、いいんだってさ」
 俺の髪に指を絡ませ、潤んだ瞳を近づける博美。
「私みたいな仕事してる女より、やっぱり幼なじみの方が、美代子の方がいい、ってさ」
 美代子…… 確か、佐川の実家の近くに住んでいる女の名だ。博美と付き合い始めてからも、佐川が美代子と友人以上に親しくする、と、博美がぼやいているのを俺も何度も耳にしている。佐川にとっては、幼なじみとくっつく方が自然なのだろうが、結果として捨てられた博美にとっては、許しがたい決断である。
 そして、俺にとっては……
「ねぇ、銀河」
 酒臭い息で博美は呟くと、俺の首に腕を回した。
「キスしてよ」
 俺はにやりと唇を歪めた。
「いいぜ。おまえが、泣いてくれたらな」
「泣く?」
「涙にだったら、接吻てもいい」
 博美は恨めしそうに俺の眼を見つめていたが、やがて溜め息をついて腕をほどいた。
「駄目ね。あなたは高嶺の花。私の手にはおえないわ」
 何かを振りきるようにグラスをあおると、俺の膝に頭を預けて横になる。
「これくらい、いいでしょう? 少しくらい、いい夢、見させてよ……」
 俺の膝枕で、博美はすぐに寝息をたて始めた。
 いい夢、ね。
 俺は薄暗い店内を眺め回した。数十人の男女が、皆それぞれの恋と憎しみを抱いて、毎晩のように集まってくる場所。二〇〇年ほど前に流行ったジュークボックスから流れる、懐古的なメロディ。
 俺はそっと、博美の睫毛に光っていた涙を唇に含んだ。舌先で転がし、フッと吐息に変える。顔の前にかざしていた俺の手のひらに、透明な、小さなダイスが転がった。
「おまえの夢とやら、俺が見させてもらうぜ」
 博美をソファに横たえると、俺は楽屋を通って店を出た。
 外は冷えた空気で満たされていた。常夏のこのドーム都市グランド・ゾーンも、夜には摂氏八度まで冷え込む。恋人同士が互いの温もりを感じあうのに手ごろな気温だからだ。
 荒廃した地球上に、いまや人間の住める自然環境はほとんど残されていない。人間は各地に巨大なドーム都市を建設し、コンピュータ管理によって内部環境を整え、快適な暮らしを手に入れていた。
 ここ、グランド・ゾーンは、人間の欲望渦巻く都市だ。数々の賭博場やあやしげなホテル街、そしてその裏のスラム。人間の持つ欲望の光と闇が共存する世界。それが、この都市だ。
 俺は客待ちのタクシーに乗り込むと、都市の外側の居住区へと向かった。円形のドーム都市の外縁は民間居住区、中央に近づくに従って、華やかな繁華街となる。
 俺は空圧車の車窓から、ネオンの海を眺めた。手の中のダイスを、その光に透かしてみる。
 ティア・ダイス。
 涙から生まれる、特殊なダイス。六面の平面には、何の数字も模様もない。クリスタルガラスで出来た無地の立方体だ。しかし、コイツには特殊な力が秘められている。
 空圧車は異様なまでの賑わいを見せるネオン街を抜けて、閑静な住宅の立ち並ぶ地域へと入っていった。

 二 ガラス天蓋の城

 グランドから二キロほど離れた場所に、俺が過去五年間住み着いている教会があった。今はもう、ほとんど見られなくなった小さな自然の森に囲まれた、まるで異世界のような空間にそびえる、ガラスの城だ。
 色鮮やかな緑の蔦が這う白亜の壁、所々ひび割れた石畳、中央が膨らんだエンタシス形式の柱、天井高くには太陽の光を艶やかに染めるステンドガラス。
 俺は大理石の聖母像の脇を抜けて、正面から中へ入った。廊下を真っすぐ行った突き当たりの大扉を開ければ、そこは礼拝堂となっている。玄関の右手からは俺の居住スペースへ抜ける。左手は円形の回廊となっていて、その先には中庭がある。
 俺は迷わず左へ曲がった。緩やかにカーブを描いて続く、石の回廊。壁の左側は外へ続く窓が並び、右側には等間隔にオレンジ色のガラスの傘がついたガスランプが掛けられている。夜、このランプの光に包まれ、窓から森林に降る雨を眺めるのが、俺は好きなのだ。
 天井のついた野外に吹き抜けの渡り廊下の先に中庭がある。大理石の柱に支えられたガラスの天蓋となっていて、自然に生えてきた草花の香る、温室のような空間だ。その中央には黒光りする年代物のグランドピアノが一台。朝日の白く薄っぺらい光の板が、幾重にも重なってその黒い天板に注がれている。
 俺は無意識に上を見上げた。透明なガラスがドーム型に張られた天井には、緑の蔦が絡まり、水底に映る影のような幻想的な絢模様を石畳に落としている。鼻腔に香る、新鮮な花の香り。若草の瑞々しい匂い。入口から吹き込む透き通るような風が、俺の髪を優しく撫でてゆく。
 ふと、気配を感じて、俺は振り返った。渡り廊下に続く入口から、俺の二の腕ほどの大きさの黒鬼が一匹、ひらひらと空中を漂って、こちらへ向かってくる。眠たげな眼をこすりながら。
「まぁた、朝帰り?」
 キンキンと頭に響く声でその黒鬼は文句を言った。
「さぞや楽しい思いをしてきたんでしょうねぇ」
 言いながら、俺の身体をクンクン嗅ぎ回る。俺は黒鬼のするに任せながら、ピアノの前に座った。陽の光を面に揺らめかせ、鍵盤が俺を誘うように煌めく。
「……あんた、またティア・ダイスを使ったのね?」
 黒鬼……リィ・フォルティは眉をぴくりと動かした。期待に満ちた眼で俺の顔面を覗き込む。
「それで、どうだった?」
「……別に……」
 俺はリィから眼を背けて、足下のシカギクの白い花を眺めた。
「『別に』ってことはないでしょ? ねぇん、今度はどんな女の涙? どんな夢を見たの? 教えてよぉ」
 俺の顔に胸をすり寄せる。いくら人間の女に近い姿形をしているとはいえ、黒鬼にこんなことをされて嬉しいはずがない。俺は片手でリィをつまみ上げると、譜面台に乗せた。
「わかった。話してやるから、これ以上くっつくな。気色悪い」
 リィは不機嫌に唇をとがらせたが、すぐに好奇心の瞳で俺を見上げる。
「それで、誰の涙?」
 俺は気乗りしないまま、しぶしぶ答えた。
「博美。おまえも知っているだろう?」
「うん。会ったことはないけど、聞いたことはあるね」
 会ったことがなくて当たり前だ。グランドを黒鬼がフラフラしているだけで警察沙汰だぞ。
「確か、銀河の職場の同僚だったよね。ホステスさんで、二十五歳」
「……ああ。彼女、婚約者にフラレたそうだ。相手の男は幼なじみの女と結婚する、とか」
「それでそれで!」
 興奮気味に先を促すリィに、俺はぶっきらぼうな口調で、
「博美のダイスを持って、男に会いに行った。ちょうど、相手の女と一緒だった。俺はいつも通り物陰に隠れたまま、ダイスをブレイクさせた」
 ごくり、とリィが生唾を飲むのがわかる。
「それから、銀河?」
「……それから……」
 俺は数秒、視線を彷徨わせてから、
「突然、女の顔が炎に包まれた。男はすっかり動揺して、しばらくは動けないでいた。どうにか上着を脱いで火を消した頃には……」
「頃には?」
「……言わなくてもわかるだろう? 命は取り留めたが、あの顔はどんな整形手術でも直せない。二目と見られない姿で生き続ける……」
 一瞬の沈黙のあと、譜面台の上でリィは腹を抱えて笑い転げた。細い手足を振り回して、気が狂ったように笑い続ける。黒鬼のこういう過激な感情表現が、俺は好きになれない。
「だから、言っているじゃない」
 気が済むまで笑ってから、リィはケロッと真顔になって、
「銀河が望むような女なんて、この世にはいないのよ。今まで試した女たち、結局みんな醜い嫉妬の夢を見ているじゃない」
 見ず知らずの女じゃない。二年以上同じ職場で働いていた博美の心に、まるでオペラ『破天』そのもののような残虐性が潜んでいたことに、俺は少なからず驚いていた。
 リィは俺の肩にひらりと飛び乗ると、首筋に身体をこすりつけてくる。
「いい加減諦めて、私に決めちゃいなさいよ。せっかく買ったのに、勿体ないわよ」
「俺は買いたくて買った訳じゃねぇよ」
 俺は再びリィをつまむと適当に放り投げた。空中でくるくると回って、黒鬼はふわりと態勢を整え、腰に手を当てて俺を睨んだ。
「そういう言い方ってないじゃない」
「だが、事実だ。おまえがあまりにうるさく魂を売りつけるから、仕方なく承知しただけのことだ」
 黒鬼は遠い昔から、悪魔という名で世に広く知られている。今までの長い歴史の中から見ても、悪魔に魂を売った人間は掃いて捨てるほどいたが、人間に魂を売った悪魔など、聞いたことがない。リィはその、稀少な悪魔だった。どうやら、俺にぞっこん惚れて、こんなことになったらしいのだが、正直、俺にはどうでもいいことに過ぎなかった。
 俺はリィの甲高い声を耳から追いだすと、自分の内側に流れる音に集中した。
 幾千幾万の瞬間の中から、まさに弾き始めるにふさわしい一瞬を選び取る。そして、指先に全神経を集中させ、妙なる調べを産みだすのだ。
 俺は心の求めるままにピアノを奏で始めた。静かな時の流れの中で、傷ついた心が癒されていくような優しく甘い旋律、この教会の半透明の中庭にふさわしい、幻想的な音の重なり。
 俺がこの世で最も深く愛する曲、『白と黒のRequiem』。
 俺が物心つく前から、父がよく弾いてくれた曲だ。
 懐かしく、それでいて真新しい響きを持つメロディ。弾くたびに姿を変えるような、その瞬間瞬間の自然の営みに溶け込むかのように姿を変える音の波。
 その甘美な世界に酔いながら、俺は遠い日のことを思い出していた。
 グランド・ゾーンが人間の住む都市であるように、黒鬼たちもまた、自分たちの住みよい環境を整えた都市を持っている。名を、ボトム・ゾーンという。俺はそのボトムで生まれた。
 母のことは知らない。俺を産んですぐに死んだとしか聞いていない。父は俺が生まれた当時、名の売れたピアニストだったが、女の姿をした黒鬼に惚れて、ボトムへ移り住んだ。俺が十二歳のとき、遂にその黒鬼に魂を売り、喰われて死んだ。それ以来、俺は馬鹿な人間の子として黒鬼どもにこづかれながら育った。十七歳でボトムを飛び出すまでの間、俺は黒鬼たちの中でも最底辺の連中と付きあうようになっていた。人間の魂喰いを喜びとしているヤツラだった……
 命の他に、と言うのなら、この一曲だけが、父が俺に残した遺産だといってもいい。そしてそれは俺にとって、何にも変えがたい宝玉である。
 ガラスのドームに反響するこのレクイエムに、俺は何度救われてきたか知れない。
 今度こそは。
 そんな期待を込めてダイスを産んでも、見える現実はいつも、血なまぐさい愛憎劇。俺の求める夢なんて、どこにも見えない、どこにも聞こえない。それでも俺は、女の涙を信じたいのかもしれない。いつかは、巡り合う、そんな淡い、俺らしくもない期待を込めて、ダイスを産み続ける。だが、いつもその結果についてくるのは、見るに堪えない復讐劇ばかりで……
 そんな疲れた俺の心を慰めてくれるのは、この旋律以外になかった。
 すべてを包み、すべてを許す 。この曲の作者を俺は知らない。父かも知れない。他の誰かかも知れない。だが、ただひとつ確かなこと、それは、この曲は深い哀しみと、透き通る愛によって産み出されたものであるという事実だ。俺が求めてやまないような、星の輝き、風のざわめき、新緑の香りにもたとえられる、崇高なる思いだ。
 人間の女にそれを求めることは、不可能なのだろうか……
 俺が欲しいのは一晩きりの、生ぬるい人肌の温もりではない。魅惑的な言葉でも、媚薬のような眼差しでもない。きらびやかに飾り立てた装飾でもなく、滑らかで染みひとつない柔肌でもない。
 ただ、純粋にして高潔、無我の愛。相手のすべてを受け入れることによってのみ成り立つ、志高の愛。俺の求める、たったひとつのもの。
 だが、見つからない。グランドへ出て、既に七年、俺はずっとこの『夢』をティア・ダイスに込めて探し続けてきたというのに……
 リィが言うように、人間に求めても無駄なものなのだろうか。所詮は、醜い生物でしかない人間に求めても……
 ではなぜ、俺は諦めないのだろう。心のどこかで、人類に絶望しながら、それでも懲りずにダイスを転がし続けるのは、どうしてなのだろう。自分で自分が不可解だ。
 朝日が徐々に輝きを増して、うっすらとその熱さえ感じるようになるころ、レクイエムは終章を告げ、最後の音の余韻は、今まさに開いたばかりの淡い桃色の花弁に吸い込まれていった。
 演奏後の静寂。俺はこの時間が好きだ。体中に残る、曲の躍動が、細胞のひとつひとつにまで染み渡り、新たな力を与えてくれる。この沈黙まで含めて、ひとつの演奏である。直後にすぐに拍手が起こるような、そんな演奏は三流だ。真の感動は沈黙を産むのだ。身じろぎひとつできず、まばたきすることすら忘れ、ただいつまでも耳の底に美しい音色が反響し続ける。それこそが、理想の演奏であり、俺が唯一認める芸術だ。
 だから。
 だから、この沈黙を妨げる者は何人たりとも許しはしない。それがたとえ、神であろうとも、だ!
 だというのに。
 だというのに、礼拝堂から強烈なエネルギーの波動が飛び込んできた。それは、俺の沈黙と心の平安を破るに十分だった。
 俺の落ち着いた心もちはぶち壊され、苛立ちと腹立たしさに支配された。椅子から乱暴に立ち上がると、足早に中庭を出て渡り廊下を抜け、回廊を突っ切って礼拝堂の大扉を両開きに押し開けた。
 中央奥の銀の十字架を中心に、左右に何列もの木の長椅子が並んでいる。前時代的な造りの礼拝堂の内装だ。壁には美しい文様が掘り込まれ、天井には色とりどりのステンドガラスが陽光を透過させている。
 俺はエネルギーの発信源へ、銀の十字架へとつかつか歩み寄った。十字架の前には、銀で作られた直径一メートルほどの円形の器があり、七色をした不思議な液体が湧き出している。穴も何もない器の底から止めどなく湧く液体は、溢れ返ることなく常に同じ水面の高さを保っている。
 鬼族の開発した、ミラー・フォンティンと呼ばれる通信機だ。俺は水面に片手をかざした。と、今まで虹をごちゃまぜにしたような混沌をたたえていた水面に、はっきりとした像が浮かび上がった。
 白い肌、シルバーの髪、梅花のような唇、サファイアの瞳。見たことのない男。
 だが、その高慢な雰囲気から、すぐに相手の男は人間じゃないことがわかる。
「白鬼か」
 俺は軽蔑を込めて吐き捨てた。性悪な黒鬼より、更にいけ好かない連中、それが白鬼だ。自分たちこそが、この世で最も気高く凛々しい生物であると信じて疑わない、単細胞の連中だ。通称、天使とか言うそうだが、こいつらが本当に天の使いだというなら、その上にいる神とやらは、よほどロクでもない野郎に違いねぇ。
 俺の肩にぶら下がっていたリィが、そそくさと背中に隠れる。黒鬼も白鬼を好いていない。もともとは同じ鬼族だが、考え方の違いからふたつの部族に分かれたらしい。
 俺は白鬼のやたら整った顔を見下ろしながら、
「見たことのないツラだな。俺に何の用だ?」
 鬼族は見かけ上、人間の男女のどちらかに近い姿をしているが、実際には似ても似つかない種族だ。分かりやすく言えば、ヤツラは植物と同じなのだ。生涯の終わりに花粉を飛ばし(正確には鬼粉とでも言うんだろうが)、植物で言えば雌しべ柱頭にあたる部位にそれが付着することで種子を作る。ひとつの個体に背側に雄、腹側に雌の生殖器が現われる。当然、自家受精も可能な連中。鬼族一匹から一度に生まれる二世は、およそ二十から三十。爆発的な勢いで増えていくのだ。その繁殖力には吐き気がする。
「俺が白鬼を嫌いだと知っての上で、こんな真似しているんだろうな?」
 ミラーの中の白鬼は高圧的な笑みを浮かべた。こういう仕草が気に入らねぇ。
「北城、銀河ですね」
「わかってかけてるんだろうが。いちいち確認すんじゃねぇ」
「これは失礼」
 慇懃無礼な奴。白鬼は銀色の髪を、さも自慢げに掻き上げた。
「私を御存知ないとはいささか心外ですが、まぁ、それは許してあげましょう。私の心は空より広い」
 いちいち、癇に触る野郎だぜ。俺はこれ以上相手しているのも馬鹿らしくなって、通信を切ろうと再び手をかざしかけた。
「待ちたまえ、君のためにならんぞ」
 白鬼は慌てて俺を止めた。俺の様子は白鬼側のミラーにも映されている。
「用があるならさっさと言え。こちとら、おまえらと違って忙しいんだ」
「そう、急ぐな、銀河」
 ……馴れ馴れしく呼び捨てやがって…… ムカツク!
「俺を呼び捨てる前に名乗りやがれ。それとも、名前もないのか、お偉い白鬼サマよ?」
 高慢な奴には更に高慢な態度で迎え撃つのが俺の流儀だ。敵を作るんじゃないかって? 上等じゃねぇか。
「威勢がいいな、銀河。そうこなくては面白くない」
 人を食った物言い。どうして白鬼って連中は、これほど俺の神経を逆撫でするんだ?
「私の名はミカエル・ルシフォード・エン・ジュエル。このスカイ・ゾーンの統治者だよ」
 今にも赤バラに接吻けしそうな雰囲気で、白鬼は眼を細めてにんまりと笑う。俺は全身に鳥肌がたった。
 スカイ・ゾーン。白鬼たちの巣くうドーム都市だ。
 本来、黒鬼も白鬼も、それぞれ地球のある世界とは別世界に住んでいる生物だが、どういう気まぐれか、二〇〇年ほど前からグランドに隣接する形で自分たちの都市を造り、一部の鬼族が移り住んできたのだ。どんな世界にも、物好きがいるということか……
 統治者、なんて偉そうな事を言っているが、要するに白鬼の中で血統がいいだけのボンボンに過ぎない。代々、ミカエルという名は、白鬼界でも名の知れた名家の嫡子に与えられるらしい。くだらん。
「それで?」
 俺は、いかにも気乗りしない、という口調で言った。
「そのミカエルサマが、俺に何の用だ?」
「急ぐな、と言っているでしょう? これだから、下賎な連中はいけません。もっと私のようにゆとりを持った生き方を身につけねばならぬなぁ」
 ……くびり殺してやろうか、コイツ……
「言っただろう、俺はおまえと違って忙しいと」
 こめかみに青筋を浮かべながら、俺は笑顔を装った。……マジで血管切れかかってるぞ、今の俺は!
「ふむ」
 ミカエルは勝ち誇ったような笑みで俺をねめ回すように見ると、今まで以上にスローな話し方で、
「パラ・ダイスを手に入れたのだ」
 俺の意識が、一瞬遠退いた。
「パラ・ダイス……だと?」
「ほう、顔色が変わりましたね、銀河。ようやく、私の話に興味を持ってもらえたようだ。いや、わかればいいのです、わかれば……」
「ぐだぐだ言ってんじゃねぇ!」
 俺はしびれを切らして叫ぶと、ミカエルに(とは言っても、水面の像にだが)詰め寄った。
「そんな話を俺が信じるとでも思ったのか!」
 パラ・ダイス。
 何だか良くわからないが、とにかく鬼族の間に伝わる伝説のダイスだ。効果も知れない強力な力が封印されていて、そいつを手に入れた者は世界のすべてを思うがままに操れるという。
 聞いただけで、うさん臭い話だ。しかも、そのダイスは神サマが造ったものだ、とかいうイワクまでついている。そんな物を信じる奴の方がどうかしている。
 だが……
 (決して信じるわけではないが)だが、しかし! もし本当にそんなダイスがあるとしたら、手に入れるのは俺をおいて他にいていいはずがない!
「残念ながら、本当の話なのですよ、銀河くん」
 わざとらしく哀れみを浮かべて、ミカエルは首を振った。
「私は是非、このことを君に伝えたくてね。それでこうして連絡してあげたのですよ」
「ほほう。自分の宝を見せつけたいというわけか?」
 ミカエルは気取った声で笑った。
「いやいや、あなたと賭けをしたくてねぇ」
「賭け、だと?」
「噂では、あなたはどうやら黒鬼以上に性格が悪く、また人間とは思えないほど冷徹無感情の血も涙もない乾燥人間だそうですね」
 完璧に事実だが、てめぇに言われる筋合いはないぞ。
「そんな銀河くんを見込んで、是非、私と賭けをして欲しいのですよ。私を倒すことができたら、パラ・ダイスは君に差し上げましょう。ただし、もし私のもとまで来る間に君が倒れるようなことがあれば、君のティア・ダイスは私がもらい受けます」
 俺は胸の奥に埋め込まれている、オリジナルのティア・ダイスを思った。このダイスが体内にあることによって、俺は他人の涙から特殊なティア・ダイスを産みだすことができるのだ。
「それはそれは、随分と俺に有利な賭けじゃないか」
 鷹揚な態度で、俺は言い返した。
「おまえに勝てばパラ・ダイス。俺は負けても命とティア・ダイスだけで済むわけだ」
 どうせ、何か裏があるんだろう。白鬼が自分の利益にならないことをするはずがない。
「私はね、銀河。退屈したくないのですよ」
 俺に負けないほど不敵に、ミカエルは笑った。
「せいぜい、私を楽しませてくださいね」
 言いたいことだけ言うと、ミカエルはミラーの表面から現われた時と同じ早さて、フッと消えた。
 俺はしばし、七色の水の泉を睨みつけていた。
「銀河?」
 恐る恐るリィが俺を呼ぶ。
「どうするの? ミカエルの挑戦を受けるつもり?」
 リィはすらりとした手足で、ミラー・フォンティンの端に腰掛けた。
「絶対嘘に決まってるわよ。あんなこと言って、あんたをおびき寄せようとしているだけだわ。パラ・ダイスを手に入れた、なんて、でまかせよ」
 俺はまだ何やらぶつぶつ言っているリィをそこに残して、さっさと礼拝堂を出た。
 取りあえず、シャワーを浴びよう。一眠りして、トーストでも噛って…… それから、行動開始だ。
 俺の心は決まっていた。

三 スラム街ファイト

 罠だろう。
 ああ、十中八九罠だ。そんなことは、小型黒鬼に言われるまでもなくわかっているさ。おおよそのミカエルの魂胆は想像がつく。最初からティア・ダイスが狙いで俺を呼び寄せたのか、それとも、本当にパラ・ダイスを手に入れたものの、何らかの要因が欠けていて力を発動させられないか、そのどちらかだろう。
 だが、この際、相手の思惑などどうでもいいさ。
 パラ・ダイス話が嘘だったとしても、子憎たらしい白鬼を痛めつけるだけで面白い。また、本当なら本当で、俺の損にはならない。どちらに転んでも、俺には悪い話ではなかった。
 俺は簡単に身支度を整えた。黒いレザーのジャケットに揃いのパンツ、編み上げの黒いブーツと薄いグローブ。戦闘態勢だ。白鬼の親玉が相手か。楽しめそうだ。俺は鏡に向かって、不敵に笑った。
 ミカエルの言い草は気に入らないが、とにかく、奴の言う通り、俺は黒鬼からも白鬼からも嫌われ者で通っている。人間だって、容姿に魅かれて近づいてくる奴ばかり。誰も俺の本質を知ろうともしない。もっとも、知ったところで嫌悪するだけのことだろうが。
 急ぎ足で教会を出た俺を、リィが追いかけてくる。俺は鋭く黒鬼を振り返った。
「ついて来るんじゃねぇよ。おまえにウロチョロされると目立って仕方がないだろ」
「そんなこと言っても引き下がらないからね!」
 リィは強行な姿勢を崩さない。惚れた弱みとかいうやつで、大抵のことは言う通りにするが、一度言いだしたからにはテコでも動かないという執念深さを持っている。これだから、黒鬼ってのは嫌なんだ。
「第一、銀河」
 リィは俺の肩に飛び乗った。体調わずか三〇センチほどだが、その跳躍力はずば抜けている。
「あんた、どうやってスカイへ行くつもり? スカイへ続く道はグランドにあるSアーチだけでしょ。でも、アーチのゲートは、白鬼が一緒じゃないと開かないのよ」
「おまえに言われるまでもねぇよ」
「どうするの? ミカエルにでも頼むつもり? 迎えに来てくれって」
「馬鹿言え」
 俺は夕方近い教会の門で立ち止まった。
「アテがあるんだ。そんなことよりおまえ、いつまで付いてくる? 大人しく待っていろ」
 無駄だとは思ったが、俺はとりあえず肩の黒鬼を睨みつけた。案の定、堪えた風もなくリィは誇らしげに、
「こう見えても役に立つんですからね。だいたい、あんたの特殊能力だって、もとはといえば、私を買ったから身についたようなものじゃない。少しは感謝したらどう?」
「ちゃんと金は払ったじゃないか。それで帳消しだ。今のおまえは俺にとって何の価値もねぇんだ。うるせぇ植物種め」
「言ったわね!」
 リィが俺の咽喉を蹴り付ける。身体に比して抜きんでた筋力だ。俺は不意をつかれて咳き込んだ。
「ザマ見ろ、銀河」
 舌を出すリィの頭を指でつまんで、俺は足下の石畳に叩きつけた。パシンという小気味よい音がする。これが子猫なら間違いなく内蔵破裂で即死だ。だが、黒鬼という連中は信じられないほど打たれ強い。
 リィはピョイと飛び上がると、
「ついて行くからね。あんたが何と言おうと!」
 捨てゼリフを残して、傍の茂みへと飛び込むリィ。どうやら、俺に隠れてこっそりついてくるつもりらしい。こうなると、身体が小さい分、向こうに分がある。
「俺の邪魔をしたら、ただでは済まさないからな」
 脅し文句を吐いて、俺は夕方近い森の中を、グランド・ゾーンへ向かって歩き出した。

 スカイやボトムに行く道はただひとつ、グランドにあるアーチと呼ばれる特殊空間を通ることだ。本来白鬼や黒鬼は地球上とはまったく違う物理法則の成り立った世界で生きる種族である。そのため、グランドの環境に適応できない場合が多い。ヤツラは自分たちのドーム都市を故郷の環境に近づけて…… と、説明すれば長くなるが、とにかく、アーチを通る以外にヤツラのドームへ入る方法はないのだ。スカイへ続くアーチはS、ボトムへ続くアーチはBと呼ばれる。
 俺はとりあえずグランドに入ると、真っすぐにスラム街へ向かった。
 鬼族はグランドの環境に馴染めないと言ったが、それは大半に対して言えることで、例外がないわけではない。好例のひとつがリィだ。奴は俺に魂を売ることと引き換えに、このグランドで生きる力を手に入れた。理由はどうやら、俺と一緒にいたい、というものらしいが、正直、俺は奴の魂を買い取ることによって、人並み外れた筋力を手に入れられる、というオマケに惹かれたにすぎない。いくら外見が女に似ているとはいえ、奴はれっきとした黒鬼であり、その上伸長はわずか三〇センチときている。余程変わった趣味の持ち主でもない限り、マトモに相手をする気にはなるまい。
 白鬼にも、グランドに住み着いた例がある。俺がこれから訪ねようとしているのがソイツだ。
 名は、ジークフリード。人間社会のスラムに住み着く、金に汚いペ天使野郎だ。白鬼の社会から放り出されたつまはじき者。まぁ、俺としては、どっぷりとあの白鬼社会に浸りきっている連中よりは、遥かにマシだと思うが。
 黄昏の重たい空気がスラムにたゆたっている。グランド中心部の華やかさとは打って変わった貧弱な家屋と、貧相な人々。路上にはあやしげな物品を売る露天商が並び、狭い路地には目つきの悪い腐れ者がたむろしている。
 俺は路地から路地に抜けて、目的地へ急いだ。ミカエルが何を仕掛けてくるかわからない。行動は迅速に行った方がいい。
 俺はやがて、スラム街にしては珍しく開けた、人影のない広場に辿り着いた。その場にたちこめた雰囲気に、思わず足を止める。円形の広場の周囲は、今にも崩れそうな高層建築物の廃虚に取り囲まれ、ドーム都市天井を覆う雨雲の色と相まって、重苦しい。人の気配が完全に絶えている。
 だが、俺はじっと耳を澄まして動かなかった。
「ベイストリート六〇八八」
 こっそりと後をついてきているだろうリィに向かって、俺はジークフリードの住所を告げた。察しのいいリィなら、それだけで俺の意図を汲んでくれるはずだ。
 俺は再び沈黙した。
 何かがいる。間違いなく、何者かが、俺を監視していた。だが、どこから?
 俺は素早く視線だけで辺りを確かめた。だが、動くものはおろか、生物の息遣いひとつ聞こえはしない。
 いる!
 俺の確信は変わらなかった。
 そしてついに、それを裏付けるような異変が起こった。
 カカッ!
 白い閃きが走って、俺の足下に突き刺さった数本の鋭いダーツ。
 飛び退いた俺を追って、更に多い数の矢が襲う。リィの魂を買ったことによって、常人以上の筋力を手に入れている俺は、難なくそれをかわしながら、矢の飛んできた方角を見定めた。
 広場周囲のビルの中でも、最も背の高い建物の屋上に、黒い人影があった。
「煙と何とかは高いところが好きだというが」
 挑戦的に、俺は影に向けて叫んだ。
「どうやらここにもひとり、手に負えん間抜けがいるようだな」
 俺の挑発に、影は動じなかった。ただ、ひらりと軽やかに屋上から身を躍らせる。と、空中の影から放たれたダーツが俺を狙う。それをよけると、俺は一気に影との間合いを詰めようと走り出した。
 俺の特殊能力は、ティア・ダイスだ。だが、戦闘に使うものではない。戦う場合は、大抵肉弾戦になる。拳の届く距離まで近づいておく必要がある。
 敵はどうやら、前面の人影だけのようだ。
 が、俺の背後から、ダーツが空気を裂いて飛んでくる。俺は咄嗟に地に転がって直撃をさけた。
 前方の敵だけではなかったのか?
 素早く振り返ったが、やはり誰もいない。
 ……な、何だ、あれは!
 空中で俺を狙うように切っ先を向けながら、数本のダーツが制止している!
 と、そう思ったのも束の間、勢いよく、こちら目掛けてダーツが突っ込んでくる。
「なるほど、そういうわけか……」
 俺は小手に潜ませた強化鋼でことごとくダーツを払い落とした。
「おまえ、鬼族だな!」
 俺は人影を振り仰いだ。
 そこには、空中に浮遊した二本のダーツの上に立つ、十六、七歳の少年の姿。
 俺を唸らせるほどの美少年だが、身に纏う気配は人間ではない。白を基調とした、ベストとローライズパンツのカジュアルな服装で、瞳は淡い緑、髪は青や翠がグラデーションのように重なっている。鬼族の髪は、言うなれば植物の花弁にあたる。そのため、色鮮やかな色彩をしていることが一般的だ。けばけばしくて、俺は好きになれないのだが。
 鬼族の少年は見下したように唇の端に笑みを浮かべている。
「北城銀河くんだね。会いたかったよ」
「おまえ、ミカエルの手の者か?」
 俺は臆することなく立ち向かった。こんなガキ相手に、びくついたツラなんか見せるわけにはいかねぇ。
「ミカエル?」
 不愉快そうに、少年は顔を眉をしかめた、
「あんな変態白鬼と一緒にされるなんて心外だな。随分、失礼な人だね、君は」
「初対面の相手にいきなりダーツぶつけるのは、礼を欠かないとでもいうのか?」
 少年は首を振ると前髪を掻き上げて、
「確かに君の言う通りだ。だけど、僕の気持ちも察してよ。ずっと、君に復讐する日を心待ちにしていたのだから……」
「俺はおまえなど、知らないぞ」
「僕はね、銀河くん。もう、二〇〇年もの間、この日を待っていたんだよ」
「……はぁ?」
 俺は構えるのも忘れて、本気で首を傾げた。
 …………馬鹿だ。
 俺の辿り着いた結論は、その一言だった。
 二〇〇年? いくら悪魔より悪魔的な俺でも、さすがにまだ生まれてないって……
「なぁ、おまえ……」
 こういう相手にはどう、接したらいいのだろうか。俺はすっかり緊張感が解けて、額を押さえながら、
「ええと、名前は?」
「エミス。エミス・イビル・サー」
『イビル』、なるほど、黒鬼族か。
「それで、エミス坊や」
 俺は余裕たっぷりに笑って見せた。
「少し落ち着いてくれよ? おまえはそう言うが、考えても見ろ、二〇〇年前に俺がおまえに何をできる? 俺はその頃、この世に影も形もないんだぜ。人違いじゃないのか?」
 エミスに動じた様子はなかった。更に眉を厳しく寄せて、
「間違いない。『北城銀河』その名前だった」
「ばっか……」
 俺は思わず言葉に詰まる。
「本当にド阿呆じゃねぇの、おまえ! たまたま名前が同じだからって理由で、赤の他人の罪をなすりつけられるなんざ、かなわねぇ。俺はまだ二三で、二〇〇年前は……」
「問答無用!」
「! 無用じゃねぇ!」
 俺は慌てて跳躍した。
「おまえには人一倍常識的思考が必要だぜ! 人の話を聞けってんだ!」
 どうやら、本気でエミスは俺を仇と信じているらしい。
 どうにかして、誤解を解かなければ、ここで無駄に体力を消耗することになる。正直、ボトムで育った俺としては、黒鬼を殺めるのは抵抗があるのだ。
 エミスが腕を振るう度に、次々と新しいダーツが現われる。その一本一本が意志を持っているような動きで、何度叩き落としても懲りずに襲ってくる。
 よけるだけで精一杯の俺を楽しんで、エミスはよく通る声で笑った。
「いいね。君は簡単には殺さないよ。たぁっぷり、いたぶってあげる」
 どうして俺が、いきなりこんな変態S野郎の相手などせねばならんのだ! 
「これはね、ア・ライブ・ダーツっていうんだ。僕の思い通りに動く、カワイイ子どもたちだよ」
「そんなこと、訊いちゃいねぇって……」
 俺はたくみに攻撃をかわしながら、合間をぬって悪態をついた。だが、黒鬼の魂を食らって増強されている俺の身体をもってしても、この間髪を入れない攻撃から逃れ続けるのは簡単ではなかった。
 大きく後ろに跳ね、地に足がつくなり横っ飛びに左へ跳んで、地面を転がり、態勢を立て直すやバク転で退く。顔面を掠めるダーツを小手で払い落とし、エミスの位置を確認して徐々に間合いを詰める。だが、奴は俺をからかうように、ダーツに乗って浮遊しながら、ひょいと距離をとってしまう。
「駄目だよ、銀河くん。もっと逃げて足掻いて、僕を楽しませてよ」
 さも嬉しそうに笑うエミス。カワイイ顔して、超変態だぞ、こいつ!
「苦しいの?」
 息が上がってきた俺を眺めて、エミスは満足げに目を細める。
「でもね、こんなものでは終わらないよ。まだまだ、可愛がってあげる……」
「だから…… 違うって……」
 もう、勘違いだと理解させるのは無理かもしれない。
 できればあまり傷つけずに終わらせたいのだが……
 と、余計なことを考えたのが隙を産んでしまったのか、かわしきれなかった一本のダーツが、顔を掠めた。
 熱いものが頬に流れ……
 俺の中で、何かが音を立てて切れた。
 空中のエミスを睨みつける。
 俺の本気の眼光に、さしものエミスも戸惑った表情を浮かべる。
 強く地面を蹴って飛び上がると、空中のダーツを足場にして更に高く跳躍する。
 意表を突かれたようにエミスは反応出来ない。
「砕けろ!」
 その横っ面に痛烈な回し蹴りを見舞う。見事に吹っ飛んだエミスはビルの壁にぶち当たって、どさりと地面に落ちた。同時に、制御を失ったダーツがばらばらと雨のように降る。
 辺りは一瞬静けさを取り戻し、俺の乱れた呼吸だけが聞こえていた。頭の中がしびれて真っ白だ。何度か深呼吸を繰り返すと、用心しながら倒れて動かないエミスに近づいた。
 鬼族にも様々な種類がある。リィのように小型の者もあれば、エミスのように人間と変わらない体格の者、それから、途方もなくでかい奴まで、実に多彩だ。それらは別の種ではなく、言うなれば、犬にも小型犬や大型犬がいるのと同様だ。
 俺はうつ伏せに倒れたエミスの頭を靴で蹴り動かした。ぴくり、と震える。起き上がろうとした奴の肩を踏みつけて、動きを封じる。手加減はしない。黒鬼がどれだけ丈夫にできているかは、リィで検証済みだ。
「褒めてやる」
 俺は頬の血を親指で拭った。
「俺の顔に傷をつけたのは、おまえが初めてだ」
 エミスは何を思ったか、声を押し殺して笑っている。
「それは光栄だね、銀河くん」
 ぐい、と奴は俺の力に抵抗して身体を起こした。
 まずい。信じられないことだが、俺以上の怪力だ。俺は反射的に一歩飛び退いた。
 ダーツだけではない。おそらくエミスは、肉弾戦も相当デキる……
 ふらりと立ち上がったエミスの唇の左端から、血が垂れている。血反吐を吐き捨てて俺を睨むその翡翠色の瞳には、怒りがありありと浮かんでいる。
「教えてあげる。僕の顔を蹴りつけたのも、君が初めてだよ」
 俺たちの間に、ビンと張った緊張感がみなぎった。
 どうやらもう、誤解だ何だ、という問答は無意味だ。明らかに今、『この俺』が、こいつの恨みを買った。
 一体、この黒鬼は何者なのだろう。
 今更ながら、俺はそれを考え始めていた。 エミスは強い。俺も大抵の鬼族に負けるつもりはなかったが、コイツには……まずいかもしれない……
 と、弱気を起こした俺の隙を突いて、ダーツが一斉にこちらへ向かって飛んでくる。夢中でそれをかわすうちに、壁際へと追い詰められていく。四方八方から、俺の逃げ道を制約するかのように、巧みにダーツが迫ってくる。
 タ、タンッ!
 壁を背にした俺のすぐ脇に、ダーツが突き刺さった。真正面にはエミスと数十発の空中浮遊するダーツ。背後は廃ビルの外壁。俺は息を飲んだ。
 さすがに、上下左右三六〇度球状にダーツで狙われていては、俺も動くことができない。脅すように、一本、一本と俺の身体をかすめて浅い傷を作りながら、ダーツが壁につきたっていく。
 一体、どうしたっていうんだ! 俺らしくもない、この状況は!
「たいしたことないんだね、君」
 エミスはつまらなそうに唇をとがらせた。
「ねぇ、銀河、ティア・ダイスとか使わないの? とても不思議な道具だって聞いているのに…… 見てみたいな」
「さぁ、どうだろうな」
 俺は強がった。
 ティア・ダイス…… 確かに、できるものなら俺だって使いたいのだ。今の俺の涙なら、恐らくエミスを滅ぼすだけの力を持った強力なダイスを産めるはずだ。
 だが、俺にはそれができない、致命的な理由があった。
 俺は泣けないのだ。
 ティア・ダイスを手に入れる代わりに、俺は自らの涙を捨てているのだ。
 鋭いダーツの切っ先。そして、それよりも更に鋭利なエミスの視線。
 万事休すだ……

四 天使はがめつい

 雨が、降っていた。
 いつしか、雨が降り始めていた。
 俺は冷たいコンクリートの上に倒れたまま、全身を雨に打たれていた。身体に、力が入らなかった。冷えきっているのか、それとも血を流し過ぎたのか……
 エミスはどうしたのだ? よく覚えていない。
 ただ、体中にビリビリとしびれるような傷みがある。ダーツの刃で裂かれた肉の間に雨水が流れ込んで、そこを中心にして熱くうずくような傷みが走る。
 俺は……
 目の前ではじける灰色の雨。閃光が一、二秒、周囲を白く染め、続けざまに大地を揺るがす低音の雷鳴が轟く。
 無様だ……
 俺は、何でこんなことになっているんだ……?
 エミスは俺にとどめを刺したのか……?
 いや、それ以前に、どうして奴はいないのだ?
 何も覚えていなかった。無数のダーツの切っ先が俺を狙って輝き、そして……記憶が欠落している。だが、全身の傷が、あの後に何があったのかを、いやがおうにも物語っていた。
 俺は恐らく、エミスの攻撃に為す術もなく、身を晒したのだろう。そして奴は、心ゆくまで俺をいたぶり、気を失った俺を放りだして行方をくらませたのだ。
『簡単に殺しはしない』
 奴は確かそう言っていた。恐らく、これから先も俺を弄ぶのが目的なのだろう。
 ……とんでもない奴に目をつけられたものだ! しかも誤解だ!
 だが、俺にとって、すでにエミスの人違い&勘違いなど、どうでも良かった。この俺が、黒鬼風情に破れたという胸くそ悪い現実が問題なのだ。
 俺は渾身の力で上体を起こした。雨が血を洗い流していく。手足が強ばっている。随分長い時間、みっともない姿でひっくり返っていたのだろう。
 ふらつく身体を廃ビルの壁にもたせ掛けて立ち上がると、俺は雨幕を通して周囲を眺めた。人の姿はない。どうやら、行き倒れ同然の俺を他人に見られずには済んだようだ。
 エミスの奴、今度会う時が最期だ。今日の屈辱は必ず果たしてやるからな……
 降りやまない雨の中、俺は傷の酷い左足を引きずって歩き始めた。だが、十歩も進まないうちにバランスを崩し、再び硬いコンクリートに崩れ落ちる。
「駄目だ……」
 我知らず、俺は呟いていた。
「ここで死ねない……」
 激しさを増す雨音の向こうから、かすかに俺の名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。俺は力を振り絞って顔を上げた。
 人影がこちらへ駆けてくる。
「銀河!」
 驚いたように目を丸くして近づいてきたのは、紫系の髪に銀色の瞳を持つ、ジークフリード・ヴァイテ。よりによって、一番見られたくない所を、一番見られたくない相手に見つかった……
 俺は無理に唇で笑って見せた。
「遅いじゃねぇか。役立たずめ」
「……捨て置くぞ」
 あながち冗談とも思えない口調で、ジークは満身創痍の俺の上に屈み込んだ。
「銀河、助けて欲しくば、これ以上余計な口はきかないことだ。本当に捨てて行きたくなる」
 こいつならやりかねん。
 俺は大人しく口と同時に瞼も閉じた。途端に、逆らいがたい重たい睡魔が押し寄せてきた……

 暖かな部屋、柔らかなベッド、花の香り、優しいピアノソナタ。
 どうせならば、そんな環境で目覚めたかった。
 すきま風の吹き込む部屋、硬い板張りの床、かび臭い匂い、わめき散らす酔っ払いの罵声。
 まぁ、現実なんてのはそんなものだ。
 俺はガンガンと痛む頭を押さえ、首を回して周囲を確かめた。どうやら、簡素極まりないボロ小屋に、毛布一枚もなく寝かされ……いや、転がされているらしい。
 ここがどこか、容易に察しがついた。ジークフリードの経営する(経営とは言っても、裏で取り仕切る悪玉に過ぎないが)数多い酒場の物置か何かだろう。俺の足下のあたりに、リィがコロンと横になって眠っている。寒さに強い鬼族なら平気だろうが、俺は指先の感覚が無くなるほど、身体が冷えて固まっていた。
 ジークの奴、俺を助ける気があるのかないのか。
 物置の天井の一部が崩れていて、ドーム都市の空が見える。そこには今、秋の星座の一部が映されていた。
「確か、昨日は春の大三角を見たような気がする…… どこかの我侭野郎がドーム季節の法則をいじくったのか、それとも、俺が半年の間眠っていたのか……」
「おまえさんが眠っていたのは、丸一日だ」
 ギギッと建て付けの悪い音がして、古めかしい木の扉が外から押し開けられた。すらりとした長身で(腹立たしいことに、俺より背は高い)凛々しいマスク。だが、性根は腐りきっているペテン師天使。
「ジーク」
 俺はこれ以上相手に情けない姿を見せまい、と、痛む傷に堪えて無理に身体を起こした。だが、ジークの反応は、
「やせ我慢は見苦しいぞ」
 こ、こいつ…… 俺は苦笑を漏らした。
「テメェ、助ける気があるのか? 傷口もほったらかしでこんなジメジメした暗所に放置しやがって……」
 俺の苦情にも、ジークは眉ひとつ動かさない。
「銀河、それでも一応、助けたことに変わりはないだろ。感謝がないぞ?」
「ありがとう、とでも言って欲しいか?」
 俺はばたりと仰向けに身体を倒した。ジークはサラリと、
「言葉などいらん。形で示せ」
 だろうと思ったぜ。
「一〇〇」
 俺はぶっきらぼうに数字を出した。ジークが首を振って、
「二五〇だ。俺はここまでおまえを背負ってきたんだぞ。しかも、土砂降りの中を、だ」
「……二〇〇で我慢しろ」
「いいだろう」
 ジークは、俺の足下で呑気に眠り続けているリィを眼で示した。
「だいたいのことは、この黒鬼から聞いている。ミカエルからパラ・ダイスを奪いに行くとか?」
 余計なこと言いやがって…… 俺は痛む脚でリィを思いきり蹴りつけた。
「ふぎっ」
 妙な声を上げてのけ反ると、小型悪魔はようやく眼を醒ました。
「何? 朝?」
 とぼけた顔できょろきょろするリィ。
「おまえ、こいつにパラ・ダイスのことを喋ったのか!」
 リィはきょとんとしてから、アハ、と舌を出して笑った。
「このお喋り黒鬼が……」
 ジークのことだ。どうせ俺に同行するつもりになってるだろう。俺がミカエルに倒されることがあれば、ティア・ダイスを横からかすめ取り、俺がミカエルを倒すようなら、これまた横からパラ・ダイスをかすめ取る。どちらにしろ、漁夫の利を狙ってくることは目に見えている。
 不機嫌な俺の胸の上に、リィがひょいと飛び乗った。
「言っておきますけどね、銀河。私がジークを呼びに行かなきゃ、あんたは雨の中、のたれ死んでいたんですからね!」
「どうせおまえは俺の持ち物だろ。これくらい当たり前だ。だいたい、いつもいつも俺の邪魔ばかりするくせに…… たまには役にたってもらわねば、割にあわん」
「何ですってぇ!」
「内輪もめはその程度にしておいてもらおうか」
 ジークは、動けない俺に覆いかぶさるように身体を低めた。意味あり気に、俺の髪を指で梳く。気色悪いが、抵抗する余力はない。
「俺は『悪魔』じゃない。もしおまえがどうしても、というのなら、アーチを開いてやってもいいぞ」
「……一五〇」
 俺は早口に呟いた。にまり、と笑うジーク。
「もう少し勉強しようじゃないか、銀河」
 言いながら、俺の右肩の傷口にズブリと指を突き刺す。閉じかけていた傷が開いて血が滲む。俺は思わずその痛みに短い悲鳴を上げた。負けるものかと歯を食いしばり、どうにか声を絞る。
「……二五〇」
 グリッ!
「いっ……」
「いいザマだな、銀河。さて、そろそろちゃんと考える気になったか?」
 ジークの尖った爪が直接筋肉に刺さる。
「……さ……さん……びゃく……」
「おや、こっちの傷も生乾きだな……」
「あぅっ!」
 左太股の裂傷を鷲掴みにされ、鋭い悲鳴が口をつく。
 こいつ、ヒトのヨワミにつけ込みやがって…… 覚えてろよ!
「いけないね、銀河、そんな反抗的な眼は……」
 サディスティックなジークの眼の輝きを感じ取って、俺は慌てて叫んだ。
「五〇〇! それでどうだっ!」
 ぴたり、とジークの動きが止まる。
「もう一声」
 耳元で低くささやくジーク。
 俺は悔しさと激痛とに震える身体に鞭打って、
「五五〇……」
「……六〇〇だ」
「………………………………いいだろう」
 交渉は成立した。
 ジークは余裕タップリに腕を組むと、俺を斜めに見下ろした。
「それにしても、一体誰にやられた? おまえともあろう者が」
 俺はジークにいたぶられた傷のうずきを堪えながら、
「エミスとか名乗っていた。凄まじい変態野郎だが、ミカエルとは無関係らしい」
「エミス……ね?」
 ジークは考え深そうに顎をさすりさすり、
「まさか、サティーヌ・エミスの関係者じゃないだろうな」
「誰だ、それは?」
「二〇〇年前に現れた化け物よ!」
 リィが横から叫ぶと、肩をブルッと震わせた。
「鬼族の間じゃ語りぐさなの」
「聞いたことがないぞ。詳しく話せ」
「鬼族がこの人間界にボトムとスカイを造り始めたのが、今から二〇〇年程前……」
 ジークがまるで、自分の昔話を語るかのように遠い眼をしながら言った。
「その頃、ボトムに強力な黒鬼が生まれた。容貌は美しいが、その内面は残虐非道限りなく、種族を問わず、誰もが奴を恐れた。その黒鬼の名が、サティーヌ・エミスだ。サティーヌの横暴を止めるべく、神が動いた」
「か、神?」
 俺はうさん臭さを込めてジークをねめ上げた。ジークは俺の意を察して苦笑した。
「ああ、信じがたいが、とにかくそう伝えられている。神はサティーヌの強大な力を、ひとつのダイスに封印した」
「それが、パラ・ダイスって訳か」
「そこまではわからん。だが、おそらく、な」
 俺は傷の痛みも忘れて考え込んだ。もしジークの話がすべて真実だとしたら(このペ天使を信用する時点で問題アリだが)、エミスとパラ・ダイスとの関係は無視できない。だが、『エミス』などよくある名だ。無関係かも…… しかし、確かアイツ、二〇〇年前の恨みがどうとか……
 俺の考えは現在と二〇〇年前とを行ったり来たり。
「まァ、確かなことは……」
 ジークが結論を口にした。
「次にエミスに会ったときが、おまえの最期かもしれない、ということだな」
 俺はじろりとジークを睨み、
「他人事のように言うな。おまえとて、俺はお得意様だろうが。無くしていいのか?」
 ことあるごとに俺から大金巻き上げるくせに。
 何を思ったか、ジークは不気味に微笑んだ。
「まあ、傷が塞がって動けるようになるまで、ココでじっとしてろ。こんな薄暗く湿気の多い不衛生な場所に、わざわざ気位の高いエミスが出向いてくるとは思えん」
「そんな場所に、重症人を寝かせておく気か、キサマ」
「手当てして欲しいか?」
 ジークの眼が欲深に光る。
「一ヶ所の手当てにつき、五〇。まぁ、全身を診るとすれば、ざっと二〇〇〇ってとこか?」
「……舐めて直す」
「好きにしろ」
 この業つくばりの金の亡者めが!
 高笑いを残してジークが部屋を出ていく。俺は全身を弛緩させると、長く息を吐いた。何だって、俺はこんなことやってるんだ……
 と、リィが眼を輝かせて俺を覗き込んだ。
「何だよ?」
「うふっ、舐めてあげようか?」
「はぁっ?」
「だって、言ったじゃない。舐めて直す、って」
 ……こいつ……
「出てけ! 目障りだっ!」
 俺の剣幕に驚いて、小悪魔は慌てて窓の格子の間から飛び出していく。
 俺は息をつくと、ようやくひとりでゆっくりと事態を考え始めた。
 しばらく邪魔は入らないだろう。ジークが言ったように、お高く止まったエミスが、こんな小汚い場所になどくるはずが…… 待てよ?
 気位の高い? 確かにエミスはそんな感じだったが、どうしてそれをジークが知っている? 俺は言っていないはずだが……
 ……あのペ天使……俺をはめる気だろうか。
 何にしても、取りあえずパラ・ダイスを手に入れることが先だ。もし、本当にあのダイスに伝説の化け物が封じられているとしたら、それこそ、ミカエルになど渡しておけない。スカイへのアーチをくぐるには白鬼の力が必要不可欠となる。俺に協力してくれる(金で動く)ような悪徳白鬼はジーク以外に考えられない。ここは、騙されたフリをしておく方が賢そうだ。
 スカイへ入ってしまえば、黒鬼であるエミスは追ってこられない。逃げ込むようで気分は悪いが、取りあえず、エミスのことはパラ・ダイスを手に入れてから、改めて考えるとしよう。
 しかし、昨日から俺はとことんツイてない…… イイ女には会えないわ、ガキのお守りする羽目になるわ、ティア・ダイスのブレイクは散々な結果だわ、ミカエルに宣戦布告喰らうわ、エミスの変態プレイに付き合わされるわ、ジークには有り金絞り取られるわ……
 覚えてろ! パラ・ダイスを手に入れたら、皆まとめてぶっ潰してやる!

第二章 リッツヴィ

 一 コインとカードと妖精

 通常の人間なら十日以上は安静が必要な傷だったが、俺は三日後にはどうにか立ち歩けるまでに回復していた。これも、リィの魂を買い取った効果だろう。その小悪魔リィは、現在、単独でエミスを探しに出ている。どうにかして奴の正体を暴き、俺のポイントを稼ぎたいらしい。まったく、懲りない黒鬼だぜ。
 俺は体力が回復すると、近くのホテルでシャワーを浴び、買い求めた服に着替えて、意気揚々ジークのカジノへ足を踏み入れた。俺が寝かされてた小屋の、すぐ裏手だ。
 目的?
 それは決まってるだろ。この店には極上の玉が揃っているんだよ。ジークの野郎、S系のナルシスト天使ではあるが、人間の女の好みは俺と共通の部分が多い。従って、自動的に奴のカジノには俺好みの女が多く雇われている、ということになるのだ。もっとも、白鬼のジークが人間に興味がある、という時点でかなり珍しいことなのだが。
 あれだけ金を積んでやるんだ、少しくらい、従業員を借りてもバチは当たらないだろう。俺は勝手に納得すると、賑わいを見せる入口ゲートに近づいた。
 時刻は午後九時に近い。ドーム内の照明はネオンが映える明度まで落とされ、空には、これまたでたらめな夏の星座が輝いている。管理者の気分次第で、毎日のように季節が変わってしまうのだから、随分いい加減なものだ。ドーム都市の中には、きちんと季節を守る都市もあれば、ここのように毎晩変わるもの、年中同じ季節のものもある。実に多彩で、人々は自分の好みの都市環境を選んで住み着けばいいのだ。
 店の入口ゲートの上には、でかいネオン文字が悪趣味なイエローとピンクで輝いている。
『GORDEN ROSE』
 人類史上、最も有名なカジノの名だ。今から三世紀ほど前のアメリカ、ラスベガスで名を轟かせた、最高級カジノ。その名をパクった、いかにもジークらしい店名だった。
 入店には、厳しいチェックがある。美形の金持ちしか客として認めないのだ。これまた、ジークらしいと言えば奴らしい。
 入口に立っていた燕尾服姿のチェックの男は、俺を見るなり急に姿勢を正した。何度か出入りしている俺の顔を知っているらしい。
「北城銀河さま」
 男は馬鹿丁寧に俺に頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました。お通しするようにと、オーナーより申しつかっております。ささ、ごゆるりとお楽しみ下さいませ」
 気持ち悪いほどにこやかに、男は俺を店内に招き入れた。
 眼に刺さるほど眩い、天井からの照明に飾られた入口ホール。豪奢なシャンデリアと原色をちりばめた壁紙、歩くと沈むような毛足の長い赤絨毯。ホールの正面には左右に弧を描いて二階へ伸びる大階段。一階フロアーがラウンジになっているのに対し、二階はコインスペース。三階から上はエスカレーターで上がれるようになっており、カードやルーレットのフロアだ。
 俺が用があるのは、主にこのラウンジか、五階のパブ、もしくは最上階のホテルか…… 残念ながら、この施設の本来の目的であるギャンブルには、からっきし興味がわかない。どうせジークが俺を勝たせないよう小細工するだろう、という疑念のせいかもしれない。
 俺はちらりと壁際の鏡に顔を映した。幸い、エミスに付けられた頬の傷は奇麗に消えている。まったく、俺の顔に傷痕でも残したらどうするんだ。ふとそんなことを考えて、俺は思わず苦笑した。どうやら俺も、ジークやミカエルを非難できないナルシストかな。
 ラウンジを見回す。女の何人かがざわついた雰囲気の中で、ちらちらと俺を見てささやきあう。俺は素早くその場の女たち物色した。五〇名ほどの身なりのいい客の中で、女は約半数。俺の目にかなう奴は…… ま、いないな。
 やはり、階上のパブのホステスあたりが…… いや、確か四階のルーレットには、この前、声を掛けそこなった好みの従業員がいたはずだ。
 俺は思いを巡らしながら、ゆっくりと大階段へ向かった。きらびやかなドレスの女たちの視線が俺を追ってくる。いくらドレスや宝石が美しかろうと、てめェら自身が芋じゃ、お話になんねぇんだよ。
 階段に一歩足をかけたとき、突如二階から悲鳴が上がった。何事かと振り仰いだ俺の上に、黄金色のコインがバラバラと降ってくる。
「!」
 俺は階段の手すりを飛び越えると、素早く大階段の下へ避難した。コインの雨に打たれて、客たちが悲鳴を上げる。俺は足下に転がってきた一枚を拾い上げた。このカジノで使われている店名の刻まれた定番のコインだ。特に変わったところはない。
 誰かが、二階からばらまいたのだろうか? それにしては量が多すぎる。床一面、金色の霜が降りたように光っている。
 ムズ、と俺の手の中でコインが動いた。
 俺が見守るうちに、平らなコインが瞬く間に球体に膨れ上がり、ビリッと真っ二つに裂ける。俺は反射的にそれを投げ捨てた。絨毯の上で、それは更に変形を続け、やがて種子から植物が芽生える映像の早回しのように、ムクムクと巨大化する。
 金色に輝く球体の身体。節のある四対の足。球体の上部には、三方向に飛び出した拳大の複眼。
 まるで巨大な金属の蜘蛛だ。だが、そんなオカルトじみた生物がいるはずなどない。たとえ見かけは違っていようと、これは明らかに鬼族の変形型だ!
「銀河っ!」
 階段の下から飛び出した俺の傍に、身軽にジークが身を寄せてきた。互いに背を合わせ、周囲に警戒する。コインの雨はやんでいたが、床に散らばった無数のコインから、それぞれ蜘蛛型鬼族が生まれようとしている。
「どういうことだ、ジーク、このおぞましい連中も店の演出か?」
 俺は皮肉を言いながら、ジリジリと俺たちににじり寄ってくる巨大蜘蛛を睨みつけた。離れた場所で、女たちの切り裂くような悲鳴が立て続けに起こり、店内は騒然としてパニックに陥っている。何匹かの蜘蛛が大階段を駆け上がり、二階へ乱入したらしい。階上からもつんざく悲鳴だ。
 突然現われたこの奇怪な連中に、皆為す術もなく逃げ惑うだけだ。店の外へ逃げ出そうとした客のひとりが、飛びかかってきた蜘蛛の足先にある鋭い爪で背中から貫かれ、床にくし刺しにされる。
 背後でジークの舌打ちが聞こえた。
「どうしてくれるんだ、銀河?」
「何が?」
 素っとぼける俺。
「こいつら、どうせミカエルかエミスか、どちらかの玩具だろうよ。どちらにしろ、こいつらが発生した原因はおまえにあるぞ!」
 アア、やっぱり?
 鬼族はその種子をあらゆる物体に産みつけることができる。そして種子はその環境の特性を持った形で成長する。
「白か黒かはわからんが、取りあえず、コインに着生した鬼族に間違いはないようだな」
 俺は金ピカに光る蜘蛛鬼族の光沢ある身体を眺めた。先ほどの客の例から見て、その脚の破壊力はなかなかだ。まともに食らえば、間違いなく身体を貫かれる。
 ったく、大昔には猫のヒゲだとか、下水のスライムだとか、饅頭だとかから生まれた鬼族もいたそうだが、まさか、今度はコインから、とは…… 鬼族ってのも、随分バラエティに富んだ種族ですこと!
「銀河、どうでもいいが、責任取れよ」
 ジークが冗談抜きで言う。馬鹿野郎。この、数知れない連中を俺ひとりでやれる訳なかろうに……
「おまえも手伝え。ここはおまえの店だろう?」
「そうだったな。つまり、店からおまえに損害賠償を請求できるわけだ。それに加えて、どうやらおまえは助っ人が必要らしいから、そのお代もそこそこ期待できそうだ。これはなかなか、美味しいハプニングかもな」
「どっちも払わねェぞ、俺は!」
 被害実費だけならともかく、ジークのことだ、慰謝料と称して恐ろしい額を提示するに決まってる。
 と、生意気にも複眼で俺をねめ付けていた一匹が、一番後ろの一対の脚で立ち上がり、前の三対の脚を伸ばして俺に掴みかかろうと飛び跳ねた。すかさず、俺は相手の腹を蹴り飛ばした。
 ……き、傷に響く。俺の靴底には破壊力を増すために鋼が埋め込んである。それに加えて人並外れた筋力、厚さ一メートルのコンクリートを砕く蹴りだ。ところが……
「効いていないようだぞ」
 ジークがぼそりと呟く。俺に吹っ飛ばされた化け物蜘蛛は、ごろごろ転がって壁に激突した直後、間をおかずにのそりと立ち上がったのだ。蹴った瞬間の感触でわかったのだが、ヤツラの身体はコインからできているとあって、硬貨金属……い、いや、硬化金属真っ青の強度を持っているらしいのだ。
 最初の一匹に刺激されてか、連鎖反応を起こしたように、蜘蛛鬼族たちは一斉に俺に襲いかかってきた。
 相手のあまりの数に、逃げるに逃げられない。俺はとりあえず、飛びかかってきた連中を回し蹴りの下に封じた。だが、ヤツラは一向に堪えない上、とにかく数が半端じゃない。こちとら、病み上がりで本調子が出ないというのに。
「こら、ジーク! おまえも戦わないか!」
 俺はにやにやしながら俺を見守っていた欲得天使に怒鳴った。
「ここはてめェの店だろが! 俺は何も支払わないって言ってんだぜ! 被害がでかくなりゃ、損だろう!」
 ジークの奴、店のことよりも、俺を眺めて楽しめればそれでいいらしい。
 ここまできたら、やるしかないか。
 俺は蜘蛛鬼族の鋭い脚をかわしながら、素早く胸元に手を差し入れた。外側からではわからないが。俺の身体の中には、ティア・ダイスのオリジナルが埋め込まれている。その力は涙からティア・ダイスを産むだけではなく、もうひとつ、俺に特殊な力を与えてくれる。だが、できれば使いたくないのだ。
 あれほど追いつめられたエミスとの戦いにおいてさえ、使わなかった技だ。
 何故出し惜しむのかって? それはな……
「ティア・エッジ!」
 ズキリ、と胸に走る鈍い痛み。
 胸元の、ちょうどティア・ダイスが埋まっている心臓辺りから、細いリングが突き出してきた。俺の手首が入る程度の大きさの、透明な輪だ。思いきりそれを引くと、胸を裂きながらガラスのように透き通った刃が現われる。
 わかるか? コレ、半端じゃなく痛いんだっ! その上、使った翌日は隈が酷いし肌荒れ起こすし精力減退だし、イイコト何もない。
 ついでに、柄もない。刃に直接リングがついてるだけ。その輪に手首を通し……まぁ、簡単に言えば、薙ぐように振り回すのだ。使い道の難しい武器だが、取りあえず、強度だけは申し分ない。
 俺は傷の浅い左腕にティアエッジを構えると、蜘蛛鬼族目掛けて降り降ろした。
 バギッ! 鈍い音。一瞬、エッジの方が割れたのではないかと思うほどの衝撃が腕に走る。だが、幸いにも真っ二つに砕かれたのは蜘蛛の方だった。
 立て続けにエッジを振るい、片端から鬼族を切り捨ててゆく。だが、切っても切っても、数が減る気配はない……
 ジークもようやく自らの意志で参戦することを決めたらしい。重圧弾を放つ特殊な銃で蜘蛛を仕留めていく。ジークの銃声が天井のシャンデリアまでも震わせた。弾け飛ぶ蜘蛛の残骸が派手に散らばって増えていくが、とても追いつかない。
 そうする間にも、店内にいた人間達は出口に殺到したり、奇声を上げて逃げ惑ったり、失神したりと、手に負えない状態である。
「ジーク!」
 俺は攻撃の合間に叫んだ。
「これじゃ埒があかん! もったいぶらずに例の手を使え! 俺だってリスクを承知でこんな真似しているんだぞ!」
 相手をぶった斬るうちに、徐々に俺の胸から血が滴る。エッジを産むときについた傷がぱっくりと口を開けているのがわかる。
 ただでさえ、万全じゃないというのに!
「仕方がないな」
 ジークはまるで目の前で起きている惨状が他人事であるかのような、冷めた口調で言った。
「どうやらおまえも苦しいようだし。まぁ、俺がいなけりゃ何もできないからな、おまえ」
「うるせぇ! だいたい、おまえの管理が杜撰だから、コインに鬼族の種なんかがくっつくんだろ!」
 言いたいことはたっぷりあったが、今は口論している余裕はない。蜘蛛の鋭く尖った脚が、息をつく間もなく俺の肌を掠めて空気を裂く。このままでは、ふたたびあの小汚い小屋で傷口舐めて日を明かさねばならなくなる。冗談じゃねぇぞ!
「では、いくか。銀河、準備ができるまで、こいつらを俺に近づけるな」
「無理言うな!」
 わかってんのか、今の俺の、手いっぱいな状況が。
 俺たちの周りは既に阿鼻叫喚の地獄絵図と化している。誰が送り込んできたのか(はたまた、自然発生なのか)知らないが、この節操のない蜘蛛鬼族らは、手当たり次第に客を襲い、ブスブスと音を立ててその身体に脚を突き刺していく。俺とて、一瞬でも気を抜けば同じ運命になりかねない。
 エッジを一閃させ、ジークを狙っていた蜘蛛の足を切り落とす。この状況下で自分以外の人間の面倒まで見ることがどれほど困難か、想像してみてくれ! 俺がどんなに、このペ天使を放り出そうと思ったことか。
 だが、非常に腹の立つことではあるが、この危機を脱するためには、是非ともジークの持つ『切り札』の力が必要だ。
 当のジークは、胸の内ポケットから一枚のカードを取りだした。手のひらサイズの何の変哲もないカードに見えるが、これもまた、俺のティア・ダイス同様、特殊な能力を秘めたアイテムだ。
 黒枠のカードは中央が抜けていて(カード、と言うよりは、ただの四角い枠と言った方が的確だな)、そこから向こう側を見通すことができる。
 ジークはカードを顔に近づけ、穴から蜘蛛の大群を捕らえた。
「キャッチ」
 びくん、と一部の蜘蛛たちの動きが固まる。ジークが穴から覗いたとき、彼の視野に入っていた蜘蛛たちだ。
「ブレイク!」
 ドドンッ!
 床を揺さぶる爆音が響き、硬直していた蜘蛛たちが一斉に砕け散る。金属の身体の破片が辺りに散乱する。視野に入った生物の動きを封じ、破壊するアイテム、ディス・カードの力だ。
「その調子で頼むぜ!」
 俺はようやく明るさが見えてきた戦況に、気力を取り戻した。
「キャッチ! ブレイク!」
 ジークのブレイクコールの度に、数十匹の鬼族が吹き飛んでいく。手に負えないと思われた蜘蛛鬼族の数は、確実に減らされていった。
 胸の傷がうずき、俺の呼吸が乱れるころ、ようやく、この単調な殺戮劇も終幕を向かえていた。
 ラウンジと二階の蜘蛛を一掃した俺たちは、外や階上へ続く道を調べた。どこも破られてはいない。どうやら店外に出た蜘蛛鬼族はいないらしい。
 闘い終わって…… 周囲はまさに惨状と呼ぶにふさわしかった。鬼族たちの死体がうず高く、ここが広々としたラウンジであったことなど、思いもつかない状況だ。そして、金色に鈍く光る頑強な破片に埋もれるようにして、客の死体が幾つも見える。
「参ったな」
 ジークはカードを懐にしまうと、腕を組んで周囲を見回し、肩で溜め息をついた。
「これでこの店にも、見切りをつけねばならんな。さすがに、客足が遠退く」
「確かに、化け物の出没するようなカジノじゃ、客も寄りつかねぇだろうなぁ」
 俺はさらっと言ってのけた。どうせ、ジークが裏で仕切っている店は、ここだけじゃない。一店くらい潰したところで、大して被害はない。しかも、ココの責任者はジークではなく、雇われ店長だ。つまり、客の死傷の責任はすべてその哀れな店長に降りかかるのであり、ジークは表立って何の咎めも受けずに済む。恐ろしいシステムだ。
「しかし、一体どこのどいつなんだ? こんな悪趣味な連中を送り込んできやがったのは」
 俺はばらばらになった蜘蛛の脚を一本拾い上げた。鬼族が発生したとなると、どこからか種子が舞い込んだということになる。こんなに大量の種子がコインだけに着床した、というのは、自然ではあまり考えられない。となれば、誰かが意図的に仕組んだことになる。
 ミカエルか? エミスか? それとも、また別の誰かなのか……
 首謀者についての推論を巡らしながら蜘蛛の死体を踏み越えていた俺は、ふと、前方で動いた物に気づいて、身体を低く構えた。
 まだ生き残りがいたのか……
 俺は左手のエッジをかざして、一歩近づいた。と、
「!」
 のそり。
 金属の死体の山をかき分けて現われたのは……
 ぎょろんと大きな眼。子ども程度の頭身の身体。皮膚の一部が変化してできた服。外見は少女のようだが……
 そこに立っていたのは、鬼族でも人間でもなかった。ある意味、眼を背けたくなるほど見苦しく、そしてまた、興味を惹かれて止まないほど奇怪な、稀少の種族だった。
「フェアリー、か」
 ジークが、立ち尽くした俺の後ろから言った。
「ジーク、こいつは何だ? おまえが飼ってるのか?」
「知らん」
 フェアリーは白目のない、真っ黒な瞳でこちらを見つめている。視線がどこに集まっているのか、簡単には分からない、不思議な眼差しだ。
「…………銀河なの?」
 唐突に、フェアリーが口を開き、俺を呼んだ。からからに乾いた小石をぶつけ合ったような高い響きの声だ。
「銀河なの?」
 俺は眉を寄せた。
 ミカエルにしろ、エミスにしろ、そしてこのフェアリーにしろ、俺が知らない奴が、どうして俺のことを知っているんだ?
「銀河なの?」
「……ああ」
 俺は開き直って答えた。胸の傷が痛む。これ以上戦うのは辛いのだが。
「銀河なのっ!」
 何を思ったか、フェアリーは飛ぶように軽やかな動きで蜘蛛の死体の上を飛び跳ね、俺の胸の傷口にマトモに飛びついてくる。
 俺がひらりと身をかわすと、フェアリーは頭から足下の蜘蛛たちへ突っ込んだ。数秒、ウンウン唸ってから、どうにか頭を引き抜くと、俺を見上げて声を張り上げた。
「銀河なの! 銀河なの! 見つけたなの!」
 ………… また、厄介なのが増えた。

二 TO THE SKY? NO, YOU CAN'T GO TO THE SKY!

 フェアリー、つまり妖精は人間の歴史上、多く語り継がれてきた伝説の種族のひとつだ。有名な話では、靴屋の仕事を手伝ったり、フキの葉の下に住んでいたりしたらしい。だが、ひとつだけここではっきりさせておこう。
 物語に登場する数多の妖精、これは一匹たりとも、実在しない。
 今から一〇〇年ほど前、人類が科学力を駆使して人工的に造りだしたのが、今日、妖精(フェアリー)と呼ばれている生物だ。おとぎ話のイメージに合わせて、科学が産みだしたフェアリー。
 人間は彼らをもてはやし、ペットとして傍に置いた。だが、やがて宗教者たちの中から、フェアリーの生産を非難する声が上がり始めた。彼らお得意の、『神への冒涜説』だ。すべての生物を造ったのは神であり、人間がそれに習うような真似は許されない、という、何とも陳腐な理屈だ。
 学識者の意見であれば何でも鵜のみにするのが、一般大衆の哀しいサガである。今まで自慢げに連れ歩いていた愛玩用の妖精たちを、途端に彼らは嫌悪し始めた。各地で妖精狩りが行われ、フェアリーの数は短期間に激減した。もともと自然界に存在していなかった種、ということもあって、人間たちの心には罪悪感が乏しかった。
 民間に出回っていたフェアリーはあらかた狩り尽くされた。わずかに生き残った実験用のフェアリーたちは、生物学者の手によってドーム都市リッツヴィの研究所内に閉じこめられた。すでにそこしか、フェアリーの生きられる場所は無くなっていた……
「銀河なの。銀河なの!」
 しつこく俺を呼びながらしがみついてくる妖精を、俺は幾度となく振り払った。だが、諦めるということを知らないように、繰り返し俺にくっついてくる。直接俺に危害を加えるつもりはないようだが、とにかくしつこい。
「おまえの知りあいなのか?」
 ジークが物珍しげに妖精を観察しながら、
「相変わらず、妙な物に好かれるな、おまえは」
「うるさい。知らねぇよ、こんな奴! だいたい、実物のフェアリーを見るのだって、初めてなんだぜ!」
「だが、お相手さんはおまえのことを知っているようじゃないか」
 ぴょんぴょん飛び跳ねながら、フェアリーは俺の周りを嬉しげに駆け回っている。一体、何だって言うんだ?
 俺は細っこいフェアリーの首根っこを捕まえると、目の高さまで持ち上げた。わずか三歳ほどの幼女のようだ。ただ、人間と大きく違うのは、人間の三倍はある黒々とした丸い目。
「銀河なの! 銀河なの!」
 何がそんなに嬉しいんだか、フェアリーは手足をばたつかせて、きゃっきゃっと喜んでいる。
「おまえ、名前は?」
 俺はとりあえず尋ねた。
「銀河なの! 銀河なの!」
「銀河は俺だ。そうじゃなくて、おまえの名前は何かって訊いているんだよ!」
「銀河なの! 銀河なの! 銀河なの! 銀河……」
 ズガシェッ! 粉々に砕けた蜘蛛鬼族の残骸の中に、妖精は再び頭から突っ込むハメになった。俺を怒らせるからだ。
「言いけげんにしろ、テメェ! 切れるぞ!」
 すでに半ば以上切れているが……
「まぁ、まぁ、そう、熱くなるな、銀河よ」
「ジーク、おまえ、何、余裕ぶっこいてんだよっ! だいたい、おまえの管理が行き届いてネェから、こんな訳の分からん連中が大量発生するんだろうがっ!」
 俺の文句など何処吹く風、ジークは涼しい顔でフェアリーを残骸の中から引っ張り出した。
「まったく、乱暴なオジサンだね、こいつは……」
「だッ、誰がオジサンだってぇ!」
「ほらほら、そう、すぐにムキになる。そういうトコロはガキなんだよなぁ」
 ……ジーク、俺が手負いじゃなきゃ、今すぐおまえの息の根止める所だぞ……
「さぁ、お嬢チャン、君のお名前は何かな?」
 気味の悪いにやけたツラで御機嫌を取りながら、ジークは妖精に尋ねた。
「へん! どうせ馬鹿のひとつ覚えで、ソイツは俺の名前しか……」
「セレネなの」
 おい、待て、コラッ!
「そうか、お嬢チャンの名前はセレネっていうんだね」
 くそガキ妖精はぺこんと頷きやがった。俺には答えられなくて、コイツになら言えるってのか! 馬鹿にしやがって……
「それで、セレネはどこから来たの?」
 ジークは気を良くしたように猫なで声を出す。
「セレネ…… 銀河!」
 またか……
「銀河なの! 銀河なの! 銀河なの! 銀河なの!」
「うるセェッ!」
 俺は堪らずに一喝した。
「人の名前を、馬鹿っぽい声で連呼するんじゃねぇッ!」
 妖精は動じるということがないのだろうか。それとも、単にコイツが鈍いだけなのだろうか。俺が声を荒らげても、セレネは態度を改めることなく、再び俺の服に飛びついた。
「銀河なのっ!」
 俺はさすがに観念した。こいつには何を言っても効かないんだ…… こうなったら、興奮するだけ俺が損だ。
「はいはい、セレネ」
 俺はギョロッとしたセレネの眼を覗き込んだ。
「一体おまえは何なんだ? どうして俺を知っている?」
「銀河なの。なの。ママなの」
 ジークがにんまりと笑って、
「そうか、銀河は妖精のママだったのか。てっきりパパかと思ったぞ」
 さ、さすがに一〇〇%否定できない過去が、俺には思い当たりすぎる。だが、間違っても妖精と関係を持ったことは…… って、冷静に反省している場合ではない。
「あり得ないだろ! こら、おまえ、いい加減なこと言うな!」
「ママが言ったなの。セレネのママ、『銀河』言ったなの」
 ま、紛らわしい言い方しやがって…… 焦っちまったじゃないか……
「ママが言ったなの。銀河なの」
「俺が、何だっていうんだ?」
 俺はまどろっこしいセレネの物言いに苛々しながら促した。
「行くなの」
 ? はぁ?
「行くなの。ママなの。行くなの。ママなの。行くなの……」
「ええい、うっとうしい!」
 思わず俺はセレネを服から引っぺがすと、三度、蜘蛛の残骸の中へ叩き込んだ。
「何がどうしたんだか知らんが、俺にはフェアリーに関わっている暇などない。とっとと失せろ」
「……銀河なの……」
 打たれ強いフェアリーは残骸から顔を抜いて、俺を見上げた。ジークが溜め息をつく。
「銀河、どうでもいいが、約束の金は明日正午までに口座へ振り込んでおけ。入金を確認したら、夕方五時にアーチの前で待っていてやる。一秒でも遅れたら帰る。返金はしない。以上だ」
 言いたいことだけ言い残すと、ジークはさっさと階上へ上がって行った。一階のラウンジがこの有り様では、上の階の客を通すわけにはいかない。色々と面倒な後処理があるのだろう。
「そうだ、忘れるところだった」
 ジークは俺を振り返ると、
「どういう関係か知らんが、その妖精、な。もし売るなら儲けの半額は俺のもんだぞ」
「……どういう理屈だよ、それは」
「俺の店で見つけただろ」
 ……まったく、どこまでがめついんだ、この白鬼サマは。
 俺はふと、思いつくことがあってジークを呼び止めた。
「おまえにやるわ、こいつ」
「銀河なの!」
 驚いたのか、セレネが声を張り上げた。が、無視する。
「ジーク、おまえの好きにしていいぞ」
「ほう?」
 ジークはすたすたと引き返してくると、セレネをひょいとつまみ上げた。
「なの!」
「せいぜい、可愛がってもらいな」
 俺はフェアリーに手を振ると、さっさと店を出た。
 後ろでセレネが『銀河なの』を繰り返していたが、これ以上関わりたくない俺は聞こえないフリを通した。ミカエルとエミスに目をつけられている今、余計なことに首を突っ込んでいる暇はないのだ。

 翌日、俺はジークの口座に約束の、詐欺のような金額を振り込むと、その足でSアーチへ向かった。
 待ちあわせの時間までは、まだ十分に余裕があったが、何せ、相手はあのジークである。世間の標準時間より、アイツの腕時計が進んでいる可能性が高い。案の定、俺がアーチに辿り着いて五分後、悪びれた様子もなく、颯爽とジークが現われた。
「おやおや、銀河」
 ジークは少々期待外れの顔をした。
「随分と早いじゃないか。まだ『世間では』約束までに三時間以上あるぞ」
「細かいことは気にするな、ジーク。待ち合わせには、相手に敬意を払って多少早く行くものだ。俺もおまえも、そう考えたんだろうよ、お互いにさ」
 どうせジークの腕時計の方が、世界標準時より権力があるのだ。特に、今のような場合は…… 俺がいなけりゃさっさと帰って、後からキャンセル両をせしめるつもりなんだ。その手には乗るもんか。
「それよりおまえ、その背中の荷物は何だ?」
 俺はジークが担いでいる大きなバッグを指さした。
「まさか、旅支度一式入っているんじゃないだろうな? 言っておくがジーク、パラ・ダイス探しは俺ひとりでやる。おまえは余計な手出しをするな。俺をスカイまで送り届けたら、さっさとグランドへ戻って金稼ぎでもしてろ」
 ジークは俺の睨みなど効かない、という顔で、いけしゃあしゃあと、
「もともと、俺は白鬼だぞ、銀河。白鬼の俺が、白鬼の社会であるスカイへ行って何をしようが、俺の勝手じゃないか。別に、おまえに迷惑がかかるわけじゃない」
 確かにその通りだ。だが、事態がややこしくなることは目に見えている。
「ジーク、俺としてはおまえとパラ・ダイスについて……」
「ぼやぼやするな。行くぞ」
 ジークは大荷物を担いだまま、足早にSアーチへ向かった。俺は遅れないように後に続きながら、忌々しげにSアーチを見上げた。
 グランドのドーム壁の一部に、スカイへ通じるSアーチの入口がある。ただの平らなドーム壁に、等身大の金色の文字で『S』と書かれただけの場所だ。グランドで生活する人々には、傍にあってもまず、利用することのない場所だった。俺のように白鬼と付き合いがない連中には、一生、世話になることのない場所なのだ。もっとも、その方が幸せだと思うが……
 アーチの前……正確には金文字の前に立って、ジークは壁に手を当てた。どこからともなく、静かな女性の案内ボイスが流れてくる。
『お名前をどうぞ』
 ジークは落ち着いた声で、
「ジークフリード・ヴァイテ」
『……声紋、確認。同行者のお名前をどうぞ』
 俺は横から、
「北城銀河」
 案内音声は数秒沈黙した、
「おまえの名前、ブラックリストにでも載っているんじゃないのか?」
 ジークが、あながち冗談とも思えないようなことを耳打ちした。
「俺が駄目なら、おまえもとっくに通行禁止食らってるぜ」
 俺も負けずに言い返す。そうこうしているうちに、かすかな振動が正面の壁に起こった。
 アーチが開くのだ。
 俺たちの目の前の壁が、文字ごと、すっと消えた。
『声紋称号を終了、アーチへお進みください』
 俺たちは声の命ずるままに、アーチの中ヘと足を踏み入れた。
 アーチの内側は非常に暗い。
 円形にくり貫かれたドーム状の内壁から僅かに光が出ているだけで、後は明かりらしい明かりもない。が、道は結局真直ぐな直線でしかないので、不都合はない。
 俺たちは黙ったまま、暗い通路を進んだ。背後で、グランドへの出口が音もなく閉まる。この空間にしろ、グランドとの境目の扉にしろ、鬼族が人間以上の科学力を有している証明とも言える。だが、彼らはそれで生活を縛ろうとは考えなかった。自分たちに必要最低限なものだけを使うにとどまり、無駄に利用することはない。科学に縛られ、振り回される生き方をしているのは人間だけである。
 このアーチ内部は、言うなれば別時空へ続く通路だと考えればいい。本来白鬼が生息している世界は、グランドとはまったく違う。そんな環境で育った白鬼たちは、多くがグランドに適応出来ず、本来の自分たちの国とグランドとの境目に、スカイを造ったのだ。
 俺としては、どうしてそこまでして人間界に近い場所で暮らしたかったのか理解に苦しむところだ。もっとも、ジークのように、完全に金に染められ、その権力を得るがために、人間社会に介入してきた白鬼もいる。だが、他の多くが、より近い位置から人間の愚かさを眺めて暇をつぶす、程度の目的でいるらしい。
 その証拠に、スカイには飲食店や、観光スポット、その他、一日中人間の行動を追って記録し、研究する施設まである。
 何にしても、スカイでは俺の感覚や常識など、一切が役に立たない。
 俺は改めて気を引き締め直した。そんな、右も左も分からないような場所で、俺はすべてを知り尽くしているミカエルと戦わなければならないのだ。
 冷静に考えてみれば、随分と無謀な話である。
 だが、パラ・ダイスのためともなれば、ある程度の無茶は覚悟の上だ。
 黙々と通路を進んでいた俺は、ふと、背後に気配を感じて足を止めた。
 嫌な、非常に嫌な、気配だ。しかし、まさか、こんなに早く……
「どうした、銀河?」
 ジークが怪しんで振り返る。俺は長いコートの下に隠してあった、ティア・エッジの感触を確かめた。こんなこともあろうかと、昨夜産んでから、体内に戻さずに持っていたものである。ティア・エッジは表出しているだけで俺のエネルギーを吸い取っていく。だが、もう一度産み直すことに比べれば、この方がマシだ。
 背後に迫る気配。俺は深く息をつくと、ばさりとコートを脱ぎ、エッジを構えて振り返った。
「おい、銀河?」
「さがっていろ、ジーク」
 俺はぼんやりとした光を放つアーチの内壁に視線を走らせた。
 肉眼で姿は見えないが、はっきりと気配を感じる。間違いなく、エミスだ。
「姿を見せたらどうだ?」
 俺は挑戦的に空間に叫んだ。数秒の間があって……
「どうやら、身体の方は随分よいようだね」
 まるで空気が一瞬で色づくかのように、忽然と空中にエミスは姿を表した。例のごとく、浮かんだダーツを足場にしている。
「エミス、か」
 ジークは唇を歪めた。だがその表情は狼狽ではない。どちらかといえば、余裕に近い笑みだ。
「ジーク、おまえ、エミスのこと知っていたんだろ?」
 俺は黒鬼に注意を払いながら言った。
「まぁな」
 ジークは素っとぼけた声で答えた。
「俺にも、色々と過去があるのだ。詮索してくれるな」
「そんな余裕はないさ」
 エミスの周りには、すでに数十本のア・ライブ・ダーツ。俺は左手のエッジを掲げた。エミスはそんな俺を興味深そうに観察しながら、
「へぇ、そんな武器も持ってるんだね。奇麗な刀だ。銀河によく似合うよ。僕としては、ティア・ダイスの力を見たいんだけどねぇ」
「エミス、今度は前のようにはいかないぜ」
 全身に闘志がみなぎってくる。あの雪辱を晴らすのは今しかない。
「そんなに熱くならないで」
 エミスが腕を組んで俺を見下ろしながら、
「この前のことは、僕も少し反省しているんだ。初回にしては、ちょっとハード過ぎたよね。……顔の傷、消えたようだね」
「…………」
「よかった。その顔に傷を残しちゃ、可愛そうだもの」
「……グダグダ言ってネェで、さっさとおっぱじめようじゃないか」
 エミスは少々眉を潜めた。
「いいの? 見たところ、君はまだ全快じゃないようだけど」
「かまわねぇよ。ちょうどいいハンデだ」
「……強がるのはいいけど、長生きできないよ」
 エミスのダーツが武者震いのように震える。
 カッ、とダーツが飛ぶ。俺はエッジを回転させて、それを叩き落とした。
「同じ手は通用しないぜ」
「さぁ、どうかな」
 立て続けに打ちだされるダーツを、ことごとく弾いていく。左手のエッジと、右手の小手で防戦しつつ、隙を見てエミスに飛びかかり、蹴りを食らわす。とんぼ返りを打って床に降りたエミスは、今度は自ら俺との距離を詰めて懐に飛び込んできた。
「クッ!」
 俺は正面からエミスにエッジを振り降ろした。
 ガキッ!
 硬質の衝突音が響き、エミスはクロスさせた腕で挟んで、俺の一撃を受け止めていた。俺同様、リストバンドに金属を潜ませているのだろう。
「まだまだ、だよ」
 俺たちは互いに飛び退くと間合いを取った。その間にも、エミスのダーツが不規則な動きで俺を狙ってくる。一度経験しているだけあって、前回程余裕がないわけではなかった。だが、エミスも十分それを心得ているのだろう、以前に戦ったときには自ら動かなかった奴が、今回は積極的に肉弾戦を仕掛けてくる。
 エミスの直接攻撃と、空中からのダーツの攻撃。だが、ア・ライブ・ダーツは完璧ではない。エミスに制御されているダーツは、エミスが肉弾戦に没頭すればするほど、動きが鈍くなってくる。
 俺は極力、エミスを自分の戦闘ペースに引き込むため、手数を多く攻め続けた。
 戦闘には、一定のリズムがある。自分のリズムに相手を引き込んでしまえるかどうかが、勝敗を決める上で大きな意味を持つ。逆を言えば、相手のリズムをどれだけ乱せるか、そこに勝利の鍵が隠されているのだ。

三 なのっ!

 上手くいっている。
 俺はエミスの強烈な裏拳をかわし、腹部に拳を叩き込んだ。脇腹を掠めたエミスの蹴りを受け流し、後頭部に回し蹴りを放つ。
 当然のことだが、腕力よりも脚力の方が高い。俺は蹴りを中心にして攻め方を構成した。エミスは次第に俺のペースに乗せられてきている。無駄口を叩く余裕もないように見える。このままなら……
 と、調子よかった俺のリズムが、急に乱された。エミスのためではない。それは突然……
「銀河なのっ!」
 馬鹿声。
 俺の注意がほんの一瞬、エミスからそれた。その隙を突かれて、腹に容赦のない蹴りを食らい、俺は数メートル吹っ飛ばされて内壁に叩きつけられた。
「いっつ……」
 したたかに打ち付けた頭をさすりながら、俺は立ち上がろうとしてよろめいた。頭をぶつけたせいか、平衡感覚がおかしい。このままでは、エミスのダーツに狙い撃ちされる。
「銀河なの!」
 再び馬鹿声。ガンガンと頭に響く。
「おや、妖精とは珍しい」
 エミスは乱れていた呼吸を整えながら、俺を呼ぶ声の主を見た。
 ジークの背負っていた巨大なバッグから、昨夜のフェアリーが這い出してくるではないか。
「ジーク、どういうことだ!」
 離れた所で我関せず、といった顔で俺たちを眺めていたジークに怒鳴る。
「どうしてこいつがココにいるんだよっ!」
「まぁ、当然の成り行きだな」
 ジークは平然と、
「フェアリーは、スカイの方が高く売れる」
 …………
「銀河なのっ!」
 状況を理解していないのか(絶対にわかってないぞ、こいつ)、セレネは満面笑顔で、迷わず俺とエミスとの間に飛び込んできた。俺の視界に、不機嫌に歪められたエミスの顔が入る。
 まずい!
 俺は咄嗟に身体が動かなかった。ダメージのために神経が鈍くなってしまっているのだろう。
「銀河なのっ!」
 セレネは無邪気に俺に飛びついてくる。その大きく澄んだ眼に、俺の焦った表情が映る。
「邪魔だ」
 エミスのダーツが苛立ったように光り……
 ブツッ! ブツン!
 鈍い音が何度か俺の耳を打った。その度にセレネの細い身体がビクンと痙攣する。
 ドサリ、と俺の胸に倒れてきたセレネの背中には、数本のダーツが深々と突き立っていた。
「……ぎん……が……なの……」
 セレネは真っすぐな瞳で俺を見上げた。息が絶え絶えだ。
「ママ……なの……行く……なの……」
「セレネ、おまえ、まだそんなこと……」
「行く……なの……ぎん……が……」
 どうしても、俺をママとやらの所へ連れていきたいのか……
 ゴム人形のように、くたりとセレネの四肢が垂れる。見開かれたままのその眼に、きらり、涙が光る。
「とんだ邪魔が入ったけれど」
 エミスが呼吸を整え、不敵に笑って俺を見た。
「他愛もない」
「エミス」
 俺は動かないセレネを抱えたまま、黒鬼を振り返った。
「こいつは無関係だ。なぜ、打った?」
「目障りだったからだ。何か問題でも?」
「そうだな」
 俺は時間を稼ぐようにゆっくりと間をとって、
「身の程もわきまえずに飛び込んできた、セレネが悪い」
「だったら、何も……」
「だがな」
 エミスを遮って、俺は声を高めた。
「自分が手を下すならばともかく、自分のせいで無関係な奴に死なれるのは迷惑だ。余計な怨恨を買うことになるからな。俺の言う意味がわかるか?」
「……なるほど。僕のしたことが気に入らない、ってわけだ」
 俺は、素早くセレネの涙を口に含んだ。それを吐息に変え、ダイスを産むと手に強く握りしめる。
「おまえのおかげで、余計な仕事が増えたじゃないか」
 俺はティア・ダイスを指の間に挟むと、高く掲げた。
「エミス、見たがっていたよな、ティア・ダイスの力……」
 ダイスを持つのとは反対の腕で、セレネを抱え上げる。
「見せてやるぜ。セレネの『夢』を!」
 俺の声に反応して、セレネのティア・ダイスが明滅する。
 妖精の涙からダイスを産むのは初めてだが、どうやら上手くいきそうだ。
「ティア・ダイス!」
 俺はダイスを高く放り投げた。
「ブレイクッ!」
 四方八方に鋭い光の棘を発して、セレネのダイスは砕け散り、俺はその輝きの中に身を委ねた。

 セレネは、俺に『行く』と訴えていた。俺に一緒に来て欲しいと。自分の身が危うくなった状況下で、尚、そのことだけを考えていた。
 だとしたら、あの時のセレネの涙は、俺をどこか別の場所へ連れていくという『夢』の結晶だったはずだ。
 俺はそれに賭けた。
 どこでもいいのだ。取りあえず、エミスから逃れることがまずは先決なのだから。たとえどんな状況だろうと、あのままセレネを死なせるわけにはいかなかった。同情するわけではない。ただ、これ以上、問題を抱え込みたくないだけだ。セレネが死ねば、俺は妖精まで敵に回すことになりかねない。ジークに二度手間の料金を支払った方がマシだ。
 俺は周囲の光が収まると、ゆっくり眼を開いた。
 あたりは不思議な明るさに包まれていた。空気自体が薄ぼんやりと輝いている。いや、これは、輝きの粒が集まった霧のようなものだ。場所によって、その濃さが違っている。何処からともなく、ゆったりとした風が吹いてくる。風は徐々に霧を散らして、俺の前に景色を広げた。
 俺は目を見張った。
 地平線まで続く緑の草原。藍より蒼い大空。眩い白雲の峰。暖かな風が草をなびかせ、葉が光を反射して幾筋もの波を作る。
 俺は我知らず、溜息をついていた。
 俺たちの暮らす地球上からは、とうの昔に消え去ってしまった光景だ。記録用の映像チップの中でしか見たことのない世界が、今、目の前に……
 俺は無意識に空を仰いだ。そして、異様なことに気づいた。
 その空に、太陽はなかったのだ。
 ようやく、俺はココが何処であるか、思いあたった。
 左手に抱えていたセレネを、そっと草の上に横たえ、背中に刺さったままのダーツを抜いてやる。痛むはずだが、セレネは声ひとつ上げなかった。
 死んだか?
 俺は一瞬手を止めて、フェアリーの呼吸を確かめた。かすかだが、どうやら気を失っているだけらしい。
 更にダーツを抜き捨てながら、頭の中を整理していく。
 現在、フェアリーが暮らす場所は、世界にたったひとつ、ドーム都市リッツヴィだ。リッツヴィには、生命科学研究所が多く集まっている。その施設で、フェアリーは飼われているはずだ。セレネも、そこにいた可能性が高い。つまり、ここが、リッツヴィであると考えるのが自然である。
 俺はダーツを抜き終えると、傷口を確かめた。ダーツの針はさほど長くはないが、細いセレネの身体には重傷を負わせている。携帯している止血剤と消毒薬を傷に塗ってやると、俺は再び景色を眺めた。
 生物を飼う施設には、亜空間技術が用いられている。実際の施設面積の何百倍もの実体面積を確保できる、特殊な技術だ。おそらく、ここがその亜空間の内部なのだろう。であるとしたら、さっさと出口を見つけて、出なくては……
「おい、起きろ!」
 俺はフェアリーの細っこい肩を揺すった。それでも、セレネは眼を醒まさない。本当であれば、このまま放置して出口を探したいところだが、生死を確かめなければ気分が悪い。
「起きろ、セレネ!」
「……んんんん……」
 むずがゆそうに身体をよじらせ、妖精はようやくうっすらと眼を開けた。
「ほら、しっかりしろよ」
 きょとん、としていたセレネは俺に促されて、ようやく辺りを見回した。どうやら、かなり意識がぼやけているらしい。まぁ、あれだけの攻撃をマトモに食らったのだから、仕方がないだろう。こうして起き上がれるだけでも大したものだ。俺が思った以上に丈夫そうである。
「ママ……なの……」
「おまえのママが、俺に用があるんだったな?」
 ちょうどいい。セレネが無事だ、というのを母親に知らせてからおさらばした方が、俺も好都合だ。俺は自分ひとりでは歩けそうもないセレネを抱き上げた。
「まぁ、これも何かの縁だ。おまえのママとやらの顔を拝んでやる」
「なの!」
 セレネは傷をすっかり忘れたかのように、満面に笑みを浮かべて、俺の首に抱きついた。こいつ、そんなに俺を母親に引きあわせたかったのか…… ここまでくると、恐れ入る。
「案内しろ……とは言っても、何もないが……」
 辺り一面、平坦な草原である。
 亜空間の中は初めての経験だが、好きになれそうもない。景色がいいことは認める。だが、不気味なほどに静まり返っていて、生気が感じられないのだ。足下の草一本とっても、精巧に作られた偽物でしかない。無味乾燥な世界。
 俺はセレネと顔を見合わせた。
「ママとやらは何処にいる? 俺を会わせるために、おまえはわざわざグランドまで来たのだろう?」
「セレネ……」
 フェアリーはスッと地平線を指さした。
「あっちなの。ずっと、真直ぐに、あっちなの。おうちなの。みんないるなの」
 セレネの指さす方角には……ただ地平線まで続く草原。
 一体何キロあるっていうんだ? さすがの俺もたじろいだ。
「仕方ないな」
 俺は果てしなく思われる道のりに踏み出した。
 歩き始めて間も無く、俺は異変に気づいた。
 視覚では、どう見積もっても一〇キロ以上は楽にあったはずの草原が、実際にはわずか二キロほどでしかないのだ。何もなかった地平線に森が現れ、それはどんどん近づいてくる。奇妙な感覚だった。眼に見えるのは錯覚に過ぎず、現実の空間は一〇分の一程度の大きさしかないらしい。
「あの森でいいのか?」
 俺は首にしがみついているセレネに訊ねた。
「なの!」
 奇妙な感じだ。普通に歩いているはずなのに、景色は異様な程に早く変わっていく。俺たちは鬱蒼と木々の茂る森へ入った。
 俺の暮らす教会の周りも、小さな森に囲まれている。天気の良い日には、すがすがしい葉の匂いに満たされるのだ。だが、今、足を踏み入れたこの森には、そんな生命の匂いが何ひとつなかった。動物だけではない。滴るように緑を誇る植物さえ、すべて模倣に過ぎない。
 ここが本当にリッツヴィだとして、これほど他の妖精の気配が少ないのは妙な話だ。確かに、実験用に残された妖精の数は少ないが、セレネの他に、出会わないのだ。
 と……
 模倣された木々や苔の下にうずもれた、人工的な塊がちらりと見えた。慎重に枝をよけると、その葉の下から、赤黒く錆びた金属の装置が現れた。
 見回せば、その装置は二十メートル以上にも連なっている。全体が木と苔に取り込まれているため、一目では緑色の岩石のようにしか見えない。
 俺は機械を詳しく調べようと、邪魔な枝葉を払いのけた。
 何かの、製造機のようだった。いくつかの工程が、コンベアでつながって流れ作業で仕上がるようなつくりである。機械に詳しいわけではないが、明らかに、何かを製造する、それも、無人で作り出すための装置……
「銀河、ママなの!」
 突然、セレネが一際大きな声を出した。俺はセレネを地面に降ろした。
 セレネはよたよたと歩くと、機械の端に寄り掛かって、俺を振り返った。来てくれ、というのだろう。
 俺は注意深く、低木の茂ったあたりに近づいた。木の枝の下に、巨大な石がある。その石の上、俺の目の高さには、痩せ衰えた、妖精が眠っていた。
「これが、ママ?」
 身長三メートルを越える大きさ…… すでに、老婆とも呼べる容貌。仰向けに横たわり、胸の上で手を組んでいる。
 まるで棺桶に収められた、死体じゃねぇか!
 俺は警戒しながら、その妖精を覗き込む。
「銀河、ママなの」
「セレネ、この妖精がおまえの母親だっていうのか?」
 そんなわけがないことは、よくわかっていた。妖精はパーツごとに培養され、組み立てられるのだ。おそらく、俺の目の前にある、この装置で……
 だが、セレネにとっては育ての親である可能性はある。
「ママなの。銀河なの。ママ、銀河なの。来たなの」
 俺が近づいても、巨大な妖精はピクリとも動かない。
「セレネ、コイツと……あ、いや、おまえのママと、話しはできるか?」
「なの?」
「おまえは、こいつの言いつけで俺を連れてきたんだろう?」
 セレネは首を傾げた。
「銀河、ママとお話しするなの?」
「できるか?」
 セレネは足下から俺を見上げて、両腕を上げた。
「抱っこなの」
「はぁ?」
「セレネ、届かないなの」
 仕方なく、俺はセレネのやけに軽い身体を抱え上げ、巨石の上に登らせた。まるで、幼児のお守りをしている気分だ。
「ママ……」
 セレネが老妖精の胸にすり寄る。
「ママ…… お話しするなの」
 妖精の表情は動かない。
 本当に、死んでいるのではないだろうか……
 俺が諦めかけたとき、不意にセレネが俺を振り返った。
「銀河」
 声が違う! 俺は反射的にエッジを構えた。
 声だけではない。セレネのどこかとぼけた顔が、無表情に固まっている。眼が灰色に曇り、どこか遠くを見つめていた。糸で吊られたマリオネットのように、関節が不自然に動く。
「銀河か?」
 声の主は、訊かずとも、予想がついた。セレネの身体を借りて、この老妖精が話しているのだ。
「我が名はジェム。この亜空間を統べる者」
「セレネの母親か?」
「我は長い時を生きてきた。我が身体は多くの子供たちへと分化した。そして、人間はかりそめの命を作った。命の何たるかを知らず、されど、己の力に酔いしれ」
 俺は警戒を解かず、セレネの後ろで身動きもせずに横たわり続けている妖精を見つめた。
「私はこの亜空間が生まれしときより、常に共にある。妖精たちは、皆、私を母と慕う……」
「母、ね。あんたがここのフェアリーたちの元になった、オリジナルというわけだな」
 自分の肉体を分け与えた人工生命と共に暮らす、ってのは、どんな気分なのか。少なくとも、俺は御免被りたい。
「それで、どうして俺を呼んだ?」
 ジェムはかすかに笑ったようだった。
 敵か味方か、固唾を呑む。と、石の台座に座っていたセレネの身体が、ゴム鞠のように弾んで下に落ちる。
「こいつめ。しくじりおって」
「せ、セレネ?」
 俺は、投げ出されてぴくりともしないセレネの身体を抱き起こした。相変わらず、ジェムの支配にあるようだ。
「役立たずめ」
 自分が乗り移っているというのに、ジェムはセレネの肉体に対して粗暴である。俺はセレネではなく、台座の妖精を振り返った。
「こいつはちゃんと、俺をここへ連れてきたじゃないか」
 セレネの唇が、ジェムの言葉を語り続ける。
「私が命じたのは、おまえの抹殺」
 一瞬、俺は耳を疑った。
 抹殺? 俺を? セレネが?
 すぐに理解できない。セレネの態度からは、敵意など感じられなかったというのに……
「大きな機会であったものを、しくじりおって」
「……あの、蜘蛛型の鬼族は、セレネの…… いや、おまえの仕業だったのか」
「あれは面白い生き物だ」
 ジェムのどす黒い言葉が、セレネの口から語られることに、俺は得も言われぬ嫌悪感を感じる。
「ミカエルの種子が、あのように変化するとは」
「なるほど。おまえがミカエルと組んで、セレネを使い、白鬼の種子をコインに植え付けて俺を襲わせた、というシナリオだな。だが、しくじった。だからセレネは、おまえに俺のとどめを刺させるために、ここへ連れてきた、というわけだ」
「飲み込みが早いようだ」
「場数を踏んでいるものでね。誰かに狙われるのは慣れている」
 とは言うものの、無邪気に見えたセレネの正体に戸惑っている自分を感じる。少女のような外見に、惑わされているのだろうか。
 俺はティア・エッジを下ろさずに、ジェムを見据えた。セレネはただ、音を伝えるために利用されているにすぎない。ジェムの本体はやはり、この横たわる老妖精だ。
「ひとつ、解せない」
 俺は相手の様子に眼を光らせながら、
「ミカエルが俺をつけ狙うのはわかる。だが、俺はあんたたち妖精の恨みを買った覚えはない。なぜ、俺の命を狙う? 俺がおまえたちに何をしたというんだ」
「おまえの存在が罪」
 ジェムの返答。
「銀河。おまえの存在が、我々を脅かす」
「どうして俺の存在が、おまえたちの脅威となる?」
 そうだ。白鬼は俺を嫌う。今までも、気に入らないという理由で喧嘩を仕掛けられたことは数えきれない。しかし、妖精と関わりをもったことは、一度としてないのだ。
 ジェムは声を高めた。
「我々はおまえに反する命と、人は言う。逆らう命と、人は言う。冒涜? 反逆? ならばおまえが存在しないことを望もう。おまえさえ消え去れば、我らの命は正当化されるというもの……我らの未来も……」
「言っている意味が、わからないが」
 俺は首を振った。
「俺はおまえたちとは無関係に生きてきたはずだ。これからも、妖精の存在に関与していくつもりはない。敵でも味方でもない」
「おまえになくとも、我らにはあるのだ」
 ジェムはうなるように、
「おまえはやがて、我々の敵となる。その前に、芽は摘まねばならぬ」
「……また、身に覚えのない理由か」
 今度は、先の話だ。俺は嫌気が差した。
 エミスには身に覚えのない『過去の恨み』とやらを突きつけられ、ジェムにはまだやってもいない『未来の危惧』とやらで責められる。
 俺の周りで、勝手に話を展開していく連中に、ほとほと、うんざりだ。
「ジェム。俺はおまえたちに危害を加えるつもりは……」
「銀河、おまえにはここで死んでもらう」
 ジェムの極論。あきれて何も言えない。
「我々のためだ」
 自分の決断をまったく疑わぬ、ジェム。ミカエルやジークのような我が侭全開のオレ様主義は見飽きているが、ジェムの場合、その思い込みが機械的で淡々としている。修正不可能な感じだ。
「ここはリッツヴィの亜空間だろう?」
 俺は話題をすり替えた。
「研究施設の中に俺の死体が転がっていては、まずいんじゃないか?」
 リッツヴィは生命科学研究所の宝庫、優秀な科学者たちの巣窟である。今、この瞬間も、多くの研究者たちが監視しているはずだ。
「問題はない。この場の荒廃が何よりの証拠」
 俺の心を見透かすように、ジェムは言った。
「科学者は我らを捨てた。妖精を捨てた」
 ジェムの声が沈む。
「リッツヴィの全人類は、滅びた」
 俺はジェムの言葉に、思わず緊張感を失って眼をしばたいた。
「滅びた? 全員が?」
「すべて」
 何かの間違いだ。
 そんな話は聞いたことがない。情報化社会の現在、ドーム都市がひとつ消滅したとして、それが伝わらないわけがないのだ。
「馬鹿な……」
「事実」
「そんな話は聞かないぞ!」
「仲間の一部が、報道規制を敷いている」
「…………」
「リッツヴィは、我々が支配する都市として、生まれ変わる」
 …………こいつらが、やったというのか。亜空間の中で飼われていた妖精が、外の人間全てを?
 俺は声を低めた。
「……反逆か?」
「成就すれば、革命」
 ジェムの重たいその言葉。俺はただ、立ち尽くした。

四 ユメ マボロシ

「仕方がないようだ」
 ちらり、と腕の中のセレネを見る。先程投げ出された時に擦り傷を作った頬が、痛々しい。
「俺はお前を倒し、ここを出なければならない。そういうことだろう?」
「生き残りたければ、な」
 ジェムは相変わらず、セレネの口を借りている。
「だが、この亜空間を脱したところで、外には我々の仲間がいる。その全てを倒し、都市から脱出することはできない」
 俺はエッジを右手に持ち直し、左腕のセレネを抱きしめた。何故か、手放すことができなかった。ジェムは、セレネが俺の命を狙っていたと言ったが、俺には危険な相手とは思えない。それどころか、ジェムにいいように操られるこの妖精に、不思議と同情すら覚える。
「難しいかもしれない。だが、生きる道がそれしかないのなら、死に物狂いで突き進むしかないだろう」
「我を倒すか」
 余裕すら感じさせるジェム。だが、セレネの声で会話しているとはいえ、本体は石の上に横たわったままだ。その咽喉をエッジで掻き切ることは、たやすい。
「無抵抗の相手を斬るのは忍びないが」
 俺はエッジの刃を、ジェムにかざした。
「仕掛けてきたのはお前だからな」
「そうだな……」
 突然、仰向けにセレネの首が垂れた。ジェムの制御が解けたのだ。と、一瞬で老妖精の肉体は跳ね起き、まるで見えない糸につるされて浮遊する奇術師のように、俺の上空を旋回した。
「我の力、侮ることなかれ」
 しわがれた声が、今度はその身体そのものから発せられる。黄色い目が俺を見据え、瞬きすらしない。人間の老婆に似ているが、体格は有に倍以上ある。破れてみすぼらしく垂れた衣服は、もともと、自分の皮膚が変形してできたものだ。
「おまえを、殺す、銀河」
 ジェムは、ぞっとしないことを繰り返した。
「おまえの存在を、呪うがいい」
「俺は、俺の存在を疑わない」
 俺はそっと、セレネを下ろした。ジェムがこのように自在に動けるとわかった今、セレネを抱えて立ち回ることは難しい。
「おまえを母と慕うセレネには申し訳ないが、決着をつけさせてもらうぞ」
「ふ…… そのような役立たず、配慮する必要はない」
 と、何を思ったのか、ジェムの足指が一本、鋭い棘となって伸び、飛び出たかと思うと、セレネの胸を貫いた。
「我が、糧となれ!」
 ……糧? 
 俺は反射的に、棘を引き抜くようにセレネを抱え上げた。棘の抜けた胸の傷からは、血の一滴すら流れていない。だが、先程より明らかに、顔から血の気がない。
 糧とする。生命を吸収するということだ。吸い尽くされれば、セレネは……
 怒りに、血が湧いた。
「仮にも、セレネはおまえを母と呼んだ」
 俺はジェムを睨みつけた。
「その命を、おまえは糧と言うか!」
「糧になれば上々」
 ジェムの足の棘が、サッと引く。
「おまえ……っ!」
 俺は奥歯を噛みしめた。
 エミスのダーツに貫かれ、苦しいさなかですら、セレネのダイスは俺をここへ連れてきた。
 母と慕うジェムのために。
 自分の身を助ける夢ではなく、母の言いつけを護ることを、セレネは真っすぐに選んでいた。ダイスのブレイクを見るまでもなく、その思いの一途さは、十分俺に伝わっていたのだ。だからこそ、セレネのダイスがあの場から逃れる力を持っていると信じられた。
 ジェムのために。母のために。セレネは、あれほど母を思っていたというのに。
「そいつを抱えて、どこまで戦える?」
 ジェムは俺に向かって腕を伸ばした。
「おまえも、我が糧としよう」
 五本の手の指が扇の骨のように開いて瞬時に伸び、俺の足下に突き刺さった。危うく飛び退く。続けざまに左手が、そしてそれを追って再び右手の指が繰り出される。
 単調だが勢いよく伸び縮みするジェムのその攻撃を避けつつ、俺は巨石の台の裏側へまわった。と、何かが靴にぶつかる。横目で足下を見て、俺は硬直した。
 石にもたれるようにして、数体の妖精が、そしてその身体の上にも更に何体かの妖精が転がっていた。そのすべてが、セレネとまったく同じ姿をしている!
 墓だ。俺は思った。
 いや、埋葬もしていないから、単なる死体の安置所か?
 ……違う……
 それとも、違う。この雰囲気は、遠慮なしに言わせてもらうならば……
 ゴミの集積場に近い。不要になった妖精を、無造作に捨て置いた場所。ジェムに力を吸い取られたあとの、抜け殻だ。みな、胸に深い穴が穿たれている。
「ジェム!」
 俺は、ふつり、と沸き上がった怒りを感じた。
「この妖精たちは……」
「すでに、用のないもの」
 ジェムは長く伸ばした指を舐めた。
「みな、私の可愛い子供たち。私の糧として、一部として、生き続けておるわ」
「ふざけるな!」
 左腕に抱く、セレネが、ぴくりと動いた。
「何が糧だ! 母として、子を食らうなど……」
「銀河……なの」
 セレネの細い声が、俺の言葉を遮った。
「銀河……なの。ママ?」
 と、セレネ自身の意識を持った目が、上空のジェムを大きく映した。
「ママ……」
「セレネ! 大人しくして……」
「銀河、ダメなの!」
 突然、ぐったりとしていたセレネが、俺の右手にしがみついた。ティアエッジを封じようとしているのだ。何のために? ジェムのために!
「銀河、ダメなの! ママ、ダメなの! ママ、痛い、ダメなの!」
「何を言っているんだ! こいつは、おまえさえ、こ……」
 と、言いかけて、俺はセレネの目に、口をつぐんだ。
 確かに、セレネは俺を殺そうとしたのかもしれない。だが、その全ては、ジェムの命令によるものだ。ジェムの、母の為に。
 今も。セレネはその一念で、母を庇おうとしている。ティアエッジを恐れることなく握るセレネの手から、透き通る赤い血が垂れていた。
「銀河、ダメ…… ママ、痛い……やめて、なの……」
「セレネ……」
「ふ……」
 と、ジェムのあざ笑う声が降り注ぐ。
「いい子だね、セレネ。おまえは本当にいい子だ」
 ジェムの声は上滑りしていく。実がない、形だけの、猫なで声だ。
「暗愚のごとく健気だこと。では銀河もろとも、この母のために死んでくれるな」
 自分勝手な言葉を吐いて、ジェムはいやらしい笑みをしわの刻まれた口元に浮かべた。
「セレネ、離れろ!」
 俺は身動きできずに叫んだ。下手にティア・エッジを動かせば、しがみついているセレネの身体を真っ二つにしてしまいそうだ。
「セレネ!」
「ダメなの!」
「どけろ!」
「ダメなの!」
「じ……」
 俺は一瞬のためらいを、心を鬼にして振り払った。
「ジェムは、おまえを殺そうとしているんだぞ!」
「知ってるなの!」
 セレネの叫び。思わず、俺は鼻白んだ。
「知ってるなの! いいなの! セレネ、いいなの!」
「な……」
 あからさまに狼狽える俺の上に、再び勝ち誇ったジェムの笑い声。
「おまえは本当に、母思いだ」
 ジェムは指を触れ合わせ、耳障りな音を立てた。あの、金属の蜘蛛の足を思わせる響きだ。
 俺は精一杯の怒りを込めて、ジェムを睨みつけた。
「その子は本当によい。おまえを仕損じたが、ちゅあんと最期は私の役に立ってくれる」
「ジェム…… おまえ、それでも……」
 俺は全身が震えるのを感じた。
 許さない。
「おまえ、それでも、母親か!」
 許さない!
「子の命を犠牲にして生き永らえるなど!」
 許せない!
「俺は絶対に認めない!」
 俺の怒りを感じたのか、セレネがふと、手を緩めた。
「銀河……」
 両手両足に走る、激しいしびれ。まなじりを焼く熱。咽喉を潰す痛み。俺の身体を強烈な感覚が満たしていく。込み上げたものはこぼれることはなく、ただ、身の内を凶暴に駆け巡るのみ。
「俺は、母を知らない」
 かすれた声を絞りだす。ガラスの破片を飲み込んだように、胸が病む。
「だが、いや、だからこそ、信じていたい。どんな打算も利害もない、無我の愛がそこにあると! 子を慈しむ母の愛を、信じていたい!」
「安っぽい感傷だな」
 ジェムは眉をひそめた。
「銀河。おまえの抱くものは幻想。幻にすぎぬ。そのようなもの、この世には存在せぬ。知っているはずだ。お前は幾度、その胸のダイスによって、幻想を打ち砕かれてきたか。どれほど繰り返そうと、望みをかけようと、お前が求めるものは、どこにも存在などしない」
「…………」
「愛など、夢、幻。おまえのような冷血漢がそれを語るとは、驚いたぞ」
「黙れ……」
 たぎる血を、俺はどう制御してよいのか、わからない。
 ジェムを叩き斬るのか?
 そうしてやりたい。そうしてやりたい!
 だが、セレネの目の前で? セレネが命を捧げても構わぬと叫んだ母を、斬ることができるのか?
 俺の命を狙い、ここまで連れてきたセレネ。
 だというのに、何故かこの妖精には憎しみを感じない。それどころか、まるで母親のために身を投げ出すその姿、俺を引きつけてやまないものさえ秘めている。
 行動を決めかねた俺に、大きな隙が生まれる。
「セレネっ!」
 ジェムに貫かれて波打つ妖精の身体。
 突き刺さったジェムの指は、セレネの薄い身体を貫通し、更に、俺の胸を刺し抜いた。
「銀……河……」
 遠のく意識。が、ここで崩れるわけには……
 しびれる手から、ティア・エッジが落ちる。
「我が糧と……」
 ジェムの声を聞きながら、俺は半ば本能的に、胸に刺さった棘を両手でしっかりと握りしめた。
 この棘は、生命を吸う。力を、吸い取る。ならば……
 虚空を見つめる、セレネの眼。俺と同じ棘に貫かれて、徐々に力を失っていく。
「ジェム……」
 俺はかすむ視界に、老妖精を捕らえた。
「セレネだけでは……足りないだろう? 俺を、くれてやる!」 俺は、体内の棘に意識を集中させた。ジェムが吸い取るというのなら、こちらから流し込んでやる。決して、こぼれることのない、激情の塊!
「なにっ!」
 俺の意図を察して棘を引き抜こうとするジェム。
 そうはさせない。
 俺は放さなかった。握りしめる指に渾身の力を込め、体内に溢れ返る数多のエネルギーを注ぎ込む。
 受け取るがいい。涙を知らぬ苦しみを、味わうがいい。それがいかなる痛みであるか、思い知るがいい。
 全てを、解き放つ。
 俺の中に沸き起こった激しい感情が火を吹いて、ジェムの棘を駆け登り、その身体が青白い業火に包まれる。
 悲鳴に雑じって、立て続けに何か湿ったものが弾ける音がしたが、俺は顔を上げなかった。鼻をつく、強烈な腐臭。そして、手の中の棘が砂と変わる。
 俺は芝生の上にぶっ倒れた。ティア・エッジが、生き物のようにずるずると這って、俺の胸の中に戻っていく。ジェムの棘で開いた穴へ……
 耳の中で、頭の中で、ジェムの叫びが反響する。
 朦朧としながら、俺は首をもたげて、空を見た。
 晴れていた。そして、静かだった。まるで、何事もなかったかのように、澄んでいた。
 胸の高鳴りをすべて使い果たして、俺の心はまるで、感情を無くしたかのように空虚だった。痛みすら、遠い。呼吸は荒かったが、苦しくはない。
 と、かすかに動く気配。
 俺は身体を引きずって、傍に投げ出されていたセレネに手を伸ばした。
「セレネ、俺がわかるか」
 閉じられていた瞼が、うっすら開いて、黒い潤んだ瞳が現われる。
「……銀……河……なの……」
「ああ、そうだ……」
 俺はそっと、頬を撫でた。
「しっかりしろ。おまえが死ぬ必要はない」
「ママ……」
 セレネの呟きに、俺は目元を歪めた。
「……ジェムは……」
「いいなの…… これで、いいなの…… 銀河……」
 セレネはひとつ、深い息を吐いた。
「だから、セレネ、銀河、ここへ……」
「え?」
「だから、銀河、ここ、つれてきたなの……」
「おまえ……」
「セレネ、ママ、痛いの、いや。でも、銀河、強いなの。だから、こうなる、わかってたなの……」
「セレネ……」
「セレネ、ママ、もう……」
 突然、より大きく、セレネの眼が開く。
「銀河ぁ」
 セレネはどよんとした眼で、俺の胸にすがった。傷が痛むのか、苦しいのか…… 俺は安心させるようにセレネの髪を撫でて…… 手が止まる。俺の指に、おびただしい頭髪が絡みついていた。
「セ……セレ……ネ……」
 俺の胸から顔を上げたセレネの左顔面がずるりと崩れ、白い骨が覗いた。
「なッ!」
 セレネの身体が壊れていく。骨格から、肉が腐って落ちていく。
「セレネッ!」
 叫んだものの、俺にはどうすることもできない。
「どうして、こんな……」
 俺は弱りきっているセレネの身体を引き寄せた。
「銀……河…… あげる……なの……」
 セレネ?
「四角の……きらきら……セレネの……あげる……なの……」
 片方残ったセレネの目に、雫が溜まっている。俺は素早くティア・ダイスを産んだ。助かりたい、その思いが込められたダイスなら……
「銀河……に……あげる……なの……」
「セレネ! 待ってろ。これで助かる……」
 と、ダイスを握って、俺はぞっとした。
 感じない。ダイスの中に、セレネがいない。驚いて妖精を見ると、小さく笑っている。
「おまえ、どうして……」
 胸が詰まる。なぜ、助かることを望まない? これでは、助けてやれない!
「銀河…… 欲しいもの……あげる……ありがとう……なの」
 悔しかった。だが、俺にはもう、それ以上どうすることもできない。セレネの涙は枯れ、ただ、優しいこの子を救うこともできないダイスがひとつ。
 始めから、こうなることを望んで……
 始めから、母とともに死ぬことを望んで……
 セレネにとって、ジェムの革命は、反逆でしかなかったのかもしれない。俺を殺したいというジェムの意志は、セレネの意志ではなかったのだ。
 母を止める。そのために、俺をここへ連れてきたのだ。そして、母とともに、自分も…… そう、最初から!
「きら……きら……させて……」
 セレネの呼吸が次第に静かになっていく。それは安寧の訪れではなく、死への歩み寄り……
 俺は、ダイスを見つめた。透き通った、透明な、限りなく透明なダイス。
 それは、俺の、望むものだという。セレネからの、俺への感謝だと…… それを信じるか? 今一度、セレネの涙を信じるか? 母を手にかけ、自分を救えない俺に、純粋な思いのダイスを贈れるのだろうか?
 たとえ、このダイスが俺の命を奪うものだとしても、俺の行動は変わらない。こんな結末を招いた俺の、せめてもの、懺悔。
 逃げない。
「ティア・ダイス……ブレイク」
 呟くようにコールする。初めて見る、優しく穏やかなダイスブレイク。切り裂くような光ではなく、包み込む、光が満ちてくる。
「キレイ……なの」
 腕の中で、セレネがささやく。その呼吸も消え去るさだめ。次第と冷え、朽ちてゆくセレネの身体。
 混沌としてくる意識の底で、俺は心から妖精に詫びた。
 助けてやれない……
 俺は……

第三章 ボトム・ゾーン

一 サティーヌ

 かすかに香る花の芳香、優しく窓を打つ雨の音、しっとりと肌に馴染むシーツの感触……
 苦しみはない。痛みはない。
 なのに、どうしてこんなに、胸が締めつけられるのだろう。
 俺の腕の中で息絶えた命。
 純粋にして、あらゆる災厄を浄化する、限りない愛に満ちた魂が消えたことへの哀しみ。
 哀しみ?
 いや、これは……
 俺を満たす、この感情は、絶望……
 闇。
 明かりが……見えない、混沌。
 雑然、それらの共存する世界、それは闇。
 俺の育った…… 闇の世界。
 ボトム・ゾーンさながらに……
 俺はそっと瞼を上げた、体中が弛緩して、指先を動かすことさえ気だるくてならない。柔らかいベッド……俺はうつ伏せに横たわったまま、首を回して横を見た。こちらに背を向けて、細身の女がひとり、眠っている。ひとつのベッドに女とふたり。俺は服も着ず、高級ホテルのような内装の室内は明度を落として……
 すべて、夢だったのか…… 俺は安堵の溜め息をついた、俺は店で捕まえた好みの女を連れて、いつものホテルの一室…… いや、待てよ?
 そんな覚えないぞ。
 俺は分別がつかなくなるほど飲まないし(飲んでも酔うということはないし)……
 俺は腕に頭を乗せ、じっと女の寝姿を見守った。確かに、全身に倦怠感がある。だが、女を抱いた後のものじゃない。残り火のようにくすぶる火種が何もない。完全に身体は冷めきっている。おかしい。俺は必死に記憶をたどった。
 確かリッツヴィでセレネを見取って……あの子の、ダイスをブレイクさせて……胸の痛み……意識が遠退いて…… 気づけばここにいた……
 眼が暗さに慣れてくる。俺は隣の女に注意を注いだ。もし、俺の記憶が確かならば、どうしてこの女が裸体を晒してココにいるのか、説明がつかない。
 ……こいつ、人間じゃねぇな。
 気配が違う。人間の女の匂いじゃねぇ。ということは、俺は決して忘れた訳ではないのだ。たとえ世界がひっくりかえったって、俺は人間以外の女を寝床に連れ込むような真似はしないのだから!
 隣の女……おそらく、鬼族……それも、黒鬼だろう。ボトムで生まれ育った俺には、鬼族の気配がよくわかる。それが白か黒かも、人型に近ければだいだい判断がつく。黒鬼だ、そう、間違いなく、目の前の相手は黒鬼だ。人間じゃない、俺の好みの範疇外だ。絶対に……
 俺の全身に鳥肌がたった。どうしてよりによって俺は、得体の知れない女型の鬼族なんかと、こうしてひとつのしとねで横になっているのだ? しかも、ふたりとも、一糸纏わぬ姿で…… 狂気の沙汰としか思えない。
 俺は自分の良識を疑って、頭痛を覚えた。
 セレネが言っていたことを思いだす。俺が欲しがっていたものをあげる、とあいつは言った。これがそうだというのか? こんな最悪な状況を、望んでなどいなかったんだが…… いや、むしろ、これはセレネの復讐なのか? 母を殺した俺に対する…… だとしたら、全てに納得がいく。だが、セレネのダイスに悪意がなかったことは、ブレイクさせた俺が一番、わかっている。
 ならば、一体、俺の身に何が起きたというんだ……
 と、さらりと長い髪を揺らせて、女が俺を振り返ったではないか! 視線がぴたりと合う。俺はその瞳に息を飲んだ。
 数秒、何を感じたのか、わからなかった。
 ただ、その凛々しささえ浮かぶ面に、くぎ付けにされていた。
 ごくり、と唾を飲み下す。
 じっと俺を捕らえるのは、金色の、美しい煌めきをたたえた瞳だ。暗い室内でも、彼女の美貌がよくわかる。蝋の肌。だが、決して白すぎない。頬にさす赤みは化粧ではない。長いまつげと、柔らかい、赤系のグラデーションを作る髪。細いが、節の目立たない指。触れれば吸い付きそうなきめ細かい頬。僅かに開かれた唇は、熟れた桃の実のように赤い。浮き出た鎖骨が艶美に香る。すらりとした、しなやかな腕……
 女は、俺の心を見透かすように、妖艶な笑みを浮かべた。思わず、全身がうずいた。心臓が飛び跳ねて、ぱっと頬が火照る。
 駄目だ! 俺は何を考えているんだ! 相手は鬼族だぞ!
 女の腕が伸びてきて、俺の首を抱いた。ひんやりとした、心地よい感触。想像していた以上に、その二の腕は柔らかい。
 笑みを作る唇。興味に光る瞳。好奇心一杯の顔で、女は俺に甘い吐息を吹きかけた。
「グレイ」
 彼女は甘えるような声で、そう言った。
「やっと眼を醒ましてくれたのね…… 待っていたのよ、あたし……」
 女は俺の髪を指にからめた。正直、俺は髪に触れられることを好まない。だが、不思議と今は嫌悪感を感じなかった。この得体の知れない黒鬼の前で、俺はあまりに無防備だ。危険な程、従順。飼いならされた猫の気分か…… 御主人が自分の身体に触れ、撫でてくれるのを大人しく待っている……
 信じられないことだが……
 ああ、それが快感になりそう……
 溶けかけた意識を、俺は理性でどうにか引き戻した。駄目だ、銀河! 相手は黒鬼だ! 気を確かに持つんだ!
 自分を奮い立たせ、俺は女の腕を振り払って、寝台の上に上体を起こした。女が熱っぽい眼で俺を見上げる。
「何者だ?」
 俺は威圧を込めたつもりだった。だが、実際に口をついた声は、どこか怯えを含んでいた。自分の情けない声に、更に動揺しながら、それでも俺は精一杯意地を張った。
「サティーヌ」
 女は答えた。その声に、一瞬……惚れそうになる。駄目だ、いけない。しっかりしなくては…… 今の俺、絶対、どうかしてる。
「あたしが、裏の森で倒れていたあなたを見つけたのよ。だから、あなたはあたしのものなの……」
 女は……サティーヌは四つんばいの態勢で俺に這い寄ってくる。俺の胸に手指を添え、浮き出た筋肉に添って、腹へと指先を滑らせて行く。くすぐったい感覚に、俺の身体はびくん、と痙攣した。
「ここは……ここは何処だ!」
 サティーヌの誘惑から逃れようと、残り少ない理性をかき集めて、俺は叫んだ。もはや、悲鳴に近いかもしれない。
 彼女はそんな俺を追いながら、ねっとりと絡みつくような声で、
「ボトム。ボトム・ゾーンよ」
 するり。
 サティーヌの腕が再び首に絡みつく。俺は危うく、彼女の眼差しに吸い寄せられるように、唇を許しかけて……
「サティーヌ!」
 突如、男の声が俺たちを制止させた。
 誰だか知らないが、感謝するぞ! その声があと三秒でも遅ければ、俺は黒鬼を相手にとんでもない過ちを犯したことだろう!
 ほっと胸を撫で下ろし、振り返った俺の目に飛び込んできたのは……
 ジークフリード!
 ジークはつかつかと無遠慮に俺たちに歩み寄ると、サティーヌの腕を掴んで寝台から引きずり下ろした。
「部屋で大人しくしていろと言ったはずだぞ!」
 反抗的にサティーヌがジークを睨みつけた。気の強い、虎のような眼だ。
「義兄さま、グレイはあたしが見つけたのよ。だから、あたしのもの、どうしようと、あたしの勝手だわ!」
「そんな言い分が通用するわけがないだろう! 俺が行くまで、部屋でじっとしているんだ! 今度、禁を破ったら、この程度ではすまさんぞ!」
 ジークの剣幕は相当なものだったが、サティーヌはケロッとした顔をしている。思いきりジークに舌を出して、彼女は裸のまま、さっさと廊下に出ていってしまった。その動きは、悪戯ざかりの少年のようでさえある。ドアを閉め、ジークが俺に向き直った。
「どういうことだ?」
 俺はまだ、サティーヌの色香でぼやけている頭を振りながら尋ねた。
「一体、何が起きている?」
「失礼致しました」
 ……は?
 驚いて見れば、なんということだろう! ジークが俺の前に跪いているではないか! こんな馬鹿なことがあるはずがない。
「おい、ジーク?」
 ジークは頭を上げようとはしない。
 からかっているのか? いや、たとえ、どんなにふざけていようとも、あのジークがこんな真似をするなど、絶対に考えられない。では、他人の空似か?
「義妹の無礼、どうか愚かなしもべのささやかな失態として、お許しいただきとう存じます」
 恐ろしく丁寧なジークの態度に、俺は返す言葉もなく、ただ、その顔を見つめるだけだ。あのサティーヌとは別の意味で、すっかり度肝を抜かれている。
「ジークフリード・ヴァイテ……だよな、おまえ」
 俺は、我ながらとぼけた質問だと思いながら、それでも尋ねずにはいられなかった。
 相手の男は鬼族……白鬼だ。それに加え、うり二つのこの容姿。となれば、間違いはないはずだが……
「はい、その通りにございます」
 男はそこで顔をあげ、にこりと笑って、
「さすがはグレイ、すべてをお見通しにございますね」
 目まいがする。これは…………夢だ。
 それも、とびっきりの悪夢だ。
 黒鬼の女にほだされそうになったかと思えば、あのジークにこんな態度を取られて……
 俺はこの場を逃げ出したかった。だが、どこへ?
 セレネ、おまえは何を俺に渡したかったというんだ? 自らの死を悟ったあの瞬間に、一体何を……
「グレイ?」
 ジーク(そう呼ぶことにさえ抵抗を感じるのだが)は心配顔で俺を見上げた。
 そういえば、さっきから俺を『グレイ』と呼ぶな、こいつら……
「御気分を害されてしまいましたでしょうか。ええ、それはごもっともなれど……」
「あのな、ジーク」
 俺はつとめて平生を装いながら、
「とりあえず、服を用意してもらいたいんだが」
 俺の知るジークなら、その反応は至ってシンプルだ。『自分でやれ』の一言で済むはずだ。だが……
「これは気づきませんで、失礼をいたしました。すぐに御用意いたしましょう」
 目の前の『ジーク』は、人を呼ぶように手を叩いた。すぐに扉が開いて、着替えを一式掲げ持った小悪魔が入ってくる。
「あいにくと、ボトムの物しか御用意できませんでした。お気に召しますかどうか……」
 卑屈なジーク。明らかに、俺の悪友とは別人だ。間違いない。
 俺は服を受け取ると、急いで袖を通した。サイズはぴたりと合う。センスはまぁ、完璧とはいかないにしても、取りあえず許容範囲だ。ボトムで生まれ育った俺には、黒鬼たちの着る露出度の高い衣服も見慣れていて、特に抵抗はない。
「グレイ、よろしければ、お食事を運ばせますが……」
 ジークが勧める。腹は減っているが、今はとてもそんな気にはなれない。俺は手を振って断ると、部屋の奥の窓へ近づいた。
 部屋が特別に暗いわけではなかった。
 窓の外に見えるのは、幼い頃に遊んだボトムの森だ。ここはどうやら、森の外に建てられた巨大な屋敷の塔のひとつらしい。眼下に広がる薄暗いボトムの景色が、俺の胸に懐かしさを呼び起こした。
 ボトムの空はいつも、淡い紫色をしている。風は早朝と夕方に吹くだけで、それ以外に空気が動くことはない。生ぬるい気温が毎日続き、気候の変化もない。
 漫然とした時間だけが澱みのように溜まる場所、それがボトム・ゾーンなのだ。黒鬼たちには居心地のよい環境だが、ジークのような白鬼は好かないだろうに。どうしてそのジークが、ここにいるのか……
「いくつか、訊いてもいいか?」
 俺はジークを振り返らずに言った。
「何なりと」
 気味悪いほど丁寧に、ジークが答える。俺は頭を整理しながら、
「おまえ、どうしてボトムにいるんだ?」
「……と、申されますと?」
「ボトムとスカイとの契約で、白鬼がボトムに入ること、黒鬼がスカイへ入ることは禁止されているだろ?」
「……お言葉ですが、グレイ」
 ジークは申し訳なさそうに、
「そのような規約は、聞いたことがございません」
「そんな馬鹿な」
「しかし、確かにそのような話はございません。ボトムとスカイが建設されて三年、両都市の交流は盛んで……」
「待て!」
 俺は息を飲んだ。
「三年、だと?」
「はい」
 何でもない、というように、ジークは頷いた。
「両都市が完成しましてから、今月でちょうど三年になります」
 俺はまじまじとジークの顔を見た。嘘をついているようには見えない。しかし、こいつの話が事実だとすれば、今は……
「ジーク、今年は人間界で言うところの、西暦何年にあたる?」
「人間界、ですか?」
 ジークは不思議そうに首を傾げながら、
「確か、西暦二〇五九年になるはずですが……」
 二〇五九年、ね……
 単純計算して、俺の生きていた時代からざっと二〇〇年前じゃねぇか……
 …………見えてきたぜ、状況が…………
 どうやら、セレネのダイスは、俺を別の時間に飛ばした、という訳だ。どういう目的があったのかはわからない。だが、現実は現実なのだ。信じがたいが、最近の俺にはそんなことばかりが起きていて、もう、驚く気にもならない。
 サティーヌ……二〇〇年前…… 以前、本物のジークが言っていた、残虐非道な悪魔……
「さっきの黒鬼だが」
「サティーヌのことでしょうか」
「ああ。あいつの名、サティーヌ・エミス・イビル・サーか?」
 ジークはパッと顔を輝かせた。
「ええ、ええ、その通りです。やはり、グレイはすべてを御存じでいらっしゃる……」
 俺は苦笑した。
 何もわかっちゃいねぇんだがな、本当は。
「それで、ジーク。どうして白鬼のおまえと黒鬼のサティーヌが、義理の兄妹なんだ?」
 純粋に驚いてジークは目を丸くした。俺はごく自然な口ぶりで、
「いや、知っていたんだが、どうやら、体調が良くないらしい。記憶が切れ切れになっているんだ」
「そうでしたか。それで先ほどから……」
 騙されてくれたらしい。ジークは納得したように頷きながら、
「御存知のように、都市間交流は行われていますが、その中で白鬼と黒鬼の個人的な関係はうまくいっていません。仲たがいも日常茶飯事ですし、それ以上に酷い憎しみ合いにまでなる場合もあります。本来、同じ種族でありながら、白鬼と黒鬼の間に子が生まれなくなっているのも、それが原因です。この事態を打開するため、両者の間で親密度を高める、そんな試みが始まったのです。無作為に選んだ相手と、義理の兄弟の誓いをたてるという…… そんなわけで、私はサティーヌとこのような形になっているのです」
 なんともまあ、面倒なシステムだな。どうせ、俺の時代では跡形もなかったから、すぐに撤廃されるのだろうが。
「状況はよくわかった」
 俺はジークを振り返って、
「さっきから気になっていたのだが、どうしておまえは俺を『グレイ』と呼ぶんだ?」
 きょとん、とジークは俺を見上げた。いかにも、俺の発問が信じがたいと言いたげである。おそるおそるジークが説明しようとしたとき、突如、狂気じみた高い笑い声が屋敷中に響き渡った。
「サティーヌ……」
 ジークが忌々しげに呟く。
「グレイ、ここでお待ち下さい」
 部屋を駆け出していくジークの後を、俺は無意識に追っていた。

二 アポトーシスのように

 ジークに続いて、長い廊下や広い階段を幾つも過ぎ、俺は屋敷の中央にある中庭へ出た。
 一歩、庭に足を踏み入れて、そのあまりの光景に、俺の全身は血の一滴まで凍りついた。
「これは……」
 呆然とする俺の前で、サティーヌが狂気じみた笑い声をあげている。ふと、彼女は俺に気づくと、嬉しげに寄ってきた。
「グレイ、来てくれたのね!」
 俺は庭一杯の凄惨な光景に息を飲みながら、
「どういう、ことだ?」
 声を震わせた。
「素敵でしょう」
 サティーヌが俺の腕を抱いた。今の俺には、それを振り払うだけの余裕はなかった。ただ、目の前の光景に眼を奪われる。
 庭中に数十本の鉄柱が立てられていた。そして、柱ひとつひとつに、生血のしたたる鬼族の死体が吊るされているのだ。白鬼も黒鬼もとりどりに、まるで死体の見本市のようだ。どの鬼族も、腹をえぐられて無残に体内を晒している。
「おまえ、またこんなことを……」
 ジークが俺からサティーヌを引き剥がす。彼らの口論を聞き流しながら、俺はゆっくりと柱の一本に歩み寄った。
 女型の白鬼だ。そのはがされて垂れ下がった腹部の肌は、粘膜に覆われている。何より特徴的なのは、背中に生えた蝶のような巨大な羽根だった。足下には、細かな銀色の粉がうっすらと積もっている。
 鉄柱の死体は黒鬼、白鬼、女型、男型、中には人型以外のものまで、と外見は様々だが、すべて、腹に粘膜を、背には羽根を持っていた。それはこの鬼族たちが、繁殖期に入っていたことを意味している。
 高い石壁に囲まれた中庭は、一面、鬼族たちの羽根から落ちる薄銀色の鬼粉で煙っていた。この鬼粉が腹部の粘膜につくことで受粉となり、その後は被子植物の種子形成とよく似て、鬼族の体内であたらしい株が育つ。そして、半年もすれば、親の身体を栄養にして成長した次世代が生まれてくるのだ。
 繁殖期は、言うなれば鬼族にとって死期でもある。己の命と身体を捧げて次の命を産みだしていく彼らは、こんな俺から見ても、不思議な美しさを感じるのだ。
 だが、今、そんな鬼族たちが凄惨な姿で晒されている……
 俺はサティーヌを振り返った。いつの間にか小悪魔たちが、ジークとサティーヌを取り囲むように集まっている。その表情はどれも酷く怯えている。
「サティーヌ、これは君がやったのか?」
 俺の問いに、サティーヌは嬉しげに顔をほころばせた。
「素晴らしいと思うでしょう?」
 金色の目が悪戯っぽく輝く。俺は背中が寒くなった。同族の惨殺死体の山を前に、サティーヌの眼には邪意というものが微塵もないのだ。まるで少女のような、純粋無垢な瞳。もし、これが人間の女だったら、間違いなく俺が避けて通るだろうと思われるほどに曇りのない眼。
 俺の心に沸き起こってきたのは、驚きと哀しみと、そして押さえようのない、怒りだった。何に向けての怒りなのか、自分にもわからなかった。同族を殺したサティーヌへの怒りか? いや、そんな単純なものじゃない。
 敢えて言うなら……
 純粋な瞳のこの黒鬼をして、これほどの行為に至らしめる運命と現実への怒り。
 なぜ、この女なのだ? こんな眼をした女でなければ、俺はもっと簡単に怒りを表すことができるのに…… 腹の中に理不尽なものが渦巻いている。許せない。だが、その対象があまりにも漠然としすぎている。
 複雑な感情の嵐を抱いて立ち尽くす俺の前で、唐突にジークがサティーヌの横っ面を殴りつけた。勢いで、地面に倒れ込んだ彼女の傍に、俺は我知らず駆け寄っていた 。
「こういう馬鹿な真似はよせと、何度言ったらわかるんだ!」
 怒鳴りつけるジーク。反抗的な態度をあらわにして、サティーヌが義兄を睨みつける。
「あんたの言うことなんて、聞くもんか! さっさとスカイに帰ってしまえばいい!」
 サティーヌの声が泣いているように、俺には聞こえた。だが、ジークは厳しい態度を崩さない。乱暴にサティーヌの腕を掴み、背後にねじり上げるようにして引き立たせる。
「俺の機嫌をこれ以上逆撫でしないことだ。命取りになるぞ」
 ジークの脅し文句に、サティーヌは微塵もうろたえることなく、逆にジークの顔に唾を吐きかけた。
 ジークの顔色が変わる。
 まずい、このままでは、確実にサティーヌの命はない。
 そう思った瞬間、俺の身体は動いていた。
「待てっ!」
 ジークの視界に飛び込み、彼女を掴むジークの手を止める。
「サティーヌを放せ」
「……グレイ?」
 怪訝そうに眉間に皺を寄せるジーク。俺は引かなかった。
「しばらく、俺にサティーヌを預けてくれ」
 俺に策があったわけではない。だが、こうでも言わなければ、この場は収まりそうにないのだ。
 しかめっ面でサティーヌを睨んでいたジークだったが、ややあってから、憎々しげに彼女を突き飛ばした。
「わかりました、グレイ」
 言葉は丁重だが、ジークの声には抑え難い怒りの色があった。
「十日です。十日間だけ、サティーヌをあなたにお預けしましょう。けれど、期日がきてもこいつが変わらないようなら、その時は私の好きなようにさせて頂きます」
 有無を言わさぬ口調で言うと、ジークはひらりとマントの裾を翻して屋敷内へ消えた。競い合うように小悪魔たちが後を追う。
 中庭には、俺とサティーヌだけが残された。
 ジークに突き飛ばされたサティーヌは、土の上に座り込んだまま、じっと俺を見上げていた。その視線が気まずくて、俺はフッと空を見た。
 自分でも、なんて馬鹿なことをしたのだろうと思う。ひとつ間違えば、俺までがジークの怒りを買いかねないというのに。
「グレイ」
 サティーヌが俺を呼ぶ。俺は首を振った。
「グレイじゃない」
 そうだ、俺は……
「銀河だ」
 そっと振り返って、サティーヌの様子を確かめる。今の彼女からは、先ほどまで全身にみなぎらせていた殺気がまったく感じられなかった。身に纏っているのは、穏やかで優しい雰囲気だけだ。こんな女が、同族を惨殺して歓喜するなど、とても考えられない……
「銀河?」
 サティーヌが俺を呼ぶ、声。その響き。どこかで、聞き覚えがあるような気がする……
 確か、つい最近、聞いたような……
 …………!
 そうだ! アイツ……エミスの声だ!
 俺はまじまじとサティーヌの顔を見た。エミスのガキに似ていないことはない。となれば、元の時代のジークが言っていたように、エミスとサティーヌは何か関係があるのだろうか……
「銀河」
 サティーヌは立ち上がり、ポンポンと服の土を払うと、草むらを這う蛇のような柔軟さで俺の腕を取った。遠慮なく、身体をすり寄せてくる。
「助けてくれたのね」
 サティーヌは俺の耳元でささやくように言った
「ふふふ、嬉しいわ、銀河」
 俺は凄惨な光景の中庭を抜けて、屋敷の外の森へ向かって歩き出した。中庭を取り囲む石壁のひとつに、人ひとり通れるだけのトンネルが外まで続いている。屋敷の壁を抜けると、森はすぐ目の前だ。
 俺の腕に自分の腕を絡めているサティーヌは、何も言わずに大人しくついてくる。俺は暗い森の中を、ただアテもないままに歩いた。
 ボトム独特の紫色がかった植物が、鬱蒼と生い茂っている。華麗な花の咲く植物のいない、非常に地味な森だ。だが、俺を含めて、ここは子どもたちには絶好の戯れ場だった。
 俺は幼い日の記憶を思い起こしていた。黒鬼の友人たちと転げ回って遊んだあの日。あの頃は、まだ幸せだったように思う。自分が人間なのか、黒鬼なのかもわからないほど、悪友たちと一緒になって悪さをしては、大人に叱られ、それでも懲りずにこの森で悪ふざけに興じたものだ。泣けない辛さなど、感じたことはなかったっけ……
 父さんが女型の悪魔に魂を売って食われてから、俺は変わったんだ。黒鬼など、大嫌いだ。
 だが、ではどうして、俺は今、サティーヌと共にあるのだろう? 不可解だ。
 いつしか、俺は虹色の水がたゆたう湖の岸辺に出た。七色の水、と言えば美しいが、実際には水の上に浮いた油のようなものが光っているだけで、決して景観を際立たせるものではない。この表面の七色の液だけを抽出・濃縮して加工したものが、鬼族の通信機、ミラー・フォンティンの原料となる。
 岸辺の白っぽい砂利の上に、サティーヌが腰を下ろした。俺は脇に突っ立ったまま、水面を眺め、時々、ちらりちらりと彼女の横顔を伺う。
 薄紫の光の中、その顔は美しかった。もし、彼女が人間の女なら……いや、よそう。
 生暖かい風が俺たちの間を吹きすぎてゆく。赤く地平線に燃える夕映えのようなサティーヌの髪が、さざ波のように輝いて揺れる。俺はいつしか、その煌めきに見とれていた。
「銀河?」
 呼ばれて、俺はハッと我に返った。金色の眼でサティーヌが俺を見つめている。恐いほどにまっすぐな瞳で……
「どうして、あたしを助けてくれたの?」
 言って、彼女は膝を抱え、伏せ眼がちに水面を眺めながら、
「グレイなら、やっぱりジークフリードみたいに怒るんじゃないの?」
「……そうだな。怒りは、確かに感じた」
 俺はそう答えはしたが、語気を強めはしなかった。
「だが、俺はおまえがなぜ、あんな真似をするのか、その理由を知らない。訳もわからずに怒鳴るような理不尽はしたくないと思った」
 サティーヌは無表情のまま、沈黙した。俺は彼女の隣に座ると、じっと時を待った。無理強いする必要はない。彼女が自分から話し始める時を持った。それが必要だ。
 曲を奏でる前の、あの心静かなときのように。
 待つこと。
 それだけなら、俺にもできる。
 ボトムの空が、夕暮れる。赤紫に染まってゆく。七色の水がゆっくりと揺らめき、小さなコウモリに似た生物が、波紋を作りながら水面すれすれを飛んでいく。
「人間は馬鹿よ」
 不意に、サティーヌが呟いた。俺は黙ったまま見守る。
「自分たちで勝手に増えて、結局すべてを食いつぶして自滅する。馬鹿げてるわ」
「…………」
「鬼族はそんなこと、するものですか」
 そこで彼女はまた長い沈黙に入った。やがて、再び口を開いたとき、その声には今までにない強さがあった。
「だから、よ。自然界はバランスを持ってる。増えすぎた種はそのバランスの中で滅び、数を減らしていく。けれど、人間も、あたしたちも、そのバランスから外れてしまった。だから、すべてを滅ぼすまで、増殖は止まらない」
「…………」
「同族を殺すのは罪。そんなことはわかっている。あたしだって、名家の特権がなければ、とっくに犯罪者として死刑よ。けれど、誰かが、止めなくちゃ……」
 サティーヌの真意。
 そういうことか……
「まるで、アポトーシスだな」
 サティーヌは疑問符を浮かべて俺を見た。
「なぁに?」
 俺は自分の手を見つめた。俺自身を表現するために、この身体でもっとも大切な、この手……
「人は母体内で育つとき、始めは指の間に水かきのような膜を持っている。それが成長するにしたがい、膜の細胞が死んで、五本の指に分かれるんだ。生きるために、細胞が死ぬ。それがアポトーシス」
「ふぅん……」
「君の言っていることも、それに近いと思う。種を生かすために、間引く。完全に否定できない」
 サティーヌの考えはひとつの手段だ。正誤を判断できるものではない。人間もまた、生態系を守るために他の種の動植物の個体数を制御することがある。サティーヌのやっていることと、根本的に何も変わらない。
 虐殺? 確かに、彼女のやり方は一種狂気的だ。だが、どんなに気取ったところで、結果は同じわけで……
 俺は『答え』を探した。サティーヌに答えるべき『答え』を探した。彼女の『理屈』を覆すだけの『答え』が必要なのだ。
 俺は、彼女の心を改めさせるために、ジークから彼女を預かったのだ。彼女を変えない限り、ジークは彼女を生かしてはおかないだろう。だが、今の俺にはサティーヌを変えるだけの力がない。その方法が、及びもつかない。
 どうしたらいい? どうしたら……
 俺がどうにかしない限り、サティーヌはジークに……
 待てよ?
 残虐非道な黒鬼、サティーヌ・エミス・イビル・サーは、神によって封印されたはずでは……
 彼女の未来はすでに決まっているというのか…… 残虐非道? そのまま、評価が変わることなく彼女は神とやらに封印されてしまうのか? ジークの手を逃れても、彼女を待ち受けている運命は変わらないのか……
 俺の力で、変えてはやれないのか!
 得も言われぬ悔しさが全身に満ち、俺は奥歯を噛みしめた。己の無力が己を不幸にするのなら諦めもつく。だが、俺の至らなさのために彼女を救えないこと、それだけは許せない。
 セレネの影が、ちらついた。
「今の俺には……」
 俺は素直に言った。
「君を変えるだけの力はない。君の考えが理解できる。同時に、君の行動を否定したい気持ちがある。だが、君を止められるだけの……君の行動を否定するだけの、理由が見つからない。見つけられない……」
 声が、震えていた。ああ、痛いほどよくわかる!
 泣きたいのだ。
 だが、俺は知っている。俺は泣けない。俺に涙は、ない。
 涙を流して、苦しみは癒される。泣けないこと。それは、涙尽きるまで泣き暮らすよりも、遥かに辛い。
 サティーヌは膝に頭を乗せ、じっと夕闇の湖を見つめている。俺はそっと、彼女の肩に触れようと腕を伸ばし……そして、思いとどまる。心が騒ぐ。どうしようもないほど、心が騒ぐ。目の前の相手に、体中の感覚が奪われていく。だが、そんな心を知りながら、俺は上っ面の理性にしがみついていた。
 黒鬼だ。鬼族だ。人間じゃない。女じゃない。忘れるな、銀河!
 深く息を吸い込み、俺は心を落ち着かせた。今、俺の中に満ち始めている感情がどれほど危険なものか、理性はしっかりと認識していた。だが、実際に身体を動かしているのは、本能なのだ。生きるという本能。もし、それが彼女の存在を必要と認めてしまったら……
 俺はサティーヌから眼を背けた。視界に入っていなければ、少しだけ楽になる。気休めに過ぎなくても。
 信じられないことだったが、今の俺は、本当にどうかしてる……
「待って、欲しいんだ」
 蚊の鳴くような声で俺は続けた。
「君を止める、その理由を見つける。きっと見つけてみせるから……それまで、どうか、待って欲しい」
 サティーヌがクスリと笑う。
「十日。十日しかないのよ。見つかる? グレイ・銀河」
「見つけるさ……」
 決して、サティーヌをジークなどに渡してなるものか…… 神からだって、きっと守って見せる。きっとだ。
 俺の脳裏に、この腕の中で生き絶えた、幼い妖精の温もりが蘇る。そうだ、絶対に死なせやしない。死なせてなるものか!
「さすが、グレイだね。凄い自信」
 サティーヌの視線を横顔に感じながら、俺は眼を閉じた。
「グレイじゃない。俺の名は銀河。第一、一体誰なんだ、そのグレイってのは?」
 数秒の沈黙の後、瞼に吐息を感じて目を開けると、サティーヌが身体を乗りだして俺の顔を覗き込んでいた。
「あなた、どうかしちゃったの?」
 信じられない、といった表情で、彼女は言った。
「あなたはグレイよ。間違いないわ。匂いでわかるもの」
「だ、だから、グレイって何なんだ? 俺の名前は……」
「名前は銀河、でしょ。それはわかったわよ。グレイにも、やっぱり名前があるのね」
「だから、一体何だって訊いているんだ。俺は北城銀河。ただの人間だぞ」
「馬鹿言わないで。あなたはグレイ。人間じゃないわ」
 …………
「本当に知らないの? 自分がグレイ……『神』だってこと?」
 …………
「ふふ、おかしな神サマ」
 サティーヌに額をこづかれても、俺は声が出なかった。
 …………馬鹿げてる!
 不気味なほど丁寧なジークといい、突拍子もないことを言いだすサティーヌといい、俺はきっと、頭がどうにかなってしまったんだ。
 セレネ! おまえは俺を、どうしようというんだ? 俺を取り巻くこの世界は何なんだ? 俺に何を与えようというんだ?
 動揺して視線を彷徨わせていた俺の頬に、そっとひやりとしたサティーヌの手が触れた。
「本当に、何も知らないのね」
 俺は彼女の瞳を見据え、頷いた。
 妙だ。他人の前で、こんなにうろたえたことなど、今まで一度だってなかったのに、不思議と素直になれる…… ああ、それが危険な兆候だとわかっていながら……
「別に構わないわ。あなたが何者だって、たいした違いはないと思うの」
 たいした違いはない? 大アリじゃないか! 俺は確かにボトム生まれのボトム育ちだ。だが、れっきとした人間だ。それがどうして自分の知らない間に神になんか…… 神に……? 神?
 神がサティーヌを封印する……
 そうだ、もし俺が神サマなんだとしたら、サティーヌを封印なんて絶対にしない。第一、そんな方法も知らない。
「サティーヌ、神ってのは、俺の他にもいるのか?」
 突然の俺の問いに、彼女は戸惑いながら、
「ええ、いるけれど……」
 ということは、サティーヌを封印するのは別の奴だ。俺はそいつから、彼女を守ればいいわけだ。
 神と戦うことになるのか……
 以前の俺なら、面白い、と一笑したことだろう。だが、すでにそんな軽い気持ちにはなれなかった。サティーヌの命が賭かっているのだ。負けは許されない……
 !
 ああ、ダメだ! 俺は確実に、この信じられない設定に引きずられている。引き込まれている!
「銀河……」
 すでに輪郭がぼやけるほどに暮れなずんだ湖畔で、サティーヌは甘えるように俺の身体に腕を回してくる。そのまま押し倒されないよう、俺は腕を突っ張らせた。彼女の勢いに押されて、自制心を保っていられるだけの自信はなかった。
 身のうちに沸き上がる欲求を押し殺して、俺は逃げるように立ち上がった。恨めしげなサティーヌの視線から眼をそらす。
 空には、赤い星が輝き始めている。もっとも、その星々はみな、ボトムの管理局が投影した大規模な幻灯にすぎない。
「サティーヌ」
 彼女に背を向けたまま、俺はできる限り冷静さを装って、
「しばらく、ひとりにして欲しい。十日のうちに、きっと答えをやる。だから、それまで、誰も殺めるな」
 それだけ言うのが精一杯だった。鼓動が破裂しそうに早く熱い。自分の身体が自分のものじゃないような感覚。言うことをきいてくれない四肢。今にも、大きな音をたてて、理性のタガが外れてしまいそうで……それが恐くて、俺は足早に彼女の傍を離れた。
 後ろ髪惹かれるとは、こんな気分をいうのだろうか。初めて味わう……

三 心の深遠はいまだ

 愛し始めている。
 とっくに、心の深遠(ふかみ)から。
 一目あった瞬間の、あの鼓動の高鳴りで。
 俺は感じていたはずなのだ。
 こうなることを。
 こうなってしまうことを。
 自分が、崩れていくことを。
 知っていたはずなのだ。
 それがどれだけ、危険であるのか。
 ああ!

 窓から見える、変わり映えのしない空。申し訳程度に星を飾る天蓋。毎夜繰り返される同じ景色を、俺は今夜も見上げていた。
 同じ屋敷で過ごしていても、俺はあの最初の日以来、サティーヌと会ってはいなかった。
 会えなかったんだ。わかるだろう? 会えば自分を保てないことが…… 笑うなら笑うがいい。その方が楽になる。幾晩、彼女の夢を見ただろう。あれから、幾晩が過ぎたのだろう。
 部屋の扉をノックする音。
「どうぞ」
 俺はゆっくりと振り返った。入ってきたのは、ジークフリードである。その手には、ボトム名産の酒のボトルとグラスを乗せたトレイがある。
「お休みの前に、少し、いかがです?」
 ジークはトレイを石造りのテーブルに置くとボトルの栓を抜いた。赤く濁った血のような酒をクリスタルのグラスに注ぎながら、
「明日、ですね」
 ジークは言った。
「明日の朝、サティーヌを尋問しようと思います。それで、私の望む答えが得られない場合、彼女は午後まで生きてはいないでしょう」
「…………」
「どうです? 彼女は変わりましたか?」
「…………」
「私の見る限りでは、あなたは一日中、この部屋で物思いにふけっておられるだけで、彼女を諭すような場面はありませんでしたが……」
「…………」
「もっとも、たとえあなたでも、アレを変えることは無理なのです。……さ、どうぞ」
 ジークの差し出したグラスを受け取って、俺は揺らめく液面を眺めた。鼻にツンとくる酸味の利いた匂いがする。
「失敗しても、誰もあなたを責めはしません」
 俺と並んで、ジークは夜のボトムを見下ろした。
「彼女は根っからの『悪魔』ですからねぇ」
「どうして、それほどまでにサティーヌを敵視する?」
 ジークはスッと瞼を閉じた。
「あなたは御存知ないようですから、お教え致しましょう。彼女はもう、数百人の鬼族の命を奪ってきたのです。繁殖期を向かえた者たちを、次々と慰んで殺してきた。この行為を正当化できますか?」
 俺は、サティーヌの言葉を思いだした。増えすぎる人口を制御するのだ、と彼女は言っていた。確かに、彼女のい言い分には一理あるのだ。でも…… しかし…… ああ、理由が、否定する理由が見つからない!
 殺してはならない。
 当たり前のようなその理由が見つからない。
 何故、殺してはならない?
 その訳は簡単だ。『殺してはならぬ』、そんな暗黙の了解が存在しなければ、誰もが命を狙われる脅威に晒され続けなければならなくなるからだ。だから、お互いに命を奪わない、奪われないという保証を欲しがる。
 だが、今、俺が抱えている事態はそれほど単純ではない。サティーヌはただむちゃくちゃをしているわけではない。彼女なりの『正義』に基づいて行動しているのだ。
 だからこそ、余計に彼女を否定できない。
 結局、俺は十日間を無駄に過ごしてしまったのか…… 何も解決できないままに、サティーヌは命を奪われるというのか……
 いや、大丈夫だ、サティーヌはジークに倒されたりはしない。もし、彼女が倒されることがあるならば、相手はジークではなく、『神』なのだ。そうであるはずだ。
「ジーク?」
 俺は白鬼に尋ねた、
「サティーヌを、どうやって殺すツモリだ?」
 白鬼は一瞬、残虐な光を瞳に揺らめかせた。
「方法はまぁ、いろいろありますが、今の予定では、火あぶりが妥当かと。古来より、悪しき者は火あぶりにするのが習わしですゆえ」
 火あぶり…… よし、やはり、神ともパラ・ダイスとも関係ない。サティーヌは死なない、ということだ。だが、たとえ俺の聞いていた運命がそうであっても、一〇〇パーセントそれを信じて何もしないでいるわけにもいかない、か…… 死には至らずとも、彼女が苦しい思いをすることになるなら……
 俺は一口、酒を舐めた。癖のある、どろりとした触感が舌の上に広がる。
「そうでした、グレイ」
 突然に、ジークが何かを思いだしたように声を上げた。
「あなたに頼まれていたものを用意させましたよ。屋敷の中央ホールに運ばせてあります。ですが、あんなもの、何に使うのです?」
 俺は酒を一気に飲み干すと、空のグラスをジークに返した。
「見た通りだ。俺は一通りの使い方しか知らない」
 十日間、期日いっぱい考えて、結局俺には答えとなりうる言葉は何もなかった。こうなったら、残された道はただひとつだ。
 俺は今朝早くにジークに依頼し、人間界からグランドピアノを届けさせるように、手配していた。
 俺に残されていたのは、この指だけだ。
 ピアノがサティーヌを変えてくれることを、祈らずにはいられない。
 たったひとつの、あまりに頼りない方法だったが、今や、俺にはこれしか……
 ジークに案内されて、俺は屋敷の中央ホールへ向かった。ホールでは、今さっき運び込まれたばかりのグランピアノに群がって、鬼族の使用人たちが物珍しがって騒いでいる。
 俺は彼らを掻き分けてピアノの前に立った。上の天板を開ける。美しく整った弦が並んでいる。鍵盤の蓋を開き、俺は高いラの音を叩いた。
 ホールの構造もあってか、音は俺が思ったより、よく反響した。これならば合格だ。
 何音か試してから、俺はおもむろに椅子に腰掛けた。片足をペダルに乗せ、指を鍵盤にすべらせ、位置に置く。心静かに、時を待つ。
 まさに、弾き始めるにふさわしい、一瞬の間合いを探す。これを誤ると、演奏自体が空虚なものになってしまう。
 大丈夫だ、これだけ反響する建物なら、間違いなく、サティーヌのもとに曲は届くだろう。彼女に聴いていて欲しい。そのために、俺は弾くのだ。
 選曲に迷いはない。
 最も美しく、最も哀しく、もっとも気高い、一曲だ。
 俺の指が鍵盤上を静かに躍り始める。目を閉じ、指先から伝わる鍵盤の重さと冷たさ、そして耳に触りのよい可憐な音に全神経を払う。
 聴いてくれ、サティーヌ、この曲は君に捧げるために……
 俺はボトムの生まれだが、実際にボトムの地でこの曲を弾くことは初めてだった。場所が変われば曲は自然と変わるものだ。グランドで弾くより、左手の旋律が際立っている。いつもは控えめな低音のメロディが、今日は強く弾きたい気分だ。
 曲が進む。主旋律が右手から左手に移る。ここはいつもピアニシモで弾くのだが……
 実際にピアノから流れる音はやや強いメゾピアノ。そして高まるにつれて、フォルテシモ。こんな弾き方、初めてだ。だが、身体が知っている。魂が知っている。ここでは、こうやって弾くのが良いのだ。曲は生物だ。時と場所とで同じ譜面でも姿を変える。その曲の息遣いを巧みに読んで、曲の願うがままに弾きこなす者が、真のピアニストだ。譜面通りにしか奏でられないようでは、ただの自動ピアノと同じこと……
 そうだ、ボトムでは低音が強い。
 演奏中、俺はほとんど眼を閉じている。だから、今も、ジークを始めとして周囲に集まっている鬼族たちがどんな顔をしているのか、まったくわからない。だが、ひとつだけ確かなのは、余計な音が一切しないということだけだ。そして、演奏中の俺には、それだけで十分だ。
 指先から全身の神経を震わせる音の響き。俺の身体を駆け抜けていく旋律。意識を飲み込む、透き通る音の快楽。
 響く。
 ホールに共鳴する音が、俺の呼吸する世界になる。音の世界に生きる。世界は波紋を拡げながら、現実を覆い尽くしてゆくのだ。
 届け。
 奏でるメロディに込めて、俺はそう祈った。
 届け、彼女のもとへ。
 届け。
 もう、君を救う言葉はない。
 君を変える言葉はない。
 君に捧げられるのは、ただひとつ、こうして贈るレクイエムだけ。
 伝わるだろうか、サティーヌ、君にこの思いが……
 君を慕うこの想いが……
 曲は人を変える。聴く者も、そして奏でる者さえも。俺の内側から、何かが生まれてくる感覚、それが戦慄となる。
 旋律のもたらす戦慄。俺はそれに身をまかせる。
 弾き慣れたレクイエム。
 だが、それが俺に語る言葉はいつも一様ではなくて……
 すべての答えは、音の連なりの中に隠されている。
 俺はもっと早く、こうするべきだった。思い悩むより先に、弾くことだった。いや、あの苦悶の日々を越えて奏でる今だからこそ、これほどにはっきりと曲の言葉を聞き取ることができるのかもしれない。
 レクイエムが俺に語りかけるのは、俺が探し求めていた『答え』。サティーヌに告げるべき『答え』は、あまりに突拍子もなく、あまりに的を得ていて、俺はその言葉に一瞬眩暈を覚える。
 曲は言う。俺の心を感じて、音が俺に教える真実。
 届け、曲よ。
 彼女のもとへ。色褪せない音色を、愛しい人のもとへ。
 ホールに響く、鎮魂歌。
 やがてピアノの調べは最後の小節を語り終え、沈黙に飲み込まれる。
 場が静まる。
 心騒ぐ静寂、俺は眼を開くと、そっと両手に接吻た。それから、回廊の続く二階を見上げる。
 あの廊下の奥で、サティーヌは、待っているはずだ。俺が来るのを、ひとり、待っているはずだ。
 届いたか、サティーヌ。俺の心の調べが、君に……君の心に……
 俺は長い吐息をつくと、静かに立ち上がった。ジークが一歩、俺に歩み寄ってきた。
「初めて聴きましたが……」
 ジークの声はどこか、恍惚に潤んでいた。
「何という曲なのです? 不思議と懐かしい心地がしました……」
「『白と黒のRequiem』」
 俺は、短く、低い声で答えた。演奏の直後は、あまり話をしたくないのだ。
「白と黒……」
 ジークが熱い溜息を漏らし、首を振った。
「実に、あなたらしい」
 何がどう、俺らしいのかは知らんが、それ以上、詮索するつもりはない。俺は呆然としている黒鬼たちの間を抜け、金の手すりのついた階段へ向った。
「グレイ!」
 背後からジークが呼び止める。俺は物憂げに振り返った。
「サティーヌのもとへ行かれるのですか?」
「まだ、陽は昇らない。かまわないだろう?」
「しかし……」
 切り出しづらそうに、ジークは言い淀んだ。
「サティーヌの部屋は……その……」
「二階の回廊の東の端だろう?」
 俺は少々苛立ちながら口早に言った。
「ひとりで行ける」
「…………」
 再び歩き始めた俺の背中に、ジークの困惑が伝わってくる。俺は止まらなかった。
 ホールを取り巻く回廊を通って、屋敷の奥へ通じる廊下へ入った。暗い廊下には薄赤色のガラスの傘のついたランプが、空気の流れに揺れながら廊下の両側に等間隔に掛けられている。チリチリと油の燃える音までが聞こえるほど、静かな廊下。
 俺は自分の鼓動に耳を澄ませた。
 早い。明らかに、早い。
 どくっ、どくっ。
 脈打つ音がはっきりと聞こえる。全身がうっすらと汗ばむのがわかる。
 サティーヌのもとへ。
 十日間、毎夜夢に見た人のもとへ。
 俺の心を支配してしまった人のもとへ。
 俺の一歩一歩は、次第に早くなっていた。
 東の端に、頑強な錠前の降ろされた鉄の扉があった。彼女はこの部屋に軟禁されているのだ。
 俺はあらかじめジークから預かっていた錠前の鍵で、扉を開けた。重たいきしみをたてて、扉はゆっくりと奥へ開いた。
 部屋に入る前から、俺は室内の内装に瞠目した。
 四方の壁一面に貼り付けられて(おそらく、飾ってあるのだろうが)いるのは、あらゆる種類の生物の剥製だ。人間界に住むものだけではない。鬼族たちの故郷にしか生息しない生物も多く混ざっている。その中には、人間や鬼族そのものの剥製もある。
 ジークはこのことを気にしていたのだろう。呆然とそれらに圧倒されていた俺は、ふと、正気を取り戻してサティーヌの姿を探した。異様な壁以外は、俺の暮らす部屋と大差はない。整ったインテリアの、ホテルの寝室のような作りだ。
「サティーヌ?」
 俺はかすかな声で呼びかけた。この部屋に、死角は多くない。だが、サティーヌの姿は見当たらなかった。一瞬、ジークの奴が既に連れ去ったのではないか、という嫌な想像が頭をよぎった。
 俺は部屋に踏み入ると、後ろ手に扉を閉めた。
「……銀河……」
 突然、背中で俺を呼ぶ細い声がする。息をつめて振り返ると、 床の上に膝を抱えて、サティーヌが座り込んでいた。大扉の陰になっていて、気づかなかっただけのようだ。
「なんだ、そこにいたのか」
 俺は胸を撫で下ろした。ここへ来るまで、あれほど緊張していたというのに、実際にサティーヌを前にして、俺は驚くほど普通に話しをすることができた。胸の苦しさが、嘘のように収まっていく。
 幻ではなく、俺の想像ではなく、現実に目の前に彼女がいる。その圧倒的な存在感は、やはり俺を引きつける。
「銀河……」
 サティーヌはきらきらする大きな金色の眼で俺を見上げ、肩を震わせた。
「どうした?」
 彼女はまるで少女のように首を振った。
「何でもないの」
 気丈に立ち上がろうとするが、ぐらりと揺れてバランスを失う。俺はすかさず腕を伸ばして彼女を抱き支えた。
 何でもないはずがない。サティーヌの身体はずしりと俺に寄りかかった。
 会わぬ間に、何がサティーヌをここまで追い詰めたのだ?
 ……俺だろうか…… 恐い。
 俺は彼女をレースの天蓋の吊り下げられたベッドの端に腰掛けさせた。
「なぜ、泣く?」
 彼女の肩を抱き寄せながら、ささやくように耳元で語りかける。
「……銀河……」
 俺の問いかけには答えず、サティーヌはただ、俺の首にすがって嗚咽を殺した。力づけるように、その細い背を抱き締める。
 抱き締める? そうだ。俺はまるで、ずっと昔からそうしてきたことのように、サティーヌを抱く。この身体の細さ、柔らかさ、温もり、血の通い、吐息、力、匂い、想い、命。その全てを、ずっと以前から知っている…… 生まれ落ちる、その前から。
 頬が触れ合う。サティーヌの熱い涙が、俺の頬を伝って、硬い石の床に垂れる。
 涙……
 そうだ、涙!
 ティア・ダイス。それなら、サティーヌを助けてやれるかもしれない。彼女の願いを叶えられる、ティア・ダイスならば……
 片手で彼女の頭を支えながら、そっと首を回し、その色薄い瞼に唇を寄せ……
 ……そこまで、だった。
 俺はそれ以上、先へ進むことができなかった。
 恐ろしい!
 はっきりと、自分の心が分かる。恐ろしいのだ。
 今まで、多くの女たちが見た『夢』の記憶が蘇ってくる。心の闇を具現化するティア・ダイス。
 もし、もしもサティーヌの見る『夢』が『悪夢』であったなら…… 俺の心はそれに耐えられるのだろうか……
 求める、愛。求めてやまない、純潔の愛。俺はサティーヌに対して、万感の想いを込めて慈しみを注ぎたい。誰ひとり、心から愛した者などなかった俺が、彼女に対してはっきりと抱くこの激情が、全て否定されてしまったら…… 彼女が、他と変わることない、『悪夢』の所有者だとしたら……
 ティア・ダイスが俺にもたらす未来が、もし、惨たる地獄であったとしたら……
 俺の精神は二度と、光を見ることはあるまい。永劫に闇を彷徨い、カオスの一部となって溶解するまで、苦しみの中をたゆたい、のたうち続けることだろう。
 俺は初めて、ティア・ダイスの持つ恐ろしさに気づいた。
 生まれた時から、俺の身体に埋め込まれていた、ティア・ダイス・オリジナル。それと引き換えに、涙を流すことのできない俺の身体。
 涙を失うことで苦しみ、ティア・ダイスを持つことで苦しむ。結局、このダイスは災いにしかならないものなのだと、思い知らされる。
 腕の中で震えるサティーヌ。その涙を味わう勇気が、俺には、まだ欠けている……
 俺は、俺を、嫌悪した。
 彼女を、信じていないというのか。信じられないというのか? これほどに胸焦がし、焦がれながら、ダイスを産めるほどには、信じられないと?
 今までの俺は、相手の女に期待はしても、執着を持たなかった。だからこそ、どんな未来だろうと、ひとつの現実として冷静に受け止めることができたのだ。ダイスを産むことに何の戸惑いもなかった。だが、今は違う、サティーヌは違う。彼女の『夢』が俺の心に刺さるものであったら……
 怯えている。俺は、息が止まりそうなほど、怯えている……
 咽喉の奥が締めつけられるように痛む。なぜ、信じてやれないのだ?
 どうしてこれほど、俺は臆病になった!
 ぎしり。
 扉のきしみとともに、ジークが姿を現した。
「グレイ、時間です」
 事務的に、彼は言った。
 サティーヌが涙を拭いながら、顔を上げた。金色の眼が、官能的な煌めきを帯びて輝いている。その眼に、ジークは一瞬、ひるんだようだった。おそらく、サティーヌが泣く、などということは、今までになかったのだろう。
 何を、期待したらいい?
 俺は自問した。サティーヌが何と答えることを、俺は期待したらよいのだろう。偽りでもいい。この場を取り繕うだけのものでいい。ジークの怒りを沈めるような言葉であれば…… 俺の手は、いつしか、しっかりと彼女の細い手を握っていた。
 強い眼差しのサティーヌ。それを迎え撃つジークにも隙はない。俺は固唾を呑んで成り行きを見守った。
「どうだ、サティーヌ。改める気になったか?」
 ジークの問い。それに対するサティーヌの答えは、
「あたし、間違っていないわ」
 …………
「わかった」
 ジークの答えは短い。しかし、重たい。その重みはサティーヌの命と、俺の未来の重みだ。

四 輝きの闇の中で見る夢を共に……

 ジークの合図とともに、一斉に小悪魔たちが部屋になだれ込んできた。小悪魔の大きさは俺の腕半分程だが、数が多いために侮りがたい怪力になる。サティーヌを連れ去ろうと群がる小悪魔を、俺は力の限りに払い落とした。黒鬼の耐久力に遠慮は必要ない。
「グレイ」
 ジークが唇を歪める。彼の不愉快はもっともだ。サティーヌの心が変わらなければ、彼女を処刑する。それについては俺も承諾しているのだ。
「グレイ、あなたに逆らうつもりはありませんが…… しかし、これも我々鬼族の安泰のため。少々手荒な真似をさせていただきます」
 ジークのその言葉を待っていたかのように、一斉に小悪魔が俺たちに襲いかかった。鋭い爪と牙を持つ小悪魔の攻撃は、それぞれ威力こそ小さいが、小回りが利く分すばしこく、執拗に眼を狙ってくる。
「銀河っ!」
 群がる小悪魔どもにかかずらっていた俺は、サティーヌの悲鳴で振り返った。いつの間にか、サティーヌの両腕を吊るし上げる形で、ジークが彼女を捕らえている。
「助けて、銀河っ!」
「サティーヌ!」
 突如、背後から飛びかかってきた小悪魔に後頭部を蹴りつけられ、俺はその場に片膝を折った。小悪魔の爪で額についた傷から流れ出した血が、左目の視力を奪っている。
 俺は朦朧としながら、サティーヌを見上げた。
 怯えた顔。俺を求める眼差し。
 同じ悲鳴を、知っている。
 セレネ!
 助けられなかった。
 二度と……二度と、あんな思いはしたくない! それ以上に、二度と、死なせたくない!
「サティーヌ……」
 俺はよろめきながら立ち上がった。威嚇の声を上げながら、足下に這い寄る小悪魔たち。おまえたちに、俺は止められない!
 胸に手を当て、呟く言葉。
 ガラス質の刃を胸から産む。吹き出す鮮血もいとわず、俺はティア・エッジを力ずくで抜き放った。エッジの輪を左手に通し、右腕を引いて構える。
「俺が約を違えたことはわかっている。その上で言う、サティーヌは渡さない」
 ジークが眼を細める。彼にはすでに、俺の個人的な感情までが知られてしまっているだろう。だが、構うものか!
 サティーヌを愛している!
 もう、誰に羞じることなく、俺ははっきりと叫ぼう。
「仕方がないですね」
 ジークが一歩下がる。小悪魔が俺に詰め寄り、一斉に跳躍して牙を剥いた。
 小悪魔目掛け、俺は容赦なく刃を振るった。いかに打たれ強い黒鬼とはいえ、刃物で真っ二つに裂かれては、為す術もない。
 飛びかかってくるものを片っ端から切り捨て、俺はジークに迫った。応戦しようとしたジークだったが、片手にサティーヌを抱えていては自由が利かない。
 俺はしたたかに彼の腹部を蹴り飛ばした、反射的にジークがサティーヌの手を放す。その腕を素早く取って、俺は走り出した。
 廊下へ飛び出し、階段を駆け降りる。正門から屋敷の外壁を回って、森の中へ。紫色に影を落とす明け方の森は、絶好の隠れ場所だ。
 深く、奥へ、奥へ。俺たちは休むことなく必死に駆けた。途中、何度もつまづきそうになるサティーヌを支え、一歩でも遠く……
 ジークから……いや、すべての鬼族から逃れることだけが、俺の望みだった。サティーヌと共に生きる、その世界は、このボトムにはない。俺たちに残された道は、ただ、逃れることだけ…… すべてから、逃れ続けるだけ……
 恐ろしいものは何もない。サティーヌとともにあれば、何ひとつ、恐れるに値しない。逆もまたしかり。彼女なしでは、何もあり得ない。何ひとつ、存在できない。
 紫の木々、紫の梢、紫の影、紫の空、紫の太陽、紫の大地。
 走り疲れたサティーヌが、グイ、と俺の手を引いた。俺は乱れた呼吸に喘ぎながら、それでも周囲への警戒は怠らず、立ち止まった。
 しばらくはふたりとも、何も言えなかった。苦しい胸を押さえ、空気を吸い込んで喘ぎながら、俺はいまだに左手に持ったままだったエッジを胸にしまった。身体に吸込まれていくティア・エッジの傷みに、短い呻きが漏れる。
 俺はサティーヌを抱き上げた。熱い、熱い体温。走り疲れた身体は火照り、咽喉がかすかに震えている。
「サティーヌ……」
 俺は肩に彼女の息遣いを感じながら、呼びかけた。
「…………」
 声にならない、サティーヌの返事に、俺はそっと頬を寄せ、汗ばんだ額に接吻る。びくり、と彼女の身体が腕の中で跳ねた。
 今まで俺に預けていた右手を解き、困惑の表情を面に浮かべて見つめる。金色の眼が、俺を映し込んでいる。
 何か、言わなくては……
 俺は言葉を探した。
 言わなければ伝わらない。
 それはわかっている。
 もし、彼女が人間の女だったなら…… おそらく、何も語らずとも、俺の気持ちはしっかりと伝わっていただろう。だが、彼女は黒鬼なのだ。
 自家受精も可能な生物種である黒鬼は、本来、愛というものを必要とせず、一切持たない。そのため、俺のこの気持ちを察することはできない。
 いや、たとえ言葉を尽くして説明したところで、理解できないかもしれない。俺のこの感情は……サティーヌたち鬼族には無用のなのだから。理解できなくて、当然……
 今まで彼女が俺の身体に触れてきたのも、見慣れないものに対する単なる好奇心にすぎないのだ。その裏に、特別な意味などない。
 俺は呆然としているサティーヌを地に降ろした。そっと手を放す。温もりが去ると、冷たい風が吹きつけてきた。朝と夕にだけ吹く、冷たい風。この風が、繁殖期にある鬼族の粉を運ぶ働きをしている。
 俺は何も言わず、ただうつむいた。鬼族の中で生まれ、鬼族の中で育った俺でも、やはり本能のままに愛を持っていた。だが、サティーヌは正真正銘の鬼族だ。理解、できるはずがない……
 俺は不意に、父を思った。父さんもまた、鬼族の女を愛した。数日前の俺には理解できないことだったが、今の俺には痛いほどにわかる。求めても、決して得られないもの…… だから、父さんは魂を売った。少しでも、相手に近づくために……
 俺は、どうする…… どうしたら、いい……
 森の木々が揺れる。ジークらの追手の気配はない。うつむいたままの俺には、サティーヌの様子がわからない。どんな眼をして俺を見ている?
 軽蔑? 嘲笑? 嫌悪? 憐愍?
 ああ、俺の求める『想い』はそのどれでもないというのに……
 人間と、黒鬼と。決して相容れないこの関係。俺は知っていたはずなのに…… 黒鬼など…… 黒鬼など……
 また、だ…… 苦しくなる。
 ここ数日の内に、何度も……
 俺に涙があったなら…… 俺の涙なら、きっとサティーヌを幸せにする『夢』を産めるのに…… 不甲斐ない……
 嗚咽が鋭い塊となって、俺の咽喉を切り裂く。込み上げてきた感情は、本当であれば美しい涙となってこぼれ落ちるのだ。涙は哀しみを流し去るための、大切な大切な手段であったはずなのだ。
 涙のない俺は、その哀しみを身の内に溢れさせ、溢れて尚、飲み干さねばならないのだ。俺の心はその度に萎え、ボロボロに崩れていく。この苦しみを、誰がわかろうか……
 サティーヌ……
 硬く眼をつむっていた俺の頬に、暖かい手が触れた。俺の頭を両手で包み、じっと眼を開いて見つめてくる、サティーヌ。その眼に邪意はない。穏やかで、すべてを見通したような、安心できる瞳。何かを告げるように、彼女は頷いた。
 込み上げてきた思いに、俺の脳が沸騰する。
 サティーヌの眼。俺を見つめるその眼は、はっきりと言っていた。
 何も案ずることはない。すべてを知っている。私はすべてを知っているから……
 それは俺の思い過ごしか?
 狂わんばかりの欲望が見せた幻か?
 それでもいい、こうなってしまったら、もう、誰にも止められないのだから……
 俺は震える唇で、静かに彼女に接吻た。すぐに離し、反応を見るようにサティーヌを見つめる。彼女は穏やかに俺を見返し、微笑んだ。
 俺は再度、唇を重ねた。そして、より深く、彼女を求めた。どちらからともなく、腕を伸ばして肩を抱く。腕は背を這い、やがて腰に絡まる。服の上から、サティーヌの柔らかい両胸の弾力が伝わってくる。
 サティーヌの歯が、俺の舌に小さな傷をつけた。口腔にひろがる血の味に、全身の細胞が熱を帯びる。
 深く、求めあう。
 だが、俺たちにの許された契りは、ここまでなのだ。どれほど身体がうずき、求めても、サティーヌの肉体は俺の欲求に答えることはできない。
 人間と黒鬼と。
 越えがたい種族の壁、それが俺たちの前に立ちふさがっていた。
 想いのすべてを遂げられない苦しさに、俺の咽喉を喘ぎ声が突いて出た。より強く、サティーヌを抱き締める。彼女の細い身体が壊れるほど、力を込めて……
 気が狂いそうだ!
 いっそのこと、発狂してしまいたい!
 押さえる術を知らない激しい想いに身体の内側を焼かれながら、俺はサティーヌの唇を求め、肌を求めた。
 紫の闇が、俺たちを取り巻きはじめていた。

 風の香り。土の匂い。大切な人の温もり。
 草むらに横たわり、柔らかい彼女の胸に抱かれて、俺は体中の警戒心を解いてまどろんでいた。気だるい身体。かりそめの契り。決して越えられない最後の境界。それでも、俺は満たされていた。ただ、彼女のぬくもりが俺を、満たしていた。鼓動が、聞こえる? どちらの? どちらでも、同じことさ……
 俺たちはもう、ずっと……
「サティーヌ……」
 たゆたう意識の縁から、俺はそっと呼びかけた。
「うん?」
 俺を抱くサティーヌの細い両腕。髪を撫でつけられて、その感触に吐息が漏れる。
「どうして、あいつに、あんなふうに答えたんだ?」
 俺は嬌声で枯れた咽喉で尋ねた。サティーヌの指先が、俺の頬を優しく撫でてゆく。
「そう、思ったからよ」
 彼女は静かな声で答えた。
「嘘はつきたくなかったの。あたしは思った通りに答えただけ……」
「君の気持ちは、変わらなかったのか……」
「どうかしら」
 サティーヌはより強く俺を抱き寄せた。
「もう、どうでもいいの。……ふふ、勝手ね、あたしったら…… でも、本当にどうでもいいのよ。鬼族の未来も人間も」
「サティーヌ……」
「私には、あなたと一緒にいることだけが大切…… それだけよ……」
 俺は顔を上げた。身体をずらして、彼女にキスする。それから、わずかに紅潮した頬に添って舌を這わせ、瞳に溜まった涙をすくい取った。舌先で味わい、吐息に変える。ふたりの間に、透き通ったダイスがひとつ、転がった。サティーヌの白い指がそれを拾い上げる。一連の動作に、一切の曇りはない。
「ティア・ダイスね?」
 俺は頷いた。
「ここにはどんな『夢』が入っているのかしら?」
「君の願いが、この中にある。君の、心の底からの願いがね」
 俺は彼女の指とダイスとに接吻た。
「ブレイクさせてみる?」
 怖くはなかった。俺は何でもないことのように、そう、誘った。すでに、俺たちに恐いものなんてない。俺は彼女を信じている。たとえ、ティア・ダイスからどんな『夢』が生まれてこようとも、それはきっと、彼女の金色の瞳のように美しい。
 そう、信じて疑わない。
「そうね」
 サティーヌは穏やかに微笑んだ。そして、首を振った。
「止めておくわ、今はね。もし、本当に私の『夢』がここにあるのだとしたら、今使っても、何も変わらないわ」
 俺は首を傾げて彼女の顔を覗き込んだ。
 声を低め、
「何を、望んだの?」
「……内緒」
 悪戯っぽく言って、彼女は再び俺に接吻る。滑らせるように俺の首筋に移り、鎖骨を甘く噛む。ぞくり、と背筋を走る快感に、俺は鼻を鳴らした。
「俺のピアノ、聞こえていた?」
 サティーヌの愛撫を受けながら、俺は弾み始めた息の下から尋ねた。
「ええ、聞こえてたわ」
 サティーヌの声も、どこかぼんやりとしている。
「とても、哀しい曲。まるで、あなたの苦しみが奏でているみたいに……」
「俺の苦しみ?」
「そうよ。あの低音域があなた」
 低音域……
「わかるの」
 サティーヌは少し間をおいて、
「あの低音はあなた。高音はあたし。低音域が優しく高音域を包み込んで……」
「…………」
「あたし、あのピアノの音が羨ましかったわ」
「……なぜ?」
「あなたに、愛されているんですもの」
 俺は眼を見開いた。サティーヌの、黒鬼の口から『愛』という言葉が出たことに、不思議な驚きを覚える。そしてその驚愕は、一瞬後に、たとえようのない喜びに変わって、俺の魂を震わせた。
 こんなことがあるのか! サティーヌは、今自分が口にした言葉の重さになど、まったく気づかない眼で笑った。
「ねぇ、銀河」
 俺の胸の上で転がしていたティア・ダイスを日にすかして眺めながら、
「これ、もらってもいい?」
「ああ。でも、俺じゃなきゃ、ブレイクさせることはできないよ」
「いいの。それでもいいのよ。私には、大事なの」
「……サティーヌ?」
「だって、そうでしょう?」
 彼女は愛しげにダイスを撫でながら、
「あたしは、あなたとの間に何も産むことができないの。何も残すことができないの。だから、せめて、このダイスだけはあたしにちょうだい。あたしと、あなたの想いが産んだのよ」
 俺は何もいえなかった。俺の上で、無邪気に笑うこの女に、限りない愛を注ぐ。それが俺の求めていた生き方なのだと、疑わない。
 ……俺が、求めていたもの?
『銀河の、欲しいもの、あげる……』
 俺の中で、妖精の言葉が解けた。サティーヌとの出会い。本来であれば、遠い時代を越えたこの出会いは、あり得るものではなかったはず。セレネの言葉は真実だった。あの子は、俺に確かにくれたのだ。俺が、本当に望んだものを……
 ここに、しっかりと。
 俺は改めて彼女を見つめた。
「サティーヌ…… 黒鬼の君に、人間の俺が言うのもおかしなことかもしれないんだが…… でも、これ以外に言葉が見つからないから、やっぱり言うよ」
 初めて出会ったときから、こうなることを願っていたのだろう。俺は胸に息を吸込んだ。
「サティーヌ、俺は君を、あ……!」
 前触れなく、俺は飛び起きた。
 耳を澄ませる。足音?
「まずい、追手だ!」
 サティーヌが不安そうに森の奥を見つめる。彼女を促して、俺は気配とは反対方向へ走り出した。
 追手の気配が迫ってくる。俺たちは必死に駆けた。繋いだ手は放さない。何があろうと、決して放すものか。
 行く手の森が切れる。断崖絶壁が俺たちの行く手を阻んだ。絶壁の下には、奈落が口を開けている、おそらく、黒鬼の本来の世界へ通じているのだろう。
 別の方角へ逃げなくては…… きびすを返した俺の動きについて来られず、サティーヌが地にうずくまる。
「どうした?」
 サティーヌは自分の肩を抱いて震えている。俺の手を握る力が強くなる。
「サティーヌ、どこか痛むのか?」
 彼女はぐっと歯を食いしばって、痛みに堪えているようだった。
 間が悪いことに、そこへジークたちの一団が現われる。
「グレイ、ここまでです」
 四対足の、移動用の動物に乗っていたジークが、俺たちを見下ろして威圧的に言った。彼につきしたがう小悪魔たちはみな徒歩だったが、それでも、手には鋭い切っ先の槍を持っている。
「サティーヌを渡していただきます」
「断る」
 俺ははっきりと拒絶した。
「彼女は俺が……」
 言いかけて、俺は繋いだ手のひらが急に熱くなったと感じ、振り返った。サティーヌが、ぶるりと身体を震わせる。
「……銀……河……」
 サティーヌの様子は尋常じゃない。俺はジークの相手を放り出して、彼女の前に膝をついた。と、突如、鋭いサティーヌの悲鳴とともに、壮絶な変化がその身を襲った。
 一瞬、世界が見えなくなった。
 白銀色に光る風が、俺たちを取り巻き、視界を奪った。突風が吹きすぎる。銀色の幕が取り払われ、俺がそこで眼にしたのは、変わり果てたサティーヌの姿であった……
 突然のことに、声も出ない。
 彼女の背には、アゲハチョウのような美しい薄い羽根が、大きく開いていた。
「銀……河……」
 サティーヌが力なく、俺の腕を握る。彼女の羽根から降り注ぐ銀色の粉が舞う。
 炎のように燃える、赤やオレンジをちりばめた羽根が、俺を包み込むようにゆっくりと上下する。
 サティーヌの死を。
 ああ、サティーヌに死をもたらす艶姿。
 心ならずも、俺は美しいと感じた。
 命を生み出す力。
 生命をはぐくむ力。
 限りなき愛の力に溢れた姿……
「言いざまだな、サティーヌ」
 背後でジークが嘲る。
「おまえがもっとも嫌った姿に、成り下がったわけだ」
「……黙れ」
 俺は振り返らずに叫んだ。
「黙れ!」
 誰にも、サティーヌを傷つけさせない……絶対に!
 金色の眼に涙を一杯に浮かべて、サティーヌは苦しい息を吐きながら俺を見上げる。
「サティーヌ、君は……」
「……知っていたの……」
 彼女はささやくように答えた。
「あなたのピアノを聴いたときから、身体が変化を望んでいることが、わかっていたの……」
 ぽろり、と彼女の瞳から透き通る涙が頬に転がり落ちる。
「銀河…… あたし、死にたくないよ……」
 サティーヌの悲痛な訴え…… 俺の腕に食い込む彼女の指が酷く震えている。
「……銀河…… ずっと…… ずっと……一緒に……」
 彼女の懇願する眼差しに、俺は素直に答えた。光る涙に接吻て、ティア・ダイスを産む。一度手に握りしめ、呟く。
「ティア・ダイス」
 恐れない!
 俺は思いきりダイスを高く放り投げた。
「ブレイク!」
 眩い光。
 紫にくすんでいた世界が、瞬時に輝きの渦の中へ飲み込まれ、俺たちを包んで瞬いた。
 俺はサティーヌの身体を放すまいと、固く抱き締め続けた。
 彼女の『夢』を信じて。
 幾千億の輝きが、俺たちのすべてを明るく照らし出し、曇りなき愛を魂深くに刻みつけた。
 突如、俺の腕が空虚を掴んだ。全身に寒さが走る。眼を見開く。
 輝きがさざ波となって引いたあと、そこにサティーヌの姿は無くなっていた。
 俺はしばらく、呆然と手のひらを見つめていた。
 何が起きたのか、理解できなかった。
 サティーヌの涙から生まれたティア・ダイスには、一体どんな夢が入っていたというのだ?
『銀河と、ずっと一緒に……』
 そうではなかったのか、サティーヌ!
 何故消える? 何故消えるのだ! 俺は、おまえといられることだけを望んで…… ただ、その、一つだけを!
 と、俺の前の草の上に、キラリ、光るものがある。俺は震える指先でそれを拾い上げた。見たことのない、金色のダイスだった。まるで、そう、彼女の瞳の色をした……
『銀河と、ずっと一緒に……』
 どうして……
 俺は震えて、我が身を抱いた。
 死が迫った瞬間、サティーヌが望んだのは、命を永らえることではなかったのだ。ただ、俺の傍に自分の分身を置くこと……
 彼女には、自分に訪れた死を曲げることができなかったのだ。あまりにも彼女らしい、しかし、哀しすぎる幕切れで……
 俺の内側に熱い熱いものが込み上げ、俺は手の中のダイスを強く強く握りしめた。
 胸が、痛い。
 心が……
 ああ……
 もう……
 瞼の裏に鋭い痛み! 瞬きする度に眼球にガラス片が突き刺さるような激痛。硬く眼を閉じると、頬を伝ってこぼれ落ちる…………ナミダ? これは、血?
 胸の奥に強烈な熱を感じ、俺は全身を駆け抜ける激痛を最後に、混沌へと……
 …………サティーヌ…………

第四章 スカイ・ゾーン

一 神という名の

 俺を取り巻くもの。
 まるで羊水のなかの胎児のように、俺は透き通る液体の中に浮かんでいた。
 苦しくはない。
 痛みもない。
 今はただ、静けさと安寧だけが、俺を支配している。
 遠くに、鮮やかな色合いの光が束になって注いでいる。俺は無意識に腕を伸ばした。
 指先が、硬い壁に触れる。
 液体に満たされた空間に、閉じこめられているらしかった。不思議と、恐怖はない。
 守られている。
 俺の本能が、そう感じていた。
 俺は、守られている。
 誰に?
 何に?
 わからない。
 けれど、俺は守られている。それは揺るがしがたい事実。
 周りを見回す。液体のために屈折して進入してくる光。俺の外側にある世界が歪んで見える。だが、それでも俺は、ここがどこなのか、すぐにわかった。
 俺の教会だ!
 ちょうど、礼拝堂中央のあたりだ。あの色とりどりの光は、ステンドグラスを透かして見える、日光だ。
 俺は見えない壁に沿って、出口を探した。だが、そんなものはどこにもなく、上も下も、三六〇度、完全に密閉されている。
 ここから出なくては……
 ……そうだ、ここから出て、スカイへ……
 すべてが、夢だったのだろうか、とも思う。
 だが、俺が纏っている服は、ボトムの物だ。ジークらしからぬジークが俺に渡した、鬼族の服だ。
 それに……
 俺の心に空いた穴。
 この虚無感が、夢であるはずがない。
「サティーヌ」
 俺は思わず呟いていた。空気の代わりに、俺を満たすこの液体が、肺に溢れている。
「サティーヌ……」
 しっかりと握りしめていたはずの黄金色のダイスが、どこを探しても見当たらない。だが、それで正しいのだろう。
 今、このとき、俺はすべてを悟った。
 パラ・ダイスなのだ。
 サティーヌの分身であるあのダイスこそ、伝説のパラ・ダイスなのだ!
 残虐非道なサティーヌを、神がダイスに封印した……
 真実は、すでに俺の中にある。
 ここから出なくては…… 俺は腹を決めた。
 ミカエルの手からパラ・ダイスを取り戻さなくてはならない。
 サティーヌの想いを、この手に取り戻す!
 俺は肩から壁に体当たりした。ギシリ、と壁面が歪んだが、割れる気配はない。だが、何故だろう、焦りは感じない。必ず出られる。この場所は、俺を閉じこめるためのものではない。
 そうだ。子宮がそうであるように、ここは、俺の生まれる場所……
 ふと思いたって、俺はそっと、壁に接吻た。
 ここから出してくれ。行かねばならない場所があるんだ。
 俺を内包する水槽自体が、波打つようにうねり、凄まじい勢いで四散した。
 俺は全身をぐっしょりと濡らしたまま、十字架の前に膝をついた。
 肌に触れる空気が懐かしい。肺に溜まっていた水を咳き込んで吐きだしきると、頭を振って深呼吸を繰り返す。額に張り付いた髪を掻き上げる。
 見慣れた、礼拝堂。
 今はいつの時代なのだろう……
 サティーヌが消えて、黄金のダイスが生まれて…… 俺は全身を激痛にさいなまれ、気を失って……
 そして、ココへ戻ってきた。
 ミカエルのもとへ行かねばならない。
 心は焦ったが、身体が動かなかった。
 しばらく、ぼんやりとステンドグラスの陽光を眺め、立ち尽くす。全身がけだるく、重たかった。
 どれくらいそうしていただろう。かすかな音をたてて、礼拝堂の正面の扉が、ゆっくりとこちらへ押し開けられる。
 入口に立った人影に、俺は眼を懲らした。逆光になったその影はふたつ。
「やっぱりね」
 サティーヌ? ……似ている、この声は……
「教会(ここ)に来れば、神サマに会えると思ったんだ」
 …………エミス。
「二〇〇年前の俺に会ってきたか?」
 続くのは、聞き慣れたジークの声だ。
 そういうことか……
 最初から、ジークは俺を知っていた。俺とサティーヌと、パラダイスの関係、そしておそらく、エミスにまつわることもすべて、奴は知っていたのだ。
 まさにペ天使だな。
 俺は冷静な態度をもって、彼らと対峙した。ここで取り乱す必要はない。俺は何も、恐れることはない。
 ジークとエミス。ふたりを前にしても、俺には微塵の恐怖もない。
「エミス」
 どこかサティーヌの面影のある黒鬼に、俺は名を呼ぶ。
 エミス・イビル・サー。おそらく、彼は……
「ようやくわかった、エミス。おまえがどうして俺を恨むのか」
 エミスは満足げに微笑んだ。俺は続けた。
「おまえは、自分の母親を奪った俺を、憎んでいたのだな」
「……やはり、二〇〇年の時を越えてきたんだね、銀河」
 数歩、エミスは俺に近づくと、ダーツを構えた。俺は動かなかった。
「ならばもう、すべてを知っているんだろう? 僕が説明するまでもなく……」
「ああ。真実を、な」
「銀河、僕は決して君を許さない。僕から母を奪い 、兄弟を奪った。母は君に封印される前に、僕だけを落としたんだ」
「そうか…… あのときに……」
 俺はサティーヌが見せた苦しげな顔を思い出していた。羽根が開き、その粉を全身に浴びたサティーヌから、あの短い時間の中で一粒だけ、種子が生まれたのだ。そしてそれが、エミスとなった。俺はじっと、あどけない黒鬼の瞳を見つめ続けた。不思議と、怒りも湧かない。俺に瀕死の重傷を負わせた相手だというのに、復讐心を覚えない。
 一時は、必ず倒すと誓った相手を前にしているというのに、この心の変わりようは一体どうしたことだろう。サティーヌへの想い。すべては、それに帰結する。
「行くよ、銀河」
 エミスがア・ライブ・ダーツを宙に産み出し、俺を狙う。その鋭い切っ先に、今まで散々に傷つけられてきた。警戒せねばならない物であるはずだ。だが、やはり、俺の心は凪いでいた。
 エミスが、癇に触ったように顔を歪めた。
「神だか何だか知らないけれど、僕は君を許さない。絶対に!」
 悲鳴にも似たエミスの合図に合わせて、一斉にダーツの群れが俺を目がけて突っ込んでくる。俺はよけなかった。
 よける必要がなかった。
 なぜなら……
「ば、馬鹿な……」
 エミスが動揺をあらわにして呟く。彼の後ろで成り行きを傍観していたジークも、不機嫌そうに眉を寄せた。
 俺の肌を傷つける寸前で、ダーツはことごとく制止していた。
「どうして……」
「そういうことだ」
 ばらばらと床に落ち、消えていくダーツ。
 俺はエミスを改めて見つめ、
「おまえはサティーヌの子。それも、おそらく自家受精によって生まれた子。おまえの身体には、サティーヌの想いが残っている」
 エミスがまなじりを震わせる。
「僕の身体に…… でも、それなら、射貫けるはずだ! 母さんの憎しみで君を!」
 俺はゆっくりと首を振った。
 違う。違うんだ、エミス。
 サティーヌは……
「エミス。サティーヌは俺を恨んではいない」
 はっきりと、そう言える。言いきれる。
「彼女は俺を、愛してくれた」
 エミスの表情が驚愕に変わる。
「そ……そんなこと……」
「本当だ。そして、今でも……」
 そうだ、俺はエミスの母親を……サティーヌを愛している。今でも、ずっと……
 俺の心を感じて、エミスのダーツは俺を傷つけられなかったのだ。エミスの身体から生まれるこのダーツは、言うなればサティーヌの分身でもある。彼女は俺を傷つけない。決して。決して…… 俺が、彼女と出会った。そこから、全ては変わる。違う方向へと、動き始める。
「嘘だ!」
 エミスが一歩下がる。叫ぶ。
「嘘だ! 母さんは銀河に封印されたって…… 確かに母さんは鬼族に酷いことをしたかもしれない。だけど、最後には心を改めていた。それなのに、銀河が……神が母さんを封印したって!」
 俺は眼を閉じた。
「その話、誰に吹き込まれた?」
「え?」
「言わなくてもわかる。どうせ、おまえの後ろで見物している、性悪な白鬼だろう?」
 ジークが小さく笑うのが聞こえる。
「銀河、言いがかりはよせ。見苦しいぞ」
「おまえこそ、認めたらどうだ、ジーク」
 俺は真っすぐに白鬼を見据えた。
「どうせ、サティーヌの悪行の言い伝えも、おまえが世間に吹聴したんだろう? この『悪魔』め」
 エミスがうろたえたようにジークを振り返る。白鬼は何でもない、というようにエミスに向かって、
「俺を信じられないのか?」
「……ジーク……」
「今まで、母のなかったおまえを育てたこの俺が、どうしておまえを騙すようなことを言う? その必要がないだろう?」
「必要ならあるさ」
 俺は声を高めた。
「おまえは、二〇〇年前、俺のティア・ダイスの力を知った。それを自分の手に入れたくて、俺を狙っていたんだろう? だが、おまえは自分の手を汚すことを好まない。都合よく、エミスを利用したわけだ」
 明らかに、エミスは動揺していた。ジークが壁にもたれていた身体を伸ばし、姿勢を正す。
「エミスよ」
 わざとらしいほど親しげに、彼は語りかけた。
「恩を忘れるな。そして、母の恨みを忘れるな、おまえの母をパラ・ダイスに封印したのは、間違いなく、この銀河だぞ。その恨みを晴らすために、おまえは今まで生きてきたのではないのか」
「好き勝手なことを言うものだ」
 俺はあらためて、ジークのその性格を見せつけられたような気がした。胸がむかついてくる。
「ジーク、エミスになど任せずに、自分でかかってきたらどうだ?」
 俺は挑発的に奴を誘った。
「相手してやるよ」
 ぎろり、とジークは俺をねめつけ、胸元からディス・カードを引き抜く。俺も迷わずティア・エッジを産み、構えた。
 二〇〇年前、こうするべきだったのだ。ジークを生かしたことで、エミスの心を苦しみで満たしてしまった。
 俺はエミスを、サティーヌの子を守らねばならない。いや、守りたいのだ!
 セレネを救えず、サティーヌを救えなかった。
 もう、たくさんだ! これで最後だ!
 エミスが俺たちの気迫に気圧されて、壁際に退く。その表情にはすでに、戦意が感じられない。完全に雰囲気に呑まれている。
「ジーク」
 エッジを構えながら、俺は言った。
「知っていたんだな、おまえは。俺とサティーヌとの仲も、エミスのことも、パラ・ダイスやティア・ダイスの力も、何もかもを」
 不敵にジークは笑った。
「ああ。知っていたとも」
 急速に間合いを詰めて、ジークは俺に向けてカードを一閃させた。
 リーチは無いに等しいカードだが、素早く凪ぐことによって、真空の刃を放つことができる。俺はひらりと身を返して、見えざる刃から逃れた。
 焦ることはない。チャンスは必ずくる。
「なぜ、エミスを巻き込んだ?」
「おまえの言う通りだ、銀河。俺は自分の手を汚したくはない。それに、万が一の場合を考えて、な」
「万が一?」
「そうだ」
 真空の刃が、俺の頬を掠めてゆく。礼拝堂の床を転がり、椅子の陰に身を潜める。
「そして、俺のその懸念は現実のものになった」
 ジークは悔しげに唇を歪めた。
「二〇〇年前、おまえはパラ・ダイス誕生の直後、突如姿を消した。だが、俺にはおまえの行方が掴めなかった。ただひとつわかっていたこと、それはいつの世にか、おまえは再び現われる。『神』としてこの世に。だが、その時、両親がおまえをボトムに隠さないとも限らない、ミカエルを始め、天使は『神』の魂を狩るのに熱心だからな」
 『神』?
「残念だが、ジーク、二〇〇年前にも言った通り、俺は神じゃない。人間だ。人間の両親から生まれた……」
 嫌な笑い声が、俺を遮った。ジークは嘲るように俺を見下ろし、
「まだ認めないか、銀河。おまえがなぜ、白鬼から命を狙われてきたと思う? 白鬼がおまえが気に入らないのは、なぜだと? おまえが『神』だからだ」
「…………」
「おまえの本当の両親は、鬼族だ」
 !
「白鬼と黒鬼の子だ。それが『グレイ』。『神』となるのだ」
 …………
 白鬼と黒鬼の子?
「確かに、白と黒の間に子供は生まれないのが、ここ数百年の常。しかし、稀にその常識が破られる場合がある。おまえのように……」
 !
『白と黒のRequiem』。
 あれは……あの曲は、俺の出生を知らせるものだったのか!
 おそらく、作曲者は俺の人間の父親…… 鬼族の女に惚れて魂を食われた、あの人だ……
 間違いない。父さんは、俺に残したのだろう。俺の本当の両親の魂を慰める術を。
「わかったか、銀河」
 ジークは余裕を浮かべてほくそ笑む。
「おまえはティア・ダイスから生まれるはずだった。だが、どういうわけか、ティア・ダイスを体内に持って生まれてきた。そのため、時空が狂い、歴史の歯車が狂ったのだ。おまえの未来にあるはずのサティーヌとの出会いが、エミスや俺にとっては過去の出来事……」
 何とも、ややこしい話だが……
 俺の中で、少しずつパズルの抜け落ちていたピースがはまっていく。
「Sアーチの内部でおまえが妖精と共に消えたとき、何かが始まることを直感した。あれからわずか半日、だ。俺たちがここへ辿り着いたとき、おまえは二〇〇年の時を旅し、真に『神』としてティア・ダイスからの誕生を遂げた」
 なるほど、な。
 あの透明な液体に満たされた空間は、言うなれば種子だったわけだ。
 俺が知ると知らぬとにかかわらず、俺は『神』なのだ。だから、ジェムは俺を恐れた。『神』の存在は、人工の命である彼らの存在価値を否定してしまうからだ。
 知りたいことはあらかたわかった。
 そして、これからするべきことは……
「ジーク、おまえを倒す」
 俺はエッジの切っ先を奴に向け、
「サティーヌの名誉のためだ」
「名誉、か」
 ジークは鼻で笑うと、指の間でカードを弄ぶ。
「身のほどもわきまえず、肉欲に駆られた腐れ黒鬼に、名誉とは、なぁ」
「本音が出たな、ジーク」
 俺はエミスをちらりと見て、
「彼女の子ならば、俺の子も同じこと。エミスをたばかった罪も加え、おまえを許さない」
 エミスの眼差しにサティーヌと似通ったものを感じ取り、俺の身体に新鮮な力が溢れてくる。
 彼女を失い、一度は虚になった心の一部を、エミスの存在が埋めてゆくのがわかる。サティーヌの代わりは誰にもできない。だが、エミスのために生きようと思える。これは、強さか、それとも、脆さか。
「笑止」
 ジークはカードを閃かせた。
 俺の背後の十字架が、斜めに切断され、石の床に音をたてて砕け散る。
「『神』の力、手に入れてやる」
 ジークは狂気じみた笑みを浮かべて、長身を翻した。

二 魂を抱いて

 間髪を入れないジークの攻撃を、俺はティア・エッジを閃かせて弾き返した。並外れた強度を誇るこのエッジの力を持ってしても、長く堪えられそうもない。それほどに、ジークの産みだす刃は鋭敏だった。
「おまえの胸から、ティア・ダイスをえぐり出してやる!」
 ぞっとしないことを口走って、ジークが舌なめずりする。今更ながら、俺はとんでもない奴を友人に持ったものだと後悔した。
「やれるか?」
 不敵に笑い返す、俺。ティア・ダイスのオリジナルは俺の胸深くに埋め込まれている。それを取りだすとなると、文字通り、心臓を切り開かなければならない。当然、俺の命はない。
 ティア・ダイスに未練はない。
 涙を取り戻すことができるならば、何も、こんな哀しみの結晶に縛りつけられている必要はない。だが、死ぬのは御免だ。
 俺にはまだ、やりたいことが残されているのだから……
 ジークの一撃をとんぼ返りを打ってかわし、着地と同時に床を蹴って一気に間合いをつめ、エッジを横に一閃。軽々とジークは飛び退き、空中から続けざまに刃を放つ。それを際どいところでかわして、俺は距離を取った。
 攻防は互角、か。
「銀河、俺が今までおまえに手を出さなかったのはな……」
 ジークが言った。
「勝ち目がないとわかっていたからだ」
「ほう……」
 隙を伺いながら、俺は適当に相づちをうった。ジークの唇が不気味に歪む。
「そうさ。今までのおまえは強かった。何故かわかるか?」
「…………」
「守るべきものが、何もなかったからだ」
 と、ジークが後方へ大きく飛び退き……
「!」
 呆然と俺たちの闘いを見つめていたエミスの首に、カードを突きつける!
 俺の胸を一瞬、強烈な焦りが駆け抜けた。
「さて、銀河。今のおまえに、俺が倒せるか?」
「卑怯者が……」
「ほほう?」
 さもおかしげにジークは笑んだ。
「己の利のためならば、何者をも平気で犠牲にしてきたおまえに、そんなことを言う資格があるのか?」
「…………」
「所詮、銀河、俺もおまえも、同類ではないか」
 悔しいが、ジークの言う通りだ。サティーヌやセレネと出会う前の俺ならば、或いは、今のジークと同じことをしたかもしれない。騙される方が悪いのだ、戦いには善悪などなく、勝敗があるだけ。そう、冷たく笑いながら……
「銀河……」
 首を締め上げられ、エミスが苦しさに顔を歪めて俺を見つめる。その眼は救いを懇願している。だが、言葉には出せないのだ。彼の胸は今、俺を傷つけたことへの痛みで引き裂かれつつある。
 助けて!
 声にならないエミスの悲鳴が、俺の耳にははっきりと聞こえていた。
「心配するな、エミス」
 俺は静かに言った。
「必ず、助ける」
「助ける? おまえらしくもない」
 ジークは片手でエミスを押さえつけ、もう一方の手でカードを振るった。
 高速で近づいてくる不可視の刃。風の流れでその動きがわかる。
 パッ!
 俺の右腕から鮮血が舞った。遅れて、鋭い痛み。あまりにも切れ味のよい真空刃は、痛みが後からやってくる。
「やめて!」
 エミスが悲鳴を上げた。俺はわざと笑って見せた。
「なぜ避けなかった、銀河。早くも諦めたか?」
 ジークの言葉に、俺はひるまない。
「俺が避ければ、あの太刀筋は方向を変え、エミスを傷つけていただろう?」
 そうだ。ジークは俺を狙っている。が、その刃の動きから見て、俺が避けることでエミスに危害が及ぶ。
「さすが、見抜いていたか……」
「小細工はよせ、ジークフリード。おまえに勝ち目はない」
「いつまでそんな口が叩けるかな」
 ジークの腕の動きにあわせて繰り出される刃が、今度は俺の左腿を裂いた。身を崩すまい、と脚に力を込めると、傷口から大量の血が流れ出してくる。だが、今はそんなことに気を取られている場合ではない。
 と……
「そこまでだぞ!」
 エミスがいつの間にか数本のダーツを宙に構えていた。苦しい状態から、精いっぱいの力で用意したものだろう。
「放せ! さもないとおまえの身体にダーツを打ち込んでやる!」
 ジークに向けるあらわな敵意は、サティーヌにそっくりだ。俺はふと、エミスの仕草に愛しさを覚える。
 だが、無駄だ。無駄だよ、エミス。ジークにそんな手は通用しない。
「エミスよ」
 嘆かわしい、と言うようにジークは首を振り、
「おまえの攻撃は知り尽くしている。確かにア・ライブ・ダーツは強力だが、一撃で俺を倒すことはできない。おまえが俺に一〇〇本打ち込む間に、俺は銀河の喉笛を断ち切ることができる」
「…………」
「もっとも、おまえが銀河を犠牲にしてでも、自分が助かりたいというのなら、話は別だがな」
 ぐっと、エミスの眼に涙が滲む。
 ジークは満足げに微笑し、俺に向き直った。
「顔に傷はつけないよ、銀河」
「…………」
「正直言って、おまえの顔は俺好みなんでね。その美しい顔が痛みに歪むサマ、少しでも長く味わいたい」
「……サディストの変態野郎が……」
 俺は忌々しく吐き捨てた。
「ミカエルと同類だぜ、テメェはよ」
 俺の悪態にも、ジークは笑みを崩さない。
「白鬼ってのは、誰でもそういう性分なのかね」
「かもしれんな」
 開き直るジーク。三度、刃が俺の脇腹を切り裂いた。
 石の床に、鮮やかな血が広がる。深紅の、眼に眩しいほど鮮やかな色。
 それに反して、エミスの顔からは血の気がひいていく。
「銀河っ!」
 その悲鳴が、サティーヌの声と重なる。
「逃げて! 僕なんか、庇う必要はないんだ! 僕なんか!」
「馬鹿言え!」
 俺は苦しみを顔には出さずにエミスに微笑んで見せる。
「エミス、おまえだからこそ、俺は逃げるわけにはいかないんだ。言っただろう? サティーヌの子は俺の子も同じことだと」
「銀……河……」
 ジークが、気にくわない、と言わんばかりに、エミスを睨む。
「簡単に寝返りおって……」
「ジーク、エミスを放せ。既に俺は手負いだ。人質など取らずとも、おまえの敵ではなかろう?」
 挑発する。だが、ジークは応じなかった。
「手負いのおまえの危険性も、知っているつもりだ。まだ、駄目だな」
 く……
 簡単にはいかないか……
 どんな手を使っても、まずは奴をエミスから引き離すことが最優先なのだ。そうでなければ、俺は思いきり戦うことができない。
 エミスを逃がさなければ……
 身体の傷口から止めどなく流れ続ける血…… 意識を保っているだけで、次第に全身に汗が浮いてくる。長くはもちそうにない……
 かすみ始めた、眼。だが、それをジークに勘づかれてはならない。いや、ジーク以上に、エミスに、だ。エミスにだけはこれ以上、どんなささいな苦しみも、与えたくはない。
 それが、俺がしてやれるせめてものこと。サティーヌを、彼の母を守ってやれなかった俺がしてやれる、せめてもの……
 俺は弱る身体に鞭打って、どうにか平生を装い続けた。
 その時だ。視界の隅で、何かが動いた。視線で悟られないよう注意を払いながら、俺は礼拝堂の開け放たれた入り口を見た。焦っていた心に、わずかな、しかし大きな意味を持つ光が灯った。
「ジーク」
 俺は弱っていることに気づかれまいと、気丈に、
「どうやら、黒鬼は俺を見捨てないらしい。ボトムで育った俺には、白より黒の方が信頼に足る」
「?」
「今だ!」
 俺の声に答えて、ジークの顔に背後から小悪魔が飛びついた。
 リィだ!
 油断していたジークは、リィを振り払うことに必死で、エミスから手を放す。その隙にエミスは奴から逃れ、ダーツを空中に構えて間合いを取った。
「銀河!」
 リィの声。俺は全身に残された力を振り絞って、ジークに突進する。ジークに振り払われたリィが壁に激突し、短い悲鳴を上げて、ぐったりと床に落ちる。ジークが俺に注意を戻したとき、すでに俺のエッジが奴の喉元に迫っていた。
「ちッ」
 ジークの舌打ち。そして、後退。俺は追った。
 本当なら、敵を深追いすることを好まない俺だが、今は別だった。体力が限界に近い。動くたびに全身から流れる血。短期で勝負を決めなければ、間違いなく、勝機はない。
 俺の心を読んでいるかのように、ジークはすんでのところで攻撃をかわし、逃げ続ける。まるで、時間を稼ぐような戦い方だ。
「焦っているな」
 余裕を見せつけて、ジークが笑う。俺のエッジが宙を切る。
「攻撃に心の乱れが出ているぞ、銀河」
 言葉を返している余裕など、俺にはない。とにかく、早く決着を……
 だが、ジークの忠告通り、その焦りが俺に隙を産んだ。
 ガッ!
 振りかぶったエッジの重みに引きずられて態勢を崩した俺の頭に、ジークが強烈なひじうちを食らわす。俺は視界が暗転し、全身の制御を失って、礼拝堂の隅に崩れ落ちた。
「ここまでだ」
 朦朧とする頭でジークを見上げる。酷い吐き気がする。肉体が、限界を告げる。
 勝ち誇ったようなジークの笑み。
 が……
「銀河から離れろ!」
 声と共に、エミスがジーク目がけて数十本のダーツを放つ。しかし、ジークの真空刃で、ことごとく打ち落とされてしまう。
「エミス……逃げろ……」
 俺は叫びたかったが、口をついたのは、自分のものとも思えない、弱々しい声だけだった。
「邪魔をするな、黒鬼めが」
 ジークが牽制するように放った刃が、エミスの胸から鮮血をほとばしらせた。悲鳴を上げて、倒れるエミス。だというのに、俺は無様に転がっているだけだ。
 くそっ!
「いいざまだ、銀河」
 ジークがぺろりと舌で唇を舐める。
「簡単に殺しはしないさ。俺がティア・ダイスを手に入れるためには、いずれ死んでもらうことになるだろうが、それまで、たっぷりと可愛がってやる」
 ジークはカードを俺に突きつけた。枠だけで、真ん中の抜けている、不気味なカード。ディス・カードだ。その破壊力は、俺もよく知っている。相手をカードの中に封印し、あとは好きなように弄ぶことができる。白鬼の開発した、超悪趣味なアイテムだ。
「じゃぁな」
 俺を狙い、ジークが眼を細める。くりぬかれた穴から、ジークの顔が見える。
 ジークが低く呟く。
「ディス・カード……」
 ちらり、と俺の眼に、天井のステンドグラスが映る。ジークの攻撃で割れていたガラスの間から、白い陽の光が差し込んでくる。
 そうだ、アレなら……
 一か八かだ!
「キャッチ!」
 ジークの声と同時に、俺は重たい腕で素早く、ティア・エッジをかざした。俺の目から見て、ディス・カードの穴をふさぐように……
 断末魔。いや、断末天使と言うべきか。凄まじい悲鳴が上がり、礼拝堂の高い天井に反響した。
 声の余韻が消え去ってから、俺はだらりと腕を降ろした。音をたてて、ティア・エッジが床に転がる。その傍に、一枚のカードが舞い落ちた。
 傷を庇いながら、俺はカードを拾い上げ、裏返した。今まで空洞だったカードの表面に、歪んだジークの姿が焼き付いている。
 思った通りだ。
 ティア・エッジは角度を変えることで鏡のように光を反射する。エッジに映り込んだジーク自身が、封印されてしまったのだ。カードから解放することができるのは、術をかけた当人のみ。その当人がカードの中、とあっては、当分の間、外へ出ることはできないだろう。
 胸の傷を押さえ、エミスが俺に歩み寄ってくる。その顔には、傷によるものだけではない陰りがある。
「誰かの為に戦うというのも、悪くないな」
 俺は微笑むと、カードを差し出した。
「好きにしろ」
 エミスは血に濡れた指で受け取ると、表面のジークの姿を一瞥し、放り上げた。
「ア・ライブ・ダーツ!」
 突如出現した一本のダーツがカードの縁を射貫き、壁に突き立った。
「しばらく、ここに飾っておいて」
 エミスは礼拝堂の正面にかけられている、半分に砕けた十字架を眺めた。
「彼には懺悔が必要だ。神を冒涜しすぎた」
 それから俺に向き直って、
「僕も、同罪だけれど」
 俺は首を振った。
 息がだいぶ楽になっていた。傷も塞がり始めている。人間離れしたこの身体に、また救われたようだ。
 俺はふらつく身体で立ち上がった。エミスが黙って肩を貸してくれる。俺はその肩に頼りながら、壁際に倒れたままの、リィに近づいた。
 彼女の強靱さは折り紙付きだ。俺がどんなに手荒に扱っても、びくともしないほど頑丈にできている。
 だが、そんなリィも、今はぐったりと四肢を垂れ、まるで人形のようだ。俺はほのかに暖かいリィの身体を抱き上げた。
 考えてみれば、俺はこいつをまともに抱いてやったことさえなかった。ただうるさくしがみついてくるだけの邪魔者、本気でそう思ったこともあった。
 だが、俺がどんなに邪険に扱おうとも、リィは懲りることなく、俺の傍にいた。俺を助けてくれたことも、一度や二度ではない。だが、俺は一度として、彼女に感謝しただろうか……
 黒鬼など。
 俺の心のどこかに、鬼族に対する負い目があり続けた。父を食った黒鬼への憎しみ。
 だが、そんなものはリィには無関係だ。俺にも、無関係でいいのだ。
 俺はリィの細い身体を、そっと抱き締めた。
 サティーヌのようには愛せない。
 だが、ほんの少しだけなら、リィの気持ちを受け入れることができる……
 そんな気がする。
「……ん……」
 ぴくん、と肩を震わせ、リィが声を上げる。
 俺はそっと顔を覗き込んだ。俺の握りこぶし程度の大きさしかない頭を振って、彼女は眼を開けた。視点が定まっていない。
「リィ」
 俺はささやいた、
「大丈夫か?」
 リィはきょとんとしたままだ。
「……銀河?」
 自分の身体を見回し、俺に抱かれていることを知る。信じがたい、という顔で、彼女は俺を見上げた。
「助かったよ」
 一言だけ、俺はそう言った。言えた。
「うん……」
 不思議そうに俺を見るリィを肩に乗せ、エミスを振り返る。
「エミス、ジークがおまえに言ったことは、すべてが嘘じゃない」
 真剣な顔で、エミスが唇を噛む。
「サティーヌを救えなかった。それはやはり、俺のせいだ。サティーヌの涙から産んだティア・ダイスをブレイクさせ、彼女をパラ・ダイスに変えた。これは事実だ」
 エミスはしばらく黙ったまま、俺を見つめた。
 似ている。
 俺にとっては、わずか数時間前に肌を重ねていた女に。
 だが、あの気が遠くなるほど幸せだった一時は、はるか二〇〇年の時を隔てた彼方での出来事なのだ。
「……銀河」
 エミスはふと、目もとを和らげた。
「あなたが望んだことではなかった。そうなることを望んだのは、サティーヌ自身…… 誤解だと、わかりました。僕を罰して下さい」
「エミス?」
「たとえどんな理由があっても、僕は銀河を……『神』を傷つけた、これは許されないことで……」
「エミス」
 俺は黒鬼の少年を遮ると、
「『神』だから、なんだというんだ?」
「え?」
「おまえたちが何と言おうと、俺は『銀河』だ。俺にはおまえを罰する気はないし、そんな権利も、責任もない。俺はひとつの命であり、憎しみも哀しみも知っている。誰かを傷つけもするし、愛しもする。過ちも犯すし、後悔もする」
「…………」
「おまえたちは俺を『神』と言う。だが、俺は俺だ。おまえたちと、何も変わらない」
 エミスの真っすぐな眼差しが、俺の心を心地よく貫いていた。誰かに、見つめられること。心を、見つめられること。快感。
 今まで出会った誰もが、俺の外側を見つめるだけだった。上滑りする視線に囲まれて生きてきた。だが、サティーヌとエミスだけは、俺の心を凝視する。俺の魂を凝視する。その眼差しの心地よさ……
 俺は静かに眼を閉じた。
「エミス?」
「……え?」
 瞼を上げる。
「サティーヌに会いたいか?」
「!」
 少年が息を飲む。
「できるかどうかはわからない。だが、もしおまえが望むのなら、俺はこの身のすべてを賭して、その願いを叶えたい」
 俺にできること。たかが知れている。たとえそうであっても、最前を尽くすことは無駄ではない。そう、信じている。
「俺と共に、スカイへ行くか?」
 エミスが眼を見開く。黒鬼がスカイへ入ることは、規約違反だ。見つかり次第、抹消される。
「情けないが、俺にはパラ・ダイスを盗み出して、無事、グランドへ帰るだけの自信はない」
 ミカエルの持つという、パラ・ダイス。
 もしかしたら……
 俺の心に、サティーヌとの再会につながる、かすかな希望が湧き始めていた。
「どうする、エミス?」
 ごくり、と唾を飲み込んで、エミスは頷いた。
「行く」
「……よし。リィ、おまえはここで待っているか?」
 俺は肩の上の小悪魔に尋ねた。リィは俺から顔を背けて考えていたようだったが、やがて、
「ついていってあげる。あんたが惚れた黒鬼ってのを、私も見てみたいからね」
「……おまえ、さっきの話、全部聞いていたのか?」
 リィは赤い舌をちろりと出した。
「私、エミスの後を追っていたからね。最初から全部聞いてた」
 だったら、もっと早くに助けに入れよな……
 俺はどっと疲れが押し寄せてくるような気がした。

三 大天使

 俺は、パラ・ダイスを狙っている。
 だが、かつてと今とでは、その理由が明らかに違う。
 以前(この世界においての数日前)はただ、漠然と、強力な力が込められているというアイテムを求めたに過ぎない。ミカエルと同じように。
 だが、今は違う。パラ・ダイスは俺の心の支えであり、何よりも大切な人の形見であり、その人そのものの魂の結晶であるのだ。俺とともにあるために、彼女が望んだ結末。
 ミカエルには渡さない。
 確固とした理由と決意、俺は改めて心に誓う。
 エミスは何も言わずに俺の部屋から救急箱を持ってくると、傷の手当てを始めた。裂傷はふさがりつつあるが、貧血状態はしばらく続きそうだ。ミカエルのもとに行くのは、体調が整ってからにした方がいいが……
 ザワリ!
 嫌な予感に胸が騒ぐ。どうやら、俺の思惑通りにはいかないようだ。俺はエミス越しに、ミラー・フォンティンに眼を向けた。
「……ミカエル……」
 ミラー・フォンティンの上に、立体の像となって白鬼の姿が浮かび上がっていた。
 羽毛に飾られた白いローブ姿で、無意味に露出度の高い胸元には、金銀の宝飾が光っている。長いプラチナの髪には、銀細工の花がちりばめられ、唇にひいた紅いルージュが、やけに際立つ。
「楽しませてもらいましたよ、銀河」
 芝居がかった口調。俺はエミスを庇うように俺の後ろへやると、じっとミカエルをねめつけた。
「やはり、ジークフリードごときでは、あなたの敵にはならなかったようですねぇ」
「おまえ、最初から俺とパラ・ダイスの関係を知って、近づいてきたんだな?」
 ミカエルの意図は明らかだった。最初から……
「君にとっての未来は、私にとっての過去であったからねぇ」「なるほど、俺だけが知らなかったわけだ。俺ひとりが何も知らず、おまえたちに躍らされていた、と……」
「そういうことです」
 ミカエルは気に入らない仕草で髪を掻き上げた。
「さて、余興はこれくらいにするとして……」
 スッと眼を細め、
「お三方をスカイへ御招待しよう」
 礼拝堂に、白鬼の気配が強まっていく。と、半分にされた十字架の下の壁に、虹色の渦が現われた。それは次第に早く回転しながら、俺たちが通れるだけの大きさにまで広がっていく。
「アーチ、か」
 俺は唸った。ミカエルは自分の力で、勝手にスカイとグランドとを繋ぐアーチを開くことができるのだろう。恐ろしくエネルギーを消費する荒技だ。それだけ、奴の力は強いということか……
「さぁ」
 ミカエルは嫌な笑みで俺たちを誘った。
「このアーチは、私の私邸の庭へつながっています。パラ・ダイスも目の前ですよ。迷っている暇はありません。このチャンスを逃せば、あなたたちはスカイへ来ることが叶わなくなるのですから」
 悔しいが、ミカエルの言う通りだ。ジークなきあと、俺たちに味方するような命知らずの白鬼は、簡単には見つからないだろう。
 俺は心を決めた。身体は弱っているが、そんなことはこの際、問題ではない。
「準備はいいか?」
 俺の言葉に、エミスは力強く頷いた。
 黒鬼がスカイへ入る。常識で考えれば、正気の沙汰ではない。だが、俺たちに迷っている暇はない。
 ジークによって真っ二つにされた十字架の下に生まれた道へ、俺たちは近づいた。
 天国へ続く道。
 いや、地獄への道だ。
 スカイという名の地獄。ミカエルと言う名の悪魔。俺たちが求める宝を手に入れるために、避けては通れない障害。
 七色のアーチが、円形のトンネルを奥へ伸ばしていた。俺はエミスの先に立って、一歩、内部へ足を踏み入れた。足下は柔らかく、普通のアーチとは違う構造になっているらしい。まるで、スポンジの上を歩くように、一歩一歩が沈んでいる。頭がおかしくなりそうな、どぎつい色の結晶に満たされた壁面。真っすぐに伸びるそのトンネルの先に、確かに正常な陽の光を感じる。俺たちは押し黙ったまま、奥へ進んだ。
 風が、吹き込んでくる。
 嗅ぎ慣れた、緑の匂いがした。かすかに、花の香りも含んでいる、新鮮な空気だ。
 スカイはボトムと違い、人間の世界に比較的近い。正確には、まだ、人類が自然との共存を成しえていたころの、田園のような景観を持っている。
 以前、何度か訪れたことがあるが、その時見た景色は俺の意識に鮮明に焼きついていた。
 地平線まで続く緑、点在する森、青い空と、鋭く優しい光を放つ太陽。
 そこに住む物が白鬼のように性悪でなかったら、俺はスカイに骨を埋めても後悔はしないだろう。
 どこか懐かしいスカイの風景を脳裏に描きながら、俺はトンネルの出口にさしかかった。
 …………
「…………何だ、これは…………」
 スカイに降りたって、俺はしばし呆然と立ち尽くした。
 ミカエルは言った。自分の庭に案内する、と。
 だが、今目の前に広がる光景はまるで……
「これって……」
 リィが俺の髪を一房握りしめる。その身体が小刻みに震えている。俺はそっと手を添えて、彼女の背を撫でた。
「悪趣味な奴……」
 エミスが自分のことを棚に上げて毒づいた。
 そう。ここは、俺の教会の中庭だ。
 正しくは、中庭をそっくり真似た中庭だ。
 本当ならピアノが置いてある場所に、大理石の彫刻がある。四角い台座の上には、天へ駆け登ろうとするかのように、後ろ脚で立ち上がり、前脚で空を駆る、一角獣の姿。そして、その額には……
「パラ・ダイス……」
 俺は金色に輝くダイスを見上げた。彼女の、瞳。
「気に入ってもらえたかな」
 巨大な台座の陰から、ミカエルが姿を見せる。いつしか背後で、俺たちが通り抜けてきたアーチが消えている。
「ああ、上等だ」
 俺は吸いつけられるようにミカエルを見つめ、うっすらと微笑んだ。
 虚像ではない。数歩先で不敵に微笑む白鬼は、紛れもなく実在している。
「ココまで気色悪い野郎だとは、思わなかったぜ」
「少しでもあなたに近づきたいと思いまして。無許可ですが、あなたの教会をそっくり真似させていただきましたよ」
 風が、俺たちの間を吹きすぎてゆく。
「ミカエル。おまえにひとつ、訊きたいことがある」
「言わずともわかっています、銀河」
 ミカエルの銀糸の髪が、風になびいて美しく揺れる。白鬼の容貌は揃って整っているが、どいつもみな、冷たい雰囲気がただよう。
「何故、私があなたを誘ったのか、ということでしょう?」
 午後の太陽が、ジリジリと石畳を焼く。
「パラ・ダイスの力を目覚めさせることが出来るのは、あなただけだからですよ」
「…………」
「あなたには、このダイスの封印を解いてもらいたい、と思いまして」
「……それが済めば、用済み、というのだろう? 俺がそんな手に乗るとでも?」
 ミカエルは両腕を横に広げた。
「いいえ、思っていません。しかし、ダイスを解く方法は、もうひとつ、あるのですよ。あなたの命を断つ、という手段がね」
 ミカエルの両手首から、スルスルと緑色の紐上のものが数本、垂れる。
「ローズ・ウィップ」
 紐の数箇所に、純白のバラの大輪が一斉に開く。
 バラのトゲの鞭、というわけだ。あまりにもミカエルらしい武器に、俺は何も言う気が起きない。
 どこまでも、変態野郎だ、コイツは!
「さて、この白バラ、あなたの鮮血で美しく染めてあげましょう……」
「冗談じゃないぜ」
 俺は胸元に手をかざすと、ティア・エッジを抜いた。
「今の俺は、本気だぞ」
 そして、もう一本。
 両手首に、横薙ぎと縦薙ぎのティア・エッジを構える。
「俺に二太刀(ふたたち)を使わせた奴は、おまえが初めてだ」
「光栄です、銀河」
 ミカエルは白い手袋をはめた手で、鞭を握った。その眼は、ティア・エッジを産んだときに傷ついた俺の胸を見つめている。
「イイ色ですねェ。存分に味わわせてもらうとしましょう」
 ミカエルの鞭が大きく波打って、俺の真上に振り降ろされる。両腕を翻して、俺はたちまちにそれを切り落とした。花びらを散らして、切片が地に転がる。
「随分、あっけないな」
 俺は足下の花を見て……
「銀河っ!」
 耳元でリィが叫ぶ。刹那、たすき掛けに鈍い痛みが俺の身体を打った。
 数メートル吹き飛ばされて、石柱に激突し、どうにか止まる。
 脳震盪を起こしたらしい。身体のバランスが保てず、俺はすぐに立つことができなかった。
「どうして……」
 ミカエルがゆっくりとこちらに近づいてくる。
「簡単なことです、銀河。植物は生きています。切られても切られても、また伸びる…… このローズ・ウィップは、私の身体に寄生しているのですよ」
 なんというグロイことを……
「リィ、エミスと共に離れていろ」
 俺は柱に寄りかかりながら、どうにか立ち上がった。
「私は平気よ」
「離れていろ」
 邪魔にして言うわけではない。ただ、このままでは明らかにヤバイ。リィを庇いたいだけだ。
「下がっているんだ、リィ。心配ない」
 俺の本心が伝わったかどうかはわからないが、取りあえず、彼女は身を引いた。俺の肩から飛び降り、宙を飛んでエミスの元へ。
「銀河、僕もダーツを……」
「手を出すな」
 俺は戦いに参加しようとしたエミスを制した。
 下手に手出しすれば、ミカエルは容赦なくエミスを殺すだろう。もっとも、俺が死ねば、そのあとエミスもリィも生きてはいられないだろうが。
「これでわかったでしょう?」
 余裕たっぷりのミカエル。俺はエッジを構え直した。
「二度とは通用しないぞ」
 強がりを言う。体力がかなり、消耗していることがわかる。が、弱みを見せればつけ込まれるだけだ。
「銀河」
 ミカエルがねっとりとした声で呼ぶ。鳥肌が立つ。
「私を喜ばせておくれ」
 バラの鞭が、再び俺目がけて打ち降ろされた。
 俺はその先端を切断すると共に、横に大きく跳躍し……
「!」
 ……おかしい。思ったように、身体が動かない……
「まだまだ、いきますよ!」
 立て続けに振るわれる鞭から、俺はほとんど、這ったり転げたりしながら逃れ続けた。情けない姿だが、いたしかたない。
 跳躍、できないのだ。
 いや、跳ぶには跳べる。だが、グランドにいたときのような、強力な力が出ないのだ。
「どうしました? 本調子ではないことはわかっていましたが、あまりにもらしくないじゃないですか?」
 ミカエルは嬉しげに唇の端で笑い、
「そうそう、言い忘れていました。このバラには毒がありましてね。先ほどの攻撃で、あなたの身体にはソレが回ってしまったようです。従って、あなたが小悪魔から買い取った能力も、発動しませんので、そのおつもりで……」
 ……はめられた!
 無理に動いたせいで、先の闘いでジークにつけられた傷までが、うずき始めている。このままでは、本当に……
「サティーヌ……」
 俺は思わず呟いた。
「気に入りませんねぇ」
 ミカエルは嫉妬深い眼で、
「あなたの相手は私ですよ。私だけを見つめていなさい!」
 ミカエルの一撃から逃れ、地に倒れた俺の目の前に、新たな鞭が振り降ろされる。バラの鞭が俺の鼻先を掠めて石畳を砕いた。
「銀河っ!」
 エミスの悲鳴。
 背後に彼の気配。
 顔を上げた俺の視界に、ミカエルを狙う、数十本のダーツ……
「やめろ!」
 俺は必死で叫んだ。
 ミカエルが忌々しげにエミスを睨みつける。
「邪魔立てするなと、銀河にも言われていたでしょう?」
 ミカエルがエミスとリィに向かって片腕を上げた。袖口から勢い良く鞭が伸び、ふたりを取り囲むと、まるで鳥のゲージのように変形する。同時に、宙に浮いていたエミスのダーツがすべて炎を上げて消えた。どうやら、ゲージの中に取りこめられたエミスの力は、打ち消されてしまうらしい。
「お似合いですよ。美しい籠の中の鳥とは……」
 ミカエルは歯をたてて、ゲージを形作っている鞭の根元を切った。
「そこから見ていなさい。あなたたちの愛した『神』が、私の前に華麗に散る姿を」
 冗談じゃ……ないぜ……
 俺は中庭中央のユニコーンを見上げた。額に輝く、パラ・ダイス。俺の大切な人の化身……
 ここで倒れる訳にはいかないのに……
「さて、銀河。邪魔者もいなくなった所で、最高の楽しみ、といきましょうか」
 俺は優越感に浸って俺を見下ろしているミカエルを睨みつけた。
「どうせ、ロクなものじゃないだろうぜ」
「試してみましょう」
 辺りにどっと沸き起こった気配に、俺は全身が凍りついた。今まで俺が切り落としてきた鞭の切片すべてが、まるで蛇のように脈打ち、地を這って俺ににじり寄ってくるではないか!
「随分と派手に切り刻んでくれましたからね」
 蛇の一匹が、俺の左足首に絡みついた。鋭いトゲが、肉に突き刺さる。次々と、俺の手足に絡みつく短い鞭。さらにそれに他の切片が連なり、最後の一本は柱に絡みつく。
「今度はあなたの番ですよ」
 逃れようともがいたが、今の俺の力では振りきること叶わず、為す術もなく四本の鞭で柱の間に縛りつけられてしまった。
「……くっ……」
 張りつめた鞭が、嫌と言うほど俺の四肢を引っ張る。関節がはずれそうにきしみ、俺は呻いた。手加減という言葉を知らないようだな、コイツらは……
「さて、まずは……」
 ミカエルはバラを一輪、鞭から千切り取ると、エッジを産む時についた、俺の胸の傷口へ……
「うっ!」
 歯を食いしばって堪えたが、心ならずも声が漏れる。白い花弁が、徐々に紅く染まってゆく。
 パシリッ!
 ミカエルは見せつけるように鞭をしならせた。
「黒鬼から買った力が使えない今、あなたの身体は並の人間と同じこと。更にローズ・ウィップの毒で、痛覚は倍増されている……」
 ミカエルの満面に、サディスティックな悦楽の表情が浮かぶ。俺は身体を硬くした。
「あっ……!」
 胸に刺されたバラが、まるで俺の体内に根を張ろうとしているかのように、内側へ食い込んでくる。
「そうそう、また、言い忘れていましたが……」
 ミカエルは嬉しそうに、
「そのバラは吸血種でね。血を求めてあなたの身体をむさぼるのです」
 物忘れが激しすぎるぞ。それに迷惑だ!
「あなたの血は、余程美味いらしい。この子たちも欲しがっている……」
 ミカエルの鞭がひとりでに俺に向かって伸びてくる。いたぶるように俺の腕や脚、胸に絡みつき……
「ああっ!」
 一斉に締め上げる。
 トゲが肉に穴を空ける、ブツブツという音が、はっきりと聞こえた。同時に、手足を引きちぎるような怪力で、四本の蔓が絞まっていく。
 主人に似て、最悪な根性悪だ!
 俺は全身をバラの蔓に絡めとられたまま、身動きもできずにいた。手放したティア・エッジが二振り、足下に転がっているが、手が届くわけでもない。
「よそ見をしている余裕はないでしょう?」
 ひゅん!
「あうッ!」
 何本もの鞭が腕を痛烈に打ち据える。
 体中が深紅に染まり、次第と意識が薄れていく。
 エミスとリィが俺を呼んでいる。だが、俺には答えるだけの気力が無い。眼を開けていることさえ、辛い。
 おそらく、俺にまとわりつくバラたちは皆、艶やかな紅色をしていることだろう。俺を弱らせ、ミカエルを楽しませるために……
 俺のぼやけた視界に、恍惚としたミカエルの顔が映る。
「イイですね」
 白鬼は俺の顎をつまんで自分の方を向けさせると、ぐっと顔を寄せた。
「痛みますか?」
 当たり前だろうが……
 ミカエルは何を思ったか、俺の胸のバラを掴むと、一気に引き抜いた。
「ぐあッ!」
 殺しきれない絶叫が咽喉をつく。内臓に張られていたバラの根が、内側から俺の身体を傷つけた。
「イイですよ、その顔……」
 エクスタシーに溺れたミカエルの瞳。その中に、手も足も出せないまま、無様に顔を歪める俺がいる。
「さて、そろそろですか? 最期は私の手で、心臓を握りつぶしてあげましょう」
 ミカエルの指が、胸の傷を割って進入してくる。麻痺しかけていた俺の痛覚が、その新たな痛みに恐れおののいて悲鳴をあげる。
 サティーヌのパラ・ダイスを目の前にして、俺はこのまま、果てるのか……

四 願いの終焉

 ぼやけた視界に、キラリ、光るものが入った。突如、稲妻のように、ある考えが俺の思考を駆け抜けた。
 そうだ、これに賭ける!
「ミカエル……」
 俺は、ねだるように甘くささやいた。
「もっと傍へ……来てくれないか?」
 苦しい呼吸が、期せずして官能的な響きを産む。警戒した様子もなく、ミカエルは俺に身体を寄せてくる。
「何をたくらんでいるのです?」
「たくらむ? そんなこと……」
 俺はありったけの悲哀を眼差しに込めて、
「……だ……抱いてくれ……」
 自分で口にしながら、歯の浮くセリフ。
「おまえの胸で……死なせて欲しい……」
 羞恥と自己嫌悪で気が遠くなりそうだが、今は、堪えねば……
 ミカエルは熱っぽい眼で俺を覗き込み、バラのトゲをいとうことなく、俺の身体を腕に抱いた。
「カワイイところがあるものですね…… こんな形で出会わなければ、もう少し違った結末を迎えられたかもしれません」
 なにやらブツブツ言っているミカエルの肩越しに、俺は足下に眼を走らせた。
「ミカエル」
 勝手に悦に入っているミカエルの独り言を、俺は遮った。
「俺も、言い忘れていたよ」
「なんです?」
 調子に乗って、俺の耳介を甘く噛む白鬼。今に見てろ……
「銀河、あなたのことはすべて、知っておきたい」
 俺は首を反らせ、溜息まじりに呟いた。
「俺はなかなか、イかない性質(たち)でね。悪いが、お先にどうぞ」
 意味がわからない、という顔でミカエルが俺を見る。
 次の瞬間、その眼は大きく見開かれ、驚愕と激痛に醜く歪む。
 ミカエルの背には、二振りのティア・エッジがつきたっていた。
「……あ……なた……どうし……て……」
「油断したな、ミカエル……」
 エッジが俺の体内に戻ろうと、ミカエルの身体を貫きながら、胸にめり込んでくる。俺はエミスのようにアイテムを自在に操ることはできない。だが、エッジの回収だけなら、手を触れなくても可能だ。
「消え失せろ……」
 背側から、ミカエルの両肺を射貫くエッジ。俺を縛りつけていたバラの蔓が、急速にしおれて枯れ、崩れ落ちる。
 俺は支えを失って、石畳の上に倒れた。ミカエルが、のそりと動き、俺に向けて手を伸ばしてくる。その目は怒りに冷たく燃え、唇は憎しみに引きつっている。
「銀河…… あなた……」
「ミカエル、終わりだ」
 俺は腕で上体を支え起こし、身体を引き摺るようにして、ミカエルから距離を取った。
「どうせ、パラ・ダイスには、おまえが求めるような残虐な悪魔など、潜んではいない。サティーヌはおまえが思っているようなヒトではない。おまえも、躍らされていたんだよ、あのジークの虚言にな」
「……た……ただでは死なんぞ……」
 ミカエルの腕のバラの鞭が、触手のように蠢いた。
「あなたは……私のものだ…… 美しき……神よ……」
 ローズ・ウィップが、動きの鈍い俺の心臓を狙う。しぶとい!
 ガガッ!
 数本のダーツが、見事に蔓を射貫いて、石畳に刺し止めた。
「……お……のれ……」
 往生際悪く足掻いたミカエルは、ついに、ぐったりと動かなくなった。
「銀河っ!」
 エミスが駆け寄ってくるのがわかる。ミカエルの力が消え、ゲージから解放されたらしい。
「銀河! よかった! 大丈夫か?」
 これが……大丈夫に見えるのか、おまえには……
 全身の無数の傷から流れ出した血は、すでに致死量を越えている。意識が濁ってくる。もう、長くは持たない。本能がそれを知っている。
 痛みは、もう、感じない。ただ、苦しさと、ともすれば容易に消え去ってしまいそうな意識があるばかりだ。まるで、酷い睡魔に押しつぶされていくような……
 死ぬ……のか?
 死ぬ……のか、俺は?
「ミカエルは……?」
 絶え絶えになる掠れ声で、俺は尋ねた。
「致命傷だよ」
 エミスが俺を胸に抱いた。
 そうか…… 勝った? いや、勝敗など、意味はない。俺も、もう……
「エミス……」
 俺は、蒼白な顔で俺を抱きかかえる黒鬼を見上げた。
「早く、パラ・ダイスを……」
「銀河、これ……」
 リィが両手に持ったダイスを、おずおずと俺に差し出した。俺の想いを先に察して、ユニコーン像の額から抜き取ってきたらしい。
「リィ……」
 彼女の眼は、まるで何かに脅えているかのように頼りなかった。こんな弱気な表情は初めて見る。
「……ありがとう」
 俺は彼女から金色のダイスを受け取ると、深い感謝を込めた。
「変わったわね、あんた……」
 リィはどこか寂しげに眼をそらした。
 変わった?
 ああ、変わっただろうな……
 変えられたのか、自分から望んで変わったのか。
 覚えていないが、まぁ、どちらでもいい。俺は今の俺に、満足だ。
 パラ・ダイス。
 暖かい、輝き。
 サティーヌ……
 俺の心が、何故か平らいだ。死を意識していながら、この心の平穏はなんだろう。俺は自ら、眼を閉じた。
「サティーヌ……」
 静まった心。俺の周りから、音が消えていく。
「パラ・ダイス」
 俺の声だけが、はっきりと響いた。
「ブレイク!」
 優しい光。ダイスを握る俺の指の間から、ほとばしる光。太陽にも似て、月明かりにも似て、何よりも、あの人の微笑みに似ていて……
 俺が、『神』だというなら、彼女は『女神』だ。
 いや、『神』などより、はるかに尊い……
 サティーヌ……
 俺を取り巻く、温もりの風。その風に瞼を撫でられ、俺はそっと眼を開けた。
 俺の周りには、何もなかった。
 心に焼き付いていた、ただひとりの人の他には。
 ただ、彼女とふたりきりで、白い光の雲の上にいるような……
 変わらずに、愛しい人……
 金色の瞳。
 けれど……
 その背には、艶やかに匂う蝶の羽根が……
 二〇〇年前、彼女が消えたとき、そのままの姿……
 パラ・ダイスに込められていたのは、ほんのひととき、わずかで尊い、最期の時間……
「サティーヌ……」
 俺は、頬に添えられた彼女の手に甘えた。
 肉体の限界も、もはや気にならなかった。
 苦しさも恐怖も、消え失せていた。
 危険すぎるほど、穏やかな、無防備な……
 彼女にしか見せない素顔……
「サティーヌ……」
 俺は声を搾り出した。
 伝えたい、言葉がある。
 二〇〇年前、言えなかった一言……
「俺は、君を……」
 サティーヌの指が俺の唇にそっとあてがわれた。
 必要ないわ。
 そう言うかのように、彼女は小さくかぶりを振った。
 それから、指を離すと、深く接吻る。俺は眼を閉じ、それを受け入れた。
「銀河」
 エコーがかかったように、耳の底に響くサティーヌの声。
「欲しいものは、すべてもらったわ」
「…………」
「あなたの、あのピアノ。私が欲しかったものは、すべてあの中にあった……」
 ピアノ……
『白と黒のRequiem』
 俺が彼女に聞かせた、ただ一曲の旋律……
「あの時のピアノが、私を熱くしたわ…… 何が起きたのか、今でもわからない。けれど、確かにあの時なの。私があなたを求めたの……本当は、あの時に、わかったの」
「…………」
「銀河」
 甘く甘い声が、俺の名を呼ぶ。
「わかったのよ。何故、誰かを傷つけてはいけないかって……」
 サティーヌは静かに俺の髪を撫でた。
「この気持ち……なのね」
 俺も、微笑んだ。
 すぅっと心が軽くなる。胸の底から、重たい塊が消えていく。生きることで背負ってきたわだかまり…… そんなものが、まるで生まれたての心のように、解けていく。
 俺は身体が震えた。恐怖や、絶望や、苦しみや、後悔や。
 そんなもののためではない。
 歓喜。
 生まれ出ることへの歓喜に魂が打ち震える。
「サティーヌ……エミスを、抱いてあげて……」
「ええ、きっと……」
 彼女は頷いた。
「サティーヌ……」
 俺は彼女の腕に身体を任せた。この世で、一番、心地よい場所……
 この腕に抱かれて、永遠に……
 眠る……
 それが、生き続けることより、遥かに価値のあることのように思われる。
 永遠に、眠る。
 それが…… それだけが……
 サティーヌの心が、伝わる。
 俺を愛している。
 その愛が、俺をここまで包み込む。すべてを預けられる、ただひとりの相手……
 巡り逢えた。
 サティーヌ。
 君を、愛している。
「銀河」
 眼を閉じ、彼女の鼓動を聞く。
「銀河」
 サティーヌの声が。
 俺はもう、意識を失いかけていた。
「銀河、これを……」
 サティーヌが俺の手に、小さな何かを握らせるのがわかった。
 手のひらの中の、その硬い刺激に、俺はまどろみの縁から浮かび上がり、薄く眼を開いた。
 ああ、わかる。
 俺と彼女との間に産んだ、たったひとつのダイス。
 ティア・ダイス。
『今は何も変わらない』
 そう言って彼女は微笑んでいた。
 今なら、変わる?
 君の願いが叶う?
「銀河…… 最後のお願いよ」
 サティーヌ?
「ブレイクさせて……」
 俺の手を包むように、サティーヌの手が触れる。
 俺の握るもの……
 命の最期に、叶えたい。
「銀河…… …………」
 なに?
 聞き取れないよ、サティーヌ……
 もう一度……言って……
 ……もう……一度……

終章 Requiem

 重なり合う音の調べ。
 陽の光が揺れる、草の葉。
 風が宿る、花弁の膨らみ。
 大地に眠る、数々の魂。
 空を渡る、限りない、愛。
 最終章はいつもアンダンテで。
 メゾピアノから駆け上がるクレッシェンド。
 燃え盛るフォルティティシモ。
 揺れ動く度にリピート。
 音はスラーの橋を滑り落ちて。
 フェルマータの吐息をつく。

 俺は静かに眼を開くと、両手に接吻た。
 見上げれば、木漏れ日に輝くガラス張りの中庭。
 俺の前には従順なピアノが一台。
 白い鍵。
 黒い鍵。
 俺の手の下で、美しく連なる。
 静けさの中で、横たわる。

 あの人の、たったひとつの、願い。
 愛する者の息吹を絶やさぬこと。
 この世界に。
 ただ、それだけ。

 俺の、たったひとつの、真実。
 今、この胸に。

 俺は『神』として。
 けれど『俺』として。
 身の中を駆け抜けていった生命の軌跡を抱いて。
 生き続ける者。

 時が巡り、季節が移ろう。
 大切なものは、すべて俺の中に残して。
 遠き日の再会を誓って。
 永遠の別れを飲み込んで。
 はるかな、未来へ。
 果て無き、闇と煌めきの世界へ。
 旅立ってゆく。
 それぞれがそれぞれの想いを守り続けるために。
 俺もまた、旅立つ。
 枯れてゆく、この地球の上で。
 太陽の空に、不滅なる銀河を見上げながら……

 Requiem
 奏で続ける。
 Requiem
 捧げ続ける。

 白の。
 黒の。
 数多の。
 Requiem

 語り続ける。
 愛し続ける。

 限りなき、Requiem(愛の讃歌)……
2006/12/04(Mon)06:08:12 公開 / 河野つかさ
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■作者からのメッセージ
 完結です。
 長丁場となりました『PARA:DICE』との最後までのおつきあい、ありがとうございました。
 銀河との出会いは、自分にとって計り知れないほど大きいものです。他作品とも因縁のある一作なので、また別の機会に、三人称の銀河を描写することになります。今回の出来事の後、どのように銀河が変わっていったのか、それを突き詰めていきたいです。ひとつのエピソードとして区切りついただけで、彼らの一生はまだ終わっていないわけですし。何より、自分が楽しんで書けたな、と思ってます。読んで下さった方にも、少しでもお楽しみいただければ嬉しいです。
 ご指摘、ご感想、いただければ幸いです。よろしくお願い致します。
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